はてなキーワード: 悪夢とは
汚部屋であるところの私のアパートに管理人が勝手にクーラー点検人を入れ、
あまりの片付いてなさに私が哀れになったらしい点検人の兄ちゃんが部屋を綺麗に片付けてくれ、
ちなみにクーラー点検人が入ったのは名目としては異音がするのでその点検という話だったが、
その異音というのは私が目覚ましに使っているケータイのバイブ音なのだ。
管理人の本当の目的は玄関扉の下の隙間からたまにチラシとかはみ出ているいかにも汚部屋的雰囲気の私の部屋に
合理的な理由を付けて踏み込むことだったのだ。
しかし点検人の兄ちゃんが気を利かせて部屋のゴミを始末したため、私はアパートを叩き出されるのを免れた。
「片付けられない」のは義務教育前から続く私のコンプレックスの一つだ。
正確にいえば、片付けられないことを酷く責められる、眉をひそめられる、ため息をつかれる、一周回って逆に「良いのよ何も思ってないわよあなたの勝手ですものね」と気を使われる、ことが。
片付いた部屋は足の踏み場があって快適だった。管理人とその息子夫婦と小学生の孫が実際には存在しない防火扉の施錠を解除してわーっとなだれ込んできて「あら綺麗に使ってもらってるじゃない」と勝手にあちこち入り込んであれこれ見てはニコニコしていた。
虫酸が走る。
自分以外の人間に自分の部屋を見せるなんて死んでも嫌だ。ひどい悪夢だった。
遅刻しそうだ。
昨日、些細な事で母と喧嘩した。
それから母の機嫌は悪くなり、誰からにも相手にされなくなった。
私には友達といえる人がいない。FacebookやTwitterで「友だち」はいるけど、それは本当の友達ではない。
「友達」と呼べるのは、気兼ねなく色々と話したり、連絡したり、一緒に出かけたりできる同世代あたりだ。
「友達」が多い「友だち」はいつも楽しそうで、光り輝いているようにみえる。
なぜ私には「友だち」しかいないのか?
それは、仕事や趣味では同じ共通点はあるものの、年代も違えば立場も違う、近所にはいない存在だからだ。
また、大学の同期でも「新卒」(( 後述するが、私は新卒入社できなかった ))、「同じ趣味を持っている」(( 特に多いのがリアルタイムでアニメやマンガに触れていた人々。コミケ大好き、コスプレ大好き、声優第一の二次元オタク ))じゃないと相手にしてくれなくなっている。
私は人が怖い。相手が何を思い、何を企んでいるのかが目を通すと怖く感じる。
発端となったのは、小学生の頃に外見をからかわれたり、運動音痴なのをバカにされたりしたことだ。
一時期の担任は、教科書を使った授業というのをほとんどせず(時間割なんて無い)、天気がよければ近くの川へザリガニ釣りに行き、校庭が空いてたらキックボールをやる人だった。本を読んだりドリルを出したりする行為をすればすぐ胸ぐらや髪の毛を掴んで殴る、生徒の前で「こいつはバカだ」と堂々と引きづり回される始末。教育委員会もPTAも学校も普通だと思って何も指導や注意されなかった。(( 小学校絡みのイベントは「二度と招待状を送らないでください」と返送して以来、付き合いを持たないし持ちたくもない ))
中学は中学(( 今はFラン私立学校になっていた ))で、「仲間」に入れない時点でイジメの対象になって、つけまわされたり落書きされたりする標的にされた。シューズを捨てられたり、机に「死ね」「ウザい」「キモい」なども書かれたりした。段々エスカレートして中学3年の夏、IBSにかかって半年以上治療した。学校でのストレスとの因果関係は覚えていないが、両親は「たいしたもんじゃないよねw」と言って特に対応してくれなかった。今になってはこのことが現在、自分が苦しんでいる一番の要因かもしれない。
高校と大学は普通に過ごした。高校は自らの意思と夢に向けて走っている生徒が多いところだったから、浮いたり浮かれたりはなかったしイジメもなかった。大学ではサークルに入ったり、学部柄レポートを一緒に解いたりする人には多くであった。共に苦労し、歩んだ4年間だったが、大学を除けば単なる他人に他ならなかった。イベントに興味なく、アニメなどの深い話は全く分からない人に遊びの誘いも話もなにもありもしない。
再び悪夢が来たのは、大学3年以降の就職活動だった。中学で発生したIBSが悪化し、ストレス性適応障害に陥ってしまった。
エントリーシートを出してもダメ、筆記だけはOKでもディスカッションが通らない、1次面接まで行けるのがやっとでその後は何も起きない。しかし、周囲からは「勉強できるしまじめだからすぐ内定取れそうなのにおかしい」とか、「えー、まだ就職活動しているのm9(^Д^)プギャー」とか言う割に、「エントリーシートのこつを教えて?」や「どういう風に面接すればいいのかな?」といったアドバイスも何もしてくれなかった。就職課へアドバイスを頂いても全くダメで、また来ても同じ指導方法で試してもダメで…のループ。結局、新卒を取り逃がし、長期アルバイトの名目で週に5回働いて過ごすようになった。相手の目を見る事が怖い、周囲からどう見られているのか怖くてたまらないのに、なぜか接客のアルバイトをしていた。仕事は大変だったけど、発作やうつにならなかったのが幸いだった。
現在は、症状がまた悪化し、通院をしつつ自宅で過ごす事が多くなった。ちょうど前回の五輪の時から通っているからもう4年は経つ。
その間に精神科へ入院(( 本当は心療内科なのだが、入院先は精神科扱いだった。ただ幸いに大学病院だったこともあり、薬物やアルコール中毒者、リストカットや妄想が強い人はお断りしてた。開放型で数日過ぎれば事前申告すれば外出もOKだった。 ))したこともあった。今は担当が異動になってるが、同じ大学病院の先生に診てもらっている。治療しても中々治る気配もないし、両親も「仕方ない」の一言で病気に関して何も手を付けない。
私も、周りのようにちゃんと働いて、収入を得て、それで旅行に行ったり、自由に買い物や習い事をしたりしたかった。
しかし、大津のイジメ事件ではないけど、精神的に追いつめられて、理解してくれなくて、苦しくて、何で長く生きてしまったんだろうと悔やんでいる。
「何を言っても使えない人間は動物以下だ。赤ちゃん以下だ。パソコンよりひどい。ゴミにもならない」
この言葉は、別の所で働いていた時に上司から吐き捨てられた言葉だ。(( 研修期間があると明記はあったが、指導は一切受け付けてもらえなかった。しかも、「この企業Webと同じサイトにして」の注文以外受け入れない相手だと、大学で専攻したITに関するスキルもまったく通用しない。残業に時間外で勉強、そして家事や親のいいなりに動かされていたらたまったものじゃない。 ))この言葉通りなら、私はゴミ以下のなんにでもない。
この文章は泣きながら書いている。画面が涙ににじんで途中から何を一番言いたかったかさえ忘れてしまった。
こんな世の中をずっと過ごすのであれば、自ら命を絶つ権利をつくってほしい。
PTSDだろうがトラウマだろうか、このまま背負って生きていく自信や希望もなければ、完治するかどうかさえ分からない。世間も相手にしてくれない。
そんな人たちと普通の人が共存する社会なんて日本にはありはしない。
未来に向けて少しずつ進めていても、「友だち」や家族から理解が得られないし、「どうせ病気だから」の一言で終わってしまう。
将来に進んで、今やっていることは自分にとって有益なのか無益なのかさえ分からなくなってきた。誰からもしていることに対する評価を受けずに、悩んで苦しんでいても誰も助けももらえないこの世界に。
本当に甘えてるやつは
早く社会復帰して働きたい。お世話になった人たちに恩返ししたい。でも、頭ぐちゃぐちゃで、毎日幻覚とか幻聴見たり悪夢にうなされながら結局求人誌をめくるだけで終わってる。
死にたい死にたいと思いながら家具に頭ぶつけながら勉強して、集中できなくなったら頭ぶつけて、でもぜんっぜん社会の水準に達せない。
人に甘えてばっかりいて、生きてる価値なんて欠片もない人間ってこういうので、どこも雇いたくないよな、って思いながら毎日タウンワークめくってる。
なんてことはしない。
何年かして、統合失調症ではなく発達障害ではないかと言われた。
発達障害だということは知能検査を受けて分かったが、自助グループは肌にあわなかった。
引っ越しなどを繰り返しながら、精神科には結局どうしてもかからないといけないような状態で、引っ越した先々で病院に行った。
何か色々言われてきた。
また引っ越して、今度は薬なしでやっていけるかと思ったけれど、結局無理で病院にすがる思いで予約を入れた。
で、診察は結構先なんだけど悶々としながら毎日をただ無為に食いつぶしている。
こうやって毎日過食を繰り返して吐いて下剤飲んで手首切って、親とかの幻聴とか幻覚に怯えたり、できるはずのことができなかったり、集中力が無かったり、眠れなかったり。
自助グループをジプシーしていたときに、「似非発達障害」と吐き捨てられて、初見の知能検査で嘘なんかつけるかと思って生きてきたはずなのに、今は
「もしかしたら自分は無意識に虚偽の回答をしてしまったのかもしれない」と思ってしまうようになった。
親からも「普通の子だ」と言われたり、「早く普通に戻りなさい」と言われたりして、意味が分からない。
それって全部自分が甘えてるからなのかな、と今日も新型うつの特集を見て思った。
病院行ったら新型うつだ、と言って「お前は甘えてるから早く死ね、その方が社会の為だ!」とか一喝して、自分に恥をかかせてくれないかな。
早く社会復帰して働きたい。お世話になった人たちに恩返ししたい。でも、頭ぐちゃぐちゃで、毎日幻覚とか幻聴見たり悪夢にうなされながら結局求人誌をめくるだけで終わってる。
死にたい死にたいと思いながら家具に頭ぶつけながら勉強して、集中できなくなったら頭ぶつけて、でもぜんっぜん社会の水準に達せない。
人に甘えてばっかりいて、生きてる価値なんて欠片もない人間ってこういうので、どこも雇いたくないよな、って思いながら毎日タウンワークめくってる。
いやC++はクソなりにいいところもあるし、PHPは避けることもできるが
JavaScriptは単にクソというだけじゃなく使用を強要してくるからな。
無邪気なユーザーや、無知な投資家ども、TechCrunch等のライター
経験の浅そうなエンジニアどもを見てると腸が煮えくり返るんだけど。
あらゆるソフトウェアをクソ言語JavaScriptで実装させる気かよ。悪夢だ。
CoffeeScriptやらDartやら出てきてるのは、
ナマじゃとても使えねーぜこんなクソ言語とはっきり言明しているようなものだろ。
真面目な話、JavaScriptをどうやって滅ぼすかが今後10年か20年かの課題になってくると思う。
世の中にどうしても解決できないことというのがあるのかもしれないってことを整理したいがために、これから書くことを試みる。
年老いた母親と、病気の妻、じぶんのプライド、どれを取るべきなんだろうか。考えれば考えるほど、出口が遠く見えなくなり、発狂しそうな自分をどうにか日常に引き止めておくことしかできない。
自分には年老いた母がいる。決してマザコンではないが、幼くして父が亡くなったために母親には兄弟共々途轍もなく世話になり、恩義を感じている。そして、いつか母にラクをさせ幸せに暮していけるようにすることが長男である自分の責務だと思っていた。
ところが、30歳の頃関連会社を通じて出会った素晴らしい女性と意気投合し、生き生きと仕事をこなす彼女と一緒に会社を起こすがために、関西を後にして東京に出てきた。そこでの約10年間は自分にとっても充実していたし、母にも自慢の息子を演じることでささやかな親孝行ができたように思う。
彼女と仕事をするのも、どこかに行くのも、時を忘れ議論を交わすのも、何もかもが楽しかった。その時間を、ある日あることが一変させた。
順調に仕事をしていたある日、彼女の指先が真っ白になっていた。それからあっという間に手が不自由になっていった。半年ほどあちこちの病院で検査をし、やっと「全身性強皮症」という診断をくだされたときには、彼女は一人で服を脱ぎ着するのもシャワーを浴びたり顔を洗うのすら、いつもの数倍の時間をかけるほど、症状が進行していた。たった半年で、だ。この病気は膠原病の一つで、皮膚が硬くなってしまう。血管に物理的変化が起きて血流が悪くなるため、一度傷ができると治りにくくすぐに化膿してしまう。発見が遅れると内臓病変も起こし、それで亡くなる方がいまだにいるとのこと。
確定診断をくだしてくれた先生のお陰で進行はそこで止めることができ、大量のステロイドや血流改善剤で身体の不自由さも徐々に引いていった。彼女は、一ヶ月の入院治療後、通常の生活に戻ることができた。料理が大好きな彼女は、仕事を休んでいる間、楽しそうに料理を楽しんでいた。見かけの握力がないため今までのように瓶のふたが開けられなかったり、血行不良でレイノーが出るため冷たい水でお米を研いだり野菜を洗うことはできなかったけど、なんだか今までの生活が戻ったように錯覚した。
しかし、油断できない。症状の落ち着いた今でも3ヶ月に1度は数百キロも離れた主治医の病院に通院し、毎度の検査で1年をかけて内臓の検査を一巡する。いまのところ、逆流性食堂炎と間質性肺炎というのが軽く見られる程度とのことで経過観察中だ。
彼女の病気をきっかけに会社をたたまざるをえなかった。何故って彼女が会社の営業みたいなものだったし、人間嫌いな自分は彼女の作った人間関係を次々壊してしまった。たぶん、ある種の病気…考えれば考えるほど、追い詰められれば追い詰められるほど強迫的に関係を壊してしまう。自分が情けなかった。
彼女は自分を立ててくれていたんだと思う。壊した関係をあえてフォローしなかった。彼女にはフォローできたはずだけれど、自分に恥をかかせるよりは仕事や人間関係を失うことを選んだようだ。友人や先輩との縁もそうやって彼女は失っていった。悔しくて辛い選択だったと思う。なぜなら彼女が健康だった頃、20年近くかけて築き上げてきた関係だったのだから。
…自分には時間がなかった。母親は容赦なく年老いていく。しかし、一度つまづいた自分は親の面倒をみることすらできないほど落ちぶれてしまった。もちろん、彼女にラクをさせてあげることも問題外だった。今の自分たちに未来は見えない。貯金を食い潰す毎日だ。それでも、まだあなたは以前の仕事に戻れる、まだあきらめちゃダメだと彼女は言う。うれしい反面、途轍もないプレッシャーだ。
彼女は自分と対象的に母親に苦労して育ち、貧困の中で努力して高学歴を得た。確実にキャリアを積み上げて病弱な母親の面倒を看ながら、イキイキと仕事していた。「いつか何の不安もなく安心して暮らせるようになりたい」というのが彼女の唯一の夢だった。彼女の母親は若くして亡くなり、自分が出会ったときには彼女は独りだった。母親のDVのせいで未だに悪夢を見ていた彼女は、自分となら幸せになれると思って公私ともにパートナーになってくれたんだと思う。
でも、自分では分かっている。もう、自分のキャリアが世に中に通用しないことを。彼女もやっぱり半分分かっている。世の中そんな甘いもんじゃないってこと。でも、ブルーカラーになる勇気がないのは、彼女をガッカリさせたくないこと、親に恥をかかせたくないこと、そして何よりも自分の情けないプライドのせいだった。
一度は成功した自分が、ブルーカラーでUターンをする? 街の同級生や親戚たちの好奇の目に晒される? 母親の自慢の息子から、親のハジとなるために戻る? そんな状況であっても、年老いた母を看取るまでそばに居てやることは、果たして親孝行なのか? 否、たとえそうでもそうしなければ「人でなし」とそしられる。そんな恐怖に自分は耐えられるのだろうか? 妻も同じ目でみられ、血がつながっていない分、親戚からの風当たりは自分より強いだろう。治療中の彼女にはそんな思いをさせたくない。否、そんな思いをさせるしかないことへの抵抗が自分へのプレッシャーなのだ。
母親はまだ元気ではあるが独り暮らしの不安をさりげなく訴えてくる。何度か、病気の妻を捨てて戻って来いと言われたこともある。まだ生きている彼女の父親(彼は彼女が中学生のときに家族を捨てた)が面倒をみるべきで、お前が犠牲になることはない、ととんでもないことも言った。
そして、選んだ。彼女と別れることを。
幸い子供もいないし、籍も入っていない。彼女を自分の親戚のしがらみに放り込む必要はない。
母親を看取ったら、また彼女の元へ戻ればいい、それしか今の自分には考えが浮かばない。彼女の症状は一進一退ではあるけれど、介助が必要なほどではないし、そうならないように主治医の近くに住んでもらおうと思っている。生活が落ち着くまでは面倒を見るつもりだ。
それのどこが間違っているのだろうか? 人としておかしいのか、真っ当なのか、考えれば考えるほど分からなくなる。
彼女は、受け入れてくれている。なんとか一人で生計をたてる計画を練っている。彼女が相談した親友たちはことごとく反対したり怒ったりして心配してくれたが、やっぱり最適解がないのは同じだった。
地元ではなんて言うの?と気にしている。別れたと言えば簡単だし、彼女の病状も母親はあまり知らない。治ったといえば信じるだろう。性格の不一致というやつで片付ければ、自分だけが人でなしになるだけで済む。
あとは、彼女が持ち前のネットワークの開拓能力を発揮して、新天地でうまくやってくれるのを祈るだけだ。
…こんな選択しかできない自分。こんな馬鹿なやつは、いつまでも色んなことがうまくいくと信じていた馬鹿なやつは、自分ぐらいなんだろうな。
どんな罰でも受ける、そう思いながらも、プライドとプレッシャーに押しつぶされそうな毎日。事故で何もかも一瞬で終わってくれたらどんなにラクか…と何度思ったことか。
彼女が作った食事を2人で食べる。何気ないひと時が辛くなるぐらい幸せ過ぎて、このひと時があと数ヶ月でなくなるなんて、信じたくない。やっぱり人でなしだろうと、彼女と別れて暮らすなんて信じられない。その一方で、母親は独りで食事を作り、独りで食べている。一緒にいてくれる猫には頭が上がらない。
http://anond.hatelabo.jp/20120303021419
コンシューマーメインの方だとハード論争もありそうなので僕とは意見が違いそうです。
ネットゲームを長年やってるゲーマーとしては、あなたの疑問は以下のツリーでよく解説されていると思います。
http://anond.hatelabo.jp/20111017115231
つまり、MMORPG ではソーシャルゲームの手法というのは既に過去に経験した悪夢であって、それが本来のゲームの面白さやコミュニティを破壊したので、嫌悪されているということです。極端にゲームバランスに影響する有料コンテンツがあるのであれば、MMORPG に限らず FPS 等でも同じことが言えます。
現在は、ゲーム性やコミュニティを破壊しないように、単純にゴールでの有利に差をつけるのではなく、アバターや時間やサービスを売るような手法にシフトしてきているのは、上のツリーの通りです。
コンシューマーでは違うかもしれない、と始めに書きましたが、コンシューマーでも DLC に嫌悪感を持つ層はいます。単純な嫌儲から批判している低年齢のユーザーもいますが、DLC によって本来のゲームバランスの破壊が行われている、なにより、DLC 重視の収益モデルによってゲームとしての面白さへの開発コストが割かれにくくなっているのではと疑念を持つユーザーがいるからです。
ネットゲームでは 10 年以上継続しているものも複数あり、5 年程度なら珍しくもありません。本格的なネットゲームを経験したユーザーには、いかにもテンプレートな量産型のゲームを嫌う傾向があります。言い換えれば、「良いネットゲームとは、作って終りではなく、終わらない変化と進化があり、大きく豊かなコミュニティを育むものだ(であってほしい)」というイメージです。
しかし、MMORPG にも一時期はテンプレート化されいかにも低コストで生産されたようなタイトルが乱立しました。そういったものは、チョンゲーやクリゲーと多少差別的に呼ばれました。そのようなテンプレ化されたゲームを好むユーザーがいることも含め、議論されてきた過去がネットゲームにはあります。一方、ソーシャルゲームはチョンゲーやクリゲーよりも更にテンプレート化され、低コストで量産されているように見えます。
ネットゲームに長くうまく付き合っていくと、ゲーム内のアイテムやレベルのようなものよりも、プレイヤースキルや人間関係、ギルドなどの仲間関係といった経験に重きを置くようになります。 (まあ大体長く続ける、またはゲームが変わっても同じメンバーで遊んだりする理由ってのはそれです) 高額課金による高額課金以外の手段では到達できない、ユーザーの経験や技術を無視した有利不利は、そういった彼らのプレイヤースキルや仲間意識の価値をゲーム世界が否定するということですから、なんというか水と油なんです。
合わせると、MMORPG もしくはそれに類するネットゲームを経験したユーザーにとってソーシャルゲームは、古く安易で問題の多い課金モデルと、散々に議論されてきた使い捨ての低コストな量産型のゲームの特徴を悪い方に集約した、旧時代的なモデルに見え、批判的になりやすいのです。
スーパーで福島産の農産物が大量に売れ残っている様子を見ると心が痛みます。
かといって、私自身が「食べて応援」できるかどうか、というとできません。
まだ人生を諦めれる年でもないし、小さな子どももいるし、母乳で育てているので。
でも、福島の農家の人の気持ちを考えると、かわいそう。とは思うのだけれど、今年も作付けする、と言うニュースを見ると、なんだかなぁ。と思う。
彼らは確かに被害者だと思う。
だけれども、実際に放射能は降ったのだ。
そして、それは消えない。ちょっとやそっとじゃ消えない。
昨年は空気中のものが付着したので「ほうれん草は洗えば大丈夫です」などと言っていたけれど、除染もしないままかれこれ1年がたとうとしている。
土に、水に、浸透したのだ。
そうすればそこで育てたほうれんそうの内部にいくということだ。それは洗ってもおちない。
なんだかどこに行っても収束ムード(?)なのか目をそむけているのか、誰もそんなことは言わない。
でも、放射能は見えない。見えない被害。
だから、なかったことにしようと思えばなかったことにできる。
仮に。
近海の人々は漁ができないだろう。
いや、漁をしたとして、油のついた魚を売れるだろうか?いや売れない。
値段もつかないし、だれも食べようと思わないだろう。
きっと漁師たちは、できない漁に対してなんらかの補償があるはずだ。(被害にあった漁師の知り合いがいないので知らないけれど)
現在、福島の人は「油のついた魚を売っている漁師」になっている。
それは、うしろゆびをさされても仕方ないんじゃないだろうか。
(参考)
翻訳は、村上の作品を組み立てる原理だとさえ言えるかもしれない。
彼の作品は翻訳されているだけでなく、翻訳についてのものだと考えられるのである。
村上的ストーリーにおける至上の愉しみは、とても普通の状況(エレベータに乗っている、スパゲッティを茹でている、シャツをアイロンがけしている、など)が
突然非日常(不思議な電話を受ける、魔法の井戸に落ちる、羊男と会話する、など)へ変貌するのを見ることだ。
言い換えるならそれは、登場人物が存在論的に盤石な立場から完全な異世界へと投げ込まれ、
たどたどしくも二つの世界の間をとりもつことを余儀なくされる瞬間だ。
村上作品の登場人物はある意味でいつも、根底から異なるいくつかの世界のあいだで翻訳をしている。
言い換えれば、彼の全作品は翻訳の作業を劇に仕立てたものなのだ。
村上の車の後部座席に戻ろう。
多くの企業の本社や、巨大な船のかたちをしたラブホテルを通り越していく。
およそ1時間後、風景は急峻な山道になり、私たちは村上の家に到着した。
木の生い茂る丘の上、山と海の間にある、こぎれいだが平凡な外観の二階建てだ。
靴をスリッパに履き替え、村上に連れられて彼のオフィスへと入る。
自らデザインした小部屋であり、『1Q84』のほとんどはここで書かれた。
同時にそこは彼の膨大なレコードコレクションの住処でもある。
(10000枚くらいだろうが、怖くて実際に数えてはいない、と彼は言う)
オフィスの幅広い壁二つは、床から天井までアルバムで覆いつくされている。
山々に向けて突き出している窓の下、部屋の端には巨大なステレオスピーカーが君臨している。
室内のもう一つの棚には村上の人生と作品にまつわる思い出の品々がある。
彼が『海辺のカフカ』で殺人者として想像したジョニー・ウォーカーを描いたマグカップ。
はじめてマラソンを完走したときの、くたくたの彼を写した写真(1991年ニューヨーク市にて、3時間31分27秒)。
壁にはレイモンド・カーヴァーの写真、グレン・グードのポスター、ジャズの巨匠の肖像がいくつか。
村上がもっとも好きなミュージシャン、テノールサキソフォンのスタン・ゲッツの写真もある。
私はレコードをかけてもらえないかと頼んでみた。
『1Q84』の始まりを告げ、その物語のなかで繰り返し鳴り響く曲である。
それは速く、アップビートで、劇的──まるで普通の曲が5つ、ペンキの缶のなかで決闘しているかのようだ。
同時にそれは熱狂し、ねちねちとした、暴力的な『1Q84』の冒険の主題曲として、もっともふさわしい。
村上はその奇妙さを買って「シンフォニエッタ」を選んだという。
「オーケストラの後ろにトランペットが15人いた。変だった。すごく変だった……その奇妙さがこの本によく合う。この物語にこれ以上よく合う音楽は思いつかない」
彼は何度も何度もその曲を聴いて、そして開幕のシーンを書いたという。
「シンフォニエッタを選んだのはまったく人気がない音楽だったからだった。でも本を出版してから、日本では人気が出た。小澤征爾さんに感謝されたよ。彼のレコードがよく売れたからね」
「シンフォニエッタ」が終わると、私は最初に買ったレコードは何か覚えているかと尋ねてみた。
彼は立ち上がり、棚をごそごそと探して、一枚のレコードを手渡してくれた。
「The Many Sides of Gene Pitney」。
カバーを飾るのは、華やかな姿の Pitney。60年代前半のアメリカのクルーナー歌手である。はまだらのアスコットタイに艶のある赤いジャケットを着て、髪型は崩れ落ちる波を凍らせたようにみえる。
村上は13歳の時、このレコードを神戸で買ったという(当初のものは擦り切れたため、何十年か前に買い直している)。
針を下ろすと、流れ出す Pitney の最初のヒット曲「Town Without Pity」。
劇的な、ホルンの即興とともに Piteny の歌声が黙示録的な叫びを歌う。
「若者にはつらいことがある、たくさんある/分かってくれる人がほしい/助けてくれよ/土と石でできたこの星が壊れるまえに」
終わると村上は針を上げ、「バカな歌だ」と言った。
『1Q84』を書いているあいだ、『1984年』を読み直したかと尋ねてみた。
彼は読み直したといい、それは退屈だったという。
(これが悪い評価だとは限らない。野球のどこが好きかと尋ねた際、彼は「退屈だから」と答えた。)
「始まりはいつも暗く、雨で、人々が不幸せそうにしている。コルマック・マッカーシーの『The Road』は好きだし、よく書けているけれど、でも退屈だ。暗いし、人間が人間を食べるし……ジョージ・オーウェルの『1984年』は近未来小説だけど、この本は近過去小説だ」
『1Q84』について「我々は同じ年を反対側から見ている。近過去なら退屈じゃない」
「オーウェルと僕はシステムについて同じ感じを受けていると思う」と村上は言う。
「ジョージ・オーウェルは半分ジャーナリストで半分小説家だ。僕は100パーセント小説家だ……メッセージを書くことはない。よい物語を書きたい。自分は政治好きな人間だと思うけれど、政治的メッセージを誰かに向けることはない。」
とはいえ村上はここ数年、彼にしては珍しく、政治的メッセージを大々的に言明している。
2009年、批判のなか彼はイスラエルでエルサレム賞を受賞しに行き、そこでイスラエルとパレスチナについて語った。
この夏、彼はバルセロナでの受賞式典の機会を利用して日本の原子力行政を批判した。
一度目はまったくの被害者としてだったが。
バルセロナの演説について尋ねると、彼はパーセンテージを少し修正した。
「市民として言いたいことはあるし、求められればはっきりと言う。あのときまで原発について明確に反対する人はいなかった。だから自分がやるべきだと思った。自分にはその責任がある」
演説に対する日本の反応は概ね好意的だったという。
人々は津波の恐怖が改革への媒介となってくれることを、彼と同じように、期待していたのだ、と。
「これは日本にとって転機になると、日本人のほとんどが考えていると思う」
「悪夢だけれど、変化のチャンスでもある。1945年以来、僕たちは豊かになるために働いてきた。けれどそれはもう続かない。価値観を変えなければならない。どうやって幸せになるかを考えなければならない。お金でもなく、効率でもなく、それは人格と目的だ。いま言いたいことは1968年から僕がずっと言っていることなんだけれども、システムを変えなければならないということ。今は、僕たちがまた理想主義者になるべきときなんだと思っている」
その理想主義はどんなものか、アメリカ合衆国をモデルケースとして見ているのか、と尋ねた。
「いま、僕たちにはモデルケースがない。モデルケースを作り上げなければならないんだ」
地下鉄サリン事件、阪神大震災、そして今回の津波……現代日本の数々の災害は、驚くほどにまで村上的だ。
地下での暴力的な衝動、深く隠されたトラウマが大量破壊を引き起こすものとして現れ、地上の日常を襲う。
彼は深さのメタファーを多用することで知られる。
登場人物たちはカラの井戸に降りていき、東京の地下トンネルに生きる闇の生き物に出会う。
(彼は別のインタビューで、井戸のイメージをあまりに何度も使って恥ずかしくなったため、8作目以降、できるだけ使わないように心がけたと話している)。
毎日机に向かい、集中力に満たされたトランス状態の中で、村上は村上的キャラクターになる。
それは、自らの無意識の洞窟たる創造性を探検し、見つけたものを忠実に報告する、普通の人物である。
「僕は東京に住んでいる。ニューヨークやロサンジェルスやロンドンやパリのように文明的といっていい世界だ。
魔法じみた状況、魔法じみた物事に出会いたければ、自分の中に深く潜るしかない。だから僕はそうしている。
魔法的リアリズムとも呼ばれるけれども、自分の魂の深みのなかでは、それは単なるリアリズムだ。魔法ではなく。
書くときには、非常に自然で、論理的で、リアリスティックで、合理的に感じる。」
執筆しないとき、自分はどこまでも普通の人だと村上は強調する。
彼の創造性は「ブラックボックス」であり、意識的にアクセスすることはできないという。
彼はシャイであり、メディアにあまり登場したがらない。道端で読者から握手を求められた時にはいつも驚く。
人が話すのを聞くほうが好みだと彼は言う。
実際に、Studs Terkel の日本版のようなものとして彼は知られている。
1995年サリンガス事件があったとき、村上は被害者65人と被疑者らを1年かけてインタビューし、
その結果を分厚い2冊組の本として出版した。
のちにそれは『Underground』として、大幅な簡略化をしたうえで英語に翻訳された。
この会話が終わったとき、村上はランニングに誘ってくれた。(「僕が書くことについて知っていることのほとんどは、毎日のランニングを通して学んだ」と彼は書いている)
身軽で、安定していて、実践的だ。
たがいの走り幅がつかめて1、2分たつと、村上は自分が単に「丘」と呼ぶところに行ってみないかと尋ねてきた。
それは試合の申し込みか警告のように聞こえた。
そんな言い方をした理由はすぐに分かった。
というのもまもなく「丘」を登り始めることになったからだ。
もはや走るというよりは、急な坂にさしかかって足をとられているというほうが近く、
地面が傾いたランニングマシーンのように感じられた。
道の終わりに向けて一足踏み込むと同時に私は村上に向けて「大きい丘でしたね」と言った。
そこで彼は指をさして、先にジグザグ道が続いており、私たちはまだほんのひと曲がり目を終えたにすぎないということを教えてくれた。しばらくして、二人の息が切れ切れになってくると、このジグザグ道には終わりがないのではないかと心配になってきた。
上へ、上へ、上へ。
しかし、やっとのことで、私たちは頂上に着いた。
海ははるか下に見えた。
それは秘められた巨大な水世界、日本とアメリカのあいだの、人が住まない世界だ。
その日見たかぎり、水面は静かだった。
そして私たちは下りを走り始めた。村上は村を通る道に誘ってくれた。
大通りのサーフショップ、漁師の家がならぶ界隈を通り過ぎた(彼はそのあたりの庭に古くからの「漁師神社」があるのを指差して教えてくれた)。
空気は湿っていて塩のにおいがした。
私たちは並んで浜まで走った。
村上がかつて名もない翻訳者だったころセントラルパークでジョギングをともにしたジョン・アーヴィングについて話をした。
セミについても話をした。
何年も土のなかで生き、地表にぽっと出て、わめき、最後の数ヶ月を木の上で過ごすのは、どんなに変だろうかと。
走り終えて家にもどると、私は村上の来客用バスルームで着替えた。階下で彼を待つ間、食堂のエアコンの風を受けて立ち、大きな窓からハーブと低い木のある小さな裏庭を見ていた。
最初それは鳥 – おそらくはその飛び方からして変な毛をしたハチドリのようにみえた。
が、すぐに2羽の鳥がくっついているようにみえだした。
飛ぶというよりはふらついているといった感じで、体の一部がそこかしこから垂れ下がっているようだった。
最終的に、それは大きな黒い蝶だと私は結論づけた。
見たことがないほど変な蝶だった。
浮かびながら、異星の魚のようにひらひらしつづけるその姿に幻惑させられ、
私はそれを既知の何かに分類したくなりかけたが、成功することはなかった。
それはひらひらと、およそ村上と私が走った道を引き返す形で、山から海に向けて飛び去った。
蝶が去ってまもなく、村上は階段を降りてきて、食堂のテーブルに静かに腰を下ろした。
見たこともない奇妙な蝶に遭遇したことを伝えると、彼は自分のボトルから水を飲み、私を見上げて言った。
「日本には色々な蝶がいる。蝶に会うのは変なことじゃない」
どうやら村上は、この本のアメリカ版をそのとき初めて目にしたらしい。
日本では『1Q84』は2年を掛けて3巻に分かれて発表された(村上は2巻目で一度終わりにしたが、一年後にもう数百ページ付け足したのである)。
アメリカでは、一巻のモノリスとして組まれ、秋の読書イベントに発表が設定された。
YouTube ではきらびやかなトレーラームービーを見ることができ、
一部の書店では発売日10月25日に深夜営業が予定されている。
Knopf は英語訳を急がせるため、二人の訳者に手分けして翻訳をさせた。
村上にこれほど長い作品を書くつもりがあったかと尋ねると、なかったという。
これほど長くなることが分かっていれば、書き始めなかったかもしれないともいう。
彼はタイトルや冒頭のイメージ(この作品の場合は両方だった)が浮かんだ時点で、机の前に座り、
毎朝毎朝、終わるまで書きつづけるのである。
といっても、この大作はごく小さな種から生まれた。
村上によれば『1Q84』は、人気を博した彼のショートストーリー『四月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて』(英語版では5ページ)を増幅させたものに過ぎないという。
「基本的には同じなんだ」と彼は言う。
「少年が少女に出会う。別れてしまった後、二人は互いを探し合う。単純な物語だ。それを長くしただけ」
筋書きを要約することすら、少なくともこの宇宙で人間言語をもって雑誌の1記事で書くとすれば不可能だ。
青豆という少女が、タクシーに乗って東京の周縁に掛かる高架の高速道路を行く。
そこで渋滞に巻き込まれ、身動きがとれなくなる。
チェコスロバキアの作曲家レオシュ・ヤナーチェクの「シンフォニエッタ」だ。
「渋滞に巻き込まれたタクシーの中で聴くのにうってつけの音楽とは言えないはずだ」と村上は書く。
運転手は青豆に変わった迂回路を提案する。
高架高速道路には非常用脱出口が設置されている、そして、普通の人には知られていない脱出口への階段がある、と彼は言う。
本当に絶望しきっているのであれば、そこから地上に降りることもできる。
青豆が考えていると突然、運転手が村上一流の警告を口にする。
「見かけにだまされないように」と彼は言う。
降りていけば、彼女にとっての世界は根底から変わってしまうかもしれない、と。
そしてわずかではない違いとして、月がふたつあった(ちなみに彼女が遅刻した約束というのは暗殺の約束であったことが明らかになる)。
そしてその世界にはリトル・ピープルと呼ばれる魔法の種族がいる。
彼らは死んだ盲の羊の口(詳しく書くと長くなる)から生まれ、オタマジャクシの大きさからプレーリードッグの大きさにまで育ち、「ホーホー」と合唱しながら空中から透明な糸を紡ぎだして「空気さなぎ」と呼ばれる巨大なピーナッツ型のまゆを作る。
この本ではなかばあたりまで、このように浮世離れしたした超自然的ガジェット(空中に浮かぶ時計、神秘的なセックス麻痺など)が繰り出されてくるので、
私は行間にエクスクラメーションマークを置きたくなった。
この数十年、村上は自身が「本格小説」と位置づけるものを書こうとしていると言い続けてきた。
一例として彼は『カラマーゾフの兄弟』を挙げて目標にしている。
その試みこそが、三人称の幅広い視点から描かれた巨大小説『1Q84』であるように思われる。
怒り、暴力、惨事、奇妙なセックス、奇妙な新現実を抱えた本であり、
偶然ぶつかることになってしまった悲劇にも関わらず(あるいはその悲劇のなかでこそ)、
ひとりの人間の脳に詰め込まれた不思議を提示して、本書は読者を驚嘆させる。
驚きを覚える本の数々をこれだけ読んだあとでもなお、私は村上の本で驚かせられた。
そのこと自体が驚きだったと村上に伝えると、彼はいつものようにそれを受け流し、
自分の想像力を入れたつまらない花瓶でしかない、と言い張った。
「リトル・ピープルは突然やってきた」という。
僕は物語の虜だった。選択したのは僕ではなかった。彼らが来て、僕はそれを書いた。それが僕の仕事」
明晰夢を見ることがあるかと尋ねると、
覚えていられたことはない、という。
目覚めたときには消えている、と。
ここ数年で覚えていられた夢は一度だけ、それは村上春樹の小説のような繰り返す悪夢だったという。
その夢の中で、影のような未知の人物が「奇妙な食べ物」を料理してくれていた。
食べたいとは思わないが、夢のなかでは彼はそれに興味をひかれていて、まさに一口入れようというとき目が覚めた。
2日目、村上と私は彼の車の後部座席に乗り込み、彼の海辺の家へ向かった。
運転したのはアシスタントの一人である身ぎれいな女性で、青豆よりわずかに若かった。
私たちは東京を横切り、青豆が『1Q84』で運命的な下降をした高架高速道路の本物へと向かった。
カーステレオではブルース・スプリングスティーンがカバーした「Old Dan Tucker」がかけられていた。
車中で、村上は冒頭のシーンを思いついたときに考えていた緊急脱出口のことを持ち出した(青豆と同じように実際に渋滞に巻き込まれていたときにそのアイデアを思いついたという)。
実際の高速道路で、小説中であれば青豆が新世界に向けてくだっていったであろう場所を正確に特定しようとしたのである。
「彼女は用賀から渋谷に行こうとしていた」車窓をのぞきながら彼はいう。
「だから多分このあたりのはずだ」
と言ってこちらを向いて念を押すように
「それは現実じゃないけれど」
と付け加えた。
それでも、彼は窓の方に戻って実際に起こった出来事を話すように続きを語った。
キャロットタワーと呼ばれる、およそ巨大なネジが刺さった高層ビルのような建物の前を通り過ぎた。
村上はそこでこちらを向いて、もう一度思いついたように、
「それは現実じゃないけれど」と言った。
日本に滞在した5日間のあいだ、私は村上の東京にいたときとは違って、実際の東京で落ち着くことができなかった。
村上の東京、それは本物の東京を彼の本というレンズで見たときの姿だ。
客席の上の方で二塁打が打たれるたびに注目した(私がもらった天啓にもっとも近いものは、枝豆を喉につかえさせて窒息しかけたことだった)。
また、私はローリングストーンズの「Sympathy for the Devil」とエリック・クラプトンの2001年のアルバム「Reptile」をかけながら、神宮外苑という村上お気に入りの東京ジョギングルートをゆっくりと走った。
私のホテルは新宿駅に近い。そこは『1Q84』でも重要な役割を果たす、交通機関のハブ的な場所だ。
登場人物たちが好んで使う集合場所、中村屋で私はコーヒーを飲み、カレーを食べた。
そしてフレンチトーストとタピオカティーの向こうで東京人たちが交わす会話に耳をひそめた。
そうしてうろつくあいだに、村上小説が極度に意識しているものごと、すなわち、偶然かかる音楽、上昇と下降、人々の耳の形といったものを、私も極度に意識するようになった。
実際、彼の小説中の説明をもとにして料理本を出版した人もいるし、
登場人物が聞いた音楽のプレイリストをオンラインでまとめている読者もいる。
村上は、明らかに喜んだ様子で韓国のある会社が西日本への『海辺のカフカ』旅行を企画したこと、
ポーランドの翻訳者が『1Q84』をテーマにした東京旅行のガイドブックを編集していることを教えてくれた。
村上は読者から彼が生み出したものを現実世界で「発見」したという便りを受け取ることがよくあるという。
たとえば、彼が作り出したと思っていたレストランや店が東京に実際ある、など。
ドルフィンホテルというのは『羊をめぐる冒険』で村上が生み出したものだが、札幌にはそれが複数ある。
『1Q84』の発表後、ありえない名字として作り出したつもりだった「青豆」という名字の家族から、村上は便りを受け取ったという。
ここでの要点と言えるのは、現実に漏れ出す虚構、虚構に漏れ出す現実というものが、
村上の作品についてはほとんどの場合、作品そのものだということだ。
作家活動の初期には、「日本人という呪い」から逃れようとしているとさえ語った。
その代わり、十代の若者として、西洋の小説家の作品を貪ることによって、文学の感受性を培った。
その中にはヨーロッパの古典(ドストエフスキー、スタンダール、ディケンズ)もあったが、
彼が生涯を通して繰り返し読んだのは、とりわけ20世紀のアメリカのある種の作家たち、
レイモンド・チャンドラー、トルーマン・カポーテ、F. スコット・フィッツジェラルド、リチャード・ブローティガン、カート・ヴォネガットなどだ。
処女作に取りかかったとき、村上は奮闘し、標準的でない解決法に行き当たった。
そうやって自分の声を獲得したと彼は言う。
http://www.asahi.com/business/update/0124/TKY201201240616.html 24日のニュース
http://www.meti.go.jp/press/20100820003/20100820003-2.pdf その発端ともいえる二年前の報告書
始まりは、ありがちな汚職だと思えた・・・その巨大プロジェクトの実体は!
1部~2部で内容が重複してるから、ストーリーだけ知りたい人は3部から読むのをお勧めする。図表もあるのでわかりやすい。
これについてのブコメやTwitterを見ていると不祥事を叩いたり、やめた事を批判して55億賠償しろって人も結構いるのだけど、なんかもうそういう問題よりも気になる点が山ほどある。自分の感想をまとめておく。不祥事そのものより、その裏にあるプロジェクト全体や日本の開発にありがちな問題にもっと注目されて欲しいのでそういう視点で書く。
入札前の情報漏れにしても、その後のNTTDとのやりとりにしても、情報漏洩やそれにまつわる金銭の動きは犯罪だ。けどもそれが行われた動機が私利私欲のためだけとは思えない。
共有されるべき情報が共有できるようにされていない。やりとりできるべき情報ができるようにされていない。必要な情報がちゃんと流れていないから、イレギュラーな方法で流れている。特許庁, NTTD, TSOL この三社間のコミュニケーションがどこも投げやり丸投げ気味で、慢性的に情報不足だった感が伺える。ここを改善する必要があるよね。
極秘情報は必要最小限にして、より情報の共有を図るべき、入札前に必要な情報は公開できるようにすべきって報告書でも書かれている。
入札での評価が金額偏重で、マネージメント力を評価してなかったって問題。マネージメント力を評価してないのマジやばい。あ、でもマネージメント力を評価するには、全体を理解できる人材が必要だよね。で、次の問題に繋がるんだけど。
報告書だと、上流の話しか出てこない。だから、「設計もろくにできないで55億無駄にしたのか!」って話になるけど、ちょっと待って。設計しかできない人間が山ほどいても捗るわけがないってことなんだよ。特に、このプロジェクトは既存システムを0から作り直すのだから、既存システムをよく理解して、また既存システムにかかわる技術者とよくコミュニケーションが取れて、それを設計に正しく咀嚼できるスキルの持ち主が必要で、設計しかできない人材ではなく全体を理解できる人材が必要だったはず。
既存システムをちゃんと理解できてない人間だらけになったということが報告書でも繰り返し指摘されてるけど、その根底には設計しかできない人間が山ほどいても捗るわけがないという問題があると思うんだ。
6年?そもそも設計に数年ってのが、もうそういうの無理が来てるって感じ?6年経つ間に色々変わっちゃう。
どうしても、がちがちのウォーターフォールでやるなら、もっと受注も小分けにして、まずは既存システムの仕様まとめプロジェクトから開始するのが良かったんじゃないかな。
6年まとめてどん!だと中断の決断もなかなかできないよね。
これだけプロジェクトが炎上していたのに、汚職がきっかけで調査が入るまで炎上がちゃんと認知されていなかったというのがやばくね?もし汚職が見つからなかったら、炎上のまま・・・
これは国のプロジェクトだから汚職で厳しい調査が入って、プロジェクト炎上まで色々赤裸になったという見方もあるかも。民間だったらもっとなし崩し的に炎上プロジェクトを続行するケースが多いように思う。
もうね、
TSOLによる設計作業は ,平成18年当初60人体制でプロジェクトをスタートさせたが,翌年初めには遅延が 始まったため,順次増員を行い,同19年3月には200人,同年5月には450人体制とした。
(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
TSOLは ,工程の遅れの解消に向けて,大幅な人員の増強でこれに対処しようとし,平成20年11月以降に は 1300人もの体制を整えたが
(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
あたりまえのこと。TSOLでも仕様をしっかり理解してる人は少数だったのに、増員の9割は下請けだったのだから、さらに破滅の様相が想像できるってものだよ。
大量の下請け同士の連携や情報共有がされていなかった。経験やノウハウの共有がなされていなかった。と報告書にある。なんでこうなっちゃうんだろうな。何のためのプロジェクト管理なんだろ。ノウハウの管理はもっと意識されるべきだよ。
人数増やしてプロジェクトが炎上するというのは、お約束すぎる。規模の大小や分野にかかわらず、開発をやった事のある人ならわかると思う。
開発や設計って?という人にもわかりやすいように説明する。
例えば、優れた売れっ子のマンガ家がいて、老練な担当者がついていて、名アシスタントがいて、才能ある若手アシスタントがいて、10人のチームでマンガを描いていたとしよう。一方、大して技術もない凡人を100人集めて、前出のチームと同じマンガができるとかと聞かれたらどう思うだろう?殆どの人はそれは無理じゃない?と思うだろう。1000人でも無理かもしれない。
開発も同じなんだよ、本質的にはね。
でもそう思われにくいのはなんでだろう?それは多分、開発に従事する人にはマンガ家のような才能や際立った技術は必要ないと思われてるからだ。言われた所を言われたようにベタを塗るだけがプログラマの仕事だと思われているからだ。実際それをプログラマなのだと定義している会社もある。技術はお金にならない低俗なものだという偏ったイメージもこの世界には蔓延している。それが上流偏重の問題なんだ。
売れっ子のマンガ家のような設計(マンガで言えばネームや原作)からプログラミングまでこなせる技術者、老練な担当者のようなプロジェクトマネージャ、名アシスタントのような匠のプログラマ、勉強熱心な技術者は実際に存在してる。並以下の人材を倍集めたって100人集めたって彼らと同じものができるわけじゃない。
でも、どんなプロジェクトにもそんなスター的な人材が確保できるとはいえないし、単純な増員で対応できるようにする必要が、日本の大きな会社や大きなプロジェクトではあった。それを可能にするのが分業化だ。工程を徹底的に分業化することで、末端のセクションの習得コストを出来る限り低くし、品質の維持も図る。言い方を変えれば、創作を出来る限り製造にするということ。
それによるデメリットは明確だよね。新しいアイデアが実現されにくくなる。時代の流れの速さに追いついていけない。個々の持っているスキルが生かされない、技術が評価されない。技術者のモチベーションが下がる。なにより、正しい分業化とマネージメントが行われずに盲目的に人数を増やすと、ただただ炎上にしかならないってこと。お金だけが莫大にかかっていくということ。
これは間違いない。
このまま続けていたら、沢山の技術者の尊い人生がデスマに捧げられただろう。数年間のどろどろの煮詰まった成果物は、黒歴史を語るまいとひた隠しに、更なる問題を生み出しながら使われ続けただろう。考えただけで悪夢だ。
このプロジェクトのやりなおしに、どれだけ前回の経験が生かされるのか、そこにこそ注目していきたいと思う。
時間ができたら後で読む
http://www.jpo.go.jp/torikumi/system/system_optimize_re.htm
実際の業務の内容がある
http://myatsumoto.hatenablog.com/entry/2012/01/26/082554 良いまとめ
最近TPPについて知りたいけど何の本を読んだらいいのか分からないという人がTwitterに散見されるので
TPP賛成派も賛成の立場から何かお奨め本があればお奨めの本を付け加えていくといいかも
必須2冊(TPPについて考える前にアメリカのこれら有名経済学者の影響を受けた人達がどう考えるか
ということを感じておくべき)
「フリーフォール」グローバル経済はどこまで落ちるのか スティグリッツ 定価1800円+税
経済学部以外の人が初めに読んでおいた方がいい本(下に行くほど読みやすい。ただし教科書に書いてあることを
そのまま鵜呑みにしないこと )
「スティグリッツ マクロ経済学」といいたいけど・・・5040円と高いので余裕があれば
ナツメ社の「図解雑学 マクロ経済学」1365円をおすすめしておく
「アメリカの高校生が学ぶ経済学」クレイトン 2520円(「比較優位」について分かりやすく書かれている)
何を守るべきなのかというラインを見極めるための1冊
「ルポ貧困大国アメリカ」堤 未果 735円(アメリカとメキシコがFTAした結果生まれた悲惨な状況やアメリカの貧困構造詳細 2巻はまだ未購入)
現代農業 2011年4月号の関良基さんが書いた「飢餓を生み出すTPP」という記事 バックナンバー800円+送料120円
アメリカのやり口について読んでおきたい2冊
「売られ続ける日本、買い漁るアメリカ」 本山美彦 1300円+税
「仕掛け、壊し、奪い去るアメリカの論理」原田 武夫 税込1500円
その他目を通しておいた方がいい2冊
風邪をひいて熱に浮かされて、こわい夢をみた。
その夢の中で、僕は大きな金属の箱を作る任務を与えられた。一辺2mから3mくらいの立方体で、骨組みを組み合わせて、金属板を貼り合わせて完成する。しかしながら、その箱を作る目的は分からない。むしろ、出来上がる度に怖い監視人から、「何の意味もない箱を作りやがって!」と罵倒されて、せっかく作った箱を叩き壊されてしまう。箱が壊されたと思ったら、また監視人から箱作りを命じられる。僕の周りの世界が、壊れた箱の残骸で埋めつくされ、それでも逃げられない。どこまで続くか分からず、気が狂いそうになる。
真夜中に、うなされる自分の声で目が覚めた。頭が痛くて、動けない。再び眠りについたら、またこわい夢の続きがやってきた。真夜中、なんども目が覚め、その度に同じ夢に引きずりこまれた。悪夢の夜は果てしなく長く感じられた。
まどマギについては、既に山のような論が出ているが、個人的には、どんな理屈をつけようと、「きちんと作ってある事」につきると考えている。脚本にしたって、演出にしたって、ありきたりなクリシェに依存せず、必要な事を必要なだけ作成し、丁寧に作り上げたことが、あの作品を十分鑑賞に耐えるものにしている。その中から、今回は副題を取り上げてみたい。
通常、副題を付ける一番簡単なやり方は、その回のアウトラインをまとめてしまうこと。その方法は、モーニング編集長によって、まとめられている( http://togetter.com/li/58023 )。
まずは比較として、セーラームーンの副題上位12話を挙げて見る。
とまあ、大体その内容を示唆する単語が含まれ、舞台、または主題がおおまかにわかるようになっている。
これと同じ手法をまどマギに当てはめてみると、こんな感じになる。右には比較として実際のタイトルをつける。
見ればわかる通り、実際のタイトルは何も作品内容を示していない。タイトルだけでは、何が起こるのか、いっさいわからない。じゃあ何から付けられたかと言えば、作品の中で登場人物の感情を最も表現するセリフから取られている。
ということは、サブタイトルについては、おそらくは最初に仮タイトルがつけられ、最後まで脚本が書かれた後から、改めて付け直された思って良い。つまり、一度サブタイトルを再検討する時間がきちんと割かれているという事だ。それだけ適切な時間をかけた作品である事がこの事からわかる。
こういう事が、「作品に手を抜かない」ということなのだ。
技術系では自分が素人だという自覚があってだんまりの人も、なぜか法律系は自分が素人だという自覚が無くなるようで。
はてなブックマーク - asahi.com(朝日新聞社):サッカーボール避け転倒死亡 蹴った少年の親に賠償命令 - 社会
tama_lion 「ボールが道路に出て事故が起こる危険性を予想できた」えええーだったらゴール置いた学校の責任じゃないの?つーか87歳なんて...いややめとこ 2011/06/2826 clicks
「予想できた」のはサッカーボールを蹴った人。なので責任は一義的にはサッカーボールを蹴った人にある。id:tama_lionは、自分の敷地内で遊んでる人間が他人に怪我を負わせたら、その責任が真っ先に自分に振りかかると思っているんだろうか?
napsucks 87って・・・もう寿命じゃんw 社会的生産性もないし命の残存価値など皆無だろw それに1500万って・・・頭おかしいわ 2011/06/284 clicks 40
1500万円も逸失利益があるわけ無いと思いながら、1500万円が逸失利益だと思っているという。ばーか。
solt-nappa ため息, 社会 うかうかサッカーの練習もできないよのなかになるな。イヤダイヤダ。 2011/06/28 18
半分正解。だがうかうかにも程がある。例えば公道を挟んでキャッチボールしたら「うかうか」じゃ済まされない。程度問題であり、遊ぶ側としては公道にボールを出さないべきだろう。
akawi フリーキックでホームランしたら人殺し呼ばわりされた挙句1500万? どう考えてもおかしいだろ 2011/06/2816 clicks
「どう考えても」の「どう」は空集合。「フリーキックでホームランした」というから悪くないように見えるが、「公道にサッカーボールを出したら交通事故が起きた」場合に何も悪く無いと思うのだろうか?
nextworker 普通、こういうときは学校の管理責任を訴えると思うんだけど、遺族はどうして少年を被告にしたんだろう。少年の両親が金持ってたのかな。 2011/06/28 56
それは「普通」じゃない。少なくとも民法の原則から言えば、責任追及は一義的には過失行為を行った者に対して行う。それが少年であるがために714条で両親に追求したわけだ。過失行為の主体ではない学校の管理責任を問うのが寧ろ裏道であり、学校=市町村からは取りっぱぐれないからという、まさに金のために殴る相手を広げる例。
しかも「少年を被告にし」てもいない。記事を見ろよ。「両親に」支払いを命じたって書いてあるだろうがよ。
こんな何一つ正しくないコメに☆が大量についているのはまさに集合恥。
お前は公園で遊ぶとき、公道にボールを出すなと教わらなかったのか?
過失はある。そして、「ある」ならば、1だろうが100だろうが、損害賠償責任を負う。被害者に過失がない以上、過失相殺はされない。
toronei news, 社会, soccer, sports これ少年側の責任なの? むしろ学校側の安全責任が問われるべき例じゃないの? これではもう子どもに球技なんて親は怖くてさせられないよなあ。 2011/06/28
少年側の責任だろ。少年側に過失がなかったらどうして学校側に責任があるんだよ。
学校側に責任があるとしても、それは少年との共同不法行為ということになるから、少年側の損害賠償責任はびた一文免れない。
Kou_RYU 社会, 裁判, ため息 東電の原発事故でも助け舟がでるのに、19歳がボールを蹴ったら1500万円支払えと言われる国ニッポン。年寄りを狙って蹴ったわけじゃないんでしょ? 2011/06/28
年寄りを狙ってないから過失が無いと?ってかボール蹴ったの19歳じゃねーよ。19歳だったら両親じゃなくてガキに直接請求だっつーの。
sasurai7 裁判, 事故 裁判を起こすのなら、サッカーやってた少年より、学校の施設管理責任(ゴール裏にボール飛び出し防止用のネットを張る必要があったか等)が問われるものでは? 2011/06/28
前述の通り。つーか、加害者より加害者が利用してた施設っていうその発想が馬鹿。
kz78 自分ちの庭で壁打ちでもやってたのかと思ったら、校庭でゴールに向かってボール蹴ったのか。それで賠償責任が発生するのはきつくないか。 2011/06/2813 clicks
自分ちの庭と校庭で何が違うんだよ。
相当因果関係の認定は微妙ではある(後述)。が、全然関係なくはないだろ。
Cai0407 これはひどい なんでボール蹴った少年の責任が問われるの?学校の管理責任のほうが大きいと思うんだが。しかもボール避けて転倒→骨折→認知症発症→誤嚥性肺炎で死亡→1500万賠償とつなぐのは無理じゃね? 2011/06/2838 clicks
「のほうが大きい」とか言ってる時点で馬鹿。共同不法行為だから学校と少年の両者が全額の損害賠償責任を負う。つまりどっちが大きいとか関係ない。
施設管理「も」問題になりうるに過ぎない。
bbk0524 これはひどい 87歳が街中でバイク乗り回すことの社会的責任は一切問われないのかよ。老人のゴネ得社会だなこの国は。 2011/06/28 67
なんで87歳(86歳だがな)が街中でバイク乗っちゃいけないんだ?
redfox2667 87歳で認知症になったのが子供のせいか? 因果関係が怪し過ぎ。 2011/06/2833 clicks
あとで書こうと思ったが、ここで書いてしまおう。今回の件と関係なく、しゃっきりしてた老人が骨折して歩けなくなった途端に認知症を発症するというのは、かなり頻繁に見られる症例だ。そうすると「認知症になったのは骨折のせい」とは言いうる。そして今回の骨折は少年のせいだから、事実的因果関係は肯定できる。
ただし87歳ともなればもともとボケやすい状態にあったといえる。それゆえ「被害者の素因」によって722条2項の趣旨に照らして損害額を減じたのだろう。記事にそれらしき言及がある。
絶対おかしいとまでは言えない。もちろん報道を鵜呑みにしない姿勢は良いのだが、存在しない情報を求めるだけでなく、報道の意味を正しく咀嚼することも必要だ。
いやいや、(ボケ→窒息はともかく)事故ぐらいは予測しろよ。公道にボール出したら事故ぐらい起きるわ。「ゴールに向かって蹴ったボールが外れるわけがない」ってか?日本代表になれよ。
hatomaguro これはひどい 転倒→骨折→入院で認知症進行→誤嚥性肺炎→死亡の流れはよくある話。"学校"側が転倒までの責任を負うなら判るけど。。。 2011/06/28
なぜ加害者をおいて真っ先に学校側になるんだよ。その方がわかんねーよ。
chi-bit これ重いよなぁ。これじゃ外で遊べなくなる可能性があるし、それを言うなら小学校側の責任は? 2011/06/28
前述のとおり。あるとしても共同不法行為。
okgwa 酷なようだが、87でバイクに乗るリスクを過小評価してた遺族側の過失のほうがよほど大きいと思う。しかしこの判事、事故と認知症との因果関係をよく認めたなあ。司法の常識ではあり得ないという印象。 2011/06/2813 clicks 67
87でバイクに乗ることが「過失」だって?んなわけねーだろ。「司法の常識」とかいうんなら参酌できる「過失」の意味を理解しとけよ。
ERnanchan これって、賠償命令ひどくねえ? 少なくとも記事の文面だけからみれば。トンデモ判決かどうかの第三者評価が必要そうな第一印象。 2011/06/28137 clicks
賠償「命令」?少なくともお前に「第三者評価」は無理だな。
pwiser これで1500万円はヒド過ぎで加害者は不可抗力、学校で練習中にボールが外に出たってことなんだから払うのもどうかと思うわ。それ以前に87歳でバイク運転してた爺さん側が一番落ち度あるから被害者側屑過ぎて笑えない。 2011/06/28
不可抗力の意味を調べて出なおせ。1500万円「は」ヒド過ぎっていうんなら1万円なら良いんか?それなら不可抗力じゃねーよな?
つか何で「学校で練習中にボールが外に出たってことなんだから払うのもどうかと思う」んだよ。練習無罪ってか?
ちげーよ。本田だって外しまくってんだろーが。「せめて公道にボール出すな」だ。
suyntory_junnama jiken p なんて判決だ!! 少年の行為より、87歳でバイクに乗って出かける行為の方が問われるべき。何故家族はバイクに乗る事を止めさせなかったのか、何時か他人を巻き込む事故につながると予測しなかったのか。其方の方 2011/06/2810 clicks
何を「問われる」ってんだよ。他人を巻き込む事故?他人に巻き込まれたんだよ真逆じゃねーか。
shukaido170 asahi, education 子「ママ、サッカー行ってくる」母「サッカーなんかして誰かに怪我させたら大変だから、DSやってなさい!」な世の中になるんだね…。 2011/06/2813 clicks
nippondanji さっぱり理解できない。入院生活が認知症に悪影響を及ぼしたのなら病院を訴えるべきだろ。老人が入院したら認知症になるなら誰も入院出来なくなるだろ。 2011/06/28143 clicks
ftype パソコンでニートになったのでパソコン会社を訴える、オンラインゲームで人生失ったので運営を訴える、2chで人生棒に降ったのでひろゆきを訴えることもできるようになりますか? 2011/06/28 19
ぜんっぜん関係ないじゃん。
BRITAN 極論、校庭から出るのを防げなかった学校の柵が悪いんじゃないの?飛ぶ方向制御なんてプロでないと無理だよw 2011/06/2821 clicks
そう思うんならそんな場所でサッカーするなってことだ。学校が悪くて少年は毫も悪くないってか?ばーか。
TakamoriTarou 社会, 事故 訴えるなら子どもじゃ無くてネットを張ってなかった学校側なんじゃないかな。子どもが蹴ると超える事が予想できるような状況なら、学校側がそういう状況を予想できるはずだし回避義務があるような気がする。 2011/06/28
rakko74 普通に考えれば学校の責任となるはずだが、どうしてこんな判決になるのかよくわからん。 2011/06/28
mmsshhrr これはひどい 「蹴り方によっては道路に出ることを予測できた」( ゚д゚)ポカーン 2011/06/2814 clicks
お前は予想できないのか?
hi_kmd これがアリなら傷害事件も殺人事件に出来そうな気がするぞ。 2011/06/28
しねーよばーか。民事だし過失だし、何一つ記事と関係ないだろ。
naga_sawa そもそもボールが存在する以上、道路にボールが出る可能性は0にはならない/すなわち、急いで全国の学校・家庭・販売店etcからサッカーボールを撤去しろ!間に合わなくなっても知らんぞー!! 2011/06/28
いや0になるだろ。
You-me 事故, 司法 これはもし事故の責任を問うなら、損害の公平な分担を求めるなら両親じゃなく施設管理者じゃないかなぁ/老人の歩けなくなるような事故と痴呆の関係は割と認められてたような気がしなくもないけどどーだったろ 2011/06/28
だから施設管理者はせいぜい共同不法行為責任。被告になってないなら不真正連帯債務だから施設管理者なんて出てこない。「損害の公平な分担」「施設管理者」なんて言葉を使ってみても、民法知らないのな。
「どんなに」は空集合。
shinkichi1986 記事まとめ このガキに罪があるわけ無いだろ、しかも当時小学生だぜ?むしろ学校側の不十分な安全対策が原因だな。だいたい運動場ではボールで遊んでる生徒が多いのに学校の囲いの金網って低いんだよなぁ。しかも外は通勤道路。 2011/06/28
10歳ともなれば、ボール遊びについて、責任を弁識する能力は書くとしても、事理を弁識する能力はある。
kaeru333 これはひどい, 裁判 裁判官は世界がどんな感じで見えてんだろ・・・ それにしても、なぜ遺族は少年を訴えたんだろ。 2011/06/2845 clicks
被告は少年じゃなくて両親な。そしてそれは極めて当たり前の話だ。加害者は少年なんだから。
ze-ki news 色々おかしい。だいたいバイクの87歳男性、足骨折しただけなのになんで認知症と結び付けられてるのか分からん。どういうロジックだよ。 2011/06/2864 clicks
お前は認知症をどれだけ知ってるんだ?前述のとおり、骨折から認知症発症はかなりよくあるパターンだ。
weekly_utaran なぜ学校側の施設管理責任ではないのか、そもそもこの年齢でバイクに乗ることによる事故の危険性は?高裁で逆転判決が出て欲しい、そうしないと全国の学校の校庭でサッカー禁止になる 2011/06/28112 clicks
原告が少年の過失責任を問うたから。問われてないことについて裁判所は答えてはいけない。被告でもないのに急に賠償責任負わせられたらおかしいと思うだろ?
W53SA これはひどい 「判決は『蹴り方によっては道路に出ることを予測できた』と指摘」裁判官の常識のなさに危機感を覚える。学校ではなく親を責める遺族側の発想を是認するのもおかしい。 2011/06/2814 clicks
いや、ボール遊びするときは公道にボール出さないように気をつけるのが「常識」だろ。お前の常識のほうが実害付きで危険だよ。
そして学校ではなく親を責めるのが民法の原則。なんで場所貸してただけで、蹴り出した張本人(の代位責任)を負うのか、そっちの方が例外的な考え方だ。
kumakuma1967 わからん, 児童の権利侵害 100%少年に責任がないとこの額は出ない気がするが、ボールから死亡まで予期できる裁判長はニュータイプか?事故は愛媛なのになぜ大阪地裁?田中敦裁判長名でググると信楽事故のトンデモ判決も出てきた。http://goo.gl/AVqzd 2011/06/28
100%じゃなかったって記事に書いてあるだろ。
つーか裁判所の管轄について疑義を呈してる時点でテメーのほうがよっぽどトンデモだよ。管轄は民訴法で細かく定められているが、今回はおそらく不法行為の結果(死亡)発生地だろう。不法行為においてはできるだけ被害者に都合よく管轄を認めるのが民訴法の立場で、その立場はまったくもって正当だ。
as62 民事は、一方の主張に対して他方が否定主張をせずにほっとくと事実認定されてしまうから、単に少年側の法廷戦略が下手すぎなだけなような。常識的に負けるわけねえと弁護士つけてなかったとか、あるんじゃないか? 2011/06/28
7年もかかってるのに弁論主義で処理ってのは無いだろ。まして本人訴訟なら求釈明する。
toaruR 少年や両親に過失があるなら、爺さんとその家族にもありそうなもんだけど。せめて、学校のせいだろ……地裁にしても酷い 2011/06/28
なんでそこで「せめて、学校のせい」がボール蹴り出した奴より先に来るんだよ。
「使えばいい」って、使えねーだろ。まさか民事に裁判員制度導入しろってか?悪夢もいいとこだ。
iwamototuka 裁判, 事故 そこまで小学生(当時)個人に責任持たせるのかよ。うかつに校庭でサッカーもできないな 2011/06/289 clicks
責任の主体は親、な。
nobuharasawa バイクでこけて死んだのかと思ったら、足を折っただけ。それで1500万円はあり得ん RT@ 2011/06/2810 clicks
「足を折っただけ」なら「1500万円はあり得ん」のに、なんで「足を折っただけ」で「1500万円」の判決が出たと思うんだ?
yukimi1977 これはひどい ボールが原因で死亡事故を起こしたわけじゃないのに。もしそうでも学校の過失で少年じゃない。ぐぐったらこの裁判官、別の判決でも因果関係が?な過失を認めてる。 2011/06/28
少年じゃないって理屈がおかしい。過失がなくってボールが公道に出るかっつーの。そんなんで責任負わされてたら校庭でボール遊び禁止だろ。
Sophitia 「蹴り方によっては道路に出ることを予想できた」のは、ボールを蹴った本人じゃなくて、そんな環境下で蹴ることを許した学校側の責任でしょ。その辺りを取り違ったおバカな判決。絶対控訴すべき! 2011/06/28
いや、本人だろ。なんで本人が予想できないと思うんだ?
また馬鹿か。
これはその通りで、結構な人が東電から賠償もらえるんだよ。東電のせいで倒産とか自殺とか、ちゃんと賠償請求できるってことをアナウンスしてたらもっと減ってるはず。
daisuk-com *その他, 裁判 どう考えてもこれはひどい。施設管理の学校じゃなくて子供側を訴えたのかわからん。 2011/06/2812 clicks
suzuki_kuzilla 東京電力が原発放置したせいで就職活動が長引き巨額の交通費支払いと長期にわたって授業を受けられないという損害を受けました。って訴訟する? / asahi.com(朝日新聞社):サッカーボール避け転倒死亡 蹴った少年の親 2011/06/28
これはちょっと無理筋かも、と思う。
snowdrop386 司法 おかしな判決だ。事故と死因の相当因果関係がなく、さらに学校管理下での行為によるものなのに保護責任を親と安易に決めている点が特におかしい。 2011/06/28
いや、保護責任じゃなくて714だから親なんだろ。子どもの居場所ごとに714の主体が変わるとでも?
Marin_MTB 事故, 裁判, これはひどい これ認めちゃダメでしょう。校外にボールが飛び出さないような校庭をつくるしかないじゃん。 2011/06/2811 clicks
程度問題ではあるが、そういう校庭が普通だろ。ゴールの方向に出口があるわけじゃなければ、出口方向に転がったボールは大して勢いは無く、外に出る前に走って追いつく。
NOV1975 司法 これは検察と弁護側とどっちの質が悪いの?司法と併せて三冠王か? 2011/06/2868 clicks
hk2mr_hu 社会 サッカーボールを避け転倒→足を骨折→認知症になる→食べ物を気管につまらせ死亡。これでどうして死亡責任まで問われるかが理解できない。しかも問われるとしたら少年の責任ではなく、学校の管理責任だろう。 2011/06/28