はてなキーワード: 紫色とは
世間で結婚10年目と言えば関係の冷え込み、浮気などといった悪い印象がチラホラと浮かぶが、同じ交際&結婚10年目に入った俺たち夫妻はかなり円満夫婦だと周りに言われる。
たしかによく考えれば毎朝気合いの入った弁当を作ってくれるし、1日3回はキスをするし、毎晩子供と一緒3人で寝ているし、記念日にはプチ旅行に行く。
1人娘は今年5歳だが順調に成長していっている。
当時とにかく彼女が欲しかった俺は、合コンの話があれば飛びついて行っていた。
しかしもともと口がいいほうでもなく、顔もいい方ではない俺は当然のように彼女を作ることができなかった。
「幼馴染の○○って子知ってる?あんたに会いたいらしいわよ〜」
と言った。
典型的な結婚しとけアピールだが、女性に飢えていた俺はそれに飛びついた。
彼女は俺の1歳年下の社会人で、小さい頃に俺とよく遊んでいたらしい(正直俺は覚えていない)。
最初はメールからだったが、メールを続けるうちにやがて趣味なども合うことがよくわかってきて、ついにはリアルで会うことになった。
待ち合わせ場所に現れたのは身長149cmの小柄な女性だった。顔は綺麗系と言うよりは可愛い系で、笑うとえくぼできるのが可愛い、ということが印象に残った。
俺自身、身長180cm近くあるので合っているのか少し不安だったが、話して喋ってるうちに「ああ、この人は最高の女性だな」と感じた。
彼女の性格を一言で言うのは難しい。ただ人の悪口を言わず、いつも笑顔で厳しいことはちゃんと言う女性だと言っておこう。
何度も会ううちにトントン拍子で交際がスタートしすっかり彼女と恋仲になった。
ただ、一つ彼女には問題があった。それは強烈な「M性」ということである。
あれは2回目か3回目のデートのときだったと思う。彼女をホテルに連れ込んでセックスしていたとき、彼女がこう言った。
「首を絞めて……」
俺は度肝を抜かれた。女性の首を絞めたことなんてないし、力加減もわからないので最初は拒否したが、彼女が必死に頼むのですることにした。
最初はそっと手を添える程度だったが足りないというので強く、強く。
顔が紫色になるほど締めると、彼女は今まで聞いたことのないような声を出して感じていた。
この一夜は正直俺にとってはかなりドン引きだった。今までノーマルなセックスしかして来なかったので当たり前ではあるが、それにしても上級すぎる気がした。
だが、彼女を深く深く愛していたので、彼女の性癖も受け入れようと努力した。
身体を重ねるごとに彼女と俺は激しくなっていった。首締めから始まって目隠し、ギャグボール、縄、手錠などを彼女は要求してきた。
その辺になるとノーパンで出歩かせたり露出させたり撮影させたりと俺もノリノリになり、一緒にプレイをするようになっていった。
交際が5年ぐらいになったとき、彼女の妊娠が発覚し俺たちは結婚した。
実は、彼女が妊娠した直後から出産してからしばらく(1年ぐらい)は、完全なセックスレスだった。
彼女がまるであの性癖がなくなったかのように子供を育てているので俺も言い出しにくかった。
このまま続けば破綻するだろうという予感があった。
これは鍵がついていて、鍵がないと一切性器に触れられなくなる。
ただしおしっことうんちはできるようになっている。
これが妻にはドンピシャだったようで、翌日からつけ始めてその夜にはセックスレスが解消した。
俺のS性にも磨きがかかったらしく、ハードな調教の結果、彼女は俺の声を聞いただけで絶頂できるようにまで仕上げた。
夜の生活ではこんな感じだが、昼では本当に申し訳なくなるほど俺のことを考えて行動してくれる。
子供の前では母親としてしっかりやれているし、これはこれで悪くはないんじゃないかと思っているのだ。
これは普通の夫婦には当てはまらないことだろうが、やはり刺激というものが必要なのは否めないだろう。
ちなみにこの文は妻も読む。晒されているのを見て興奮するらしい。
先程、
「最近息子と娘がアニメ好きだから、私も何か有名な作品見てみようと思って」
とパートのおばちゃんが言っていた。
「何見たんです?」
と聞くと、
そう答えてくれた。
ここ最近の作品で動物が活躍して有名なアニメといえば、けものフレンズなのかな?と思ったけど、
いまいち自信がなかったので、
「どんな作品でした?」と聞くと、
「シンタロウ……って子が紫色のロボットに乗ってバケモノとたたかってた」
そう答えてくれた。
敵はバケモノ
私がフリーズしていると、
「○○さん!はやくいきましょ!主役が遅れちゃ駄目でしょ!」
と別のパートさんがやってきた。すると、
私と話していたおばちゃんは別のパートさんの鞄についていたキーホルダーを指差した。
そこにいたのは碇シンジ君。
(エヴァンゲリオンかーい!)
