はてなキーワード: 抗がん剤とは
[私]も骨髄移植を受けさせて頂いた者です。
骨髄移植の進歩は日進月歩ですので、[私]が受けた時よりも医療が進歩している事を祈ります。
[私]はフルマッチの方も数名おり、更に細かい遺伝子の一致率が最も高い方がドナーになって頂けたのですが……。
そのミスマッチの方々の中でも最も相性が良さそうな方が協力して頂ければ幸いですね……。
とは言え、はてなユーザーは「618万人」らしく全員協力して頂けるのなら単純計算で6人のフルマッチが居る筈です!
増田は輸血の経験が有り登録する事は出来ません。口惜しいです……。
抗がん剤との相性が良い事。これからの待つ生活が少しでも安らかなものになるように祈ります。
増田は、既に今年のインフルエンザワクチンが出荷されているようなので、それを打ちますし。
それで少しでも 増田さんの安全に貢献できれば良いのですが……。
増田でも時々骨髄バンクや移植について話題になっているのを見かける。
私もそれに関わる立場になったので初めてエントリーしてみることにした。
この度私は骨髄を提供してもらう側になった。つまり骨髄移植が必要な病気になったということである。私は20代前半だ。
正式にはまだバンク登録をしていない、HLAハプロタイプを調べただけの段階だ。病状の経過が悪く、先に抗がん剤治療が必要と判断されたため、まだ骨髄移植の日程を決められる状態にないのだ。
しかし、すでに雲行き怪しく、日本人には非常に珍しい型だという結果が出ている。なんでも、0.0001%以下だとか。HLAの検査結果にも、「非常にまれ」と書かれてしまった。
現在バンクにドナー登録していただいている方との適合率も調べたが、フルマッチはいない。ミスマッチも数人という結果だった。
日本骨髄バンクが公開している現在の登録ドナー登録者数は74万人強、ドナー登録数は48万人強、適合報告ドナー数は30万人弱である。
患者とドナーの適合率は約3割だそうだ。そこからさらにふるいにかけられて、最終的に骨髄提供および移植日が決まる。
患者は適合するドナーが見つかるまで、病気を抱えたまままずは体力を温存しつつ生きなければならない。
ドナーはいつ見つかるかわからない。なぜならドナー登録は善意の行動で、適合するかどうかは運次第なのだ。
2〜3ヶ月で見つかる人もいれば、半年かかる人や最期まで見つからない人もいるだろう。
HLAハプロタイプ は生まれながらに決まっている両親から受け継いだ白血球の遺伝子型である。変更はできない。
自分のHLA型が珍しかろうと頻出型であろうと、その時ドナーがいなければ移植はできない。
出る時は出るし出ない時は出ない、なんて過酷なガチャなのだろう。
残念ながら「出るまで回せば100%」なソシャゲ脳的思考は通用しない。
それはドナーさんの善意に頼った骨髄バンク制度であり、何よりドナーさん自身にも少なからずリスクのある治療だからだ。
現状のドナー制度は、病気になるまで考えもしなかったが、限界に来ているのでは?と感じることがままある。
善意だけで人の命は救えるのだろうか。
骨髄ドナーは、命のボランティア、いや命がけのボランティアである。
それでも、バンク登録患者が一人でも多く生き残るためには、一人でも多くのドナー登録が必要だ。
きょうだいなど、ハプロタイプの近しい親族がいる場合を除き、命がけのボランティアをお願いする以外に方法がないのである。
ドナー登録自体は各献血ルーム等で比較的簡単に、すぐに登録可能である。
ただし登録後、適合患者が見つかりドナー候補となった場合、非常に面倒と言える書類審査、家族や医師同席での最終的な同意、提供完了までの厳密な体調や薬の管理が必要となる。
骨髄バンクのドナー登録条件はドナー登録に関して十分理解した18歳以上54歳以下、男性45kg以上女性40kg以上の健康体の方である。詳細は是非日本骨髄バンクのHPを参照していただきたい。
このような条件である以上、ほとんどの方は学校や会社勤めであろう。
もし候補者となった場合、そちらにも報告し、数日間入院しての骨髄提供への理解・許諾を得なければならない。
また、自治体や民間団体によってはドナー提供者へ助成金を出しているところもある。
それでも、患者の命のためとはいえ、そこまで善意でできる人間はそう多くはいないだろう。
返せるものは厳密に個人情報等を隠した手紙一通と、ドナーさんに直接知らせることは叶わないその後の病状の回復・社会復帰だけなのだから。
ミスマッチとは1型欠けの許容範囲内の合致数で、それも数名である。
私の命が助かるのかどうか、今は誰にもわからない。
数名の彼らがたまたま運良く都合がつき、体調も良好で、私自身も移植するだけの体力があるタイミングを引き当てなければいけない。
それでも、見つかるまでは生きなければならない。
何があっても生きなければ、移植後の人生は存在し得ないのだから。
言いたいことがまとまらないエントリーで申し訳ないが、願うことはただ一つ、一人でも多くの方にドナー登録に協力してほしいということである。
登録は簡単であっても、適合候補になった場合の手続きが面倒ということは重々承知している。
それでも一人でも多くの方にご協力願いたい。
時間がかかってもいい。いつか私のドナーさんが見つかるように。それだけを願って。
そして一人でも多くの方がドナー登録にご協力くださいますように。
それだけを願ってやまない。
反応くださった方々、ありがとうございました。
記事を書いた時点では存じ上げなかったのですが、10月は臓器移植・骨髄バンク推進月間なんだそうです。
元増田にも書いた通り、命がけの善意のボランティアを"お願い"する以外、患者にできることはありません。
HLA型の適合率は、非血縁者の場合数百〜数万人に一人と言われています。
一人でも多くの方がドナー協力してくだされば、骨髄移植が必要な患者はその後の人生を得られる可能性が上がります。
私はまずは骨髄移植が受けられる状態になるまで、血液内のがん細胞を叩かなくてはなりません。
骨髄移植でも死ぬ可能性は大いにありますが、骨髄移植の前処置としての抗がん剤・放射線治療にも死のリスクがあり、何より移植後が一番大変と聞いています。
移植までも生きなければなりませんが、移植後も多くの問題を抱えながら生き延びなければなりません。
医療技術の進歩した現在でも、骨髄移植はかなり高度な治療技術なのです。
フルマッチとミスマッチ、なかなかこういう使い方をする場面はないでしょうが、骨髄移植の世界ではよく使われる表現です。
本当に全てが運次第なのです。
記事へのコメントで、売血の問題にも触れられていましたが、現行の制度が色んな意味で滞りなく進むやり方であることは承知の上で、それでも負担を考慮すると何も返せないのが心苦しい思いです。国や自治体でもっと何か補助があればいいのですけどね。
移植後、様々な問題を乗り越えて社会復帰して、幸せな人生を少しでも長くまっとうすることがせめてもの返礼と考えるしかありません。
また、記事への反応で親兄弟肉親でも命がけのボランティアだと指摘を受けましたが、おっしゃる通りです。
しかし、その命がけのボランティアを赤の他人に協力してもらうのと、肉親に協力してもらうのとでは、肉体的・心理的・社会的負担が大きく異なることは確かだと思います。言葉足らずですみません。
それから、現在ドナー登録をしてくださっているみなさん、過去登録していただいていたみなさん、骨髄ドナー経験のあるみなさん、登録を考えてくださっているみなさん、本当にありがとうございます。
一人一人にお礼を言って回りたい気持ちでいっぱいです。
あなたたちの勇気ある善意のボランティアのおかげで、生きられる方がたくさんいらっしゃいます。
ご自身の負担も大きい骨髄ドナーですが、血縁ドナーがいない患者にとって非血縁者ドナー(骨髄バンクの登録ドナー)さんは、「生きる」ための選択肢を与えてくださる存在です。
「生きる」ために不可欠と言っても過言ではありません。
この増田が一人でも多くの方の目に触れ、骨髄移植や骨髄バンク、ドナーに関する理解がより深まるきっかけになれば、これほど幸いなことはありません。
私もがんばって生き延びます。
気のせいかもしれないが、最近著名人ががんで亡くなるニュースが多い。
私は30代で乳がんにかかってしまい、現在は休職してがん治療を行っているのでそのせいもあるとは思う。
がん治療中の身としては、正直逝去のニュース自体シャットアウトしたい気持ちが強いが、テレビやスマホで見たくなくても目に入ってしまう。
ニュースへのコメントなどでいろいろと考えさせられてしまうことが多くなったので、すっきりしておくためにここで書いておきたい。
きっかけとなったのは、さくらももこさんが乳がんで亡くなられたニュースだ。
詳細は不明であるが、彼女は一旦病院での治療を行い、最終的には代替医療でがんを治療しようと試みていたようである。
そのニュースに対し「お悔やみ申し上げるが、怪しい根拠のないインチキ療法を行うからこんな目にあう。
病院でちゃんと治療をすることが必要だ」といったコメントが散見された。
私もがんが発覚する前、小林麻央さんのニュースを見てそのような感想を抱いた記憶があり、
がんを患ったことがない人、がん患者が周りにいない人にとっては一般的な感想になるのかもしれない。
ただ、がんを患う身となってから勉強・体験をするにつれて、若干考え方が変わるようになった。
がんの種類にもよるが、まだがんの腫瘍が局所にしかみられないステージ0~3のケースにおいては、
がんを根治することを目的に病院は手術や抗がん剤、放射線といった科学的根拠に基づいた標準治療を行ってくれる。
ただし、がんは標準治療が終わっても、必ずしも治ったと言い切ることができない。
寛解状態を維持できる方もいる一方、一旦治療が終わって寛解状態となっても、他の臓器に転移して病状が進む方もいる。
患者としては、ステージ0~3の場合は抗がん剤治療などの辛い治療を耐える気力もあるかもしれない。
私は現在乳がんの根治を目的として抗がん剤治療を行っているが、正直結構辛い(副作用が軽い人もいるが)。
最近はいい吐き気止めがあるので吐いたりこそはしないが、抗がん剤をうって1週間は寝たきりで起き上がれないし、
白血球の数が大分減り細菌・ウイルス感染をおこしやすいため体調が回復しても行動はある程度制限される。
抗がん剤治療が終われば生えてくるし、カツラがあるから大丈夫と人には言ってはいるが、やはりショックだったことは否めない。
薬によっては手足がしびれてペンや包丁を持ったりすることができなくなる。
肝臓や腎臓の数値も悪くなるなど、高齢の人や持病がある人は身体的に耐えられないこともある。
私が使っている抗がん剤の副作用は上記のようなものが中心だが、他にもいろいろなものがある。
また、手術で体の形はかわる。健康な体とはやはりどう見ても違うし、リンパ節を切除することもあるから後遺症も残る可能性がある。
「治る可能性がある」と医者に言われているから、憂鬱ではあるものの病院に行き、
我慢して標準治療を受けているような状態だが、がんが発覚してもこの治療を受けたくないといって拒む人の気持ちは理解できる。
副作用自体が仕事や価値観として耐えられないこともあるだろうし、
頑張って標準治療を受けても、まれとはいえない確率で再発・転移して一気にステージ4の病状へ進むことがあるからだ。
ステージ4は、がんの腫瘍が局所のみならず、他の臓器や部位に遠隔転移をしているような状況を指す。
このような病状では、基本的にがんを根治することを目的とせず、抗がん剤治療を中心とした、延命とQOL向上を目的とした治療方針をとる。
現代医学の限界として、ステージ4のがんの根治は難しいようだ。
樹木希林さんのケースのように転移を起こしても10年程度生きられるといったこともあるが、早期に亡くなってしまうケースも多いようだ。
自分ががんを患うようになって、ステージ4に進行した場合は代替医療をやってみる選択肢を否定できないな、と思うようになった。
病院で治療をしたとしても数年以内にはおそらく死ぬとわかったときに、
患者として副作用てんこもりの抗がん剤治療をやる気力が残っているのだろうか。
ステージ4の場合は原発巣の治療とは異なる薬剤を使うようだが、どうしても前に受けた治療の苦い記憶が思い起こされてしまう。
治らないとわかっている延命治療にお金を使うくらいなら、インチキかもしれないが奇跡的に治ったという人もいるという代替医療をやってみてもいいんじゃないか。
こんな風に代替医療を選択する人がいたって、おかしくないと思うようになった。
もちろん法外なお金をとったり、標準治療は間違っているなどと言ったりしている代替医療に関しては、
それを提供するクリニックや団体自体は問題だと思うが、患者の判断が問題といった物言いはできない。
代替医療を選択したいと思う気持ちをフラットに聞いてくれたり、下心なく相談に乗ってくれたりする人はなかなかいないと思う。
がんは日本人の2人に1人がかかる病気なので、病院の外来待合室はいつも患者とその家族で大盛況だ。
医者や看護師は忙しく、話を聞いてくれる余裕はなさそうで、「治療を受けるのはあくまで自己判断です」とオブラートにつつんでいわれるのが関の山だろう。
代替医療に科学的根拠はない、それ自体は間違ってはいないが、代替医療を選んだことを責めるのは心苦しいと思うようになった。
だって科学的根拠のある治療とやらでは、ステージ4のがんを治療したいと思う心はなぐさめられないのだから。
がんが発覚してから、ステージ4まで進行したら、と考えない日はない。
自分がこんなにも生きていたいと思っているとは、今まで思いもよらなかった。
もしステージ4に進行してしまったら、気楽な代替医療にすがってしまうかもしれない。
そんな時、「あなたの選択肢はおかしい、科学的根拠のある治療に切り替えるべき」なんて訳知り顔で言われてしまったら、本当に腹立たしいだろうな。
父が白血病らしい。
母は電話口で泣いていた。
白血病の疑いが出たのも今週頭の話で、今日になって明確に白血病であること、思っていた以上に良くない状況であることが分かったらしい。
すぐに入院することになって、無事に退院することが目標になるらしい。
母は白血病の疑い段階をあえて私に伝えておらず、結果いきなり動揺させることになってごめんねと私に対して泣いていた。
その抗がん剤はかなり強力で、2週間続けられる人はあまりいないらしい。
この2週間という表現はよく分からない。2週間続けることに意味があるのか、当て続けることに意味があるのか、耐えれなくなったらどうなるのか、そこまでは聞けていない。
結局のところ深刻さやそもそもの病気について私は何も知らないので、とりあえずググってみた。
あるガンの研究機関のサイトに色々説明があったので読んでいたのだが、その結びに「どうか希望を棄てずにがんばってください」とあった。
やっぱりそんなレベル??絶望感を味わうのがスタンダードな状況??
こんな状況なのに私はまだ実感も何もなく、今ものすごく冷静だったりする。
びっくりもあまりしていない。
ただええ?ほんとに?と自分の中に入ってこない。イメージがわかない。
私はまだ身近な人の死を経験していないし、本当にまだ何も感情がわかない。
でも何とかなるでしょ?と思っている。
抗がん剤でお父さん大変だろうな、お母さんも憔悴してないかな、大丈夫かな、とはぼんやり思うが、でも何とかなるんでしょ?大変さの先に元どおりがあるんでしょ?って。
朝一で実家に向かうので、洗濯が回せないな、荷物の再配達が受け取れないな、みたいな考えも同居している。
物心ついて間もない時期に、母から無理心中を迫られたことがある。
死についてよく分かってなかった自分は、「死にたくない」と母に答えた記憶がある。
母はその場で泣き崩れ、何とか死なずに済んだ。
後で詳細を描くかもしれないけれど、自分の生まれた家庭は不完全家庭だった。
とにかく、その日から、死ってなんなんだと考えこむようになった。
幼稚園に上がってしばらくした頃、悩みはピークに達してあまり眠れなくなった。
周りの子供に相談しても不安がらせてしまって、当時の幼稚園の先生からこっぴどく怒られた覚えがある。
書いてて思ったけれど、幼児が眠れなくなるって大ごとだ。
小学校に上がってからの記憶はほとんどない、ただ周りに合わせてテキトーに振舞い続けた。
唯一記憶に残っているのは三年生だった時で、担任が超熱血教師だった。
うちに家庭訪問しに来た時、和室に入った時の言葉は今でも覚えている。
和室にある仏壇を見て、「ああ、創価学会員でしたか、うちは妻が幹部をやっておりまして。ちなみに私は共産党系です。」
当時はあまりピンとこなかったが、しばらく経ってから自分で調べてみた。
親に連れまわされて行っていた会館などの集いも、小学校に上がる前に全力で拒否して行かなくなっていた。
当然親からは殴られた。それでも反抗した。
父はそれほど熱心でもなかった、気が向けば仏壇に手を合わせている程度。
三年生だったころはその熱血教師とも気が合って、それなりに楽しく過ごせた。
でも家庭はぐっちゃぐちゃで、母からよくなじられた。
「お前が(ryから父さんもあまり家庭と向かい合ってくれない。」
父も父で、母に対して気に喰わないことがあると自分を経由して文句を伝えさせようとしてきた。
言わないとそれはそれで面倒なので、父の伝言を母に伝えた。
母は激怒し、私に当たり、そして父にこう伝えろ、と迫る。
そういう板挟みが続いたころ、もうどうしようもなく死にたくなって、自宅で包丁と飛び降りコンボを使って未遂を起こした。
ベランダの上に立って、首を切った瞬間に飛び降りようとしたのだった。
その時、家には誰も居なかったのだが、実行しようとしたタイミングで母が帰ってきていた。
私は母に気が付かず、後ろから羽交い絞めにされた。
母は号泣していた。
この人、昔心中を迫ってきたくせに泣くんだなと思った。
「あなたはこんなことする子じゃないでしょ、何があったの?」
いやいや、目の前でこんなことをしようとしてたのが、アンタの子だよ。
中学に上がってからの記憶もあまりない、気が付いたら中二の年越しで食物アレルギーを起こした。
唯一携帯電話を持っている友人が私の家族に電話しても全く出ず、友人たちは仕方なく私を自宅に運んでくれた。
寒い、寒い、とうわごとを繰り返す私に友人が毛布を掛けて温めてくれる。
両親が帰ってきたのはそれから2~30分後。宗教の集会に行っていたらしい。
そして病院に運び込まれ、友人と両親、私は病院で年越しをした。
「蕎麦アレルギーで年越しとは幸先が悪いね、ハハハ。ところで、その手首の傷は自分でやったの?」
思いがけない質問が飛んできたけれど、意を決して私は頷いた。
あとで知ったけれど、その医師は小児神経科も診ることが出来る人だった。
「…二時間くらい。」
「何とかしたいと思う?」
私は静かにうなずいた。
私につけられた診断名は自律神経失調症とそれで発生した鬱、そして重度の不眠だった。
治療内容は、ルボックスという抗うつ剤と、生活リズムを記録につけるように指示された。
治療は三歩進んで二歩下がるという感じの速度で進んでいき、気が付いたらリストカットをやめていた。
鬱がひどい時でも気合いのような何かで無理くり体を動かし、学校へ通った。
精神的に辛くて行きたくない時は、母が私をぶん殴って無理やり車に乗せ、保健室に突っ込まれた。
そんな凸凹でも何とか成績は維持していたらしく、高校入試は指定校推薦を受けることが出来た。
ちなみにこの時点でまだ鬱の治療は続いている。
「お母さんの信心が届いたおかげよ。」
この人は自分のやっている事しか見えていないんだな、と思った。
不思議なことに落胆はしなかった。
あきらめていたんだと思う。
高校は楽しい記憶で埋め尽くされていたけれど、相変わらず頭の中は生死の概念を掴むことに夢中だった。
高2の春休みが終わる頃に、自転車で日光に行き、華厳の滝に飛び込んで、すべて終わらせようとした。
夜の7時ごろに家を出て、携帯の電源を切って、ひたすら自転車を走らせた。
国道四号線をずっと北上し、もうそろそろ日光につく頃だったと思う。
東の空が明るくなった。
夜明けだ。
夜明けなら、夜はどこに行ったのだろう?
そう思って反対側を見るとまだ夜だった。
月と太陽が同時に見えた。
その時の自然の美しさに心を打たれてしまって、私はその場で泣き崩れた。
けっこうな時間泣いて、家に帰った。
そんなこんなで、そこから数ヶ月経過した高2の夏休みの最後に、小児神経科の主治医の判断により治療がひと段落した。
希死念慮だけは消えてなかった。
主治医の見立てでは、「まあ何とか乗り切れると思うよ、強いし。」とのことだった。
実際強かったと思う、よく耐えきれたと思う。
大学はかなり白熱した環境だったので研究や学業にのめり込んだ。
2年後の卒業を経て、私は教授のツテで食品物流会社に就職した。
仕事は楽しかったけれど、忙しい部署にいたのでしょっぱなから残業まみれになった。
今度の病名は統合失調症。
そこからは闘病しつつも、ちょくちょくバイトを始めて、そして体力的限界で辞めての繰り返しだった。
統失の治療を始めてから最初の5年の間に、母はがんで亡くなった。
悲しかったけれど、多分一般家庭の子供よりは悲しんでいなかったと思う。涙は一応出たけど。
そこから5年後に、当時所属していたコミュニティメンバーの誘いを受けて、ルームシェアみたいな環境に引越しをした。
そして実家に戻ってきたときに、もう一人友達付き合いが続いていた元恋人が自死。
私が実家に引っ越してから、父の治療は順調に事が進み、抗がん剤と放射線治療、本人努力の甲斐があって腫瘍が消えた。
これには驚かされた、父本人が一番驚いているけども。
あとは5年間再発が無ければ安心とのことだった。
そして現在に至る。
今日は暇だったので、思い出しながら勢いでバババっと書いてみた。
ここまで読んでくださって本当にありがとうございます。
お互い、人生を良い旅にしていきましょう。
大層なタイトルをつけてしまったが、最近沈静化している医療大麻議論をここで復活させるのはどうだろうか
個人的にはガンによるさまざまな苦しみの軽減方法として民間療法以外に選択肢を用意すべきだと思う
医療大麻についてだが、大麻自体にはアルコールやたばこの様に身体依存性はなく、大麻の成分カンナビジオールは抗がん剤の副作用の抑制に期待が出来るとして研究結果がすでに存在する
人の寿命は、精神状態でも大きく作用する。抗がん剤の苦痛により逆に精神的にやられ免疫力が下がり余命が短くなるケースがある
医療大麻は苦痛を軽減し、少しでも元気に過ごすことで余命を伸ばすことができる可能性がある
(大麻について論ずるとまた活動家か…のような印象を受けるかもしれないが
大麻に関する正確な知識を得れば、なぜ規制するのか?という疑問しか湧かない
むしろなぜ依存性が高いアルコールがここまで野放しにされているのか不思議でならない)
将来自分がガンになった時のことを考えて欲しい
そして今ガンで苦しんでいる人のことも考えて欲しい
私の母は3年前にがんで亡くなった。まだ50代半ばだった。
ヘビースモーカーだった母が肺がんを患ったのは、まあ仕方ないことだったのかもしれないが、
驚くべきスピードでがんは進行し、病名告知からわずか1年も経たずに、母は逝ってしまった。
余談だが、母は病気がわかってからも煙草を吸いたいと言っており(禁煙はしていたが)、
当時は正直あきれてしまった。
これは私が喫煙者でないから、彼女の心情はあまりわからなかったのだろう。
病名告知の時点で、種々の抗がん剤が効かなければ、手術の適応にすらならないと言われていた。
がんだとわかった時点でもう左の肺はレントゲン上で真っ白、ほとんど機能していなかった。
この時から、本当は近い将来母が死ぬことはわかっていたのに、わたしはこのことについてきちんと考えることすらしなかった。
残された時間が短いことはわかりきっていたのに、5年後、10年後も母は生きていると信じていた。
亡くなる2か月前、母は治療してもらっていた病院を退院し、自宅療養となった。
母が言うに「医者に見放された」ようだったが、これは現在のがん治療の方針を考えるとしかるべき流れだったのだろう。
わたしとしても主治医に思うところがなかったわけではないが、それも仕方ないことだろうと納めていた。
ことあるごとに、母はこのことについて主治医に恨み言のようなものを言っていたが、そうだね、としか返せなかった。
一人暮らしをしていたが、父や兄弟からヘルプがあり、仕事を辞め、実家に戻って母の介護をすることになった。
少し回復しては悪化し、またそれを繰り返し、だんだんと母はできることが少なくなっていった。
呼吸が乱れて大好きだったお風呂に入れなくなった。
歩けなくなった。立てなくなった。座れなくなった。
オムツを変えて、体を拭いて、食事の介助をして、いつも母の隣にいた。
浮腫がひどく、水分出納バランスを見なくてはならないときにはバルーンカテーテルも入った。
私は看護師だが、所属が全く違うために寝たきりのバルーンはすぐ詰まることすら知らなかった。
母はバルーンが嫌で、少しでも違和感があると、流出は問題なくてもカテーテルの交換をしてほしがった。
ほぼ1~2日おきだったと思う。
訪問看護師さんに頼んで、バルーンキットを何個か家に置いて行ってもらっていた。
母にバルーンを入れるなんて、看護師になった当初は想像もしなかった。
夜中は背中が痛むといって隣で寝ている私にさすってくれないかと頼んだ。一晩に何度も何度も。
さすがに私も眠くて、いら立って「もういい?」と言ってしまう夜もあった。
でもそんなこと、何度だってしてあげればよかった。
死んでしまったらなにもできない。
母が好きだったもの、したかったこと、なんでも話せばよかった。
母の声はどんなだったか、ときどき思い出さないと忘れてしまうのが怖い。
母が何を好きだったのか、どんな夢があったのか、なんとなくしか知らない。
できないことが増えていく母がどんな思いだったのか、きちんと聞けばよかった。
母に何もできなかった。
本当に親不孝な娘だ。
そのレシピは、地元のスーパーにおいてあったチラシに書かれていたもので、
一人暮らしをして以降、実家に帰ると必ず母はからあげを作ってくれた。
母が自宅療養となって、あるときこのからあげのレシピを教えてあげる、と言った。
縁起でもないといって私は聞かなかった。
あのとき素直に聞いておけばよかった。
もう母はいない。
夢に出てくる母はいつも病気になる前の、元気で働き者の母の姿をしている。
病気になったのは夢だったんだな、よかった、と思ったところで起きる。
そして、もう母に会えないことを思い出す。
もう一度母が作ったからあげが食べたい。
いつまで経っても悲しいままだ。
子宮内膜症で定期検診行ったらすごく大きくなってるとかでMRIとCTとって1週間後に結果聞きにきてねと言われたのに翌日に何がなんでも明日来てと病院から電話がありどうしても外せない仕事あったから明後日じゃダメですかと相談したらダメと言われ翌日の朝イチに予約をした。
この電話を切ったあと。それから翌朝診察室に入るまでの時間が一番怖かった。
だって1週間後に予約入れてるのに明日何がなんでも来いってそんなの癌じゃんね。もしくはそれ相応の病気。どっちつかずで結果が分からない状況のことをサスペンスと言うってほんまでっかTVで言ってたけどまさにそれ。電話口でいいから結果教えてほしかった。
病院行ったらやっぱり癌で卵巣がんだからもし妊娠望んでるならもっと大きい病院に紹介状書く、うちでは全摘出手術しかやってないからと伝えられた。夫婦ですごく妊娠を望んでいた訳ではなくぼんやりといつか妊娠したらいいねと思ってたんだけどこうなると絶対産みたいと思ってしまう悲しい性。紹介状を書いてもらいその場で診察予約も入れた。
病院移ってから2週間通院しあらゆる検査をしまくった。PET-CTというものも初体験した。放射線を体内に注射するとCTで癌のある箇所が光って見えるというもの。放射線が体内にめぐるのに時間がかかるので謎にラグジュアリーな個室を与えられぼんやりとしていた。自己血という自分用の輸血を予め採血するやつもやった。血が生々しくて怖かった。なんだかどれも貴重な体験だなと思った。
私は癌であるけどもまだ癌が腫瘍の中にいて周りに散らばってない境界悪性というグレーゾーン癌みたいなものだった。それでもガン保険はおりるらしい。よくドラマでガン告知を受けて泣き出すシーンあるけど私は全く実感も現実感もなくふわふわしていた。とにかく実感せねば何も出来ぬと同年代の人の卵巣ガンの闘病ブログを読み漁った。どれもその時々の気持ちが丁寧に綴られていてだんだん自分も納得した。
入院し担当医から手術説明を受け手術で起こりうるリスクを10以上説明された。麻酔科医から麻酔説明を受け麻酔で起こりうるリスクを10以上説明された。もともと血や内臓のイラスト等が苦手なので辛かった。
手術という人の体を裂くという大変な尊いお仕事で、もうリスクや合併症はしょうがないと理解してるからそれでも助かりたくて治療をお願いしてるのだから詳細な説明やイラストを見せるのはやめてほしかった。(説明する義務があるのは重々承知)血の気がひいた。
この手術の説明聞いてからの数日と手術台に乗って麻酔で意識が遠退くまでの期間が2番目に怖かった。
手術が終わって起こされたら、ああ手術中に目が覚めてしまったのかと思うくらい腹が痛かった。過呼吸みたいになってるし体はギャグ漫画のようにガタガタ震えていた。軽くパニックだった。
ガン告知から自分が癌なんだと理解するまでとても時間を要した。だからブログをたくさん読んだ。同室の患者さんがもう治療できることがなくて最後の時を家で過ごすために退院してく様に思いを馳せた。全員が仲間だと思ってた。仲間というか同志。私も一緒にこれから頑張っていこうって思ってた。術後の抗がん剤の説明も受けてたから予習もしっかりしていた。イメトレまでしていた。
でも良性だった。両親も義両親も心から喜んでくれ夫は涙を流していた。
そんな中わたしは自分だけ助かってごめんなさいという気持ちでいっぱいになってしまった。周りは重篤な患者さんばかりでその中で自分だけ喜んでいいのか分からなかった。良性なのに、だから手術の傷なんて大したことないはずなのに痛くて痛くて3日目くらいまでは泣いたり悪夢をみたり吐いたりしていた。気持ちは宙ぶらりんのまま。
退院して数日たってこれを書いてる。宙ぶらりんな気持ちを納得させるために。お腹の傷は勲章に感じる。この先ツラいことがあってもお腹の傷を見れば乗り越えられそうな気がする。
内膜症といえど再発するらしいので傷が治ったらすぐ子作りしなさいと言われた。積極的に赤ちゃん欲しいと思ってなかったけど、乗るしかないこのビッグウェーブに!って感じだ。気持ちは追いついてないけど人生を大切に生きなければと思った。
先生や看護師さんや病棟でお世話になった人達には手紙でお礼を伝えたい。
両親や夫には日々のなかで感謝を伝えていきたい。
まだ現実が肚にストンと落ちてなくてふわついてる。本当はまだ癌告知も受け入れられてないのかもしれない。でも私は癌ではなかったし手術は無事に終了した。だから心が納得してなくても現実を生きなければ。
私のエア癌体験はこれにて終了。
父の法要から一日明けた朝、漫然とテレビをつけていたら、NHKのみんなのうたが始まっていた。
あ、ボブネミミッミじゃん、そう思って聞き流した次の曲が七尾旅人さんの「天まで飛ばそ」だった。優しい歌声に枯れたと思った感情がぶり返してきた。
花粉症の鼻をすすっていると母も洗濯物をハンガーにかけながら「この歌誰が歌ってるの?」と聞いてきて、答えられなかったからググって今また歌詞を読んでる。
隠した願いを天まで飛ばそ。あの子は知らない。あの子は知らない。
渡しきれぬ夢を天まで飛ばそ。あの子は知らずにここから旅立つ。
親の心 子知らず、なんて言うけれど、自分もまた知らなかった。
父に勘当されて十数年、妹に見せてもらった家族(自分を除く)のLINEチャンネルにも、遺書らしい遺書にも自分の名前が登場することはついぞなくて。
死ぬ二週間前にお互いに様変わりした顔を合わせた席で「ひさ…」「次に会うのは葬式だな」と会話にならない会話を交わしてすぐに病室を出ていったから、最後まで父が自分のことを思い出す時間があったかどうかも不明で。
それでもあの時の掛け違いの理由を何処かに遺していってくれたらと願わずにいられなくて、書斎を探してみたけど、出てきたのは茅田砂胡さん、菅浩江さん、小野不由美さんと懐かしい著名のファンタジーばかり。晩年は抗がん剤の研究をしていたと聞いたが、仕事に関する本は古いバイオインフォマティクスの参考書を除いて一切なかった。
目を閉じれば思い出すのは、港南台の子ども科学館に、青葉台の郊外の勤め先の研究所と、土日車で連れて行ってもらった子どもの頃の記憶ばかり。あの延長線上に、父の秘された希望もあったのだろうか。隠した願いはもう一生分からない。今の自分ははっきり違うということだけが分かる。歌を聞いて三度去来するのはもう解決すらできないこの寂しさだ。
後、数年もすれば自分も子どもに名前と一緒に隠した願いをそっと飛ばすだろう。夜をギラギラに自己主張するのではなくて、色々な人が打ち上げた願いの中にひっそり混ぜて、旅立ったあの子が気づかずに手に取ってくれることを願おう。そうしてくれたら、いやもし選ばなかったとしても自分から伸ばした手で願い星を掴んだとしたら、それが親としての本願だ。
リンパ腫の猫の看病が辛い。全然食べなくなっちゃった。2時間おきくらいにあげてる餌も前は半分以上は食べてたのにもう2割くらいしか食べなくなっちゃった。
猫もすごい嫌な気持ちになって必死で口に餌入れられないようにして抵抗してるのにどうにか食べてもらおうとスポイト(注射器の針がないやつ)を口に突っ込んで流動食を入れる。前はぺちゃぺちゃと喉の奥に流し込んでいたのに、今はほぼを吐き出す。そしたら防ぎようがなく魚の匂いがするペーストを顔やや髪や服に飛ばしてくる。仕方ないとはいえ情けない気持ちになる。餌をあげ終わったあとには大量ティッシュの山。どれだけの餌をティッシュで捨てて、実際どれだけ食べたんだろう。もっとうまくあげれたら良いのにな。
猫も私もめちゃくちゃ嫌な気持ちになってるのにどれだけの栄養が猫は取れるのだろう。嫌ならもう今日はやめとこうねって心折れそうになるけど、これやめたところでもうほかに栄養の補給のしようがなくて辞めるわけにはいかなくて辛い。毎日行く獣医さんには「出来るだけ栄養とってあげてください」って言われるけどこの2週間、2.3時間おきに餌をあげるたびに同じ状況で火垂るの墓でお医者さんが「滋養をつけることですな」っていう言葉に対してお兄ちゃんが「滋養なんてどこにあるんですか!」って怒るシーンがあるけどあれを思い出す。もちろん獣医さんはとっても親身だし猫のことをすごく大事にしてくれてるから怒る気持ちなんてないし感謝しかないけど、たまにめちゃめちゃ情けなくなる。
治療もステロイドから抗がん剤に移行したけど全然効かなくて全然胃の壁は薄くならないし全然ご飯も食べなくなった。なのに抗がん剤を打った日はとてもしんどそうで辛い。
次の次の抗がん剤は投与すると体力ない猫には即死の可能性があるみたいだから、次の抗がん剤を最後にして、これが効かなかったら抗がん剤治療は止めることにしようと思う。
前は寝室に来て一緒に寝てたけど、歩けなくなっちゃって猫一人でリビングで寝てたけど、リビングに布団を引いて様子見ながら寝ようって思って布団引いて寝てたら布団に上がってきて私の枕の横で寝るようになった。もっと早く一緒に寝てあげるべきだったのにごめんよほんとに。
http://b.hatena.ne.jp/entry/gendai.ismedia.jp/articles/-/54373
「医療大麻」に対する肯定的な反応が多いが、どのようなものをイメージしているだろうか?
医療大麻Medical Cannabisと言った場合、ほとんどは飲み薬や注射ではなく、大麻草に火を付けて煙を吸入するものを指す。英語で検索すれば分かるだろう。上の記事中で言及されている大塚のサティベックスは「大麻から作られた薬」であり、医療大麻ではないのだ。
つまり嗜好品として吸われる大麻と医療大麻は大麻草の品種が違うぐらいで、実質的な差はほとんど無い。大麻製剤ではなく医療大麻解禁を求めている連中はまず下心があると思っていい。
大麻に医療上有効な成分が含まれるのは間違いないが、だからといって「医療大麻」が医療上有効ということにはならない。カテキンやポリフェノールが健康にいいからと言って、茶やワインが健康にいいとは限らないのと同じだ。十分な量を摂取できないし、余計なものをいろいろ取り込んでしまう。
THCはいわゆる麻薬で、鎮痛・吐き気止め・食欲増進などの効果がある。ただし効果が不安定で副作用が大きく、目的に反して痛覚が鋭敏になったり吐き気を増幅したりする場合もあるため使いづらい。他の鎮痛剤や医療用麻薬の効き目が悪い患者用としての需要はあるので、無意味というわけではないが。
CBDは麻薬ではなく、依存性もハイになったりもしない。てんかんの治療に使えるとか、抗がん剤の作用を増幅するとかいった効果があるようで、それなりに有望な成分だ。
ただし大麻やTHCと違って、CBDを薬として使用することは今の日本でも禁じられていない。CBDに期待するからといって、医療大麻解禁などを訴える必要は無いのだ。
無事、治療終了になりましたー!
先々週に、CTとかで調べたりして、再発転移なしってことで、通院が、毎週から毎月になりました!
まだ、通院は終わらないのかー…。
そして、採血もまだあるらしい…。
頭はまだつるつるです! まゆげとかまつげも薄いです!
痺れは、あるっちゃあるけど、気にならないくらい…。キー打つ時に、あーまだあるなー って思うくらい。
きっと今ある症状も段々と良くなっていくんだろうなー。
今までも、いっぱい応援していただいて、大変な時とかつらい時とかに励みになりました。
まだ、書きたいなぁ… でも抗がん剤治療ではなくなったからなぁ…
また気まぐれに書きに来ます!
【追記】
↓の454日は私です。
お正月が明けてから猫が餌を食べなくなった。心配して動物病院に連れて行ったらリンパが腫れている、十二指腸も腫れて通常の4倍くらいの大きさになっていると言われた。血液検査の結果も悪く、貧血気味で栄養が全然足りていない状態みたいだった。あとから知ったけれど猫も半年に一度ほどは検診に来た方が良いらしい。もし半年前に来たらもっと治療しやすくて治りやすい状態だったのかと思うと猫に対して申し訳なさしかない。こんなにボンヤリした飼い主の元に連れて来てしまってごめんよ…。
早速治療が始まって、炎症を抑えるためにステロイドと抗生物質を投与して栄養を補給するために点滴を打ってもらい、家ではペースト状の病院食をスポイトに入れて猫の口に突っ込み無理やり食べさせることが始まった。
それから2日経って猫はカリカリも食べるようになったけれど、自発的に食べる量では栄養は足りないので相変わらずスポイトで強制的に食べさせている。
薬はすぐに効いたみたいでリンパの腫れは引いた。でも3日目、今度は心臓の周りに胸水がたまった。胸水が溜まると心臓を圧迫して呼吸が荒くなるので目に見えてしんどそうになる。胸水が溜まるとしんどいので胸水は多いときは抜いてもらっている。今日までもう3回ほど抜いた。でも胸水を抜くときの作業はとにかく猫が辛そうでみていられない。辛い。ごめんね。
胸水が溜まる原因も最初は毎日点滴をしたからか?と獣医さんが疑い、点滴はやめたけど相変わらず溜まっている。6日目に血液検査の結果で分かっていた低アルブミンというものから来るものではないか?ということで決着がついた。低アルブミンの治療は栄養を摂取することが第一みたいなのでとにかく栄養を摂ることを目標に毎日何度も猫の口にスポイトを突っ込み、嫌がられながら餌を与えている。
最初の診断では消化器系のリンパ腫ということだったけれど、注射器をさしてもその確証は取れず、全然違う病気かもしれないということを4日目に聞いた。何度その検査をしても今の時点では判断できなさそうということだった。今はステロイドと抗生物質が効いてるけれどリンパ腫だった場合ステロイドはだんだん効かなくなってまた腫れてくる。そこで初めてリンパ腫で確定、2ヶ月くらい経っても腫れて来なければ別の病気の可能性が高いらしい。病気の名前が分かっても私には何することもできないのだけれど、リンパ腫かどうか分かる時が最短1週間後一番遅くて2ヶ月後で、リンパ腫だと判明した場合抗がん剤治療をしない限りもう長くないらしい。しんどい。リンパ腫だとわかった時点でまた次の選択が迫られる。
リンパ腫で確定した場合、抗がん剤治療をするかどうかも悩んでいる。そこまで強くないものらしいけれど、抗がん剤はやっぱり抗がん剤であり、猫には少し辛いものだろう。
気持ちが弱って人に聞いてほしくて人に話すと、もうリンパ腫と決まって薬が効かなくなれば治療は諦めて緩和療法(広い意味で)に移行した方が良いという人が割といる。そうかもしれない。実際そうかもしれない。猫が苦しみながら生き伸びたところで可哀想なだけって多分自分の飼っているペットじゃなければ思うのかもしれない。でももう10年以上毎日一緒に居ると少しでも長くまだ一緒に居たいと思ってしまう。緩和療法を選んだとしても、抗がん剤治療を選んだとしてもどちらでも後悔しそうで怖い。
やっぱりリンパ腫で抗がん剤治療をしなければもう来週には死んじゃうのかもしれないと思うと可哀想だし寂しくて仕方ない。今日は胸に溜まった胸水をかなりの量抜いてもらったから隣で寝てる猫が昨日よりかなり楽そう。年末まで寝るときにやってきてた部屋まで来てくれた。今後の日々で今日が一番この子が元気な日かもしれないと思うと辛い。
あと今は私はいろいろあって働いていないのだけれど、働いていない期間で幸運だった。仕事しながら毎日動物病院に通って2時間おきに給餌なんて無理だったと思う。
猫と人間を比べてもいろいろ仕方ないけれど、猫だとしてもこれくらい毎日悩んでつらくてしんどいのなら親や子供やパートナーの病気なんてもっと辛くてしんどいんだろうなとまだ経験がない自分でも想像がつく。
4年前、どうにも家族と折り合いがつかなかったわたしは、通えないほどで遠いわけでもない職場に入社が決まると同時に実家を出た。
実家には、大学を中退して腐ってたころに拾ってからずっと可愛がっていた猫を残していった。茶トラのやたらとデカくてお人好しでよくちびるビビリのオス。
次の春に専門を受けることに決めてから、大学生活たのしむ旧友とも疎遠になり、バイトくらいしかやることもなく鬱屈と過ごしてた日々に猫はするっと入り込んできて、うまく言葉にできないけど、今思うと当時はとても救われた。
生活が安定したら、ひきとって二人で暮らそう、とそいつと約束して実家を出てから四年間はアッという間で飲んだり遊んだりしてるうちに過ぎ去った。なんでそれを猫が待っててくれてるなんて当たりまえに思ってたんだろ。
先月ガンでしんだ。
手術も抗がん剤も、キツいの頑張ってたのに。
わたしはなにもできなかった。
通院も嫌いだった姉や妹や親が献身的にしてくれた。医療費も最終的に50かかったらしい。
がん発見してから3カ月、実家に足しげく通った。これまでになく。これしかできない自分が情けなくて吐きそうだった。どんなに通っても足りなかった。もっと一緒に居ればよかった。もっとあいつの弱気な鳴き声ききたかった。ゴワゴワしてフワフワした毛皮さわりたかった。楽観的すぎたしマヌケだった。
ペット霊園で焼いてもらって人間より二回りくらい小さい骨壺に納めた。
わたしより先に死ぬなんてわかりきってたことだし覚悟のうえで拾ったけど、こんなに早いなんてこんなにつらいなんて想像だにしてなかった。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20171123/k10011232821000.html
ブクマを見ていて誤解がある、というか、多分元記事を書いた人もきちんと理解していないと思うので書く。
期限が、とか使う予定だった人が使わなくなったとかいう話でも全然ない。
抗がん剤というのは使う量が体表面積または体重によって決まる。
今話題のオプジーボを肺がんに使うのであれば3mg/kg、体重50kgであれば一回の投与量は150mgである。
ところでオプジーボは1バイアルが100mg/10mLのものと20mg/2mLのものが市販されている。150mgが必要な場合、100mgを1バイアル、20mgを3バイアル用意し、そこから150mgだけ使用するのである。
バイアル内に残った10mg分は廃棄される。
この廃棄分のことが、今回の話題になっているというわけだ。
では次にまた50kgの同じオプジーボを投与される患者が来たら余った10mgを使えばいいようなものだが、現実、そう簡単に同じ治療をする患者がタイミングよくくるとは限らないし、51kgだったらアウトだし、何より保険がそうはなっていないからだ。(ちなみにここで余った薬液を使えれば20mg1バイアル、75100円が節約できることになる)
抗がん剤には発がん性や催奇形性があり、また細菌等による汚染も懸念されるため一度開封したものを長時間保管しておく、というようなこともできないのだ。
ただし、1日に数百人が抗がん剤を投与するがんセンターなど、大規模な治療センターであればある程度の管理を行えば患者間でのバイアル内に余った薬液の使い回しは可能なのではないかな、と個人的には思う。
よく言えば、クリスマスが今年もやってくる…
悪く言うと、思いがけず5回目の抗がん剤の日が予定通りだった…。
今まで延期が続いてたので、てっきり今回もと思ってたのに!
数値が早く改善した証拠なので良いことだけど、肝臓の働きをよくする薬が増えた…。
よって、4週あける予定で計算してたので、クリスマス中止が阻止されましたー!
今週は、クリスマスを楽しみに乗り切ろう…。
現在の症状は、だるーい、ねむーい、気持ち悪いー、味が変ー、食欲ないー 便通もなし…。
食べると気持ち悪くなるって思うから食事も躊躇っちゃうのよね…。吐き気止めの薬飲むためにーとか、空腹感を抑えるためにー、食べるかー って感じ。この状況で、チキンチキン、ケーキケーキって考えてる食いしん坊な自分ですらそうなのだから、普段から食が細い人は大変そうだー。
あと、今回は、症状が出るのが早い気がする…。気のせいかもしれない。
スタートが早いということは直るのも早い、となればいいなぁ。
あさいちのワイン特集はちょー良かった! 色んな意味でおいしかった。
今週も金曜日になったらマグミット。前回、マグミットさんのおかげで、便通が改善したので忘れずに。
水分取って、うがい手洗い。
普段にも増してぼーっとしがちなので、準備しっかり、時間や精神状態に余裕のある行動を心がけよう。
科学的根拠が全く見えない言葉とともに、通院や投薬の無意味さを主張する。これがこの漫画の正体といっても過言ではない。
第2話において、うつ病の治療を始めたが効果が見えず、薬が増えていくことに恐怖を覚えたこと、そしてドクターショッピングに至ったことが描かれている。
精神医療に失望し始めたころに「薬では『うつ』は治らない。なぜなら…」という本に出会い、そこから「アファメーション」に傾倒する。
まず「アファメーション」が何なのかをググってみるといい。大半の人が目を覚ますだろう。
このアファメーションは一部で有名な苫米地英人が日本に持ち込んだものである。詐欺的な自己啓発集団が商品化しているケースがあまりにも多い。
ドクターショッピングの対象が自己啓発ショッピングに切り替わっただけと考えてほぼ間違いないだろう。同じ罠にはまる精神疾患患者はそう珍しくないからである。
田中圭一はもちろん医療の専門家ではない。それゆえに精神病理について全く無頓着である。
脳の器質的な疾患であるとか、そういったことを無視してメンタルヘルスを語っている。
その結果
という非科学的なセリフが登場するのである。いうまでもなく、これらはうつ病の発生原因や回復要因としてまったく因果関係が判明していない。
メンタルヘルスの回復の補助としてある程度役に立つかもしれないが、あくまで治療のメインは投薬治療である。
ストレスで胃に空いた穴は、ストレスを解消するだけではふさがらない。精神疾患もそれと同じだ。
つまりこの漫画は一見精神病患者の心に寄り添うように見えて、言っていることはマイルドな根性論なのだ。
「自分をキライになったからうつになった。自分を好きになればうつは治る」
うつ病というのは自分の気の持ちようで治る病気なんだ、という、多くの精神科の医師が解きたくてたまらない誤解をますます深めているのだ。
うつ病患者をはじめとした精神病患者は、長患いの結果、病院や医師に対する信頼を完全に失っている。
そんな折に「薬ではうつは治らない」「アファメーションで治る」と書かれた本を手にしたらどうなるだろうか。
すべてに絶望した末期がん患者が「抗がん剤ではがんは治らない」「手術も抗がん剤も無しでがんは治る」と書かれた本を手にした時と同じことになるのではないだろうか。
最後に。著者も含め、世の中の精神病患者はあまりにも「薬を飲み続ける」ということをネガティブにとらえすぎていないだろうか?
「一生薬漬けの体になってしまった」と嘆く人がいるが、よく考えてほしい。
健康な人間でも食べ物を食べ、水を飲み、空気を吸わなければあっという間に干からびて死ぬ。
薬がないと生きられない人間と、健康な人間には大して差は無い。
生まれてから一生薬を飲まなければいけない人。自分で自分に注射を打たなければいけない人。
自分の意志では歩くことができず、たくさんのチューブにつながれた人…
「生きている人間」のうち、彼らが占める割合はあまりにも大きい。
「一生薬漬けの体になった」と人目もはばからず嘆き、薬を飲まない人生こそを至上とする精神病患者は、彼らの生き方を否定している可能性に気付かないのだろうか?
https://anond.hatelabo.jp/20171110125209
過去に別のドナーさんから提供された骨髄を移植したレシピエントさん
https://anond.hatelabo.jp/20171110205203
どちらも普通に生活をしていると全く知り得ない出来事で、マンガやドラマの中によくある「ドナーさえ見つかれば万事解決」的な描かれ方とは程遠い、圧倒的で重くて細かい現実が良くわかる。
いい機会なのでここで骨髄移植について書いておこうと思う。
まず移植というと腎臓移植とかを思い浮かべるだろうし、コメントにもちらほら手術とあるから誤解を受けやすいのだが、骨髄移植に限っては、手術はしない。
ドナーが見つかったら移植日を設定し、そこに合わせて致死量を超える抗がん剤と放射線(移植前処置)により、レシピエントの免疫を完全にゼロに持ち込む。これは一旦Goとなったら止めることはできない。
そしていよいよその日、day0に移植となる。移植自体はむしろ輸血に近い。血管から提供された幹細胞を輸注するのだ。そして生着を待つ。
ここで幹細胞が入れられないと当然レシピエントは死ぬ。移植が受けられなければ、移植前処置とは単なる殺人行為だからだ。ドナーが提供前に危険を伴う行為を制限される理由はこのことに他ならない。
ただし、やはりドナーにおける負担は現状、相当重い。自身の健康を損なう危険がある上、仕事を休んで検査をし、入院して痛みを伴う処置に耐えなければならない。
また、レシピエント側の問題として、ドナーの上記の準備を待つ時間がない、ということもある。その間、少なくともがん細胞をコントロールし続けなくてはならないのだ。
そういう意味で骨髄バンク経由の移植というのは最もハードルが高い。
まず知名度もあり、利用も多いのが臍帯血バンクだ。出産のときに廃棄される臍帯血を保管し、移植に使用するものだ。骨髄バンクとは違い、もともと捨てるものを保管管理するだけなのでドナー側の負担はほぼゼロだ。(出産前に提供の意思表示をするくらい。)
問題点としたら、得られる造血幹細胞が限られており、レシピエントの体格が良いと足りない場合がある、再発した場合に効果が期待できるドナーリンパ球輸注が使えない、臍帯血を採取できる施設が限られており、なおかつ出産はいつ何時始まるかわからないため、週末や年末年始など、採取できないケースが結構ある、などだろう。
骨髄移植は白血球の型(HLA)が全て合うことが望ましいが、これが一致するのが非血縁者間(骨髄バンク)だと一万分の一以下である。
この合致率を下げて、血縁者をドナーとしようではないか、というのがハプロ移植である。血縁だけあって、兄弟なら50%の確率で、親子ならほぼだいたいドナーになることが可能である。縁もゆかりもない他人のためにドナーになるのは負担が大きいが、兄弟や子どもであればどうだろう。しかも、抗がん剤や放射線で叩ききれない残存がん細胞に対する抗腫瘍効果も高いと言われている。
こう書くとまるで夢の治療だが、実際行われているのは日本でも数施設である。なぜか。移植をするということは、他人の免疫細胞を招き入れ、定着させるということである。そして、免疫細胞の役割とは、自己でないものを攻撃することである。
移植された免疫細胞にとって、レシピエントの身体は非自己でしかないため、当然攻撃対象となる。これが移植片対宿主病(GVHD)だ。
消化管に出れば1日何リットル単位での下痢になるし、吐き気が出ることもある。皮膚がぼろぼろになったり、肝臓がやられる場合もある。
そして、何より問題なのが、GVHD に有効な薬剤があまり市販されていないことだ。免疫反応がその実態であるので、免疫抑制剤が主力になる。当然、移植後から全身性の免疫抑制剤は綿密な血中濃度のコントロールを行いながら投与されるのだが、強力な免疫抑制は感染と表裏一体だ。局所のGVHD 制圧のためにはその場所にさえ薬が届けば十分なのだが、なかなかそういう薬はないのだ。
ではどうするか。
作るのだ、病院で。
この、2017年の日本において、薬剤師が、カプセルに、手動で粉薬を、つめている!
また、健康な人の腸内細菌を移植する、と言えば聞こえは良いがその実態はちょっとここでは書けないような、そんな治療も医師が自ら犠牲(犠牲?)になって行われていたりもする。
骨髄移植、それもハプロ移植となれば最先端医療である。しかし、最先端であるが故、市場規模が小さすぎ、まだまだ製薬会社を始めとする企業が手を出しにくい状況であり、医療スタッフが手弁当で補わなければならない部分も多々あることは記しておきたい。
レシピエントの方が書いていた、骨髄移植が生きるか死ぬかぐるぐるポン!というのは確かにその通りであるが、移植後の生存率とQ O Lを少しでも上げるために、現場ではいろいろ、本当にいろいろ、試行錯誤を重ねている。