はてなキーワード: 表象とは
百合が好きなので、なんだか評判のいい漫画『熱帯魚は雪に焦がれる』を読んでみた。
結果として、2巻か3巻の途中で投げ出してしまった。
理由としては第一に、あまり面白くなかったから。第二に、読んでいてだんだん腹が立ってきたからだ。
腹が立った理由は「水族館部」の描写だ。結論から先に言うと、水族館部という珍しい部活をとり上げた理由が「なんかエモいから」でしかないと感じてしまった。
この作品は、主人公が田舎の高校に入学し、気になる先輩が所属する「水族館部」に入ることにして、その先輩と徐々に関係を深め合う、そんな物語である。
この水族館部というのは愛媛県の長浜高校に実在する部活動で、作者も現地へ取材に赴き、実質的に作品の舞台にしたようだ。
まず、水槽が多すぎる。
実際の水族館部もこれぐらい水槽があるのかもしれない。ただ、長浜高校水族館部の部員数は全校生徒の半分以上を占め、2024年3月時点で68人いる(https://www.asahi.com/sp/articles/ASS2W4TLBS2RPTLC011.html#:~:text=%E6%B0%B4%E6%97%8F%E9%A4%A8%E9%83%A8%E3%81%AE%E9%83%A8%E5%93%A1%E3%81%AF,%E5%A4%9A%E3%81%8F%E3%81%AE%E5%AE%A2%E3%81%8C%E8%A8%AA%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%80%82)。
全国募集で部員数が増える前でも、数十人は下らなかっただろう。
しかし、『熱帯魚は雪に焦がれる』の設定ではなんと部員数は2人。主人公が入部する前は1人だったのだ。
水生生物を飼ったことがないと想像しづらいかもしれないが、水槽の管理はなかなか大変だ。
生体の老廃物や排泄物、食べかすなどで水が汚れるのでフィルター(濾過機)を常時回すのだが、どうしても濾過・分解しきれない物質が増えていくため、定期的に水を換えなければいけない。そしてフィルターも掃除しなければ目詰まりしてしまう。さらに水槽のガラス部分に藻や苔のようなものが付くので、こそぎ落とさなければならない。また、海水水槽の場合は析出した塩を取り除かなければいけない。水温の管理も必要だし、当然、生き物に関する知識を身に付けなければそうした調整もできない。
こうした作業を、数十個の水槽に対して2人で対応していくのは極めて困難だ。
百歩譲って、大量の水槽を2人で頑張って管理していたとしよう。しかしそうなると今度は、ストーリーとの整合性がつかなくなる。
この作品は主人公ら2人の仲良くなりたい、でも臆病になってしまう、みたいな繊細な心の動きを描いている。が、2人で何十個もの水槽を管理し、あるいは重い水槽を一緒に持って動かし、生物や水槽管理の知識を教え合い、なんてしていたら心の距離が縮まらないわけがない。ましてや、話しかけようかどうしようだの誘おうかどうしようだのでうじうじする距離感ではなくなる。距離感が近付いた結果仲良くなるか仲が悪くなるかは人それぞれだが、距離感が近付かないということはあり得ないのだ。少人数の部活動というのはそういうものだ。
また、登場人物の水族館部および水生生物へのスタンスも気になる。はっきり言って、2人とも生き物にあまり興味がなさそうなのだ。
主人公は生き物どころか水族館部にあまり興味がないけど流れで入部しているし、先輩も水族館部にいる理由を聞かれて「子どもの頃からそれが当たり前だったから」みたいなことしか言わない。途中で顧問の先生=先輩の父親も出てくるが、その人もちょろっと話を展開させる要因なだけで、生き物への愛情とかは語らない。(なんなら、作者も生き物のディテールや知識は細かく書き込んでおらず、好きではあってもめちゃくちゃ好きというわけではないのだろう。)
水生生物好きとしては「じゃあ誰がこの子(生き物)たちを好きなんだよ!?」と言いたくなる。別にこれが放課後に駄弁るだけのボドゲ部とかだったらボドゲに愛情がなくても構わないのだが、水族館部というのは一応命を預かっているのだ。色々と心配になる。
それでも水族館部の活動を通して、生き物への解像度とか、「生」というものへの関心とか、生きるって何なんだろうとか、そういうことに思いを馳せながら2人の関係にも有機的に絡み合ってくるのかなと思ったら、全然話に絡んでこない。岩陰から出てこないサンショウウオを「自分に似てる」と勝手に自己投影するぐらいである。そして、お互いにどきまぎしながら日々を過ごす傍らで、なんか水族館部の活動もしているっぽいぐらいである。本当に傍らである。
少し話は逸れるが、先輩が部活をやってる理由が想像以上にぼんやりしているのは悪い意味でリアルだと感じた。卒業した先輩の意思を継ぐためとか、水族館部を途絶えさせないためとか、過疎化していく地域のためとか、部員が1人になっても意地で続けていたとか、ベタながら物語映えしそうな理由はいくらでも思いつくのに、そうしたエクスキューズが特にないのだ。まあぶっちゃけ高校生なんてぼんやり生きているのが普通ではあるのだが、学校行事として開館日を設定して、他部の生徒にも協力してもらってまで水族館の地域開放を成立させているような状況でこのぼんやり具合はうそ寒さすら感じる。
ここまで長々と語ってきたが、この作品の水族館部描写の問題点は「リアリティのなさ」とその背景に見え隠れする「リスペクトの希薄さ」に集約できそうだ。
漫画のリアリティで言うと、別に幽☆遊☆白書を読んで「死んだ人間が生き返るわけないだろ!」とか言わないし、NARUTOを読んで「実際の歴史上の忍者と違う!」とか言う人もいない。では『熱帯魚は雪に焦がれる』のリアリティのなさは、なぜ問題なのか。
創作のために多少手を加えたり省略したりするのは許されるかもしれない。しかし、この作品では生き物を扱う苦労を無視してしまっている。こうした過度な美化は、現実の存在をただ作品を飾り付けるためだけに利用してしまっている表象ではないだろうか。
これがボドゲ部や手芸部ならいい。真剣な手芸部もあれば、放課後女子会のような手芸部もあるだろう。他の部活だってそうだ。
手芸部でもなんでもよさそうな内容を、ただ画的にエモいからということで日本で唯一の水族館部に設定してしまうのは厳しいものがある。
水族館デートというのはさまざまな作品で描かれてきた。現実のデートでも定番スポットだし、漫画やアニメ、ドラマで描写するにしても水槽が鮮やかで、でも館内は暗くて、なんかエモい。水族館を訪れる人はそれで十分だと思うし、水族館職員の奮闘に思いを馳せる必要はない。
しかしこの作品では、その水族館を「内部化」することでエモさを恒常的に発生させていて、一方でその現実的な苦労を描いていない。それが「いいとこ取り」で「表面的」にしか思えない描写に繋がっているのだと思う。
以上、水生生物が好きでもないと半分以上理解できない内容ではあると思うが、『熱帯魚は雪に焦がれる』に感じた違和感を記した次第である。
なお、論評するなら最終巻まで読んでからにしろと言われそうな気もするが、連載形式の漫画にそれをする必要性はないと思っている。
黒人扱いじゃねーよ。黒人の表象はマシになったのにアジア系がずっと良い加減に扱われてて、アカデミー賞でも問題になったりしていた。そんな中、一部のアジア系映画関係者が頑張ってまともな描写、まともな出演者を実現したんだ。もちろん言うまでもなくこれは「ポリコレ」の話だ。でも、これは黒人の話ではなくアジア系の話であること、受賞以前に制作環境を改善する努力があったことを無視するな。「ポリコレ」は可哀想な弱者におこぼれを与える思想ではなく、放っておくとマジョリティが勝手に偏見で語ったり成果を横取りしたりする中で、それに抵抗してマイノリティのまともな作品を作るための運動だ。
逆にこんなの外国人に顔向けできるのか
分かってないな
女の子は可愛くエロく媚びてるのが正解!というメッセージとなって多感な時期の少年少女にそういう価値観を刷り込むから、性差別の流布と見なされるわけなんだが
写真と違って絵というのは、そういう欲望をあからさまに反映した代物だから問題になる
最近の萌えキャラ広告は戦略的にエロさを抑えてるからセーフみたいになってるけど問題はエロじゃなくて、頭のてっぺんからつま先まで「媚び」の表象で成り立ってるキャラ造形なんだよな
それが世の女性たちをげんなりさせるわけだ
「感動ポルノ」という言葉があるように、エロいからポルノなんじゃなくて臆面もない幻想や欲望を満たすコンテンツだからポルノと見なされるわけで
二次元ヲタも、LGBTと同じく、変えられない性的志向なんだろう
https://anond.hatelabo.jp/20240906234755から続く
この出来事は、1983年から1984年にかけての現代編に関連している。。おしん83歳の頃、たのくらスーパーの拡大事業は、大手スーパーの進出によって経営難に陥り、倒産寸前まで追い込まれていた。過去におしんが初恋した相手、並木浩太の息子が経営する並木商店が、大手スーパーの土地買収における重要な場所にあり、その売却次第でたのくらは助かる状況であった。私は以前、おしんが浩太を説得し、並木がその情に応じて救済が成功したと思い込んでいたが、実際にはそうではなかった。
なぜそのように思い込んでいたのか。もしかすると、失踪から戻ったおしんに、並木を説得してくれと仁が土下座して頼み込んだシーンがあったからかもしれない。
「おしん」は全297話もあるドラマだが、その第1話は、たのくらスーパーの新店舗開店祝いにおしんが出席せず、家出する場面から始まる。おしんの失踪理由が明らかになるのは、終盤の第290話。ドラマの伏線回収が時代を経て行われることが多く、おしんの家出の理由も最終週で回収される最大級の伏線のひとつであった。この巧みな構成は、橋田壽賀子や演出家のすごさを感じさせるもので、まさに名作と呼ぶにふさわしいものである。
特に佐賀編では、あまりの過酷さに倍速で視聴したこともあったが、終盤に近づくにつれ、ポーズしてでもじっくりと次の展開を予想しながら見入っていた。
第1話から第3話にかけては、おしんが並木商店の大旦那に恩義を感じていたため、新規スーパーの出店に反対していたことが示唆されていた。そのため、多くの視聴者はおしんが息子の恩知らずな商売拡大に恥じて家出したと理解していたはずである。ぢかし終盤になってその真の理由が明かされるという展開が待っていたのは正直、超絶長い伏線回収である。
実際には、おしんは失踪直前に浩太を訪れ、仁の事業拡大による不義理を詫びていた。その際、聞かされたのが大手スーパーの進出についての話である。並木商店の大手への売却は、並木商店の生き残り策であり、たのくらへの防衛策でもあった。おしんはすべてを理解したうえで、浩太に対して大手スーパーへの土地売却を進めるように頼んでいたのである。
その後、おしんが戻ってきた際も、並木はまだ売却を逡巡していた。仁はおしんに土下座して、まだ間に合う、並木を説得してくれと頼んだが、おしんは改めて浩太に売却を進めるよう頼むのである。おしん厳しすぎるだろ。
おしんは大手の進出によってたのくらの事業が立ち行かなくなることはわかっていたが、ひととしての恩義を忘れ、家族を顧みず金儲けに走ってきた田倉家の再生のために、そして恩人の浩太の一家のためにも並木の土地の大手売却への契約を進めてくれと願い出る。相変わらずおしんさんは厳しいお人だと微笑む浩太は、ついに売却を決意する。
仁は、母のおしんが交渉に失敗したと思い込み、失望して母を責める。妻の道子も、夫に失望し、ついには離婚を宣言する始末。家族の崩壊が進む中で、おしんはその様子を静かに見守ってゆく。
おしんは仁に、離婚を再考するよう促し、仁はようやく家族の大切さを思い出す。この姿は、かつて佐賀で竜三を立ち直らせるために試みたおしんの姿と重なる。仁と竜三は、いずれも実家の甘えを捨てきれずにいた共通点があった。おしんは仁の田倉商店を倒産させてでもその甘さを排除しようとしていたのである。
事業整理のため自宅売却を進め、引っ越しの準備のさなか、家族は徐々に絆を取り戻してゆく姿は橋田壽賀子の夢の世界なのかもしれない(正直、ここはちょっとうーんと思うところはあるが)。しかしこれが橋田ドラマ流の大団円なのだろう。
前述したように、田倉商店は浩太によって救済される。というより人の縁によって救われる。それはまさにおしんが商売において大切にしてきた価値観なのである。しかしそれは、全297話、一年近く放送してきたおしんのドラマの終盤最終話、終了わずか10分前の出来事である。すごい。
橋田壽賀子がこの物語を書き始めた理由は、バブル経済前夜にあった80年代の人々が、お金儲けに走り、大切なものを見失っているのではないか、という思いからであった。物語のラストにはそのメッセージが強く反映されている。
竜三と息子の仁は、おしんから見て「甘い」性格であり、竜三は何かと佐賀の実家に頼るところがあった。しかし、竜三が「俺についてこい、命を懸けて大きな仕事をするんだ」と前に進もうとする時の屈託のない笑顔を、おしんはたまらなく愛していたのだろう。
竜三が敗戦時に自決した際、おしんはその死を「立派だ」と称した。今回全篇通してみる前は、残された家族を顧みない自殺は自分勝手で情けないものだと思っていたものの、物語全体を通じて竜三の死に対するおしんの思いが腑に落ちる瞬間があった。
私は後悔しているんじゃないよ。私は私なりに信じて戦争にも協力してきた。軍のおかげで初めて仕事らしい仕事もさせてもらった。男として存分のことしてきたんだ。むしろ精一杯生きられたことをありがたいと感謝しているよ。ただ、ひとは私の生き方を間違っていたというだろう。私は軍と手を結んで仕事をしてきた。隣組の組長として戦争への協力も押し付けてきた。私の勧めで志願兵として少年航空隊に入った少年もいる。その中にはもう帰ってこない少年もいた。国債だって随分買わせてしまった。それも今となっては反故だ。私が無視する事だってできたんだ。だが私はそれをしなかった。もちろん私には私の信念があってやった事だ。それを悔いる気持ちは全くない。しかし戦争に協力して罪もない人たちを不幸に陥れてしまった責任は消えやしないんだ!
これが自殺直前の竜三のつぶやきである。竜三の言葉のなかに隣組という言葉が出てくる。
明治から終戦にかけての日本は、天皇を頂点とした「家制度」を仮構し、その枠組みの中で国民国家が成り立っていた。この「家」の概念は、戦時中には配給制や隣組といった組織を通じて等しく苦労するフィクションを生み出し、社会の不平等を覆い隠していた。田倉家もその影響を受け、軍部からの委託で工場を経営していたが、周囲からは「軍と結びついて甘い汁を吸っている」と陰口を叩かれていた。仁がある日突然、少年航空隊に志願した背景には、そうした噂への嫌悪感があったのかもしれない。
その後、仁は終戦の日も戻っては来なかった。田倉家では仁は戦死したものと想像していたのである。
日本が「ひとつの家」として観念された時代において、家族を守ることと国を守ることは同義であった。竜三にとって、隣組の子供たちの死や戦争の責任を負うことは、家制度の枠組みの中で重要な役割であっただろう。彼が自決した理由も、家制度に基づく責任感から来ていたのである。おしんが竜三の死を「立派だ」と称したのは、竜三が自らの信念に従い、天皇を頂点とした「家」への責任を全うしたと理解したからかもしれない。
語弊を承知でいえば、竜三の自決は、個人としての責任を取る行為であり、家制度における「切腹」にも通じる感覚だったと言える。
おしんが育った山形の貧困農家では、口減らしが普通だったし、姉のはるが死んでも母が死んでもまともに葬式もできない窮状だった。女性を犠牲にして平気な顔してきた作造も長男の庄司があまりにもひどかったことを思い出すと、隣組の責任を感じて自殺するなんて、むしろ立派なことに思えてくる。
しかし、どうだろうか。
竜三のこれまでの数々の挫折経験のように、ふるさとの太い実家に戻るというような、逃げ道はなかったのだろうか。しかし思えば伊勢にきて魚屋になった頃からの20年間、竜三は佐賀の実家へ依存する思いがほとんど消え去っていたように思う。竜三の佐賀依存が消えていったことはおしんにとってはうれしいことでもあった。
禎の疎開のときですら、佐賀疎開という選択肢は排除された。疎開先で虐待され逃げ帰ってきた禎をみたときには、さすがに佐賀という選択肢はあってもよかったと思うが。竜三はそれもしかなった。
太い実家をあてにしない、それはおしんが望んでいた竜三の自立の証でもあったはず。竜三は魚屋からの次のステップとして伊勢で軍の納入業者になることに挑戦した。そしてようやく家族を養う自信が付き始めた頃のこと、おしんは竜三が佐賀の実家を頼らず、雄、仁、禎、希望、初子の5人の子供のために大きな仕事に夢を託していると思うとたまらなくいとおしくなった、とナレーションが述懐している。
しかし、竜三が太い実家という表象の代替として知らず知らずのうちに依存していたのは、天皇を頂点とする日本国という「巨大な家」だったのである。
おしん自身は、国家という家のフィクションを完全には信じてはいなかったが、なんとなく空気には流されていた。しかし竜三は深く信じていた。信じていた以上、潔くその家の責任を取ったということだ、おしんはそう理解したのだろう。そうであれば、軽々しく天皇制などというフィクションを捨て戦前の考え方などなかったかのように、これからは自由な社会だ、などとふるまうことはズルいことだと思ったかもしれない。しかし、国が家族であるという考え方を捨てさえできれば、なんだったら太い実家に戻ってもいいのだ。しかし竜三はそれを逃げ場にはしなかった。だから立派だといったのではないだろうか。
敗戦直後の225話では、父と兄を失った仁の感慨として、潔く死を選ぶか女々しく図太くたくましく生き残るかの二者択一として人生観が総括されてゆく。その後の長い戦後の物語では、昭和58年、物語の終盤に至るまで、たびたび竜三と雄の仏壇に手を合わせるシーンが出てくる。これも地味だけど見逃せない。おしんが田倉竜三への思いを忘れずにいるという、竜三への愛と敬意がここに見て取れる。かつて伊勢の海岸で、逃げようとする竜三をタックルをしてでも捕まえたおしんの心情がオーバーラップしてくる。
ちなみに、この竜三の自決は、80年代90年代、翻訳、放送された海外ではどう受け止められたのだろうか。それはとても気になっている。
おしんのドラマは橋田寿賀子の反戦思想が色濃く反映しているといえるが、そのなかに侵略や植民地支配の反省という視点は希薄である。それは竜三の自決動機のなかでも軍部に寄り添い、同胞を死に追いやった責任は感じても、侵略に手を貸した自画像はみえてこない。しかし、植民地支配への反省についてはそれ自体は動機にはなっていないものの、それにつながりうるイエ観念を読み取れるように感じた。隣組を他人ごととしてとらえていたのであれば、竜三の自決はなかったはずである。そうであれば拡大されたイエ観念により実効支配された地域に考えが及んでもおかしくはない。実際にはそこまで思いは至らずに死んでしまうのだが。
同じ昭和時代の作品である五木寛之の「青春の門」では、筑豊炭田で差別的な扱いを受ける朝鮮人労働者が大きなテーマとして描かれている。石炭鉱業会社の経営者が、朝鮮人労働者たちから待遇改善を求められた際、「他の山は知らんが、生きるも死ぬも一緒に炭を掘ってきた家族同然だ。私が親でお前たちは子供だ」と言い返すシーンがある。
この台詞は、日本を親、植民地を子と見立てる当時の日本人の感覚を象徴している。家族になることで遠慮がなくなり、苦労を強いても平気になるという現象は、まさに家族観の持つ影の部分を示している。(ちなみに映画「青春の門」筑豊編1980年で経営者と交渉した朝鮮人労働者リーダー役を演じた渡瀬恒彦は、おしんでは浩太役を演じている。)
この真理を見事に表現しているのが、初子の存在である。八紘一宇における植民地と田倉家における養子初子は入れ子構造なのである。初子の境遇は、創氏改名を強いられ皇民化の果てに敗戦を迎えた朝鮮民族の運命と二重写しに見える。植民地をいかにわが子供のように見立てようともいざ状況が変わればあっさりと切り捨てられてしまう。
初子の抱えていた不安というのはまさにそういうものだった。おしんの長男・雄の戦死を契機に山形へ帰郷するよう初子に伝えたおしんの行動は田倉家以外に居場所のなかった初子にとって残酷なものであったといえよう。自殺を思いとどまり、米軍相手の娼婦となった初子は誰にも消息を知らせないまま、3年もの間、田倉家に送金を続けていた。おしんの言動は初子を養女とみていたとはいえない一方、初子は養女としての行動をとっていたのがいじらしく泣ける場面である。
牛角問題の炎上に関連して、改めて思うことは、どうしてジェンダー絡みの話題は相対的に軽いものばかりが盛り上がるのか、ということだ。
例えば、「女性差別」の現れとなる現象としては以下のようなものを列挙することができる。
この中で議論の余地なく重い女性差別は(3)までである。(3)はさすがによく話題になっているが、(1)と(2)はなぜか滅多に話題になることはない。
フェミニストが憤るのは(3)を除くと主に(4)(5)(6)が多い。しかし、(4)キャリア(立身出世)を目指すこと自体は最低限の生活水準をはるかに超えた問題であり、(5)家事・育児については分担以前にそもそも「楽をする」「手を抜く」という発想がなさすぎなことを問題にすべきであり、(6)公人の言動も直接政策に反映されていないならそこまで問題視する必要はない、という意味では「軽い」問題である。少なくとも、キャリアを目指せる人、安定した仕事とパートナーに恵まれている人、政治的な知識や関心がある人たちの関心事であっても、このカテゴリー入らない「弱者女性」にとってはほとんど関係のない話題である。
もちろん、(1)(2)の問題があること自体は、よく知られている。しかし、フェミニストからも、この問題に言及されることは意外なほど少ない。むしろ労働問題については、「103万円の壁」問題など、女性の貧困と間接的にも関係が薄いテーマばかりに反応する傾向が強い。私見では「103万円の壁」はそもそも問題ですらないと思うが、ネット上のフェミニストの間では女性の貧困や低賃金よりも深刻な問題として扱われている。
岸田首相についても、すくなくとも女性が圧倒的に多いケア労働者の賃上げについては尽力していることを正当に評価すべきだと思うが、そうした声を聞いたことは一度もない。逆に「女性ならではの視点を」という断片的なフレーズにやたらに激怒している人がいた。明らかに怒りの矛先の配分がおかしいだろう。
ちなみにアンチフェミ勢については、反応するのはほぼ(7)の問題に集中し、逆にそれ以外の話題についてはあきれるほど無関心か、言及する際も社会構造としての女性差別を否定して、「女が自分で選んだんだろ」という自己責任論で応答している。主張の内容以前に、人間としてクズとしか言いようがないだろう。
北村紗衣さんとツイッターでニューシネマのお話をしたのでまとめました(編集なしの完全版)
こういう記事が上がってたんだけど、よくよく読むと「完全版」といいつつ本人がBlueskyで投稿してたこと&自分がまとめたあとに投稿したコメントがまとまってなかったので、せっかくなのでその辺もまとめときますね。
https://bsky.app/profile/niwaka-movie.com/post/3l2jetkahwb2i
北村紗衣の反論を読んで俺としては勉強になったなぁと思ったことがもう一つあったのでこっちに書いておくと(ツイッターの人は文章が読めないので)、この人は「昔はよかった」の人らしいということで、具体的にはコード期・プレコード期はハリウッドで女性が輝いていたけどニューシネマ期は輝いていない、というようなことを書いていた。 美人がドレスで着飾ってレディとして大事にされた時代と、大事にはそうされないけどジーンズを履いて自由に何でもやってよかった時代と、どちらが女の人にとって良いだろうか、というのは、その人のフェミニズムに対する考え方によって変わってくる。それがあの反論ブログからは見えて良かった。
https://bsky.app/profile/niwaka-movie.com/post/3l2jeykpzqi2r
ニューシネマ期の映画をちゃんと観ている人なら、男だけでなく女の人の表象も、あの時代に多様化したことは、いちいち指摘するまでもなくわかってることだろうから
https://bsky.app/profile/niwaka-movie.com/post/3l2jbxyydck2u
だってその人なんか俺に対する引用RTで「家にある本を読み返したらやっぱりにわかさんがおかしい」とか言ってたんだもん。映画を見るんじゃなくて映画の本を見るんですよ、反論のために。こっちは映画の話をしてるんだからそんなの話にならないじゃないですか。
https://bsky.app/profile/niwaka-movie.com/post/3l2k647xdas2y
なんか俺が北村紗衣をインフルエンサーと書いたことにめちゃくちゃ怒ってる人たちがいるんですけどこないだのニュース記事でもカマラ・ハリスが党大会でインフルエンサー読んで若者にアピールとか書いてあったし単にネット上でえいきょうひょ影響力のある人ぐらいの意味しかないのになんでそんなに怒る人がいるんだよ
https://bsky.app/profile/niwaka-movie.com/post/3l2kjk5u6ou2k
いやていうかマジでBlueskyの治安の良さというかさ、当たり前なんだけど他人にガーって罵詈雑言吐きながら噛みついてくる人がいないっていうの、すごくなくてこれが普通のはずなんだけどすごいな。逆になんであんなにツイッターの人は壊れてるんだろう。北村さん本人は(頑固だな~)と思いつつまぁそれでも壊れてはいなかったですけど、その取り巻きなのかなんなのかわかんない人らの品の無さと話の通じなさときたらとんでもないよ。なんなんだろうねあれは。やっぱりツイッターの水に違法な興奮剤とかが入ってるんじゃないかな…
https://bsky.app/profile/niwaka-movie.com/post/3l2kr6zlev22x
北村紗衣に「あなたじゃあニューシネマ何本観たんですか」って聞いて「10本以上は見てますよ」って半ギレのリプが帰って来た時には不覚にもちょっとかわいいなお前…!と思ってしまったことを告白し反省しながら今日は寝ようと思います
https://bsky.app/profile/niwaka-movie.com/post/3l2mrpbvtp42k
個人的な意見なんですが批評家を名乗る人が自分よりも批評対象の作品を観ている人に対して「本数マウントしてるー」とか言うのは情けないと思います。批評家は批評対象をまずすべて鑑賞するぐらいのところから始めた方が論に説得力は出ると思います。
これは弥助問題の元ネタ論文でも何でもない可能性が高いので,論文をちゃんと読んでください。
っていうか,こういったテーマについては,藤田みどり『アフリカ「発見」――日本におけるアフリカ像の変遷』(岩波書店,2005年)っていう研究書がちゃんと出ているので,ネット上でかしましい皆様におかれてはまずはそういった文献もあたってみてください(ちなみに,この研究書のもとになった博士論文は国立国会図書館デジタルコレクションで読めます)。
注をよく見てみましょう。おや? 日本語の文献が引用されていませんね。日本語の文献を引用せずに日本史研究ができるんでしょうか? これは問題ではないのですか?
はい,問題ありません。なぜならこれは,タイトル「アジア人と黒人のあいだでの人種と人種観の利用――日系・アフリカ系アメリカ人の場合」からも分かるように,日本史の論文ではなくアフリカ系アメリカ人を主題にした論文だからです。
これはどう読んでも,アメリカの黒人の日本人観および日系人との関わりについてカリフォルニアを中心に調査した論文,つまりはアメリカ黒人の歴史に関する論文であって,ロックリー氏や岡氏がこれを読んでいないと断言することはできませんが(誰しも専門分野外の本や論文を読むことだってあるでしょう),わざわざこれを「元ネタ」にするなどということはとうていあり得そうもないことです。彼らがこの論文を参考にして立論しているのでは? などというのは,馬の心肺機能に関する研究が『ウマ娘 プリティーダービー』を参考にしているのでは? と言っているようなものです。ジャンル違いすぎるわ! あとドリームジャーニー引けなくて凹むわ! っていうか今回のLoHは千直だから荒れそうって言ったの誰だよ! ふつうに安定して英雄譚取れたから拍子抜けしたわ!
こういうときは注を見て,どんな文献に基づいてこの話をしてるのか? っていうのをチェックするんですよ。弥助が出てくる部分の出典は,第一にMichael Cooper, comp. They Came to Japan: An Anthology of European Reports on Japan, 1543-1640 (Berkeley: University of California Press, 1965)っていう本の66ページで,これはまあ当時のヨーロッパ人が日本について書いたものをまとめて英訳した,っていうやつですから,多分日本語でも同じコンセプトの本はあると思うのでそれを探せばいいでしょう。第二は,Gary P. Leupp, Images of Black People in Late Mediaeval and Early Modern Japan, 1543-1900, Japan Forum 7, no.1 (1995)っていう論文で,ペイウォールの向こうに行ければ読めます(https://doi.org/10.1080/09555809508721524)。要するに,著者のデイヴィド・ライス氏(カリフォルニア大学バークレー校所属)は日本語読めないので,英訳された史料や英語で書かれた論文を典拠にして,本題に入る前のマクラとして弥助についてちょろっと書いたということでしょう。
仮に彼が日本史の研究者なら日本語を読めないのは問題外ですが,論文の内容から察するにあくまでアメリカ黒人史の研究者なので,それならまあ日本語の論文読んでないのも仕方ないかなという感じ。なんだろう,アーサー王伝説そのものについて研究するなら,古い時代の英語とかウェールズ語とかの史料が読めないといけないけど,「日本人がどんなふうにアーサー王伝説を受容したか」という研究なら,『Fate/stay night』が読めれば十分で,アーサー王については日本語の本を参考にしてても構わないじゃないですか。この論文もそんな感じです。
なので,ふつうの日本中世史研究者が,この論文を典拠として用いることはまずないです。だって普通に考えて,こんなの典拠にならないっしょ? 中世ヨーロッパ史の研究者が論拠として『Fate』を参考にするなんてあり得ると思います? そりゃ絶対あり得ないとは言えないけど,そういう蓋然性が薄い推測をわざわざするならもっと直接的な証拠(本の中でこの論文を引用してるとか)を持ってきてもらわないと……
(もちろん,最近は中世ヨーロッパ史の研究者が日本におけるヨーロッパ表象の研究に手を出していたりするので,そういう研究で『Fate』を史料として用いるのは全然あり得るっていうかもうやってる人はいたはずなんですが。そのへんの研究動向は,たとえばhttps://doi.org/10.34382/00003197とかhttps://doi.org/10.34382/00003198とかの論文を読んでもろて……あ,話がズレた)
この論文,表象の研究としてはまあ手堅いので,弥助論争に巻き込まれて変な受け止められ方をするのは気の毒だと思いました。ただそれはそれとして,日系サイドの話もアフリカ系の新聞に基づいて書かれているきらいがあるので,論文のタイトルから「アジア人」「日系」を外して黒人についての論文だと明確化するか,あるいは日系人についてもちゃんと彼らの出してた新聞を読み込んで「日系から見たアフリカ系」を調査しないとダメなんじゃないかなぁ,とは思います。まあ,当時の日系人が出してた新聞って日本語で書かれたやつがいっぱいあるので,単純に読めないのかもしれませんが,だったらなおさら「これは2つのマイノリティについての話です(キリッ」と謳うんじゃなくて,「これはあくまで黒人史の話でっせ」という断りを入れた方がよいような。日系人の歴史は黒人史の添え物とちゃうねんで。
ちゃんと読むっていうのは,この論文のテーマは何で,どういう史料を使っていて,という,基本的なことを確かめながら読むことです。そうすれば,どれが話のマクラに過ぎず,どれが本題なのか,っていうのがわかって,「アメリカ黒人史の論文が日本中世史研究者の元ネタだったんだよ!」なんていうアホな主張をすることもなかったはずなので。
34にもなろう年、改めて独り身になったうえ希望してるキャリアの都合で海外単身も挟みたいし色々人生設計難しいすねぇと先輩に愚痴っていたら、先輩の息子が通ってる保育園の先生たちと職場の若手たちでご飯とか食べに行かないかいと誘われた。そういえばこの年になってもそういう合コンは参加したことなかった。
このようなことをネットに書くくらいには本気さが無い。人生経験としては興味あるけど、旬も過ぎた身で年甲斐ないわくわくどきどきもできず、何を目標に臨むかも釈然としない。この事案をつい先日人生初めてパチンコに行った時の興奮と同列に見てしまう自分が、大変失礼で無礼で申し訳無い。参加者の気持ちを尊重し同調できるよう、しかと心を入れ替えねばならぬ。盛り上げに徹する身となることもできるが、これはさして本質的に対等な心持ちではない。クリエイターである。何を驕っているのやら。
人生設計等と口遊む驕りが、欲の発露たる会合にシニカルな洞察を得ようと試みる様に刺さり、これは滑稽な矛盾であり、アイロニカルにも独善的で幼稚な自己本位性が浮彫りとなった。そう感じる。
一方でこんなことぐるぐる考える奴が本性隠して「今日は集まってくれてありがと〜\(´ω`)/」とかするんだから世話ない。
表象に好意を持ってもらうことはままないことはないという自己分析ではあるが、結局のところ本質的に暗く重い哲への共感がないことには家族たりえん、という価値観だった。大変童貞チックな価値観である。
だけど、元カノは完全にこれをスルーしてくれてなんかうまくいってた。だから、まぁそういうもんなんかなとも思った。スルースキル大事。
どす黒く渦巻く、それほど高尚でもない、しかし難読な感情を、言語化に足掻く様を、スルーしてくれるスキルは、存外大事なのだと、Twitterで呟いてはフォロワーが消える様を見て感じた。
この歳にもなれば嫌われる覚悟も自己開示も難なく熟せる。恋に落ちぬ限りは、ウジウジ考えるものもない。
果たしては、自分の開示したい欲とは何かという言語化と、階段を降りて独り身となり改めて灯り消えぬこの幼き共感への羨望の灯火を消すか否かという悩みこそが、今の私の脳のリソースを喰っている。
はぁ。
https://www.happyelements.co.jp/news/ZRHtf5nEZ
Happy Elements株式会社(以下「弊社」といいます。)は、弊社ゲームアプリ『あんさんぶるスターズ!!』のキャラクター画像に不適切な加工を施しSNS上で拡散した悪質行為者に対して、下記の通り損害賠償請求訴訟を提起しておりました。
当該訴訟において被告相手方から弊社への損害賠償金400万円の支払等を条件とした裁判上の和解に係る提案を受け、担当弁護士とも慎重に協議の上、今般和解に係る提案に応諾したので、お知らせいたします。
https://www.sankei.com/article/20240603-V757EXRVOVPCNEJWBV5YBQDKJ4/
スマートフォン向けのアイドル育成ゲーム「あんさんぶるスターズ!!」に登場するキャラクターの映像に害虫などの画像を挿入して交流サイト(SNS)で拡散したなどとして、京都府警下京署は3日、著作権法違反の疑いで、東京都葛飾区の会社員の女(25)を書類送検した。
東京都葛飾区の25歳の会社員女性がソーシャルゲームのイケメンキャラのゴキブリコラージュを作って荒らした騒ぎがあって、かなり限界な女性という印象があった。
こういう女性たちの受け皿に、イケメンソーシャルゲームはなっている。
https://www.sankei.com/article/20240304-UAQ4UUGMDFJGFNS3NV7VYZSN34/
2人で家を建てるための「共同作業」。兵庫県在住の女性(49)はそのフレーズに舞い上がった。4年前の11月、マッチングアプリに登録。そこで知り合った「ジャック」に、一度も会わぬまま1カ月で約570万円をだまし取られた。
夫と離婚し、働きながら12歳の長女を育てるシングルマザー。当時は新型コロナウイルス禍の真っただ中。身近な人がアプリで再婚相手を見つけたこともあり、淡い期待をもってアプリをダウンロードした。
翌月にマッチングしたのが《京都在住、ジャック・リー、34歳》。アプリ上のプロフィルによれば父は韓国人、母は日本人。自動車部品の輸出業を営み、年収は数千万円近くあると書いていた。
https://honz.jp/articles/-/53643
神奈川県在住の45歳の女性は、かつてSNSでやり取りしていた既婚者の男に「子供も産めない40過ぎの女性なんか遊び相手としか考えないよ」などとひどい言葉を浴びせられ傷ついた経験があった。
ところが新たに知り合った年下の男性は違った。ある時、「日本語を勉強したいのでお友達になってくれませんか」とメッセージが届いたのだ。相手は36歳の台湾人だという。
「私になんでもかんでも報告してくるんです。私はあなたと友達だから、その義務があると。そういうふうにされたことがなかったから、新鮮だったんです。私の気持ちに寄り添ってくれるというか。私のトークも一切、否定しない。受け入れてくれるんです」
子持ちの40代~50代女性が、「15歳くらい年下の金持ちイケメン外国人」に金をだまし取られるというのが典型例らしい。
外国人は白人設定ばかりなのかと思いきや、韓国や台湾のイケメンというのが意外だった。香港人、シンガポール人のケースもあるようだ。
同年代の日本人男性は人間性がひどいが、年下の外国人男性は金持ちな上に人間性も良いという幻想があり、それが騙される原因となっているのだろう。
https://kai-you.net/article/84512
自身のゲーム配信で何をしても「かわいい」というコメントが付くことや、コラボ先の相手にファンが「うちのアクシアをお願いします」と言ったり、相手の配信に陰湿なコメントを残されたこと対して、「母親面しないでくれ」とコメントした。
そういった一部のファンの行動に関して、アクシア・クローネさんが配信裏でコラボ先に謝罪をしていたこと、またたびたび「やめてほしい」と呼び掛けていたにも関わらず、「アクシアは反抗期」などと言われ、自分の行動を束縛しようとするようなコメントがあったと明かした。
そのようなファンに対しては、「これ以上迷惑をかけるな」「何を言われても俺はラジコンじゃないし、言うことを聞くことは一切ない」と明言。
いわゆる「リア恋」「腐女子」のような楽しみ方についても、自分はあまり好きではないが、内心で楽しむ分にはその人の自由であるとし、過度に共感を求めたり、自分と違う考えの人に攻撃をするのであれば「今すぐいなくなってくれ」と心中を吐露した。
Vtuberは悲惨な弱者男性が吐き気がするほど気持ち悪いコメントと共にスパチャをする売り上げが主な市場だとは思うが、
弱者男性に人気が出たコンテンツは、あとから男女逆バージョンが出て弱者女性に人気が出る傾向があるので、イケメンVの被害も今後件数が増えていくのでは。
他に有名なのは藤井風とか、石川遼とか?ハンカチ王子もその枠だったような。
今では信じられないことだが、90年代~10年代はリベラル論壇でサブカルチャーの作品や作家について深く思考し語れているか?が論者として凄いかどうかの基準のひとつ。これが暗黙の前提だった。
だから宮台真司も東浩紀もサブカルチャーについて語っていたし、そんな風にインテリにレペゼンされるのが嫌な野良の書き手と謎の小競り合いが起きて……とモメ事もその周辺で延々繰り返された。
このレペゼン枠争いはいまでも岡田斗司夫のオタキングという通称だったりがその時期の文化遺産として名残が残っている。ユリイカがたまにマンガ家特集やったりしてる所なんかもこの名残のひとつだ。
何にせよこの戦いでは深く理解をする、少なくとも理解をしようと務めた者が勝者であり価値として認められていて、これだけは立場、思想を問わず共有されていた。
これが10年代に一気にかわり、理解しているか?よりも反省させているか?が価値となった。迂闊な表象を出した作家や企業をどれだけ炎上させ反省させたか? 理解の深さを競うゲームから一抜けし、かわりに誰かを反省させることをリベラルは選んだ。
これが便利だったのはサブカルチャー批評はキャラの造形、関係性、物語、世界観、作家の意図、フェティッシュ、社会反映、二次創作での扱い。そのすべてに目配せし応答できる知能が求められたが、反省させるのは目に入った刺激に反応するだけで良いので猿でも出来る事で、強力な利点だった。
だから議員になりたての売れたい中年やバズりたいだけのNPO代表なんかがこぞってこの反省ブランディングに手を出すようになり、……このへんから後は皆の記憶に新しい内容がそのまま起きていった。
20年代には誰かを反省させた=凄い奴。が蔓延しきったのでそれに続いて、自分は反省した=凄い奴と、どれだけ反省させたか競争に更にどれだけ反省したか競争までもが加わり不毛さとナンセンスさに更に拍車がかかった。
これは当初は理解の深さで勝負してたのに、いつしか反省の深さで勝負するようになったTBSラジオの宇多丸なんかが最もわかりやすい例だろう。
今の売れ筋はtoxicマスキュリニティで、反省用アクセサリーとしては最近話題になった御茶ノ水の人なんかは全身これで固めていたし定番アイテムとなっている。
この辺りの時期ですでに宮台は映画語りだけを残し撤退していたし、東浩紀は観光客をキー概念とし、レペゼンの万能感から離れ不能さに留まることを選んだ。
このリベラルの入念で計画的な自滅によってサブカルチャーを通してリベラル的に何かを考える思想の蝶番そのものが場所とプレイヤーの両面から壊れ修復不可能になっていった。
保守やヘイターの手によってではなく自分たちで壊すことを選び、現状フィールドに残ったのは壊すことで延命できるような既に賞味期限きれなのをごまかしている評論家だけになったし
新しく出てくるプレイヤーも落合や成田のようにITビジネス系とつきあう形を選びサブカルチャーにはそもそも深入りして言及する事自体あまりない。
こうやって入念に登場の準備をお膳立てし、鍋も具材もすべてリベラルが自らの手で揃えきったあとに現れたのが暇空だった。
こういう流れがないとなぜ彼がやたらとHUNTER×HUNTERの話をするのかエロゲではランス10が最高傑作だったという話をするのかも意味がわからないし
なぜ他の候補のマンガ賢者ブランディングに対し対談で謎のクイズおじさんと化して企画を破壊してまで暴くのかそのメリットが恥をなぜ上回るのかもわからないが
彼は要はこの系譜の忌み子として出てきており、リベラル論壇が自分から手放したここの客層を単におさえただけだ
そしてその上から保守っぽさアンフェミっぽさをメッキで後乗せして支持の総量を増やそうと形づくっていってるのだが、リベラルはあまりにも愚かなのでこのメッキを本体だと思ってミソジニー枠で処理しようとしていて、ほんとうにどこまでいっても愚かだなと感じる
今では信じられないことだが、90年代~10年代はリベラル論壇でサブカルチャーの作品や作家について深く思考し語れているか?が論者として凄いかどうかの基準のひとつ。これが暗黙の前提だった。
だから宮台真司も東浩紀もサブカルチャーについて語っていたし、そんな風にインテリにレペゼンされるのが嫌な野良の書き手と謎の小競り合いが起きて……とモメ事もその周辺で延々繰り返された。
このレペゼン枠争いはいまでも岡田斗司夫のオタキングという通称だったりがその時期の文化遺産として名残が残っている。ユリイカがたまにマンガ家特集やったりしてる所なんかもこの名残のひとつだ。
何にせよこの戦いでは深く理解をする、少なくとも理解をしようと務めた者が勝者であり価値として認められていて、これだけは立場、思想を問わず共有されていた。
これが10年代に一気にかわり、理解しているか?よりも反省させているか?が価値となった。迂闊な表象を出した作家や企業をどれだけ炎上させ反省させたか? 理解の深さを競うゲームから一抜けし、かわりに誰かを反省させることをリベラルは選んだ。
これが便利だったのはサブカルチャー批評はキャラの造形、関係性、物語、世界観、作家の意図、フェティッシュ、社会反映、二次創作での扱い。そのすべてに目配せし応答できる知能が求められたが、反省させるのは目に入った刺激に反応するだけで良いので猿でも出来る事で、強力な利点だった。
だから議員になりたての売れたい中年やバズりたいだけのNPO代表なんかがこぞってこの反省ブランディングに手を出すようになり、……このへんから後は皆の記憶に新しい内容がそのまま起きていった。
20年代には誰かを反省させた=凄い奴。が蔓延しきったのでそれに続いて、自分は反省した=凄い奴と、どれだけ反省させたか競争に更にどれだけ反省したか競争までもが加わり不毛さとナンセンスさに更に拍車がかかった。
これは当初は理解の深さで勝負してたのに、いつしか反省の深さで勝負するようになったTBSラジオの宇多丸なんかが最もわかりやすい例だろう。
今の売れ筋はtoxicマスキュリニティで、反省用アクセサリーとしては最近話題になった御茶ノ水の人なんかは全身これで固めていたし定番アイテムとなっている。
この辺りの時期ですでに宮台は映画語りだけを残し撤退していたし、東浩紀は観光客をキー概念とし、レペゼンの万能感から離れ不能さに留まることを選んだ。
このリベラルの入念で計画的な自滅によってサブカルチャーを通してリベラル的に何かを考える思想の蝶番そのものが場所とプレイヤーの両面から壊れ修復不可能になっていった。
保守やヘイターの手によってではなく自分たちで壊すことを選び、現状フィールドに残ったのは壊すことで延命できるような既に賞味期限きれなのをごまかしている評論家だけになったし
新しく出てくるプレイヤーも落合や成田のようにITビジネス系とつきあう形を選びサブカルチャーにはそもそも深入りして言及する事自体あまりない。
こうやって入念に登場の準備をお膳立てし、鍋も具材もすべてリベラルが自らの手で揃えきったあとに現れたのが暇空だった。
こういう流れがないとなぜ彼がやたらとHUNTER×HUNTERの話をするのかエロゲではランス10が最高傑作だったという話をするのかも意味がわからないし
なぜ他の候補のマンガ賢者ブランディングに対し対談で謎のクイズおじさんと化して企画を破壊してまで暴くのかそのメリットが恥をなぜ上回るのかもわからないが
彼は要はこの系譜の忌み子として出てきており、リベラル論壇が自分から手放したここの客層を単におさえただけだ
そしてその上から保守っぽさアンフェミっぽさをメッキで後乗せして支持の総量を増やそうと形づくっていってるのだが、リベラルはあまりにも愚かなのでこのメッキを本体だと思ってミソジニー枠で処理しようとしていて、ほんとうにどこまでいっても愚かだなと感じる
OK、おれはこの件に関して最終的かつ不可逆な結論にたどりついてる。そして、俺以外の人間はそうではないように見えてる。
そんなことがあるかって?
もちろん、普通に考えればありえない。
だから俺はこのステキな結論を一晩寝かせることにした。ビールを飲んで、VNLで日本がストレートを喰らうのを見て、読みかけの「プロジェクト・ヘイル・メアリー」を進めてーーああ、もちろん、この文体はその影響ってわけだ、別にいいだろーー、たっぷり8時間は眠り、先ほど昼飯も食った後に、やっぱり、どうやら俺は正しいってことで、今ラップトップに向かってる。幾つかの議論を見ると、幸いにして、この考えは俺だけのものではないようだ。いや不幸にしてか?俺だけが真のヒーローだってチヤホヤされるチャンスを失ったわけだから。
さて、前置きはこれくらいにしよう。あのMVが炎上したのは、「相手の顔がサルだから」だよ。
例えばこんなことを言う奴らがいる。
https://rna.hatenadiary.jp/entry/2024/06/15/110134
とかだ。簡単に言うと「MVに登場する猿人はいい家に住んでるしマカロン食ってるしメンバーとの交流も一方的には見えないから、『コロンブス一行が文明を教えてやった』ていう筋立てじゃないじゃないか」てわけだ。
でも顔がサルじゃん。
顔がサルってことは下位であって自分が上位だ。サルにはそういう意味がある。
「そんなことない!サルの表象に上下や侮蔑の意味なんてない!そのことを証明するために俺は明日から同僚に親しみをこめて『エテ公』て呼びかけるし、アメリカのダイナーじゃ、『ヘイ、そこのモンキー!ビールを一杯頼むよ』なんて具合で行くぜ」
ていうなら、もちろんそうしたっていいんだけど、眉間をぶち抜かれる時には俺が止めたってことは思い出してくれよな。
あと、こういう奴らもいる。
「コロンブスって実は虐殺ヤローだったってのが定説なんだが知らないのか?」
https://lady-joker.hatenadiary.jp/entry/2024/06/16/011301
とかだ。
でも、これはまったく的外れ。だって虐殺ヤローだからNGってことは、してない奴ならOKってことだろ?そんなのバカげてる。
タイトルが「マルコ・ポーロ」だったら、その相手、つまり中国人(皇帝含む)がサルだったことになるし、「伊藤マンショ」だったらヨーロッパ人(法王含む)がサルだったことになる。どっちだってやっぱり問題アリだ。リンカーンに扮した大森元貴がサルと仲良くやってたら炎上しなかった、と信じられる理由は何ひとつない。
つまり、「実在の人物を出したら、その相手も実在(またはその比喩)と見なされるんだから、それをサルにしちゃダメだよ」ってことだ。ほら、虐殺とかは関係ないだろ?
じゃあサルじゃなかったら、コロンブスが人間たちとキャッキャしてるだけだったら?もちろん、それでも炎上したかもしれない。その場合は虐殺とかも関係あった。でも、それって無意味な仮定だろ?
いつだって、誰だって、実在する誰か(たち)をサルにしちゃいけないんだよ、何も複雑なことはない。作り手たちに不足していたのは、知識なんかじゃない。あのサルを見て「俺らのことか?」て考える奴がいるんじゃないか、て想像力だ。
俺が気に食わないのは、「実在する誰か(たち)をサルにした」っていう、このシンプルで疑いようのない結論を、ほんとうは誰もがわかってるんじゃないかってことだ。どう見たって明らかな理由に、「映像読解には一家言ある勢」とか「歴史認識には一家言ある勢」がワラワラ群がって、見当違いなことを書き散らしてややこしくしてる。彼らが、「顔がサル」であることが見えてないなら、その批判は的を射てると思う。顔がサルじゃなければ、MVの筋立てには啓蒙の意味合いはないし、炎上の理由は虐殺ヤローを脳天気に扱ったからだろう。
でも顔がサルじゃん。
見えてないわけなんかない。でも彼らはそのことを「そっと脇に置いて」自説を高々と垂れている。
いったい彼らは何がしたいんだ?