はてなキーワード: シンボルとは
女性が性的消費されてる表紙と同数ぐらいになれば流石に嫌だってなるのかなって思ってたけど
まぁ、女性を性的消費する様な描写なんて書店であっても、漫画の中であっても害でしかないので、どんどん排除して欲しいし、anan批判して自らの首を絞めて欲しい。書店で子どもたちが見る場所にもエロが無法地帯になっている現状を見れば、規制すべきだよ。せめて年齢制限ぐらいは設けて欲しいよね。
あと忘れてはならないのが、男女では社会背景や抑圧されてきた歴史が違うので「男性を性的消費する事」と「女性を性的消費する事」は決して同列には語れないという点。
本当に本当にそう。
ananを「男性の性的消費」という面から批判している層は、男性の性的消費どころか表現の自由も本当はどうでもよくて、もっと言えばヘテロ男性向けのエロ表現が消え去るという危惧なんて本当は持ってなくて(ネットやホモソ社会でいくらでも得られると肌で感じてるから)、ただただ「弱者であると分かりきってる女性の必死の抵抗」を言葉遊びで潰すのが楽しいだけなんだよ。青い論の人とかまさにそう。
ananと宇崎ポスを比較する人が多いが、献血ポスの主要論点が「献血ルームという公共性の高い場で、巨乳女性を性的シンボル化した表象を用いることは、社会において『胸の大きい女性は性的に扱ってよいもの』との固定観念を促進する」だったのを考えると、ananはこの2つの論点のいずれにも該当しない
一方で「献血ルームという公共性の高い場で、過度に性的な掲示を行うのは不適切ではないか」という論点も存在する この場合は、後者の問題にananも抵触すると判断しうる 「献血ルームのような場(=前者の問題にも抵触する)であれば、自分もそれには強く反対する」という声が少なくないのはそのため
自由戦士はこの論点を理解できていないために、「献血ルーム等の公共性の高い場だけでなく、書店でもananの掲示は不適切」と言わんばかりの主張をしてしまっているが、これではそのまま「じゃあ書店で宇崎ポスター貼るのもダメだよね」と返ってくる 論点の把握を欠いたミラーリングは結果的に自滅する
もし「胸の大きさが無関係な献血に人を集める目的のポスターで巨乳女性を性的シンボル化した表象を用いることは、社会において『女性の身体の性的特徴を物的に扱ってよい』との固定観念を促進する」といった説明だとどうですか? -「ananはこの論点に該当しない」と言えるように思います。
「そっちがこうなら、これはどうだ」的な話は、どうかとは思うんだけど、いつもは「性的搾取?性的モノ化?」みたいな人たちが、「anan」の年一の特集だけには躍起になっているのは、やっぱり側から見て「ふむ……」となってしまう。
男の半裸を表紙にするのはけしからん、不快だ、というならそう言えばいいのに、自分からは意見を出さずに「フェミニストはこれに文句をつけない、ダブスタだ」と言うばかりなのね。男の裸と女の裸が同じ意味なわけねえだろ。行き過ぎたジェンダーフリー教育とやらでも受けたのか?
俺の観測範囲でananのセックス特集を決死擁護してる女性やフェミは見たことないわ。表現の自由的な観点から擁護してる人や事実として間違っているから指摘してる人はいるけど。そういう意味で性的/性的消費な表現ならどんなものでバックンバックン食いついて徹底擁護する表現の自由戦士はすごいな(棒
僕が知っているフェミニストの人達はananがセーフだなんて言っていないのだけど、そんなこと言っている人がどこにいるの?
「綺麗な裸」と「チンコ立たせるための裸」ということで一応説明されていると思います
女性の尊厳を踏みにじっていない男性誌をも撤去せよと主張する人がいるとしたら、それはもう僕には分からない。
献血ポスターは多くの人の目に付くものなので、あの内容ではセクハラになりえます(女性の尊厳とはまた別の問題です)
プライベートというのが何のことだか分かりませんので、それについてはなんともいえないですね
男性が「エロい男の写真を公共の場に置くのは男性性の消費だ。撤去しろ」と思うのならそう訴えればいいじゃないですか?
なぜしないんですか?
女性は声を上げた。だから女性蔑視的なコンテンツは姿を消しつつあるのです。
男性蔑視的なコンテンツを消したいなら、男性が声を上げるしかない。
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ウェブやSNSの各所にできるだけフェイクニュースを散りばめましょう。そこに断片的な真実を散りばめ、人びとに大きな物語を作ることを促しましょう。その際、ひとつひとつの断片に歴史的背景を備える宗教的・政治的シンボルを付与することで、より効率を高めることができます。
少しずつ真実を混在させることがとても重要です。 少なくともそのように思わせることが重要です。これは実際、人びとの探究心や創作欲求を刺激するもっとも優れた方法です。こうして物語が量産されるようになります。
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やがて物語を作ろうとする者、物語を読み解こうとする者、結論だけを求める者、そして、何も知らない知ろうとしない者に人びとが弁別されていきます。弁別が繰り返されることで自然と人びとのうちに階層が生じるでしょう。
こうして発生した階層構造のもと、自律的なゴイム社会が生まれます。彼らはより高い階層を目指しますが、互いにいがみ合うことに注力するため、結局ゴイムであり続けるしかなく、当然真実にも到達しません。 つまり、真実はけっきょく真実たり得ず、イリュージョンでありつづけます。
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この断章も物語の断片たるべく書かれました。ゴイムには、常に物語を作らせる必要があります。物語の再生産がゴイム社会を健全に保ちます。その意味でこれをある種の祭礼と捉えることも可能です。
真実を知るのが誰なのかは私たち自身にも分かっていません。しかしそのことで、私たちの財産がゴイムから遠ざけられ、冗長化され、より堅固なものとなることは明らかです。
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以上はごく簡単なトリックですが、とても強力です。この断章のもうひとつの狙いは、すでにある程度の社会的成功を得た者に、社会階層の維持の方法、財産冗長化の手法を教唆し、これと似た断章を生みだすことを促すことにあります。
これをもって、現代版黙示録を生みだす作業ということもできるでしょう。断片的物語の集合こそが黙示録といえるからです。そうでなくてはイリュージョンとしての真実を示すことは不可能です。現代において黙示録は、集合知という位相に安置されるべきものです。
安倍首相がアベノマスクを外したとのニュースを見て、非常に個人的な理由から少々安堵しました。
布マスクの場合は中心で縫い合わせてある立体型のものを使っているのですが、
ひとりだけ、アベノマスクと同じタイプの、昔の小学生の給食当番のようなマスクをしている方がいらっしゃいました。
50代、他部署の男性管理職、気のいいおじさんとして振る舞っているように見受けられる方です。
私も話しやすいなと思って、話しかけられれば雑談程度には応じていました。
ところが、ある日、新型コロナはまだ中国の問題だと思っていた頃です。
業務中にその方が私のデスクまでやってきて(これは普段からよくあることでした。)、こう言うのです。
確かに私はあまりネイルなどしないタイプではありますが、それは爪が薄くて塗ってもすぐに剥げてしまうからで、
たまたま友達から持ちのいいベースとトップコートを教えてもらって、それならばと試してみたのです。
まぁそんな背景はどうでもいいのですが、この手の質問は、された方は損しかしないのです。
答えれば知られたくもない異性関係を近くの席の同僚にまで知られ、答えたくないと拒絶すれば愛想が悪いと言われ、
うまくかわすにはそれなりの経験と突然の不愉快に対応する柔軟で強靭なメンタルが必要。
大ごとにしても構わないならコンプライアンス窓口へ、という方法もありますが、
この程度で訴え出るには、細心の注意が必要で、下手をすればこちらが怪我をすることになりかねません。
結局この時は、突然の異性関係を問う質問に面食らって、うまく交わせたかは別として、うまく交わす方向へ舵を切りました。
「ネイルは自分がテンション上がるからするんですよ。男性はむしろネイル塗ってるの嫌がりませんかー?」と。
もやもやとしたものは残りましたが、新型コロナの感染拡大とともに、この件はいつの間にか記憶から薄れていきました。
その後、緊急事態宣言と在宅勤務が始まり、解除になり、久しぶりに出社した頃、その同僚とたまたま給湯室でふたりきりになりました。
彼はいつもの気のいいおじさんの顔にアベノマスクを貼りつけて、フレンチスリーブのワンピースを着ていた私にこう言ったのです。
これにはうまく交わそうにも、交わす言葉もまったく出てこず、むしろ瞬間的に気持ち悪さと怒りがわいて、
おそらく私の表情が硬直したのでしょう。彼も咄嗟にまずいと思ったのか、立て続けにこう言いました。
この時はうまく言語化できませんでしたが、「セクハラ」は女性達が長い間不愉快な思いをしてきて、
それにどうにか声を上げ、その訴えが世の中に少しずつ浸透して、やっと適切でない言動だと認められたものでしょう。
それを、セクハラをしたことの免罪符(自分でもまずいって分かってるんだけどね、という言い分)に使うのは、
まったく持っていかがなものか。「そうですね、セクハラです。」と絞り出した声は、かなり固かったと思います。
彼はさらに続けて「昔は許してもらえたんだけどなー」と言いましたが、それにいよいよ腹が立ち、
それでいて、のどが締まるような緊張と屈辱も感じながら、「それは、昔の女性が相当我慢してたんでしょうね」と返しました。
彼の表情はアベノマスクに隠れてよく分かりませんでしたが、その後も弁明する声はにやにやしたままでした。
アベノマスク、全世帯に配布したそうですが、つけている人をほぼ見かけませんでしたね。
http://alger-roi.fr/Alger/enf/ecoles/pages/10_enf_gym_60_lebaz.htm
https://www.alamyimages.fr/la-gymnastique-dans-les-annees-1950-la-formation-des-jeunes-femmes-de-la-gymnastique-avril-1954-suede-image224244117.html (訂正。スウェーデンらしい)
やや短パンっぽい。
中国、台湾、韓国と、翻訳にかけて体操着を検索したが、ジャージ姿しか見当たらなかった。
意外なことに、英連邦や共産圏以外にもショーツ型ブルマーが存在していた。
調査により提灯ブルマー及びショーツ型ブルマーは日本のみならず、ヨーロッパやオセアニアにも広く分布していた時代があった。驚くべきことに、ショーツ型ブルマーはナチスの時代にまでさかのぼることが分かった。
つまり、規律や集団行動を重んじる文化圏の外にも、ブルマーが存在していた。つまるところ、ブルマーというのは全体主義の産物ではなく、全く別の理由で広まったものと思われる。
女性が身体を自由に見せる権利の広まりとともに、レオタードや水着姿になる自由の一環として、広まったのだろうか。それとも、逆に美しいとされる身体を見せることを強要されたのか。これだけでは判断することはできないし、両者が混在していることだって考えられる。ここまで踏み込むには、私の知識がまったく足りない。
今回、私はショーツ型ブルマーの世界的な広がりを確認することができた。しかし、これはあくまでも定性的な研究であり、まったくと言っていいほど定量的ではない。すなわち、各地域で、何年から何年までブルマーが使用されていたのか、採用された学校は何パーセントに及んだのか、といった情報が完全に欠けている。
それに、ブルマーの採用は全国的に強制されたものであったのか、学校ごとの裁量に任されていたかも明らかにできていない。下手をすれば、上であげた国家についても、私立の数校でブルマーが採用されていたにとどまる可能性がある。また、バレーボールの授業のみブルマー着用、というケースも考えられる。もしそれが正しければ、常にブルマー姿だった日本は特異的な地域になる。
また、ブルマーそのものがどのような素材で作られていたのかについてもわからないし、どこからが提灯ブルマーでどこからがショーツ型ブルマーなのか、明確な基準を以って調査はできなかった。残念ながら、不鮮明な白黒の写真に頼らざるを得なかったためだ。
課題は他にもある。今回、ブルマーが存在していない地域をいくつか挙げたが、何かが存在しない証明は非常に困難だ。
加えて、ブルマーがその国にどのような文化的インパクトを与えたかについても不明だ。女性解放のシンボルであったのか、フェティシズムやノスタルジーの対象であったのか、おそらく多数の記事を読まなければならないだろう。例えば次のチェコの動画からは、何かの余興なのだろうか、ノスタルジーやユーモアというニュアンスが感じ取れる。
https://www.youtube.com/watch?v=HT0k1Jr8uwM
また、共産圏に多く見られたが、レオタードもまた体育で広く用いられている。ブルマーとは分布が相補的なのか、そこが気になった。たとえば、党大会か国民の体育大会かわからないが、多数のレオタード姿の女性が集っている動画が多数あった。
https://www.youtube.com/watch?v=MteXGWpSH9k
長くなってしまったが、今回は以上である。私の研究は、あくまでも大まかな方向性を示したにとどまる。だが、歴史を過度に単純化する考えから少しでも自由になれるのなら、これほどありがたいことはない。
それにしても、どうして下着同然のショーツ型ブルマーが採用されたのか。思い付きでしかないが、ジェネレーションギャップによるものかもしれない。
例えば、「サザエさん」や「となりのトトロ」では、少女がパンツ丸出しで駆け回っているが、当時としては性的な含みはほとんどなかったものと思われる。「サザエさん」は舞台が博多から東京に移ってからは昭和26年以降、「となりのトトロ」は昭和30年代前半が舞台である。おそらく、当時は下着が見えていても、お尻丸出しではないから構わない、という感覚だったのではあるまいか。
そして、もしもショーツ型ブルマーが広がったきっかけが東京オリンピックだったとしたら、それは昭和39年前後のことのはずだ。つまり、この戦後生まれが大人になった頃である。当時の教師たちが、「サザエさん」「となりのトトロ」世代の子どもたちであっただとすれば、ショーツをはいているのだから、ショーツ型ブルマーはまったく恥ずかしいものではない、と思い込んでしまった可能性がある。
一方、それ以降の子どもたちは、下着は見えては恥ずかしいものだという意識に目覚めていた。正確な年代は、「パンツが見える。――羞恥心の現代史」に当たらなければならないだろうが、羞恥心の世代ごとの差が、ショーツ型ブルマーとその軋轢の遠因なのではないだろうか。
https://m.youtube.com/watch?v=C86Sgcke5YI
半沢直樹の途中で挿入されたカネボウのCM、化粧の自己表現手段の側面と文化的な側面を凄く美しく評判している。映像作品としても綺麗で素晴らしいCMだと思う。
だけど文化として捉えてる割には男性が化粧する機会、民族の抜粋をあえて避けているようだ。
モデルやダンサーをはじめとして現代では男性が美しくなるために化粧をすることは社会に受け入れられている。さらにLGBTも考慮すると、このCMは性別によるステレオタイプを無くそうとする個性主義的な時代の流れに逆行している。
自分は近年の個性主義や男女平等の風潮はいいことだと思っているし、身体的な特徴、能力以外の部分で男女の区別をすることは無くなるべきと思ってた。
自分の思想的には、今回のCMにも男性が化粧をするシーンが挿入されるべきだと思うんだよ。化粧の意味を再確認するというテーマがある、このCMにこそ男性の化粧を映すべきただ思うくらいだ。
だけど女性だけのCMのままの方がかっこいいと思うんだよね。男の化粧が気持ち悪いって訳じゃないんだけど、化粧を女性のシンボルとして捉えた映像の方が心が揺さぶれる気がする。直感だけど。
この感覚は自分の中では男女差別そのものなんだよ。自分の思想が自分の直感に反するものだと認識した衝撃がすごい。なんか自分の弱さすら感じて悔しさすら出てきてしまった。
まず、『ダークナイト』は、フロイトの「自我・超自我・イド」の図式に当てはめると解釈しやすい映画です。
そもそもジョーカーってなんなの?というと、病院のシーンでハービーに言っていたように、「混沌の使者」(Agent of chaos)です。
ゴッサムに秩序をもたらそうとするハービーやバットマンに対して、人々の怒りや不安(防衛本能)を煽り、本能的衝動にしたがって行動させることで街の秩序を崩壊させようとするのがジョーカーです。
ここでの秩序とは何かというと、「父権制的な権力」を指します。
これは、明治時代など、近代以前の家父長制でも見られる、父親や「家」といった道徳や社会的信用に基づいて人々を従わせる権力を指します。
近代以前の社会では、家長同士の信頼によって地域コミュニティに必要な産業や社会制度が賄われており、それらの秩序を犯した者がいた場合、例え家族であってもその命を差し出す必要がありました。
父親のもたらす権力・秩序が個人の自由に優越していた時代です。
一方、近代の市民革命以降は、主権者が一般市民(国民)に移ったことで、上記の「父権制的な権力」に個人の自由が優先されるようになります。
コミュニティの構成員の間でも格差があったり、それぞれ価値観は異なります。
するとどうなるかというと、それぞれの権利の拡大やコミュニティの方針を決める上で争いが起きるようになります。
この原動力が、ジョーカーの象徴する「人間の生理的欲求・本能的衝動」です。
『ダークナイト』の公開された2009年はアメリカがイラク戦争の泥沼にどっぷりハマっていた時期で、ジョーカーの爆破などテロ行為と合わせて、この映画をイラク戦争批判と見る人もいました。
私はこの映画がイラク戦争批判だとは思いませんが、「人々の防衛本能によって事態が混沌に陥った」という点では共通していると思います。
イラク戦争の発端は、アメリカを攻撃する大量破壊兵器がイラクにあり、「先制攻撃」の対義名分で侵攻、泥沼に陥りました。
この映画でもそうで、人々が防衛本能によって親しい人物を裏切り、ジョーカーに加担することで一連の計画・悲劇は進みます。
終盤もジョーカーが市内に仕掛けた爆弾から逃げるために船に乗り込んだ一般市民が船内の爆破を免れるために、囚人船の爆破との二択を迫られる展開となります。
終盤の二択のシーンは、人々が社会的信頼や道徳(善)に基づいた振る舞いをすることで危機を免れるわけですが、ここでも生存本能を脅かす不安(本能的衝動)と社会的信頼(父権制的権力)の葛藤が起きているわけです。
この二者の葛藤を説明する概念が、フロイトの「自我・超自我・イド」です。
これらの概念は、父親のしつけを通じて内面化された父権制的権力と動物的欲望・本能的衝動の葛藤の間で揺れ動く人間の自我のありようを表すものです。
この三者の関係を表すものとしてよく触れられるのが、ギリシア悲劇の「オイディプス王」やこの寓話を受けた「エディプスコンプレックス」の概念です。
エディプスコンプレックスの概念によると、幼児期の男児は母親との結婚を望むが、父親と結婚しているため、その願望が叶うことはない。この時、男児に母親との結婚をタブーとする父権的な「規範」(秩序)が生まれ、男児は精神的な去勢を経験するとされます。
要は、母親と結婚したい男児の欲望と、それを男児のモラルとして彼の心の中で禁止する父権制的な権力との間で葛藤する男児の自我の揺れ動きを表しているという話です。
実際、この映画では、ハービーは社会的信用を守る地方検事で、ブルースの幼なじみであるレイチェルの恋人役です。
ブルースのレイチェルへの性欲を抑圧し、彼自身が望む秩序を体現する存在で、ブルースの「超自我」の象徴と言えます。
一方で、ブルース自身に目を向けると、幼い頃に両親を奪ったギャングに、自分自身の幼児期のトラウマである「コウモリ」のコスチュームで私刑を加えることで、彼らに自分と同じ畏怖(トラウマ)を植え付けようとしています。
ブルースが「コウモリをシンボルに選んだ理由」と「なぜシンボルが必要か」(逐次制裁では模倣犯が出るため、模倣犯が出ないよう、悪漢を怖がらせる、畏怖の対象となるシンボルが必要と考えた)は、前作の「バットマンビギンズ」でブルースによる上記そのままの説明があります。
つまり、「ブルース自身が彼の超自我(父親の象徴)であるコウモリになろうとしている」という話で、先述のエディプスコンプレックスにある、父親の座につこうとする男児の精神と合致します。
また、ブルース自身の葛藤として、彼は街に秩序をもたらすという公益性とは別に、Mob(ギャング)への個人的な恨みで制裁を加えている側面があり、この個人的な恨みが暴走してしまうのではないか、そもそも自身の行動はただの私刑(リンチ)ではないかという懸念がついて回っています。
ジョーカーが焚きつけようとしているのは、ブルースのこの個人的な怒りです。
ブルースがMobの制止と社会秩序の実現という社会道徳ではなく、個人的な怒りでバットマンの活動を行なった瞬間、彼はただの犯罪者になります。
ジョーカーの目的は、このバットマンの大義名分を取り払い、自分やスケアクロウなどの怪人や、Mobのようなゴロツキと変わらない存在に陥れることです(この企てに成功したのがハービートゥーフェイス)。
取調室でのバットマン・ジョーカーの尋問シーンで“You complete me.”(プロポーズの慣用句です)と言っていることからも分かる通り、ジョーカーはバットマンが半ば自分と同じ本能的衝動で動いていることに気付いています。
(だから、“You and I, are destined to do this, forever.”となる。)
長くなりましたが、パーティーシーンについて。
このシーンでは、老紳士が父権制的道徳を象徴する形でジョーカーに反抗したため、ジョーカーから“You remind me my father, I hate my father!”(お前見てると俺の父親を思い出すんだよ、大っ嫌いな父親をな!)と反感を買います。
ここでレイチェルが止めに入り、ジョーカーが口元の傷の由来を話しているのが、この場面の一番重要なポイント。
ここで何をしているのかというと、レイチェルを象徴的な意味で自分の女にしようとしています。
というのは、上に書いた通り、ジョーカーはバットマンの片割れです。
すると、ジョーカーにもレイチェル的な存在がいてよい、いるはず、という話になります。
それがジョーカーが”D’you know how I got these scars?”で始める「傷の由来の話」に出てくる「ジョーカーの悪妻」です。
レイチェルをこの悪妻に重ねているのは、逸話に入る前に“I had a wife, very beautiful, like you.”と言っていることから分かります。
ではその悪妻がどのような女性かというと、レイチェルのように慈愛に満ちている反面、ギャンブル狂で、口を裂かれた彼女に寄り添おうとしたジョーカーを拒絶した女性です。
ハービーと同じ検事職にあり、貞淑さを象徴するレイチェルとは真逆の存在です。
ジョーカーのしようとしたのは、レイチェルを自分の別れた悪妻と重ね、彼女と同じ傷をつけることで、レイチェルをその悪妻と同じ側に落とすことです。
おそらくこの逸話自体は嘘です。この場面以前にもGambolのシーンで傷の逸話がありますが、別の話をしています。病院のシーンでハービーに「俺が計画して動く男に見えるか?」(”Do I look like a guy with a plan?”)と言っていることからも、彼がポジショントークしない人間であることが分かります。
レイチェルを殺したり、ただ傷物にするのではなく、その前にこの逸話を挟むことで、その傷は彼女へのマーキングの意味を持つようになり、シンボル的な意味でレイチェルはジョーカーの女に堕落します。
彼女はやがてジョーカーにさらわれて殺されてしまいますが、面白いのは、その時ジョーカーが指定した彼女の居場所です(実際にいたのはハービーですが、言葉の上で彼女と結びついていたのが重要)。
ジョーカーは彼女の居場所を“She’s at avenue X, in Cicero.”と指定しています。
Ciceroとは、共和制ローマ末期の弁論家・政治家・哲学者で、彼の政治思想で理想とする統治機構は「共和制」でした。
「共和制」は、国家主権が人民に存する統治機構で、国家元首(王)により支配する独裁制とは対立する統治機構です。つまり、父権的制的権力とは対立する概念。人民の動物的本能に公共善による秩序をもたらそうとするもので、超自我とイドの調和が取れた状態と見ることもできます。
つまり、超自我とイドの葛藤に揺れるブルースが、本来身を委ねるべき安息の場所にレイチェルがいた、と比喩的に表現されているのです。
(その場所にハービー(父親)を置いとくあたり、徹底してジョーカーは底意地が悪い)
とまぁ、パーティーシーンは、これらの葛藤の舞台となる場面です。
直前でスリロ判事・警察長官が殺されて、ハービーが殺されればゴッサムの司法庁崩壊でその王手がかかっていたり、それを阻止すべく大急ぎで対応するブルースと迫るジョーカーのサスペンスだったり、ヒースレジャーのセリフ回しだったりで見所がいっぱいある、個人的にも好きなシーンです。
あるゲームに登場する推しは壊滅的に人気がない。ファンも固定されストーリーも進んだサービス開始2年目になって実装された推しは、ユーザーに受け入れられなかった。
理由はいくつかあるし、理解できる。敵味方がある程度はっきりした世界観の中で、誰の味方でもなく、既存キャラを責めることもある独自の立ち位置、みんなが乗り越えた過去をいつまでもぐちぐち批判し続けるキャラ性。顔は笑っていても心のうちで何を考えているか分からない得体のしれなさ。難解な人だったので、私も最初は怖くて苦手だと思っていた。ついでに言えば、単純に突然推しカプの片割れに幼馴染みができたり、推しキャラに価値観や口調まで真似している(つまり推しキャラの好きなところは推しキャラ自身の要素ではなかったということになってしまう)憧れの人物が伏線も何もなく現れたら不快になるよね、というのも理解できた。
でも私はそんな彼を好きになった。見た目が好みだったのもあるし、その難しさを好きになった。元々悪役好きで性根がねじくれたキャラが好きだったのもある。彼には救われなさとどうしようもない嫉妬心、復讐心などきれいごとではない魅力があったし、少なくとも世界観には馴染んでいた。大御所声優も付き、キャラソンの完成度は高かった。なんでもできて、優しくて頼り甲斐があり、そのくせ誰とも分かち合えないひずみと苦悩を抱えた彼を好きになった。
しかし、彼は人気が出なかった。彼のキャラクター性そのものを受け入れられないファンがたくさんいた。設定の都合上存在するだけで既存キャラを否定してしまうこともあったし、キャラゲー2年目の既存キャラの関係性に割り込むような新キャラが人気出るわけないのもわかってはいた。
特に推しを拒絶していたのは先述した人気カプの2人組とそのコミュニティのファンだったと思う。実際にはそうでないかもしれないけど、2人に対して推しが絡むたびに文句を言われたし、今でも言われているからたぶんそうだ。
推しは、消えろとか、邪魔とか、このキャラの新規カードがあるから、このキャラが登場するからイベントができない、などと言われるようになった。私は彼が好きだったが、次第にそれらの言葉を無視できなくなり、推しが先述の2人とコミュニティに絡むのが怖くなった。推しの言動についてどこかで誰かが推しを貶していると思うと怖くて、彼らのストーリーが読めなくなった。
次第に推しが登場する全てのストーリーがその対象になっていった。推しが出て何か話すことで、推しの「みんなの嫌いな部分」が露出し、推しを嫌いな人が増えるのが怖くなった。推しの新規カードが欲しいけど、不快になる人が増えてまた邪魔だのなんだのと言われると思うと推しのイベントが来なければいいと思うようにもなった。推しについて言及しない人は推しを嫌いな人で、推しを嫌いだという人は推しを憎んでいる人だと自然に思うようになった。
そのことについて私はいつまでも開き直れなかった。推しを嫌いになったわけではない。残業続きで精神的に参っていたとき、推しのキャラソンやグッズの明るさと笑顔に救われたこともある。だからこそ推しが嫌われる姿を見るのが辛くて、嫌われそうな要素を持った推しを受け入れられなくなった。
推しはとにかく人気がなかった。売り上げに依存する新規カードのローテーションの優先度はどう見ても最下位だったし、ストーリー上でハッピーエンドになるかもしれない展開がにおわせられてから3年経っても推しがメインのイベントは来なかった。ハロウィンもクリスマスも誰かのおまけだった。バレンタインや卒業はなかった。アニメではひとりだけ当番回がなかった。大規模なリアルイベントとしてグッズ展示会が行われたときなどは、推しのポスターが貼られた壁だけ照明が当たっていなかった。写真を撮ったその一角は真っ暗だった。
それらは全て誰かが推しはいなくてもいいと考えた証拠であり、誰もそれに異議を唱えなかったということだ。
このゲームには「死んでいるのと同じような「その他大勢」としての自分から抜け出し、唯一無二の仲間を得、また誰かにとっての唯一無二の存在になり、生まれた意味や生きる理由を実感する究極の肯定を得た瞬間」を意味する言葉がある。このゲームの登場キャラにとって、ストーリー内でそうなることが唯一絶対のハッピーエンドとして示されており、推しにとってもその瞬間がやってくるのだと私は期待して楽しみにしていた。
ただそのためには理解し合い、肯定し合える仲間が必要だった。先述の2人組とそのコミュニティなんかがいい例である。推しにはそういう存在が用意されていなかった。誰にも心を開かず、信頼されず、誰も信頼しない孤立状態だった。でもその状態は過去のコンプレックスから彼自身が選んだ生存戦略だ。そんな推しがその状態でもハッピーエンドに至ることが出来るという肯定と救い、この作品の奥深さを描くための要素であるはずだった。
最近になって、推しに相方が出来た。アプリリニューアルと同時に追加され光の速度でハッピーエンドを迎えた新キャラだ。たぶんすでに推しより人気がある。
推しが「1人きりであること」には設定として彼自身が意味を持たせていたうえに、メタ的にも理由があった。でもそれじゃだめだったのだ。
なんで?
それってサジを投げたってこと?扱い切れないから2人組にするって?ていうか、テコ入れなのか?テコ入れだとしたら今更遅い。こっちは推しがめちゃくちゃに罵られるのを見て泣いたこともあるのに。それが3年続いたのに今?
普通に意味わかんないんだよ。ユーザーに否定され続けたこの3年間。彼が選んだ孤独な3年間。全部無意味で失敗だったってこと?人気キャラにもなれずハッピーエンドももらえず初期設定をねじ曲げられた彼。私が彼を好きでいた3年間って何?なんでこんな風にしたの?
いや、わかってる。人気がなかったからだ。人気がなかったというか、運営にこのキャラは金になると思わせられなかったからだ。
私は推しを推しきれなかった。彼が怖かったから。彼が登場すると、悲しい思いをしなくてはならなかった。推しが出るたびに身構えて、怖くてろくにカード育成もイベントもできなかった。私のせいなのか?そうだ。ついぞ開き直れなかった私のせいだ。まあ推しを罵る人間のこと本当に一生憎いと思うけど、彼が彼のまま、作られたときから持っている彼自身の要素を持たせたまま幸せになるようなストーリーが実装されることに需要があることを示せなかった私の負けだ。そのチャンスがあるうちに、掴ませてやることができなかった私のせいだ。こんなことならもっと課金すれば良かった。いらないグッズでも買えばよかった。今更フレグランス買っても遅い。もっと金になると運営にわからせてやれていれば、彼が幸せになるストーリーを書いてもらえたかもしれない。でも今更何したって、何を言ったって遅いわけだ。
このまま推しはテコ入れを受けて、作られた当初想定していなかった方向に矯正されていくのかな。
正直に言えば、助けてほしい。推しがユーザーにも公式にも否定されて、剥奪されていくのを目の当たりにしている。そしてそれを見ているしかない。こんなことならさっさと見限ればよかった。生まれてこないでほしかった。
とはいえこれは杞憂かもしれない。相方云々は発表されたばかりで、このあとどうなっていくかは分からない情報だから、結局救われないままかもしれないし、新キャラを足がかりにして既存キャラの誰かと親しくなって救われるのかもしれない。いつか解散する相方関係なのかもしれない。本人も思い入れはない関係だと語っている。早くこの流れが失敗に終わって元に戻ればいいのにな。
って思ったけど、雑誌の付録に相方とのコミュニティのシンボルマークはあるのに、彼がもともと所属していた彼しか所属していないコミュニティのシンボルは描かれていなかった。それが雑誌のミスなのか公式による意図的なものなのか分からないけど、失敗に終わっても推しは元に戻る場所がなくなったかもしれないし、なくなってなかったとしても雑誌の付録で推しだけ存在を消された事実は永久に残るのでもうダメ。
推しのことを考えるたびに憂鬱になって泣きたい気持ちになって、しょうもないネガティブなことばっかり考えてしまう。推しを罵ったあの女たちが憎い。推しを切り捨てようとする公式が憎い。あのとき、あのとき、あのとき、全力で推しのために金を使えなかった自分が憎い。私の推しとの記憶は悲しみだけだ。たぶん推しを推しててよかったと思ったことって一度もない。
https://github.com/php/php-src/pull/5685
この変更は https://go-review.googlesource.com/c/go/+/236857/ にインスパイアされたもので、whitelist/blacklistを全てallowlist/blocklistに置き換えるものです。
大半の変更は内部的なものですが、2つだけ例外があり、RFCが必要です。
(略)
これに33のサムアップ、8のハートが付いたがそれ以上に否定的な反応が多く57のサムダウン、1つのうーんフェイスが付いた。煽りに煽った返信もたくさん付いていてそれが面白い。
市民運動には賛成します。しかし後方互換性のない変更をプログラミング言語に追加するのは反対です。開発の基本方針を忘れてはなりません。
荒らし返信見るのが悲しい
もとのリンクを見てない人のためにどうぞ:
これらの用語のテック業界での使用についての議論はこれまでたくさんあった。
ここでもう一度同じ議論をしようとしているのではない。これらの用語で傷つく人がいることは明白である。技術的な理由でなく歴史的社会的な文脈の理由で歓迎されないと感じる人がいる。これだけの理由でこれらの用語を置き換える理由としては十分だ。
いずれにせよallowlistとblocklistの方がwhitelistとblacklistより自己説明的だし、この変更にかかるコストは負だ
指摘があったように、私は市民運動には賛成するがこれらの単語の除去は大きな影響があります(後方互換性の破壊)。
面白いのはこの用語を変えようというのが単に「黒」「白」を人種差別的な意味を含まずに持っているだけという理由であることです。結局は我々はこれらの単語を除くことで、新しい差別用語を「創造」してしまっています。
allowlist/blocklistの方が説明的であるのでより良い用語であるということに賛成します。これを踏まえてなお、blacklistとwhitelitsを差別用語と呼ぶのは単純に間違えています。
まず、blacklistの語源に黒人は一切関係ないです。さらに、これが黒人に対して攻撃的な意味で使われたことは一度もありません。この単語が攻撃的であり差別的な含意があると見せかけたいのはある特定の極端な非黒人の集団だけです。これは中国の服を中国人以外が着ることが攻撃的であると考える人々と同じくらい馬鹿げたことです。
黒という色は多数の文化において否定的な意味合いを持ちます。これは全ての単語を狩り落とすのは不可能で無意味なほどに埋め込まれていています。
まずはある人々の集団のことをblackと呼ぶのをやめましょう。色が先、人種は後です。色はイメージに結び付けられており、変えることはできません。
あなたに完全に賛同します。黒人、白人をアフリカン・アメリカン、イングリッシュ・アメリカンと呼ぶことを提案します。近視眼的な思考はやめるべきです。これはただの言葉狩りです。
抑圧された人々を代表して声を上げることはだいたいの場合は正しい行いです。良心の行動、美しいです。しかし、それも時々は無意味でありただ不必要な混乱を生むだけです。私はもし誰かが「ホワイトハウスは白人至上主義のシンボルだ!」と叫べば笑うでしょう。もしホワイトハウスを塗り直したいのなら、どうぞ。そして世界を救ってください。
99%の単語は差別から来てる。もし単語がどのように構成されるかのレシピが与えられて、あなたがそれを否定するなら、あなたは一度一歩下がって、どうして事実を信じたくないかということを考えるべきだ。
しょうもないなあ
江崎 禎英
2020年5月21日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
新型コロナウイルスへの対応のなかで、その危機のシンボルのように扱われてきたマスク。ここに来て仮設店舗や飲食店などでも50枚入りが一箱2000円前後で販売されるようになり、ひと頃のようなマスク不足の状況は改善しつつあります。
そうした中で、政府が実施している一世帯2枚の布マスクの配布について、これを疑問視する意見が増えています。配布されたマスクに髪の毛や糸くずが入っていたり、カビと思われる変色したマスクがあったとの報道を耳にされた方もいらっしゃるでしょう。問題のあるマスクは速やかに交換する対応を行っているところですが、実際に手にされた方に不安と不信感を与えてしまいましたことは、心からお詫び申し上げたいと思います。
布マスクを巡る一連の対応への批判は、政府としてこれを真摯に受け止めるのは当然です。しかしながら、実際にマスクを製造した事業者にも厳しい批判の目が向けられていることは、この作業をお願いした立場にある者として誠に申し訳なく思っております。今後市場に出回るマスクの供給量が増え、マスク不足に対する危機感が薄れるにつれて、今般の布マスクの生産に携わった事業者に対していっそう厳しい目が向けられる可能性があります。緊急時の対応が平時の基準によって評価されることは往々にしてあり得ることですが、懸念すべきは、そうした評価が広がることによって、今後、国の緊急事態に協力しようとする企業が現れなくなってしまうことです。
先日の国会審議の中では、「政府が配る布マスクはその大半が不良品であり全て廃棄すべき」といった趣旨の議論が展開されたため、その経緯を理解していただくために、質疑に割り込む形で答弁をさせていただきました。しかし、私の答弁は通告された質問に答えるものではなかったために、怒号と叱責の中で十分にお伝えすることができませんでした。そこでこの場をお借りして、多くの方の疑問にお答えする形で、その背景と経緯について書き記しておきたいと思います。
<なぜ、布マスクだったのか>
再利用を前提とした長期間使用可能な布製マスクを大量に生産・調達することによって需給ギャップを埋め、使い捨てマスクを医療関係者等に優先的に回せる環境を整えようとしたのが、布マスクに取り組んだ最大の理由です。
本年1月頃から、それまで国内供給の8割程度を占めていた中国からのマスクの輸入が途絶え、マスクの品薄状態が始まりました。このため2月にはマスクを求めて早朝から店舗の前に行列ができる状況となり、国会等でもマスクの供給を増やせとの指摘が相次ぎました。2月下旬には、マスクの買い占め防止のためにネットオークションの自粛を求めると共に、国内生産設備の増強を含めた供給量拡大に取り組みました。
しかしながら、当時の国内におけるマスクの供給能力は月産4億枚程度であり、その殆どが不織布を用いた使い捨てタイプでした。国内生産力増強のための補助金に応募した企業も全て不織布を用いた使い捨てマスク用の設備投資でした。この頃、感染症の専門家などからは、使い捨てマスクの再利用を行うべきでない旨の見解が出されており、需給ギャップは拡大の一途を辿るおそれが生じていました。
このため、ハンカチやキッチンペーパーによる手作りマスクなど、使い捨てマスク以外の対応を考える中で、政府としてたどり着いた結論が、ガーゼマスクでした。かつて小学校などで給食当番の際に使っていたガーゼマスクは、洗濯して何度も利用されていました。そこで「健常者による飛沫感染に対する予防としては、手すりやドアノブなどに触れた手で自らの鼻や口に触れないことが重要との観点から、布マスクによっても有効な対応は可能である」と医療関係者に確認し、布マスクの生産・調達プロジェクトはスタートしました。
<布マスクは何時までにどれくらいの量を調達しようとしたのか>
「マスクが手に入らないことに対する国民の不安を軽減するためには、繰り返し使用できる布マスクを来月(4月)末までになんとか1億枚規模で調達できないか」というのが当時の認識でした。私自身がこの布マスク生産・調達プロジェクトに参画し、事業者との調整に携わったのはまさにこの頃です。
本年3月には、ドラックストアやスーパーの店頭からマスクが消え、一日中マスクに関する報道が流れ、国会でもマスクの供給不足に対する政府の対応を非難する質問が続き、マスク供給のためにあらゆる手を尽くせと責め立てられる状況でした。全国民が一斉にマスクを買い求めるというこれまでに経験したことのない爆発的な需要増の一方、中国からの輸入が全く見通せないなかで、1億枚という規模の目標が形成されていきました。
そもそもマスクの材料となるガーゼは中国でしか生産しておらず、ガーゼの国内在庫も殆ど存在しない状況でした。
このため、国内で供給できる布マスクは、せいぜい1万枚から多くても10万枚のレベルで、およそ1億枚といった規模には届かない状況でした。仮になんとか国内に材料となるガーゼを持ち込んでも、布製マスクを縫製する設備(ミシン)や人員を揃えることも困難な状況でした。現在でも、「布製マスクを作るなら日本で生産すべきだ」との意見も多いのですが、国内の生産設備の殆どが不織布を用いた使い捨てマスク用の機械装置です。
今年3月時点で、海外で1億枚規模のマスク用ガーゼを調達するネットワークを有し、布製マスクを材料の調達から裁断、縫製、検品、袋詰めまでを一貫して行える企業は、興和しかありませんでした。
ただ、興和単独では1億枚規模の生産は困難であったため、中国で縫製関係の業務経験のあった伊藤忠とマツオカコーポレションの協力を得て生産体制を構築したものです。
当初、これら3社からは、4月末までに1億枚の生産など到底無理だと言われましたが、日本の窮状を救うためにあらゆる手を尽くして目標を達成して欲しいとお願いしました。結果、ベストシナリオで約9千6百万枚まで積み上げ、1億枚規模の目標達成の可能性ありとして、直ちに材料の確保、製造ラインの立ち上げをスタートしていただきました。
4月末までに1億枚規模の生産を行うために、興和だけでも中国において約20カ所の縫製工場と約1万人の縫い子と検査要員を確保しています。
これには、興和が中国に有する様々なネットワークを駆使して、尋常でないスピードでこの体制を整えたと聞いています。伊藤忠やマツオカコーポレーションも独自のネットワークで東南アジアの国々に縫製工場と人員を確保し、生産を行っています。
これだけの人員を集めても、縫い子さん1人当たり1万枚ものマスクを縫製する必要があり、24時間体制での生産を行っています。各工場で一定量生産が進んだ段階で検品・梱包し、直ちに航空機で日本に運ぶといったオペレーションになっています。
<なぜ、不良品が発生したのか>
当初、興和からは「興和の名前が出る以上、従来通りの国内検品を行うのでなければこの仕事は引き受けられない」と強く言われました。しかし、興和の国内検品は、一旦全てのマスクを一か所の検品施設に集め、1ミリ程度の縫い目や折り目のずれ、布のほつれも不良品として弾いてしまうというレベルの対応です。このため従来どおりの国内検品作業を行っていたのでは目標の半分も達成できない可能性があり、緊急避難的な対応として現地検品を基本とするオペレーションに変更してもらいました。
日本に持ち込んだ後は、配布準備段階で最終チェックを行うのですが、ここでのチェックをすり抜けた不良品が利用者の手元に届いてしまったことは誠に申し訳なく思っています。また、自治体によっては、こうした作業を保健所に依頼したことで、保健所職員の作業を増やす結果になったことも反省点として認識しています。
ちなみに、特定の医療用マスクを除き、マスクに対する国際的な品質基準は存在しません。また、国内におけるマスクの業界団体が出している品質基準もホルムアルデヒドの検出基準が示されているだけで、各社毎の自主基準による検品が基本となっています。
不良品の報道を受けて、現在では事業者においても自主的に国内検品を実施していただいているところです。「受注した以上、企業は完璧な製品を届けるのが当然だ」といった意見はもっともですが、それはあくまで平時における常識で、緊急事態の対応にまでこれを要求することは酷だと思います。それ故に、これを補う形で国が改めて検品を行っているのですが、この費用に国費を充てるのは問題だとの意見が寄せられているのが現在の状況です。
<なぜ、配布が遅れているのか>
4月末までに1億枚の布マスクを生産して国内に持ち込むというのは、元々極めて厳しい目標でしたが、緊急事態ということで各社全力で取り組んでいただきました。しかし現実には、急遽集めた1万人に及ぶ縫子さんの教育から始まり、中国国内での物流の障害(企業活動の制限)、更には中国政府によるマスクの輸出規制によって通関で止められるなど次々に問題が発生しました。
しかも入国制限によって、これらの問題を解決するための職員を中国に派遣することができません。大使館の協力も得ながらなんとか通関を突破しても、日本へ運ぶ航空機の確保ができないといった状況にも見舞われました。生産、物流、通関等々、二重三重の障害を乗り越えて国内に持ち込む中で、スケジュールが後ろ倒しになる状況が続いてしまいました。
これに加えて、今般の不良品問題の発生によって、メーカーが全量回収の上国内検品を行うとともに、更に万全を期すために国による検品も行っているために、配布スケジュールにしわ寄せが生じる結果となっています。
<最後に>
現在も、関係者の尋常ならざる努力によって布マスクの生産・調達が続いています。国民のマスク不安を解消するための布マスクの生産・調達でしたが、状況が落ち着くにつれて、「量、スピード、品質」全てに完璧が求められるようになりました。まだ全体のオペレーションが終了していませんが、こうした一連の作業の結果、事業者にとっては大きな持ち出しになることを懸念しています。興和では今も職員を総動員して布マスクの検品作業を行っています。
また、現状では不良品や国による検品費用ばかりに議論が集中し、こうした布マスクの取り組み自体が全て失敗であったかのような議論がなされているのは誠に残念なことです。特に、日本の危機的な状況を救うために協力してくれた事業者が、結果的に社会的批難を受けることがあってはならないと感じています。また、日本のために今も昼夜に亘って布マスクを製造してくださっている1万人を越える海外の縫子さん達のためにも、是非事実を知っていただきたいと思い、筆を執りました。
もちろん、だからといって不良品が許されるわけではありません。現在検品には万全を期していますが、万が一不良品が届いた際には速やかに交換させていただきますのでご協力をお願いします。その上で、不良品の状況はきちんと確認・評価し、今後の反省材料にしてまいります。
なお、まだ一部の方々にしか届いていない布マスクですが、実際に手にされた方からは良い評判もいただいております。新型コロナウイルスへの対応は長丁場になる可能性が高いと言われています。是非、多くの方々の努力によって届けられる布マスクをご活用いただき、この災禍を乗り越えていただきたいと思います。よろしくお願い致します。(令和2年5月18日)
江崎 禎英
2020年5月21日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
新型コロナウイルスへの対応のなかで、その危機のシンボルのように扱われてきたマスク。ここに来て仮設店舗や飲食店などでも50枚入りが一箱2000円前後で販売されるようになり、ひと頃のようなマスク不足の状況は改善しつつあります。
そうした中で、政府が実施している一世帯2枚の布マスクの配布について、これを疑問視する意見が増えています。配布されたマスクに髪の毛や糸くずが入っていたり、カビと思われる変色したマスクがあったとの報道を耳にされた方もいらっしゃるでしょう。問題のあるマスクは速やかに交換する対応を行っているところですが、実際に手にされた方に不安と不信感を与えてしまいましたことは、心からお詫び申し上げたいと思います。
布マスクを巡る一連の対応への批判は、政府としてこれを真摯に受け止めるのは当然です。しかしながら、実際にマスクを製造した事業者にも厳しい批判の目が向けられていることは、この作業をお願いした立場にある者として誠に申し訳なく思っております。今後市場に出回るマスクの供給量が増え、マスク不足に対する危機感が薄れるにつれて、今般の布マスクの生産に携わった事業者に対していっそう厳しい目が向けられる可能性があります。緊急時の対応が平時の基準によって評価されることは往々にしてあり得ることですが、懸念すべきは、そうした評価が広がることによって、今後、国の緊急事態に協力しようとする企業が現れなくなってしまうことです。
先日の国会審議の中では、「政府が配る布マスクはその大半が不良品であり全て廃棄すべき」といった趣旨の議論が展開されたため、その経緯を理解していただくために、質疑に割り込む形で答弁をさせていただきました。しかし、私の答弁は通告された質問に答えるものではなかったために、怒号と叱責の中で十分にお伝えすることができませんでした。そこでこの場をお借りして、多くの方の疑問にお答えする形で、その背景と経緯について書き記しておきたいと思います。
<なぜ、布マスクだったのか>
再利用を前提とした長期間使用可能な布製マスクを大量に生産・調達することによって需給ギャップを埋め、使い捨てマスクを医療関係者等に優先的に回せる環境を整えようとしたのが、布マスクに取り組んだ最大の理由です。
本年1月頃から、それまで国内供給の8割程度を占めていた中国からのマスクの輸入が途絶え、マスクの品薄状態が始まりました。このため2月にはマスクを求めて早朝から店舗の前に行列ができる状況となり、国会等でもマスクの供給を増やせとの指摘が相次ぎました。2月下旬には、マスクの買い占め防止のためにネットオークションの自粛を求めると共に、国内生産設備の増強を含めた供給量拡大に取り組みました。
しかしながら、当時の国内におけるマスクの供給能力は月産4億枚程度であり、その殆どが不織布を用いた使い捨てタイプでした。国内生産力増強のための補助金に応募した企業も全て不織布を用いた使い捨てマスク用の設備投資でした。この頃、感染症の専門家などからは、使い捨てマスクの再利用を行うべきでない旨の見解が出されており、需給ギャップは拡大の一途を辿るおそれが生じていました。
このため、ハンカチやキッチンペーパーによる手作りマスクなど、使い捨てマスク以外の対応を考える中で、政府としてたどり着いた結論が、ガーゼマスクでした。かつて小学校などで給食当番の際に使っていたガーゼマスクは、洗濯して何度も利用されていました。そこで「健常者による飛沫感染に対する予防としては、手すりやドアノブなどに触れた手で自らの鼻や口に触れないことが重要との観点から、布マスクによっても有効な対応は可能である」と医療関係者に確認し、布マスクの生産・調達プロジェクトはスタートしました。
<布マスクは何時までにどれくらいの量を調達しようとしたのか>
「マスクが手に入らないことに対する国民の不安を軽減するためには、繰り返し使用できる布マスクを来月(4月)末までになんとか1億枚規模で調達できないか」というのが当時の認識でした。私自身がこの布マスク生産・調達プロジェクトに参画し、事業者との調整に携わったのはまさにこの頃です。
本年3月には、ドラックストアやスーパーの店頭からマスクが消え、一日中マスクに関する報道が流れ、国会でもマスクの供給不足に対する政府の対応を非難する質問が続き、マスク供給のためにあらゆる手を尽くせと責め立てられる状況でした。全国民が一斉にマスクを買い求めるというこれまでに経験したことのない爆発的な需要増の一方、中国からの輸入が全く見通せないなかで、1億枚という規模の目標が形成されていきました。
そもそもマスクの材料となるガーゼは中国でしか生産しておらず、ガーゼの国内在庫も殆ど存在しない状況でした。
このため、国内で供給できる布マスクは、せいぜい1万枚から多くても10万枚のレベルで、およそ1億枚といった規模には届かない状況でした。仮になんとか国内に材料となるガーゼを持ち込んでも、布製マスクを縫製する設備(ミシン)や人員を揃えることも困難な状況でした。現在でも、「布製マスクを作るなら日本で生産すべきだ」との意見も多いのですが、国内の生産設備の殆どが不織布を用いた使い捨てマスク用の機械装置です。
今年3月時点で、海外で1億枚規模のマスク用ガーゼを調達するネットワークを有し、布製マスクを材料の調達から裁断、縫製、検品、袋詰めまでを一貫して行える企業は、興和しかありませんでした。
ただ、興和単独では1億枚規模の生産は困難であったため、中国で縫製関係の業務経験のあった伊藤忠とマツオカコーポレションの協力を得て生産体制を構築したものです。
当初、これら3社からは、4月末までに1億枚の生産など到底無理だと言われましたが、日本の窮状を救うためにあらゆる手を尽くして目標を達成して欲しいとお願いしました。結果、ベストシナリオで約9千6百万枚まで積み上げ、1億枚規模の目標達成の可能性ありとして、直ちに材料の確保、製造ラインの立ち上げをスタートしていただきました。
4月末までに1億枚規模の生産を行うために、興和だけでも中国において約20カ所の縫製工場と約1万人の縫い子と検査要員を確保しています。
これには、興和が中国に有する様々なネットワークを駆使して、尋常でないスピードでこの体制を整えたと聞いています。伊藤忠やマツオカコーポレーションも独自のネットワークで東南アジアの国々に縫製工場と人員を確保し、生産を行っています。
これだけの人員を集めても、縫い子さん1人当たり1万枚ものマスクを縫製する必要があり、24時間体制での生産を行っています。各工場で一定量生産が進んだ段階で検品・梱包し、直ちに航空機で日本に運ぶといったオペレーションになっています。
<なぜ、不良品が発生したのか>
当初、興和からは「興和の名前が出る以上、従来通りの国内検品を行うのでなければこの仕事は引き受けられない」と強く言われました。しかし、興和の国内検品は、一旦全てのマスクを一か所の検品施設に集め、1ミリ程度の縫い目や折り目のずれ、布のほつれも不良品として弾いてしまうというレベルの対応です。このため従来どおりの国内検品作業を行っていたのでは目標の半分も達成できない可能性があり、緊急避難的な対応として現地検品を基本とするオペレーションに変更してもらいました。
日本に持ち込んだ後は、配布準備段階で最終チェックを行うのですが、ここでのチェックをすり抜けた不良品が利用者の手元に届いてしまったことは誠に申し訳なく思っています。また、自治体によっては、こうした作業を保健所に依頼したことで、保健所職員の作業を増やす結果になったことも反省点として認識しています。
ちなみに、特定の医療用マスクを除き、マスクに対する国際的な品質基準は存在しません。また、国内におけるマスクの業界団体が出している品質基準もホルムアルデヒドの検出基準が示されているだけで、各社毎の自主基準による検品が基本となっています。
不良品の報道を受けて、現在では事業者においても自主的に国内検品を実施していただいているところです。「受注した以上、企業は完璧な製品を届けるのが当然だ」といった意見はもっともですが、それはあくまで平時における常識で、緊急事態の対応にまでこれを要求することは酷だと思います。それ故に、これを補う形で国が改めて検品を行っているのですが、この費用に国費を充てるのは問題だとの意見が寄せられているのが現在の状況です。
<なぜ、配布が遅れているのか>
4月末までに1億枚の布マスクを生産して国内に持ち込むというのは、元々極めて厳しい目標でしたが、緊急事態ということで各社全力で取り組んでいただきました。しかし現実には、急遽集めた1万人に及ぶ縫子さんの教育から始まり、中国国内での物流の障害(企業活動の制限)、更には中国政府によるマスクの輸出規制によって通関で止められるなど次々に問題が発生しました。
しかも入国制限によって、これらの問題を解決するための職員を中国に派遣することができません。大使館の協力も得ながらなんとか通関を突破しても、日本へ運ぶ航空機の確保ができないといった状況にも見舞われました。生産、物流、通関等々、二重三重の障害を乗り越えて国内に持ち込む中で、スケジュールが後ろ倒しになる状況が続いてしまいました。
これに加えて、今般の不良品問題の発生によって、メーカーが全量回収の上国内検品を行うとともに、更に万全を期すために国による検品も行っているために、配布スケジュールにしわ寄せが生じる結果となっています。
<最後に>
現在も、関係者の尋常ならざる努力によって布マスクの生産・調達が続いています。国民のマスク不安を解消するための布マスクの生産・調達でしたが、状況が落ち着くにつれて、「量、スピード、品質」全てに完璧が求められるようになりました。まだ全体のオペレーションが終了していませんが、こうした一連の作業の結果、事業者にとっては大きな持ち出しになることを懸念しています。興和では今も職員を総動員して布マスクの検品作業を行っています。
また、現状では不良品や国による検品費用ばかりに議論が集中し、こうした布マスクの取り組み自体が全て失敗であったかのような議論がなされているのは誠に残念なことです。特に、日本の危機的な状況を救うために協力してくれた事業者が、結果的に社会的批難を受けることがあってはならないと感じています。また、日本のために今も昼夜に亘って布マスクを製造してくださっている1万人を越える海外の縫子さん達のためにも、是非事実を知っていただきたいと思い、筆を執りました。
もちろん、だからといって不良品が許されるわけではありません。現在検品には万全を期していますが、万が一不良品が届いた際には速やかに交換させていただきますのでご協力をお願いします。その上で、不良品の状況はきちんと確認・評価し、今後の反省材料にしてまいります。
なお、まだ一部の方々にしか届いていない布マスクですが、実際に手にされた方からは良い評判もいただいております。新型コロナウイルスへの対応は長丁場になる可能性が高いと言われています。是非、多くの方々の努力によって届けられる布マスクをご活用いただき、この災禍を乗り越えていただきたいと思います。よろしくお願い致します。(令和2年5月18日)
江崎 禎英
2020年5月21日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
新型コロナウイルスへの対応のなかで、その危機のシンボルのように扱われてきたマスク。ここに来て仮設店舗や飲食店などでも50枚入りが一箱2000円前後で販売されるようになり、ひと頃のようなマスク不足の状況は改善しつつあります。
そうした中で、政府が実施している一世帯2枚の布マスクの配布について、これを疑問視する意見が増えています。配布されたマスクに髪の毛や糸くずが入っていたり、カビと思われる変色したマスクがあったとの報道を耳にされた方もいらっしゃるでしょう。問題のあるマスクは速やかに交換する対応を行っているところですが、実際に手にされた方に不安と不信感を与えてしまいましたことは、心からお詫び申し上げたいと思います。
布マスクを巡る一連の対応への批判は、政府としてこれを真摯に受け止めるのは当然です。しかしながら、実際にマスクを製造した事業者にも厳しい批判の目が向けられていることは、この作業をお願いした立場にある者として誠に申し訳なく思っております。今後市場に出回るマスクの供給量が増え、マスク不足に対する危機感が薄れるにつれて、今般の布マスクの生産に携わった事業者に対していっそう厳しい目が向けられる可能性があります。緊急時の対応が平時の基準によって評価されることは往々にしてあり得ることですが、懸念すべきは、そうした評価が広がることによって、今後、国の緊急事態に協力しようとする企業が現れなくなってしまうことです。
先日の国会審議の中では、「政府が配る布マスクはその大半が不良品であり全て廃棄すべき」といった趣旨の議論が展開されたため、その経緯を理解していただくために、質疑に割り込む形で答弁をさせていただきました。しかし、私の答弁は通告された質問に答えるものではなかったために、怒号と叱責の中で十分にお伝えすることができませんでした。そこでこの場をお借りして、多くの方の疑問にお答えする形で、その背景と経緯について書き記しておきたいと思います。
<なぜ、布マスクだったのか>
再利用を前提とした長期間使用可能な布製マスクを大量に生産・調達することによって需給ギャップを埋め、使い捨てマスクを医療関係者等に優先的に回せる環境を整えようとしたのが、布マスクに取り組んだ最大の理由です。
本年1月頃から、それまで国内供給の8割程度を占めていた中国からのマスクの輸入が途絶え、マスクの品薄状態が始まりました。このため2月にはマスクを求めて早朝から店舗の前に行列ができる状況となり、国会等でもマスクの供給を増やせとの指摘が相次ぎました。2月下旬には、マスクの買い占め防止のためにネットオークションの自粛を求めると共に、国内生産設備の増強を含めた供給量拡大に取り組みました。
しかしながら、当時の国内におけるマスクの供給能力は月産4億枚程度であり、その殆どが不織布を用いた使い捨てタイプでした。国内生産力増強のための補助金に応募した企業も全て不織布を用いた使い捨てマスク用の設備投資でした。この頃、感染症の専門家などからは、使い捨てマスクの再利用を行うべきでない旨の見解が出されており、需給ギャップは拡大の一途を辿るおそれが生じていました。
このため、ハンカチやキッチンペーパーによる手作りマスクなど、使い捨てマスク以外の対応を考える中で、政府としてたどり着いた結論が、ガーゼマスクでした。かつて小学校などで給食当番の際に使っていたガーゼマスクは、洗濯して何度も利用されていました。そこで「健常者による飛沫感染に対する予防としては、手すりやドアノブなどに触れた手で自らの鼻や口に触れないことが重要との観点から、布マスクによっても有効な対応は可能である」と医療関係者に確認し、布マスクの生産・調達プロジェクトはスタートしました。
<布マスクは何時までにどれくらいの量を調達しようとしたのか>
「マスクが手に入らないことに対する国民の不安を軽減するためには、繰り返し使用できる布マスクを来月(4月)末までになんとか1億枚規模で調達できないか」というのが当時の認識でした。私自身がこの布マスク生産・調達プロジェクトに参画し、事業者との調整に携わったのはまさにこの頃です。
本年3月には、ドラックストアやスーパーの店頭からマスクが消え、一日中マスクに関する報道が流れ、国会でもマスクの供給不足に対する政府の対応を非難する質問が続き、マスク供給のためにあらゆる手を尽くせと責め立てられる状況でした。全国民が一斉にマスクを買い求めるというこれまでに経験したことのない爆発的な需要増の一方、中国からの輸入が全く見通せないなかで、1億枚という規模の目標が形成されていきました。
そもそもマスクの材料となるガーゼは中国でしか生産しておらず、ガーゼの国内在庫も殆ど存在しない状況でした。
このため、国内で供給できる布マスクは、せいぜい1万枚から多くても10万枚のレベルで、およそ1億枚といった規模には届かない状況でした。仮になんとか国内に材料となるガーゼを持ち込んでも、布製マスクを縫製する設備(ミシン)や人員を揃えることも困難な状況でした。現在でも、「布製マスクを作るなら日本で生産すべきだ」との意見も多いのですが、国内の生産設備の殆どが不織布を用いた使い捨てマスク用の機械装置です。
今年3月時点で、海外で1億枚規模のマスク用ガーゼを調達するネットワークを有し、布製マスクを材料の調達から裁断、縫製、検品、袋詰めまでを一貫して行える企業は、興和しかありませんでした。
ただ、興和単独では1億枚規模の生産は困難であったため、中国で縫製関係の業務経験のあった伊藤忠とマツオカコーポレションの協力を得て生産体制を構築したものです。
当初、これら3社からは、4月末までに1億枚の生産など到底無理だと言われましたが、日本の窮状を救うためにあらゆる手を尽くして目標を達成して欲しいとお願いしました。結果、ベストシナリオで約9千6百万枚まで積み上げ、1億枚規模の目標達成の可能性ありとして、直ちに材料の確保、製造ラインの立ち上げをスタートしていただきました。
4月末までに1億枚規模の生産を行うために、興和だけでも中国において約20カ所の縫製工場と約1万人の縫い子と検査要員を確保しています。
これには、興和が中国に有する様々なネットワークを駆使して、尋常でないスピードでこの体制を整えたと聞いています。伊藤忠やマツオカコーポレーションも独自のネットワークで東南アジアの国々に縫製工場と人員を確保し、生産を行っています。
これだけの人員を集めても、縫い子さん1人当たり1万枚ものマスクを縫製する必要があり、24時間体制での生産を行っています。各工場で一定量生産が進んだ段階で検品・梱包し、直ちに航空機で日本に運ぶといったオペレーションになっています。
<なぜ、不良品が発生したのか>
当初、興和からは「興和の名前が出る以上、従来通りの国内検品を行うのでなければこの仕事は引き受けられない」と強く言われました。しかし、興和の国内検品は、一旦全てのマスクを一か所の検品施設に集め、1ミリ程度の縫い目や折り目のずれ、布のほつれも不良品として弾いてしまうというレベルの対応です。このため従来どおりの国内検品作業を行っていたのでは目標の半分も達成できない可能性があり、緊急避難的な対応として現地検品を基本とするオペレーションに変更してもらいました。
日本に持ち込んだ後は、配布準備段階で最終チェックを行うのですが、ここでのチェックをすり抜けた不良品が利用者の手元に届いてしまったことは誠に申し訳なく思っています。また、自治体によっては、こうした作業を保健所に依頼したことで、保健所職員の作業を増やす結果になったことも反省点として認識しています。
ちなみに、特定の医療用マスクを除き、マスクに対する国際的な品質基準は存在しません。また、国内におけるマスクの業界団体が出している品質基準もホルムアルデヒドの検出基準が示されているだけで、各社毎の自主基準による検品が基本となっています。
不良品の報道を受けて、現在では事業者においても自主的に国内検品を実施していただいているところです。「受注した以上、企業は完璧な製品を届けるのが当然だ」といった意見はもっともですが、それはあくまで平時における常識で、緊急事態の対応にまでこれを要求することは酷だと思います。それ故に、これを補う形で国が改めて検品を行っているのですが、この費用に国費を充てるのは問題だとの意見が寄せられているのが現在の状況です。
<なぜ、配布が遅れているのか>
4月末までに1億枚の布マスクを生産して国内に持ち込むというのは、元々極めて厳しい目標でしたが、緊急事態ということで各社全力で取り組んでいただきました。しかし現実には、急遽集めた1万人に及ぶ縫子さんの教育から始まり、中国国内での物流の障害(企業活動の制限)、更には中国政府によるマスクの輸出規制によって通関で止められるなど次々に問題が発生しました。
しかも入国制限によって、これらの問題を解決するための職員を中国に派遣することができません。大使館の協力も得ながらなんとか通関を突破しても、日本へ運ぶ航空機の確保ができないといった状況にも見舞われました。生産、物流、通関等々、二重三重の障害を乗り越えて国内に持ち込む中で、スケジュールが後ろ倒しになる状況が続いてしまいました。
これに加えて、今般の不良品問題の発生によって、メーカーが全量回収の上国内検品を行うとともに、更に万全を期すために国による検品も行っているために、配布スケジュールにしわ寄せが生じる結果となっています。
<最後に>
現在も、関係者の尋常ならざる努力によって布マスクの生産・調達が続いています。国民のマスク不安を解消するための布マスクの生産・調達でしたが、状況が落ち着くにつれて、「量、スピード、品質」全てに完璧が求められるようになりました。まだ全体のオペレーションが終了していませんが、こうした一連の作業の結果、事業者にとっては大きな持ち出しになることを懸念しています。興和では今も職員を総動員して布マスクの検品作業を行っています。
また、現状では不良品や国による検品費用ばかりに議論が集中し、こうした布マスクの取り組み自体が全て失敗であったかのような議論がなされているのは誠に残念なことです。特に、日本の危機的な状況を救うために協力してくれた事業者が、結果的に社会的批難を受けることがあってはならないと感じています。また、日本のために今も昼夜に亘って布マスクを製造してくださっている1万人を越える海外の縫子さん達のためにも、是非事実を知っていただきたいと思い、筆を執りました。
もちろん、だからといって不良品が許されるわけではありません。現在検品には万全を期していますが、万が一不良品が届いた際には速やかに交換させていただきますのでご協力をお願いします。その上で、不良品の状況はきちんと確認・評価し、今後の反省材料にしてまいります。
なお、まだ一部の方々にしか届いていない布マスクですが、実際に手にされた方からは良い評判もいただいております。新型コロナウイルスへの対応は長丁場になる可能性が高いと言われています。是非、多くの方々の努力によって届けられる布マスクをご活用いただき、この災禍を乗り越えていただきたいと思います。よろしくお願い致します。(令和2年5月18日)
他人に対して、謝罪を要求する割に、自身の軽率な発言は謝罪できないとなればますます信用ならない人間と認識してしまう。
細かい話は省略するが、
岡村隆史のオールナイトニッポンの番組終了に関する感想、今後の番組への期待
https://news.yahoo.co.jp/byline/fujitatakanori/20200515-00178573/
の最後の締め。
わーわー言うとります。
お時間です。
この発言。
リスナーならわかると思うが、番組最後の締めに、岡村と矢部が交互にいうセリフで、
"二人"でのラジオであることを感じられるシンボル的なセリフで、聞いてるこちらとしては感動させも覚えた。
それをラジオのことを散々批判しておきながら、記事の締めにこのセリフをするなど
完全に番組それ自体もそうだが、全く無関係のリスナーまでも侮辱しているような発言である
これくらいは大丈夫だろうと藤田孝典氏は考えているかもしれないが、
岡村の発言はともかく、過去何人もの、軽はずみな発言の揚げ足取りを行ない、謝罪を要求してきた氏なら
この件に関してもきっち謝罪するべきだと思うが、どうだろうか。
描きやすい覚えやすいポーズにしやすい構造物として作りやすいと四拍子そろってる上に、「教祖が人類の罪を背負って死んだ時に使われた処刑台の形」って設定がカッコよすぎる
寝る前の妄想の舞台になる世界を考えるとき、そこでの世界宗教を作っとこうと思うんだけどキリスト教の十字架に勝てる気がせん
いや、イスラム教も仏教もこれといってシンボルマークなんてないし別にいらないんだろうけど
ダークソウルシリーズではキリスト教意識してるっぽい「白教」てのがあってそのシンボルは円だったなあ
円もいいけど十字には勝てない気がする
なんかないかなあ ゾロアスター教の「火を崇める」ってのはかっこいいけど、火の絵ってむずいしな
十字は線二本で描けるのにしっかりストーリーもある うーん勝てる気がしねえ
The Queen's Coronavirus broadcast: 'We will meet again' - BBC
雑だが全文訳しておいた。
追記20200407:BBC公式がでたので以後こちらを。 https://www.bbc.com/japanese/video-52178074
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NHS前線のみなさん、ケアワーカー、必須業務につくみなさん。
私たちを支えるため、私心なく家をでて日々の業務を行うみなさんに感謝を述べたいと思います。
平常に近づくためのみなさんの激務への感謝は、この国全体に共有されるものと確信しています。
愛する人を失った人々は痛みを受けています。家に止っている人々は、このような事態から弱い立場の人々を守っています。みなさんにも感謝を述べたいと思います。
私たちは共にこの病に取り組み、そしてここで伝えたいのですが、怯まず団結すれば、この困難を克服できます。
数年後、この困難への取り組みをふりかえり、誰もが誇りに感じることを望みます。
次代の人々は、この世代の英国人はどの世代と比しても強かったと語ることでしょう。
自律心、わずかなユーモアと決意、そして仲間意識は、今なおこの国を特徴付けています。
私たちのこの誇りは、過去のものではなく、現在そして未来のものです。
英国がひとつとなり、医療従事者や必須業務従事者を称賛した瞬間は、この国の精神として記憶されることでしょう。そしてこどもたちの描いた虹がそのシンボルとなるのです。
英連邦の国々から、人々が力をよせあい、助け合ううれしいストーリーが伝えられています。人々は食事や薬を届け、安否を確認し、援助のため事業を転換しています。
自宅待機はつらいことですが、信仰ある人もそうでない人も、多くの人々が祈りや瞑想を通じ、立ち止まって思索を深める機会だと感じています。
妹に手伝ってもらい、1940年に初めて放送したことを思い出します。
ここウィンザーから、こどもの一人として安全のために家族を離れ疎開するこどもたちに呼びかけたのです。
今、ふたたび多くの人々が愛する人から引き離される痛みを感じています。しかし今、当時と同じく、深くこれが正しい行いだと知っています。
地球上のすべての国家が、すすんだ科学と、生来の助け合いの想いによって、共にこの困難に取り組んでいます。
私たちは成功します。そしてその成功は私たちすべてのものです。
困難はまだ続きますが、こう考えましょう。
志村けん、俺の中でわりと大往生のシンボルみたいなところがあったんだよな
別にファンじゃないしたいして知らないんだけど、なんつうか大往生しそうな顔してるじゃん 優しげな爺さんで、人気も地位もあるときたらそりゃあ人に囲まれて穏やかに死ぬだろうと思う
そういう意味で、いい死に様みたいなことを考えるときに湧き出るイメージで死んでる爺さんはけっこう志村けんみたいな顔をしてることが多かった
でも実際はどうだ まともに最期の言葉みたいなものを遺すこともなく、家族さえ死に顔を見られないまま焼却ときた
なんだかなあ
死後の存在とか信じてないし、である以上は本人が死ぬときに満足できるかが一番大切!と思ってんだけど、あんだけ成功した人がこうも呆気なく死ぬものか