と私は心の中で叫んでいると、
「それじゃあ主任!また後でね!」
「あ、は、はい」
おばちゃん二人は送別会の会場へ向かった。
うんことは何か。Wikipediaで「うんこ」を調べると「糞」にリダイレクトされる。Wikipediaでは「糞」の説明は
糞(くそ、ふん、くそは「屎」とも表記)とは、動物の消化管から排泄される固体状の排泄物(屎尿)。糞便(ふんべん)、大便(だいべん)、俗にうんこ、うんち、ばばや、大便から転じ大などとも呼ばれる。しかし、硬さや大きさ、成分などの違いで呼び名を使い分けている訳ではない
とされている。
Wikipediaの項目「糞」に記載の説明に従えば、以下の要件を全て満たすものがうんこであると考えられる。
一応、他の資料にも当たってみた。三省堂大辞林には「大便」について以下のように説明されていた。なお、三省堂大辞林の検索結果は、Weblio経由で得られたものである。
人間が肛門から排泄する食物のかす。くそ。糞(ふん)。便。うんこ。
ここで、「食物」は、三省堂大辞林には「食べ物」と説明されていた。「食べ物」は、同辞典には「①食べるもの。食用品。しょくもつ。食いもの。②(飲み物に対して)かんで食べる物」と説明されていた。すなわち同辞典では、食べ物(=食物)は飲み物と対比されるものとされていた。してみれば、同辞典における大便の説明で「飲食物」ではなく「食物」とわざわざ記載されているのは、大便という概念を、固体である食べ物に由来するものに限定する意図があると推定された。
従って、三省堂大辞林の項目「大便」に記載の説明に従えば、以下の要件を全て満たすものがうんこであると考えられる。
両者の間には、若干の表現の差異がある。三省堂大辞林は、主体的要件を、「動物」より狭い概念である「人間」に限定している。また、三省堂大辞林は、経路要件を「消化管」ではなく、消化管の末端である「肛門」に限定している(消化管から排泄されながら肛門を経由しないという状況が想定できないので、実質的に経路要件は同一であるとも言えるが)。さらに三省堂大辞林は、客体的要件を「固体」より狭い概念である「食物のかす」に限定している。もし、「食物」が「飲み物」も含む概念であると解されるならば、「食物のかす」は「液体」を含む広い概念であることになるが、上述のように三省堂大辞林は「食物」に「飲み物」を含めていない。
しかしいずれの説明を採用するにしろ、「うんこ」が固体であるということには疑いがないと考えられる。
ここで、人間という動物である私は昨晩、消化管の終端である肛門から液体を漏らした。
私は、昨日の夕方から下痢気味だった。夕方から21時頃にかけて、私は3回くらいトイレで排泄行為をしたのだが、その結果、液体の中に食物のかすが混じったものが便器にあった。これら3回の排泄行為の結果、私の便意は収まった。そして23時頃、私は自宅最寄り駅にたどり着き、自転車に乗り換え、自宅に向けて自転車を漕いでいた。踏切に引っかかったので、私は両足を地に着け、腰を上げた。その瞬間、おならではない何かが肛門を通り抜ける感触を私は感じた。
おそらく、腰を上げる際に下腹部に僅かに力を入れたことが、この通り抜け現象の引き金になったのだと思われた。しかし、前触れは何もなかった。その時、私は何ら便意を催していなかった。なので、私は肛門に突然生じた感触に驚愕した。「うんこだ!」 私の頭は、突然ひらめいたうんこという単語で満たされた。
反射的に、私は括約筋を閉ざした。肛門付近の状況は全くわからなかった。肛門で感じられた漏出量は僅かだったので、大惨事には至っていないだろう。しかしある程度の被害がパンツに生じていることは疑いないように思われた。幸い、周囲は暗いので、万が一うんこが衣服の外部に染みていても、通行人にうんこが漏れたことが露見することは無いだろう。私は自転車のサドルに腰を下ろすことなく家に急いだ。
帰宅後、私はすぐにトイレに駆け込んだ。肛門からは、液体の中に食物のかすが混じったものが出た。それから私はパンツを確かめた。すると、奇妙なことに、紫色の私のパンツには一見異常が認められなかった。どういうことだ? あの感触は、おならにはない独特の存在感があったのだ。無いわけがない。私は目を凝らした。すると、パンツの、丁度肛門と接触するあたりに、濡れた箇所があるのを私は発見した。食物のかすは付着していなかった。布地の色のせいで、パンツを濡らした液体の色はわからなかったが、かなり透明度が高いように見受けられた。
ここで、私が濡らしたものが上述のうんこの3要件を満たすか否か検討すると、以下の通りとなる。
してみれば、私が漏らしたものはうんこ3要件を全て満たすものではないのでうんこではない。私はうんこを漏らしていなかった!
ただし、ここで別の問題があるように思われた。私は何を漏らしたのだろうか。
肛門から漏れる気体はおならと称される。肛門から漏れる固体はうんこと称される。しかし、上述の検討から導かれたように、「うんこ」は液体を含まない概念である。肛門から漏れる液体はうんこではないとわかったが、これの名前が私にはわからなかった。慣例的には、私が漏らしたものは水様便、又は下痢便と呼ばれるものなのであろう。しかし、「水様便」及び「下痢便」のいずれの表現からも、私は、液体の中に食物のかすが混じったものを想起する。液体のみからなるものを「水様便」又は「下痢便」と称することは、厳密には誤りではないか。
ここで、私はWikipediaで「下痢」を検索した。ここには、以下に引用する記載があった。
下痢(げり、英: diarrhea)は、健康時の便と比較して、非常に緩いゲル(粥)状・若しくは液体状の便が出る状態である。主に消化機能の異常により、人間を含む動物が患う症状であり、その際の便は軟便(なんべん)、泥状便(でいじょうべん)、水様便(すいようべん)ともいう。
Wikipediaは「液体状の便」について言及しているが、「液体*状*」という表現は、完全な液体ではないことを示唆している。上述のように、三省堂大辞林及びWikipediaのいずれにおいても「便」は「固体」である。「液体状の固体」は、液体に近いが液体になりきっていない固体であると考えられる。Wikipediaは「液体状の便」が「軟便」「泥状便」「水様便」であると説明しているが、してみれば、液体のみからなる私の排泄物は、「軟便」「泥状便」「水様便」のいずれにも当たらないように思われる。
しかし、Wikipedia「下痢」には、さらに以下の説明があった。
東洋医学では泄瀉(泄は大便が希薄で、出たり止まったりすること。瀉は水が注ぐように一直線に下る)とも呼ばれる。
「瀉」は、水が注ぐように一直線に下るものであるとされる。私の排泄物は、これに近いように思われる。私は瀉を漏らしたのか。
ここで私は「泄瀉」についてWebで調べてみたが、あまり情報がなかった。一番詳しいように見える、群馬の漢方薬局の方がやっておられるBlog(https://ameblo.jp/hideo3355/entry-12163635334.html)には、以下のように説明されていた。
泄瀉(せっしゃ):「泄」とは排便時に希薄な大便が緩やかに排出される症状を指し、「瀉」とは排便時に清稀な大便が水のようにまっすぐ流れ注ぐもの。両者をあわせて泄瀉と呼ぶ。
「瀉」は、「清稀な大便が水のようにまっすぐ流れ注ぐもの」であるとされる。「清稀」は日本語ではないようだが、Google翻訳で中国語→日本語翻訳にかけると「クリア」と翻訳された。「瀉」はクリアな大便。私は「クリアな大便」という表現からはどんな物体も想起することができなかった。ここから先は、漢方医学の専門書などにあたらなければ正確なことはわからないように思われたが、疲れた私は「私はうんこをもらさなかった」という確信と「私は何を漏らしたのかわからない」という不安を抱えたままシャワーを浴びて寝た。
誤解のないように言っておくが、野菜が嫌いなのではない。
切ってるのか切ってないのかわからないヒラヒラしたレタスを、フォークで食べないといけないとか苦行過ぎる。
オシャレな玉ねぎが入ってる場合もあるけど、玉ねぎ生で食べると具合悪くなるか。
ドレッシングは酸っぱい。
値段が高い店のレタスほど大ぶりで、フォークで刺したら葉がびろーんと伸びて収集がつかない。
紫色のとか混じってる割にレタスとルッコラばっかりで味が単調。
何故かドレッシングの酸味も、食事の金額と比例するかのように増していく。
一方、近所の喫茶店とかで出て来るサラダはキャベツの千切りで、まあフォークでも刺して食べれる。
ドレッシングも懐かしのサウザンドレッシングとかで、トマトやコーンが入ってる。
お高い店がサウザンドレッシングなんてプライドが許さないのだろうが、オシャレなドレッシングは酸っぱすぎるよ。
メイン料理食べる前に口の中が酸味で溢れてしまう。やめてほしい。
奴は場繋ぎなんだ。
でも温野菜がいいんだ。生野菜はどうにも嫌なんだ。トマトでさえ煮たり焼いたりしたほうが好きだ。
生サラダは嫌なんだ。
それだけ言いたかった。
昔、18歳くらいのころ、男性美容師2人がやってる表参道のヘアサロンに行ってたことがあったのね。
1回目と2回目はフワッとした感じのショートボブと柔らかい感じのブラウンカラーにしてもらって、すごく気に入った。
それで3回目、ちょっと気分を変えてみようかなと思って「おまかせでお願いします」って言ったら、美容師さんがいきなりキレて。
「おまかせしますって、本当におまかせでいいわけ……? あなたみたいなタイプっておまかせしますと言っておいてあとで文句を言うから俺嫌いなんだよね〜」
と言われ。
もうその時点で帰りたい気分だったけど、毅然と「帰ります!」と言えないくらいには小心者だったからそのままお願いしてしまった。
そしたら、カラーリングは暗紫色をチョイス、前髪は斜めにパッツン、髪は完全に切り揃えられてちびまる子ちゃんみたいな極めて前衛的なオカッパヘアになった。
「はい、おまかせで仕上がったよ」って意地悪そうに言われて、支払いは2万5千円くらいだったかな。
その場ではなんとか耐えたけど、帰り道は涙がずっと止まらなくて、不審に思われるから電車には乗らず歩いて家まで帰った。
多感な18歳にはあまりにキツい教訓だった。
1回目と2回目のオーダーで好みを分かってくれてるものと思っていたけどそうじゃなかった。
美容師さんから今までそんなふうに見られていたのかと知ったのも辛かった。
次の日はバイト先の人たちみんなに大爆笑されたけど、切られた髪はそんな簡単に伸びないからどうしようもなかった。
それから3ヶ月くらいは鏡を見るたびに死にたい気持ちになったよ。
https://www.buzzfeed.com/kotahatachi/what-is-mizuhonokuni28
安倍首相「妻の携帯が水没した」 ↓ ○○「携帯を水没さた?証拠隠滅だ!」
みたいに読み取った人がいて、そのコメントへの☆もかなり集まってます。
このBuzzFeedのタイトル表記のみだと、確かに携帯が水没したことにより
昭恵夫人の携帯が時期は不明だが何らかの事が起きたかのように感じられてしまう。
「妻の携帯が一時水没しているので、それ以前のことはないんですが」
(中略)
ちなみに、水没についてのメールもある。産経新聞が報じた2016年6月4日のメール(要旨)には、こんなやり取りがある。
他のニュースを読むと、昭恵夫人と篭池氏妻は携帯のSMS(ショートメッセージサービス)を使ってやり取りしていたと公表されています。
では、ここで安倍首相の妻のFacebookを見てみると、『去年5月』時点で携帯を落とし、一時的に連絡が取れなくなったとの事が書いてある。
昨日(5月14日)の日に落としてしまって使えなくなったとの記載があり、今(恐らく5月15日)ドコモショップに行って買い替えたとの書いてあります。
更にコメントを読んでいくと、和式トイレで用を足しているときに落としたとも書いてある。
2016年5月14日 昭恵夫人の携帯が和式トイレへダイブ 2016年5月15日 昭恵夫人が新しい携帯に交換 2016年6月04日 昭恵夫人と籠池氏妻とメールのやり取り
となります。
BuzzFeedタイトルの『水没』は森友学園の問題が起きる半年以上前の話であることがわかり、最近水没させて最近のメールが消えたというわけでもない事が分かります。
BuzzFeedのタイトルが誤読させるような恣意的なタイトルであるのは間違いないと思いますが、記事をちゃんと読み解けば最近の話ではないことも分かります。
では、ここからは記事をろくに読まないで陰謀論を唱えている人達のブックマークコメント。
引用元 - http://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.buzzfeed.com/kotahatachi/what-is-mizuhonokuni28
※普段どのようなコメントを書いているか分かるように、ブックマークリンク貼らせてもらっています。
b:id:FUKAMACHI 昔は秘書が謎の死を遂げていたものだが、今はケータイが水没する時代なのだな。現代的だ。2017/03/24
b:id:kowyoshi 「それでも安倍しかいない」な皆さん、今どんな気持ちですか? 2017/03/24
b:id:scopedog ドリル小渕の次は水没アッキーかよ。2017/03/24
b:id:netcraft3 重要なHDDをドリルで粉砕する議員事務所があったりするし、自民党は情報を全部デイリーバックアップをとった方がいいんじゃないか。 2017/03/24
b:id:shufuo 一番関心の高いであろう2015年9月のメールも消えてんだな。アカスリみたいなもんで定期的に水没させとくかね。 2017/03/24
b:id:metamix メールでやりとりしたんならエシュロンに残ってるでしょ、アメリカに頼んでデータ提供して貰おう。国の一大事だし 2017/03/24
b:id:Lat 水没ねぇ。契約を含めやましいとこれがなければ相手に勝とうとする必要すら無く、事実を淡々と明らかにすれば良いだけなので、記録が残っていないとか、無償で講演したとか何で言ったんですかね?無理があるだろ。 2017/03/24
b:id:lag-o 秘書の謎の死を考えれば携帯の水没はかなり平和的になったけど、いよいよ次は記憶喪失ぐらいになるんではないかと心配。すでに部分的な記憶喪失っぽい発言はしてるけど 2017/03/24
b:id:blue0002 端末が水没しただけではデータは消えない。ついた嘘もね 2017/03/24
b:id:kori3110 記録は処分されるものだし、携帯は水没するもの。仕方ないですよね。きちんと事実が解明されたうえで「重要参考人は自殺するもの」まで至らないことを祈る 2017/03/24
b:id:bigburn 秘書が死ななくなった時代でよかったよかった 2017/03/24
b:id:ustam 秘書の身代わりに携帯が…と聞いて兵馬俑を思い出した。 2017/03/24
b:id:mouseion 証拠隠滅を図るのは別におかしくもなんともない。小渕優子もドリルでパソコン破壊したしな。それに2015年の段階で既に共産党とか豊中市議らが昭恵夫人の関与を指摘してたと思うので疑われても詮無い話。 2017/03/24
b:id:xipokyh 成蹊らしい偏差値の低そうな回答でホッコリしますね。李下に冠を正さずの意味も一昨日くらいに財務省の担当者から教えてもらったんだろう 2017/03/24
b:id:filinion そーかー、公開すれば昭恵様が無関係だと証明できたかも知れないのに、うっかり水没させちゃったのかー、そりゃあ偶然ダナー。 2017/03/24
b:id:take-it アッキード事件より「水没アッキー」の語感のキャッチーさ凄い。 2017/03/24
b:id:anigoka ドリル優子に比べて周到さが足らない 2017/03/24
b:id:yajicco そっかー、水没じゃしょうがないよね(棒読み 2017/03/24
b:id:comitlog 都合良く水没なんて、真っ黒じゃないですか。 2017/03/24
b:id:kagura-may まだ、「妻が店の手伝いで焼き鳥焼いている時に炭火に落としました」の方が説得力あるわ。 2017/03/24
b:id:quick_past 動画投稿者が長らくアップロードを停止していたときの言い訳は「PCが紫色の煙を吐いた」 2017/03/24
b:id:mangakoji 笑った。普通に通信会社にLOG出し命令したらいいじゃん。いつもやってることでしょ? 2017/03/24
b:id:xvd385hsDdk 籠池ファミリーが契約してる方の携帯にもプロバイダのメルサバにデータ残ってるじゃん、アッキーが携帯壊して開示拒否っても無駄じゃない? 2017/03/24
まだ他にもいたけれども非常に多いw
b:id:dot ブコメ見てると、事実よりも自分の意に沿ったストーリーの方を信じる人の多さに、眩暈をしたような感覚に陥る。 2017/03/24
「○○は悪いに違いない!そんなことをするなんて都合が悪かったからに決まっている!」
と思い込んでいる人が多い。
これがはてなユーザーだけなら問題ないのだが、Twitterやfacebookを見ていると著名人や国会議員や弁護士などといった一定以上の知識がある人達でも、こんな状況になっている人が多い。
どっちも10年以上好き。
好きなキャラ(アイドル)のメンバーカラーというものが存在する。
2次元の方は二次創作もしていて、カラーイラストもよく描くけど、
さすがにアニメOPとかアイドルの歌ってる音楽とか聞けば蘇るけど。
今日、ツイッターで好きなアイドルに会うために、推しメンのカラーの洋服を買ったという実録漫画が流れてきた。
えっと思った。
そんなこと考えたこともなかった。
自分が好きなアイドルと握手したこともあるし、コンサートにも何度も行ってるけど、
びっくりした。
そういえばみんな小物を買うとき、これ◯◯くんの色〜とか、2色並べて△◯カラー!とかやってる気がする。(後者はカップリング)
作中には星が登場するから星モチーフの小物を買ってる人もよく見る。
ふーんと思って見ている。
その小物が、モチーフが、色が、自分の中では好きなキャラに一切繋がらないのだ。
紫のピアスはただの紫のピアスだし、星のついたポーチはただの星のついたポーチでしかない。
それ以上でもそれ以下でもない。
日常とアニメ、日常とアイドルを結びつけることが苦手なのかもしれないと今思った。
自分のどうでもいいどこにでもある下らなくて普通の日常世界と繋がっていると思いたくない。
でも推しの色を見てはしゃぐ子たちが少し羨ましい。
その感覚を手に入れたいような入れたくないような。
友達がいれば、アニメやアイドルといった世界は非現実の夢の世界ではなく
楽しく共有できる自分自身の輝かしい日常の一部になるのだろうか?
子どもが横でスヤスヤ寝てるけど、この子が大きくなる20年後30年後、日本と世界がどうなってるのかって。
少なくとも日本は、アホのようにくだらない習性または因習が再生産され続け、遅効性の毒ガスとして充満してる。それがはてな含めネットで日々可視化されて、この社会の空気は無色透明ではなくて、薄っすらあるいは濃厚に紫色であることが、自分のような普段能天気な人間にも嫌になるほど見えてくる。歴史的あるいは文化的には好きなところがたくさんあって、知らない人に親切にされて嬉しいことも多いのに、そういうことと紫色のガスは、表面の皮を少し剥がしたところで、互いに切り離せないほどばっちり癒着し、太い血管で繋がってると思うと、心の底から悲しく、ガッカリする。
表
多少嫌なことがあっても、少しも顔に出さずに相手を気持ちよく迎えること。
おかしいことにはおかしいと言って、正義に基づいて徹底してそれと戦うこと。
ミスの指摘を受けたら、自分の主張はともかく相手の身になって、それを素直に聞き入れること。
裏
何かおかしいなと感じても、何となく空気を読んで、その中身を真剣に追及しないで無言の同意を繰り返すこと。
おかしいと感じたら感じたで、丁寧な対話ではなく、メディアを使った一方的な攻撃を相手が崩れるまで続けること。
あるいは、本当は少数しかいないそうした過剰な攻撃者や、それに反射で賛同する中身の乏しい声を怖れ、信念のわからない無難な火消しをいくつもの企業が行うこと。
この対比は実際雑で、それ自体なら悪くない表が、必ずしもこんな残念な裏として現れるとは限らない。それでもやはり、往々にしてこのように裏返っているのを感じる。
もちろん、こんな気分はかなり昔から、"その時代の20-30代"とか、何かのきっかけでモヤっとした誰かが、その時代なりに感じてきた気分なんだろうから、おそらく別に新しいことではない。とはいえ、2016年に現実にこのように生きているのが自分や家族なのだから、昔と比べて新しくない→なのでそんなことは気にしない、とは全くならない。
もう既にひと通りの教育は受け終わってしまったし、自分の内面もかなり固まってきてて別に勇気もないし、経済的な自由度も下がってるけど、それを理由に諦めて、物事がダメになっていくのをただ見送るのだけはやめる。
親がずっとボルボに乗ってて、初代V40→V50→現行V40と乗り換えてきたんだけど、この前帰省した時に現行V40に初めて乗った。基本的に私は免許持ってないし、助手席と後部座席しか乗らないのだが、V50とは大違いで、乗りづらくって狭くて座席は固く窓は狭い。暗くなると紫色の常夜灯がついてラブホか!!!!ってセンス。乗り心地も固く悪化していた。内装なんか無駄にプラスチックを金属のように見せる塗装して高級感のつもりなんだろうけど、徹底的にダサい!中華かよ!そういえば親会社中国だった!
1世代前のV50乗ったときは感動したんだよ。あらゆる面で乗り心地が良くて、乗るときに歓迎されている感じがあった。そして、後ろの席に乗ってると自然と眠くなってしまう。ところが今のV40はなんだ。着座姿勢がかなり立ち気味になったのもあって、乗ると常に緊張が強いられて、300kmとかの長距離を走行するともうクタクタ。後ろの席に乗っていただけなのにだ。
ボルボって安全ってイメージがあって、V50はそこに快適さから来る安心があった。安全で安心で長い距離にも快適に乗っていける。それがボルボだった。ところが今のボルボはスタイリッシュにキラキラ、ピカピカにしていてもはや男性器が屹立しているかのよう。北欧の落ち着きをどこにやったって感じ。そんなものはガラの悪いBMWにでも任せけって言いたい。売れてるからこの路線は継続するんだろうなー、はぁ、マジガッカリ。
なお、親曰く車のサイズが小さくなったこともあり、運転は数段しやすくなったそうだが、1時間程度でお尻が痛くなって休憩を取る必要があるって言ってた。
面白かった
ネタバレ注意
20代前半の自分は、ゴジラ、それどころか怪獣映画とも無縁な人生を送ってきた。
・なんかハム太郎と同時上映してたらしい
これくらいである。そのため、見るまではどんな話かは全く想像つかなかった。
因みにエヴァは一応見ており、エヴァ好きの兄弟に誘われる形でなんとなく、見に行った。
さて、じゃあそんな人の初ゴジラの感想はというと、真っ先に出てくるのが「ゴジラ本当怖い」という恐怖心だった。
一時期ガンダムの格ゲーにはまっていたのだが、戦っている時ガンダムから放たれるビーム系の攻撃は「かっこいー!」とかそんな風に思っていた。ガンダムXのサテライトキャノンとかウイングガンダムゼロカスタムのビーム系必殺技とか好きだった思い出がある。
しかしゴジラの口、そして背中から出るレーザー攻撃は見た瞬間、自分は「格好良さ」は全く感じず「恐怖心」に支配された。その攻撃で町が破壊される描写にも生々しさと恐ろしさを感じた。普段他の創作物で町が壊れる描写を見ても大人になるにつれ心の何処かで「フィクションだし」という心の余裕を持っていたのだが、今回はそんな余裕を全く持てなかった。
とにかく怖かったのだ。見終わった後はあのゴジラの黒い形態を極力見たくないと思ってしまったほどだ。(余談だが一緒に行った兄弟は第二形態?の方が嫌だったという。エラの生々しさが嫌だったとか。自分はそっちは嫌悪感を持たなかったので人によって違うんだなと思った)
じゃあ何故そんなにシンゴジラの攻撃は怖く感じたのだろうか…まだまとまりきれてないところはあるが、恐らく1つはその時が夜中だったこと、2つ目はゴジラの圧倒的な生命力、破壊力にあったのかもしれない。
夜の中というシチュエーションは非常にリアルで怖かった。地下?で人々がぎゅう詰めになってる中停電になって「あっ!」とか悲鳴が上がる描写には「あの状況で真っ暗になったら怖いよな」と思ったし、後闇の中でゴジラが紫色に光る→ビーム発射描写も印象的だった。2つの描写は夜だからこそ怖さが際立ったシーンだった思う。
後者について、その前の自衛隊の攻撃を受けてもケロッとしてるゴジラのシーンの時点で「あれゴジラつえー」とは思った。そこからのあの口と背中のビームである。口の攻撃はレーザー状で猛スピードで凄い遠くまで届いて周りを火の海にするし、背中の攻撃はバンバン米軍の飛行機を撃ち落とすし、避けれる軌道でもないし…あの「防護策のない攻撃」と「火の海に包まれる建物の描写」は非常に絶望感があった。対処法はゴジラのエネルギー切れのみである。エヴァで使徒のビームを守った盾もないし、というかエヴァもいない。あのシーンの恐怖心は希望がほぼ見えなかったというところにあるのかもしれない。ヘリもビームに当たってしまったし…
他のフィクションだと悪役キャラでもこう、ネタにしたり可愛いとか言ったりして愛着を持てたりするが、自分はゴジラを茶化せそうにない。「触れたくないほど恐ろしいもの」という印象だ。コナンでよく少年探偵団はゴジラあんな楽しそうに見てたな!凄いな!と思ってしまった。
シンゴジラでは人々の生々しい死体や血の描写といった直接的なグロテスクな描写殆どなく、人々の逃げ惑う姿とか諸外国との駆け引きとか自衛隊の攻撃ダメージ0とかそういった、精神的に追い詰めてくる感じの描写が多かったのも印象的だった。2番目に自分がハラハラしたのは核が使用されると決定されたあたりの一連の描写だ。核自体の恐怖もあるし、都民だけじゃなく神奈川千葉も疎開させる無理ゲーさとか、総理大臣代理の嘆きとか、「日本は世界の同情と支援?を必要としている(うろ覚え)」とか色々な不安要素やどうにもならない感じが怖かった。作中に人間の方が怖いみたいな台詞があったと思うのだがまさにそんな感じ。あの長谷川博己と石原さとみが2人で会話している時徐々に引いていくカメラワークも妙に心細さ、不安を煽られた。
他にも人物の描写が良かったとか最後のヤシオリ作戦の所がそれまでの絶望的な描写も合間って凄く熱くなったとか色々雑多な感想はあるのだがもっとちゃんとした言葉で書いている人がいるので割愛。
歳を重ねるにつれフィクションで衝撃的な描写を見ても、一歩引いて「自分とは関係ない世界」と考えることで心に致命傷を負わないように出来ていた。が、久々に心に傷を負った気がする。それはゴジラの容赦ない脅威の描写と…後非常にリアルな世界観が構築されてることもあって、自分があのゴジラの映画の世界で逃げ惑う姿が想像しやすい、「もしかしたら関係なくない世界」と思わされてしまったからかもしれない。
SEGAが提供する基本無料のアーケードカードゲーム コードオブジョーカーS(通称COJ S)。
コイツが今まで全く手を出さなかったWeb広告打った後、広告も消えて、カード販売のばらまきも初めて、
ゲーセンでもプレイヤーが減っているので今年いっぱい持てばいい方かな、という状況だ。
さて、この日記では盛り上がっていたゲームが一回のバージョンアップで冷や水を浴びせられたかのごとく衰退していく様とその理由を説明しておこう。
元々、COJは初期のころゲーセンでカードバトルゲームというおよそゲーセン住人には受け入れられなさそうなもので始まったため、散々な状況だった。
まだシステムも立ち上がりで穴が多く、クソゲーといってもいい内容だったが改善を重ねて、
「基本無料」というゲーセンには珍しい手法を取り入れることで客層を増やし、不死鳥のように(元々売れてないからこの表現はおかしいが)蘇った。
バランスもこなれていき筐体の売上も順調で決算の上位に食い込むほど売れたタイトルとなった。
しかしそんなCOJも落ち目の切っ掛けになるものがやってきた。
まず、馬鹿プロデューサー(P)だがこいつは放任主義のくせに手を出すと余計なことをして手柄だけはかっさらってきたカスだ。
やったことはバランスを乱高下させてわざと話題性を出すという策や、
既存カードを消したあとにしばらくして新カードで刷り直すという祝!復活商法だ。
これについていけなくなったプレイヤーから消えていき刺激を求める層からも愛想つかされてシリーズは終了。
今、新シリーズの企画があるが嫌な思い出があるファンがどれだけ戻ってくるかは疑問。
COJでもPを務めていたわけだが、Sへのバージョンアップ前から余計な事をしはじめた。
まずCOJのシステム周りは外注で作っていた。内部にシステム調整できるだけのノウハウがないのだ。
これを内部だけでやるという決定をしたのがPだ。
それなのにろくに技術力のある人間を入れずに、バイト上がりのゲーマーに任せようという手腕だ。
この話だけでもう終わってると気づくだろうが、
理由はバージョンアップに合わせてカードプールを整理したいということだが、
要するに外注の件と合わせてコストカットをしたいだけという内容だ。
この2つにゲームを面白くする要素があるどころかつまらなくする要素でしかない。
案の定、バイト上がりたちがカード調整しはじめだしたころからユニットの能力もデザインもおかしくなりはじめる。
肝心のCOJ Sの内容というのも酷い物だった。
・ジョーカー2枚化
といった内容だ。
他に真新しい内容はない。
ぶっちゃけた話、赤・緑・青・黄に新勢力紫を足しただけの内容だ。
紫ゲージをどうにかして溜めることで強い効果を発揮できる。
つまり新システムが完全に新色のためだけに存在するといった内容だ。
ここまで聞けば分かるだろうが、これは三国志大戦の勢力「漢」とまるで同じだ。
漢も決起ゲージを3つまで溜めると強力な効果を発揮するが、これに関係しているのは漢だけだ。
特定の色にしか効果がない新要素というのはどう扱っても調整が難しくなる。
なぜなら強くすればその色ばかり優位になってしまうのに、弱くしたら誰も使わなくなる。
悲しいかな、何も学ばないPとバイトのアイデアが採用されたわけだ。
まずこんな内容は外注なら通さないくらい穴ぼこなのにこれが新バーの目玉なのだ。
終わった。
そしてキャラデザインも落ち着いたものから萌え豚に媚びたデザインになり、
年齢層いくつでやってるのかろくに調査もしてないんだろうなと思わせる改変っぷり。
というか萌え豚に媚びたところで1世代前のポリゴンなので無理にコストかける必要もなかったんだが。
そしてジョーカーという試合中にキャラが固有で使える切り札を2枚にするという変更だが
これが地味なくせに露骨に調整面倒になるという要素で不安しか覚えない。
無理やりねじ込んだ感がすごい。
と、まあ褒めるところ一つもないバージョンアップだったが、
本当に褒めるところ一つもないので閑古鳥が鳴いている。
広告も打ったしばらまきもやってるのに人が帰ってこない、何でだろう?
