「一般」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 一般とは

2024-06-09

ADHDは「いったん置いておく」ということが出来ない

一般に、ADHD衝動性のコントロールが苦手だと言われている。

目先の欲に弱いので遠くの目標ではなく直近のご褒美に惑わされがちだし、身近なストレス我慢できないので問題をすぐに解決したがる傾向にある。

他人からすると「いったん置いておけばいいのでは?」という案件で何かしら必死に苦しむのがADHDだ。

これを解決するには投薬である程度の症状が緩和されるが、ADHDの半数は薬が効かないと言われているので、効かなかった場合必死自己対処するしかない。

いずれにせよ初動は医師への相談ベストだ。

https://anond.hatelabo.jp/20240606113439

anond:20240609130929

空間認識の弱さは、運動不足に起因してい場合が多い。

1.子供の頃、家の中で遊ぶことが多く、外で遊ぶ(運動を)ことをしていなかった。

2.学生時代運動部に所属していなかった。

3.大人になってから特に体を動かすことをしていない。

上記にすべて当てはまるようならば改善する可能性がある。

その方法運動すること。

単純にただ走ったり、自転車に長時間乗る、などの行為改善される場合が多い。

子供時代から極端に運動が不足=運動に関わる神経や脳細胞が発達していない人

などは大人になってから運動でいわゆる運動神経を成長させることが出来る。

人間運動に関わる能力空間把握能は深く関わっていて、一般運動神経を発達させるほど空間に関する認識も向上する。

これはもちろん元々のプリセット能力によって変化するものなので子供の頃から外遊びをしないような人でも空間把握に優れた人がいる。

また、その逆も真である

しかしながら、上述の三項目を満たすような人ならば、運動神経の発達により改善する場合もあるのでワンチャンある。

ただ、極端に運動不足な人が運動神経を発達させるにはかなりの運動時間を取らなければならないと推定される。

週末に1時間程度、走るくらいでは全く足りないはずだ。

20240609[アタック25]Next 2024年6月9日 #115 麻雀好き大会 2024-06-09結果

6月16日11:55から

 

BSジャパネクストで日曜昼などに放送

日曜日の本放送だけ1時「25」分から

BS1からボタン2回(今だけ?)とか

ケーブルテレビSTBでは見られない場合があるようなのでBSパススルーとか

地域によってはSTBで見られるようになったかもしれないので最新情報確認

つながるジャパネットアプリ放送同期・見逃し配信あり

 

今日の答え(放送とは表現が異なる場合があります

・01 [ある人物名前]萩原聖人 はぎわらまさと

・02 […とも呼ばれる]あんず

・03 ドナルドダック

・04 [麻雀問題]菊池寛 きくちかん

・05 8月1日

・06 [四字熟語空欄]三色同順 さんしょくどうじゅ

・07 伊達朱里紗 だてありさ

・08 ダブル(リーチ

・09 [一般問題]あざとくて(ごめん

10 [近似値]329

11 山田耕筰 やまだこうさく

12 宮城(県

・13 [すべて]ジョージ・ワシントン ジェファーソン リンカーン セオドア・ルーズベルト

・14 200(ミリグラム

・15 紅海うかい

・16 宮本恒靖 みやもとつねやす

17 70(歳

・18 ME:I ミーア

・19 ゼノン(のパラドックス

20 [ふるさとクイズ][山形県山形市]電車

・21 [国]チリ

・22 藤本タツキ ふじもとたつき

23

24 熊本(県

・25 『僕が)ラオウ(になる日まで』

・26 10(パーセント

・27 [AC]ケストナー

28 [アルファベット3文字]MBA

・29 [3択]十(万キロメートル

・30 福本伸行 ふくもとのぶゆき

31 糸(へん

・32 ファジーネーブル

・33e 鈍(角 どん(かく

飯田和也 横倉ちか子 山本篤 大橋華子(仮)

CM(再) キューティクル

・xx [ある元素名前]カリウム

[]

また彼は人生に対する快楽主義的な姿勢が持つ欺瞞性理解していた。

先の戦争以降、西洋思想ほとんど全て、特に進歩的思想は皆、人類は安楽、身の安全苦痛回避以上のことを望んではいないと暗に仮定していた。

こうした人生観においては、例えば愛国心軍事的美徳といったもの存在する余地はない。

兵隊人形で遊ぶ我が子を見た社会主義者普通不安に駆られるものだがブリキ兵隊の代わりを思いつくことは決してできない。

どうしたわけかブリキ平和主義者ではその代わりにはならないのだ。

自らの喜びなき精神によって並外れて強くそれを感じ取るヒトラーは、

人類が欲するのは安楽と安全、短い労働衛生状態避妊一般化して言えば常識に適ったもの

それだけでないことを知っているのだ。

少なくともときおりは闘争自己犠牲、そして言うまでもなく太鼓と旗、忠誠を誇示するための行進を人類は求める。

経済理論としてはともかく、ファシズムナチズムはどのような快楽主義人生観よりも心理学的にずっと堅固なものである

書評 アドルフ・ヒトラー著「我が闘争」 ジョージ・オーウェル

https://open-shelf.appspot.com/ReviewOfMeinKampfByAdolfHitler/chapter1.html

anond:20240608044855

精神科医だがこれが参考になるとかブコメで言われまくっていて流石に心配になったのでコメントをいれておく。ここの「躁鬱」が躁うつ病とも呼ばれた双極性障害/双極症のことじゃなくて一般用語としての(病気固有名じゃない、状態に関する名前としての、精神医学で使うことばじゃない)「躁鬱」であって、かつ読者もそれを理解してるなら以降は無視してください。あくま医学的な情報の整理で、それ以外の部分についてどうこういう話じゃないし、もともとの増田(この投稿言及先の言及先)からほとんど無関係だ。

「鬱はぐったりと元気のない精神病。気弱な人がなるもの」と思っていたが、実際は「些細なことにイライラしがちな人がなりやす病気で、イライラと元気のない状態を繰り返すもの(=躁鬱)」だ

私見ですが、精神医学用語はこれに限らず用語としての意味からずれて用いられることも多くて、ただまあ情動とか行動は多くの人間にとって興味がある/表現必要があるものから、それを精神医学専門用語として独占するべき(他の使い方は”間違ってる”といえるような)根拠もあるとはいえいかなとは思うので、悩ましいところ。躁うつ"病" とか 双極症とか、後から定めたような病名を使うときちょっと定義を気にしてくれたらいいかな。

おまけ:これはもう我々のほうが諦めるべき使い分けだというふうにも思うが、一応精神医学文脈では精神病は psychosis の訳語として使われることが多くて、精神疾患 mental/psychiatric disorders とは区別されます

anond:20240609115941

医者の5ちゃんこと、m3掲示板もっとヤバい

ネットの医クラこそ一般医師の質と思った方がいい

まともな医者は超貴重

宿泊者信用情報

ちょっと全国宿泊施設大手予約システムで協力して信用情報データベース作ろ

クレカの信用情報運転免許ゴールドくらいの個人情報で信用のあるやつ

そんでその個人情報広告利用しないやつ

宿泊時に施設側に情報開示OKした場合、開示者のみ一律一泊100円値引き、開示結果優良宿泊者であれば『円滑な運営に協力している』ということで宿泊費値引きや素泊まりプランでも朝食券もらえるとか、○円までのアルコールまたはソフトドリンクプレゼントとかコインランドリー無料券とか。施設側で出せる「ちょっと」が分からんのでユーザー目線での「ちょっとお得」案で申し訳ないけど。※割引券(開示者が追加で金出すのが必須のもの)とかもは本質から外れるのでNG

あとはお高いセレブリティホテルには一般か優良宿泊しかまれないみたいな制限あってもいいと思う

ブラックリスト運用必要だけど、ホワイトリスト的なこともあっていいと思うんだよね

友人が施設側になるべく迷惑かけないようにチェックの時間守ったり汚れ物やにおい物を持ち込まないようにしたり忘れ物チェックが厳しかったりゴミ箱に入らないゴミは持ち帰ったりする感じの人なので、そういう人が施設側に優遇(歓迎)されるといいなという気持ち

anond:20240609103229

残念ながら、正確な詳細情報や具体的な背景については明確な答えを持ってはいませんが、一般的分析提供することはできます

孫子言葉を借りれば、「知彼知己、百戦不殆」(彼を知り己を知れば、百戦して殆うからず)というように、事態を深く理解するためには、関係する各方面の状況や背景を理解することが重要です。

政治的経済的影響力の違い:

ゲーム業界ゴルフ業界のいずれも影響力を持つ業界ですが、その影響力の質と範囲は異なる可能性があります。例えば、ゲームセンターやカラオケは若年層など幅広い層に影響を及ぼすため、利用税が取り下げられたのかもしれません。

社会的認識の違い:

兵者、国之大事、死生之地、存亡之道、不可不察也」(兵は国の大事、死生の地、存亡の道、察せざるべからざるなり)というように、戦略選択社会全体の影響を考慮しなければなりません。同じように、社会全体の認識価値観の変化も、政策に影響を与えるでしょう。例えばゲームカラオケは手軽な娯楽として広く一般に受け入れられているのに対し、ゴルフは一部の層に限定されるため、税金を維持する理由があるかもしれません。

財政理由

「勝兵先勝而後求戦、敗兵先戦而後求勝」(勝つ兵はまず勝ちてしかるのちに戦い、敗兵はまず戦いてしかるのちに勝を求む)というように、財政的に安定を目指すために最適な選択をする必要がありますゴルフ場利用税は、特定高額所得者層に支えられており、財政的な収入源として維持することが有効だと判断された可能性もあります

具体的な背景や理由政府政策決定過程公式の発表を通じてしか完全には理解できませんが、上記のような観点から考えてみると、一部の要因が絡み合っている可能性があります

2024-06-08

anond:20240608114733

式の後の食事会に家族とか不確定要素を呼ぶのがわからん

すごくわからん風習のある地域なのか、なんもわからやんやつの想像での釣りか?


披露宴と書いてないから身内だけの小さな式(ご飯とかないほんとに小さなやつ)+食事会で、昔の結婚式って感じか、プランナーも残ってるし

てかそんな規模でプランナーついてくるんだ

三次会一般でいう二次会)がキャッチにひかれてか…

で、カラオケ……


今の時代結婚式知らんけど、高校生が考えた みたいな感じになってるなぁ

一時金勿体ないし家族うざいか夫婦だけでこじんまりとか気の合う友人だけで みたいな規模と

家族だけでひっそりみたいなのがごちゃっと混ざったんかねぇ

まあでも式を神前教会わからんけど飯食えないところでやったらこの流れになるか

親族カラオケというのがほんまにわからんけど

 父(阿部寛さん)   :ホイコーには・・

娘(稲垣来泉さん)  :この濃ゆいタレを受け止める

    2011年に生まれた13歳の稲垣くるみ阿部寛の2大出演で、 平和一戸建て家庭で、米とホイコーローをむさぼり食べるというような鋭利過激コマーシャルっていうんですか

   それが、6月6日に東京で出したということです。ただの予想ですが、東京には、AIで、顔が変わっているブサイクが多いので、ブサイクでも、AIイケメンになっているとき犯罪しかしていないので

   平和一般家庭という完全無欠なものを想定し、鋭利過激議論をしてそれをコマーシャルで出した場合に、クックドゥーが、話の趣旨が分かりかねるのですが。コマーシャルはとりあえず見たって

   言ってんだよ。それで、どういった層がみているのかは分からない。延岡市の富美山にも普通家族女性は住んでますけど、AIが解除されてないと出て来ないので、その人が、AI強制で寝ている

   とき機能してないときにそれを流されてもね。 前野町1-43-5の高橋功さんの家から人が出てきたのを見たことがないんですよ。そういえばここには夫と妻がいましたわ。でも、クックドゥーとか

   を食べているかどうか、家の中のことなので、それを見る能力はない。2年前からいるんですけどね、ここに、この高橋という家の中の人が何してるかなんて分かったことないんですわ。

anond:20240608110246

男向け(とされる)一般漫画が、実際は女読者からの支持も得られないと人気が出なくなったので

キャラも女ウケ考えて作るようになったのに対して

いやコレは半分違うだろ。

女ウケする男キャラを考えて作るようになったので

あって、女ウケする女キャラを作ってるわけではない。

東大生の親は金持ちというのは本当か?

まずは元ネタを見てみよう

東大生の親の年収「1000万円以上」が40%超、世帯収入が高い家庭出身の学生が多い理由 | from AERAdot. | ダイヤモンド・オンライン

東大学生委員会が21年3月実施した学生生活実態調査によると、「東大生を支える世帯年収」が1050万円以上と答えた学生は42.5%に上る(学部生全員が対象調査回答者東大生12.6%にあたる約1700人。そのうち「わからない」と回答した学生を除く)

 

東大学生委員会の調査(N=1700)によると世帯年収1050万円以上と答えた学生42.5%

それでは東京一般家庭はどうだろうか?

 

都内の共働き世帯増加、4割が年収1千万円以上…東京都調査 | リセマム 

世帯年収グラフ (東京福祉保健基礎調査)

世帯年収は「1,000万円以上」が38.5%を占めた

「半数は年収1000万円超」東京23区で激増した子育て世帯の懐事情 「豊かになった」と歓迎できない理由:東京新聞 TOKYO Web

総務省就業構造基本調査])

半数近くの48.6%が1000万円を超えていることが大和総研の是枝俊悟氏の分析で分かった。世帯年収を順番に並べた真ん中の値を意味する中央値は986万円。

 

東京都と総務省調査でややずれがあるけれども、どちらも東大における世帯年収割合とほぼ同じだ

別に東大生の家庭が特段富裕層というわけではない

単に共働き世帯が増えた結果世帯年収が激増したということだ

世帯年収に関しては世代格差が大きいようだ。つまり

 

高齢者世帯年収1,000万なんて富裕層だ!」

若者世帯年収1,000万は東京ではだいぶ普通です」

 

という話。東大の親は普通だった。

少なくともダイアモンドオンラインの示した数字からは「東大生の親は富裕層である」とは読み取れない

もうちょっと世帯年収を再分化して調査しないとわからないと思う

 

もちろん、お金のあるほうが有利だろうしある程度の傾向はあるだろう

でも「東大生の40%超えが富裕層」と思っているならそれは間違いだ。世帯年収1,000万はもはや富裕層ではないのだから

最初期の警察24時系番組はかなり酷かった

テレ東警察24時が遂に終了との事だが、これ系の番組の初期はまぁ本当に酷かった。

1990年代の後半あたりに始まったのだが、なにぶんにも報道の訓練も体制もない部署下請けが撮るので問題だらけの映像をそのまま流してしまうというトンデモ状態

番組終了の理由撮影時間が掛かる事、時間掛けても空振りのことも多くてそれで無理をして捏造的な場面を作ってしまうなどが挙げられていたが、まぁそうだろうね。

 

悪を断罪!という図式

最初期の番組兎に角撮影側が警官と一体になりナレーターで悪を断罪」というモチーフで撮られていた。

このモチーフの元はズバリ時代劇だろう。「この紋どころが目に入らぬか!」「余の顔を見忘れたか?」「おぅ、この桜吹雪が全てお見通しなんだよ!」と悪を断罪悪人は「へへぇ!」と平伏して視聴者カタルシスを得る。

 

だが警察24時で映しているのは近代法支配する現代日本である

もう一つの問題はそんなに判り易い事件は起きないという事だ。フィクション遠山の金さん将軍様も数日~数週間に亘る地道な取材や潜入捜査の末に処断してるのに、複雑な現代社会で偶然舞い込んだ事件をその場で処断できるわきゃない。

そこでやはりというか、一番多い交通事故処理を撮影するのが専らとなる。そしてその交通事故ナレーションで「断罪!」してしまうのであった。

例えば首都高で3台ほど絡んでしまった事故処理であれば、「スピード違反が招いた悲劇である!」という風に。

地方の人や免許がない人には判りずらいだろうから説明すると、首都高というのは大部分が60キロ制限になっている。だがこの速度を守って走っている車というのは皆無なのだ制限速度が遅いのは高度成長期に低い規格で作ったためで仕方がない。道路規格によって制限速度の縛りがあるので自動的に60キロとなってしまうのだ。

それで直線区間では全部の車が速度違反して走っているという状態になっている。路線バスでさえ守っていない。

そこで事故が起きたら警察は原因の一端に速度違反を挙げるのは当然で、それが主原因とは言えないわけだ。

なのにほぼ意味のない断罪ナレーションを被せてしまう。

 

これ以外の事故でも「確認の不注意が招いた事故であった!」とナレーションが次々に断罪していくのだが、事故の原因なんて複合的で、事故処理の警官確認遺漏で後からひっくり返る事もあるし、その為に当事者はかなりの労力と時間を使う。それをその場のノリだけで断罪しまくっていた。当事者が見たら憤怒間違いなしだ。

 

警察犯罪行為善意放送

当時、日産スカイラインGT-RBNR32型)という車種を出していて、これはアウトバーンでも300キロ出る、ガチで早いスポーツカーだった。

そこで交通機動隊や各県警の高速道路交通警察隊がGT-Rパトカーを導入した、というのが車好き向け媒体のみならず一般ニュースでも取り上げられていた。「GT-Rから逃げられない、という威嚇効果も大きい。

 

そこで当然のように24時のカメラマンは高速隊のGT-Rの後部座席に乗り込む。すると通報が入り、現状へと急行するGT-R景色は飛ぶように流れ、速度計は190キロを指している。国産車ECUエンジン制御コンピュータ)のリミッターカットだ!

…という映像を流した。

 

ところで道交法上の緊急自動車最高速度というのはご存じだろうか?一般道では80キロ高速道路では120キロである。但し例外があり、速度違反者を追尾計測するパトカーはそれ以上出しても良い。そうじゃないと速度違反検挙できないからね。

この高速隊GT-Rは追尾計測中ではなくて臨場する為の緊急走行であるから190-120キロで、70キロ超過となり、赤切符+一発免停で、刑罰も6ヵ月以下の懲役又は10万円以下の罰金となる。現行犯人だ。

別に増田パトカー消防速度違反して緊急走行していても構わんのだが、証拠映像電波に乗せて流してそのままで済むわけがないな。

報道畑じゃ無い奴がカメラ持って取材の真似するといこういう事をやるというリスク典型例だし、後ろでカメラまわしてるのにマッドマックス1のインターセプターみたいだろー的にアクセル踏んでRB26DETTをぶん回してる警官もアレだし両者色々アホすぎるとしか言いようがない。

 

警察24時系の元祖モンド映画に続くショッキング映像

ドキュメンタリというのは今では真面目なものだが、昔はいい加減で捏造まみれのものだった。ディズニーが『白い荒野 』というインチキ動物ドキュメンタリ映画で、レミングスは増えすぎると入水自殺する、というインチキ映像を撮る為に崖の上からレミングをポイポイ放り投げて殺していたというのが有名だ。

60年代に『世界残酷物語』という、エログロインチキドキュメンタリ映画がヒットすると、次々に同じような映画が作られ、エスカレートしていった。世界残酷物語原題は『Mondo Cane』なので、この手の下世話なインチキ映画モンド映画と呼ばれるようになった。

最初世界習俗と題して未開部族残酷処刑残酷儀式でっち上げものを繋げていたのだが、やがて観客の「リアルな死や本物の死体が見たい」という欲求に応えて、事故暴動で実際に人が死ぬ映像を繋げたショッキング映画が作られるようになった。因みに実際の映像だけでは尺が足りないのででっち上げインチキ処刑シーンとかも紛れ込ませているのが多い。

 

やがてモンド系もショッキング系もTV番組化するようになる。モンド系のインチキ成分だけを掬ったのが『川口浩探検隊』などだ。ショッキング系は苦情が来る事を恐れ、人体が千切れる場面や脳が飛び出すシーン等はカットして直前で映像を途切れさせたり、人体破壊の瞬間だけカットして死体を映すなどの手法が取られた。番組名はそのまま「ショッキング映像100連発」等。

たこれら番組には顕著な特徴があり、必ず番組最後消防隊や救急隊の訓練シーンで終わる。基本的に下世話な欲求に答える番組であって、その後ろめたさを誤魔化す為に取ってつけた映像を入れるのだな。

 

警察24時系も必ず最後に交機の訓練映像で終わるであろう。つまりはモンド~ショッキング系の系譜に則ったフォーマットなのである正義行使カタルシス時代劇から番組ターゲットが野卑な欲求ではないかとの疑問はモンド系の〆映像フォーマットで誤魔化し。それが警察24時系の構造だった。

 

因みにこんな取ってつけたような訓練映像付加手法だが、それを見て正義だと考えるリテラシー人間ちゃんと居るのだ。今ニコ動が全部落ちていてURLを貼れないが、ニコ動には例えばアメリカ精神問題がある人間刃物を手放さず警官隊に射殺される、というようなショッキング映像があるのだが、それには映像最後に州警察の訓練風景を入れてある。単に事件現場で殺人映像が撮れただけなのだが、モンド系フォーマット最後に訓練風景を取ってつけると正しさが保証されると考えているのだ。あれを本気にする者もいるというのがモンド系ドキュメンタリ的でありますな。アメリカに赴任してて厨房の心根は侵されずと言ったところか。

 

結局モンド系が内包する問題で倒れる

警察24時系は結局モンド番組なのだが、元のモンド系が虚実入り交じりのインチキ映画だったのは製作費と製作日数の問題でもあった。真面目なドキュメンタリは撮るのに時間が掛かりすぎて一部の意識高いしかみてくれないからペイしない。だから人目を惹くエログロインチキ映像を撮る。

警察24時も最初期にかなり問題になった筈だ。同乗させてもらった警官免停とか色々だ。すると地道に長時間警察に同行するしかない。歩留まりが悪くなる。しか映像パンチが無い。

ヤクザ事務所ガサ入れとか映像的にパンチがある事件はある。でもそういうのはマジな方の報道部門が呼ばれてモンド系バラエティ取材班は呼んでもらえない。カメラ持ってても素人なんだから報道マン暴力性に負けてゴミ扱いされて追い出されてしまう。

そんな状態視聴率上げようとしたら数多のワイドショーやらかしたように捏造っぽい方向に行っちゃうのは仕方ないね

 

んでもこの手の番組培養してしまった視聴者は「報道番組がモンド系と違う」ので報道を信用しなくなり、「川口市クルド人傍若無人治安崩壊!」とか「安芸高田市市長論破!」というショート動画クリックしてモンド系の毒に身をうずめるのでした。なんつーかペニシリン必要だな。

 

警察24時の初期は無茶苦茶だったぞーという話でした。

願いの形

私が守るのはあなたの命でも感情でもない

ただただ、あなた自律性と自立性、すなわち尊厳を冒さないように、侵入しないように自らを自制する事だけだ

 何事も報いられぬこの世に……神も仏もない、血も涙もない、緑地も蜃気楼も求められない沙漠のような……カサカサに乾干びたこの巨大な空間に、自分空想が生んだ虚構事実を、唯一無上の天国と信じて、生命がけで抱き締めて来た彼女の心境を、小生等は繰り返し繰り返し憐れみ語り合っております

その大切な大切な彼女天国……小児が掻き抱いている綺麗なオモチャのような、貴重この上もない彼女創作天国を、アトカタもなくブチ毀され、タタキ付けられたために、とうとう自殺してしまったであろうミジメな彼女の気持を、姉も、妻も、涙を流して悲しんでおります

隣家の田宮特高課長氏も、小生等の話を聞きまして、そんな風に考えて行けばこの世に罪人はない……と言って笑っておりましたが、事実、その通りだと思います

 彼女は罪人ではないのです。一個のスバシイ創作家に過ぎないのです。

単に小生と同一の性格を持った白鷹先生……貴下に非ざる貴下をウッカリ創作したために……しかも、それが真に迫った傑作であったために、彼女は直ぐにも自殺しなければならないほどの恐怖観念に脅やかされつつ、その脅迫観念から救われたいばっかりに、次から次へと虚構世界を拡大し、複雑化して行って、その中に自然彼女自身破局構成して行ったのです。

 しかるに小生等は、小生等自身の面目のために、真剣に、寄ってたかって彼女を、そうした破局ドン底に追いつめて行きました。そうしてギューギューと追い詰めたまま幻滅の世界へタタキ出してしまいました。

 ですから彼女は実に、何でもない事に苦しんで、何でもない事に死んで行ったのです。

 彼女を生かしたのは空想です。彼女を殺したのも空想です。

 ただそれだけです。

夢野久作少女地獄――何んでもない」


そう、正に「何事も報いられぬこの世」なのだ

理不尽に産み落とされ、苦しみ喘いで生きていき、恐怖と後悔に苛まれながら果てていくような、

そんな地獄が、現世には顕現している

「もう無理なのに ですか?」

「後でできないと 知ったら余計に 傷付くんじゃ…」

「そうかも しれません」

「でも 亮介君の 生き方は 亮介君に 決めさせて あげたいんです」

病気で 苦しんでいる この瞬間だって

「彼の 人生ですから

――子鹿ゆずる/大槻閑人「アンメット-ある脳外科医の日記- 第二巻」より

 友田は、折々に「ブライアン氏」が「真空」、すなわち、独りの状態になる必要があると言及していることに着目しました。対するセラピストは、その度に、中立または否定的に、これに応じていますセラピスト理論上は、非指示的であり続けましたが、一般西欧セラピストと同様、孤独状態もしくは真空状態治療効果について非常に熱心だったわけではないようです。

 友田の見解では、「人間というものの真の飛躍もしくは成長は、完全に一人ぼっちであるときに生起する。個人の飛躍もしくは成長を確かなものにするのは、何らかの人間関係においてか、もしくは現実の世の中においてである。がしかし、真の成長がおこるのは、現実人間関係においてでもなければ現実の世の中においてでもない」

 友田はさらに、「このことはまた、禅の真理である。(中略)カウンセリングに関して言えば、ロジャーズ派の技術の真義は、それらの技術がクライエントを援けて完全に一人ぼっちである状態になるようにすることである。」と続けます

―中略―

 母性的尽力的配慮相手を甘やかしたり、子ども扱いするものですし、父性的訓育的配慮相手支配したり、奴隷化するものしかないわけです。第三自我形成期(第三反抗期)を超えてレベルⅢの人格に到達することは、本人にとっても周りの人々にとっても、大変難しい困難なことでもあります

――新しい科学194「レベルⅢへの到達方法(続き)」



「人」ができることは、本当に少ない、殆どない

神でも仏でもならざる我々の手や腕は、あまりにも短く細い

半径85cmの範囲ですら「すくえない」のが、我々という生き物の現実なのだ

から、できる事は祈り、願い、目の前にいる相手を「人」として扱う事だけなのだ

「物」ではない、「人」として

それは非常に難しい

生きていることは素晴らしい、働くことは凄い、人に優しくできるのは偉い、頑張っている人は美しい

「善い」とされる価値観でこの世界は満ち満ちている

それに沿って生きる事が善いとされる

苦しんでいるなら無理をしなくてもいい、休んでも良い、人にはできないこともある、人にはそれぞれの価値観がある

「やさしい」言葉がある

これも、また「正しい」のだろう

けど、何もかもに納得できないまま生きていくこともある

何が正しく、何が善く、何が良いものなのか分からずに、それでも人生が続いてしまうことがある

「裸も」

「裸を飾ろうとする 人間自由さも醜さも 全て愛しいじゃない?」

――山口つばさブルーピリオド 第5巻」

今思えば、いつかこうなってしまうと、はじめから解っていたのだと思う。

でも、もし駄目になってしまうとしても、その前にゴールに駆け込むことさえ出来れば、何も問題が無いとたかをくくっていたんだ

ゴールはまだ見えない。あの頃想像していたより、僕たちは長生きしすぎてしまったんだろう。

一時停止ボタンなんかどこにもなくて、力一杯全部を出し切った、その瞬間に都合よく存在が消えてなくなったりもしない。疲れ切ってしまって、戦う気力なんか全然なくなって、勇気と書き棒とか自分を守ってくれるものが全部失われてしまって、映画だったら「終」とテロップが出るような場面が過ぎても、生活は続いてしまう。けして止まらない。

そこからが本当に人間が生きるということなのだろうと、最近はそう思ったりもする。

ドラマが終わって、興奮から冷めて、何も心を守ってくれなくなって、これからもっと大変な毎日が続くだろう。でも、どんなに苦しくても、心が死んだようになって、痛みも喜びも何も感じることが出来なくなってしまって、何をしても無意味に感じられて、もうダメだと思っても、諦めないで、自分に耐えて、もう少しだけ頑張って欲しい。

さなころに見ていた者は、まだ何も知らなかった時代まぼろしなんかではなくて、いまでも見ることが出来るずっとそこにある変わらないものだった。辛くなるからって無理に忘れてしまわなくても良かったんだ。僕は気がつくのが遅すぎた。必要ものを、自分で隠していたんだ。でも、こんな僕でもまだすべてを失ったわけではなかった。

世界残酷で恐ろしいものかもしれないけれど、とても美しい。

思えば、そんな事、僕らは最初から知っていた筈なんだ。

時間が過ぎて、僕の事は忘れてしまっても構わないけれど、僕が今ここに書いている言葉のいくつかをときどき思い出してくれるなら、それより嬉しいことはない。

追伸。今までありがとう

出来る事ならば、誰も憎まないで生きてください。

――瀬戸口廉也CARNIVAL


正しくないことは悪いことだったのか?

それでも正しさを追い求めたり、苦しむことは悪いことだったのか?

諦めたり、やっぱりあきらめきれないことが悪いことだったのか?

諦観し、悟りを開いたりすることが悪いことだったのか?


神とは、人智を超えた存在なのだという

善悪果実を植えておきながらも、そこから取って食べてはならないとも定める、矛盾したことにすら正しさを与える存在であったという

から最後は祈るしかない

どうか、本当の幸いを与えた給え

ああそうです。ただいちばんのさいわいに至るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです。

――宮沢賢治銀河鉄道の夜

やはり、人口の半分ぐらいは家政婦をやるべきじゃないだろうか?

もう辞めた会社の話だが、俺は生活指導をやらされていた。(NDAとまではいかんくとも、念の為に若干はぼかす)

職場にいくつかの「◯◯委員」のようなものがあり、たとえば「オヤ部長」とか「宴会部長」的なヤツのもうちょい面倒なバージョンだ。

たとえば、健康診断の成績が悪いと「スポーツ委員」が昼の体操ちゃんやらせてるのか運動習慣はつけているのか談話室バランスボールを買ってやったが使っているのかと詰められるわけだな。

俺の担当生活習慣だったが、仕事の大部分は「臭い指導員」だったと思う。

普通の神経ではなかなか指摘できないし、された側もイラっとくるような臭いについての話を「組織がね、やれって言うんだ。君もあと10年したら課長係長ポストと一緒にこういう役目がついてくると思ってくれ」みたいなオーラを出しつつやらされていた。

臭い指導過酷だ。

いい大人がいい大人に「柔軟剤匂いかな?エイトフォーちょっとキツいぞ。洗剤の量をちゃんと守ったり、無香料の物を使ったほうがいいかな」と指摘する権利なんてあるのかといつも疑問だった。

梅雨の季節に生乾き臭のする奴に部屋干しなら扇風機を使えと言ったり、オキシクリーンの回し者になったりするわけだ。

ワキガがキツい奴のためにデオドラント商品の選び方を調べたり、食生活についていくつかの頼み事をしたりだよ。

あんまり臭いとね。やっぱ職場全体の雰囲気がね。そうなるとね、仕事を頑張っても評価かにね」とわざわざ俺の口を通して言わされるわけだよ。

しんどかった。

なんで「体臭キツイのに深夜ラーメンニンニクシマシしてんじゃねーよ」をやんわりオブラートに包んで社会人に指摘させられとるねんと。

思うんだがな、やっぱ専業主婦専業主夫というのが必要なんじゃないだろうか。

仕事拘束時間が長すぎてみんな家事が疎かになってる。

家事を専門でやってくれる人が必要だ。

共働きの家庭ならハウスメイド的なのを雇うようにするべきじゃないだろうか。

なまじっか専業主婦一般化したせいで日本という国から家政婦の文化が失われているように思う。

パワーカップル年収2000万円あっても家事は全部自分たちでやるという人達インターネットで見かけるがあれは非効率じゃないだろうか?(本当にいるのか?時給5000円の人間洗濯掃除を?と思うけどこの話題には便利なので乗っておく)

専業主婦専業主夫というシステム夫婦の力関係的に歪になりやすいのは分かる。

家電が発展してハウスサービス需要介護にばかり集中しているのも分かる。

プライベート意識が強くなって赤の他人に家の中弄られたくない人、伴侶であっても趣味の部屋を触られたくない人、色々いるのも分かる。

だが、現代社会で求められるレベル家事を働きながら両立するのはしんどいだろ。

家電の力でなんでも自動化されたと言っても、洗濯機や乾燥機ちゃんと使おうとすればどうしても人間管理必要になるし、何の知識もない人間やらせれば漂白剤か洗剤の片方しか入れずにやってハンガー吊るしでめちゃ臭になる。

つうかなんで皆こんなに働いてるんだ?

全然仕事が減らないの不思議すぎるだろ。

どうなってるんだ?

anond:20240604225337

体重は後から減らせるからどうでもいいと言うのが世間一般意見なんだよね

吉川ばんびさんって機能不全家庭育ちらしいし、

気の毒だけど性被害経験が多いのはそういう生育歴のせいもあるんじゃないの?

虐待された子供は他の子教師から虐待されやすくなるとか、

実家が太いとセクハラに遭いにくいとか、

一度DV被害に遭うと次の彼氏からDVを受けやすいとか、

割とよく聞くじゃん

女性に限った話じゃなくてジャニーズ問題の時にもそういう話題は出ていた

勿論当人が悪い訳では全くないけどさ。

日本で女に生まれるというとこうなる、という一般化は出来ないと思うんだよなあ


https://bunshun.jp/articles/-/62966?page=1

日本で』『女に』というクソデカ主語を用いているから、それに当てはまらない女性から違和感を持たれて当然なのに。

小さい子を狙う痴漢大勢いると言っても、全員が全員被害に遭うって訳ではないじゃなし。

この人の経験あくまで、この人が特に美人で狙われやすいゆえの経験であって、世間一般女性が必ず同じ目に遭ってる訳じゃない。

特にナンパを断る時に気を遣わねばならないってのは謎。

まあ私はそもそもナンパに遭った事がないけれど。

ナンパ?っつーかキャッチに遭った事ならあるが、怖いので走って逃げたし愛想を良くするという発想がなかったよ

何つーか、女なら全員体験してて当たり前みたいな言い方をしたら

そりゃ反発を食らって当然なのに、それをセカンドレイピスト呼ばわりするのはどうなのよ

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.com/bambi_yoshikawa/n/n7035883b5e2e

横浜トリエンナーレへの批判を読んで(前半)


文字数制限にかかるようなので、前後に分けて挙げます。)


前置き


第8回横浜トリエンナーレ野草:いま、ここで生きてる」がこの土日で終わります。私も見に行って、なかなか面白く思いました。ところが友人によると、SNSでは批判の声が多いそうですね。あまりそういうものは見ないようにしているのですが、友人がその場で例を見せてくれたので、ついいくつか読んでしまいました。そのとき感想は、ひとことで言うと「批判者の言うことにもわかる点はある。でもキュレーターはそれなりによくやっていたと思うし、今回が最悪だとか、他の回に比べてどんどん悪くなっているとか、そんな気はしない」ということでした。そこで友人といろいろのことを話し合ったのですが、今はそれを思い出しながらこの文を書いています


今回の展覧会には魯迅の『野草』という短編集が深く関わっていますが、魯迅は「おおむね、折にふれてのささやか感想を述べたに過ぎない」と述懐しています岩波文庫竹内好訳『野草』の解説)。魯迅感想短編集『野草』を生み、『野草』がこの展覧会を生み、この展覧会が人々の感想を生み、そしてその感想がこの感想を生みました。もしこの感想を読む人がまた新たな感想もつならば、それで満足です。


人は物事に触れて感想を持つものだと思いますSNS批判の中にも、「これは感想にすぎない」というような留保をつけるものがありました。感想自由にあるべきと思います。そして、感想を読んだ感想というもの自由にあるべきでしょう。今はくだんの批判を読み直さず、またあまり調べものもせずに書いていますが、不十分なところはどうぞ悪しからずご理解ください。これは「論」ではなく、「感想」のつもりです。


野草』と「文の国」


今回の展覧会の特徴は、「作品」と「意味」のバランスを探る点にありました。多くの作品は、ただ「見て楽しむ」ものではなく、「意味を考える」ことが求められるものでした。そのバランスキュレーターの側でうまく作れているか、そして鑑賞者がそれをどのように読み解くかがカギになっていたと思います


今回のテーマは「野草」というのですが、その裏には魯迅の『野草』という著作が密接しています。これは展覧会中にも幾度となく示されており、魯迅の『野草』の本も展示してありました。この本は「二十四篇の短文から成るものですが、「スタイルはまちまちであって、詩あり、散文あり、また即物的もの追憶的なもの観念的なもの象徴的なもの風刺的なものなどが入り混り、内容形式ともに多傾向」なものとなっています岩波文庫竹内好訳『野草』の解説)。この本は意味があるようで意味がない、意味がないようで意味がある、詩のような文のような、芸術のような政治のような、一種独特雰囲気をもった作品集です。


これを読んでから展覧会を見渡すと、「キュレーターたちは横浜美術館を一冊の現代版『野草』にしようとしていたのではないか」ということに思い至ります


そう考えると少し納得できる点もあります。それは「文」への偏重です。友人は次のように話していました。「私は今まで、展覧会作品を見ればよいと思っていた。作品を見ずに解説ばかり読む人があれば、本末転倒だと考えていた。つまり言葉を軽視していたのだ。ところが、今回の展覧会では作品の多くに意味があり、その意味キュレーター解説を読んで初めてわかるようなものが多かった。入口にはタブレット文章が並べられ、その左側の階段の上には本を並べた一角もあった。さらには猟師へのインタビューがあったり、詩が作品として出ていたりと、言葉への重視が目立った。」


しかし、これは考えてみればさほど奇妙なことではありません。ふつう、広く「芸術」 (art) と言うときには「文学」を含みますし、「美術」 (fine art) というときでも「詩」を含むことがあります。「芸術」は「造形芸術」に限られたものではありません。もちろん、ただの書籍文章が「芸術」と言えるのかどうかは議論余地がありえますが、言葉芸術距離がそう遠いものでないことは確かです。


さらテーマの「野草」が魯迅の『野草』に由来するものであることを考えると、今回の展覧会の裏地には文学がぴったりと張り付いているような気がしてきますキュレーター中国出身であるということから、なんとなく心のなかに「文の国」という言葉が浮かんできました。三千年の歴史をもち、科挙試験にも詩が課され、書という芸術をいだき、詩文文字芸術でないなどと疑ったことのない文化の国のイメージとともに。


