はてなキーワード: 抗がん剤とは
科学的根拠が全く見えない言葉とともに、通院や投薬の無意味さを主張する。これがこの漫画の正体といっても過言ではない。
第2話において、うつ病の治療を始めたが効果が見えず、薬が増えていくことに恐怖を覚えたこと、そしてドクターショッピングに至ったことが描かれている。
精神医療に失望し始めたころに「薬では『うつ』は治らない。なぜなら…」という本に出会い、そこから「アファメーション」に傾倒する。
まず「アファメーション」が何なのかをググってみるといい。大半の人が目を覚ますだろう。
このアファメーションは一部で有名な苫米地英人が日本に持ち込んだものである。詐欺的な自己啓発集団が商品化しているケースがあまりにも多い。
ドクターショッピングの対象が自己啓発ショッピングに切り替わっただけと考えてほぼ間違いないだろう。同じ罠にはまる精神疾患患者はそう珍しくないからである。
田中圭一はもちろん医療の専門家ではない。それゆえに精神病理について全く無頓着である。
脳の器質的な疾患であるとか、そういったことを無視してメンタルヘルスを語っている。
その結果
という非科学的なセリフが登場するのである。いうまでもなく、これらはうつ病の発生原因や回復要因としてまったく因果関係が判明していない。
メンタルヘルスの回復の補助としてある程度役に立つかもしれないが、あくまで治療のメインは投薬治療である。
ストレスで胃に空いた穴は、ストレスを解消するだけではふさがらない。精神疾患もそれと同じだ。
つまりこの漫画は一見精神病患者の心に寄り添うように見えて、言っていることはマイルドな根性論なのだ。
「自分をキライになったからうつになった。自分を好きになればうつは治る」
うつ病というのは自分の気の持ちようで治る病気なんだ、という、多くの精神科の医師が解きたくてたまらない誤解をますます深めているのだ。
うつ病患者をはじめとした精神病患者は、長患いの結果、病院や医師に対する信頼を完全に失っている。
そんな折に「薬ではうつは治らない」「アファメーションで治る」と書かれた本を手にしたらどうなるだろうか。
すべてに絶望した末期がん患者が「抗がん剤ではがんは治らない」「手術も抗がん剤も無しでがんは治る」と書かれた本を手にした時と同じことになるのではないだろうか。
最後に。著者も含め、世の中の精神病患者はあまりにも「薬を飲み続ける」ということをネガティブにとらえすぎていないだろうか?
「一生薬漬けの体になってしまった」と嘆く人がいるが、よく考えてほしい。
健康な人間でも食べ物を食べ、水を飲み、空気を吸わなければあっという間に干からびて死ぬ。
薬がないと生きられない人間と、健康な人間には大して差は無い。
生まれてから一生薬を飲まなければいけない人。自分で自分に注射を打たなければいけない人。
自分の意志では歩くことができず、たくさんのチューブにつながれた人…
「生きている人間」のうち、彼らが占める割合はあまりにも大きい。
「一生薬漬けの体になった」と人目もはばからず嘆き、薬を飲まない人生こそを至上とする精神病患者は、彼らの生き方を否定している可能性に気付かないのだろうか?
https://anond.hatelabo.jp/20171110125209
過去に別のドナーさんから提供された骨髄を移植したレシピエントさん
https://anond.hatelabo.jp/20171110205203
どちらも普通に生活をしていると全く知り得ない出来事で、マンガやドラマの中によくある「ドナーさえ見つかれば万事解決」的な描かれ方とは程遠い、圧倒的で重くて細かい現実が良くわかる。
いい機会なのでここで骨髄移植について書いておこうと思う。
まず移植というと腎臓移植とかを思い浮かべるだろうし、コメントにもちらほら手術とあるから誤解を受けやすいのだが、骨髄移植に限っては、手術はしない。
ドナーが見つかったら移植日を設定し、そこに合わせて致死量を超える抗がん剤と放射線(移植前処置)により、レシピエントの免疫を完全にゼロに持ち込む。これは一旦Goとなったら止めることはできない。
そしていよいよその日、day0に移植となる。移植自体はむしろ輸血に近い。血管から提供された幹細胞を輸注するのだ。そして生着を待つ。
ここで幹細胞が入れられないと当然レシピエントは死ぬ。移植が受けられなければ、移植前処置とは単なる殺人行為だからだ。ドナーが提供前に危険を伴う行為を制限される理由はこのことに他ならない。
ただし、やはりドナーにおける負担は現状、相当重い。自身の健康を損なう危険がある上、仕事を休んで検査をし、入院して痛みを伴う処置に耐えなければならない。
また、レシピエント側の問題として、ドナーの上記の準備を待つ時間がない、ということもある。その間、少なくともがん細胞をコントロールし続けなくてはならないのだ。
そういう意味で骨髄バンク経由の移植というのは最もハードルが高い。
まず知名度もあり、利用も多いのが臍帯血バンクだ。出産のときに廃棄される臍帯血を保管し、移植に使用するものだ。骨髄バンクとは違い、もともと捨てるものを保管管理するだけなのでドナー側の負担はほぼゼロだ。(出産前に提供の意思表示をするくらい。)
問題点としたら、得られる造血幹細胞が限られており、レシピエントの体格が良いと足りない場合がある、再発した場合に効果が期待できるドナーリンパ球輸注が使えない、臍帯血を採取できる施設が限られており、なおかつ出産はいつ何時始まるかわからないため、週末や年末年始など、採取できないケースが結構ある、などだろう。
骨髄移植は白血球の型(HLA)が全て合うことが望ましいが、これが一致するのが非血縁者間(骨髄バンク)だと一万分の一以下である。
この合致率を下げて、血縁者をドナーとしようではないか、というのがハプロ移植である。血縁だけあって、兄弟なら50%の確率で、親子ならほぼだいたいドナーになることが可能である。縁もゆかりもない他人のためにドナーになるのは負担が大きいが、兄弟や子どもであればどうだろう。しかも、抗がん剤や放射線で叩ききれない残存がん細胞に対する抗腫瘍効果も高いと言われている。
こう書くとまるで夢の治療だが、実際行われているのは日本でも数施設である。なぜか。移植をするということは、他人の免疫細胞を招き入れ、定着させるということである。そして、免疫細胞の役割とは、自己でないものを攻撃することである。
移植された免疫細胞にとって、レシピエントの身体は非自己でしかないため、当然攻撃対象となる。これが移植片対宿主病(GVHD)だ。
消化管に出れば1日何リットル単位での下痢になるし、吐き気が出ることもある。皮膚がぼろぼろになったり、肝臓がやられる場合もある。
そして、何より問題なのが、GVHD に有効な薬剤があまり市販されていないことだ。免疫反応がその実態であるので、免疫抑制剤が主力になる。当然、移植後から全身性の免疫抑制剤は綿密な血中濃度のコントロールを行いながら投与されるのだが、強力な免疫抑制は感染と表裏一体だ。局所のGVHD 制圧のためにはその場所にさえ薬が届けば十分なのだが、なかなかそういう薬はないのだ。
ではどうするか。
作るのだ、病院で。
この、2017年の日本において、薬剤師が、カプセルに、手動で粉薬を、つめている!
また、健康な人の腸内細菌を移植する、と言えば聞こえは良いがその実態はちょっとここでは書けないような、そんな治療も医師が自ら犠牲(犠牲?)になって行われていたりもする。
骨髄移植、それもハプロ移植となれば最先端医療である。しかし、最先端であるが故、市場規模が小さすぎ、まだまだ製薬会社を始めとする企業が手を出しにくい状況であり、医療スタッフが手弁当で補わなければならない部分も多々あることは記しておきたい。
レシピエントの方が書いていた、骨髄移植が生きるか死ぬかぐるぐるポン!というのは確かにその通りであるが、移植後の生存率とQ O Lを少しでも上げるために、現場ではいろいろ、本当にいろいろ、試行錯誤を重ねている。
https://anond.hatelabo.jp/20171110125209
何よりも まず、ありがとうございます。
当時、担当して頂いた医師から説明を受けた情報ですので、現在では不正確かも知れませし、骨髄移植が必要な他の病気の方とも事情は異なるかと思います。御了承下さい。
・私の場合、発症後比較的速やかに地域中核病院での治療を受けられたのですが、
「骨髄移植を受けた場合。失敗して死ぬ可能性が1/3、病気は治せるが副作用が重く日常生活に戻れない可能性が1/3、最も幸運で日常生活に戻れるが 生活の質は大幅に損なわれる場合が1/3。」
「このまま、抗がん剤治療の継続だけでも寛解≒快方する可能性も10%有り。悩ましいのが、この10%に入れた場合の予後≒快方後の生活の質が最も良い。」
「90%は抗がん剤治療だけでは助からない。また、90%側である事が分かった後では骨髄移植は間に合わない。抗がん剤で倒し切れなかったガン細胞が再増殖するため、抗がん剤治療の結果は待てない。骨髄移植の決断は近いうちに決める必要がある。ドナーさん側の事情もある。」
また当然、この時点ではドナー適合者、提供者の方が見つかるかどうかさえ分かりません。
正直に申し上げますと、私は この後の事はドタバタと目の前の状況に対処する事に必死であまり覚えておりません。
一例を挙げますと、
抗がん剤治療には周期があり、1クール終わると一時帰宅が許されるのですが、その間も免疫は止まっています。
食事は加熱後3時間以内の物でなければなりません。生モノ、冷蔵冷凍保存は不可です。
で、
幸運な事に複数の適合者と、更に最も遺伝子の型が近い≒副作用が少ない事が期待出来る方が提供者になって頂ける事になりました。
言葉では言い表せない程 有り難いことですし、極めて運が良い事です。 (骨髄移植が必要な病にかかる事は同等程度に運が悪い事ですが。)
・ザックリ言うと《骨髄移植》という治療法は、患者側からすれば分かり易く 「毒を持って毒を制す」治療法でして、
それまでの「悪性細胞を倒すために正常細胞の犠牲と副作用を我慢する」ではなく。
【ドナーさんの骨髄細胞と競合してはいけないので、患者本人の骨髄細胞は悪性も正常も関係無く致死量の抗がん剤を無理矢理投与する。】
→【生きるか死ぬかの ぐるぐるポン】
説明を受けた時は
「なるほど。ゲームのバグ技に有りがちな事を、現実に。現代医療で。実行するのね。」
また同時に、その際に ハッキリとした不安と恐怖も実感しました……。
担当して頂いた医師からも、「このような例は見た事がない」と言われております。
また……、ドナーさんの ご厚意を考えれば、差し出がましい限りではありますが……。
我々、レシピエント側は ある程度 ドナーさんが受けられる処置を認識しております……。
深く感謝しておりますが、手紙を出す事が ためらわれる事も上記の通りです……。
手紙を渡たす場合は、利益供与を避けるため個人を特定出来る事は書かないように指導されましたし、
内容は確認された上で渡されたかと思います。 私のケースでは返信は2回まででした。
誠実に書いた事は間違いありません。
が、正確には書いておりません。ご容赦下さい。
「正確な情報は皆さんでググって下さい。」と、言いたいトコロなんですけど、そうも言えない ご時世ですね……。
……。
えぇと……。万が一(私の場合は十万が一)、罹患した場合は分かり易いパンフレットと、詳しいパンフレット
両方、頂けます……。
先週書き忘れちった。
先週は、元気いっぱいの一週間でした。ぢは治った。ちょっと口内炎。
で、今週は4回目の抗がん剤でした。抗がん剤生活も残り半分切りました。
いつもどおり、気持ち悪い感じとふらふら。
ただ、波があって、全然平気!と、二日酔いみたいな気持ち悪~ を常時行き来してる。
段々とつらくなってくるんだよねー…
そうそう、便、昨日、出たは出たのよ。
でも、踏ん張り力が下がってる感じ…。
今まで食事量が少ないせいだと思ってたんだけど、別な要因もあるのかなぁ…。
色々味が変。
味とか匂いが強いものだと感じにくいから、そっちを選びがちになる。
あとは、今日は熱ちょー低い。起きた時、36.1度 今も36.2度 気温低いの関係あるかなぁ…
(平熱は大体36.5度くらいで、先週とかは36.8度前後をうろちょろ)
でも、感覚では、かぁって熱くなることがあって、汗かくことがある。食後とか、運動後とか、寝てる時とか。
あー、最近書いてなかったけど、頭髪は、つるっぱげじゃない感じ。
つるんとしたところに、まんべんなく数本生やした感じ。
ニット帽+帽子をかぶってみっともないところが隠れると、お団子してほつれた毛が出ちゃってます感があって、と思い込めて、あんまり外出時の抵抗が少ないのです。
ちなみに、他の体毛も抜ける! 眉毛は、毛虫状態だったけど、常人クラスになった。毛虫眉毛に感謝です。
あと、指毛とか剃ってないけど、短いから抜けてんだなぁって思う。でもやっぱり全部じゃなくて、ちょろんと長い場所もある。
腕毛もところどころ抜けてる。でも、長いの多いなぁ…。
すね毛とかもよく見ると抜けてる… と思う。普段あんま見てないからわかんない。
もちろん下の毛も抜けるよ!
まだ正確なことは何も分からない。
父が大腸検査のためにクリニックにいった。内視鏡カメラで様子を見ようにもポリープがS字結腸のところで5cm程度に膨らんでいて詳しくは見れなかったらしい。
結局そこの小規模クリニックでは検査を受けることができなくて私立の大きめの病院で無理やり検査をして貰った。
ポリープは1cmを超えるとほぼガンらしくて、今がステージ3か転移しているステージ4なのかはまだ分からない。週明けに入院をして詳細な検査をするらしい。
父の自営業のことやら、親が死ぬのか?とか、自分は今年から無職をしているので今度を継ぐのかとか、別で就職するかとか、考えることがいっぱいだな
たぶん継がないけど、いや、今は上手く考えが纏まらない
2017-10-18追記:
追記してコメントをくれた人に通知が行くのかとか、よくわかりませんが追記します。
検査の結果としては、他の箇所への転移はありませんでした。一部肺に怪しい箇所もあるそうですが、腫瘍かどうかは分からないそうです。職業柄で粉塵を吸ったりするのでその影響でしょうか・・・わかりませんが。とりあえずは静観して後の抗がん剤治療で無くなるかもしれないとのことです。
今週手術をして、もう翌日には歩く訓練をするそうです。今は手術後歩かせるみたいです。
今後なんどか通院する必要はあるそうですが、早ければ今月末~来月初に退院予定です。
とりあえずは、無事のようです。
もちろん、開腹手術中に何かあるかもしれないし、大腸部分の転移?侵食?が強いかもしれない。まだ分かりませんが、とりあえずは一安心というか落ち着けます。
検査の結果が出るまで短い間でしたが、色々考えました。
事業を継ぐ気は元々ありませんでしたが、癌といってもすぐに死ぬわけではないので、事業収縮・廃業するのか、もしくは父の遺志を継いで仕事をするのか。
継ぐというのは会社の従業員の事とかもありますが、父が病魔に侵されながら最後の、何か形に残せる、もしくは目に見えないけど本当に遺せるものだとしたら、継いだ方が良いのか?とかも考えました。
親は死ぬんだ、それが改めて感じられたと言いますか、僕らが成人した時には親は50~60程度だと思いますが、そこで突然死しても「そんな、まだ若いのに。早かったね」程度でいつ死んでも可笑しくないですからね。
何もできないし、結果を待つことしかできなくて、祈ったところで検査の結果なんて変わらないと分かっているのに祈るしかありませんでした。
2017-11-03追記:
ステージは2でした。ですが大腸がん以外にも膀胱がんも見つかりました。他の部分にも癌があるのにステージ2なのか?と疑問が沸くかもしれませんがリンパ経由で癌が増えると?ステージ4となるそうです。今回は大腸がんの細胞が侵出して膀胱がんになったのでステージ2とのことです。
実は術後すぐの報告の際に膀胱がんあるのでステージ4ですと伝えられました。その後大腸がんの細胞を病理に出してリンパの転移がないと判明した訳です。
これは医者側の話術というか、希望を持たせて落とすよりは、一度落として上げてからの方が本人や家族が安心するからだと納得しています。
あとは人工肛門(ストーマ)を設置することになりました。腸の手術をすると一時的にストーマを設置する事があるようですが、父の場合は永久的ストーマになります。
2日に一度程度の周期で糞便が収納される袋を交換する必要があります。死ぬまでです。何とか人工肛門を外せないかとも思いましたが神経に触る?て間違えてしまうと糞便垂れ流しになってしまうようで、自己排便は難しそうな雰囲気を出していました。
今後は放射線治療と抗がん剤の投薬で残った膀胱がんを寛解させていきます。
最初の一ヶ月は入院をして、その後は容態を見て入院して治すか通院で治していきます。
父は大酒飲みで毎日お酒を飲んでいました。その結果がコレです。もしかしたら膀胱がんが駆逐できずに他に転移して死ぬかもしれません。もしくは膀胱がんが寛解した後に再発するかもしれません。膀胱がんは再発し易いそうなので。
自分は大酒飲みではありませんが飲み過ぎることがママありました。今後気をつける、というよりお酒を飲みたくなくなりました。翌日残りますし。
三度目の抗がん剤入れました。これで、だいたい半分。あと半分。
症状はいつもどおりです。
ぼーっとしていて、慢性的に気持ち悪い感じ。気持ちわるいのも波があって、おおむね平常通りと吐きそうを行ったり来たりする。特に、食後と動いたあとは、つらい…。
あと、味が変。水に、あまじょっぱい味を感じる。不快な表現だけど、鼻水とか痰とか体液に近い味で、うげーって思う。薬飲む時は飲まなきゃだけど、普通はお茶飲んでる。
今後1週間そんな感じかー…。
でも前回よりつらくない気がする。食べない方が楽ってのは、私にとってはあんまりない感覚。
世の中の、ドッタンバッタン大騒ぎしてるの見る余裕もないくらい…。まぁ結局見ちゃってるんだけど。
作品自体は、そこまで興味ないけど、社会現象としてはすごく興味がある。現代っぽい作品って思うの。あと、キモさと一般受けの絶妙なバランス。遊ぶ余地がたくさんある作品だったのもよかったよね。ニコ動はまっどちほーちょー見た。
どう落ち着くかは気になってる。
政治系もちゃんと見とかないとなんだけど、情報を得るのもちょっと体力使うよねー。
ただなあ、そっちもまた、喧嘩してすっちゃかめっちゃかしても仲良しな感じがしてるのがなー…。
体重は術前と比べると大きく減ってるけど、間4kgをうろちょろしてる。
でもまぁ減ってるかな… 体脂肪率が減ってなくてむしろ増えてるから全然だめだめだけどもー。
今日も元気です。
今日はCTなのでした。お写真撮ると治療費はお高いです。全部で1万円弱(健保有)
あれです。血管に針通りにくいフレンズなので、点滴系は2,3回がデフォ…(´・ω・`)ショボーン
採血も、細いわねー 深いわねー って言われる。毎度言われる。
毎週受けてるから、いい加減、注射にも慣れろって思うのにやっぱり痛いのは痛いのです。
まー、終わったらケロっとするんだけどねー。一番ヤなのは、チクっとする瞬間なのだー。
じんわりするような継続する痛みとかつらさとかには結構鈍感みたい。ってか慣れちゃうみたい。
何にせよ、元気が一番だよね、ガンだけど。
あれです。手術とか治療とかってある程度、元気がないとできないんだねって最近思うの。
矛盾してるようだけど。
病気とかってイメージだと、病院のベットから動けないくらいのイメージだったのー。
テレビとかだとそうじゃん!
程度にもよるんだろうけど。
ほら私、見た目全然元気じゃん? けど、ガンじゃん。
ご飯も抗がん剤後1週間以外は、普通に割と何でも食べられちゃう。
でも、がん患者なのかな。それともステージ1如きで名乗るべきちゃうかな…
それ以外元気は元気。
他の病気もそうなんだろうなと思うの。
イメージではこんな感じって思い込んでること。
病気以外でもあるだろうけど…。
2度目の抗がん剤入れました。
今の主な症状は、ムカムカする…。
たとえると、軽く悪酔いしてる時とか、軽く車に酔った時みたいな感じ。
吐く程じゃない気持ち悪さ って感じ。
ごろごろしてると全然平気だけど、起き上がったり、立ち上がって歩いたりするとふらふらする。
なので、食欲もなくなる…。
マジヤバだった日は、新潟のどろっとしたヨーグルトで飢えをしのいだ。
肉、揚げ物、脂っこいヤツは全然美味しそうに見えない……。ちょー好きなのに。
あと味覚が変わる。苦味が強調される。水に味を感じる。
前回と同じなら、この状況が、1,2週間ほど続くのかー…。
あと、前回は、食えるようになったら凄まじい食欲に負けて、簡単に体重戻ったので気を付けよう。
髪は、先週1週間でかなり抜けた! ほぼ抜けた! 今は残ってる方が少なくて、後ろも風を感じる。クールビズ。無職だけど。
最近は、帽子がゆるゆるなのが困ってる。なので、帽子オン帽子してる。ニット帽の上に、ツバのあるオシャレ帽を被ってる。
まだ髪は抜けてない。けど、元々薄毛なので、分け目が若干広い気がする。
副作用の状態は、風邪みたいな感じ。目の前がもわもわしたり疲れやすかったり。あと、足の裏とか指先がピリピリする。
吐き気は収まった、食欲はあり。食べたいものはコロコロ変わる。今は肉食いたい! チョコ食べたい! だけど、食事量は少なめ。空腹感は感じやすい。飲むヨーグルトは正義。
味覚が変。てか、口の中が変。苦味が強く感じる。水飲むと味がする。
ここ数日は、お通じと闘っている。
腹切ったので、力が入りにくいのか、腸の動きがちょー悪いのか。
便の出が良くなく、無理に出したら緩くなって、便ゆるくする薬をもらって飲んでる…
がー 効いてる感じがしないんだよなぁ。そもそも便がチャージされてないのかも。
これでも60以上あるからまだまだなんだけどね…
いや逆に考えるんだ、こういう時のために、備えておいたって考えるんだ!
やだなーって思ってた。
髪抜けるのが嫌だった。
髪質が、自分にとって希少な長所の一つなのよ。黒髪の中で浮かないほどの焦げ茶色で、巻かなくても毛先がエレガントにくるんってなるの。
でもまあ、命には代えれんよなあ。
って覚悟決めたら、案外そうでもないんだよね。注射もそうだし、手術もそうだった。事前の想像に比べて、現状はいっぱいいっぱいで、もっといろんな大変なことがあるもので、後から考えると、あんまり大したことじゃない。
でも、もしも。たまに悪魔がささやく。でも、もしも、つらい思いしないで簡単に良くなる方法あるって言われたら…。
正直言うと、噂の水素は何度も調べた。そして、わからなかった……。圧倒的に知識不足なんだよねー。どういう理屈で、何が効果的なのかわからなかった。
親がハマっていて、すすめられては何度も断ってる。拒否していると言ってもいい。
母の説明では、「水素が細胞を正常化させる。カプセルなので水素水と違って飛んでかない。副作用はない。ガンに効いたって話もきいた。厚生省のお墨付きがー……などなど」
典型的っすね。でも、一つ一つ否定したんじゃだめだと思ったの。だから、
「心配さ、してぐれる気持ぢはわがっけども、おめえも、昔、じいちゃん(父の父)の健康食品、愚痴ってたっぺよ。そん時なんつった? んだら、わかっぺな?」的なことを言ったわけよ。ほんだら、なっどぐさ、いがねでも、わがっだーってごどになっで、そんどぎは、おわっだんだげんども、私の誕生日ん時にな、水素の吸入器あげっからー♪って言われて、もうね…… 絶望したよね。説明途中で、察して、いらない!って言ってその場を去った。
何でわかってもらえないんだろう。それは、きっとお互いに思ってるんだろうけどもな。
まだいいのは、現状の私の選択に関しては母は意見してこないこと。
彼女は、色んな手段試しましょうという。でもね、それね、治ったら水素のお陰と吹聴しますよね? 私、色々頑張ったよ。まー、実際頑張ったのは医療関係者の皆様と体内の細胞とかだけども。
あんまり、母に痛いとかつらいとか言えない関係だから、言っても、なんか、わかってもらえない感じがする。痛いとか疲れやすいとか、見た目ではわかりにくくて、できるでしょ、なおったでしょって言われる。これは、結構つらい。さすがにまだだよーと笑って言いながらも、なんだか悪いことをしている気分になる。だって、違和感はあるのだもの。それは、私のお腹の縦が赤道が証明している。こんなに切ったんだなあと、手術跡を見て毎回思う。
現状を見てもらえない、実状をわかってもらえない、っていうのがつらいよねー。でも、現状を知って悲しまれるのはもっとつらい。相手の悲しみに傷つくんだよなあ。それはしょうがないことだけどもね。
脱毛に関しても、自分がなるのはまあ、覚悟つくけど、その姿を見せて、優しい母なり義母なり、悲しい思いさせるのは、本当に心苦しい。
またこの状況をギャグにできるほどタフな性格でもないんだ。後日、「実はね、あの時ねー」って言うんで精一杯…。
思いの外、ながくなってしまった……。
でもね、ひとつわかる。
絶対治るっていうどこで何をしてるかわかんない長い肩書の人と、現場で実際に病気と戦う医療関係者の言葉、どっちを信じるか。
ガン治る人は、ガンなら何でも効きますとかいう。でも、このガンなら対処方法こういうのがありますって方が私は安心する。
副作用はないって、ガン治る人は言うけど、副作用はありますが、症状によって、その都度対処しますって方が私は安心する。実際、吐き気もなかった。
自分の場合は、比較的早い段階なのも心理的に良かった。ステージ1Aなんだ。術後、リンパの腫れがあって、3を覚悟してくださいと言われたが、病理の結果、採取した全てのリンパ節に見つからなかったので、最終的に1Aとなった。
なのに、抗がん剤なのは、まー、あれよ、ガンちゃんが部位の外に逃げ出したかも、チェックに一つだけひっかかったのだー。
でも、それが終わればなんとかなるのだと、先が見えているのもちょっと治療に前向きになれている要因だと思う。
正直、心配してくれたり優しい親の気持ちはうれしいけど、ちょっと、困ってもいる。
それよりも傷もみて、つらい説明一緒にきいてくれて、できることはやらせてくれて、できたら良かったねーっていってくれて、できないことはお任せできて、現状を受け入れて一緒に頑張ってくれる、旦那のような態度の方が、今は一番ありがたい。えへへー 前職が保育士で今が介護職の優しい旦那様なのよー。
実家も、婚家も、家族に恵まれているから、今は安心していられるのだろう。治るための努力も耐えられるのだろう。
また、だからこそ、幻術のような幸せにはあまり興味がないのだろう。
つくづく思うのは、人生は経験だよなって。やなことも、経験することで、たくさん考えて、たくさん調べて、たくさん学んでいる。それを今後にどう活かせるかなんだろうねー。
一がん患者として書く。
費用については、加入している健康保険組合による。手厚いところなら還付やらなんやらで月25,000円とかで済む。
最悪でも高額療養費の制度で上限が設けられて、高額所得者でなければ、月10万円はなかなか超えない。
https://www.kyoukaikenpo.or.jp/g3/cat310/sb3030/r150
がん治療では多くの場合でこの上限をオーバーするので、医者はかかる費用についてあまり気にしないで、1回10万円の点滴や1回3万円の皮下注射(それぞれ3割負担で)やらを、平気でバンバン打つ。もちろん健康保険が適用される範囲内の話だ。
もっとも入院すると差額ベッド代やら何やら別途かかる。これは病院による。
なお歯医者の詰め物と違って、がん治療では医者が保険適用外の治療を勧めることはないようである。
とはいえ、保険適用外の新しい方法のほうが功を奏しそうな場合はあるだろう。そういうときは治験が勧められることもあるようだ。やはり国立がん研究センターの情報が有用。
http://ganjoho.jp/public/dia_tre/clinical_trial/
募集中の治験とマッチすれば、「先進的な治療」もしくは「標準治療」が受けられる。
新しい方法と標準治療との比較が目的なので、標準治療のグループに割り当てられる場合はあるが、いずれにしろ治験に参加する場合は医療機関に費用を持ってもらえるのは大きい。
一般のがん治療(標準治療)の効果諸々については国立がん研究センターのWebページを見ればよい。
http://ganjoho.jp/public/cancer/index.html
「一般のがん治療」を行おうとする医者は、基本、このページに書いてあることと同じことしか言わない(はずである)。
「治療成績」を見れば、ステージ毎の5年生存率が書いてある。もちろんこれは統計的な話だし、そもそも確定診断が出た後の話なので、最初にヤブ医者にかかってモタモタしてしまうと、手遅れになる場合はある。
また実際問題として、期待されるほど標準治療の生存率はあまり高くはない。6割超えてたら「治る種類のがんだった、ラッキー」と思うくらいでちょうどいいと思う。
その割に副作用は大きい。さらに、まともな医者ほどそこの説明をきちんとするので、否が応でも患者の不安は増す。
このへんが標準治療、というか現在のがん治療の限界で、「がんが消滅した!」とか「抗がん剤は寿命を縮めるだけ!」の類の代替医療をのさばらせる原因になっているように思う。
どうしても副作用が怖いならば、医者にそう伝えるのが良いと思う。最近は緩和ケアの概念が変わってきて、手遅れの患者にモルヒネを打つだけの話ではなくなってきたそうである。
……と、長々と書いたが、以上のようなことは実際にがんを患うと病院で教えてもらえることである。
だから、
なんてことはない。
もちろん上で書いたように、医者は費用についてあまり気にかけない傾向はあるので、高額療養費制度は把握しておく必要があるだろう。それでも100万とかかかる下手な代替医療に比べたら激安である。
また以上のようなことを教えてくれる人は、医師だったり看護師だったり薬剤師だったりソーシャルワーカーだったり、基本バラバラなので自分で整理は必要だ。
それに実際にがんを患うとノイズのような情報もついつい取り入れてしまう。その峻別が冷静にできる精神状態ではないので、迷走するのが普通だろう。
また患者の混乱を避けるためとは思うが、医者は目の前の患者の状態と直接関係ないことは言わない傾向があるので、情報が出し惜しみされていると感じることもある。聞けばよいことなのだが、コミュニケーションが取りづらい医者もいるだろう。最初にかかった病院が「ハズレ」だった場合も転院はしづらいし、そもそも当たり外れの判定が難しい。
といった諸々の問題はあるものの、とにかく費用について不安なら、自分が加入している健康保険組合の制度(特に還付金)について調べておくとよいと思う。
素朴だけど優しく私を愛してくれる夫と2児に恵まれ、幸せな人生を手に入れてそれなりに満足感のある日々だった。
幸せな日常を一瞬にして真っ暗な絶望に追いやった乳がんの発覚。
乳がんは罹る人も多い病気。負担はあるけど、治療なんてさほど難しくないと思っていた。
でも全然カンタンではなかった。
家族、友人、そして自分自身多くの人を深く傷つけ、心身共に疲れ果て全てを失う寸前まで追い込まれた。
判断ミスもあり、軽度とは言えない状態までいってしまった私だが、良き出会い、周りの人の支えに助けられたことは幸運だった。
手術、抗がん剤治療を行い私は今、再発の不安は抱えながらも元の幸せな生活を取り戻すことができた。
いろんな後悔が今も心に残っている。
こんな思いをする人を一人でも減らせたら。そう思って私の体験を伝えてみたくなった。
興味があったら読んでみて下さい。
ほんの些細なこと。
10月1日、夫と食事に出かけた帰りに見かけたピンク色にライトアップされた東京タワーだった。
その時は何も思わなかったが、少しだけ「乳がん」という言葉が頭をよぎった。
それから1ヶ月が経った頃、
朝、着替えの時に左の胸に固い感触を感じた。
違和感を感じ指でふれた。コロコロとした1cm程度の小さなしこりを感じた。
ピンク色の東京タワー、ピンクリボン、その記憶が私にそう思わせたのかもしれない。
ただし、その日は家事に忙しいこともあり、夜にはしこりのことは忘れていた。
夜の入浴時にもう一度触ってみた。朝のしこりはもちろん、あと2個程度小さなしこりを指先に感じた。
大きな病気をしたことが無い私は些細なことでもすぐ心配になるタイプだった。不安にかられ、髪も乾かさずインターネットで幾つかのサイトを調べた。
しこりがある=乳がんというわけではない。40歳未満の場合は良性のしこりの方が多いらしく乳腺線維腺腫の可能性が高いと書いてあった。
人間、不安なときは都合のいい方の考えに飛びついてしまうものだ。
私は、
と勝手に安心し、「こんなものはそのうち消えてなくなる」なんて、根拠もない解釈をしながら、眠りについた。
翌朝、しこりは消えていない。やはり気になる。「もしかしたら」が再び頭をよぎる。
考えないように過ごそうと思ったが、家事が何も手につかない。
今まで感じたことの無いものが私の胸に存在している。その事実から目をそむけることができなくなっていた。
一刻も早く安心したい。その一心で私は病院を探し始めた。乳がんを検査してくれるのはどこか?今まで考えたこともなかったから検討がつかない。
よくわからないが、とにかく近くの産婦人科に行ってみることにした。
そういって若い女性の医師は近所の外科への紹介状を書いてくれた。
その翌日は外科の診断へ。私は一日がかりで色々な検診が行われることを想像したが、触診だけだった。
診断は
違和感があった日に確認した見解と一致していたため、その診断を疑うこともせず飛びついてしまった私がいた。
乳腺線維腺腫は放っておけば3ヶ月程度でしこりはなくなってくるとのことだった。私は安心して、日常の生活に戻った。
「大丈夫でしょう」という自分の安易な判断と、夫に相談せず自分で納得してしまったことがあんなことを引き起こすなんてこのときは思いもしなかった。
それから2年、私はしこりのことなどすっかり忘れて平穏な生活を続けていた。
日々の家事、娘息子の世話、当たり前のことを当たり前にこなす。傍からみれば退屈かもしれないけど、愛のある満たされた毎日。
その日もいつもと何一つ変わらない一日だった。
夫と同じベッドで寝ていると、寝返りをうった夫の手が私の胸に当たった。すると夫が「え?硬っ!」驚いた様子で声を上げた。
暫く自分の胸に意識が向いていなかった私は自分の胸を触り、全身から血の気が引き、突然得も言われぬ恐怖感が襲ってきた。
私がもらした一言を聞いた夫の青ざめた顔が今でも印象に残っている。
夫はすぐに「明日会社を休むから、一緒に病院に行こう」と言ってくれた。
とにかく早くということもあったが、2年前にいった病院は割けるため、隣町の女性クリニックへ診断に行った。すると「確かにしこりがありますね。技師が3日後に来るのでエコー取りましょうか」
との回答。
しかし、今すぐにどうなっているか知りたい。不安が募りの募った私達夫婦は待つことができなかった。
「乳がんの専門医でなくてはわからないのでは?」と夫の意見を採用し、インターネットで調べ最も近くにあった乳腺外科のある病院へ行った。
まずは触診。先生の無表情さが不安を掻き立てる。その後針生検へ。これは正直かなりの痛みがあり、辛かった。
終了後、先生は「結果は一週間ほどで出ます。検査結果によっては大きい病院を紹介する形になります。」と。
もはや1週間を待てる心理状態ではなかった。一刻もはやく白黒を知りたい。先生にお願いをして大学病院への紹介をすぐにもらった。
これらの検査を一気に検査を行うことができた。これで自分が乳がんなのかそうではないのか、ハッキリと分かる安心感はあった。
この一週間は今まで感じたことのない長さだった。
加えて、2年前、なぜしこりが気になった時点でもっと詳しく調べなかったのか、夫に相談しなかったのか、激しい後悔にも襲われた。
診断結果を聞かされた瞬間、私は頭が真っ白になった。
先生が言っている言葉は聞こえるが頭に入ってこない。隣の夫も呆然としていた。同じ状態だったのだろう。
何も考えられない、何も声発せない状態が3分は続いただろうか。
我を取り戻した私は、
「どうすれば治りますか」と先生に聞いていた。
結論は手術。
私は家族と一日でも長く幸せにくらしたい。その思いが人生の最優先だと強く認識した。
女性として葛藤もなかったと言えば嘘になるが、全摘を選択した。
医師から告知を受けると今度は身内や親しい人に話をする必要が出てくる。
まずは娘と息子に12歳の娘、10歳の息子。
ともに私が大変な状況にあることは理解してくれたようで、神妙な顔つきをしていた。こんな状況だが「泣いたり喚いたりせず立派だな」と成長を感じ少し嬉しい気持ちもあった。
次に両親へ説明をした。福岡に住んでいるのでまずは電話で話をした。母が出た。
母とは昔から何でも話し合える仲だ。あまり回りくどく説明しても仕方がないと思い、率直に「乳がんになった。手術をする」と伝えた。
と私に声をつまらせながら何度も何度も謝った。
親の前ではやはり自分は子供に還るのだろうか、今まで必死に堪えていた恐怖心や悔しさ、絶望感があふれ、私も涙が止まらなくなった。
仲の良い友人にも伝えておく必要があると私は考えた。
私のこの考えは安易だったのだろう、結果闘病前に友人関係で心のダメージを負うことになった。
仲が良いと思っていた主婦仲間、ママ友に告知をすると
という反応。
特に親身になって欲しいとかそういうわけじゃない。何が欲しいのかもわからないけど、何か嫌だ。そんなダダっ子みたいな自分も嫌になった。
更に追い打ちを掛けたのは「親友」だった。
中学校からの友人、由美とは今でも週に一度は会う仲で、何でも話せる間柄。
私と由美はまるで姉妹のように、同じような進路を辿り、同じようなレベルの男性と結婚し、同じように幸せな家庭を育んでいった。
昔から進路の話、異性の話、結婚してからはお互いの家庭の話、旦那の愚痴。家族ぐるみでも付き合える最高の友人だった。
由美になら何でも話せる。親兄弟よりも私の気持ちをわかって親身に寄り添ってくれるそんな勝手な期待をしてしまったのだろう。
由美にも率直に
と伝えた。
ただ、由美にだけは同じ女性、同世代ゆえに全摘によって片胸が失われることに関しての悲しさがあるという話をした。
するとA子は
と言い放った。
彼女は明るい性格だ。彼女なりに私を励まそうとしたのかもしれない。
死を意識する日々、あまりに多くのものを失っていく毎日、私があらゆるものに敏感になりすぎていたのかもしれない。
ただ、この一言はどうしても受け入れることができなかった。
私が置かれていた状況は私の平常心を奪っていたんだろう。滅多に感情的になることがなかった私が怒りを抑えきれず、由美に対して激しい言葉をぶつけてしまった。
これまで長年にわたり育んできた暖かな友情に大きなヒビが入ってしまった。乳がんはまた一つ私から大切なものを奪ってしまった。
家族の不安、両親の涙、友人との離別、多くのネガティブな感情を抱えながら私は手術に挑む。
スケジュールが出た。
手術は診断結果が出た日から20日後に決定。全摘を選択したために術前の化学療法はなし。
手術2日前から入院となった。前日からは食事も取れない。当日は朝から各種検査を行い以異常がなければ全身麻酔をして手術開始。目を覚ませば手術が終わっている。
手術は予定よりも2時間遅れて終了。遅れた理由はリンパ節への転移が見られたから。麻酔が切れて朦朧とした中で、病室で夫がずっと手を握ってくれていたことは記憶の中にうっすらと残っている。
乳がんが発覚し自分の信じていた世界が全て崩れてしまったと思っていた。
でも夫だけはどんな状態の私も暖かく包んでくれていた。こんな時だからこそ夫の愛情を強く感じることができた。手術が終わった安堵感と、愛を感じられたことによる充足感か、そのまま深い眠りに就いた。
翌朝の目覚めは心地よかった。起きたら包帯でぐるぐる巻きだ。まあ夢ではない。現実だ。左のおっぱいないよなー。と思って触ってみるとやはり・・・ない。
わかっていたけど、現実を突きつけられると涙がこぼれた。
術後に体内にたまるリンパ液や血液を出すためのドレーン管が二本入ってたが。ここから液がでなくなれば退院だ。
7日後、遂に退院が出来た。退院時の値段は50万円だった。私はがん保険には入っていなかったので正直この金額は厳しいものがあった。備えあれば憂い無し。
そんな言葉が頭をよぎったが、今は無事に退院ができたことの喜びの方が勝っていた。
左の胸がなくなってしまったことへの喪失感はあった。お風呂に入るときなど自分の身体から目を背けたくなる時期もあった。
でも、疑似おっぱいの性能が以外と良く、服の上からでは見た目にわからない状態になった。そこからはだいぶ気分が楽になった。
気分は元に戻ってきたが、治療はまだ終わりではない、手術から30日経過した時点で今度は抗癌剤治療が始まった。
期間は3週間を1クールとして、8クール、複数の抗がん剤を組み合わせての実施。
抗癌剤治療と言えば、ドラマでも度々その様子が描かれる。そのためわずかに恐怖心があった。でも生きるため。
抗がん剤治療は想像していたよりはキツくはなかった。最初の一週間は特に異変もなかったけど、8日目辺りから吐き気と貧血が出始めた。割りと調子が良くなってきた17日後に遂に髪の毛は完全に抜けてしまった。「あー、やっぱこうなるのねー」と思った。
覚悟は出来ていたので、思っていたよりはショックは少なかった。
2クール目は特に問題なく過ごすことができた。まあ抗がん剤の点滴の際は気が重いくらいかな。
3クール目に入る前にはかなり抜け落ちてきた髪が目立つので、ウィッグを買いに行った。季節をまたいでの治療なので冬用と夏用を両方買った。
それにしてもケアグッズも高い。
あまり大きな声で言う人はいないと思うが、乳がんは治療以外にかかる金銭的負担も大きい。
4クール目に差し掛かる頃には髪の毛は全て抜け落ちた。髪だけでなくまつげ、眉毛、体毛全てが抜け落ちた。顔色も悪く自分を鏡で見るのがちょっときつくなった。
いつも看病してくれる。夫も私の姿をみてどう思っているのかな。。。と少し気になる時期だった。
こうして、長かった化学療法も遂に8週で無事に終わりを迎えることができた。もう吐き気に悩まされることもないと思うとかなり気が楽になった。
楽しい時期は2ヶ月なんてあっという間だが、治療となると1年間のような長さに感じる。
抜け落ちた髪も徐々に生えてきて、昔に戻れるのかな-と淡い期待を抱かせてくれた。
化学療法を無事に終えた私は最後の治療、放射線治療に入ることになる。
放射線治療は、全部で30回。毎日通院が必要で、一ヶ月半ほど平日は病院通いが必要になった。経済的な負担も引き続き大きかったが、仕事の調整をして一緒に通院してくれた夫に負担をかけているという罪悪感も多くあった。
放射線治療にも副作用がある。軽い火傷のような症状だ。熱い、かゆい、痛い。放射線を当てている患部は赤黒くなってしまい、見るからに痛々しい感じだ。
ただ化学療法と違い体外的な副作用しかなかったので、辛さで言えば全然問題なかった。
手術をしてから約半年が過ぎて、ようやく私の乳がん治療は全て終了した。
毎日毎日通った病院。乳がんを発見してもらった病院にそのままお世話になって本当に良かったと思う。
検査のときは無表情で怖かった先生も病に真剣に向き合って時には優しく、時にはハッキリと私が不安にならないように、また過剰な期待を抱かないように上手に説明をしてくれた。
お陰で私は現実と向き合い、治療の目的を正確に理解しながら集中して治療を受けることができた。先生本当にありがとう。
そう言えればどれだけ幸せだろうか。
一般的ながんは5年再発しなければ完治と呼ばれるが、乳がんは10年後20年後も再発の恐れがあるために、ほぼ一生に渡って再発の恐怖との戦いになる。
こんな人生を送ることはまっぴらごめんだ。
そのなかで私の心は強くなっていた。がんを再発させないように生活を改善していけばいいじゃないか。そうポジティブに捉えることができるようになっていた。
乳がんによって手に入れられたこともあるのかなと思うと、最悪なことばかりではないかと思った。
幸いといっていいかな。見た目以外は正直、乳がんが発覚する前とあまり変わらない状態だ。
ただ髪の毛はやはりなかなか生えてこずまだ5cmほどしかない。出かける時、来客のときは帽子を被るようにしている。
左胸がないことにはさすがにもう慣れてしまった。残念に思うのは大好きだった温泉に行きたくなくなっちゃったことかな。
胸のコンプレックスが薄くなった今なら親友の言葉も笑った受け流すことができたのになーと思うと少し心が痛む。
以前は特にお肉が大好きでカロリーは紀にしながらも好きなものを食べていたけれど、今は野菜を中心とした食事と抗酸化作用の高い食品をメインにしている。
そのおかげもあってか、再発は今のところなく、検査結果も良好。適度な通院も生活のリズムを整える意味で意外と気に入っている。
家族との結束は乳がんによって以前より固まった気がする。長女は14歳になったが私の身体を察してか、家事も積極的に手伝ってくれるし、反抗期の気配もない。12歳になった長男もだいぶ私を労って自分のことを自分でやるようになった。時々一緒にお風呂に入るが胸のことには触れてこない。なかなか優しいやつだ。モテる男になるかも。
夫は病気の前から優しい人ではあったが以前に比べて、私を心の底からいたわってくれている。先週末、酔って帰ってきた時に話していたが、乳がん告知の際、私を失うかもしれないと思った時に本当の愛が溢れてきたそうだ。
先日からかったら、覚えていないと本人は言うが、どうだかは知らない。
親友との関係は残念ながらまだ修復には至っていない。先日スーパーで顔を合わせたが会釈程度で終わってしまった。今の精神状態なら素直に私から謝ることができる。彼女との関係修復は今の私の一番の課題だ。
こんな感じで意外と悪くない日常を過ごすことができている。
でも、今こうして、振り返ると悪くないことも多いなと思うに至った。
どうしても後悔はある。それが今回私が体験談を語ろうと思った理由。いまでも本当に後悔していることは一つ。
乳がん発覚の2年前、最初に気になった時点で乳がん早期発見の機会を逃したこと。
もしここで、私の治療をしてくれた大学病院までたどり着くことができていたら・・・
早期発見というくくりの治療となり切除も再発のリスクも存在しない状態で治療が終わっていたと思う。
親友との離別も家族への過度な負担。これらも起こることはなかっただろう。
10月1日ピンク色に染まった東京タワーを見た時にもっと深く乳がんを自分ごととして考えられていればな-なんてことまで思ってしまう。
乳がんは女性の12人に1人がなる病気と言われている。確率は高い。あなたもなる可能性が十分にある。正直発生自体を防ぐことは生活習慣などにもよるし、生活習慣を気をつけていても病気はいつ襲ってくるかわからない。
前回、就職氷河期について書いたとき、安楽死についての意見をいただき、これについてしばらく考えていました。
その折りに、衝撃的なニュースが飛び込んできたので、これも併せて考えて見ようと思います。
そのニュースはこちらです。
2017/4/27 1:33日本経済新聞 電子版(http://www.nikkei.com/article/DGXLZO15800570X20C17A4MM8000/)
他にも関連記事がありますが、これらの記事からは「75才以上の高齢者は治療効果がないので、原則として抗がん剤を使わないことにする、と厚労省が決めた」ということが読み取れます。
「そんなことまで書いてないじゃないか」と突っ込まれそうですが、たいてい厚労省がこういうことを発表し、日経新聞が記事を掲載する時は、もう決定事項になっていることを経験上知っています。
それはそうでしょうね。
もしかしたら抗がん剤治療で助かるかも知れないところを、年齢で一律に区切って治療をせず、痛みを和らげる治療だけにする、と言い出しているのですから。
では、なぜ急に厚労省はこんなことを言い出したのでしょうか?
筆者は、それだけ今、国にお金がないことが原因だと思っています。
日本に1,000兆円を超える借金があることは皆さん知っての通りですが、それだけではなく、医療保険制度を支える保険料収入が全く足りていないようなのです。
八代尚宏著・シルバー民主主義(中公新書2016)のp72によると、長期間のデフレによって、医療・介護費を賄うための社会保険料はほとんど伸びていないのだそうです。
本来であれば、働き盛りで一番収入も、払う税金も、保険料も多いはずの30代後半~40代前半の団塊ジュニア世代。しかし、彼らの多くが就職氷河期の影響を引きずったまま、未だに非正規や低賃金の人が多いのが現実です。
一方、高齢者の数は団塊世代が後期高齢者に差し掛かる中、急増しています。
その数といったらハンパなくて、団塊ジュニアよりも遥かに多いのです。
私は「団塊ジュニアがバブル世代より上の世代と同じか、それ以上に稼げているならまだしも、こんな状況じゃ、どう考えてもつじつまが合わないよなあ」と思っていましたが、やっぱりそうだったみたいです。
八代先生によると、足りない分は税金や国債で補てんしているようですが、さすがにこれ以上、同じことはできない…。
ということで、医療費を削ろう、より年をとって助かる見込みのない人から削ろう、せめて痛みで苦しまないようにしよう、という方針になったんだと思われます。
ところで、安楽死の話に立ち戻りますが、現実に安楽死をどうやって実現するか?と考えると、いくつも壁が立ちはだかります。
誰を対象にするか?
どういう方法で死に至らしめるか?
誰がそれらを行うのか…?
これらを国民全員が納得できるよう調整するだけでも頭が痛くなります。
そもそも「誰が対象?」「基準は?」というところだけでも難しい問題です。
就職氷河期世代は経済活動に貢献できていないし、今後も見込みがないから対象?
じゃあ、他の世代で同じように経済活動に貢献できておらず、見込みのない人はどうするの?
という命題にまで行き着くのです。
(この命題に1つの答えを出したのが、相模原の大量殺戮事件でしょう)
「こういうことを制度として議論し始めたら、国連の人権委員会から調査団寄越されて、国際社会から“人権意識の低い国”ってレッテル張られるんだろうなあ…」と筆者は思っています。
(かつて日本は国際人権委員会の調査団に調査されたことがあります)
こう考えると、安楽死ってとても難しいやり方なんだと思います。
やっぱり、生きてる人間の命を奪うのはいろいろ意味で難しいんだと思います。
それに比べると、寿命が長くなく、助かる見込みのない人の治療をやめるのは難しくないのかも知れません…。
つまり、この社会は就職氷河期世代を安楽死させるよりも、団塊世代を始めとした高齢者をトリアージすることを選んだのかもしれない、とも思うのです。
よく、「就職氷河期世代は人口が多いにも関わらず、バブルがはじけちゃったから仕方ないんだ。運が悪かったんだ」という言われ方をされます。
しかし、今は「団塊世代は人口が多いにも関わらず、国が貧乏になっちゃったから仕方ないんだ。運が悪かったんだ」という時代に変わっているのかも知れません…。
今年から研修医になって実際の医療現場の渦の中にいると不思議に思うことがいくつもある
自分が経験した科が内科だからかもしれないが毎日パソコンを弄っているだけで患者が治っていくのである
外来で経過を見ていた患者が肺炎を起こし呼吸困難になったので入院した
私は取り敢えず点滴のための静脈路確保のため患者さんに針を刺した
針を刺したら逆血が来たので静脈と針先が繋がったことが確認できたら否や、ナースさんは「あとはやっておきます」
といって交代してくれた
その間に私は電子カルテで「オーダー」を出す
呼吸困難なので酸素マスクの指示を入れる。 発熱があるので一応血にばい菌がないか「血液培養」を取る。培養を取れたことを確認しだい「抗生剤を食塩水に混ぜて点滴に入れて下さい」と指示を入れる。
その後、他の患者さんの作業があって入院患者さんの元を離れたのだが、その数十分後に入院患者さんの病室へ戻ると
もう綺麗に点滴装置が設置されてバッチリ抗生剤が入っていて、バッチリ酸素マスクを吸った患者さんがいる。ナースステーションには培養ボトルにバッチリ血液が取れている。
私がやったことは最初に針を刺したのとパソコンで指示しただけである。それなのに患者さんのもとには様々な器具が装着され次の日にはすっかり患者さんは元気になっていた。
実はこの時、私は点滴装置のつなげ方も、抗生剤を食塩水に溶かす方法も、食塩水の点滴バッグを点滴装置に繋げる方法も、酸素マスクの付け方も、血液培養の方法も知らなかったのである。
ここまで酷い研修医は私くらいかもしれないが、実際ナースさんが優秀で救急医療の経験がないと、医者のほうが実際の器具扱いを知らないというのはままある現象ではないかと思う。
勿論指示を出したのは自分であるが、自分はパソコンの前でカチカチしているだけで患者さんがみるみる治療され元気になっていくのだからなんとも不思議で新鮮な経験だった。
よく「医療ミス」や「患者取り違え」が話題になるが、本当にそういうリスクの高いことをやっているなあと実感する
一度ナースさんがやってくれている朝の採血を代わりにやらせてもらったことがあるが
ナースさんたちは一人で5~10人の患者さんの採血を担当するのだ
「その程度でミスするなよ」と思うかもしれないが、現場はそう簡単ではない
血液検査はその項目ごとに採血管の種類があるため、患者さんの病気によっては一人につき7本も8本も採血管に血をいれなければならない状況もままある
効率よく採血しようものなら自分の手元には30~50本もの採血管があり、それらに一本も患者の取り違えミスも無く入れなければならない
私も気づけたから良かったもの、別の患者さんの採血管に別の人の患者さんの血を入れてしまったことがある(幸い外のラベルを張り変えるだけで解決できたが)
採血程度なら良いがこれが抗がん剤なら大変な問題だ。 患者や量を間違えたら命を奪う可能性だって十分にある
勿論、医者側も毎日この抗癌剤をこの患者さんに入れます というのをナースと一緒に確認する。するはするが
実際に抗がん剤を点滴バッグにいれ、それを患者さんに入れる部分を目で見て確認しているわけではない(それを患者全員分しているほど暇でもないし)
そう考えるとナースさんの責任というか、日々やってくれていることの難易度と凄さを改めて実感する
大変失礼かもしれないがナースさんは治療に関してはそこまで大学で勉強していないはずで、抗がん剤の種類や内容(ある意味、危険さやおっかなさ)も完全には把握していないだろう
にも関わらず、そんな危険なものの「投与」という超重要で取り違えたら大変なことになる高リスクな部分を確実に遂行してくれていあるのだ。
勿論投与の相手や内容を間違えれば、患者さんの命があぶないし、そんなミスをしでかしたナースもドクターも「医療者人生が終わる」自体だ。
そんなヤバイことをやってのけてくれている。 それも一人で何人分も。 なんと恐ろしい作業なことか
こんなヤバイことを分担しているのだからさぞかし信頼関係があるのか と言われるとそうでもない
ナースさんたちは医者の名前や性格を把握して毎日こちらのオーダーもチェックしてくれているように思う
しかし、大変申し訳無いが多分、多くの医者はナースさんの名前を全員分把握してはいない
リーダー格は覚えているが、ナースさんは医者の三倍近く居ることもあり(医者は1日じゅう患者の担当をするが、ナースは日中、夕、夜間の3交代制のため)中々覚えきれない
そして自分の患者がどのナースさんが担当してくれているかも余り把握していない どんな人材が薬の投与などのおっかない作業をやっているか把握しようとすらしない
そんな信頼関係で「患者と医療者両者の命がけ」の治療は分担され、成立しているのである
医者は一般的なサラリーマンとは異なり、働く場所が固定せず転々とする例が多い
(それは、病院毎に入院患者さんの病気の内容が違ったり、所属医局の病院ごとの人員運営だったりといろいろな理由があるのだが)
その為、日々の診療も実は知り合って数日の医者同士で行われたりする
性格やプライベートや経歴もお互いよくわからない状態のままでも、分担作業を平然とこなすのである
勿論、誰かが失態を犯せばチーム全員で責任を負わねばならない。にも関わらず 案外ケロッと任せてしまうのだ
そうしないと時間内に治療が回らないとは言え凄い信頼関係(?)だなと思う
病院経営として仕方ないとは言えこれだけ危険な作業を希薄な信頼関係で成立させている現状は私にとって非常に奇異に感じるものであった
普通、サラリーマンならずっとその会社で生きるため、そして年を取り昇進をすれば多少は楽になるから
若いときに苦労をする。上司も若い人材がその先会社を支えてくれるように一生懸命に指導をする。
有名な病院に居る若手医師は「ずっとここで最前線で働きたい」という人はそこまで多くなく
「ここは勉強になるけどキツいから若い内だけでいい、修行だけ積めたら他に居場所を探す」という考えの人も多い
(それは有名病院ほど帝大出身の医者じゃないと昇進できなかったりと幾つか理由はあるにはあるのだが)
ずっとそこに居たいわけでもないに彼らは本当に一生懸命に働いている
そして指導者もある程度彼らが一生自分の手足として働いてくれはしないことを知りつつも、一生懸命指導する
去年マッチングで関東方面の病院の採用試験をうけ、無事第一志望の病院に受かり、
今年の三月に国家試験合格の通知をうけて4月から無事第一志望の病院で研修中。
なんとなく安泰っぽいように見える人生だけど思うことをつらつら
関東方面はマッチング(いわゆる医者の最初の二年という「初期研修」生活をどの病院で送るか、という就職活動)
が盛んで志望者も多い。そんな関東方面を行く人達は各病院を「ハイパー」「ハイポ」といって分類する。
「ハイパー」は凄く忙しい病院(hyperは病名で「過剰」を意味する接頭語) 「ハイポ」は仕事が少なく暇な病院(hypoは病名で「低下」を示す接頭語)
私の働かせてもらっている病院はいわゆるハイポに属する病院と言われている。
けれど、この二ヶ月で回ってる科が問題なのか、全くハイポとは言えない
一応医療関係でない人にも読んでほしいので軽く説明するが、医師免許を以って最初の二年間は初期研修医と言われ毎月のように様々な科を転々として回る
(つまり。自分の専門を持たずに取り敢えず幅広く経験する二年間である)
なぜハードかは詳しくは言わないが、抗がん剤をフルに使う科であること、他の内科と比べ重症なのに治療を積極的に行う患者さんが多いこと、
血液の病気にかかると感染症などの厄介なトラブルが他の科よりも圧倒的に多いこと などが挙げられるが
とにかく内科志望の学生が「血液内科志望です」というと周りの見る目が変わるくらいハードで有名な科である。
所詮ほぼ見学実習生と同じレベルのなりたて研修医の私がその科ですることと言えば、
日々の塗り薬や切れそうな薬剤の補充処方箋を出し、担当患者四人分の朝と夕方のカルテ作成程度である。
(まぁ担当患者が他の科に診察を依頼したり、検査をするときの依頼は(いわゆる「オーダー」)はやったけど)
それでも先輩医師について回って、自分の最低限のタスクをこなそうとすると、毎日七時半には担当患者の居る病棟に到着し、
帰りは19時が早い方、遅ければ22時にもなる
周りの常勤の先輩医師はもっと凄い。カルテを見ると6時半には病棟にいて帰りも平均で21時とかそんなレベルである。
いくら近くに家を構えているとは言え、どの先生も片道30分は通勤時間がありそう。
単純に考えても家にいる時間は夜10時から朝6時までの8時間やそこらだろう。
人間にとってベストと言われている睡眠時間が7時間であることを考えると
日々の余暇は1時間程度しかなく、しかもこの1時間で風呂・朝夜の食事を済ましている計算だ。
これだけでも恐ろしいが、医者にとって土日のサービス残業はほぼ当然だ
土日のどちらかは必ず病院に出向いて少なくとも12時を越えるまでは病棟に待機する
つまりこれだけ平日が忙しい上に、土日は普通の人の3/4ほどしか余暇がない
勿論「会社員だって若いときはそれくらい忙しいだろ」という意見もあると思うが、
私が恐ろしいのはおよそ多くの医者は「引退するまで」この激務が続くという点だ。
当然、毎日のカルテ記載や日々のいざこざの対応は若手の担当で、それが忙しくはあるのだが、
医者の場合、経験が増えて序列が上になるとそれはそれで別の仕事が追加される
一番わかり易いのが外来の担当で、入院患者が退院したあとも定期的に様子を見る
(一見、重症患者の居る病棟診療より軽症患者の多そうな外来のほうが簡単そうだが、
短い時間で患者の状態を判断し、返していいか入院させるかを判断させる外来
それに加えて、若手医師数人分の担当患者を広く把握し、治療などの全体の方向性
結果として指して年をとっても楽になることはなく、下手をするとベテランほど
よくこんな毎日を続けているな、というより、よくこんな生活で国民・社会人としての義務を全うできていると思う
独身の医者が、いつ、身内の冠婚葬祭・税金や年金の手続き・その他諸々の手続きをやってのけるのか単純に疑問である(市役所とか平日しか空いていないし)
よく「医者は世間をしらない」だとか「常識知らずだ」とか言われることがあるし、自分もそうであると思う
学生だった頃、実習中に部長先生と飲みにいったときに料理の話になり「~合」とお米の量を表現したら、その単位を部長先生が知らなかった時があった
あのときはなんて常識とか生活力に欠けた人だろう と思っていたが、その日々を目の当たりにすると、こんな生活をしていたらそうなるのも仕方ない という気がする
こんだけクソ忙しいとまともに医者にもかかれない。
そして、自分の病院だけかもしれないがサービス・福利厚生が余りにも酷い
特定されるのでハッキリとはいえないが、 入職前の健診がない まだ保険証が渡されていない
これほどリスクの高い仕事をしているのに訴訟・賠償保険も提供されない 当然、残業ボーナスもない
あと、これはどうでもいいかもしれないが病院の職員食堂のメニューが余りにも酷い。 お米が多すぎるし揚げ物が多すぎる。野菜足りなすぎる。
こんなにプライベートの時間がない上に病院側からの福利厚生がここまで欠けていて、養生できるのなら逆におかしいくらいだ。
お医者様とか先生 とよく言われるが、あれはただ単に「人を助けてくれる尊い人」というだけではないように思える
これだけリスクが高く、プライベートの時間も少なく、それでいて実は給料も飛び抜けて高いわけではない(恐らく王手企業で同じ時間働いたら倍は貰える)
こんな職業 まともな人間ならやっていられない。「よくそんな職業やってられるね 尊敬しちゃうわ」みたいな意味もあの「先生」には込められている気がする
ここまでグチグチと言っているが、実はこれでも自分の血液内科は恵まれている
他の病院の血液内科では「土日毎日来い」だとか「平日は3時間くらいしかねれない」という話もよく聞く
それに、うちの病院は関東方面ではそれでも給料の良い方であるようだ
とまぁ、最初の科だけで話が膨れてしまったのでそれ以降のことはまた今度にするが
そんなこんなでおもったよりもハードな毎日を送るはめになっているのである
実は私は就職活動のとき、今自分が所属している病院よりも名声が高く、給料や診療実績の高い病院も幾つも受けていた
それにも関わらず今の病院に勤めているのは 決してそれらの病院に不合格になったのではなく
理由は自分が目指す分野だけなら今の病院が一番であること、 忙しい毎日に耐えきる自信がなかったからである
しかし私が夢見たほど現実の研修医生活はハイポとはならなかった。 それに研修医は人員補充の目的もあるため
自分が行きたい科以外の診療科にも何ヶ月も所属させられる部分もあったりして自分のこれからの二年に少なからず不満はある
「どうせ忙しいなら全部の科が有名なあの病院を第一志望にしときゃよかった あそこなら給料倍だし」 なんてことも 正直毎週のように思っている
でも今の病院も先生はちゃんと教えてくれるし、 勉強になることも沢山あるので 決して満足してはいないが嫌いでもないし完全に後悔しているわけでもない
(大体、 この程度で音を上げているのだからハイパー病院にいったらもう仕事やめてるかもしれないしね)
いずれにしても毎日のように思うのは「こんなタフな体に産んで育ててくれた親のありがたみ」である
薬剤師です。
別に楽でもありませんし、いうほど稼げません。
一生知識のアップデートが必要で、高いお金を払って勉強会や学会に行かなくてはなりません。
当直はきついです。それ以外にも抗がん剤や劇薬を使うことが日々あります。
難しい式を使ってたくさん計算をします。患者さんには怒鳴られる診療科もたくさんあります。
飲み合わせ、体質、生活習慣、確認してることがたくさんあります。早く薬出せ、ってあんまり言わないでくださいね。
病院は階級社会です。薬剤師は特に偉くなれるわけではありません。
医者は薬についてきいてくることがありますが、基本的上から目線です。なんで質問してるほうが偉そうな態度なんだろう。
大学時代もたくさん遊べたわけではありません。週5朝から夜まで授業でした。
研究室ではコキ使われました。実務実習ではパワハラやセクハラが蔓延していたところも多いです。
でも、べつに仕事がものすごーーーーーくいやだとかはないです。薬剤師になったことは後悔していません。
もう少し稼ぎたいなあとは思うけど、薬剤師の仕事はとってもやりがいがあります。医療ってそんなものだと思っています。
じゃあ何が一番嫌?
やっぱり「楽して稼げる」としか見られない評価なんでしょうね。
もちろん院内での評価は頂いています。そんなのではなく、「社会的満足感」がほしいんでしょうね。
これは先代の薬剤師の先生方の悪行かもしれませんね。我々の代で変わるといいのですが。
やっぱり「がん検診」を受けなくていい理由
http://bunshun.jp/articles/-/1712
何度読んでも納得がいかない。
がん治療には当たり前だけど放射線もあれば抗がん剤もある。乳がん切除のあとにリンパ浮腫になったりもする。リンパ浮腫に関しては早期発見だったら切らずに済んだ場所を遅れて発見したから切ることになり、それで併発する問題だ。当たり前だけど抗がん剤をやればハゲる。
社会全体でみたら死ぬ死なない、ほっといても死にはしない癌を切ってしまうという未発達の医療がもたらす過剰診断によりこの世からおっぱいが減ってしまうという弊害もあるかもしれないが、世の中には癌になる可能性が高い人は純然といるわけだ。両親、親戚を見れば、自分が死ぬ癌にかかりやすいかどうかなんて誰だって分かる。そんな人も一緒くたに乳がん検診で救える命はないって言うのはいささか無理がないか。
早期発見が出来れば半月の入院で一ヶ月後には職場復帰できる乳がん切除だけど、ステージが上がれば治療に半年・一年かかる。身体的な負担はもちろん増える。しかし、件の主張では胸がない女には髪もなくなってもかまわないだろうとでも言ってるようなものだ。どうせ死なないとか言われても、治療の影響は小さいほうがいいに決まっている。それが本人や旦那の気持ちだろう。
社会全体で見ての話と、各家庭で見た時に、検診を受けたほうがいいか否かはもちろん変わってくる。それは本文でも指摘はあったことだが、あまりにも主語を拡大しすぎている。
死なないからいいで判断してほしくない。俺は嫁が闘病するならできるだけ短い期間、美しい髪もそのまま残してほしい。抗がん剤を打ちすぎてボロボロになってる父をみると、嫁には一度でも抗がん剤を打って欲しくない。早期に発見し切れば完治する数少ない癌なんだから。
以前、『母親に結構な金が注ぎ込まれてる』(http://anond.hatelabo.jp/20160823232626)『はてなーが案外やさしかった件とその他のもろもろ』(http://anond.hatelabo.jp/20160824212145)というタイトルで、月60万円の抗がん剤を使いながら、日本の保険制度のおかげで、月1万5000円しか負担していない「相対的貧困者」である母親の闘病生活について書いた増田です。
日付みたら、もう半年がたっているのだが、ここにきて大きな変化があったので、つらつら書いていくことにしたい。
母はその後、一進一退の闘病生活を続けていた。
体調が良い時は、映画を観に行く時もあるし(『君の名は』は案外気に入ったらしい。)、副作用がきつい日は一日寝ていたり。
先週の金曜日までは。
抗がん剤をうって、体調が悪い時期をおえたばかり。
先週の水曜日は一人で病院に行き、とくに問題にすべき所見がない状態だったのだが、金曜になってどうやら尋常ならざる腹痛を覚えたらしく、土曜日に同居している姉が病院に連れて行った。
取りあえず、当直の内科医が診断したところ、腹膜炎をおこしているらしいとのことで、痛み止めをうったりレントゲン撮影などしているうちに、主治医や外科医が到着。
通常のCTスキャンだと、造影剤をつかうのだが、抗がん剤で体が弱っているため、造影剤をつかわずにCT撮影。
小腸か大腸に穿孔が疑われるのだが、画像では今一つ患部がはっきりしないらしい。
通常の患者ならば開腹手術に踏み切るところ、はたして、母の場合は体力がもつのか、また、抗がん剤の影響で、術後、傷がすぐにふさがるのかどうかが判断付かず、医者の協議がつづく。
主治医(産婦人科医。母が卵巣ガンのため)は、手術を主張するも、外科医と内科医は反対するという状況の中、結局、週末のため麻酔医の手配が付きそうもなく、また、あらためて放射線医の主導のもと、造影剤を使ったCT撮影の上で、精密な診断を下す必要があるとのことで、月曜日までは「保存的療法」(ようするに、点滴で栄養を補給しつつ、抗生物質で炎症を抑える対症療法)をとる、との診断に落ち着く。
(なお、ここまでは姉からの伝聞)
そして今日。
CT診断を経て主治医、放射線医、外科医、内科医などなどの協議の結果、正午過ぎにやはり手術をすることになる。
ただし、緊急の手術が入ってしまったたこともあり、開始時間がいつになるか分らないという。
準備をしてまつこと2時間くらいたっただろうか?
いよいよ手術ということで看護師なに4人がかりでベッドからストレッチャーに母を移す。
いや、自分で立ち上がれる(と、本人は思っているし、実際たちあがる)のだが、腹部にできるだけ圧迫を与えてはいけないとのことで。
母は手術に若干の不安を抱えているものの、現状では、うがいが許されている以外は一切、なにも口に入れることが許されず、手術によってその状況が改善されるのならば、と望んでいるようだ。
スタッフ・ステーション(最近は、ナース・ステーションとは言わないらしい)横の病室から、エレベータ、長い廊下を運ばれる母にくっついて、自分と姉も移動し、弱弱しくベッドで手を振る母は、「手術棟」の自動ドアの向こうに運ばれていった。
患部の状態を確認し、最悪、内臓の消毒や洗浄だけで、それほど積極的な処置もできずに終わるかもしれない、と説明されていたが、果たしてどうなることか・・・と待合室に席を落ち着けた途端、自動ドアがあいて、看護婦が「増田さん!」と叫んだ。
何事!!!
本来なら患者のみが呼びこまれるドアの内側に、姉と自分が駆けつける。
手術衣を来た外科医(協議で議論をリードし、重鎮っぽい空気を醸し出していた、いかにも精力的な医師である)が口を開いた。
どういうことか?
ところが、外科医は、昨年5月「まで」と、今の今まで勘違いをしていたようなのだ。
医師の説明するところでは、現在の薬を使っている場合、最後に投与して最低でも8週間は外科手術をしないほうがよいという。
もちろん、「明らかに今開かなければ、もう数時間で確実に大変なことになる」などという状況であれば判断もかわるが、母はまだ、そこまでの段階にはない。
腹部を押した場合、まだ痛みを感じるところと感じないところがある、という。
実際、つい先ほどまで、スマホをいじってメールを返信したり、電話に対応しているくらいなので、「もう我慢できないほどの痛みでのたうちまわっている」とか、そういう状態ではないのだ。
「ここまで来ていただいて、まことに申し訳ないのですが、やはり、もうちょっとだけ保存的な療法で様子を見るべきと、最終的に判断させてください」と頭を下げられて、「いや、手術してください」とはだれも言えない。
一緒に聞いていた母の心中は分らない。
手術への恐怖から一瞬だけ解放された安堵か、現状を劇的に回復される手段が先送りになったことへの絶望か。
もとの病室にもどり、しばらくして改めて主治医の説明を、母と姉と共に聞く。
「正直、腹膜炎の手術に関しては、自分の専門外の部分も多く、外科と内科の判断に従わざるを得ない。
『五月まで』と『五月から』の認識違いが生じてしまったことは誠に申し訳ない。
まずは、抗生物質で炎症を抑えつつ、点滴の種類を追加して栄養を補給し、しばらく様子をみる。
何分、抗がん剤は癌細胞だけでなく、内臓の正常な細胞にも影響をあたえるので、手術後、傷がふさがらなくなる可能性もある。
もうしばらく、抗がん剤の影響が少なくなるまで頑張りましょう、しばらく点滴だけで食べ物も飲み物もとれませんが云々」
といった説明があった。
やれやれ、ということで病室で落ち着いたところで、自分と姉だけが再び呼ばれた。
その瞬間、「来たな」と思った。
なぜ、もう説明が済んでいるのに、もう一度呼ばれるのか。
それは、「本人には伝えにくい診断があるから」以外に、理由はない。
「正直、私としては手術で状況を打開したかったのですが、申し訳ありません。
現在の薬には、消化管穿孔の副作用が起こる可能性が、ごくわずかながら起こる危険があるというのは以前からお伝えしていましたが(実際、それは母にも伝わっている)、
新しい薬ですから、正直、そういう症例が、当院では初めてですし、国内的にも症例はそう多くない。
だから、お母様に今後なにが起こるのかは、何とも言えません。
普通の消化管穿孔ならば、手術をしてしまうわけですから、消化管穿孔の患者に保存的療法を続けた場合の症例というのも多くないのです。
なにが起こっても不思議はない。」
「がんの発見から、もうすぐ丸6年ですから、お母様は大変よく頑張ってこられましたが、私にして差し上げられることが、現状では、なくなってしまったというのが正直なところです。
このまま持ちこたえれば、また手術もできるのですが」
そして、以前、父の時にいわれたセリフがでてきた。
曰く
「もし、会わせておきたい人がおられたら、そろそろ連絡を始めて下さい」
さて、ここで問題だ。
母はどの程度、自分の病状を認識しているのかが、つかみかねるのである。
実母と夫もガンでなくしている母は、ガンの末期というのは相当苦しく、また、その痛みを和らげるための薬を使ったりすることを知っている。
そして、今の母は、そういう状態にない。
考えてみれば当然であって、今の母は「がんの末期」で苦しんでいるのではなく、腸閉そくと消化管穿孔の症状で苦しんでいるのだ。
それは、ガンとの戦いの結果ではあるのだが。
突然、いろんな人が訪ねてきたら、それはそれで、母が何事かをさとり、精神的に追い詰めることにもなろうが、かといって、「間に合わなかった」ら悔いが残る。
この状況で「精神力」が病気と闘うのにどれだけ役に立つのか、良くわからないが、「アマゾンで注文した本が届いているはずだから、明日もってきて」などというほど頭がはっきりしている人の、生きる気力を奪うことはできない、というのが姉と自分の結論となった。
とりあえず、何人かの方に話をして「偶然近所に来る可能性がある人」から順番に呼ぶことにした。
明日以降、日々、状況は変化するだろう。何が起こるか、起こらないか。
6年前、「このままでは、1か月も持たない可能性もあります。即、手術です」といわれて、大震災後の輪番停電が続き、大至急の手術は延期するという状況の中で、母は最初の手術を受けた。
あれ以来「最悪の事態」を常に裏切ってここまできたが、はたして今回はどうなるか。
もし、外科医が「勘違い」に気が付かずに手術を結構していたらどうなっていたか。
誰にもわからないといは、とりあえず封じ込めて、明日も取り急ぎ有給をとっているので、「アマゾンから届いた本」をもって病院に行くことにする。
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