ここまでの敗因を揃えられたのもまるでユーザーが何をしたいのか理解してこなかったことと
面白いゲームにするためのコストをケチろうとしたツケが素直に返ってきてるということ。
よくもまあ、短期間でここまでつまらないゲームに変えることができたと若干感心気味である。
もし今まで通りデザインは社内で、システムは外注でという方策で続けていたのなら
100万くらいはまだ使っていたと思うが、もうその金を回す必要がなくなってしまった。
経緯といっておきながら長々と書いてしまったがまとめると
・COJS始動、旧カード使用禁止、失敗はわかってた新勢力の追加、特に新鮮味の無い新バー、終わってる調整
・閑古鳥
・ばらまき効果なし
・閑古鳥
何はともあれCOJに合掌。
そしてPは死んで欲しいくらい愛してるよ。
◆シン・ゴジラみてきた話
シン・ゴジラ。見てきました。
12年ぶりのゴジラ復活であり、エヴァなんかで有名な庵野監督であり、進撃の巨人でやらかしたらしい(みてない)特撮監督であり、と。いろいろな意味でキャッチ―な話題を振りまいてきたシン・ゴジラを、見てきました。
ファイナルウォーズで子供ながらにちょっとがっかりしたままゴジラと別れ、ちょい前のハリウッドゴジラで大興奮し、こんどのゴジラははたして大丈夫なんだろうかと個人的に心配してたシン・ゴジラを、見てきました。
とりあえずの感想として、面白かったです。そこに嘘はないです。
ただ、見てる途中で引っかかる部分はあったし、あるシーンでは完全にがっかりしきってました。そこからテンションを持ち直せてよかった。
こっから先はネタバレを加えながら、具体的にどう感じたのか突っ込んで書いていきたいと思います。
本題に入る前にもう一つだけ。この文章を書いてる人間のゴジラ歴、ゴジラ観(というほどのものでもない)を共有しておきます。
生まれて初めて見たゴジラは、ゴジラVSデストロイヤーで、4歳か5歳のころに映画館に連れられて見た記憶があります。話は覚えてません。父親が好きだったので、一緒に連れてこられただけという感じだと思います。
ただ、幼少期にゴジラだったりデストロイヤーのおもちゃで遊んでた記憶はあるので、気に入ったんだとは思います。
ちゃんと、映画館でゴジラを鑑賞したと自覚のある記憶は、「巨大イグアナNYに現る」が最初のゴジラ映画になりますね。これも小さかったので、なんとなく楽しんだ記憶はあります。レゴで作ったビルをゴジラのフィギュアで貫通させて遊んだりはしてた記憶があります。と、いうわけで、本当にちゃんとゴジラを見たのはミレニアムからです。その後のいわゆる5代目ゴジラは大体父親と弟と一緒に映画館へ見に行きました。ハム太郎との同時上映なんかもありましたが、小さな妹もいた我が家的には、正直ちょうどいい組み合わせでした。そして、ファイナルウォーズを観てしょぼめのマトリックスみたいだなと思ったところで、一旦ゴジラが途絶えます。
僕が見てきたゴジラってのは、結構イケメン顔でマッチョ体格なヒーロー怪獣なんですよね。日本にやってきて暴れますけど、結局もっと悪い怪獣が他に出てきて、そいつと戦うこと自体が結果的に日本を救ってたりすることもあるような。
そういうゴジラをずっと見てきて、それが普通だったので、ハリウッド版のゴジラ(ちゃんとしてる方)は正直大好物でした。興奮しまくって映画館で立ち上がらなかったのが奇跡なレベルで。
ハリウッドが完璧にゴジラを再現した!と思ってたところで日本のゴジラ復活、監督は庵野!
最初はあまり深く考えずに面白そうだねーなんてへらへらしてましたが、だんだん変なわけわかんない展開にならないだろうかと不安になったりもしました。
予習として、進撃の巨人を見ておこうかと思ってGEOまで行って、パッケージがなんか無理って思ってスパイダーマンを借りました。2回目はバットマン。
そんな感じの、あまりがっつりゴジラオタクというわけではない平成生まれが見てきた感想です。
あまり事前の情報収集をしていなかったので知らなかったのですが、今回のゴジラはすごいネタバレ対策が徹底されていたとか。関係者試写会で誓約書を書かされたとかなんとか。
パンフレットにも思いっきり「ネタバレ注意!」なんて帯が付いていましたし。
ただ、誤解を恐れずに言うのなら、映画の大筋自体には、ネタバレするほどの情報もドンデン返しもないよな、と思います。
ゴジラが出てきて大暴れ。それに対して核攻撃したいアメリカ。何とかしてそれを阻止するためにゴジラを倒すぞ日本!すごくシンプルなストーリーです。
そういうシンプルなストーリーを、庵野監督が徹底的にリアリティにこだわって世界観を作ってゴジラというフィクションを成立させる。その手腕を楽しむという意味でクラッシック音楽ぽいかな、と思いました。
たぶん、これが突拍子もないストーリーで、かつあのテンポで話を進められたらついて行けてなかったと思います。
理解しやすいシンプルな話だからこそ、会議シーンみたいな細かい情報の芸術を楽しめたと思っています。
実際の日本にゴジラが出てきたら政府はどう対応するのか、を大真面目に検証した「空想会議読本」って感じでした。
◆あの音楽の話とあのシーンの話
あの音楽の話です。巨災対チームのシーンで流れる、あのエヴァのやつです。正直、勘弁してほしかったです。結構何度もしつこく流れますし。
僕なんか、特撮おじさんの方々と比べたらゴジラファンなのかどうかも怪しい浅さですが、それでも、「ゴジラを見るために」映画館に足を運びました。
そこでこう、デンデンデンデン、デンデンとされてしまうと、どうしても違和感を感じたというか、冷めたというか。俺は今ゴジラを観てるのか、庵野を観てるのか。見たかったのはゴジラなんだけど、今見せられてるのは庵野なのではないだろうか、というか。別に庵野監督の作品が見たくない訳ではないんですが、それはあくまでゴジラの内側に収まる範囲の話であって、その音楽のせいで庵野ワールドへと飛び出し過ぎてしまってる感じがどうしても引っかかりました。
エヴァの人が監督だからエヴァの音楽を使いました、じゃちょっとギャグになってしまう。シーンとしてはシリアスで、音楽の意図もシリアスさを出すためだったはずですが、映画への没入感が急激に薄れていきました。
同じ音源使いまわしでも、過去のゴジラシリーズのものはやはりゴジラの内側なので、しっくりくるんですよね。エヴァの音楽は単に庵野監督という存在のみをハブしている外の音楽ですから。
正直、これは自分の中で予想外だったのでかなり面食らいました。そして、この後も何かやらかしてくるんじゃないだろうかという不安が、以後鑑賞中頭から離れなくなります。で、あのシーンです。放射熱線。
ゴジラが紫色に輝いて、放射熱線撃つぞってシーン。急にBGMが声楽になって、なんかすっごいお洒落感出てしまいました。これは、正直覚悟してました。なんかそういう、山場のシーンでお上品な音楽は使いそうだなっていう勝手なイメージ。絵がスゴイかっこよかっただけに、既にデンデンデン攻撃でちょっと冷めてたのもあって結構堪えました。これに関しては、ゴジラの内側外側とはあんまり関係ないので、単に好みの話だと思います。デンデンデンが無ければもう少し前向きに受けとれた可能性もあります。最終的にここは、「翼をください」が流れなかっただけよかったな。と思うことにしました。
個人的にはこの2か所が、この映画を観ていて引っかかった部分です。
ここらへんで結構下降してたテンションは、その後のゴジラとの決戦、新幹線爆弾にビル崩し、在来線爆弾といった最高の作戦によってみるみる回復しました。
こういう「現在の日本でどうゴジラと戦うか」に対する回答はさすがに見事だなと思います。
平成生まれで、特にシリーズを深追いすることなくなんとなくゴジラを観てきた僕にとって、初めて「世界にゴジラがいなかったゴジラ」の映画でした。
娯楽映画として楽しく、ゴジラが登場したらという思考実験として興味深い映画だと思います。全体として、庵野監督がものすごく誠実にゴジラに対して向き合って作った映画だとも感じます。
だからこそ、上記2シーンはやや誠実さに欠けた、監督のエゴが行き過ぎた故に引っかかってしまったのかなと。
なので、ツイッターなんかで見かける「ここ10年で最高傑作の邦画!」とか、そういう評価感想がどうしても行き過ぎてるように感じます。そこまでじゃない、とはとても言わないですけど、デンデンデン気にならなかった?あそこだけゴジラちゃうよ?と。「ゴジラはいいぞ」くらいならわかるけど、って感じで。
自分が慣れ親しんできたゴジラのテンプレートに近い物、というひいき目こそありますが、ハリウッド版ゴジラの方が個人的には誠実なゴジラ映画だったなと感じます。
良くも悪くも、庵野ワールド全開な映画だったということでしょうか。
ゴジラ>庵野監督な僕としては、その分だけターゲットからズレていったんでしょうね。逆になにも知らなかったらそれはそれで素直に楽しめたんでしょうけど、浅いファン故に感じた違和感のお話でした。
クライアント先で、とある新作映画のチケットを2枚貰った。これが普通の男なら、“お誘い”をかける女性の一人や二人を思い浮かべることだろう。僕もチケットを「ありがとうございます」と言いつつ受け取りながら、誰とこの映画を観に行こうか頭の中で考えていた。
あまりにも思い浮かばず、思考を諦めた。諦めたというより、逃げたという表現が正しいかもしれない。そりゃあ、この数年女性とデートなんてことをしていないので、当たり前といえば当たり前かもしれない。とはいえ、誰か一人くらいはいるだろう。そう思いもう一度改めて考えてみたが、やはり一人も浮かばなかった。
中学生でも出来る「映画に誘う」というデート方法。しかも、「チケット貰ったんだけどさぁ、余らせちゃうの勿体無いから……一緒に行かない?」という、“誘える理由”も僕にはある。過去の自分がもしこの状況だったら、あの娘を誘っただろうな。そんな思いを巡らせながら、いつものようにインスタグラムを惰性でチェックしていると、3年前に恋人だった女性の写真を見つけた。紫色の髪の毛、ボロボロのTシャツ、派手なメイク。僕の恋人だった頃の面影はそこにはなかったが、すぐに「あの娘だ」と理解した。
家に帰って、自分の姿を鏡で見てみた。少し髪が薄くなったかもしれないが、ほとんど変わっていないだろう自分がそこに写っていた。僕は、瞬時に理解した。今日までの僕は、新しいことも昔のことも、どちらも考えないように、そして逃げていたんだ、と。
「ちょっと新しい道を歩いてみようかな。3年前から、1歩進んでみよう」と、前向きに生きられる気がした。まぁでも、とりあえず溜まっている仕事を片付けてからかな。
そんなことを思った、初夏の金曜日の夜。
あれは小学校に入る1年前のこと。
という教材を母が持ってきた。
会話編と単語編があって、母は会話編を熱心に覚えさせようとしたが、僕は単語編しか興味を示さなかった。
文字列の並びに意味があること、つまりD,O,Gいう文字列が犬を表すこと、それには少し興味がもてた。
記号として、24文字があることには興味がもてて、大文字限定だが、アルファベットの読み方はマスターした。
当時としては時代遅れの機種だったと思う。
ファミコンよりもっと低レベルなゲームのROMも二本もらった。
紫色の表紙のMSXBASICの教本がついてきて、なぜかその本を読みはじめた。
さっき説明したように大文字だけは読めたので、小1か小2だったと思うが、読み進めることが出来た。
画面に線を引くとか、点を打つとか、文字を表示させるとか、その程度しか出来なかったが、ゲームをしてるようだった。
自分でも読めたが、読み聞かせをせがむ甘えん坊だったので、たまに母に読んでもらうと、母は自分がいつも
「アイエヌピーユーティー」と呼ぶ「INPUT」という文字列を
「インプット」と呼び、その度に「インプットってなに?アイエヌピーユーティーのこと?」
と間違いを訂正させた。
母親は僕がなんでこんな本を読み聞かせをせがむのか理解できなかったそうだ。
小2くらいだと、IF関数やループを理解できなくて、母に何度も質問した。
母もわからなくて困ったそうな。
私は座って聞くタイプではなく、自分は他の遊びをしながら母に朗読させるという非常に図々しい読み聞かせを要求する子供だった。
ただでさえ小2には難しく、自分で読むときはギリギリ理解できても、他の遊びをしながらだと、時々理解がぶっ飛んだ。
その瞬間によく転んだ。
よく母も付き合ってくれたものだ。
小3くらいだったか、巻末の50行くらいのブロックくずしのプログラムを入力した。
毎日コツコツと打ち込んで、データレコーダーに保存すること数日。
実行してはエラー。
画面のプログラムと本を舐めるように見比べて、間違いを探しの繰り返し。
始めて動いた時は感動した。
母や父に自慢したが、反応はイマイチだった。
小3だったら読み解くくらいは出来るようになったが、それが精一杯で、自分で作ったりは出来のが大きいかな。
同じプログラムを書いてはパラメーターを変えてみることの繰り返しをしたが、すぐ飽きた。
その頃、パソコンというものとロータス123があるといろいろ便利という噂を聞いて、パソコン雑誌1冊が我が家にきた。
あの頃のパソコン雑誌というものは、投稿プログラムのコーナーが紙面の1/3を占めていて、ロータス123とそれを使える機種以外興味がなかった両親はほとんど開かなかった。
我が家に新しくやってきたPC8801だか9801に僕が一本指タイプで写経する教材となり一か月に1つくらい写経した。
両親はロータス123を使いこなすことができず、(というよりMSDOSでつまづいたと言ってた気がする)
何十万もする高価な箱を自分が占有する形になったが、ゲームが買い与えられたわけでもなく、BASICだけだったらMSXでこと足りたので、楽しいマシンという記憶はない。
そんなこんなののち、1年くらいでBASICの熱は冷めた。
パソコンに自分から触れる機会はその後の人生でほとんどなかった。
卒論や、就職してからの業務でWordとパワポ、Excelの簡単な使い方を覚えたが、
ひょんなことでExcelでIF関数に再開し、懐かしさからいろいろとExcelの関数を使い倒してみた。
ついでにと、本屋でExcelマクロ作例集というものを買ってきて、家で読んでる。
家にパソコンがあれば昔のように写経するのだが、コードの解説を読んで脳内で動きを想像して楽しむことしか出来ない。
この程度なら自分でもすぐ書けそうという反面、仕事に役立てそうなことはあまりない。
仕事を終えて会社のビルを出た瞬間、自分のお腹を自分で包丁でぶすぶす刺す妄想をする。
だいたい紫色が茶色のドロっとした液体(スライムのような)がお腹から溢れ出て、今日1日あった仕事の嫌なことがフラッシュバックする。
今日だったら、お客さんからのメールに対して意図に沿った返信ができなかったこと、上司に障害の原因をうまく報告できなかったこと、部下の物覚えがわるく作業指示通りに動いてくれないこと。
自分の何がダメだったのか、どうすればよかったのか、そもそも根本的原因は自分なのか相手なのか。
そんなことをぐるぐる考えていると、5分くらいで吐き気がしてきて胃液が上がってきてゲホゲホとむせて思考が停止する。
ああ、こんなこと毎日やりたくない。
いやー、やっと録り貯めてたアニメ『すべてがFになる』を視聴した。
元々、原作の小説を数年前に読んでいたので、気になって居たんだけれども、キャラデザを見て絶望してたが、やっぱり気になるので見たわけ。
これは、コーヒーとタバコが格好良く表現された稀有なアニメだと言っていいと思う。最近は、タバコ描写は自粛があるのかアニメではあまり見ない。絶対に海外じゃ放送できない、そもそも海外にこのアニメを有り難がって見るファンは少なそうだけれど。タバコがこれでもかというほどに全面に出ているのに、コーヒーは原作よりプッシュ控えめという印象も受けた。
そもそも原作からしてアニメ向きの、画が動くタイプの物語ではなく、ひたすらある種の衒学的な、ある種哲学的な、冗長で、だが分かる人には堪らない会話がひたすら続くわけだから、画が止まっている時間が多い。紙芝居じゃないんだが、画面にダイナミックさが無い。初めからそんな物語だと知っているし、原作を読んだ時点で大分バイアスが掛かっているから最後まで視聴できたが、初見だったら見れなかったと思う。
総評として、「これは見る人を選ぶアニメだ」と言うのが第一印象。物語全体を通してアカデミックな雰囲気がプンプン漂ってくるところが、この作品の最大の魅力であり、見る人を選ぶ理由なのかと思う。全体的な雰囲気としては、どこか陰鬱で、大学の教官室なんかも良い雰囲気出してると思う。犀川センセの部屋は比較的荒れていて、研究所の所員の部屋はキッチリ整理されているというのは、研究者の2タイプを知っていて表現したのか、とても好感が持てた。アニメスタッフがロケハン(?)というか、モデルとなる研究室や研究所を取材したんだろうか。
最初、キャラデザが発表されたときに「これは終わった」と思ったんだが、動いている画を見ると以外に平気という印象。特に、助教は「こういう研究者居るよなあ~」っていうハマったキャラだと思う。出番が少ないけど。西の園君は、やっぱダメでしょ、ハデっていうか奇怪すぎ。主人公がカワイくないと、物語を見る楽しみは3割減だと教えてくれた稀有な存在になった。もうさ、こんなんだったら全編紫色のワンピースでいいよ。
対照的に真賀田博士は想像していたよりずっと良かったじゃん。cv木戸もハマっていたと感じた。でも、時々、毛量多いなあと思ったよ。
研究所の研究員とか、その他もろもろ、ちょっとキャラデザ的にブスすぎだろ。アニメ見ていて、「コノ世界は、真賀田博士以外、学位を取るとブスになるシステムが実装されている」と思ったよ。うーん、もしかして、製作者は「すべてがブスになる」と言いたかったんじゃないだろうか。
これは、原作を読んだ時点で思っていたことだけど、事件のネタばらし(0xFFFFになる)をしてさらに、解説(16進数で15はF)なんてやっても興ざめじゃないかと。そもそもOSというもの、UNIXの位置づけ、トロイ木馬プログラムやファイルのタイムスタンプ上書きだって、ピンとこない人は置いてきぼりだろうな。でも初めからそんな人は相手をしていないのか。まあ、逆にこんなマニアックなネタを使うなんて、なかなかヤルなあとニヤニヤしたいんだけど、真面目に解説されるとちょっとしらけるよね。
それにしても、犀川先生の思考が発火する瞬間の演出はナゾすぎ、なぜダチョウなのか良く分からん。
好きだったシーン:
そのシーンだけ異質なギャグっぽい感じが良かった
廊下を駆け抜けた先は教授会をやっている部屋じゃないのかと...