はてなキーワード: 書道とは
American Pastime(National Pastime)と言えば満場一致で野球なのだろうけれど、Japanese Pastimeってなんだろう。
検索してみたら和歌であるとする論文があったり、書道、折り紙、カラオケ、スポーツ、漫画読みであるとするまとめサイトもあったりする。茶道を挙げるサイトもある。
National Pastimeを国技と訳してアメリカの国技は野球であると言っている人が多いけれど、国技とNational Pastimeは異なるものなのだろうな。アメリカに国技という概念は無いんじゃなかろうか。日本でも相撲協会が自称しているというだけで概念は曖昧か。
今年に風俗で遊んだ女の子のメモから印象的だった子のまとめ。ちなみにメモによると年間の風俗支出は33万6千円だった。
ショートカットと八重歯が可愛いバスケ部系女子大生。びっくりするくらい柔らかくてデカいスライム系おっぱいと、ちょい日焼けしたツルツルお肌がやばかった。
文学部の女子大生。見た目は真面目そうなタイプ。専攻が中国書道史で、王羲之の功績について講義を受けながらしごかれていたらたくさん出た。
ロリータ系のメンヘル女子大生。リスカ跡と演技がすごいが顔はめちゃめちゃ可愛かった。
推定148cmのロリ系フリーター。安達祐実に激似のルックスとパフィーニップルが最高に興奮した。プレイ中ずっと好きなAV女優の話を聞いていた。
165cmで超足が長いモデル系。パパ活と風俗で食ってる模様。「街歩いてるちんちくりんの女は哀れすぎて気の毒になる」「報酬が発生しない食事に耐えられない体質」など含蓄のある言葉をたくさん頂いた。
ジムのトレーナー兼業のためかケツとおっぱいがぷりぷりだった。あまりに身体が綺麗なので「彫刻みたい」と言いたかったのだが間違えて「仏像みたい」と言ったら蹴られた。見た目は冷たい系のギャルだが乳首が敏感で感じまくっているのが興奮した。
事務職兼業。本上まなみ似の清楚系だが自分人生初のドMちゃんで、「首絞めながら頭撫でて欲しい」「おっぱいを握り潰す感じで触って欲しい」「昨日はハプニングバーで9Pして疲れた」などと言われて大変戸惑った。
ロリ系の眼鏡っ子女子大生。三つ編みが似合っていた。献身的な乳首舐めが最高だった。
営業事務OLとの兼職。ややぽっちゃりで狸顔の癒し系。会社がパワハラ体質らしく壮絶な様子を語ってくれた。ぱふぱふしながらよしよししてもらって至福だった。
専業風俗嬢。顔はお姉さん系で普通だがテクは流石にすごかった。「家が職場に近いと嫌な時間が早く始まってしまうから考えもの」とのコメントにはなかなか感心した。
美容部員兼業でめちゃめちゃ美人だった。化粧ぱっちりのギャルっぽい美形の顔で見つめられながらしごかれて超興奮した。
医療系専門学生。渋谷で遊んでる女子高生まんまの雰囲気。ずっと胃下垂の話をしていてムードもクソもなかったが、可愛い女子高生みたいな顔と張りのある若いおっぱいが素晴らしすぎるのですぐ出してしまった。
見た目は普通のお嬢様系でスリムなのにおっぱいがめちゃくちゃデカい。遠恋中の彼氏の話を聞きながらプレイして若干興奮した。
エステティシャン兼業で見た目はキャバ嬢系。さすがに身体を触るのがうまかった。昼職の方の客はおっさんのちんこ触った手で施術されてると知ったら発狂ものだろうな…
サブカル系女子大生。乳首がツンと上向きでパツパツに張ったフィクションみたいなおっぱいだった。プレイ中は三池崇史の話をして楽しかった。
※雅号ではないかという指摘をいただいたが、うーん、そうなのかなあ。
本人はそんなに真面目にやってるっぽくはなかったし前述の通り上手くもなかったし、何でその名前なのかもよくわかってないような印象を受けたんだけど。
先生の「漢字が難しいから」という説明もよくわからない。小学生に雅号の概念が難しいと思ったのか、それとも記憶違いだろうか。
そこに通ってた友達が、なぜか本名で名前を書いて(書かせてもらえ?)なかった。
プライバシーのため仮名とするが、彼の名前が「楽天 一郎」だとすると
「楽天 楽一」
みたいに名前を書かされてた。
本人は別に気にしてないようだった。
習字に書く名前がフルネームだったか、下の名前だけだったかは忘れてしまったが、
彼だけが苗字と名前から一字とった「楽一」的な名前を書かされていたのが、妙に記憶に残っている。
下の名前だけを書いていた場合、同じ名前の子がいるから名前を少し変えたという理由も想像できるが、わざわざ一字ずつとった名前にするのもへんな気がする。
特に長い名前でも、ハーフで外国語が入る名前とかでもなかった。
コンクールに絡むようなうまい習字だったとか、本人が有名人で名前を隠す必要があったとか、そういう特別な事情も一切なかったはず。
小学生の習字なんて親くらいしか見ないし、名前って結構大事な物だと思うんだが、なぜそんなことをしてたんだろう。