作品との対話


いっぽう、日本一般に「芸術」というとき、それは詩文を容れえないほど偏狭ものなのでしょうか? 批判の中には「文」への偏重に対する疑問もあったように思います。そのような人々にとっては、あたか展覧会からあなたの思う芸術とは何ですか?」という問いが投げかけられたような恰好になっているわけです。


では、「芸術アート)」とは何でしょう。批判する人たちの中には、自分にとって「美しくない」「面白くない」から芸術アート)ではない」と断じたい人もいるようです。でも、現代アートは「美」への問いかけを含むものではないでしょうか。デュシャンの「泉」などはまさにその代表だと思います。また、「芸術」における「言葉」といえば、シュルレアリスムと詩の関係だとか、20世紀初頭の芸術家たちがしちくどい宣言を次々と打ち出したりだとか、いろいろと思い当たることはあるはずです。そういうところに「美しいもの芸術なのか?」とか「言語表現芸術無関係か?」といった問題ゴロゴロと転がっているわけで、簡単に「これは芸術だ」「これは芸術じゃない」と判断できるはずはありません。その人たちの考える「芸術」は、どのくらいの狭さなのでしょうか。


鑑賞者は芸術に触れるとき、常に戸惑い、「作品の受容」ができない事態に直面する可能性をもっています。そのような時こそ、自分の中にある固定観念を見直す機会かもしれません。今回、批判したくなった人が多かったということは、それだけ作品からの「問い」を受けた人が多かったということでもあります。そうなると鑑賞者は、やっかいなことですが、自分の回答を練らなければならなくなります批判ひとつの回答ですし、その回答に満足せず、さらに新たな回答を考えてもよいわけです。陳腐な言い方ですが、「作品との対話」が必要展覧会であったと言えるのでしょう。


友人はまたこうも言っていました。「かつては『現代芸術抽象的すぎて何が描いてあるかわからない』という時代があり、その後に『現代芸術は難しくない、何も考えずに作品面白がろう』という時代が来て、それはひとむかし前まであった。でも、それが終焉すべきときに来たということかもしれない。今は言葉時代なのでしょう。考えずして何が現代芸術か、ということになっている。地味でつまらなかったといった批判もあるようだが、休日ちょっと芸術に触れてみよう、子ども芸術に触れさせてみよう、デート美術館に行ってみよう、特に『何も考えずにただ作品面白がろう』と期待した人にはつまらなかったかもしれない。」


しかに、昔からの(または昔ふうの考えをもった)現代芸術の鑑賞者の中には、「芸術とは面白がるもの」という考えから抜け出せず、新しい潮流に戸惑う人がいるかもしれません。「金を払って楽しみに来た」という手合いには、気の毒だったと言えるでしょう。しかも来訪者への間口は大きく広げられていたので、そのようなミスマッチを生むしかけは念入りに準備されていたともいえます。今回は横浜美術館改装後の久々の展覧会であり、規模も大きく、宣伝もあって、多くの人を誘い込む要素がありました。そのような場で横浜美術館は「人を面白がらせる」展示をすることもできたはずです。しかし、実際には「人を戸惑わせる」展示を行いました。だからがっかりした人も多かったのでしょう。


私も「キラキラ」な楽しい芸術が好きです。だからそういうものが多いと嬉しいし、その逆ならばがっかりします。しかし、美術館の目的には「レクリエーション」もありますが、決して「レクリエーション」だけを目的とした施設ではありません。今回、美術館はこのような大規模の展覧会で、作品との「出会い」と作品からの「問いかけ」を提供し、人々を「戸惑わせ」てくれました。その意味で、美術館はよくやったと思うのです。「キラキラ」な楽しい回があってもよいし、「地味」な考える回があってもよい。美術展はそういうものだと思います


過去トリエンナーレ


ここで、ちょっと過去トリエンナーレを振り返りたいと思います


私が初めてヨコハマトリエンナーレに訪れたのは2011年の第4回「OUR MAGIC HOUR ――世界はどこまで知ることができるか?――」でした。この年は東日本大震災の年で、印象としてはとにかくキラキラと輝くような回であったということです。震災後の混乱をアートがどう扱うか、芸術家の間でもまだ折り合いがつかずに、ただ思いつく限りのことをやってみたといった印象で、宝箱の中の宝石をぶちまけて転がしてあるような、たいへん魅力のある回でした。私にとってこの回は「よい」の標準になっています


2014年の第5回「華氏451芸術世界の中心には忘却の海がある」もたいへん期待したのですが、この回は言ってみれば「地味」な印象で、まだ青かった私は「ハズレ」だと感じました。しかし、友人はこの回も面白かったと言っています。この回は「忘却」がテーマで、戦争中に作家芸術家がいか体制側に立ってはたらき、戦後その責任もとらず、反省もせずに「忘却」したかということを、当時かれらが執筆した文章を並べて示していました。このころには震災後の政権交代脱原発などの流れの中で、世の中を動かすのは「政治であるという意識が出てきていたためかもしれません。


2017年の第6回「島と星座ガラパゴス」は、博物館の表に救命ボートがびっしりと張り付けられていました。「ネトウヨ」に関する展示もひとつふたつあったことを覚えていますが、これもきわめて「政治的」でした。長期化する安倍政権さなかにあって、政治右傾化懸念されていたことも影響していたのでしょうか。(「政治性」の話は、後で少し触れたいと思います。)


2020年の第7回「AFTERGLOW――光の破片をつかまえる」は久々の「当たり年」でした。2011年に次ぐキラキラの再来です。入口から光り輝くカラスよけのCDのような装飾、メビウスの輪のような形をした光り輝く金属の骨組み、巨大な腸を模した造形、赤いカーペットをひいたでこぼこの「道」映像作品「遅れてきた弟子」、そのほかここでは言い尽くせないもろもろの楽しい展示の連続


きっと第7回が初めてのヨコトリ体験であった方々は、2011年の私が次回に期待したように、第8回にも「キラキラ」を期待したかもしれません。しかし、べつに横浜トリエンナーレは「キラキラ展」ではないので、地味な回もあるのです。その意味で言えば今回はやや地味だったかもしれません。しかし「地味」には「地味」なりの「味」があるものです。今回はその意味で「ふつう」と「よい」の間くらいと感じました。決して「悪い」ではなかったと思います


いわゆる「政治性」


今回の展覧会が悪かったという人の中には、展示が「政治的」だという人もいたようです。もちろん、芸術政治であることの何が問題なのかとか、政治生活と密接なものである以上は程度の差こそあれ政治的でないものなどありうるのかといった疑問も出てきますが、今回の展覧会を見て私が感じたのは、むしろいわゆる「政治性」の薄い部分があることでした。キュレーター中国出身の方ということなので、もしや特に日本のために配慮(手加減)したのではないかという疑いさえ感じました。


