本当に甘えてるやつは
早く社会復帰して働きたい。お世話になった人たちに恩返ししたい。でも、頭ぐちゃぐちゃで、毎日幻覚とか幻聴見たり悪夢にうなされながら結局求人誌をめくるだけで終わってる。
死にたい死にたいと思いながら家具に頭ぶつけながら勉強して、集中できなくなったら頭ぶつけて、でもぜんっぜん社会の水準に達せない。
人に甘えてばっかりいて、生きてる価値なんて欠片もない人間ってこういうので、どこも雇いたくないよな、って思いながら毎日タウンワークめくってる。
なんてことはしない。
一般論ではないと思うけど。
25才の時につきあってた子には、結婚する気がないって言って別れたんです。
それなりにモテてた気もしてて、でもまだ1人前じゃないから結婚は嫌だと思ってて。
んで仕事に集中して気づいたら30才になってたんです。
なんか1人前になってきた気がするし、結婚もいいなと思えるようになってきて、
彼女が欲しいなとか思っていたけれど、人を好きになる感覚とかわかんなくなっちゃってて、
合コンとか行って、その後2人で会ったりすることもあるけど、特に発展せず(手を出さず)見送って終わり。
もう好きになるとかわかんないなぁと思ってたら、社内の女の子に恋してしまったんです。
最初はあんまり興味なかったけど、いつの間にか惹かれちゃって、好きになって、手をつなごうとしたら拒否られて。
その後、2人で合ったときにちゃんと振ってくださいって前フリしてから告白して振られて。
もう終わりかなぁと思ったら、メールで誘われて一緒に企画考えたりして。
その子は他の相手からも告白されてて、どっちにしようか迷ってたみたい。
おれはもう振られてるってのもあるし一緒にいれるだけで楽しかったというだけだった。
好意のある言葉に浮かれたり、でもダメなんだろうなぁって沈んだりのくり返し。
でももう好きになっちゃったから、想いを伝え続けるしかないじゃない。
で、他の相手に決めたからと言われて、また振られることに。
でもまたメールが来てゴハン食べにいったり一緒に仕事の分析手伝ったり。
どっちつかずのあの子に振り回されてるのはわかってる。
けど好きになったらバカになっちゃうよなぁ。
なんか純粋に想い続けてる自分ってのは、結構いいんじゃないかと思うんだけど。
要するに30代になっていきなり恋愛しようとしても失敗する、
場合もあるというたいしたことない話。
ネット上で―特に最近になって―アニメにおける「神作画」と呼ばれる類のシーンに対して。
好意的な意味合いを込めて「ぬるぬる動いている」という感想をよく聞くようになりましたが、正直言って違和感があります。
何故ならアニメーターにとって、この「ぬるぬる動く」という言い回しは『貶し言葉』に他ならないからです。
まずはこの2種類のGIFアニメを見てください。
A http://dl6.getuploader.com/g/kusosure/204/ball-A.gif
B http://dl6.getuploader.com/g/kusosure/205/ball-B.gif
この両方の「球体が弾む」様を表したアニメ、AとBどちらの方に説得力や生理的快感(見ていて気持ちいい動き)を受け取る事が出来たでしょうか?
概ね、Aの方ではないでしょうか?
Aの動きも大概ウソっぽい所あるのですが、少なくともBの方に生理的快感を得る事はないと思います。
どちらも枚数・秒数・描画の出来など同一条件下で作成しましたが、それでもタイミングだけでここまでの違いが生じます。
そしてこの2つで「ぬるぬる動いて」いるのは、Bの方を指して言われるものです。少なくともアニメーターにとってはそうです。
タイミングに対して無頓着なもの、整合性もなければ閃きも無いもの、そういったアニメーションに対して侮蔑の意味を込めて「ぬるぬる動いている」と言います。
「完成度の高いアニメーション」を目指す場合、ぬるぬるした動きなど作ってはいけないのです。
ただ演出的な要求で、例えば超スローモーションだとか、巨大質量の物体が迫ってくる様などを表したい時は、Bのタイミングを優先させる"場合"もありますが
そういうのでは無い限り、アニメーターは常にAのタイミングを求めていくべきなのです。
実写かと錯覚するようなリアルな動きでも、現実にはありえない大迫力のアクションシーンでも、
生理的快感、見ている人を興奮させるようなエネルギーを持ったアニメーションはAのタイミングによって作られているのです。
これは動画枚数の多い少ないの問題ではありません。
1カットに何百枚費やしても駄目なものはありますし、ほんの数枚で多大な説得力と快感を内包したアニメーションもまた多く存在します。
偉大なるアニメーターの一人、グリム・ナトウィックは「アニメーションのすべてはタイミングとスペーシング(間隔)だ」と言ったそうですが
アニメーターという職業はすべからく、この「タイミングとスペーシング」に命をかけていると言っても過言ではありません。
少しでも素晴らしいアニメーションシーンを作るために、カメラ等を使って実写映像を参考にしたり、過去の素晴らしいカットを参考にしたり、
意地でも自分の実力内(あるいは超えるべく)でどうにかしようとしたり、インチキな手段で手軽にらしく済ませようとしたりする場合でも
「タイミングとスペーシング」に最大の神経を使えるようでなくては、アニメーターとしては失格なのです。
Illusion of Life(生命を吹き込む魔法)は、死んだようなタイミングとスペーシングでは宿らないのです。
そこに来て、アニメーターの仕事ぶりを称える言葉として「ぬるぬる動く」などと言うのは
いささか無神経が過ぎるとおもいます。
なってない駄目なアニメーションに対して「ぬるぬる動いてる」と貶すつもりで使ってるのならまだ分かります。
「ぬるぬる動いてて何か変、気持ち悪い」という酷評の意味なら、我々は甘んじて受け入れますが
「ぬるぬる動いていて凄い!」というホメ言葉として使われているのには、アニメーターの身としてはどうしても理解に苦しみます。
ただなんとなく凄い!と思ったアニメーションに対して、まだ他に言いようはあると思います。
カッコイイ、迫力がある、イカしてる、超リアル、綺麗、センスがある、ハッとする、興奮する、味がある
何でよりによって「ぬるぬるしてて凄い!」なのでしょうか・・・・・。
こんな観る側に関係ないだろうアニメーターの苦労を知った上で気を使って言葉を選べ、等と言うつもりは(少ししか)ありませんが
ちょっとだけでもアニメーションの作画に、何かしら心が付き動かされたのなら、「ぬるぬる」で片付けるのは出来れば止してほしいと、そう思うのです。
何年かして、統合失調症ではなく発達障害ではないかと言われた。
発達障害だということは知能検査を受けて分かったが、自助グループは肌にあわなかった。
引っ越しなどを繰り返しながら、精神科には結局どうしてもかからないといけないような状態で、引っ越した先々で病院に行った。
何か色々言われてきた。
また引っ越して、今度は薬なしでやっていけるかと思ったけれど、結局無理で病院にすがる思いで予約を入れた。
で、診察は結構先なんだけど悶々としながら毎日をただ無為に食いつぶしている。
こうやって毎日過食を繰り返して吐いて下剤飲んで手首切って、親とかの幻聴とか幻覚に怯えたり、できるはずのことができなかったり、集中力が無かったり、眠れなかったり。
自助グループをジプシーしていたときに、「似非発達障害」と吐き捨てられて、初見の知能検査で嘘なんかつけるかと思って生きてきたはずなのに、今は
「もしかしたら自分は無意識に虚偽の回答をしてしまったのかもしれない」と思ってしまうようになった。
親からも「普通の子だ」と言われたり、「早く普通に戻りなさい」と言われたりして、意味が分からない。
それって全部自分が甘えてるからなのかな、と今日も新型うつの特集を見て思った。
病院行ったら新型うつだ、と言って「お前は甘えてるから早く死ね、その方が社会の為だ!」とか一喝して、自分に恥をかかせてくれないかな。
早く社会復帰して働きたい。お世話になった人たちに恩返ししたい。でも、頭ぐちゃぐちゃで、毎日幻覚とか幻聴見たり悪夢にうなされながら結局求人誌をめくるだけで終わってる。
死にたい死にたいと思いながら家具に頭ぶつけながら勉強して、集中できなくなったら頭ぶつけて、でもぜんっぜん社会の水準に達せない。
人に甘えてばっかりいて、生きてる価値なんて欠片もない人間ってこういうので、どこも雇いたくないよな、って思いながら毎日タウンワークめくってる。
服絞ってたら指の皮めくれた
いや、この二人は普通に幸せ~に暮らすと思うよ。近所の人が「羨ましいご夫婦ねぇ」って言うくらいには。
お互いベストな相手を見つけたんだし。
世の中そんなもんだよ。
負担にならないように、なんて考えていたら男の楽しみもなくなる。
男の喜びって、自分の女の望みを叶えること。
何も望まない女といたって何もしてあげたいと思わないし
してあげたいことを申し出てもいらない必要ない気持ちだけで嬉しいなんて言われてさ。
邪魔しない、ってのは、かまわない、ほったらかし、とある意味同義。
つまんない。
半分は「全部変わったほうがいい」と思いながら、残りの半分は「文化はもっと多様であったほうがいい」という意見もあり。
我々は常に時間というものに追い立てられて強制的に歩かされているんだから、その歩みを止めることは許されないし、仮に歩みを止めたとすれば、そのときは時間に追いつかれて、後ろから轢き潰されるだけじゃないかと思うんですよ。
だったら、誰かは先に見える景色を見なければならないし、誰かは後足を前に運ばなければならない。
「みんな変なら変ではない」って感じか。
みんな同じ病気ならそれが病気だと気づかない、「ウィルス進化説」の文化人類版みたいな。
結婚した夫婦みてて、凸凹具合に「ああ、お互いのダメなところが意識の死角で決定的に気付けないからうまくいってるのね」と思うことがあるのだけれど、自分自身(影、ね)にさえ気付けない彼等は幻想としか交われないんじゃないかな?
自分自身を含めた「他者」への認識の作法そのものの変化、があるのかな。
それが社会構造の何を写した結果なのか、という部分を考えていくとおもしろいのかもね
個人的には「なにものか」になることを強要された果てに「なにものにもなれなかった」と自分自身を見限り続けることしかできない人達の慟哭に見える。