はてなキーワード: オタクの本質とは
>最初から同性愛者のキャラを作ってれば、文句わざわざ言うやつなんてほとんどいないと思う
これは正論。
事実、日本の漫画やアニメは昔からセクシャルマイノリティのキャラは必ずいた、というより不可欠な存在であり、出れば必ず人気キャラになった。
それが海外で放送されるときは不適切であるとして勝手に設定を変更されてきた。
それを今さら急にポリコレに目覚めた欧米が何の必然性もなく無理やりセクシャルマイノリティ要素をねじこんで「これを嫌がるジャップは遅れてるゥwwww」とバカにするとかふざけんな。
昔、北欧かどこかのCMで、飛行機の中で日本人におしぼり渡したら無知な日本人はおしぼりの使い方を知らず変なことするというギャグをやらかして、
無知なのはおしぼりは日本発祥なのも知らないレイシスト白人のCM作者のほうだと批判されたことがあるが
>オタクの本質は「変えるな」
間違ってるのはここだけ。
オタクの本質は「変えてもいい」だ。
絶対に譲れないのは「“政治的に利用するための目的で”変えるな」なんだよ。猫娘の姿が変わるのはその折々の流行に合わせただけであり、何らかの政治的勢力の言いなりになった結果ではない。
したがって、一部の偽善者リベサヨが喜ぶだけでそれ以外の本来のファンからは嫌がられているアメコミのポリコレ変更と違って、猫娘の変化は常に好意的に受け入れられている。ジャンプ漫画は設定を変更することで面白くなり、人気が上がった。
アメコミは設定を変更することでつまらなくなり、人気が激しく落ちたにもかかわらず、売れる売れないに関係なく偽善者リベサヨの政治的圧力に屈しなければならないため、無理やり変更しなければならない。
全く事情が違うんだよ。
この人らも普段はトランスカルトを批判してるのに、なぜトランスカルトと同じ手法であるポリコレには全く抵抗しようとしないのか?
単にキモヲタ叩きがしたいだけなのか?マイノリティの自分たち(オタク)の文化がマジョリティ(偽善者リベサヨポリコレ)によって蹂躙されることへの抵抗なんだが?
しかも日本のオタク文化は長年やおいとか百合とかでセクシャルマイノリティに寛容だった。
「それはマジョリティのシスヘテロがセクシャルマイノリティを性的搾取してただけだ」という批判はあってもいいが、今さらポリコレでイキり散らしてる欧米は作品の中にセクシャルマイノリティが登場すること自体を許さなかったんだから欧米のほうがもっと差別が酷い。
セクシャルマイノリティを受け入れてきた日本のオタクが「セクシャルマイノリティが登場するのが嫌だ」という理由でポリコレ叩きをするはずがない。
セクシャルマイノリティを政治的に利用するからポリコレを許さないんだよ。
セクシャルマイノリティを搾取して差別してるのはポリコレのほうだ。
政治的な意図のために何の脈絡もなくセクシャルマイノリティを無理やりねじこむ欧米ポリコレは、
昔からセクシャルマイノリティを「いるのが当たり前の存在」として自然に登場させてきた日本のオタクコンテンツの先進性を見習え。
TwitterでVtuberが活動休止した事件を知った。彼のことは知らなかったがひでー話だと思った。
昔オタクって単語が不可分にもっていたコミュニケーションのとれないキモイやつって意味はいつのまにか消えた。
正直嫌だった。
まともな人間がオタク名乗ってんじゃねーっていう捻じれた賤民意識みたいなのも感じてた。
だからVtuberにキモイ粘着してるオタクを見てすごいなつかしさと安心のようなものを覚えた。
これだよ。
定型文でしかコミュニケーションらしきものをとることが出来なくて、人が嫌がってることがわからないから知らず知らずのうちに悪ノリで人を傷つけてしまう。
オタクってのはなあ!おしゃべりが好きでユーモアに溢れた人間が名乗っていい呼称じゃねえんだぞ!
お前なんかがへらへら笑って名乗っていい呼称じゃねえんだぞ!
北田が最初に示したのは操作定義なんかではなく、「2章議論の復習」(北田 2017:262)だよ。
2章を読めばわかるけど、アニメを趣味に選択したこととアニメがきっかけでできた友達がいるの偏相関係数が比較的高い。
そのことから「友人関係の連関が密接」(ibid:100)と考えるのは飛躍しすぎではない。
また、趣味の組み合わせでカイ二乗検定を行った結果「アニメ×マンガ」「アニメ×ゲーム」で正の関係があったことから(ibid:101)、マンガの二次創作に興味がある≒アニメの二次創作に興味があるとしたことにも飛躍はない。
勿論完全には重ならないのも確かなんだけどね。
ただ、趣味で繋がる人間関係がどんな感じなのか肌でわかってないという意見には賛同できない。
北田がなぜこの調査を行ったかと言えば「ブルデュー理論の濫用」(ibid:13)のカウンターであり、「「ブルデュー以降の、新しい文化社会学の方法基準」を提示しうる教科書」(ibid:17)として出版されたわけで、何か具体的な仮説を元に調査されたわけではない。
だからこそこの本はインタビューのような質的調査とは異なる視点からアプローチをかけている。
ここらへんは文化社会学の「文脈」って奴だけど、昔の研究は実践者たちの言説のみを重視してたけど、近年の研究では逆に批判の的になる(例えば、辻 泉・岡部 大介・伊藤 瑞子編,宮台 真司監,2014,『オタク的想像力のリミット: <歴史・空間・交流>から問う 』筑摩書房)。
この本も同じで、実践者たちの直感なんてあやふやなもの(例えば増田がいった「オタクの本質」ってなに?)だけに頼らなくても良くない?ということが言いたいんだと思う。
何かおかしいんじゃないの?ってあら探しで読むより、こういう仮説も立てられるかもねって視点で見た方がよっぽど面白いし、増田のためにもなるよ。
同意するかはまた違う話だけど。
だけど実際はどうだ?
何か一作でも書き上げたことすらない。星新一サイズの掌編どころか、2chの1レス分に入るような小話やショートショートすらないんだ。もしもこんな俺がラノベ作家になったとしても幸福にはなれないだろう。なった所で締め切りに追われてつまらない毎日を過ごすだけだ。
といった感じのオタクが俺は好きなんだよ。
結果を出してるオタク。薄い本を書き上げることが出来てしまったオタク。ブログが大人気のオタク。いつの間にかウェブライターになったオタク。ツイッターで皆のアイドルしてるオタクですら気に食わない。ツイッターで言えばフォロワーは3桁以内じゃないと駄目だな。4桁まで行ってるオタクは何かが違う。たとえそれがフォロー人数を4000とかまで増やしてフォロワーが1000になったという形であっても、俺のイメージするオタクとは違う。俺の好きなオタクはプライドが高くて完璧主義だからフォロー人数は400ぐらいで頭打ちになるんだ。全部読もうとしたり、こだわりに合致しない奴を次々リムーブしたり、理由はともかくフォロー人数を4桁まで増やしたりはしない。万一超えても1500がリミットかな。
自分に自信がある理由が説明出来るオタクは駄目だ。他人に説明して恥ずかしくならないような経歴があるようでは駄目だ。せいぜいが小学校の頃学級員長だったり、高校入試で難関に受かったぐらいの所が限度だ。そっから先で東大に受かってたり、会社で表彰されたりしたら駄目だ。年収も年齢*15を下回るぐらいじゃないと。年収があるってのは社会的な地位があるってことだ。それじゃ駄目だ。オタクとして駄目だ。オタクは負け組じゃなければ。燃えるようなルサンチマンの塊でなければ駄目だ。
今のオタクは豊かなオタクが多すぎる。まず友達がいる。オタクに友達がいていいのは大学までだ。大学を出て3年したら友達の数が0になっていなければ駄目だ。そして金があったり能力が合ったり結果を出していたりする。駄目だ。駄目だ。オタクってのは消費する側で無ければ。消費しか出来ないのがオタクだ。何かを生み出しては駄目だ。ものすごーくたまにゲームの攻略WIKIを更新するも、内容が使えなすぎるから一週間後にはまるまる書き換えられているぐらいを関の山とすべきだ。
黒歴史ノートを書いたことはあっても、それを人に見せるのは不可能じゃなきゃ駄目だ。オタクはプライドが高くなければ。無駄にプライドが高くそれゆえに失敗を恐れるし人とも関われずそれゆえに無能でなければ。そうでなければオタクではない。
そもそもオタクとは生まれ持ってして社会不適合でありいわば定型発達に失敗している※アスペ(※この言葉を使ってしまったのは屈辱だがこの言葉はこの場で私が表現したいものにかなり近いものがあり他の表現を使うよりも正確に意味を伝えてくれる。)でなければならない。そういった漫画やゲームが無ければ生きる希望の無さに耐えられず死んでいたはずの人間でなければいけない。本来世の中で生きる希望など一切なく中学高校まではまだしも三十頃になればいよいよ生きる事といつか人生が好転する事を期待する事に疲れ果ててそうして苦しむことのマゾヒスティックな刺激にも飽きてしまって死を選ぶ以外の道を失うような所をオタク的な嗜好品によって何とか救われた生き物でなければならぬ。
オタクは創作物によってかろうじて生かされていなければいけない。それは自分が生み出す物ではなく人が生み出すものでなければいけない。作る側に回った時オタクとそうでない消費するだけのオタクは別の生き物だ。同じ名前で呼ばれている別の生き物だ。オタクとは生まれたてのチワワと鍛えたドーベルマンを丸ごと犬と呼ぶような大雑把な枠組みなのだ。そしてオタクの本質が宿るのは消費することしか出来ないくせに口だけは大きい極めて無能であり守る価値もないクズの方なのだ。そこから脱皮して進化したオタクやそもそも別の所からやってきた外来種たる新型オタクはオタクと呼ぶのが憚られるような代物なのだ。
偽物のオタクばかりがオタクと呼ばれる時代にいい加減嫌気が指してきた。消費しか出来ない生まれついてのアスペに対する新しい呼び名が必要ではないだろうか。
僕がシン・ゴジラについて「はいはい庵野庵野」と言ったのは、庵野秀明作品の中ではあからさまな様式美の詰め合わせでかつ、他作品でやったことのやきうつしだったからだし、そこに熱狂する人はオタクとして強度が… / “東浩紀氏「シン・ゴジ…”
典型的な学者気取りのオタクが書いた、わっかりにくい日本語と、エビデンスで取り繕ったクソみたいな文章の好例。こういう文章を自己満足でつくることを評論だ、批評だと言う人が嫌いで俺は評論同人への寄稿をやめた / “『君の名は。』の大ヒ…”
アニメについての評論や批評を見ても作品が面白くなる解釈ができるようになるわけでもなきゃ、アニメの見どころや作画的な技術論がわかるわけでもないことに気づいた途端に急に冷めてしまったのです。あー僕がやりたいのは作品紹介や楽しく見るために抑えておきたい情報であって評論じゃないな~と
「オタク文化がリア充色や社会派色を帯びて一般化して、オタクの時代は終わった」とか言ってる東浩紀に心底言いたいのは「今の20代は子どもの頃に押井守アニメやエヴァみたいな要素を含んだ冒頭からスタートするミュウツーの逆襲からアニメを見始めてそれがおとなになっただけ」ってことさ!!
支援ブクマ。いいぞ~ころしあえ~ / “「『動物化するポストモダン』はどこがまちがっているか」はどこがまちがっているか - 赤目無冠のぶろぐ” (2
「オタク論」は学者ごっこでしかなくて、実際にコンテンツが好きな人がコンテンツの話をするためにやってることではないからなぁ~。「評論ごっこ」「論文的なエビデンス漫才ごっこ」であって、もしこれを人文系の学問というならこんなもんに国がカネ出してる方が異常。憧れて同人作るのも狂気
オタクという自意識を持たない人をリア充だというならそれってどうなんだろうって感じはあるし、ジブリアニメで育った世代はオタクじゃなくてもあんなこじらせたものを国民的娯楽だと言って幼いうちから見せられてるんだから、オタクじゃなくてもその基礎的な土台はオタクなんだと思うぜ?
@tm2501 いやだからその事実自体が「オタクの時代は終わった」なのでは
@kimiterary だったら、それは20年前(もののけ姫や、ミュウツーが邦画の歴代ランキングで上位に食い込んで、アニメ映画をオタク以外が見に行く時代になった時)に約束された話だから、今それを言うこと自体が遅すぎない?…とは思う。
まぁ、その辺は記事にしたので夜に出すけど.それはね、多分「表面上の言葉でこの言い方をしたら絶対に誤解されるから、俺なら絶対こんな言い方をしないわ」っていうレトリックの問題であり、ある種の(正直言って、納得行かないけど)同族嫌悪なんだと解釈してるよ…うん
@tm2501 確かにもののけ姫やミュウツーに「オタク特有のグダグダした心理」の描写はないんだけど、その二十年分の変化の集大成として、節目の年と感じてるって話じゃないのこれ。その二十年前にいるのがまさにエヴァなわけでさ。
@kimiterary 東浩紀の文脈(オタクの定義を動ポモで扱ったものやそれを論じたゼロ年代ゲンロンとした上で)あるものはエヴァでありエロゲなんだろうと思うけど、世の中の人のターニングポイントが本当にエヴァだったのかと言われるとそこにはとても疑問を感じるかなぁ…数字の問題として
というか、うちのブログやそのスタンス自体が、「哲学者・批評家の言ってることを噛み砕いて、アカデミックな言葉を使わないで書く」という部分(本人すらアカデミックでそれをもっとシンプルに言い表した言葉があったことを知らずに書くことは多い)があるからねぇ~うん。
@tm2501 「誰しも土台にオタク的部分がある」のは普遍的にそう。ただ、それを突き詰めても「だからみんなオタクであり同時にオタクではない」みたいなところに帰結するだけで、そこからこぼれ落ちる人間、こぼれ落ちる想像力は確実にあって、で、それらはもはや力を持てないって話なんかなと。
@tm2501 世の中のターニングポイントがエヴァだったのかが問題なのではなくてシンゴジラの監督が庵野であることがこの文脈では問題なのでは?
@kimiterary あー…直感的には理解したけど、いいアクションを持ち合わせない部分がある話やなぁ~。
@kimiterary あー…うん。(概ね納得)
だとするとすげー個人的な話を主語がでかいままネットに書き込んだ系のことやなぁ~。「お前はそうかもしらんが、一般的な分岐はそこじゃないだろ」的なモヤモヤは個人的な話である時点ですでに意味を持たないというかその人の手を離れるわな…
@tm2501 つまり「アニメ・マンガ文化愛好者」としてのオタクと「少数派としてのグダグダなメンタリティ所有者」としてのオタクの問題。前者がもはやメインストリームに取り込まれた(皆オタクであり非オタな世界)として、後者の想像力が表出してくる余地が果たしてあるのか、でしょ。
@tm2501 そもそもアレ個人の感想だけどな?
@kimiterary それな(盛り上がってるから真夜中にがんばって記事を書いたけど、結局東浩紀との対立というよりも、EXILEまでオタク的になったという話までの道のりを自分がポケモンとかジブリを使って補填するようなすごく説明的な記事だからいいんだけどさ…)
@kimiterary 「後者はそもそもオタクなのか」とはてなブログにいるとすげー思うけどなぁ~。結局、何を議題にしてもグダグダにグズグズに揉めてる印象があるから。オタク論争だけでなく、人間関係でも、サイトやブログのアルゴリズムやテクニカルな話でも
@tm2501 ちなみにこんなこと言っておいて難だけどセカイ系とは相性が悪いマンだからさほど感慨はない……w
@kimiterary あ、僕もそこはどうでもいい派。15年以上前のオタク同士でランデブーしてろ派だし、安易に話に入ると誰も幸せにならないから意図的にスルーする派
@tm2501 端的に言って本人の能力値がどこでいいからどこかに向けて高くない限り救いようがない人種だけど、わりとそれオタクの本質の1つだと思うんだよな。
@tm2501 てゆーか貴方だしすっげえ雑なこと言うけど、要は1つのテンプレとしては太宰に感情移入しちゃうタイプのメンタリティが挙げられるんじゃないの、後者。ファウスト系に人生曲げられたマンとしてはこの辺他人事ではない
@kimiterary それ、私には発達障害の問題(IQの低さと高さが混在した人間の宿命や悩み)の話に聞こえるから、哲学案件ではなく、精神科案件か臨床寄りな心理学案件な感じがあるかなぁ…。個人的な話でもあると同時に、それらを病気や克服すべき問題と定義したのはそっちだし。
@kimiterary そこまで広くくくっていい話だとすると、それは確かに哲学案件。
@tm2501 俺としては「病気が治ってしまったら病気が治る前の自分は死んでしまう」みたいな感慨があるからいかに病を抱え続けていけるかの問題、自己肯定の問題なんだけどなそれ。戯言遣いが言う「変わりたいって気持ちは自殺だよね」に未だに取り憑かれてる感。
@tm2501 「太宰に感情移入しちゃうタイプ」の「太宰」に代入出来る解としての庵野なり新海ではもはやなくなった、ってことだと俺は理解してるし、なんならそこに代入できる解って今の世界にいるのか?そもそも求められているのか?ってところで一般化していけそうではある。