「言論の自由」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 言論の自由とは

2022-08-18

anond:20220818151105

時代遅れかどうかだけの話なら、宗教は昔と今では立ち位置が違うって問題表現の自由言論の自由は同じにはできないと思うなあ

まあ同じだと思ってる人が居ても自由だと思うが、個人的にはむしろカルト的な社会を適切に批判するためにはやはり表現言論の自由あたりは必要になると思う。

2022-08-17

???暴力ダメっていうんだったら統一教会叩きも暴力からやめろ!!!

https://b.hatena.ne.jp/entry/4723899693252865794/comment/yn3n

まず、銃で他者生命を奪う「暴力」と、反社会的行為を行う団体への「批判」は全く異なる物です

これを混同してしまうのは、全ての「批判」を「暴力」と受け取ってしまう異常な考えを持っている方だけです

日本には言論の自由がある為、「批判」は「暴力」と異なり、実行しても社会から排除される事はありませんし、またそうするべきでもありません

一方、言論統制が行われたかつての大日本帝国は、「批判」が社会から排除された例の一つです

まり日本が再び戦争に突き進むとしたら

その原因になるのは「批判」を行っている人々ではなく、全ての「批判」を「暴力」と思いこんでしまう知能を持った人々の存在の影響が大きいでしょう

2022-08-15

共感にあらがえ - 内田樹の研究室を読んで

これは、いろいろと考えさせられるいい文章だと思った。永井陽右という青年を振り回すかのように語る内田樹。こういうマウントは嫌いじゃない。

ただ、内田が、

感情の器」って、あくまでも個人的身体条件のようなものから

というとき、何か逃げた回答のような印象を受けた。

たとえそれが自分の中から湧き出す内発的なものだとしても、大昔にアダム・スミス道徳感情論で追求したように、何かのテコで共鳴し、社会規範構成するに至るメカニズムが何かしらあるんだろうと俺には思えてならない。

そういう感覚を身に着けるのにどうすればいいかと問うた永井氏に、家風だとか、弟子入りだとか、そんな表現内田氏がするのは、けむに巻いているようにしか思えなかった。

家風にしても弟子入りにしても、そのつながり方が、社会規範にむすびつくメカニズムがあるはずだ。

アレックス・カー20年前に書いた本で『犬と鬼』という著作がある。

おりしも建設省代表される特別会計の闇が浮き彫りになった時代

アメリカの7倍のコンクリートを使って日本山河コンクリートで固めようとしていた、公共事業のあり方に疑問を呈した名著。

その『犬と鬼』のなかでカーは、そんな日本に至った問題を解明するヒントは「徳の逆説」にあるという。

「徳の逆説」というのは、国家も人も同様に、自分たちに最も欠けている資質を最も高く評価する傾向があるという、カーが常々思っている真理を彼なりに名付けたものだ。


A・カーは、フェアプレイ精神といいつつ、七つの海を支配した大英帝国の事例、平等を錦の御旗にしていた共産主義者トップ黒海に豪奢な別荘を保有し、人民実質的農奴と変わらない生活だったというソ連の例などを挙げつつ、最後に、和を貴ぶ日本人がなぜ明治開国後、対外侵略に夢中になったかという精神性に触れてゆく。

「徳の逆説」は、身近なところでも当てはまる。口うるさい親や上司説教ブーメランに思えてならない、という経験は誰もがしているはず。そして気が付くと俺も親父と同じことを子供に、という連鎖

最近、想起するのはやはり旧統一教会家族価値を高らかに謳いあげておきながら、その活動が原因で多くの家族崩壊している、といった、「おまゆう問題崩壊させているがゆえにますます高まる家庭の価値、という悪循環。これもA・カーのいう「徳の逆説」が見事に当てはまる。これは人が自分自身を規律しようとするとき動機付けメカニズムなのだ

内田永井議論テーマひとつである人権平等。あたか普遍的原理についても、

それを概念として具体化して社会が取り込んだ過程を決して忘れてはならない。

アメリカ建国者の一人、トーマスジェファーソン人権宣言を起草した当時、200人以上も奴隷を抱えていた。

これは矛盾というよりも、むしろ奴隷制にどっぷりと漬かっていたからこそ人権宣言が生まれたという「徳の逆説」のメカニズムを見るべきだろう。

どんなに薄汚れた社会であっても、一度高らかに掲げた理想は、その社会を真綿で絞めてゆく。欲望大全開の人民を前提にすると、民主政は成り立つのか。多数決をすれば少数者が圧政に苦しむのではないか、これがマディソン含め、建国者懸念だった。しかし、為政者の徳(アリストクラシー)と、欲望とは別に社会で正しいと思うことに投票する、二重人格的な資質人民に備わっていると信じて建国者デモクラシー設計した。裁判を通じ、繰り返し憲法価値観をテストする、という振り返りをビルトインした設計は本当に優れたものだ。結果として、最高裁が突き付けた奴隷制と財産権矛盾が、南北戦争北軍正当性を決定的にする。

内田議論に戻ると、外付けの人権というテーマと同時に、内発的なものとしての感情の器という、とても重要キーワードを出している。それは他方で外付け実装された人権と、どのような整理ができるのだろうか。

自分でうまく整理がつかなかった。内田はいう。

「人としてどうふるまうべきか」を子どもに刷り込むのは「家風」なんですよ。子どもたちは親の背中を見て、人間としての生き方を学ぶ。それは教科書で教えることじゃない。

これは、親子を中心とした自分史と言い換えられるのではないかと思った。さらにいえば、自分史は必ずしも親は関係いかもしれないのではないか。つまりこれまでの人生、来し方がキーなのでは。

内発的なものと外付けのもの、この二つはやはり、きちんと切り分けて、そして二つが、どうつながってゆくのか。以下、自分なりに整理を試みる。

まず外付けの倫理から。どのように受容されてきたか

舶来の概念というのは明治以来、洪水のように入った。民法など契約法の世界は、ほぼほぼ圧倒されたし、戦後憲法のものアメリカ経験に基づいたものだ。

しかし、日本人権教育は、残念なことに、人権普遍性を論証することに熱を上げてしまって、そもそも誰の内発的な経験がもとになっていたかという成り立ちのメカニズムを忘れた議論が多い。公共の福祉論などをいくら学説定義を整理してきれいに論じても、だから何?の議論だった。

戦後人権を外付け実装してきた日本は、そのルール規範の成り立ちといった背景をもう少し知る必要がある。それは教養として。

現在、旧統一教会問題話題の、国家宗教というテーマにしてもそうだ。

政教分離キーワードとなるのは、恐怖から解放だ。宗教に悩まされ、その扱いに苦慮するのは古今東西課題だ。宗教いかに折り合いをつけた制度設計をするか、古代ローマ時代からずっと抱えてきた。宗教的寛容、これが統治のカギだと気が付いたのはカルタゴ勝利した古代ローマ

そのテーマに対して、新天地アメリカに到着したプロテスタントたちの子孫が18世紀になってメイフラワー号の協約を思い出して試みたのは、旧世界では試みたことのない壮大な社会実験だった。百家争鳴な多様性のなかで社会構成するには、誰が正しいことを言っているのかは誰も断定できない、という前提に立つ必要再確認された。それが言論の自由関係では、20世紀初頭にホームズ裁判官らに代表されるように、自由市場比喩が生まれる背景ともなった。

他方、旧世界フランスでは、唯一の正しさを神に代わって宣言するカトリック教会権威苛烈弾圧が恐怖であった。だから公共空間合理化を徹底し、宗教を一掃する制度設計になった。フランス言論の自由は、その意味カトリック否定する権利が原点となる経験なのだ。だからこそ、フランスでは今でも神を冒涜する言論というのが非常に重要意味をもっていて、先日、仏風刺紙シャルリー編集長が英作家ラシュディ氏襲撃を非難したこと歴史的な背景は深い。

このように、人権というものは、何に対して恐怖してきた歴史があり、生まれてきたものなのか、という原点に思いを致すことが大切だし考えるコツだ。利他性じゃなくね。

それは、実は国によって微妙コンテクストが異なるものであり、普遍的価値として昇華できなくもないけれども、むしろ司法を通じて、原点となった恐怖を大切に思い出す機会が重要で、その社会が、その真理を繰り返し確信し、制度を強化し、再生産する重要な仕組みなのだと思う。逆に言うと、普遍的価値なら、なぜ何千年も克服できなかったか意味を問うというか。

しかし、外付けの倫理として受け取ったものを、思い出すかのように歴史を振り返るのは容易ではない。戦後日本裁判所も含めて。

でも、それこそが日本人権教育に欠如したものだということは個人的には強く思うところだ。


その意味では、外付けではない、外国の借り物ではない、内発的なもの感情の器からみえてくる倫理、これは本当に大きな価値がある。

内発的なものを自省するうえで、もっとも大切なのは自分の国や自分家族自分自身の歴史だと俺は思う。

自分自分先祖が痛い目にあってきた経験、あるいは他者を痛めにあわせてきた経験というのは、その人固有のものであって、その自分史や国の歴史を忘れてしまうと、あとは外付けの倫理けが残る。国レベルで言えば、それは端的に明治以降の日本アジア欧米との対外関係であり、開国以降、アメリカに敗北するまでの戦争に明け暮れた体験に他ならないし、国家神道によって死生観まで国に洗脳されかけた手痛い経験だ。

歴史というと大げさだが、要するに「自分たちに最も欠けている資質を最も高く評価する」、おまゆう精神自覚することだ。これは教養として学ぶというよりも、もう少し内省的なものだと思う。

自分理想とするもの現実とのギャップを振り返る作業といってもいい。

自分に欠けている部分、そこにこそ追い求めている何か理想的な姿の反転がある、という振り返り。

ネイションとしていえば、戦争体験の振り返りが重要キーになるし、国家宗教というのは、国家神道と戦争という経験で痛い目をみているのであり、ある意味、輸入された欧米経験教養として追体験するだけではなく、日本人が原体験としてもっていた大切な教訓。愛媛県靖国神社玉串料訴訟(1997年)の最高裁判決行政戦没者の遺族の援護行政のために靖国神社などに対し玉串料支出したこと違憲とした歴史的判決で、戦争経験がしっかり振り返えられた、という点で、司法仕事としてとても大きなものを残したと思う。建国精神を振り返るのが裁判所の仕事の一つだと思う。

しかし、戦後77年。戦争体験が風化するなかで、「あの時代を生き抜いた」という共通体験共通項として持っていたものがどんどん失われているのが今の時代

50年前の高度成長期だったら、戦争で死んだ部下を思い出しながら、仕事にまい進し、酒場で同期の仲間と語り合う、とか、厳粛に生きるための厳粛な死が記憶としてあった。

「あの頃は」という共通過去で人はつながることができた。それが内発的なものとして60年安保闘争を支え、水俣闘争があった。外付けの倫理ではない、思い出としての切実さの空気の共有があった。

まり、舶来の外付けの価値観と内発的な器は、その頃はわりと調和していた、といえるのだ。

それが、失われ、外付けの価値観だけがカラカラと空回りし始めているのが今の時代の特徴で、失われつつある寛容性の正体なのだろう。

永井氏はそんな時代に生まれ育った。彼は対談のなかで、大学時代

「そうかそうか、人権というものがあるのか、みんな賛同してるし普遍性高いじゃん」となりました。

と、外付けの人権から始まったと語っているが、外付けのものにも普遍性のみに着目し、それが生まれてきたプロセスを振り返らない、人権教育の失敗が見て取れる。

また、日本憲法に組み込まれ歴史への反省(前文含め)も記憶の風化とともに、個々人の内省が、時代への共鳴という形で、共感を醸成しなくなってしまっている。

高度成長期に「あの頃」といえば戦争時代だった。

それはかろうじて80年代までは存在していた。「おしん」が異例の1年間の朝ドラで始まってしばらくすると、

視聴者からは、おしん私自身そのものです、という声が橋田壽賀子のもとに多数届いたという。

しかし、時代は変わって、平成から令和になって「あの頃」といえば、昭和の末期なのだ

しかもそれをノスタルジックに思い出す、三丁目の夕日的な振り返りだった。さらには、あさま山荘であり、学歴社会バイクを盗んで走る尾崎豊であり、バブルの思い出なのだ。それは、その遺産に苦しんだ次の世代にとっては共感を呼びにくいものであるし、自分たちの社会の重圧と、戦争記憶との関連が薄まった。当然、日本憲法リアリティが失われ、右派から改憲論議が盛り上がってくるのは必然的なことだった。そんななか、統一教会が国の内部を白アリのように巣くって愕然とした先月から今月にかけての出来事というのは、忘れかけた宗教国家の結びつきの恐ろしさを、突如呼び覚まされるものだったに違いない。

しかし、いずれにしても過去記憶憲法規範が直接に結び付かない、その世代経験、そこに、永井紛争国の辺境の地を自分テーマに選んだヒントがあるように思えてならない。

紛争リアルがそこにある。そこに普遍的価値として大学生ときに知った人権、そして憲法価値を、自分なりの振り返りとして再確認する、動機付けがあったようにも思う。

しかし、たとえ社会の人々と共有されないものであったとしても、ひとは自分史のなかで、どうふるまうべきかを動機付けられる。

永井氏が、内田氏との対話のなかで

私は逆に、子どもの頃はよく母親に殴られたり色々と物を捨てられたりされていて、そのときに「この家では力を持った奴は殴ったり物を捨てたりしていいんだな」と思ってしまったんです。そして中学生になって殴られたときに「よく見たら小さいし別に喧嘩が強いわけでもないな」ということに気が付きまして。それでそこから自分母親のことを殴りまくるようになりました。ひどい時はアザだらけでしたよね。父親単身赴任でしたし。

といったときに、内田はそこにしっかりと気が付くべきだったと思う。

全然人権派じゃないね(笑)。」と返した内田に若干物足りなさを感じたのは、まさにそこだ。

動機付けられるものが、必ずしも、家風であったり、模範的ロールモデルとは限らないのだ。

この体験辺境の地での人権探し、自分探しは、多分無関係ではない。


ともあれアレックス・カー面白い

読んだのは20年前だが、年齢を重ねれば重ねるほど、彼のいう、逆徳精神の考え方が真理に思えてくる。

A clue to the problem may be found in what I call the theory of Opposite Virtues. Nations, like people in this respect, may pride themselves most highly on the quality they most lack. Hence “fair play” is a golden virtue in Great Britain, the country that attacked and subjugated half the globe. “Equality” was the banner of Soviet Russia, where commissars owned lavish dachas on the Black Sea and the proletariat lived no better than serfs. The United States prides itself on its high “moral standard,” while perpetuating racial and moral double standards. And then there is l’amour in France, a nation of cold-blooded rationalists. Or Canadians priding themselves most on being so distinctively “Canadian.” In Japan we must look at the time-honored ideal of Wa, “peace.” Wa means security, stability, everything in its proper place, “knowing what is enough.”Yet a persistent irony of Japanese history since 1868 is that for all the emphasis on peace and harmony, they are exactly the virtues that Japan did not pursue. At the end of the nineteenth century, rather than settling back to enjoy its new prosperity, Japan embarked on a campaign to conquer and colonize its neighbors. By the 1930s, it had already acquired a tremendous empire in East Asia; this inability to stop led to its suicidal attack on the U.S. base at Pearl Harbor, as a result of which it lost everything. Something similar is happening again. Perhaps Japan values Wa so highly for the very reason that it has such a strong tendency toward imbalance and uncontrollable extremes.

Dogs and Demons, 2002, A

2022-08-09

anond:20220809094859

しろオタクは『体に障害のあるレズの21歳女子大生』を見つけて『萌え絵批判するのは言論の自由ですが、止めさせるまで非難するのは行き過ぎです私は悲しいです』と何で言わせないの?

2022-08-08

1998年小渕内閣以降の内閣支持率と時事トピックス(24年分+今月分追記)

何やったのか当時の反応を含め記憶曖昧なので内閣支持率を元にトピックスを書きだした。

先月末に同様の記事を書いたが今月大幅に支持率が下がったので追記して記載

毎月のNHK世論調査数字使用

前月と比較して7%以上内閣支持率の増減があったときのみ書き出した。

最初は5%増減で書こうとしたけど時事を調べるのが面倒で無理だった。

トピックス以外の雰囲気を掴む為、次のようなものも合わせて記す。(適当に作った)

支持率上昇率=(前月より5%支持率が上昇した月数)/在職月数
支持率下降率=(前月より5%支持率が下降した月数)/在職月数


元増田が小渕氏から書いてるので小渕内閣から

以下、当時の支持率数字と()内の数字が前の月との増減値。

小渕恵三 在職期間:1998.08~1999.03 1年8ヶ月 就任時:37% 退任時:35% 最高:53% 最低:20%

支持率上昇率:15.0%   支持率下降率:20.0%

森喜朗 在職期間:2000.04~2001.04 1年1ヶ月 就任時:39% 退任時:7% 最高:39% 最低:7%

支持率上昇率:23.1%   支持率下降率:46.2%

小泉純一郎 在職期間:2001.05~2006.09 5年5ヶ月 就任時:81% 退任時:51% 最高:85% 最低:39%

支持率上昇率:18.5%   支持率下降率:21.5%   ※2001.09 アメリカ同時多発テロ

安倍晋三 (第1期) 在職期間:2006.102007.09 1年0ヶ月 就任時:65% 退任時:34% 最高:62% 最低:29%

支持率上昇率:16.7%   支持率下降率:41.7%

福田康夫 在職期間:2007.102008.09 1年0ヶ月 就任時:58% 退任時:20% 最高:58% 最低:20%

支持率上昇率:8.3%   支持率下降率:25.0%  ※2008.09 リーマンショック

麻生太郎 在職期間:2008.09~2009.08 1年0ヶ月 就任時:48% 退任時:15% 最高:49% 最低:15%

支持率上昇率:8.3%   支持率下降率:41.7%

鳩山由紀夫 在職期間:2009.102010.05 8ヶ月 就任時:70% 退任時:21% 最高:70% 最低:21%

支持率上昇率:0.0%   支持率下降率:75.0%

菅直人 在職期間:2010.06~2011.08 1年3ヶ月 就任時:61% 退任時:18% 最高:61% 最低:18%

支持率上昇率:14.3%   支持率下降率:42.9%   ※2011.03 東日本大震災 この月世論調査なし。 2011.02 21% 2011.04 27%

野田佳彦 在職期間:2011.09~2012.12 1年4ヶ月 就任時:60% 退任時:20% 最高:60% 最低:20%

支持率上昇率:0.0%   支持率下降率:31.3%

安倍晋三 (第2期) 在職期間:2013.01~2020.08 7年8ヶ月 就任時:64% 退任時:34% 最高:66% 最低:34%

支持率上昇率:15.4%   支持率下降率:21.5%  ※2019.12 コロナ中国で1例目発生

菅義偉 在職期間:2020.09~2021.09 1年1ヶ月 就任時:62% 退任時:30% 最高:62% 最低:29%

支持率上昇率:0.0%   支持率下降率:23.1%

岸田文雄 在職期間:2021.102022.08(継続中) 11ヶ月(継続中)  就任時:49% 退任時:-% 最高:59% 最低:46%

支持率上昇率:9.1%   支持率下降率:18.2%  ※2022.02 ロシアウクライナ侵攻開始

内閣支持率の出典

https://www.nhk.or.jp/bunken/yoron/political/1998.html

2022-08-06

anond:20220806185855

日本言論の自由ランクが低いのは記者クラブ制度が原因だからな。

最近統一教会質問を全くしないなんてことをしでかした。マスコミが原因で言論の自由ランクが落ちている。

2022-08-05

清水晶子(東京大学)「学問の自由キャンセルカルチャー」Part5 〜Ahmedが見立てキャンセルカルチャー批判メカニズム

目次

anond:20220805225632 Part1 〜学問の自由とその濫用

anond:20220805225835 Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略

anond:20220805230017 Part3 〜Academic Bill of RightsとProfessor Watch List〜

anond:20220805230307 Part4 〜キャンセルカルチャー批判

anond:20220805230534 Part5 〜Ahmedが見立てキャンセルカルチャー批判メカニズム

anond:20220805230705 Part6 〜質疑応答

学問の自由キャンセルカルチャー」Part5 〜Ahmedが見立てキャンセルカルチャー批判メカニズム

https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI&t=3920s

1:05:20~1:10:25

Sara Ahmed, "You Are Opressing Us!"

「誰かがノー・プラットフォームにされたと言うためのプラットフォームを与えられ続けたり、あるいは口を封じられたことについて延々と話をしていたりする時、そこにはいつもパフォーマティブ矛盾がある。しかしそれだけではない。そこであなたが目にするのは、権力メカニズムなのだ。」

自分がすでに抱いている信念を裏付け証拠を求める欲望は、時に、その証拠を生み出すための挑発や威嚇につながることがある。

侮辱的な言語行為が次々と述べられるのは、侮辱され気分を害してほしいという欲望があり、他者が気分を害するせいで『われわれの自由』が制限されるのだという証拠を望んでいるから、である。」

この枠組みを非常に早い時期に的確に指摘したのが、イギリスフェミニストとして知られるSara Ahmedです。

2015年のブログ記事でAhmedは、ガーディアン紙に掲載された、これ別の書簡なんですがこれも公開書簡です、

個人に対する検閲や口封じを許すことはできない」というタイトルの公開書簡を取り上げます

この公開書簡英国でのいくつかの例を取り上げつつ、

トランスジェンダーについてあるいはセックスワークについて特定批判見解を持つフェミニストたちが、

大学沈黙させられているというふうに主張するものでした。ちょっとここ分かりにくいんですけど、

2015年の英国のこの文脈では、沈黙させられているというふうに主張しているフェミニストたちというのは、

階級的にもそれからジェンダーモダリティという点でも、いわば多数派の側になります

Ahmedは、公開書簡で取り上げられている例というのが実際には、特定見解理由にした検閲だったりノー・プラットフォーミング、

ノー・プラットフォーミングっていうのはイギリス運動なんですけど、

イギリス学生運動の中で採用されてきた戦略で、非常に危険で受け入れ難いと見なされた見解とか信念、それこそネオナチとかです、

そういうものを公開する機会そのもの提供しない、そういうのがノー・プラットフォーミングといわれるんですが、

ただAhmedは、この公開書簡で取り上げられている例が実際には、

そういう検閲とかノー・プラットフォーミングには当たっていなかったということを、事実確認した上で、

にもかかわらずこれをあえて、キャンセル検閲、口封じ、ノー・プラットフォーミングという形で主張することで、

どういう効果が目指されているのか、ってふうに問います

これAhmedの引用なんですが、

「誰かがノー・プラットフォームにされたと言うために

そういう発言をするためのプラットフォームというのを実際には与えられ続けていたり、

あるいは口を封じられたことについて延々と話をしていたりする時に、そこにはいつもパフォーマティブ矛盾がある。

しかしそれだけではない。そこであなたが目にしているのは、権力メカニズムなのだ。」。

まり検閲された、口を封じられたという主張それ自体が、

検閲され口を封じられたはずの側がより力を獲得する、そういう目的のためにされていると。

からこそ、検閲され口を封じられること、言い換えればキャンセルされることというのは、ここではむしろ求められている。

キャンセルされたいんですね、どっちかっていうと。

次の引用ですが、

自分がすでに抱いている信念を裏付け証拠を求める希望は、時に、その証拠を生み出すための挑発や威嚇につながることがある。

侮辱的な」、これoffensiveですね、「侮辱的な言語行為が次々となされるのは、侮辱され気分を害してほしいという欲望があり、

他者が気分を害するせいで『われわれの自由』が制限されるのだというそ証拠を望んでいるから、なのである。」。

からキャンセルされると、そのキャンセルされた人ということでどんどん力が集まって、むしろキャンセルされたい。

キャンセルされるために、より侮辱的な、よりoffensiveな言葉が発せられるという、そういう仕組みができてるというのが、

Ahmedの見立てなんですね。

「この書簡は、フェミニスト発言自由になされるべきで、健康で活発な民主主義のしるしである討議や対話可能にするものだ、と考えている。しかし、トランフォビアや反トランス発言を、ハッピーダイバーシティ食卓自由に表明してよいような、ただのありふれた観点として扱うことはできない。食卓を囲んでいる誰かが、別の誰かを抹消するべきだと、意図的あるいは事実上主張しているときに、対話などしようがない。あなたを会話から抹消したがっている誰かと「討議や対話」をするとしたら、「討議や対話」はそれ自体が抹消のテクニックになる。特定の討議や対話を拒絶することこそが、したがって、生き延びる鍵となる戦略になりうるのである

学問あるいは言論の自由というもの支点とした、抑圧側と被抑圧側の逆転の構図、

表現を変えるのであれば、抑圧されて周縁化されてきた側からの異議申し立てを封じるための口実、

あるいは道具としての、学問とか言論の自由の利用っていう、

今日の報告では、90年代からこの図式が少しずつ洗練されつつ引き継がれた様子っていうのをざくっと見てきたわけですが、

その図式が現時点で到達しているのが、自由侵害された口を封じられたという主張が、

実は封じられることもなく自由に繰り返され拡散されることで、力をさらに獲得している、

クリックアルゴリズム時代キャンセルカルチャーというパワーメカニズムだ、ということになります

からこそ私たちは、国家や強力な組織経済あるいは社会規範要請などから学問の自由というものを守ると同時に、

現代の今2022年時点の学問の自由というのが、もろ刃の剣であること、学問の自由特定の利用には警戒すべきであるということを、

忘れてはならないと思います

最後にこういう自由濫用というものサバイブするためにAhmedが提唱した戦略引用して、私の報告を終わりにしたいと思います

「この書簡は」、先ほどの公開書簡ですね、

「この書簡は、フェミニスト発言自由になされるべきで、

健康で活発な民主主義のしるしである討議や対話可能にするものだ、というふうに考えている。

しかし、トランスフォビアや反トランス発言を、

ハッピーダイバーシティ食卓自由に表明してよいような、ただのありふれた観点として扱うことはできない。

食卓を囲んでいる誰かが、別の誰かを抹消すべきだと、意図的あるいは事実上主張しているときに、そこに対話など存在しようがない。

あなたを会話から抹消したがっている誰かと「討議あるいは対話」をするとしたら、

「討議や対話」はそれ自体が抹消のテクニックになる。

特定の討議や対話を拒絶することこそが、したがって、生き延びる鍵となる戦略になりうるのである」。

ありがとうございました。

anond:20220805230705 Part6 〜質疑応答

清水晶子(東京大学)「学問の自由キャンセルカルチャー」Part4 〜キャンセルカルチャー批判

目次

anond:20220805225632 Part1 〜学問の自由とその濫用

anond:20220805225835 Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略

anond:20220805230017 Part3 〜Academic Bill of RightsとProfessor Watch List〜

anond:20220805230307 Part4 〜キャンセルカルチャー批判

anond:20220805230534 Part5 〜Ahmedが見立てキャンセルカルチャー批判メカニズム

anond:20220805230705 Part6 〜質疑応答

学問の自由キャンセルカルチャー」Part4 〜キャンセルカルチャー批判

https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI&t=3428s

57:08~1:05:19

抑圧側と被抑圧側との逆転の構図

抑圧側と被抑圧側とのこのような逆転の構図というのは、2010年代にはオルト・ライトと呼ばれる新興右派

あるいはそれとも重なるミソジニーに満ちたオンライン男性主義の主張などにおいて、幅広く利用されるようになっていきます

もちろんマイノリティを、かぎかっこ付きの「私たち」の外部にある敵というふうに認定する、

その敵の攻撃から身を守らなくてはいけないという形で、当該のマイノリティへの抑圧や暴力正当化していくっていう、

その形というのはもちろんその以前から

例えば排外主義において、あるいはモラルパニックにおいて広く見られてきたものではあります

9.11同時多発テロの後、対テロ戦争期の欧米各国におけるイスラムフォビア暴力っていうのはこういうものだったわけですし、

あるいは70年代80年代に、同性愛者とりわけゲイバイセクシャル男性というのを、

当時は性的捕食者、セクシャルプレデターっていうんですけれども、性的捕食者あるいはHIVウイルス拡散元として、

非常に激しくバッシングしたのが英米モラルパニックっていうのになるんですが、これなんかがすぐ念頭に浮かぶと。

じゃあそのオルト・ライト勢力オンラインミソジニーアカウント群を巻き込んだ、2010年代の特徴っていうのは何かっていうと、

これ単にマイノリティ側を、自分たちを脅かす敵なんだというふうに認定するだけではなくって、

マジョリティ側が力のある側が、自分たちを「差別されている」「抑圧されている」、あるいは「自由侵害されている」という形で、

はっきりと、私たちこそが「被害者である」「被抑圧者である」という形で、語り始める点にあると言えるかもしれません。

そういう語りのこの後もいろいろ出てくると思うんですが、

今のところ最新の形がいわゆる「キャンセルカルチャー批判」というものになります

キャンセルカルチャーとは

CAMBRIDGE DICTIONARY

社会あるいは集団、とりわけソーシャルメディアにおいて、自分を傷つけ侮辱する (offend) ようなことを言った人を完全に拒絶したり、その人の支持をやめたりする振る舞い方

MERRIAM-WEBSTER

不同意を表明したり社会的に圧力をかけたりする手段として、集団キャンセル行為(公に、とりわけソーシャルメディアにおいて、特定の人や組織への支持を撤回すること)をするような実践

ピュー・リサーチセンター(2020)

リベラル寄りの人々は「ある人に自分の行動に対する責任を取らせるためのアクション」と捉える

保守派よりの人ほど「検閲」と捉える

キャンセルカルチャーという語が急激に知られるようになってきたのは、

2010年代後半のことで、したがってだから、数年なんですよね、

キャンセルカルチャー意味とか語法も、現時点で完全に固まってるとは言い難いところがあります

実際、例えば辞書定義を見ても、Cambridge Dictionaryだと、

社会あるいは集団、とりわけソーシャルメディアにおいて、自分を傷つけ侮辱すること」、offendという言葉ですが、

自分を傷つけたり侮辱したりするようなことを言った人を完全に拒絶したりとか、

あるいはその人への支持をやめたりする振る舞い方」、いうふうに定義している。

それに対して、もう一つ別の有名な辞書でMerriam-Websterなんかを見ると、

不同意を表明したり社会的に圧力をかけたりする手段として、集団キャンセル行為」、

このキャンセル行為というのは「公に、とりわけソーシャルメディアにおいて、特定の人や組織への支持を撤回すること」なんですが、

集団キャンセル行為を行う実践」っていうふうにしていて、だから重点がちょっと異なってるんですね。

またピュー・リサーチセンターによる2020年時点の調査では、

リベラル寄りの人々は、

キャンセルカルチャーというのは、ある人に自分言動に対する責任を取らせるためのアクションと捉える傾向が強い。

それに対して保守派に寄っていく人ほど、

同じキャンセルカルチャー検閲であるというふうに捉える傾向があるということが明らかになってます

まりある人々が、差別的だったり暴力的だったりするなど社会的・文化的問題があると思われる言動を、

放置しないために取るアクションだ、ってふうに考えているものが、

より保守的な別の人々にとっては、これがつまりキャンセルカルチャー批判」の文脈になるわけですけど、

そちらの人々にとっては、それが集団での圧力とか検閲とかっていう形で理解されている。

言い換えれば、「キャンセルカルチャー批判」という形でのキャンセルカルチャーってのは、そもそも最初から

しばしば多数派である括弧付きの「私たち」の言動を、差別的とか抑圧的などと非難することで、

私たち」の言動検閲する抑圧する、あるいは「私たち」を差別する圧力というふうに定義することができる。

から先ほどからお話ししている逆転の構図を含み込んだ用語っていうのが、キャンセルカルチャーだと言えると思います

正義と開かれた議論についての書簡」(通称ハーパーズ・レター」2020)

153の署名: ノーム・チョムスキーサルマン・ラシュディマーガレット・アトウッドなど

若い左派から批判キャンセルカルチャーキャンセル

人種的社会正義を求める強力な抗議運動」や「とりわけ高等教育報道慈善事業、そして芸術活動など、社会におけるより一層の平等包摂を求める声」というような「必要過去清算(reckoning)が、同時に、開かれた討議と差異に対する寛容さという規範を弱体化させ、それよりもイデオロギーの一致を求めるような、一連の新しい道徳的態度と政治的コミットメントを強化してしまっている」

保守派による「キャンセルカルチャー批判」の事例というのは、とりわけ2020年代になってからほとんど枚挙にいとまがない。

毎月のように何か出てくるんですが、ただ時間がないので、

ここでは学問の自由に関わる、そして最も知られた例の一つを挙げておきたいと思います

何かというと、2020年に公開された「正義と開かれた議論についての書簡」というものです。

一般的にはハーパーズ・レターと呼ばれるんですが、その公開書簡なんですけども、

この公開書簡は、当時のトランプ大統領代表される右派の動きというのは民主主義の脅威であるというふうに位置付ける一方で、

同時に右派はまずいと、だけど同時に左派の間にも異なる見解に対する不寛容がまん延しつつあるというふうにして、

より開かれた議論必要性を説くんですね。

ここの何か不寛容とかそういう表現が、先ほどちょっとお示ししたブッシュ・シニアポリコレ評価と、

用語としてこう微妙に近似しているのは非常に興味深いところなんですが、

とにかくただこれだけ見ると何でもない主張に見えるんですけれども、

この公開書簡、例えばノーム・チョムスキーとか、サルマン・ラシュディマーガレット・アトウッドなど、

非常に有名な人たちを含む153名の研究者作家ジャーナリスト署名しているんですけども、

この公開書簡、何でもない、割とこう、どうでもいいというか普通のこと言ってるように見えるにもかかわらず、

公開されるとすぐに「キャンセルカルチャー自体キャンセルしようとする公開書簡である」っていう形で、

人種的性的マイノリティを中心とする若い左派から大きな批判を受けることになります

実際のところただこの公開書簡自体を見ると、

キャンセルカルチャーという用語は、それどころかキャンセルっていう用語も1回も使われてないんですね。

じゃ何で批判が来るのかっていうと、ここ(=スライド)にあるんですけども、

人種的社会正義を求める強力な抗議運動」や

「とりわけ高等教育報道慈善事業、そして芸術活動など、社会におけるより一層の平等包摂を求める声」というような

必要過去清算」、この清算というのはReckoningという言葉を使うんですが、これが同時にそれは必要だと、

だけど同時にそれが「開かれた討議と差異に対する寛容さという規範を弱体化させ、それよりもイデオロギーの一致を求めるような、

一連の新しい道徳的態度と政治的コミットメントを強化してしまっている」というふうに言うと、

この表現が、とりわけBlack Lives Matterを通じて、

Racial Reckoningって人種的過去清算の盛り上がりを迎えていた英米両国においては、

人種主義への批判のもの不寛容だと見なすキャンセルカルチャー批判」の文脈につながる書簡だというふうに受け止められた。

同時に、キャンパスにおけるポリティカル・コレクトネス批判者として知られていた、

言語学者スティーブン・ピンカーであるとか、

ハーヴェイ・ワインスタインの弁護を引き受けたことで、学生から抗議を受けてハーバードロースクール学部長職を退くことになった、

法学者のロナルド・S・サリヴァンであるとか、

この公開書簡の公開時にはトランス排除言説の支持者として知られていて、その言動批判が集まっていた、

作家J・K・ローリングとか、

そういう人たちが名前を連ねていたということももちろん、

この公開書簡が「キャンセルカルチャー批判」の一翼をなすものと受け取られた一因ではあったと思います

この書簡は、先ほどもちょっと申し上げたように、例えば左派代表知識人と見られてきたチョムスキー署名をしている。

同時に、ネオコンサバティブの論者である、例えばフランシス・フクヤマみたいな人も署名してるんですね。

まり従来の分け方で言えば、まさに右も左もなく同意できる原則を語っているように見える。

にもかかわらず先ほどから申し上げているように、

実際には、より若手のマイノリティライターとか研究者から強い批判が出る結果になった。何でか。

恐らくこれは、後者に当たるより若いマイノリティの人たちというのは、

学問の自由とか言論の自由擁護というのが、

近年では力のある地位にある人々が、自分たち差別的・抑圧的な言説の責任を問われたときに、

その批判糾弾を振り払うために使う枠組みになってしまっている、ということを感じ取っているのに対して、

フクヤマにしてもチョムスキーにしても、ある程度は地位が固まった偉い人たちっていうのは、

その事実をあまりきちんと把握できてなかった、いうことではないかと思います

anond:20220805230534 Part5 〜Ahmedが見立てキャンセルカルチャー批判メカニズム

清水晶子(東京大学)「学問の自由キャンセルカルチャー」Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略

目次

anond:20220805225632 Part1 〜学問の自由とその濫用

anond:20220805225835 Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略

anond:20220805230017 Part3 〜Academic Bill of RightsとProfessor Watch List〜

anond:20220805230307 Part4 〜キャンセルカルチャー批判

anond:20220805230534 Part5 〜Ahmedが見立てキャンセルカルチャー批判メカニズム

anond:20220805230705 Part6 〜質疑応答

学問の自由キャンセルカルチャー」Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略

https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI&t=2904s

48:24~53:05

ポリティカル・コレクトネス

伝統的な大学制度における性差別人種主義同性愛嫌悪などに挑戦する改革側を、自由を抑圧する権力者として描き出す

アラン・ブルームアメリカンマインド終焉』(1987)

ニューヨーク・タイムズコラム政治的正しさという覇権の高まり」(1990)

ジョージ・H・W・ブッシュ大統領(当時) ミシガン大学におけるスピーチ(1991 (自分の考えを口に出す自由を脅かす不寛容さとしてのポリティカル・コレクトネス

報告タイトルにもなってるキャンセルカルチャーというのは、まさにこの文脈で作り出され拡散されてきた用語です。

これは学問の自由だけに関わるものではなく、幅広く文化活動一般に関して使われていますが、

学問の自由がその射程に含まれることもまた間違いはない。

ただ2010年代、後半ですね特にから急激に広まってきた「キャンセルカルチャー批判」についてお話をする前に、

その文脈ていうかその前身とも言える、いわゆる「ポリティカル・コレクトネス」っていうものについて少し確認をしていきましょう。

ポリティカル・コレクトネスという語自体は、

元来共産党が打ち出す公式路線に過剰に忠実な思考や行動を指す、ある左派の間の内輪の自嘲的な用語として使われていたものです。

ところがこれアメリカ文脈ですが、古典学者であるアラン・ブルームによる1987年の『アメリカンマインド終焉』、

1990年ニューヨーク・タイムズコラム政治的正しさという覇権の高まり」、っていうここら辺を契機として、

各種メディアなどにおいて、ポリティカル・コレクトネスを巡る議論というのが沸き起こる。

1991年5月には、当時のジョージ・H・W・ブッシュ大統領ブッシュ・シニアミシガン大学におけるスピーチで、

ポリティカル・コレクトネスというのは自分の考えを口に出す自由を脅かす不寛容さだ」というふうに言及するに至ると。

現在日本ポリティカル・コレクトネスというと、

専らポップカルチャーでの表現みたいな、映画とか漫画とかそういうことをイメージされるかもしれませんが、

そもそもポリティカル・コレクトネスについての議論というのは、大学という場をその主要な舞台の一つとしていました。

1980年代アメリカ大学では、女性学アフリカ研究など新しい学部プログラム設立

それからアファーマティブ・アクション採用それから大学におけるセクシャルハラスメントへの対応の開始、

それからコースとかカリキュラム見直しなどが一気に進んでいくことになります

これらは全部具体的な制度的変更なんですけれども、それと同時に大学における教育研究というものが暗黙の前提としてきた、

性差別人種主義ホモフォビアなどの検討修正とを迫るものでもありました。

こういう変革への抵抗や反感というものを、単に大学という限られた場所における制度上の闘争という形で提示したら、

それはあんまりアメリカの広い一般大衆の興味を引くことはなかったかもしれない。

けれどもこれをアメリカ価値の根幹に関わる、思想言論の自由危機として提示することで、

保守派側は一般の注目と関心を引きつつ、

伝統的な大学制度覇権に挑戦する改革側のほうをこそ、逆に自由を抑圧する権力者なのだというふうに描き出すことに成功します。

合衆国全土で言論の自由攻撃されている」

「この国土において不寛容さが増大していること、論争を解決するのに理性ではなく威嚇を用いる傾向が強まっていることに、私たちはみな警戒心をもつべきだ」。

実際に当時、先ほど申し上げたブッシュ・シニアミシガン大学演説ではこういう言い方がされている。

合衆国全土で言論の自由攻撃されている」と。

「この国土において不寛容さが増大していること、論争を解決するのに理性ではなく威嚇を用いる傾向が強まっていることに、

私たちはみな警戒心をもつべきだ」と。

1980年代から続く共和党政権なんですが、ブッシュ・シニア共和党政権は、

例えば女性の性と再生産に関わる健康権利の獲得に向けた運動というのを、はっきり言って足踏みさせた政権です。

またHIV/AIDS流行に対して同性愛嫌悪に満ちた対応で、LGBTコミュニティに深刻な打撃を与えてきた政権でもある。

人種主義に関して言えば、国内人種差別問題というのも当然温存されていて、

このミシガン大学演説の翌年92年には、ロサンゼルスでの人種暴動というものが起きてる。

にもかかわらずこの演説では、政府共和党によるそういう長年に関わる差別や抑圧が一切問題にされないんですね。

この演説暴力的な抑圧者だとして名指すのは、そういう差別とか抑圧を指摘して批判してきた側のその差別に対する不寛容

その差別に対する不寛容暴力だと抑圧だというふうに名指していく。

ポリティカル・コレクトネスという言説戦略

大学という特定組織における性差別人種主義同性愛嫌悪などに対抗することを目的とした取り組みを、思想言論への検閲であるかのように見せる

ポリティカル・コレクトネス」なる強権的な弾圧から思想言論の自由を守って闘う被抑圧者としての多数派

まり右派が持ち出した「ポリティカル・コレクトネス」というのは、

大学という特定組織におけるセクシズムやレイシズムホモフォビアなどに、対抗することを目的とした取り組みというのを、

逆にあたかマッカーシー旋風の再来を思わせるかのような、思想言論への検閲であるかのように見せる、

非常に巧妙な言説戦略だったというふうに言うことができます

この枠組みは既存体制に内在する差別や抑圧から人々の目をそらす、

しろ多数派こそが「ポリティカル・コレクトネス」なる強権的な弾圧というものから

思想言論の自由を守って闘う被抑圧者なのだというふうに主張することに成功したわけなんですね。

anond:20220805230017 Part3 〜Academic Bill of RightsとProfessor Watch List〜

清水晶子(東京大学)「学問の自由キャンセルカルチャー」Part1 〜学問の自由とその濫用

前置き

2022.7.24 一般公開シンポジウムフェミ科研と学問の自由

https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI

より、清水晶子氏発言部の文字起こしである

長いため講演部Part1~Part5+質疑応答の6部に分割する。

分割の境界スライドにある番号に従うが、副題は増田判断である

スライドはすべて図表のない文字ベースのものであったため、引用記法を用いて本文に組み込んだ。

講演部については、「女性スペースを守る会」が公開している文字起こしベースに、

増田が誤字の修正や、句読点の変更、改行の追加などの編集を行った。

質疑応答部、スライド部の文字起こしはすべて増田が行った。


批判記事の紹介

まず、江口先生による、8/9のブログ記事は必読だと考える。

加えて、講演に対する批判として書かれたものではないが、一般論として「キャンセルカルチャー批判」的な立場で書かれたベンジャミン・クリッツァー先生記事

なども参考になる。これら2記事は、江口先生も講演に欠いている「ミルタイプ言論の自由擁護」として紹介されている。

また、あまり整理がされていないが、この講演に対するTwitter上の批判的な反応を一覧できるものとして、

他、法学専門家による分析という点で他になく注目に値するものとして、

(あと、この書き起こしを編集している私自身も手前味噌ながら批判記事を書いている。「清水晶子先生の講演を読んで見る (1) 「学問の自由」の定義ってなんだろう」anond:20220809001101 )

目次

anond:20220805225632 Part1 〜学問の自由とその濫用

anond:20220805225835 Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略

anond:20220805230017 Part3 〜Academic Bill of RightsとProfessor Watch List〜

anond:20220805230307 Part4 〜キャンセルカルチャー批判

anond:20220805230534 Part5 〜Ahmedが見立てキャンセルカルチャー批判メカニズム

anond:20220805230705 Part6 〜質疑応答

学問の自由キャンセルカルチャー」Part1 〜学問の自由とその濫用

https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI&t=2457s

40:57~48:23

2022/7/24

学問の自由キャンセルカルチャー

清水晶子(東京大学

菅野優香

はい、お二人目は清水晶子さんです。

清水さんは東京大学大学院総合文化研究科で教鞭を執られています

フェミニズム・クィア理論をご専門とされ、

研究関心としては非規範的な身体と性の政治、とりわけ身体他者性、自己表象生存戦略可視性を巡る問題などがあります

最近英語圏フェミニズムおよびクィア理論史を改めて辿ることにも興味があるとのことです。

主な著作に、

Lying Bodies: Survival and Subversion in the Field of Vision英語の本です、2008年

「埋没した棘――現れないかもしれない複数性のクィアポリティクスのために」、2019年

フェミニズムの思想と「女」をめぐる政治」、2020年

フェミニズムってなんですか?』、2020年、などがあります

清水さん、どうぞよろしくお願いいたします。



清水晶子:

はい、ご紹介ありがとうございます清水晶子です。もうそのまま入っていきますが、

本日は「学問の自由キャンセルカルチャー」というタイトルで報告をしたいと思います

少し方向性が違うかもしれないんですが、よろしくお願いします。

学問の自由とは

学問の自由という原則は、学術コミュニティ構成員、すなわち、研究者、教員学生が、倫理的規則国際的水準に関して学術コミュニティが定めた枠組みの中で、そして外部から圧力を受けることなく、学術活動を追求する自由定義できる」

1998年 国際大学協会声明学問の自由大学自治社会的責任

学問の自由というところからいきたいんですが、学問の自由とは何を指すのか。

一般的には、大学だったり研究機関とかっていうものが、

政府なり場合によっては非常に強力な宗教だったり経済的権力だったりというところから圧力を受けることなく、

さらに言えば個々の研究者が、大学当局だったりとか大学経営陣あるいは多数派社会的通念・経済的要請などから

不当な干渉や抑圧を受けることなく、学問良心手続きとに従って真理を探究する自由、というふうに考えることができる。

例えば、1998年国際大学協会声明学問の自由大学自治社会的責任」という文書があるんですが、これによると

学問の自由という原則は、学術コミュニティ構成員、すなわち、研究者・教員学生が、

倫理的規則国際的水準に関して学術コミュニティが定めた枠組みの中で、

そして外部から圧力を受けることなく、学術活動を追求する自由定義できる」というふうにされています

学問の自由というものの基本がここにあるというふうに考えると、フェミ科研裁判文脈における学問の自由の主張というのは、

ある意味まさにここに相当するもの王道の部分というふうに言うことができるというふうに思います

2000年代前半:ジェンダーバックラッシュ

過激性教育ジェンダーフリー教育調査プロジェクトチーム

2014年広島大学でのいわゆる「従軍慰安婦」に関する講義

産経新聞による吊し上げ↑ 日本科学者会議広島支部幹事会による抗議

2020年日本学術会議会員任命拒否

日本学術会議会員任命拒否違法状態是正を求める意見書」提出(日弁連

残念ながら、日本フェミニズムとかマイノリティ政治に関わる研究者にとって、

今言ったような意味での学問の自由というのは、必ずしも安定して保障されてきたものではない。

からこそ、その必要性というのはしばしば痛感もされてきましたし、主張もされてきました。

今世紀に入ってから過去20年に限定しても、

2000年代前半のフェミニズム女性運動へのいわゆる「バックラッシュ」いうのがありまして、

ここでは与党自民党プロジェクトチームにおいて、ジェンダーという語それ自体使用疑義提示されたりしている。

2014年には、いわゆる「従軍慰安婦」問題を取り上げた広島大学研究者の授業というのが、

先ほども産経新聞出てきましたけど、ここでも産経新聞ですが、産経新聞によって吊し上げにあって、

批判や抗議が大学殺到し、日本科学者会議広島支部幹事会が学問の自由侵害であるというふうにして、

産経新聞に抗議をする、声明を出すという事態になったりもする。

もちろんさら記憶に新しいのは、2020年日本学術会議の会員任命拒否ですね。つまり当時の菅内閣総理大臣が、

日本学術会議が会員候補者として推薦した内の6名の任命を拒否した、というかしなかった件ですよね。

この任命拒否については、憲法23条保障する学問の自由を脅かすものであるというふうにして、

2011年11月に、日弁連が「日本学術会議会員任命拒否違法状態是正を求める意見書」というもの総理大臣に提出をしていると。

これらの事例での学問の自由というのは、この重要性、

この意味での学問の自由重要性というのは、本日シンポジウムのいわば前提になっているものだというふうに考えます

学問の自由」の濫用

差別的・抑圧的な言説に対して政治的・経済的に力のない側、社会的少数派の側からなされる批判や異議申し立てを「学問の自由侵害」とする言説

その前提をご確認いただいた上で、私の報告は少し角度を変えて、学問の自由という主張や枠組みがどう利用されているのか、

もう少し強く言うと、どう濫用されているのかでもいいかもしれないんですが、それを考えたいと思います

今申し上げたように、従来はそして一般的には、学問の自由というのは、

国家とか、強力な宗教団体、経済団体多数派社会通念や経済的要請、などなどの圧力を受けることなく、

研究者の社会的通念と研究手続きに則って真理を探究する自由を指す、というふうに理解されています

その意味では学問の自由という枠組みは、

力のある人たちとか多数派にとって都合が悪い、あるいはそこにとって利益にならないというだけの理由で、

研究教育を抑圧したり不当に妨げたりすることを困難にするはずのものです。

ところがこの学問の自由の主張が、全く逆のベクトルで利用されることがある。

すなわち差別的・抑圧的な考察や言説に対して、政治的・経済的に力のない側、社会的少数派の側からなされる批判や異議申し立てを、

これは「学問の自由侵害であるというふうにする言説、というのが見られるようになっている。

これは日本国憲法で保障される学問の自由からはかなりかけ離れたもので、何を言ってるんだというふうに思われるかもしれません。

けれども法的な解釈とは別のところで、こういう言説上の戦略というのが一定の効果を持ってきているのも事実です。

二面での闘い

国家による学問の自由の明白な侵害

②現状を追認し被抑圧側の異議申し立てを封じるための口実としての学問の自由の動員

結果として、フェミニストとして学問の自由を考えるにあたって、

私たちは一方では、フェミ科研裁判のように国家による学問の自由の明白な侵害というものと闘わなくてはいけない。

けれども同時にもう一方で、学問の自由というのが、差別的あるいは抑圧的な現状を追認し、

抑圧されてきた側からの異議申し立てを封じる目的で動員されるということに対して警戒をしなくてはならない。

学問の自由を巡っては、フェミニストには現在ういういわば両面での闘いというもの要請されている。

この現状は忘れるべきではないと思います

実は今日、私からお伝えすべき論点はそこに尽いているので、ここで報告終わってもあんまり問題ないっていう感じなんですが、

ちょっとさすがにそれでは簡便過ぎるので、この後の時間を使って、

こういうタイプの、マイノリティ権利主張を抑圧する目的で動員される「学問の自由侵害」という枠組み、

この言説というのが具体的にどう現れてきたのか、

これが非常に大きな論点になってきた英語圏の動きというのを中心に、簡単にまとめてご説明したいと思います

anond:20220805225835 Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略

2022-08-03

anond:20220803130606

カルト宗教を叩くというのは言論の自由であり基本的人権に含まれ

というか韓国カルトとべったりな自民党を叩いてるんだけどな

さらに詳しく言うと、「自民党韓国カルトとべったりで国富韓国北朝鮮に渡っていたことを知らずに愛国者のつもりで自民党を支持していたネトウヨバカにしている」なんだけどなw

anond:20220803130606

教義の是非を議論するのは、言論の自由があるんだからやって良いだろ

現代日本において因習と思われるものを温存するのであればフィクションの中だけにしとけ

アンポンタン教義をそのまま実践運用しようとするなら社会の敵だろ

2022-08-02

トランス女性女子トイレ利用」で思ったこ

なんでお互いに争ってるんだろうって思う。私はね。

トランス女性女子トイレを利用することに対して反対してる人は、「見た目が男性に近いトランス女性と、トランス女性を装って犯罪目的侵入してくる男性」の区別がつかないことに危機感を抱いてるんじゃない?トランス女性全体を性犯罪者予備軍みたいに見てるわけじゃなくて。

まあ実際「女子トイレでまで中身女だろうが見た目男見たくないよ〜!」って人もいるみたいだけど。

ただ私が考えるのは、トランス女性女子トイレを利用していい、という事になったとしよう。それでもし万が一、トランス女性を装った犯罪者が女子トイレ侵入して、なにかしら犯罪が起こったとしよう。そこから始まるのは何か?答えはひとつ。今よりもっと酷いトランス女性に対する排斥だ。

前述の通り、「見た目男性に近いトランス女性」と、「トランス女性を装う犯罪者」の区別は、本人以外には限りなくつかない。だからといって「私はトランス女性です」なんてネームプレートをつけさせるのはあまりにもグロテスクユダヤの星みたいになること間違いなし。

そこでトランス女性を装う犯罪者による犯罪が起これば、見分けのつかない一般人には、「すべてのトランス女性並びにそれっぽいと思われる人」を排除するしかなくなる。今よりおそらくもっと苛烈に。

そして大部分の至極真っ当に、ただ自分のあるがままに生きたいだけのトランス女性は、「お前たちがあんなこと言うから、こんな酷い目にあった、こんな面倒なことをしなくちゃならなくなった」という非難の目を向けられる。もしくは「あいつも犯罪者かもしれない」という疑いの目で見られる。それって今よりずっとずっと酷い状況だと思うんだけど、トランス女性女子スペースの利用を推進している人達には想像つかないんだろうか。

本来なら、害されるかもしれない可能性を抱えた女性たちと、今よりさら差別偏見に晒される可能性を抱えたトランス女性とその支援側が、一緒になって考えていくべき問題じゃないのか。なのに、今は対立してる。これじゃ当分無理だろうな。

権利を主張するのはいいと思う、別に。それは人間に生まれた以上、誰だろうが許されることだし、この国には言論の自由がある。

ただ、現実がそう上手くいくかと言えばそうではない。「落とし所」を探すしかない。主張するだけして対立ばっかしててもどうにもならないと思うんだけど、まあどうでもいいよ。ただこのままなんの対策もなしにトランス女性女子トイレに入ってもいいってなったら、私は外でトイレに行かなくなると思う。だってからいから。それだけ。

2022-08-01

lady jokerさんの手のひらがドリル回転

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/chounamoul/status/1050162068505022464

lady_joker 娘が真顔で言ってた体にするの忘れてるぞ

めっちゃ詳しくていちいち突っ込んでる。どうでもよくはないらしい。

  

     ↓

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1923586

lady_joker 再生回数全く回ってないな。コップの中の嵐どころか、お猪口程度の世界の話という感じ / 言論の自由という話が出てるが、家族にバレたくらいで消す程度の覚悟でやってるアカウントなんかどうでもいいでしょ

2022-07-30

anond:20220730223348

統一教会カルト公安から監視対象になってたのにいつの間にか統一とずぶずぶの国家公安委員長が据えられて監視対象から外されていたこととか

名称変更の件とか

全部自民党での話だよね?

叩かれて当然だよね

そもそも統一教会を「叩く」こと自体言論の自由範疇なんだからそういった言論も認めましょうと言うのが現代社会に生きる国民として当たり前の態度だよね?

ここ最近イライラしてそうで草

壺でも磨いて韓国献金でもしてろよw

2022-07-25

anond:20220725223548

日本にいる限りは言論の自由があると思ったけど、立場によって発言して良い悪いがあるとは知らなかったなー

2022-07-22

anond:20220721173301

ああ、「自分に不利なコメント掲載しない!」

言論の自由侵害だ!」

ってギャアギャア騒がれている現象だな。



X プラットフォーマー

O トランスフォーマー

有田さんがテレビ統一教会のことを語ると、テレビ局に執拗な抗議がある、と。

言論の自由のためにもメディアにはガンガン報じてほしい。

NHK特にこういう抗議に弱いというか、抗議に対して真摯に耳を傾ける姿勢なんだろうか?(最大限好意的解釈

2022-07-20

1998年小渕内閣以降の内閣支持率と時事トピックス(24年分)

何やったのか当時の反応を含め記憶曖昧なので内閣支持率を元にトピックスを書きだした。

毎月のNHK世論調査数字使用

前月と比較して7%以上内閣支持率の増減があったときのみ書き出した。

最初は5%増減で書こうとしたけど時事を調べるのが面倒で無理だった。

トピックス以外の雰囲気を掴む為、次のようなものも合わせて記す。(適当に作った)

支持率上昇率=(前月より5%支持率が上昇した月数)/在職月数
支持率下降率=(前月より5%支持率が下降した月数)/在職月数


元増田が小渕氏から書いてるので小渕内閣から

以下、当時の支持率数字と()内の数字が前の月との増減値。

小渕恵三 在職期間:1998.08~1999.03 1年8ヶ月 就任時:37% 退任時:35% 最高:53% 最低:20%

支持率上昇率:15.0%   支持率下降率:20.0%

森喜朗 在職期間:2000.04~2001.04 1年1ヶ月 就任時:39% 退任時:7% 最高:39% 最低:7%

支持率上昇率:23.1%   支持率下降率:46.2%

小泉純一郎 在職期間:2001.05~2006.09 5年5ヶ月 就任時:81% 退任時:51% 最高:85% 最低:39%

支持率上昇率:18.5%   支持率下降率:21.5%   ※2001.09 アメリカ同時多発テロ

安倍晋三 (第1期) 在職期間:2006.102007.09 1年0ヶ月 就任時:65% 退任時:34% 最高:62% 最低:29%

支持率上昇率:16.7%   支持率下降率:41.7%

福田康夫 在職期間:2007.102008.09 1年0ヶ月 就任時:58% 退任時:20% 最高:58% 最低:20%

支持率上昇率:8.3%   支持率下降率:25.0%  ※2008.09 リーマンショック

麻生太郎 在職期間:2008.09~2009.08 1年0ヶ月 就任時:48% 退任時:15% 最高:49% 最低:15%

支持率上昇率:8.3%   支持率下降率:41.7%

鳩山由紀夫 在職期間:2009.102010.05 8ヶ月 就任時:70% 退任時:21% 最高:70% 最低:21%

支持率上昇率:0.0%   支持率下降率:75.0%

菅直人 在職期間:2010.06~2011.08 1年3ヶ月 就任時:61% 退任時:18% 最高:61% 最低:18%

支持率上昇率:14.3%   支持率下降率:42.9%   ※2011.03 東日本大震災 この月世論調査なし。 2011.02 21% 2011.04 27%

野田佳彦 在職期間:2011.09~2012.12 1年4ヶ月 就任時:60% 退任時:20% 最高:60% 最低:20%

支持率上昇率:0.0%   支持率下降率:31.3%

安倍晋三 (第2期) 在職期間:2013.01~2020.08 7年8ヶ月 就任時:64% 退任時:34% 最高:66% 最低:34%

支持率上昇率:15.4%   支持率下降率:21.5%  ※2019.12 コロナ中国で1例目発生

菅義偉 在職期間:2020.09~2021.09 1年1ヶ月 就任時:62% 退任時:30% 最高:62% 最低:29%

支持率上昇率:0.0%   支持率下降率:23.1%

岸田文雄 在職期間:2021.102022.07(継続中) 10ヶ月(継続中)  就任時:49% 退任時:-% 最高:59% 最低:49%

支持率上昇率:10.0%   支持率下降率:10.0%  ※2022.02 ロシアウクライナ侵攻開始

内閣支持率の出典

https://www.nhk.or.jp/bunken/yoron/political/1998.html

2022-07-19

言いたいことを言うと通報されそう

人の言葉から犯罪予告殺害予告を見出す世の中だ

怒りや失望表現にも工夫しなきゃなんねえ

加害性を取り除き、脅し文句のよう感じる単語を言い換えて、ひたすらに面倒くさい

言論の自由ってなんだよ

2022-07-17

風刺ってお互い様では

ムハンマドの顔の風刺画で銃撃されたシャルリーエブドだって、顔の部分を死んだ記者に変えた風刺画が出回ってたでしょ。

日本人には分別がついてないけど、フランス国民レベルで、言論の自由表現の自由もそのくらいの覚悟を持ってやってるんだよ。

2022-07-16

anond:20220716142853

山上テロ正当化するような言説こそ、言論の自由の敵となるものですよね。

anond:20220716140601

から処分があり、自衛官への教育が徹底されるようになったのですよね。

もし、山上について「動機目的には共感する」などと公言する者が増えれば、それこそ言論の自由危機ですよ。

anond:20220716135921

メディアでは散々自衛官に対する批判がなされ、個人見解を述べた自衛官処分され、小西議員はその後も活発に政府批判を行われているようですね。

言論の自由がない」とは?

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん