「著作」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 著作とは

2023-10-21

anond:20231021164834

wikipedia:ミステリと言う勿れ

架空実験問題

編集

第3巻にて主人公が語る「母親乳児の世話をしながら家事をする大変さを、父親たちに擬似的に体験させる実験」[15]のエピソード子育てにまつわる興味深い話としてインターネット上で広く取り上げられた[16]。あたかもその実験実在するかのような描写であったが、実際には小説家の水木ナオの作品を元にした架空のものであり、田村インターネット上で目にして事実だと誤認して使用していたと判明したため、編集者と共に謝罪表明し、以降の重版および電子書籍更新では該当のエピソードが登場する箇所に水木ナオの著作を元にした旨を記すようになった[16]。

2023-10-12

ノーベル経済学賞のおかげでネット言論を見る無意味さを再確認した

フェミアンチフェミもどっちも、ゴールディン氏は我々の主張に沿って本を書いたと勝利宣言している

これはフェ/アンフェのどちらもが間違っているのではなく、どちらも正しく著作を読んではい

ただ、現実経済は多くの主因から現在の結果が生まれていてフェミの主張もアンフェの主張もどっちもある程度は正として扱われる

ゴールディン氏の研究は著者のバイアスが少なく統計に由った冷静な研究の結果なわけで、だからこそ経済学賞に相応しいのだろう

ただネット言論者はどうしても二分に分かれて盛り上がる習性が染み付いてしまっているのと、

私は正しい/相手は間違い という話に終始してしまうのが一番ネット言論の良くないところで、そこに永久アウフヘーベンは起きない

このアウフヘーベンが起きないというところが、ネット言論を見る必要が無いという認識に繋がるからそれはありがたいのかもしれない

或いは、自分自身止揚することができる人間ネット言論を見る価値はあるかもしれない

それにしても精々少しの時間で十分だと思うけども

2023-10-09

新本格ファンの見た陰謀論傾倒作家現代ニッポン論壇事情数十年史

次の文章を眺めてみて欲しい。

『まず第一に、二十世紀に係れたミステリ作品と違って、狂気妄想を、いわゆる正気論理で枠囲いされるものではない。第二に、以前の小説作品と大きく違って、可能世界へと分岐する「相対的」な論理を、それが作品内で主題化されないほどに内在的なものとして組み込まれ浸透しているかである。』

インターネットぶつかりおじさんにカンパし、一度ブロックされて解除された後2023年10月の今に至ってもなお彼やその賛同者の多くをX(旧twitter)でフォローし続けている、推理小説作家評論家小森健太朗著作探偵小説論理学」269ページから引用した文章である

氏のSNSにおける華々しい戦歴説明割愛する。冒頭で引いた氏の文章を眺めることからはじめ、氏のSNS上における無数の陰謀論傾倒の人生、ひいては暇アノン化する文化人ネットユーザたちについてなんらかの理解を得ることができないか見てみたいのである

====

 

単刀直入に言って、日本語が怪しい。

『まず第一に、二十世紀に係れたミステリ作品と違って、狂気妄想を、いわゆる正気論理で枠囲いされるものではない。』

主語がないのは先に出ているかである。一つ前の文の「西尾維新作品」がこの文の主語である。そして、この第一に~第二に~というのは疑問に対する答えの列挙である

『それではなぜ、なぜことさら西尾維新作品様相論理親和性のあるものとしてとりあげられるべきなのか。』

冒頭の文の一つ前に置かれたこの文がその問いである。なぜ「それでは」なのかというと更に一つ前の文で↓のように認定しているかである

様相論理一般が、それらの作品により適合するのではなく、われわれの住む世界にある論理、どの作品にもある論理一般において様相論理は適合性を有している』

まり、著者はこの箇所で「西尾維新作品こそ様相論理が合う」と言いたいのである(なお、『様相論理は適合性を有している』だとか『様相論理親和性のある』とかい語句意味不明)。

 

それを踏まえた上でも文の後半は日本語おかしい。いやそもそも『それではなぜ、なぜことさら西尾維新作品様相論理親和性のあるものとしてとりあげられるべきなのか。』の「‥‥作品を~~とりあげられるべきなのか」という文も変なのだが。受動態ならば‥‥作品が~~とりあげられるべきなのかとすべきであろう。とはいえ文意理解できている(と信じたい)ので無視しよう。

さて引用の一文目は次のように書き直せそうである

・(西尾維新作品では)狂気妄想が、いわゆる正気論理で枠囲いされるものではない

・(西尾維新作品は)狂気妄想を、いわゆる正気論理で枠囲いされるものとしていない。

引用した文のある段落の一つ前の段落で、彼らの作品における狂気の取り扱い方について『現実正気論理が前提として背後にある。狂気や、いわば正気世界に枠囲いされる形で、際立たせられる』と説明されている。この書き方ならば前世紀に書かれたチェスタトン泡坂妻夫らのミステリ作品との違いを述べていることが明確である

なお別の案として、第二に~の述語に繋がっていると見ることもできる。が、そうして読むと能動態・受動態が変になるのである

・『二十世紀に書かれたミステリ作品と違って、狂気妄想を、いわゆる正気論理で枠囲いされるものではない』‥‥『ものとして組み込まれ浸透しているかである

 

この能動態・受動態が変というのが引用の二文目の問題でもある。

例によって主語だが『‥‥組み込まれ浸透している』の主語はなんだろうか?そもそも『組み込まれ』『浸透している』は同じ主語を持つのだろうか?候補は『西尾維新作品』と『可能世界へと分岐する「相対的」な論理』の二つである

西尾維新作品』は『組み込まれ』がおかしいのは‥を組み込むという能動態に直せば明らかである。『西尾維新作品』を目的語とした「西尾維新作品を組み込んでいる」には意味を見出すことは不可能である

西尾維新作品』は『浸透している』は、意味としてはありえる。だが使えるのは読者の認知度などを述べる文脈などであり、どこに浸透しているとかいった説明の無いこの文では意味を持たないであろう。

すると『西尾維新作品』は、『西尾維新作品では』という句であり、主語は『可能世界へと分岐する「相対的」な論理』と見るべきである。これならば受動能動態を変えても意味が通じるであろう。

・(西尾維新作品では)『可能世界へと分岐する「相対的」な論理』は‥‥組み込まれ浸透している

・(西尾維新作品には)『可能世界へと分岐する「相対的」な論理』が‥‥組み込まれ浸透している

いけそうであるしかしそう理解すると今度は九段の文の書き方があまりにも奇妙に見えると言わざるを得ないのである

『(西尾維新作品では)可能世界へと分岐する「相対的」な論理を、それが……組み込まれ浸透しているかである。』

「を、それが」と書いた理由はなにかあ在るのであろうか‥‥???「‥‥を」とするならば「それが」をそこに付けず「組み込み、そしてそれが浸透している」というようにすべきだし、受動態のまま「組み込まれ」を使いたいならば「を」をなくして「‥‥が~~組み込まれ浸透している」と書くべきであろう。なぜここまでねじくれた、好意的に見て文法違反スレスレで読みにくい書き方をしているのだろうか‥‥???著者も校正者もなにかおかしいと思わなかったのだろうか???

 

余談だが、様相論理において可能世界ごとに分岐(というか異なる)のは、命題への真偽値の割り当てであったり個体領域である。それらは一般的にいって「論理」と呼ばれるものではない。このあたりも意味不明なのである。ようはポストモダンにおける科学誤用濫用の仲間である。さておきこれまで氏の華々しい戦歴を目にしてきた者の意見として言うと、氏の癖として、彼がカンパしているインターネットぶつかりおじさんと同様に、勝手定義した「A」を、他の意味「A」と気軽につなげて論証をするというものがある。いわゆる「媒概念曖昧の虚偽」と言われたりするやつである。こうした論証上の誤りに無頓着な事も陰謀論にたやすくはまる一因と言えるのかもしれない。

 

海法紀光や、アレな発言非難する者がしばしば指摘していることであるが、氏は、理由をあげたり説明したりといったいわゆる論証をする際こういった文章を頻発する傾向がある。特に自身の立論が苦しくなってくると、文法崩壊していると感じられる弁明が増えるように見えるのである(quantumspin氏による批判とそれへの応答なども参照せよ)。主語や述語がみつけにくいのもよくあるパターンひとつである小説以外の活動に関しては、ずっとそういうやり方で通して来ているのかもしれない。

これは結論に対して必死理由を拵えているせいというのもあるのかもしれない。そのような、結論にあわせて理屈を拵えることをよしとする姿勢もまた陰謀論への傾倒を片側から支えているようにも思えるのである

 

などなどと、かつて新本格ムーブメント到来に歓喜したものとして心苦しい気持ちを抱いていたのであるが、最近大きなヒントを見つけることができた。

https://twitter.com/furukawa1917/status/1708364352540246446

https://megalodon.jp/2023-1009-1415-22/https://twitter.com:443/komorikentarou/status/1708094283780325790

『「人類進歩」といった虚構観念蔓延させ』

氏にとって人類進歩虚構観念であるらしい。勿論、氏のいう虚構観念は、非難されればすぐにその中身を適当に入れ換えられるブラックボックスであり、「生活費切り詰めてカンパ」と同じ程度の軽口でしかないのやもしれない。

だが、そういうことかと得心もしたのである

かつてポストモダン思想が華やかなりしころ、同じ世代にあって「進歩なんて幻想だ」と嘯いた者は多かったのではないだろうか。なにしろ特に思想政治について色を出さず、特に「後期クイーン問題」等の話題珍説披露したこともない有栖川有栖氏の作品においても、「ホイッグ史観」「進歩史観」といったかたちで冷めた態度が見られるのである

311以降かどうかは定かでないが、SNS上では、ミステリ業界の「知の欺瞞」が手ひどく叩かれる時期があった。氏も基礎的な誤解を指摘されてはよくわからない弁明を書き連ね、最終的に相手が呆れて去っていくということがしばしばあった。その後、左翼リベラル敵対的な気分をもつひとは自らを「科学的」と自認するようになり、小森もなんとなく菊池誠氏などをRTしたり科学的な雰囲気のある人々の輪に入ることで、これまたなんとなくのうちに過去の知の欺瞞有耶無耶になった。

しか上記発言から察せられるように、頭はポストモダンのままだったのである。この点を傍証する発言ひとつではない。

 

https://megalodon.jp/2023-1009-1430-28/https://twitter.com:443/komorikentarou/status/1566269069547819008?lang=jp

『紀藤さんは、カルト宗教弁別ができる超越的な裁定であると自認しておられるのでしょうか?』

これは、統一協会話題になった際、紀藤弁護士発言に対して、なされた引用RTである

カルトであるカルトでないか区別ができることが『超越的な裁定』だと言うのである。その理由もふるっている。

カルト宗教の線引きがわからないのではなく、できないと言っています。』

まさにあの堕落したポストモダン思想かぶれたあの世代の、あの辟易するような懐疑的態度を思い起こさせるものである!!!認識的な不確実性を理由として判断の正しさを否定する。現実的・実践的な正しさをすっ飛ばして「超越的」なものに基礎づけようとする(そして、その不可能からお好みの結論を導く)。‥‥ところで、なぜ「分からない」「できない」「不確実だ」という判断だけは正しいと信じられるのか自分にはまったく理解できないのだが‥‥‥笠井潔なら教えてくれるのであろうか‥‥???

 

結局の話、己の欲する結論のためにいい加減な理由づけを許容する態度、あらゆる価値・論証・実践合理性等を無効化した気になれる堕落したポストモダン思想メチャクチャナ言説をまともに文章を読み批判をすることのできない現代ニッポン論壇・批評コミュニティの無力さ、そうしたものが無数に積みあがって悲惨な令和の余.命事件へと通じる道が敷かれたのかもしれないと思うのである

思うにこれは一人の哀れな高齢男性だけの問題ではないのである

2023-10-06

anond:20231006153210

本件写真発信者情報開示仮処分命令申立書をiPhone撮影しただけの

ありふれたものであり、著作物には当たらない。また、発信者による本件投

稿は、公正な慣行にも合致し、原告による投稿批評するという目的のため

さらに、本件投稿については、前記目的等に照らせば、著作

権者が創作であることを主張する利益を害するおそれはなく、公正な慣行

にも合致しているから、著作権法19条3項により著作者名の表示を省略す

ることができる。

名誉侵害の主張については争う。

2023-10-05

anond:20230817115047

トロイ戦争 (Trojan War) → 世界的に有名なギリシャアパレルブランド Troy Bros の創業者兄弟間における経営上の内紛。有名なブランドだけに全業界に与えた影響は大きく、今でも語り草になっている。その経緯については、マーケティング専門家である Homer氏らの一連の著作に詳しい。(イーリアスオデュッセイア

anond:20230817115047

チョコレート戦争カカオ生産地をめぐって繰り広げられた帝国主義勢力による争奪戦。詳細は長い間不明であったが、大石真のルポルタージュにより広く世に知られることとなった。(詳細は大石真の著作チョコレート戦争』を参照)

二度名前を消されかけた馬鹿な私の話

これは仕事で疲れ切っていた若くて馬鹿な私が、云年越しの真実に打ちのめされる話かもしれない。

どこか嘘かもしれないし全部本当かもしれない。ただただやりきれない気持ちだけで書く。

この日記を一行でまとめると下記の通りだ。

業務時間外に書いた云十万字の小説権利が、一切自身になかったことを知った話、である

* * *

学校卒業後に就職したのは小さなさな編集プロダクションだった。執筆編集者がやるタイプ編プロだった。

ニッチな界隈の本を細々と出していた会社で、今はもう存在しない。

好みの分野を扱うことが多かったので仕事自体は楽しく、担当していた界隈がにわかに盛り上がったときは激務に次ぐ激務だったがかなりのやりがいを感じていた。

編集者のいいところは、自分の関わった商品本屋という身近な場所に陳列されて、しかも奥付に自分名前が載ることだと思う。

「私はこれを作ったんだ」という実感は激務を忘れさせるほどの麻薬だった。

会社はいろんなタイプオタクがいて、コミケサークル参加するような同人作家も在籍していた。

スタッフ創作であることは仕事に生かされ、それが会社の強みにもなっていた。

私もそんな創作者のひとりだった。小学生のころから二次創作小説を書いていたような、生粋創作する側のオタクだ。もちろんコミケサークル参加したことがある。会社でも小説を書くことは隠していなかった。

前述したとおりいろんなオタクが集まっているのはこの会社の強みであり、取引から面白がられていたので、何かとそれは話題にあがった。「あなたは何のオタクなの?」という感じの雑談から、私が小説を書くオタクであることは取引先にも知られていた。

ある日、上司に呼ばれて席まで行くと、「小説を書いてみないか」と言われた。

とある人の半生が面白いので、脚色を加えて小説にする企画があるのだが、書き手ライター)が見つからない。

そういえば御社小説を書く人がいたよね? ――と、取引からお声がかかったらしい。

素人の思い出話を物語として成立させるには、筆力のほかに構成力も必要になってくる。

小説が書けて、編集者視点も持っている人にお願いしたい、というのが私が選ばれた大まかな理由だ。

人生何が起きるかわかんねぇな」と思いつつ、正直先方の正気を疑ったが、特に断る理由もないので「自分でよければ」と答えた。

そして、企画が動き出した。

当時私は中堅の社員で、後輩の教育も任されており、わりと大きな継続企画も抱えていたので、まあそこそこ忙しかった。

そこそこ忙しくはあったが、後輩に任せられることは任せ、溜まりに溜まっていた有休を無理くり使い、執筆作業に当てた。

徹夜もよくしたし、午前中にネカフェ執筆して午後から出社、終電後まで働くみたいなことも多かった。

執筆はすべて業務時間外にしていた。これは単に会社にいると仕事が降って来るので落ち着いて書けないし、原稿料をもらうからには切り分けねばと思ったからだ。

会社を空けることが多くなり、雑用確認作業が頼みにくいと上司からはよく嫌味を言われた。

通常の仕事に加え、睡眠時間を削りながらの執筆、「自分で書くのだから」と資料作成・装画周りにも関わり、とんでもなく忙しくはあったがやりがいも楽しさも感じていた。

初稿が上がり、大勢の人の目が入り、製作も大詰めというときだった。

上司が、軽い調子でこう言ったのだ。「著名は原案者だけにするかも」と。

反射で「私の名前が載らないってことですか?」と尋ねると、「そういう案も出ている」と言われた。

忙しくて頭の回っていなかった私は、ただただ「そんな話が出ているのか」とショックで、会話はそれで終わりになったと記憶している。

デスクに座ったまま、ぽろっと言われたくらいのノリだったように思う)

その日の夜になってようやくだった、「いや、私の名前が載らないのはおかしくないか?」と怒りが湧いてきたのは。

前述したとおりこの本は、とある人物の半生を脚色して小説化するというものだ。

当然、この「脚色」は私の創作である些細な話題を膨らませてドラマチックにしたり、つなぎになるエピソード創作して物語を盛り上げた。

たとえば登場人物の紹介をするのに、設定にある特徴から勝手エピソードを作ったりした。

こうした追加エピソードについては、原案からも「まるで本人を知っているかのような描写で驚いた」とお褒めの言葉をいただいている。設定から妄想を広げるのは二次創作同人屋の得意分野だ。

そう、この小説は相当私の「創作」が含まれているのだ。それなのに何故、ゴーストライターにされてしまうのか。

怒りのまま、とはいえギリギリビジネス文章に落とし込んだ形で、私は上司出版社担当者にメールを書いた。

個人アドレスから送ってやろうかと思ったがそれはやめた。不審メールとしてはじかれたら元も子もないかである

要は「私の名を出さないのなら、創作部分をすべてカットする」という内容だ。原案者が著者なら創作部分は生まれなかったはずだから、という理論だ。

私のガチギレぶりにめんどくささを感じたのだろう。私のペンネーム原案者と併記されることになった。

ガチギレメールについて上司から小言をくらったが知ったことではない。私のやることなすこと気に食わない上司文句などすでに聞き飽きていた。

今思えば原案/著で記載されるべきだったのだろうが、この後の出来事を考えるとこの時からすでに事は動いていたのかもしれない。

その後無事本は出版されたが、ろくな広報はされなかった。

発売後、今度は社長に呼び出された。社長と総務の前へ、何事だろうと寝不足の頭で棒立ちになっていた。

印税についての話である

個人出版社契約でなく、会社出版社契約を結び、入金された印税の中から褒賞として私に支払う形にする、という通達だった。

当時二十代半ばの私は、この言葉意味をよく理解しないまま、印税がもらえるならいいかと了承してしまった。

ここがすべての間違いであったのだが、そんなことは当時の私が知る由もない。

その後、若い私にとってはそこそこの額の執筆料をもらったが、当然のことながら重版などかからなかった。

なんやかんやあってその数年後、いろいろ限界を感じた私は逃げるように辞職した。このままでは飼い殺される、という危機感が一番強かった。

同じ家に暮らす家族から最近顔を見ていないけど元気?」とメールが来るような日々だったのだ。

それなりに「できる社員」として取引先にも認められていたので、おかげで再就職比較スムーズに進んだ。

* * *

それから結構時間が過ぎたころ、なんと前述の本のメディアミックスが決まった。

私がそれを知ったのはネットニュースでだった。

起き抜けのTwitterTL巡回中、見覚えのあるタイトルが目に入って一気に目が覚めた。それは結構な規模のメディアミックスで、有名な人も参加するプロジェクトだった。

何事かと思って公式サイトに飛んで、さらに驚いた。

スタッフクレジットの「原作」欄には、原案者の名前しか書かれていなかったのだ。

とはいえ、今も同人活動をしている身としてはあまり名が売れてほしくない思いもあり(商業活動をしているわけでもない)、それについてはそこまで怒りも湧かなかった。

何よりかにより私が衝撃を受けたのは、原作欄に掲載された書影から私の名が消されていたことだった。

ぱっと見た瞬間、変だと思った。画像の一部に雑な加工の跡があったからだ。何故加工されているのか、よく見たら名前が消えている。そういう順番での認識だった。

なんだかんだ長く出版界隈に居座っているので、画像加工については見慣れている。本職デザイナーの手にかかれば、あたかも初めから存在していなかったような「画」を作れることも嫌というほど知っていた。

その書影の加工は、どこから見ても素人仕事で、スタンプツール連打したんだろうなって感じのものだった。私でももっとましに作れる。

加工者が誰であれ、私の名は意図的にその画像から消されたという事実に変わりはなかった。

少し前に好奇心から知財の本を読んでいた私の頭には、人格権翻訳権、氏名表示権などなどいろいろな言葉が浮かんでいた。名を消されたことに関する影響も危惧していた。

それと同時に、ずぅっと謎だったけれど、見ないふりをしていた疑問も浮かんでいた。

私の印税ってどうなっているんだろう。

前述したとおりこの本はほとんど広告が行われていなかったため、重版など夢のまた夢だと思っていた。だから、それまで考えないようにしていた。

メディアミックスされるとなると話は別だ。

この時私は打算的にものを考えていて、名前を消した理由を尋ねるところから入り、この本に関する私の権利について確認を取ろうと思っていた。

正しくない書影掲載したという非が向こうにはあるので、多少強気でかかって話を引き出せると思ったのだ。

微々たる額でも印税がもらえたら御の字だなと考えていたのだ。なんたって印税契約をしていた会社はすでに倒産していた。

小狡い私はこの問い合わせを、出版社ライツ部に送った。

担当部署に直で聞くのが手っ取り早いが、権利に関する問題であるし、内々で片付けられても困る。よそを巻き込んで大事にしてやろうと思ったのだ。

結果、私は惨敗することになる。

なんと、当時の担当者がライツ部に異動になっていたのだ。こんな偶然があるのだろうか。

午前の早い時間に送ったメールは、午後には返事が来ていた。

お久しぶりです!」の文字にくらくらした。

この本が出たのはもうずいぶん昔の出来事で、だから、当時を知る人がもう社内におらず、だから、私と連絡が取れず、だから書影から名を消していたのだろうと、そう思っていた。

問い合わせのメールには、連絡が取れないか名前を消したのだろうか、だとしてもこんな雑な方法で消すのはどうなのか。何故名前を消したのか理由を知りたい。権利にかかわる問題はらんでいる恐れがあるためライツ部に連絡をした。製作時も記名に関してひと悶着あったというのに残念だ。そんなようなことを書いた。

当時を知る人がいない前提の文面だ。

だというのにどうだ。その担当者は私が転職したあとも仕事のやり取りがあり、だから、私の連絡先は知っていた。なんなら携帯番号も知っている。

連絡しようと思えばいつでもできたはずだった。

返信には、非常に軽い調子でこう書かれていた。

「先方に間違った画像を送ってしまった(入稿のものだったのかも?)。今正しいものを送ったので即時修正されるはずだ。今後の重版に関しても名前が消されていることはないので安心してほしい」

あのずさんな加工画像を、製作過程画像だと言い切った。

製作に関わっていた私が、そんな画像存在しないことくらい知っているだろうに、そう、本当に軽い調子で書いていた。

誤魔化すつもりなのだ公式サイトに私の名を記載しないが故、書影との差異を出さないように雑に消したのだろう。バレないとでも思っていたのだろう。これだけ対応が早いということは、この人が本件に関する責任者なのだろう。

まり、あの時私の名を本から消そうとしていた担当者が、私の名を表紙から消したのだ。

大事にしたかったのにならなかった。この時点でもう打つ手はないなと感じつつ、「当時を知る人がいるとは心強い!」とよいしょしながら、本書の権利について尋ねた。

念のため最初からメール署名から電話番号を消していた。電話では余計なことを口走ってしま可能性があるし、丸めまれる恐れがあるからだ。諸々のことを文章として残しておきたかったのもある。

この時点ですでに、職務著作という言葉が頭をよぎっていた。簡単に言うと、業務制作した著作物の著作権は会社帰属するというものだ。

わざわざ業務時間外に小説を書いていたが、契約会社に委ねてしまった時点で私は著作権を放棄したことになっているのだろうなとほぼ確信していた。

とはいえ契約である会社はすでに倒産しているわけだし、そこはどうなっているのだろう。この際だからという気持ちでいろいろ疑問をぶつけてみた。

会社在籍中は印税の一部は会社から支払われることになっていると聞いたが、という話も伝えていた。

(誤魔化そうとしているのは明白だったので、雑な加工については「画像の送付間違い」ということで流した。一応修正前の魚拓は保存している)

結果、分かったことは以下のとおり。

著作権は原案者のみが所持、会社とは業務委託の契約しか結んでいない。

印税契約は元社長が持っている別会社が引き継いでいる。

はあ、つまりだ。

職務著作どころでなく、はじめっから私の権利は知らんところで放棄されていたのである

ずいぶん話が戻るが原案/著表記にしなかったのは、こうすると私が著作者として確立してしまうからだったのでは?みたいな気持ちもある。

こんなめんどくさい人間を絡めるといろいろやりにくいと思われたのだろう。事実暴れてしまった前例もある。

そしてこの本がいくら売れようと、印税が入るのは案件ノータッチの元社長の懐だ。

結局、知識のある人間が得をするのだ。悪いのは無知な私だ。目の前の仕事で目を回していて、いったん持ち帰るということができなかった、仕事に疲れ切っていた若くて馬鹿な私なのだ

いろいろ教えてくれたことに感謝はしつつ、とはいえ雑に私の名を消した恨みは募っていたので、最後っ屁のつもりでやり取りの最後はこう締めた。

本来書影に書かれている名が意図的に消されていると、『この消された人物は何者なのか』と無為な詮索にさらされる危険性がある。それが一番の懸念だった。もう二度とこのようなことが起こらないよう留意してほしい」

シンプル名前が消された怒りもあるが、この危惧もあった。メディアミックスに際して名を消された著者。もし、私がこのペンネーム商業活動をしていたとしたらどう思われるだろうか。

消されるだけのことをしでかしたのではないかと思われる危険性は高い。これは信用問題になってくる。

それに、今のネットの「面白そうなおもちゃ」に対する残虐性は認識しているつもりだ。自分が掘り出した“真実”を喧伝し、当事者炎上させる。何かあったら嫌だ、と身構えるのは致し方ないと思われたい。

とはいえ、これを読んでいるような人なら理解してくれるだろうが、出版社のこの手の人間には理解されないだろう。

それでも、もう二度とこんな雑に人の存在を消さないでほしい、という訴えは届いてほしかった。

* * *

若人よ、契約書を作れ。契約書を読め。

この件に関して、私は別に詐欺にあったわけでも、法を犯されたわけでもない。ただただ無知で、己の権利に鈍感だっただけだ。

手痛い授業料だと思っている。このエントリーは半ば逆恨みだし、書いてすっきりして忘れたかったのかもしれない。炎上させたいわけではない。

自分無知で痛い目にあった私ができるのは、二度と同じ過ちを犯さぬよう、そして後進たちが同じ轍を踏まぬよう努めることだけだ。

提案は一度持ち帰って調べろ、即決するな。とくに寝不足とき危険だ。

教訓として、とりあえずこの一連についてはいたるところで語っていきたい。

なんせ、私と出版社は(ついでに元社長も)、なんの契約も交わしていないのだから

ほんの少しだけよかった話をする。なんと印税をもらえたのだ。

印税契約譲渡した元社長の現会社から連絡があり、お小遣い程度の収入を得た。夢にまで見た不労所得である

連絡をくれたのが元総務の人だったので(元の会社上層部がそのまま現会社に移っていた)少し話をしたのだが、出版社担当者の話題は一切出てこなかった。私とその人がやり取りしたことは知らないようだった。出版社から入金があったので粛々と対応した、という感じだった。

献本は送られてこなかったので自分で買った。初版と第二版の年月日を見比べると渇いた笑いが漏れた。ずいぶん長い時間がかかったものだ。

メディアミックスについてはとくに興味も湧かず、とはいえ周囲から話題を聞くこともないので、爆死も盛況もしていないのだろう。

もう一回ぐらい重版からいかな、と思っているが難しそうだ。

2023-09-27

東浩紀について

現在東浩紀新刊「訂正可能性の哲学」を読んでいる

私にとって、彼の著作は、何かを始めたいが不安が先立ち一歩を踏み出せない…といった折々に、背中を押してくれるものだったと思う

振り返ってみて懐かしくなったのでここに記してみる

(断っておくが、私は彼の熱心な読者ではないので、以下解釈が間違っていてもご容赦願いたい)

初めて読んだのは、書店たまたま目にした「弱いつながり」(2014)だった

この本には、固定化した状況での思考から導き出されることが選択肢の全てではない、不確かな状況や偶然に身を委ねることで思いがけない新たな出会いが得られ人生が豊かになる、というようなことが書いてあったと思う

他の人には当たり前なことかもしれないが、すぐに頭でっかちになって動けなくなる私にはとても新鮮なメッセージだった

当時20代後半で(当方女)、漠然結婚への焦りがあり悶々としていたのだが、読了後、通勤電車広告で目にした結婚相談所にエイヤッと登録し、もうなるようになるさと婚活を始めた

そして現在の夫と出会いトントン拍子で結婚に至ることができた

それから後の「観光客哲学」(2017)にも背中を押してもらった

(このとき書店トークイベントにも参加した)

この本で最も心打たれたのは、

子として死ぬだけではなく、親としても生きろ。

という箇所だった

これは、生物上の親と子を指すだけではなく広い意味で自らが何かを生み出すこと(誤解を恐れずにいえば無責任生み出すことを恐れない)の大切さを説いているものだが、文字通り私は子どもを持つことへのエールとして受け取った

私自身が親との関係があまり良くないため、「どんな子が生まれるのか、上手く育てられるだろうか」との不安を感じていたが、たとえ自分が完全な人間でなくても、どんな子が生まれてくるかはわからなくても、とりあえず子どもをつくってみよう、そしてその子どもがつくり出すものを見てみようと勇気づけられた

そして今では2人の男の子に恵まれ、日々四苦八苦しながら賑やかに暮らしている

背中を後押ししてもらったといっても、結婚出産というご普通ライフイベントだし、他の人ならすんなり経験できるのかもしれないが、私の場合、もしこれらを読んでいなければ全く違う人生だったかもしれない

「訂正可能性の哲学からもまた新しい何かを受け取れそうだと、わくわくしながら育児の合間に読み進めている

2023-09-23

無断引用重言だ」とかいデマについて

引用」という言葉には、たとえこれを著作権法32条意味に限ったとしても、「著作権者に無断で」という意味内包しない。

無断引用という言葉おかしい」というデマは、もともとは(無断リンク禁止の如く)適法無断引用に対して「無断引用だ!」と言いがかりをつけてくる輩に対する「引用は無断でやっても良い」という反論が、「引用は無断で行うものから無断引用という言葉おかしい」に転化したのではなかろうか。

 

職場に行かないとちゃんとしたコンメがないので、さしあたり手元のおぐおぐコンメから引用するけれども、

1.3.1 引用定義

引用定義規定は、現著作権法には置かれていない。

引用」をあえて定義するならば,自己著作活動への利用目的引用目的)で,自己著作物の中に,他人著作物を複製または無形に再生して,利用または自己著作物等を創作,または自己著作物等の中に複製以外の方法で利用する行為である

小倉金井著作権法コンメンタール[改訂版]Ⅱ」94頁)

とあるとおり、そこに「許諾が無いこと」は要件とされていない。許諾がある場合引用ではなくなるということもない。

 

そもそも著作権法32条ベルヌ条約10条の引き写しだ。ベルヌ条約に加盟するためにそのようにしている(条約国内法化)。

Article 10

(1) It shall be permissible to make quotations from a work which has already been lawfully made available to the public, provided that their making is compatible with fair practice, and their extent does not exceed that justified by the purpose, including quotations from newspaper articles and periodicals in the form of press summaries.

日本語訳

第十条 〔引用

(1) 既に適法公衆提供された著作から引用新聞雑誌の要約の形で行う新聞紙及び定期刊行物記事から引用を含む。)は、その引用が公正な慣行合致し、かつ、その目的上正当な範囲内で行われることを条件として、適法とされる。

著作権法

引用

第三十二条 ① 公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行合致するものであり、かつ、報道批評研究その他の引用目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。

したがって著作権法の条文における「引用」はベルヌ条約における「make quotations」という程度の意味しかない。

そしてベルヌ条約は、make quotations が(許諾なしに)適法化される条件を示しているに過ぎず、この条件を満たさなmake quotationsが許諾によって適法化されることを排除していない。

世界中多くの著作権者が、copyrightのあるworksをquoteするためのpermissionのガイドラインを示しているのはそのためだ。

 

「許諾があるならそれは引用ではなく複製だ」みたいな意味不明な主張も見られた。

上記おぐおぐコンメの引用部分にもあるとおり、「引用」には「複製以外の方法」も含まれている。裁判例上も、たとえば複製ではない要約引用も認められている(「血液型性格事件など)。

 

ついでに、法律家が「引用」といった場合、もしかすると原著作物を書き写さな用法のほうが多いかもしれない。「本件控訴の趣意は,弁護人**作成控訴趣意書記載のとおりであるから,これを引用する。」とか「**は、次のとおり付加・訂正するほか、原判決の**の「**」に摘示のとおりであるから,これを引用する。原判決の*頁*行目の*を*に改める…」といったアレだ。

民訴規則刑訴規則には、下の例を含めさまざまな書面の「引用」が認められているが、いずれも「他の文書に書き写さなくても、同じ内容が書いてあることにするよ」という意味だ。

刑事訴訟規則

判決書への引用

218条 地方裁判所又は簡易裁判所においては、判決書には、起訴状記載された公訴事実又は訴因若しくは罰条を追加若しくは変更する書面に記載された事実引用することができる。

民事訴訟規則

第一審の判決書等の引用

第184条 控訴審の判決書又は判決書に代わる調書における事実及び理由記載は、第一審の判決書又は判決書に代わる調書を引用してすることができる。

2023-09-22

ブコメではネガティブ評価されているが、ジェンダー学の最高峰論文

バカエロの大縄跳び」から一抜けして欲しい。|小林美香

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.com/mikamiki0223/n/n1bd7000fdaec

文系理系全て見渡しても、ジェンダー学は再生医療や物性化学などと並び、日本世界的にリードする側になっている数少ない分野の一つ。

上野先生著作東アジアジェンダー学界に多大な影響を与えた事実は知られているが、今回の論文もそれに匹敵する水準の議論の展開に成功していると評価できる。

2023-09-14

anond:20230914142645

三遊亭金馬著作の「符牒語源」において、「女のこと、あるいは女性器のことをタレと言う」と記している。 また、年齢や身分に応じて呼び名が変化し、例えば若い女性は「シンダレ」、中年女性は「マダレ」、高齢者は「バアダレ」、芸者は「シャタレ」と呼ぶとされる。

anond:20230914075937

社会学者」を名乗っていいような人間ではない。

 

学者キャリアを持ってない。

出世作ルポで、それは社会学的な業績と言えなくもないが、別にその後そのジャンルを専門にしたというわけではないし。

 

本人も自分著作で、社会学者を名乗るのはコメンテーター仕事の映えのため、と言っている。

宮台真司上野千鶴子以下。

2023-09-13

ジャニーズ事務所東山ソーセージ事件告発木山将吾あの人は今

 イギリスBBCの例の放送から半年が経ち、ジャニーズ事務所は瓦解しつつある。夏前の雰囲気では「噂では聞いた」「当人は故人」「証拠がない」「ごめんなさい」で寸志を渡して逃げ切りそうな空気だったが、再発防止特別チームの予想以上の報告書で潮目が変わった。

 国体護持の立場から、新社長東山紀之となったが、相変わらず「噂では聞いた」としかわず、社名は変わらず、株主も変わらず、方向性も見えず、期限も示さずではまともな商取引しづらいのは正直なところ。

 そして、東山社長が今から40年近く前に、当時のジャニーズJrに『俺のソーセージを食え』と言い放ったことが話題となった。2005年の『SMAPへ―そして、すべてのジャニーズタレントへ』という本の一節をネットニュースが取り上げ、それが拡散した形なる。

 ところで、この本を書いたのは元ジャニーズJr.の木山将吾である。現役時点は山崎正人と名乗っていた。ただ、木山は、18年前にジャニーズ喜多川からの性被害について赤裸々な著作を書いていたにもかかわらず、この半年間のムーブメントでは特にコメントらしいものを発していない。彼はどこへ行ったのだろうか。

 と、ずーっと謎に思っていたのだけど、実は、木山滋賀県に住んでいることが判明した。

滋賀県草津市ホームページ GINLALA音楽ユニット

https://www.city.kusatsu.shiga.jp/citysales/ouen/boosters/list/ginrara.html

 この写真の右側が、GIN山崎ぎんこと、山崎正人、すなわち木山将吾だ。

 山崎1970年まれで、15歳~18歳まで山崎正人名義でジャニーズ事務所所属光GENJI候補メンバーだったが、性被害を受けて退所していく。1988年北公次(フォーリーブス)の『光GENJIへ』などのジャニー喜多川暴露本出版された後、山崎1989年山崎銀名義でアイドルグループ「新・光GENJI」に参加し、それが「SHADOW」となる。SHADOWは、アンチジャニーズ標榜していた地下アイドルグループで、北公次印税を注ぎ込み運営し、後に被害者の会代表となる平本淳也らも参加していた。ただ、きっかけが不純だったからか、すぐに解散している。

 山崎京都などで活動を単発的にしていたが、2005年木山名義で『SMAPへ―そして、すべてのジャニーズタレントへ』(鹿砦社)を刊行した。週刊文春報道があり、2004年最高裁ジャニー犯罪が確定した翌年になる。

 当時、鹿砦社は、ジャニーズ本を多数出していた。ただ、その多くがタレントの住所暴露本でさすがに褒められたものではなかった。社長は同年別件で逮捕されている。2007年には同じ内容でタイトルを変えて「KAT-TUNへ - 赤西仁がやめた本当の理由」と再編集本を出したあたり、同社に胡散臭さがあるのは否めない。週刊文春もこの時期は報道を控えていたこともあり、1988年北公次ときほど話題にはならなかった。

 その後、木山こと山崎ぎんは滋賀県草津市移住し、2010年から滋賀ローカルタレントとして活躍している。GINLALAとして地元女性タレントコンビを組み、地元コミュニティーFM「えふえむ草津」の出演、イベントコンサートの司会などをしている。滋賀県BBCには出演したこともある。

 増田も以前に滋賀県に住んでいたことがあるんで、彼の顔は何度か見かけたことがある。平和堂の催しや、町内会夏祭りの司会などもしていたからだ。名前はうっすらと記憶しているが、その顔や姿、声、話している内容は特に記憶がない。無名セミプロタレントの一人だと思っていた。

 本人は、別に過去を隠しているわけではないようだ。えふえむ草津パーソナリティー紹介では

https://fm785.jp/%e7%95%aa%e7%b5%84%e8%a1%a8/%e3%83%91%e3%83%bc%e3%82%bd%e3%83%8a%e3%83%aa%e3%83%86%e3%82%a3/

とある。ご本人としては「SHADOW」は黒歴史ではない模様だ。

 ただ、イギリスBBC以降のムーブメントがあるにもかかわらず、木山将吾こと山崎ぎんは、何も発言はしていない。2005年の本はかなり赤裸々にジャニー喜多川の加害を表現していたが、それを改めて言及するのは精神的にかなりしんどいものになるのだろう。コロナ禍で大変だったタレント業もようやく回復しつつある。それを台無ししかねない。山崎はGINLALAgooブログに登場するが、作成相方LALA氏が担当しているようなので、ジャニー喜多川問題への言及はない。

https://blog.goo.ne.jp/ginlala785kusatsu

 思えば、ジャニー喜多川暴露本先鞭をつけた北公次にしても、再婚してワイドショーに登場した1994年以降、ジャニーズ事務所への言及を避けている。1999年10月から始まった「週刊文春」のジャニーズ事務所の連載。第1回目は、同じフォーリーブス青山孝史だった。読者としては、続いて北公次も登場するだろうと思ったが、最後まで何も発言しなかった。後の裁判にも参加していない。

 北としても、芸能界復帰への思惑がある中、言わずが花、という考え方があるのは理解できる。村西とおるらに煽られ暴露本を書いたものの莫大な印税はあっという間に消えた。反ジャニーズの連中が必ずしも自分の味方ではないというのも悟ったのだろう。

 2002年、北は青山おりも政夫江木俊夫らとフォーリーブス再結成している。当時、メリー喜多川は「北と青山ジャニーズ事務所の敷居を跨がせない」と激怒していたという。暴露本に参加したからだ。でも、フォーリーブス名前を使うことができたのは、事務所フォーリーブス4名で何かの手打ちをしたのではと指摘されている。タレント活動するなら、もう反ジャニーズ言及しないと腹を決めたのだろう。北は2012年に若くして亡くなっている。

 おりもは今年5月インタビューで「コーちゃんは、亡くなる直前まで『ジャニーさんに謝りに行きたい』と言っていました」と指摘したうえで、「僕も含めて被害に遭ってない人たちも多くいるわけで、ジャニーズOBや現役を変な目で見ないでほしいです」とジャニーズ事務所擁護発言をし、一部のファン喝采を浴びた。おりもは解散後も長くジャニーズの世話になってきたし、北公次発言を打ち消したい気持ちはあったのだろう。死人に口なしだ。

 今年の母の日である5月14日、山崎地元草津市ホールで「ファミリーコンサート」の司会をする一方、ジュリー藤島東京で「知らなかったでは決してすまされない話だと思っておりますが、知りませんでした。」と述べ、批判を浴びた。

 木山将吾こと山崎ぎんは、遠く琵琶湖ほとりで、この半年ムーブメントをどう見ているのだろうか。本日水曜日は13時から「えふえむ草津」のレギュラー番組「GINLALA 午後は大銀醸」が生放送であるクルマで移動するタイミングなので一度聞いてみよう。

 

2023-09-10

物理学ファインマン社会学ヴェーバーか?

哲学者永井均さん、M・ヴェーバーを精読したこともない人が社会学を叩くのは自分馬鹿であることを喧伝しているようなものであるとの見解を示す」

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2221010

このブコメの話。

自然科学におけるリチャード・ファインマン権威性と人文科学におけるマックス・ヴェーバー権威性を並べちゃうのは典型的ダメ議論という気がする。

文系教育には原典講読という伝統文化があるが、自然科学教育において原論文を精読することは比較的めずらしい。大学社会学科でヴェーバーを読んでいない学生モグリだろうが、物理学科でファインマンを読んだことない者はいくらでもいる(はず。「ファインマン物理学シリーズはそれほど人気のある教科書とはいえないし、一般向け作家として人気があったのは一時代前だろう)。

現代の「社会学」についてまともにコメントをしようとするならマックス・ヴェーバー著作、少なくともその教科書的(=広く合意のある基礎的な)解釈を知っている必要がある、というのはそれほど異論のないことだと思う。なぜなら社会学をはじめとする現代人文科学議論は、過去学者がつくりあげてきた概念言葉)をその文脈込みで参照し、再解釈しながら展開されているからだ。M・ヴェーバー理論現代社会学の基礎の一部、別のいい方をすればある種の共通言語的基盤となっていることは否定できない。そして人文科学における二次文献は不可避的に当該の文献の著者の解釈文脈を帯びたものになるので、そもそものM・ヴェーバー議論を知るためにはM・ヴェーバーを(できるかぎり原語で)読む以外の方法がない。

他方で物理学をはじめとする理学系の自然科学について、たとえば放射性物質一般的な性質などについてあれこれいうために特定原論文を読む必要はまったくない。たとえばアインシュタイン原論文を読解することと、相対性理論理解することはそれほど関係がない。読むのは凡百の大学教科書でもいいし、なんなら「一般読者向けに」(ただし適切に数式を用いて)書かれた解説本でもいい。

なぜなら現代物理学の最新の知見、つまり多くの者がもっと妥当であると認める理論についての解説は、基本的に誰が書いたものでも同じ前提、同じ内容、同じ結論になるからだ(基本的法則定理にもとづく数式の展開によって示される)。知見のコアは何らかの前提のもとに何らかの理路を示す数式の展開もしくはその結論であって、誰が書いたか、どう書かれているかといった文脈関係がない。

物理学はたしかにこれまでの物理学史(歴史に名を残す偉人と無数の無名研究者たちの論文の蓄積)の産物だが、その到達点を知見として理解するために科学史理解する必要基本的にはない。ファインマン特定の業績によってノーベル賞を取ったが、その業績について知ろうとする場合でも、必ずしも彼の書いたものによって理解する必要はない。

2023-09-09

anond:20230909155735

あ、後半は無理なのねw 戦時著作の中断についてもちゃんとおぼえたか?w

anond:20230909152731

俺の著作権が今ころされてもあと70年と120日ほど続くことについてどう思う? 著作人格権との食い違いについては?

2023-08-30

anond:20230517231942

これ、結果的二次創作から利益版権への分配業という新たな著作物に対する利権団体ができる、新たに他人著作でホクホクするお金流し業のビジネスマンが登場、版権元に端金が渡る以外の未来が見えない。

2023-08-29

anond:20230829200355

著作権キャラを守らない。表現されたアニメセル画一枚一枚、漫画の一コマコマをパクったら訴えられて負けるけど、脳内ポーズを組み替えたら、あるいは表現形式が別だったら、もうそれは高確率で別の著作なんだよ。

おまえらキャラ著作と思い込んでるだけ。

anond:20230829170657

だめというのが基本、許可取ればいいという論理の何がそんなに不満なの?あとその基本的人権他人権利との折り合いの中で行使されるべきってことを無視してるよね

だいたい基本的人権の話持ち出されたら著作人格権なんかもその範疇権利だろう?お前の論法は結局どっちかの人権否定する袋小路なのよ

anond:20230829141421

あのさぁ、もちろん無料で公開した漫画村有罪になったけど、原作者二次創作まで創作たか著作者だって言い張るのには無理があるよ。

ファン活動口コミも噂話も嫌いなら嫌い、どのへんならダメっていってくれよ。

絵をかい説明するのはスマホ時代デフォルトだし、噂しただけで強姦扱いされるなら作品名一切SNS禁句にしてやんよ

 

あ、もちろん二次創作原作者著作人格権もちだすくだりだけでも元増田無知で頭おかしいってことはわかってるけどね。

あとは出版社採用されたら担当編集からでも著作講義をうけてくれ。

ここから先は有料。

やっぱ二次創作って異常だと思う

特に「訴えられても自己責任覚悟でやってください」とか知恵袋で言っちゃうようなやつが。

たとえば小学生性交するのは同意があろうが違法だが親告罪なので、被害届がなけてば有罪になることはない。

では同じ論理で「自己責任でやってください」と言うやつがいるだろうか?倫理的にあり得ないと考えるのが大半だろう。「やってください」ということ自体非常識発言とされてるはずだ。「やるなよ。」

やってくださいと言うのは、見つからなければ=自分が実害を被らなければ犯罪してもいいという倫理観と一緒だ。

そうであるはずなのに、どうしてか同人界隈ではこのような論理通用していないのが異常なんだよね。

ガイドラインを出せば大半の二次創作者がそれに従うのだから、そうすればいいだけで、ガイドラインさないやつが悪い?

いやなんで権利者がそれ以外の「ガイドラインを出すべき」という考え方に合わせなきゃならないの?

どう考えても二次創作者が「ガイドラインを出してないが勝手創作されるのは嫌な人もいるかもしれないから、自重すべき」だろ?

二次創作されたら多くは黙認で宣伝にもなって喜ぶ人もいるから?

それって小学生性交しても喜ぶ子がいるかもしれないからやって良いって論理と大差ないよね?

喜ばない人がいるからやっちゃいけないし法で規制されてるんだよ。

そもそも二次創作されるようなコンテンツを作ってるからといって、自分事業内容が二次創作され得るコンテンツ自覚してない事業体もあるかもしれない。オタク界隈としての二次創作文化自体そもそも知らないこともあるかも知れない。

そうなれば当然ガイドラインを出してないこともあり得るだろう。しかしいざ二次創作をされてたと後で何かの拡散などで知ったら不都合な事実として認識するかもしれない。

もちろんそういうコンテンツを出してるのなら、オタク文化二次創作対象になり得ることはもはや自衛として知ってるべきだろうが、それとはれとは話が別だ。むしろ子供強姦するように節操ないオタクたちのせいで、そういう法律があるにも関わらず自衛をしなければならないと権利者に余計な負担をかけさせてる状態が既におかしいのだから

自己責任犯罪しろ」なんて言わないだろ?なんで二次創作の話のときは「自己責任でやればok」なんて言い出すの??

儲けなきゃいいとか言ってる奴は特に論外だから著作人格権がなぜ規定されてるかの意義から考え直して?

dorawiiより

2023-08-27

anond:20230827195452

はい海外で有名なのは日本フェミニストと素晴らしさの方です。欧米が見習うほどです。

中国では上野千鶴子大先生著作ベストセラーです。

もっとしっかり情報を取り入れてみるのもなかなかに良いもんです。

2023-08-23

anond:20230823163857

そのへんの図書館に行って「刑法各論」というタイトルの本を読むのじゃ。

例えばこれじゃ。現最高裁判事山口厚教授著作じゃ。

にゆえに暴行という幅広い概念が用いられているのか、増田想像する問題点を踏まえたうえで詳述されているのじゃ。

https://www.yuhikaku.co.jp/books/detail/9784641042766

2023-08-17

地方文化教養みたいな話

少し前に東京文化地方都市文化、みたいな話題増田で盛り上がっていた。

大体、こういう話題オチ東京は消費文化に過ぎないとか、クラブカルチャーのようなもの地方都市では生まれ得ないといったマウント合戦になる。

お盆帰省していたので亡き父の書斎の整理をしていた。

我が家地方都市自営業地主階級ではなく、単なる1代限りの商売をした層だ。自分は継がずに東京サラリーマンをしている。

そんな父はエスタブリッシュメントではないが、書斎職場倉庫に優に2万冊を超える書籍を残していた。

思い出せば父は休みの日は本を片手にソファで寝っ転がっていた。インテリ風な見た目、オシャおじな見た目では全くなかった父は、家族以外の他人からはいつも印象と蔵書量がピンと来なくて驚かれる。

まり父と本の内容や政治経済の話をしないので、読んでいた本の傾向はわからないが、いわゆる雑食型だと思う。そもそも大学教授地方研究家というわけではないので雑食で問題なかろう。

もともと経済学部出身だったこともあり、経済関連の本は多く、地方都市のただの自営業者にもかかわらず世界経済に関する書籍が多いのは少し笑った。実学よりも知識欲だったのだと思う。

とはいえ堺屋太一立花隆村上龍などの著作はかなりあり、好きだったのだろうと思わされる。

もともと文学少年だったようで、小説が最も多く、1万冊程度、あとは歴史が好きなので歴史関係書籍が数千冊、経済思想美術あたりが多い。子供東大に入れるための教育法、不動産投資で失敗しない方法みたいな本棚に並べるのも恥ずかしい本もあって笑える。そのあたりも雑食で好感が持てる。文学自分が全く知らない著者や世界文学の本もあり、なかなかの教養を伺わせる。生前にいろいろ聞いてみたかった。

理系の話がわかるようになる本、大学受験用の数学物理生物参考書大学以降の化学教科書東京化学同人とか)もあって、このおっさんはどこに向かおうとしてたんだと思う。コンプレックスかもしれないし、学生時代に身につけられなかったことを少しずつ勉強していたのかもしれない。よくわかるレアメタルの本、とかよくわかるEVの本みたいな仕事と全く関連ない本も読んでいて本当によくわからない。付箋がついているので読んでいる跡はある。

画集詩集も多く、このあたりはまったく詳しくないのでどう評価したらいいのかわからない。でも、昔から美術は好きで、海外にはよく美術館巡りをしていた。ルーブルに3日連続で通ったあとに、全然見れなかったからまた来たいなぁと言っていた。その想いは叶わなかったけれども。

私が知る限り、父には友人らしい友人はいなかったし、小説を書いて応募したという話は聞かないし、金儲けで成功したという話も聞かない。せいぜい母と私と兄を養ったという我が家にとっての偉大な功績があったくらいである。

父の仕事に直接関連する書籍は蔵書の中の1%未満であり、父は人生可処分時間の大半をステップアップや成長のための読書ではなく、趣味のための読書自分のための読書で過ごしている。父が得た知識理解はどこにもアウトプットされることなく、灰となって消えてしまった。

そして、これが地方文化の一つの形ではないかと思う。

もちろん地方都市に父のような生活をしてる人が大半だなんて言うつもりはない。おそらく少数派だ。しかし、人口20-30万人くらいの小さな地方都市には大体、父のような人間がいるものだ。

東京大阪にもいる、という話ではない。そんなのいるに決まっている。

地方都市自営業者のような世間的にはそんなに尊敬される、すごいと思われるわけではない職業についた人々が、自身知的好奇心リブンで年収職業訓練になんの役にも立たないことをしている。そういうのも一つの地方文化だと思う。首都圏まれの人には想像しづいかもしれないが、いわゆる知識階級大学教授医師弁護士といった士業など)の肩書を持っていないが、準知識人(もしくはエセ知識人、隠れ知識人かもしれない)がそれなりに埋もれている、そういうことも知っておいてほしい。

*【#総選挙を控えて】「この2人が自民党の腐敗政治延命させている元凶だ!」

... 衆参補選の結果でもわかるように、立憲の候補自民党候補に僅差で負ける選挙が少なくない。

野党共闘を徹底すれば簡単に勝てたのに、わざと負ける闘い方をしている。

共産党が協力しても、日本共産主義の国になるわけがない。いまはソ連コミンテルンがあった頃と違い、反共主義など時代錯誤もいいところだ。

③ 「選挙区は立憲、比例区共産社民れいわ」と大枠を決め、知名度地盤で勝てそうな所では「共産社民れいわ」のどれかを統一候補とする。

護憲4党でキャンペーンを行い、投票率を挙げる。

これだけで、政権交代可能性は大なのだ

われわれ一般市民でもわかることが、どうしてこの2人にはわからないのだ?

この2人が野党共闘妨害する限り、相次ぐ不祥事自民は多少減票になっても、野党は勝てず、自民党は笑いが止まらないだろう。

https://twitter.com/HiroshiMatsuur2/status/1691387216483008512

Hiroshi Matsuura

@HiroshiMatsuur2

ファシズム反ユダヤ主義差別偏見問題研究著作に『日本人の〈ユダヤ人観〉変遷史』(論創社)、『ユダヤ陰謀説の正体』(筑摩書房)、論文に「捏造される杉原千畝像」(岩波書店世界2000年9月号)など。尊敬する人物杉原千畝。好きな作家ベルナノス、音楽家バッハ記事依頼はメッセージからお願いします。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん