はてなキーワード: 筋違いとは
ahamo発表時、ウッキウキで事前エントリーを行い、契約可能となった3/26になった段階で早速契約申し込みをした。
申し込みは順調に進んでいったが、この時、間違いを犯していた。
ネットワーク暗証番号を設定する欄があるが、何気なく設定してしまい、完全に失念してしまっていた。
よし、早速開通だ!流れるような作業でiPhoneのケースを外し、SIMスロットを抜いて、ahamoのsimカードに差し替える。
...通信できない。なるほど、開通作業をWEBから行う必要があるのか。
を入力してください。。。
ahamoのサポートは電話連絡ができないようなので、チャットからか...
「ただいま大変混雑しております。しばらく経ってから、再度お試しください。」
つながらない。そしてこの状況は3日経った今も続いている。
仕方ない、次を探そう。
サポートのページにネットワーク暗証番号を忘れた場合というのがあった。これだ!
「チャットにてお問い合わせください」
は?それがつながらないんだが?
別のページを見るとdアカウントの設定変更というページがあったのでクリック。
dアカウントのページに飛んだ。その中にネットワーク暗証番号を忘れたという項目があるではないか。
ほぅほぅ、ドコモインフォメーションセンターへ連絡するかドコモショップへ来店することで変更可能なのか。
すぐ変更したいし、ドコモインフォメーションセンターへ連絡してみよう。
自動音声での案内が始まる。指定される番号にはなかったので、「6」を押して要件の音声認識を試す。
は?つながらないのはお前らの都合だろうが、なぜ一方的にぶち切りするんだ。順番におつなぎしろや
数回試したが、埒があかない。
おっ、ドコモショップとインフォメーションセンターは予約ができるのか。
じゃあ、パパ、インフォメーションセンターの予約しちゃうぞ〜🌟
入力しよ...
「インフォメーションセンターの予約にはdポイントクラブに登録する必要があります」
は?dアカウントで確認すると登録されていると出てくるが?ポイントカードを持たずに電子手続きしている状態だと
できないのか?
ドコモショップの予約はdポイントクラブ有無は関係なさそうだ。
4/7なら近所のドコモショップが予約できた。長いが、待つか。。。
.
.
.
「すみません、予約してるんですけど」
「ありがとうございます、確認いたします」
「ネットワーク暗証番号をahamo契約時に設定したけど、忘れてしまったので再設定したいんですがこちらで大丈夫ですか?」
「はい、ahamoのご契約ですが、ネットワーク暗証番号はドコモのサービスなので大丈夫です」
待つこと数分、自分の整理番号が呼ばれ、席に通される。
18号に頭燃やされたトランクスみたいな髪型をした茶髪が出てくる。
「ahamoへのMNP時に暗証番号忘れてしまったんですけど変更可能ですか?」
改めて要件を伝える。
「えっ、可能かはわからないので一応確認します。電話番号をおかきください」
不穏な空気が漂い始める。
「確認したんですが、今この端末からは一切操作が不可能な状況です。ahamoのサイトで問い合わせいただく必要があります」
いや、そこがつながらないのとサポートページに記載があったから予約して来たんだが?
「ahamoのサポートチャットがつながらないのと、サポートページにドコモショップで変更できると書いてあるので予約したんですが?」
実際にahamoとdアカウントの当該ページを見せながら説明する。
待つこと数分。
「やはり、ドコモショップでは対応できないのでahamoに直接問い合わせてもらう必要があります」
「サポートページに記載の内容はドコモ契約中の方向けの情報で、MNPの新規ユーザー向けではありません」
どこにもそんなこと書いてないやろが!
もう一度、確認してもらったが結果は変わらず。
筋違いかと思ったが、この場合MNP期限が来ればahamoの契約は破棄されるのかを確認したが、明確な回答は得られなかった。
最初の契約申請時点で暗証番号を忘れたことは自分の瑕疵であるがそこからリカバリする方法が全く用意されておらず、
そもそも契約の入り口で入力すべき内容を保持しているかに関して普通、一番最初にチェックするであろう内容が
どこにも情報が無いことに非常に落胆した。
そして、ドコモショップ内でも店員が言っていることが違うという教育レベルの未熟さ、
どこからがahamoでどこからがショップサポートの対応なのかの責任分界点が設計されていない点を見ても、
一旦、今回のタイミングでの契約は諦めて改めて検討することになるが、ahamoを契約するモチベーションが非常に下がってしまった。
IT業界に身を置く一員として、サービス動線を適切に用意、検証できていないことがいかに人に害悪を与えるかの良い反面教師となった。
やはり拓人のようになりたくない、拓人みたいにならないように反省しよう、という感想が多かった。
でも私はそれらの感想に共感できなかった。なぜなら拓人は反省した上で、ああなっているからだ。少なくとも言葉の上で反省していた。
もちろん私は拓人は理香に責められるまでは「反省した振り」をしているにすぎないと思う。ただ、真の反省とやらにたどり着く道は遠いし、そこまでにたくさんの過ちを犯すものだ。その前の段階はみんな拓人みたいな人間なのだ。理香に拓人が責められるシーンも格好悪いがそれも真の反省に向けての一段階なのではと思う。
だから「そうならないように」反省しようというのは筋違いだし、そう思ううちは真の反省は出来ないし、いずれは拓人のようになると思った。したがって拓人のようにならないためいや拓人をやめるには、自分が拓人であることを自覚し拓人であることを隠さないことが大切だと思った。
私はADHDだ。なので、人の倍時間がかかるしミスも多い。先のばしぐせがあり取りかかるのが遅い。
だが、仮にもまあまあ家にお金があり勉強が出来たので、そこそこの有名中学高校大学を出ており、この会社で2社めではあるが就活はスムーズに進む方だった。
普通ではあり得ないミスも初対面では分からないし、一見社交性があるように見えるので面接だけでは発達障害だと気づかれにくい。
だが、仕事が始まると色々なところでぼろが出る。忘れたり指示が理解できなかったりする。前職はそれなりに高い給料を貰っていたので、給料に見合う働き方が出来ず上司に毎日こっぴどくおこられ、それでも改善できなかったので最終的に精神をやみ退職した。
今回の会社は、前職より五万円以上も月の手取りが少ない。実際はどうなのかわからないが、給料が低いと言うことはかなりわたしにとって救いだった。自分のようなクソみたいなガイジが貰う給料はこんなもんが妥当だろう。(幸い実家にすんでおり、両親も私の障害を鑑み、家にあまりお金を入れなくてよいので月に二桁万円は貯金できている。)
困るのは残業代だ。私は障害のせいで指示がよく理解できないので、たとえば商談や会議なんかはボイスレコーダーを活用し、勤務時間後にそれを聞きながらメモをかいたり分からないところをまとめたり先方へのメールを作ったりしている。
それは健常者には恐らくない作業だと思うので、残業代を請求するのは筋違いだと思うのだ。只でさえ障害をかくして働かせてもらっているし毎月二桁は貯金できているので、このくらいのタダ働きは当然だと思う。
だが最近、私がサビ残をしているのをよく思わない上司が圧力をかけてくる。
まずは、恫喝DM事件が発覚した直後の1/26に町山智浩は、自身のTwitterアカウントで、次のような発言をしていました。
発行元の双葉社は、編集や人事に一切関与していません。すべての責任は映画秘宝編集部にあります。
=引用(1 - a)ここまで=
トラブルなどの責任は、一切秘宝が負うという約束で双葉社は発行を引き受けてくれたので、苦情の電話を秘宝に回したわけです。被害者に直接電話したのは岩田の失敗です。このような苦情をどう処理すべきか、難しい問題ですが、双葉社が責任を取るために、秘宝の発行を停止する可能性もあり、心配です。
=引用(1 - b)ここまで=
トラブルなど苦情の責任は秘宝が負う、という約束で、双葉社に発行してもらっているので、今回の苦情もそのまま秘宝に送ったわけです。ただ、こうした苦情についての対応としては間違っていました。どうしたらよかったのかは考えないとならないと思います。
=引用(1 - c)ここまで=
(※注)町山智浩はいったん投稿したツイートを削除したり書き換えたりと云う行為を頻繁に繰り返すため、ここでのツイート引用も複数にしました。
そして次に、昨日2021-03-20になって、町山智浩は自身のTwitterアカウントにおいて「町山が2021-2-03に編集部に送信したと称するメール」の文面を公開しました。
それには、次のように書いてあります。
俺や柳下やヨシキやホークが何度も言っているのは、何を大切にするのか、ということです。
双葉社は自分の保身以外に考えていないのに、なぜそれに従うのか。
守るべきは何なのか、もっと考えてください。
また、柳下やヨシキが25日の夜に俺を呼び出し、奈良さんを呼び出し、ステートメントを作らせたのは、編集部も双葉社も何もしなかったからです。
それでヨシキや柳下やホークが夜中に寝ないで頑張ってくれたのに、それを責めるのは本当に筋違いです。
双葉社はそりゃ聞いてないと言うでしょうが、秘宝は双葉社よりも自らを守る権利があります。
双葉社を取るのか、秘宝の仲間を取るのか、いったい何が大切なのか、本当によく考えてみてください。
=引用(2)ここまで=
上の引用(1 - a 〜 c)を読むと「トラブルに当たっては双葉社ではなく『映画秘宝』が動く、責任を負うと云う取り決めがあった」と読めます。つまり、この立場に立つならば「町山智浩らが双葉社を責める謂れは無い」はずです。
ところが引用(2)を読むと「アイツラ(=双葉社)は何もしない!」と、双葉社を責めていたわけですね。
要するに、二枚舌ではないでしょうか。
双葉社の立場から見れば、雑誌を発行停止されることを怖れて外ヅラは一見しおらしくしていたが、裏では陰口を叩いていた人間が町山智浩と云うことですね。
リスクを取って拾ってくれた双葉社が何と思っているのかは知りませんが、町山智浩は他人を敵に回すのが好きですね。
引用(2)のメールでも「柳下がヨシキがホークが」「秘宝を」ばかり連発して、内心では被害者のことを全く思い遣っていないことを露呈していますね。
もしかしたら「元・編集部員の秋山直斗(ナオト)がnoteに『告白文』をアップしたことで、新体制の『映画秘宝』に向けられる世間の目も少しは厳しくなっただろうから、今なら自分たち(=町山・柳下・高橋・てらさわ)に有利になるように世論を操作できるかもしれない」と考えたから、町山智浩は昨日になってメールの公開に動いたのでしょうか?
