はてなキーワード: まぁことは
「孫は良いよぉぉぉぉ!可愛がるだけでなんの責任もないし無茶苦茶可愛いんだから」
と期待値のハードルを上げまくられ、実際めっちゃ楽しみにしてたんだよね。
うーん…
あー…
ぜんっぜん可愛いとか思えねぇ。
まぁ赤ちゃんだからしゃぁねんだろうけどさ、別に面白いこと言う訳でもないし、会話が成立しないことに苛立ちしか感じねぇ。腹減ったり気分悪かったら泣くしかアウトプットがねぇ。何なら笑いもしねぇ。何だこれ。名前呼んだって返事する訳でもないし、付けた意味あんのかこれ。
そしてくせえ。風呂に入れた直後以外は常に汗くせぇかうんこくせぇかの二択。ウエットティッシュとかで拭いてやってもくせえ。そもそもがくせぇ。触りたくもねぇ。ヨダレで常に手とか口元とかくせぇし汚ぇし。
娘の旦那とかが気に食わないとかじゃない。寧ろ好青年で大好きな部類。
娘が産まれた時はここまで嫌じゃなかったんだけどね。何だろう。会話が成立する頃には可愛いと思えるようになってんだろうか。
まぁこの接し方で孫に俺が好かれる訳が無いからその頃にはもう遅いんだろうけども。
なるたけ本心は隠してるけど、嫁や娘は俺の本心を薄々見抜き、どんどん離れていっているのを感じる。
それはそれで何となくいい具合だ。
40代も後半に差し掛かり、性欲その物が薄れて嫁に求められるのが苦痛に感じていたし、何より不衛生極まりない赤子に触れずに済む。
もうこの先誰とも関わらず生きて行けたらどんなに幸せだろうか。
Twitterで自分がフォローしてたクリエイターがインボイスに反対してて引くとか言ってた増田がいたけど
寧ろ俺は今回の件でそういうオタクかつネトウヨみたいな連中がイキってる事の方に引いた
例えばこういう奴らとかがタイムラインに沢山湧いててうわっとなる
https://twitter.com/ewaldkun/status/1706365935261716542
寧ろそれを当然の様に馬鹿にしてるオタクネトウヨ共の方が何なのって話
無断駐車に対して、法律上の正攻法でいこうとすると時間もかかってしまうし、お金もかかってしまうし、相手方からそれが回収できる見込みも決して高くない。
自分だったら、自分の駐車スペースに無断駐車された場合、その車に徹底的に嫌がらせをする。
ドラレコがついてないか確認して、ばれないように細心の注意を払いながら、ありとあらゆる嫌がらせをする。
ドラレコがついている場合でも、変装して顔を隠してやればばれない。
無断駐車したやつが自分に抗議してきたら、知らぬ存ぜぬで通す。「いやぁ最近このあたりで車にいたずらされるケースが結構あるんですよねぇ」とかいってとぼける。無断駐車したやつが裁判起こしてきても自分がやったということはどうせ立証できやしない。
反対に無断駐車したことについて駐車料金をその裁判の中で請求する。
メンバーは俺妻娘年長年長の3人。娘の推しはバタフライとスター。
序盤のアクションシーンでおぉー頑張ってるねぇ!作った人ありがとう!とアガる。
全体的に過去プリキュアへのオマージュとか、初代へのリスペクトとか、そういうお約束があって、イイね!と思った。お約束って好きやんな、みんな。歴代プリキュアは見てなかったけど、娘と一緒にアマプラの東映アニメチャンネルで大体のプリキュア見てる。娘氏も元ネタとか多少は気がついたかな。この映画をしっかり焼き付けてから、今までのプリキュアみるとより理解が深まるかもなー。と、思いながら娘氏をちらっと見ると、ポップコーンに夢中。集中力切れたか?まぁこんなもんか。俺は映画館自体が久々だったので、音響とかもいいなぁとか、そういうのの再確認もしてた。たまには一人で映画見に行くのも良いかもな。でもやっぱり家のソファーの方が広くて良いや。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20210810181919
https://web.archive.org/web/20210810225700/https://anond.hatelabo.jp/20210810181919
原著の刊行は71年、当時の部落解放同盟書記長の中山氏とともに長野県内の被差別部落の古老たちを訪れて聞きとり調査したもので、現代よりずっと差別が苛烈で激しかった時代や大正デモクラシーの波にのった解放運動の記憶もまだ生々しく覚えている人が多く、本当に大変貴重な証言ばかりだった。
(まず基礎知識ですけど、部落をよく知らない人はなんとなくイメージで、関西にしか無い、関東は関係ないと漠然と思っている人が多いみたいですが(私もそうでした)葬儀や処刑人、農村で使ってる牛馬の解体処理など死に関わる仕事(ケガレの仕事)全般を請け負っているので、基本的にどこにでもある(最北端は旧松前藩あたり、最南端は奄美大島らしい)。私も北海道には存在しないと思っていたが間違いのようです)(被差別部落の中でも同和事業を適用される同和指定地区をうけなかった地区も多いのがこのような認識を生んだ理由でしょうか)
この本はまず信仰の話から始まるんだけど極貧の生活のためか日頃より信仰心が篤いのに死んだら畜生と同じ埋葬方法で墓が作られても墓地の北側の日のあたんねえ所とか、雑で差別的な戒名つけられたり、それでも檀代は一般(部落外)より高い額ふんだくられてたりもうさんざんで、序盤からひどい話ばっかりなんだけどこのあともひどすぎてこれがジャブ程度に思えてくる。長野といえば教育県を掲げているけど部落民は一般と同じ学校に行かせてもらえない、行かせてもらえても徹底的なイジメが待っている、教師すら[チョオリッポをチョオリッポと呼んで何が悪い]と差別に荷担する。さらに生活苦ゆえに家の仕事を手伝わなくてはいけないといった理由も加わってまともに学校通った人の方が珍しくて、聞き取り対象の老人のなかにはいまだに文盲の者も少なくない。それから公衆浴場も別々で回り風呂といって運搬が可能なお風呂が部落じゅうを回ったりしてたらしい。ケガレの仕事だけでなく、今でいう巡査や牢屋の見張りのような危険な仕事を押し付けられたり、農家の手が足りないときだけ日雇い従事したり季節労働をやったり等収入が安定しない..
もう要するに公権力が徹底的にそうやって差をつけている。また、同じ人間であると思わせないためか、部落民は睾丸が四つある、あばらが足りない、血の色が違うなどいわれのない身体的特徴をでっちあげられてそれを理由に侮蔑される。今でこそ誰もが馬鹿馬鹿しいとわかるけどこんなことが真剣に信じられていたんである。
それから今でこそ同和事業で部落のインフラが整備されて、見かけは一般と変わらない町並みになり、住民の流出・流入が容易になり、その結果元々部落だったと知らずに引っ越してきてずっと知らない人などたくさんいるけど、明治の末ごろの話だけど比較的裕福だった部落の老人が一般の大通りに家を建てたら村じゅう大騒ぎになって、
村役場が主導して執拗な嫌がらせを開始。果ては物理的に家ぶっ壊されて(!)老人は訴訟をするけど村役場が殺し屋を差し向けてきたり費用の問題などで訴訟断念するしか無かったらしい。役人が殺し屋を雇う???????????????? ???????
明治といえばその初頭に四民平等令、部落解放令がやっと出た時代なのに..この解放令ってやつもうほっとんど意味なくて、差別は続いて、でも以前は免除されていた税金が一般と同じように徴収されるようになっていっそう生活が苦しくなっただけらしい..てかまじ、体制側が一市民に殺し屋を差し向けてくるとかまるでフィクションの話みたいであまりに信じがたくてここ読んだとき一日くらいずっとポカーンとしてた。殺し屋て…殺し屋て..明治の末とかって歴史上からみたらほとんど最近じゃん 最近の話じゃねえか ひでえやばすぎる。どーなってんのよ
どこそこの地域が部落みたいな程度の浅い知識ならネットでちょこっと調べれば出てくるけど、こういう具体的な差別事例ってこんなふうに本でも読んで能動的に調べないとわからないんだよね、、まぁこういう時代からは随分ましになったとはいえいまだに部落の人にたいして暴言吐く人、差別する人はゼロにはなってなくて、全然過去の問題じゃないんですけど、同じ部落の人のなかでも[部落問題を知ってほしい][寝た子を起こさないでほしい、学校なんかで教えるから差別が再生産されるんだ][もう差別なんかないんだからほっとくべきだ]とさまざまに意見が分かれていて人間だから当然と思う。
でも悲惨な歴史にふたをして忘却してしまうと過去の人々の苦しみまで無かったことになってしまわないか?というのと、現代の人間が過去から教訓を得られなくなってしまう、それと苦しみだけでなく部落にも豊かな文化と生活があり、(著者は部落の文化遺産と呼んでいたが)文化そのものも葬られてしまう。そういう理由から、現在の、部落の[ぶ]の字すら言ってはいけないようなタブーの空気はいやだなと思うので積極的に気軽に部落の話をするようにしてる。
でも後述するけどこのタブー化が差別の緩和に繋がったわけで、でもそれを加味してもやはりもうそろそろタブ一の段階は終わっていいだろうと思う。
私は部落民ではない女性なんで女性差別にしか興味がありません。主にどうして被差別部落がここまで差別を打破できたかの部分に興味があって調べておりその歴史に女性が差別に対抗するすべを学べないかとそう思い何年も前からあれこれ勉強しています。
はっきり申し上げておきますと部落差別より女性差別のほうがひどい。上記にあげたような苛烈な差別事例を知った上で言うことです。その理由のひとつに無徴の存在である部落民に対して女性は有徴の存在であり、部落差別から逃げるために素性を知られてない遠方に引っ越すという手段もあり実際多くの人がそうしていたようですが、女性が女性であることから逃げる手段は自殺しかありません。
(当然、無徴ゆえにだれも[被差別部落][部落民]とはなんなのかをはっきりと定義できないゆえに権力側に恣意的に身分を決められていた歴史もあるでしょう。それも知っています。でも、なお..なのです。ちなみに、部落民とは一般と先祖やルーツが違う別人種なのではと思う人もいるでしょうが、一般人でも部落民になったりするし、どうもそのへんあいまいというかはっきりしていないようです。本書には、とある部落民にむかって自分たちは先祖が同じだ]と言った一般民がいたという証言もあります。差別の根拠など全くないのです。さらに言うなら死にまつわる仕事がケガレというのも恐らく権力が恣意的に決めたことがし、ケガレの仕事ではない、たとえば内職などしかしない部落民も沢山あってケガレともイコールで結びつかないのです。)現在進行形でさ女は毎日女ってだけでなぐられ殺され犯されおとしめられてんだよ
家から一歩出るだけで醜いおっさんがジーロジロ品定めここから逃げる手段ないんすよ
女性の参政権だってGHQの鶴の一声であって日本の男はんなもん女に与えてくれたこと無いんですわ
すいません話それました!
国を動かしての解放令発布でもやむことがなかった差別が現在ここまで緩和されもはや部落問題を全く知らない人も多くなった、その主たる理由はやはり水平社(のちの部落解放同盟)の強硬な、時には暴力的な闘争姿勢によるものだったのではと思います。著者の柴田いわく、長野のなかでも東信地方は寒風が吹きつけてひどく底冷えがする地域で、昔から気骨のある男、気性の荒い男が多く、それが東信で水平運動がさかんだった理由ではないかと分析しています。逆に寒さがゆるやかな地域では[寝た子を起こすな]の論調が強かったり水平社よりも穏健だった同仁会がさかんだったらしい。でも同仁会も交渉の場では「水平社の連中よぶぞ]が殺し文句だったらしく虎の威を借りてたとか..そして水平社と同仁会、歴史に名を残したのはどちらかというともうこれは言うまでもありません。ふだんから竹槍の戦闘訓練も行い、武力闘争も召さなかった水平運動こそ歴史を変えた。彼らが起こした暴力事件の仔細はネットでも簡単に読めます。部落民は乱暴だ、奴らは犯罪者だといった風評も辞さない徹底的な闘争で、部落は怒らせると怖いと、部落がなんなのかよく知らない人すら何となく感じて、アンタッチャブルな話題だと感じる。タブーだと思う。その空気を牽引したのがテレビ等マスメディアの徹底的な自主規制でしょう。部落解放同盟ににらまれたら厄介だという理由で前述のように部落のぶの字も出さない、触らぬ神にたたりなし。先日もエタヒニンと発音しただけのアイドルが活動自粛に追い込まれたけどそういう過剰なまでの自主規制が、差別の存在そのものを透明化した。長い間メディアは頼まれてもないのに四本指の表現すら自主規制していた。
そのような、暴力や脅迫で勝ち取った自由の歴史を勉強していると、心底彼らがうらやましく、やっぱり権力もなにもあてにならずとにかく徹底的に相手に恐怖という根源的感情を植え付けて支配するしか対抗の方法は無いのかなと思ってしまう。なんだかわからないけど女性差別問題は怖いから少しでもセクハラと誤解される表現は自主規制しよう、万が一表に出てしまったら即座に責任者の首とばそう、そんなふうになってくれたらいいのにと夢見て泣きそうになります。
しかしながら水平運動に加わった男たちがそこまで暴れることができたのも男という性別ゆえかなと、同時に諦念を抱きます。
女はやさしさや思いやりといった(あえて言いますが)宿病をかかえています。それは先天的なものか、それとも後天的なものか、両方だろうか?とにかくフェミニストを自称する人たちすら、女性は優しくなければ、人の気持ちが分からなくてはという教条に縛られているので、そういう人たちと肩を並べて武力闘争が可能かどうかはあやしいものです。ねえ、やりすぎは良くないよやめよう、とお目目ウルウルのいい子ちゃんが必ずまざってしまい男たちはそのすきをついてくる気しかしません..
この本書のなかにはある村の一般の村長が出てきます。彼は比較的リベラルで、部落の子でも学校に入学できるようはからったとのこと。そのせいで彼は妻の実家の敷居をまたぐことを拒否されるなど反発され、水平社の者も彼のそのような行いを知っててもそれでもダメな所は徹底的に糾弾したので、「両方から突き上げ食らってもうさんざんだ]といったことを自嘲してるんですけど女性たちも同じように全く糾弾の手を緩めないってことが可能かと考えると難しい。
痴漢の手に安全ピンぶっさそうという(本来痴漢は殺されてもいいくらいなのだから穏当すぎるくらいなのに)呼び掛けにすらいい子ぶりっこがそういうのよくないよとたしなめるしまつ。
繰り返すけど殺されてもいいのに。
やさしさというのは女たちが生まれつき体に埋め込まれた起爆装置なのだろうか?差別に抗戦しようとした瞬間、それは作動し、女の体は爆発四散するのでしょうか?