しかに、今回の展覧会ではヨーロッパ戦争に関連する展示や国粋主義者移民反対デモ映像が展示されていました。それがひとっところに固めてあるのではなく散らばしてあったのは、この会場をひとつ世界見立てて、このような出来事遍在していることを忘れてはいけないと示したようにも見えます


そのデモ映像ひとつを見ているときでしたが、後ろを通りかかった人が「ヨーロッパ、壊れてんな」とつぶやきました。まことに然り! だがそれを言えば日本だって「壊れて」いるのです。日本でも人種差別デモが行われていますヘイトクライム危険もあります。「人種差別」がわたくしたちの身近にあることは、ネットを少し覗いてみればすぐわかることです。


思い返せば2014年2017年はかなり「政治的」な展示があったと思いますしかし今回、キュレーター日本問題ひとつも指摘しませんでした。日本美術展が国粋主義的主張をもった人々の抗議で中止に追い込まれ事件もそう遠い昔のことではありません。日本美術表現自由にできない国です。キュレーターたちは日本に気をつかってくれたのでしょうか? それとも日本で波風を立てて攻撃されることを恐れたのでしょうか? それとも今の世界を広く見たときもっとも新しくもっとも重い問題にしぼってとりあげようと考えたのでしょうか? それは知るよしもありません。もっと自由表現への危機は(またすこし違った形で)キュレーターたちの出身である中国にもあることでしょう。展覧会中に示されたように、ヨーロッパ安全ではありません。世界じゅうで似た現状があります


しかし、日本が名指しで批判されなかったからと言って、日本が許されたわけではもちろんなく、これらの作品なかに普遍性見出し、これを「鏡」として日本の現状を見ることが求められているのだと思います。それらの作品が見るに堪えない現状を示しているとき、それに怒っても意味がないでしょう。それは鏡をヒョイと覗き込んでみて、「ああ醜い! 私の美学に反する。美はいったいどこにある?」と怒るようなものです。


ところで、批判者の中には展覧会のこのような政治的な「傾倒」や「変質」がここ10年や20年の変化だと振り返る人もいますが、私には展覧会なかにその説明があったように思われます。今回の展覧会は、これも魯迅の『野草』をテーマとしているためかもしれませんが、歴史を強調するものが多くあり、あるところでは史料紹介の様相すら呈していました。木版画をめぐる日中交流史の展示では、魯迅木版画という簡易で複製可能芸術を通じて、民衆文化を届けようとしていたことが紹介されていました。これは「芸術」が一部の特権階級のものではなく、民衆のためのものであるべきではないのかという問題を、当時から現代に向けて投げかけなおした一面もあると言えるでしょう。また、皇国史観へのアンチテーゼとしての縄文土器や、学生紛争撮影した写真が展示されていたのは、芸術政治問題が降って湧いたものではなく、日本でも半世紀以上にわたって連綿と続いている問題であることを示していたと思います


(後編へ続きます。)

https://anond.hatelabo.jp/20240608093350


2024-06-07

anond:20240607143200

理想たけぇー物事そんなに上手く働かないんだから

生活レベルを下げるしかないんじゃない?

長男小学校三年生くらいになったら、次男と2人で留守番させてお昼ご飯代1200円を机において勝手コンビニとかで買ってもらうとかさ

母親パートで、父親パチンコ行ったり競馬行ったり楽しそうだったよ。

最近世間一般からするとダメ親父なのかもしれないけど、親たちの精神は保たれるよね。

中華スマホゲー強い

ブルアカ一般女性名前で、下の名前がみんなカタカナから判りやすいし打ち込みやすいんだよね。FGO変な中二ネームばかりで本当に打ち込んでてキツイ。変な漢字ばかりだし。

名前の時点ですでに差が付いてるもん。そりゃ中華スマホゲーに勝てる訳ねえわなって思う。

統計で話してるときに「自分の周りに」とかやめろ

数字持ってこい。こう言う奴がノイズになって統計ベース政策がすすまねえんだよ。

その傾向が実際にマクロとして現れているのか、それとも自分思い込みかを統計当たって調べてから一般しろ

頂き女子りりちゃんマニュアルというのは、極めて恋愛工学的な発想で、実践の中からまれボトムアップ理論により構築されており、効果も高かったわけだ

それはおぢから金を搾り取るという目的最適化されていたわけだが、人間関係コントロールして、リスクを軽減しながら目標を果たすための技術だったわけだけど、おそらくチューンアップ(ダウン?)すればもう少し汎用的な使い道もある

一般的な交友関係恋愛を、道義的問題がない範囲でこなすための、りりちゃんライトマニュアル改訂して一般書籍として販売すれば、一山あるで

業務用のUIと、一般用のUI絶対に違う

なんじゃこりゃ

https://zenn.dev/nobkz/articles/46d25288a3727e

 

小脳レベル使用できるUIと、大脳レベル使用するUIがあると思う

前者は学習コストが高いが速く自由自在に使える、後者学習コストが低いが誰でもすぐ使える

業務用のUIは時には前者を目指すべき時がある

最近は圧倒的に後者が幅を利かせていて、業務を非効率にしているシーンが多くある

 

前者、後者で違うところは多いが、特に違うのは、アクションをした時の結果がいかに固定されているか

専用の画面・ボタンが沢山用意されていて、常に同じ結果を返すならば、非常に安定したUIになる

ただしそれぞれどういう結果をもたらすかを覚えるのに時間がかかる

後者にとって良いのは、今必要な画面・ボタンのみを、必要なだけ用意することだ

これは分かりやすいんだけど、配置も沢山変わるし、複数回実行した時にどうなるかというのが曖昧だったりする

なんなら、実行して、結果を見てようやくアクションが正しかたか判断できるようなUIも多い

 

こういう後者向けのUIを前者に導入すると当然オペレーションが遅くなったり、ミス不明な結果につながる

(許されるのは、全てが基本的自動で処理され、結果や判断のみ人間がする場合、この場合後者でよくなる)

 

前者で一番わかり易いのが飛行機コックピット

あと、券売機なんかも最近後者になりつつあるよね、前者でいいのに

前者はちなみにハードウェア親和性が高い

今は「ボタンを何回押すかで結果が変わる」みたいなものも多いか後者になりつつあるけど

テレビリモコンとかもね、今ポインターやらせたりするよね

 

こういう、スマホ以降に幅を利かせているUI信者がちょいちょいいてビビる、というかきつい

スマホ画面でさえ、前者の考え方が重要なシーンは沢山あるのに

「よりシンプルに、ボタンを少なく、インタラクティブに」を目指しすぎて、複雑さを押し込めた結果使いづらくなっているUIが沢山ある

それ誰が実装すると思ってんだ、ほんとくたばってほしい

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん