はてなキーワード: QJとは
このオカシイというのは倫理的なものじゃなくて、コンテキスト的なおかしさのこと。端的に言うと「だせぇ陰キャが流行りの鬼畜系の真似をしてみたイキリ」だ。
https://anond.hatelabo.jp/20240724141703
最近で判り易い例で喩えると、石原伸晃が報道ステーションに出て「ナマポゲット~」とか医療費削減の為に安楽死がいいとか言ってたヤツ。あれだ。
若しくは駅員の注意に弱そうな撮り鉄が細い声で暴言吐いてるのとか、江ノ電ニキに「金か?金なんだろ」と細い声を張り上げてるあれの同類。
伸晃の場合はネットに触れるようになって良い年したオヤジがネトウヨ系サイトに感化されてるのが明白で、当時としても「バカじゃねーのこいつ」と思った人は多かろう。特にネットをよく使う人なら文脈をよく知っているからおさらだ。
だから小山田のQJ記事についても「バカじゃねーのこのダサ坊」という扱いであった。少なくとも神保町の書泉ブックマート地下一階でQJ立ち読みした増田はそう思った。その理由を記す。
90年代の少年マガジンは不良と暴力に全振りしていて、暴走族の抗争とか集団でリンチして半殺し、不良同士の抗争で殺人、それへの復讐というようなマンガで埋め尽くされていた。
そうなると実際の不良文化にも影響は出てきて、どこそこの生意気な女を輪姦してやったぜとか友達の友達が喧嘩で相手の頭を執拗に殴って耳血が出て意識不明とか、そういう自慢が横行していたワケ。
自分が暴力的だ、と云う以外に暴走族や池袋のチーマーなど暴力で傷害、殺人を犯した人間と繋がっている、というのが自慢になり得たワケだ。
同時に鬼畜系というコンテンツも流行ってたのだが、これは背後に外連味があるものだった。「夜想」とか「WAVE」とか「〇〇評論」とか、文化評論系のA5版雑誌が流行していて、それらは外連味が溢れるサブカルものだったのだが、その雑誌群の編集者が興したのが鬼畜系だったのだ。
その代表人物で自称中卒工員の精神障碍者の村崎百郎は『夜想』などの編集者で、外連味サブカルの中心に居る人物でもあった。後に自身が精神異常者だとの嘘を恨まれた読者に殺される事になったが、相応しい最期と言えるかもしれない。
『危ない1号』の青山正明なども模試成績一位になった事がある元優等生であった。因みに青山はロリコンブームの仕掛人でもある。
鬼畜系はゴミ漁りによる個人情報漁り、麻薬、精神世界(綺麗じゃない糞尿垂れ流しの方)、奇形趣味、身体欠損、時代遅れになっていた新左翼セクト、変態セックス(特に獣姦など)を扱っていた。
だが、wikipediaの「鬼畜系」の項には過去の変態春画や無残絵、宮武骸骨などが載っているように、「高尚な文脈」で関連付けがされうるもんである。それは単に良識人が目を逸らす悪趣味の羅列じゃなくて外連味サブカル編集者達が興したブームであり計算されたものであったこと、それまでの文脈を踏まえていた事、それによって高尚な文脈の中で論じることが知的であるという文脈が惹起されるからに他ならない。
マガジンみたいな馬鹿向け暴力賛美と、知的に思われたいがそれは隠したい、自身を個性的と思いたい馬鹿向け鬼畜系、二つの路線が同時に存在するとその中間の路線も活性化する事になる。
それで鬼畜系の中からドラッグやタトゥーなどだけを特集したより実践的な雑誌群が刊行されるようになった。実践的というのは、実際にタトゥーを入れたり骸骨アクセサリをジャラジャラさせたり、アムステルダムで実際に飛びツアーをしたりという実際のファッションやライフスタイルと結びついていたから。
こっちはワルだけどチーマーや暴走族みたいなバカはやりたくない、或いはファッションワル向けだね。
さてそうすると今でいう陰キャとかオタクっていうのはこういうのに絡んでこないって事になる。鬼畜系とは親和性が高そうだが、なに分にもぶっ飛びすぎていて真似するのは難しい。
創刊号はよくあるサブカル雑誌という感じ。だが3号くらいから迷走をはじめるのである。
芸能人のインタビューを入れたり、オウム事件を扱ったり。芸能人の記事を入れるのはメジャー路線化だ。多分1-2号が売れなかったのだろう。一方でオタク路線にも足を踏み込んでいた。その甲斐あって10号でエバンゲリオン特集が組まれてそれで話題になるのであった。
で、こういう迷走と試行錯誤の始まりに収録されたのが件の問題の小山田インタビューだったワケだ。
そもそも小山田のコーネリアスは渋谷系に分類されるが、アンテナショップ的役割のタワーレコード渋谷店でもWAVE渋谷でも「渋谷系」の棚なんて無かった。商業主義のHMVには渋谷系のコーナーがあったが、渋谷に来る若者には「渋谷系」なんて恥ずかしいものだったわけだなw(カヒミカリイやピチカートなどは除く)。
そんな渋谷系の彼がQJに登場して自慢したのが件の障碍者虐めであったワケ。
これはかなり見てられない。そもそもそんな良くない事をすでにメジャーデビューしてる小山田がわざわざいうのは自慢であって、鬼畜系や暴力系標榜のアピールだったのである。
そもそもタトゥ入れまくりだの、悪趣味鬼畜系だのというのは、自分が社会の規範から外れている、反逆しているとのアピールが含まれている。そこで「学校での」「虐め」体験を語るというのは、学校というレールから外れずに来た子供のままで「デビュー」していないという事であって、かなり痛々しい、背伸びした陰キャの行為だ。いかにも悪ぶった陰キャの自慢という痛さに満ちている。
政治家のガキとして不自由なく育って齢50過ぎになってネットに触れて悪ぶって「ナマポゲット~」とか言ってた伸晃の痛さと相同である。
そういう訳でして、小山田の発言は当時の悪趣味、反良識の文脈を踏まえたものだったというのは確かにそう。
でもそこで学校での虐めを誇るというのは当時としても痛々しいし、背伸びしてそれかよというモンであって単に陰キャのイキリでしかない。実に恥ずかしい。
そしてそれが原因で後年に大舞台の公職を解かれるに至っては自業自得の上にバカの屋上屋を架すと言った代物であり、撮り鉄江ノ電ニキ罵倒大会に伸晃(50代)が混じって「金だろ?ナマポゲット~」と一緒に叫んでるような恥ずかしさとバカの煮凝りの如しだと思うのである。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/fuydjciho.hatenablog.com/entry/2021/09/17/130909
paradisemaker インタビュー記事で露悪的にいじめを語り、それを20年放置してたくさんの人を巻き込んで大炎上した人の弁明を真に受ける人、「いい人」なんだろうなと思う
paloalto60 過去の記事と文春の記事のどっちが正しいなんてわかんないし、折りに触れ話題になってたのに釈明なかったことを考えれば、「そんなことなかったんです」が帳尻合わせの嘘だと思われてもしょうがないでしょ。
kenjou 炎上した人の自己弁護を検証もせずに真に受ける人って、なんというかちょろいよね。人間は自分の立場を守るためなら平然と嘘をつくこともある生き物なので、そのまま信じる気にはなれない。
あの、あなたがたちゃんと記事全文見てます?あとインタビュイーのことわかっです?
そこらの文春記者じゃなくて中原一歩さんが文春に持ち込みをかけた記事なんですよこれは
https://twitter.com/ipponakahara/status/1438104648112427012?s=20
小山田圭吾さんの文春インタビュー、企画を持ち込んだのは私です。吉田豪さんじゃなくスミマセン。私、「コーネリアス」も「フリッパーズ・ギター」も一度も聞いたことありません。私の1995年はヤクザのおやっさんが仕切る屋台のラーメン屋で働いていました。「渋谷系」など全く縁のない人生です。
https://twitter.com/ipponakahara/status/1438104653384667136?s=20
あと数週間かけていじめの舞台となった和光学園の当時の同級生等を取材した事実も追記しておきます。小山田氏本人が障がい者を一方的にいじめた」「ある特定の人物をターゲットにして執拗に攻撃した」という類のエピソードは現段階では確認できませんでした。
またそれと別に多くのアーティストやバンド、音楽ファンが「ロッキング・オンは原稿のチェックをさせない」という発言をしている(小山田騒動の前から散見されるほど有名な話)
https://twitter.com/tsurugimikito/status/1416773576770740229?s=20
https://twitter.com/jsato_FLEET/status/29391640706?s=20
https://twitter.com/02tabiken02/status/409334191025704963?s=20
そして緊縛オナニーの話は「当時の」QJで既に小山田が否定しているというか本人は怖くて止められなかったという発言をしている
これらの状況を顧みて「信じても良さそう」と思ってるだけなんだけど?
中身も何も確認せずしてくださいよと言ったら「犯罪者の言うことに耳を貸す義理はない」「なんで金を払わないといけない」なんていうお前らのほうがよっぽど信用できねーよ
んでこっちも小山田無罪なんて思ってなくて「やってないことまで責めるのはおかしくないか?(とくにウンコネタはたくさんの人たちが言及してた)」ってだけなのに「いい人」なんて冷笑的な皮肉を放つとかすっごいいじめっこ気質ですね最初の方
こっちものほほんと「ああ小山田さんが言うならそうなんだー」って飲み込んでるわけじゃねーんだよボケ!
はてなのひとたちはいじめは殺人より重罪なので何があろうと情緒酌量の余地なし、人民裁判で死刑上等なんですな、立場が違えば一瞬で喜々としていじめる側に回りそうですね、ていうかもうなってるか、毎度毎度ブクマで有名人に安全圏から石投げてますからね
以下は小山田圭吾さんの辞任騒動をきっかけに、SNSの問題やマスコミの姿勢についての疑問、虐めの本質とは何かを私なりの視点で考えた物です。
本来はTwitterで呟くつもりでしたが、かなりの長文となってしまいましたので、こちらで書く事にしました。
基本私はTwitterであまり呟く事はないのですが、ファンである小山田さんの擁護をきっかけに今回の炎上の渦中に入りました。
そんな私のツイートにリプして来た人の殆どが汚い言葉を使い、怒りの感情をぶつけて来ました。私はそれを〝攻撃〟と呼び、ミュートやブロック等でスルーしましたが、冷静に対話出来ると感じた人とは出来る限りやり取りしていました。
そうしたリプの中に、障害者と直接接触する機会がなかったのか、TVドラマによくある表現に影響されたのか、「障害者は純粋である」とか、障害者はとにかく「被害者となる対象(弱く可哀想な人)だから優しくしろ」と思い込んでる人が多い印象を受けました。「障害者が小山田の音楽を聴く訳がない」と言う人もいました。
しかしそれこそが私は差別的だと常々思っていて、それを今回の辞任騒動で再認識しました。
障害者の中にはして貰って当たり前の態度の人もいれば、席を譲る等の声かけに強く拒む人もいるし、嘘をつく人もいます。多様な人格や価値観があるのは健常者と一緒です。
(その点ではQJを見る限り、小山田さんは障害者である沢田さんを事細かに観察し、〝探究心〟で接しています。先入観なく人を知ろうとする姿勢そのものは、虐めはともかく差別はしていないと思います。)
それを想像せずに叩いて来るのは〝正義感〟ではなく〝傲慢〟であり、自己中心的な価値観の〝押し付け〟でしかありません。
そもそもSNSにおいて、なぜただの擁護者までも攻撃するのでしょう。それはまるで、殺人犯の家族まで同罪のように扱うのと同じ事です。
いえ、元々そう言う思考を持っている人達が攻撃しているのかもしれませんが。
攻撃は問答無用で人を傷付ける事ができます。その武器が言葉なら、傷が目に見えない分だけどこまでも攻撃でき、相手が死のうとする迄のダメージを与えていても気付かないのです。その行為こそが「虐め」そのものなのに。
誰かを虐める理由のひとつとして、相手と同じ立場に立った時の想像力が欠けている〝経験の浅さ〟があると思います。それだけなら大抵は躾や注意で改善されるでしょう。
それが駄目なら実際にその立場に立った時にしか気付けないかもしれません。
他には承認欲求が満たされないストレスがその行為に繋がっていると見られるパターン。
劣等感は内に向く人と外に向く人とがいて、内に向く人は自分に自信がなく自分を責めて病む。外に向くと他人を見下したり攻撃的になりやすく、虐めに発展しやすくなる。
劣等感の元は無意識下にあるので、罪悪感が伴わないのではないでしょうか。
最近になって本当にケアが必要なのは虐める側だと言われていますが、そこに本質があると思います。無意識にストレスが存在したままの人は、今回のような出来事がスイッチとなり、ヒステリーを起こすのでしょう。
虐められる側には理由がなく、仮にあったとしても虐めていい理由にはなりません。だから世間は虐めを許さないと言う。学校や会社と言う限られた世界でそうならば、今回の件は異常なまでの規模での虐めです。
しかも真実の検証も本人の説明の時間もない完全に不利な状況で始まっているのです。
それをマスコミはこのまましれっと終わらせようとしている空気になっていますが、私自身は謝罪しない限り許す気はありません。何が出来る訳でもありませんが。
煽られた攻撃者は個人なので、私が何かを要求する義理はく、真実が世に出た時は黙っていればそれでいいと思っています。ただ、最初に誤情報を拡散した人は別ですが。
ここまでで私が言っている事は虐めを容認している訳ではないと解るはずですが、そうでない人は読解力が足りないと言っておきます。
どんな場合でも相手を理解しようとする姿勢で対話しなければ、お互いの考えや価値観を知る事はできません。その上で解り合えなかったとしても、認め合う事はできます。
いきなり断罪しては真実も何もあったものじゃ無い。まだ「真実」には辿り着いていないのだから。
現時点で検証しているのは擁護側(しかも個人)だけで、本来は攻撃側もしなければなりません。QJ全文を読んだけど印象は変わらなかったと言う人がいますが、それは検証ではなく文字通り〝印象〟で留まっているだけに過ぎません。
しかし、双方が検証をしてもやはりまだ〝検証〟の段階でしかなく、何割が、どこが嘘か真実かは
それら全てが揃って始めて〝真実〟と呼べるのではないでしょうか。
こういう事を書くと「汚名を晴らしたいなら本人が会見すればいいじゃないか」等とよく言われましたが、普通に考えればパラリンピックが終了しないとタイミングとして難しいと思います。
オリンピックは終了したと言っても今回の発端が〝障害者を虐めた〟である以上、パラリンピックではより過敏にならざるを得ず、水を差す事になりますから。
私はまずそこまでは待ちたいと思っています。
会見が行われた場合、雑誌社からの証拠の提出やライター本人の釈明がなければ、小山田さんの発言が全てとなります。
そして世に出た情報が嘘であった場合には、彼がこれまでと同じ活動が行えるようになるレベルでの、マスコミやコメンテーターの謝罪を含まなければ終了にはなりません。
逆に、証拠が全て揃わなければ言い訳としか取らない人がいる事は容易に想像できますが、その場合は雑誌社を追及するのが正しい姿勢です。
会見がなかったなら、被害者とされる人が虐められたと思っていたとしても、謝罪文を出していれば本来は〝社会的〟には終了する話であり、これ以上叩く必要はありません。
本人に謝らなければ意味がないと言うならば、謝罪文には〝本人に連絡を取り直接謝罪したい〟と書いてあります。連絡が取れて受け入れられなかったとしても、後は当事者同士の話であり、外野が口を出す事ではありません。会えなかったとしても同じです。
本人に連絡を取っても傷口を広げるだけだと言う人もいますが、それも当事者の問題です。何故なら
その点について言及する人を少なくとも私は見た事がありません。攻撃者が常に小山田さんが〝許されない〟事を前提で話しているのには疑問が残ります。
また、この件について同じ経験のある人を刺激したという声もありますが、それは小山田さんだけが悪いのでしょうか?
確認しておかなかったJOC、沈黙したままの当の雑誌社、問題になったブログ、検証なく報道したマスコミ、間に受けて拡散・コメントしたタレントや識者、それに煽られた一般人。
無闇に人の目に入るような形にしたのは決して小山田さんだけのせいではありません。その点は責任転嫁ではないかと思っています。
本来マスコミは、検証、取材、時代背景、あらゆる面からひとつの物事を捉えてからでないと報道するべきではありません。憶測がひとり歩きするような今回の事態は普通ならあり得ないのです。エンタメ的な雑誌やワイドショーならともかく、公的なニュースを慎重に考察した上で伝えるはずの新聞や報道番組でさえ、エンタメ化しているようにしか私には見えませんでした。
しかも著名な識者までもが感情的にコメントしていた事には愕然としました。連続殺人事件のような大きな事件ですら、冷静にコメントしているのにです。
国民の半数が反対していた五輪だったからなのか、コロナ禍でのストレスが噴き出したからなのか、とにかくどこでも爆発的に感情が横行していた事に唖然としました。
敢えてTwitterの炎上に飛び込みましたが、その異常さを目の当たりにして、文字にここまでの殺傷能力がある事に恐怖を感じました。
木村花さんの出来事が遠い昔でも無いのに、こんなにも簡単に忘れてしまうのかと。
また内容の是非はともかく、その後に起こったメンタリストのDaiGoさんや、アーティストの大森靖子さんの騒動は、ご本人の口から出た確実な証言です。
それを考えると、小山田さんの場合は本来、ここまでのバッシングを受ける物であったのだろうかと違和感を覚えます。
ここまで書いて、ただの擁護という印象を持たれる方もいるかもしれませんが、一度冷静に考えて欲しいのです。「小山田」と言う主語を、貴方の敬愛する誰かに当て嵌めて。
そしてそれを守る為にその時、自分はどうするべきなのかを〝想像〟してみて下さい。
傷つける人、傷つく人が一人でも減る事を祈って。
何とも不思議なことである。小山田圭吾ファンたちは彼ら自身、長年に渡って「小山田圭吾がイジメをしたことは事実」と認めた上で「過去にイジメをしていようが、それがどうした。そんなことは気にしない。これからも変わらず、自分たちは小山田圭吾のファンを続ける」と言っていたはずである。
小山田圭吾がイジメの加害者であったことは、小山田やファンにとって恥ずべき過去ではなく、むしろイケてることの証し、ステイタスであるかのように本人もファンも振る舞っていたはずである。
それが、東京五輪をきっかけに幅広い批判を受けるようになった途端「記事の原文を読むと印象が変わる。小山田圭吾はイジメをしていなかった」と言い始めたのである。
現在に至っても小山田圭吾を擁護することを諦めていない人間たち(北尾修一や沢田太陽など)が用いているのは「小山田圭吾と被害者との間には友情が成立していた。小山田圭吾には害意や悪意は無かった。だから、小山田圭吾のしたことはイジメではない」という論理である。
小山田圭吾を擁護しているサブカル業界人には「いい歳をした中高年の男性たち」が目立つ。それとは対照的に、小山田圭吾を擁護する女性の姿は殆ど見られ無い。小山田圭吾に対する態度には、男女の差がある。
その理由は、大きく分けて2つある。
一つは、そもそもサブカル系マスメディアの現場では、昔も今も男性中心主義の体質が極めて根強く、編集長や幹部編集者を務める女性の数が圧倒的に少ないということである。それが、Quick Japan(QJ)やRockin' On(RO)に掲載された小山田圭吾のいじめに関する記事の当事者として証言する女性の数の少なさ、小山田圭吾や村上清を擁護する女性の数の少なさに反映されている。
もう一つの理由は、現代の日本で暮らす多くの女性にとって「性的強要/セクハラ/ストーカー/DV/性的犯罪」による被害が、深刻かつ身近な脅威として存在していることである。これらの犯罪の加害者が被害者に対して一方的な好意を抱いていたり、その感情を被害者に対して告白するのは、頻繁に見られる現象である。このような経験や知識は、男性よりも女性の方が豊富である。したがって多くの女性は、加害者側が被害者に対して一方的に好意的な感情を抱いているからといって、それが犯罪の加害性を免除したり正当化する理由になど成り得ないということを知っている。だからこそ、北尾修一らが用いる「小山田圭吾は被害者に対して好意的な感情を抱いていた(だから、アレはイジメではない)」などという詭弁を肯定する女性は少ない。
北尾修一らが発表した、加害者側の一方的かつ身勝手な論理に基づいて小山田圭吾を擁護しようとする記事は、現代においてもサブカル系マスメディアは男性中心主義の巣窟であり、女性の存在が蔑ろにされていることを強く示唆している。
小山田圭吾の障害者虐待に関して執筆されたQuick Japan(QJ)やRockin' On(RO)の記事、そして北尾修一によって発表された村上清と小山田圭吾を擁護するブログ記事を読んで、改めて感じたのは「自分たち(=サブカル業界人)の欲求や愉悦のためには、他者の尊厳を踏み躙ること、他者に負担を負わせることを何とも思わない」と云う、昔も今も変わらないサブカル業界人の自己中心的な体質です。そして、この体質は、町山智浩ら旧体制『映画秘宝』と瓜二つです。
件のQJ連載記事『いじめ紀行』の中で村上清は「イジメはエンターテイメントだ!」と明言しました。それが本当ならば、村上清は何故、彼自身をイジメた加害者を取材しなかったのでしょうか?何故、村上清は、彼自身をイジメた加害者を探し出し、彼(ら)を取材して、村上をイジメた時に加害者(ら)が覚えたであろう興奮や愉悦、或いは村上自身が舐めた辛酸や屈辱感について、詳細にレポートしなかったのでしょうか?何故、村上清は加害者(ら)と「アレはヤバかったよね(笑)」と、いじめトークで盛り上がらなかったのでしょうか?村上清が言う「救いが無いことも含めて、イジメはエンターテイメントだ!」と云う主張が本物ならば、村上にはそれが出来たはずです。
もちろん、村上清がそれをしなかった/出来なかった理由は分かりきっています。本当は「村上清にとってイジメは、決してエンターテイメントではなかった」からです。記事を執筆した当時の村上清は、彼自身をイジメた加害者に対して、依然として恐怖感や忌避感を抱いていたのです。
本当は村上清は、彼自身をイジメた加害者にリベンジしたかったが、それは村上には出来なかったのです。本当の加害者へのリベンジが出来ないことは、村上清にとって大いなる屈辱であり、劣等感の源でした。その代償行為として『いじめ紀行』を執筆し、それを通じて仮想的に加害者となることで、被害者としての屈辱感を解消しようとしたのです。
この村上清の行動は、見れば見るほど町山智浩ら旧体制『映画秘宝』と瓜二つです。
小山田圭吾に対する世間の批判が高まった後、町山智浩はTwitterで「悪趣味・鬼畜系カルチャーの原動力は、電通・ホイチョイ・フジテレビ的なカルチャーへの対抗心だった」と云う主旨の発言を行いました。また町山智浩だけでなく、旧体制『映画秘宝』全体が、ジョックス(米国スクールカーストで上位である体育会系)に対する怒りと憎悪を撒き散らしていたことは周知の事実です。
では町山智浩らは、その電通・ホイチョイ・フジテレビ・ジョックスに対して復讐したでしょうか?していません。町山智浩らの怒りや憎悪を向ける本来の相手である、電通・ホイチョイ・フジテレビ・ジョックスには町山らの力では敵わないから、その鬱憤を晴らす代償行為として、女性や同性愛者やアニメ愛好者を攻撃して、憂さ晴らしをしていたのです。或いは『映画秘宝』内部のカースト下位の人間(ギンティ小林等)に対してパワハラやイジメをして、いじめ加害者としての立場を楽しんでいたのです。
そして、町山智浩による筋違いな鬱憤晴らしは、今なお止むこと無く続いています。現在も町山智浩は、女性差別・蔑視発言や同性愛者差別・蔑視発言を繰り返しています。
このように比較することで、悪趣味・鬼畜系であろうがなかろうが、また90年代から変わることなく現在も、サブカル業界人たちは、恨み(?)を晴らすべき本来の相手に敵わないが故に、その鬱憤を晴らすために「弱そう/反撃してこなさそうな相手」を選んで攻撃している卑怯者たちであることが理解できると思います。
この投稿は、以上です。
ロッキンオンのライターの創作だろうってYoutubeで吉田豪が語ってた。
時間かけて取材したQJの記事の方には、ウンコ食わせたって話はなくて、オナニーは先輩がやらせているのを見て引いたという話しか載ってないから。
それが強調されて話が広まってるのはかわいそうだって。
あとロッキンオンのインタビューは金もらって書いてる広告だから、原稿チェックなしで載せることになっていて、それで事態になったって。
東京五輪を契機に、小山田圭吾と村上清によるQJの連載企画『いじめ紀行』が再読されるようになったことで、急にサブカル業界人たちが訳知り顔で「これから自分たちも考え直していかなければいけない、問題に向き合っていかなければならない」等と語り始めたが、非常に空虚な物言いだなと思う。
この手の「これから考えていかねば」と言うサブカル業界人たちは「自分たちが考えたことを何ヶ月以内に一先ずまとめ、中間発表を行い、それに対する世間の反応を集約して公表する。それを元に再び考える。このサイクルを半年〜一年周期で定期的・永続的に反復・継続していく」とか「過ちを仕出かさないためにも、具体的なプロトコルを制定し、取材や執筆がそれに則るものかを部外者の目でチェックする機構を設ける」といった、具体的な行動指針を示すことは決して無い。
何か抽象的に「これから考えていかないといけないよねえ」「そうだよねえ」「自分たちは考えている」とブツブツ言いつつ、なし崩し的に年月だけが経過し、そして再び似たような間違いを繰り返す。
ライターや編集者に個人任せで、具体性に欠けたフワフワした「考えます」的なお気持ちポエムでは、最早サブカル業界の腐敗は無くせないと、まだ自覚していないようだ。
表題に反して、今回は小山田圭吾や村上清の話が主ですが、サブカル全体の話と考えて投稿します。予め言いますが、長文です。
小山田圭吾が障害者や在日朝鮮人に対して虐待やイジメを行った或いは関与したとして、東京五輪を機に一般人に広く認知され、これに伴って、過去に雑誌『Rockin' On(RO)』及び『Quick Japan(QJ)』が小山田に対して行ったインタビュー記事が注目されています。
それと共に注目を浴びているのが【小山田圭吾自身が、スクールカーストの中では上位ではなく、むしろ下位だったのではないか?】とする仮説です。件の雑誌記事でも「小山田圭吾がイジメの加害者だった?!」と、インタビュアーが驚く場面があります。外見的なイメージから「むしろ小山田圭吾は、イジメを受ける側だった」とインタビュアーも想像していたのでしょう。また、インタビュアーだけでなく、これまで雑誌記事の存在を知らず読んだことも無かったファンも同様に、外見的なイメージから「小山田圭吾がイジメをしていたとは想像もできなかった」とショックを受けていた人が少なからず見られました。
あまり他人の外見を云々したくはないのですが、小山田圭吾は顔立ちは整っているものの、身長はどちらかと言えば小柄で、頭部が大きくて肩幅が狭く、体格的には恵まれておらず、お世辞にもスタイルが良いとは言えません。(しかし、そんな小山田圭吾でも「オシャレでイケてるモテ系」に仕立て上げて持て囃すことが可能だった訳ですから、親の七光りやスタイリスト/メイク担当者の優秀さだけでなく、当時のマスメディアと一般人との間に、如何に大きな情報発信能力の差が有ったか、それを指し示す一つの証拠と言えるでしょう。)このような外見的な印象に関しては、アンチだけでなくファンの間にも共通認識が有ったからこそ、インタビュアーもファンも「イジメ加害者」と小山田圭吾がカミングアウトしたことには落差を覚えて驚いた訳です。
小山田圭吾を擁護する人間の一部には「小山田圭吾は、インタビュアー(村上清)に迎合して話を盛ったのではないか?」とする者もいます。
例えば、北尾修一などのQJ関係者、それに小山田圭吾ファンなど、村上清と小山田圭吾を擁護する側の人間の意見を総合すれば、彼らの仮説は概ね「村上清は、彼自身が『いじめサバイバー』だから、いじめ問題を無くすための試みとして連載企画『いじめ紀行』を立ち上げた。小山田圭吾は村上清の人間性に絆されて、連載企画を盛り上げる為に話を盛った」と云う感じです。
正直に言えば私も現在は、小山田圭吾が話を盛ったと云う仮説は少し可能性が有り得ると考えています。しかし、私の仮説は、村上清と小山田圭吾を擁護する北尾修一たちの言うような「美しい関係性」を想定した仮説とは異なります。私の仮説を、以下に述べます。
=仮説ここから=
そもそも「村上清は、社会に存在するイジメ問題を解決する又は発生件数を減らす為に連載企画『いじめ紀行』を立ち上げた」と云う前提は、果たして事実なのでしょうか?(※そもそもの話をするならば、村上清が『いじめサバイバー』とされていること自体も事実であるのか疑わしいのですが、煩雑を避ける為、ここではそれが事実であるものと仮定して話を進めます。)
むしろ村上清は、イジメの「被害者」になったことで彼自身が背負い込んだ劣等感を解消する為に、己がマスメディア関係者となった今(※記事を執筆した当時)こそ、イジメ問題の記事を書くと云う手段/大義名分によって合法的に「加害者」の立場になろうと試みた、それによって「被害者」であることから生じる劣等感の埋め合せにしようとしたのではないでしょうか。
何か/誰かを「観察/取材」して、それに基づいて執筆した記事を雑誌等の公的媒体に「発表」すると云う行為には、一種の「暴力性」が不可避的に付き纏うものです。観察や取材の対象に対して、好意的な感情を抱いている場合ですら。況や、SNS等の個人的なネットメディアが発達した2021年現在とは異なり、当時の雑誌と一般人との間には、情報発信力の差や「何となくマスメディアの人間は一般人よりも格上」と云うイメージなど、圧倒的な権力勾配が有りました。そのような権力勾配を利用して、取材と称して他人の領域にズカズカと入り込むこと、カメラやテープレコーダーを向けること、記事にして発表すること、これらの行為の持つ圧倒的な「暴力性」。
北尾修一によれば、村上清は極めて優秀な人間のようです。そんな優秀な人間が「取材/執筆と云う行為の持つ『暴力性』」に気づかないはずが有りません(それに気づかないならば、端的に言えば馬鹿でしょう)。おそらく村上清は、このように考えたのではないでしょうか。「マスメディアの人間になった自分(村上清)は、今や取材や執筆の名目で合法的に、他者に対して『暴力』を振るうことが可能になった」と。
取材対象者が「被害者」ならば、取材と称して心の古傷を抉り、取材対象者が苦しむところを観察して「加害者」の立場を擬似体験して楽しめば良い。取材対象者が「加害者」ならば、贖罪意識を持つ人間は、良心の呵責を起こさせて苦しむ様子を観察して楽しむも良し、過去の過ちを反省していない人間は、調子に乗らせて問題発言をするように仕向け、社会から批判を受けるように仕向けるも良し。どっちに転んでも村上清にとって「イジメはエンターテイメント」となる訳です。
差別や犯罪の被害者が、その苦しみから逃れる為に加害者の側に立とうとすることは、往々にして有ることです。例えば、白人から人種差別を受けた黒人が、鬱憤を晴らす為に黄色人種を人種差別するように。村上清も、そんな被害者の一人だったのではないでしょうか。
村上清は、彼の取材対象として小山田圭吾を選択しました。その選択の動機には、もちろん既にROの記事が先行して存在したことも有ったでしょうが、ひょっとしたら「オシャレな渋谷系のモテ系のミュージシャンに対して『取材と云う名の暴力』を振るうことが出来る」と云う愉悦の予感も有ったのかもしれません。更に、相手がイジメの「加害者」ともなれば、その悪行を証言させて世に知らしめる事で、世間からバッシングを浴びるように仕向けて復讐することもできると、そう考えたのかもしれません。しかし、村上清が想定した以上にQJの編集者や読者が本物の鬼畜系クズだったことから『いじめ紀行』を発表しても小山田圭吾への批判が一向に高まらなかったために、小山田圭吾を転落させるまでに到らなかったに過ぎないのではないでしょうか。
ここで私は、取材の暴力性に関して、別の可能性も考えます。当時のマスメディアは、果たして本気で「小山田圭吾はイケてる/格好良い」と考えていたのでしょうか?実は「コイツ、ヒョロヒョロのヘナチョコのくせに、自分のことを格好良いと勘違いしてるw」とか「コイツ、無理してワルぶって、イジメを武勇伝として語ってやがるw」とか、マスメディア関係者は表面的には持ち上げつつも、心の底では小山田圭吾を小馬鹿にしていたと云う可能性は無いのでしょうか。持ち上げて落とすのは、何と言っても、マスメディアが好む暴力の典型です。
そして、小山田圭吾も、己自身のスクールカーストが低いと見做されていることや、マスメディア関係者から心の底で小馬鹿にされていることを感じ取って「いやいや、オレはイジメられっ子じゃないから!むしろオレは、イジメる方だったから!」と、ROやQJの取材に対して虚勢を張ったのではないでしょうか。村上清が、もし本当に「いじめサバイバー」だったならば、小山田圭吾には同じイジメられっ子の臭いがすると気づいたかもしれません。もし、そうだとすれば、余計に小山田圭吾が虚勢を張ることに拍車を掛けたことでしょう。「いやいや!オレ(小山田圭吾)はオマエ(村上清)とは違うから!」と。
小山田圭吾が「報道内容には、一部、事実とは異なる部分が有る」と言いながらも、事実関係を説明することを避けて頑なに沈黙を守っているのは、もしもイジメ加害者であることを否定すると、和光学園在籍中の自分のスクールカーストが低かったことを認めることに繋がり、それはイケてる渋谷系として持て囃された自身のプライドが許さないのではないでしょうか。
=仮説ここまで=
さあ、如何でしたでしょうか?北尾修一は頻りに「こう考えるのが自然」「普通こう考える」と云う表現を用いましたが、私はそれを避けたつもりです。
身内であるサブカル業界人(北尾修一)が、自分たちに都合が良いようにアクロバティックに美化したストーリーと、村上清にも小山田圭吾にも利害関係を共有していない第三者(私)が、ごくありふれた話として考えたストーリー。どちらが本当っぽく感じたでしょうか?それは貴方自身が決めて下さい。解釈の無理強いは致しません。
「長々と書いて、一体これが旧体制『映画秘宝』と何の関係が有るんだよ?」と思われたかもしれませんね。しかし、勘が良い方は既に気づかれたはずです。これらの「若かった頃にイケてなかった人間が、大人になってから加害者になることで、若かった頃の劣等感を埋め合わせようとする」「ワルぶって武勇伝を吹聴する」と云う行動様式は、旧体制『映画秘宝』の主流派(町山智浩ら)と瓜二つであると云うことに。それに、小山田圭吾の語るイジメの話に登場する被害者が障害者や在日朝鮮人など反撃が出きなさそうな弱者ばかり選択しているところも、町山智浩ら旧体制『映画秘宝』が(電通・ホイチョイ・フジテレビやジョックスへの怒りや憎悪を唱えつつも、本丸のソイツらを避けて)女性・同性愛者・アニメオタクとかを攻撃対象にしているところに似ています。
要するに、悪趣味・鬼畜系であろうがなかろうが、サブカル業界人は五十歩百歩ということです。
思った以上に長文となりましたが、この投稿は以上です。
児童虐待やDVの現場に遭遇しても、加害者から「被害者のことを愛している」と言われたら「印象が変わった。単純な暴力事件とまでは言えない」とか言って、引き下がりそう。
もしくは、ソイツ自身が、DVや児童虐待をしているのかもしれない。だから、加害者の言う一方的な「愛」の言葉に同調するのかもしれない。
たぶん何言っても噛み合わないだろうから1つ1つに反論はやめとく。
確認なんだけどさ、あのクイックジャパンの内容はお前はちゃんと読んだわけだよな。
さらに当時インタビュー現場にいたというライターが、その経緯を説明している。(記憶をたどった推測でしかないが)
それをお前は真っ向から「擁護だ!」と言って信じないわけだけど、
逆にロキノンやクイックジャパンに書かれたいじめ内容については「こんな酷いイジメをしていた!」と信じるのは何で?
それこそ、あーいう雑誌で語ってたこと自体が、すべて小山田の虚言でフィクションだったら?
現に「私が被害者です」って誰も名乗り出てないんだよ?学校も現段階ではわからないと回答してるよね。
なのに、この26年前のサブカル雑誌に書かれている内容だけで、イジメしていた!と信じるのに、
北尾氏が書いてることは印象操作だ!といって批判するのがわからんのだけど。。
勝手に自分の中で被害妄想膨らまして、小山田と擁護する人たちを叩きたいようにしか見えない。
(勘違いされるとめんどくさいから言っておくと、自分は小山田がいじめてないと言いたいわけではないし、QJもいじめも肯定しているわけではない)
小山田圭吾と歳が近く、あの頃の事を思い出してみた
俺はひたすら平均的な公立校で育っていて私立の小山田圭吾の学校の雰囲気はわからない
ただ当時の中高くらいの空気を思い出すと先輩の世代には表面的に派手に目立つ不良の数が多かったのが減っていき
毎日はとても平和なはずなので突発的に酷いいじめが行われるというのが起こっていたと思う
基本的にはちょっとバカな子とか極端に運動ができないとか、変わってる子とかまずそういう子らがターゲットにされていたと思う
俺自身ナイーブな人間だったしなにかのきっかけでいじめのターゲットにされてもおかしくないような人間だった
ただスポーツができて勉強もできて女子に人気のある男子と、たまたま仲良くなれてそれでなんとなくあいつはあいつの友達だからな、みたいな
やや上位グループにいるような雰囲気を出すことに成功していただけだ
だからクラス内でいじめが発生すると内心はビクビクしながら、できるだけ平気そうな顔をして「しょうがねーなー」と笑う声が震えないようにするので精一杯だった
いじめられてる子に同情する気持ちより、自分がやられたくないという気持ちのほうがずっと大きかった
ただ自分から加担する気にもなれなかったので、あくまで一緒になっていじめるというのはせずに、かといって止めもしなかった
それにはある種の器用さ、場の空気を読む事に徹するような小ずるさが必要だけど、当時俺と同じような逃げ方をしてるやつは多かったと思う
今も似たようなもんかもしれないけど当時の学校におけるいじめの空気というのはそんな感じで
俺はいじめの現場にいた当時の小山田圭吾の気持ちはなんとなくわかる気がする
ひょっとしたら小山田圭吾自身いついじめられる側に回されてもおかしくない危うさはあったのかもしれない
だからこそ彼は過剰にいじめに加担する方に合わせてたんだなと思う
さらにそんな鎧をかぶってしまったまま大人になったのでインタビューされても虚勢を張ってしまうのかもしれない
ただね、これはあくまで小山田圭吾自身についての想像で、もちろんいじめられた方にしたらそんなのは一切関係ないわけで
後になって「実は俺だっていやだったんだよ」なんて言われたら一番きついと思うし
やはり重要なのはいじめた側の人間の話をヘラヘラした態度で(笑)とか入れて雑誌として売り物として出しちゃったことだよなと
記事の頃はいい大人になってるはずの小山田圭吾がなぜあんなにベラベラといじめを語ってるのか
これはやはり当時のサブカル界隈の空気とフリッパーズ・ギターの成功が大きく関係してるんじゃないだろうか
フリッパーズ・ギターといえばそれはもう好き放題というか
メディアに対して皮肉屋でビックマウス、それがかっこいいみたいなとこもあり
音楽面だけでなくそういった面でもカリスマっぽくみられがちだった
ちなみに俺自身は当時フリッパーズ・ギターはなにが良いかまったくわからないゴリゴリのハードロックばかり聞いてたけど
付き合ってた彼女が大ファンになってしまったので「なんかいいよね~」とか適当に話を合わすためだけに一応聞いたりしてた
とにかく好きなことバーっとやってサッと解散してしまって、オザケンと小山田圭吾はめちゃめちゃイケてるミュージシャンだったのだ
で、インタビューは1995年あたりらしいので解散後何年かしてからなんだと思うけど
QJは創刊してまだ間もない頃みたいだ
当時のQJといえばかなり攻めまくっていてなんかすごい雑誌出たなと仲間内でも時々話題になっていた
なぜか内容は思い出せないけどこんなん載せる雑誌なかなかないだろうなあと何度か思ったことがあった気がする
ただ自分の周りではこの記事が当時仲間内などで話題になったという記憶はない
オザケンも覚醒?以降はなんだか素敵な文学的おじさんになっていったけど
フリッパーズの頃はくそ生意気で多方面小バカにしたような態度(インタビューとかでね俺の好きなバンドも貶されてた)で
この二人が気に入らなかったのだけはよく覚えてる
当時ファンだった人はどんな感じでこの記事を読んでいたのかは気になるな
(ちなみにフリッパーズの大ファンだった彼女はその後熱狂的なオザケン信者になって小山田には渋い顔をするようになったので多分読んでないし別れた)
だらだらと書いたものの別にこれといって言いたいテーマがあるわけではなく
時代的に近いとこで生きてきた人間として思い出せることだけでも書いてみようかなと思ったまでなんで大したオチもなく申し訳ない
当時はまさか小山田圭吾がオリンピックの音楽を手掛けるなんてことも想像できなかったし
最近でもサンレコでたまにサラウンドの可能性について話すだけの人になってたと思ってたので
オリンピックのエンタメに関する人選が、外すべきだった人が外れてなくて、外すべきではなかった人が外されちゃったんだなって思って残念
(1)「現場に居た当事者じゃないから口出しするな」と言うお前は、当事者として和光学園のイジメの現場にいたの?加害者本人?被害者本人?クラスメート?目撃者?「当事者じゃなければ口出しするな」と言うならば、お前は当事者な訳だ。QJの関係者か?それとも、北尾修一・村上清・小山田圭吾か何れかの本人か?「当事者以外は黙れ」と言うのならば、お前自身が率先して口を閉じたら?それが出来ないからお前も口出しするんだろ?当事者でもないのに。馬鹿なの?
(2)記名記事の執筆者の名前を、匿名化する意味は全く無い。村上清を匿名化して隠避しようとするのは、マスメディア関係者の身勝手な責任逃れ。記名で執筆した記事に対する責任は、顕名で引き受けるべき。
お前はお前自身が(小山田圭吾や村上清を批判している人間とは異なり)冷静さを保っているかのように述べているが、お前の文章からは教祖様を馬鹿にされたから頭に血が上って書いたのが現れているぞ。
それとな、お前は俺のことを「デビルマンを読んだことが無い」というが、物語のクライマックスで牧村家を襲撃して血祭りに上げたのは「デーモン」じゃなくて「普通の人間たち」だよ。お前こそ、デビルマンを読んでねえだろ?サブカル馬鹿は、教祖様原理主義者の短絡思考だから、そういう初歩的なミスをするんだよ、馬鹿。
(3)それで出てくるのが「お前はライターじゃないから批判するな」かよ。じゃあ、お前は当時の、それとも現役のQJのライターか編集者なのか?まるでお前は全てを知っているかのような口調だが、当事者以外は黙ってろとお前が言うなら、お前自身が口を閉じるか、お前が当事者であることを示せ。初歩的な論理だろ。それも分からないぐらい頭に血が上ってるくせに「オレは冷静だ!」と装うから、お前自身の馬鹿さ加減を自らの手で晒す羽目になるんだよ、頓馬。
それとな、お前は孤立無援のブログをミスリードと主張するが、あれは「加害者側の一方的且つ身勝手な『ボクたちはトモダチだった』と云う言い訳によって、美化したり隠したりしている本質」を抽出しただけだ。
(4)既成事実化だろ。読んでもいない手紙の内容を、小山田圭吾と村上清にとって都合の良い内容が書かれていたかのように言って、それがさも事実であったかのように「あの思いは通じた」とか書いたら、良く言えば「北尾修一は事実と願望の区別がつかない馬鹿」で、悪く言えば「長々と願望ポエムを書き連ねて、その末尾の方でコッソリと己の願望=事実であるかのようにすり替えて読者をミスリードしようと意図した卑怯者」だろ。北尾修一は、一体どっちの馬鹿なんだ?両方かもな。
よっぽど既成事実化と言われるのが嫌みたいだから、これからもオレは積極的に北尾修一は既成事実化を意図したと主張することにするわ。
(5)村上清がイジメ被害者であることは、小山田圭吾と一緒になって雑誌の誌面で二次加害を行ったことを免責する理由にはならねえよ。馬鹿なの?
村上清がイジメサバイバーだから何なの?それで村上に、他のイジメ被害者に対して「イジメはエンターテイメントだ!」と村上清の勝手な価値観を押し付けて、剰え雑誌取材と称して押し掛けて、被害者とその家族の心の古傷を抉る権利が付与されると思ってるの?お前みたいなサブカル馬鹿は、本当に自己中心的・お仲間絶対主義で身勝手だな。馬鹿。
(6)冷静な意見?加害者側の身勝手な主張だけを根拠に、イジメを正当化・矮小化しているだけだろ。「加害者が『ボクたちはトモダチだった』と言っているから、これはイジメじゃなかったんだ!イジメ被害者との間に友情が成立していたんだ!」って、それのどこが「冷静」なの?DV加害者が「被害者を愛している」と言ったら、それを真に受けて「ああ、DVじゃなかったんだ」と納得して放置するの?お前の頭の中に、ちゃんと脳味噌入ってる?DV事件の現場では、加害者の一方的な「愛情の存在」を鵜呑みにする馬鹿がいたら批判されるよ。そういう「加害者側の一方的な主張」を根拠にして「これはイジメではない」と言うのは、サブカル馬鹿が知識や認識をアップデート出来ていないことの何よりの証明だよ。それで「オレはお前たちと違って冷静だ!」とか、馬鹿なの?
それと、お前の言う「二次加害」って、誰に対するものを指して言ってるの?「一次加害」は和光学園在学中に行われたイジメと、その後に雑誌取材と称して被害者とその家族の心の古傷を抉ったことを指すと思うんだけど、お前の言う「二次加害」に先立つ「一次加害」は誰が誰に対して行ったものを言ってるの?頭、大丈夫?サブカル馬鹿は、自己陶酔したポエムばっかり書いたり読んだりしてるから、話の筋を見失うんだろうなあ。
まあ、取り敢えず「当事者でなければ口出しするな」とお前が言うならば、先ず当事者ではないお前自身が口を閉じるか、それともお前が当事者であることを証明しろよ。間抜け。
その下部にツッコミ。
【冷静に考えてそんなことありえないですよね。】
→北尾修一の主観に過ぎません。そもそも、北尾修一が冷静に考えている保証は何もありません。村上清をMと伏せ字にしている上に、QJの関係者などから、北尾修一が加害者側に立っていることは明白です。
【これは推測ですが、インタビュアーへのリップサービスで、小山田さんが学生時代の出来事を大げさに話したのではないでしょうか。】
→これも小山田圭吾に都合の良い、北尾修一の想像に過ぎません。
【と考えるのが自然じゃないですか。】
→小山田圭吾と村上清を擁護するために「自然」と言っているだけ。
【こう考えると、この私のおぼろげな記憶がおそらく正しいのではないか、という気がしてきます。】
→自分の記憶が正しいと云う結論が先に有って、そのために「こう考える」と云う方針を立てる。そして「こう考える」から自分の記憶が正しいと言う。それは循環論法では?
【「目の前に現れたM氏の力になりたい」と小山田さんが思った。
特に実際に会って《打ち合わせ》をした後で、そう思うようになった。
そうとしか考えられません。】
→小山田圭吾が何を考えていたのかを、想像に過ぎないのに、その想像を元に「そうとしか考えられません」と主観的に結論づけています。
→度々「自然」と云う表現を用いるのは、北尾修一自身が「小山田圭吾と村上清を擁護するために不自然になっている」と自覚しているからだと推測されます。
→あくまでも小山田圭吾の視点に留まり、イジメ被害者からの視点で想像しようとはしません。
【きっと《打ち合わせ》に向かう小山田さんも、そんな感じだったんじゃないかなあ、と私は想像します。】
【妄想が暴走しすぎで「大丈夫か?」と思われているかもしれませんが、でも、これくらいのことが小山田さんとM氏の間で起きないと、普通に考えて実現性ゼロのこんな記事、この世に存在しえないと思うんです。】
→態々、仮定の上に仮定を積み上げる北尾修一のような論理のアクロバットを駆使しなくても、シンプルに「当時のQJと小山田圭吾は、イジメ被害者の尊厳や人権を軽視していた」「批判が寄せられたとしても、情報発信力の勾配の非対称性があったので、一般人からの批判は黙殺できると思い、実際にそうしていた(批判のお便りが来ても掲載しなかった(批判意見を誌面に掲載しなかった)」と考えれば説明は可能です。
【小山田さんが「過去に行ったとされるいじめ暴力行為」を私は擁護しません。
ただ、この記事から読み取れる小山田さんの(悪ぶっていても)隠しきれない優しい側面については、私は全力で擁護します。】
→イジメ被害者と云う「他者」を排除して置き去りにした、サブカル村業界人に対してだけ発揮される内輪向けの「優しさ」には意味が有りません。暴走族、ヤクザ、マフィアだって、時には身内に優しい時は有るでしょうが、それは被害者にとって無意味です。
【だってさあ、何なんだよ、この『デビルマン』みたいな今の状況。
こんなものを一刻も早く終わらせたくて、私はこの原稿を発表しています。
だから、小山田さんの人格を全否定する乱暴な言葉には抗います。】
→擁護するつもりは無いと言いながら、ここでデビルマンの喩えを持ち出したことで、北尾修一が小山田圭吾と村上清を「加害者」ではなく「何も罪を犯していないのに迫害を受けている被害者」と見なしていることが分かります。これぞ馬脚を露わす。
【私は時空を超えて、26年前の『Quick Japan』編集部に行って伝えたい。
今ごろやっと気づいたんだけど、良かったね、M氏というか村上くん。
村上くんが気合いを入れて書いていた企画依頼レターと、あのとき全力で小山田さんに伝えた気持ちは、ちゃんと伝わっていたんだね(26年後に再読してやっと気付いた笑)。】
→いつの間にか、北尾修一が想像したに過ぎない「企画依頼レターの中身」を既成事実化しています。悪質な印象操作ですね。
【でも、私はこの記事を一緒に作っている小山田さんと村上くんの姿を思い返すと、若い頃にどんなに酷いことをした人間でも、どんなに酷い目に遭った人間でも、あるとき誰かのことを思って本気で動けば、そんなふたりで宝石みたいな何かを残せるかもしれない。この記事は、その揺るがぬ証拠として26年後の私には読めます。】
→「誰かのことを思って」の誰かには、イジメ被害者は含まれていません。あの「イジメ紀行」の記事が、北尾修一の主観では「宝石みたいな何か」になるのだそうです。
=以下、総評=
(1)北尾修一は「当時のQJの現場に近い人間が、事の真相を語る」かのように装っているが、大部分が「想像ですが」「推測ですが」「そうとしか考えられない」と主観のオンパレード。端的に言えば羊頭狗肉。「自然」と云う表現を多用しているのは、おそらく書き手である北尾修一自身が「小山田圭吾と村上清は悪くない」と結論づけるために強引かつ不自然な文章になっていると自覚していることを示唆している。
(2)イジメを擁護するつもりはないと北尾修一は言う。しかし、村上清を"M"と伏せ字にしていること、北尾の述べる想像や推測は徹底して小山田圭吾と村上清に都合の良い解釈だけであることから、北尾修一が小山田圭吾と村上清を擁護しようとしていることは明らかである。更に、デビルマンの喩えを用いていることから、北尾修一は小山田と村上を「罪を犯してもいないのに迫害されている」と見做していることも明らかである。
(3)村上清が小山田圭吾に送った(かもしれない)企画依頼レターの内容については、北尾の想像に過ぎない。にも関わらず、何故か北尾修一の書いた文章のクライマックスに至ると「村上くんが気合いを入れて書いていた企画依頼レターと、あのとき全力で小山田さんに伝えた気持ちは、ちゃんと伝わっていたんだね」と既成事実化している。北尾修一は、孤立無援のブログを「印象操作している」と非難するが、むしろ北尾自身の方が悪質な印象操作を行っていると言える。
(4)小山田圭吾の証言と、それを都合良く解釈した想像だけを根拠にして「加害者である小山田圭吾とイジメ被害者との間に何らかの友情が存在した」と、既成事実化し、その上で「イジメではなく友人同士の遊びであった」かのように読者に思わせようと、北尾修一は意図している。しかし、北尾修一のしていることは、DV事件の加害者を「殴ったり蹴ったりしたけど、被害者のことを自分なりに愛していた」と美化するようなものである。イジメ加害者側の身勝手な「友人意識」を持ち出すことで、イジメ加害者の罪を減ずることが可能であるとする北尾修一の考え方を、DV事件との比較で考えれば、どれほど時代遅れ且つ間違ったものであるか一目瞭然であろう。
(5)北尾修一の書いた文章からは、サブカル村の住人の「自分たちさえ良ければ、イジメ被害者などどうでもいい」と云う、自己中心的、自己陶酔的、自画自賛な意識がハッキリと窺える。村上清による小山田圭吾インタビューを「宝石みたいな何か」と評価していることがそれを表している。
北尾修一は「イジメを擁護するつもりは無い」と言いながら、何故か村上清を"M"と伏せ字にしている。この事からも、北尾修一がイジメの加害者側に立つ人間であることは明らか。
「被害者と加害者の関係性が分からないと、何も言えない」と云うのは、イジメを揉み消す時に使う、加害者側に立つ人間が使う"典型的な言い訳"。
おそらく、北尾修一とか村上清とかQJ関係者は、小山田圭吾が行った虐待の被害者を、衆人(小山田圭吾寄りの人間たち)の前に引っ張り出して「本当は、小山田圭吾サンと仲が良かったんですよね?ね?ね?ね?」と迫って、強引に「……う、うん」と言わせようとするだろう。そして「ほら、やっぱり!小山田圭吾はイジメなんかしてなかったんですよ!」と喧伝するだろう。たぶん「うん」と言わなければ、QJ関係者は、被害者に影で腹パンとかスネ蹴りとかするんじゃないだろうか。イジメの現場では頻繁に見かける光景である。「やだなあ、センセイ。イジメてたんじゃなくて、ボクたちは仲良く遊んでいただけですよ。な?オレたちトモダチだもんな?な?…『うん』って言えよ(※ココで腹パン)。ほらね、ボクたちはトモダチなんですよ」
北尾修一は、後ろめたいことをしている(小山田圭吾や村上清にとって好都合になるようにイメージ操作をしている)自覚があるから、記事を期間限定公開にしている。後日、イメージ操作したか否かを、他人から検証されたくないから。
あのグループの一員だ。
ヤバい目つきの人だなあとは思っていたが。
それも結構笑いながら。
他人事とは思えなかった。
盛り上がる。私立って、独特の歪み方をする。
小山田さんは、「今考えるとほんとヒドかった。
だったら、ホントに再会したらどうなるだろう。
いじめっ子は本当に謝るのか?
ドキドキしてきた。
対談してもらおう!
最終的にはいじめられてた人の家の中まで入った。
しかし結局この対談は実現せず、小山田さんへの個人インタビューとなった。
以下、この対談の準備から失敗までを報告する。
いじめ対談のことを話す。
――まず、いじめられっ子を探すことにする。
「昔、いじめっ子だったんですよね」
という訳にもいくまい。
とりあえず『月刊ブラシ』を手渡す。
「ミニコミ作ってるんで読んでください」
「あ、ありがとう」
この間、約二秒。
ちなみに僕は普段いつも自分のミニコミを持ち歩いている訳ではなく、
この日持ってたのは本当に偶然だった。
「学年を超えて有名」だったとか。
対談依頼の手紙を書く。
住所を頼りに昔いじめられてた人の家に行く、
この時の気分はうまく説明できない。
よくよく西河原さんと話してみると、
(前出のように)ハードにいじめられてたのは別の人ではないか」
とのこと。
じゃあ、本当にいじめられてたのは誰なんだ?
とのこと。
事前に手紙は送っているが、反応はよくない。
当たり前か。
●4月2日
とにかく事務所に乗り込む。
『QJ』赤田氏と僕とで、
まずマネージャー岡氏を説得しなければならない。
と思っていたら、「本人来ますよ」
20分後、『夕刊フジ』の地下鉄サリン事件増刊号を小脇にかかえながら、
「この対談、読み物としては
自分がやるとなると……(苦笑)」
やはり引き気味のコーネリアス。
しかし話をしていくうち、
小山田さんは、いじめグループの中でも"アイデア担当"だったらしい。
僕の確信は間違ってなかった。
紹介していたぞ。
独り占めするのはもったいないので、僕がシビレた話を掲載しよう。
小山田さんによれば、当時いじめられてた人は二人いた。最初に登場するのが沢田君(仮名)だ。
「沢田って奴がいて。こいつはかなりエポック・メーキングな男で、
転校してきたんですよ、小学校二年生ぐらいの時に。
もういきなり(言語障害っぽい口調で)『サワダです』とか言ってさ、
『うわ、すごい!』ってなるじゃないですか。
なんか学校でウンコするとかいうのは小学生にとっては重罪だってのはあるじゃないですか?
で、いきなり初日にウンコするんだけどさ、便所に行く途中にズボンが落ちてるんですよ、何か一個(笑)。
そんでそれを辿って行くと、その先にパンツが落ちてるんですよ。
で、最終的に辿って行くと、トイレのドアが開けっ放しで、下半身素っ裸の沢田がウンコしてたんだ(笑)」
「だから、何かほら、『ロボコン』でいう『ロボパー』が転校してきたようなもんですよ。(笑)。
で、みんなとかやっぱ、そういうの慣れてないから、かなりびっくりするじゃないですか。
で、名前はもう一瞬にして知れ渡って、凄い奴が来たって(笑)、ある意味、スターですよ。
別に最初はいじめじゃないんだけども、とりあえず興味あるから、
まあ色々トライして、話してみたりするんだけども、やっぱ会話とか通じなかったりとかするんですよ。
おまけにこいつは、体がでかいんですよ。
それで癇癪持ちっていうか、凶暴性があって……牛乳瓶とか持ち出してさ、追っかけてきたりとかするんですよ。
で、みんな『怖いな』って。ノロいから逃げるのは楽勝なんだけど、
怒らせるとかなりのパワーを持ってるし、しかもほら、ちょっとおかしいから容赦ないから、
で、普通の奴とか牛乳瓶でまさか殴れないけど、こいつとか平気でやるのね。
それでまた、それやられると、みんなボコボコにやられるんだけど」
「僕とこいつはクラスは違ったんですけど、小学校五年ぐらいの時に、
僕、"太鼓クラブ"とかに入って(笑)、かなり人気のないクラブだったんですよ。
『サンサ踊り』とか、何かそういう凄い難しい踊りを取り入れてて。
僕、踊り踊るのヤだったの、すごく。
それで踊らなくていいようにするには、太鼓叩くしかなかったの。
クラスで三人とか四人ぐらいしか太鼓叩く奴はいなくて、後は全員、踊らなきゃいけないってやつで。
僕は『踊るのはキツイなー』って思って、『じゃ、太鼓の方がいいや』って。
それで太鼓クラブに入ったんですけど、するとなぜか沢田が太鼓クラブにいたんですよ(笑)。
本格的な付き合いはそれからなんですけど、
太鼓クラブって、もう人数が五人ぐらいしかいないんですよ、学年で。
野球部とかサッカー部とかがやっぱ人気で、そういうのは先生がついて指導とかするんだけど、
太鼓クラブって五人しかいないから、先生とか手が回らないからさ、
それで音楽室の横にある狭い教室に追いやられて、そこで二時間、五人で過ごさなきゃならなかった。
五人でいても、太鼓なんか叩きゃしなくって、ただずっと遊んでるだけなんだけど。
そういう時に五人の中に一人沢田っていうのがいると、やっぱりかなり実験の対象になっちゃうんですよね」
全部グルグルにガムテープで縛って、空気穴みたいなの開けて(笑)、
『おい、沢田、大丈夫か?』とか言うと、『ダイジョブ…』とか言ってんの(笑)。
そこに黒板消しとかで、『毒ガス攻撃だ!』ってパタパタやって、
しばらく放っといたりして、時間経ってくると、何にも反応しなくなったりとかして、
『ヤバいね』『どうしようか』とか言って、『じゃ、ここでガムテープだけ外して、
部屋の側から見ていよう』って外して見てたら、いきなりバリバリ出てきて、何て言ったのかな……?
何かすごく面白いこと言ったんですよ。……超ワケ分かんない、
『おかあさ〜ん』とかなんか、そんなこと言ったんですよ(笑)それでみんな大爆笑とかしたりして」
「本人は楽しんではいないと思うんだけど、でも、そんなに嫌がってなかったんだけど。
ゴロゴロ転がしたりしたら、『ヤメロヨー』とか言ったけど」
どうやら町山智浩が予防線を張り始めたようですので、町山が後で都合よく削除や改変することを防止するために、現時点(2021/07/20-18/05)のtweetを残しておきます。
【引用01】
悪趣味カルチャーは80年代のオシャレやモテや電通文化に対する怒りだった。カーディガンを肩にかけ、ポロシャツの襟を立ててテニスやスキーしてホイチョイの「ヤレる店」読んでナンパして人を「ちゃん付けで呼ぶ」奴らにゲロや死体で嫌がらせしたかった。当時を知らない人にはわからないだろうけど。
【引用02】
「90年代に悪趣味や鬼畜やってたのはお前だろう」と言われたら「はい、そうです」としか言えないが、それは電通フジテレビでセゾンでトレンディで一言でいえばSuntoryThinkingAboutTheEarthビール的なオシャレでバブルで偽善的で反吐が出るようなクソ文化への反抗だったんだけど、わかんねえだろうな。
【引用03】
根本敬と村崎百郎が「日本を下品のどん底に突き落としてやりたい」と心の底から叫ばねばならないほど1990年頃の日本は抑圧的なオシャレと健全さと明るさと偽善のファシズムに支配されていた。それを知らない人が悪趣味や鬼畜カルチャーを批判しないでほしい。
【引用04】
あと、QJは悪趣味でも鬼畜系でもなんでもない。全然関係ない。QJは赤田氏が創刊した頃からよく知ってるし、問題の号の担当の村上清くんもよく知ってるけど、悪趣味系でも鬼畜系でもないぜ。
【引用05】
悪趣味&鬼畜系カルチャーの内部にいた者としてはっきり言いますが、クイックジャパンという雑誌も小山田圭吾という人も鬼畜&悪趣味カルチャーには直接関係ないです。
【引用06】
悪趣味&鬼畜系カルチャーにはそれ自体の問題があるとしても、小山田圭吾とクイックジャパンとは関係ないです。アニメ・ファンでなかった宮崎勤からオタク・バッシングが起こったようなものです。
【引用07】
小山田圭吾のしたこととクイックジャパンの記事が悪趣味&鬼畜カルチャーとどう関係あるんですか? QJってまったくそういう雑誌じゃなかったですよ。
=引用ここまで=
初期Quick Japanって、大泉実成など、弱者に寄り添う感じもあったのに、イジメ紀行みたいな醜悪なやつもあって、なんだったんだろうね。赤田祐一は弱者に近いと勝手に思ってたから、あの感じはなんか意外だった。
小山田圭吾の過去の精算の余波で、久しぶりに赤田祐一でてきたらいいのにな。いまこそロングインタビューだと思うけど。読みたい。
あと、赤田祐一後のQuick Japanといえば、いろいろ面白いことやってたにもかかわらず、大塚幸代のイメージだけがつよい。本当にキモかった。でも、あのキモさは、小山田圭吾インタビューのキモさに通じる。後に、ああいうキモいライターの箱になったことを思うと、小山田圭吾の記事みたいなのがでた風土はQJらしさだったのかな。
まあ、当時から、「消えたマンガ家」だけ立ち読みして、あとは特集によってたまに買う、というくらいにしかハマれなかった程度の自分の感想です。当初は、自分達の世代&サブカルチャーを代表する雑誌にならないかなと期待してたけど、期待ハズレでした。
一気に語られ尽くした感があって結果もほぼ出てしまった
組織委の杜撰さは五輪と騒動と並行してある程度追及され続けるだろうが
小山田については被害者への謝罪の話が残ってるわけだがここはまぁ期待するのも無駄だろうしそれこそ
当事者感の話だから表に話が出るかもわからんし知ったことではないってのが本音の人も多かろう
で、だ「鬼畜系」だの90年代サブカルの空気だのってキーワードが現代に部分的にでも知識として再浮上したわけだが、
小山田がやったことはかなり特殊だとは言え唯一無二とは思えない。たった一人で時代の空気を作ったわけがないからね
QJには「いじめ紀行」という”連載”企画が通ってたらしいから特集された人は他にも当然いるわけだ
となると他にもやってる奴おるよな?