この本の巻末、作者の生前の夫だった人による復刊によせての解説で言及されてた2014年の長野県連続差別事件がやばい。部落民の女性に対して、真ん前に引っ越してきた男が差別語連発で罵倒するのをやめない。裁判所から禁止令が出てもやめない。逮捕されても執行猶予で、けっきょく彼が万引きという別件で再逮捕され収監されるまでの2年間なにも解決しなかったそうです。
昔も今も権力なんてなんのあてにもならないどころか被差別階級にとっては敵でしかないんじゃないのとますます不信感がつのります。2014年とか最近じゃん昨日じゃんか
みんな本気で、ハッシュタグ(笑)だのツイッターデモ(笑)なんかで女の現状が救われるとおもってんのかな..こんなのなんにもならんってうすうす気づいてるんじゃないかな。男に殺される女が一人でも減るかそんなんでって思う。やってる感だけ得られたらいいんすか? けっきょくレベルを上げて物理で殴るしか無いんじゃないのか。それもわたし一人がやったところで社会的にインパクトないから組織だってやるしかないけど、以下ループ
水平運動の男たちは献身的に支えてくれる妻がいてそれで運動なりたってた部分でかいと思うけど女には妻おらんのですよな~
暴力ができないならせめて男がみんな自分に正直にホモ願望を解放してホモセックスし、抑圧している内的女性を現実の女性に投影するのをやめればミソジニー無くなって平和になると思うんですけど、でこう書けばホモは差別語だから差別はいけませんとかほざくぶりっこがフェミニズムの邪魔をしてくるのでもうどうしようも無いです! バーカ!ちんこ—
それで思い出したけど水平社=部落解放同盟は徹底したシングルイシューで在日朝鮮人を差別して反省しなかったり、男と女で日当に差をつけて差別してたという話も聞きます。イシューを抱え込まないことがやはり運動の成功の秘訣のひとつであったのかと感じますが女性は女性というだけでやはりシングルイシューではいけないといった脅迫をされます。色々な差別問題に敏感ではなければいけないような圧力にかかって、あらゆる差別に眉をひそめなきゃなんないあの感じ、全ての弱者のために涙しなきゃいけないような義務感、女だから聖母を求められてるんですよね。それもバーカ死ねでございます。女性差別以外知ったこっちゃねーでいいんだお
ところでこの本の作者柴田道子は童話作家で部落民じゃない一般です。長野市に引っ越してきて被差別部落と接触し、興味を持ち、この本を上梓したあとは狭山事件の被告のサポートに尽力、当該事件の本を執筆中わずか41歳の若さで急死したとか。
解説文でだんなさんが男社会のなかで女性としてうけていた差別があったから部落問題に熱心だったのでは的なことかいとるけどんじゃー女性差別問題に集中すればよかったのでは、女なら自分が当事者である女性差別問題に注力すればいいのに、しろよと思ったし、そうすべきだろがいすら思うんだが、そういった、正しくない女柴田の正しくない思いで発刊された、正しくない存在である力作のこの本によって後世の人間である私が歴史を知ることができたわけで、そしてこれは間違いなく後世に保存し読みつがれるべき大名著なんです!!!何が正しいか間違っているのか、どう思うべきか、どう行動すべきかって本当は一切なにもないのかもしれない。なのでフェミニストならこうすべきだ、こう思うべきだ、こう感じるべきだみたいな考えに固執している人はちょっと考え直したほうがいいな、正しいか間違ってるかなんて時代によって基準がぐにゃんぐにゃんで明日にでも真逆になるけど、なんか結果だけ見て、他人がジャッジしてもシャーナイつか、結局ね、なにかに汗かいて真剣にがんばったりさえして、懸命に生きさえすれば、それはもう…だれにも、文句は..まあいいや
知的障害障害を伴う自閉症の人の言語習得・コミュニケーション向上プロセスを見てると、
心理的安全性を担保して、自発的に話す・書くが重要に見えるけど、
家庭に問題がなく高等教育も受けていてもダメな人はダメだし、教育や親・環境に恵まれなくても得意な人は得意
まぁそれはそれとして、この増田(https://anond.hatelabo.jp/20230915180455#)はナナ読みしかしてないけど、
やろうと思えばやる能力があるのにしない人のハラスメントがどうたらって話だと思うよ
まぁこれ以前もやったよね
最近、取引先事業者さんたちからインボイスについてのお問い合わせを受けるようになって、いろいろ違和感を感じているので、メモがてら書き残しておくことにしました。
簡単な自己紹介をしておくと、私はしがない一会社員で、いわゆるクリエイターさんたち含め、いろんな事業者さんたちに、発注とか何とか、仕事を依頼している側の人間です。
ここからは、違和感の本体を探るために、いろいろ調べつつ記事を執筆していきますが、現時点での感想は、
です。
インボイスってのが「消費税に関する何か」だってのは社内研修受けたので何となく見えてきました。が、それにしてもめんどくせえ。
弊社は、当たり前のように遵法意識があるので、消費税をちゃんと納入している会社です(脱税はしてないはず、、、)。
で、今回のインボイス対応も、遵法意識のもと時間的、金銭的なコストをかけて対応しているようです。
とはいえ、意識があっても説明があまりないので、現場の人間には混乱しかないですが。
しかし、今になって、弊社含む発注側の会社が、そして何より我々窓口に立っている人間が、取引先事業者さんたちからやいのやいの言われる機会も増えてきました。
「クリエイターをもっと大事にしてほしい」「生活が破壊される」とかですね。
そんな中で、何だか違和感を持ったので、こうして情報や考えをまとめてみようと思ったわけです。
インボイスって何でしょ。私はちゃんと答えられません。当たり前です、よく知らないんですから。
じゃあ、目下絶賛仕事中ですけど、国税庁のHPでも見てみましょうか。エロサイトじゃないですし、怒られないでしょうきっと。
ありますねー。わかりやすいんだかわかりにくいんだかよくわからないサイト。
売手が買手に対して、正確な適用税率や消費税額等を伝えるものです。
具体的には、現行の「区分記載請求書」に「登録番号」、「適用税率」及び「消費税額等」の記載が追加された書類やデータをいいます。
<売手側>
売手である登録事業者は、買手である取引相手(課税事業者)から求められたときは、インボイスを交付しなければなりません(また、交付したインボイスの写しを保存しておく必要があります)。
<買手側>
買手は仕入税額控除の適用を受けるために、原則として、取引相手(売手)である登録事業者から交付を受けたインボイス(※)の保存等が必要となります。
※買手は、自らが作成した仕入明細書等のうち、一定の事項(インボイスに記載が必要な事項)が記載され取引相手の確認を受けたものを保存することで、仕入税額控除の適用を受けることもできます。
どうやら、適用税率とかが違う中で正確な税処理をするためには、こういうデータを残す必要が確かにありそうですね。
まぁ、それは納得です。買い物してても、あっちは8%、こっちは10%って、どうやって管理してるのか謎だったので。
「インボイスめんどくせえ」問題はまったく解決してませんが、意義としてはわかった気がします。
さて、インボイスがどうやら消費税の正しい納入に必要そうな制度だというのはわかりましたが、
買い物とかで払ってる消費税ってどこに行ってるんでしょう。そういえば。
どうやら、
みたいな構造になってるらしいですね。一部でもどっかに消えてなくてよかった。せっかく払ったのに、誰かの懐に消えてたら悲しいからね。
でも、今回のインボイス騒動で見えてきたんですが、免税事業者という消費税を申告・納入してない事業者もあるらしいですね。
インボイスは消費税の申告・納税に必要なデータだから、そもそも消費税を申告・納税していない人には関係がない、ってことみたいだし。
消費税を納めていない人なんているんですかね。事業者が分担して納入しているはず、じゃないんだろうか。ふしぎふしぎ。
その答えは、どうやら消費税法にあるらしい。
第九条 事業者のうち、その課税期間に係る基準期間における課税売上高が千万円以下である者については、第五条第一項の規定にかかわらず、その課税期間中に国内において行つた課税資産の譲渡等及び特定課税仕入れにつき、消費税を納める義務を免除する。ただし、この法律に別段の定めがある場合は、この限りでない。
なんと。売上高が1000万円を超えない事業者は納税が免除されるのね。
国税庁や法律上は、目的が見つけられなかったけれど(あったらおしえて!)、税理士事務所とかでよくある説明としては
らしい。
勝手に中小業者の経済的支援とかだと思ってたけど、そうじゃないんだねー。
どうやら、売上高が小さい事業者さんは、免税事業者というものになるわけですな。
でも、免税事業者と取引を行っている企業的には、先方の年間課税売上高とかは知らんわけです。
単純に考えると、「納税していると思って渡してきたけど、どうやら納めていないらしいから、払いすぎだったのでは?」となるよね。
あと、税金は税金であって、あなたの収入に勘定するのはなんかおかしくない?って思ったり。
さて、ここで本丸。「インボイス反対!」な人たちの意見も見ておこうか。
免税事業者は、「このまま免税事業者でいる」「インボイス発行事業者になる」という二択らしい。まぁそりゃそうだ。
まず、「インボイス発行事業者になる」という選択肢について。インボイスは消費税申告・納入の制度なので、
「インボイス発行事業者になる」イコール「消費税の申告・納入を行わなければならなくなる」というのは当然の帰結。
本来納入は義務だからね。すでに払っている事業者としては何も違和感がない。
正直、取引先である我々からすると、どっちかわからないから取りあえず払っていた訳で、
あなたが納税すべきだった消費税、煩雑だってことでうやむやになってたけど、今後はこっちで納税しとくので、お支払いは税抜額になります、というのはまったく外れてない論理だと思うけれど。
他に、まぁこれはどーでもいいんだけれど、「今言うの?」的な点も引っかかってる。システム改修とかコストかけてやってきたのに今さら、、、、(愚痴)
今日もコンビニでの買い物で払った数十円の消費税、本来であれば「きちんと納税」しておいてほしいものだけど、
事業規模に応じて「免税」ということになっているだけで、それを「懐にガメる」というのはまたなんか違う話な気がするなぁ。
せっかく払った消費税が消費税として使われていないのは違和感。
さて、いろいろ見てみたけれど、そろそろ打ち合わせだからまとめるか。
ちゃんと申告・納税されるのにはあるべきシステムだと思います。めんどくさいけど。
とはいえ、消費税制について文句をいうのはわかる。10%って高いよねー。
なくなっちまえばいい、ってよく思うし。どんどん商品も値上がりしてる中でつらいわー。
でも、せっかく払ってるんだから、どっかの誰かの懐に入るんじゃなくて、全部ちゃんと納税してほしい。これマジ。
でも、何より。
小規模事業者の仕事について、きちんとした対価が払われていない、というのは論外。今回声上げてる人たちは、問題がそっちにあるはず。消費税じゃないはずだよ。
最後に、いろんな事業者さんに発注している一会社員として思うのは、「仕入れ額や経費が上がったりする中で、どんどん価格交渉はしてほしい」ということ。
こちらもそれでお願いしたい事業者さんには上を説得しても払いたいですよ。ただ、消費税はちゃんと国に全額納税されるようにしましょうよ。
みなさんありがとう。
所得税の控除も、住宅ローン減税の控除も、どんどん変わっていくのは世の常ですわな(税率とか、税そのものへの反対は今回は対象外)。
https://anond.hatelabo.jp/20230413132841#
ワイは擬似的なADHDではなくガチのADHD(診断済み)の高卒だけど
稼ぐのは何も問題無いわ
幼少の時分から太り気味で運動神経が悪く、頭も知的障害とまではいかなくても平均以下、顔立ちも極端に不細工では無いがお世辞にも褒められたもんでもない。
家族も自分を愛してはくれたが自尊心を高める様なコミュニケーションは取っておらず、寧ろ優れた所は無く何かと不利な目に合う事が多くともそれに負けず生きていけるタフな心を養わなくてはいけない、そういった教育や意識付けを行う人達だった。
そんな出自なので自分は無意識の内に他人に対して劣等感を抱いていると思われる。それ故に自分のアイデンティティーは身体や知性に依らない、純潔な価値観や思想に有ると考えている。
その結果、他人の振る舞いや思想に対して非常に潔癖な性格が身に付いてしまった。それだけが理由ではないが、それが大部分の理由で友達も恋人も居ない。
やたらと卑下する文章を書いてしまったが、自分が嫌いかと言えば全くそんな事は無い。寧ろ愛している。
先述した様に他者に劣等感を抱き、且つ毛嫌いしがちな人生を歩んでいる為、愛したり信頼したりする対象を見つけられておらず、結局自分自身が一番理想とする生き方や思想を実践出来ている存在だと思っている。
井の中の蛙であろうが、それもまた致し方の無い運命だと思いたい。
こんな浅はかな文章を長々と書いて何をしたいのかと言うと、最近の自分は他者を動物の類だと思っているんじゃないかと思ったからその考えを記録に残したい為だ。
さっきから他者への嫌悪感をつらつらと書き連ねている訳だが、人の居る場所が嫌いと言う事も無い。但し、自分に関わる人間が居るのは嫌だ。
つまり、イベント事など知らない他人が集まる場は寧ろ好ましい。連れ合いも居ない癖にお祭りが有るとフラフラと出掛けたりする。自分は誰の眼中にも入っておらず、盛り上がっている人達を観るのは楽しい。
だが、その輪の中に自分が入れられると考えるとゾッとする。グループに入れば他者の価値観に合わせなければいけない、有限である人生の一部を自分自身のアイデンティティを崩した状態で過ごさなければならない。
それが嫌で嫌で堪らないのだ。
恐らく今までの人生において、他者との関係で得られた利益が少な過ぎたのだと思う。だから自分の価値観の中で他者とのコミュニケーションで得られる幸福感が著しく低いランクに位置付けられたのだ。
その結果どうなったか、利益をもたらさない他者の存在は自分の中で自分と同価値とならなくなっている。動物園で動物を観るのは楽しい、だが家の中に動物園の動物が居たらどうだろう?ハッキリ言って邪魔なだけだ。
その上、他の動物よりも権利の主張に喧しいとくる、成すべき義務に関しては素知らぬ振りをする癖に。躾けたり愛玩でも出来れば良いが、愛護団体が五月蠅い。
こんな面倒臭い存在、もう情報だけで良い。まぁ我ながら非常に勿体無い考えではあるが。
そんな中でもどうしても関わらなくてはならないのが同僚や上司。これらに関しては言い方が相当過激になってしまうが、正直言って最早家畜の類に見えているんだと思う。
生活の糧を得るのに必要な仕事をしてくれるだけの動物。相手は畜生だから価値観が合う事など無い。それでもそれ等の存在無しには生きていけない。
だから彼らの習性を理解し、上手く誘導するべく努める。ウンザリするが畜産家の皆様はもっと大変な思いをされている事だろう。自分も我慢しなくてはならない。
そしてココにこそ、自分が業務中は愛想笑いで応対出来るのに飲み会は死んでも行きたくないのかが分かる。なんで家畜と飲まにゃならんのだ。
君達と過ごしているのは生活の為で有って、対等な存在だと思っているからじゃない。
良い商品となって貰う為に日中家畜を愛情込めて世話をし、さぁ家に帰って本来の自分に戻ろうと思った時に家畜から、『有難う!良かった飲みに行こう!』って誘われたどう思う?
いや…確かにお前が喜んでくれる様には努めたけどそれは業務だからで有って、なんでお前と対等に飲まにゃならんのだ。と思うんじゃなかろうか。
まぁ余り倫理的な考えではないかもしれんが、もう身に付いてしまったものだから仕方ない。
誤解しないで欲しいが自分は決して他者を劣った存在と思っている訳ではない。身体能力や知能指数はきっと相手のが上なんだと思う。
でも自分の価値観は思想に有る、その意味で信頼がおけると感じた相手は殆ど居ないから対等な存在と思えないだけである。
なので逆に他者からしても自分の事を家畜だと思って欲しい。単に生活の糧を得るのに利用する必要のある存在だと考えてくれる相手が自分にとって信頼のおける相手なのだ。
だからこそ、少なくとも最初はお互いの事を家畜だと思い合える相手こそ理想。そこから互いの価値観にシンパシーを抱き、徐々に打ち解けられて初めて信頼がおける。
じゃあ雑に仕事を押し付けてくるだけの同僚や上司が理想なのかと言えば全然違う。先述したが、自分も他人も家畜なのだ。
虐待紛いの振る舞いをする奴が良い畜産家か?愛情を込めて飼育する人こそ良き畜産家だろう。少なくとも家畜にとっては。
そしてヒトなる家畜にとって重要な世話とは礼儀や距離感、相互理解と気遣いなどのグルーミングの事を指すんじゃなかろうか。
何時の日か良き飼育員に出会えた時、初めて他者を人間だと思えるのだろう。まぁこんな偏った思想をしている奴にそんな日は訪れないだろうが。
一度文章を見直すと何だか魯迅の阿Qみたいだ。精神的勝利法とは空しい。それとは違うと信じたいけど…。
まぁそれでも自分は自分が好きだ。だから今こう感じた事も何時か読み返して自分自身を愛でたい。その為に備忘録としてココに残す。
私は腐女子ではないが、二次創作を見たりやったりしている女オタクだ。いわゆる女性向けソシャゲとか少年漫画とかの原作が何よりも好きで、二次創作は原作準拠・全年齢対象のものを嗜む程度に好んでいる。これらの二次創作は腐女子が多いため、かつては大人しめの腐女子コミュニティに属していたこともある。今は壁打ち。
ただ、性別問わずキャラを性的な目で見ることがなかったので、R18とかはキャプションが目に入っただけでそれなりのダメージだった。今も友達同士などの関係のキャラ同士がキスさせられているサムネを見かけると反射的に目を背けている(避けようとしてもpixivやtwitterから勧められる)。が、そういうのを描いている腐女子が描いたものであっても、CPなしとか公式CPのものなら普通に好きだった。
しかしtwitterのおすすめ機能で目にする機会が増えたのもあって、最近二次創作自体を怪訝な目で見ることが増えた。
その結果愚痴垢(特定作品ではなく、二次創作全般に言及しているアンチ腐女子系)を見に行くようになってしまって、それ自体は本当に最悪なのだが、まぁ結構共感できる内容も多かった。
ので、どこにモヤるのか箇条書きで分析をしてみる。
多分私は、腐女子コミュニティに属していたこともありながら全年齢公式準拠二次創作をほどほどに好む、という意味では両者の事情を知っており中立といえる立場なのではないかと思う。ただし今の私の基本的なスタンスは愚痴垢寄りである。
よって以下の内容も基本的に「どの程度正しいか」がポイントだが、私の個人的な感情や意見も入ることは明記しておきたい。ちなみに私は、腐女子以外にも百合や男女、男性向け、恋愛・性的要素なしなども含めた二次創作全般に同じスタンスでいる。もちろん自戒も含んでいる。愚痴垢やこういった投稿で腐女子が取り沙汰されるのは、単にファンが男性向け二次創作に比べて目にする機会が多く、腐女子という名前がついているからというだけのことである。
多分、二次創作を好む男オタクにもキャッチーな名前がついたら同じ現象が起きるだろう。というか男オタク全体という雑な括りですでによく燃えている。
前置きが長くなったが、本題に移る。一言でスパッと言おうと思ったが中立に近づけるためには無理だった。
→SNSの反応を公式が見ているとしても、一般ファンやファン候補も検索するので適宜検索除けをすべき。作品自体のイメージに関わる。愚痴垢ではSNSで目にしたファンの妄想が脳裏をよぎるため原作すら嫌いになってしまったという人も散見される。R18にはたとえ妄想であっても検索除け必須、鍵にもすべき。腐女子側も実際モラルがあり同人慣れしている人はセンシティブな内容にはツールを使ったりR18用の鍵垢で分けている人も多い。
そしてこれに関連した腐女子側の「棲み分けできている」という主張だが、これは完全に嘘だ。先に出したtwitterといいpixivといい、今の時代いくら検索避けやCP名明記をしたところでおすすめ機能が自動的に判定して勧めてくる。鍵垢以外意味がない。ちなみに「嫌なら見るな」「自衛しろ」なども内輪以外には通じないことを、腐女子に限らず全ての二次創作者は肝に銘じておかなければならない。一度目に入った時点でゾーニングなんてできていないことが明らかなのでアウトだ。
→由来を考えれば愚痴垢が正しい(腐女子側からもこの主張は多い)。しかし百合や男女など他のキャラ改変二次創作にも使うのが主流とはならないし、一次創作BLのファンも腐女子を自称するなど浸透していないのが現状である。また、腐女子にも色々なタイプがおり、昔は「公式ではBLじゃない(から二次BLは妄想)」タイプが多かったからこその由来だろうが、少なくとも今はそれよりも本気で公式がBLだと思い込んでいる腐女子が多い(これは次の項目にも絡む)。これは原義通りだと説明がつかない。
そして「腐向け」の略なのはわかるが、二次創作物そのものを「腐」と呼ぶのでは差別的だと言われても仕方がない。BL妄想ツイで「腐ってるAとB(※キャラ名)」という言い方も見た。そのキャラが同性愛者だと「腐る」のか? キャラを崩壊させたのはお前であって性指向じゃない。
たとえば百合の場合は「百合豚」「百合厨」など(こちらは自称より他称の方が多く由来も異なりそうだが)と表現の対象ではなくファンのほうを下げているので、これに準拠して初めてクリアできるのでは。
そもそも創作物である以上、作者が異性愛者以外を認識している人なのかどうか考えてみた方がいい。たとえば昭和生まれの少年漫画に異性愛者以外が登場する可能性はかなり低いだろう。逆に平成後期〜令和生まれの女性向けソシャゲは、ターゲット層はもちろんライターにBL作品の執筆経験がある場合などを考えると、ビジネス的に(腐女子がCPで争ったり夢女子を呼び込めなかったりするので)明記しないだけでBL的意図があるかもしれない。
それにジャンルや時代は異なるが『少女革命ウテナ』のように「同性愛を描こうとしていたが時代などの都合で友情にカモフラージュせざるを得なかった」パターンもあるわけだ。これ自体はtwitterで見ただけなので単なる噂かもしれないが、さっきの昭和少年漫画にもこの可能性はゼロとは言いきれない。この場合は同性愛描写を見出そうという試みも作品読解に役立つかもしれない。
ただし「読解」であって「誤読」「曲解」ではいけないし、原作者が明言しない限りは憶測に過ぎない。
そして逆にキャラを被創造物でなく一人の人間として考えれば、キャラが性的少数者だと考えること自体は作品背景なくまったく問題ないだろう。
でもなぜ同性・両性愛者(ゲイやバイ)に限定するのか。非性愛者(アロマ・アセク)などの可能性は考えないのか。そして公式で明確に恋愛だとわかる描写があったり結婚していたりする異性の相手がいるキャラでBL二次創作をするのはなぜか。そもそもなぜ恋愛や性愛の表現に固執するのか。
あとこの手の主張をする腐女子にはR18を好んで見るのにアセクシャルを自称する人がいるが、それはアセクシャルじゃなくそういうものにしか興奮できないだけ(スコプトラグニアという名前があるらしい)ではないのか。(ただし性指向を自認100とするならアセクを名乗ること自体は別にいいとは思います。この辺は話が別なので割愛)
それに倫理の面から正当化したいならまず他人の著作物を無断で利用どころか私物化していることを自覚してからにすべきだ。読む時は好きに読めばいいが、二次創作したり感想を言ったりするときは原作者や他のファンがいることを忘れてはいけない。
そして後者。「ホモ」は腐女子憎さからあえて使っているのかもしれないが、現在差別語扱いなので正当に腐女子を批判にしたいなら見直した方がいい。「勝手に」というのもそもそも原作者がゲイやバイとして描いているキャラの場合もあるので二次創作が勝手に……とは限らない。言うなら「勝手に恋愛にするな」とかが妥当では(実際愚痴垢でもこっちが主流という感じはする)。
噛み砕けば、どちらに関しても「奴らに付け入る隙を与えるな!!」である。
余談だが、以前キャラの一人をアセクシャルと捉えた上でソフトめなBLを描きワンクッションを置いている二次創作も見かけた。こういうやり方なら好感が持てる。キャラの組み合わせがそこまで好きじゃなかったから私には刺さらなかったけど。
→50:50。
まず前者、これを言う資格があるのは、二次創作に一切金銭を使わない……までいかなくとも、少なくとも「公式のために使う金(中古除く)>>同人誌同人グッズの印刷費制作費および購入費・即売会参加費など公式に行かない諸費用」と胸を張って言える人だけだ。言えるか?
あと二次同人で利益を出さないのとか女オタク界隈では大前提で暗黙の了解で利益が見えたらその瞬間総バッシングだが、でも実際は出てるんだろう。skebで許可されてない作品の二次創作で集金する人もいるし男性向けだとFANBOXでR18二次創作載せてる人多いし。その利益もちゃんと全額公式に還元してるのか? してるなら確かに公式の利益になるだろう。著作権的にも倫理的にも真っ黒だけどね。
あとは今もう削除されてるけど、はてブロの呪●●戦のやつ。あれは極端な人だし腐女子による悪意で書かれてる説もあるようだが、事実とすれば二次創作から原作に入った実例だ。購入せずに読んでいるし二次創作どころか原作を読むのも辞めているし最終的にやっぱり買ってない。とてもじゃないがこれで「二次創作が原作の利益につながる」とは言えない。あのブログが事実だとすれば、最初の時点で原作準拠の二次創作が主流だったなら読むのをやめる事態にはなっていなかっただろう。そもそも最初から読んでいなかったのかもしれないが、それならそれでいい。創作物にはイメージが重要なのだから。
後者はなんとも言えない。前述の公式費用>二次創作費用の人が大半かもしれない。二次創作をするために公式の資料集やインタビューの載った雑誌などを買ったり、二次創作で高じた原作愛を発散するために公式のグッズなどを買ったりする人がいるかもしれない。ただの希望的観測だけど……。でも二次創作でモチベが上がる原作者はおそらく多数派だろう。その二次創作の質にもよるが。
それにしても誰かここを具体的な数字にして調査してくれないものだろうか。「二次創作は本当に公式の利益につながるのか」とか、もうあるのかな。コミケの話はあるけどそうじゃなく二次創作と公式について……私はそんなに興味ないし……経済分野のえらい人~~(丸投げ)
(上の話題で検索したら腐女子ではないけどこんなもの(https://ichi-up.net/2016/059)が出てきた、愛すらないエロ二次創作で稼ぎまくって自分の仕事の踏み台にしてるってことだよな? 匿名確信犯。とんでもねえな)
→申し訳ないがこれに関しては愚痴垢100。二次創作は自由ではない。著作権的な問題はもちろんだが、公式の許可によりそれをクリアしていてもガイドラインがある。ガイドラインにほぼ必ず書かれている「非営利のファンアート」「公序良俗に反しない範囲」取り締まらない以上企業側の建前でしかないが、二次創作者たちは言われている以上守らなければ罰されても仕方がない。果たしてこれをR18同人誌が守れていると言えるのか。
また、仮に自由であるとしても、自由には責任が伴うと聞いたり考えたりしたことはあるのか? 二次創作は作品イメージという名の責任が原作者にも影響する。先に挙げたはてブロの例のように、原作と大きくイメージの異なる二次創作が跋扈すると原作にもそのイメージがつく。はてブロの例は二次創作を先に読んでいたが、これは原作を読むタイミングには関係ない。二次創作が原因で原作者が筆を折った場合、その責任は二次創作にある。いずれもあまり起きえない事例だとしても、本質はそういうことではないのか。
それから、ちょっと長くなるがこれは根本的な話題すぎて私個人の感情からも色々言いたい。
まず二次創作は借り物に過ぎない。たとえば図書館から本を借りるとして、借りた本から引用して論文を書いたり、コピーしたり、そこまでいかなくとも読んで学んだり自分の考えの参考にしたりするだろう(こっちは合法だから二次創作とはちょっと違うけど公共物なのは同じだし気持ち的に)。でも借り物を汚していいわけがあるか。図書館から借りた本に落書きしたり体液とかウンコとかつけたりして返すのか?いや本人はいいものだと思ってるからお菓子の食べかすで例えたほうがいいかもしれない。逆に借りた本に生ゴミと化した他人の食べかすとか体液とかウンコとかついてたらいい気分しないだろ。ましてや大切な人からのプレゼントとかに他人からそういうことされたらどう思う?なあ。せめて汚すのはやめてくれよ。男でも女でも何だとしても思い出のある、あるいは自分の人生の指標にするような好きなキャラがオタクの性欲で汚されてるのが目に入るの、本当につらいんだよ……知らなければ存在しないのと同じだったのに……
まぁこのズレた例え話はともかく、二次創作は借り物だから自由ではない。
あと本題とはあまり関係ないが、愚痴垢も腐女子もはたから見ていてエコーチェンバーが酷いからネットと距離を置いた方がいい。私自身このように中立っぽく振る舞おうとする程度には自分の考えを確立しているつもりだが、愚痴垢を見ているだけでかなり影響されている実感があるし、愚痴垢を見る頻度が日に日に増しているのには危機感もある。多分腐女子が検索避けをしなくなったり公式より二次創作に重点を置くようになったりするのもエコーチェンバーの一つだろう。
被害者にも加害者にもならないために、やるならフォロー0の壁打ち(鍵は適宜)で検索せず自分と原作に向き合うのが個人的にはおすすめ。
以上、意外と項目数が少ないがネタ切れ。というか愚痴垢に対するモヤモヤが腐女子へのモヤモヤに比べて少なすぎた。
また何か思いつけば追記するが、とりあえずこの辺にしておく。
※この投稿は愚痴垢と腐女子どちらが正当なのか決めたり彼らに何らかの行動を強制したりするためのものではありません。私も自分が絶対的に正しいなどとは思っていません。
外資系勤めだと、まぁこれは大事な要素というか大きな魅力だと思う。
あとそもそも雰囲気評価って超大事。人の上に立つなら仕事できるかどうかそのものより、いかにチーム回せるかの方が大事なんだから雰囲気での評価高い人が最終的に高評価なのは順当。
自分は人権重視派なのでリベラルだと思うが、今回の中国の電凸にはふざけんなと思ってるよ。
その立場から言うと、増田のいう「絵やイラストの悪影響」にだけ敏感という主張が意味不明。
例えば、科学的に示された安全性は認めて、それを広めると同時に、政府の不十分な対応は批判する、という事も可能な訳じゃん。そうすれば福島の人々が受ける被害は最小限に抑えつつ、政府を批判も出来る(私はそうしてる)。何故そうしないのかが分からない。
私もそうしているよ。
増田は福島や電凸されている人達の苦しみは見えるけど、性差別的な絵やイラストを公的機関がPRに使うことで苦しむ人が見えていないだけじゃないかな。
男性差別は親権とか寡婦とか裁判での判決事例とか自殺数の背景とか難しいやん
大して女性差別はハイヒール強要とかエロ広告がどうとか言ってればいいわけ
世の中の大多数は馬鹿で、でも男性差別に関わると自分の馬鹿さが露呈するのがわかってる程度には小賢しいから、馬鹿でもなんとなく賢そうに振る舞える女性差別の方にだけ飛びつくんよ
現状男性差別は人に教えられるくらい賢い人と、それを理解できる程度には賢い人らの、少数の間でしか語り合えない
少なくとも弱者男性とはなんぞやってのに女がいるかどうかみたいなこと言ってるのがほとんどのうちは男性差別は解消されない
あとはまぁここまで書いといてなんだけど俺もちゃんと馬鹿だからそれは安心してくれや
でも多分あってると思うでコレ
K子との出会い
私がK子と出会ったのは、まだ雪の残る3月上旬、札幌のすすきのでのことであった。
K子は、私がごくたまに寄るカフェ兼バーでウエイトレスをやっていた。
年は30歳、身長157cm。体型はややガッチリタイプに見え、いわゆる固太りに近かった。
顔はまぁまぁ整ってはいたが、頭部はアメフトのボールのように大きかった。
完璧なメイクを追求してるようで、白塗りの土台が厚く、丸い輪郭が、さらに強調されていた。
キッチリ描いた眉に、メリハリをつけたアイライン。目元周りには、そのひとのお化粧への設計意図が表れるものだがK子の場合それは、顔の大きさを、目を拡大させることでごまかそうとする意図だった。
それとK子のメークには、悪い意味でのバランス感覚という特徴も見られた。
あちらとこちらの均衡を保とうとして、薄くするのではなく、厚く盛る方にいってしまうのである。
さらにK子は勤務中はロングヘアーをタイトに縛ってるので、目元が上がって鋭角的になるのだが、これがふしだらで好色な印象を与えかねない外見になってしまうのだ。
それはせっかくのよい素材での料理を、調理でなくソースで惑わし、お門違いの高級感を添えたつもりの洋風メニューのようだった。
白人の風貌という、ないものねだりを追いかけた挙句、醜くなってしまったマイケルジャクソンのようであった。
K子は、そんな女だった。つまり、どこにでもいるひとだ。
K子はその日も普段どおり給仕をしていた。時刻は夜の9時。私のオーダーはグラスビールだった。
私のテーブルにもやってきた、そこで2人は始めて目を合わせた。
するとK子は私の顔を見るなりハッとした顔をして上背をやや引いた。私は「ああまたか」と思った。
なにが「またか」なのか。それはその時の私の顔が彼女にはイケメンに写った、ということの了解である。
断っておくがこれは自慢ではない。なぜなら、こうしたことは4年に一度、つまりオリンピック開催と同じ頻度でしか、私に訪れないからだ。「またか」と感じるのは、4年がさほど長くも感じられない私なりの時性であって、傲慢の致すところではない。
毎日のようにこういうことが起きる人を、真のイケメンというのだが、この程度のいわば「プチ・イケメン」なら今のご時世、結構いそうである。
私の顔は、それどころかまぁどちらかといえばブサメンである。口が飛び出た造作が特徴で、唇も厚い。佐藤浩市の2倍は厚い。
このせいで、顔の下部にボリュームが出てしまい、シャープには見えないモヤッとした風貌になっている。
たとえるなら、ガリガリ君のような輪郭であるし、佐藤浩市の親父の三國連太郎みたいでもある。
芋というか、類人猿、合わせればゴリライモ。私はそんな顔なのである。そしてもちろん、あなたに「そんなことないよ」といってほしい、そんなケチな性分も持ち合わせているのだ。そこがまた醜い。
ここ20年ほどで男もするようになった「化粧」とは、もともと目立たないもの(一重まぶたなど)を、まやかしの力で輝かせる補正技術だと思うが、私の口元のように、はじめから飛び出ているものを、平たく目立たせずに抑制する用法には、それはまったくといっていいほど役立たない。
しかし男の場合、三國連太郎がそうであったように、また、佐藤浩市がそうであるように、絶対的なブ男というものはいない。バナナマンの日村も最初見たときはびっくりしたが、慣れれば愛嬌がある顔である。
男は、風貌をある水準(清潔感と常識のあるファッションセンス、そして似合う髪型、できれば細身)まで満たせば、異性にアピールできてしまうのである。ここらへんが女子と違う。無愛想でもある程度はイケてしまうということだ。かくして私のような者でも、こうしたラッキータイミングが巡ってくるときがあるのである。
さて私にハッとして頂いた女子に対しては、私はだいたい挨拶をするようにしている。
ここでいう挨拶とは、店や本人の迷惑にならぬよう気を遣いながら、名刺を手渡すことだ。
できれば一言添える「もし、よろしければ、お近づきになれれば…」みたいなことだ。
ハッとする、させるというのは直感の神秘である。人間のあまたある能力のうちでも一二を争うような、めちゃめちゃものスゴい、宇宙の誕生レベルの認識だ。
人間(じんかん)にヴァイヴレーションが伝播する。あるひとがある人の存在にピン!とくれば、その相手にも同じピン!が、誤解も曲解もなく瞬時に伝わる。だれも解明できない感覚。こうした体感に対しては対象化なぞハナから諦め、人として素直にしたがい、謝辞を述べるのがスジというものであろう。
とりあえず自分を規定する第一歩として世の中には名前というものがある以上、名乗る。
「4年に一度」がいつなんどき訪れるやもしれない。そんなときのために財布に名刺を2~3枚入れておく。
こうしたなんでもない普段の心がけが、出会いを引き寄せる具体的な手段なのだ。
こうした縁で、私はK子と付き合った。世間には「よくまぁこんなサエないのと一緒になったなぁ」というのが男女問わずいるが、なんのことはない自分もその仲間入りであり、K子の方でもそう思うときがあったかもしれない。つまり、サエないのはお互い様だったのである。最初のうちは。
だがしばらくすると私にはK子の大きい顔と太い骨格が、次第にいとおしく写ってきた。
そして次に、それがかけがえのない尊さに思えてきた。
というのも付き合い始めてすぐに気づいたことだが、K子は私と最初に目が合ったホンの0.1秒の閃き、焦点で、自分の開削に成功した、まったく優れた女だったのだ。
私との邂逅によってポン!と新規開設された自我内の回路に、まったく純粋に従った。
世俗的な疑いとは、私と付き合うことのメリットデメリットやコスパを考えることや、趣味や好みが合う合わないというような話などである。
K子はそれらを考えもしなかった。だから、デートで会ってもあまり話さず、肩を寄せ合い、手を握り腕をさすり、見つめあったりするだけだった。それでどちらも了解した。ドンと存在が大きいのである。100%ピュアな肯定性の塊。
そしてそうしたK子の態度は、私の細胞のすみずみにあまねく影響を与えた。小さな自分に固執していた私を、彼女は開放してくれた。
こういう女に慣れると、小顔ブームとか、華奢な女子やスタイルに固執するのは、矮小なことと知れる。しつこいようだが慣れればあの日村ですら、ファニーフェイスである。
K子はやがてメークが薄くなっていった。コスメへの依存を減らしていった。
単なる身だしなみ以上のそれは、まやかしだと気づいたのだ。
食事や運動に、それまで以上に気を遣い、毎日しっかり生活を積み上げていくよう、意識的に自分を導いていった。
現代人はただ毎日暮らしてゆくだけで、目に見えない「不純物」が、アカのようにたまってゆく。
人はいつも意識的に「みそぎ」をしなければならない。するとみそぎなんてしなくていいんだ、そのままのあなたでいいんだと社会その他は全力で否定する。だがそれは違う。甘言に引きづられてはいけない。やつらはあなたから銭を引き出したいだけだ。
メイクはそうした「不純物」の象徴であった。それがズバッと削ぎおとされた。
人の本来的な美しさや輝き、魅力は、外から取ってきて付け足すものでない。自分の内面から湧き出させるものだ。
こんなことは実に当たり前のことだが、不純物の洪水の中にいると気づかない。
自分から「湧き出させること」が自然に出来る人は、この世にいながら永遠を手にしたも同然なのである。
理想のカップル、なるものは知らない。知らないがそれは「人それぞれ」ではない。
以上この文は、まだ見ぬあなたと、まだ顕在化してない私を想って書いた。
<了>
K子との出会い
私がK子と出会ったのは、まだ雪の残る3月上旬、札幌のすすきのでのことであった。
K子は、私がごくたまに寄るカフェ兼バーでウエイトレスをやっていた。
年は30歳、身長157cm。体型はややガッチリタイプに見え、いわゆる固太りに近かった。
顔はまぁまぁ整ってはいたが、頭部はアメフトのボールのように大きかった。
完璧なメイクを追求してるようで、白塗りの土台が厚く、丸い輪郭が、さらに強調されていた。
キッチリ描いた眉に、メリハリをつけたアイライン。目元周りには、そのひとのお化粧への設計意図が表れるものだがK子の場合それは、顔の大きさを、目を拡大させることでごまかそうとする意図だった。
それとK子のメークには、悪い意味でのバランス感覚という特徴も見られた。
あちらとこちらの均衡を保とうとして、薄くするのではなく、厚く盛る方にいってしまうのである。
さらにK子は勤務中はロングヘアーをタイトに縛ってるので、目元が上がって鋭角的になるのだが、これがふしだらで好色な印象を与えかねない外見になってしまうのだ。
それはせっかくのよい素材での料理を、調理でなくソースで惑わし、お門違いの高級感を添えたつもりの洋風メニューのようだった。
白人の風貌という、ないものねだりを追いかけた挙句、醜くなってしまったマイケルジャクソンのようであった。
K子は、そんな女だった。つまり、どこにでもいるひとだ。
K子はその日も普段どおり給仕をしていた。時刻は夜の9時。私のオーダーはグラスビールだった。
私のテーブルにもやってきた、そこで2人は始めて目を合わせた。
するとK子は私の顔を見るなりハッとした顔をして上背をやや引いた。私は「ああまたか」と思った。
なにが「またか」なのか。それはその時の私の顔が彼女にはイケメンに写った、ということの了解である。
断っておくがこれは自慢ではない。なぜなら、こうしたことは4年に一度、つまりオリンピック開催と同じ頻度でしか、私に訪れないからだ。「またか」と感じるのは、4年がさほど長くも感じられない私なりの時性であって、傲慢の致すところではない。
毎日のようにこういうことが起きる人を、真のイケメンというのだが、この程度のいわば「プチ・イケメン」なら今のご時世、結構いそうである。
私の顔は、それどころかまぁどちらかといえばブサメンである。口が飛び出た造作が特徴で、唇も厚い。佐藤浩市の2倍は厚い。
このせいで、顔の下部にボリュームが出てしまい、シャープには見えないモヤッとした風貌になっている。
たとえるなら、ガリガリ君のような輪郭であるし、佐藤浩市の親父の三國連太郎みたいでもある。
芋というか、類人猿、合わせればゴリライモ。私はそんな顔なのである。そしてもちろん、あなたに「そんなことないよ」といってほしい、そんなケチな性分も持ち合わせているのだ。そこがまた醜い。
ここ20年ほどで男もするようになった「化粧」とは、もともと目立たないもの(一重まぶたなど)を、まやかしの力で輝かせる補正技術だと思うが、私の口元のように、はじめから飛び出ているものを、平たく目立たせずに抑制する用法には、それはまったくといっていいほど役立たない。
しかし男の場合、三國連太郎がそうであったように、また、佐藤浩市がそうであるように、絶対的なブ男というものはいない。バナナマンの日村も最初見たときはびっくりしたが、慣れれば愛嬌がある顔である。
男は、風貌をある水準(清潔感と常識のあるファッションセンス、そして似合う髪型、できれば細身)まで満たせば、異性にアピールできてしまうのである。ここらへんが女子と違う。無愛想でもある程度はイケてしまうということだ。かくして私のような者でも、こうしたラッキータイミングが巡ってくるときがあるのである。
さて私にハッとして頂いた女子に対しては、私はだいたい挨拶をするようにしている。
ここでいう挨拶とは、店や本人の迷惑にならぬよう気を遣いながら、名刺を手渡すことだ。
できれば一言添える「もし、よろしければ、お近づきになれれば…」みたいなことだ。
ハッとする、させるというのは直感の神秘である。人間のあまたある能力のうちでも一二を争うような、めちゃめちゃものスゴい、宇宙の誕生レベルの認識だ。
人間(じんかん)にヴァイヴレーションが伝播する。あるひとがある人の存在にピン!とくれば、その相手にも同じピン!が、誤解も曲解もなく瞬時に伝わる。だれも解明できない感覚。こうした体感に対しては対象化なぞハナから諦め、人として素直にしたがい、謝辞を述べるのがスジというものであろう。
とりあえず自分を規定する第一歩として世の中には名前というものがある以上、名乗る。
「4年に一度」がいつなんどき訪れるやもしれない。そんなときのために財布に名刺を2~3枚入れておく。
こうしたなんでもない普段の心がけが、出会いを引き寄せる具体的な手段なのだ。
こうした縁で、私はK子と付き合った。世間には「よくまぁこんなサエないのと一緒になったなぁ」というのが男女問わずいるが、なんのことはない自分もその仲間入りであり、K子の方でもそう思うときがあったかもしれない。つまり、サエないのはお互い様だったのである。最初のうちは。
だがしばらくすると私にはK子の大きい顔と太い骨格が、次第にいとおしく写ってきた。
そして次に、それがかけがえのない尊さに思えてきた。
というのも付き合い始めてすぐに気づいたことだが、K子は私と最初に目が合ったホンの0.1秒の閃き、焦点で、自分の開削に成功した、まったく優れた女だったのだ。
私との邂逅によってポン!と新規開設された自我内の回路に、まったく純粋に従った。
世俗的な疑いとは、私と付き合うことのメリットデメリットやコスパを考えることや、趣味や好みが合う合わないというような話などである。
K子はそれらを考えもしなかった。だから、デートで会ってもあまり話さず、肩を寄せ合い、手を握り腕をさすり、見つめあったりするだけだった。それでどちらも了解した。ドンと存在が大きいのである。100%ピュアな肯定性の塊。
そしてそうしたK子の態度は、私の細胞のすみずみにあまねく影響を与えた。小さな自分に固執していた私を、彼女は開放してくれた。
こういう女に慣れると、小顔ブームとか、華奢な女子やスタイルに固執するのは、矮小なことと知れる。しつこいようだが慣れればあの日村ですら、ファニーフェイスである。
K子はやがてメークが薄くなっていった。コスメへの依存を減らしていった。
単なる身だしなみ以上のそれは、まやかしだと気づいたのだ。
食事や運動に、それまで以上に気を遣い、毎日しっかり生活を積み上げていくよう、意識的に自分を導いていった。
現代人はただ毎日暮らしてゆくだけで、目に見えない「不純物」が、アカのようにたまってゆく。
人はいつも意識的に「みそぎ」をしなければならない。するとみそぎなんてしなくていいんだ、そのままのあなたでいいんだと社会その他は全力で否定する。だがそれは違う。甘言に引きづられてはいけない。やつらはあなたから銭を引き出したいだけだ。
メイクはそうした「不純物」の象徴であった。それがズバッと削ぎおとされた。
人の本来的な美しさや輝き、魅力は、外から取ってきて付け足すものでない。自分の内面から湧き出させるものだ。
こんなことは実に当たり前のことだが、不純物の洪水の中にいると気づかない。
自分から「湧き出させること」が自然に出来る人は、この世にいながら永遠を手にしたも同然なのである。
理想のカップル、なるものは知らない。知らないがそれは「人それぞれ」ではない。
以上この文は、まだ見ぬあなたと、まだ顕在化してない私を想って書いた。
<了>