はてなキーワード: 於いてとは
"表面だけでもメディア等での容姿への言及を減らしていくだけで効果はあるのではないか"
いいえ。
"心の中まではどうしようもなくとも"
と仰る通り、人は知らず知らずのうちに「見易い方」を見ています。心の中で選別はされているのです。
たとえメディア等で囃し立てずとも、人は「綺麗な方」を見ます。
逆に言えばいくらメディア等が囃し立てても、見る者が「はぁ!?どこが(綺麗なんだよ)」と思えばその人を「綺麗だ」とは思いません
(よくある「美人すぎる○○」「○○王子」なんてのはその最たるもんです。ブサイクではないというだけで、決して美しいとは思いません)
ルッキズムを排除したいと思うなら、人の感性の変革を求めるしかありません。
即ち「どんな顔貌でも見易いと思える感覚」です。
現代に於いて、顔のパーツや輪郭に不安を覚えさせる様な容貌であっても、人の感性がその様に変革すれば目を逸らされることもなくなるでしょう。
それならばいっそ、皆が(見易いと思う様な)ペルソナを付けて暮らすことを目指す方が健全であり向日的な気がします
(寧ろ、「みんながみんな美男美女」となって初めてルッキズムは崩壊するのだと思います。つまり「顔なんてどうでもいいか」となって初めてね)
前ジャンルで仲良くなった2人と、ジャンルの切れ目が縁の切れ目になりそう。
学生時代から10年近く一緒にいて、それぞれ個人活動でイベント出たり、たまに合同誌作ったり。
即売会終わりで飲みに行ったり、一緒に作品のイベントに行ったりしてた。
原作が終わってジャンルが斜陽になってきて、同人活動は少なくなってきたけど、それぞれの好きなものをお薦めしあったり、ご飯に行ったりは続けてた。
1年半くらい前、私はAというジャンルに着水した。
同時期に私以外の2人が、Bジャンルにハマった。
それはそれは猛烈に。
同じCPであったことも幸いし、同人、イベント、ライブ、グッズへの課金、見事にドボンと頭の先まで浸水していった。
二人のハマったCPがマイナーなものだったこともあって、手に手を取って、いかに自分たちがマイノリティだけど、崇高なものであるかを主張し出した。
マイナーだけに公式の供給も少なくて、コマの隙間に目を凝らし、24フレームのあいだの19.3コマを妄想する。
同じものを見ても、私が見えない何かを見て萌え燃え上がっている。
その妄想をしたため、このご時世でもオンオフ問わずイベントに出まくっている。
私もAジャンルに於いては、そのような行動をとっているかもしれない。多分とっているだろう。
一人な分、もう少し制御が効いていると思いたい。
一人になった時点で同人誌、イベントへのモチベーションは下がり、今は滝のように流れてくる公式の供給を浴びてまったりしている。
ただの愚痴だ。
わたしから誘えば2人は時間を割いて一緒に出かけてくれるだろう。
でも私は目の前で繰り広げられる2人のトークに、ぼんやりとした虚無の目をしてしまいかねない。
私の知らないところで2人で繰り広げたトークの残り香に「よかったね。素敵だね」と生ぬるいあいづちを打つのだろう。
気を遣って私の推しの話を聞いてくれたら、自慢げに公式供給の多さを話して「妄想が入り込む隙間ないんだよねー」とマウントを取るだろう。想像に堅い。
めっちゃ嫌なヤツになる。
だからと言って、一度私がキモいと思ってしまった2人のテンションでAジャンルを語られるのも気持ち悪い。
私の好きなAジャンルが汚されるような気がする、大袈裟だが本心。
ちょうどさっきも、Aジャンルの公式ツィートに「いいね」を推した。
その次に流れてきたBジャンルについての妄想RTをそっとミュートした。
違うジャンルにハマったことで、こんなに自分の心の狭さを見ることになるとは思わなかった。
この先、また違うジャンルで出会って意気投合して、側からみたらキモいトークで盛り上がれるだろうか?
