はてなキーワード: 実験ノートとは
俺は国立大学院の1年生。
いわゆるM1と言われる学年だ。
去年まで別の大学にいた。
それ以前には研究室見学などで先生と会い、やりたいことを伝え、関係を良くしていた。
伝えていたやりたいこととは違う研究テーマを渡され、その研究室の1年目のテーマを担当することになった。
去年、学部生が1年ほどそのテーマを担当したらしいが、先生に聞いてもその人のことは何も教えてくれない。
理系の研究室なら絶対残しているであろうと思う実験ノートも存在しない。
先生に進め方を聞いても「自分で考えろ」と言われ、結果を見せても「そのやり方じゃダメだよ、そのデータは使えんな」と言われ。
後輩の指導も任されている現在、後輩が着々とデータを出してきている。自分が失敗した経験によってダメなやり方を学んだらしい。
自分たちの男性コミュニティ内部でのホモソーシャルな関係を優先して、平気で女性の尊厳を踏みにじるのも、二人が「早稲田大学の出身者」と聞くと納得がいく。
早稲田大学文学部の渡部直己のセクハラ事件が発覚した時も、被害者である大学院生の女性とその支持者に対して、大学側と渡部直己の子分の教員が「口を噤むように」と圧力を掛けていた。結果的に渡部は早稲田大学を止めたものの、結局は早稲田派閥と文学ムラのコネで仕事を恵んでもらって生き延びている。
まともに実験ノートも書いていない生物学者が学術上の新発見をしたと大々的に取り上げたのも、彼女が早稲田の人間だったから。
高校生の野球部員が練習試合でホームランを打ったとわざわざニュースにしたのも、彼が早稲田の人間だったから。
早稲田派閥は、悪い意味で「仲間意識」が強い。業績が怪しい人間でも「早稲田の人間」であれば、マスメディア内部にいる早稲田OBがスターに祭りあげようとする。
たとえ不祥事を起こして職を追われても、生き延びられるようにと早稲田派閥が便宜を図る。そのため、現在の早稲田内部に存在する不祥事予備軍の人間たちにも歯止めが掛からない。
これからの研究の目標は、丁寧に行う、にしようと思っているのね。
もっと大局的に捉えて、今まで何をしていたか、これから何をすべきか考えながら行いたい。
何より、もっと実験ノートは丁寧に書くべきだし、サンプル整理ももっと丁寧にやるべき。
空いている時間に行おう、では駄目である。私はそれらをすぐサボるのだから、そのタスクが発生したら実験をほっぽってやるくらいの気概でやらないと後回しにしすぎる。
と、サンプル管理が雑すぎるとお叱りを喰らって実感しました。それは意識していきましょう。
いわゆるプログラマで言うところの「とりあえず今動くからオッケー」な生活、実験ではなく、今後他の人が見た時にわかりやすい実験ノート、実験卓にしましょう、という至極当たり前の話を私は出来ていなかったので、徹底していきましょう、という決意です。
特に先生からこの実験どう?ってよく文献貰うじゃん?あれいっつも放置しがちだったから、よっぽどじゃなけりゃ実験をほっぽって調べるくらいのテンションでやっていいと思うのよね。
あー、あとあれ、今の5分短縮より1ヶ月後の1時間短縮というか、例えば論文名を分かりやすくしておくとか適切にファイリングすることについてサボらずに行おう、とも思った。
それから、つまり、余裕のある実験計画を立てるべきだということ。1日に2つも3つも実験をやりゃあ偉いわけではない。それで細かい作業を後回しにしていたのでは意味が無い。タスクはできるだけ溜めない、を意識しましょう。
いくら実験をかけている間に細かい作業をやるのが効率いいとしても、それで細かい作業を後回しにしていたら世話無いので、細かいタスクも発生したそばからやることにしましょう。
同じものを100円で買える店と10000円で買える店があるとします。このとき、後者で買う奴は馬鹿です。
文系と理系も同じです。同じ大卒資格を得るのにわざわざ理系に行くのは、馬鹿か、マゾヒストか、ガリ勉陰キャだけです。
勉強しか取り柄のないガリ勉くんにはお似合いですが、大学とは、勉強を片手間に遊ぶところです。友達や恋人を作ったり、バイトやサークルで社会経験を積みつつ、先輩から貰った過去問などを丸写しして最小限の労力で単位を取るのが大学です。社会ではそういう社交性と要領の良さが評価されます。
大学に入ってまで勉強なんかしてる陰キャは、非常に自己満足的で滑稽です。彼らは自分が鼻で笑われていることに気付いていません。
理系の勉強は大変です。これは主に、以下の2つの理由からです。
まず、ほとんどの理系分野は、現象を正確に記述するのに数学と物理の知識を必要とします。この2科目は、論理を地道に積み重ねていく学問なので、誤魔化しが効きません。つまり、「AはB、BはC、したがってAはC」のような完全に正当化される論理のみを紡いで議論する必要があります。またその性質上、基礎となる分野を飛ばして、応用分野を学ぶことができません。つまり、一度躓いたらそこでドロップアウトすることになります。
一方文系の場合、計量経済学のような一部の人気のない分野を除けば、教員の指定した本を順番に読んで、その内容を日常用語で適当に再解釈した感想文が書ければ、卒業論文として認められます。というか単位を取るだけなら、本すら読まずとも又聞きした情報を適当にまとめれば良いです。何のスキルも必要ありません。
また、理系では理論系の分野を除けば実験があります。実験は研究室によっては徹夜で行うことも珍しくなく、非常にハードです。また、やはり実験の前提となる基礎理論を正しく理解していなければなりませんし、誤差等の評価を数学的に正しく行える必要があります。実験ノートの取り方、論文の書き方などのマナーも非常に厳密に決まっており、一般的な文書作成技術よりも高い技術が必要になります。
分野によっては、直接の専門とは別にプログラミングや電子回路設計などの技術も身につける必要があります。
機械工学科や電気工学科などの産業的に非常に需要のある分野を除いて、専攻に関係した職業に就く人はほとんどいません。したがって、文系が就職に不利になることはありません。むしろ、大学入って勉強しかしてこなかった理系は、コミュニケーション能力などの点で文系に大きく水をあけられます。
また、学部別の平均年収なども、1割くらいの高額所得者が平均を吊り上げているだけで、どこに行っても実態は大差ありません。
つまり理系というのは、大学に入ってまでわざわざ勉強なんかしてるガリ勉キモオタ陰キャが、結局社会に出たらなんの役にも立たないというところです。非常にコスパが悪いです。合理的に考えたら、理系に行く選択肢はないでしょう。
コスパ最悪。
勉強しか取り柄のないガリ勉くんにはお似合いですが、大学とは、勉強を片手間に遊ぶところです。友達や恋人を作ったり、バイトやサークルで社会経験を積みつつ、先輩から貰った過去問などを丸写しして最小限の労力で単位を取るのが大学です。社会ではそういう社交性と要領の良さが評価されます。
大学に入ってまで勉強なんかしてる陰キャは、非常に自己満足的で滑稽です。彼らは自分が鼻で笑われていることに気付いていません。
理系の勉強は大変です。これは主に、以下の2つの理由からです。
まず、ほとんどの理系分野は、現象を正確に記述するのに数学と物理の知識を必要とします。この2科目は、論理を地道に積み重ねていく学問なので、誤魔化しが効きません。つまり、「AはB、BはC、したがってAはC」のような完全に正当化される論理のみを紡いで議論する必要があります。またその性質上、基礎となる分野を飛ばして、応用分野を学ぶことができません。つまり、一度躓いたらそこでドロップアウトすることになります。
一方文系の場合、計量経済学のような一部の人気のない分野を除けば、教員の指定した本を順番に読んで、その内容を日常用語で適当に再解釈した感想文が書ければ、卒業論文として認められます。というか単位を取るだけなら、本すら読まずとも又聞きした情報を適当にまとめれば良いです。何のスキルも必要ありません。
また、理系では理論系の分野を除けば実験があります。実験は研究室によっては徹夜で行うことも珍しくなく、非常にハードです。また、やはり実験の前提となる基礎理論を正しく理解していなければなりませんし、誤差等の評価を数学的に正しく行える必要があります。実験ノートの取り方、論文の書き方などのマナーも非常に厳密に決まっており、一般的な文書作成技術よりも高い技術が必要になります。
分野によっては、直接の専門とは別にプログラミングや電子回路設計などの技術も身につける必要があります。
機械工学科や電気工学科などの産業的に非常に需要のある分野を除いて、専攻に関係した職業に就く人はほとんどいません。したがって、文系が就職に不利になることはありません。むしろ、大学入って勉強しかしてこなかった理系は、コミュニケーション能力などの点で文系に大きく水をあけられます。
また、学部別の平均年収なども、1割くらいの高額所得者が平均を吊り上げているだけで、どこに行っても実態は大差ありません。
つまり理系というのは、大学に入ってまでわざわざ勉強なんかしてるガリ勉キモオタ陰キャが、結局社会に出たらなんの役にも立たないというところです。非常にコスパが悪いです。合理的に考えたら、理系に行く選択肢はないでしょう。
私は昨年4月東京大学理科一類に入学、意気揚々と授業に臨むが……。
Sセメスターでぽつぽつと、Aセメスターでごっそり単位を落としたので自主留年した。
様々な授業に苦しめられる。
ALESSは毎週毎週締め切りギリギリに徹夜して課題を提出していた。当然内容の理解なぞできるはずもなく、リスニング力不足のせいで授業で教員の英語も全く聞き取れず、ただひたすら苦痛の時間が続いていた。
そんな中で二外の勉強に身も入らず最終的に授業に行かなくなってしまった。当然二外は落とした。
力学は未知の数学的処理を既知のものとみなして授業が進行していた。板書も死ぬほど早い、理解するより早く授業が進む。
またも授業に苦しむ。
二外は当然意味不明になって授業に出なくなる。
そしてなにより物理実験がゴミすぎる。ただひたすら実験ノート写経させて何が身につけさせたかったのでしょうね。
そんなこんなでA2ターム始まったあたりから普通に学校に行けなくなってしまい派手に落単。実験担当者にはとてもここには書けないような感情を抱いている。
英語中級が意味不明すぎる。オール英語の授業とか拷問ですか? 普通に教員の英語が聞き取れない。
二外はALESSが無い分まあまあ勉強する余裕ができたので良かった。ALESSはクソ。それはそうと二外にはとてもここには書けないような感情を抱いている。理系で二外やる意味あんのか。
ついでに下クラに落ちたが下クラとの関係性は最悪である。まあ別にどうでもよいんだけど。
何だかんだで英語中級以外はそこそこ楽しく過ごせて、結果的にフル単できた。やっとのことで勉強の楽しさを思い出せたので頑張れそうかなーって。
実験の単位が取れていた分かなり心穏やかに過ごせている。やはり実験が諸悪の根源なので滅ぼさねばならない。
まあまあ今のところ順調にできている。心穏やかに過ごせている。
ALESSと基礎実験は滅ぼさねばならない。
ということでキリスト教思想史研究やってた人が研究不正で懲戒解雇された件について、報告書に目を通した上でちょっと書きます。
この「写し」というのはどういうことでしょうか? 資料そのものを調査委員会が求めなかったのはどういうわけでしょうか?
歴史学者にとっては常識なのですが、他の分野の人にとってはどうかわからないので、解説してみます。
これは人というか研究分野によるので、安易なことは言えません。文学と哲学と社会学と人類学と歴史学と言語学とでは使う資料がぜんぜん違います。
で、この被告発者の研究手法は、近現代を扱う歴史家の多くが採用している手法だと思います。近現代史を扱う人たちは、
を主に史料として使います(「史料」ってのは、歴史を記録したナマの資料のこと。「資料」と呼ぶと後世に書かれた二次文献なんかも含む)。あるいは、上に書いたようなものをまとめて出版した本とかを使います。
これらの史料の特色とは何か……それは、
ことです。
公文書館というのは、「お役所の書いた書類を保管しておく施設」のことです。これはどのくらいかというと半永久的にです。普通の文明国ならどんなに細かな書類でも公文書館に保管されていて、(民主国家の場合は)数十年して機密解除されたり(独裁国家の場合は)体制が崩壊して民主化したりすることによって「申し込めば誰でも読める」状態に置かれます。これによって我々はソ連時代の領収書なんかをロシアの公文書館で読むことができるわけです。ソ連ですら公文書を保管して後世の我々に見せてくれているというのに……いや、これは余談でした。
当たり前ですが、それらはその国(あるいは地方)の公的な記録であって、自分のものにして持ち帰ったりすることはできません。ではどうするか。多くの歴史学者は
などの手段で史料を入手して研究しています(ちなみに写真撮影もカネを取る公文書館は結構ありますね。日本だとどうなんでしょ)。
昔の人が書いたものも、本とかなら古本屋さんとかで流通しているのを買うことができるかもしれませんが、稀覯書でなかなか手に入らなかったり、古雑誌のバックナンバーとか揃えるの無理ゲーだったりするので、図書館に所蔵されているのを使うことが多いです。近場の図書館に置いてない? 相互貸借もさせてくれない? そういう場合は当たり前ですが所蔵している図書館がある街まで行きます。その図書館がある街というのが新幹線が必要な距離だったりパスポートと航空券がないと行けない距離だったりすることも稀によくある(歴史学者の研究費は旅費と本代に消えていく運命なのです……)。そして、辿り着いた図書館でカメラをパシャパシャやったりコピーを黙々と取ったりするわけです(最近はスキャナーが普及してくれてマジ嬉しい)。
なので、調査委員会は「一次資料の写し」を求めたわけですね。たとえ彼が清廉潔白な研究者であったとしても、一次史料の原本なんてふつうは手元にないわけですから。
しかし、本来、彼は「一次資料の写し」を提出する必要などありませんでした。自分の論文を黙って調査委員会に提出すればよかったのです。なぜでしょうか?
