はてなキーワード: カカとは
【追記】追記編と初手編、日常用語編、国際編、人物編、二眼の説明を加えた。
anond:20220131231934にインスパイアされてやってみた。
省力のために一部wikipediaからの引用も交えながら独自の解説を記した。
一手で隅をほぼ専有できてしまう反面、中央から遠く発展力やスピードに欠ける。
江戸時代以前の古くから打たれている手であり三々よりは中央に近く、星よりは地に近いバランスの取れた手。
隅を占めるのに二手かかるのが欠点。
4・4の地点で碁盤の目印のある部分のこと。
後述の昭和の新布石時代からよく打たれるようになった手。それ以前は置碁くらいでしかあまり見られなかった。
地に甘いというのは、相手に三々に入られるとほとんど地を奪われてしまうためである。
碁盤において、この地点がもっとも高い地点であり、端は地面という概念となっている。
後述の厚みが確定地ではない未来への投資であるのに対し、序盤から陣地になる可能性が高い場所を実利という。
実利をとれば厚みを作られ、厚みを作ると実利をとられるという表裏一体な関係にある。
盤上において影響力を及ぼすことのできる、しっかりと連絡して眼形の心配もない強力な石の集団である。
「厚み」は「薄み」に対する対義語である。囲碁で「薄い」というのは連絡が十分取れていない形、眼に不安がある石のことであり、相手に攻撃される可能性を持っている状態を指す。
これに対して強力な「厚み」は相手からの攻撃を受ける可能性が低く、周囲に近づいた敵の石に対して攻撃するための基盤となる。また、相手が近づいてこなければ大きな模様や地を形成する拠点となる。
大きな地になりうる可能性のある勢力圏のことを指す。多くの場合、隅から辺、中央へ広がるものを呼ぶ。
手の順番や形を変え、定石等と比べることで本来の形に対して余計な石があることなどを評価し、効かし効かされを判断する。
1933年(昭和8年)に呉清源と木谷實が発表した、中央・速度を重視する新しい囲碁の布石のスタイル。それまでの小目を中心とした位の低い布石に対し、星・三々で隅を一手で済ませて辺や中央への展開速度を重視し、中央に雄大な模様を構築することを主眼とする。その斬新なスタイルと、これを駆使した呉・木谷の活躍により社会現象とも言えるブームを巻き起こした。
またAlphaGoの台頭以後、新布石時代に負けるとも劣らない布石の変化が囲碁界を席巻している。
例えば星への三々入りを序盤に行うの「ダイレクト三々」は相手に厚みを与えるため不利と言われていたがそれが平然と行われるようになった。
隣り合った隅・辺・隅の星を占める布石である。辺を打たず、隣り合った隅の星を占めるのは二連星と呼ばれる。中央に大きな模様を張ることを主眼としたスタイルで、武宮正樹が有名な使い手である。
安永流ともよばれる。星・小目・辺の星脇を組み合わせた配置である。
小目からシマリを省略して星脇へヒラく手法は、江戸時代初期に本因坊道策が使用している。
本格的な中国流の開祖は安永一とされ、中国には陳祖徳が広めたとされる。1965年の日中囲碁交流の際に非常に注目され、日本に逆輸入された。
右上空き隅、小目、相手の星へのカカリから星脇へのヒラキまでの一連の配置を指す。下図下辺の黒の配置がミニ中国流である。右上隅の着点は必ずしも決まってはいないが、星との組み合わせが最もよく打たれる。平成期に流行した構えだが、すでに400年ほど前に本因坊道策が試みていた。このため道策流とも呼ばれる。
序盤早々、周囲にまだ石がない段階で、相手の星に対して直接に三々に打ち込んでいく手段を指す。かつては全く考えられていなかった戦法だが、AlphaGoなどの人工知能がこの手を打つことから注目され、人間の棋士の間でも広く採用されるようになった。ダイレクト三々の名称は、2018年5月から河野臨によって週刊碁の連載のタイトルに使われ、定着した。
囲碁の基本的な手筋のひとつである。アタリの連続で、逃げる側は盤がある限りは逃げることができるのだが、盤の端まで到達してしまうとどうにもできず、石を取られてしまう状態をいう。逃げきれるつもりでこの手順に入ると非常に大きな被害を受けること、シチョウアタリという攻守が全く逆転する危険な変化があることから、「シチョウ知らずに碁を打つな」という格言もある。
シチョウの追いかける先に相手の味方の石がある場合シチョウが成立しないので、この手を選ぶことが多い。
相手の石にフタをするように斜めに置き動きを封じる。
一旦相手のふところに石を打ち、一度は取られてしまうが取った後の姿がアタリになっていてすぐに相手の石を取り返すことができる。
漢字表記では「追い落とし」となる。 ツグ手を打っても引き続きアタリになり、取られてしまう状態をいう。別名をトントン、ツギオトシ、バタバタとも。
相手の石にも自分の石にも触れないような位置に、文字通り「置く」ように打つ手のこと。動詞では「置く」となる。多くの場合一線や二線など辺の低い位置の、敵陣の急所に打つケースを指す。
相手の二団以上の石を同時にアタリにし、二眼を確保する手段。文字通り相手を押しつぶすイメージであることからつけられた。着手禁止点を利用して生きる手筋である。
相手の石をアタリにし、自分の石を相手に取らせた上でもう一度相手をアタリにする一連の打ち方を指す。途中、さらに捨て石なども交えることもある。多くの場合、相手を凝り形にし、自分が形を整える目的で打たれる。また、攻め合いの場面で相手の手数を詰め、攻め合い勝ちに導く手筋としても用いられる。また、あまり効果のないシボリを「西洋シボリ」と称することがある(前田陳爾の造語)。
ある石のダメが詰まることで、各種の不都合が生じる状態を指す。「ダメの詰まりは身の詰まり」という囲碁格言があるように、不必要にダメを詰めてしまうことは身の破滅につながり、碁において戒められる事柄のひとつである。
駄目については後述。追記編を参照。
ヨセ(終盤のこと)において相手の陣地を侵食するための鮮やかな手筋。
一見繋がってないようなところに打つのだが、見事に繋がっていて相手の地をかなり減らすことができる。
盤上にある石の一団は二眼(空間が2つ)ないとゆくゆくは駄目(呼吸点)が詰まり必ず取られてしまう運命にある。
これはルールとして定められているというよりは、石は呼吸点を有してないと取られる、着手禁止点には打てないという2つのルールから導かれる定理のようなものである。
2つ眼があると、駄目が最低でも2つある状態と着手禁止点が2つある状態が存在するため、着手禁止点を同時に2つ塞ぐことはルール上できないので必ず取られない最強の存在となるのである。
この取られない石の状態のことを「生きている」と言い、この「生きている石」の内側の領域が陣地となる。
この石の生き死にさえ理解できれば、初心者の、どっちがどっちを囲んでるのか、これは内側も外側も囲んでると言えるのではないか、という疑問は消えるだろう。
相手にそこを継がれると眼となる部分に先行して打って欠け目にすること。
「打って欠く」(打ち欠く、あるいは内欠く)の意
相手にそこに打たれると完全な二眼ができてしまう部分に先行して打てなくする、相手の石の一団を殺す必殺の手。
隅に打った既存の石から陣地を確保するためにもう一手かけて領域の守りを固める手
ふたつ隙間を空けて打つ手
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自分の石の斜めひとつ空けた場所に置くこと。●から見て★の手のこと。
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相手の石の隣にくっつけて置くこと
相手の石を挟むように置くこと
相手の石の斜めに置くこと
相手の石のつながりを断つように斜めに打つこと
相手の石がそれ以上侵入してこないようにせき止める位置に置く石
相手の石を押すように平行に打たれる石
目外しへのカカリから発生する定石を指す。派生する変化型が多く、複雑な戦いになることから、大斜百変、大斜千変とも呼ばれる、難解定石の代表的なもの。天保頃より特に研究が進み、現代でも多くの変化が生まれ続けている。
小目への一間高ガカリに下ツケする形から発生する定石を指す。最初から接触戦となり、また変化型が多い難解定石の代表の一つ。石が接触しながら戦いになっていく様を「ナダレ」と形容された
小目への一間高ガカリに二間高バサミして生ずる一連の変化を指す。難解で未解明部分も多く、また変化型が多いために誤ると自らも傷を負うところから、村正にちなんでこの名が付いた。大斜、大ナダレとともに三大難解定石とされる。
竹の節のような並び。
一間空けて2:2で平行に並んだ形で、その間をどちらかを相手に打たれたらもう片方で繋がれるので絶対に切られることがない。
仏教用語ではひとつの宇宙が始まって終わるまでの途方も無い長い時間のこと。
囲碁においては、どちらかが譲らない限り永遠に循環してしまう特別な形があり、その形をコウと呼ぶ。
コウの形で石を取られた側はコウをすぐに取り返してはならず、一手別の場所へ打つ必要がある。
通常、白石はハマグリのくり抜きによってできているがそれが語源か。しらんけど
冒頭で説明。
限られた局面、特に序盤においてある程度決まった一連の手の応酬のこと。
定石は手練の碁打ちの長い研鑽、研究により成り立つもので、お互いに必然の手を打ち、双方ほぼ互角のワカレとなるのが定石の前提である
どちらの陣地にもならないどうでもいい地点の事を指すことから日常用語に転じた。
または、石から出ている呼吸点(全部塞がれると相手に取られてしまう)のこと。
囲碁において死活問題とは、相手の石を殺す、あるいは自分の石を活かすための問題(クイズ)のことである。
現代では上手(うわて)が白を持つが平安時代期には強いほうが黒を持っていた。
そのため
と転じたと言われている。
自分が第三者となった視点で戦いを見ると手がよく見える、あるいはそう錯覚すること。
一目は一子(石ひとつ)の意。
囲碁においては強さに差がある場合、相手より多く先に石を置いた状態で始めることから、相手の実力を認め敬意を示す意味に使われるようになった。
手を省くこと。
力を抜くことではなく、相手の打った手に付き合わず、その場所よりも価値の高い場所へ向かうことを言う。
囲碁にはいくつかルールがあり、基本的には江戸期~昭和期まで囲碁の第一人者であり、世界に囲碁を広めた日本のルールが用いられている。
日本ルールは盤上の囲った陣地(目)のみをポイントとするのに対し、中国ルールではそれを含め置いた石の数もポイントになる。
この2つの大きな違いは、日本ルールが自分の陣地に自分の石を置くことがマイナスとなるのに対し、中国ルールではマイナスにならない点である。
このことが死活に関わる局面や終盤の局面での手入れ、手抜きにおいて大きな違いを生む。
日本ルールでは曲がり四目と呼ばれる形が出現した場合、手を入れるのがマイナスになるためそれが死であることの証明を用いないと議論が生じる。
そのため中国ルールのほうが初心者に優しく、コンピューターにも優しい。
他には日本ルールでも中国ルールでも禁止されている自殺手がOK!というルールもある。
碁打衆を保護、「御城碁」の基盤を築く。近世囲碁の発展、振興に絶大な貢献。(日本棋院表彰ページより引用)
永禄2年(1559年) - 元和9年5月16日(1623年6月13日)
江戸幕府における囲碁の最高位だけにとどまらず、将棋の最高位も得た二刀流。
大橋宗桂との将棋対局は将棋の現存する最古の棋譜でもあり将棋界においても重要な人物の一人。
正保2年(1645年) - 元禄15年3月26日(1702年4月22日)
手割りや布石など、数々の発明を生んだ天才棋士。史上最強という呼び声も高い。
文政12年5月5日〈1829年6月6日〉 - 文久2年8月10日〈1862年9月3日〉
ヒカルの碁で著名。
1874年(明治7年)6月24日- 1940年(昭和15年)1月18日
またタイトルとなる前の、「名人は一世に一人」の終身名人制時代の最後の名人でもある。
引退後に本因坊の名跡を日本棋院に譲渡し、選手権制の本因坊戦創設に導いた。2008年囲碁殿堂入り。
「オマ●コ」発言など、昭和の棋士らしい数々の破天荒なエピソードが有名。
棋聖 6期 (1977-82)
名人 2期 (1962・70)
天元 1期 (1975)
先日、子供の囲碁教室のお手伝い当番に行ってきた。私の担当はCクラス。19路のクラスで最弱のクラスだ。
普段は対局メインで、3局くらい打たせたら宿題の答え合わせをして終了なのだが、大会が近いからということで、棋譜並べからの決め打ち碁というメニューだった。
(※決め打ち碁……模範対局の棋譜の序盤を並べて、続きを自由に打っていくという練習対局)
使用した模範対局譜は、黒が中国流で構えたところに、白は二連星から黒に先制攻撃を加えていく、という流れだった。
先生は、
と、解説用のでかい碁盤にマグネット石をどんどん並べていくが、子供達は「はぁ?」って感じで口をぽっかーんと開けていた。そもそも、子供達は何故白が左辺に三連星を完成させずに動き出したのか、という所で引っ掛かってしまっている。
これまで、黒も白もお互いにお行儀よく向かい合わせに三連星で布陣を敷いてからやっと闘いを始める、というやり方に慣らされてきた。だから、中国流という初めて見る布陣を黒が使ったのはいいとして、白がお約束を守らずに急に、右上隅の星に置かれた黒にかかっていった、ということが、理解出来ないというより、許せないのだ。
はぁ? と思ったまま、棋譜はどんどん並べられていく。先生は「対局にはストーリーがある」と言ったが、大雑把なあらすじしか言ってくれない。白が右上隅を攻撃してきたので、黒は守って定石です。白が二間に開いたので、今度は黒から左下隅の白三々を攻めます。そんな感じだ。
その一手一手を、対局者たちはどのような意図を持って打ったのか。それを先生は解説してくれない。いつものことだ。
しかし、それを解説してしまうことは、果たして良いことなのか悪いことなのか……。子供達は何となくそういうもんだと習っておき、もっと対局経験を積み勉強をして、強くなってから初めて自分自信でその陣形の意味を発見するのが良いのか……。
後から「そういうことだったのか!」と自力で気づくのって、楽しいよな。そういう時、今まで続けて来て良かったと心の底から思う。何事も。
しかし、それにしてもヒントが少なすぎるような。子供達は訳が分からなくなって、早速棋譜並べを嫌いになりかけていた。ただ、先生が棋譜を22手まで暗記させる課題を出したので、子供達はそれに正解して褒められることを楽しみにしたようだった。
自分ならどう教えるかなぁ、と、考えながら、子供達が暗記に励む様子を眺めた。
私なら、まず子供達に知っていて欲しいことを二つ教えたい。一つ目、囲碁は足の速い奴が勝つということ。二つ目、囲碁は相手に先制パンチをお見舞いした方が勝ちだということ。どちらも簡単にいえば「先手必勝」の原則である。
囲碁は先手必勝。先生は口が酸っぱくなるまでそれを子供達に言うが、子供達はけっこう級位が上がるまでその意味を理解することがない。単に、黒が勝ち易い、ということだと思って、一桁級まで何となく昇級していってしまう。
一手一手に、先手と後手がある。一つ一つの折衝にも、先手と後手がある。そして布陣を敷く時もまた、先手と後手がある。互いに三手使って布石をし、陣形を固めるというのは、その時点で最後の一手を打ったのは白なのであり、つまり白の後手である。後手は負けだ。みすみす黒からの先制攻撃を許すことになる。
互いに三連星を敷いたのなら、まだいいかもしれない。四隅が星でその下が大きく空いているから、互いに相手の模様(大まかな陣形)の隅を荒らすチャンスがある。
ところが、黒が中国流で来たら、ちょっとまずいかもしれない。右上隅の星、右下隅の星の一路下、そして右辺中央の星の斜め下。となれば次に黒が守りを固める方針ならば、右下隅の石からケイマに開いて固める。これをコゲイマジマリといって、このシマリは低い位置にありしかも切りづらいので、このシマリの下がそのまんま黒の確定地(陣地)になってしまう可能性が高い。そして、コゲイマジマリから上の星の斜め下に黒石が控えているというのも手堅い。
右辺に手堅く地を作ろうとするかもしれない。その可能性を黒はチラつかせつつ、裏をかいて白の模様深くに切り込んで来る可能性だってある。
という訳で、中国流で来られたら白はうかうかしていられない。白は三連星を完成させるとその時点で後手である。手堅く守るか、軽快に攻撃に転じるかという選択を黒に持たせることになり、良くない。
それで白は自分の布陣を完成させるのもそこそこに、黒に先制攻撃を加える。そういう選択を取ったのが、さきの模範対局譜である。白は二連星から、黒の右上隅の星にかかっていった。定石通りで白の二間開きにて、その部分の折衝は終了する。二間開きはこれも手堅い守り……守りなんだからこれは後手で、次は黒の先手でバトルが始まることになるのだが、右上隅の闘いにより、白は右上隅へのカカリから左上隅の星にかけて、上辺に大きな模様を築くという利を得た。後手を引いたものの、白は速い足取りで広い空地に自分のフラッグを立ててまわることに成功したといえる。
次、左下隅に黒がかかってきて、黒の後手で折衝が終われば、白は次に右下隅に切り込み、黒のコゲイマジマリの完成を妨害してゆくという狙いを持てるだろう。
対局にストーリーがあるということは、こういうことなのだ。しかしまあ、これを小学生にどう説明するかというのは、難しい問題だなぁと思う。
前回のリストhttps://anond.hatelabo.jp/20210707223409が字数制限に達したようなので、書ききれなかった分はここに付け足します。前回はたくさんのブックマーク、コメントありがとうございました。https://anond.hatelabo.jp/20210715114737も参照ください
孫権は自ら軍を率いて曹操軍の籠城する合肥城を攻める。しかし、張陵の奮戦に苦しめられた挙げ句、疫病の発生により撤退を余儀なくされた。更に張陵に追討ちをかけられ、命からがら逃亡した。
・沙苑の戦い
西魏軍は葦原に身を隠し、東魏軍の列が乱れたところを一斉攻撃する戦法で勝利した。東魏軍は6000名が捕らえられ、7万人が捕虜となった。
・パリ包囲戦
885~886年 ★西フランク王国200vsヴァイキング3万~4万
西フランク王国の首都パリをヴァイキングの大軍が包囲。フランク人達は1年にもわたる激しい抵抗を繰り広げ、やがてカール3世率いる援軍が到着したため、ヴァイキングは撤退した
1336年 南北朝・建武の乱 ★足利軍1000vs菊池軍1万
博多へ侵攻する菊池軍と足利尊氏が遭遇。菊池軍に離反者が相次ぎ、敗北した。
・ベオグラード包囲戦
オスマン帝国はハンガリー王位を巡る内戦に乗じてセルビアへ侵攻、ベオグラードを包囲した。ハンガリー軍は5ヶ月に渡って抵抗し、これを退けた。
・クルヤ包囲戦
1450年 オスマン・アルバニア戦争 ★アルバニア軍8000vsオスマン軍10万
スカンデリベグ率いるアルバニア軍がオスマン帝国に包囲された。アルバニア軍は敵軍の補給を断ち、士気の低下と病気の流行に苦しめられたトルコ軍は撤退した。
・ベオグラード包囲戦
1456年 ★ハンガリー軍4000vsオスマン軍3万~40万
コンスタンティノープルを陥落させたトルコ軍は勢いに乗じて、ハンガリーへ侵攻するが、ベオグラードで英雄フニャディ・ヤノーシュの活躍の前に敗れ去る。
・ヘミングステットの戦い
1500年 ★ディットマルシェーン500~1000vsデンマーク軍1万2000
ディットマルシェーンの農民達がカルマル同盟に対して反乱を起こす。農民達はバリケードを築き、土地を氾濫させたため、デンマーク軍は数的優位を活かせなかった上、大勢が溺死したため、撤退した。
・ロドス包囲戦
1522年 聖ヨハネ騎士団6700vs★オスマン帝国8万~12万
ロドス島を支配する聖ヨハネ騎士団をオスマン帝国が包囲。半年にも及ぶ激戦の末に騎士団は降伏。シチリア島へ移った。トルコ軍にも2000~5万の死傷者が出た
・クーセグ包囲戦
1532年 ハンガリー軍700~800vsオスマン軍12万~20万
ウィーン遠征へ向かうトルコ軍がハンガリーの小さな町クーセグを包囲。貧弱な装備ながらも守備隊は25日間抵抗し続け、ハプスブルクの援軍を恐れたスレイマン1世は撤退した。ハンガリー軍は最後まで降伏しなかったという説と降伏を受け入れたが少数のトルコ人しか砦に入れなかったという説がある。
現モンテネグロの町カステルヌーヴォをバルバロス率いるトルコ軍が完全包囲。スペイン軍は降伏勧告を無視し、1ヶ月にも及ぶ激戦の末に100名を除いて全滅したが、トルコ軍も8000人から2万人が戦死した。
・アンドリエンの戦い
1550年 アラウコ戦争 ★スペイン・ピウンチェ連合軍500vsマプーチェ族2万人
マプーチェ族はスペイン軍に夜襲を仕掛けるが、スペイン軍は警戒を怠らなかったため、返り討ちにされ、3000人が戦死した。
・エゲル包囲戦
1552年 ★ハンガリー軍2000vsオスマン軍3万5000~4万
イシドヴァーン・ドヴォ率いるハンガリー軍がトルコ軍に包囲されるも、厚い防壁、イシドヴァーンのリーダーシップ、トルコ軍の内部対立に助けられ、防衛に成功した。
・マラッカ包囲戦
アチェ王国はポルトガルからマラッカを奪還しようと大軍を派遣し包囲するが、3000人以上の犠牲者を出して敗北した。
・ファマグスタの戦い
1570年~1571年 オスマン・ヴェネツィア戦争 ヴェネツィア8500vs★オスマン軍10万~12万
キプロスのクリスチャン最後の砦ファマグスタが1年近く激しい抵抗を繰り広げた後に降伏した。ヴェネツィア軍は7600人が戦死し、トルコ軍は1万~2万人が死傷した。当初トルコ軍は砦内のクリスチャンの安全を保証するもその約束を反故にし、ヴェネツィア人たちを虐殺し、指揮官のブラガディンは耳と鼻を削がれた上、皮剥の刑に処された。
・英賀合戦
1577年 戦国時代・中国攻め ★小寺軍500vs毛利軍5000
織田寄りの小寺氏を討伐するため、毛利は大軍を派遣する。しかし、小寺軍は敵が上陸した直後を奇襲した。更に農民達に旗を挙げさせ、それを敵の援軍と勘違いした毛利は兵を引いた。
・クヴォダンスコの戦い
1577年~1578年 クロアチア軍300vs★オスマン軍5000~1万
クロアチアの都市クヴォダンスコをトルコ軍が包囲した。防衛軍は3ヶ月に渡って籠城し、3度の大規模な攻撃を退けた。守備隊が全員餓死若しくは凍死した後にトルコ軍は砦を占拠し、敵兵の遺体を手厚く葬った
伊東軍が建設した石城を島津軍が包囲する。しかし、石城は三方を急流、背後を険しい崖に覆われた天然の要塞であったため、島津は一度撤退した。伊東軍の死者10人に対し、島津軍は500人が死亡し、大将の島津忠長も重傷を負った。2ヶ月後島津軍は1万人の大軍を派遣して城を堕とした。
・ナジカニジャ包囲戦
1601年 ★オスマン軍9000vsハプスブルク6万5000~10万
現ハンガリーの都市ナジカニジャをハプスブルクの大軍が包囲。オスマン軍は潤沢な物資があるように見せかけながら防衛戦を繰り広げ、73日目に奇襲攻撃を仕掛けた。これを敵の援軍と勘違いしたハプスブルクは軍を撤退させた。
マラータ王国の台頭を警戒したビジャープル王国は討伐のために軍を派遣する。マラター軍はビジャープル軍の追撃から国王シヴァージーを逃がすため、狭い砦で命がけの戦いに挑んだ。この戦いで両軍とも兵力の半分を失ったが、シヴァージーは逃亡に成功した。
・ハドウの戦い
1694年 ポーランド・オスマン戦争 ★ポーランド軍400vsクリミア・ハン軍4万
ポーランド領ポジーリャに侵入したタタール軍とポーランド軍が激突した。ポーランド軍は木製の柵で守りを固め、弾薬が尽きれば、モンゴル軍の矢を打ち返すなど奮戦し、撃退した。ポーランド軍の損害は100名足らずに対して、タタール軍は1万人以上であった。
・アナントプルの戦い
シク教の台頭を恐れたムガル帝国は討伐軍を派遣する。しかし、グル・ゴービンド率いるシク教徒たちに敗れる。
・ナフプリオ包囲戦
現ギリシアの町ナフプリオをヴェネツィアはトルコから奪還することに成功し、更にパラミディ要塞を建設し、防衛強化に努めた。しかし、トルコの大軍に包囲され、1週間ほどで陥落し、住民達は虐殺されるか囚人として連行された。しかし、この戦いでトルコ軍も8000人以上が戦死した。
・ガングワナの戦い
1741年 マールワール軍1000vs★アンベール・ムガル・バラトプールなど連合軍1万~4万
マルワール王国はアンベール王国の戦争に敗れ賠償金と土地を要求されるが、国民が怒ったため、報復戦争を開始する。マールワール軍の騎兵ははアンベール軍を強襲し、蹴散らすものの、ムガル軍の砲撃によって敗北した。マールワール軍は全員が戦死するか負傷したが、連合軍は12000人が負傷した。
・レイバー橋の戦い
1855年 第二次フランス・トラルザ戦争 ★フランス軍14vsトラルザ軍1000人
セネガルとセントルイスを繋ぐレイバー橋をトラルザ軍が襲撃するも、14名の守備隊に撃退された。フランス軍は3名が負傷しただけであったが、トラルザ軍は127名が死傷した。
江戸幕府は将軍徳川家茂自ら軍を率いて長州討伐に出征する。しかし、西洋化が進められた長州の装備に苦しめられた挙げ句、家茂が病死したため、撤退した。
1879年 第二次アフガン戦争 イギリス軍75vs★アフガン軍2000
カブールの英国居住地に居たピエール・カヴァナリ郷をアフガン人が襲撃した。護衛達は奮戦し、600人死傷させたが、2名を除いて戦死した。
・マイワンドの戦い
1880年 第二次アフガン戦争 イギリス軍2500vs★アフガン軍2万5000
アフガン人とイギリス軍が激突、数で勝るアフガン人が勝利を収めた。しかし、イギリス軍の死者1000人に対し、アフガン軍の死傷者は1万人以上と勝者の払った犠牲も大きかった。
・シャンガニ・パトロール
1893年 第一次マタベレ戦争 イギリス南アフリカ会社37vs★マタベレ軍3000
イギリス南アフリカ会社は現ジンバブエのマタベレ王ロベングラの逮捕のために軍を派遣するが、待ち伏せに遭い3名を除いて全滅した。しかし、マタベレも400~500名が戦死した。
1896年 フィリピン革命 ★スペイン軍100vsカティプナン800~1000
マニラの東サンフアンでフィリピン独立を求める秘密結社カティプナンが武装蜂起を起こすが、スペイン軍に敗れ撤退した。この戦いがフィリピン独立戦争の始まりとなった。
・カカロン・デ・シリの戦い
1897年 フィリピン革命 ★スペイン軍600vsフィリピン6000
ブラカンでフィリピン人がカカロン共和国の設立を宣言し、砦を築いた。スペイン軍は討伐軍を派遣し、砦を攻略した。反乱軍の残党達はスペインに対してゲリラで抵抗を続けることとなる。
・サラガリの戦い
1897年 ティラ作戦 イギリス領インド帝国軍21vs★パシトゥーン人1万人
ティラ地方のアフガン人がイギリスに対して反乱を起こし、サラガリに駐在していたイギリス軍を襲った。イギリス軍は全滅したものの、アフガン人も450名が死傷した。
・サンタ・クルス包囲戦
1898年 フィリピン革命 スペイン軍700vs★フィリピン軍1万
ラグナのスペイン軍最後の拠点サンタ・クルスをホセ・リサールの兄パシアノ・リサールが包囲した。スペイン軍は2ヶ月に及ぶ抵抗でフィリピン軍に大損害を与えたが、降伏した。
・ベーラー包囲戦
1898~1899年 フィリピン革命 スペイン軍50vs★フィリピン軍800
教会に立て籠もったスペイン軍をフィリピン人達が1年にわたって包囲する。スペイン軍はフィリピン軍が700名の兵力を失う程激しく抵抗し続けたが、スペイン本国が敗れたことを知り投降した
1939年 第二次世界大戦・ポーランド侵攻 ポーランド軍1200vs★ドイツ軍1万7000
ドイツ軍がポーランド軍の防衛するウェンギエルスカ・グルカ村を通過する際にポーランド軍と2日間交戦する。ドイツ軍は勝利したものの、多大な犠牲を強いられ、ポーランド軍の戦死者は7~20名、7名が処刑された。
・ヴェステルプラッッテの戦い
1939年 第二次世界大戦・ポーランド侵攻 ポーランド軍205vs★ドイツ軍2600
ドイツ軍が自由都市ダンツィヒのヴェステルプラッテ半島を攻撃。ポーランド軍は1週間に及ぶ激戦の末に降伏。ポーランド軍の死傷者67名に対し、ドイツ軍の死傷者は300~400名であった。
・ウィズナの戦い
1939年 第二次世界大戦・ポーランド侵攻 ポーランド軍350~700vs★ドイツ軍4万2000
ドイツ軍がウィズナ村を通過した際にポーランド軍の激しい抵抗に苦しめられた。3日間の死闘でポーランド軍は壊滅したが、ドイツ軍も1400名の死傷者を出した。
・ミルの戦い
1940年 第二次世界大戦 オランダ侵攻 オランダ軍2000vs★ドイツ軍3万
ドイツ軍がミル村を通過する際にオランダ軍の激しい抵抗に遭った。ドイツ軍は勝利したが、500人以上が死傷し、オランダ軍は80人が死傷した。
・ソーミュールの戦い
1940年 第二次世界大戦 フランス侵攻 フランス軍2500vs★ドイツ軍4万
フランス軍の訓練生達がドイツ軍の攻略に2日間抵抗した。フランス軍の死傷者250に対し、ドイツ軍の死傷者は400名で戦車も7両破壊された。訓練生達の勇気はドイツ軍指揮官クルト・フェルトですら賞賛した。この戦いはペタン元帥の停戦呼びかけの後に行われたため、最初のレジスタンスであるとされる。
・ニリムの戦い
1948年 パレスチナ戦争 ★イスラエル軍39~45(内12人女性)vsエジプト軍500~800
イスラエルのキブツ(共同体)ニリムをエジプト軍が包囲した。エジプト軍は装甲車、航空機などの支援を受けて攻撃したが、イスラエル軍の防御を突破できず撤退した。
・3234高地の戦い
1988年 ソ連のアフガン侵攻 ★ソ連軍39vsムジャヒディーン、パキスタン軍450~650
3234高地に配備されたソ連空挺隊がムジャヒディーンの襲撃を受けた。ソ連軍は34名の死傷者を出しながらも200名以上を殺害し、撃退した。
・ヴコヴァルの戦い
1991年 クロアチア紛争・ユーゴスラヴィア紛争 クロアチア軍1800vs★ユーゴスラヴィア・SAO36000
クロアチア東部の都市ヴコヴァルをユーゴスラヴィア軍が87日間にわたって包囲した。クロアチア軍は大半が死傷し、多くの民間人も虐殺・追放されたが、ユーゴスラヴィア軍も3600人が死傷し、戦車と武装車両1100両以上と航空機3機が破壊された。
別に教えてもいいけど、この中から有用なチャンネルを掘り出すのは結構シンドいと思うよ
はてな的には、徳丸浩のウェブセキュリティ講座 を実は知らない人も多いかも
あと どうぶつ奇想天外 と さまーず は自力で検索してて発見したので、このあたりも知らない人多いと思う
ゆっくり系:
俺の世界史, 三崎律日(世界の奇書をゆっくり解説), るーいのゆっくり科学, ゆっくり海外鉄, 武器屋のお姉さん, 変な生き物, カカチャンネル, ゆっくりワールドグルメ, あたまんじゅう, Kkunn_けーくん(東北きりたんと学ぶ人類のタブー), ゆっくりオーパーツ解説(ニコ動), 経済で見る歴史解説(ニコ動)
その他:
4st, RTAinJapan, Youtube大学, TeracchiChannel(8bitアレンジ)
切り抜き:
なめたけ(ホロ切り抜き), もちみこ(手書き切り抜き)
//以下 数が多いから箱名で
V:
エロ系V:
俺にとってのエヴァってのは、奇抜な使徒のデザイン!そいつらが引きこす無理難題!対応するネルフ職員!立案される無茶な作戦!しかしそれを一丸となって成し遂げるエヴァとネルフ!ギミック満載の決戦要塞都市第3新東京市!そこを駆けるエヴァ!戦闘演出カッコイイ!エヴァカッコイイ!ドドドキュバッドカーン!ウオー!その裏で渦巻く陰謀!そして男の戦い!暴走するエヴァ!おぞましい!カッコイイ!使徒カッコイイ!ATフィールドギャキーン!ブワーズドドドドボワーン!カッカカッカコイイイ!!!なんだよ。
それがQとシンにはまったくなくてオレは…ガッカリした…
ところが感想を見るとアレで良かったらしい。しかも批判したらまだエヴァに捕らわれてるとか言われる不条理。アクション以外大した思い入れもないわ。スパロボでどう再現されるのか楽しみな初号機の必殺技とか見たかったんだよ。(ダブルATフィールド拳の再現楽しみです)
心の熱いハートの煮えたぎる心の和太鼓を打ち鳴らしたくなるほどの
ついに!ついに!
ついにこの季節がこの季節がやってきたわよ!
本域で歌うイヨマンテで熊が本当に倒せそうなほど、
私もこの戦いに挑むべきべきく、
なかなか溶けない固いめの餡は、
箸を弾くほど餡!
アンカケマンテの歌!待って熱いって!
ほっぺに熱々のおでんをくっつけられぐらいに
結構出演者ミュージカル俳優がそろう今回のエールの俳優陣に交じっての歌担当だったのに、
まあ最終的にはあんかけ中華なんて私の敵じゃないほどペロリと平らげちゃうんだかんね!
大盛りとなると別だけど、
寒くなってきてやっとあんかけ中華の季節が来ましたね!って言うと、
お姉さん曰く、
笑顔で返されたわ。
こんな身近にあんかけ中華のプロが存在しただなんて知らなかったわ的な灯台もと暗し暗い岬では足もと気を付けてあるいてね!って言いたいところよ。
そのお姉さんが凄くプロってるところは、
まかない食べているというメンタルの強さがまた逞しさを醸し出しているのよね。
こないだなんか席がないからって、
私が顔なじみか知らないけど、
相席ってなんか店員さんとお昼一緒に食べているみたいで、
それはそれで楽しかったし、
まあそんなこんなしてたわけでこんな時間というところで今日は締めくくりの獅子舞にしたいところよ。
うふふ。
ハムタマゴサンドすらなかったこの世紀末の北斗の拳の世界観なサンドイッチの棚にはレタスサンドしかなく、
って言っても、
朝温まりたいので、
生姜湯のレシピを調べずに夏作って置いた乾燥スライス生姜お手製のやつね!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
┏ エーカキ帝[6]
┏━ コンシューマーゲームシ帝[5] ━┫
┃ ┗━ ヤッパエーカキ帝[7]
エーガミ帝[4] ━╋━ カカナイ
┃
┗━ ネロ帝[8]
ネムイ朝第4代皇帝エーガミ帝の息子、王子カカナイ(400~455)はネムイ朝第6代皇帝エーカキ帝とその弟第7代皇帝ヤッパエーカキ帝の摂政を務めた。今日でも「ソシャゲイ」の渾名で知られる彼は人々に愛された統治者であった。
1998年に世界遺産に登録され今もなお人々を魅了し続けている巨大神殿グ=グプレカードとアップ=ルカードは彼が建設を主導したものである。又公共事業で雇用を生む傍、国の主要輸出産品を生産の安定しないクリップスタ塩、プロクリエ糸、アイビ酢から、安定生産・安定供給の可能なスクフェ酢、デレ鱒、シャニ鱒、バン鳥、マギレ粉等に変え貿易による経済の発展を促した。
ネムイ朝第5代皇帝コンシューマーゲームシ帝の弟でもある彼は、先代の父の死後わずか7歳で即位し成人した2年後には精神を病んだ甥のエーカキ帝に代わって長期に渡り政治を執り行った。エーカキ帝が31歳で狂死し、ヤッパエーカキ帝が即位したのちにも民草の支持を得て摂政の職を続けることとなった。しかし仕事中毒とも呼べる働きぶりであった彼は、54歳のある日、朝食のテーブルについた途端に脳の病で倒れ人事不省に陥った。その晩、家臣や侍女たちが見守る中突然起き上がり「モン・エナ(人生見つめ直せ)」のただ一言を発して息絶えた。この遺言の解釈については諸説あるが、隣国シューカイのエフジ王(※注)へ向けた言葉という説が有力である。(※エフジ王は先の大戦で占領したホーグバイソ区の住人へ苛烈な重労働を強いていた。)
カカナイがこの世を去ってからたった一月後、不幸なことにヤッパエーカキ帝は後の第8代皇帝ネロの差し金により暗殺される。ネロはエーガミ帝の息子でありコンシューマーゲームシ帝とカカナイの異母弟であったが、政治手腕は兄達に似ずネムイ朝の崩壊の原因となった。
そして時代はオキンノツレエ朝へと移り変わってゆく。
超能 カカフェ ってなんぞ?ってなった。
元はDCインサイドという別の大手掲示板から削除された過激/有害な書き込みを集めたまとめサイトが発祥だが今は独立した掲示板となっている。
必ずしも批判的な蔑称というわけではなく、外国人も各地域の有名料理の名前を付けて使用する。
寿司女、カレー女、ウォッカ女、フィッシュ&チップス女等。
イルベは女性蔑視のかなり強い男性中心のコミュニティなので女性からの批判の声も多いが、中絶情報を共有してるようなお前らが俺らの道徳性を批判してんじゃねえという意味が込められている。
イルベユーザーは全員障害者扱いされているのでキリクキリク(車椅子や義足などを使うときに生じる擬音)を合言葉のように使う。
アニメオタクに対し気持ち悪いから一生隔離場所に閉じこもってろという意味が込められている。
全羅道(イルベでよくイジられている地域)を理由もなく批判するために使用。
ちなみに丸焼きとは死傷者340人となった大邱地下鉄放火事件が元になっている。
全羅道住民が批判されることを恐れて別地方出身/在住を騙ることに由来。
「慶尚道民です」と書き込んだ後に逮捕された青年が全羅道住民として報道された逸話は多くのイルベ民の爆笑を誘った。
盧武鉉元大統領の演説動画と音楽を合わせて使ったMAD動画などを指す。
盧武鉉元大統領+無限RTの造語。Twitterなどで行われる工作RTなどを指す。
盧武鉉元大統領の漢字姓。韓国語で「ノー」の音になる部分で無意味に使われる。
イルベ民が5月23日にSNSやメッセンジャーアプリのプロフィール画像を上下反転させる習慣を流行させ物議を醸した。
ネカマが男性のオナニー動画を言葉巧みに入手しそれを材料に金銭を脅し取るモムケム詐欺が流行した。
急発進や前方確認不足でまともなドライバーを驚かす女性ドライバーをヘラジカに例えている。
フェミニストに都合の良い言葉だけ並べて本心はセックスしたいという下心しかない男のことを指す。
意図的にこれを装い多くの反論を集めるレス乞食も問題になっている。
女性が女性という立場(女性器)を使って都合よく金銭的に得をするテクニックを指す。
女性というだけで男性に奢られることやホワイトデーの数倍返しの要求、女性器を使い金銭的に余裕のある男性と結婚し扶養に入るなど。
ガンとは雌のことを指し、また存在が癌的であることも指している。
誤報や誹謗中傷問題などの責任がよくイルベ住民に押し付けられることに由来。
イルベユーザーであることをカミングアウトすることを指す。大抵の場合ドン引きされる。
女性だと自らカミングアウトすることに加え、「俺も男だが~」から始まる女臭さを隠せてない女性擁護の書き込みなどのことも指す。
コミュニティの崩壊を招きかねないので大変な禁忌とされている。
とある地域で特定の政党の支持率が90%を超えたことを受けどこかの国のようだと思ったイルベ民が作った造語。
整形モンスターを指す造語。主に人造人間のような顔と胸を持つ女性を指す。
金大中元大統領が北朝鮮への金融支援で実質的に核開発に貢献したことからつけられた蔑称。
ペンギンとはバットマンの敵キャラであるペンギンと顔が似ていることからついた。