広告などで、松本人志とか、野性爆弾くっきーとか、小籔千豊とかが予期せず出てくるとウゲーッ!となる。文字通り、吐き気がする。見たくない人間が出ているテレビ番組は自分の方から避けるから別に構わないのだけれども、広告などは不意打ちで目に入って来るから本当に困る。
念の為に言えば、世間で「外見的な尺度に於いて劣っている」というカテゴリに入れられているお笑い芸人全般のことが嫌いという訳ではない。私が見たくないのは「不潔さ」を覚えさせるお笑い芸人だ。
漫画『寄生獣』の登場人物でパラサイトを見分ける能力を持つ凶悪犯罪者が、後藤を見ても直ぐには危険性に気付くことができなかった警察官(普通の人間)に対して「アンタはアレを見ても何も感じないのか?」と言う場面が有ったが、私も似たような感覚を覚える。
『貧乏舌』という言葉がある。共通理解としては「本当に美味しいものを食べた経験が無い人間は、食べ物の美味しさを理解する能力が乏しい」といった意味合いの言葉であると言っても差し支え無いであろう。
悲劇的かつ喜劇的な話だが「貧乏舌」の人間は、本人には自覚が無いことが屢々ある。一つ例を挙げる。
この文章を目にしている貴方も知っていると思うが、松本人志という有名なお笑い芸人がいる。昔の話だが、松本は彼の子分である木村祐一のことを「キム(=木村祐一)の作る料理はめっちゃ美味い!」と褒めていた。それもあってか「『あの』木村祐一が監修した!」という触れ込みで、料理本が出版されたこともある。
ある時、テレビで「料理が得意な芸能人が作った料理をプロの料理人が採点する」という企画が行われた。件の木村祐一もチャレンジした。しかし、結果は悲惨であった。プロの料理人たちは、木村の料理には低い評価しか与えなかったのだ。
松本人志はことある毎に「オレは金持っとるねん」と言いたがることで有名である。しかし、松本のテレビ・ラジオを視聴している、もしくは嘗て視聴していた人間ならば知ってのとおり、だいたい松本の「食に関する話」というのは「チェーン居酒屋」や「コンビニ飯」ぐらいのものである。そんな人間が褒める「美味しい食べ物」を、苟もプロの料理人が評価する訳が無いのである。
かつてフランスの文筆家は次のような箴言を残した。「富めることと同じく、貧しさもまた一つの才能である。貧しい人間が富を手にしたならば、贅沢な貧しさをひけらかすであろう」と。
まあ、飲食物に関しては我々一般人も松本人志と五十歩百歩であろうし、あくまでも「貧乏舌」の事例の一つとして出しただけなので、松本の話はここで終わる。
長々と話してきたが何を言いたいかといえば、味覚以外の感性が関わる分野に於いても「貧乏舌」はある。例えば、ジャンボ尾崎ヘアーを「イケている」と感じて我が子に施すような親は「ファッションに関する貧乏舌」の持ち主なのである。
漫画のような「子供でも味わうことが可能な娯楽コンテンツ」でも同様である。漫画を描いたり読んだりする行為に於いても「貧乏舌」はある。率直に言うが、星の数ほど漫画が有り、しかも優れた作品が数多有るという2021年現在の日本社会に暮らしていて、ONE PIECEキャラのコスプレをするのは、よほどの「漫画に関する貧乏舌」の持ち主しかいないと私は踏んでいる。現代のリアルタイムで少年ジャンプを読んでいる子供たちから見れば「何か知らないけど昔から連載されている漫画。でも、誰が、何のために、今は何をしているのかがよく分からない漫画」である。「親が単行本を持っているから」と言う人もいるが、他の漫画が有る状況で子供たち自身に選択させれば、子供たちは十中八九ONE PIECE以外を選ぶ。このカシオミニを賭けてもいい。
『外交時報 第八十四巻』昭和十二年、外交時報社、pp.47-56
篠田治策
明治四十年(千九百七年)十月十八日海牙に於いて調印せられたる開戦に關する條約第一條によれば、一國が他國と戦争を開始するには理由を附したる開戦宣言の形式又は條件付附開戦宣言を含む最後通牒の形式を有する明瞭且つ事前の通告をなすことを要す。故に現在北支及び上海方面に於いて進展しつゝある日支両國の戦闘は、理論上之を日支戦争又は日支戦役と称すべきものに非ずして、事變即ち北支事變、又は上海事變と称すべきものである。我が政府の公文にも新聞紙の報道にも総べて事變の文字を用ゆるは之れが為めであると思はる。換言すれば宣戦の布告を見るまでは、戦争又は戦役と呼ばずして軍に事變と称し、両國間の國交は断絶せざるのである。之れを先例に徴するも、明治二十七・八年の清國との戦、明治三十七・八年の露國との戦、世界大戦参加による青島攻撃戦等は、之れを日清戦争(戦役とも称す以下同じ)、日露戦争、日独戦争と称し、明治三十三年の義和団事件、近年に於ける済南出兵、上海出兵、満州出兵等は、総べて之れを事變と称したのである。
此の招呼は従来何よりて定まりしか詳知せざれども、現今に於いては確然明白に区別せらるるは、政府の公文或は法規等にも「戦時事變に際し」云々等の文字を用ゆるも明らかである。故に日支両國の何れかより
<四七>
宣戦の布告若くは條件附開戦宣告を含む最後の通牒あるまでは、如何に大部隊の衝突あるも未だ事變の域を脱せずと謂ふべきである。猶ほ八月二十三日ワシントン發の同盟通信によれば、アメリカ國務長官コーデル・ハル氏は、今回の北支事變に際しては終始冷静な態度を持し形成を注視しつつあつたが、二十三日午後聲明を發し、日支両國政府に対し「戦争行為に訴へぬよう」要請した由である。二十三日は我が陸軍の部隊が上海附近に上陸を開始した日である。即ちハル長官も現在の日支両軍の戦闘行為を以て、未だ戦争に非ずと見て居るのである。然れども、我が政府は最初に宣言したる事件不拡大の方針を余儀なく抛棄したるのみならず在外艦隊司令長官は支那船舶に対し沿岸封鎖を断行し、支那も亦縷々大部隊を動員して攻撃的態度を採りつゝあるにより、或は近き将来に於いて事變を変じて戦争となるべき可能性ありと信ずるのである。
我が國の國内法に於いては事變と戦争を区別せざる場合多く、例へば出征軍人の給奥、恩給年限の加算、叙勲に關する法規など総べて事變と戦争を同一に取扱ふも、國際法上にては事變と戦争は大なる差別がある。
即ち現在の事變が変じて戦争となれば、日支両國は所謂交戦國隣、共に戦争放棄を遵奉する義務を生じ、同時に中立國に対しても交戦國としての権利と義務を生じ、中立國は皆交戦國に対して中立義務を負担するに至るのである。語を換へて言へば事の事變たる間は必ずしも國際法規に拘泥するの必要なきも、一旦戦争となれば戦場に於いて総べて國際放棄を遵守すべき義務を生ずるのである。然れども事變中と雖も正義人道に立脚して行動し、敵兵に対し残虐なる取扱を為し、良民に対し無益の戦禍を蒙らしむるが如きは努めて之れを避くべきは言を待たずである。此の點に關しては、皇軍は我國教育の普及と伝統的武士道精神により、毎に正々堂々たる行為を以て範を世界に示しつゝあるは欣快である。嘗て済南事變の際支那兵が邦人に
<四八>
対する残虐視るに忍びざる殺戮行為、今回の通州に於ける邦人虐殺行為等天人共に許さゞる野蛮行為に対しても、敢て報復の挙に出づることなく、飽くまで正々堂々唯だ敵の戦闘力を挫折するに留めたのみである。故に皇軍には戦場に於いて事變と戦争を区別する必要はない。何れの場合にも武士道精神に則り行動するが故に、戦争違反の問題を生ずることは殆んど無いのである。
従来我が陸軍は戦場に於いて戦時國際法適用の万全を期せんが為目に戦時國際法の顧問として日清戦争には故有賀長雄博士を、日露戦争には第一軍乃至第四軍に何れも二人づつの國際法学者を従軍せしめたのである。日清戦役後仏國の國際法学者にして同國大審院検事長たるアルチュール・デジャルダン氏は日本軍の行動を激賞し左の如くに曰つた。
東洋の僻隅に大事業を成就すべき一國あり、之れを日本とす。其の進歩は単に戦争の術に止まらず、戦時公法の理想に於いても欧州をして驚嘆せしむるものあり。國際法論は欧州に於いても漸を以て進みたるものなるに、日本は一躍して此の論理を自得したり。是れ果して高尚なる正義を感得したるに因るか將た又利害を商算したるに因るかは別論に属すと雖も、其の之れを寛行するや極めて勇壮にして、恰も自國の能力を覚知する心念の中より適宜に之れを節抑するの嗜好を自然に生じたるものの如し。是れ人類一般の利益として祝す可き所なり。
又仏國の國際法学者ポール・フォーシル氏も、當時日本軍の行動を評して左の如く曰つた。
此の戦役に於いては日本は敵の万國公法を無視せるに拘はらず、自ら之れを尊敬したり。日本の軍隊は至仁至愛の思想を體し、常に慈悲を以て捕虜の支那人を待遇し、敵の病症者を見ては未だ全て救護を拒ま
<四九>
ざりき。日本は尚ほ未だ千八百六十八年十二月十一日の聖比得堡宣言に加盟せずと雖も、無用の苦痛を醸すべき兵器を使用することを避け、又敢て抵抗せざる住民の身體財産を保護することに頗る注意を加へたり。日本は孰れの他の國民も未だ會て為さゞる所を為せり。其の仁愛主義を行ふに熱心なる、遂に不幸なる敵地住民の租税を免じ、無代償にて之れを給養するに至れり。兵馬倥偬の間に於いても人命を重んずること極めて厚く、凡そ生霊を救助するの策は擧げて行はざる無し。見るべし日本軍の通過する所必ず衛生法を守らしむるの規則を布きたるを、云々。
日清戦役にては敵軍は全然國際法を守らざるが故に、我軍にても之れを守るの義務無かりしも、然も四十餘年前に完全に之れを守つて先進國を驚嘆せしめた。日露戦役當時は海牙の平和條約調印後なりしが故に、陸戦法規を守るべき義務ありしも、尚ほ宣戦の詔勅中にも「國際法の範囲内に於いて一切の手段を盡し違算なからしむることを期せよ」と宣せられ、参謀総長は訓令を發して戦規遵奉の趣旨を周知せしめ、更に前期の如く各軍司令部に國際法顧問を配属せしめた。戦役中特別の任務を以て米國に派遣せられた法学博士男爵金子堅太郎氏が歸朝の後國際法学会にて為したる演説中に左の要旨の一説がある。
米國人は事實の真相を調査せず、動もすれば國際法違反を称するを以て之れに対する材料を蒐集中、新聞紙上にて我が第一軍乃至第四軍に國際公法専攻の学者二名宛を配属し、陸戦の法規解釈其の適用は参謀部に於いて國際法専攻の学士と協議せしめ、公法違反を生ぜしめざることを發見せり。是に於いて各種の集会に於ける演説或は新聞記者との会見に於いて余は毎に「米國人は國際公法を提唱す日本政府の決心は露國は大國なり腕力に於いては或は露國は日本に勝るならん、貴國人が露西亞の聲を聞き戦慄す
<五〇>
る程の大國なれば、日本も恐れざるに非ず、然し國家の危急存亡に代えられざれば全滅を賭して最後の一人まで戦ふにあり、而して此の戦争に日本が國際法を破りしことあらば世界の歴史に汚名を遺すが故に假令戦に敗るるも國際法は遵奉する決心にて現に此の如く専門学者が各軍に配属せられあり、故に余は日本軍に國際法違反無きを保證す」と説明せるに、此の説は次第に傅播して後には日本同情者が各所にて演説等をなす時、日本軍が國際公法家を二名づつ従軍せしめたる事實を述ぶる毎に非常に喝采を博したり。又エール・ハーバード等の米國國際法大家と会見せる際彼等は各國共に今度日本が外國との戦争に國際法学者を従軍性せしめたる如き前例なし、将来日本の新例に倣ふべきことにして、右は一進歩を陸戦の法規に與へたるものなりとして大いに称賛したり。之れ實に日本陸軍の今回の處置は文明國の真價を世界に示したるものと謂ふべし。云々。
世界大戦の時は、青島攻撃軍に嘗て筆者と共に日露戦役当時第三軍に在勤したる兵藤氏が従軍したるを聞きしも、其の職名を詳かにせず。又浦鹽派遣軍には主として外交官をもつて組織したる政務部を置いた。此の政務部は主として外交方面の事務に従事したるも、亦國際公法の適用に關して其の権威たりしは勿論である(筆者も數ヶ月間此の政務部に派遣されて居つた。)
過去に於ける皇軍の行動は實に右の如く最も鮮かであり、所謂花も實もある武士的行動であつた。斯かる傳統的名誉を有する行軍の行動は今回の事變に際しても決して差異あるべき筈は無い。理論上事變は國際戦争に非ざるの故を以て、節制無き行動に出づるが如きは想像だに及ばざるところである。
唯だ、陸戦法規の適用に關し、茲に疑問の生ずるは領土の性質である。假りに之れを中華民國
<五一>
