はてなキーワード: 齟齬とは
大好きなアイドルとかアーティストと結婚できる人、本当にすごい。
絶対に無理だもん、好きなら好きであるほど結婚できない。結婚するならそれなりの人が1番いいと思ってるし、実際婚約相手もそういう人。
好きな人には、自分のよいところだけを見て欲しいんだよね。憧れのアイドルとか好きなアーティストとかいるけど、現場のときだけものすごく頑張ってる。
それ以外の日とか、ユニクロ服にすっぴんでボサ髪ポニテにして終わり。まともな女とはおよそ思えない格好だけど、楽なんだよね。
根本的にオシャレとか好きじゃないので、家で洗濯できればなんでもいいし、感覚過敏だからメイクはかゆくなるのでしたくない。
髪も切るのるめんどくさいから結べる長さに必ずしてる。めんどい日は風呂すらサボってしまう。
こんなの、絶対絶対絶対推しには見られたくない。無理すぎる。でもこの生活を手放して好きな人のために努力♡とかまず無理。
そういう自分の裏側の汚さを知らないでいてほしいし、逆に自分もそんなの知りたくないんだよな。本当は私生活はルーズとか、まじでいらない情報。
本人がどう思ってるかは知らないけど、虚像でいいんだよね。完璧な人間なんかいるわけないからさ。演出された『偶像』をずっと見ていたい。
結婚したらそうはいかないのが1番怖い。自分の旦那がどんだけブサイクでもキモくても人間だとわかってるからどうでもいいが、アイドルがその位置にきたら齟齬に耐えられないと思う。
だからいわゆるガチ恋の人、すごいなと思ってしまう。自分勝手だけど、他人にそこまで献身的にはやっぱりどうしてもなれない。憧れには憧れのままでいてほしい。
①メタバース文化エヴァンジェリストさんが、インタビュー内で語った
「現実世界で起きたハラスメントとくらべて~今回調査で実証された」までの発言内容は
そうした調査分析がレポートになく、そもそも現実世界のハラスメントの程度について
触れた記述自体がレポートに全くないという、調査レポート内容のでっち上げに近い発言であった
②「今回調査で実証された」といった発言内容が、もし新聞に載ったとしよう
当然だが「現実世界で起きたハラスメントと比較した調査なんだ」と誤解する人が、間違いなく多数出てくる
(現に、調査レポート読まずに誤解したまま、読売記事問題を語るブコメやツイートが多数確認された)
新聞記事に載せなかった、読売の判断自体は妥当であったと言わざるを得ない
調査レポートと齟齬する内容をインタビューで語ってしまったのか
疑問に思う人が出てくるかもしれないが
そもそも、メタバース文化エヴァンジェリストさんはメタバース大規模調査に
ハラスメントに関する調査レポートをまとめたのは、スイスの人類学者・ミラさんで
ここに気づいてない人が多いから、メタバース文化エヴァンジェリストさんの主張を鵜呑みにしてしまう
残念な人が多くなってしまったのだろうと思う
まあ、調査レポートを少しでも読んでいれば気づくはずなんですがね
○ご飯
○調子
明日仕事なのに遊んだゲームが面白くてその余韻を楽しみたい気持ちで飲んじゃった。
美少女ゲームの文法で作品の構造自体に仕掛けがあるSFを書くことと、こめっちょのクオリティに定評がある infinityシリーズや極限脱出シリーズのライター打越鋼太郎さんのAIシリーズ第二段。
前作から3か月後、身体を真っ二つにされその半身だけが見つかるハーフボディ連続殺人事件が発生する。
なんとその6年後に、見つからなかった半身が見つかる、しかも6年経ったとは思えない真新しい死体が。
6年越しに見つかる半身を巡る殺人事件を、前作から3か月後を舞台に新人捜査官の龍樹と、それから6年後を舞台に捜査官になったみずきの二つの視点で追うことになる。
しかし、話を進めていくと、事件の捜査は二の次で人間関係、愛をテーマにしたそれの解きほぐしが始まる。
ソムニウムパートと呼ばれる対象者の夢に潜り込む装置を使って、彼らが人間関係の中で秘めた気持ちをスッキリさせる。
大きく分けると3組のお話が主軸になっている。
売れないお笑い芸人の父親が息子を思う気持ち、そんな父親に向ける子供の本当の気持ちを解きほぐす、米治、祥磨ルート。
元犯罪者ながら成り上がろうと努力する男性と、大金持ちの娘という立場でその男性のプロポーズに悩む、ライアン、絆ルート。
醜くい自信の肉体を受け入れてくれたがそれを信じきれずにいる苦悩のお話の、厳、亜麻芽ルート。
この3組の相手を思うが故に相手を守りたいと思うが故の苦しみが、ソムニウムパートによって解きほぐすされていくのが感動する。
特に最初はストーカー気質な上に元犯罪者というヤバさのせいでドン引きなライアンが、本当の本当に絆のことが好きだと伝わってくるパートが僕は好き。
お嬢様ながら「興奮するとオシッコ漏らしちゃう犬みたい」と下品な例えをされてしまう激情的な絆とのカップリングは面白く、今作のソムニウムパートの主役と言っても良いだろう。
そんなわけで、人間関係感動パートがかなりの文量あるのだけれど、当然このゲームそれだけではない。
最初に書いた通り、6年越しに死体の半身が見つかる、それも死亡推定時刻は6年前ではなく最近、という奇妙な謎を解かないといけない。
読者である僕からするととんでもない謎なのだけど、どうにも登場人物たちは謎と思っていない。
それどころか彼らの話す仮説の方がより謎を深めていく。
正直、今までそれなりの量のミステリを読んできているので、殺人事件の仮説の要点を踏まえることは得意だと思っていた。
その通り今作も最初のうちはふむふむと読み進められる。
歯車というか、そもそも主人公たちと読者である自分との間に齟齬がありすぎる。
と、事件の謎よりも、謎の仮説の方がどんどんと混迷を極めていく。
いったいぜんたい、根本的に「ナニが起きて、ナニを解決しないといけないのか?」そういう枠組みから疑う必要がある、そう気付かせられる。
まあ、そりゃそうなのだ。
打越鋼太郎という作家性、どう考えても物理的不可能な不可解な事件現場、登場人物と読者との情報の齟齬。
これらを踏まえれば、物語の構造に仕掛けがある類のトリックであることは明白だった。
なのだけど、僕はかなりあっさり引っかかってしまい、おどろきの声を上げてしまった。
ゲームで物語を遊ぶという構造的に疑うことをやめてしまう部分をうまく利用しているのが面白い。
正直ちょっと前作を踏まえると矛盾するのでは? と思わなくはないのだけど、どうも作者自身もそれはわかっていたらしく、かなりわざとらしいフォローが入っていた。
そんな物語の構造に仕掛けられたトリックを乗り越えて、お話は幕を下ろす。
完全にシリーズ恒例にする気満々のアレで締め括られる。
前作で始めてみた時の衝撃は本当にすごく、今作でも期待していたのと同時に、このハードルを越えられるか? と不安だった。
なのだけど、全くもって問題なし、前作並みのアレでの締め括りで感動的で、泣けて、笑える。
前作でも感情が泣き50パー、笑い50パーで半々になってしまいどんな顔して良いか分からずただただ感動したが、
今作も泣きと笑いの感動が同時に味わえた。
いやあ、よかったよかった。
そんな前作並みの感動の完結後、前作ではたった一文で示唆され、シリーズを跨いで追っているファンの度肝を抜いた、打越鋼太郎作品で度々登場する「アイツ」の件。
今作では1文ではなく、短いながらもちゃんとしたシナリオが展開することになる。
「物語の構造に仕掛けがある」という構造に仕掛けがあることが明かされる。
これ自体は、シリーズは異なるが同じ作者の作品を踏まえるとさもありなんではある。
しかし、その味わいは全く異なっていた。
そもそもこの種明かしがグランドフィナーレの後に来るという構成が根本的に何かおかしい。
これを「アイツ」の功績によって得られたシナリオグランドフィナーレにするのではなく、「アイツ」が少ししか登場しないシナリオをグランドフィナーレにする。
これになんの意味があるのか。
よく分からんけど、美少女動物園って安く手軽に儲かるジャンルじゃねーの?
本当に儲かるんだったら、こんなに減ったりはしねーよ。
美少女動物園は齟齬が生じやすいので、次のように簡易的な定義をする。
とにかく、登場人物になるべく男性がいないことが重要。誰にも自己投影ができないようにすることで、現実の動物園で檻の外から動物を見るように、画面からかわいい女の子の掛け合いを見て楽しむことができる。
それに加えて、厳格な定義としてニコニコ大百科の「難民」における「難民キャンプ扱いされやすいアニメの特徴」というところから引用する。
きららアニメで続編決定した作品はいくつかあるけど、それ以外の美少女動物園は「ゆるゆり」と「のんのんびより」ぐらいしかない。
したがって、美少女動物園は簡単に儲かるジャンルだとはいえない。
そんな中、アニメ産業の海外売上が2014年ぐらいから急速に伸びていき、2020年には国内売上を超えてしまった。詳しくは「アニメ産業レポート」を見てくれ。
当然、アニメ業界は国内人気より海外人気を重視するようになる。
海外人気の高いジャンルはジャンプ原作、マガジン原作、ラブコメとかあるけど、最も象徴しているのがなろうだ。
まず、なろうアニメは配信に非常に強い。実際、dアニメやAbemaの再生回数が非常に多い。
そういうところがあるのか、海外の動画配信サービス業者が配信ライセンス料を高い金額で買ってくれる。だから、たとえ国内で全然話題にならなくても続編が簡単に決まる。
特に「デート・ア・ライブ」や「月が導く異世界道中」は時代を象徴している。前者は、中国を中心に人気が爆発して続編がどんどん決まる。後者の方は、日本テレビが史上最高の海外セールスを記録したと決算資料でアピールするぐらいだ。
来期の2023年冬アニメは全なろう時代といえるクールだ。作品数は50作ぐらいあるけど、そのうち19作はなろうアニメだ。
放送されるアニメはどんどん増えているのに海外人気のないジャンルはほどんどない。
オワコンかどうかは俺たち買い手が決めることではない。売り手が決めることだ。
だから、俺は経営者目線ならぬ製作目線で「きららアニメはオワコン」と言っているんだ。(製作はアニメを作る資金を提供するところ。)
うん言える。
恋とか愛以外の話は普通にみんなと仲良くできるし、友達も多い…まあまあ多いほうだとおもう。
自分で自分の良しあし判断するのはむず痒いけど、少なくとも周りから仕事や遊びに誘ってもらえるうちは、嫌われたり、煙たがられたりしまくるようなタイプではない、とおもう。
じゃあ何らかの問題かなんかは、恋や性に関する部分の食い違いか何かだってことでしょ?
その他の部分に何も問題はないし、じゃあたぶんセクシャルの話とかになってくるんじゃない?
まあほかに原因があるのなら知りたいけど、私が齟齬や差異を感じるのは本当に恋愛に対する感覚だけだから、その部分としか言えないと思ってたんやけど、ちゃうかもしれんなら教えてほしいな?
(1)anond:20221023223518からの続き
いくら視覚的な識別手段が機能しない状況下で重要な働きをするとはいっても、これらの三感覚によって人間は、本当に相手のことを知ること、理解することが果たして出来るであろうか? 例えば、聴覚によってパートナーの本性を知ることが、人間に出来るであろうか? 正直に言えば、私はそうは思えない。
例えば、和漢朗詠集などに収められている和歌に次のようなものがある。
「いつはりの 無き世なりせば 如何ばかり 人の言の葉 嬉しからまし(もしも、この世界に嘘[ウソ]というものが存在しなかったならば、どれほど素直に、想い人の口にした言葉を喜ぶことが出来ることか)」
二人きりの閨(ねや)で同衾して、耳元で甘い愛の言葉を囁かれても、それでもなお。これは、そういう歌ではないかと、私には思える。あるいは逆に、愛の言葉を幾ら紡いでも、想い人がこの歌のようなことを言って信じてくれない。そういう人の役割を演じて詠まれたとも考えられる。
このように、視覚が働こうが働くまいが、嗅覚・聴覚・触覚が働こうが働くまいが、それらの感覚によって得た情報から築き上げるパートナー像は、畢竟、想像の産物であって、実像とは異なるところがある。したがって、引用した箇所に示した小松和彦の言葉「想像力による夢幻の世界における営み」という記述は、現実を的確に表現した、極めて正しいものであると言える。
ただし、そのような現実を突きつけられた時に抱く感慨が、男と女との間で大きく異なるのではないだろうか。
視覚的な情報を強く志向する男という種族は、その視覚の働かない状況下で、代替手段として精一杯に駆使した嗅覚・聴覚・触覚によって得た情報を元に、必死で作り上げたパートナー像という理解が、単なる想像の産物に過ぎないと言われたら、大きな心理的ショックを受ける人が大多数なのではないだろうか。
それとは対照的に(と言っても私は女性ではないから、あくまでも私の[それこそ]想像に過ぎないのであるが)、女性の多くは、昔の人でも現代人でも、仮に「視覚によってであろうと、嗅覚・聴覚・触覚によってであろうと、あなたの得たパートナー像とは、あなたの想像の産物に過ぎませんよ」と言われたとしても、案外あっさりと「そうでしょうね」と言って受け止めることが出来る人も少なくないのではないか。そのように私には思える。
もし仮にそうなのだとしたらの話ではあるが、それは「覗き見の禁忌」の本質として小松和彦も指摘した、あの「『本来の女性の姿』を晒すことの禁忌」によって、多くの女性が日常的に、好むと好まざるとにかかわらず、化粧その他の余所行き用の装いを強いられる経験、すなわち「今現在(明かりの存在する状況下≒現世)の我々が互いに見ている/見せている姿は、そもそも仮の姿である」という経験を積んでいるからではないだろうか。だから、上で述べたような「想像力による夢幻の世界における営み」と言われても、女性の心の中では男性のようには齟齬や混乱を生じ難いのではないだろうか。
もしかしたら「虫愛づる姫君」の中で言われる「鬼と女とは人に見えぬぞよき」という言葉は「本当の自分を他人に見せること/知らせることが許されないのは、辛いことである」という抑圧の面と同時に「本当の自分を他人に見せずに/知られずに済むのは良いことである」という解放の面をも併せ持つ、アンビバレントな言葉なのではないだろうか。
『鬼滅の刃』の作者である吾峠呼世晴は、女性作家であると推測されている。だから、ここで私が言うような「嗅覚・聴覚・触覚により相手(人間)の本性を看破・把握する[できる]というのは、畢竟、幻想に過ぎない」ということも「女は本当の自分を隠さざるを得ないように強いられている」という現実も、先刻承知の上で作品を執筆したものと思われる。
『鬼滅の刃』の主要な女性キャラクターには、胡蝶しのぶ、栗花落カナヲ、甘露寺蜜璃のような「本当の自分を他人に見せられない/見せられなかった」という女性たちが登場する。その中でも、胡蝶しのぶの印象深い場面として、竈門炭治郎の鋭敏な嗅覚によって「何か怒ってます?」という言葉を掛けられ、彼女の心の裡に秘めていた鬼に対する強い怒りと、その元となった深い哀しみの感情が察知されるという場面がある。この描写には「虫愛づる姫君」の「人に見えぬぞよき」という言葉に類似する、女性のアンビバレンスが込められているように私には思われる。亡き姉の生前の笑顔溢れる姿を理想像として、それを模倣して演じているとはいえ、胡蝶しのぶには、甘露寺蜜璃や栗花落カナヲとは異なり「本当の自分」を隠すべき強い理由は、さほどないようにも思えるが、しかし、それでも何らかの理由で思いを隠したかったのであろう。その上で、他人から隠したいという思いと他人に知って欲しいという二つのアンビバレントな思いを、胡蝶しのぶは抱いていたのではないだろうか。炭治郎に本当の感情を察知された時の胡蝶しのぶの表情には、そのアンビバレンスが顕れているように見えたと言ったら言い過ぎだろうか。そんな胡蝶しのぶに似た女性は、現実の世界にも多数存在するように思われる。
そのような思いを抱いて生きざるを得ない女性たちに対する、救済の思いを込めて、嗅覚により心の本音を察知するという描写を『鬼滅の刃』の作者・吾峠呼世晴は生み出したのではないだろうか。
それは虚構に過ぎないかもしれないが、それでも「この世界と人よ、斯くあれよかし」という、慈しみを込めた虚構である。
そして、そのような虚構には捨て得ない価値があると、私は思う。何故なら「過酷な現実を知っても、それでもなお」という、表現者としての覚悟のようなものを感じるからである。
(了)
(2022/10/25追記)香り・嗅覚による本性の察知・看破または偽装について論じるならば、珠世様の血鬼術にも言及するべきであった。完全に失念しており、これは初歩的なミスである。お恥ずかしい限りである。
なんか両極端な感想が多いのは、あえて主語を大きくして言うと「男性には忌避される」「女性は受容しうる」物語構成になっているからだと思うな。
https://anond.hatelabo.jp/20221022121601
この感想、読解について少し思うところがあったので書いておきたい。自分は漫画よりも演劇とか脚本の方が馴染み深いので。
最初に書いておくと、他人様の人生や他所のご家庭に物申せるほど人生を生きてないので、あくまでも"漫画"や"作劇"としての話になるよ。
まず、エッセイなんだから随筆、いわゆる散文であって、そもそも構成やパターンが無い。何しても良い。
そういう意味で、例えば三幕構成じゃないとか起承転結が無い、みたいな批判はできない。
別にエログロじゃなきゃいかんとか、カタルシスが無いと、みたいなのも無い。
じゃあ、何を言いたいのか、それは伝わってるのか、という点だけ気にすれば良い。
その意味で、"ある特定の読者には受容される"お話の流れになっていると思う。
それが、"漫画が読めるハッシュタグ"と銘打つには弱いのがポイントだと思う。
良い点と悪い点をリストアップしてみる。
最初に"受容される理由"からだけれども、共感を得られやすい物語構成になっている。
多かれ少なかれ自身ではどうにもならない理由で嫌われたり上手くいかないことは、まあ良くある。
そして、それを克服するのではなく、受け入れる、その上で前に進むというのは、前向きなメッセージ性を持つ。
だから、特に前半の「生きているだけで嫌われる」という部分に共感する人には、とても良いコミックエッセイになっていると思う。
次に"忌避される理由"だけれども、何の解決も行われていないから、に尽きる。
例えば、嫌われる理由が最後まで明らかにならない。"生きているだけで嫌われる"ことが自明のこととして描かれている。
空気が澱んできた、という描写も、特に解消されない。なんかよくわからないけど嫌われる、そして虐められる、という流れが覆らない。
そうすると、わが子を見て「ただ生きているだけで嫌われることがありませんように」という祈りは、ゾッとする描写にしかならない。
なんなら笑顔じゃなくなったわが子と折り合いが付けられない可能性すら感じさせるコマで終わっている。
(コミックエッセイなんだから好きにしたら良いんだけれども)一般受けする形式に寄せる場合ね。
例えば、包丁を突き付けられるっていうのは結構インパクトがある。そんなバイトある?と思うかもしれないけどワリとある。
俺は一度角材でぶん殴られたことがある。まあ、工事現場で交通誘導に失敗したからなんだけど。
まあ、「ドタマかちわったろか!」みたいなのは、生死に直結してしまう職場では結構ある。
だから、例えば調理場で色々言われて慌てふためいて、フライヤーの油を高温のまま床にぶちまける、みたいな事故も起こる。
「作業中閉めるな」と書かれた札をうっかり見落として、閉めて鍵をかけたうえで、定時に職場に自分しかいないので困って鍵を持ったまま自宅に帰り、次の出社日に返せば良いかとノホホンとしていた実例を知っている。(警察沙汰になったが幸い閉じ込められた人は無事)
何でこんな話をしたかというと、「あの包丁を突き付けられたのには、実はこういう前フリがあった」という対比があれば、ずいぶん違ったと思うから。
そういう意味では発達障害を持った人にとっては、これは"話を盛る"って部分にあたる。
「私が調理場に入ると、いろんな人にフォローしてもらっていた。それは私だけだったかも」とか。
「手順書や説明書が理解できずに、いつも必死に努力して自分なりに書類を埋めていた」とか。
「事務職で無視されるようになったきっかけは、自分では努力しても覚えられないので、同じことを5回ほど聞いた時だったかも」とか。
捏造してでも、「なぜ」を入れることで、「虐めや悪意」が「怒りや失望」に転換される。
自分のせいじゃなかったんだ、発達障害だから虐められたんだ、この子は虐められないと良いな、少なくとも私は理解者だよ。
これは、共感する人もいると思うし、受容されやすいメッセージ性を持つと思う。
まったく同様の意味合いで、これがホラーの導入部だと受け取られたり、苛立ちをもって忌避される構造を持っている。
ある人が日本の職場で生きづらい特性を持つ、そういう人も生きやすい世の中になると良いね、というのと
その特性が職場のどこかに負荷をかけたり、ことによって生き死に関わる危険を持つというのは、同時に満たせてしまう。
でも、件のコミックエッセイにおいては、虐めとして表現され、自分のせいじゃなかったと安堵までされている。
受容の物語が、"自身の受容"以外を一切排除した形で描かれると、忌避感を持たれやすい。
これは、夫や両親、友人や過去の同僚への回想でも良いけれども、他者とのやり取りを通じてその受容が描かれると忌避されることがグッと減る。
もしくは職場では無くて人間関係で悩んでいたという前半部に置き換えて、いまは特性を理解してもらえるよう人間関係を構築しています、とか。
他者を交えた分かりやすい受容の物語の方が、受け入れられやすい。
結構な数の物語が、ある障害を乗り越えるもしくは乗り越えられなかった、というパターンを持つ。
前半部で示された障害が「虐め」であり、乗り越え方が「受容」であるなら、オチは「許し」であろう。過去虐めていた人を許す。
前半部で示された障害が「生き方(労働)」であり、乗り越え方が「受容」であるなら、オチは「生き方を変える」であろう。労働以外に生き方を見出す。
つまり、「生きづらさ≒虐め」を「受容≒私のせいじゃない」としてオチが「祈り≒理解者」とすると、次の展開は「わが子が虐められる≒生きづらい(≠私だけはわかってあげられる)」になってしまう。これは「虐め」という障害を、「受容」して乗り越えた結果になっていない。わが子にバトンが繋がってしまっているがゆえに、解消が行われなくなっている。
いまのままだと、わが子にも同じ苦難が待ち受けており、特にそこに救いはない。
(辛い時期に「お前も結婚して子供を持てば救われるよ」と母から言われるのってバッドエンドでは?)
逆に言えば「わが子が虐められる≒生きづらい≒私だけはわかってあげられる」にするのであれば、障害は「誰もわかってくれなくて苦しい≒理解者がいなかった」にする必要がある。
この場合は、「理解者がいない」という障害を「診断結果を受け入れた自分が理解者になる」ことで乗り越えて、オチが「わが子には理解者がいる(私はダメだったがこの子は大丈夫)」になる。
エッセイなんだから自由なんだけど、狭い読者層向けのつもりで一般的な人に読まれるハッシュタグをつけると、齟齬が生じて疲弊することがある。
あんまりエッセイ漫画では乗り越えられなかったパターンを見ることは無いんだけど、実は演劇なんかだとそういうのも良くある。
まあ、「失踪日記」とかは乗り越えられていないパターンになるのかな。あれも他者の目線が入ることでああ困った人だなあでも楽しそうだなあ関係者の皆さんは大変そうだけど、みたいな可笑しさが生まれていると思う。
そういう意味では作劇とか全無視して、とても良い質感のクソ職場の虐め描写と同じ質感で今の家庭の会話を描き出すだけでも、かなり一般からもらうフィードバックは変わると思う。
一部読者が「私はわかってるよ」とラブレターを出すだけで救われる作者が多いのは事実だけど、やっぱ一般受け狙うなら一般に受け入れられやすい構成の方がお得よ。
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1602904.html
(一部抜粋)
ひろゆきさんが提示した21日午後7時から取材をインターネットで配信することを前提に調整を進めてきた。配信は仲介者のユーチューブ・チャンネルを想定していた。
~
・最初から第三者のYoutubeで取材内容を配信して公開することについて事前で合意したので間違いない。
・その時点では具体的なチャンネルについては指定がなかった。(おそらく)
・その後、10/19に具体的な配信先がFM軽井沢であること、生配信であることがひろゆきから連絡された。
ひろゆきは取材の打診時点では配信先を確定させていなかったのが分かる記録がある。
10/18のFM軽井沢の放送にて、ひろゆきが放送局に配信について交渉してる場面がある。
https://www.youtube.com/watch?v=iu-0JrsEBzo&t=2836s
19日に条件を報告したので、配信先について連絡したのがこの後だ。
メディア側の常識として、取材をする側が独占的に第一報を出す権利があると思っている。
琉球新報は新聞なので、どんなに早くても報道は翌日以降となる、
生放送されてしまったら、取材しにいったメディアなのに後追い報道になってしまう。
これではわざわざ取材しにいく意味が無くなってしまう為、琉球新報は当然第一報の権利がある録画配信となるのが当然だと認識していた。
一方ひろゆきはYoutube上での配信というのはライブ配信を含んだ概念であり、生放送も当然含まれると考えていた。
ひろゆきは自身のYoutubeチャンネルでもほぼライブ配信しかやってない。ひろゆきにとってYoutube配信とは生配信のことなのだ。
Youtubeで配信を条件に取材を受けるというのは、ひろゆきからしたらライブ配信を含んで当然の話なのだ。
・21日午後7時から取材をインターネットで配信することを前提
という表現は取材をライブ配信することを当初から意識してるなーという印象だ。
19日に具体的な配信チャンネルと生放送であることを伝えられて琉球新報はビックリ仰天!お断りするハメになってしまった。
ひろゆきは当初の想定通りの条件を確定させただけなのだが、琉球新報は当たり前と思い込んでいた録画配信の条件でないことを条件追加だと思ったのだ。
これは双方の認識の齟齬が引き起こしたものであり、どっちが悪いというのは微妙な話だ。
ライブ配信で決定するというのは新聞社からすると、独占的に取材記事を出せる立場から、後出しで記事を出す側に逆転してしまう。
スクープを出す側から提供する側になってしまう。ライブ配信で取材をするという意味はオールドメディアのアイデンティティを潰す位の話なので。
それを今まで条件に無かった!追加だ!というのはメディア側の驕りも含んでるかなーとも思うけど、
ひろゆきもメディアの特性を理解した上で意図的に新聞社の取材価値を潰しにいってそうでカスだなーと思うのでした。
https://twitter.com/hirox246/status/1583360777259712512
ひろゆき「言った言わない」になるから公開のLiveでやりたい。
↓
↓
琉球新報「条件が追加されたため、準備が整いませんでした。」
どこに追加の条件が?
↑の増田。
追記↓
文章中で結構疑問文あるけど、それらはお互い面倒くさいだろうから全く答える必要なし。なんなら返信自体くれなくていい。それよりゆっくり考えて。善人を騙るのであれば全部読んで端的に反論して俺を納得させろ。
個人的に、善人って名乗る奴は荒らしとか誹謗中傷する奴より苛つくんで、つい噛みついた。悪かった。
俺以外の誰かが漫画とかで正義感養うこと自体は否定しない。ただ「完全に理解した」で思考停止するのはバカのやることなんで、気をつけて。
追記↑
ちゃんと律儀に返すのは誰にでもできることじゃない。
さんざん小馬鹿にしてくる俺のことを本心でどう思ってるかはともかく、そこは元増田の美徳だと思うわ。
あえて断言するけど、元増田は善人ではない。
これから結構キツいこと言うけど、善人でありたいと願うなら、俺がこれから偉そうに言うことを肝に銘じとけ。
ちなみにかなり長いから、あんま傷つきたくないなら最後のまとめだけ読んで。
1つ目に関してはまあ善行でいい。
3つ目は正直、俺からすると「いただきます」「ごちそうさま」並に当たり前で日常の行為だ。自ら善行と宣言するにはいちいち覚えてられないほど小さい。
追記↓
感謝って何か分かるか?
感謝ってのは、相手が先に何かしてくれた結果、それを得難いものだと思ったから出てくる気持ちなんだよ。
つまり、「相手が先に何かしてくれた」の時点で相手にとってはマイナスで、感謝の言葉を伝えたところでマイナスが精々プラマイゼロにはなっても、善行と呼べるほどプラスになることはない。
この場合善行と呼べるのは元増田の行為じゃない。先に施してくれた相手の行為だ。
そこに気づいてない時点で考えが浅い。
追記↑
重要な情報が2つ抜けてる。「誰に譲ったか」と「席を譲るまで元増田がどのように席を確保していたか」だ。
情報を補足して、たとえば「電車で席に座っていた元増田は、目の前にいた高齢者を見て席を譲った」だとする。
このような場合だと、やっぱり自ら善行と宣言するには弱過ぎる。
別に高齢者じゃなくて妊婦でも子連れでも障がいのある人でもそうだけど、大抵の人は一、二回遠慮するもんだ。そういうやり取りによるストレスが、座れたことによる安心感を上回る場合もある。
さらに、目の前に席を譲る対象がいなかった場合、元増田は「誰に席を譲ろうか」と考えて車内を見回すだろう。その選択はどのようにしている?自分の中で優先順位があるんじゃねえの?見た目じゃ分からない辛さを抱えてる人だっているだろう。ホントにそれは善行なのか?
俺からしたら、席を譲るというのは独善的な行為だ。譲らないよりはよっぽどマシだけど、「不良が子猫を拾う」みたいなもんで自ら宣言するほどのものじゃない。
それに比べたら、「電車ん中?譲ったりすんの面倒だからずっと立ってる」って奴の方がよっぽどまともだ。
元増田自身が普段は座ってないと辛いタイプの人間だったらすまんけど。
てか、それくらいのことしか挙げられないの?本当に小さすぎる。それくらいならいくらなんでも俺だってするぞ。
駅構内で明らかに困ってる男性外国人に声かけて乗るべき電車教えたらめっちゃ感謝されて無理矢理駅構内の回らない寿司奢られたとか普通にある。いやこれは俺的にすげえ対価貰ってるし、善行じゃねえけど。
追記↓
ちなみに上記以外にも道案内したことが何度かあるけど、俺は八方美人しがちで「人助けしてる俺カコイイ」って欲がある。だから俺の道案内は善意じゃないし善行でもない。自慰行為にたまたま近くにいた他人を巻き込んだだけ。
追記↑
「良い結果」ってのはその他人にとっての良い結果なの?それとも元増田にとっての良い結果なの?
元増田の善意による「良い結果」が人を殺したら、元増田は事後的にその善意についてどう考えるの?反省するの、しないの?
「良い結果」と、「良い結果が人を殺した」って事実とをどう(追記:「どう」っていうのは、「人を殺したり、他人に迷惑をかけた」以外にもどこかに影響が出てる可能性があるだろ、その影響範囲の内外を線引きする覚悟は出来てんの?みたいな意味)天秤にかけて、誰が(追記:どちらがより悪いかを)判断するの?
考えが浅すぎる。善人を名乗る決意が安っぽすぎる。むしろ一周回って悪人に見える。鱗滝左近次だって色々言ってるだろうが。漫画からなんも学んでないじゃん。鬼滅読んでないなら知らんけど。
学の無さや配慮の無さ、怠惰性がたたって良い結果にならない事があるのは自分でも認めるところですが、基本的に他人には善意を持って接したいと思っていますし、自分に関わった人間には良い気持ちでいてほしいと心から思っています。
と言ったな。
これを俺は、元増田が「俺は基本的に善人である」と個人的に思っているのだなと捉えていた。
で、俺の質問「元増田の思う『善人』の定義は?」に対する回答はこうだ。
上記のような想い(善意)を持っている人間は「善人」かなと思います。
おいおい。
それ最初(追記:元記事の時点)に言わないといけないやつだろ。
元増田は以下のどっちなんだよ。
どちらにしろそれ以外にしろ、善人でありたいなら「善人」って言葉に対するそのクソ甘い認識は改めろ。
「自分は善人である」、そう思うのは自由だ。自己暗示かもしれないし。
だけどそれを人前で言った瞬間に、その言葉は元増田自身の定義「二分されるものでなくその時の状態を表す」をもって矛盾か、嘘か、傲慢になる。
その矛盾や嘘や傲慢は、自覚のありなしに関わらず、少なくとも俺にとっては悪意以外の何物でもない。
かろうじて元増田にとって悪意ではなくても、その矛盾や嘘や傲慢は、善人であろうとすればするだけ元増田自身を苦しめるだろうが。
その定義に沿うなら、せめて「俺は常日頃からできるだけ善人の状態を維持したいと思ってます」と言え。
明文化するのは難しいですが「社会で生きていく中で他人とのトラブルを避けることができるような考え方、マインドセット」という感じですね。
でもそれ(追記:元増田の定義)、元記事の「善意を良しとする考え方(正しい正義感)」と何か関係あるんか?
要は事なかれ主義ってことだろ?そうとしか読めねえよ。(追記:元増田の言う)善意だとか正義感とかと全く関係ない。
長い追記↓
いやも〜、この言葉がまじで意味分かんなすぎて、俺、あんま考えずに強い言葉で断じちゃったよ。
お互いの認識に齟齬があるかもしれないから、修正するために補足する。修正できるか分からんけど。ややこしいし。
まず、「善意はその主観的な〜」の「その」ってのがどれを指してるのかすっげえ分かりにくい。
指示語(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/指示語)の多用は読者に要らぬ誤解を招きやすいから気をつけた方がいいよ。俺も気をつけるわ。
で、今んなってよ〜く読むと、なんとな〜く「その」は「誰か」のことで、「その主観的なハッピーエンド」は「誰かの視点で納得のいく、モヤモヤとしたものが残らない結末」のことなんかな〜ということがかろうじて分かる。
すなわち「善意はその主観的なハッピーエンドの押し付け」を読み替えると、「善意とは、『対象自身が納得でき、かつモヤモヤとしたものが残らない結末』を、同対象に対して押し付けることである」ってことになる。
いやいやいや、分かりづれえって。
俺はさあ、この記事を書いた当時、「え、意味分かんね」ってなった後ちょっと考えて、「その」は直前の「善意」のことなんかなと思ったんだよ。
そうすると、「善意はその主観的なハッピーエンドの押し付け」って言葉は、「善意とは『元増田が主観的に考えたハッピーエンド』を『誰か』に対して押し付けることである」って読める。
違うんだな。やっと分かった。あ〜疲れた。
以上の追記と、元増田が思うハッピーエンドの定義を総合し読み直して、ついでにちょっと言葉遣いもアップデートして俺の主張をあらためると、以下のようになる。
ハッピーエンドを押し付けるとき、対象が善人の状態か悪人の状態かは気にしねえの?「善人悪人は二分されるものでなくその時の状態」なんだろ?
押し付けるときに善人か悪人かで結末が違ってくるかもしれないし、同じ結末でも善人か悪人かで納得したりしなかったりするんじゃねえの?
元増田は対象に、ハッピーエンドを押し付けることの合意を事前に取るの?取らないの?
合意を取るのであれば、ハッピーエンドを押し付けるのは元増田であるって情報は対象に知らせるの?知られないようにするの?
合意を取らないのであれば、どうやって対象が求めるハッピーエンドを導き出すの?
ていうかそもそも「結末」ってなに?どの時期・どの場所・どの目標にゴールポストを置くの?置くところは誰がどういう基準で決めるの?
たとえば、一旦元増田の善意でなんらかの形で結末の位置が決まってハッピーエンドを迎えた善人が、後の人生でバッドエンドを迎えたらどうすんの?心を痛めるの?反省するの?あるいはバッドエンドを迎えないようにその善人の一生をずっと見守るの?それともハッピーエンドの後については関知しないの?
もうね、いくらでも出てくる。正直ツッコミどころが多すぎてキリがない。
「あっ、元増田はハッピーエンドが好きなんだね〜良かったね〜」ってことしか分からない。
なんで俺がわざわざネチネチこんなにツッコんでるか。
ツッコミの回答がどうあれ、元増田の善人を標榜した上での態度は無責任なんだよ。
対象が考えるハッピーエンドが「人類滅亡」とか「不老不死」とか「異世界転生」とか「世界平和」とかだったらどうすんの?
一応元の主張も残しておく。
追記↑
誰かって誰?特定の第三者?ランダムに選んだ第三者?元増田?その人自身?それとも不特定多数の人?
モヤモヤとしたものが残らなければ良いんだったら、バッドエンドだってそうなり得るだろうが。その「誰か」が具体的に誰を指すかは知らんけど、いずれにせよ元増田の定義により、「善人の状態」とは限らないんだから。
主観的なハッピーエンドの押し付けは、それはもう全くもって善意じゃねえ。
全体的に考えが浅い。徹頭徹尾、自己中心的で曖昧模糊で矛盾が多すぎる。
ただただ黙々と善人で「あろうとして」、何かに尽くした元増田の言動を、元増田の意志とは関係なしに「たまたま」見た「誰か」が判断するんだよ。
だから「誰かにとっての善人が、他の誰かにとっての悪人」ってことが起こる。
善人ってのは、自分で名乗るもんじゃねえんだよ。んなもん、言った瞬間に、元増田の想定しない「誰か」にとっての嘘になる。想定してる「誰か」だって幻滅するかもしれない。「森羅万象にとっての善人」なんてあり得ねえんだから。どっかにいるんなら具体例を挙げてみろ。
誰かにとって嘘と判断されることを受容できてなお善人を自ら名乗るってんなら、元増田はもはや善人じゃない。いつでもどこにでもいくらでもゴキブリみてえに湧いてきやがる、クソったれな偽善者だ。
んでもって善意とは何かと考え続けろ。
これは漫画百万冊読んだくらいじゃ到底解決できない。ひたすら長くて、複雑で困難で苦しくて、だけど唯一真っ当で、一生つきまとう課題だ。
出版社による「編集」というのは大きく分ければふたつの側面がある。
「雑誌 (とか出版社として得意な種類の出版物) を企画してそれに沿うように作家を監督する」という企画者としての編集。
「作品を成立させるための資料集めや手続き、マーケティングなどを行う」という代理人としての編集。
漫画やラノベなどのエンターテイメントは前者寄りになる。 出版社の意向に従えという力が強く出る。
作品の質が一定以上に面白いということは当然の大前提だけど、人気が出るには広く人目に触れるというのが重要なので広告力がものをいう。
まず存在を知っているという前提がないと選択肢に入らないんだから当たり前だよね。
更に言うと単純接触効果と呼ばれる現象があって、内容にかかわらず頻繁に目にするものには好感を持つものなんだ。
誰もが知っている大人気作品である「ワンピース」「名探偵コナン」「プリキュア」などより面白い作品というのは世の中にいくらでも埋もれているよ。
でも、これらに人気があるのは大手が大々的に広告しているからだ。
作品の人気に作家が貢献している割合というのは (たぶん作家自身が思っているよりは) ずっと小さい。
とはいえ、前述の「一定以上に面白い」というラインを越えられる作家すら割合で言うとそんなに多くは無い。
そしてどれが一定以上に面白いと思ってもらえるかってのは事前にはわからん。
だからある程度には多様性を維持するしかないし、その中でもなんとかウケる手法を確立しようと出版社は努力する。
ウェブ上に投稿された素人作品の内でそこそこ人気があるやつを出版するという方法。
ある程度はウケているということがわかっている作品を出版する形になる。
どうすればウケるのか考えなくなるし、作家を育てるということもなくなる。
「倫理観の共有」をするためには、
そもそもどこにも嘘はないと思っている人もいるし、あなたが嘘だと思っている点が誰かにとってはそうではないかもしれない。
倫理観の共有っていうのはその先にあるんじゃないのかな。
というわけで自分が検討した5つのポイントを共有し、最後に倫理観の共有を試みてみるよ。
対象:座り込みを行っている人達が24時間座り込んでいないこと
理由:辞書に「座り込みとは24時間座り込むこと」と書いてあるから
調べてみたけど、24時間座り込むことが座り込みだと書いてある辞書は見つからなかった。
どの辞書にも座り込む時間についての指定は特にないから、何時間座り込んでいれば座り込みと呼ぶかは特に決まりがないみたい。
2019年に河村名古屋市長が表現の不自由展への抗議のため行った座り込みは7分間だったみたいだけど、まあ座り込みは座り込みなのかな。
https://www.huffingtonpost.jp/entry/takashi-kawamura1008_jp_5d9bf259e4b09938980543a6
対象:座り込みを行っている人達が24時間座り込んでいないこと
理由:あなたが「座り込みとは24時間座り込むこと」と思っているから
これはね、座り込みをやっている人達は「座り込みとは24時間座り込むこと」と思ってないんだよ。
座り込みの参加案内にも「座り込み時間は平日の午前8時から午後4時までです」と書いてあるから、それが彼らが決めた現時点における座り込みのルールなの。
(あとは参加案内にはないけど「搬入車が来るタイミングで座り込みます」もか)
https://lovehenoko.org/%e5%ba%a7%e3%82%8a%e8%be%bc%e3%81%bf%e5%8f%82%e5%8a%a0%e6%a1%88%e5%86%85/
少なくともそのルールに基づいて座り込みが行われている限りは嘘ではないよね。
別の観点で「世間一般で使われている意味と違うから嘘」と言う人もいるけど、ある言葉についてよく知っている人とあまり知らない人の間で意味に齟齬が生じることは結構あるよ。
2点目も嘘ではないと判断した。
ちなみに世界各地の座り込み(sit-in)運動を紹介してくれてる人がいるけど、世界規模で見ると「座り込みとは24時間座り込むこと」は共有されてない感じ。
https://twitter.com/tkatsumi06j/status/1577279730537365505
24時間やってそうな座り込みを探したらパキスタンの学生デモが見つかった。だけど「座り込みとは24時間座り込むこと」ルールに基づくなら「寝てるから座り込みじゃない」ってことになるね。
https://twitter.com/QasimBaluch/status/1578670118787108865
対象:座り込みを行っている人達が看板で「連続座り込み3000日」とアピールしていること
なんかこれを言ってる人もいるみたいだけど、看板のどこにも「連続」って書かれてないよね。
https://twitter.com/oogesatarou/status/1577827323209928704
対象:
理由:
まず、関係者は「以前は搬入の時間が決まっていなかったので24時間監視していた。今は決まった時間に搬入されるのでやめている」と言っているから辻褄は合っていると思う。
それが嘘かどうかは誰も辺野古に行って確認していないから判断のしようがないね。
次に、あなたはひろゆきさんが見に行った時点での看板を問題にしているんじゃなかったの?
過去の任意の時点まで遡って看板の記載に1つでも誤りを見つけたなら現在は誤りがなくても嘘つき認定していいってこと?その倫理観は共有できないなあ。
対象:ひろゆきさんが「座り込みとは24時間座り込むことと辞書に書いてある」と言ったこと
理由:辞書に「座り込みとは24時間座り込むこと」とは書かれていないから
ひろゆきさんは質問に答える形で「24時間してないと座り込みと言わないという定義が辞書に書いてある」と言ってるね。
https://twitter.com/atsushi_mic/status/1577552578485030912
1点目に書いた通りどの辞書にもそういう記述はなかった。だからこれは嘘だと判断するよ。
オレオレ、俺だよ。
厳密には俺の主張の帰結としては反論ではなく、元増田の情報不足に対する補足なんだけど、これは俺がそうとも読める書き方をしたのが悪いな。
「この増田の主張を前提に」俺から言わせれば、ごく稀だからこそ、取り上げることに意味がある。
俺の主張の一番重要なところは、「人間が警備する限り、起こらないってことはないでしょ」ということ。
そこを
とシチュエーションを限定して書いてしまったところは俺の反省するところだけれども。実際他の増田にツッコまれたし。
「例外的事象」については、元増田の主張を前提の発言ととればまあ、「俺は」理解できなくもない。
ただ、少なくとも明石の事故の当事者にとっては例外的事象ではないだろ?
元増田や擁護した増田についたブクマカの中にも、当事者として明石の事故に言及した人たちがいるかもしれない。
その当事者たちは、明石の事故の経験によって、元増田の主張する「雑踏事故を甘く見過ぎてはいけない」ということを身をもって知ったわけだろ?
そんななかで明石の事故を例外的事象として捉えてしまって良いのか?
んでもって、「ごく稀」とはどれくらいだ?
どれくらいの期間のうちどれくらいの件数であれば、「この増田にとって」「ごく稀」であると言える?
よく言われることだし、元増田の
の「まず」にも係るけれども、曖昧な言葉遣いは、読み手側に書き手側の意図しない解釈を与えやすく、批判の糸口になりやすいから気をつけた方がいいよ。自戒を込めて。
さて、ここでまた、このやさしく暇をもてあました俺がこの増田の代わりにちょっとだけ調べてあげよう。
まず、当初俺は「雑踏事故」というワードで調べたのだけど、「群集事故」という呼び方もされているようだ。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/群集事故
ここに書かれている内容に元増田の主張と齟齬があるようには感じられなかったので、以下群集事故を調べることにする。
調べた限り、一番事例が載っていたのはこれ。
https://www.wikiwand.com/ja/事故の一覧#群集事故
で、元増田は1972年以降の事例を(宇崎ちゃん以外に)挙げていないので、
の条件で絞り込んで拾い上げると、2001年の明石の事故までに少なくとも2件起きている。
一つずつ挙げていく。
Wikipediaには項目がなかったが、昭和54年の警察白書に事例として記載がある。
https://www.npa.go.jp/hakusyo/s54/s540800.html
ただし、警察が事故の起きた当時警備業務に関わっていたか、事前にコンサートの概要を把握していたかは読み取れない。以下白書より引用。
1月、札幌中島スポーツセンターで開催されたイギリスのロックバンド「ブラックモアーズ・レインボー」ショーで、興奮した観客約500人が開演と同時にステージに殺到し、このため、いすにつまづいて倒れた観客が将棋倒しとなり、下敷きとなった1人が死亡、7人が負傷した
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ラフィンノーズ公演雑踏事故
この公演に3000人の観客が集まり開演と同時に観客がステージ近くにまで駆け寄り演奏に興奮した一部の観客がステージに上がろうとし、それに続こうとした後続の観客が重なるようにして転倒・下敷きになったのが原因であった。この事故で死者3人・重傷1人・軽傷19人の計23人が被害に遭った[要出典]。主催者は公演前日に警察署に届出をしたが、当日は主催者スタッフのみで警備員の配置を全くしていなかったことも事故を増幅させた。
これは当時の音楽ファンの間では有名な事故みたいなんだけど、情報源を探すのに苦労した。
https://aucview.aucfan.com/yahoo/s1053964729/#&gid=1&pid=3
ちょっと目を通すだけでも、Wikipediaの記述と相違があるように見受けられる。速報だからかも知れないけど。
ことが辛うじて読み取れる。
本件に関するこれ以上の調査は図書館行って当時の新聞を読み漁る必要があり、こもりびとである俺の行動できる範疇を超える。誰か調べてちょ。
らしい。
その要綱の内容は、やっぱり探すのに苦労した。Wikipedia記載の警察庁への外部リンクはhttpでリンク切れになっていて、httpsにしてみてもnot foundだった。
代わりに見つけてきたのは↓。栃木県警が上記の要綱を受けて、内部通達した資料と思われる。
https://www.pref.tochigi.lg.jp/keisatu/n15/jourei/documents/11_2.pdf
一応、時期的にも内容的にも一致しているように見える。
詳細は各自で読んで欲しいし、俺も全文はさすがに読んでないんだけど、要綱の
警察は、施設使用公演等に伴う雑踏事故の防止対策に資するため、これら事故の過去における発生実態及び原因等の分析を行うとともに、タレント等の人気度、観客層の構成等の実態について、平素から把握に努めるものとする。
という記述をみるに、この事故は、その発生以前と以後で警察の雑踏事故に対する態度が変わったという意味で、取り扱っても良い事例かもしれない。
に、
がこの時点で加わったわけだ。
元増田は主に戦後日本の雑踏警備について話しているので、ここでは戦後(1945年以降)に限って話を進める。
群集事故件数の年次推移的な資料を探したのだけどなかなか見つからなかったので、ここは妥協して「報道されるほどの被害をもたらした事故」に限るとし、先ほどの群集事故の一覧で数えることにする。
自分で数えた限り、1945年から現在までの80年弱で、日本では明石の事故含め21件ほどの群集事故が起きている。
明石の事故の前後は、前は先述の1987年ラフィンノーズ公演雑踏事故、後は2003年の中日阪神戦でのファン乱入・乱闘騒ぎ。
ちなみに後者では死者は出なかったものの、誰が使ったか知らないが防犯用の催涙スプレーが使われたとある。なんでや阪神関係あるかわからへんやろ。
んでもって、1945年以降1972年までの28年間に13件、1973年以降現在までの50年間に8件。
当然、
といった点は考慮すべきではある。
けれども俺としては、明石の事故がというよりは、報道されるほどの被害をもたらす日本の雑踏事故自体が、数年に1〜2回程度しか発生しないという印象を持つに至った。
大きな事故は、数年に1〜2回程度。
だからこそ、恐らく雑踏警備は難しい。
ラフィンノーズ公演雑踏事故の教訓を受けて、「常日頃から情報収集に努める」という要綱を施行した14年後に、明石の事故が起きた。
そしてその主たる原因は、過去のイベントの警備計画をほぼ流用した警察らの怠慢にあった。
その14年間に色々なことがあったであろうことを隅に置いて物事を単純に捉えると、明石の事故の当事者の方々には大変申し訳なく思いつつも、警察のこの失敗に共感してしまう自分がいる。
もし俺が雑踏警備を主たる業務とする警察官(仮定が成立するかは知らん)で、5年も10年も雑踏事故が起きなかったら、全てではないにしてもいくつかの雑踏警備に手を抜いてしまう可能性を否定できない。俺怠け者だし。
長期にわたって怠慢に抗うのは、少なくとも俺にとっては、とても難しい。
おわり。
「どうすればいいんだろう」に回答する。
以下詳しく、
好きだの愛してるだのふわついた気分で結婚しちゃダメ、遊び相手にとどめておけ。
家柄や宗教やら両家の価値観全般に齟齬が無いことを確認した相手同士で顔合わせする。お見合いと言う。
結婚後のトラブルに中立な第三者が関与できるように仲人を置く。
こういうの面倒くさいと全部すっとばして、だって好きなんだもん、で
いまさら、常識が違う、価値観が違う、思ってたのと違う、死にたいて
アホですか?w
先人の叡智を蔑ろにした罰だわ
それでも結婚続けたけりゃ、価値観の異なる人間を許容すべきという価値観を周りと共有できるように努力しろ
妻の言い分も、妹の言い分も認めるしかねぇんだよ
解決しようなんて思うな、無理だから、お互い価値観が違うんだから笑って誤魔化してりゃいいんだよ
「まぁみんなそれぞれで、みんな正しいよねーーてへへへへ」
言うとけばええねん
なぁに地球が滅びるわけではない
最悪なのは自分の価値観の正しさを信じて主張し調整し周りを従わせるの
苦労が増すだけ
あー俺は元増田がキレてるって認識じゃなくて、これ以上齟齬が起こり得ないように直截的に言った、という認識だった で増田にはあくまで愚痴として書いたって感じ
その上で家族葬ってのは通例よりも家族の事情を優先するためのものだと思ってる。(人間づきあいのためにある程度通例を守ることはあるだろうけど、それは家族の事情の範囲内で)
だからこそ断られた供花を出すってのはNGだと思う。嫁さんができるのは、結婚しているんだから家族として参加する必要があると強く主張することだったと思う。
どのように叩かれているかを書くよりも、増田がどこが好きか書いてくれよ。
以下は俺が考えているそれぞれの叩かれている理由。(あくまで叩かれてる理由であって俺が嫌いというわけではない)
人気が無い理由は他の敵に比べて主張がわかりづらい、DIOありき、能力が強すぎてバトルがわくわくしないあたり。
現実に起こっていること(最新作でいうと虐待)をテーマとして扱うわりに対応がファンタジーすぎで監督の認識がおかしいと思われてる。
叩いてる側が勝手に読み取ったわけではなく監督本人がインタビューで堂々と扱うテーマについて言っているので擁護しづらい。
作品の出来ではなく過去にジオン大好きな視聴者がうざすぎたので反動で叩かれている。
暁相手に殉職というがその際の戦いがあまりにもシカマルの成長のための描写でアスマ含めシカマル以外のメンバーの頭が悪くなったように感じられたため。
作者が悪いと思う。
火影の血縁なのにただの上忍だというおいしいポジションなので「大人は劣等感とどう向き合っているのか」みたいな描写を期待していたので残念。
俺は好きだけどもっと大技あってもよかっただろとは思う。
過去作のプリキュアを登場させた代わりに本作の登場人物の描写が減ったせいで説得力が減った。
声優の演技を聞いたり書いていく内に敵側のガエリオの描写を増やしていった脚本家と、各種インタビューで反感を買う発言を多々した監督が悪い。
最終話放映直後は賛否両論だったのに監督の発言が増えるにしたがい評価してた人も言葉を濁し始めた。
MSの人気はある。
脚本が遅いせいで作画が間に合わず戦闘シーンの使い回しが多すぎたのに加え、後半はできるだけ不殺を貫いた結果宇宙空間に放置されたパイロットの問題など独善だと叩かれた。
ただこの段階では地球連合とザフト双方のトップの主張の方がヤバいため、賛否両論だった。
DESTINYには前作と違いザフトのトップの主張がそこまで頭がおかしいものではない、キラ達のゴールが見えない、アスランが所属変えすぎなどで叩かれた。
大筋が変わってないがオリジナルのセリフが多い漫画版2種の評価が高いので、制作が遅れていなければもっと評価されていたと思う。
俺は好きだけどシンがせっかく葛藤を見せはじめてから描写が減ったのが残念。
1期から視聴者から好感度の高いセルゲイへの嫌味を言う2期からの登場人物なので、単純に好感度の差。
ただ対話できた沙慈とルイスの対比として父親と対話できなかった例として描かれた人物なので製作陣の期待通りだと思う。
何も言わなかった父親の方も悪い。
ニュータイプや各種設定のオカルト要素が強すぎて叩かれている。
カミーユ最後のオーラを常時放っているようなものなので既存のガンダムファンと相性が悪かった。
語録を使っている=叩いていると思ってるかもしれないが、単純に楽しまれてるだけだと思う。
マジで叩かれている。
他のキャラが自分の理想のために何かを犠牲にしていることをが大半なので、特に何も犠牲にしてないように見えて(カレンの兄との友情が描写されなかった)どころか記憶喪失のヴィレッタを匿う、戦闘で指示が遅い、ゼロを裏切るなど視聴者のイライラポイントを確実に貯めていったため。
新作アプリで事前登録特典が扇だとわかった際の批判もすごかった。(生放送でFLOWが「扇もいいところありますので使ってみて」みたいなフォローをしていた)
最初からうざいキャラとして描かれた玉城はギリギリまでゼロを信じていたためかそこまで叩かれてない。
俺も嫌いじゃないが好きかと言われると困るキャラ。
原作では仙台に行かなかったがいつか行くために努力する主人公を周囲が見守るが、アニメでは仙台に行って諦めて帰ってきた上にこれからも都会に出ていかないだろう想像をさせる終わり方で叩かれた。
彼と編集は悪意が無いから余計に叩かれているが、監督自身がモデルなのでそう意図されたキャラであるといえる。(ガルパンの制作経緯を見ると本当にああいう発言してそう)
悪意が無い分対応する側のコストが高いので、もっと余裕のある職場なら増田のいうようにポジティブに受け取られてたかもしれない。
後半に出てくる制作は挫折した上で八つ当たりでやっていたため同情の声もそこそこあった。
stay nightの描写とこの作品との描写に齟齬があるのにも関わらず、アニメとして先に広まってしまったためこちらの描写が正史だと思われるのを恐れたファンが叩いていた。
俺も単体だと好きだけどこれを前提にFateを語られるとイラッとしてしまうかもしれない。
自分の主張優先でマスターの考えを無視をしてお互い様だったのに、マスターの方が理解が無いみたいな雰囲気を出していた上恨み言がダサすぎたので叩かれた。
人間臭い英霊がいてもいいと思うので俺は好き(恨み言はダサいと思う気持ちと両立する)
名前を大きく宣伝で使っていたため出来が良かろうと悪かろうと反響は大きい。
増田のいうとおり脚本家があんなに叩かれたの他に見た事無いのは確かだが、そもそもあんなに宣伝に脚本家の名前をアピールしたのもみたことがない。
ガンダム以外にも、任天堂のメトロイドシリーズの主人公サムスのフィギュアの試作品でも炎上してた。その後原型師が変更されデザインもゲーム準拠になった。
カトキハジメと違い、造形がどうこうじゃなく関わりたくないと思われている。
・雑誌に載せた作例を参考にした方に、参考にしたことを書いておけと直接ではなくTwitterでRTした上で言った
・セブンイレブンで購入したあんまんを入れ忘れられた際に頭にきて電話したことをTwitterに書いた(クソ店員発言)
・猫3匹をキャリー入れてTwitterに画像をあげた際に心配したフォロワーに暴言を吐いた
ゲームのシナリオを切り詰めてアニメにしたのではなく最初からアニメなので脚本の粗が余計に叩かれる。(原作のファンがいない)
アプリのヘブバンは20代以下にも受けてるようなので、KEYの泣きゲーが時代遅れなわけではなく麻枝の脚本とアニメという形式があっていない。
アニメの話数は増やせないことを理解してないのかと思うが、麻枝よりも麻枝に企画を持ちかけるアニメ会社が悪い。
本編の前にアニメ化したことと、本編のような前線ではなく実験部隊の話なのでどうしても戦闘が少ないことがあわせて叩かれてた。
原作小説が途中で止まってて先の展開が不明なことなどもあり、アニメ制作陣の責任にするにはかわいそうだと思う。(アニメ放送1年後に発売されたゲームではクリスカルートのみ。唯依ルートが描かれる小説版は2013年で刊行が止まっている)
このクオリティで本編がアニメ化されたらこの比じゃない叩かれ具合になると思っていたが、原作は原作で完結しているためかそこまで叩かれていない。
俺も唯依が好きなので生放送のたびに新情報が無いか確認している。
日本がどれほど困難な状況かが描かれずむしろ平和そうなので、レジスタンスの主人公たちが異常に見えて叩かれている。