当時、気になって先生に聞いてみたが「名前の漢字が難しいから」という説明だった気がする。
これも謎で、別に難しい漢字ではなかったし、普通は小学生なら自分の名前くらい書けるし、そいつも馬鹿じゃなかったので書けないってことはなかったはず。
最近思い出したときに気がついたのだが、本名は「楽天」ではないのだが、一応左右対称っぽい苗字ではあった。
考えすぎかもしれないが、もしかして出自に関する差別かと思って苗字を検索した。
しかし、武将の末裔らしいということはわかったが、特に名前を書きなおす理由にはならなそうだった。
あの妙な名前は一体なんだったんだろう。
知ってる人がいたら教えてほしい。
今年の夏心療内科で診断してもらった結果が出て発達障害だろうとのことだった
診察のきっかけは自分のケアレスミスがあまりにも多すぎることを不可解に思ったからだ
それまでも生きづらさはとても感じていたがやはり模試の結果などで明確に提示されると否が応でも自分は何かがおかしいと気付かされた
親と一緒に病院に行った際
「幼い頃から何らかの発達障害だろうと思っていたが本人の気持ちを尊重し、病院に連れて行かなかった」
と言われた
親の言い分も理解できるが、もっと早く分かっていればどれだけ楽だったか分からない
小学校に上がってもそれは変わらず、友人らしい友人は小学4〜5年生になって初めてできたような記憶がある
加えてADHD特有の整理整頓のできなさや不器用さのせいで運動や書道、美術、技術などの実技系の科目と平常点は小中高通して壊滅的であったので内申点が関わる公立高校への受験は諦めて中高一貫男子校へと進学した
中学に入っても部活動に入っても合わなかったため一年程度でやめ、そこから高3まで家と学校を往復するだけの日々を過ごした
別に家に帰って勉強するでもなく、中高6年で親しい友人もできずここ数年間は虚無だった
しかし他人との関わりがほぼなかったため高校生なんてそんなもんだろうと思っていたのだ
我ながら書いていて悲しくなる
もう少し早い段階で発達障害と知ることができれば良かったと思う
少なくとも自らの不器用さとそこからくる劣等感については自己責任ではなく、そういうものだからと割り切れたのにと思ってしまう
続かない。良くて2週間。最長2ヶ月。最短1分。
RPGはレベル上げ途中で飽きる。「歳を取ったからこうなった」ではなく昔からこんな感じ。
友達や知り合い、夫などは3年以上続けていたりする。キャラについて語れる友人も居る。
すごい。その「好き」とか「語りたい」って感情(熱量)分けて欲しい。
喜々として語れる何かを持っている人って、それだけで輝いて見えるし人生楽しそう。
すごく羨ましいんだ、そういう「好き!」ってものがある状況ってのが。
夢を見つけたい増田と一緒だよ。
スイッチのドラクエビルダーズ2(1は途中で飽きた、2は一応クリアまで行ったけど、その後の自由工作が出来ない)
PS4のニーアオートマタ(一回飽きて再開したけど、同時期に夫がやりだしクリアされてしまったのでやる気を失った。2Bの回は1度クリアしたといえる)
ドラクエビルダーズⅡ(一応ラスボスは倒せた。その後の島を自由にして良いってところで飽きてしまった)
(1年程度続いたゲーム。人との関わりと、自分の城が攻められたりと色々楽しかったが仕事中もブーブーうるさいし最終的にイライラしてやめた)
・目標がないとすぐに飽きる⇒目標がありすぎたり、高すぎたりしたらすぐに飽きる
・わくわく感がないと継続できない(ポケモンで自転車をゲットして早くなったときのわくわく感みたいな)
・実況動画が好き
⇒面倒な作業が嫌い、誰かが楽しそうにゲームしているのを見たい、自分を棚に上げて人のゲーム動作を批判したい(?)
・ゲーム実況を見ながら、次の行動を予想するのが好きなんだと思う。
例えば、パーティーで戦うゲームで上にジャンプしてしまう踏み台があるステージ。
予想外な方向にジャンプして戦ったり、予想外の動作をする武器を使って自滅したり。
相手の事を気にせず好き勝手いえる短編ゲームをやりたいのかも。
・友達など身近な人がクリアした話を聞いたらやりたくなる (もっと親しい人が目の前でクリアするとやりたくなくなる面倒な性質)
ゲーム作ってみたいっていう思いもあるから、アイディアでも良いよ。
義務としてやってきた感じがある。
・ドラクエXI (結構序盤で飽きてしまった。スロットだけやらせて貰ったけれど楽しかった)
・クッキークリッカー風スマホゲーム(タップすればレベルや賃金が上がっていくゲームは1週間で飽きる。最短数分で飽きる)
・DAYS GONE(チュートリアルのバイク運転だけやって終了。ゲームヘタクソすぎて10分で断念)
・大乱闘スマッシュブラザーズ(ゲームキューブもやっていた。スイッチ版は持っているが1日で飽きた。そしてヘタクソ)
・ボクササイズ(スイッチのダイエットゲーム。起動がダルくなり1週間で断念)
(シュタインズゲートは一時期見ていたのでゲームもやったけれど、とっても時間がかかるのでスキップしまくった。ゲームを楽しんだとはいえない。)
・モンハンワールド(竜種?が出てくるまで倒せたけど、酸性の湖みたいなところで飽きてしまった。緊急回避は超苦手でヘタクソだった)
・牧場物語(PSVita版か何かでハーベストムーン?とか持ってたけど長くて飽きてしまった。やる事が多すぎても少なすぎても飽きてしまう面倒な奴)
・スカイリム 1日で飽きた
・キングダムハーツ 1日持たなかったと思う
・ウイルスになって菌ばらまいて国を滅ぼすゲーム(99円課金して早くなるバージョンもやったけど2日くらいで飽きた)
とにかく有名どころは手当たり次第やってきた感じ。スマホゲームは特に新作をよくプレイする(※だがすぐに飽きる)
ちなみに、PS4、Switch、PC(Win10)を持っているよ。
・モンスト(友達から言われてガチャを引くためだけに持っている)
・黒い砂漠(仕方なしにやってる感じ。楽しくはない)
・ドラクエウォーク(気の向いたときのみ起動する。GPSをONにするのが面倒すぎてやってない)
・アーチャー伝説(1週間はずーっとやってた。その後飽きて全くやってない)
・バスケクラブ物語:カイロソフト(毎日やろう!とは思えない。なんか飽きる)
作ろうと思っているけれど、そのためには「飽きたこと無い物」を調査しないと。
データが少なすぎて、飽きずに続けられそうな情報が全く思いつかない。
簡単に考えれば
・単調な作業をくりかえさないこと(同じ動作3回目には新しい動作やイベントなど何かあること)
・難しすぎないこと(ニーアオートマタは銃で補佐攻撃もでき、爽快なアクションもあってよかった)
・わくわく感
これらを満たせるゲームって考えると、結構キツいなぁ。思いつかないし。
それは分かってるんだけど、楽しみたいんだよね。
見てて何となくわかった。皆でワイワイゲームしたいんだろうね。
でもパーティーゲームは好きじゃない。(マリオパーティとか人生ゲームとか飽きてた)
リアルでも続けているものってのは無いんだよなぁ。マンガとなろう小説を読むことくらい?
心はいつでもワクワクドキドキを求めているぅ!でも、大体がテンプレ。当たり前だけどね。
ねこあつめ⇒可愛いと思うけど、コンプリート欲が沸かない。すぐに飽きてしまう。
フォートでもpubgでもapexでも荒野でも⇒ちょっと気になってる。
ルーンファクトリー4⇒やったことあった。3日で飽きてしまった。
水槽シム⇒スマホゲーでもあったよね。リアルかどうかは別だけど。結構早めに飽きてしまった。
ポケモンGO⇒1日で飽きた。道端でたむろしている人が嫌いなのでやりたくはない。ごめん。
ゼルダの伝説ブレスオブザワイルド⇒コメント多いね。面白そうな気がするので要検討。でも実況見てたら直ぐ飽きそうな雰囲気あった。
octopath traveler⇒体験版をやったけど、うーん?という感じ。
イース⇒イースIII? PSVITAで出てるのをやって、1日やって飽きた。クリアはできていない。
人生⇒真っ最中。唯一飽きてないというか、惰性で楽しんでいるもの。誰かに語れるほど何かをやったわけではないかな。
追記2
nice801 読んだところめっちゃ続けられてるほうだったのでちょっとがっかりした(;´Д`)
もっと一回起動してやめたとかチュートリアルだけやって飽きたとかばっかりかと。自分リセマラで飽きるのでゲーム始まりすらしないぜ
どれだけのゲームをやってきたか覚えていない。チュートリアルで飽きるのも多い。
少しでも面倒に思ったら、当たり前だけど直ぐに飽きる。その場合名前も覚えてないから書きようがないね。
新しいものが好きで、大量に手を出してはすぐに飽きてる。(買って満足することも多々あり)
リセマラは超絶面倒くさいのでやらない。リセマラしないと楽しめないゲームはそもそもしない。
ここだけ読んでるとめちゃくちゃネガティブだなぁ。
追記3
「飽きる」っていうのは、たぶん「満足できるところまでやってしまう」からだと思う。
物足りない点で止めておければ、やりたいという気持ちは持続すると思う。
昨日はとりあえず1時間くらいやった。「牧場を経営するかい?」みたいな選択肢で「いいえ」ってやったら
エンドロール流れて最初から主人公名決めたりしなくちゃいけなくて笑った。
夫もPS4のゲームをやり始めたので、一緒にやる空気が良いのかも。
ふと生まれ育った町の情景を夢で見て、多少思うところがあったので気持ちを書き留めようと思う。
静かな入り江から小さな漁船が海の彼方へ消えゆくような、そんな夢だった。
最近よく見かける「田舎で非知識階層に囲まれて育ったけど、地元に馴染めずなんだかんだで都会に出てきて過去やホームタウンを思い返すたびに多少絶望する」という散文的な自分語りであることを先に断っておく。
ただの個人の経験であり、エスノグラフィのようなものだと思って読んでもらえれば嬉しい。
確かに「東京の人間が想像することも出来ないような社会」が日本のどこかには必ずあって、学ばないことが規範と化して社会が再生産されているということ。
名古屋まで電車で1時間半以上、文化的な施設といえば聞いたことのない演歌歌手がたまに来る小さな市民ホールと、小さな本屋が2軒あった。
2軒の本屋は万引きの被害額が大きすぎて自分が町を出た後に潰れた(跡地はセレモニーホールという名の葬式場になった)。
1時間に一本しか電車のこない駅から伸びるメーンストリートで今でも開いている店は、年金暮らしの年寄りが趣味でやっている畳屋と宝くじ屋しか無かった。
街中でスーツ姿の人は見たことがほとんどなかったし、そもそも人が出歩いている記憶すらない。
高卒で一度も町から出たことのない母親は、漁師を相手にする場末のスナックで働いて自分を育てた。
同じ町で漁師をしていた父親はフィリピンパブで出会ったフィリピーナに入れ込んで、小学2年生くらいの頃に母親と離婚した。
それより前には「キミの父親は不倫をしているんだ」と小学校の同級生の母親から聞かされた。
相手は近所に住んでいた太ったおばさんだったので、あんなデブとなぜだろうとその時は疑問に思ったけどすぐに忘れた。
最後に父親と会ったのは、父親が家を出て半年後くらいに小遣いをやるからと呼び出された紫煙で視界の悪い雀荘だったと記憶している。
その後は行方不明で、風の噂では今はマニラに住んでいるらしい。
こんな家庭環境は、東京の自分が属するコミュニティでは聞かない。
なぜそんなことにわざわざ触れたかというと、自分の家庭は何も特別ではなく、周囲を見渡せば程度の差はあれどどこもそんなものだったから。
親が大卒の同級生なんてクラスに1割も居たかという感じだったし、自分が通った地元の中学校には200人くらい同級生が居たがそのうち大学に進んだのは20人くらい。
自分は博士まで進んだが、マスターレベルですら聞いたことがない。
あとで詳しく触れるが、そもそも勉強をするとか考えること自体を忌避するという一貫したスタイルがあらゆる局面で通底していた。
さて、シングルマザーの家庭はクラスに3割は居たし、両親が揃っていても母親・父親違いの兄弟姉妹が居るなんて話も珍しくない。
親世代の職業は漁業か水産加工、町工場、自動車修理で、小中学校教諭や公務員の子息は格の違いを醸し出すスーパーエリートの家庭扱いだったし、家も小綺麗だった。
スーパーエリート以外は、トタンの壁が海風で茶色く錆びて、汲み取り式のトイレから伸びる煙突の先がクルクル風で回っている文化住宅か、古民家カフェを思いきりボロボロにしたような都内なら廃屋だと思われるような家に住んでいた。
町工場に勤めている人たちで指が無くなったなんて話もよく聞いたし、どこそこの家が生活保護受給とかという話もよく聞いた。
クラスメートが学校を翌日休む理由が、その前に起こした暴力事件で家裁に呼び出されているからとかもよくある話だった。
そんな彼らが余暇にすることといえば、スナックかフィリピンパブ、ギャンブル、セックスくらいしか聞いた限り思いつかない。
確かに、成人した兄がいる同級生の家に遊びに行った時には、真昼間から居間で同級生の兄と派手な格好をした若い女性がセックスをしていたし、パチンコ屋には毎朝人が並んでいた。
ギャンブルはパチンコか電話で投票する競馬が主流だったが、甲子園の季節になると地元の暴力団が元締めをする高校野球賭博も流行っていた。
暴力団は偽ブランド品も売りさばいていて、軽自動車にスウェット姿だけど鞄は高級ブランド(偽物)という出で立ちの女性をよく見かけたものである。
まぁこんな感じでつらつらと思いつくまま挙げてみたが、自分の身の回りで溢れていたのは、キーワードでいえば貧困、性、暴力、ギャンブルだった。
そもそも大人たちがそんなスタイルだったので、子供達も似たような社会をフラクタル図形のように構成していた。
小学校の頃には駄菓子屋やコンビニでの万引きが横行していて、後に刑務所に入るような子供たちはその時代からすでに盗んだタバコを吸って、やっぱり盗んだバイクに乗っていた。
暴走族(ゾク)に入って大人たちを殴ったり大怪我するほどのゾク同士の喧嘩をする中学生たちが小学生のヒーローで、ゲリ便が出る時のような音を撒き散らすバイクに皆憧れていた。
そんな時に暴力的な彼らは、異質な存在を排除することが大好きで、異質とみなされた同級生は徹底的に排除された。
小学6年生のとき、教室に入ったらメガネをかけている子が素っ裸で椅子に縛り付けられて頭にバケツを被らされていた。
メガネは弱いものの象徴で、勉強や議論をするような人間は排除の対象だった。
文革かって感じ。
反対に、野球が上手いか、足が早いか、ケンカが強ければヒエラルキーの上部に君臨できる。
動物的に強弱を判別できることがそのままヒエラルキーの源となっていたし、意思の合意は感情とその時の雰囲気で決まっていた。
そして中学生になると、今度は成績が良い人が排除の対象となる。
真夏に水を飲まずに走りこんで泣きながら試合に負ける部活に打ち込むことがすべてに勝り、もしくは非行に走ることがある種の中学生らしさであるというコンセンサスを伴って正当化されていた。
授業中には廊下を自転車が走り、思い出した頃に校庭に暴走族や野良犬があらわれる。
トイレにはタバコの吸い殻が落ちているし、たまに窓ガラスは割られていた。
教師はたまに殴られたり、殴り返したり、車を壊されたりしていた。
一方で登校している生徒にとっては、校則はフーコーのパノプティコンも真っ青な規律を自動化させるもので、髪型は男子は坊主、女子は肩まで。
他にも細かい校則がたくさんあって、破れば容赦無く教員から殴られる世界だったし、皆が一緒であることを望んでいたので、逸脱すれば容赦無く告げ口されていた。
校則を破らなくても、目立てば排除の対象になりうるので、いつしか自分も誰かが見張っていると意識して、いかに溶け込むかを重視するようになっていた。
そして積極的に学んだり考えることが嘲笑の対象であったので、そこでもやはりセックスをしたことがあるかとか、バイクの知識があるかとか、そういう分かりやすい尺度でヒエラルキーが構成されていた。
授業中に教師から指名されて小難しい答えを言ったり、発音記号通りに英単語を発音しようものなら3日は真似をされてイジられるのは御多分に洩れず自分の地元も同じだった。
テスト期間は早く帰れるので皆喜んで下校後に遊ぶレベルの勉強に対する姿勢で、将来は男子は工業高校、女子は商業高校に通ってそのあとのことは何も考えないのが一般的だった。
ここまでは自分がライブで触れた15歳くらいまでの環境の話で、せいぜい15年くらい前の話だ。
はっきり言えば、そのような環境はまっぴら御免だし、そんなところで自分の子供を育てたくはない。
さて、経緯は知らないが、自分は幼稚園の頃にIQテストを受けた。
そのあとに、あなたの息子は知能指数が高いから相応の教育を受けさせてあげてくださいと園長先生から母親はコメントをもらったらしい。
大学のことすらよく知らない専門学校卒の母親だったが、自分を都内か海外の全寮制の学校に小学生のうちから預けようとした。
だが、当時の自分はこともあろうに泣き叫んで拒み、結局は地元に残ることを選んだ。
当時のことはよく覚えていて、理由は友達と離れたくなかったから。
その時に知りうる限りの世界を取り上げられることに対する極端な不安が何よりも勝っていて、母親は息子の気持ちを優しくも汲み取って折れた。
小学校に上がった時、小1か小2くらいの頃から、本を読み始めた。その頃に三島由紀夫や島崎藤村やら、古い作品から新しい作品まで縦横無尽に慣れ親しんだ。
早朝に登校して空いた時間や、ジャンケンで負けて押し付けられた図書委員の時間、図書室でひたすら本を読んだ。
そのうちに、自分が生活する社会と根本的に異なる社会、つまり学び、考えることが重要であるという社会が存在することを知った。
哲学や思想系の本はもちろんのこと、西洋美術の画集や建築の写真集に心を揺さぶられたし、マーラーのCDを初めて聞いた時の感動は死ぬまで忘れないと思う。
めちゃイケを好むふりをして、自分は加藤周一の羊の歌に感銘を受けて、とりあえず東大に行こうと中学の頃には考えていた。
そして周囲に迎合しつつも高校に進んだ。いわゆる地方の公立トップ校だった。
他にも理由はあったと思うが、中3の時には成績が良いという理由でものを隠されたり上履きにガムが入っていたこともあった。
入学から1ヶ月もしないうちに、明らかに新たな社会、社会階層に自分は組み込まれたと自覚した。
同級生の親の職業は、医者、弁護士、会計士、大企業の社員ばかりだった。
誕生日には名古屋のデパートの上層階のレストランだったり、どこぞで伊勢海老を食べるだのとそんな話もたまに聞いた(成金的な家はあまり無かったけど)。
彼らの親は旧帝国大学出身はざらにいたし、兄が東大、今はオックスフォードに留学中とかそんな話も当たり前にあった。
幼い頃からピアノやバイオリン、書道、バレエ、スイミングなんかをやっているのがマジョリティだったし、週末に美術館やコンサートホールに足を運んだという話も決してレアな話ではなかった。
彼らと出会ってとかく感動したのは、好きだった本や芸術の話を初めてリアルの人間とできたことだった。
そして何より彼らは、自身の解釈や、見解を示してくれたし、自分のくだらない議論にも向き合ってくれた。
もちろん性やギャンブル、暴力、ワンピースの話もたまにはあったが、それ自体を享受するだけでなく、思考の対象としても話題を取り上げることががあった。
高校以来、自分は学び、思考する人しか存在しないかのように振る舞う社会に身を置き続けている。
今にして思えば、もっと早く外の世界に出た方が良かったのではと素直に思う。
なぜなら、受動的に与えられたその社会が自分のすべてだったから。
母親が母親であるように、生まれ育った社会は生まれ育った社会であって、代替がきかない。
自分はたまたま、自分が立っていた社会と違う社会を知りうるきっかけを子供の頃に得たから今があるのであって、その機を逃せば一生地元に居ただろう。
なぜなら、考えることや知ることを拒むことが規範となる社会では、外の世界があるということ自体を知りようがないのだから。
自分は考えることも、こうして頭の整理をすることも好きだ。
パチンコの新台や、友達の奥さんが不倫をして旦那が相手と殴り合いの喧嘩をしたとか、そういう動物的な話題を「それ自体」をただ消費する社会に少なくとも自分は興味がない。
もちろん、そういった社会(自分が経験したような)を否定する理由はどこにもない。
ただ、自分が故郷を捨てたように、その社会に残るのは、その社会に適応しきった人々である。
有り体にいえば、将来の選択肢の存在すら意識できないのが自分の体験した社会であり、どのような選択肢があるのか獲得しようする営みそのものが封建的に否定される強い構造を伴っている。
だからこそ、自分の田舎はいつまでも同じ姿を留めることに成功しているのだと思う。
もちろん、その社会自体が恐ろしいぬるま湯であり、外には異なる社会が存在することを予期している人も稀にはいることだろう。
幼い息子を外の世界に出そうと考えた母がそうだったように、おそらくそれに気付いた時に自身を好転させるにはあまりにも遅い場合が大半であると自分は思う。
そして、自分は今更何があったとしても、地元の彼らと交流することはできないし、するつもりは一切ない。
母はもう二度と戻ってくるな、お前の居場所はもうここにはないと電話口でことあるごとに言う。
一方で、開成や筑駒から東大に進んだ都内組は何も捨てることなく、安定的に自分が望んだ社会を享受してその上に今も生活を営んでいる。
それは誰でもそうであるように、最後の最後に拠り所となり得る自らの地域的なアイデンティティをきちんと持っているということである。
自分は依拠すべき地域(地元)を自己実現と引き換えに失ったのであって、願わくば我が子には地元を与えるか、もしくは地元がなかったとしてもサバルタンとなり得ない思想的な土台を築いて欲しいものである。
☆破門☆
ネタバレあるので、まだ観ていない人は右上の×を押してください。
新海誠監督の最新作『天気の子』を観てきました。「ヤフー映画」の感想とかを見ていると、新海監督が公開前に言ってたように「賛否両論」の様子。……しかし、否定的評価をしている人たちの感想を見てみると、「賛否両論以前の問題」で、人物描写が薄っぺらさを指摘している意見の多いのが印象的だった。
だが、待って欲しい。「人物造形が甘い」とか「人物描写が薄っぺらい」という批判を新海誠にするのはいかがなものか。そもそも、新海作品にこれまで重厚な人物描写などあっただろうか? 薄っぺらくない人物なんて一人としていただろうか?
まず、大ヒット作『君の名は。』で考えてみよう。瀧君も三葉も奥寺先輩も、ラノベ並みの、いや、そういう言い方はラノベに失礼なくらい、ペラペラの薄さだったと思いますよ。三葉の悪口を言ってた同級生たちなんか、当社調べでは0.01mmの薄さで、わが日本が誇るコンドーム会社オカモトが対抗意識を覚えるくらいの薄さじゃないですか。
『秒速5センチメートル』も同じ。主人公(遠野君)は半年前に転校したメンヘラ気味の女の子に会うために、東京から栃木に電車で向かう。しかし、大雪のために途中で電車は大幅に遅延する。その時の主人公(遠野君)のモノローグを皆さん覚えていますか?
「たった一分がものすごく長く感じられ、時間ははっきりとした悪意を持って、僕の上をゆっくりと流れていった。」
ごめん。最初『秒速5メンチメートル』を見た時、私はここで腹痛くなるほど笑い転げて、逆に何度もここを再生しましたよ。もうね、ほんとリアル中学二年生でもこんなポエムを呟かないですよ。時間は君に悪意を持つほど暇じゃないと思うんだよね。たんに大雪のために電車が遅延してるだけやん……
未見の方いたら、すみません。この電車の遅延、単なる一つのエピソードじゃなくて、『秒速』のなかでは、物語の要となるようなエピソードなんです。
意味不明自己満SF『雲の向こう、約束の場所』、ジブリを真似た結果盛大にコケた『星を追うこども』。これらも、人物描写は書道半紙なみの薄さです。
『言の葉の庭』も、ストーリーや人物描写の甘さについては微笑せずにはいられません。ユキノ先生がいじめられてる理由とか、いじめてる生徒の描写とか、これ薄っぺらくないと思う人いるの……?
まあ、いるんだと思う。それはそれでいい。私が言いたかったのは、『天気の子』が「薄っぺらい」という理由で批判されるのは不合理だということである。初めっから薄っぺらいし、中二病だし、セカイ系だし、自意識過剰のウィスパーヴォイスがうざいし。そんなこと、分かり切ったことじゃない。それを今更批判したってどうしようもなくない?
というわけで、『天気の子』もただひたすらに薄っぺらいわけです。ストーリーや人物描写の説得力とかには期待したらダメ。リアル中学生でも、もう少し人間に対する洞察力をもった人は五万といる。そのレベルです。主人公はどうやら「神津島」から家出をして「東京」にフェリーでくるわけですが、家出の理由、とくになし。至って普通の家庭で、酷いイジメにあっていたとかでもない。なんとなく嫌だったから、くらいのノリ。いわゆる反抗期? なんとなく盗んだバイクで走りだしたい気分? サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて(The Catcher in the Rye)』を持っていたけど、まさかサリンジャーに感化されて?(笑) いや、笑いごとじゃなくて、マジで新海はそのレベルでなんとなく家出をさせてOKだと思っている人なんですよ。
じゃあ、なんでそんな薄っぺら新海作品はこれまで評価されてきたのか? とくに『君の名は。』の歴史的ヒットはなんだったのか? 問題はそこにいたる。
第一に挙げなくてはならないのは、美しい背景描写だろう。カメラレンズを強く意識して、超広角レンズや逆光、望遠などが多用される。しかし、実際のカメラではあんなに綺麗に映ることはない。細かいファンタジックな「嘘」がそこかしこに散りばめられている。ありえそうだけどありえない風景。新海が描き続け、そして観客を魅了しているのは、そうした風景にあるんじゃないのか。もっとも、この美しい風景も、セカイ系の、センチメンタルな自意識過剰の、中二病ポエムではないのか、と反問されるだろうが、それについて私は次のように答えるしかない。「いかにも、その通り」
で、そこから「新海誠=童貞」のような公式がでてくるわけだ。「たぶん新海さんは楽しい恋愛を高校時代にしたことがないんじゃないですか」(石田衣良)という言葉が出て来る所以であろうが、これについては一言。たしかに新海誠は自意識過剰の中二病ポエマーであるかもしれないが、全ての童貞が自意識過剰の中二病ポエマーであるわけではないし、またその逆もしかりである。童貞に対して失礼である。石田衣良には猛省を促したい。
さて、『君の名は。』ヒットの理由について語るのは当然のことながら難しい。だが、これを見た人の多くが「東日本大震災」を想起したことは無視できるものではないだろう。『君の名は。』は、良くも悪くも「震災芸術」であり、『君の名は。』の賛否両論の根底にあるのも、「震災をなかったことにしてもいいのか」というこの作品についての疑問から生じているだろう。
『君の名は。』には、カタルシス(浄化作用)がある。瀧君と三葉の恋物語以上に、この映画で「主役」となっているのは「彗星」であり「隕石」である。突拍子もないことのように思われるかもしれないが、これは演出上も疑いを得ないことである。このことについては伊藤弘了という人が「恋する彗星──映画『君の名は。』を「線の主題」で読み解く」という卓抜な評論を書いているので一読を勧めたい(http://ecrito.fever.jp/20170123213636)。
少しだけ説明する。「糸守湖」が出来たのは劇中でも語られるように、1200年前にここに隕石が墜落したことにするものだ。瀧君と三葉は三年の時間差を越えて出会いを果たすわけだが、その奥には1200年という長大な時間を経て、同じ彗星が墜落するわけで、あの惨劇を生み出した隕石は、それ自体、隕石の恋物語でもあったというわけだ。瀧君と三葉の悲恋は、その運命を受けいれて、むしろその「運命そのもの」に同化するような形で、自己を超越した恍惚体験へと昇華する。これが、『君の名は。』のインパクトである。伊藤は言う。
観客は人智をはるかに超えたティアマト彗星の壮大な恋物語のうちに自らの似姿を見出し、同時に自己自身を超越する感覚を疑似体験する。これが本作の記録的大ヒットを支えた一因である。
この伊藤の読みは、それ自身、私も正しいと思う。ちょうど隕石が地球を目がけて猛烈ないきおいで突進してくる際に流れるRADWIMPSの「スパークル」の歌詞をここで引用しておこう。
伸ばそうと届かない 場所で僕ら恋をする
いわゆる「サビ」の部分がはじめて出て来るのは、隕石墜落のシーンなのである。彗星は隕石と化して「いまだかつてないスピードで君のもとへダイブを」するわけである。観客はかくして、瀧君でも三葉でもなく「隕石」に感情移入をすることになる。それによって、運命を超越した運命とでもいうべきものに同一化し、「自己自身を超越した感覚を疑似感覚」させるのが『君の名は。』である。ちなみに言っておくと、これは何も新しい話ではなく、ギリシア悲劇の古典的なパターンであり、「悲劇」の快楽そのものである。この点についてはニーチェの『悲劇の誕生』を参照して欲しい。
要点のみを記す。1200年前に糸守町に落ちた彗星は偶然の産物である。劇中で墜落する彗星の《片割れ》もまた偶然の産物である。その偶然をしかしながら運命的なものにするのが『君の名は。』のドラマである。隕石は、人間の視点からはどうしようもない《偶然的=運命的》なものであり、それが世界に災厄をもたらす。それは《悲劇》である。ニーチェが述べるように、悲劇とは一方では自身が運命に翻弄され自身の非力さを痛切に認識した上で、他方ではそうした小さな自己を超越し運命そのものに一体化する感覚のあるところに《悲劇》の快楽があるのだとすれば、『君の名は。』における悲劇とは、次のようなものである。(A)それは自己の意志の無力と運命の強調という形で行われるのではなく、(B)確かに一方では自己の意志の無力さを痛感させられるが、星の動きはたんに災厄をもたらす運命だけではなく、同時に強烈な人間的な意志でもあるのであって、運命から逃れていく偶然の力として描かれるのである。ここにおいて、まことに《運命=偶然》という奇跡的な場所での物語が描かれるのであって、その強烈さに私たちは感動をするのである。
震災を《運命=偶然=意志=恋》と化すことにより、現実の震災を美的に昇華してしまうのが『君の名は。』である。『君の名は。』は過去にタイムトラベルすることで「震災をなかったこと」にするだけではなく、上に書いたように、情動レベルで震災というトラウマを「昇華」させて、フロイト流にいうならば「喪の作業」を遂行することを促進するのである。「昇華」とは、「忘却」の別名である。
こうしたところが、『君の名は。』の慧眼な人々に批判される所以であるだろう。
だが、どうだろう。《忘れない》ことが一つの倫理であることは疑わないが、《忘れる》ことも一つの生き方として否定されるものではないのではないか。また、《忘れさせる》ことを描いたものが《覚えられる》ということ自体が、完全な忘却からは救うはずだと私は考えるが、いかがだろうか。
──ライトな語り口で始めたのに、全然そうではなくなった。そして、肝心の『天気の子』にまだまだ辿りつけていない。次回、『天気の子』の内容に踏み込んでいきます。
私は平成元年生まれの人間で楷書しか書けない。だいたいの若者が手書きの文字は楷書を書いていると思う。
若くても、書道や硬筆、ペン習字をしている人は行書や草書を日常的に書くのかもしれない。
学校では習字の授業はあったけれども、行書や草書を日常使いできるレベルの教育は受けてない。
無意識のうちに楷書で書くことを強制されているような気がする。
国語の漢字テストで、回答を行書や草書で書いたら点数はもらえないと思う。楷書で書きなさい💢と教師から注意を受けそうだ。20代の教師だと私のように行書や草書が読めないかもしれないし。
でも、楷書は行書や草書に比べ書くのに時間がかかる。丁寧にゆっくり書く余裕があるなら、楷書でもいいけど、小論文のテスト等、長文を早く書かなくちゃいけない場面では楷書は厄介だ。早さを求められる場面では行書や草書で書いた方が効率的。でも、小論文やテストで行書や草書の回答を書く10代はいないと思う。
昔の人のように、行書や草書を日常使いせず、現代では時間がかかる楷書という書体を使って、皆が早く字を書くようにそれぞれ工夫をしているという状況だ。
字を上手く書けるからといって、字が上手い上に早く書けるとは限らない。書道を学んでいる学生でも、時間制限がある学校のテストでは「綺麗に丁寧に文字を書く」というわけじゃなく「早く書き終えられるように手癖で感覚的に書く」んだと思う。
こんな状況だから、楷書のくせ字が色々と発達してきた。丁寧に綺麗に書こうとすればするほど、「お手本」に近づいていくけれども、早く書こうとすればするほどくせ字になり、その人の独特の筆跡が出来上がる。
私は手紙を書くのが好きなんだけど、SNSの便利さも理解してるから手紙ってレターセット代、切手代、シール代色々お金がかかるから現代では手紙は無駄だって思う。
好きな人にファンレターを書いたり、親戚に手紙を出したりするのが楽しい。
でも、今はSNS、メールを使って簡単に文章を送れてしまう。はがきや手紙と違いタダで住む。
じゃあ何でお金払って、はがきや手紙を送るのかって言うと自分の強い気持ちを送りたいからなんだよな。メールやLINEのスタンプよりも手書きの文字の方が強い意味合いを持つ。
理論的ではないのでこの価値観がわからないって人もいると思う。
我が家は、年賀状をやめた。「自分と繋がりがある人に文章を送りたいから送る」のではく「年賀状を送りたい人にも送りたくない人にも義務だから送る」ということに疑問を感じたから。
私は文通が嫌い。特にわざわざ文通相手を探して書く文通が嫌い。文通はファンレターみたいに「相手に伝えたいことがあるから手紙を書く」のではなく「手紙を書くのが趣味な人が手紙を書きたいから手紙を書く」という感じで、手紙を書くことが目的化してるから。文通好きな人が何十通も日々特に会う予定もない他人に手紙を書いているのを見ると、「切手代レターセット代の無駄。大量の手紙を書く時間を自分の家族や友達とのコミュニケーションに使った方がいい。顔を会わせる予定のない相手にたくさん手紙を送るのは無駄」って思う。しかも文通が趣味の人って、顔も知らぬ文通相手の文章にイライラする人もいる。手紙の内容が自慢ばっかりとか字が汚いとか。わざわざお金払って手紙を送って、返信読んでイライラするって時間もお金もホント無駄。
私はファンレターやお礼状とか私からの一方通行ツールとしての手紙がけっこう好き。送りたいから送るっていう楽で自己満足な行為。
子供のときは文通が趣味の人のように相手からの返事を期待して手紙を書いてたな。それで、手紙の返事が電話だったりするとガッカリしてた。「手紙の返事が欲しかったのに」って。今は大人になって一方通行のツールとしての手紙を好きになってからは相手からの返事が電話でも嬉しいです。でも、手紙で返事が来る方が嬉しいかな。何度でも読み返せるから。何度でも読み返せるものならLINEでもメールでも一緒だし嬉しいんだけどやっぱり紙に書かれた手書きの文字はもらうと格別嬉しい。
達筆で、自分の書く文字が好きな人にとっては手紙ってすごく気持ちいい行為だと思う。自分の文章に酔える。書道をしている人は作品を他人に見せて、「わたしの文字美しいでしょ?」って自慢できるけど書道してない人が自分の文字を自慢できるのは手紙や年賀状、はがきくらいのもので。スマホやパソコンが普及した現代では手書きの文字を披露する場が減ってるからなあ。
手紙ってお金の無駄だなーと思いつつ、手紙好きだなーって気持ちをとりとめもなく書いてみた。推敲も何もなくただ思ったことをつらつら打っただけど。手紙を書く習慣がない人間よりは手紙を書く習慣がある人間で良かったと思います。まあ、手紙が趣味じゃない人にとっては私の手紙はけっこう自己満足なもんってことは肝に銘じとかなくちゃいけませんが。