はてなキーワード: 漠然とは
性欲は人より低そうだけどある。
昔から一日一回を越えて射精というものをできたことがなかった。
おそらくオナニー盛りであるだろう中高生の時分でも、全期間を通じて十回もなかったと思う、一日二度も射精したことは。三回は絶対になかった。
今日は溜まってるから二回するぞ! と事前に燃えていても、一度出してしまうとそんな気分は吹き飛んでしまう。
なので二回戦〜みたいな話は想像上の存在だと思っていた。エロマンガの中みたいに。
だけどな〜、実際あるんでしょ? 一晩に数回セックスするようなことが。他人のセックスを見たことがないからわからんけど。そう思うとなんか損してる気分になってしまう。
なので妻とのセックスは前戯多め。楽しんでくれてるとは思うんだけど、本当は二回三回としたいのかもしれない。したいって言われてもできないから聞いてない。
三十代も半ばになってきて、これからさらに性欲が減退していくことがわかっていて、これからどうなるんだろうという漠然とした不安がある。
たくさん射精したいです。
センセイに言わせると、これは「いずれ起こりうる問題」だったという。
この一件は非常に突発的なもののように思えたが、水面下ではフツフツと沸きあがっていた問題だった。
その沸点を突破したのが偶然あの日で、それに巻き込まれたのが俺というだけ。
結局、この一件が決定打となって栞サービスは終了を余儀なくされた。
店が繁盛してハイになっていたマスターも、さすがに暴力沙汰が起きたとあっては目を覚ますしかない。
「店の雰囲気も悪くなる一方でしたし、対処せざるを得えんでしょう。電車には座席と空調を、ホームには自販機と立ち食い蕎麦を、トラブルにはルールとマナーを。それが無理なら運営なんてしない方がいい。場末のサ店にも同じことは言えるでしょう」
栞サービスがなくなると客足は自然と遠のき、店には古参の常連だけが残った。
こうして、このブックカフェは以前の穏やかな雰囲気を取り戻したんだ。
「個人的にはホッとしたけど、バカがバカやったせいで台無しになるってのも気の毒な話ですね。もしサービスの利用者が健全な人間ばかりなら、終わるにしても“こんな形”ではなかったでしょうに」
「散々オレらが忠告した結果の“案の定”だから同情はしないけどな」
「あのサービスは人々の漠然とした発露欲をくすぐり、悪意の種を蒔く播種機だった。その側面があった以上、ああなることは必然だったといえる。マスターにとっては不本意な話かもしれませんが?」
タケモトさんは悪態をつき、温厚なセンセイも心なしか当たりが強い。
そうはいっても、未だ常連を続けているから情は残っているのだろうけれど。
少なくとも、この件で素っ気なくなった奴らよりはマシだ。
「しかし、パタリといなくなりましたね、あいつら。サービスやめたら文句つけてくると思ったけど」
「別ん所でよろしくやってるようだぜ。隣町のネットカフェで、似たようなサービスやってるみたいで」
「はあ、懲りないなあ」
あのサービスが悪意を育てる手助けをしたのは確かだけど、種そのものは彼らが元から持っていたものだ。
土壌があれば根付き、そこで実となり花となる。
それは超自然の摂理であり、今回たまたまマスターの店が狙われたってだけなんだろう。
花粉症の人間には傍迷惑な話だが、これからも彼らは栞のためにページを捲り、巡らせていくのだろう。
階はただ延々続く 話しながら 謳いながら
いりませんNONON 僕ら
あの向こうの もっと向こうへ
僕らの栞を 僕らの言い分を
大げさに言うのならば きっとそういう事なんだろう
気にしないゼ 自分語ろう
気を抜いたら ちらりと わいてくる
僕らは熱さを 僕らは付け込みを
お気持ちの表明と けして枯れない舌先を
大げさに言うのならば きっとそういう事なんだろう
誇らしげに言うのならば きっとそういう感じだろう。
今は大学生4年生、研究室配属、内定は貰って研究辛いねーって気持ちで毎日ベッドに寝転がっています。
多分あれは心因性によるものだったんだろうなーっていう感じです。
こんな時間にこんな場所に書き込んでいる時点でお分かりでしょうが、私はネットに依存していますし、頭どこかおかしいです。
生活に潤いがなくて、生きる希望が見出せていなかった(見出せていない)んだと思います。
一人暮らしを中断していたのをまた始めました。
研究への不安、友好関係の狭さによる寂しさ、昔からの漠然とした塞ぎ込みetcで鬱っぽさがあります。生活リズムも崩れていて、睡眠は取れていないです。今日は一日パジャマでベッドから出られませんでした。
食事は、体調が良くなりかけてきた頃はちゃんと食べられていましたが、最近はそこに気を回す余裕がなくて蔑ろになっています。
今日はお米が炊けなかった+朝買い物に行こうと思っていたが気付いたらスーパーの閉まる時間になっていた、ということで親に持たされたカップ麺を1つだけ食べました。
が影響しています。
睡眠が取れていない、栄養が偏っている、ので気分はあまり良くなくて、体力自体は全くないです。
現状心が不安定なままで、食事が取れていなくて体調も良くなってはいないですが、一応生きていて、あの時ほど死にそうではないよっていう報告です。
ちなみに鬱診断は過去に貰っていますが、今は通院してないのでよくわかりません。
久々に増田の記事を読んでいたら自分もちょっと前に書いてたなって思い出したので追記でした。
欲しいものリスト送っていただいた方、ありがとうございました。あれから、野菜ジュースをたまに買うようになりました。フルグラは、牛乳がないと不味くて辛かったので今も残っています。
聞かれてることに答える、私はこれができない。
例をふたつあげよう。
「・・・ポリポリうるさいですよね、ごめんなさい」
その状況をどうにかしたくて、さらに支離滅裂なことを話してギクシャク。地獄。
解説をいれられるならこうだ。
(ダイエット確かにしてるけど、してると言っていいほどしてない)
(確かに最近おやつもゼリーとかにしてたしダイエットしてる私に気を…)
(あっ食べてる音がうるさいんだ!やってしまった!)
「・・・ポリポリうるさいですよね、ごめんなさい」
これ数秒後に後悔してる。けど時すでに遅し。
とにかく、もう一つ例を。
「何色が好き?」
「あーーー、えっと、青、以外、いや、白とか赤が好きです!」
何色?って聞かれてんだろうが!って思う。答えた張本人、すぐにそう思ったけど時すでに遅し。またまたギクシャク。
どうか解説をさせてほしい。
「何色が好き?」
(白が好き!)
(本当に?白って答えたら印象がいいとか思って選んでない?)
(持ち物は黒が多いよね)
(赤も結構多いよ)
(白って答えて純情そうって思われるのもなんかヤダ)
(そもそも好きな色なんてなんでもよくない?)
(とりあえず青以外好きじゃん)
(白!)(いや赤だって)
「あーーー、えっと、青、以外、いや、白とか赤が好きです!」
声に出してないけど出したつもりでいるかのような返答ぶり。これこそが私のキャッチボールができない原因。気づけていないだけで、四六時中こうなのかもしれない…なんて考えると言葉を発すること自体が怖くなる。
■■■
0.1秒後に押し寄せる後悔、そして始まる脳内反省会。この間にも会話は進んでいる。見事に集中できずにまた失敗する。そして始まる脳内会議。エンドレス悪循環。
例であげた話は、どちらも何気ない、答えで何かが左右されることもない問いかけだった。
適当に「そうなんですよ!やったー!」とか「白が好きです!」とか答えていれば良かった。
私のことに興味があって話しかけてくる人なんていない。なんなら面倒だけど話しておかなきゃいけない義務で無理やり話しかけてくれる。だから適当に、そして早く会話が終わるように努めろ私。わかったな!
って何回も言い聞かせても、ボールを投げかえせないでいる。辛い。
■■■
接客が好きで、お客さんとの会話は上手く、そして楽しくできていた。
高校までは死ぬほどコミュ障だったけど、たくさんの接客系アルバイトで克服したと喜んでたのに社会にでた途端これ。
どうやらマニュアルがあれば、正解不正解に支配されてる頭の私は上手くやれるらしい。
私自身についての正解がないから、会話の間に正解を探して頭の中で会議をしてしまうのかもしれない。
それぞれの正しさを持つたくさんの私が、正しい私にしようとしている。
そうだとしたら、私は私のことが分からないという漠然とした悩みにも納得できる。
■■■
私は誰なのか。っていう答えのない自問を昔からずっとしてる。
何が正しいのか分からなくて、最終的に私の話し方や笑い方も忘れて、私でいることが怖くなり、人を避けて生活してる時期もあった。
そんな時でもアルバイトが楽しかったのは、私の在るべき正解があったからだったんだろう。
最近気づいた。
他にも、考え方は日々変わりゆくものなのに、「この私は私じゃない」と変わった私を否定する私にも苦しめられる。
正解なんてないのに、こんなことに振り回されてるなんて厨二かよ、、とも思うんですけど、それが正にはなってくれない。
■■■
この「好き」という感情は私自身のものだろうか。世間で流行ってるから好いているような気がしているんじゃないか。もしくは好いていれば何かで有利になるとか、そういう利害的な思考の末路なんじゃないか。
とりあえず、私はとてつもなく捻くれていて、自己否定的で、面倒な性格をしているということだけは分かる。こんな私と私は生きていくしかないから、適度に悩みながら適当に生きていこうと思う。
嘘です、適当に生きていけるようになることが夢です。
みなさんもどうか、そつなく適当に生きてってください。
と、いきなりクソデカ主語で失礼するが、一次創作でも二次創作でもイラストでも漫画でも小説でも、なんらかの作品を自ら作り出し、ワールドワイドウェブに公開し、あるいは大枚をはたいて本を刷っているひとは、少なからず反応が欲しいものなんじゃないかな、と私は思うわけ。
感想が欲しいから創作してるわけじゃないけど、でも、書き上がったものに対しては「どうだった?」って聞きたくなる。
え、ならない?
身近に感想不要派のひともいるし、全員がその限りではないことはもちろん分かっている。
欲しい反応だって、言葉なのかRTなのかイイネなのか、はたまた本を買ってくれることなのか、人それぞれだということも分かっている。
まあそういうわけで、つまり 私は とにもかくにも感想が欲しい。
この「感想」というのもまた捉え方が人それぞれなので厄介なんだけど、私は『感想とは:作品を読んで思ったこと』と定義しています。
純粋に読んで思ったことなので、それは「つまらん」とか「意味がわからん」とか「冗長」とか「漢字が読めない」とか、そういうあらゆるネガティブなことも、当然「感想」に含まれると思っている。
そういうのもぜーんぶひっくるめて、私は感想が欲しい。
自分の書いたものが、どのように受け止められているのか、それが知りたい。
書いたこと、書きたかったことが読み手に伝わっているのかどうかを、確認したい。
もちろん、褒めてもらえたら嬉しいし、けなされたら凹むんだけど、でもそれを知ることで、得るものがあると思っている。
と、いうわけで、コミッションサイトで感想を買ってみた感想を書きます。
<本題ここから>
今回、こういう依頼をするのは初めてだったので右も左も分からない状態だったんだけど、ともかくとあるコミッションサイトに登録して、そこから
「感想書きます」と募集しているクリエイターさん、かつ自分の作品を読んでくれそうな人(クリエイターさんによって受付条件がいろいろある)を一晩かけて見繕い、複数人に依頼してみた。
ちなみに、私は版権二次の小説同人誌を書いている腐女子なので、そういうのが万事OKなクリエイターさんにお願い。
結果、分かったこと。
①クリエイターさんによって、仕上がりにものすごくバラつきがある
この2点です。
私が登録したコミッションサイトでは、こちらが提出する文章の量に応じて値段設定してる人がほとんど。
依頼するときに、作品の情報と同時に作品自体も提出したので、それを見て、価格や、依頼を受けるかどうかの判断もされていると思われる。
こういうのって、クリエイターさん側も成果物のサンプルを上げていて、それらを見てこちらも誰に依頼しようか判断するものだと思うんだけど、
感想に関しては、成果物の例を上げているひとが誰もいなかったので、この時点では、どんな形式でどれだけの分量の感想が返ってくるのか、見当もつかない状態。
募集要項に書いてあることを熟読しても、仕上がりのイメージはまったく湧かない。
まあこの手の市場はまだ発展途上というか、醸成されてないだろうから、お互いに手探りなのは仕方ない。
よう分からんけどまあええわ!!なんかいい感じによろしくたのむで!!と思いながら依頼ポチー!
そんな感じで、クリエイターさんと何往復かやりとりして、価格や納期を相談し、時がくると、感想文が納品されてくるシステムです。
よう分からんと書いたけど、このやりとりの時点で、クリエイターさんの作風(?)というのがだいたい分かってくるので、この時になんとなく仕上がりが察せられるんだけどね。
あっさりめとか、分量多めとか、なんかそういうのが漠然と予測できる。(そしてその予測は的中した)
同じ小説を提出しても、返ってくる感想は千差万別。分量も、感想のテンションも、形式も、ほんとうに人それぞれ。
けっこうあっさり、さらっと流し読みしたのかな?って感じで、それはつまり「つまらなかった」(と直截には書かれてないけど)という感想かな、と思えるものから、作品を引用して一文ごとに詳細に感想を記してくれるものまで、ほんといろいろ。
まさに、私の小説を読んで各々が「感じたこと」を書いてくださったわけですよね。ありがとうございます。こんなとこで言うなて感じだけど。どれも、全部心からありがたかったです。
ここで、実際に納品された感想がどんなだったかを詳しく紹介したいとこだけど、互いに身バレしてもアレなんで控えます。
実際に頼んでみるといい!!!!
そういうわけで、依頼の時点では何が来るのか分からない、というのは良くも悪くもあるかな、と思いました。
自分の欲しい感想(見てほしい部分)がはっきりしている場合は、それをきちんと要望として出した方がいい。
例えば小説だったら、印象的だった一文を教えてほしい、とか読んでいてひっかかった個所を指摘してほしい、とか。
当たり前のことだけど、読み手としても、どういう視点で読めばいいのか迷うと思うので、漠然としているよりは着目してほしい点をはっきりさせた方が、お互いのためになる。
そのためにはまず依頼する側が、何を望んでいるのか、自分の思う「感想」とは何なのか、きちんと自己分析する必要があるとも思うけど。(自戒を込めて)
欲を言えば、クリエイターさん側から、テンプレートというか…こういう点を見てこういうコメントをしますよ、みたいな作例があると、さらに良いかなーとも思いますけど…。
それこそ、ジャンプのアンケはがきみたいなのでもいいし、よくTwitterとかで見かける、同人誌の感想シートみたいなのでもいいし。
それをクリエイターさん側が作るのか、依頼者側が作るのかって話にもなるけど。
感想書きます!と募集しているからには、クリエイターさんなりの感想論というものがそれぞれあるはずなので、それが分かる何かがあらかじめ提示されていたら、依頼者としても自分の欲しいものにマッチしたクリエイターさんを見つけやすいし、お願いしやすいんじゃないかな?
とはいえ、提出されたものによって、出てくる感想もバラバラにはなるだろうから、一概にテンプレ化もできないのかもしれないけどね。
あと、感想どころかふつ~~~に校正とか校閲的な指摘をしてくれるクリエイターさんもいて、(これは、私が忌憚のない意見を要望したこともあるとは思うけど)、入稿する前に校閲をお願いするのはありありのアリだと思いました。
多分、私は継続的にそういう使い方をすると思う。
そもそも、お金を出して感想を書いてもらうってどうなの???と思われるかもしれない。
私も正直迷いました。
だって、ふつうに同ジャンルにいる人たちとは、互いの作品に萌えたら感想を言い合ったりするわけで??
もしかしたら相手は義理で言ってくれるのかもしれないけど、それでもそれはある種の好意(あるいは厚意)として、もしくはなんか言いたいから(萌えたから)という理由で言ってくれているわけで????
それなのに、お前は感想を「買って」喜んでいるのか!!!!そんなに感想がほしいのかこの恥知らず!!!と思われるかもしれない。
でもね、ジャンル者からの「自発的な感想」と、「対価を払って得た感想」では、なんというか、土俵が違う。全然違う。
うまく言えないけど、「高級懐石料理」と、「風邪ひいたときにお母さんが作ってくれた大好物のプリン」くらい違う。比べることなどできない。
どっちも違ってどっちも良い。どっちも良いんだ!!!
私はどっちも欲しいです。
昨日のはてなブックマークの動きが気になったので、質問させてほしい。
7/4日未明~昼に発生した豪雨による熊本県の被害について、どのメディア/どのタイミングで情報を得ただろうか。
私の場合、朝起きぬけのTwitter巡回にて知った。九州地方に縁故のあるフォロワーが何人かいたためか、
私のTLに、以下のまとめにあるようなツイートや、球磨川氾濫のニュースが多数流れてきたためだ。
一見して大変なことになったと思った。
ここ数年、残念なことに、豪雨被害は毎年発生しているが、2階に届かんとするほどの浸水がこの面積で発生しているのは、
(私が見逃しているだけかもしれないが)初めて見たからだ。
そうこうしているうちに、球磨川上流の市房ダムが緊急放流(正しくは異常洪水時防災操作)を行うというニュースが飛び込んできた。
雨のピークが過ぎ、結果的に11頃に異常洪水時防災操作開始水位ギリギリで持ちこたえることができたため、何とか回避できたようだ。
(余談だが、豪雨災害発生時、私はダムガチ勢のツイートを探すようにしている。ダムの状況は今後の下流の状況を反映しており、
ガチ勢はモニタリングすべきダムの状況をリアルタイムにつぶやいてくれるためである)
さぞかしはてなブックマークでも話題になっているであろうと思ったのだが、ホットエントリは静かなものだった。
ニュースにせいぜい30ブックマークがついている程度だったと思う。
まあ土曜日だし、はてブを見る人も少ないのであろう、と納得していたのだが、午後になって、デイリーの東京都のコロナ感染者数のニュースが物凄い勢いで上がってきた。
あまりにも反応が違っていたため、私は混乱した。どちらのニュースも速報であり、同じ位ヤバいニュースだと思っていたからだ。
そこで冒頭の質問に戻る。もしかして、東京都等の都市部のニュースでは今回の被害は初報ではあまり取り上げられなかったのだろうか?
現時点で、被害関連のエントリが多数ブックマークされているので、はてなユーザが無関心だったとは思っていない。
ただ、メディアによって温度差があったのかもしれないなぁと漠然と想像している。皆さんが情報を得た状況などを教えてほしい。
【7/5 21:30 追記 】
皆さんブクマ&反応ありがとうございます。
私と同じツイッターや、災害情報アプリ、ニュースで知ったという方が多いようですね。
地方のことだから都会の人はあんまり興味ないのかな、と少しでも疑ったことを恥じています。
確かに、別ソースで知ったニュースについて、あまり情報がない段階でブックマークする動機、よくよく考えると無いですね。
定期的に辛くなってつらいって吐いちゃうんだけどつらいっていう自分がすごく嫌なので
早く死んでほしいのだが全然死ななくてそれもつらい なんで心臓止まんないかなあ
イライラするっていうか嫌なんだよな うまく言語化できない馬鹿なところも嫌なんだけど
嫌なことしかない ひとつでもいいことがみつかるくらいなら初めからこんなことは考えない
自分に許せることがない やりたいことしかできないのに生きてる意味ないんだよね
それでも自殺する行動力もなくて本当に嫌 と思って泣いてしまうのも嫌だし
嫌だな 統合失調症みたいな「特定の誰かが自分を追っている」っぽい感じじゃなくて
自分の一挙一動を自分の中の漠然とした『他人』という概念が批判している感じ
「○○したい」って言ってるのに全然やらないなこの人、とか
私を見ているとそう思うんだろうなと私が思い込んでだったら余計なこと喋らなきゃいいと思って反省するのに
いざ発話する時そのことを忘れてつらいとか喋ってしまうことが嫌なので頭も口もいらない
自我が一番欲しくない
ある場所で漠然とした質問をしてしまい失笑を買った。何かを質問するときは分かっていることと分かっていないことを整理してから質問すべきだと悟った。これは自分自身への問いかけにも言える。漠然とした質問を続けても答えは出ない。
ある記事を読みました。
内容は識者にメタクソに言われるようなものでしたが、その論調は整然としており口調も丁寧でした。
おそらく著者は単に無知なだけであって、自分の発話意図が誤解を招かないように言葉を尽くしている印象を受けました。
この記事を読了し、まず思った第一感は「自分がなぜそう思うに至ったかについて言葉を尽くしている。誠実な論調で好感が持てる。」といったものでした。
そこでふと思いました。「論調が誠実で著者に好感を持っているので、今の私はその内容に理解を示しやすくなっているのではないか?」と。
そしてこうも思いました。私の感想はトーン・ポリシングと近い位置にいるのではないかとも。
そのような感想を持つ私はトーン・ポリシングを行いやすい人間かもしれないと。
--------------------
トーン・ポリシングのことを「口調・論調を非難することで内容の妥当性を損なわせる行為」と理解しています。
その行為は論点をずらすことになるため避けるべきだ……という方針を私は漠然と採用しています。
これを便宜的にこの日記では「ネガティブ・トーン・ポリシング」と呼ぶことにします。
では、「口調・論調を『賞賛』することで発言の妥当性をプラスの方向に歪める行為」は避けるべきなのでしょうか?
これを便宜的にこの日記では「ポジティブ・トーン・ポリシング」と呼ぶことにします。
--------------------
実際には私は「論調が誠実で著者に好感が持てる」と思っただけです。
では「言葉を尽くしており、論調が誠実な点は素晴らしい」と述べた時点ではどうでしょうか?
さらに「言葉を尽くしており、論調が誠実な点は素晴らしい……ので、皆もあまり辛辣な言葉を投げないでもいいんじゃないですか?きっと彼は話せばわかる人ですよ」と述べた時点ではどうでしょうか?
単に「言い方が気に食わない」と一言感想を述べれば「トーン・ポリシングだ!」と非難されるかもしれません。
では「言い方が誠実な点は評価できる」という一言感想は「トーン・ポリシングだ!」と非難されうるのでしょうか?
--------------------
ポジティブ・トーン・ポリシングが非難されるとすれば、その理由はなぜでしょうか。
ネガティブ・トーン・ポリシングの場合と同じく論点をずらすからでしょうか?
ただ、ポジティブとネガティブでは論点をずらしたそのあとの展開が異なります。
ネガティブの場合は論点をずらし、内容を取り合わないようにする点が問題なのでしょう。
ポジティブの場合は論点をずらし、内容を耳に聞き入れやすくする点が問題なのでしょう。……それが問題なのであるならば。
長々と書いてはいますが、結局ポジティブ・トーン・ポリシングは問題でも何でもないのでしょうか?
ネガティブの方が非難されるシチュエーションは、マイノリティの強い口調の意見がネガティブ・トーン・ポリシングによって黙殺される場面が例として頭に浮かびます。
ではポジティブの方が問題となる場面は?私が見てきた狭い世間の中で、それが問題だと言われたことはないような気がします。
--------------------
少なくとも私は今回読後に論調・口調についての感想が第一感として浮かびました。
たまたま今回はポジティブな感想でしたが、次もそうとは限りません。結局私は「そういう」人間なのでしょう。
議題ではなく人柄、口調、論調……そういったものにまず心をうたれる人間だということです。
少なくとも言えることは、論調・口調についての感想が第一感として浮かんだならば、それがポジティブな感想だったとしても「いや、内容に目を向けよ」と自戒する意識付けが私の中に生まれたことは有意義だったと言っていいでしょう。
それは栞の本質を理解しないまま、あのサービスを利用しているのが一因だろう。
だから「栞に何かを書く」ことを享受する割に、それ自体の目的や欲望がハッキリとしない。
善悪や可否すら宙ぶらりんのままだ。
「漠然としている彼らにとって、この漠然としたシールはピッタリなのだろう」
誰かに貶されるわけでもないが、誰かが誉めてくれるわけでもない。
それを明確に可視化し、干渉できるこのシールは彼らにとって刺激的だったんだ。
「ただ……“ニーズに基づきすぎていた”んだろうな」
「どういう意味です、それは」
俺が尋ねると、二人が渋そうな顔をしている。
もちろんコーヒが苦かったら、ではないと思う。
本当に言うべき“何か”を避けて、口を歪ませている感じだ。
「……なあ、お前はどう思う、マスダ」
俺の疑問を他所に、逆にあっちが尋ねてきた。
「何がですか」
「今までの説明を聞いて、現状を見て、このサービスについて、どう思う?」
「……どうもこうもないですよ」
そう答えるしかなかったが、かといって嘘を言ったつもりもなかった。
だって俺がどう思っていようが、それは重要なことじゃないからだ。
例えば、連れ立った相手が服を選んでいる状況を想像してみるといい。
そして、その相手が「どっちの方が似合う?」なんて聞いてくるとしよう。
この時、俺の答えに意味なんてないだろう。
似合うと思う方を答えようが、天邪鬼で違う方を答えようが変わらない。
どっちでもいいと思ってテキトーに答えても同じだ。
いずれにしろ相手は服選びを悩み続けて、結局はこちらの意見と関係ない結論を導き出す。
タケモトさん達の質問も、要はそういうことだ。
「多分ですけどね。彼らは“栞に何かを書くという行為そのもの”には理由だとか是非を求めてないんです」
俺はグラス片手に、二人の会話をただ聞いていた。
個人的には興味のある話ではあったけど、アイスコーヒーを薄めてまで参加するほどじゃない。
「そんな大層なものではなく、より曖昧で、漫然とした、不確かな感情ですよ」
「ハッキリしねえなあ」
「そうです、ハッキリしない。けれど彼らにとって、それは大して重要じゃないんです」
センセイの言っていることは捉えどころがない。
前提の共有もエビデンスもあったもんじゃないが、お茶請けには悪くない持論だ。
「上手くいえませんが……“何かを発露したい”という欲求、といいますか」
「“呟き”……ツイッターみたいな?」
「そうですねえ。昔の偉い人が、そんなことを言っていたような気がします」
それに不思議と、会話の端々に真理めいたものがあるようにも感じられた。
俺の中に漠然とあった違和感、それを治めるのに二人の会話は丁度よかったのだろう。
「で、その心は?」
「つまり当人たちも自分たちが何でそんなことをしているか、実際のところは良く分かっていないってことです」
「はんっ、アホくさ」
いきなりの酷い例えに、俺たちのコーヒーを飲む手は止まった。
「横槍ですみませんが、できれば飲食店にふさわしい比喩表現を」
「おっと……こりゃ失礼」
近くにいたマスターに諌められ、センセイは分かりやすくションボリしていた。
顔を伏せていて表情は伺えないが、俺の席からでも分かるくらい耳を紅潮させている。
センセイは基本的に淑やかな人だが、話に熱が入ると周りを困惑させることが多い。
以前も独身貴族が「結婚は人生の墓場だ」なんてボヤいていた時、「しかし夜は墓場で運動会ですよ」と言って場を凍りつかせたことがあった。
私の故郷はとても寒い場所にあって、そこで大人になるまで暮らしていました。
事情があって町を出てから初めて、あぁ、私はここから本当に離れたかったのだなと気がつきました。
一人暮らしを始めた日は大雨警報が出ていて、ラジオからは空港で足止めになった人がインタビューを受ける声が聞こえました。
これから暮らす知らない街は嫌がらせのように道が入り組んでいて、番地の順番はひどく不規則でした。土砂降りの中、散々迷ってほうほうのていでアパートに辿り着いたとき、私は全身ずぶ濡れで、まるで服のままシャワーを浴びたかのようでした。
電気がまだ通っていなかったので部屋の中は真っ暗でした。ドアを開けると、安くて古い家特有の匂いがして、一歩進むごとに床がぎしぎし鳴りました。アパートの廊下の灯りに照らされて、自分だけの部屋に一人佇む私のシルエットが浮かぶのが見えました。
それを見た瞬間、お腹の底からわーっと力強いエネルギーのようなものが湧き上がってきました。
半径数十、いや数百キロメートル圏内には私のことを知っている人はたぶん誰もいなくて、その事実はしびれるような幸福感をもたらしてくれました。
****
色々な街に住むための行動を起こしたのではなく、そのときどきで必要な行動をした結果色々な街に住むことになったのですが、
無意識のうちに移動を伴うような選択をしてきたのかもしれません。
夜の車窓から見える街の明かりのせいで心細くなるので、旅は好きではありませんが、
知らない街でそこの住人に擬態して生活するのはとても楽しいことでした。
その土地の美しい景色、独自の生活様式、特徴的な食べ物、そしてそこに住む人々について知るたびに、自分がまるで文化人類学者であるかのような気がしました。
そして、
何か嫌なことがあったり、滅多にないことでしたが人間関係にまつわるトラブルに見舞われたとき、
最悪引っ越せばいい、と思えるようになってからは、悲しい気持ちや、人への執着や、期待といったものを水に流すことができるようになりました。
****
今の街に来てから、もう四年間が経ちました。
適度に都会だけれども人々にはよそよそしさがなく親しげで、食べ物も美味しくて、とてもいいところだと思います。
ですが、しばらく同じ場所に住んでいると何だか息苦しくなってきて、変化が欲しくなってきます。
本来ならばこんなに長くここにいるつもりはなかったのですが、なぜ留まり続けているかというと我ながら陳腐だなぁと少し呆れるのですが、好きな人ができたからです。
ここに来てしばらくして知り合ってすぐ好きになってしまったのですが、半ば世捨て人のような生活をしてきたので自分に自信がなく、そのため何らかの働きかけをする勇気が出ませんでした。なので、特別な関係になりたいとは考えていませんでした。
そう思っていたのですが、ちょっとしたきっかけでとても親しくなって、一年ほど前からお付き合いしています。
その人は、私と雰囲気は少し似ているのですが、
穏やかで、よく考えてからゆっくり話すタイプで、生まれてからずっとここで暮らしていて、子供の頃からの友人と今でも親しくしていて、とにかくそういった意味で全然性質が違う人です。
ずっと一緒にいたいなと思います。真偽のほどは不明ですが、その人も同じように言ってくれます。
ある日、一緒に遠出したときに、私たちの住む街を見下ろせる小高い丘のようなところに行きました。
道中で、この街が好きですかと恋人に尋ねました。彼は、好きですねと答えました。
眼下に広がる街の明かりはとても綺麗で、繋がれた手のおかげで心細くなかったのですが、
私はずっとこの街で暮らすのだろうか?本当に?
****
ときどき漠然とした言い知れぬ不安に襲われるのは、私のアイデンティティが脅かされているからだと思います。
ずっと同じ場所で暮らしていくのなら、これまでのやり方、最悪引っ越せばいいという姿勢ではいられません。
それに、恋人と過ごしていると、自分の境界がわからなくなるような気持ちになるのでした。
うまく言えないのですが、
一緒にいると、彼の体から出てくる粒子の細かい不思議な粉が私の肺の奥深くまで入り込んで、頭がだんだんぼうっとしてきて、
そうしている間に二の腕やらふくらはぎやらの軟らかい場所から順番に食べられていくようなイメージが浮かびます。
最近では、自分が無意識のうちに彼のような言動や考え方をしていることがあります。
このまま放っておくと、私は恋人とこの街に徐々に侵食されて、いつか個を失ってしまうのではないかという気がしています。
でも、それも悪くないと考える自分もいます。それどころか、むしろそうしたいとすら思っているのかもしれません。最近は自分のことがよくわからなくなってきています。
だんだんぼんやりしていく頭の中で、今まで暮らしてきた街の景色や人々、初めて一人暮らしをしたときのわくわくするあの感じ、寒くていつも天気が悪い白くて小さな私の故郷のことなどを考えて、
旅をしてきたのではないはずなのに、楽しい旅だったなと、胸のところがすうすうするけれども懐かしくて暖かい気持ちになって涙がこぼれました。
創作意欲というのは不思議なもので、ひとたび無くなってしまうとそれが滾っていたころの気持ちというのはどうにも思い出せないものです。
そもそも、創作意欲というものがあったのかさえ分からなくなる。それはとても不思議な感覚で、毎日のように絵を描いていた右手がぱったりと何も描けなくなります。
それが創作意欲の枯渇なのか、もっと根本的な問題があるのか私には分かりません。そういう、新鮮で鬱屈とした日々を半年ほど過ごしてきました。
元々絵を描くのは好きで、それこそ子どもの頃から絵を描いていました。クラスでも1番か2番みたいな、特別上手くもなく不快なほど下手でもないという程の画力でした。
同人誌も作ったし、お金をもらって絵を描いたりもした(もちろん少額ですが)。そういう経験はとても楽しかったし、自分の絵で人が喜んでくれるなんて初めての経験だったのでただただ嬉しかったのを覚えています。
それが、ここ半年くらい全く絵が描けなくなってしまいました。それだけなら良いもの、今まであまり抱かなかった鬱屈とした感情を大いに抱くようになりました。
それまでは上手い絵を見ても良いな~と思うくらいで、お手本にしようと思っていました。何か月でここまでう上手くなりました!みたいなツイートを見てもすげぇ自分も頑張ろうと思えていました。
最近はそういうものを見ても、どうして自分にはこんな絵が描けないのかという自責の念を抱くばかりです。また、常に作品の粗を探すような見かたをしてしまうし、自分にそんな能力ないのに批評家気取りの感想を抱いてしまいます。
今までそういう感情が絵を描くことによってうまく発散されていたのかなーなんて思ったりします。これからはこうやって文章でも書こうかな、これを書いてて楽になってきたし。
どうして絵が描けないのか、というか創作的なアイディアが浮かば無いのかの原因はいくつか候補があります。
1について。私は現在就活目前といった感じで、ほんとは絵を描いてる場合ではありません。その準備、果ては卒業後に生きていけるのかという漠然とした不安がやばいです。
調べても調べても果てが無いし、もう卒論できて内定貰うまでこの不安は消えないしどうしようもない。
2、ずっと家にいて友人も数日に一回通話するだけ。一人暮らしなのでマジで一生一人で考え事する時間が多い。前から一人より人と話すほうが好きだったので割とつらい。
3、絵を描く理由の一つに絵で食うというのがありました。ここ数か月で自分にはそういうのは向いていない、というか、絵を描く上で何を表現したいのかみたいなことを考えるようになってしまいました。
それが無いとこの先絵を描き続けられそうにないという。そういう考えが先行して、前みたいにパッションだけで絵が描けない。べつにおっぱいが大きいだけの絵でもいいんです。頭では分かっているけれど自分が描く意味が分からない。
好きなアニメのキャラをただ描くという、簡単にできていたことが今となってはとてつもなく難しい。
これが一番大きくて、自分が描かなくていいんじゃないかという考えがどうしてもよぎって手が止まります。前みたいに自信満々に描けるようになるといいんですがね。
取り合えず、毎日のように絵を描いていたのに、何か分からんが突然描けなくなった話でした。こういう日々が初めての経験なので、このスランプみたいなものから復活できるのか、筆を置くことになるのか分かりません。絵を描かない自分が想像できないのです。今がそうなのに。
なんか新しい趣味を始めようか、小説でも描いてみようか。就活しなきゃとか色々考えて課題やって一日を終える日々を送っています。5000兆円とは言わないけど内定貰えればとりあえず不安は一つ無くなるのでそれをめざすしかないのかな~。
↑を書いた後、予想以上の量のコメントを貰ってびっくりした。量も驚いたが、内容も、人によって結構違う内容や態度だったりで、何故か、その事に少し救われた(妙な話だが、敵対的な態度の人も居る事が、むしろ嬉しかった)
で、増田でたまに見るブコメ等への返事の追記をやるべきかどうか悩んでいる内に日が過ぎてしまった、ひとまずここに書いておこうと思う。
まず、「SNSをやめたほうがいい」「フェミニズムから一旦離れた方が良い」という意見が有ったが、離れるつもりは無い。
何故なのか?と言うのは自分でも良く分からない。単純に意地になって居るのかもしれない。
ただ、一つ思うのは、「終わったものボックス」に入れられるのは嫌だな、という事だ。
私が例えばSNSから離れたり、カウンセリングを受けたりしたら、私の懊悩は「じゃあ解決したね、よかったよかった」になってしまう、そうはなりたくない。(そもそも、カウンセリングはそんなに万能ではないとも思う。どちらかと言うと、他人の問題を「お終い」にしてしまう為の道具として、便利に使われている印象がある)
それに、基本的に私はリベラルもフェミニズムも正しいと思っている。
いくつか疑問に思う部分が有ったとしても、やはり離れる訳にはいかない。
また、離れても無駄だとも思う。既に私はフェミニズム的な視点や捉え方や規範を他者から学び、内面化している。
SNSから離れようが、既にそのコピーのフェミニストは自分の中にいて、その声からは逃れることは出来ないし、すべきでも無い。
「人をカテゴリで捉えるな」というコメントも多かった。それから、「リベラル派じゃなくてリベラリズムに従えよ」という文章を書いてくれた増田もあった。
正しいとは思う。ただ、実際に遣るとなると、難しい、というか、無理な気がしている。
社会問題を扱う限り、会った事も無い人の被害や加害を考えなければならない(そうでなければ、それは「社会」に対する思考ではない)、会った事の無い人について考える時に、「女性」や「男性」や「フェミニスト」や「リベラル」のようなカテゴリは非常に有用だし、それ無しで考えるのは不可能じゃないかと思う。
また、現実の話もある。例えばある女性やフェミニストの方の主張に疑問を感じたり、リベラリズムに反すると思った場合、それを男性の私が指摘したり疑問を言葉にするのは、正直言って、難しい。
この雰囲気をどう伝えれば良いのか分からない、兎に角、難しい。それによって私がセクシストであり、差別主義者だと言われてしまうのでは無いかという恐れが常に有る。
これは私に限った事ではなく、私の周囲の人も、女性に限らず、社会的弱者や当事者の方の言う事に疑問を呈す場合は、かなり慎重に行う。社会の非対称性を考えれば当然の事だとも思う。例え多少おかしな部分があったとしても、それを強者である男性が、当事者の口を塞ぐというのは、有ってはならない、と思う。
それから、リベラリズムについては、説明がし辛い。昔は自分も所謂「自由を貴ぶ」という意味でのリベラリストのつもりだったが、今は、(大雑把な表現だが)「弱者を守る」という意味でのリベラルである。今の日本でリベラルと名乗る人の大半は後者だと思う。
ただ、彼の言う事は本質を突いている気がする。恐らく、自分は今後者のつもりだが、後者に成り切れておらず、前者の部分が残ってしまっているのだ。
前者の意味でのリベラルは、現在の日本ではむしろ所謂「ネトウヨ」や「ミソジニー男性」(と、後者のリベラルが見做している人達)と相性が良い。
気付いた人は多分居ると思うが、前回の増田で私が書いたフェミニズムへの疑問(ゾーニングの公の範囲や、BL等の免罪等)は、上記の様な、リベラル、フェミニズムの敵対者が良く主張している事に非常に似ている。そのもののものもある。
恐らく、つまり、私はリベラルを自認しているが、私の中にはネトウヨ的な部分や、ミソジニーも有るのだと思う。
だから私は、恐らく正確には、前者と後者、両方のリベラルであり、だから、その矛盾に引き裂かれているんだと思う。
「ネトウヨ」や「ミソジニー男性」といった言葉の選択には怒る人も居るかもしれない、ただ、これは便宜的な呼称だと思って欲しい。
少なくとも現在の日本では、後者の意味でのリベラルやフェミニズムの問題点を指摘できるのは、彼らだけだろう、といより、問題点を指摘すれば「ネトウヨ」「ミソジニー」と呼ばれる事に成る。
だから、私のフェミニズムへの疑問は、「ネトウヨ」「ミソジニー」という事に成らざるを得ない。
ここでまた、「またカテゴリで考えている」と言われるだろう、でも、現実にそうなのだ。そりゃ、リベラル自身がリベラルの問題点に言及できるようになればいい、それが理想だ、でも現実は違う、そんな事は出来ない、そんな事をすれば利敵行為すなわち「ネトウヨ」と言う事に成るからだ。
リベラルやフェミニズムへの疑問や矛盾に悩む私に「SNSから離れた方が良い」と言葉を掛けてくれる人は一杯居た。けれども、「そのような矛盾をこれから解消しよう」と言ってくれる人は一人も居なかった。
(いや、こう言う言い方は不当かもしれない。そもそも、リベラル側の人は、そのような矛盾が有るとは思っていないのだろう。だからその解消を求める事自体がお門違いなのだ)
これまで書いた事について、正直な所、後ろめたさというか、これでいいのだろうか、という迷いが有る。
リベラルやフェミニズムに矛盾や問題点がある、なんて事を書いて、いいのか・・・分からない、それ自体間違っている気もするし、「間違っている」と言われる気もする。
ただ、まぁいい、もうこうなったらいっそ、(滅茶苦茶長くなるだろうが)思った事全部書いてしまおう。
「リベラルならラディカルフェミニズムじゃなくリベラルフェミニズムの方に向くべきでは?」というコメントに対する返答も先程とほぼ同様、
リベラルフェミニズムは前者のリベラル(つまり自由を優先する方)と相性が良く、後者のリベラル(弱者を優先する方)はラディカルフェミニズムと相性が良い(相性がと言うより、仲が良い、と言った方が正確かもしれない)
自分は後者が主軸なので、ラディカルフェミニズムと協調する事に成る、そうすると必然的に表現の自由等より、弱者を守る事を優先する事に成り、女性を消費するようなコンテンツを肯定できない→オタクである自分自身と不調をきたす、という事に成る。
まぁ、日本ではラディカルフェミニズムが支配的で、リベラルフェミニズムはあまり広まっていないという事情も有るとは思う。(アカデミズムでリベラルフェミニストの有名な人って例えば誰が居るんだろうか)
訂正と謝罪をするべき事が有る。
増田で↓のように書いた。
学生時代の苦しみは、一体何だったんだろうか?あの時の加害者の中には女性もいる。彼女は弱者で、自分は強者である。
キラキラした人、美しい女性、充実した人生を送ってそうな人がフェミニストとして、男性を糾弾する。
俺は一体何なんだろうか?
これについて、「キラキラしてない、パッとしない女性もいると思い出してほしい」「美人の苦しみを矮小化している」という批判があった。宇野ゆうか氏の下記のページもそれに当たるだろう。
https://yuhka-uno.hatenablog.com/entry/2020/06/28/134939
これについては謝罪すべきだと思うのだが、うまく出来る自信が無い、何故かと言うと、↑の部分は指摘された様な意図で書いた訳ではないのだが、
「そういうつもりでは無かった」「誤解を与えてしまった」という謝罪は、正しい謝罪では無い、と言うのは常識になっている。では、他のどのような謝り方が正しいのか、考えてみたが、上手く答えが出なかった。
ただ、それも難しい。この部分は、正直に言うと、自分でも何が言いたいのか分からない、「俺は一体何なんだろうか?」という漠然とした疑問が主題だからだ。
ただ、いくつか明言できることは有る。まず一つは、「キラキラしてない、パッとしない女性もいる」という事は、自分も勿論分かっている。この文は「女性やフェミニストはみんな、キラキラした人、美しい女性、充実した人生を送ってそうな人である」という意味では無いし、そう意図しても居ない(ただ、そう読み取れる余地を残してしまった事はやはり自分の落ち度だと思う)
女性の中に、「キラキラした人、美しい女性、充実した人生を送ってそうな人」が居る、と言う事を念頭に置いて書いていた。(「女性はみんな~である」と「女性の中に~な人も居る」の違い)
また、「キラキラした人、美しい女性はみんな、充実した人生を送っている」という意味でも書いていない。キラキラした、美しい人にもそれぞれ固有の苦しみは有るし、そもそも女性差別は制度的な差別を含むから、社会的な美醜に関わらず多くの場合被害は受ける。外見からその人の人生を推し量ることはできない(だから、宇野ゆうか氏の書いた事は正しいと思う(正しいとか、何目線で言ってるんだという話だけど・・・・))
従って、「キラキラした、美しい、充実した人生を送る人が男性を糾弾するのは間違っている」と言いたい訳でも無い。そういった人も女性差別には遭うのだから、糾弾するのは正当な権利だ。
ただ、分からない、この感じをどう表現すれば良いのか、この「何なんだろうか?」と言う、分からない感じ、分からないと言う事を、どういう言葉で表現すれば伝わるのか。
ミクロに、カテゴリに頼らず個人個人で幸福度を比べれば、私より幸福な人生を送っている女性は居る、それは確かだと思う、けれど、それで女性差別の糾弾をしなくていい事には当然ならないし、私は糾弾を続ける。ただ・・・ダメだ、分からない、どう言えば良いのか、つまり、名前が無い、と言えば良いのだろうか、女性が人生で被る苦しみの一部は女性差別に起因する、では、私の苦しみは?男性差別?それも違う、分からない、どう言えば良いのか、言葉にできない・・・・・
ただ、そんな私の言語化能力の拙さとは関係無く、訂正と謝罪はするべきだろう。
件の文章は「キラキラしていない、パッとしない女性は居ない」と言う意味や、「キラキラした人、美しい女性は苦しみを抱えていない」という意味では無く、書いた時の事を思い出す限り、「キラキラした、美しい女性」の中でも特に幸せな人を念頭に置いて書いた(だから、美人であり、かつ苦しんでいる人はここでは対象に含めて居ないので、安心して欲しい(安心して欲しい、というのも変か・・・・・))、しかし、にも拘らず、そのような解釈の余地を残してしまう拙い書き方でした。申し訳ございません。
これで上手く出来ているのか、分からない。もっと適切な謝り方が有るんだと思う。
色々書いたけど、(まだ、思っている事は全然書き切れて居ない気がするけど)改めて言っておく、疑問を感じることはあるけど、それでも、自分は「リベラル男性」を続ける。
リベラルやフェミニズムに疑問を感じた事を表に出すことは出来ないし、だから、なるべく考えない様にする。納得してなくても、納得してるふりをする、でも、リベラルである事は続ける。
自由を何より優先するという意味では無く、弱者を守る事を優先するという意味で、リベラルである事を続ける。
それに開き直るつもりは無い、「弱者を守る事を優先する」という事は、他の何かと衝突した時、そちらの優先度を下げるという事に成る。それは時には不当な加害になる事も、暴力性を持つ事も、自由の制限に繋がる事も、他者を抑圧する事も傷付ける事も、どれもあり得る。それに、そもそも自分の中の「弱者」の基準が正しい保証は無い。「弱者を守っている」つもりで、別の弱者を気付かずに足蹴にしている事も当然あり得る。
だから、私は、正しいとはとても言えない。むしろ、客観的に見れば悪である可能性も有る。
でも、兎も角、自分の見える範囲を見て、考えられる範囲を考えた結果、やっぱり自分はリベラルである事を選ぶ。ただ、それが正しいと盲信する事だけは絶対にしない様にしたい。
長く書いた。流石にこれは読まれないと思うけど、まぁ、構わない、謝罪部分だけは然るべき人に届けばと思うが、それも望む事しか出来ない。
最後に、この文章を前回の増田と分けた理由は、単純に馬鹿な程長くなってしまったと言うのも有るけど、それだけじゃなく、「本当に元の増田が書いたか分からない」ようにするのも良いのではないか、と思ったからだ。
この文章はもしかしたら、元の増田とは別人が、彼を装って書いただけかもしれない、そうだった場合、読んだ人の感想は変わるだろうか?
まぁ、そもそも、こんな長い文章読む人は居ないと思うけど、もし居たら、なるべくどちらとも決め付けずに読んで欲しい。本物か、偽物か、平等に考えてどちらか判断できる根拠をあなたは持っていないはずだ、だから本物でも、偽物でも、どちらでもあり得るように読み、考えて欲しい。
(最後に、前回の増田の様に沢山のコメントを貰えたのは初めてだったので、痛々しいと思いつつ、ブコメを見るだけじゃなく、ツイッターでも検索してしまった。
そしたら(もしかしたら検索の仕方とか過去ログの有効期限のせいかもしれないけど)最初にこの増田の事をツイートしたのが、おねロリキメセク天皇で笑った。ちょっと、嬉しかった)
俺はひとまず“クエスチョン栞”という命名センスをスルーして、他に気になっていることを質問した。
「この人、店で用意した栞に感想なんか書いちゃってるけど、それはいいのか?」
一冊の本に対してこんな使い方していたら、必然的に栞は使い捨てになってしまい、提供側のコストもバカにならない。
「ウチは提供しているだけで、どう使うかはお客さん次第だよ」
マナーの悪い客が一人でもいれば破綻しそうなサービスだが、マスターの見解は大らかなものだった。
まあ場末のブックカフェだから、そうそう問題は起きないとは思うが。
そこまで本格的なサービスってわけでもないし、多少ユルくても支障はないのだろうな。
「……さあ?」
名付け親にそんな返答をされたのでは、もはやこちらが言えることは何もない。
「どうしたの、何か気がかりなことでも?」
奥歯に物が挟まったような俺の態度を察して、マスターが様子を伺ってくる。
「いや……そうだなあ」
俺は言い淀んだ。
「強いて言うなら……栞は付箋タイプにしたほうがよくない?」
俺は床に落ちたままの栞を、元の場所に戻すことにした。
やり方はこうだ。
まず空いていた穴にペンの先端を通し、掬い上げる。
そして持っていた本を開いて、そこに栞を落とす。
要は“金魚すくい”みたいな感じさ。
「んー、ここでいっか」
どの箇所に挟まっていたかは分からないので、とりあえず真ん中あたりに入れた。
「ページ数とか、この栞にメモしてくれればなー」
栞を落とした自分のことを棚に上げつつ、本を棚に戻す。
「これでよし、と」
俺はそう呟いた。
自分に言い聞かせることで、この栞に対する“違和感”を拭い去ろうとしたのだろう。
夢を見た
中学生の時に単純に好きとも嫌いとも言い切れないクラスメートの女の子が夢の中に出てきた。そいつと親密に接する夢だった。別に健全な内容の夢だ。
起きてすぐ、何とも言えない嫌な気分になった。
今までに夢にそいつが出てきた時はあまり何も思わないか、どちらかと言えば嬉しい、と思っていた気がする。
実際にそう思ったことに正しいもくそもないが、何とも言えない嫌な気分になるのは今までで一番正しい気がした。
そういう気分になるということは、自分がいままでずっと何を考えてきたのかようやくだいたいわかった気がした。
大した話ではないかもしれない。
現実の話。
中学生の時ある事件があり、クラスメートの女の子が落ち込んでいるから担任からそいつに対して全員それぞれ手紙を書けと言われた。
俺は小学生の時から作文が苦手で毎回「何を書けばいいのかわからない」と思い、書き出すまで相当時間がかかってしまう。(今思うと多分これが自分の人生でわかりやすいポイントだと思った)
事件は単純な嫌がらせの話で、自分からそいつに言えることはあんまりないと思った。
容姿が良くて優秀、でもなんか知らんが中の良い友達1人とだけずっと話しているというイメージのやつだった。
負けるながんばれ!というような力強いことをあまり悩まずに1行書けて担任に預けた。
普段から全然そういう風に言う性格ではないが、単純にそれが一番心に伝わる言葉だと思ったのでそう書いた。
全員から手紙集めた担任が、帰りのホームルームでそいつに全員の手紙を渡しホームルームが終了し帰宅した。
そいつがそのまま自分の席で手紙を読んだのか家に帰ってから読んだのかは知らない。
翌日から、変わった。
実際にはそこではないのかもしれない。でも俺の感覚ではそこから変わった。
なぜたった1行、それだけでそいつの俺に対する反応がそんなに変わるのかわからなかった。
ドン引きされるかもしれないとも思っていたが、確かにそいつの心に伝えられる謎の自信もあった。
でもそんな…そんなにそいつが変わる、しかもそういう方向の反応になる…そんな俺にとってムシの良いことがあるのか…。
なんで俺にそんなに関心を持っているんだ??
目が合うと負の感情ではないすごいエネルギーが送られてきて顔が赤くなってくる…嫌な気持にはならない。そんな感じだった。
他のやつの書いた手紙はもっと何行も書いているやつもいたらしい。担任から褒められていたのは他のやつだった。
普通に、他のやつに対しても変わっているのに俺に対してだけ変わった!?と気持ちの悪い誤解をしているのかもしれない。
俺は、明らかに違った態度をしてくるそいつに毎日ドキドキするようになった。
そいつの容姿が良いのでそういう風になって欲しい、という欲望はもともと確かにあったかもしれない。
俺は同年代でも見た目が幼く大人しいからか女の子から親切にしてもらえることは比較的多かったが、あくまで親切という感じでそれまで誰かと親しくなることもなかった。
まあ、とにかく嬉しいに決まっている。
だが…
本当に、心底、
本当に。
俺の一挙一動でまたそいつが何か良い方向にも悪い方向にも変わってしまうかもしれない。
単純に嫌われるのが怖い、だけとも違う。
当時からインターネットで調べることができたので自分が脇見恐怖症と思われるようなものになっていると分かった。
好きな気持ちよりも怖い気持ちの方が上回ってしまうようになっていた。
結局何もなく卒業した。
そいつからしたらなぜ俺があんな感じだったのか、嫌われてるのかなんなのか意味が分からなくて苦痛だったと思う。
全部自分の都合の良い狂ったストーカーのような妄想なんじゃないかと思って今までの人生で一度も誰にも話したりしなかった。
というか今思えばどう考えても普通に俺以外にも気に入ってるやつは何人もいただろう。自分がそうであったように。
もう30代だからどう考えても都合よく記憶を改ざんしていることは山ほどあるとは思う。
そいつが出てきた夢から覚め、何とも言えない嫌な気分になった後、
ずっと俺は何においても自分が単純に怖がり、ヘタレだと考えていた。
具体的に考えてみたが、おそらく何においても選択を間違えることが異常に怖かったのだと思った。
怒られたくない。文句を言われたくない。恥をかきたくない。
それで家を出た今親とも連絡しなくなってしまった。
日常会話でこれを言ったら空気読めてないんじゃないかと思い発言に時間がかかる。
自分の好きなものを正直に友達にも家族にもなかなか言えなかった。
ネット上ですらうっかり変なこと書いて馬鹿にされるのが怖くて匿名掲示板にもなかなか書きこめない。
就職先、やりたいことがない。必然的に楽で儲かる仕事をしたいと考える。でもどこが良いのかよくわからない。
友達も選びたい。恋人も選びたい。でもうまく嘘をついて断ったりとかちょっとでも卑怯なことはバレるのが怖くてほとんどできなかった。
優秀な奴ならできるのかもしれない。でも自分の能力ではそんなことはなかなかできない。できない自分を受け入れられない。
他のやつはうまくやれてるように見えるのになぜ自分はうまくやれないのかわからない。
でも初見で正解の選択肢を掴むことが至上命題のように考えてしまう。
負のループ。
物事は表裏一体で、頑張ろうと自分だけを厳しく追い込むと必然的に他人にも心のどこかで嫌な風に思ってしまう。親切に遊びに誘ってくれる友人にさえも。
ようやく自分と向き合えた気がする。
でも気がするだけで合っているかは多分一生わからないしそう簡単には変われない。
あれから同窓会とかにも全く行っていない。学生時代の誰にも会いたくなかった。嫌だった。
俺の連絡先をクラスメートの誰も知らない。でも実家に連絡があったという話も聞かないのでそもそもハブられてるのかもしれない。
理由。年々知っている有名人が死んでいくから。30代とかで若くして突然死ぬ有名人もいたから。自分も嫌になって全部投げ出そうかとかたまに漠然と思うから。友達がいないから。結婚してないから。糞だと思う。こんな30代になりたくなかった。
あいつに会ったとして何事もないようにふるまうべきなのか、何もかも正直に話して謝るのかまだよくわからない。
俺は論理的に「卒業してクラスメートの誰かが結婚してようが何してようが別に同一人物だろう。同じ名前の人間なんだから。」と、ずっとそう思っていた。
でも一緒に過ごした3年間とかの時間よりも、何倍もの時間を自分とは別のところで既に過ごしている以上、それはもうほぼほぼ別の人間に入れ替わっているようなものだろうと気付いた。
みんな毎日色んなものを食べ想像もつかないくらい膨大な量の身体の組織が入れ替わり、色んな経験をしている。
懐かしい話ができるかもしれない。ウマが合うかもしれない。でも、それを話す人はもう別の人間だ。あの頃の俺もあいつももういない。
それが分かっている奴は卒業式で泣くんだろうと思った。
小中高、俺のクラスのやつらも大体が泣いていなかった。
そういえば、なぜ俺のクラスのやつらは卒業式であまり泣かないんだろう、とずっと前から心に引っかかっていた。
もしかしたら自分のような人がいるかもしれないと思い、書いた。
これを若い頃にやり過ぎてしまうと、いわゆる中二病だとか高二病だとかになりやすい。
かくいう俺も、これに片足を突っ込んでいる状態だった。
周りの人間がどうでもいいことに時間を費やしていて、それがとても愚かしく思えたんだ。
何の気なしにオススメの作品を聞いてきたり、作品一つの解釈で繰言を交わしたり。
意味のない議題に花を咲かせ、前提を共有しないまま漠然とした話を延々と続けたり。
問題にならない問題をあげつらい、ピュロスの勝利を追い求めて駄弁を繰り返したりしている。
皆が全く違う方向を向いたまま、形だけのコミニケーションを成立させているようだった。
その様相を冷めた目で見るなってのは、斜に構えたティーンエイジャーには無理な相談だろう。
勿論それはネットに限った話じゃあない。
むしろ現実の方が、その“エグ味”は尚さら際立っているかもしれない。
あれは確か、衣替えの時期だった気がする。
上着は絶対に必要ないけれど、長袖か短袖かというと悩む、そんな中途半端な気候だった。
そして俺はというと、その日の衣選びを失敗していた。
「……寒いな」
原因は、毎朝みていた情報番組だ。
そこで流れる天気予報は非常に信頼性の高いものだったが、問題はそれを伝える予報士にある。
いつもは中肉中背の男性がやっていたんだが、その日だけなぜか肥満体型の生物が予報士だった。
その時点で勘付くべきだったが、寝起きの頭では難しかった。
当然、この恨み言は八つ当たりだ。
デブの「短袖が丁度いい気温でしょう」を信じた俺に落ち度がある。
あの予報士と同じ体型の人間にとっては、少なくとも嘘じゃないんだから。
>オタクでありながらリベラルである、というのがどういうモノであるか、イメージを出来る人がどの位の割合なのか、いまいち実感は無いが、兎も角居る。
***
俺はオタク男性であることとリベラルであることは一切矛盾しないと思ってるがな
比較的に近年の作品じゃ『亜人』や『東京喰種』とか『BNA』まで
主人公は半分人外の存在で現実の被差別マイノリティのメタファー的に描かれる場合が多く
(『ONEPIECE』でも『七つの大罪』でも巨人族や魚人族とかを毛嫌いする人間は悪者だ)
今やってる『本好きの下克上』とか良い例だが、身分制度とか伝統的利権を
維持しようとする旧守的な人間もほとんどの作品では悪者扱いである
自分が属する属性(人種、民族、性別)のみが優秀で異物は絶対に悪で敵
古くからの価値観が正義で、新しい文化は害毒、変革を求める者は悪で敵
というようなメンタリィを前面に出した作品は現代エンタメではなかなか見かけない
***
旧連合国がモデルのキャラ徹底的に悪役かと思いきやそんなことはなく
なーんとなく戦時中の枢軸国連合国双方がモデルのキャラが呉越同舟で仲良くしてる
艦これに至っては艦娘と敵の深海棲艦が同一の存在だと暗示されてる
さらに、そのへんの萌えミリ系が代表例だが、ほとんどの漫画やアニメやゲームでは
女性キャラが男性キャラ以上に有能で勇敢に描かれ劇中社会では大活躍してる
そういう作品群に触れてくれば刷り込みのように、なーんとなく漠然と
「種族エリート主義はダサい」「男尊女卑かっこわるい」と思う方が普通ではないのか?
***
などと書くと「現実と空想の区別がついてない」と言われそうだがw
両親と絶縁した.正確に言えば両親との全ての連絡を絶った.
1. 社宅に入ることになり住所が変わった.新しい住所は教えていない
2. 社会人になったのでとりあえず1人で生活できるようになった.
小さい頃からとにかく両親との折り合いが悪かった.
母親は口を開けば,私の悪口,父親の愚痴,いかに自分が悲劇のヒロインかを語るか,どれかだった.
毎日容姿をけなされた.自分の娘の容姿を悪く言い続ける親って普通なのだろうか.
足が太いだのケツがデカいだの,デブでブスでかわいそうだかなんだか....
私は別に太ってはいないし,太っていた時期もなかったと思う.ずっと日本人の平均より少し細いか平均くらいで成長していた.
思い出せば全てのパーツに文句を言われていた気がする.お前の遺伝子だよ.
よくよく考えてみれば小さい頃から恥骨に肉がのっているのが下品ってけなしてくるのって普通じゃないし,
一緒に風呂に入るくらいの小さい頃は風呂でしょっちゅう恥部を触られていたのもおかしい.
彼氏には「俺の母親が妹にそんなこと言ってるの見たことないよ」とドン引きされた.
私が今GUの黒いスキニーパンツしか履けなくなっていること,母親のせいにしたい.
理由は,田舎特有の「成績がいいから」とか,「なんかノリが悪い」「ブス」「暗い」とか,そんなもんだと思う.
学校で居場所がないのに,家に帰ってきても居場所がないのは辛かった.
「お前がいじめられているから部活のママさんの間で私の肩身が狭い」とか.
少しは寄り添って欲しかった.
そんな感じで母親にはいつも自分がいかにつらいか,私が醜く劣っているかばかり聞かされ続けていた.
小学校も中学校も成績はずっと学校のトップだったけど,褒められた記憶は1度もない.
母親の中では,成績トップで当たり前なんだったと思う.世間体大好きな母親だったし.
父親は私が小学校に入学した頃からずっと単身赴任だった.ずっと不倫していた.
もの心つく前から母親と父親は仲が悪かった.なんでかは知らん.
単身赴任している10年間,ずっと不倫していた.子供に関心はほとんどなかったと思う.
私は小さい頃から両親に,
「地元で1番の高校に入って,旧帝大に入って,いいところに就職しなさい」
しかし,私が高校生になれば,母親は「そんなに勉強が嫌なら職業高校に行って就職しろ」,
確かに高校生の頃家ではあまり勉強していなかった.学校で済ませてきていた.
かといって別に成績が悪かった訳でもない.なんなら割と良かった方だと思う.
この頃は親の言うことがコロコロ変わることにクソほどムカついていた記憶がある.
「自分は進学したかったけど,家にお金がないから職業高校に進んだ」と言われたことがある.
自分が進学できなかった当てつけを私にされても困る.
大学受験の時期はほんとうに親と衝突した.嫌すぎて逆に覚えていない.
母親に怒鳴られ,殴られるのが毎日のようにあったのだけ覚えている.
おかけで卒業式は真っ赤に腫れたまぶたで出席した.最悪だった.
「お前にいくら金かかってると思ってるんだ」
「どれだけ金使ってもらってると思っている」
何度も言われた.
こんなこと,弟が言われているのは一度も見たことがない.
学校の偏差値が高いと言うことは,通う学生の親は金持ちばかりということである.
私だって一度は「お金のことは気にしなくていいから好きな道に進みなさい」とか言われてみたかった.
「お前にいくらかかってると思っている.大学は国公立しか認めないからな」
弟は「早稲田でも慶応でも,好きなところにしなさい」とか言われてたのに.
大学はお金がかかるところだとは重々承知している.出してもらって当たり前じゃないのも理解している.
が,それを子供に「こんなに金がかかってるんだ,感謝しろ」なんて押し付けるのは違うと思う.
もしかしてどの家庭もこんなこと言われてるんですか?これが普通ですか?そうだったらすみません.
実はウチ,奨学金が借りれない.2種も借りれない.なぜかというと,父親の年収が奨学金の制限を超えるからである.
でも家にお金はない.母親の口癖だった.「うちは貧乏」「周りとは違ってお金がないの」
それがなぜか私は知っている.父親が家にお金を入れず,すべて不倫相手に使っていたからである.
自分の家族養って,その上で不倫相手にクソほど金使ってアパート代と光熱費出してやってたの,
マジですげーと思う.めっちゃ稼いでんな.だったらそのお金家庭に入れてくれ....
父親は終始「学費を出して”やっている”」「生活費を入れて”やっている”」と言った感じだった.
確かにお金を出してくれるのはありがたいけど,そんな態度でいられても...
母親にマジにそう言ったら「産んだ時は大学に進学すると思わなかったんだもん」と言われた.
絶句した.
どうしてなんほんと.だって自分で産みたくて産んだ子供なんでしょ.
ノープランで子供産んだんか?一銭もかからずに勝手に育つと思ったんか?
なんで自分で欲しくて産んだ子供に向かってバカにするようなこと言えるの.
なんで自分で欲しくて産んだ子供に向かってお金がこんなにかかってるんだとか恩着せがましく言えるの.
親に向かって言ったことがある.
「自分で産んだんだろ」「育てんの嫌ならそもそも産むなよ」「産んでって頼んでない」「産まれてこなければ良かった」
心からそう思って言ったので,言い過ぎちゃったな,なんか思ってない.
たぶんこれを読んだ人からしたら「こんな程度で絶縁?」なんか思われると思う.
自分でも「親が嫌になった具体的なデカいできごとがあるか」って言われても出てこない.
だからちょっと不安になって,自分で確かめるために文字に起こしたくてこれを書いたんだけど,
ほんとにこの程度で絶縁?って思われる感じになっちゃった.
でも私はもう親と関わりたくない.
私の神経すり減らしにかかってくる人たちとはもう関わりたくない.
自分のこの選択が間違っていると思いたくない.私が正しいと思いたい.
幸い,友人の中に「でも親なんだから大切にしないと」と言う人はいなかった.
本当にありがたい.
祖母は「どうしてもっと早く言ってくれなかったの」と泣いていた.
本当に申し訳ない.こんな孫でごめん.
父親も母親も,周りに「娘が旧帝大に合格したんだ」「娘がいい企業に入ったんだ」って
言いふらしてたし言いふらしてるらしいけど,その娘に絶縁される気持ちはどんなんでしょうかね.
私がこんなに嫌な思いをあなたたちのせいでしてきたんだから,少しは味わってほしい.
自分が卑屈になったのを,自己肯定感が低い人間になってしまったのを,私は親のせいにしたい.
今まで様々な人たちに「どうしてそんなに自信がないの」「お前の自分に自信なさすぎるところ,本当に嫌い」と言われた.
親のせいにしないと腹立たしい.お前らがこんなこと言わなかったら.こんなことしなかったら.
もっと私に寄り添ってくれる人だったら.