はてなキーワード: ライフスタイルとは
ChatGPTに、3つの立場からコメントを作ってもらいました。
この文章を読むと、筆者が自分の家庭生活に対する寂しさや辛さを率直に打ち明けているように感じます。夫婦関係での触れ合いの不足が彼らにとって心の穴を開けており、その空白を埋める方法が見つからずに苦しんでいる様子が伝わってきます。彼らは自分たちの状況に対して深く考え、なぜ夫婦同士でのスキンシップが難しいのか、なぜ他の家族との触れ合いは受け入れられるのに、配偶者とのそれが避けられるのかと疑問に感じています。この状況は彼らにとって心の苦しみを引き起こしており、ただ「一人の時間」だけでは満足できず、「二人の時間」を求めているように思えます。この状況から抜け出すために、他人の意見や経験談を求めている様子が伝わります。彼らの悩みに寄り添い、このような状況を打開するヒントや解決策を提供したいと思います。
筆者の文章からは、自分の夫婦関係に対する不満や寂しさ、そして相手に求める期待が強く感じられます。しかし、他者の期待や自己の欲求を相手に押し付けることで、自分の問題を解決しようとしているようにも思えます。夫婦関係は相互の尊重とコミュニケーションが必要ですが、筆者は相手に自分の欲求を押し付けることで満足を求めているようにも受け取れます。また、相手を評価する基準や他の家族との比較を通じて、自分の不満を相手に求めることが、冷たさや不満足感を生んでいる可能性があります。このような問題は、双方のコミュニケーションや妥協が必要です。批判的な側面からは、自己中心的な要求に対する認識が求められるでしょう。
筆者の文章は、夫婦関係における触れ合いの不足についての複雑な心情を率直に述べています。彼らは家族や自分自身に対して、なぜ配偶者との触れ合いが難しいのか、他の家族とのそれとの違いに疑問を抱いています。一方で、「一人の時間」の重要性も認識しており、そのバランスを見つけることに苦慮しています。彼らの気持ちは理解できますが、この問題は単純な解決策ではなく、夫婦関係や個々のニーズに合わせたコミュニケーションの改善が求められます。また、他の夫婦との比較や「大人だけの時間」についての考察もありますが、それぞれの夫婦関係やライフスタイルは異なるため、一般化することは難しいでしょう。この問題には相手とのコミュニケーションや相互理解が必要であり、時には専門家の助言も有益かもしれません。
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トランスジェンダー(他いろいろの性的マイノリティ)の味方になりたいアライさんとGC側の果てしない論争が目を引いたからだ
毎回議論が脱線していき、論破合戦になるばかりで肝心のトランスジェンダーは置いてきぼりの状況が悲劇的だ
なんとなく自分の考えがまとまってきたのでまとめておく
文献を引いてくる気はないし単語とかいろいろ間違ってるんだろうけど当事者たちも全然その辺統一感が無いので気にしない
これは自分がトランスジェンダー関連をこう思って過ごそうと思っているというまとめである
あの界隈は本当にややこしいのだが、性同一性障害と言われている疾患とトランスジェンダーがまず違うらしい
性同一性障害は数百万人に一人の頻度で発生し、幼少期から自分の体の性別に強い違和感をもって生きていく疾患である
その違和感を改善するために適合手術という外科的手術があり、見た目を変え、違和感の根源である生殖器を取り去ることで苦痛を和らげようとする
この手術がめちゃくちゃ体の負担になるのは容易に想像できるし、外科手術だけでなくホルモン投与なども行わなければならない
そこまでしても実際に異性になれるわけではないのでもともと男として生まれた人は妊娠出産はできないし、女として生まれた人は精子を作れるわけではない
それでも手術をしてよかった、見た目が異性らしく見え、生殖器を取り去ることで、周りからも異性として扱われやすくなるし、自分自身がもともとの性別から変われたと思えて楽になった、という人はいると思う
どれくらいいるのかはわからない
もともとが数百万人に一人だし、そこから実際に手術する人は一部だろうし、そこから長きにわたって後悔せずに生きていける人はさらに一部だろう
手術なんてしなければよかった、しても意味がなかった、多少は意味があっても苦痛のほうが大きかった、という人も絶対にいるし、手術をした人の中でどちらのほうが多いのかはわからない
性同一性障害の治療の一環としての外科手術はいまだに試行錯誤されている段階であって、決定的な治療ではない
五十年後に同じことをしているかというとしていないだろう
今できる精一杯としてこの不完全な処置をしているに過ぎないし、それが今できる最善なのかもわからない、それでもやる人はいる
特例法はそうまでして体を変えた人が特例として戸籍を変えて生まれた時と違う性別で生きていくことを容認する法律だが成立して何年もたっているので現状とはずれてきている
現状のずれとは何か?
もともとこれは性同一性障害の患者用の特例だったが、そうではない人々も戸籍の変更を強く求めるようになったことである
性同一性障害ではないのに戸籍の変更を求める人々、それはトランスジェンダーである(と私は理解している)
トランスジェンダーという概念は性同一性障害を含んでいるが、もっと広義なものであるらしい
本来の性同一性障害であれば幼少期から違和感があるはずだが、幼少期には特に違和感がなかった人が人生の途中から違和感を感じ始めることがままある
幼少期から違和感があった人のなかにも性同一性障害ではない人もいる
ここが本当にややこしい
色々見てみても、言葉遊びみたいなのになっててわかろうとすればするほど難しかった
今の私の理解としては、性同一性障害ではないトランスジェンダーは、もともとの体の性別にかかわらず自分のことを異性だと思っている人のこと
女の体でも男だと思っているし、逆もまたしかり
だから外科手術をしたりホルモン投与をするしないに関わらず自分は男ではない(女ではない)と思っているし、必ずしもそれらの医学的補助を必要としない
そして、これは全員ではないかもしれないが自分だけではなく周囲からも自分がこうだと思っている性別で扱われることを望んでいる
その一環として自分の望む性別に戸籍を変えたいというのは、自然な流れである
性同一性障害だけではなくトランスジェンダーに対しても戸籍変更を認めるか否かが問われていて、おそらく流れとしては認めるべきであるという方向に進もうとしている
で、ここで議論になるのがトランスジェンダーという存在が社会の中で存在感を増すということは必然的に性別によってわけられていたことが意味をなくしていくということについてである
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性別によってわけられていたことが意味をなくしていく話をする前に改めてトランスジェンダーについて話す
トランスジェンダーは幼少期からずっと違和感を抱えている性同一性障害とは異なる
疾患ではないとする動きもあるらしいが、それは非常に納得できる感覚で、トランスジェンダーとは疾患ではなくライフスタイルに近いと考えると私としては非常にすっきりする
そういう風にしか生きていけないの人たちもいるのだからライフスタイルと一緒にするなと言われるのは間違いないが、トランスジェンダーの定義自体がどんどん変わっていっているのでどうしようもない
ライフスタイルだと思うのはデトランスする人たちがそれなりにいるからということと高齢になってから突然トランスする人たちが一定数いるからだ
自分の体の性別についての違和感が不可逆的なものなのかどうか、というのは大切なポイントだと思う
ここでベジタリアンのたとえを使うけど、ベジタリアンとして一生生きていくひとと、途中でやめる人、両方いる
もしベジタリアンとして生きていくと宣言して社会的にもベジタリアンと認識され、以後一切肉も魚も食べられません、これはあなたが決めたことです、途中で気が変わったといっても無理です、と言われたら困る人は沢山いるだろうな
そしてその人が一生ベジタリアンとして生きるかどうかは寿命が来て死んでしまうまでわからない
いまトランスジェンダーが異性として生きていく、一生そのままだ、と思っていてもそうなるかどうかはわからない
実際高齢になってからトランスする人がいるのだから、いま三十代でそう思っていても六十代になると変わるかもしれない
トランスジェンダーというライフスタイルが定着すれば必然的に性別というのは可逆的なものになる
いまそういう概念があるのかわからないが、不可逆的トランスジェンダーと可逆的トランスジェンダーがあるんじゃないのかなと思っている
実際どういう扱いなんだろうな
トランスジェンダーだと思っていたけれどそうではないみたいです、という人たちは確実にいるわけだが、アライさんはトランスジェンダーだった場合を考えてその人が最大限トランスジェンダーとしての生活を送れるように推奨していると思われる
不可逆的トランスジェンダーにとっては歓迎すべき対応だろうけど、可逆的トランスジェンダーは後悔する可能性が高い
GC側は可逆的である可能性を憂慮しているし、アライさんは不可逆である可能性を重く見ている
特に今は思春期の子供たちが話題になることが多いが、当然両方の子供たちがいるし、一方にとって良いことは一方にとっては悪い
唯一にして絶対の正解はない
正解はないのに正解だけを求めようとするとそこからこぼれていく人がいる
置いてきぼりにされる当事者たちの出来上がりだ
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さて、そのような可逆的不可逆的が入り混じったトランスジェンダーを社会のなかで存在を増していくとどうなるか
でも現時点で性別の差は物理的にも社会的にも大きくて、突然その概念をめちゃくちゃにするようなことをすれば社会的混乱は必然
段階的な対応が求められる
私としては性同一性障害をふくめてトランスジェンダーという存在がなくなることはないので、一緒にあるべき社会を考えていくことは絶対に必要だと思っている
ベジタリアンという存在はなくならないので一緒に生きていく社会を考えるように
ベジタリアンメニュー、肉魚を食べるか食べないかの事前確認、いちいちそれに対して感想を述べたりしないし過剰反応もしないし拒絶もしない
そういう感じのイメージ
いまトランスジェンダーが議論になりがちなのはまだ社会のほうが受け入れ態勢ができてないのに理想論優先で先走ってしまうことがままあるからだと思う
非現実的な話ばかりしているアライさんが沢山いる
それに対してびっくりしてしまう一般大衆をして理解が乏しい愚者みたいに扱っているのが非常に嘆かわしい
こういう人たちはトランスジェンダーをサポートしたいのではなくて、概念で誰かを殴るために活動しているんだろうな
なぜならそんな風に一般大衆を論破してもトランスジェンダーの理解が深まるわけじゃなくてむしろ反発を呼ぶだけだからだ
ロビー活動としては下の下、愚の骨頂
トランスジェンダーは、もともとの体の性別にかかわらず自分のことを異性だと思っている人であり、「トランス女性は女性です」の言葉が象徴するように常に周囲からも自分がこうだと思っている性別で扱われることを望んでいるので、女性スペースがあるなら女性として使用したい、それが許されないことは非常に苦痛を感じるだろうことは想像できる
だが少なくとも現時点でその望みがあるとして十全に叶えることはできない
まだその段階にない
それが性別でわけられたスペース利用についての議論のスタート地点
ではゴールはどこなのか?
これは人によって目指すものが異なるだろう
そもそも性別でわけたスペース自体なくしていまいたい人、自分の望む性別のスペースにスムーズに入れるようになりたい人、スペースの問題ではなく医学が進んで実際に身も心も異性のものに転換されることだけを望む人、ほかにもいろいろいるだろう
望むゴールが違えば話はどんどん食い違う
譲歩しているのだ、と双方が思っている
トランスジェンダー関連の話になると必ずトイレフロ問題が取りざたされるが、これについてはそれぞれの思う理想のゴールをきいてから始めたほうがいいのになと常々思っている
混浴を目指す人、身体的な区別を目指す人、ジェンダーでの区別を目指す人、それぞれ違う
いずれにしてもトランスジェンダーという存在を前提とした施設を考えていく必要はあるだろう
私自身の意見としては性別で分けられたスペースは維持されてほしいしそのうえで性別で分けないスペースの併設が望ましいと思っている
性別で分けないことを多くの人が望めば性別で分けられたスペースは縮小していくだろうが、そうでない場合は一定数残していく
その数のバランスはニーズによって考える必要があるがニーズが少なくともゼロにはしないという感覚があってほしい
以上、大体私が気になっていたことについての考えをまとめました
色々考えすぎてごちゃごちゃしていたのをまとめられてよかった
満足しました
駅前に何でもある。映画館もある。仕事はリモートでこの範囲で全てを済ませるのなら便利。でもここから出ようとすると途端に不便
近所には柏、松戸、新三郷があるが道路事情がよくない。主に6号。三郷に関しては江戸川を渡るのが大変。車あれば良いけど無いとつくばエクスプレスや東武野田線を使わざる得なくなり運賃が高くつく。
もう町が住宅街なので凄く優等生。都内の駅前みたいなのは無い。ここは人が寝に帰る町
行政については整っている。しかし休日に関してはキャパオーバー。この界隈に居る家族連れを受け止めきれる公園が無い。天気悪いとみんな駅前に行って駅前がキャパオーバー。結果みんな天気悪いと家でSwitchやる。
褒められている部分は多々あるが、それが自分の家庭に必須かは検討した方が良い。ここじゃなきゃダメ!って要素じゃなければここより安い場所は多い。高台で車無いとキツイし言うほど森も無い。ただの新興住宅地。
総合的には良い場所だが昨今は盲目的に褒められているのでもし検討している人は自分のライフスタイルに合っているか考えよう。お出かけ好きにはおススメしない。あと都内通勤にも
かつてキチガイジャップが不夜城を誇ってたころ、すでにヨーロッパの国は夕方には店やオフィスを出たら、早々に家族と家で過ごすようにさせた。
日本人がディスコで躍り狂い、家に帰らず、躁鬱の躁期の患者のように毎日を過ごしていたころ、彼らハイテンションエコノミックアニモーが欧州を旅行して呟くには
「ドイツやフランスでは夕方になるとどこもかしこも閉まってしまう、不便!活気がない!」
というキチガイじみたざれごとであった。
それから数十年、ぶっ壊れたジャップの家庭はぶっ壊れた人間をうみ、ついには自慢の経済もおかしくなり国家も失調している。
人間の正常な生き方ではないような生き方を、国民にさせ続ける国は、いずれ報いをうける。
俺はそう思っている。
夜中まで遊び狂う連中が、国家に少しは居てもいいと思う、しかし、それはあくまで周縁的な生き方、普通ではないライフスタイルであり、そんなものは「推奨」すべきではない。
水商売やヤクザ者が、あぶれ者であるのと同じように、それらはあぶれ者の生き方に過ぎないというのが常識的判断というものであろ。
日本人は、そうやって、経済という魔神の祭壇に、くべてはいけないものや、捧げてはいけない魂まで捧げたから、
どんどん国がおかしくなっているという認識をしてはどうかと思うのだが。
そんなわけで俺は「寝るな」などという論調には賛成できない。
その国家の大半のまっとうな人間は、寝るべきときには寝るべきである。
そういったまっとうな生き方ができない人間の規範を推奨するような記事を書いてる記者はそこらへんの倫理のネジが狂ってるのだと思う。
夜中まで遊び歩く人間を増やさないと維持できない経済というのは、それはなにかが狂ってるので、
実際、日本において占いの人気には男女間で差が存在すると考えられます。これは文化的、社会的な要因に起因する可能性が高いです。
1. **文化的背景**:日本の文化では、若い女性の間でファッションやライフスタイルの一環として占いが人気です。雑誌やテレビ、インターネットなどのメディアが、特に女性向けに占いのコンテンツを多く提供しています。
2. **社会的な受容**:日本では、女性が占いに興味を持つことが一般的に受け入れられていますが、男性が占いに興味を持つことに対しては、まだ社会的な偏見が存在する可能性があります。男性は占いに対して興味を示すよりも、実用性や論理を重視する傾向があるとされています。
3. **メディアの影響**:占いの情報源となるメディアが、主に女性向けのコンテンツを提供しているため、女性が占いに触れる機会が男性よりも多いと言えます。
4. **個人の関心**:もちろん、これらは一般的な傾向であり、個々の人の関心や好みによって大きく異なります。男性の中にも占いに興味を持つ人は存在します。
以上の点から、日本における占いの人気には、男女間である程度の差が存在すると考えられますが、これは一般的な傾向に過ぎず、個人差は大きいと言えるでしょう。
(追追記)
思ったよりバズり困惑する一方でこの話題に感心を持ってもらって嬉しくも思います。表現の汚さは、連休中日の当直後、概日リズムを崩すまいと、徹夜明けのハイな状態で書いていた文章である事を以て言い訳とさせてください。
一点、誤解されている点を追記させてください。あんな文章を書いておいてアレなのですが、私個人は、皆保険制度をまるごと消滅させるべきとは考えておりません。医者が他人の金をクソの山に埋める事を生業としている現状を変えたいと思っているのです。
現状は、様々なプレイヤーが種々の程度で皆保険チャンに乱暴を加えている状況であり、それが日本の衰退を惹起させているのだと認識しております。
(そして、すべてが手遅れになった際には、全て医師のせいにされるのであろうという、強い予感も感じております。)
しかしながら、ルールが悪用されるに当たっては、悪いのは悪用されるルールの方です。日本だとこのルール及び細かい数字はよーわからん方々がエイヤーとやって定めているのだと理解しております。
自己負担○割に変更するのも一つの手でしょうが、明確な理由も無くその数字が定められる以上、本質的な最適化ではないと思われます。勿論、1割よりかは3割の方が望ましいと思います。
根本的にこれを是正するにあたって、米国の様に見えざる手に委ねるか、或いは英国の様に医療アクセスを絞り費用対効果を分析から得られた結論をトップダウンで課すか。
表題では医師というポジションのみを考え露悪的に前者を推してみましたが、現実的には後者でしょう。
つまりは「○○歳の五体満足な人間の一年間は、○○万円に相当し、bedriddenであればそれを0.○倍する」という、地球より重いはずの人命を日本円で測定する事をやらねばならない訳です。
忖度なしにこれをやると、いまの医療漬けのご老人方は壊滅すると思われますが、忖度無しに行うからこその費用対効果なのです。
このベースに加え、足りない分を、英国のように、修練を積んだconsultantにのみprivate practiceを許して補うという制度あたりがちょうど良いのだと考えております。
(追記)
医者バッシング一色になるかと思ったら、意外にもそうではなくびっくりしました。
我々の富が如何にして投資に回されず、誰のためにもならない形で浪費され、みんなで不幸になっているかを知ってもらうため、注目を引きたいが為に露悪的に、過激に書きました。ハマスがやってるような手法です。大勢の方々が気分を害されたと思いますが、誰も半裸にして引き回したりしてないので、許してね(^_-)
日本人が皆保険を手放す訳無いと理解しておりますし、仮にもし、皆保険制度がなくなったとしても、案外多くの勤務医がクソみたいな低い値段で医療を提供し始め、そんなに人件費は上がらんじゃないかと思います。奴ら、どうしようもないお人好しばかりなので。
私個人は普段努めて優しく臨床をしております。患者が憎いわけではないのです。先程私が口汚く罵ったような方々を実際に目の前にした際には、「大変だなぁ」と思います。患者ご本人に対し、そして世話をする家族や自分含めた医療従事者、そのシステムを支える皆様方や将来の子供たちに対して、です。
もうちょっと、制度が違っていれば、もっとうまくいくのになあと感じます。
さて、皆様に於かれましてはお医者さんが大嫌いな方も多いと思われますので、以下、医者を困らせる方法を記載しておきます
これらをされると、我々のお客さんが「なんもしてないのに病気になった人」だけになってしまい、困ります。
(本文)
国民民主党の玉木議員の医者の給与を減らせというツイートが昨今話題になっている。その理由は医療に金がかかりすぎ、成長と全体の幸福を損ねているから、らしい。
ここに、手っ取り早い解決法を提案したいと思う。国民皆保険制度を廃止すれば良い。
国民皆保険制度、そして高額医療制度は非効率な医療サービスのバラマキを行っている。
発熱すらしていないコロナ患者に対するラゲブリオや末期肝硬変患者の貧血に対するエリスロポエチン。どうしようもなくボケちまった爺さん婆さんはあめ玉のようにアリセプトを舐めている。大正生まれのご老人に順内と血外の連中がTAVIやらEVAR,TEVARをするせいで、ピンピンコロリへの道筋が絶たれていく。一種の老人病である心アミロイドーシスという病気にタファミジスのような冗談みたいな価格の薬が投与される。
PD-1阻害薬なんて薬ができたせいで森○朗が復活してしまい、東京五輪で遺憾無く老害っぷりを発揮したのは記憶に新しい。ヤニカスは年金を受け取る前に早く死んでくれるから財政的にトントンだったのであって、延命してしまえば単なる息の臭い金食い虫だ。
糖尿病で腎臓をぶっ壊せば医療費がタダになる上に週3人工透析をする権利が付与される。これは米国だと週2回である。別に週2でも死にはしないのだが、政治家にとっての票田、透析病院にとってのアクティブユーザー数を維持する為に週3となった。
そして今後これにレカネマブが加わる。
この話を欧米の医者にすると、イかれてんなwどこからその金が出てんの?、と言われる。納税者の財布からである。日銀が円債を引き受け、円の価値を希釈させることでそれを行うこともやっている。
世間のイメージとは裏腹で、日本の医療従事者の人件費はとても安い。
これは一人当たり医療費支出を見れば明らかだ(4,691ドルでOECD加盟中15位/38位)。上述のような無意味なバラマキをしており、かつ失敗国家のような人口比率であるのにもかかわらず、日本の医療支出は相対的に低い。何故か?それは医療従事者の人件費が安く押さえられているからだ。
米国の医者や看護師の給与水準は日本の5〜6倍くらいはある。最近は円安でそれにブーストがかかった。米国の一人あたりGDPが日本の2倍程度であるのを考慮しても、単純計算で3倍もらっていいことになる。しかも、日本は医療サービスを必要とする高齢者の割合が高く、富は高齢者に集中している。その上、日本の人口あたりの医者数は米国の二分の一強しかいない(看護師数は知らん)。自由競争が許されれば、価格はどこまで上げて良いのだろうか?
社会主義的な医療制度を採用しているカナダ、オーストラリア、イギリスと比較しても日本の医療従事者の待遇は地を這うような水準だ。この差は、これら国々は費用対効果に見合う医療のみ提供する事より生まれる。そして、費用対効果という言葉は日本で最も忌み嫌われる言葉だ。医は算術ではなく、バラマキなのである。
看護師の方々の礼節は海外と比較するとびっくりする程だ。大して金を払っていない患者に対して奴隷の如くクソ丁重にもてなす(個人的にやめたほうがいいと思っている)。消化器の先生は海外ではまず不可能であろうESDなどを華麗にこなしてみせる。外科の先生はクソ面倒くさいリンパ節郭清などを毎回丁寧にやってらっしゃる(あれエビデンスあるんすか?)。心外、脳外、婦人科の先生方はキチガイじみた24hオンコールを律儀に請け負っている。
ネットに出没する出羽守の方々が海外で稼げなくなってから日本に凱旋するのはまさにこれが理由である。医療が安いだけが理由であったのなら、金が腐るほどある金持ちは海外で医療を受け、そこを終の住処とするだろう。
要するに国民皆保険制度は医療従事者を抑圧する制度でもあるということだ。
この手の話題では、医業の独占を医者から譲り渡すべきだという議論になりがちがだが、別にそうすればいいと思う。
chatGPTの言われた通りに動けば素人でも9割方正解を出せる(残り一割はとんでもなく間違う)。
ただ、麻薬とか向精神薬とか抗癌剤など人を殺せる系薬剤の処方権をお譲りするのは難しいと思うし、無免許医が患者に不利益を及ぼした場合、たとえ事前の患者の同意があったとしても殺人罪やら傷害罪が適応されるべきだと思う。じゃないと麻薬密売やら自殺幇助などがはびこるだろう。
血圧とか糖尿病の薬程度であれば各々自由にやればいいんじゃないかな。ここら辺も匙加減間違うと死ぬけどね。
ネット上では医者が率先して寝たきり患者を量産していることとなっているが、それは嘘だ。寝たきり患者が増えることで得をするのは病院であって、医者ではない(そして、病院にも大した得にならない)。医者が胃瘻やら中心静脈栄養やら喉頭気管分離を行うのは、家族から「できることはやってあげてください」、或いは「昇圧剤と心マは希望しないけど、他はやってください」と言われるためである。一度そう言われてしまうと、文字通りできる限りの事をしないと訴訟や医師免許お取り潰し、場合によっては殺人罪を着せられることになる。延命を行わないことのデメリットが甚大である一方で、メリットは皆無なのだ。
そんな中でも過去にALS患者を安楽死させようとした医者や、透析を中断させようとさせた医者が過去に居たが、日本人はその行為の是非を議論しようとはせず、彼らは司法やらメディアの袋叩きに逢い、無事死亡した。
医療従事者は、低所得者や生活保護者ともっとも交流する職業のうちの一つだ。実際に相手をしてみると解るが、大抵彼らは愚かで、卑しく、救い難い。そんな人々を相手にしたくないし、彼らのために真面目に労働し納税している人々の税金を注ぎ込む際には良心が痛む。
だが、そうせざるを得ない。国民皆保険制度がそうさせているのだ。
ただ、想像してみてほしい。ご高齢の方々は、周囲から疎まれながら、そんなに長く生きたいだろうか?役目を終え、尊敬される老人のまま、死にたくないか?
デブやアル中、ヤニカスの皆様方は、太く短い生涯を送りたくて、そういったライフスタイルを営んでいるのではないだろうか?
そしてなんといっても皆さん、フリーライダーは、お嫌いでしょう??
「お前もいずれは高齢者になる」と言われるが、私の経験では生産可能年齢を過ぎてからの延命は本人含め、誰も幸せにしない。
病院に巣くうご老人方は醜く礼節に欠きそれでいて生産性は皆無である。家族含めた周囲は陰に陽に早く死んでほしいと考えている。そんな中貴重な医療資源を浪費し、死ぬはずであった今日を先延ばしにしているご本人は少しも幸せそうでなく、それどころか不機嫌な顔をしている。飯塚○三のような、あの顔である。
医療に縋らないと生きられない時点で、生物として破綻しているのである。そんな中長く生きても、なーーーーーーーーーーーんもいいことないよ。
私は、基本的には人の為になりたくて医者になった。給与や労働条件が他国に比べてイけてないのはまだ我慢できる。だが、劣悪な労働条件で滅私奉公し、それが故に国賊の様に扱われるのは納得がいかない。国民皆保険制度は医療従事者の待遇を悪化させているだけではなく、医療従事者が頑張れば頑張るほど、日本国民、および患者とその家族に不利益を及ぼすような制度設計になっている。悪いのは制度であって、医療従事者でも、患者でも、老人でもないのだ。
生き方の指針が見えてこない。
若かりし頃は女や金を手に入れるため、あれこれにアンテナを張り、努力してきた。
おかげで今では若く優しい嫁と好条件の収入に恵まれ、どちらも満足している。
しかし、それ故に、今後何を目標にして生きるのかがわからなくなって、今何もやる気が出ない。
一般的には『子育てが生きがい』と答える人が多いだろうし、そのつもりでいる。
しかし現状子供はいないし、今後出来ないかもしれないから、指針としては一旦扱わないことにする。
異性の対象から外れ始めてるのを日々感じる。所帯持ちだからまだいいが、独身だと本当に絶望すると思う。
『金』も稼げるようになったけど、税金と保険代がエグいほどかかって、稼ぐモチベーションも失われてる。
正直、ここまで累進税がキツイとは思わなかった。
『マイホームを買ってローン返済』を言う人もいるだろうけど、夫婦どちらもローンは嫌いなので無い。
老後向けに小さい中古戸建て買うとかはあるかもしれんが、35年フルローンとかは微塵も考えてない。
『趣味』という声もあると思うが、趣味もインカムの1要因になっているので、純粋に楽しめない側面がある。
是非聞いてみたい。
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【追記】先輩方からのコメント、ありがたく読ませて頂きました。ありがとう。
最初にも書いたけど、出来るかわからないから子供の話は今回スルーした。ごめん。
けど「子供が出来たらいい父親になりそう」ってのは嬉しい。照れる。
■ロードバイク・バイク・ヨガ・サーフィンはいいぞ/新しい趣味を見つけて幸せになってほしい
自分のライフスタイルとは全く無縁なものばかりだ・・・。ありがとう。サーフィンはともかく、あとの3つは一人でも出来そうだね。
筋トレは何度かやってみたけど、あまり持続しなかったな・・・。
■起業したら?/趣味があればそれをやるための資金確保とか、時間確保が目標になる
実はもう起業してるんだ。法人4期目になる。コロナの時は死ぬかと思ったけど今は安定してる。
繁忙期は仕事がとりあえずは時間潰してくれるけど、今は閑散期で時間がめちゃくちゃあるから今回のエントリの心境になったんだ。
■>趣味に絞れば、受動型趣味 能動型趣味 のバランス大事だなーって思ったことがある
めちゃくちゃわかりすぎて三度見してしまった。本当にこれだね。
■>今が体力と知識のピーク、あとは毎年1年ずつ時代遅れになっていく
最新の論文からTikTokの動画まで、あらゆる面で勉強することを忘れないよう心がけてる。
テンプレだけど、自分にはもったいないぐらいの良い嫁だよ。出会いから数えてもう6年になる。
本当に強く生きて欲しい・・・。
あなたのお話から、仕事に対するストレスや不満が大きいことがわかりました。仕事が嫌で、早く家に帰りたいと思うのは当然の感情だと思います。
仕事に対するストレスや不満を解消するためには、以下の方法が考えられます。
仕事の目標ややりがいを明確にすることで、仕事に対するモチベーションが高まり、ストレスを軽減することができます。
例えば、あなたが営業職であれば、新規顧客を開拓して、売上をアップさせることが目標かもしれません。また、あなたがエンジニアであれば、新しい技術を習得して、より良いサービスを開発することが目標かもしれません。
仕事の目標ややりがいを明確にするために、以下の質問を自分に問いかけてみましょう。
仕事の嫌なことは、一人で抱え込まずに、誰かに相談しましょう。家族や友人、上司や同僚など、信頼できる人に相談することで、ストレスを軽減することができます。
また、カウンセラーに相談するのも一つの方法です。カウンセラーは、あなたの話を傾聴し、客観的なアドバイスをしてくれるでしょう。
仕事で溜まったストレスを、適度に発散することも大切です。趣味やスポーツ、旅行など、好きなことに没頭して、リフレッシュしましょう。
仕事以外の楽しみを見つけることで、仕事に対するストレスや不満を軽減することができます。
例えば、趣味やボランティア活動、旅行など、仕事以外の楽しみを見つけてみましょう。
もちろん、これらの方法を試してみても、仕事に対するストレスや不満が解消されない場合は、転職も検討してみるのも一つの方法です。
転職を検討する際には、以下のポイントを押さえておきましょう。
あなたは、仕事に対するストレスや不満を解消し、仕事とプライベートの両方を充実させたいと考えているのだと思います。そのためには、自分に合った方法でストレスや不満を解消することが大切です。
ソシャゲに課金するか、フィギュアを買うか、どちらを選ぶかは、各自の趣味や価値観に依存する話だべね。人それぞれ楽しみ方があるし、お金を使う方法も個人の自由だべ。
一方で、お金を貯めたり生産的な投資を考えることも大切だべ。経済や個人の財政に関してはいろんな意見があるけど、お金の使い道は個々に違うし、自分の人生を楽しむためにもお金を使うことは大事だべと思うべ。
日本の経済や賃金の問題については、複雑で多様な要因が影響しているから、一つの要因だけでは語りきれないべ。最終的には、自分のライフスタイルや目標に応じてお金を使う方法を選ぶのが一番だべ。人々はみんな違うし、その違いを尊重するべきだべ。
『万物の黎明』の中心的なアイデアは挑戦的だ。人間とは政治的に冒険的で実験的なものであり、自由と平等の呪縛の後に、変化を起こすために抑圧を選ぶ傾向があると言われるほどである。歴史は、ある極端なものと次の極端なものの間を揺れ動く、リズミカルな形をとっている。しかし近年、私たちは皆、ひとつの体制から抜け出せなくなっており、その理由を理解しようと努めなければならない。
これらすべては新しく新鮮ではあるが、信用できるものではない。私は、私たちの人間性を規定する政治的本能や社会的感情は、平等主義という条件の下で形成されたという人類学的な標準的見解の方を好む。今日に至るまで、私たちは皆、対等な仲間の中で笑ったり、遊んだり、社交したりできるときに最もリラックスし、幸福を感じる。しかし、グレーバーとウェングロー(以下、G&W)は、このような私たちに馴染み深い経験を土台にする代わりに、狩猟採集民の祖先が平等主義者であったという考え方全体に反対している。彼らの見解では、彼らは抑圧されることを選択した可能性が高い。
彼らの言葉を借りれば、「われわれの人間性の本質が、われわれが自意識的な政治的行為者であり、したがって幅広い社会的取り決めを受け入れることができるという事実から成り立っているとすれば、人類は歴史の大部分にわたって、実際に幅広い社会的取り決めを探求してきたはずだということにならないだろうか」。これらの可能性の中には、著者たちが容易に認めているように(86-7頁)、チンパンジーのような虐待的な支配階層も含まれている。G&Wは、もし我々の祖先がそれほど冒険好きであったなら、きっと平等主義だけでなく、攻撃的でいじめっ子のオスによる嫌がらせや虐待、支配も実験しただろうと主張しているようだ。
G&Wは、私たちが革命の過程で社会的、道徳的に人間になったという考えに対する一貫した攻撃の中で、これらの点を指摘している。私はずっと、人間の言語、意識、親族関係、道徳は漸進的な進化の過程で進化し、それが巨大な社会的・政治的革命で頂点に達したという考えを探求してきた。私の動機は常に、人間は本来利己的で競争的だから社会主義は不可能であり、「革命でさえ人間の本性を変えることはできない」という一般的な偏見に挑戦することであった。
私はいつもこう答えていた。そう、私たちは類人猿の一種である。そう、私たちは霊長類のいとこたちのように、競争的で利己的、攻撃的でしばしば暴力的な本能を持っている。しかし、それが私たちの成功の原因ではない。優秀な母親や父親になる能力、自分の子供だけでなく互いの子供を思いやる能力、道徳的なルールを確立する能力、他人が自分を見ているように自分も見ている能力、音楽、ダンス、言語を使って夢を共有する能力など、私たちの本性にまつわる人間的な特徴すべてが、まさに歴史上最も偉大な革命の産物であり、成功した革命なのだ。
この「人間革命」の複雑さを詳述した私自身の著書(Knight 1991)が出版されてからほぼ10年後、人類学者のクリストファー・ボーム(Christopher Boehm)は、その洞察にもかかわらず、最も重要な要素であるセックスとジェンダーの力学についての言及を一切省くことで、政治的な観点から安全策を講じた理論のバージョンを発表した(1999)。G&Wが人間革命理論の信用を失墜させるために明示的に言及するのに十分安全だと考えているのは、この抽象的でユニセックスなバージョンなのである。
ボームは、私たちの最も古い祖先は、一方的な協力者でも一方的な競争者でもなかったと指摘する。それどころか、他者を支配する一方で、支配されることに抵抗するために同盟を結ぶという心理的傾向があった。このような下からの集団的抵抗は、最終的には、リーダーになろうとする者が集団を支配するのを阻止するために、全員が一丸となることで頂点に達した。私たちの祖先のチンパンジー的な支配は、今や逆転し、「逆支配」、つまり平等主義的な倫理観にコミットした道徳意識の高い共同体による支配へと結実したのである。
G&Wは、人類は「......何をすべきか指示されることを自意識的に嫌うようになった」(p.133)という考えに賛同している。この文脈では、現存する狩猟採集民が「嘲笑、羞恥、遠ざけ......他の霊長類に類似するものはない」(p.86)、「自惚れ屋やいじめっ子を地上に引きずりおろすために集団で採用される戦術の数々」を示していることに同意している。彼らがまったく関心を示さないのは、そうした戦術が進化の過程で人間の本性を形成する上で重要な役割を果たしたという考えである。
ボームの説明に対する反論をまとめると、狩猟採集民が一貫して平等主義を好んでいたという示唆は、「何万年もの間、何も起こらなかった」という「奇妙な主張」であるという。狩猟採集民の祖先が一貫して平等主義的であったとすれば、彼らの政治的生活は何らかの形で凍結され、時間が止まってしまったに違いない。G&Wは次の言葉で締めくくっている:約12,000年前以前、人類は基本的に平等主義者であったとボームは主張する。ボームによれば、約20万年間、[これらの]政治的動物はみな、ただ一つの生き方を選んだのである」。(p. 87)
唯一の問題は、これはボームが書いたことではないということだ。彼の実際の言葉は引用に値する:
ひとたびどこかのバンドが平等主義的な秩序を発明すれば、この社会的なやり方の根本的な変化は近隣のバンドにも目につくようになる。特に、非常に攻撃的ないじめっ子を擁するバンドでは、部下が支配されることに対して両義的であれば、どこでもその利点は明らかだっただろう......。魅力的な平等主義の伝統が、地元では専制的な伝統に取って代わり、徐々に文化的な拡散が起こると予想される。やがて、より長い距離を移動する移動パターンによって、この政治的発明がかなり急速に大陸から大陸へと広まっていったと考えられる。(Boehm 1999: 195)
これが成功した革命のやり方だ。ボームの主張は単純に、1万2千年前まで『人類は基本的に平等主義者だった』というものではない。そうではなく、初期の人類はさまざまな政治システムを発展させながら、平等主義というひとつの特に成功したモデルに徐々に収斂していったというのである。
かなり不当なことに、『万物の黎明』は現代の進化論を社会進化論と混同している。社会進化論とは、「未開」から「野蛮」を経て「文明」へと進歩する段階のはしごを描いた19世紀の物語である。ダーウィニズムは科学的であると私たちは語り聞かされるが、実際は純粋な神話である。G&Wはそのように空想的に、進化論を全く認めない人類の起源に関する視点を、読者が真剣に検討することを期待している。
この著者たちが認める唯一の科学は「考古学的科学」であり、その考古学がさほど遡らない場合のみである。彼らは、政治や社会生活については、古代の人類の「頭蓋の遺骨と、時折出てくる火打石のかけら」(p.81)からは何も読み取れないという理由で、「万物の黎明」をわずか3万年前とすることを正当化している。
このような言い訳は、私たちの種の最もユニークな特徴である芸術と象徴文化が、以前考えられていたよりも3、4倍早くアフリカで生まれたという最近の証拠に照らすと、もはや通用しない。この証拠は、骨や石に限らず、ビーズ、幾何学的な彫刻、墓用品を伴う埋葬、砥石や絵の具壺などの工芸品で構成されている。G&Wは、これらの発見のうちの1つか2つに気づいてはいるが(83-4頁)、ほとんど関心を示していない。最先端のダーウィン理論を黄土の記録に適用すれば、社会力学、儀式の実行パターン、性別による同盟関係についての予測を生み出す可能性が非常に現実的になるにもかかわらず、である。(Power 2019; Power et al.
残念ながら、これらの著者たちは、どのような形であれ、ダーウィニズムには近づこうとしない。彼らは、彼らが「フェミニスト」と呼ぶ人物(実際には霊長類とヒトの社会生物学の創始者として高く評価されているサラ・ハーディ)が、人間の本能と心理の形成における集団的育児の重要な役割について「物語」を考え出したことを認めている。「神話は悪いものではない」とコメントしながら、彼らはこの特別な神話を「重要なもの」と表現している。そして、「エデンの園は存在せず、一人のイヴも存在しなかったのだから、このような洞察は部分的なものにしかなりえない」(p.82)と口にして、すぐさまこの神話に疑念を投げかける。この種のトリック--この場合は、ハーディの画期的な研究が、私たちの共通のミトコンドリアDNAの祖先の年代測定より200万年ほど前のホモ属の出現に焦点を当てているという事実を無視すること--は、明らかに、人類の起源研究が追求する価値があるという考えそのものを損なわせることを目的としている。
中石器時代や新石器時代の考古学に興味のある読者なら、本書には興味をそそられる推測がたくさん書かれているだろう。しかし、私たちがどのようにして人間になったのか、つまり、異常に明瞭な目、並外れて大きな脳、独特の社会的感情、笑い、音楽や言語に対する生得的能力などがどのようにして発達したのかに興味がある人には、まったく何も見つからないだろう!
タイトルは深刻な誤解を招く。『万物の黎明』? 『万物のティータイム』の方が正確だろう。物語は、氷河期のフランスとスペインに描かれた壮大な洞窟壁画で知られるヨーロッパの後期旧石器時代から始まる。著者によれば、その段階でようやく考古学が面白くなってくる。初めて、社会の複雑さ、階層、豪華な埋葬などの証拠が見え始めるのだ。
G&Wにとって、狩猟採集民の祖先がアフリカでもっと早くから平等主義的なライフスタイルを確立していたという事実は、さしたる関心事ではない。彼らは、タンザニアのハザ族のような現存する狩猟採集民が資源を共有していることは認めるが、それを賞賛する代わりに、蓄積への抵抗が「社会的複雑性」の出現を妨げていると不満を述べている。著者たちは社会階級という概念を嫌っているようだ。
つまり、狩猟採集民は富の蓄積に抵抗することで、複雑性を妨害する、つまり階級社会の発生を阻止するのである。G&Wはここで狩猟採集民の専門家であるジェームズ・ウッドバーンの権威を持ち出している。彼らは彼の研究から、「真に平等主義的な社会を維持する唯一の方法は、あらゆる種類の余剰を蓄積する可能性をまったく排除することである」(p.128)と結論づけている。このことは、社会の複雑さを排除し、人間の文化的・知的生活の豊かさを排除することになると彼らは主張する。
ウッドバーン(1982、2005)は確かに、蓄積に対する意図的な抵抗が狩猟採集民の平等主義を支えており、意識的になされた政治的選択を表していると主張している。彼は、このような平等主義は非蓄積型狩猟採集民だけの特徴であると観察し、「即時回帰」こそが人類経済の原型であると結論づけた。しかしウッドバーンは、そのような平等主義に複雑性が欠けているとは主張しなかった。実際、彼は「単純な」社会形態と「複雑な」社会形態との二項対立を有害で誤解を招くものとみなしていた。ウッドバーンにとって、平等主義を維持することはこの上なく洗練された達成であり、単に不平等が生じるのを許容するよりもはるかに高いレベルの政治的知性と複雑性が要求されたのである。ハザ族には、必要以上の富を蓄積させることがいかに危険かを理解する知性があると彼は説明した。
しかしG&Wによれば、富の不平等は問題ではない。彼らの立場を支持するために、彼らは17世紀にヨーロッパの「文明」を批判したファースト・アメリカンのカンディアロンクを引き合いに出している。やや説得力に欠けるが、彼らは、カンディアロンクと彼の最初のアメリカ人共同思想家たちは、「富の差が権力の体系的不平等に変換されうることを想像することさえ困難であった」(p.130)と断言している。
G&Wは、即時回帰型の狩猟採集民が富の不平等が生じるのを拒んだことを認めている。しかし驚くべきことに、彼らはこの状況全体を期待外れとみなしている:
こう言うと、何か希望に満ちた楽観的な話に聞こえるかもしれない。実はそうではない。この言葉が示唆するのは、やはり、最も単純な採集者以外には、その名に値する平等は本質的に不可能だということだ。それでは、私たちにはどんな未来が待っているのだろうか?
どんな未来?アフリカの狩猟採集民からインスピレーションを得ている活動家たちは、現代の都市生活者を、不運なハッザ族のように、小さな遊牧民集団の中で繰り返される単純な生活に「はまり込む」よう招いている、と彼らは示唆する。
はっきり言っておくが、私は原始主義者ではない。私は技術的、社会的、政治的発展に賛成である。ハザ族は、必要に応じて富を共有し、笑い、歌い、遊びの中で「時間を浪費」し、誰かに支配されることに抵抗し、他のすべての心配事よりも互いの子供の世話を優先することが、充実した楽しいことであることを示している。開発に関して言えば、この政治的に洗練された弓矢ハンターたちは、私たちに多くのことを教えてくれるだろう。
(続く……)
インターネットが大好きだった。現在アラサーだけど小学校低学年の頃からネットに入り浸ってた。
人付き合いが苦手でリアルでは周りに合わせてニコニコしてるだけ、家に帰ってきたら疲れすぎて寝ちゃうみたいな私にとってはネットは天国だった。好きな人とだけ好きな話が好きなだけできるし、ニコニコ動画で「www」って書き込むだけだけどなんだかみんなで仲良く楽しんでる感じがして楽しかった。こう書くと笑われるだろうけど。
大学生になっても社会人になってもネットとSNSに入り浸り続けてたけど、コロナあたりから何かが変わった気がする。
「それ匿名掲示板でも叩かれるんじゃないか」と私でも引くレベルの暴言や悪口や冷笑を普通の人が普通につぶやくのが増えた気がするし
いわゆる「釣り耐性」がない人が、アフィカスや政治的扇動に釣られまくって踊らされている。
特に前者は深刻だと思う。
昔のネットも悪口酷かったけど、それはあくまで2chの中の話だった。今や2chのノリが全ネットに広がり、リアルにまで広がってる感じがある。それに悪気なくまたは意図的にデマを広げる人が組み合わさってもうどうしようもない感じになってる。陰湿さが段違い。
私が好きだったネットが無くなってしまったことに絶望して、とりあえず婚活することにした。
リアルが辛いからネットに救いを求めてた私がネットが辛いからリアルに救いを求める日が来るとは思わなかった。ネットにいられなくなって誰とも話せなくなることを恐れて、リアルの繋がりを求め始めた。
先日無事婚約して同棲を始めた。夫は別にハイスペとかではなく平凡な人だけど人への思いやりがある最高の人で、おはようおやすみを言い合えて安心できる相手がいるのはなんて幸せなことなんだろう。
さらに、なんと陰キャの私が習い事に行ったりマッチングアプリを使って同性の友達をたくさん作って遊ぶなんてするようになった。
リアルの繋がりをたくさん作ってみてわかったのは、今はネットにいるよりリアルにいるほうが楽だということ。少なくとも私にとっては。
ネットに疲れちゃった人はリアルでの交流を増やすことを強くおすすめしたい。真面目に。
(追記)
何の追記って感じだけど、そういえばX(Twitter)でもわりと治安が保たれてる場所があったなあと思い出した。
婚活前にダイエットするためにダイエット用のアカウント作ったんだけど、みんな同じ目的があって同じしんどい思いしながら運動やら食事制限やらしてるからか思いやりのあるすごいあたたかい空間になってた。
もちろん中にはエアリプで悪口言ったりする人もいるっちゃいたけどほんとに少数だった。
誰ががいい感じのごはん作ったらおいしそー!自炊頑張ってて偉すぎる!みたいにみんな言うし誰かが痩せたらみんな素直におめでとう!素敵だー!みたいな感じで。
身体や顔の一部を晒してる人が多いから匿名性が薄くてリアルの繋がりに似てる、体重とかライフスタイルとかもさらけ出すっていうリアルの友達にも話さないレベルの話してるから親近感が湧くのかもしれない。
ダイエットアカウントとボディメイクアカウントがなぜか交流しがちで、ゴリゴリのマッチョにフォローされがちで
バカにしたいのか…?と警戒してたけど、めちゃくちゃ性格良い人ばっかりで眩しかったりも。
もうアカウント消したけどLINE交換してリアル友達になった人がたくさんいる。ついこないだも蒸し野菜ランチ食べた後散歩してきた。
ただ、ここ数年で特にX(Twitter)やtiktok、YouTubeの治安は驚くほど悪化したと思う。デマや過激な発言で炎上させる→アフィの流れが分からなくて作られた炎上に踊らされてる人が大量にいてあちらこちらで常に火事が起こってる感じ。
というかアフィとは何かすら知らないレベルの人もいるし、ネットを触るべきではない知能レベルの人たちがうまいこと利用されてるのがとても嫌だ。怒りは貧しいものに許された唯一の娯楽みたいなのがあったけど、それを見てるのがつらい。
あと、前は過激な人たちが自分は過激だと自覚しながら暴れてたような気がするけど、今は過激な人が自分は普通だし正義だみたいな感じでのさばってるのが見てられない。
便所の落書きが街中にそこらじゅうにあるみたいな…
「ポイ活」と「断捨離」は、共に物を減らすことやシンプルな生活を目指すコンセプトですが、違いがあります。
ポイ活:「ポイ」は「捨てる」を意味する俗語の「ポイ捨て」から来ています。ポイ活は不要なもの、使わなくなったものを積極的に捨てる活動や考え方を指します。短期間で大量に捨てることが特徴的です。
断捨離:「断」は不要なものを断ち切る、「捨」は物を捨てる、「離」は物への執着を離れる、という意味合いがあります。この言葉は、やましたひでこ氏が提唱して広まったものです。断捨離は単に物を捨てるだけでなく、物に対する価値観や考え方を見直し、本当に必要なものだけを持つライフスタイルを目指す哲学や考え方を含むものです。
ポイ活: 短期間での大量処分を目的としていることが多く、急激にスペースを空けることが目的の時に効果的です。
断捨離: 物を捨てるプロセス自体が重要な要素となっており、心の中での整理や過去との決別、物への依存からの解放など、精神的な側面も強く含まれています。
ポイ活: 一時的に大量に物を捨てることでスペースを確保することが主な目的です。
断捨離: 持続的なシンプルな生活を目指し、断捨離を行った後もそのライフスタイルを継続しようとする哲学があります。
結論として、ポイ活は「物を捨てる」ことに重点を置いたアプローチであり、断捨離は「物やライフスタイルを見直す」ことに重点を置いたアプローチと言えます。
そんなことはない
落ちぶれて高級物件を維持できなくなった時、その時の成り上がり物が高級物件を欲しがる
子育て終わって部屋を小さくしたいとき、新たな子育て世代がそれを買う
そうやってライフスタイルの変化によって必要なものは日々変わるが、代わりにそれを欲しい人も日々生まれる
増田が心配するような日本や世界が転覆するような変化は予想してできるもんじゃないから考えても無駄と思うし、もしそうなったらその時に価値ある物件持ってても生き抜ける保証もない
地方で畑やれば何があっても生きていけるかもしれないけど、起きるかわからない大災害に備えて今から農家になりたいかって言われるとな
結局今をしっかり生きるしかないんだよ