はてなキーワード: 考察とは
ニュース『米テック大手、リモートワークで地方移住の場合減給!』
識者「従業員をオフィスに戻したいという企業の本音が出ている」
※この日記は『ウルトラマントリガー』という作品を批評するものではありません。
既に5話まで放送されている、ウルトラシリーズ最新作の『ウルトラマントリガー』。
番組開始直後に興味深い感想を見掛けたことを思い出したので、チラシ裏のメモ程度に綴っておく。
前提として、増田は根っからの『特撮作品ファン』で、世代こそウルトラマンでいえば『ウルトラマンメビウス』以降のまだ若い世代ではあるが、例にも漏れず本作もリアルタイムで視聴している。
「ウルトラマンが喋ってなくて物足りなかった」
というもの。
残念ながらもうかなり前に見た感想なので、どこで見たのかは全く覚えていない。
しかしこれは、昔から円谷作品、ひいてはウルトラマンという作品群をずっと追いかけてきた増田自身にとっては新鮮極まりないものだった。
というのも、それまでは「ウルトラマンは喋るべきではない」という感想をよく見ることが多かったので、なおのこと衝撃的な感想だった。
ウルトラマンといい作品シリーズに詳しくない人のために、少し解説する。
「ウルトラマン」とは、1966年に放送された『ウルトラQ』に次ぐ、空想科学特撮シリーズ第2作『ウルトラマン』より登場した、M78星雲の宇宙人だ。
劇中ウルトラマン自身が、自らの意思で喋ることは《あまり》なく、基本的に戦闘中でも掛け声のみとなっている。
まあ言ってしまえば初代ウルトラマンは第1話から喋っているし、『ウルトラマンレオ』のとある回では初代が「俺たちはアストラを殺す!」と言った台詞は、今もファンの間ネタになる迷台詞だ。
とはいいつつも、実際そんなに毎回喋ってる訳ではなかったので、ウルトラマンは無口、という感覚が刷り込まれていったのは間違いない。
しかしそれも、平成前期までのこと。『ウルトラマンマックス』までかな。『ウルトラマンメビウス』の時点ではもう結構台詞あったと思う。
平成後期からのウルトラマンは、まあ当時の円谷プロの事情なども相まってはいたが、色々挑戦してた。
その中で、火付け役となった『ウルトラマンギンガ』という作品を筆頭に、ウルトラマンが普通に喋る=アフレコなどで主人公役の俳優が戦闘中にも台詞を話すことが増えた。
当時としては、「ウルトラマンが喋るなんて!」という批判も多かったし、以降もその傾向が続いたので、一部の往年ファン層からはかなりの反感を買っていたと思う。
私個人の意見を述べさせてもらうと、ウルトラマンが基本喋らないため、「ウルトラマン側が思い付いた作戦をナレーションで説明する」というのが、昭和作品から平成最初期にかけてはお決まりだった。
なんなら、昭和作品の、さらに最初の頃の作品に至っては、ナレーションもなしによくわからん技使って、怪獣や宇宙人に勝ってたことはざらであった。
「よく分からん技使って倒した」
を経て、
「分かりやすくウルトラマンが技名言ったり、作戦を喋ってくれて、そして倒した」
という変化が起きている。
閑話休題。そう言うこともあって、現在のウルトラマンは喋るのがデフォルトになってた訳なのだけど、ウルトラマントリガーは最近の作品としては珍しく「あまり喋らない」タイプ。
これは、前作の『ウルトラマンZ』とは完全に対照的で、むしろこの『Z』の存在が、前述した「あまり喋ってなくて物足りなかった」という感想に繋がってるのだと思う。
『Z』は驚くほど面白かった。星雲賞を受賞したニュースが先月あったが、納得の出来だった。そんな『Z』の良かったところのひとつに、ウルトラマンと変身する主人公の掛け合いが面白かった点だ。
また少し話題が逸れるが付き合ってほしい。お願い。
これはいわゆるティガとかダイナのような戦況に応じて姿を変える《タイプ》でなければ、初代とセブンのようなシルバー族とレッド族等といった設定でもない。
作中における主人公とウルトラマン自身の立ち位置みたいなものを、便宜的に《タイプ》と呼ばせてもらう。
細かく分けると非常に多いので、ざっくり二つのタイプに分ける。
例えば初代や帰ってきたウルトラマン、平成ならマックスなどのような『人にウルトラマン自身が憑依するタイプ』
もうひとつが、セブンや80、平成ならメビウスやオーブのような『ウルトラマン自身が人の姿に化けているタイプ』
ウルトラマンZは前者の憑依タイプで、なおかつウルトラマンと変身する主人公は人格が明確に分かれていて、時には意思疏通して相談することもあった。
憑依タイプの補足をすると、昔はウルトラマンと変身者の意識が完全に混ざったり、むしろ乗っ取られてるに近いパターンが主流だった。帰りマンやエースなんかは完全にそのタイプだ。
平成に入ってからは、海外作品、オーストラリアの『ウルトラマンG(グレート)』が、人格が別々で互いに対話できるウルトラマンの先駆けであり、以降このタイプ(私はグレートタイプと呼んでる)のウルトラマンも増えた。
Zはまさにグレートタイプで、主人公のナツカワ・ハルキとウルトラマンZの、コミカルでテンポのいい掛け合いが絶妙だった。
この効果もあって、普段ウルトラマンを観てなかった人も、『Z』きっかけにシリーズのファンとなった人が増えて、かつ『トリガー』を初回から見たという人も多いはずなのだ。
だからこそ、『Z』の作風である「喋るウルトラマンと主人公の掛け合い」に慣れていた分、「喋らないし、要所でちょっと主人公が話すくらい」の『トリガー』に物足りなさを感じた《Zファン》が多いのでは……?
というのが考察。書いてたら楽しくなって、見返してたら長くなってた。ごめんね、このタイミングで謝っとく。
昔からのファンとしては、新規層が増えて嬉しいと思うに加え、今までは見ることが出来なかったタイプの感想まで現れて、興味深く感じた次第。
「喋る」「喋らない」が良いか悪いかについては増田は語るつもり無い(強いて言えば「良い側」とだけ言っとく)けど、『Z』を通じて新規ファンが増えたのは個人的にも嬉しい。
新規層には意外に思うかもしれないけれど、2013年の『ウルトラマンギンガ』が始まるまでは、新たなウルトラマンが登場する完全新作のドラマ作品は長い間無かった。
映画では度々やってたけど、地上波の連続ドラマとしては06年の『ウルトラマンメビウス』以来。もちろん翌年の07年に『ウルトラギャラクシー大怪獣バトル』が1クールやってたけど、新しいウルトラマンが出てたわけでは無かった(それっぽいキャラはいた)。
この前美術館の企画展を見に行った。随分前から楽しみにしており、充実した時間だった。ミリ単位で調節されたであろう作品たちは美しく、この上ない没入感であった。この展示を無料で見れるのは高校生の特権だ。浮いたお金で画集を購入した。
入場の際、来る人来る人に学芸員の方が作品には「お手を触れないでください」、「写真撮影不可のエリアはこちらです」と何度も注意していた。
撮影不可のエリアはめちゃくちゃ空いていた。とにかく空いていた。ゆっくり見れて良かったと心の中で小躍りしてしまった。じっくりと堪能した。現実と乖離した誰にも邪魔されない時間だ、独りで来て良かった。
どんどん作品、アーティストの世界観に没入、空気が完全に変わってきた時だった。私と同じ高校生くらいの若者たちがたくさんいた。正直安心した、ここまでの入場者は大人たち、お年寄りの方たち、とにかく難しそうな顔をした人たちばかりで少し浮いているのではないか、と感じていたからである。誰も私の方なんか気にも留めていないであろうに、そう思ったのも束の間。
「カシャ、カシャ……。」
楽しそうな話し声笑い声。このエリアはこれまでのエリアからガラリと雰囲気が変わりたくさんのいろやおと、ひかりで溢れていた。
確かにここに展示されている作品は所謂写真映えのするものであった。何も撮影可能な場所であるのだから写真撮影を否定するつもりはもちろん無い。私自身もカメラ越しに観た時に変わる作品の表情を知るため、帰りの電車で振り返るため、自室で作品を考察するために撮影することもある。写真撮影によって、美術館側のSNS等にあげられることの広告効果の期待、アーティスト側の作品に気軽に触れてもらうための方法であることも重々理解している。
しかし、作品の土台の一部が床と混ざり合っている部分を踏み、写真を「映え」させるために作品に触れ、フラッシュをたく。学芸員の方が注意するが悪態をつく。はじめのうちは気にしないようにしていたが、もやもやしてきた。ここで入場前に執拗に注意を促していたことを思い出した。
「ああ、これのせいか……」
読んだ人は少ないだろうが、たった20年弱しか生きていないし、芸術を語れるほどの教養がない高校生の感想文であるのでこんなふうに考えるやつもいるんだなぐらいで捉えて頂きたく思う。
6月16日 新型コロナウイルス感染症対策分科会がスポーツイベントの有観客を一部解除
(緊急事態宣言解除後1カ月程度、大規模なスポーツイベントは、観客数を「1万人」か「50%以内」のどちらか少ない方を上限とする経過措置)
6月18日 橋本聖子・組織委員会会長がオリンピックの有観客開催方針を公表
7月 8日 オリンピック無観客開催決定(1都3県の会場)[1]
7月23日 東京オリンピック開幕(一部競技は21日から開始)
8月16日 パラリンピック原則無観客開催決定(ただし、「学校連携観戦プログラム」は実施)
[1]政府、東京都、大会組織委員会、国際オリンピック委員会(IOC)、国際パラリンピック委員会(IPC)5者代表者会議による決定。
事実上、オリンピック開催方針も確定したと言えるが、その後も中止の含みもあった。
例えば、
以下の問題を解いてみてください。
以下の数列で、□に当てはまる値は何か。
2、5、8、11、□
3ずつ値が増えているので、正解は「14」ですね…
いや、それは正解ではありません。
正しくは、「14」だけが正解なのではありません。
もし問題文に「以下の数列が等差数列とする場合、」と条件が記載されていれば、
たしかに「14」が唯一の正解ですが、そうではないのです。
それならば、真の正解は何でしょう。
正解は「任意の値をとる」です。
つまり、100でも200でも300でも、どんな値でも□に当てはまるのです。
「間違い」となる値は無いのです。
本当にそんなことがありうるのでしょうか。
例えば、□が100となる数列a(n)は、以下のように定義できます。
a(n)=
2(n-2)(n-3)(n-4)(n-5)/(1-2)(1-3)(1-4)(1-5)+
5(n-1)(n-3)(n-4)(n-5)/(2-1)(2-3)(2-4)(2-5)+
8(n-1)(n-2)(n-4)(n-5)/(3-1)(3-2)(3-4)(3-5)+
11(n-1)(n-2)(n-3)(n-5)/(4-1)(4-2)(4-3)(4-5)+
100(n-1)(n-2)(n-3)(n-4)/(5-1)(5-2)(5-3)(5-4)
非常にややこしい式ですが、計算はほとんどの部分が0になるので簡単です。
最初の「2(n-2)(n-3)(n-4)(n-5)/(1-2)(1-3)(1-4)(1-5)」の部分はどうなるでしょうか。
よって、分数は約分されるので1となり、この値は2です。
次に「5(n-1)(n-3)(n-4)(n-5)/(2-1)(2-3)(2-4)(2-5)」の部分はどうなるでしょうか。
よって、この値は0です。
そして、「8(n-1)(n-2)(n-4)(n-5)/(3-1)(3-2)(3-4)(3-5)」の部分ですが、先程と同じ理由で0ですね。
残りの「11(n-1)(n-2)(n-3)(n-5)/(4-1)(4-2)(4-3)(4-5)」も「100(n-1)(n-2)(n-3)(n-4)/(5-1)(5-2)(5-3)(5-4)」も、やはり0です。
よって、a(1)は2+0+0+0+0=2です。
同じように、2項目の値a(2)を、n=2として計算してみます。
最初の「2(n-2)(n-3)(n-4)(n-5)/(1-2)(1-3)(1-4)(1-5)」の部分はどうなるでしょうか。
(n-2)が0となるので、0ですね。
「5(n-1)(n-3)(n-4)(n-5)/(2-1)(2-3)(2-4)(2-5)」はどうなるでしょうか。
分数部分が1になるので、値は5です。
「8(n-1)(n-2)(n-4)(n-5)/(3-1)(3-2)(3-4)(3-5)」以降の部分はもうおわかりですね。全部0です。
なので、a(2)は0+5+0+0+0=5です。
この数列a(n)のパターンが見えてきたでしょうか。
この数列は5項目まで、太字で示した係数の値を前から順に取っていきます。
つまり、a(1)=2、a(2)=5、a(3)=8、a(4)=11、a(5)=100となるのです。
よって、たしかに、□が100となる数列は実際に存在する(このa(n)がそうです。)と言えます。
つまり、□を100としても、そのような数列は存在するので、「間違い」ではないわけです。
そして、a(n)の式中で100の部分を200に変えれば、□が200となる数列も作れるし、300に変えれば、□が300となる数列も作れるわけです。
だから、上記の問題で□がどんな値であったとしても、それを満たす数列は必ず存在します。
よって、□がどんな値でも「間違い」ではないわけです。
したがって、数列自体に条件が無ければ、数列の穴埋め問題に「間違い」は無いと言えるわけです。
今回の新型コロナウイルスは、マクロで言えば人と人の接触でしか感染しない。
よって、人と人との接触を少なくすることが一番の抑止策になる。
極論誰とも接触しなければ、ウイルスに感染することは絶対にないのです。
新型コロナ抑止という公衆衛生政策の観点だけで言えば、人と人の接触を最小化するのがベストとなる。
しかし、現実には人と一切接触しないで社会生活は成り立たない。
経済活動、スポーツ振興策、諸々を総合的に判断して決まるものです。
現実に人と接触せざるを得ない場面では、ウイルスをできるだけ回避する工夫をすることが奨励される。
マスクの着用、手指の消毒、ソーシャルディスタンスの確保、三密の回避、会食時の感染防止策など。
(1)不要な人との接触を極力減らす、(2)人と接触しなければならない場面では感染防止策を工夫する。
国民がこのことの意味を十分に理解して実践することが、社会全体としても感染を封じ込めることにつながるわけです。
以上を前提に、仮にオリンピック期間の人流が減少していたとしても、それは(1)は満たしていたというに過ぎない。
活発に出歩いていた人たちの間で(2)の意識が低下していたら、感染拡大の原因となる。
人流が100万人から50万人に半減しても、その50万人が感染防止策を軽視して行動するようになったらダメなのです。
実際に、オリンピックを開催するため、さらには有観客開催するため、種々の無責任な言説が5月6月ごろからまき散らされたのは周知のとおり。
オリンピック期間に重なった感染爆発は、ラムダ株ではなくデルタ株によるもの。
ラムダ株の日本初検出(7月20日)はオリンピック村開設(7月13日)後、五輪関係者の入国が増えて以降の話。
ラムダ株を持ち込んだのは五輪関係者と報道されています(8月13日付共同通信)。
あと基本的な事柄ですが、統計的な相関関係と因果関係は別の話です。
ただし、どこまでいっても、「オリンピック期間中に出歩いていた人たちの感染防止策に対する意識の変化」などといった調査データは示せないのだから、確定することは不可能ですがね。
VOC=懸念される変異株(アルファ株、ベータ株、ガンマ株、デルタ株)
VOI=注目すべき変異株
発生の動向を注視する変異株←ラムダ株はここに位置付けられていた
7月20日 羽田空港へ到着した30代女性から国内で初めて検出
7月25日 遅くともこの日までに、国立感染症研究所が解析でラムダ株と同定
7月26日 国立感染症研究所は国際的なウイルスゲノムデータベースであるGISAIDのシステムに速やかに変異株の配列を登録
7月31日 現在、日本ではまだラムダ型変異ウイルスは見つかっていません(忽那賢志・大阪大学医学部感染制御学)
8月 6日 米DB紙の繰り返しの問合せの末、厚生労働省が回答し公表
8月13日 この女性は五輪関係者だと明らかになった(共同通信)
政府・与党関係者は、問い合わせがなかったから公表しなかっただけだと供述している。
感染症対策の研究者にも情報共有されていなかったことまで、これで説明がつくだろうか。
また仮に供述どおりだとして、国民に感染防止策の重要性をアナウンスして意識づける気があると言えるか。
やはり疑問である。
https://dot.asahi.com/dot/2021081300059.html
https://news.yahoo.co.jp/byline/kutsunasatoshi/20210801-00249724
氷河期世代の間抜けさとか愚鈍さっぷりを嘲り笑うネットの意見が多いが
「じゃあ実際あの時代に自分がその渦中に遭遇したとしてどうすればよかったのか」っていうのは誰も語らないよな
思い切って裏稼業に突っ込んで半グレやヤミ金になった氷河期世代もグレーゾーン金利や取り締まりの激化で消息不明
当時雇用が多かったIT業界言っても廃人や精神障害食らってリタイアとか
SESや特派でマトモに情報収集もできないまま社会認識が10代で止まったままの底辺PGのおっさん化して人生終了(ここによくいるオッサン増田の末路、web業界斜陽化になったせいでもはやネットからも姿を消してしまった)
起業なんかしたって99%大失敗で借金抱えて狂って廃人化(起業のコンセプトや発想は正解だったのに資本力が力足りずに大失敗して狂ったネトウヨに成り下がったヨーゲンなんかいい例)
思いつくだけで、これだけの動きを氷河期世代だって頑張ってやってたんだが
どれも大失敗してるわけで
何をどうすべきだったんだろうなと思う時があるのよな
これからコロナ禍で地獄のような就職状況につっこむ学生の増田たちの反面教師にもなると思うのよ
この辺の考察って
不織布のマスクをちゃんと鼻にフィットさせないのでガバガバになっている人が結構いる。
その人たちを見て気づいたことがある。
鼻が…鼻が高いせいではないか?
私は生後3週間くらいの飼い猫に負けるくらい鼻筋が低く、眉間から目の下あたりにかけてかなり平坦である。
それゆえに、特に苦労せずマスクが勝手にフィットするのである。
しかし、鼻が高い人は、針金の角度とか調整が大変だし、高い鼻筋にマスク当たるから不快なのではないか?と考察するようになった。
誰か、鼻高い人、そうなのか教えてほしい。
数は多くないが必ずいる。幹准曹士問わず、レンジャー出てようが、大臣直轄だろうが部隊の雰囲気関係なくたまに出くわすマジだせえ奴がいる。それは雑談なんかしてる時、戦争が起きたら自分は逃げるとか言い出す奴である。
この手合いは申し訳なさそうに言うでもなく、自らの説の合理性を滔々と述べる。曰く、別に自分でなくともよいとか、誰か知らん人間より家族を守った方がいいとか言う。聞いてもねえのに。
合理的で首尾一貫した、しかしそれでいて場のタブーである主張をするのに酔ってる。おれはなんも言わんけど、熱くなって言い返す奴はいるよ。話噛み合ってねえけど。
噛み合ってねえついでに話飛ぶけど、例えば、この社会自体が、選挙とか言う一人が一票を投じるめちゃめちゃシンプルかつ極めて重要な制度でありながら、個人視点での参加意義めちゃめちゃうっすい制度で成り立ってる。投票行く奴は休みが潰れて、交通事故リスク、感染リスクを負い吹けば飛ぶような一票を投じる。投票って全然合理的行動じゃねえから絶対行かないって言う奴絶対いるし、理解できる。こういう奴に投票行動させるにはどうしたらいいんかな。
よく投票率の低さを憂いて選挙に行かないと世代間格差は広がるよとか社会的立場を同じくするなら投票してとか言うけど、個人的な合理性が常に勝っちゃうからね。話噛み合ってねえんだよ。交通事故に遭い、コロナに感染して休み潰れるけどそれでも投票に行くことを勧めるのは何故か。という問いなんだよな行かない奴の言ってることは。それにはマジで合理性ゼロだけど、そうすべきって信じてるし、そうしてるからお前もよろしくとしか言い様ない。そういう考え方あんのか。わからんけど腑に落ちた気もする。行くわ。って形しかないと思ってる。
そしてこの説得は超だっせえ。ただ選挙制度みてえなもんをみた時、合理性を超えた信条、美学や格率みたいなあやふやなもんに社会は立脚してんのかなと思うと少なくとも合理性だけを考察すべき地域の範囲に乗せてる奴より誠実だと思う。
合理性のステージだけで一貫してるだけでマウント取ってくる奴はマジそこで論理を一貫させんのなんか簡単なんだからいばんねえでくれよ。露悪的なのもかっこよくねえからな。よろしく。
以下は小山田圭吾さんの辞任騒動をきっかけに、SNSの問題やマスコミの姿勢についての疑問、虐めの本質とは何かを私なりの視点で考えた物です。
本来はTwitterで呟くつもりでしたが、かなりの長文となってしまいましたので、こちらで書く事にしました。
基本私はTwitterであまり呟く事はないのですが、ファンである小山田さんの擁護をきっかけに今回の炎上の渦中に入りました。
そんな私のツイートにリプして来た人の殆どが汚い言葉を使い、怒りの感情をぶつけて来ました。私はそれを〝攻撃〟と呼び、ミュートやブロック等でスルーしましたが、冷静に対話出来ると感じた人とは出来る限りやり取りしていました。
そうしたリプの中に、障害者と直接接触する機会がなかったのか、TVドラマによくある表現に影響されたのか、「障害者は純粋である」とか、障害者はとにかく「被害者となる対象(弱く可哀想な人)だから優しくしろ」と思い込んでる人が多い印象を受けました。「障害者が小山田の音楽を聴く訳がない」と言う人もいました。
しかしそれこそが私は差別的だと常々思っていて、それを今回の辞任騒動で再認識しました。
障害者の中にはして貰って当たり前の態度の人もいれば、席を譲る等の声かけに強く拒む人もいるし、嘘をつく人もいます。多様な人格や価値観があるのは健常者と一緒です。
(その点ではQJを見る限り、小山田さんは障害者である沢田さんを事細かに観察し、〝探究心〟で接しています。先入観なく人を知ろうとする姿勢そのものは、虐めはともかく差別はしていないと思います。)
それを想像せずに叩いて来るのは〝正義感〟ではなく〝傲慢〟であり、自己中心的な価値観の〝押し付け〟でしかありません。
そもそもSNSにおいて、なぜただの擁護者までも攻撃するのでしょう。それはまるで、殺人犯の家族まで同罪のように扱うのと同じ事です。
いえ、元々そう言う思考を持っている人達が攻撃しているのかもしれませんが。
攻撃は問答無用で人を傷付ける事ができます。その武器が言葉なら、傷が目に見えない分だけどこまでも攻撃でき、相手が死のうとする迄のダメージを与えていても気付かないのです。その行為こそが「虐め」そのものなのに。
誰かを虐める理由のひとつとして、相手と同じ立場に立った時の想像力が欠けている〝経験の浅さ〟があると思います。それだけなら大抵は躾や注意で改善されるでしょう。
それが駄目なら実際にその立場に立った時にしか気付けないかもしれません。
他には承認欲求が満たされないストレスがその行為に繋がっていると見られるパターン。
劣等感は内に向く人と外に向く人とがいて、内に向く人は自分に自信がなく自分を責めて病む。外に向くと他人を見下したり攻撃的になりやすく、虐めに発展しやすくなる。
劣等感の元は無意識下にあるので、罪悪感が伴わないのではないでしょうか。
最近になって本当にケアが必要なのは虐める側だと言われていますが、そこに本質があると思います。無意識にストレスが存在したままの人は、今回のような出来事がスイッチとなり、ヒステリーを起こすのでしょう。
虐められる側には理由がなく、仮にあったとしても虐めていい理由にはなりません。だから世間は虐めを許さないと言う。学校や会社と言う限られた世界でそうならば、今回の件は異常なまでの規模での虐めです。
しかも真実の検証も本人の説明の時間もない完全に不利な状況で始まっているのです。
それをマスコミはこのまましれっと終わらせようとしている空気になっていますが、私自身は謝罪しない限り許す気はありません。何が出来る訳でもありませんが。
煽られた攻撃者は個人なので、私が何かを要求する義理はく、真実が世に出た時は黙っていればそれでいいと思っています。ただ、最初に誤情報を拡散した人は別ですが。
ここまでで私が言っている事は虐めを容認している訳ではないと解るはずですが、そうでない人は読解力が足りないと言っておきます。
どんな場合でも相手を理解しようとする姿勢で対話しなければ、お互いの考えや価値観を知る事はできません。その上で解り合えなかったとしても、認め合う事はできます。
いきなり断罪しては真実も何もあったものじゃ無い。まだ「真実」には辿り着いていないのだから。
現時点で検証しているのは擁護側(しかも個人)だけで、本来は攻撃側もしなければなりません。QJ全文を読んだけど印象は変わらなかったと言う人がいますが、それは検証ではなく文字通り〝印象〟で留まっているだけに過ぎません。
しかし、双方が検証をしてもやはりまだ〝検証〟の段階でしかなく、何割が、どこが嘘か真実かは
それら全てが揃って始めて〝真実〟と呼べるのではないでしょうか。
こういう事を書くと「汚名を晴らしたいなら本人が会見すればいいじゃないか」等とよく言われましたが、普通に考えればパラリンピックが終了しないとタイミングとして難しいと思います。
オリンピックは終了したと言っても今回の発端が〝障害者を虐めた〟である以上、パラリンピックではより過敏にならざるを得ず、水を差す事になりますから。
私はまずそこまでは待ちたいと思っています。
会見が行われた場合、雑誌社からの証拠の提出やライター本人の釈明がなければ、小山田さんの発言が全てとなります。
そして世に出た情報が嘘であった場合には、彼がこれまでと同じ活動が行えるようになるレベルでの、マスコミやコメンテーターの謝罪を含まなければ終了にはなりません。
逆に、証拠が全て揃わなければ言い訳としか取らない人がいる事は容易に想像できますが、その場合は雑誌社を追及するのが正しい姿勢です。
会見がなかったなら、被害者とされる人が虐められたと思っていたとしても、謝罪文を出していれば本来は〝社会的〟には終了する話であり、これ以上叩く必要はありません。
本人に謝らなければ意味がないと言うならば、謝罪文には〝本人に連絡を取り直接謝罪したい〟と書いてあります。連絡が取れて受け入れられなかったとしても、後は当事者同士の話であり、外野が口を出す事ではありません。会えなかったとしても同じです。
本人に連絡を取っても傷口を広げるだけだと言う人もいますが、それも当事者の問題です。何故なら
その点について言及する人を少なくとも私は見た事がありません。攻撃者が常に小山田さんが〝許されない〟事を前提で話しているのには疑問が残ります。
また、この件について同じ経験のある人を刺激したという声もありますが、それは小山田さんだけが悪いのでしょうか?
確認しておかなかったJOC、沈黙したままの当の雑誌社、問題になったブログ、検証なく報道したマスコミ、間に受けて拡散・コメントしたタレントや識者、それに煽られた一般人。
無闇に人の目に入るような形にしたのは決して小山田さんだけのせいではありません。その点は責任転嫁ではないかと思っています。
本来マスコミは、検証、取材、時代背景、あらゆる面からひとつの物事を捉えてからでないと報道するべきではありません。憶測がひとり歩きするような今回の事態は普通ならあり得ないのです。エンタメ的な雑誌やワイドショーならともかく、公的なニュースを慎重に考察した上で伝えるはずの新聞や報道番組でさえ、エンタメ化しているようにしか私には見えませんでした。
しかも著名な識者までもが感情的にコメントしていた事には愕然としました。連続殺人事件のような大きな事件ですら、冷静にコメントしているのにです。
国民の半数が反対していた五輪だったからなのか、コロナ禍でのストレスが噴き出したからなのか、とにかくどこでも爆発的に感情が横行していた事に唖然としました。
敢えてTwitterの炎上に飛び込みましたが、その異常さを目の当たりにして、文字にここまでの殺傷能力がある事に恐怖を感じました。
木村花さんの出来事が遠い昔でも無いのに、こんなにも簡単に忘れてしまうのかと。
また内容の是非はともかく、その後に起こったメンタリストのDaiGoさんや、アーティストの大森靖子さんの騒動は、ご本人の口から出た確実な証言です。
それを考えると、小山田さんの場合は本来、ここまでのバッシングを受ける物であったのだろうかと違和感を覚えます。
ここまで書いて、ただの擁護という印象を持たれる方もいるかもしれませんが、一度冷静に考えて欲しいのです。「小山田」と言う主語を、貴方の敬愛する誰かに当て嵌めて。
そしてそれを守る為にその時、自分はどうするべきなのかを〝想像〟してみて下さい。
傷つける人、傷つく人が一人でも減る事を祈って。
DaiGoさんの発言内容云々は全然考察とかつぶさに反論する意味ねぇと思うのでしないんだけど、
(あーいうとんでもない考えの人いるんだなー、という感想をもつモラルがこっちにあるかないかが重要)
初期の弁明のなかで「これは辛口回なんで」(トークスタイルで辛口回/甘口回というのがあるらしい)という説明を堂々とするのが現代的だなぁと思った。
要するに「これはポリティカル・コレクトネスを無視したトークだったのですよ、もちろん大人だしちゃんと"どういう意見を持つべき"かはわかってますよ(例:テレビじゃこんな事言いませんよ)」という意味でなのだけど、これが多少なりとも弁解になると思っている点が興味深い。
これは逆に、根本的に善意・理想・良心の類は「社会的処世術、使い分けとして行われるものである」という世界観で生きてるってことなんだよな。
単純な、本能的な「善」とかなど存在するわけがない、という世界観に生きてる。
たぶんそうだと信じてしまう環境で育った、あるいは大人になってそういう世界観に浸かりすぎたのだと思う。
「辛口回だから~とかなんの弁明にもなんねーだろw」みたいなのは、単にDaiGoさん個人のお脳が回る回ってない話なので別に論じる価値なし。
守るべき「弱くある自由」 「不要なもの」とされる恐怖 中島岳志:東京新聞 TOKYO Web
https://www.tokyo-np.co.jp/article/3347
俺はこの問題をできる限り中立の立場で考察したいんだけど、こういう「自分が弱者になるかもしれないから、弱者を殺してはならない」論は「自分が弱者になったら殺して欲しい」という覚悟がガチでできている人(少しはいるものと仮定する)には通用しないのではないか。結局弱者を生かすべきか殺すべきか、各々の人生観の問題になるのでどれだけの知性を集めて議論しても決着はつかない、社会のその時点においてどっち派が強いかのパワーバランスで決まってしまうように思ってるんだけどどうか。
ソース:https://www.animefeminist.com/history-not-with-a-bang-but-a-letter-violet-evergarden-rewrites-traditional-world-war-i-narratives/
暁佳奈のライトノベルを原作とする京都アニメーションの名作、ヴァイオレット・エヴァーガーデンがネットフリックスで公開されたとき、初見の私が想像していたのは、Foreignerのヒット曲さながら、愛というものを知ってみたい少女の無邪気な物語だった。まさか号泣することになるとは。
ものの数分でその予想は裏切られた。
この作品は涙なしには観られない戦争ドラマであり、スチームパンクな歴史改変モノだったのだ。しかし、何よりもトラウマにまつわる物語だとわかった。
PTSDの歴史、1900年代初頭の文学作品における定形表現、そして人気ジャンルである「戦争物語」を、本作は、少女兵士を主人公とした上で見つめ直している。第一次世界大戦の歴史、とりわけ女性の歴史を振り返り、再解釈することで、かつての物語に対してフェミニスト的なテーマを根底に据えた新たな息吹をもたらしているといえる。
戦争物語という切り口からヴァイオレット・エヴァーガーデンを解説している人は珍しくない。例えば「Mother’s Basement」というYoutubeチャンネルでは、人情味を持って共感を表現し、ヴァイオレットの成長を描ききったシナリオの妙について見事な考察動画がアップされている。だが、トラウマや障害を抱えた少女が自信を持って活躍できるようになっていく様子や、いかにPTSDがリアルに描かれているかという点については、あまり取り上げられてこなかったように思う。
この点を踏まえた上で、テルシス大陸における戦争のモデルとなった、第一次世界大戦の基本事項を整理するところから始めようと思う。ざっくりと言えば、この大戦は1914年から1918年の間に起こったもので、何がきっかけとなったかは諸説ある。開戦とともに急速に戦火が拡大したけれど、1914年の冬までには終結するだろうというのが大方の見方だった。
その目算が外れたのは言うまでもない。戦争は4年も長引き、フランス、ドイツ、イギリスを中心とした各軍のインフラは、塹壕戦と呼ばれる、この時期に流行した新しい兵器や戦法に対応するための装備が圧倒的に不足していた。
兵士の多くが若く経験不足だったこともあり、戦いは想像以上に過酷なものになっていった。戦争から帰還した兵士たちの間には、「新しい」病気が蔓延した。俗に「シェルショック」と呼ばれ、後に「PTSD」や「PTSS」 (心的外傷後ストレス障害、外傷後ストレス状態)として診断されることになる、「男性ヒステリー」という病だ。
「ヒステリー」とは、当時、性別役割分担に厳格だったヴィクトリア朝時代に用いられた医学用語で、今で言うところの鬱病、不安神経症、心的外傷後ストレスといった精神疾患全般を表すものだったが、適用対象はシス女性がほとんどだった。そのため、「ヒステリー」扱いされた兵士たちは周囲から男失格のレッテルを貼られ、つまはじきにされる結果となった。
兵士だけではない。第一次世界大戦に参加した国々とその植民地は、集団的なトラウマに苦しんでいた。とりわけ顕著なのはドイツで、戦争への参戦とその後の経済低迷の影響から、ナチスの台頭を許すほどだった。フランス、イギリス、ドイツのメディアでは、この大戦は未だ主要なテーマであるし、世界各国の兵士とその家族が残した手紙は今なお読むことができる。
この大戦が世界に与えた影響は計り知れず、文学や歴史、そして現代の戦争にも様々な影響を及ぼしている。だが、ここで重要になってくるのは、戦争にまつわる有名な物語や歴史で描かれるのは男性ばかりなのに対し、本作の主人公であるヴァイオレット・エヴァーガーデンは女性兵士ということだ。
男性ばかりなのは当然、当時の軍隊で中心的な役割を担うことができたのは男性だけだったからだ。例外としては、第一次世界大戦において戦闘に参加した唯一の女性イギリス兵、フローラ・サンデス(セルビア軍所属)や、マリア・ボチカリョーワという若い女性が隊長を務めた、「ロシア婦人決死隊」と呼ばれるロシア軍の小隊などが挙げられる。
だが、第一次世界大戦で軍隊に従事した女性の多くは、戦場で看護師として働くか、工場で働くなどが一般的だった。例えば、アメリカの「ヨーマネッツ」や「ハローガール」と呼ばれる女性たちは、銃こそ持たなかったが、電信技師やカモフラージュデザイナー、魚雷組立工など、幅広い仕事によって戦争を支えた。
軍に従事した女性たちにも多くの物語があったにもかかわらず、戦争物語のフィクション作品はほとんどが男性中心となっている。女性はもっぱら脇役として登場し、戦死した兵士を嘆き悲しんだり、恋人役だったり、あるいは…良からぬことをされる。言ってしまえば、男性キャラクターを成長させるための舞台装置であり、そのためだけに殺されてしまうことも少なくない。
ヴァイオレット・エヴァーガーデンの世界においても、戦闘や戦争は男の仕事であり、女性はもっぱら「受動的」な役割に追いやられている。だが、ヴァイオレットは他とは異なり、女性であるだけでなく、兄ディートフリートから弟ギルバートへ「プレゼント」として押し付けられた「道具」という扱いであることから、注目すべき例外と言える。ヴァイオレットはモノ化されているのだ。殺人こそがヴァイオレットの生かされる理由であり、ギルバートの命令に従うことが唯一の生きる意味なのだ。
こうした虐待と、戦争でギルバートを失ったトラウマ、そして戦場で目にした暴力が相まって、ヴァイオレットは明確なPTSDを抱えることになる。作品を通して、ヴァイオレットは次のようなPTSD特有の症状をいくつも示している。
これらの症状は、娘を亡くして嘆き悲しんでいる作家、オスカーのために手紙を書いた後、はっきりと立ち現れてくる。戦いの中で自分がしてきたことを理解し始めたヴァイオレットは、戦場のフラッシュバックに苛まれ始める。
最終的に、ヴァイオレットはギルバートを探すために戦地を訪れる。ギルバートを見つけられなかったことで深い絶望に陥ったヴァイオレットは、自殺を試みる。退役軍人の自殺リスクは現在も高く、自殺者数は戦死者数を上回っている。
第一次世界大戦の歴史を描いた物語の多くがそうであるように、ヴァイオレットが抱えるテーマも、いかにして心的外傷後ストレスに立ち向かうかという点に重点が置かれている。このことは、作品の構成にも反映されている。
ストーリー序盤におけるヴァイオレットは、戦地での負傷から立ち直ろうとする、感情を失った少女だった。しかし、第7話でホッジンズが警告したように、ヴァイオレットの記憶は「(自身を)燃え上がらせる火」であり、いつか「たくさん火傷している事に気付く」ことになるものだった。そして、ヴァイオレットはそれに気づいてしまう。戦場で過ごした日々を思い出すたび、ヴァイオレットだけでなく、視聴者までもがフラッシュバックを体験することになる。
しかし、「女々しさ」とか「弱さ」といったPTSDに対する従来の見方とは異なり、ヴァイオレット・エヴァーガーデンはヴァイオレットのシェルショックを丁寧に扱っている。ヴァイオレットが自動手記人形の仕事を通して他人に共感してきたのと同じように、この作品は視聴者にもヴァイオレットへの共感を求めているのだ。
ギルバートの死を否定するのをやめ、自身のトラウマを受け止めたヴァイオレットには、PTSDから立ち直るための長く険しいプロセスが待ち構えていた。トラウマ研究では、これを「心的外傷後成長」と呼び、ネガティブなもの(停滞、衝動的な行動、否定)と、ポジティブなもの(前進、対処法の獲得など)の2種類に分けられる。
ヴァイオレット自身にとっても視聴者にとっても幸運なことに、ヴァイオレットの心的外傷後成長はおおむねポジティブなものだった。自動手記人形として人と一緒に働くうちに、自分の感情を受け入れ、なぜそのような気持ちになるのかを考えて納得できるようになったことで、ヴァイオレットは回復の道を歩み始める。
さて、本作のいわゆる「今週のお客様」エピソードの中には、「戦争で失った恋人を恋しがる女性たち」というお約束的展開をそっくりそのまま踏襲しているものがあるが(OVAがその好例)、一応付け加えると、この展開自体が本質的に悪であると言いたいわけではない。OVAでは、第一次世界大戦中に多くの女性が体験した出来事がリアルに描かれており、膨大な量の手紙が世界各地に送られたという点も史実に忠実となっている(手紙の多くは歴史的資料として残存している)。
しかし、ヴァイオレット自身は、作品を通して、そのような歴史的・文学的な流れに逆らっている。
ヴァイオレットは家に帰ってきたが、想い人は帰ってこなかった。
兵士は、新たな傷を負って帰ってきたのだ。
そして、ヴァイオレットはその生い立ち故に、想い人を亡くしたクライアントと、亡くなった想い人の両者に共感することができる、いわば、境界的な立ち位置の人物といえる。「民間人」と「軍人」、「女性の世界」と「男性の世界」、「家庭」と「軍隊」、そういった境界の中でこそ、ヴァイオレットは真に花開くことができるのだ。
ヴァイオレットの境界的な立場は、自動手記人形の仕事においてユニークな強みとなっている。作中の時代設定と同時期に当たるヴィクトリア朝時代や第一次世界大戦期は、タイピストやゴーストライターになる女性が急増した時期であり、ヴァイオレットも当時の女性たちと同じく、この波に乗っていると言える。
こうした女性たちは、「媒体としての女性」というお約束的表現として文学に登場するようになった。彼女らは、タイプライターや電信機、さらには速記法を用いて、人々の思いを目に見える形にし、様々なメッセージを伝えるという役割を担っていた。哲学者で文学理論研究者のマーサ・ヌスバウムの言葉を借りれば、「目的のために使われる道具」としてモノ化されることも多かったが、家父長制の世界を生きる多くの女性にとって、この種の仕事は、生まれてはじめて主体性を獲得できる場でもあった。
ヴァイオレットの当初の動機は、初めて手にした主体性を社会で活かそうとしたヴィクトリアン朝の女性たちとは若干異なっている。自動手記人形を志したのは、他者を理解したい、そして何よりも、少佐の最期の言葉を理解したいという目標を叶えるためだった。そして、人々の思考や感情の「媒体」としての立場を通じて、自分の感情をよく理解し、虐待やトラウマを乗り越え、主体性を獲得することができるようになっていく。
第一次世界大戦や、そこに至るまでの過程を題材とした文学作品によく見られる、「媒体としての女性」という定形表現とは異なり、ヴァイオレットが主体性を持つことができたのは、その境界的な立場ゆえである。戦争に巻き込まれる家庭の立場、戦争を戦う軍隊の立場、その両者に対して共感、理解できるという強力な武器を生かすことで、戦争をテーマにしたアリアの歌詞を書くために戦死した兵士の手紙を研究したり、嘆き悲しむ父親のために文字通りの意味で媒体となったり、兄弟の絆を取り戻す手助けをしたりと、ヴァイオレットは単に人の気持ちを左から右に渡す中継役ではなく、自らの手で変化をもたらす主体となっている。
ヴァイオレット・エヴァーガーデンと史実の違いは、これまでメディア等で描かれてきたタイピストや媒体役の職業人たちが受け身の存在と見なされてきた一方で、ヴァイオレットは周囲の人々の物語に積極的に関わっているという点にある。こうした活動を通じて人々の成長を助けていく中で、ヴァイオレット自身にも成長が見られるようになっていく。
第11話では、その成長がはっきりと見て取れる。過激派の部隊を立ち退け、銃弾に倒れ死に瀕している兵士、エイダンの最期の言葉を記録し、訃報の知らせと最期の言葉を家族の元へ届けに行くという、物悲しいエピソードだ。戦争の両側面への共感を要するこの仕事を全うしたことで、ヴァイオレットはようやく自分や他人に対して素直に悲しむことができるようになる。ギルベルト少佐の死をきちんと悼むことができるようになったのも、ここからである。
単なる道具でしかなかったヴァイオレットが、今や積極的に自らの心的外傷後成長を促進しようとしている。これは、従来の戦争物語や、シェルショックや女性タイピストにまつわる歴史に対する新鮮かつ現代的なアプローチといえるのではないだろうか。
ヴァイオレット・エヴァーガーデンは第一次世界大戦に大きく影響を受けており、史実によるものから、文学から引用されたものまで多岐にわたる。PTSDに対する思いやりあふれる描写然り、「媒体としての女性」という定形表現に対する批判然り、この作品は、歴史上の極めて重要な時代—最後の退役軍人が亡くなり、徐々に記憶から忘れ去られつつある時代—との対話の上に成り立っている。
だが、家庭内の物語と戦争の物語をブレンドし、両ジャンルに共通する定番の展開を巧みにひっくり返したという点で、ヴァイオレット・エヴァーガーデンのファンタジー世界は、オマージュ元の戦争物語と趣を異にしている。スチームパンクなファンタジー世界という舞台の上で、使い古された展開を別な角度から見つめ直すことで、進歩的な物語を紡ぎ出しているのだ。
退役軍人の描かれ方、精神疾患、女性の物語、こうした事柄を尊敬の念を込めて丁寧に扱うことで、戦争やトラウマにまつわる従来の物語をいかに語り直すか、その基準点をこの作品は確立したと言える。戦争やトラウマにまつわる物語も、より包括的で、健全で、私たちに活力を与えてくれる存在たりえるのだ。それが、従軍した兵士や亡くなられた方々に対する、せめてもの追悼でもある。
「戦争は決して変わらない」とよく言われる。だが、ヴァイオレット・エヴァーガーデンが示してくれたように、その語り方を変えることができるのは確かだ。
まあそれはおいといて
雑誌全体として論理の整合性をとることを図るのは別の人の仕事でいいと思うよ
俺は漫画の現状が気にかかったからそれについての雑感を吐いただけ。そういう言説で興味外の事象が考慮されないのは当然。
構造化プログラミングという概念もあるんだし、ミクロなことをはたとえば俺みたいな人間が考えて、そういったものをひとまとめにしより大きな類として統合的に考察するのはまた別の人がやればいいんだよ。
興味無い物・見たくないもの手あたり次第に突っ込んでる
「そろそろ本当に何も通用しなくなったって感じ」
「義務教育ってムダじゃないですか?」中学生で月収1000万円
1日外出録ハンチョウ
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学のない自分には過去の経緯(思想や実験、事例)を引き合いに言説に対する考察を深めてくことはできないから、こういう記事書ける人すごいなーと思う。
ただ、その一方でDaiGoの言ったことが一顧だにされるべきでもなく、彼自身が絶対的な邪悪なのかというとそれはどうかな、とも思ったので書いておく。
今の時代、思想ではそれが適切であり正しいとされてるものでも状況が変わればそうとも言えなくなるのでは?と思う。
例えば共助的側面を持つ年金制度は奇跡的な運用益を継続しない限り、実質的な破綻になってると思うんだけど、
それは同様に医療保険や生活保護などでも起こり得ることなんじゃないかな?
そうなったときにもしかすると弱者の救済が実質的に行えなくなり、価値観もそれに合わせて変化するようなこともあり得るのかなと。
人口バランスの崩壊したり国が貧しくなったり今回の新型コロナウイルスのような従来の生活や経済活動が行えなくなったとき、
最低限保証するべき国民の生命と財産の保護ができなくなり「政治的トリアージ」が発生したりすることもあるのかなとか。
当然、大前提としてDaiGoの発言が現在の制度、価値観的に問題外なのはわかるけど、
だからといってそれを一方的に、自分が絶対的な正義の立場で叩くのもまた違うのではないかなと今後の自分への注意も含めて残しておこうと思った。
やっぱり100文字のブコメではおかしいと思うことへの提言と、それと合わせた自省までを入れるには短すぎて一方的な批判になってしまいがちだよね。