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はてなキーワード: 建築家とは

2015-07-22

「ザハ勃ち」という概念を考えた

1.  ある種の架空性癖のことを指す。あまりに斬新すぎる面白性癖であり、理論上は勃つはずなのだが、現実に勃った人間観測された事例はない。2chネタスレなどで人気。

2.  最初興奮材料に使うつもりだったモノ/ヒトが当初の計画よりコスト高(精神/手間/実費)だったため、手近な材料で済ませてしまうこと。

3.  ダレた生牡蠣オナホ代わりにつかうこと。

4. セクシーすぎる建築家ことザハ・ハディドさん性的興奮を覚えること。

5. ザハさんに似たアニメキャラで興奮する二次元オタクの性嗜好

2015-07-11

http://anond.hatelabo.jp/20150710171028

エンディミオンという小説の中で、アイネイアーフランクロイドクローンに教わった最も重要なこととして語っている。

「施主は一度契約を交わすと当初の予算の三倍まで金を出す」

まりこの程度は、建築家にとっては普通のこと。

2015-07-10

http://anond.hatelabo.jp/20150710171028

面白いから回答してみよう。せっかく増田見出しをつけてくれたんで、それぞれにツッコミながら

 

概要

五輪当初、開催計画書に記載されていたコンセプト「環境対策」「世界一コンパクト大会」「1964年東京五輪施設再利用からだいぶずれているのが気になる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/2016%E5%B9%B4%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF%E6%A7%8B%E6%83%B3

これがIOCに提出されたのが2009年新国立競技場の計画が現在の形になった2012年までの間に何かがあったのだろう

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E7%AB%B6%E6%8A%80%E5%A0%B4

[参考]

総工費2520億円の巨大さに隠された秘密

増田がなぜかドルベース予算計算しているが、為替重要なのは費用の大部分を海外から調達した場合のみ

多くの費用人件費みたいな国内要素だったりすると想像されるので、2012年から為替変動は無視してもいいんじゃないかと考える。

いや費用ほとんどは材料費で、これが大部分海外から調達だよみたいな話だったら再考する

「アンビルド女王」という都合の良い呼称

ザハに責任をかぶせることはできない。これは同意

ザハがアンビルド女王という呼称で呼ばれ始めたのは1983年香港の高級クラブ仕事あたりかららしいので

新国立競技場のコンペの時点では相当アンビルドで有名だったはず。

コンペの要件に「まともに建設できること」を加えてなかったことが原因。

ではなぜそんなことになったのか。

ディスクロージャー情報開示

「旧国立競技場は、たぶん経年劣化で使えない(取り壊しは恐らく不可避)」

この情報は初耳。ただ、前段の議論で「1964年東京五輪施設再利用」みたいなコンセプトは一旦否定されたと見ていいので、

取り壊さずに使うにはどうすればいいかの調査予算すら立てられていなかったと想定される。

から最初から取り壊し&競技場新規作成ありき。

増田には現場に近い建築家権限が弱いことが特筆すべきことのように書かれているけど

コンセプトやら要件定義の段階でいきなり建築家意見を聞くことはなく、要件が固まってから適切な専門家を選び出すのが普通なんでこれは仕方ないように思える

責任者不在の、嘘

ここまで考えると、責任者は本当に限られた予算内で作れるものを作ろうと考えていたのかすら怪しくなってくる。

親父は何らかの目的青天井予算で車を買わせていたんでは。

読者への挑戦状

おそらく犯人というか問題点は、2009年から2012年の間に「コンパクトから重厚長大」にコンセプトが変化したことだと思う。

多分契機は震災アベノミクス震災復興強制的予算を注ぎ込んだら思った以上に景気がよくなったんで、

政治トップの方で緊縮財政派の立場が弱くなって公共事業景気回復の流れになったんだろう。ここがアベノミクス施行に至る流れで、五輪コンセプトの変化の遠因になったと推理する。

要は新国立競技場古代エジプトピラミッドだ。最初から目的は派手にカネを使うことにあったんだと思う。

 

となると今の方向は特に意図していないものではないということになるんだけど、問題納税者に何も知らせずに勝手にコンセプトを変更したこと。当初の予算1300億円も黙ってコンセプト変えるための目眩ましにしか見えない。

今一番怒られてるのは多分ここで、有識者は「金ばら撒くなら独断ピラミッド建設業界にばら撒くな。俺らにもよこせ」と主張してる。

新国立競技場犯人探し

諸君、私はミステリーが好きだ。

フーダニット好きだ、ハウダニット好きだ、ホワイダニットが好きだ。

クローズドサークル好きだ、と延々と続けてもいいが、このへんにしよう。ヒラコーすげえな。

さあ、犯人探しをしよう。

概要

ある程度物語が進むと、大抵はワトスン役が事件のあらましを振り返る。

  1. 新国立競技場 国際デザインコンクールお題目は『「いちばん」をつくろう。』だった
  2. ラグビーワールドカップ2019と、オリンピック(2020)メインスタジアムが主目的だった
  3. 新国立競技場は、2019年(2018年度)完成を目指し、予算規模は1300億円であった
  4. コンペは、2012年に開催され(東日本大震災の後)、46作品を2段階で審査した
  5. 審査委員会は専門アドバイザーを置き、実現性、技術的な調査を行った

新しい日本というシンボルであり、世界一場所であり、オリンピックに対する日本という国の象徴を込めようとした。

字面そのままの国威発揚であり、ランドマークでもって日本存在感を示す、土建極北でもあった。

総工費2520億円の巨大さに隠された秘密

まず、当時とのドルベースでの日本円は、1.56倍となっている。(78円→122円)

1300億円を1.56倍すると、2028億円となる。

これが、ザハ当初案では3000億円規模と言われていた。ドルベースでも1.5倍。

国家を上げての景気向上と、建築難易度と、見込み違いのダブルアップで2.3倍程度に膨らんだ。

さて、3000億円、規模縮小圧縮しての2520億円の目眩ましが見事なミスディレクションとなっている。

1300億円でスタジアムを一つ作るというのは、適切な金額だっただろうか?

シンボリックランドマークとしてのインパクトを求めたのは?

1300億円の予算を組んだ首謀者は、誰だっただろうか?

「アンビルド女王」という都合の良い呼称

ザハ・ハディッドは、第一級の建築家だ。脱構築主義建築家としての。

ザハが実力で現在地位を勝ち取ったことは留意する必要がある。

まり、コンペでのザハ案は魅力的に見えることが多いということだ。

ザハの案は、脱構築主義建築と呼ばれる枠組みの中では、一級品と言える。

さて、国威を示すために、世界一のナニカをつくろうと決めたのは、誰だろうか?

日本的な何か、機能美的な何かではなく、建築物の美しさを求めたのは、誰だったろうか?

ディスクロージャー情報開示

実は、建築関係者が諦めとともに眺めているのには、3つ理由がある。

  1. 国立競技場は、たぶん経年劣化で使えない(取り壊しは恐らく不可避)
  2. ランドマーク性を求めた時点で、1500億~2000億程度はかかる
  3. デザイン予算の調整を取るような、現場設計屋の権限が弱い

1964年東京オリンピック時に、国立競技場こと国立霞ヶ丘陸上競技場はかなりの突貫で作られている。

当時の施工技術環境を考えると、延命措置結構無理があると想像できる。

また、コスパ最優先の「機能仕様を満たした競技場」とは、全く違う建築物だろうというのも想像できる。

なので、ザハ以外のどの案が選ばれたとしても、1500億円を下回ることは無かっただろう。

そして、「これ建築難易度高いと思うが」と言う地べたに近い建築家意見が「アドバイザー」扱いされるコンペだ。

優先順位は明確であり、そうしたコンペはそれほど珍しくはない。

責任者不在の、嘘

さて、「一番いいデザインを頼む」と言われた建築家が、ドリームデザインを選ぶのは、必然だ。

ラグビーワールドカップ向けの良いヤツを!オリンピックに恥ずかしくない良いヤツを!

そうした、「新国立競技場を決める参加者」の、誰のデメリットにもならないという、不気味な状況になっている。

本来大学入学祝いに好きなの選んでいいぞって言って息子がベンツCクラスを指さした時には殴るのが親父の努めなハズだ。

例えば、キミが富士鷹ジュビロじゃなかった藤田和日郎のファンで、アニメ化をアレコレ言う立場になったとしよう。

様々な候補の中から、やはり「うしおととら」だと決定した所で、ではどう削るか、という話になったとしよう。

いくらなんでもアニメ化するのにメインである白面の者との戦いは削れない。

前半のクライマックスであるうしおの髪を櫛ですく盛り上がりの為には、各地の少女エピソードは削れない。

藤田和日郎の連載作家ならではの回り道しがちな癖が絶妙バランス拮抗しているが故に、どのエピソードも削り難い。

で、予算青天井で、必要エピソード必要なだけ盛り込む係だとしたら、削る理由がない。

でも、本来予算配分を考えてリソースを誰かが管理すべきなのだ

どうやってもこの尺では入らないと、誰かがハサミを入れないと、作品はまとまらないのだ。

押井守みたいに、与えられた予算と期限内で作品を上げるために容赦無く切っていく監督というはむしろ例外的なのだ

読者への挑戦状

さて、ここからは挑戦状だ。

新国立競技場基本構想国際デザイン競技」と呼ばれるコンペは、何を目的にし、何に対して責任があるだろうか。

新国立競技場建築予算」に対して、予算配分を決めたのは誰で、何に対して責任があるだろうか。

文科相やコンペ審査委員長スポットライトが当たる中、隠れているのは誰だろうか?

ザハ案が膨らんだ時点で「拒否すべきだった担当」は、どこの誰だっただろうか?

問題点を切り分けるための、簡単なヒントを挙げておこう。

それぞれ明確な責任者が居るが、キミに見つけられるだろうか?

(ここで責任者とは、「通す or 止める権限を持つ担当者」を指す。門番と警備主任ビルオーナーはそれぞれ違う)

2015-07-06

ひどすぎる建築家擁護

http://concretism.hatenablog.com/entry/2015/07/04/230101

全部ほかの人が悪い、建築家はなんにも悪くないというだけのひどい記事

募集側の建築家、応募側の建築家とも、後者(コンセプト側)に寄ったもの解釈するのは当然といえ、3年もの月日を浪費した現在においてその判断を責めるのは酷である

応募側にとっては、問題があれば募集側が落とせばいいだけだから、どう解釈してもいいだろう。

でも期間や規模が大きければ、それだけコストは大きくなるのだからコスト重要性は高まる。どっちで解釈するかとはまったく別の問題だ。

さらにいえば、コンペの実施から現在まで、民主党から自民党への政権交代とそれに伴うアベノミクス実施日銀による大規模な金融緩和東京オリンピックの開催決定など大きな経済イベントが続けざまに、かつ国立競技場発注者である「国」の主導のもと起こっている。

そもそも経済はどうかわるかわからない、発注者の国にもいろいろな省庁があり、国立競技場のためだけに経済政策を変えるなんてばかげたことができるわけがないことを考えれば、発注者である国が主導することとの関係を強調すること自体が異常だ。

そもそもオリンピックは決定していないにしても、それにむけての新国立競技場という側面もあったはず。

オリンピック招致にむけて新国立競技場をつくるが、オリンピック開催決定は想定していませんなんていいわけが通用するものか。

国は特に民間発注者支援業務を要請することもなく、施工者が参加しない詳細設計業務を先行させたり、技術提案のみで施工業者を決めた上での随意契約へ持っていこうとするなど、建設抑制に対する適切な対応が取れていない。これらについて、当然ながらコンペ当時の関係者責任はない。

これはそのとおり。

極めつけはこれ

ザハ、安藤忠雄の両者をはじめとする当時のコンペ関係者は、閉塞感が漂っていた当時の日本特にコンクリートから人へ」を掲げた民主党政権下における建設建築関係者鬱屈した気分を晴らすというその責を十分に果たしており、ここまで述べてきた論理的な部分のみならず、感情的にも彼らを咎めるようなことは、この世界でメシを食ってる人間として、できようはずもない。

身内が鬱憤を払うために税金を湯水のごとく浪費することを肯定している、建築業界の人でもここまでひどいのはほとんどいないと信じたいが、もし多くがこんな意見ならば、日本建築業界は滅んでほしい。

2015-07-05

新国立競技場みたいなデザイン重視の建造物

以前に、新国立競技場と同じように国の要請デザインをコンペにかけて、結果外国人デザインして建てられたビルで何年か仕事をしたことがある。

確かに外見は当時としては先鋭的なものだったらしいけど、とにかく内部が使いにくくて、何と言っても狭い。

曲線を多用するあまり使えるスペースが全然ないし、オフィス内のレイアウトも曲線を前提に考えなきゃいけないので、部屋のカタチにも制約を受けた。

単純なオフィスビルとしてはシンプル直方体ビルの方がいいよね、とみんなが言っていた。

著名な建築家デザイナーによって建てられた、なんて価値建築後数年経ったらみんな忘れてしまうのに、ビルはむこう何十年も使わなければならない。

あのビルの内側から不思議な曲線の壁を見る度に、新国立競技場もそうなってしまうのではないかとちょっと心配になる。

2015-06-30

運と才能と努力

自分は将来「建築家」になるものだと昔からなんとなく思っていた。安藤忠雄とか隈研吾とか丹下健三のように、カッコいい建築物を作って有名になりたい、がんばっていればきっとなれると思っていた。

しかし、いざ建築を学んでみると、そんなこと自分には到底ムリなんじゃないかと絶望的な気持ちになってしまった。

才能のないポンコツがいくら努力しようと彼らのように斬新な建物なんて作れる気がしない。

そして、才能があったとしても運がなければ世にでることはない、ということもなんとなく分かってしまった。

結局自分はどうすればいいんだろう。才能のない分野で努力したって無駄ならさっさと諦めてほかのことをしたい。その一方で、努力は必ず報われると信じたい自分もいる。

なにが正解なのかわからないまま人生を決めなきゃいけないなんて残酷すぎないか。

2015-06-07

http://anond.hatelabo.jp/20150607115906

ウチが昔住んでた街の音楽ホールは、50年前の建物だが建設費の半額を市民寄付で作ったらしい。

当時の市の予算7億円だったのを、市から1億、寄付1億で作ったホールらしいが今でも大事に使われてて

有名な建築家代表作が田舎街にある。こういうのはいいなと思った。

http://anond.hatelabo.jp/20150606185828

↑まず、少数派だから止めるべきとかい民主主義否定するような方の意見は脇にどけておきましょう。

この増田は、あなたのような多数派には、合理的に物を考えていない様に思えると指摘しているのであって、

あなたような意見議論にならないよね。

 

その上で、この増田の主張する合理性は、

建築家がしっかりと知恵を使い、使う人や社会の事を考えた設計をしたものならば、

となっている箇所に定義されているので、これが否定する根拠が無ければ、

この増田反論することにならない。

 

念のため、

>もうすぐ滅ぶ予定の日本に、、、

とか財政問題を割り込ませるコメントは、上記主張に対する反論では無くただの文句からな。

 

価格.comのように最安値の案だけが正義になる社会は寂しい。

との記載もあるから増田の主張を整理すると結局のところ、

財政問題の横槍で、無個性建築物公共財になるのは寂しいと

言いたい訳であるよね。

 

仮に、それをきちんと捉えられていたら、煽り文句は、

「がっぽり稼いで納税してから書けや」

に類する内容になるはずで、

 

上のような的を得た内容の煽りコメントを瞬時に書き込める人がいない

増田村は寂しい。

2015-06-06

公共建築にこそお金をかけて欲しい

国立競技場の件がようやくマシな方向に動き出したようだけど、こういう公共建築物を巡る話でいつも

お金をかけないで作って欲しい」「無駄は省いて欲しい」という話が出てくるのが気になっている。

俺は、公共建築こそ多少のコストがかかってもいいからきちんと考えられた素晴らしい物を作って欲しいと思う。


ちょっと前に地元図書館が建て替えられた。

省エネエコらしいが、なんのこだわりもないただの箱みたいな建物になった。

建て替えられる前の図書館には愛着が持てたけど、このプレハブみたいな新しい図書館には愛着を持てる自信がない。


一方、武蔵境に出来た武蔵野プレイスという図書館に行ってみたらこれが素晴らしかった。

老若男女が思い思いに使える自由雰囲気図書館だった。

多分あの建物地域住民に多大な影響を与え、愛されながら成長していくだろう。


でも、この武蔵野プレイスは明らかにうちの地元図書館よりコストがかかっている。


省エネ性能が優れていてコストも安いけどただの箱みたいな図書館と、

建築家自治体の創意工夫が詰まっているけどコストがかかっている図書館

今の日本なら、前者のほうが「正義」とされることも多い気がするけど、

本当に低コスト環境負荷が低いことだけが正義なのだろうか。


別に無駄お金をかけろとと言っているわけじゃない。

建築家がしっかりと知恵を使い、使う人や社会の事を考えた設計をしたものならば、

多くの人が利用する公共建築物は、かけたコスト以上に社会を豊かにできる可能性を持っていると思う。


今の日本では、建築家に頼む=使い勝手が悪い、無駄コストがかかる、建築家自己満足

しか思われていないが、上で挙げた武蔵野プレイスのように、俺は建築家からこそできる社会への提案もたくさんあると思っている。

(と同時に、社会ネガティブイメージを持たれるに至った経緯を建築家はきちんと反省して欲しいとも思う。)


代々木体育館だって当時はべらぼうなお金がかかったと思うんだけど、丹下健三はそれに応えて

2015年の今なお輝きを放ち続ける素晴らしい建物を作ったし、あの建物は当時の日本人の誇りであり希望であったはず。


価格.comのように最安値の案だけが正義になる社会は寂しい。

今回の国立競技場の件をきっかけにして、「コスト削減」ではなく「うまいお金の使い方」の話ができる社会

変わっていってほしいなと思う。

2015-05-11

ゴールデンウィーク最後エロゲ史におけるクトゥルフ神話を語る

クトゥルフ神話に特化する形でエロゲの歴史をまとめたWebサイト存在するし、一般書籍で言えば『エロゲー文化研究概論』(宮本直毅, 2013)では一つのコラムとしてこれを取り扱っていたりする。

ただ、それらで話の主たる軸にクトゥルフ神話が用いられているか否か、という点での検討はされていても、クトゥルフ神話がそれぞれのエロゲにおいて一体どう扱われてきたのか、という点には触れられていなかったりする。

ゴールデンウィーク有意義に過ごすべく、エロゲ史においてクトゥルフ神話がどのように用いられてきたのかをちょっとまとめてみたので(そのためにちゃんと全部プレイしなおしました。実に有意義ゴールデンウィークだったと思う)、増田に垂れ流しておく。

1991年~93年

まずエロゲ史にクトゥルフ神話が登場する直前の状況から少し整理しよう。

1991年末、かの有名な「沙織事件」が発生する。ソフ倫設立される切掛として有名だけれど、同時にこれは内容に対する制約としても一時的に強い影響を及ぼした。

特に社長が逮捕されたフェアリーテールとしては一際慎重な態度にならざるを得ず、単純で直接的なエロというより、エロ以外の何らかの要素を前提とした上でエロ「も」取り入れる、というアプローチが取られることとなった。

そして『狂った果実』(フェアリーテール, 1992/5/1)が発売される。

エロより視覚的、精神的グロさを全面に押し出した傑作であり、エロゲにおける「ヤンデレ」(昨今のステレオタイプとは少し異なりサイコパス色が強いが)の開祖と言っていいものだろう。主人公精神的、社会的に追い詰め、最終的に狂気に陥れるそのシナリオ展開は多くのプレイヤーに衝撃を与え、同時にエロゲが「エロ以外の18禁的要素を主軸に据え、その過程にエロを取り込んだゲーム」としてもありうるのだ、ということを強烈に知らしめたものでもあった。

1994年

こうした中、フェアリーテールブランドを分ける形でフェアリーテールHARDCOVERを新設し、クトゥルフ神話要素を持つ世界最初エロゲであるネクロノミコン』(フェアリーテールHARDCOVER, 1994/6/24)がリリースされることになる。

物語は新聞記者である主人公が自分の先祖の秘密を探るべくインスマスへ向かい、そこで邪神復活の儀式に巻き込まれる、というもの。『インスマスの影』(H.P.Lovecraft, "The Shadow over Innsmouth", 1936)をそのまま使った内容となっている。

原作に足りない女っ気を確保するため、バーの店員や宿屋の女主人、娼館などが配されているけれど、モンスターホラーとしての側面が強く、狂気への言及は殆ど無い。

作品としては丁寧で、よくまとまっていて、つまらなくはない。ただし原作色が強いせいで原作既読者には先の展開がすべて分かってしまい、無難な内容という印象が拭いづらい。しか現実には当時のプレイヤーのほとんどは原作未読者であり、そういう点ではむしろクトゥルフ神話へ興味を持つ最初の一歩としてよく出来たアレンジだったのではないか、とも思う。

ともあれエロゲ史における最初の使われ方は、このようにモンスターホラーとしてであった。

1995年

ネクロノミコンから1年が経過し、95年に入ってから2つの作品が発売されることとなる。一つは『YES! HG』(姫屋ソフト, 1995/6/30)、そしてもう一つがかの有名な『黒の断章』(アボガドパワーズ, 1995/7/14)である

『YES! HG』はオムニバス形式となっており、その中の一編である『豪州怪奇紀行』がクトゥルフ神話要素を持つエロゲとなっている。

物語の内容は応募した覚えのないオーストラリア旅行の懸賞に当たり、彼女と一緒に参加したところ邪神の生贄にされかける、というもの

クトゥルフ神話の扱い方という点では、『ネクロノミコン』に輪をかけてモンスター色を強めたものであるディープワンやティンダロスの猟犬といった神話生物が登場するものの、一般人に化けられる、死ぬと水に溶ける、水をかけられると死ぬ、と原作設定とはかけ離れており、どちらかというとモンスター映画的な怪物を取り扱った物語であり、その怪物の名前クトゥルフから借用した、といった感もある。逆に言えば、クトゥルフ神話に関して一切知識がなくとも既存のモンスターホラーものとして理解ができる内容であり、『ネクロノミコン』では若干あったグロテスクさもない。そのためより取っ付き易い感があり、短編ながらよくまとまっていることからもっと一般ウケしていい作品と思うが……知名度は今回紹介する中ではおそらく最も低いと言えるだろう。

そして『YES! HG』に遅れること1ヶ月、自転車操業の零細新興メーカーから『黒の断章』が発売される。

あるマンションの一室で一家皆殺しの猟奇殺人事件が発生したことを端緒に、同マンションに入居していた探偵がこれを解決しようと首を突っ込み連続殺人事件に巻き込まれ、その謎を解く鍵を自分の失った記憶に見出していく、という内容である

前半は猟奇殺人事件を巡るミステリとして、そして後半に入るとラヴクラフト色が全面に現れたものとなる。下敷きにしているのは『死体蘇生ハーバートウェスト』(H.P.Lovecraft,"Herbert West-Reanimator", 1922)、そして『壁のなかの鼠』(H.P.Lovecraft,"The Rats in the Walls", 1924)である

クトゥルフ神話モノとして知らない奴はいないといえるほど有名な本作であるが、実のところモンスター要素はほとんど無い(そもそも『死体蘇生ハーバートウェスト』は邪神も神話生物も登場しない内容であるが)。しかし「黒人の神父」の熱弁の中でのさりげない「神々」という複数形、「呪い」への「ギアス」(C.A.Smith,"The Seven Geases",1934)というルビなど、作中の随所に仕込まれたこうした細かいネタは一切作中で説明されることはなく、それがわからなくて物語が理解できないようなことはないが、プレイヤーの知識へのくすぐりが実にうまい作品である

一方で、本作のシナリオの核はあくまで「家族愛である、という点への言及も必要だろう。原作へのオマージュを込めつつ独自要素を持ち込み、後日談めいた二次創作的なその内容は、単にその用語や設定を流用したものとは明らかに一線を画したクオリティを持っている(例えば不老不死にさせられた女性については、お腹にいる殺すことも生まれることもできない胎児を家族と呼びうるのか、といった辺りはSF的、倫理的に今なお考えさせられるものがある)。

ネクロノミコン』、『豪州怪奇紀行』とは異なり、本作はモンスターホラーとしてではなくクトゥルフ神話を扱った最初エロゲであると言え、また原作二次創作的側面を持たせた物語は(多少粗はあるものの)有名作の名に恥じない出来栄えである

1996年

一方で『黒の断章』においてもやはり、狂気の描写はほとんど無いに等しいものであった。

クトゥルフ神話における狂気とは、異端の知識を人間の脆弱な脳が処理しきれなくなり、破壊された状態であるクトゥルフTRPGにおけるSAN値の取り扱いもこれを示したものと言っていいだろう。

他方、92年の『狂った果実』を筆頭に狂気についてはエロゲにおいて断続的ながら取り扱われ続けていた。この時代で言えば『サークルメイト』(ボンびいボンボン!, 1994/5/13)、そしてエロゲ史上初のビジュアルノベルである『雫~しずく~』(Leaf, 1996/1/26)があげられるだろう(『for Eliseエリーゼのために~』(CRAFTWORK, 1996/12/6)もこの線では秀逸である)。

こうした作品において、狂気とはこれまであったものが破壊されるというより、境界線を踏み越えてしまった状態として扱われる。怪物の血を引いた「選ばれし者」ではない一般人である私たちも、一歩踏み出すことによって「向こう側」へと至りうるのだ、という見方でのこうした「狂気」を、ここでクトゥルフ神話における「狂気」へと接続した作品が登場することになる――『Esの方程式』(アボガドパワーズ, 1996/9/13)である

物語は蔭洲升という漁村で起きた陰惨な殺人事件の犯人が精神病院から退院したことを端緒として、その元担当医を勤めた探偵助手たる主人公が異常な自殺事件に巻き込まれていく、という物語である。『黒の断章』の続編ではあるが、前作とは独立した事件となっている。

前作同様、前半は東京での猟奇事件をめぐるミステリ、そして後半は蔭洲升が舞台となり、ラヴクラフト色が全面に押し出される。原作は『ネクロノミコン』と同じ『インスマスの影』である

これまでのクトゥルフ神話要素をもつエロゲにおいて、その猟奇殺人表現されたものや「向こう側」はグロテスクものであったし、これ以降もほとんどがそのように表現する。しかし、本作は死に至る状態/死体を「美しく」描く点で明確に異彩を放っている。

SAN値が下がる」のではなく「啓蒙が上がる」ことで見える世界が変わる(『Bloodborne』FROM SOFTWARE, 2015/3/26)ように、本作は私たちの「啓蒙を上げる」ことを目的とした作品めいた印象を受ける。もちろん四肢切断された「苦痛を伴わない」少女の視覚的な美しさであれば会田誠の『犬』があるし、特に『魍魎の匣』(京極夏彦, 1995/1/5)の影響が本作へ露骨にあることは否定しがたい。

しか踏切の赤信号アニメーション演出に始まる本作は、これをプレイすることで一歩「向こう側」へと足を踏み出しかねないことへの警告めいた不穏さを孕んだ見事なものであると私は思う。

のちの『沙耶の唄』(NitroPlus, 2003/12/26)も同様だが、美しい「向こう側」を描いた作品エロゲ史において稀なものである。ほとんど無意味登場人物など色々と欠点も多い作品ではあるが、加点法で見るなら間違いなく名作として語られる作品だろう。

1997年

さて、ここで少し時代におけるクトゥルフ神話の状況を整理しよう。

創元推理文庫の『ラヴクラフト全集』は1974年12月13日発売、クトゥルフ神話モノのパロディとしての必読書と言っていいだろう『妖神グルメ』が1984年6月30日発売であるタイタス・クロウサーガはまだ日本語訳が出版されていないが、『アーカム計画』はすでに出ている。ということで、クトゥルフ神話に関する基礎教養としての文献はすでに大体揃っていたと言っていいだろう。

だが、それを調べるためのツールはどうだろうか。

1997年とはYahooが日本で検索エンジンサービスを開始した翌年であり、Googleはまだ会社すら存在しておらず、2chもWikiepdiaも影も形もない時代である(ちなみにWikipedia日本語版の「クトゥルフ神話」の記事最初に出来たのは2003年8月)。

現在のように玉石混交とはいえググれば腐るほど情報が出てくる時代とは程遠く、なるほど情報はあるところにはあるが、そこにたどり着くことは容易なことではなかった。

そうした状況下において『マジカディープ☆ワン』(Vanilla, 1997/4/18)が発売される。様々なクトゥルフ神話上の邪神や神話生物を美少女化した初のエロゲであり(クトゥルフ女体化については80年代に先例があるとの報告がある)、モンスターも狂気もホラーも完全にオミットし、その用語や設定に対するパロディ作となっている。

問題パロディである以上、クトゥルフ神話に関する広範な教養をプレイヤーが持っていることを前提しなければならない、という点である――正直、時代を考えると無謀としかいいようがない。文字通り10年早すぎた作品であるが、のちに『斬魔大聖デモンベイン』(NitroPlus, 2003/4/25)やラノベ這いよれ!ニャル子さん』が当たったことを考えれば、その先見性はもう少し評価されてしかるべきかもしれない。

一方で同年末、邪神の名前だけを借りた作品が発売される。ALICESOFTの『アリスの館4・5・6』に収録された『アトラク=ナクア』(ALICESOFT, 1997/12/18)である

シナリオライター自身が言う通り、本作の中身は一切原作とは関係がない。ゆえに本作をクトゥルフ神話要素を持つエロゲ史の上で語るべきではないが、名作として名高い本作がクトゥルフ神話における邪神の神の名前であることもよく知られたものであることからエロゲ史上にクトゥルフ神話に対する興味を惹起する効果はそれなりにあったのではないかと思っている。無関係とはいえよく出来た作品であり、返り血を浴びた黒髪美少女に対する審美眼を――「瞳」を多くのプレイヤーに植え付けた、という意味では、これもなかなかに罪深い作品と思う。

1998年

さて、3年前に発売された史上2番目のクトゥルフ神話を用いたエロゲを発売したメーカー「姫屋ソフト」について、ここで少しまとめよう。PC-98時代のエロゲに詳しい初老のオッサンでもなければまず知らないメーカーであるが、その有するブランド名「C's ware」といえばWindows95時代のエロゲに詳しい中年のオッサンなら反応することだろう。『DESIRE』そして『EVE burst error』とエロゲ史に残る名作を有し、たまにバグまみれで起動すらしない製品をリリースすることで有名な、そんな泣く子も黙る一大メーカーであった。

そのC's wareから、『アトラク=ナクア』の一カ月後に『DIVI-DEAD』(C's ware, 1998/1/23)がリリースされる。

物語は山奥の学園に転入することになった主人公が、学園内で麻薬のように蔓延する香、見え隠れする異常行為、学園創設者一族の陰惨な過去などに触れていくうち、自分がこの学園に転入させられた目的や持病の発作の原因などが明らかになっていく、というものである

この作品は、直接的にはクトゥルフ神話要素への言及が一切無い。シナリオファイルを無理やり抽出して全テキスト確認した私は自信を持って断言できる。本当に、ない。

しかしそこで描かれる物語の設定は、ラヴクラフト小説のファンならおそらく確実にニヤつけるものである。「古い穴の底から神を呼び出す」「この地の神と契約を交わし、その血を一族の中に入れた」、そして穴が開きすぎて周辺一帯の人間が狂死したこと。

こうした神と人との関係はまさしくクトゥルフ神話――もっと言えばラヴクラフト神話における典型的なそれである

また話の筋にはほとんど関係ないにもかかわらず、焼身自殺した建築家が書いた唯一の幻想小説「はての国」への執拗ですらある言及は、作中で関わった人間がほとんど惨たらしく死んでいるという状況も併せてラヴクラフト愛読者に魔術書めいた印象を与えている。

本作に人外は登場するが、クトゥルフ的なモンスターは登場しない。しか抑制的ながらも明白な狂気、グロテスク死体などはある意味で『ネクロノミコン』時代におけるクトゥルフ神話の扱い方に忠実と言っていいものであり、具体的に名前こそ触れないものの、その確かなオマージュを感じる内容は良作と呼ぶにふさわしいものであり、その意味では『アトラク=ナクア』の対と言っていいだろう(ちなみにのちの『果てしなく青い、この空の下で…。』(TOPCAT, 2000/06/30)も同様のアプローチを採った良作である)。

1999年

そしていよいよ世紀末電波系エロゲといえば必ず名前の上がる有名作『終の空』(ケロQ, 1999/8/27)が発売される。

ある学校で一人の不良学生が屋上から転落死した三日後、いじめられていた女生徒が同じ場所から飛び降り自殺、同じくいじめられていた男子生徒の妄想が周囲の学生を巻き込み拡散し、一週間後に同じ場所から集団で飛び降り自殺に至る、という事件を何人かの視点で繰り返し読ませる物語である

正体不明の少女の口から出るナイアルラトホテプという単語、「テケリ・リ」という声など、確かにクトゥルフ神話要素における単語は使われている。

……が、本作はむしろ終末論を用いて『雫~しずく~』を正統に発展させた延長上の作品として語られるべきであり、本作をクトゥルフ神話を軸にしたものというにはちょっと無理があると考えている。

というのも、本作のシナリオにおける終盤は統合失調症の患者を模したそれとなっており、またその視界はシュルレアリスム的な絵で表現される。シュルレアリストの一部が統合失調症の患者の描く絵に魅せられたことも併せて考えれば、そこで語られる内容は言葉遊びめいた意味が通るようで通っていない単語の連結であり、その一部にクトゥルフ神話用語が用いられた、というように私は思っている。

本作はよく出来た作品であり、衒学趣味の上で意味が通りそうで通っていない文を普通に会話が成立しているかのような羅列には思わずニヤリとさせられ、その「向こう側」の表現としては明らかに過去エロゲとは一線を画したものである。が、クトゥルフ神話の扱い方という点で言うのであれば、『アトラク=ナクア』と同じくらい関係性は無い、というのが妥当なところだろう。

まとめ

正直、1994年から99年というわずか5年ですでに結構な文章量になってマジかよと。ただこうして見ると、クトゥルフ神話は結構多様な使われ方をしてきた、というのが見て取れるかと思う。モンスターホラーとしての印象が一般には強いのではないかと思うけれど、狂気の表現形態であったり、物語構造としてのそれであったりといろいろ工夫がされている。

2000年以降については余白もないのでこの記事でこれ以上深く言及する気はないけれど、『朝の来ない夜に抱かれて -ETERNAL NIGHT-』(DreamSoft, 2002/06/28)、『斬魔大聖デモンベイン』(NitroPlus, 2003/04/25)、『終末少女幻想アリスマチック』(キャラメルBOX, 2006/10/27)というのが従来に無いひとつ特徴的な筋と思う。いずれもクトゥルフ神話と熱血という組み合わせであり、好き嫌いはあろうがモンスター設定資料集としてのクトゥルフ神話がこれで普及していくように思う。ちなみにこのあたりはDreamSoftがフェアリーテールブランドキャラメルBOXが姫屋ソフトブランドであることを考えると、少し面白いものがある。

なお、この記事については間違った内容が記載されている可能性が十分にある。発売年度は一応いくつか調べた上でおそらく正しいと思われるものを記載したけれど、これももし誤りがあれば申し訳ない。

さて、最後にここまで読んだ奇特な人のために、ぜひプレイ頂きたい史上最高のクトゥルフ神話エロゲを紹介したいと思う。『人工失楽園』という(文章はここで途切れている)

2015-03-20

建築家として有名なインド人女性チャワン・コドゥヴァが日系アメリカ人富豪ジェームズ荒井結婚した結果、チャワン・アライになったという笑い話が近頃は話題になっておりますが、実際のところ佐藤敏夫 (サトウ・トシオ) みたいに姓も名もそれぞれはありふれたものであっても組み合わせると意味が繋ってしまっておかしいことになる例はちょくちょく見受けられるので名付けには特に注意する必要があることでしょう。

2015-02-25

グラスリップについて、グラすってリップ

 P.A.WORKS製作したアニメの『グラスリップ』見ましたよ。中々でした。

#

※以下ネタバラシ有

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ネットでの評価はよろしくない

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 売上が良くないと言われたら「そうだね」としか言えません。

グラスリップ』には「あざとい」もそこまでありません。

もっと金を巻き上げてよかったのでしょう。次の『SHIROBAKO』が人気だから、まあ、ほら。

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 内容に関しては「おや突拍子もないね」というシーンはありましたが言われている程は、

気になりませんでしたね。口下手な脚本さんなのでしょう。いいじゃありませんか。

だけど頻繁に家を訪ねるの、あれは気になりましたね。ジャスコ行きなよ、田舎学生なんだから

#

伝統試行錯誤

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 ともかく舞台P.A.WORKSらしいというか『true tears』っぽかったです。

主題歌、学園、ニワトリ、ちびキャラの走るエンディング三角関係、とかとか。

その一方で止め絵とかアイコンとか、新しい要素もあって感心しましたね。

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 デフォルメアイコンを出してコミカルにやるのは慣れましたね、悪くなかったかも。

止め絵は基本的には「ここで止め絵かいな」とよく思いましたけど、

個人的には「いいな」ってシーンも一回二回ありました。難しいでしょうねアレ。

止め絵で映像は停止しているのに音声とか時間自然に流れていくので、

真面目なシーンで止め絵が入ると「今どうなってるの! 早く!」って気になって、

止め絵が好きになっちゃう人もいるでしょうね、私みたいに。でも、不評でしょうね。うん。

#

 あ、あとダビデくんの分身心の声。アレ、実写だとそこまで違和感ないでしょうし、

気にならなかったのですけど、ネットだと面白おかしく取り上げられてますね。

人間生きてれば分身ぐらいすることもあるでしょう、さもありなん。

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 やっぱりアングルはやや斬新でしたけど、そこまで感心するところはありませんでした。

改善要求する。評価としては三角しょうが挑戦したその心意気や良しという感じですね。

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恋愛要素

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 ダビデくんの父親が半分専業主夫みたいだったり(建築家らしい)、幸(薄幸目鏡文学少女)が新しい恋愛したり、

そういう革新的なところ評価できますね。

「私は女だけど透子ちゃんも祐くんも恋愛的に好き」って、二人を呼び出してさらっと殴った割に

「(透子にはダビデがいるし?)(祐と二股になるし?)透子ちゃんとはこれから友達として」って、凄いですよね。

幸(薄幸)ちゃん新しい、素晴らしい。

ともかく世間を先取りした恋愛提示するのは名作の役目ですね。『グラスリップ』が名作かどうかは、まあ。

#

 恋愛全体に関しては、感情移入しませんでしたが逆に悪くないような気もしました。

一話でニワトリをどうするか突然悩んで「相手の意見なんて自分はこれまで聞いてこなかったんだ」という、

当然の事実主人公の透子は気づいて、そこから周りに目を向けていったら無神経な透子は裏目裏目で悪くなっていく、という。

#

 改めて周りを見れば、透子を含めて相手と上手くコミュニケーションできない人間ばかりで、

不和も生まれるのだけど「そういう無神経なところ(不器用さ)が好き」という結論採用されていく。

そういった「相手を許していく」作風なので、ネット的・自己責任論的・他罰視点で見ると面白くないでしょうね。

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恋愛要素;不器用なやつら

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 キャラクターを見る際に例えば「透子を取られてしまうのではないか」という問題が作中ありますが、二通りに分けましょう。

ダビデの突然の登場に戸惑って喧嘩する雪哉に対して、やなぎはダビデと直に話す(怒る)ことで場を収める直接性を示す。

透子とダビデの仲を静かに壊そうと企んだ幸に対して、祐は静かに怒って山に登るというまるで口下手な間接性を示す。

#

 こう「関係を壊す」際には直接性と間接性と分かれるのですけど「関係を築く」際には統一性があるかもしれませんね。

やなぎは独白のように一方的に雪哉に告白したり、雪哉は電話をかけて「お前と話すと落ち着く」と言ったり直接的で、

幸と祐とも一応告白という形を取ったり唐突に親にボーイフレンドだと紹介したり大胆で直接的に関係を築くと。

仲直りの際には、やなぎと幸は口下手なメールを相手に送って、相手がそれに応えるという静かな感じで。

仲直りは静かで、告白は激しくて、分かりやすくていいですね。古典的で。確かにもう少し斬新でも良かったかもしれない。

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 透子とダビデはいつも全力という感じで「コミュニケーション滅茶苦茶下手」って感じですね。言うまでもない。

#

⑤小さな平和

#

 ダビデの親夫婦の仲睦まじい感じや、透子の親夫婦デコボコだけれど仲の良い感じ、

なんだか悪くなかったですね。イチャイチャとしていて、平和で、健やかで、落ち着いていて。

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 ガラス工房の娘の透子が未来を、ガラス等がきっかけとなって「見える」と言うのと、

ピアニストの母を持つダビデ未来が「聞こえる」というのは似た者同士というか、恵まれているというか。

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 こう似ている割に、誰からも好かれる透子と、侵入者として扱われて✝唐突で当たり前の孤独✝を抱えたダビデという、

無神経でコミュニケーション下手同士の癖に、まるで察せない透子と相手を知ってもまるでなってないダビデという、

なんとも対照的というかなんというか、という感じでしたね。なんというか、かんというか。

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青春;動揺と、そのあっけなさ

#

 『グラスリップ』のネット上の感想ざっと見ると「展開動いて」という意見が、ちらほら。

例えば物語序盤に「未来カケラ」という未来を見聞きする能力のせいで透子とダビデは知り合うのですが、

実際に透子とダビデが見聞きしていたのは未来でもなんでもなかったという、あっけない結論に落ち着きます

この「未来カケラ」は恐らく夢のようなもので、まぐれで「正夢」を見聞きしただけで結局は現実でもなんでもないと。

#

 序盤に「未来カケラ」として見えた、線路を歩く「スタンド・バイ・ミーごっこ」も起きなかったし、

ダビデが墜落していくこともなかった上に、幸が入院するのもまるで大したことないと。なんともないと。

#

 なんじゃそりゃ。

#

 ただ、そういったハリボテの幻覚に透子は悩まされていきますしハリボテの「未来カケラ」のおかげで、

最後ダビデの気持ちが分かったようになった、と。なんだかハリボテに悩まされもしたけど、悪くなかったと。

#

 透子は母親から青春時代未来を見てると勘違いしてたけど、なんでもなかった」と言われ、

母が同じく昔「未来カケラ」を見ていたことを知りますが更に、これより以前に透子は母親から

本当に未来のことが分かったとしても「一粒で二度おいしい」だけで、別になんてことはないと諭されています

混乱しても全然なんてことはない、と。『グラスリップ』はあっけない感じに持って行くのですよね。

#

 劇中あっけないシーンは割と多くて、例えば「てへぺろ」を連発するおちゃらけた祐の姉が、

珍しく泣いて病室から出てくると思ったら、どうやら病室にいるのは彼氏らしいと。一大事じゃないですか。

だけど時が経つと無事に退院してコーヒーを飲みに来ると。なんてことはなかったと。そうなの? 嫌いじゃないけど。

#

 新しい恋愛体系とか「そういう無神経なところが好き」とか、なんだか『グラスリップ』ってとても、

許容的で包容力あるなって思うのですよね。「おちこんだりもしたけれど、私はげんきです。」って感じで。

あっけなくて拍子抜けでコケオドシだけれど『グラスリップ』は積極的に許していくスタンス評価に値します。

#

⑦雑な総括

#

 基本的映像も美しいですし、終盤の空とかガラスとか月とか綺麗ですよね。

私は『グラスリップ』、とても綺麗な作品だなと思いましたね。別にそんな悪くなかったです。

ヘイトスピーチ」とか「過激派組織IS」とか排外的問題が取り巻く今に、

グラスリップ』みたいな包容力のある作品が出てきて良かったと思いますけど。

弁護、になっちゃいましたかね。『グラスリップ』を作ったみなさん、ありがとうございました。では。

2015-02-17

すてきな賃貸物件を見つけるための方法

つい最近引っ越しするために都内賃貸物件を探した。

そこで得られた知見をまとめる。

今回、私は以下のような条件で物件を探していた

10万円前後(上限11万円)

・2人入居可

・30平米以上

目黒区

バストイレ

このような条件で物件を探していたが、ここで注意してほしいことが大きく分けて2点ある。

1.間取り図はあてにするな

賃貸物件を探す際に間取り図は統一フォーマットなどなくバラバラ。

わざと広く見せるのもOK。間取り図に惑わされて実際内見をしたら狭かったなどということも多々あり。

ここで特に注意しておきたいのが、間取り図はあてにせずに、平米数をあてにすべきである、ということである

しかし、平米の図り方にも欠点がある。

私の行った不動産屋さんから聞いた情報だと、平米数も建築家によって図り方は様々。

・もともとの平米数の図り方は隣の部屋の壁との間から

まり壁が厚ければ厚いほど部屋は狭く感じることになる。

・逆に、壁の厚みは換算せずに部屋の壁から壁まで図っている建築家もいる。

この場合は逆に部屋が広く感じる。

その他にも恐ろしい間取り図として、入り口存在しない部屋のある間取り図や、間取り図と写真全然違う物件もあった。

挙げ句の果てに、間取り図の中に恐ろしい一撃文句

間取り図と実物が違う場合は実物を優先します』(嘘でしょ....)

ちなみに不動産屋としてはこの文章日常茶飯事だそうだ。

間取り図はまるでお見合い写真のようではないか。。。こんなんでいいのか。。。

とにかく気になった物件があったら内見することをおすすめする。(内見せずに決めるなんてだめ、絶対。)

2.不動産屋はあてにするな

わたしは、さきほど記載した条件の物件希望提示していたのだが、まず一言目に言われるのは「そのような物件は探すことが難しいです」「極力探してみますが、」

消極的発言からスタート

そして何件か提示してくる物件は、11万すれすれの物件ばかり。

安ければ安いほど望ましいと言っているにも関わらず、上限ぎりぎりの物件しか出してこない。

加えて、「このような条件ではこれぐらいの値段のものしかないのです、さあ、早く決めてください。」と畳み掛けてくる始末。(私の行った不動産屋が悪かったのか。。。)

ここで、ただ一言伝えたいのは 決して諦めてはだめ ということである

情強な方は不動産屋をあてにせず、自分で徹底的にそのエリア物件を調べることをお勧めする。

加えて不動産屋には内見のためだけに利用することをお勧めする。

不動産屋は本当に自分たちのおとくになる物件しか出してこない。

加えて一件一件出すのが遅い。(待ち時間にわたしのほうが何件もいい物件を調べられたことか。。。)

情弱な方は、口コミ等で人気の不動産屋に行くことをお勧めする。

どの不動産屋も持っている物件数は一緒なので、それならば愛想がいい不動産屋に行くべきである

(わたしの場合最初物件探しの日には、電車移動させられた....初めて聞いたぞ、電車で移動する不動産屋)

最終的にわたしは自分物件を約100件〜200件ほどみて、気になるものリストアップして内見させてもらい、約40平米で10万円弱の物件出会うことができた。(仕事してないのに仲介10万円とかぼったk...)

なんだか愚痴まみれのブログになってしまったが、今後物件探しをするにあたって参考してくれるとありがたい。

他にも細かく注意すべきことはいくつかあるが、上記の二つを守ればそれなりに満足できる物件出会えると思う。

最後まで読んでくれてありがとう

※追記

ブックマーク増田へのレスありがとう。こんなにコメントがついててびっくりした。

気になったものについてコメントしていく。

見取り図じゃなくて間取り図じゃないかなぁとモヤモヤして内容が頭に入らん。

→ご指摘ありがとう間取り図に直した。

目黒区10万40平米って何を犠牲にしたのか気になる。築年数?騒音

→結局築年数を犠牲にした。とは言っても1980年代に建てられたものだが。

 一軒家の二階に決めたので騒音については大丈夫だった。

>その値段出せるのなら礼金更新料保証人保証料仲介手数料不要UR賃貸   

 http://news.mynavi.jp/news/2014/01/06/324/おすすめよ。 次に地元密着型不動産

→今度引っ越すときは参考にする、ありがとう

物件が決まってるなら、仲介じゃなくて管理してる会社探して直接契約すればいいのにと思うが…。

→直接契約しても仲介料は変わらないらしい。

2015-02-02

ライトノベル構造的に馬鹿にされる宿命にある

ライトノベルに限らないが、構造的に「馬鹿にされる」場合がある。

定義曖昧で、玉石混交で、定性的評価されるもの全般のことね。

すると、自分感性で都合良く石だけピックアップして馬鹿にできる。

定量的に計測できたって、好きに時系列を切り出して、定義付けを恣意的にすればなんとでもなる。

そして、「なんとなくこういう批判がある・こういう擁護がある」と藁人形を用意すれば、

その架空人形サンドバックにするのは、とても簡単だ。

そこで、馬鹿にするのはどういう人か、何が批判足りえるのか、振り返ってみよう。

まず、ライトノベル批判否定形から追い込んでいく

「無い」事の証明は難しい。

から「有る」もので「ライトノベルで無い」モノを追いだしていこう。

表紙がアニメ絵である

太宰治ライトノベルか?

表紙がいわゆるアニメ絵柄かどうかは、絶対的な要因ではない。

から、「絵が恥ずかしい」というのは、表紙絵に対する批判であって、ライトノベル批判とは違う。

(勿論、「アニメ絵は恥ずかしい。太宰治もあれじゃ買い難い」とする批判はあるが、ライトノベル批判とは別軸)

キャラクター小説である

京極夏彦京極堂シリーズは、ライトノベルか?

キャラ立ちという意味で、ホームズを超える名探偵は出てきただろうか。

から、「類型的なキャラクターが出てくるだけ」というのは、その手の小説批判であって、ライトノベル批判とは違う。

(以後省略するが、そういう批判は当然あって良いが、ライトノベルとは独立

子供ティーンエイジャー)向けである

ハリー・ポッターは、ライトノベルか?

ファンタジーSFミステリから哲学に至るまで、子供向けに書かれた本を読む大人は多い。

から、「子供向けに書かれた小説を大人が読むのは」というのは、その手の読者批判であって、ライトノベル批判とは違う。

設定が稚拙である文章が頭悪そう

これに関しては、まさに定性的な(感性の)話になるため、具体例は省略したい。

ここでは、スタージョンの法則(啓示)を引用するだけにしよう。

SF(science fiction)の90%は、ゴミカスでクソだ。

同じ基準を使って、映画文学、民生品等々の90%がクソだと示せる。

からSFの90%がクソだという主張(または事実)は、究極的には何も意味しない。

なぜなら、SFは、他の全ての芸術形態品質と同じ傾向にあるという意味しかないからだ。

http://en.wikipedia.org/wiki/Sturgeon's_law

から、「ライトノベルの大部分はクソだ」という批判は、何の情報量も無く、ライトノベル批判とは違う。

馬鹿にする、と、批判する、との違い

ここで映画バトルシップ」を持ってこよう。

ハワイ沖で行われる海軍の多国合同軍事演習さな宇宙人侵略してきて、自衛官海兵隊員が反目しながらも撃退するという

まあ、インディペンデンス・デイと戦艦ミズーリを足してブリトーで割ったような映画だ。

素晴らしく面白い愛すべき馬鹿映画だが、批評家からは当然のように酷評されている。

何が言いたいかというと、批評家評価と、馬鹿であるかどうかとは、分けて考えられている。

ビール片手にゲラゲラ笑いながら見るような「ジャッカス」みたいなのを「馬鹿だ」と言うのは、批判ではない。

それは賞賛なのだ

馬鹿にしているのは誰だろうか

さっき言ったように、「馬鹿であることは、比較独自の軸になる。

その上で、馬鹿にしているのは、例えば「パンチラの絵を付けて恥ずかしくないジャンル馬鹿にされて当然」のような、

ライトノベル」を「小説の一ジャンルとして、格下である」とする主張しか、残念ながら観たことがない。

比較的、嫌悪感忌避感のようなものだ。

これは、BL趣味とするのは気持ち悪いだとか、サラリーマン通勤中に漫画雑誌を読むのはガキっぽいとか、そういった類の主張だ。

好悪の主張であって、それはそれで、仕方がない面はある。

雑誌の表紙に水着女性を持ってくれば売上部数が上がるが、職場休み時間に読むのはどうだ?というレベルの話だ。

批判としてありうる話

ワリと珍しいのだが、硬派なSFライトノベルSFとが全く同じ題材を描いているものがある。

アーサー・C・クラークの「楽園の泉」と、野尻抱介の「ふわふわの泉」だ。

(まあ、内容的にはチャールズ・シェフィールドの「星ぼしに架ける橋」のもじりの方が相応しいとは思うのだが)

両者とも、「ロケット以外で宇宙に進出するための、巨大構造物を作り上げる人物」が主人公だ。

ポイントは、「楽園の泉」がハードSFか否かであるとか、「ふわふわの泉」がラノベかどうかではなく、

この両者を比較して、「どちらが低俗か」を論じる意味あるかないか、だ。

「どちらがより高尚か」や「どちらの方が格上か」でも良い。

ここまで題材が同じだと判りやすいのだが、

「大人なら、『ふわふわの泉』ではなく、『楽園の泉』を読むべきだ」

とは、ならないだろう。

だって、違う作品なのだもの。それは批判ではなく好悪の主張だ。

逆に言えば、作品の質についての批判なら出来るはずだ。

「『楽園の泉』は、建築家の名声について拘りすぎて主張がボケている、『ふわふわの泉』の方がSFとして良く出来ている」

なんていうのは、馬鹿にしているのではなく、(正しいかどうかは別として)SFを軸にした批判になる。

真っ当な批判は可能なのか?バカにする方の品性を疑うべきか?

例えば、俺TUEEEE系と言う価値基準において、

アレクサンドル・デュマの「モンテ・クリスト伯」と、司馬遼太郎の「梟の城」と、佐島勤の「魔法科高校の劣等生」とを、

一緒に並べて比較して、「魔法科高校の劣等生を読むのは馬鹿だけだ」と言うことに、意味があるだろうか?

俺TUEEEE系の源流をたどって、湖の上を歩く男の話まで遡ったり、本邦においては勧善懲悪の仮託先であるとか、

そういった論文を描くことは意味があるかも知れないが、「馬鹿にする」というのは比較的には品のない行為だと思う。

例えば、今話題ピケティの「21世紀資本」を読むのが大人で、百田の「海賊とよばれた男」を読むやつが馬鹿にされてもしょうが無い、みたいな言い方はしないだろう。

現代ソマリア海賊を描いた「キャプテン・フィリップス」を見て「『パイレーツ・オブ・カビリアン』を見るとか馬鹿にされてもしょうが無い」みたいなことは言わない。

というわけで、馬鹿にする方の品性を疑うべきだと言うのが、オレの意見になる。

補足として:ただし、ラノベに出来の悪いものがあることを否定するものではない

どんな作品でもファンは居て良いと思うし、蓼食う虫も好き好きと言う。

例えば俺はバトルシップが大好きだが、蛇蝎の如く嫌う批評家が居るのも否定はしない。

アナと雪の女王よりはベイマックスの方が面白いとは思うんだが、GoGo好きなだけだろと言われれば否定はできない。

というように、主観的な好悪と、その技芸における比較批評、そのジャンルでの売上高なんてのは、全て独立の話だ。

そう言った点で、ラノベの中に上手い下手、エロに寄り過ぎだとか構成稚拙だとか、そういった批評はあって良いと思う。

ただそれは、作品単位、出来ても作家単位の話であって、「ラノベ全般に広げるのは主語が大きすぎて乱雑に過ぎる。

9割のクズを観てそのジャンル否定するのが愚かであることは映画絵画においては一般的なのに、ラノベがそうでないのは不幸なことだと思う。

2014-09-23

もうバカとは働けない

ひどいタイトルすみません

発展途上の部署所属している。

私を含む部署立ち上げに関わった数人を除いては寄せ集めなので、チームとしての能力はお世辞にも高いとは言えない。

今年の頭から別の部署会社トップに君臨する、誰もが憧れる部署)へ社内留学していた。

出産予定のあった人が管理入院になり予定より早く産休へ入ったのと、同時に急病でしばらく職を離れる人が出てしまい、回せなくはないが辛いという噂を聞きつけた私が、自分部署勉強にもなるから、と助っ人も兼ねて頼んでいれてもらった。

業務内容で言えば任せてもらえる範囲は狭いが、仕事面白いし、頭のキレる人たちに囲まれて日々奮闘するのは本当に楽しい

それと、みんな教養がある。

仕事のことはもちろん、時事問題から少しマイナースポーツアート建築映画ハイファッションまでとにかく幅広く知識を持っている。

TV番組J-popアニメなどのカウンターカルチャーはいわずもがな。

自分はもともとハイファッションや建築が好きなんだけど、自分部署ではそういう話が出来ないし、趣味を持ち出そうものなら厨二病乙!建築家気取り乙!服に無駄金乙!という感じであしらわれていた。

どの程度持ち出すかというと、「あっ、ここのカフェソファコルビジェだ。」って言うだけでアウト。

特別コルビジェファンという訳ではないが、大きなくくりで趣味嗜好まるごと小馬鹿にされるのは気に食わないので、部署内では好奇心を見せないようにしていた。)

ちいさなことだが、自分の美意識が通じる環境ものすごく気持ち良い。

自分部署では「みなさまがご存じない事を申し上げてしまバカなわたくし」という自己認識を強いられていた気すらする

今では調子に乗って「無知を恥じろよ無教養コノヤロウ」ぐらいに思っている。(よくないよね)

同僚と建築インテリアの話をしたり、映画の話をしたり、本を貸し借りしたり一緒に出かけたり、仕事どころかプライベートまで充実してきて驚いている。

残念ながら、病気療養をしていた人が帰ってくるためこの助っ人はあと3ヶ月で終わってしまう。

この部署に残ることも可能だと上司は言ってくれたが、それでは自分部署はどうなるのかと思う。あまりにも無責任だ。

自分部署人間は、はっきりいって趣味が合わないし無教養に思えるが、素直で若さと少しのヤル気はある。

そこへ今のままのテンションで私が帰って文化的側面を求めたりなんかしたら、このチームはあっという間に壊れるだろう。

自分の心へ従えば、今の部署へそのまま移ってしまいたい。だがそれは同時に自分部署人間の経歴に傷をつけることになる。

それに、ありがたいことに早く戻って来てくれと言われている。

ああでも駄目だ。

今は部署に戻ってからどうやって今の交友関係を持続させようかということばかり考えている。

友人に相談すると、自分の美意識感受性)ぐらい自分で守れと、かの有名な詩でさとされた。

そうなんだけど、そうなんだけども、、、



***

今見返して思うに、単に性格の不一致なんだろうか。

趣味嗜好が違うという点で、お互いを見下ろしているのが悪いんだろうか。

でも正直、今後そこでぶつかりそうな気がする。

今後自分部署にひっぱってくるならTVと噂丸飲みの人間よりは教養がある文化的人間がいいと思ってしまう。

そんなことしたら部署内に派閥ができてしまうかな。

でももう自分が一身に、価値観のズレたダサいやつ担当みたいな役を引き受けるのは疲れたんだ。はあ。。

2014-08-29

http://anond.hatelabo.jp/20140829102507

アフリカとある途上国では、救援か何かで訪問してきた先進国人間たちを神様だと思っていたとの話があるね。

キリストも、当時その国より文明の進んだ外国から来たおじさんかもしれないよ。いろいろ困ったことをなおしちゃったから、これはすごいぞ!と。そして、現地人や伝聞によって尾ひれはひれついていった。

意図的権威づけして、儲け話聖地化して土産屋とか宿屋とかが儲かる、聖書印刷流通・販売する人も、彫刻家教会などの建築家も、講師(=牧師)も)につなげたり、自分権威国威発揚に利用した連中もいただろう。お釈迦さんについても、草場の小さな密教みたいなもの国威発揚に利用されて、仏教としてここまで大きくなった経緯があると専門家は言っているようだし。

モーゼムハンマド(モハメット)も、ごく常識的かつ高度な知識や技能をもつ人が実在していて、おみこしとして担がれていったのではないかな?

と私は思いますね。

2014-07-27

建築家として有名なインド人女性チャワン・コドゥヴァが日系アメリカ人富豪ジェームズ荒井結婚した結果、チャワン・アライになったという笑い話が近頃は話題になっておりますが、実際のところ佐藤敏夫 (サトウ・トシオ) みたいに姓も名もそれぞれはありふれたものであっても組み合わせると意味が繋ってしまっておかしいことになる例はちょくちょく見受けられるので名付けには特に注意する必要があることでしょう。

2014-07-08

http://b.hatena.ne.jp/entry/matsuosekkei.blog85.fc2.com/blog-entry-2507.html

しろ木と紙で家を作る日本においてブランド建築家作品が9年もったことに感心してもいいぜよ

普請道楽って知ってるかい

庶民の家屋と道楽のための建築カテゴリーが違うんだよ

まあ大衆車と高級車ってことだね

燃費が」「エアコンが」「日当たりが」とかいケチ人種は大人しく建売買えばいいの

小金があるなら「狭小住宅」が上手なその辺の建築家に頼んで建ててもいいね

安藤だって自分で住むならマンションが一番合理的と分かっている

あとコシノ邸はあの一枚ガラスの長さにホエーと感心してればいいの

国立競技場の件はザハ案を推したのは安藤忠雄鈴木博之だと思うけど、ほかの人を説得したのは間違いなく鈴木博之だね

高専卒の安藤東大教授に就任させたのも、首相官邸ハイテックモダンにしたのも鈴木博之の影響力だよ

鈴木博之東大紛争で最後まで立て籠った人間で(最後は逃げたけどな)、当然全部「確信犯」なの

安藤は人を説得できる人間ではないから恫喝はできそうだがな)、あまり過大評価するとよくないな

この件は鈴木博之死去という事情安藤が矢面に立つことになるのかも知らんが、実りある議論にはならんと思う

2014-06-02

http://anond.hatelabo.jp/20140601144453

当方デザイナーですが、ご友人の言うことは半分は正解、半分は間違いと思います

>やっぱり図面を引いてこそ建築

これはそうですよ。どんなに立派な構造計算や、どんなに辻褄が合った予算があっても、それはそこに住んでいる人の生活にはまったく関係ない。住んでいる人にとっては、内外装や使い勝手こそが生活の一部だし、そこに直接関われるのは設計者だけ。

>人が書いた図面を見てるだけでいいのか

でも、設計者は構造設計予算の人がいないとまったく役に立たない。だから「だけでいいのか」という発言を本気でしているなら、そいつ認識おかしいと思う。でも、旧友だから発破をかけてるだけかもね?

建築に関わる人を母数として、設計以外に携わる人の方が圧倒的に多いからコメ欄は「積算大事」に染まるけど、「建築家デザイナーとして人々の生活に影響を与え、改善する」のが大きな目標なら、そんなヌルい奴ら相手にするな。上記の挑発に反射的に「腹が立った」と言っている増田は、薄々自分目標に気づいていて、でも今持っている「お金と余裕」を失いたくないから自分ウソをついている、ということとのジレンマの中で、旧友に対してでなく自分に対して腹を立てているんでしょう、という風に見えます

クリエイティブを追い求めて

小学生の頃から格好いい建物を眺めているのが好きだった。いつしかそんな建物自分も建てたいと思うようになっていた。気がつけば美大建築科を卒業し、アトリエ系と俗に言う有名建築家事務所の門を叩いていた。この時はまだ、漠然と、自分ができる限りの努力を続けていれば夢は自然と叶うものだと信じていたのだ。

同期はすごい奴らばっかりだった。某有名建築家の息子として将来をメディアにも期待されている芸大出の奴。東大建築科を出た、1を聞いて100を知るような奴。また、何も建築家はこの事務所だけから出ている訳じゃない。同世代建築家志望の奴がコンペで賞を総ナメにしているらしいだとか、海外の有名アトリエ活躍しているようだなんて話は聞き飽きるほど耳に入ってきた。

俺はこの先、そんなチートしか思えないような奴らと勝負していかないといけないのかと思うと、目眩がした。

からこそ、どんなに低賃金でも、どんなにコンペ前に徹夜が続いたとしても、そいつらに追いつこうと働き続けた。俺が今まで積み重ねてきた努力、俺が今まで抱き続けてきた夢を簡単に見限るようなことはしたくなかったからだ。

先日、街でバッタ大学同級生に会った。奴は一端のサラリーマンみたいなカッコで、着実に社会人に成長したようだった。切り詰めた生活費で買った俺の服を見て、お前は昔のままだなと笑われた。立ち話も何なので、カフェに入り、近況をお互い話した。どうやら最近は一般企業である設計事務所積算をやっているらしい。本当は建築家になりたかったのだけど、世の中夢ばっかりじゃないからさ、なんて知ったふうな事を語っていた。

奴は、やっぱり安定した収入と、ある程度のやりたい仕事を両立してこそ社会人だという。クリエイティブを追い求めるだけが本質じゃないと。君はずっと夢を追って、いつまでも大学生の頃のような格好をしていていいのかとハッキリ言われた。ものすごく腹が立った。俺がどんな覚悟で、いつか一流の建築家として図面を引く日を夢見て努力しているか知っているのか。ついつい、口をついて、夢を諦めた奴の嫌味になるような言葉が出てしまった。

帰り道、俺はなんだか虚しい気持ちで帰路についた。この道はどこまでも険しい。そんなことは言われなくても、自分が一番よくわかっている。

つまるところ俺は、夢を諦めきれないのだ。諦められないから存在するかすら分からない栄光未来のためにこうして身を粉にして働いているのだ。奴の言うことは限りなく正しいと思う。世の中すべてリスクアンドテイクだ。そして、今の生き方はあまりリスクにまみれすぎている。

だけど、俺は今すぐに夢を諦めて一般企業勤めの安定した生活をとるかといえば、答えはNOである。たとえどれほど険しかろうと、道はまだ閉ざされていない。本当に無理だとわかる時、そのときまで全力を尽くし続ける。

いつか自分が早々に夢を諦めたことを後悔させてやる、見てろよ、と俺は去っていく同級生背中に誓った。可能性がそこにある限り、まだまだ頑張れる。

http://anond.hatelabo.jp/20140602130315

http://anond.hatelabo.jp/20140601144453

工学部卒のくせに金の計算がどうしても苦手で、

無理を言って設計やらせてもらっている。

はじめは張り切って仕事をしていたけど、

やがて鬱になって長いこと心療内科に通った。

最近ふと思いついて大学サークル同窓生の名前検索したら、

可愛い奥さんと子供と一緒にローカルニュースに取材されてて、

その就職先で取得したらしい特許が数件ヒットした。

進学校だった高校同窓生には建築雑誌によく登場する有名建築家

海外権威ある賞を受賞した音楽家伝統工芸世界

将来を期待される若手芸術家もいる。

三十も後半になって、自分は何も手にしていない。

毎日機械図面と格闘している。

彼我の差に愕然とする日々

2014-06-01

http://anond.hatelabo.jp/20140601153249

美大建築家ではデザインしか学ばないと思ってんのか…

そもそも建築工学土俵に上がって来たのって近代以降だろ

歴史的蓄積は美術畑の方が大きいはず。

はてなー自称理系きめえ。

クリエイティブになりきれず

僕は美大建築科を卒業して、設計事務所就職した。美大建築というと、皆アトリエ系という俗に言う有名建築家事務所へ行き、弟子になるのが一般的なのだが、僕は奨学金もあったし、普通に社会人になったらお金も欲しかったので、一般企業である設計事務所へ。

同期は工学部ばかりだったので、美大卒の自分意匠科に回してもらえるとばかり思っていたのだが、実際に配属されたのは積算科というお金部署毎日毎日人が書いた図面を見て、幾らになるか電卓を叩く日々。初めの頃は絶望しかなかった。上司意匠に何とか入れないかとは相談したけど、聞き入れては貰えなかった。

だけど、僕の今の部署でも、お金観点から設計意見することは多々ある。予算がなければ建築は建たないのだ。これだって立派な設計の一部だと、最近では思う。

社会人になって、僕はお金と余裕を得た。美味しいお酒やご飯もいっぱい覚えた。広めの部屋に住み、好きなインテリアをそろえ、美味しいコーヒーを嗜んだりする。いわゆる”大人”のイメージに、少しずつ近づきつつある。僕は今の自分暮らしに満足して居る、はずだった。

先日、街でバッタ大学同級生に会った。彼は大学生みたいなカッコで、あの頃となんら変わっていなかった。スーツ姿の僕を見て、お前は老けたなと笑われた。立ち話も何なので、カフェに入り、近況をお互い話した。彼は院を卒業後、有名アトリエ事務所で、身を粉にして働いている。大変だけど充実してるよ、とキラキラした目で語っていた。

彼は、やっぱり図面を引いてこそ建築だという。本質はそこにあると。お前はずっとそこで、人が書いた図面を見てるだけでいいのかとハッキリ言われた。ものすごく腹が立った。僕がどんな思いで、今の部署で折り合いをつけたのか知ってるのか。でも、根性なしの僕は言えなかった。

帰り道、僕はなんだか虚しい気持ちで帰路についた。僕は図面意匠の人たちの何倍も見ているし、お金を出すためには技術と知識がいるので自信もある。自分部署があることで、より適正な建築が生まれるとも思っている。

つまるところ僕は、図面を引くことだけが建築ではないと思っている。彼の言っていることは、とても狭い意見だとは思う。だけど彼に強く反抗し意見できなかったのは、自分仕事に満足出来てないのか。クリエイティブな事をやれてない自分への言い訳に過ぎないのか。そんな考えも、よぎってしまった。

だけど、僕は今からすぐさま設計をしたいのかといえば、答えはNOである。今の仕事もそれはそれで奥が深く、今のままではまだ表面を撫でているだけにすぎない。僕はもう少しこの部署仕事をし、お金観点から建築をつくるプロになる。

設計けがクリエイティブで頂点だと思ったら大間違いだぞ、見てろよ、と僕は去って行く同級生背中に誓った。残業だらけで辛いが、もう少し頑張る。


◼︎追記

たくさんのブコメトラバありがとうございました。

決意のつもりでめちゃくちゃに書きなぐったので、コメントをたくさん頂けたことに、ただただ驚いています。一つ一つ大事に読んでいるうちに思わずロリとしてしまいました。笑 厳しいご意見も受け止めます

こんなにカッコ悪くあがいても建築から離れられないのは、僕はやっぱり建築が好きで、虜なんだと思います。世の中に、適正な価格の素敵な建築が一つでも増えるよう、精進いたします。

◼︎追記2

完全に蛇足だけど、もう一つだけ。

僕がなぜ積算部署に回されたのかは不明だけど、設計勉強をしていたので設計者の意図が痛いほどわかるときがある。工法や収まり予算上無理だけど、こういう形にしたくて、それはこの材料を使うからそそうしたいんだよね、と分かってあげられる瞬間は多々ある。出来るだけ設計者の意図を汲みつつ、お金を納めるようやりくり出来るのは、難しい半面結構楽しい。作り手の気持ちのわかる人になりたいな、と思うよ。それにはお互いの尊敬必要から、僕も人間的にもっと成長しなくては。

2014-05-12

http://anond.hatelabo.jp/20140512211405

妄想か、なりすましわからんけど、売れっ子イラストレーターでも年収1000万円いかないよ。

でも、月収10万円の人は腐る程しってる。デザイン系は最高峰建築家ですらそんなもんだ。

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