流石に無いとは思いますが、実は秋山直斗(ナオト)と連携して動いている…なんて事はないでしょうね?邪推だったらすみません。
そもそも、本気で「双葉社も編集部も何もしない」と思っていたならば、自民党の政治家みたいに「係争中だから詳しくは話せない」なんて態度を取り続けずとも、町山智浩が自ら率先して情報公開に動けば良かったのではないでしょうか。
被害者の方は経緯説明と再発防止を求めているのに、恫喝DM事件が発覚してから約2か月になろうとしていますが、今まで町山智浩はいったい何をしていたのでしょうか。
双葉社が何もしないと言うならば、町山智浩自身の知っていることを洗い浚い吐けば良かったんじゃないですか?結局は、町山智浩自身も保身のために口を噤んていたのでしょう?新体制の『映画秘宝』を責める資格が町山智浩に有るのですか?
責任を取って引退する(=『映画秘宝』から離れる)ことも考えたと言ったかと思えば、映画秘宝から遠ざけられたから何もできないと言い訳したり、何なんですか?
よく他人の打ち筋にイチャモンをつける人間がいるが(初心者に指導するなどの行為は別)、この種の人間は麻雀を打つべきではないと思う。
たしかにリーチ後に大明カンされたり親にツモ順を回すようなクソポンの連発をされたら萎える事には違いないが、それでも口に出して文句を言うことは筋違いなのである。(心の中でこのヤローと思うのは全然構わない)
麻雀は所詮自分勝手なもので最終的に勝てばいいだけでその過程なんてゴミほどの価値もない。鳴こうがクソリーかけようが差し込もうが勝手なのだ。
こういう人間は中級者あたりに多く、自分の腕に何故か根拠もなく自信満々である。
「クソ鳴きして面白いのか?」「そんな安い手であがるなよ」「そんくらい絞れよ」「片アガリとかアホじゃねえの」「そんなもん即リーすんなよ」「そんなのも止まらないのか」etc....etc...
自分の手が潰されると怒り、負けると運、勝つと実力というのもこの人種の特徴である。
相手が下手糞だと思うならば放っておけばよい。
自分が負け越しているなら単に自分の方が麻雀が下手ということなんだから上手くなるように努力するか、諦めて遊びとして楽しく麻雀をうてばいいだけだ。
俺はこう打つからお前もこう打てよっていうのは物凄くガキの理論で、人によって打ち方は千差万別だから麻雀は面白い。
それを否定してみんなに同じ打ち方をしてもらいたいなら、人とは打つべきでなく、一人で麻雀すればいい。
ここでは、福岡教育大学の初等教育教員養成課程(幼児教育選修は除く。以下、初等とします)の副免について、書いていきます。
==== =====
福岡教育大学の初等は、小学校教員の養成に重点を置いています。
初等では、原則として、中学・高校の教員を養成はしていませんので、注意をしてください。
普通の国立大学の教員養成系大学では、初等でも中・高の免許を取れるはずですし、初等から中・高の先生になることは、よくある光景です。
しかし、福岡教育大学の初等は小学校教員のみの養成に特化している、ちょっと特殊な大学です。
数年前の初等専修制では、普通の国立大学の教員養成系大学と同じでしたが、改組により、初等は小学校教員養成のみとなりました。これは、寺尾学長の独断による改革の結果です。現在の飯田学長も、その方針を堅持しています。
中学・高校の先生になりたい人は、中等教育教員養成課程(以下、中等とします)に進学してください。
なお、初等に進学した後に、中等に転課程すること(課程を移籍すること)は、制度上はそういうことは可能とされていますが、基本的にはおこなえません。
どこの大学でも、転課程はきわめて難しいと考えてください。
初等の学生は、小学校教員の教育職員免許の取得を前提にしています。
初等で得られる免許(小学校一種)は、主免(しゅめん)といいます。
主免とは、卒業時に主として取得する免許(必ず取得できる免許)のことです。
この主免以外に、他の授業を履修することにより、与えられる免許を、副免(ふくめん)といいます。
初等の学生は、幼稚園(一種・二種)、中学校(一種・二種)、高校(一種)が副免になります。
話はそれますが、教員免許の種類について、わかっていない人が多いので、簡単に説明します。
教員免許の「一種」「二種」は、取得単位数の違いによって区別されています。
二種は短期大学卒業程度の取得単位、一種は四年制大学卒業の取得単位になります。大多数の先生が持っているのが、一種になります。
ちなみに、高校の免許には二種は存在しません。したがって、二種の場合は、高校の先生にはなれません。
また、県や市の教員採用試験では、取得した免許の種類によって採用が差別されません。中学二種の免許で、県や市の中学校に採用されている人もいます。
ただし、二種の場合は、一種を取得するための努力が義務付けられています。そのため、教育委員会の研修や講習に参加しなければいけなかったり、給料に差がついたりします。
話をもとに戻します。
福岡教育大学の初等では、中学・高校の免許、つまり副免は、取ることが難しいです。
なぜなら、小学校の先生の養成に重点を置いている課程が、初等だからです。
「初等に入ったけれど、中学・高校の免許も取って、中学(高校)の先生になりたい」
という人は、残念ですが、それは諦めて、小学校の先生になられることに専念してください。
福岡教育大学の初等は、小学校の教員になる教育に重点を置いています。
初等では、中学(高校)の教員になる教育は、標準的に提供していません。
「それでも!どうしても!」というなら、中退して中等の試験を受けるか、他大学に入り直す(転学・編入する)か、一旦卒業した上で、働きながら通信制大学(放送大学など)で不足分の免許に必要な単位を修得する、ということしかありません。
福岡教育大学の公式ホームページに「福岡教育大学で取得できる教員免許状について」(https://www.fukuoka-edu.ac.jp/campuslife/academic_affairs/glb0i0000000126j-att/glb0i00000009mmy.pdf)との文章が公開されています。
「卒業要件を満たし、さらに所定の単位を修得することで取得も可能となる免許状(副免)」、「副免のうち、人数制限や修得する単位が多い等の理由により、特に取得が困難な免許状」とされています。
「取得も可能」=努力すれば取れるかもしれません、「特に取得が困難」=取るのはとても難しいです、ということです。
初等で副免を取ろう、という人は、かなりの努力を要すること、楽には取得できないことを、よく理解してください。安易に手を出すとヤケドをします。
よく聞くのが、副免の取得に熱心なあまり、主免の単位を落としまくって、副免は取れるけど、主免が取れず、留年する、という話です。
初等の学生が、副免で取得する講義などは、原則として中等の学生に向けて提供されている講義に、初等の学生が「参加させてもらう」ものです。
もし、その講義や演習などが、人数を制限する場合や受講制限がある場合は、中等の学生が優先されます。
中等の学生に向けての授業なのですから、そこに「参加させてもらう」初等の学生の立場が弱くなることは、おわかりいただけるでしょう。
初等の学生が、副免を取得したい場合は、まずは担任の先生に相談してください。
といっても、担任の先生も、副免のことがよくわかっていない先生もいます。
学生支援課の「学生なんでも相談窓口」(https://www.fukuoka-edu.ac.jp/campuslife/consultation/anything_consultation.html)に相談することが、てっとりばやいです。
副免を取得したい学生は、希望する科目の「教科基礎学力テスト」を受験し、A・B・Cの判定のうち、B判定以上を取る必要があります。
C判定(不合格)では、副免の授業の履修は認められません。
なお、この教科基礎学力テストは、不合格のC判定であっても、来年度も希望すれば受験できます。
もし不合格であれば、それを謙虚に受け止めて、勉強し直して、再受験をするか、もしくは副免は諦めるか、という二つの選択肢になります。
例年、教科基礎学力テストは5~6月に実施されます。2020年はコロナ禍のため、8月に実施されました。
教科基礎学力テストの結果は、遅くても夏休み中には告知されます。
B判定以上の学生は、後期から副免の授業の履修が可能になります。
そのため、前期の期間か、夏休み期間にテストは実施され、結果も後期の授業が始まる前にはなされるはずです。
テストでは、解答用紙とともに、問題用紙も回収されますから、受験したことのある先輩に過去問を見せてもらうこともできません。
問題用紙の回収は、過去問を見ることができた人間が有利になる/見ることができなかった人間が不利になることを防ぐ、公平性を確保するためです。
高校入試の問題がそのまま出た、センター試験(共通テスト)のレベルだった、国立大学の二次試験のレベルだった、など、さまざまな噂がありますが、出題範囲は示されるので、その範囲内の勉強をよくしておく必要があります。
とりあえずは、高校での履修内容の範囲内で出題されるはずですから、大学の受験勉強と同じような勉強しておけば良いでしょう。
この教科基礎学力テストを課す目的は、中学(高校)の基礎学力を備えているかをチェックするものです。
この基礎学力がなければ、副免の授業に出ても、単位の修得は難しいです。
教員側から見れば、基礎学力のない初等の人間が、中等の授業に出てくると、レベルが保てず授業に支障をきたします。
いくらやる気があったとしても、身につけておくべき基礎的な知識がないと、授業で先生の言っていることが理解できませんし、単位の修得は難しいです。
やる気のある無能な人は、周りに迷惑をかけるだけです。そういう人が、中学や高校の教壇に立つことが許されるはずがありません。
中学や高校の教員にとって、何よりも求められるものは、学力です。
「やる気はあるが、学力の低い学生に、再教育をしてくれ」「大学は、意欲のある学生に学び直しの機会を提供すべきだ」と主張する人がいます。
しかし、高等教育機関である大学では、「中学や高校の復習をしましょうね」という「復習の時間」はありません。
高等教育機関である以上、そのような「学び直し」の授業で単位を出すことは、制度的にも許されていません。
そもそも、そんなに「やる気」があるのならば、学力が低いはずはありません。
そんなに「学び直し」をしたいのであれば、自分で好きなだけ勉強すべきです。
それでも学力が低いままならば、予備校などに通うしかありません。
高等教育機関である大学に「学び直しの機会」を要求することは筋違いです。
福岡教育大学の初等の学生の特徴でもありますが、文系に偏重しており、理系の分野は不得意のようです。
教科基礎学力テストでも、その傾向は明らかで、英語、国語、社会の受験者数は例年、とても多いです。
受験者数が多いことは、ライバルが多いということになります。したがって、C判定をもらう学生は多くなります。
というのも、中等の学生向けの授業は、少人数を想定したものが多いため、そこに初等の人間が大挙して押し寄せると、中等の学生への教育の質が保証できなくなってしまう、との理由もあります。
たくさん受け入れてあげたいのはやまやまだが、合格者はなるべく少ないに越したことはない、と大学側は考えているようです。
中等の授業では、学力の低い人に、中高に遡って教え直してくれることもありません。初等の学生だからといって、評価の水準を下げることはできません。
先にも述べましたが、副免の授業は、中等の学生向けに設けられたものが多いので、そもそも初等の学生が授業に来ることを想定していません。
中等の授業で、初等の学生が多くなってしまうと、中等の学生の学習の機会を奪ってしまうことになります。
このようなことから、合格者は、受験者の10%ほどの合格率が多く、教科によって50%あたりのものもあるようです。
おおよそですが、教科基礎学力テストで7割あたりがボーダーラインで、8割以上取れていれば、ほぼ安心していられる、と言われていますが、これも受験者数や教科によりばらつきはあるようです。場合によっては8割以上の得点であっても、不合格ということはありうるでしょう。
狙い目の教科があります。
理系の科目です。数学や理科はそもそも受験者数が少ないようですし、その割に合格率は高めのようです。
ほかにも、美術や保健体育、技術や家庭なども、合格率が高いようです。
「中学・高校の教員になって、運動部の顧問をしたい」という人は、保健体育を選ぶべきでしょう。
小学校にも「教科担任制」が22年から導入されます。既に北九州市では教科担任制が導入されています。
小学校の教科担任制とは、小学校でも、高学年からは専門教科の先生が、その教科については教える、という制度のことです。
中学校の教科を思い出してください。中学校では、既に教科担任制ですよね。
中学校のように、小学校でも、高学年からは、教科の専門の先生がいて、その教科を教えるのです。
これらの科目の中学・高校の副免を持っていると、その教科の専門に強い先生として、小学校の中で教えることができるようになるでしょう。
経費節減のため、公立でも小学校と中学校を一貫にしているところが多くなっています(小中一貫)。そういうところは、小学校の先生でありながら、中学の免許を持っている先生を採用したいはずです。
採用する側も、算数、理科、英語の教科に強い先生は欲しいところです。
しかし、英語は、例年、副免の希望者がとても多いので、英語の力がよほどないといけません。
ちなみに、英語で求められる学力は、英検二級レベルと考えられます。英検二級は、高校卒業程度のレベルと言われているからです。
福岡教育大学の初等の学生で、副免を取りたい、という学生が多く、また副免に関して、学内外で、根拠のないデマが流れたりしたので、このような文章を書いてみました。
初等で副免をとる学生は、小学校の先生だけではなく、中学・高校の先生としても通用する、確かな学力を身につける必要があります。
そのために、よく勉強をしてください。
「えっ、なんで今謝ったの?」っていうタイミングで謝る若手がよくいる。
男女を問わず、新卒1年目とか2年目とかのクチバシの黄色いやつに多い。
みたいな当人には落ち度のない指摘に対しても、いちいち謝ってくる。
叱責するつもりではないのでこちらのトーンはあくまでもニュートラル。
日常の事務的な手続きとして「これお願いしますー」「あっはいー」くらいでいいのに、「申し訳ありませんでした」とか言われるとモヤモヤする。
そこ引っかからなくていいよ。結果として俺が理不尽なこと言ってるみたいになるからやめてほしい。
なぜ彼らはすぐにペコペコ謝るのか。
萎縮しているのだろうか。
それはまあ、ありそうな気がする。慣れない環境で、なんだか怖い見た目のおっさんから何か言われたら、それが何であれ反射的に謝ってしまうかもしれない。シンジくんがアスカから怒られてたようなやつ。
まあ新人さんが最初からあまり堂々としててもそれはそれで「この子大丈夫かな?」ってなるし。
俺が心配なのは、訂正や修正を頼まれることがすべて悪だと思っていないか、ということ。
少し話はずれるが、近年、批判的な意見はすべて自分に向けられた攻撃と受け取る若者が増えているという。
討論の中でかわされる論点吟味のための正当な批判ですら過剰にネガティヴに受け取る層がいるらしい。単純な誤りの指摘ですら「ディスった」ことになってしまう。SPEEDの今井絵理子が「批判なき政治を!」とか口走ってぶっ叩かれてたのもおそらくこの文脈の批判(=攻撃)だと思う。
手続きとして踏まれるべき批判プロセスは、するほうも別に相手が憎くて批判しているわけではない(必要だからそうしている)し、受け取る方も「そう言われりゃそうだ」とか「いやそのご指摘はあたらない」とニュートラルに反応すればいいものであって、けなされたと受け取るのは筋違いである。
もしかしたら、すぐに謝る新人の心理はこれに近いのではないか。
手続きとして必要だから事務的に頼んでいるだけの訂正や修正の依頼ですら彼らは理不尽なクレームのように受け取って、「自分の落ち度を責められている。とにかく謝らなければ」と思っているのではないか、という疑念がぬぐえない。
裏返せば、「間違ってたくらいで訂正を頼んでくるなんてひどい」と思ってはいまいか。
修正や訂正の指摘を攻撃とみなしててもおかしくなくない? 百歩譲って「攻撃」とはみなしていなくても「叱責された」と受け取る人はいてもおかしくない気がする。
怒ってもいないのに怒ってることにされちゃかなわんのよね。
訂正や修正は、それをすることで成果物の品質が間違いなく一歩向上するのだから、ポジティブなこととして歓迎してほしいのよね。
プログラムのバグも、出せば出すほどプログラムの品質が上がる。なので組んだ人間としてはチェックをする人になるべくたくさんのバグを見つけてほしいと思ってる。バグ入りプログラムを組んでしまうのは落ち度だけど、そのバグを見つけて潰すのは喜ばしいことなのだ。
もっとも、「訂正=悪」みたいな馬鹿げたスタンスだったとしても、1年もすればなんとなく仕事の進め方を学び取って、必要もないところで謝るようなことはだんだんしなくなっていくんだけどね。
◎前置き
X日後に死ぬことが分かっているとしたら、僕は残された日々をどう過ごすだろうか。
いくつかの仮定を置いたうえで思いついたことを書き連ねてみる。
・X日後に死ぬことは確実であり、僕はその事実を受け入れている
この前提がなければ、僕は何とか生き延びる手段を探すだけで、残りの時間を使い切ってしまうかもしれない。
何か災害や天変地異で多くの人が死ぬわけではないということだ。僕以外の人々や環境は、僕の死以外は何一つ変わらず日々が続く。そのため、他の人を救うために時間を費やす必要もない。
この2つの前提を置くことで、僕は残りの時間を純粋に自分が満足するためだけに使うと想定する。
◎1日後に死ぬ僕
平日なら、仕事を休まなくてはならない。仮に大事な仕事があったとしても、何かと理由をつけて休むだろう。残念ながら、僕にとって今の仕事は、24時間しか残されていない状況で時間を割くには及ばない。事情を説明して別れを惜しむほど、会社の面々とは親しくない。みな僕の死を知ったら驚くだろうと思いながら、事務的に部長に有休申請を行うまでだ。
明日死ぬと思って毎日を生きよう、そんな格言を聞いたことがある。そう思うことで、本当に望むことに取り組むことができるという意味だそうだ。しかし、本当に1日しか残っていないとしたら?できることはあまりに少ない。選択肢はとてつもなく刹那的になってしまいそうだ。僕には好きな友人や家族はいるが、特別日々を一緒に過ごす類のパートナーはいない。仮に恋人や妻がいれば、最後の1日を普通に過ごして見送ってもらうだけで終わるかもしれない。だが、そんな相手はいない以上、個人的に満足に過ごす方法を考える必要がある。
僕はきっと24時間を一人で過ごすだろう。もうすぐ死ぬことが分かったうえで、友人を呼びつけて一緒に過ごしてもらう気まずさには耐えられそうにない。両親との関係は悪くないが、この状況では会うには気が引ける。そんなことができる距離感の相手なんて、それこそ恋人か妻か子供ぐらいしかいないのではないか。残念ながらそんな相手はいない。誰かに電話くらいはするかもしれない。でも、友人には普段電話などしないので、何か問題ごとでもあるのかと勘繰られてしまいそうだ。何かの用事にかこつけて、母親の声でも聞ければそれで十分だろう。
最後の1日を刹那的な快楽のために使うか、何か意味のあることに使うか、悩むところだ。刹那的な快楽を得るならば、とにかく美味しいものを食べるとか、綺麗な景色を見るとか、性欲を満たすとか、そんな過ごし方になるだろう。できるなら最後の食事は美味しいものが食べたい、でも一人で食べるなら何でも一緒に感じてしまう気もする。そもそも残り時間を考えれば、栄養にもならない食事に時間と労力を割くのはもったいない。食事に限らず、もう何も思い残すことがないと思えるほどの快楽なんてあるのだろうか?どんなに刹那的な快楽を満たしたとしても、最期の1分1秒には、どこか虚しい気持ちになってしまうのでは?
そうだとしたら、死ぬ瞬間に満たされた気分になる1日の使い方とはなんだろうか。やはり「善いことをした」「この世界に良い影響を残した」と思うことで、自らの人生を肯定できるようになることではないか。残念ながら、僕が仮にこの文章を書いている今この瞬間に死ぬとして、僕は何かこの世界のために役に立ったのかと問われると、自信をもってイエスとは言えない。たいして他人に迷惑をかけずに生きているという自負はある。しかし、周囲との干渉が少ない故、特別人助けをしているわけでもない。仕事だって、給料に見合う働きを提供するだけの等価交換で、社会に対してプラスを与えている気はしない。そんな認識を塗り替えるようなことが、24時間で成し遂げられるだろうか?
一つ、すぐに取り組めそうで最も「自分が」やる意義がありそうなことは、近しい友人たちに手紙を書くことだ。僕は29歳で、同年代の友人たちの多くは、若くして死ぬということに実感がないと思う。僕自身もそんな実感はない。そんな友人たちに向けて、身近にいる人間として、心を込めたメッセージを残せば、きっと彼らは限られた生を実感して、より有意義に過ごしてくれるのではないか。そう思いながら昇天するのは悪くない気がする。
一応、死因は自殺ではないことが皆に分かるように手配しておきたい。僕の世代の死因に占める割合は自殺が多いはずなので、事情を知らない人には勘違いされる可能性もある。僕自身はこの際どう思われても構わないが、勘違いのせいで周りの人が嫌な思いをしてしまう事態は避けたい。
◎1か月後に死ぬ僕
1か月は新しいことを始めるには短いが、1か月はちょっと長い。休まず有意義に使い切ろうとしたら息が詰まりそうだ。それでも、1日でも労働に費やすのは惜しいと思ってしまう。やっぱり仕事は無理やり辞めるしかない。お金が必要でないのなら、働かないに越したことはない。そもそも現状で何故僕は、嫌だと感じている労働に多くの時間を割いているのだろうか。
別に誰かに命令されるわけでもなく、僕は自分の意志で一挙一動を選択してきたはずだ。その積み重ねで生きてきたはずなのに、何故不本意な結果となっているのだろうか。僕は必要に駆られて働いているのであって、労働から精神的な充実を得られると期待するのが筋違いなのかもしれない。とはいえ、身の回りを見渡してみれば、仕事を楽しんでいる人はそれなりにいる。今の職場に就職した理由に思いをはせると、僕は仕事の内容や会社の状況について多くの誤解をしていた。さらに言えば、自らが求めているものもよく理解できていなかった。分からないものが多すぎたので、正しい選択ができていなかったのだ。そして、今も自分が求めているものはよくわからない。
1か月もあるのなら、できるだけ面倒を残さないように、いろいろな手続きを済ませておきたい。仕事を辞めて、部屋を片付けて、もろもろのサービスを解約しておけば、あとに残された人も困らない。ついでに恥ずかしい日記を処分しておこう。あと、年に1度ぐらいしか帰省はしていなかったが、顔ぐらいは見せておこうと思う。
口座に200万円はある。これを一体何に使えばいいだろう?1週間で使い切るとすれば、なかなかの贅沢ができる。どうせならぱーっと使ってしまいたい。僕の貯金は社会に影響を与えるには雀の涙すぎるし、このお金を寄付するほどの聖人ではない。それに、個人的に残してあげたい相手がいるわけでもない。しいて言えば、会社勤めをしながらイラストレーターの夢を追う弟にはちょっと残してあげてもいいだろう。全部残すと重たいし、あぶく銭は彼のためにもならないかもしれない。残高を気にせずに、旅行したり、いいものを食べたりして、残った分は弟に渡すくらいでちょうどいいかもしれない。
僕はかねてから死ぬ前に一度バンジージャンプに挑戦してみたいと思っていたが、1か月のうちの半日ほどを費やすに値するほどではなさそうだ。リストに入れるべき項目は、手紙を書くよりは重要でなくて、バンジージャンプよりは重要なことにしよう。残り1か月があるなら、無理を言ってでも友人たちに会って、直接思うことを伝えることができる。
そういえば、残り24時間しかない場合を考えているときは、お金のことには思い至らなかった。僕にとってお金は最優先事項ではないのかもしれない。ある程度長い期間生きるとして、なくてはならないものであって、それ以上のものではないのだろう。少なくとも、残されたお金の使い道を考えながら死にたくないとは思う。
◎1年後に死ぬ僕
1年残っているなら、少しはきれいに仕事を辞めてもいいかもしれない。2週間ぐらいは引き継ぎに費やしてもいいし、そのほうが残りの1年間をすっきりした気持ちで過ごせるだろう。残りの期間で仕事の関係者に出くわす可能性が上がるので、あまり気まずい思いをせずに済ませたい。これくらいの長さがあると、「将来のために今は多少我慢をする」といった発想が生じてくる。
きっと、仕事を辞めた理由を誰もに聞かれるに違いない。親しい人たちには正直に話すほうが良さそうだ。残り1週間ならともかく、1年間あれば段階的に別れを受け入れることができる。何度か会ったとしても、そう重苦しい雰囲気にならずに済みそうだ。でも、どうやって伝えたらいいのか分からないし、伝える瞬間の気まずさに耐えられなさそうだ。Twitterにでも書き込もうか。
貯金を取り崩すだけでも、何とかやりくりして生きていけるだろう。まず、会社に行かなくていいなら、家賃はできる限り節約しよう。決して余裕があるわけではないので、計画を立てて、慎重にお金を使っていくことになるだろう。食事だってそんなに贅沢はできない。それでも、僕にとってはお金よりも時間のほうが大切であって、贅沢をするためにより長く働こうという発想にはならない。
1年もあるならば、全く新しいことを始めたとしても、何かを成し遂げられる気がする。果たして僕は特別に何か成し遂げたいことがあるのか?と考え始める。そして、今までの日常の延長線上でしか考えられないことに気づく。思うに僕は無趣味なのだ、無趣味な故、急に働かなくてよくなったら、何をして過ごしたらいいのかわからなくなる。働きながらだって休みはあったけれども、寝て体力を回復したり、家事をしたり、友達と遊んだり、ランニングしたり、漫画やアニメをダラダラと見たりしていたらあっという間に時が過ぎた。漫画やアニメを見るのは好きだが、あと1年で死ぬとしてずっとそれに時間を費やしたいとはあまり思いつかない。それはリラックスを兼ねた娯楽であり、積極的に取り組んでいるというよりは、消去法的な時間の過ごし方だった。
もともと、人生を捧げられるような対象が欲しいと思っていた。しかし、そんなものは見つからず、とにかく生活のために労働し、疲労と惰性で考え事をするのもままならず、暇な時間ができたら途方に暮れる有り様だ。そんな対象がなくても、愛すべき人がいて、その人と過ごすだけで楽しく満ち足りた日々になるなら、それまた幸福だ。しかし、1年しか残されていないのが分かっていながら、新しく親密な関係の相手を探すのは残酷めいている。残される相手のことを考えると、残り1年で愛すべきことを見つけるなんてハナから期待すべきでない。
愛する人もいないし、やりたいこともない。そんな自分の現状は不甲斐ないが、ないものはないので仕方ない。とにかく何がしたいのか考えてみよう。かといって急に机に向かって考え始めたからといって、何か思いつくわけではない。12か月もあるのだから、1か月ぐらいは思い切って、考えるために時間を使ったっていいではないか。いったん、何もかも放り出して、どこか海沿いの旅館にでもこもって何をしたらいいか考えることにしよう。それ以上のことは今は思いつかない。
10年間生きるならば、すぐに仕事を辞めるわけにはいかない。自分がやりたいこととは別に、生活費を稼いでいくということを主軸に据える必要がある。仕事をどうすべきか、という問題に正面から向き合わなくてはならない。この問題については、大きく二つの方向性を考えることができる。一つは、多忙でもハードでも、とにかく給料の高い仕事に転職してお金を稼いで、一日でも早く仕事を辞めようとすること。もう一つは、仕事をしている時間を無駄と感じずに済むくらい、意義のあるものにすることだ。残念ながら、現状の仕事はどちらにも当てはまらず、ただ金を稼ぐため、辞めて履歴書に傷をつけないために惰性でぶら下がっている状態だ。よって、残り10年間を前提とするならば、すぐにでも転職活動をして、より有意義な時間を過ごせるようにしたい。
例えばかなり無理をして、3-5年間ハードな場所で働いて、残りは働かずに暮らせるのなら、悪くはない。この選択肢は、どう転んでも仕事をすることは苦痛なので、とにかく短期間で済ませるという考え方に基づく。貴重な10年間のうち多くの時間を割くに値するような労働はあるのだろうか?そんなものが見つかりさえするのなら、すぐにでも飛びつきたい。そもそも、そんな仕事があれば、残り10年とか関係なくやってみるべきなのではないか。
10年あれば、適当な理由をつけて別れることを前提に、恋人を作ってもそこまで罪深くはないだろう。すべてを語るような深い関係にはならないかもしれないが、一人で過ごすよりは日々に彩りが生まれそうだ。それとも、ふとした瞬間に虚しい気持ちになるだろうか?
◎30年後に死ぬ僕
10年ではなしえず、30年かけてしかできないものというのはそう多くはないはずだ。仮に僕が職人か何かで、同じことを一筋やり続けるのであれば、その時間の差は歴然となって現れるのだろうか。そんなことを考えると、今すぐ何かの道に入門して、極めてみたいものだという気持ちが湧くが、僕は飽きやすい人間であることをすぐに思い出す。僕はタイムマシンがあればすぐに30年後に行って、知識と経験の蓄積による果実を得たいと思う怠惰な人間だ。その蓄積の過程自体を楽しみ、こなしていくことができるなら、とっくに僕は何かを身に着けているはずなのだ。
残念ながら職人道を極めることはできなさそうだが、それでも少なくとも2つほどは新たな可能性が思いつく。まず、結婚して子どもを育てることが選択肢に入る、30年あれば、子どもが成人するまで面倒をみることができる。そして、家を買うかどうかも真剣に検討する必要がある。
僕は子どもが欲しいのだろうか?正直、残りの人生の期間について考えなければ、そんなことをまじめに自分に問う機会もなかった気がする。具体的に結婚するような相手ができて初めて、欲しいかどうかを考えればよいと思ったのだ。しかし、成人するまでは面倒を見ておきたいという条件を付ければ、残された時間は結構短い。相手ができたとして、すぐに子どもができるかどうかだってわからないのだから、30年のうちの最初の5年くらいで、一連の仕込みを済ませておく必要があるだろう。そのような前提を置くと、恋愛や結婚は残り時間から逆算したうえで、極めて計画的で無駄のないプロセスで行う必要がある。そう考えると窮屈に思えてきたが、女性であれば出産できる年齢が限られている故、同じような考えを持つのだろうか。一通り考えを巡らせたところで、そもそも子どもが欲しいかどうかすら分からないことに気づく。別に、残りの30年を考えたうえでそれが最優先事項というわけでは無ければ、窮屈な思いをしてまで計画的に「仕込み」を行っていく理由もない。
30年もあると考えると、途端に今すぐには現状を変えなくても良いかという思いが芽生えてくる。僕は現状の生活に満足しているわけではない。それなのに、変えなくてよいと思うのはなぜだろうか?変化にはきっかけとエネルギーが必要なのかもしれない。そこそこのストレスや孤独があるにせよ、安定しており、ある種の均衡状態となっている僕の生活を変えるには、何らかの外的なショックが必要なのだろう。
◎53年後に死ぬ僕
今29歳の僕は、52年後に日本人の平均余命といわれる81歳になる。すなわち、52年後くらいに死ぬという前提は蓋然性が高く、それをもとに人生の計画を立てることはひとつ筋が通っている。しかし、正直なところ、年老いた自分がどう過ごすかなんて、今から計画を立てるのは馬鹿げている。そこに至るまでの不確定要素が多すぎる。
とはいえ、一つ考えるに値することは、日本にずっと住み続ける前提で人生を考えるか?ということだ。何せ、この時期までに日本の人口は2-3割くらい減る推計になっている。今だって、社会保険料と所得税と消費税が大きな負担になっているが、今後ますますその負担が増えることは間違いない。5-10年先の未来だけ気にすればよいのなら、別に自分にとっての影響は大きくない。でも、より長い期間を考えると、例えばまともに医療が受けられなくなったり、預金が没収されたりするリスクだってあるかもしれない。少なくとも、今現在の高齢者が受け取っているのと同等の価値の年金をもらうことは全く期待できない。
僕は家族や友人たちがたくさん住んでいて、最高のアニメや漫画を生み出す日本が大好きなので、できることなら日本に住み続けたい。しかし、生活があまりに苦しくなるようなら、泣く泣く国を離れるというのは、世界中のどこにでもある話だ。かといって今すぐに海外に移住することが賢明というわけではない。とにかく英語くらいはできるようになっておき、いざとなればよその国でも食べていけるような能力は身に着けておく、それくらいの「投資」は残り53年くらい生きるなら、多少今を犠牲にしてでもやっておいたら老後の安心に繋がるかと思う。
◎あとがき
現在僕は、感染症が広がり外に出られない状況で、友人と会う機会も減り、社会とのつながりが徐々に切れていく感覚を味わっている。もともと、仕事に追われて、生活のために生きているような感覚を覚えていたが、そこから抜け出すことを難しく感じていた。一日中家で仕事をして、終わっても何もしたいと思えることがない。あまりに空虚な自分の生活に一種の絶望を感じている。
そんな中いつものようにTwitterを目的もなく眺めて時間をつぶしていると、「友人は少なくていい、3か月後に死ぬとしたら一緒に過ごしたいと思えるような相手さえいれば十分」というような記事にたどり着いた。そこから着想を得てふと自分の生活を振り返ってみると、3か月後に自分が死ぬのならやらないであろうことであふれていた。短い間に自分が死ぬことを考え出すと、僕は気が楽になった。これは僕自身にとってのセラピーになった。ある種のミニマリズムや断捨離に近い感覚で、「3か月後に死ぬのであれば不要」と思えることを生活から切り捨ててみる。例えば僕はいつか読んでおこうと思っていた大量の本をその基準に従って捨てた。すると、僕の人生は前よりも少し方向性が定まったように感じたのだ。
とはいえ、それと同時に、自分の空虚さを改めて実感するきっかけにもなった。自分の寿命の想定をどんどん伸ばしていくほどに、可能性は広がっていくはずなのにやってみたいと思うことが思いつかないのだ。まるで、遠方ほど霧が濃くなっていくような感覚だ。この問題は僕が、「いつかは役に立つだろう」と思われる仕事や資格の勉強に時間を費やしがちだったことと関係があるかもしれない。その時々に自らの欲求に耳を研ぎ澄ませてこないできたら、欲求をとらえることができなくなってしまっていた。
平均寿命から想定して、老後の安心や家庭を持つ可能性なども考慮した貯金やらライフプランとやらをある程度は考えなくてはならない。それでも、僕のようなタイプの人間は、3か月後に死ぬというぐらい過激な想定をしてでも、素直に最もやりたいと思えるようなことを考えていくべきでは、というのが今のところの結論だ。
僕の文章は思いつきを並べただけでまとまりのないものになってしまったが、もっと多くの人にこの思考実験をやってもらって、その結果を読んでみたいと思う。ぜひこれを読んだあなたも試しに3か月後に死ぬとしたら何をするか考えて、記事を上げてみてほしい。
某有名声優が、新型コロナ対策の補助金手続きが煩雑だと嘆いている。
周囲の人間が誰も給付できてないし書類不備差し戻しされているらしい。
生活保護の受給要件を「本当に必要な人だけに。ズルは許さない」「国のお金なんだから厳正に審査されるべき」厳しくしていった結果、自分が必要になった時の審査が異常に厳しくなるのは公務員のせいでもシステム設計のせいでもない。
「財政支出を小さくするためにあれこれ条件をつけて手続きを煩雑にしている」
これは明らかに間違い。
補助金には「売り込み」という作業があって「お願いだから使ってください」とお願いしている有り様だ。
今更「手続きが難しい」「金を出さないつもりか」と怒るのは筋違いだよ。公務員だってこんなくそ煩雑なのかシステムで給付なんてしたくないんだよ。
これで金額間違いや不正受給が起きたら許せないって怒るだろう。
何回も書類不備で差し戻されるということは「実際に審査して給付する気がある」ということだ。
給付する気がないならどこが不備だから直してくれなんて言わない。差し戻される、この書類をつけろと言ってるのは「出す気がある」ことの裏返しだ。
これはエンドレスに公金の取り扱いを厳しくしろと要求をされ続けた結果なのだ。こんな審査誰もしたくないが、国民の要求に応えた結果である。
補助金は、「出しすぎて予算が足りないので要件を厳しくする」ってこの前みたいなことはあってもことは「払いたくないから予算内だけれど申請の段階で最初から書類不備を作り出してはねる」なんってことは絶対にない。だって予算消化しないと実績にならないじゃん。
補助金漬けだの財政健全化だの言いまくった結果、いざ自分が補助金が必要な時には、こんなにしちめんどくさいことになってるってだけの話だ。
日本でどうなるかは分からないが、米国では1970年代から選択的夫婦別姓が取り入れられているためデータの蓄積がある。
米国では約70%が夫婦同姓を選んでいる。概ねこの割合は高く保たれてきたが、最近は夫婦別姓を選ぶ夫婦が増えている。
※ ちなみに日本の調査でも、未婚男女の3割が夫婦別姓を希望していることから、同程度の割合になると予想される。
https://www.watabe-wedding.co.jp/company/press/rizokonlab/kekkontomyoji/
米国で夫婦別姓を選ぶ女性は「高学歴」「高収入」(「晩婚」)である傾向がある。
また男性については、「低学歴の男性ほど、別姓を選んだ女性を罰する傾向がある」という調査結果がある。
つまり米国では、夫婦別姓を選ぶ夫婦は共に高学歴である傾向があり、世帯収入も高いと考えられる。
「高学歴」「世帯収入の高さ」「晩婚」は離婚率を下げる因子になっている。
学歴、晩婚:https://familyinequality.wordpress.com/2015/07/17/no-you-should-get-married-in-your-late-40s-just-kidding/
学歴:https://www.fastcompany.com/3058534/see-how-your-likelihood-of-divorce-changes-with-age-education-and-ethnicity
収入:http://www.randalolson.com/2014/10/10/what-makes-for-a-stable-marriage/
晩婚:https://www.mckinleyirvin.com/family-law-blog/2012/october/32-shocking-divorce-statistics/
「夫婦別姓を選ぶと離婚しにくい」という訳ではなく、「夫婦別姓を選ぶような夫婦は、離婚しにくい夫婦の特徴を持っている」。
・出生率
出生率については、関連するデータを見つけられなかった。もし何か情報を知っていたら教えてほしい。
根拠のない推測では、子育てがよほど贅沢品にならない限り、同姓夫婦の方が出生率が高いのではないか?
*****
以上のデータは、決して同姓または別姓夫婦をおとしめるものではない。
また、米国に関するデータであるから、異なる文化を持つ日本では異なる傾向を示す可能性が十分にある。
大事なことは、例え夫婦別姓/同姓を選ぶ夫婦が少数であったとしても、その選択を確保すること。そして異なる選択をした夫婦を非難しないことだ。
ヒットで金儲けできるキャラクタコンテンツじゃなくて教育だったんですよ
ギリ合法でねちねち迷惑かけても犯罪ではないですが刃傷沙汰は犯罪ですよニヤニヤっていうのが
貶められた正直者が差し迫って配下には迷惑をかけるが(自死するので)これだけはやらせてくれってのを
配下「ぜんぜん迷惑じゃないよ!それどころか復讐するよ!違法だし筋違いだけど合法で嫌な事するやつは犯罪者に自分が堕ちるとしても!」
配下「だって現行法の良いところをきつくしてみんなが息苦しくなるなら、僕たちだけで悪いやつをのめす方法があることを歴史的に示すよ!」
としてついていったよって話なので国語の教科書にのってた物語をジブリがアニメ化したりしないから教科書は衰退するとかそういう話ではないと思うよ
俺の意見、「努力できたのは環境のおかげ」理論、クソでしかない。
大事なのは、「強い者は弱い者を助ける義務がある」という話である。
わざわざ強さに至る努力がお前だけのおかげではないんだよ~というのは全くの意味のない煽りでしかない。
そもそもその理屈なら、弱い環境で強い力を得るような努力をして来た者も、「脳の構造がたまたま努力できる感じだっただけ。お前の努力はお前のものではない」ということになる。わかるか?わからんだろうな、俺の言ってることが。最初から理解しようとしなければ俺の言葉は理解できまい。俺の言葉は雑だからな。だが理屈は通っているはずだ。
「強い者が弱い者を助けるのはなぜか?」という問いに対して「その強さはお前に依るものではないから」というのは完全に筋違い。英語で書いてあろうが東大の祝辞であろうがクソだクソ。
なぜ強い者が弱い者を助けるのか。それはそうでないと人類という種が衰退してしまうからだとすればよい。
種は数がないと衰退する。それはこれまでの地球が証明してきたことだ。
強い者がそれに傲慢を持ち、弱い者をいじめるのを止めるのであれば、それで十分なのである。
強い者が弱い者を内心で見下していようが、それは内心の自由であり、それにより不利益を与えない限りは問題にされるべきでない。
強い者は批判してもよい、なぜなら強いから、という理屈が通りすぎだこの世は。
あと、日本にいて強い者を批判する奴は今すぐ途上国のために寄付なり労働力の提供なりをしろ。
スカベンジャーの現状を変える努力をしたのか?俺たちは「余って」いる。地球単位でみれば。
自殺なんてしてんじゃねえよ、強いくせに。
自分より強い人間を見て自己嫌悪に陥るなんて全然普通のことなんだよ。
それでもお前は生きていることを否定されないし否定する奴は間違っている。
でも、強いヤツに対して嫉妬することが「おかしなことだ」と考えるのも間違ってる。
すべてを受け入れる覚悟もねぇのに分かったような気になってんじゃねぇよクソども。
文句言うなら弱いヤツを助けろ。施設の子供とか。ファミリーホームが難しいならもう一段階簡単な奴がある。名前忘れたけど、たまに預かる程度のやつだ。独身でもできる。
クソどもが
その上、オバマは貧困層を助けようとしてくれるのが不快だ、って貧困層の人達が叫ぶのは何か筋違いだと思うんだが
あなたからはコンプレックスをすごく感じるのですが、それが動機ではないのですか?
と言ってたのに頷くしかないというか、
植松も座間の白石も、あと京アニの青葉も、奇しくも同じ様にコンプレックスを感じる
いわゆる、「こじらせた」感じが凄いする
法廷で漫画を描いているのも、「俺の絵上手いでしょw」という拗らせたワナビーのような感じが凄いする
絵が上手かろうが能力があろうが、社会的な評価がなければ意味がないというか、
どんなに絵が上手かろうが、無職でフラフラしている人であれば社会的な風当たりは強い、それは当然だろう
しかし、一方では自分でもそれはみっともないことであり、社会的にも逆効果に評価されるとはどこかで分かっているようにも見える
その自分の中の理想の自分と現実との落差に憤る、そりゃ当然だろう、理想が高すぎるからだ
あれは何なのだろうか
白石も日産リーフの給電コネクトなどを開発した主要開発者の父にコンプレックスがあるのか、
それとも父親にも何か問題があるのか、そもそも、母親と妹という女性陣だけ家を出てるというのも不可解だが、
植松も白石も共通しているのは、冗舌に話しているところに親の話をすると急に不機嫌になる、キレるというのがあると思う
そういう点で二人は似てさえいる気がする
青葉は父親へは家に金も入れずに女にうつつを抜かし自殺して逃げてしまったのだから恨んでしかいないだろうが、
青葉がコンプレックスを持っているのは、小説家として成功している人達というか、
自分のそういった人生のハンデを派手な功績で覆したいという欲が見え隠れする
もちろん、毒親だの育児放棄だの、そういった点で被害者と考えられなくないことも世の中多々あるわけだが、
そういう理不尽を飲み込めない、というのは、
どこかに、社会は公平でなければならない、という奢りや錯覚があるとか、
正解がなければならない、正解があるはずだ、という傲慢さがある気がする。
宗教的には神という絶対的な存在を置くことで、そういった理不尽を飲み込み、正解は神しか知らないのだから気にしない、
という考え方で心を安定させ、日々の生活を優先させることを考えるものである
しかし、宗教をやらなくても構わないが、心の中になんらかの芯がない人達は理不尽に脆弱なのではないだろうか
明らかに無駄な書き方もあるし、Aという環境では高速に動作するが、Bという環境では遅くなる、その逆もある、
みたいに解は複数あるし、どれが正解かというのもときと場合によるのである
そもそも、コンピュータの場合は他にもプロセスがいくつも動いており、それぞれがリソースを奪い合っている
同じプログラムでも実行したタイミングによってパフォーマンスは異なる
それをゲームとかなら、どれだけフレームレートを一定にするかとかそういう話にもなってくる
正解はない
アサシンクリード ヴァルハラの流血規制についてバタバタしている。
11月28日時点の状況は、ユービーアイソフト株式会社(以後UBIJと略す)が「バグが原因で修正する」と発表したが、バタバタで不信感や怒りで燃え上がったユーザー(大声なごく少数だと信じたい)は収まらず匿名掲示板などで怒り声は上がり続けている。
発表時点で信頼度がかなり低下していたためか嘘と断ずる人も多いが、バグだとすれば個人的に腑に落ちなかった点に色々納得できた。
事実UBIJ(およびUBI本社)が間違った情報を発信したのは確かだし、バグも多いのも確かだし、CEROという日本のレーティング機関が(たぶん海外とかから苦情が来て)声明を出したのも確かなんだが、「UBIJが悪の企業で、ユーザーを騙すために嘘をついた、詐欺を意図していた」というのはちょっと現実的じゃないと思うので、ここに残しておく。
ことの起こりはUBIJが発売前に発表していた規制に関する項目に流血規制が無かったのが発端だと思う(ヴァルハラに関しては)。
「いざ発売してみたら、聞いてない流血まで規制されてるじゃないか! 詐欺だ!」という怒りの声が沸き上がった。怒りからこういう流れになるのはわからないでもない。
でもUBIJが悪意を持って日本のユーザーを騙したとか、発売本数を伸ばすために詐欺的に情報を隠したというのは考えにくい。
そう考えるのはUBIJに好意的だからじゃなくて、彼らの目的は売り上げを上げるためだからだ。
切断された首の表現や、ヌードは規制をかけると発表していて、流血だけ黙っていてどれだけ売り上げが変わだろうか?
本当にユーザーを騙すつもりなら、規制について全部黙っているのが一番だ。
彼らは残酷表現の規制とまとめて書いてもいいところを、細かく項目を出して伝えているし、事前にネット動画で放送を行って製品の販促を行ったりしている。真摯な態度で売り上げを上げようとしているのに、急にユーザーを馬鹿にして詐欺を働くメリットが無い。
ヴァルハラだけ売り逃げても、次に出すゲームの売り上げに響くのは馬鹿でもわかる。
もう一つ、流血規制についてはオプションに項目がありオンオフできるのだ(現時点ではバグで機能してない)。
じゃあ、なんで流血について黙っていたのかは、UBIJの発表通りバグの可能性が高いし、納得もできる。詐欺企業案寄りの考えでUBIJやUBIの考えた巧妙な言い訳の可能性ってこともある(数パーセント?)けど、事前に動作しないオプションを残しておくのは、準備が良すぎる・・・普通、ユーザーを馬鹿にするためにあらかじめ用意した仕掛けというより、バグで機能してない方が妥当だと思うよね?
UBIJの発表は、本社から「こういう規制をしたよー」という文章を翻訳して出したという流れだと思うけど、バグだとすれば本社側も流血が規制されているなんて思いもしないわけなので、それは漏れる。
バグは良いものではないけど、どうしても出てしまう。非が無いわけじゃないけど、悪意はない。もちろん、詐欺を行う意図もない。
ゴア表現の規制の部分で、検証甘いなぁという思う部分がある。トドメの演出で血が飛び散って首が飛んだり、手足が飛んだりする部分、これ規制かかって無くない? という感じがする。オプションは機能してないし、規制も不徹底だし、流血規制がバグというのも悪い方向で信ぴょう性が高い気がする。まぁ、進行不能バグが残っているのに、一部地域の規制の検証が十分なはず・・・。経験則でいわせてもらうと、初期に出てくるのはわかりやすいバグだ。この時点でこれだけでるなら、まだまだ規制に関しても出てくる可能性はある。
昨今、規制に関する内容は結構センシティブというか話題になりやすい問題だから、UBIJはもう少し海外版と比較したり、オプションのオンオフを行い自国発売版を確認してみるべきだったかもしれない。まぁ、ギリギリまで英語版しかもらえないとか、プレイできたバージョンがバグが埋め込まれる前の版でしたって可能性もDay1パッチが当たり前のいまの開発事情だとありうる。
購入者側としては色々混迷した結果の「バグでした」という発言は、なんか言い訳っぽいと感じるのは仕方ないけど、そこを一歩踏みとどまって冷静に考えてみると、説明が付く点が多い。
嘘つき、詐欺って叫んでいる人、間違った情報を元に買わされた怒りに支配されて、本当に詐欺等ならどういう動機でどういう経緯だったか考えること放棄してるでしょ、ぶっちゃけ。
発売後、UBIJやアジアの各支社が規制に関して発表を行った。
日本では関係機関と相談してこのような規制になったというような説明をし、日本以外のアジアでは日本のCEROに準拠したと発表した。
例えばヌード規制のいらない国で規制がかかっている妥当性はCEROの名前を出さないと説明できないので仕方ないのよ。日本だけCEROの名前を出していないのは、CEROに準拠しているのはあえていうことでもないからか、名指しを避けたのかだろう。
この件は日本以外の国で不要な規制をかけたUBIアジアに怒りを向けるのが正しく、CEROに腹を立てるのは筋違いでユーザーが間違っているだけ。まぁ、UBIアジアが下手を打ったといえばそうなのだが、UBIがCEROに責任をなすりつけたは間違いだと思う。この辺がUBIJ憎しな解釈でどんどんねじ曲げていく人への自浄作用が働かないのは炎上の悪いところ、それなりに「いや、そこは違うだろ」という人はいるんだけど、UBIJ擁護的な意見は一部否定でも認められん! という力学が働くことが多い。
そもそも、日本のユーザーは「俺はCEROの味方だから、CEROへの攻撃はゆるさん!」という人でもない限りこの傾向に対する危惧はあっても、怒るようなレベルでの実害はない。
そうなるとアジア各国でCEROに対する非難が出る(そもそもCEROを非難すること自体不当だと思うけど)、日本の今の炎上を思えば海外のユーザーでCEROに怒りを抱くものがでるのもさもありなん。
色々苦情があったのかはわからないが、ここでCEROが「UBIJとは協議も行っていないし、流血ありで審査通してるけど?(怒)」という声明を出す。CEROが喋った! という驚きの声が上がりつつ、UBIJに怒りを抱いているユーザーはCEROの反撃に拍手喝采。普段はゲーマーからマイナスの感情を向けられがちなレーティング機関のCEROがユーザーの側に付いた歴史的瞬間かもしれない。
とにかく「ここでUBIJがまた嘘をついた!」という声が上がる事態になるのだけど、最初UBIJ側が流血ありでCEROの審査を通して、発売版で規制していた意味がわからなかった。この時点ではUBIJ側からバグという発表は無かったから。
嘘をつくにしても、詐欺をするにしても、この動きは説明できないように思える。
なのでこの時点でCEROを通した後に、さらに残酷な表現のCEROへの報告漏れが発覚したので過剰に表現を規制したのかも、なんて考えていたがスッキリしなかった。
流血以外の首切断やヌードに関する規制に関してはCEROに準拠させたため、アジア全体でCEROに準拠と発表したのだろう。
ここで資本主である中国に合わせたけど、それが言えないからCEROに責任を擦り付けたのだろう! という説もあるけど、正直中国の規制事情がわからないので、私は判断が付けられない。
まぁ、中国のレーティング機関に合わせたっていっても中国資本は意に介さない気もするし、中国に気を使ったなら、アジア全体のレーティングを考慮したってぼかして言えば良いだけでCEROをスケープゴートにする必要はない。流血に関してはバグであれば、そもそも規制対象ではない。
中国っていうけど、香港とそれ以外で事情はことなるよね。香港以外ってバイオハザードも発売できなくて、なんか名前変えて売ってなかった? まぁ、中国云々はわからない。
(中国で販売が禁止されている『バイオハザード RE:2』を売るために、売り手は「隠語」や「暗号」を使う)
https://automaton-media.com/articles/newsjp/20190127-84042/
(追記)調べてみたらバイオハザードに関する記事は見つけることができた。
それを置いておいて、日本の関係機関って何? CEROは相談受けてないって言っているよという問題が別にある。
関係機関というのがCEROを指すのか、SONYなんかのコンシューマー機メーカーなのか、いやいや各アジア支店で相談しただけなのかが明確じゃないので困る。
個人的にはアジア支社全体で相談してCEROの基準で通せば各国でも売れそうだから、CEROに通るようなこういう規制にしようと相談したということじゃないかと考えている。
CEROの基準に逸脱する表現での販売があったとCEROが発表。UBI側は今発売している版では修正済みと報告したらしい。
週末ぐらいに無規制版(流血規制云々ではなくみんなが望んでいた完全な無規制)がUBIのストアで発売されていた件を言っているのだと思う。他にもビデオカードの付属版だと規制が無いという話もあったからそれを指すのかもしれない。
ストアの件はゴタゴタの最中だったから「問題出たから、日本版一旦差し止めて!」と慌ててストアで操作して差し止めたら、そういう仕様なのかバグなのか、操作ミスなのか海外で売っている版が買えるようになったとかじゃないだろうか。無くはないだろうけど、設定後にちゃんと動いているか購入をトライして確認するということを誰もしなかったのか? という腑に落ちない点は残る。
先の海外CERO準拠発表のお返しかどうかは・・・疑わしきは断ぜずの精神。
とはいえ、このCEROの発表も無規制版販売のことを指していると明言していないので、購入者というかUBIJとCERO以外の者には説明不足だったりする。
たぶん、騒動になっている流血規制のことかな考える人だったり、規制されているはずなのになぜか描画される首切断からの出血ドバッのことかなと思う人いると思う。ユーザーには知らされていない他の何かについてかもしれない。
こういう説明不足の点にUBIJ憎しのバイアスのかかった「事実」が生み出され、まことしやかにそれが積み重なっていくのがネットの炎上な気がする。
UBIJ側の発表が迷走した。
最初は関係機関と相談して流血規制をすることになったと発表して、次はCEROの発言の直後、やっぱり社内の問題でしたテヘペロと報告したのだ。
ユーザー側としたらそりゃ怒るのもしょうがないし、信頼できないのも確かだけど、騙すつもりなら目的もなくユーザーを混乱させて喜ぶ愉快犯だし、詐欺だとしたら効果が無い。
混迷しているし、正しくもなかったけど、騙すつもりでも詐欺でもないことは明白(いや愉快犯説っていったけど、本気であると思う?)。
じゃあ、内部で何があったんだろう? となると流血規制がバグなら予想ができる。これまでの推測より想像に近いけど。
UBIJは日本支部でおそらくマーケティングチーム主体だ。開発の本体は無い。
そうなると規制内容の詳細とか、バグの有無は本社に確認するしかない。ただしバグというのはやっかいなもので、特定しないと「調査中」程度しか開発チームは言えないのだ、だとしてもマーケティング部門はいつまでも調査中というわけにもいかず、色々確認しつつ回答するのだ(本当にユーザーの方を向いていない、馬鹿にしている態度なら何も言わずに放置しておくんじゃないかな。結果誤報を出したけど、ユーザーに真摯な良いマーケティングチームだと思うよ)。私もプロダクトに関しては開発よりなので、もうしわけないという思いを抱いている(でも、まだわからないとしかいえない)。開発側のバグなどで迷惑をかけた(まぁ、新しい事実がわかって開発からの回答が二転三転することもあった)が、信頼して矢面で対応してくれるマーケティングチームやユーザーサポートには神と崇めんばかりの感謝をしている(UBI内に信頼関係があるかは知らん)。
そして、アサシングリードヴァルハラはお世辞にもバグが少ないゲームではなかった。世界全体で発生している進行不能に関する問題と、アジアの規制に関する問題、どちらを優先して対応するかは推測するに難くない。
何かがおかしいという思いはあっても、本社に問い合わせても「調査中」とか「仕様通り(バグは見つかってないからねこの時点で、そんなもんよ)」という回答ぐらいしかもらえない中。UBIJは何かしら発表はしなければならない(バグは特定できない場合は数か月かかるかもしれない。そんなもんよ、優先度低そうだし)。各支社と相談したけど「CEROに合わせるって話したよね。規制があるなら日本準拠しかありえないよね(バグは見つかっていない)」なんて話があったのちの、
「日本で発売可能となる表現修正を再度検討した結果、流血表現の削除も修正項目に含まれることとなりました」
という発表をしたのかもしれない。結果、続くバグという発表と矛盾することになるし、どちらかが間違っているのだから批判も信頼低下も起こるのは仕方ない。
(追記)読み直していて勘違いに気が付いた。「再度検討」したのか、元々の規制がかかっていた原因ははっきり言えない(まぁ、バグだしこの時点ではわかってなかった)けど、発売後のこの発表をする少し前に再度検討して流血に関しては規制としたってことか、どちらにしろ後で撤回するから、早まった発表だけど、その時点の動きがより理解できた。できるだけ正確に伝えようとするユーザー向きの姿勢だよ。
けども、日本を馬鹿にして騙したわけでもないし、詐欺という批判もちょっと考えにくい。悪気はないんだよ。海外本社の企業でアサシングリードヴァルハラほど大規模なオープンワールドゲームを発売した当初に、日本の1支社が常に正しい情報を発信できなくても当たり前だと思う。間が悪かったり、CEROに飛び火したりとかあったけど・・・。
UBIJに落ち度が無いとか、UBIJが正義というつもりも無い。
意図がある無しにかかわらず、迷惑をかけたし、間違った情報を発信している! という声に関しては、その通りだと思うしそれを否定する気は無い。悪気はないって言っているだけ、悪気が無ければ良いというのもではない! という意見に関してもその通りだと思う。ただ詐欺といいたいなら、詐欺を行う意思の立証が必要だから、詐欺とは言えないねというだけ。
景品表示法は発信者の意図関係なく成立するから、これを主張するなら訴えてみて欲しい。有罪が確定したら犯罪呼ばわりすればいいし、それまでは犯罪者呼ばわりは不当な決めつけだろう(容疑者?)。
まぁ、事実はUBIJのみ知るなので、推測しかできないけどバグとか、本社支社の連携の難しさとか、良く調べないで焦って発表した結果である可能性は高いと思う。
ユーザーを馬鹿にした詐欺企業ってのより現実味はあるんじゃない。
嘘の定義を調べてみた(Wikiで)が「嘘とは事実に反する事柄の表明であり、特に故意に表明されたものを言う。」とある、特にってところが絶対ではない感じがするけど、嘘つきと罵倒するのも罵倒する側が狭量な感じ。
詐欺は詐欺を働く意図を立証しないと駄目だから、詐欺って呼ぶのは明確な悪意の証拠でも出てこない限り正しくない。まぁ、UBIJ悪意無いよきっと。
というわけで、みなさん「詐欺!」とか「嘘つき!」という発言を、「UBIJは悪意は無いけど間違った発表をしてしまった!」に置換しましょう。怒り舞い踊る炎上もずいぶんマイルドに鎮火しそうな気がしますよ。
炎上って現実としてどうかより、罵倒できて鬱憤を晴らせるかで正誤を決めている気がするから、彼らにはこの声は届かないだろうなぁと思いつつ。ネットの発言が炎上一色というのも良くないなぁと思い書いてみた。
というか、エスカレートしすぎて広報の人への個人攻撃とか、ヴァルハラのプレイ動画配信者への批判にまで至っているのはひど過ぎる。よく言われるように、ネットの炎上は0.5%論が正しいことを祈る。本気でUBIJが悪意を持って嘘をついたとか詐欺を行ったと思っている人が大半だとするとネットは中々絶望的な環境だ。
自分たちが普段そういう発想だから、相手側もそう見えてしまうというのはあると思う。匿名で煽り、煽られる世界から少し離れてみてはどうだろう。
最後にUBIJは翻訳の品質もいいし、色々販促もがんばっている(オデッセイの時に藤村シシンさんを呼んだのはグッジョブでした)し不当に貶める評価は無くなって欲しい。サポートは別の件で以前お世話になったけど、いかにも大企業的というか、型通りの対応で改善して欲しい。商品はバグも多いし、値下げも早いから発売日に買って悲しくなるから改善して欲しい。