はてなキーワード: 対峙とは
ドラクエの「勇者」はざっくり説明すると「魔王」と対峙するものである。
まおゆうは言わずもながであるが、転スラの「勇者」と「魔王」の関係はドラクエに近い。
ドラクエといえば「勇者」と思われがちだが、「勇者」が主人公のナンバリングは 1、3,4,11 と少ない。8 や 9 に至っては「勇者」の概念がかなり希薄だ。
また、先ほど述べた「魔王と対峙する勇者」も厳密には 3,4,5,10、11 のみとなる。
最新作の 11 は「勇者」らしい勇者であるが、作中では追われる立場にある。
「勇者」を職業として見た場合、デイン系の魔法やベホマズンが使えるのが特徴だ。ただし、「勇者」だけが使える特権というわけでもない。また、「勇者」のみが装備できる武具が存在し、それが「勇者」の証でもある。
ほぼすべてのナンバリングに言えるがドラクエは「勇者」というよりも「血統主義」の方が濃いと思う。
作中のセリフから推測するに、主人公以外にも「勇者」が旅立っているようだ。
1 同様にロトの子孫であることが重要視される。「勇者」として扱われることもあるが、物語上は「ローレシアの王子」としての立ち回りが殆どである。
サマルトリアの王子、ムーンブルクの王女もロトの末裔であるが、ロトにまつわる武具を装備できるのは主人公であるローレシアの王子だけである。
オルテガもその子も、魔王バラモスの討伐に旅立つことから「勇者」と呼ばれるのだろう。
生まれながらに特別な力を持っており、勇者にしか装備できない武具がある。
4 と同じく天空の勇者のみが「勇者」であり、それを探すのが主人公の目的となる。
ダーマの神殿で転職できる。特定の職業を習熟すれば、誰でも「勇者」になれる。
ただし、主人公は他のキャラクターよりも「勇者」になる条件が緩い。
主人公は「勇者」ではないが、伝説の武具を装備できるなど、5 までの「勇者」に近い特性を持つ。
6 同様に「勇者」は職業の一つ。ただし、6 のように主人公が勇者になりやすいなどの遊具処置はない。
主人公のみが装備できる武器が存在するが、6 程に特別感はない。
主人公はデイン系やベホマズンが使えるので「勇者」的なポジションだが、作中ではドラクエ的な「勇者」の概念は存在しない。
クリア後に「勇者」と呼ばれるシーンがある。3 のラーミアと同一とされるレティスとの関わりや、裏ボスが竜神王であることから、これまでのナンバリングに則り「勇者」と呼ばれているような気がする。
転職システムはあるが、6、7 のような職業としての「勇者」も存在しない。
天使であるため人間ではないが、天使として特別な血統を有するわけではない。
主人公は「勇者」ではない。基本的には、人間以外の種族で冒険を行う。
生まれながらに特別な力を持つ、さらに亡国の王子と属性てんこ盛り。
デイン系やベホマズンが使え、専用装備も存在するなど、システム面でも過去作の「勇者」の特性を有している。
ただし、物語上は追われる勇者で必ずしも讃えらる存在としては描かれていない。
まとめてみると、元増田のイメージするドラクエの「勇者」は 3,4,5 ではなかろうか。
ただし、5 は主人公ではないけども。
三浦先生の訃報を聞いてから時間が経ったが、ショックすぎて気持ちがまとまらないのでここに吐き出させてほしい。
リョナ趣味の後輩から「主人公のやられが多くて興奮するから見てくれ」と勧められて以来頭にはあったが、グロが怖くて読んでいなかった。でも受験を終えて燃え尽き症候群に陥っていたから、この際フヌケの自分を変えてくれるならグロでもなんでもいいかと思ってなんとなく1巻を手に取った。
なんだ、この漫画。主人公がめちゃくちゃやさぐれてるじゃねえか。自分の巻き添えになった爺さんのことも何とも思ってなさそうだし、美少女が建物から落ちそうになってんのに助けないのかよ。
ジャンプ漫画の清く正しく美しい主人公しか見てこなかった自分にとっては衝撃的な展開の連続だった。
人を助けないし、自殺教唆するし、お供の妖精はいじめるし、一体なんなんだこいつは。
けれどもそういう殺伐とした殺るか殺られるかの世界観は、案外すんなり肌に馴染んだ。
これは自分の家庭環境がボロボロで、現代日本なのに親と殺るか殺られるかの戦いを毎日繰り広げてたからというのも大きいと思うが、とにかく「綺麗事で済ませない」といったベルセルクの雰囲気は自分の感覚に合うな、という印象があった。
親の金でユニバに行くクラスメイトよりも、親代わりのガンビーノを殺しつつも愛を求める気持ちを捨てられないガッツの方が身近に感じた。
ガッツが鷹の団に入るまでのストーリーは読んでてキツかったが(親代わりの大人に貞操売られてぶち殺すってどんな話だ?)、黄金時代のストーリーは面白くて夢中になって読んだ。ガッツの初仕事(川沿いで奇襲かけたあと殿ひきうけたやつ)の話も、ユリウス伯爵の暗殺も、ドルドレイ戦も、そんなに上手くはまるわけないだろと思いつつも毎回読んでてワクワクした。
読み進める度に胸が熱くなるようなシーンが次々出てきて、この先どんな物語が待っているのかとページをめくる手が止まらなかった。
(個人的にはプロムナード館での夢の話が好きだ。「夢に支えられ、夢に苦しみ、夢に生かされ、夢に殺される」……夢を表した言葉としてこんなにも的確な言葉は珍しいと思う)
そして黄金時代も佳境に入り、グリフィスが全てを失い絶望の果てに蝕を起こす。
無数のモンスターに対峙する鷹の団の見開きの絵を見たとき、初めて気がついた。
バカなので蝕に辿り着くまで三浦先生の絵の偉大さが全く分かっていなかったのだが、大量のモンスターと鷹の団の苦悶の表情を前に、三浦先生の凄さを""分からされて""しまった。
びたびたと飛び散る内臓。好きだったキャラクターの割れた頭蓋骨と、はみ出した脳みそ。どういう骨格をしているのかよく分からないがとにかく気持ちが悪いことだけは分かるモンスターの群れ。一度見たら忘れることのできないガッツの咆哮の表情。抜ける女体。死ぬほどイカした造形の新生グリフィスことフェムト。
ゴッドハンドの女が「愛、憎悪、苦痛、快楽、生、死、すべてがあそこに……」と言っていたが、まさにその通りだった。読んでるだけで頭がおかしくなりそうだったし、自分が体験したわけではないのに脳みそを上下に全力で揺さぶられたような衝撃で心がめちゃくちゃになった。
蝕のシーンがショッキングすぎてトラウマになり、心ここにあらずな日が続いた。授業も全部上の空だった。何をしていても蝕のことが頭をちらついた。あんな凄惨な光景は二度と見たくないと思うのにもう一度触れさせるような、魅力を越えた魔力があった。蝕の絵は、麻薬だった。
蝕のショックから正気に戻った後は坂を転がり落ちるように、その時出ていた最新刊(36巻だったかな)まで一気読みした。蝕以上にショックなシーンはなかったが、ただただガッツの行く末を見届けたくて、三浦先生の絵が凄すぎてもっと見ていたいという気持ちが強くて、一心不乱に読み続けた。
(個人的には蝕以降のエピソードだとロスト・チルドレン(偽エルフの谷)の話が好きだ。エルフの女王の造詣がクリーチャーとしてクオリティが高すぎるし、女王になった女の子の親父が自分の父親にそっくりで「ああ、いるいる、こういうくそ野郎」「不幸な家庭があることをぼかさずに書いてくれるんだなあ」と、汚いことも忌避せずに描いてくれる姿勢に信頼が置けたからな)
やがて奨学金を借りつつも大学生になり、バイトを始め金に余裕が出てきたので、スイパラのコラボも行った。
普通ならサンリオみたいな可愛いものとコラボするようなところがなんでベルセルクとコラボした?と思わなくもなかったし、店内にはファンシーな雰囲気にはミスマッチなキャプ画が張られてて一種異様な空気が漂っていた。
どう見てもベルセルクファンの自分、場違いじゃねえか。コースターとポスター目当てで行ったが終始いたたまれなかった。
注文したベヘリットのチョコケーキは普通に美味かった。まあ中身スイパラだもんな。
そんなこんなでちょろちょろベルセルクコンテンツに触れたり、他の漫画やアニメに浮気したりしつつ、ずっとベルセルクは続いていくんだろうな、早く次の巻出ねえかなー、でも三浦先生には無理しないでほしいしな……と思いながら、年1ペースで出る単行本を追っていた。
相変わらず知り合いに「ベルセルクは良い漫画だから読んでくれ、トラウマになるとは思うが読まずに人生終わるよりいいと思う」と吹き込み続けながらいつも通り41巻発行の報を待っていたある日、そのニュースは訪れた。
何が起こったのか全く分からなかった。職場のトイレにいたのにどういうことなのか分からなくてしばらくぼうっとしていた。胸の上にどすっと重たい何かがぶつかり、心を胸の内側から弾き飛ばしてしまったようだった。
もうベルセルクの新刊は出ないのか。もう、三浦先生のお描きになった素晴らしい新作の絵を見ることはかなわないのか。
そのことが信じられなくて逃げるように仕事に戻った。全く効率は上がらなかったが、何もしていないよりかはましだった。
けれども何をやっても三浦先生がこの世にもういらっしゃらないのだと知らされた衝撃が消えることはなくて、明日会社に行くのをやめようかと一瞬考えた。
仕事を終え、訃報を聞いてから4時間ぐらい経ったあたりで、自分がもっとお金を落としていれば、先生に美味しいものを食べて気持ちよく寝てもらってと、健康的な生活を送ってもらえたのではないかと自分を責める気持ちが湧いてきた。
もちろん自分が高校生のときには既にベルセルクは大ヒット漫画だったし、その時点で三浦先生のポケットにはベルセルクマネーがドカドカ入っていたのだろうから、ファン一人がたくさんのお金をつぎこまなかったからこんなことになったというのは馬鹿げた考えだというのは分かる。
だがそんな考えが浮かんでくるぐらい、自分にとって三浦先生の訃報がショックだったのだろう。
結局当日はショックを受け止めきれず、友人に話を聞いてもらった。
自分にとってベルセルクがすごく大事な作品だったこと、もう二度と続きが出ないなんて信じられないこと、自分を責める気持ちになってしまったこと。拙い言葉での話だったのに、友人は最後まで黙って聴いてくれた。
それで大ベルセルク展が9月に開催されるから絶対に行こうと思っていることを伝えると、友人は穏やかにこう言った。
「そうだね。でもたぶん売り上げは関係者のところに行くと思うから、ご家族とか近しかった人に届くと思うよ」
この一言が、沈んだ心を救ってくれた。
一般的に言って、亡くなった方が気がかりなのはなんといっても残された家族のことだろう。自分の金が三浦先生のご家族のところに行ってその生活に役立つというのなら、天国におられる先生が安心してお休みになられることに繋がるはずだ。
ショックで放心状態になっていたが、友人のおかげで「大ベルセルク展で金を落とす」という目標ができた。
今年9月に大ベルセルク展が無事開催されたら、ガッツのマウスパッドと複製原画と烙印のピアスを買おうと思う。そのためにいらないものをメルカリで売って、給料から天引きする形でささやかながら貯金もすることにした。三浦先生がお亡くなりになられたショックは消えたわけではないが、今から少し楽しみだ。
わかんなくはないけど、自分がそういう気持ちになっていたのは自分のことが嫌いだった時期なので、自分のことが大嫌いな人にとってはその手のコンテンツは向かないってことだと思っています。
その手のコンテンツ受け入れられるようになったのは加齢によって「あっ現実の自分は恋愛も結婚も一切しないまま死んでいくんだな」と腹落ちし、創作物のキャラクターと対峙している主人公(提督やらプロデューサーやらトレーナーやら)は「自分ではない」と切り離せたことによります。
いいかえると、キャラが惚れてくる懐いてくる系コンテンツ嫌い民はまだ自分の現実の性をあきらめてない。主人公の中に自分を代入できちゃう。
キッチンペーパーもトイレットペーパーも結局のところ文脈によって存在を規定されているだけなので、キッチンペーパーをトイレに、トイレペーパーをキッチンに置いて生活するようにしてから、どうもお尻が痛い。これはトイレの神様の怒りをかったかなと思い、中学の同級生でフリーランスの除霊師になったバレー部のキャプテンがいたから、思い切って除霊を依頼することにした。「便座の保証が効かなくなるけど良い?」と4回くらい確認されたものの無料で引き受けて貰い、後でネットにDMのやり取りを晒す絵師のような事されるくらいならお金払ったほうがこっちとしては安心なんだけど、今後もっと大きな巨悪(55年体制とか)と対峙する時になった時に仕事をくれれば良いという相手方の好意に甘えることにした。神殺しの儀式は15分ほどで終わり、これなら確かに無料でも当然かなと思いつつも、口には出さずハーゲンダッツを12個渡して帰ってもらった。塩撒いた方が良かったかな。
韓流なんかはやたらと掃いて捨てるほど日本の情報で溢れてるんだが、
それに対して中国の文化が入ってこないのは本当に不気味なんだよな。
また韓国の漫画なんかも、ネット広告に入っている漫画は韓国系が多いと聞いて、
なるほどなんか変な雰囲気やノリだと思っていたがあれは韓国系だったのかと得心するとともに、
ああいった韓国漫画系は韓流のような日本の広告宣伝ラインには決して乗ってこないというところも不気味だ。
さて、前置きはさておき。
ウィキによるともう2016年くらいから始まった文化のようだ。
こんなに中国が世界を席巻しておいて我が国ではこんな一文程度ですら解説を多くしなければ理解できないほど中国文化が人口に膾炙されていないのかと感じる。
「1990年代に生まれた若者の一部の、受け身、無関心で、高望みをせず、世間を冷めた目で見る生き方」といった現状があるのか。
「下の世代の子供を養う必要があるとともに上の世代の両親の面倒を見る必要のある集団であり、それに家賃が加わる場合もあり、
そのため生活上のストレスが大きく、喪文化に染まりやすい集団」
人民網は喪文化を「精神のアヘン」と批判し、喪文化の流行がもたらすマイナスの影響を警告し、その背後につきまとう文化の侵食を警戒すべきとした。
また中華民族の精神を発揮して、挫折や失敗には、後ろ向きに対応して喪文化の際限ない蔓延を許すのではなく前向きな態度で対峙するように述べている。
中国青年網は、人生において失敗や挫折に遭遇するのは必然であり、だれにとっても避けられないことであって、
喪文化による逃避は実際の問題をまったく解決できず、歪んだ価値観を形成するとする。
前向きに対応すれば、困難に打ち勝ち、人生の進む先を発見し、人生の理想を実現することができるという。
また中国青年網は、中国の若者は喪文化に抵抗し、中華民族の偉大さの復興にむけ戦うべきだとも述べた。
これが実に中国の真骨頂で、思想すら中国共産党が"指導"していくということだ。
…こういう部分が、日本のマスコミ等々が中国文化を紹介することを躊躇う一因であるのかもしれない。
何のことはない。
復旦大学の経済学博士、林采宜は、喪文化は名誉や利益を求めず、自らの身を大切にすることを提唱しており、
道教文化の体現であって、功利が重視される現代社会への一種の解毒剤だと考える。
澎湃新聞の曾於里は、喪文化の生まれた原因を考え、現代の若者が「喪」に走るのは、彼らが進取を嫌がるからではなく、
かつて成功を求めようとしたにもかかわらず、現代社会の競争の厳しさなどのさまざまな問題によって成功しなかったためだと考える。
幾度もの失敗と挫折という打撃を受けたために彼らは喪文化の受容層となったという。
ある意味、中国という国家の「鬱病の初期症状」なのかもしれないな。
これを抑圧すれば、パッと見社会という名の会社に一時的には復帰できるかもしれないが、
ひとたび「壊れた」ら、全治数十年は見積もらなくてはならないのかもしれない。
まあそれは脇においといて。
中国という国は爛熟期から衰退期にかけて大抵宗教が王朝の転覆要因となってきたが、
21世紀の現代においては、若者文化においてこうした概念が普及することで、
ところで、利路修である。
例のリアリティーショーは、スマホも取り上げて隔絶させるのか。
まあいろいろ"ノウハウ"が蓄積されているんだろう。吐き気がするな。
私生活まで「カネ」に変換させられ、やめれば巨額の違約金。奴隷だなまさに。
家に帰りたい、疲れた、ってことか。
これはまだまだ日本の検索では一切ヒットしない概念のようだが、
若い連中は夢に向かって将来に大きな、バクダイな期待があると思うからこそがむしゃらになって夢に邁進する。
楽しくてしょうがなく、強烈な使命感があるからこそ、あらゆる努力が全て自発的にでき、またエネルギーが生まれてくるのだろう。
はじめに言っておくが、増田は「ポリコレが短歌を殺した」というつもりはない。
https://twitter.com/aymusk/status/1382910231223562244
若手歌人の上坂氏による短歌で、そのキャッチーさ・ショッキングさからSNSでも何度かバズっている作品である。ここで「有名」というのは歌壇での話ではなく、一般ウケの話で恐縮なのだが、見たことある人も多かろうということで「有名」と評した。
今回、その「父」が死去したことにより上坂氏が再度ツイートしたところ、以前は見かけなかった「差別的だ」との引用RT・リプライが寄せられているようで、上坂氏は謝罪に至っている。
増田は短歌の評価を書くような場所じゃないと思うのでその辺は省くが、ちょっとした短歌ファンとして今回の件はショッキングだった。
言うまでもなく、そして穂村弘による評価でも言われている通り、この作品は父に対する強い負のイメージから詠まれた短歌である。
これはフィリピンに対するネガティブイメージではなく、「あのクソ親父は女がいたからフィリピンに駆け落ちしたんだろう」というのが詠まれた状況であろう。なお、駆け落ちという言葉でわかると思うが、ここでいう「女がいたから」というのは「フィリピンに行けば女がいくらでもいる」といったものではなく、「特定のフィリピン出身の女が居て、そいつのために行ったのだろう」という意である。
上坂氏は後日談のように当時の心境を書いており( https://twitter.com/aymusk/status/1382914438290804739 )、それなりに上記の解釈が合っているとは思っている。もし上坂氏が「そうじゃない」といえばそれまでだが。
仮に上坂氏の父親が大阪に逃げたならば「大阪の女」、フランスに逃げたならば「フランスの女」、で短歌を構成することは不可能ではなかろう。
さて、今回見受けられる批判は主に人種差別、例えば「フィリピンといえば女だと決めつけているのだろう」といったものが多い。
短歌とは極限まで言葉の数を削ぎ落とし、鑑賞者に想像の余地を持たせるものであろう。たとえば「歌人はフィリピン女性に悪意を抱いていたのではないか?」という解釈を試みる事自体を間違っている行為だと断言できる気はしない(もちろん歌人の意図とは異なるのであろうが)。
昨今のTwitterにおけるポリコレにまつわる炎上は、文脈がどうであったかが論争になるケースが多いように思う。要は「これは差別的な発言・表現・コンテンツだ」という批判に対し、「切り抜きだ」「このコンテンツにはこういう意図があったのに、そこを無視して炎上させるなんておかしい」といった流れがよくある。
そういう点では短歌は炎上の題材として「最適」である。文脈が削ぎ落とされており、批判も擁護もしやすい。更に元々表現が抽象的であるため、曲解するほうが悪いと断言するのも難しかろう。
そもそも炎上する短歌なんてあるのかよと思うかもしれないが、家庭や人間関係のことを詠んだ歌は多い。
今回の「フィリピンの女の乳首」は極端な例だが、例えば家庭の光景を詠んだものに「この表現はジェンダーロールの固定を想起させる」といった批判が寄せられることは今後ありうるだろう。
歌人がこの状況に対峙するには、「この短歌はこういう意図です」と声明を発表することしかないように思われる。しかし、作者によって説明が付けられた短歌は短歌といっていいのか?それエッセイじゃない?
それとも、釈明・説明を付与することを避けるため、誤解を招くかもしれないという理由で表現の選択肢が狭まっていくのだろうか。もちろん差別的な表現なら論外としても、誤解を招くかもといった理由で表現が狭まっていくことは果たして「コレクト」なのだろうか。
省かれた文脈に対して説明が求められ、作品や表現がポリティカルにコレクトであることを示さなければならないこの時代、短歌の命は短いのかもしれないと感じてしまった。
本件を歌人の方々はどのように捉えているのだろうか。
https://monsterhunter-movie.jp/sp/
期待を大きく裏切る一作
端的にいえば(暫定)今年一番おもんなかった映画でした。
確かに実写化ってもともと地雷ワードだったかもしれない。だけど、ここ数年は『名探偵ピカチュウ』『ソニック』など、ファンの期待にしっかり応える映画が作られてきていただけに、ある程度期待してた。だけど実際は、クソだった。
「モンハン」っていう看板を外せば、その実態はB級モンスタームービーだ。それならそれでもいいという映画ファンもいるだろうけど、そう物分かり良くもなれんよ。
とにかくテンポ悪い。
オープニングで部隊が全滅した後は、人間同士の取っ組み合いか、気持ち悪いネルスキュラから逃げ惑うかのシーンで尺の大半を浪費する。
そこからディアブロスを倒してようやく話が動くかと思ったら......。
かなり冷めるオチ。
個人的に一番不満を覚えたのは劇伴。つまり、音楽。モンハンシリーズで聴きなれた音楽は一切流れない。正直そこさえしっかり押さえてくれてたらこっちだって雰囲気に流されて盛り上がれるんだよ!!
ところで、予告編って皆さん観ました?
『英雄の証』流れない。
『上手に焼けました〜♪』流れない。
予告編だからといって、いや予告編だからこそやって良いことと悪いことがあるだろ。
これを信頼して観に行く奴がバカだと言うなら、それで良いよもう。
映像面に関しては流石に100点です。そこは流石にケチつけられん。ディアブロスやリオレオスがブンブン動いている!という感動は感じられます。ただ、そのリアルなモンスターとの交戦はゲームから相当かけ離れた表現になるので、これも結構しんどい。
せめて鬼神化して乱舞するミラ・ジョヴォビッチくらい見せてくれよ。アプケロスの前で剣振り回して終わりって。
弾の火薬で根性消毒したりグレネード弾を素手で根性着火するのもカッコいいけどさ......。
というわけで、「思い入れのあるファンほど辛い映画」という評価は避けられないと思います。
一方で、ゲームのモンハンを知らない人の感想ではちらほら「ゲームファンなら楽しめるかも」なんて書かれてるんですよね。つまりお前は「知らんから」楽しめなかったんだな?「知ってる」からこそ俺も楽しめなかったんだよ。
じゃあこの映画は誰にも刺さんないじゃん。
「『英雄の証』をバックにリオレオスと対峙して乱舞で斬りかかるミラ・ジョヴォヴィッチ」
これが見れてさえいればガバガバ判定で百億満点だったのにな......。
あのさ、
有名な映画の大林監督作品の尾道三部作と言えばターミネーター三部作と肩を並べて超有名なビッグタイトルだけど、
また話は別よね、
販売が今月末までだと言うことで、
これを機に3Dシリーズも挑戦してみようか!ってやる気満々の満身創痍!暖簾に腕押しでポチったワケなのよ。
買ってから気が付いたんだけど、
この三部作クリアするまでの時間ボリューム私にはあるのかしら?って
重さが重くならないのはどうなってるのよ?って思ってしまうわ。
とりあえず
早速思ったのが
そしたらよ、
そしたらスーパーマリオ64の最初のステージからもういきなりどこに行っていいか分からない状態で
どうやら一番上の所まで言って、
バクダン兵の王様を投げ飛ばせばいいらしいことは分かったのよね。
で、なんとか頂上まで行ってバクダン兵の王様を投げ飛ばせることまでは成功したの。
でも何回かやっぱり投げ飛ばさなくちゃいけないみたいで、
ヘイヘイヘイ!って挑発したら、
まんまとむんずと掴まれて放り投げられて一番下の地上まで投げ飛ばされちゃったわ。
えーまたあの頂上まで登るの?と思ったら絶句だけど、
もうスーパーマリオ64ですら前途多難感ありありな出だしで、
でもちょっとサンシャインもギャラクシーも冒頭のちょっとだけ遊んでみようかなって、
もう早速5分やって他のゲームに移っちゃったの。
なんか凄いゲームでとにかく、
3Dの中を歩き回って
水鉄砲撃ったり夜空を飛び回ったりと
なんかこれもあと2作あると思うと、
いったいスーパーマリオシリーズ何作あるんだよ!ってもう遊び尽くせない感じがして、
マリオ恐るべしって思ったのよ。
なんか小さな惑星を逆さまに歩いたり走ったりするので気持ち悪くなっちゃいそうな雰囲気で
面白すぎて前途多難すぎるわ。
それにともなって色々な技を繰り出せるみたいなんだけど、
こんなのフラッシュ暗記暗算大会の上位入賞者の人じゃないと一画面を見て一度に暗記できないわ!ってゾッとする操作方法の種類にまた驚愕よ。
楽しいけどさ、
これをまたクリアしていくと思うと辛いわ。
でも毎回毎作ごとに連れ去られるピーチ姫のことを思うと
彼女の不憫さと比べると私の三部作へのクリアの重荷と比べるとたいしたことないのよね。
ピーチ姫は毎作大変な思いをさせられて大変だなーって。
でね、
ちょっと前にスマホの携帯ゲームで出てるスーパーマリオランもやってみたんだけど、
あれはただただタイミング良くボタンを押していくだけでクリア出来ちゃうから、
あんまりマリオに接したこと無い私だったからこんなモノなのねって楽しさがよく分かってなかったのよ。
だけど、
マリオ感がやっぱり堪能できないのよね。
きっとそう思うわ。
そうなると対峙するソニックシリーズもまた私研究対象として研究しなくてはいけないソニックシリーズもコンプしてクリアするという苦行を行わなくてはならないと思うと今からゾッとするわ。
やっぱり超巨大コンテンツとしてのマリオって楽しくてスゴいわね!って思うしかないのよね。
これを機にまたユニバーサルスタジオジャパンのマリオのアトラクションも私遊びたくなっちゃうのかしら?と今から思うと、
関西に行く口実にもなるわよね。
何度ここへ来たって大阪弁上手くなれへんのよ。
そんな思いも裏腹に、
まずは
心に決めた攻略本を見ないって誓いも
スーパーマリオ64の一番最初のステージでどこに行っていいか分からないからすぐ見ちゃったという、
私の意志の弱さ。
ため息が出るわ。
でもまあ一歩一歩頑張るのみよ。
前途多難長い道のりだなーって
応援してね!
うふふ。
ちと朝からは重たかったかもと思いつつこれってもしかしてチンして温める前提なのかしら?って思うほどの出来栄えで美味しかったわ。
朝たくさん沸かしておいておいたので
たくさん飲めるわよ!
ごくごくごく!
水分補給はこまめにまめにしてね!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
端的に言って、2度と当時には戻りたくないと思う。
穏やかな小学校生活が終わって、中学校に上がった。中学校は周囲のいくつかの小学校から生徒が合流し、顔ぶれは半分ぐらい変わった。
新しい同級生、新しい先輩、見知らぬ古い校舎、荒れた空気で余裕のない先生。同級生はみんな、自分の居場所がリセットされて、それを確保するのに必死だったと思う。
一部の同級生が、先輩らの影響で短ランやボンタンのような制服を着て、髪の色が明るくなり、言動が激しくなった。
それに伴って、学校は腕っぷしの強さや声の大きさ、容姿の美醜、スポーツの出来不出来、笑いが取れるかどうか、を軸とした上下関係の階層構造が強まった。
勉強のできる学校、地域ではなかったから、勉強の出来不出来や知識の豊富さはそこまで階層への影響はなかった。むしろ、真面目に勉強をしていることはダサいという空気感すらあった
当時の僕は、身長は高い方だが、容姿は下、スポーツは並、笑いは全く取れない、勉強はそれなりにできるが、トータルでは平凡な男の子だった。
ただ、良好な人間関係の作り方や上下関係のやり過ごし方などの処世術に鈍く、学校に上手く馴染めないまま過ごしていた。
プライドが高かったのだと思う。
階層トップの不良グループはクラスの場を支配していたけれど、僕は、支配されたフリをして上手く立ち回るのはイヤだった。
イジられても笑いで返せず、キレ返した。物がなくなっているなどの軽いいじめに、張本人を殴ったり同じことを仕返しした。
お前、小学校の頃は休み時間に一緒にサッカーしてたよな?僕のお父さんの車で一緒に釣りに行ったよな?何でこうなっちゃったんだよ!とずっと思っていた。だからこそ、負けたくなかった、譲れなかった。
昔は仲が良かったみんなも、自分のいる階層を保つ or 上昇させるために、グループに所属して、その勢いに流され、僕や立場の弱いグループを、気まぐれに攻撃することが、中学校のなかで当たり前になった。
そして、いつも反抗的な態度の僕は、特に標的にされ、孤立した。
カバンや筆箱が無くなっていたり、お金が盗まれていたり、パンツを脱がされたり、通りがかりに殴られたり、いろいろ。当時はよくがんばって学校に行っていたなと思う。えらい。だけど今思えば、がんばり過ぎないで欲しいなと思う。
こんな感じで、安心できる場所は学校には一切なかった。毎日心も体もかなり緊張していて、ビクビクしながら過ごしていた。
その時の身体の強張りはクセになってしまい、他人がいると男子トイレの小便器でおしっこすることが出来なくなった。おしっこをしている時はイタズラされることから逃げられないから、他に人がいると落ち着かず、どんなに頭でおしっこをしようと思っても、出てこない。
学校の中でも奥の奥にある、ほとんど誰も使わないトイレに、休み時間になると駆け込んだ。たまに先に人がいると、その周りを歩いて出てくるのを待った。
年間のなかで最も大きい大会に、中体連の県大会、といったものがあった。
うちの中学校では、この県大会の大会出場のときには、様々な部活から各種陸上競技に出演するメンバーが選ばれた。
僕はどの競技の選抜からも落ちたが、大会までの練習や当日の飲用水の用意など、陸上部としてサポート役のため駆り出された。
小学校から続けてきたが、なかなか結果は出なかった。そして、陸上部ではないみんなとの競争に勝てなかった。
知らないメンバーのために、部活だからとサポートをすることは、楽しいことではなかった。大事な大会で走れない陸上部、ということが情けなくて、恥ずかしくて、自信が持てなくなった。
陸上そのものを楽しいから続けている、という内的動機も弱くなったこともあって、部活という居場所を自分から閉じてしまった。
部活を辞めてからは、授業が終わり次第すぐ帰り、毎日自宅のPCでインターネットを利用した。
Yahoo!チャットでは、立場や背景も関係ない、見知らぬ人とフラットに会話できることがとても楽しかった。私は当時南の島に住んでいたが、その島には映画館が無いと本気で思っている人がいるなど、この嫌な地元とは切り離された人と、遠く距離を超えて繋がれることにワクワクした。
オンラインゲームでは、徐々に強くなっていくキャラと、連帯感のあるギルド(所属するチーム)でゲーム内に居場所ができた。
ただ、Yahoo! チャットでは人とのごく短い付き合いしかできなかったし、親はオンラインゲームにお金をかけることは許さなかったから、オープンβテストの期間が終わったら、ゲームはそれ以上続けられなかった。
それでも、毎日急いで家に帰って、ここではないどこかに居場所を求めた。
ここまでがだいたい中学1年生。
2年生になりクラスが変わってからも、同じような軽いいじめ、イジリがある構造は変わっていなかった。そんな中、ある事をきっかけに階層に反抗する心は折れることとなった。
小学6年生の時から好きだった女の子と、同じクラスになった(初恋だったんだと思う)。
修学旅行のはずみもあって、就寝前、端っこあたりで寝そべっていた僕にも、みんなで好きな子を暴露する順番が回された。そこで、迂闊にもその子が好きであることを話してしまった。
僕は次の日の朝、ある場所に連れ出された。女子からも男子からも人気のあったイケてるグループのメンバーが、勝手にその子を呼び出していた。
事前に、僕が彼女のことを好きだということは伝えられていたようで、女の子は戸惑った、迷惑そうな顔をしていた。
そして、ちゃんと好意を伝えることもできないまま、一方的に、僕のことを好きではないことを伝えられた。
好きではないという事実以上に、あの迷惑そうな顔に、かなり心が傷ついた。あれは、階層の中で下位グループと同じ括りにされることを嫌がる拒否反応のような、そんな表情とリアクションだった。
ひどく鼓動が早くなった。気持ちが塞がってしまい、僕の修学旅行はそこで終わった。
この女の子とも、小学生のときは、同じクラスの隣の席でよくお喋りをした。いつも落ち着いていて、知性があるような雰囲気で、スピッツが好きだった。
小学6年生の遠足の時、移動までのバスでカセットテープを流すことができた。僕は遠足の前日、スピッツの「recycle」をカセットテープに録音して、当日のバスで流した。
歌うことが大好きだったし、上手だと思っていたから、その子の近くの席でこれ見よがしに、特に好きだった「渚」か「楓」を歌っていたと思う。
小学生らしく、好きだからといって何ら関係を変えるためのアクションは取らなかったが、日々その子と話ができることが嬉しかった。
中学校に上がってからは、僕は廊下などで見かける度に意識していたけれど、クラスが違うこともあり疎遠だった。
そして、2年生に上がり同じクラスになってからも、思春期特有の自意識過剰から、まともに話すことができなかった。
そしてそのまま、拒否された。
一方的に彼女に好意を伝え、呼び出した複数人の男子グループは、彼女が嫌がるそぶりを見せたとき、「うわ、かわいそ〜」と他人事のように、少し面白がっているように話していた。
個人としてどういう人だ、と言う前に、どの階層に属するかによって、こういう風に軽んじられる存在があることを強く認識したし、軽く扱われる自分自身のことも好きじゃなくなっていった。
自信をなくして、自分のことを好きじゃなくなっていくのと並行して、上の階層である不良グループに嫌がらせをされても、ヘラヘラと笑ってその場をやり過ごせるようになった。そしてもっと、自分のことが嫌になった。
体育の授業で複数人でグループを組んだ時に、兄の影響でアニメに詳しいクラスメイトがエヴァンゲリオンの話をしているのを聞いた。
ガンダムの仲間かな、というぐらいにしか知らなかったけれど、家族でゲオに来たついでに、何気なくレンタルをしてみた。
結果、見事にハマった。
戦闘シーンやメカニクスの描写などに強い興味はなかったが、同じく14歳のシンジや他のキャラの内面の描写に、自分を重ね合わせて見ていた。
中でも人類補完計画やセカンドインパクトは、思春期の想像力と合わさって、朝起きたら本当に起きているのではないかと、期待しながら眠ることもあった。
意地悪をする同級生は、個人それぞれは悪いやつでないことは知っていた。グループや階層といった構造になると、途端に他人に攻撃できることを体験的に知った。また、僕自身にも、階層の中で下のグループを軽んじてしまう意識があることを知った。
何で人間はこんな生き物何だろう、と思った。それぞれ個人としては思いやれる人も、集団となると流されてしまう仕組みが、欠陥だと思った。
他人もそうだし、自分の暗い部分も怖いから、誰かと近づくのをやめようと思った。関係を深めることをやめようと思った。だけど、誰かと認め合いたいという矛盾した気持ちがあった。
人類補完計画のように、人々の壁がなくなってひとつになったら、人間の欠陥もなくなって、みんなが幸せになれると思っていた。本当に早く来てほしかった。
でも、当たり前だが、そんなものは来ないことも分かっていた。だから何度も何度も見直して、頭の中だけでもエヴァの世界から抜け出さないようにした。
繰り返し見る中で、分からない部分も多くあった。なぜシンジは人間がひとつになる世界をやめたのか、なぜアスカは気持ち悪いと言ったのか、結局それぞれのキャラは救われていくのか?
これらのモヤモヤと、いつまでも起きない人類補完計画への期待感は、中学3年生になって受験勉強に忙しくなったのもあって、少しずつ心の片隅に追いやられていった。心に残る形は歪なままだけれど、そのままフタをした。
その後、県内では進学校だった高校に入学し、校内の暴力的な上下関係などはなくなって、落ち着いた学校生活を送れるようになった。
大学は第一志望には落ちたけれど、都内の学校に進学でき、希望していた地元からの脱出は叶った。
だけど、その都度、人間関係の構築は必要だった。苦手意識や恐れを感じて、中学生の頃のような緊張が蘇ってきて、上手くいかないことも多かった。言葉が上手く出てこない、出てきても変なことを言ってしまう、怖くて誘えない、など。
大学1年生の終わり頃に、良い友人との出会いがあった。何かと心の距離を取りたがる僕を、何度も何度も誘ってくれて、しつこく自宅に招いてくれた。そして、人に近づく怖さがだんだんと薄れていった。
また、その友人を起点に人間関係が広がっていった。みんな優しく受け入れてくれて、少しずつ人付き合いの自信がついていった。
いつまでもどこか漠然とした孤独感や居場所のない不安はあり、心のクセになっていてなかなか取れなかった。同時に、エヴァのこともよく思い出した。
それでも、その後の学生生活はこれまでにないほど充実して終えることができた。
この時に身に付けた自信から、就職先での人間関係も何とかやり過ごすことができるようになっていた。
今は、30歳になった。それなりに忙しく働いていて、家族もある。
誰かの心の痛みがよく分かる優しい人と一緒になった。
できることが増えて、自分の人生も俯瞰で見られるようになり、生活をうまくやる自信もつけている。
日常の中で中学生当時のことと、エヴァのことを思い出すことはほとんどなくなっていた。
そして、今回の新劇場が話題になっているのを見た。これで最後ということで、とても気になった。
なぜ今さら気になるのか考えてみると、過去に集団の中で屈してしまった悔しさ、自信喪失をちゃんと受け止めて解釈して、成長することができているということを、大人になった今エヴァと対峙することで、確認したかったのだと思う。
僕はとても救われた気持ちになった。
今回の物語では、シンジ、ミサトさんを始め、みんなが過去の様々な間違いや未熟さを認めながら、前を向くことができた。
第3村のトウジとヒカリ、レイの田植えなどの描写は、日常に地に足をつけて生きていることに対して、背中を押してくれたように思う。
劇中のみんなが自分なりの希望を見つけていくのと同じように、今僕自身が生きている人生に対しても「それでいいんだ」と、認めることができたように思う。
本当に良かった。ああ、これでいいんだね。
さて、今年度の7月に適応障害と診断を受けてから8ヶ月の時間が経ちました。
この8ヶ月の中での変化や、心や気持ち・環境との対峙の仕方などについて書いてみたいと思います。文脈が崩壊したり、段落のつながりが見えなかったりしたら、ごめんなさい。
【読んでくれると嬉しいなーという人】
1、診断の効用と注意点
診断が下ったことで、自身の状態が外部のストレス環境に大きく依存するということがわかりました。環境によって波は大きくなったり小さくなったりしますが、そういった波とうまく付き合っていくための方法を獲得できました。もちろん、まだまだ未獲得だったり、未学習な部分も多いですが。
(これについてはあとで詳しく書きますね)
一度自身の精神的にきつい状態を認めて病院に行き、診断をもらうということは、”病理”の世界に立ち入るということなのだと思います。
そうなったときに、一点不安だったことが、自分のアイデンティティの根っこを「病気」に持っていかれるのではないかということでした。つまり「病気だ」というラベルを自分自身につけて剥がせなくなるということです。これはメリットもデメリットもあることだと思います。
例えば、症状がひどかった当時は、診断書をかばんに入れて持ち歩いたりしていました。おそらく当時を振り返るに、自責傾向の強い自身にとっては、「自分は病気だ」とラベルを貼ることが唯一自分を責めないための手段だったのだろうと思います。「がんばらないと自分の価値がない」という精神的シャカリキさから、「もうがんばらなくてもいいんだ」という気持ちへ、診断を機にやっと切り替えることができた感じですね。診断の力はすごいです。
また、適応障害を機に、調べたり本を読んだりすることで、自分の認知がかなり歪んでいるということにも気づくことができました。(「認知の歪み」は過去記事にもある通り、去年の7月に「みんな私のことが嫌いなんじゃないか」などの考えのことですが、これは日常のささいな他人の言動を捉えるときにも適応されるので、取り組むことは一定重要な課題だと思います)。これは一朝一夕では解消されないので、なかなか苦労していますが、長期的に改善できるといいなと思います。
③別の病気への移行
適応障害はストレス環境により症状が出てしまうという一過性のものなので、ストレス環境から身を離せば、症状がなくなります。ただし、うつ病(恒常的な)だったり双極性障害にも移行するということもあり、ちょこっと注意しなきゃいけないな…と思っています。
この移行は、診断をきっかけに起こることなのかわからないですし、ごく個人的な所感なのですが。あまりに病識が強くなりすぎた場合に、「ほかの病気のこの側面も自分の状態にあてはまるんじゃないか…」と強く思いすぎることにより、自分の不安定な状態を強化していく…というサイクルに入るんじゃないかなと思います。ここについては、ちょっと個人的に思うところもあるので、また別の記事に機会を見てまとめます。
2、波とうまく付き合うためのあれこれ
①感情を記録する
「muute」というアプリを用いて感情とその日にあった出来事を記録しています。記録することでよかったことはまだよくわからないけれども、2ヶ月くらいやってみた所感として「気分がいい時には記録つけない」「気分が落ちすぎていても記録つけられない」ということ、軽くしんどい時には記録を取れます。記録を見返すことで、「何がきっかけで落ちることが多いのか」を把握することができます。あと、アプリのデザインがかわいい。そして、毎週AIからの「ニュースレター」が届くのが嬉しい。
もうちょっと重めの出来事を整理するのために「認知行動療法アプリ」というアプリを入れています。これは割とがっつりと書かなきゃいけなかったり、アプリのデザインもあんまりかわいくなかったりするので、個人的には使いにくいなーと思うんですが、ちゃんとやれるならよいと思う。私は一度だけ、先月末に仕事であった出来事を振り返るために使いましたが、頓挫しました。認知行動療法を一人でやりきるのは、結構エネルギーがいるので、信頼できる人と一緒にやれるといいかもです。だれか一緒にやろう。
②依存先について
どっかの大学の熊谷先生は「依存先を増やせ」ということを常々から言っていますが、その通りです。依存できる場所は分散し、相談の内容もそれぞれに分けられると超ベスト。これは相手のためでもあるし、自分のためでもあります。
ざっとあげると、「母親」「病院」「社内の相談窓口(キャリアセンター、こころの相談センターなど)」「仕事の同僚」「退職した元同僚」「パートナー」「知人」「元劇団の人たち」などかな。大学とか会社とかなんらかの組織に属している人は、組織のリソースはガンガン使った方がいいです。これ読んでいる人に学生さんがいたら、とりあえず健康センターとか保健室とか、なんでもいいから、お茶しばきに行く感覚で軽めのノリで一度はいっとくことをおすすめします。相談のハードルを元気なときに下げておくことも大事です。
個人的な話に戻ると、最近は友人との接触頻度を増やすことに意識を向けています。例えば、「ゲームやるだけの仲間」に入れてもらったり、過去の大学の友人に気軽に話せる場(「mocri」というアプリ)を持ったり、「〇〇の会」と称してエネルギーのある時には知人を家に呼んだりしています(例、「私たちのためのバレンタインの会」など)。対面で会うのは結構エネルギーいるから、そのときにはオンラインの手段もまぜこぜにしながら、ぼちぼちね。
あと、予定の管理がなかなかできないので(当日体調が悪くなったり、コンディションが悪くなるということが結構ある)、気の知れた人には「波が読めないので、当日連絡するか、遊びをやってることだけ教えてもらえたら当日調子がよければ行く」というふうに事情をつけて話しています。
③過敏さとの向き合い方
今「HSP」なんて言葉が大流行しており、書店での平積みも凄いことになってますが、「過敏さといかに向き合うか」という命題は、特性によりけりでしょうが、「すぐ疲れちゃう」と感じている方にとっては、とても大事です。情報の取り込みすぎは、疲れちゃうから制限しながらね。私の方法を載せておきます。
【音】
音への過敏傾向のために「耳栓」はマストです。トイレやキッチンの換気扇や冷蔵庫の「ブォーン」という音が気になった時には情報取り込みすぎのサインだと思っています。
最近耳栓が役に立ったのは、水族館のイルカショーに行った時でした。意図せずスピーカーの真ん前に席を陣取ってしまい、生の音に触れた時には頭が割れるかと思ったので、よいしょとつけました、危機回避成功。あとは最近は電車ですね、地下鉄とJR快速は要注意。窓が開いていて大変に脳みそに音が突き刺さってくるのでイヤホンもしくは耳栓マストです。
【光】
これは入社当時から苦労していたのですが、白熱電球が大の苦手でして。白熱電球の下にいるだけで、パフォーマンスが低下することがわかっています。だから、なるべく太陽光を取り込んだり、廊下の光だけで部屋の中は電気を消したりと、いろいろ工夫をしています。前の教室とかだと「電気ついてるけど消そうか?」とか「窓のある部屋がいいですよね」とか、スタッフみんなが配慮してくれました。感覚はひとそれぞれだから、しんどいときにはちゃんと言えることが大事です。ちょっと勇気いるけど。
【睡眠】
ストレスサインとして「悪夢」と「途中覚醒」は念頭に入れておいています。キャパシティを超えるストレスを受けた時って、交感神経優位な状態で睡眠に入ってしまうことが多いので。交感神経鎮めてから入眠する(お風呂に入ったり、湯たんぽ使う)などがベストですが、極度に疲労しているとそれもできにくいと思うので、お薬の相談もできるといいかなと思っています。自分はまだ眠剤は使用していないですが、場合によっては。
【教えて】
スマホとの距離感は、今試行錯誤です。依存気味なので、いい方法あったら知りたいです。
【その他】
鬱の状態のときの衝動性は怖いなとも思うんですが、早く通り過ぎるものに吸い込まれるってのは、本当にあるのね。だから「ホームの端っこにはいかない」「赤信号の時には道路のキワに立たない」ことは普段から意識をしたいものだなって思います。
3、最後に
新年度が始まり、社会人4年目になる4月に向けて、近況報告がてら書いてみたいという思いで書き始めましたが、波と付き合うための手立てやアウトプットできることがなかなか増えていて、自分でも感心しました。
こないだ見た映画で「いいなあ、君は私とは別れられるけど、私は私とは別れられないんだよ」というセリフがあって、「あーその通りだなー」ってぼんやりと思ったんですよね。そうそう、別れられないなら仲良くする方法を探すしかないのです。死ぬ勇気もないので生きるしかないんですが、穏やかに生きられるための方法や環境をゆるゆる作っていきたいものです。
〇脚本面
・シンジのリハビリ回である村パート、いうてトウジ・ケンケンに話しかけられてぽつりぽつり返答する程度の描写(ほぼアヤナミの田植えやんけ)から
どこをどう汲み取ると「ゲンドウと対峙できるほど成長した碇シンジ」に対する納得感が得られるのか.
・せめて「村の住人にニアサー張本人であることが露呈したうえで受け入れられる」ならまだしも(それが見たいかというとかなり陳腐だが....)
・前作で大怪我負ったシンジがようやく軽いトレーニング程度できるようになったくらいで、そこから特に進展なくいきなり対ゲンドウ戦に入って
・アヤナミレイ液化がキーとして、いうほど会話してたか????
・ゲンドウ勝利後のアスカ・カヲル・レイ、完全に消化試合のような尺と進行
・旧劇場版ラスト出してきて、「僕も好きだったよ」の一言でケンケン宛に郵送すな
・マリ、どちらかといえば他者というよりかなり都合のいいアニメキャラそのものでは
・村パートで止め画カット(田植えと水量測定)に声だけで進行するやつ出すとは思わなかった。劇場版でやるか?TVでやるならまだしも
・3DCG、これは好みでいいと思うが、やはりネルフ本部から棒立ちMark.07(あるいは冒頭の猫ドローン)が出荷されるシーンで笑う
・マイナス宇宙・ゴルゴダオブジェクト→ウルトラマンからの円谷撮影スタジオ、これ「こういうの好きだよな庵野監督」以外で必然性を説明できる人いるのか?
・特撮スタジオ出してメタ演出(ミサトの部屋にエヴァ二体は笑うが)、のわりにゲンドウ独白パートが比較的すなおな演出になっているの、
ちぐはぐな印象が凄い、そこは普通にやるんだ.
・巨大綾波レイ頭部、あれ演出上ああいった質感と言われたらそうかもしれない、だとしたら首から下は旧劇場版作画を使用している意味がわからん、
どちらかといえば顔だけつくったが身体はどうにも前回のやつ使うしかない+作劇上あとは手は動かせないとまずいよね、の結果が、
あの「頭部と手だけ分離している綾波レイ」なのでは
・どう贔屓目に見てもアニメの表現力が旧TVシリーズより下手したら苦しい感じなの、これカラーの生産能力の問題なのか、
本邦全体としてもうアニメを描ける人が少なくなってきているのかどっちなんですかね。
〇シンエヴァ