もちろん分野によります。心理学みたいに人を対象とした研究だとしっかり実験ノートつけるように言われるかもしれないし、考古学とかは発掘時の状況を克明に記録しておくことが重要だったりするかもしれない。でも、少なくとも近現代史みたいな分野では、実験ノートをつける、という習慣はありません。
私は一度も、理系で求められるような意味での実験ノートを書いたことはないし、書けと言われたこともないし、書いていないことを理由に責められたこともありません。もちろん史料をノートに筆写したりはしていますが、そのノートだって別に厳密なものではない。普通の研究においてノートは使いますが、それは高校までのノートと一緒で、鉛筆で書いてもいいし、好き勝手なやり方で書いていいし、なんなら途中で破ったりしてもいいごく普通のノートです。最近はノートじゃなくてパソコンとかを使って研究上のノートを取ってる人も多いんじゃないかな(手書き疲れるもんね……)。
なぜか? と言われれば、
です。
つまり、「もとになった資料」というのは、理系のように自分の実験室の試験管の中にしかないものではなく、別の誰かが保管してくれているものなのです。
理系の学問において標準化された改竄不可能な形で実験ノートをつけなければならないのは、自分の実験室の試験管の中にしかオリジナル資料がないからですよね? しかし文系の場合は、少なくともここまで説明した近現代史の場合は、オリジナル資料はどこかの政府が管理している公文書館とかどこかの大学の図書館とかに保管してあるわけで、そこに辿り着くまでの情報さえ明記してあればそれで十分なのです。これはドイツ連邦共和国のベルリン連邦文書館の何々というファイルに保管してある何というタイトルの史料だ、とわかれば、チェックのためにはそこに見に行けばよいし、これは19世紀に書かれたほにゃららという新聞に載っていた記事である、と書いてあれば、その新聞が所蔵されている図書館を探して読んでくればいいわけです。
なので、別にどんな方法でノートを取ろうが自由なわけですね。最終的に読者がその元になったデータを見つけられるようにしておけばいいわけだから。
ゆえに、歴史学の論文や著書には膨大な注がつけられます。引用した史料のそれぞれについて「どこに保管されている史料なのか」「なんという本の何ページに書いてあることなのか」ということを書かないといけません。
なかには、史料が自分の手元にある場合もあります。多くの場合それは「昔の人が出版した商業出版物」なので(たとえば、極端な例ですが『わが闘争』)、他の誰かも持っていることが多いです。もしそういう史料で捏造とかしちゃうと「俺もこの本持ってるんだけど、お前が引用してる箇所見つからなかったよ?」という怒られが発生します(なお、捏造ではないですが誤訳指摘は受けたことがあります。コワイ! でも覆面査読なのにこの文献の誤訳を指摘できるってことはあの人しかいないじゃん……ってわかっちゃう! 文系の世界、基本的に狭い!)。「むっちゃ少数しか発行されなかった自費出版の本」とかが典拠になっている場合もあります。こういう史料を典拠にするのも仕方ない場合があるんですよ……典型的には、そこまで有力ではなかった政治家とか在野の知識人とかを研究したい場合、彼らが出してる本は全部自費出版というのがありえます(あと、言語学とかだと、たとえば与那国島の方言を研究したい場合に一番の参考資料になるのは与那国島のお年寄りが自費出版した方言辞典だ、みたいな例がありまして……与那国町が進めてる辞書出版プロジェクトむっちゃ楽しみ)。ごくごく稀に、古本屋で歴史上の人物が書いた手紙の山をまるごと購入できた、みたいな奇跡があって、モノホンの一次史料が研究者個人の所蔵になっている場合があります。これはねえ……もう本当に個々の研究者の良心を信じるほかないよね……若手研究者だと色んな大学を移り歩くこともあるだろうから今所属してる大学の図書館に寄付しろとも言えないしね……原史料出せって言われたときにすぐに見せられるようにしておいてね、定年退職するときは勤務校の図書館に置いていってよ、とお願いするくらいしかできない感じはあるよな……
さて、長々と書いてきましたが、要するに、捏造を疑われた研究者がきちんと注で出典を書いていれば、彼は論文を調査委員会の人たちの前に突きつけて「ここに出典書いといたから、見に行って確かめてこい」と言えばそれで済んでいたのです(それが生データにあたるものなので。実際、今回の調査委員会はドイツに問い合わせたりしていますね)。もっと言えば、彼本人から話を聞く前に、調査委員たちはまず典拠との照合作業を行って、彼が誠実に引用したこと、つまり彼が研究不正に手を染めてはいないことを確認してくれていたでしょう――もしも彼が潔白であったならば。
しかし今回の件では、注に不備があったので調査委員たちは注から出典を辿ることができませんでした。そこで被告発者に「写し」を求めた結果、元となる史料がそもそも存在しない、捏造されたものであることが判明したわけです。
注をしっかりつけろよ! まことにごもっとも。特に今回のケースは注の多い学術書であり、注の不備は申し開きができません。しかし、しかしです、この背景には、日本の出版事情が絡んでいるのです。
今回の被告発者は、学術書のほかに新書も書いていました。多くの新書には、参考文献リストはありますが注はありません。そして日本には、「研究者が書いた真面目な学問に関する本だが、注がない」というのが一定数あります(一応言っておくと、ここではauthor-date方式みたいな「厳密な意味での注じゃないけど、ともかくも出典を示す機能を担っているもの」も含めて注と呼んでいます)。実はこれ、文系のあいだでも問題視されていることなのです。
文系の学者が書いた学問に関する著書には、明白に書誌情報として区分されているわけではないですが、いくつかの区分があります。第一にいわゆる狭義の「学術書」。むっちゃ小難しい語彙で書かれてて、先行研究とか新規性とかに逐一言及して、参考文献を何十ページも載せてたりするやつです。読者は同じ学者、あるいはその卵。これで注を省くのは論外です。第二に「教科書」。これは学生さんとか初学者向けに易しく書き、内容には特に新規性を求められておらず、包括的な参考文献はなくとも読書案内がついていればそれでよし、という感じでしょう。注は別になくたっていい。
そしてこの2つのあいだには、「一般向け」という広大なグレーゾーンが広がっています。
あなたが読書好きで、少々お硬い本にも興味があるのなら、中公新書とか講談社選書メチエとかそういったレーベルを聞いたことがあるでしょう。岩波書店や青弓社や社会評論社といった出版社の名前を聞いたことがあるでしょう。実はこの辺、色々な種類の本が入り交じるグレーゾーンなのです。
これらのレーベルで真面目な学術書を出版する人もいます。講談社選書メチエでも、末尾にビッチリ注がついてたり参考文献リストがあったりするやつあるでしょ? ああいうやつ。一方で、こういうレーベルを一般向けの概説書・入門書を書くことに使う人もいます。よく中公新書で、包括的なタイトルで薄めの本を見ることがあるでしょ? 今回の『プロテスタンティズム』もそれですね。そして、一般向けの解説を書きながら、さり気なくその中で新しい見方を提唱したりする人もいます。学術的な新規性のある内容を、一般受けしそうだという理由で限りなく一般向けの本の体裁で書く人もいます(最近のやつだと『姦通裁判』マジお勧め)。
さて、こういう本を出す上では、内容は著者の完全な自由にはなりません。編集者は、もちろん学術的に正しい内容を求めているのでしょうが、彼らにとって重要なのは「売れること」です。そのために「一般向けにもうちょっと柔らかい言葉遣いで書いてください」とか色々と内容に介入してくるわけです。文体くらいなら別に構わないかもしれませんが、彼らの中にはこんな要求をしてくる人もいます。「注なんてつけたら一般読者に嫌がられます、注は省きましょう」
こうして生まれるのが、「学術的に新規性が高く面白い内容を扱っているのだが、注がない」という一般書の群れです。
もちろんこういった本にも参考文献はあり、「注はないけど、典拠を探しながら読めば典拠がわかるような書き方になっている」本もそれなりにあります(たとえば、はてな太郎の説によれば、と本文中に書いてあれば、注がなくても参考文献リストではてな太郎が書いた『増田の研究』という本を探し出せる)。ただ、やっぱりそれは注がある文献の出典表示の厳密さに比べれば一段劣るわけです。
これに関しては、研究者も出版社もそれぞれに問題があります。研究者サイドは簡単に「注を省け」なんて要求に妥協すべきじゃないし、そもそも「著書を出版する」ことが、博士論文を見るためにはわざわざ学位を授与した大学か国会図書館に行くほかなく出版して書店で流通させることが最も良い研究成果の流通のさせ方だった時代であればともかく、各大学がリポジトリを持っていていくらでもディジタルに研究成果を公表できる時代にあって本当に重視されるべきか考え直す必要があるでしょう(でも、欧米の出版社でも学術出版は盛んなので、これは日本だけの問題じゃないんですよねぇ。今でもオックスフォードやケンブリッジやハーバードやコーネルといった有名どころのUniversity Pressは学術書を出版しまくってます。学術書が研究業績として重視されるのは人文系では割と世界標準なので……)。
一方で、出版社は注をもっと重視するべきです。というよりも、日本の出版社やジャーナリスト、ノンフィクション作家は注をつけなさすぎます。先日、ボブ・ウッドワードがトランプ大統領についてのルポルタージュを出版しましたが、体裁も内容もおおよそ学術的とは呼べない一般書そのものの本なのに、きちんと出典を示す注がついていました。出版社は、学者に注を削れと言うべきではなく、ノンフィクションを書く作家や記者たちに注をつけろと言うべきでしょう。
とはいえこれは一朝一夕にはいきません。そもそも知の折り詰めである「新書」という形態が割と日本独自のもので、そういう一般と学術を橋渡しするレーベルが広く一般読者に読まれていることの重要性というものを鑑みると、簡単になくせとか言えません。私も色々お世話になってるし。人口1億人ちょいの書籍市場ではどうしたって限界があり、色々な本を出すのではなく折衷的な本を1冊出すのが経済学的には最も合理的という考え方だってあるでしょう。ただ、やっぱり一般書にも(それこそ講談社ブルーバックスや岩波新書レベルにも)注を入れるようにする、というのは必要だと思うのですよね。
さてここまで「注がない本」問題について解説してきました。でも何が一番言いたいかというと、
これ。これに尽きます。注はちゃんとつけよう。もしもあなたが捏造者でなくとも、研究不正をしていなくとも、実験ノートをつけない我々の業界において潔白を証明してくれるのは注だけなのだから。注だけが資料の実在を証明してくれるのだから。本の売上よりも、あなたの保身のことを考えよう。あなたが、部屋が汚いとかハードディスクがお亡くなりになったとかパソコンの買い替え時に行方不明になったとかの色々な理由で、史料の「写し」を紛失する日はきっと訪れる。そのときに、これまでのあなたの研究の誠実性を証明できるのは、人文系の学問においては、注だけなのだ。
以上です。駄文に長々と付き合ってくださりありがとうございました。続きはanond:20190511125053で。
「A子さんに術後せん妄があり記憶がすべて正しいとは言えない」としても、「わいせつ事件があった」は、また別の事象だ。
つまりA子さんに術後せん妄の時間があり、かつ、わいせつ事件も起こっていたことはロジックとしてありえる。
またA子さんの証言が不確かで、ただ唾棄されただけもありえる。
ブコメしている人たちが、科学鑑定結果の間違いをすっかり信じていることが不思議でしょうがない。
触診や唾液の飛沫で「微物に大量の医師のDNAが含まれ」た結果がでたと本当に考えているのか?
一般的に、事件があったのに検出できないことはよくあるが、何もなかったのに「大量のDNA」が含まれることは起こりにくい。
しかもアミラーゼの検査とDNA検査、二つの検査で、その方向に間違った結果が出るとは考えにくい。
また下記の部分の書き方も恣意的だ。
“大量のDNAが検出されたとする根拠は、科捜研研究員が実験ノートに当たるワークシートに記載した数字のみ。
研究員は、ワークシートを鉛筆で記入しており、必ずしも時系列でない記載もあったうえ、消しゴムで消して書き直した部分もあった。”
職場のルールでペン書きが義務化されているならわかるが、そうでないなら実験ノートの鉛筆書きはごく普通の行為だ。
鉛筆書きでサンプルが残っていないから科学的信頼性がないとは、、、難癖をつけられているかのようだ。
こう書くとA子さんを擁護しているように見えるが少し違う。
どちらがより、先入観を排除した、証拠に基づいた科学的・客観的な判断だといえるのかという点において興味を持っただけだ。
「被害者感情に流されず、科学的・客観的な判断が出てよかった」という内容のブコメが、自分にはこの上なく感情的に思えたから。
さっき別の医師が書いた記事を読んだが、科学鑑定結果についてまったく触れていなかった。
「術後せん妄を知ってほしい」と医師がアピールしなくても、鑑定結果で唾液や口腔内細胞が検出されなければ、警察も取り合わなかっただろう。
自分はどちらかといえば研究員に近い立場なので、違う見方をしてしまう。
周りに多くの人がいたこと、評判のよい医師であること、術後せん妄がよく起こること、実験ノートが汚いこと、などの状況証拠を必死に積み上げて、科学的な証拠をなかったことにしようとしているように思える。
まず男の「性欲」と言っても、それが必ずしも性犯罪的行為を引き起こすとは限らなくて、一番多いのは「ある人間の評価が理不尽に高くなる」なんだよね
わかりやすいのは小保方ユニットリーダー。あの人、研究者としてはものすごいポンコツじゃないですか。禄に実験ノートもつけられない。で例えば、笹井芳樹ほどの研究者が、オボちゃんと論文共著して、そのポンコツっぷりに気がつかないはずがないのよ。不正に気付いたかどうかはわからんけど、ポンコツなことは絶対知っていた。でもああやってオボちゃんを華々しく売り出してしまった、それが「性欲」の力なわけです。
で、女性の「気持ち悪い」は、効果としては逆方向に働くんです。ある人間の評価が理不尽に低くなる。でも、「理性でコントロールできない」「場合によっては行動を支配してしまうほど強い力」「結果、ひどく不合理な行為を生む」あたりが性欲と一緒です。
女性って、それまで平気だった人、なんだったら好きだった人がいきなりキモくなること良くありますからね。さしたる理由もなく。俺が調べたところによると、結婚5年以上の夫婦の8割において、妻は夫をキモいと思ってますね。そこから不倫だとか離婚だとかに発展するのも全く珍しくない。その結果、女性側が大損することも。
だからまあ、男が性欲に振り回されるがごとく、女は「キモい」「生理的に無理」に振り回されて生きているわけですよ。それだけだったらあいこなんですけど、ひとつ困るのが最近のフェミニズムってやつで。あれ、「性的搾取」とかなんとかレッテルを貼ることで、「キモい」をあたかも崇高な社会正義の基盤に見せてしまう回路を生み出しちゃったのね。
昔は「うわ、オタクキモい」と感じたとしても、特に高学歴リベラル女性ほどそんなこと口に出せなかったわけよ。オタクが自分に害をなしたわけでもないのに、そんなに人を嫌うなんて理不尽なの分かってるから。そんなことしたら差別主義者と一緒になるの分かってるから。でも最近は、「オタクは女性を性的に搾取するので、あいつらがキモいのは当然なのだ」になっちゃったのね。これは本当に都合のいい理屈で、おかげで最近の自称フェミニスト達は、自らの「キモい」を思う存分振りかざして他人を殴りつつ、自分は加害者ではなく被害者の振りをしてみせることが可能になった。
だから予言しとくけど、この流れは止まらないし、もっとひどくなっていくよ。男が自ら性欲を垂れ流しつつ社会正義のフリができる理屈が手に入ったのと同じなんだから。
どこに行くんだろうか。いまこうして自身がその身になってみて、僕自身が一番それを知りたい。
この年度末で任期が切れる。
5年。長いと思っていた。
自分の能力の割に良いところに就けた。この次はテニュア職だ。准教授だって狙ってもいいかもしれない。そんなことまで思っていた。
今、思えば滑稽だ。
助教と言ったっていわゆる特任助教だ。ポスドクに毛が生えたようなものなのはわかっていた。更新もない。
そうはいっても身の丈にあまる場所での職位、精一杯背伸びして研究も教育にも力を注いだ。
自分で外部資金取ってきて、論文だって毎年筆頭をひとつは出したさ。
同じ部局の同年代と比べて遜色ない程度にはやったんじゃないか。
公募もずいぶん出した。北から南、東から西。ときには海の向こう。
渾身の研究計画を書いて、業績欄には年齢を超える数の論文をならべた。
10にひとつは面接に呼ばれた。その都度イチから推敲したプレゼンを準備し、見知らぬ土地で熱く語った。
当て馬っぽいなと感じたものもあったけれど、これはガチだなとすぐにわかるものも多かった。
きっと僕程度の若手なんて腐るほどいる。いや、もっと能力が高い人だって…。
業界にいれば嫌でもわかる。「なんでこの人が」という人が任期付きにあえぎながらゴロゴロしている。
またこの人々と限られた椅子を巡って争わないといけない。考えるだけで陰鬱。
自分で自分を褒めてもいいんじゃないかな、などと自己満足してる程度の若手なんて、そこまでの人材。
多くの先生方に言われたのは「何とかしてやりたい気持ちはあるが…こればかりは」というやつだ。
論文も書かず、外部資金も取らず、不幸なひきこもり学生を生み出しながら、限られた席を埋め続けるあなた方の強靭なメンタルを僕もほしい。
いや、そんなメンタルはいいや。そんなものよりテニュアがほしい。
学生は言ってくれたりもする。
「先生に見てもらえて良かった」と。それだけで報われる。
そんな感傷的な記憶も、ピペットも実験ノートも段ボール箱に押し込め封をする。
桜ほころぶキャンパス。
次にどこにいくのかは、僕だって知らない。
割烹着の人らしき人が、2ちゃんに書き込み。実験が上手く行かないことを質問していたようだった。第三者が掘り起こした。また、当該論文の画像上の比較もウェブで行われた。論文の画像がこの実験の肝だったわけだが。その画像は再利用されていたようだった。某大学にもコピペ文化があったとか、なかったとか。この場合は、リアルに上司の方が自死を選択されてしまい、大変に悲しい結末になった。ナントカ細胞があったのか、なかったのか、はっきり分からない状態になった。紙としての実験ノートも話題になった。
サンミュージック所属の女性芸能人を始めとした数々の不倫報道。SNSの一種LINEを用いた連絡については、文字として証拠が残り、不倫行為の記録として活用されている。また、週刊誌がデジタルで密会の様子を動画で配信するようになった。
電通の東大卒の才女。残念ながら、自死という選択をされた。過去に、過重労働ばかりではなくて、パワハラ・セクハラもあったということだった。SNSの一種Twitter上に、彼女の日記と同等と取り扱われる内容が掲載されていた。こういった裁判において、労災認定には年単位の時間が必要となるようだったが、世論を後押ししたのと、Twitterを日記として裁判所の判断材料とされたのだった。
元自民党の女性衆議院議員。暴言をデジタル機器によって秘書が録音。診断書と共に証拠となった。その音声は、ワイドショーなどで繰り返し流された。パワハラ・暴言だけでは無くて、傷害があったので書類送検。女性政治家から男性秘書への暴言・暴行があったことが記録として残った。
(暴言を録音された関西某私立大学の理事長はいたが、暴言・パワハラだけで終わったようだった。)
元電通の女性社員。作家。Facebook, LINE blog, twitterで、パワハラ・セクハラの告発。前後にニュース系サイトによる取材記事の掲載。元電通の女性社員の声に応えるように、裏付ける話が多く出て来ているようだ。そして、その結果、元上司の男性のAmazonの書評にまで影響を与えている。
生物系の研究室で、捏造が生まれるきっかけを見てしまった。その研究室のPIは研究不正とは程遠い性格で、PIに悪意がなくてもこういう状況だと捏造が起こりうるんだなということを目の当たりにしたので、ケーススタディとして書き記しておこう。
PIは専門性に合わせて分業させるタイプであったので、複数の研究テーマにおいて、上流のこの解析はXXさん、中間はYYさんがやって、下流はZZさんが、という風に割り振られていた。その中で、最も上流の過程を担当しているXXさんは、外部からの仕事も含め、大量の仕事に追われて疲弊していた。性格的にNoと言えずに萎縮しやすく、タスク管理が苦手で、積み重なった仕事で完全に首が回らなくなったXXさんは、とうとう、プレッシャーに負けてしまい、やっていなかった予備実験を「やってうまくいった」ということにしてしまった。
XXさんがやろうとしていた実験系はあまりうまくいっていなかったが、元々難しいことが知られている系であったので、判断が難しかった。PIはXXさんが基本的なトラブルシューティングはしているものだと思い込んでいたところが不幸の始まりであった。PIは、XXさんの問題ではなく現象特異的な難しさだとひとまず判断し、本番で下流の実験系(他の複数の人が担当)まで一通りやってみろという指示を出したが、うまくいかなかった。その後、研究室内で問題点を一つずつ洗い出していったところ、結果的に上流過程にも遡り、予備実験のポジコン/ネガコンすら取れていなかった事が判明した。研究の組み立て方も行き当たりばったりでおかしかった。その事実にたどり着くまでが大変だった。忙しい事を理由に実験系の組み方や実験ノートが複雑怪奇になっていて、本人もよくわからなくなっていたこともあり、なかなか基礎データが出てこない。ようやく出されたデータを根気強く追っていくと、さらに別の不自然な点が発覚する。そうなるとPIの叱責を受けたり、他のメンバーに追求される。検証のための追加実験を命令されたXXさんは、実験がうまくいかずに次のプログレスまでにやりきる事ができなかったが、データがないと再び怒られると考えて自分に不利益な結果を隠そうとし、ネガティブなスパイラルに嵌っていった。PIは問題のデータのあぶり出しも「信じたくない」という心情が先で対応が後手後手になったように思う。PIの対応はXXさんの不正を導いていたが、PI自身は無自覚だった。純粋にデータの不完全さだけを気にしていたら、こうはなからなかったかもしれない。ある時、PIがこれは本気でヤバイ、と気づいて、ようやく修正軌道に乗った。
それなりにお金を費やし、関わっていた人々の4年間は無駄になったが、これを放置していたら、と思うとゾッとする。共同研究先には「なにやら忙しくて大変そう」とは思われていたものの、そこまで大ごとだとはバレていないようであった。この研究テーマに関しては膿は出し切ったと思うので、本人もそれなりに反省したようだが、その後のことはわからない。こうなるとこれまでのXXさんの仕事ぶりも気になる。後日、XXさんのかつての所属先の人々にそれとなく愚痴ったところ、やはり似たような問題があったんだなと思わせる雰囲気であった。三つ子の魂百までとはいうが、更生できるのもまた人間だ。XXさんはその分野で有名ラボ出身者であったこともあり、◯◯先生から信頼されている愛弟子で、学振取得者で、と周囲から一目置かれていた。研究の世界で底辺の争いに生き残るにはどうしたら良いか、考えさせられた経験だった。
こういう記事があると、ネット上では「自分のいる環境ではありえない、実験ノートはこう書いてほにゃらら」という人が湧き出てくるのだけど、自分自身はいざ知らず、共同研究者がこういう人だというケースだったら足下を掬われるかもね、と思う。世の中には、悪意を持って研究不正に取り組んでいる研究室もある一方で、この研究室は事件が起きた時の対応の仕方には問題があったけれど、元々真面目に研究する人ばかりだった。XXさんの性格や研究室の状況が掛け算になった結果、他の研究室より不運な方向に転がってしまった。世の中の多くの研究室には大なり小なり似たような課題が潜在的にあるかもしれない。自身の心がけや予防法だけではなく、事件が起きてしまった時にどうするか、というロールプレイングまでしたら良いかもしれない。
< PIとしての教訓 >
・メンバーを疑うと思うと辛いが、データで冷静に議論できる環境を作る事を心がける。感情は抑えて、相手がネガティブデータでも相談しやすい空気を作る。
・PIという上下関係がある以上、自分がどんなに「フラット」に接しているつもりでも、相手はプレッシャーに感じているかもしれない事を忘れてはいけない。
・生物系にありがちな、専門性に合わせて分担する系の研究テーマがある場合、博士課程院生やスタッフについては、自分の制御可能な範囲での研究テーマを推進できるように環境を整えておく事が万が一の保険になる。不正行為に対して、巻き添えを食らった人々の将来を担保することもPIの大事な責任である。
・メンバーの業務量がオーバーフローしていないか注意し、個人の性格に基づいて、それをコントロールするのもPIの責任である。
・同僚を疑うと思うと辛いが、我々はデータ教信者であるので、心情はひとまず脇に置いて、データで冷静に議論する事を心がける。
・捏造を暴くのは憔悴するので、不正に気づいた時点で、自分へのダメージとどの程度深入りするかの対応をよく考えたほうがいい。手を引けるなら手を引く。また不正をしているメンバーがいる事をPIに忠告しても聞き入れてもらえない事がある。したがって、いつでも静かにさっと撤退できるようにしておく。研究室で分業制を敷いている場合には、自分の制御可能な範囲での研究テーマを推進し、業績に影響が出ないようにする。(博士過程の学生の場合には、そもそも分業しないほうが良いが)
http://anond.hatelabo.jp/20170531085415を読んで。
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研究の及ぼす影響というものが何なのか具体的に説明が能力や語彙力、論文を書いた・読んだ経験が足りないゆえに出来ない人間と
今まで勉強漬けの生活をしてきて、頭のわるい人達が何にも理解できないということを分かっていない人間が議論していて呆れた。
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論文の本文をちゃんと読んでみれば分かるが、この論文はディープを使って隠語を見破ることができるのか?というところがテーマである。
そして、それは隠語を使ってやり取りをされている犯罪の調査に役立つのだが、そのデータセットを用意することは難しい。
そこで、公開されている隠語が比較的多く含まれる文章のサンプルとして、そのコミュニティの文章が選ばれた。
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公開されて、研究での使用が許可された文章なのだからそのサンプルが論文内で触れられるのは当然だし、
サービスの使用者は規約を承諾して公開しているのだから何の問題もない。
逆にデータセットの中身を隠したら某実験ノートを隠してた理◯の研究者と一緒である。
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公開されている文章が他のコミュニティで再び公開されて破壊されるコミュニティであるなら、規約で守られている場所で公開するべきなのでは。。。
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4年生のとき、当時M1だったAさんと同じ班員として研究をしていた。
そのAさんははっきり言って無能だった。4年生の4月に研究が始まって、1か月経つ頃には「この人を信用したら大変なことになる」と悟った。
というのも、Aさんが描いた図面をもとに部品を制作していたら、全然寸法が合わないので、よく調べたら全然違う寸法が入ってたり、実験ノートをフリクションペンで書いて、ちょくちょく消しながら実験してたり、そのせいで条件とデータの関係が分からなくなってデータを取り直しになる(しかもこれはAさんはやらないで自分がやらされる)とかそんなことばかりだったからだ。
しかもその上にいたM2の先輩も責任感のない人だったので、自分はすぐに相談にいけて、頼りになる存在がいないままだった。そんな状況で、大して知識や経験もないままやってるので、たまにある進捗報告で指導教員にボロボロに言われる。
結局、あまり価値のない卒論しか書けなかった。教員にも半ば放置されていたので、先輩や教員に厳しく指導されながら研究をやっている同期が、うらやましくて仕方なかった。それでも、当時はSTAP細胞問題が話題になってた頃でもあったので、コピペなどあってはならないという気持ちをもって卒論を書いた。
自分のいる研究室は「序論とか実験手法は過去の卒修論をコピペすればいい」みたいな風潮があって、実際に過去の人たちが書いた卒修論を読んでいると「ここは誰かの論文のコピペだな・・・」と気づいてしまうことがよくある。実際、実験装置などは同じものを使っているし、手法も変わらないので、結果的に同じものを書くことになってしまうこともある。だからといってコピペが許されるわけではないし、いくら研究室内で保管されるだけとはいえ、将来、誰かに読まれる可能性は高い。しかも、研究内容としては価値がない以上、自分で文章を書く、というところだけは譲らずに書こうという気持ちがあった。図や装置の諸元は引用したりはしたものの、基本的には自力で書いて提出した。
同じ研究室の大学院生になって研究を進めてくる中で、卒修論については上述のような事情があることは分かっていたので、昨年修了したAさんの修論を読んでみようなどという気持にはならなかった。ただ、自分と一緒に研究をしている4年生が、過去の卒修論の中で、役に立ちそうな論文としてAさんの書いた修論を持ってきていた。一応Aさんの修論発表は聴講しに行ったのだが、発表を聞きながら「これ、自分が卒論でやったこととほとんど変わらないじゃないか、こんなので修論として認められるのか」と感じていた。その修論が後輩の机の上に置いてあったので、どうせAさんのことだから大した出来ではないのだろう、と思って、目次をちらっと見てみた。
最初は、あれ、という違和感だった。「従来研究」として目次に書かれている論文が、自分が4年生のときに調べて卒論に書いたものと同じだったからだ。どんな風に引用しているんだろうと思ってそのページを開いた。
違和感は確信に変わった。手元にある自分の卒論のファイルと見比べてみると、一字一句変わっていない。「序論はコピペでいい」という論理で、後輩が過去に書いた卒論を、修論でコピペするなんてことがあり得るのか、と愕然とした。
しかし、そんなのはまだ序の口だった。さらにページを読み進めてみると、実験手法、解析方法、モデリング方法、計算結果、考察、結論、ほとんどが自分の書いた卒論のコピペだった。しかも、英数字のフォントが自分のものとは変わっていて、図表番号や設定条件などだけは置き換えられているので、「間違って使ってしまった」などということはありえない。さらに、自分の卒論と違う部分は追記されたりしているので、その修論を読んだだけでは誰かの論文をコピペしていたとは気づかないだろう。でも書いた本人が見ればすぐにわかる。こんなことがバレないとでも思ったのだろうか?
しかし、一つ違和感があった。というのも、Aさんに自分の書いた卒論のデータを渡した覚えがないのである。だからどうやってコピペをしたのかが不思議だった。
しばらく考えてから思い出した。自分がM1のとき、卒論を書いている後輩に参考資料としてデータを渡していたのだった。その後輩はAさんの近くで研究をしていたので、おそらく後輩がAさんにデータを渡したのだろう。その後輩は自分とは研究テーマが少し違っていたので、「せっかく卒論のファイルをもらったけど、あまり参考にはならなくて、引用もできなかった」と言っていた。
Aさんの修論発表を見ていたときに「自分の卒論とあまり変わらない」と感じたが、むしろAさんがコピペして修論を書いていたのだからそう感じるのも当然である。
Aさんがコピペしていたことに気が付いてすぐ思ったのが、どうしてこれで指導教員は何も言わなかったのか、ということである。「他の大学の研究と変わらない」「新規性がない」とかのレベルではなくて、「昨年の○○が卒論でやった研究と変わらないじゃないか」と一蹴されるレベルである。数年前のことならまだしも、1年前に卒論で書かれていた内容を忘れているはずがない。
これはあくまで推測なのだが、おそらく指導教員はAさんの指導を放棄していたのではないか。留年させても仕方ない、何も進めないなら叱ってでも何かやらせるけど、無価値な内容とはいえ修論を書いている(かどうかが怪しいのだが)し、修論発表も一応乗り切っているので、とりあえず修了させたのではないかと。
卒論をコピペされたことで頭に来ているのかというと、Aさんがいかに無能かはよくわかっているので、今更どう感じるわけでもない。ただ、コピペされた側として、このことについて指導教員に話をするくらいの権利はあるはずだ。
今は修論の審議がなされている段階なので、波風を立てるようなことはしないでおいて、修了が確定してから、訴えてみようと思う。
Aさんの修了は取り消すべきなのではないか、と。
この炎上はSTAP細胞が燃えているのではない、小保方氏が燃えているのだ
当たり前の内容になるが、炎上には発生条件があり、条件を満たすほどに炎上へのカロリーが高まる
STAP細胞の論文だけなら疑わしいで済む話だったが、博士論文が明らかな不正だったことで炎上は加速した
条件1だけ見れば、城崎温泉議員やゴーストライター作曲家だって十分に火種はあった
ところが小保方氏の酸素は質も量も違う、同情するほどに敵が多い
右翼は小保方氏を日本人の恥として扱い、フェミニストは小保方氏を女の恥として扱う
元々は右翼とフェミニストにウケる話題としてマスコミに担ぎ上げられ、当人も喜んで担がれたのだから仕方がないのだが
これは小保方氏は科学分野における適正な手順を踏まなかったためで自業自得だが、しかし彼女は科学者として帰る場所として守るべきだった
そうすればポエムのような手記などではなく、今も論文を発表できていたかもしれない
炎上し続けるためには燃料がいる
炎上を終わらせるためには燃料を経つしかないわけだが、小保方氏は本当に最高のタイミングで燃料を投下し続けてきた
ここ最近の城崎温泉議員のように法の力で燃料が投下されるような事故とはまるで違う
http://d.hatena.ne.jp/fujipon/20160129#p1
こういう書評が出てくるのを見ると、今回の手記の出版は効果的な一手だったのだなあと思う。私は小保方氏と同じような分野の大学院生なのだけど、研究室の先輩にも、この本の出版を受けて「やはり若山先生が悪者だったのでは?」というようなことを言いだす人がいて驚いた。まあ、感情に流されやすいかどうかは、文系理系とか関係ないことなので仕方がない。
私は、件の手記は未読だが、上のブログで引用されている部分だけを読んでも腹が立った。
「しかし、なにより不安に思っていたことは、若山先生の実験にはコントロール実験と呼ばれる対比のための実験が行なわれていなかったことだった。」
勘弁してほしい。それを不安に思うのならば、自分の博論とか実験ノートとか、見ていて不安にならなかったのだろうか。私の記憶では、STAP論文にとどめを刺したのは、博論からの画像コピペだったはずである。そして、その博論も中身がめちゃくちゃだったということで、さらに騒ぎが大きくなった。その不正に関しては誰に責任があるかは明白である。未読ではあるが手記ではスルーされているのだろう。
それから、コントロール実験が行われていない件については、そもそも発端となったOct4-GFPマウスの細胞を使った最初の実験でも、野生型マウスのコントロールはとっていない。この実験を主体的に行ったのは小保方氏ではなかったのか。この実験にすら責任が無いならば、むしろ件の論文の中で一体どんなコントリビューションがあったのだという話でもある。
ただ、もちろんすべてを小保方氏の責任にして周りが逃げるのは許されないことだ。論文の中身だけの問題に関して言えば、責任はコレスポが負うべきである。その意味ではもちろん笹井先生、若山先生も事実を明らかにする責任がある。ただ、アーティクルとレターの両方でコレスポだった小保方氏の責任が一番重い(彼女がコレスポになるにあたっていろいろな政治的判断はあっただろうけど)。それから、今再燃している議論の中で、アーティクルの方のラストコレスポは存在を忘れられすぎではないだろうか。
2月5日〜14日の間に色々な疑念が噴出しています。キーとなったのはPubPeerと2chのスレのようです。
- STAP細胞 - NAVER まとめ
- [PDF]CDBに保全されているSTAP関連細胞株に関する検証について
- STAP細胞の存在示す証拠がない - ハフィントンポスト
- STAP細胞、提供マウスと一致せず 共著の教授が解析:朝日 ...
最後に感想。私は今回の事件はシェーン事件、ES細胞論文不正事件といくつかの点で共通点があると感じました。
ちょっとだけ調べてみました!
どうでもいいけどid:blueboyさんはいい加減自分の意見に自分でスター付けるのやめて欲しいなと思った。「おれの意見は正しいからおまえら注目しろ」って趣旨なの?
blueboy氏はどれほどの自演スターをつけてるのかと思ったら、1個で拍子抜け。何とかノート事件(実験ノートではない)の時にある人がお仲間に大量のスターをつけていたのを見てきたせいで、感覚が麻痺しちゃったのかな
ああ……ついにつっこんでしまった/「この星はセルフスターかなー?」ってニヤニヤ楽しんでいたのに/はてなスターの使い方は自由でいいんじゃないかと思います
話題になったのって今回が初めてじゃなかったんですね! 迂闊でした!
こちらの方も「毎回のようにセルフスターして」という印象を持たれていたようですね!
また、氏が少なくとも2012年からセルフスターしてたことも分かりました!
blueboy氏のセルフスターが物悲しい。例によってblueboy氏以外で疑問に思う人がいたら質問に答えます。blueboy氏からの質問もコメントしてくれたら答えます。間違いだらけのブログに反論するのは面倒くさい。
氏は今回、ご自身のスターは消してまわったそうですけど、他人のブコメまでは消せないんですね! ちょっと気の毒ではありますね!
でも、ちょっと探しただけでこれだけ証言が集まったとなると、「嘘つき。夢でも見ていたのか?」はあんまりなんじゃないかと思いました!