の領土なりとせば、國交断絶を来さず単に事變たる間は、未だ之れを敵國領土と称するを得ざるが故に、出征軍は如何なる程度に其の権力を行使すべきか、又南京政府の官吏は既に逃亡し、地方の民衆自ら自治政権を樹立したりとせば、國家として列國の承認無きも、戦闘地域を其の領土として取り扱ふべきか等の問題である。
宣戦の布告により事變が變じて日支戦争となりたる場合に於いて、北支一帯が依然として中華民國の領土なりとせば、問題は至つて簡単にして、我軍は之れを支配して軍政を施行し治安を維持するのみである。然れども事變として繼續中及び新政府の領土となりし場合には、其の地域に行使すべき軍の権力に多少の差異あるべきは明らかである。
日露戦役の際は戦闘の地域に性質を異にする三種類の領土があつた。即ち樺太の如き完全なる敵國領土と遼東半島及び東清鐡道沿線附属地の如き敵國の租借地と、満州一帯の如き第三國の領土があつた。樺太に關しては完全に我が占領軍の権力を行使したるは勿論なるも、租借地に關しては租借権其物の性質すら学者間に議論一定せず、如何なる原則に基きて之れを占領すべきかは問題であつた。筆者は遼東半島上陸後直ちに此の問題に直面し、又間も無く着手したるダルニー(大連)の整理に際して実際問題に逢着した(拙著日露戦役國際公法第二章三章)。又当時諸國は局外中立を宣言したるも、遼東以東は之れを除外し日露両國の戦場たらしめるが故に、所謂喧實奪主の観ありて、交戦國は任意に此の地域に活動したるも、其の権力の講師には純然たる敵地占領とは自ら異なるものがあつた。
今回の北支事變に於いても、其の交戦地域の領土の性質が曖昧なるに於いては、日露戦役当時の先例を参
<五二>
考にして之れに善処し、然も恩威併行、皇風をして六合に洽からしむるの用意あるを要す。
従来北支方面は日・満・支に微妙なる關係を有し、外交に政治に極めて複雑なる舞臺であり、事變の原因も一部は其処に在つた。故に平和克復の後は雨降って地固まり、明朗なる新天地を現出して再び颱雨の發生地たること無からしめねばならぬ。従って陸戦法規の適用に当たりても緩急宜しきを制し、傍ら戦後の政治的工作に關する其の地均しの役目を引受lくるを必要と考へられる。固より事變であり、戦争であるに拘らず、我が武士道の精神と殆んど一致する陸戦法規は完全に適用せらるゝは疑ひなきも、其の間事に輕重あり、絶大の権力を有する軍司令官に禁止事項の外は自由裁量の余地あるかは明かである。
陸戦法規の條項を北支の事情と敵軍の素質に対照して一々之れを論究するは、紙面の許さゞるところなるにより、筆者が茲に希望するところを一言に表示すれば、過去の二大戦役にて、克く陸戦法規を遵守して皇軍の名誉を輝かしたる如く、此の事變に於いてもこの點に注意を拂ひ、更に占領地住民に対しては軍律を厳重にし軍政に寛仁にすべしと謂ふのである。
凡そ遣外軍隊は一地方を占據すると同時に、軍隊の安全と作戦動作の便益を図るが為めに、無限の権力を有するが故に、軍司令官は其の占據地域内に軍律を發布して住民に遵由するところを知らしめ、軍隊の安全と作戦動作の便益を害する者には厳罰を以て之れに蒞み、同時に一般の安寧秩序を保持し良民をして安んじて其の生業に従事せしめねばならぬ。固より戦闘に關係なき事項は其の地従来の法規により、其の地方の官吏をしてその政務に当たらしめ、以て安寧秩序を回復維持瀬しむるを便宜とするも、事苟も軍隊の安危に關するものは最も厳重に之れを取締らざる可からず。假令ば一人の間諜は或は全軍の死命を制し得べく、一條の
<五三>
軍用電線の切断は為めに戦勝の機を逸せしめ得るのである。故に軍司令官は此等の危害を豫防する手段として、其の有する無限の権力を以て此等の犯罪者を厳罰に處し、以て一般を警めねばならぬ。故に豫め禁止事項と其の制裁とを規定したる軍律を一般に公布し、占據地内の住民に之れを周知せしむる必要がある。日清戦役の際は大本営より「占領地人民處分令」を發布して一般に之れを適用した。日露戦役の際は統一的の軍律を發布せず、唯だ満州軍総司令官は鐡道保護に關する告諭を發したるのみにて各軍の自由に任せた。故に各軍區々に亘り第一軍にては軍律の成案ありしも之れを發布せず、単に主義方針として参考にするに止め、第二軍には成案なく、第三軍にては確定案を作成したるもの総司令部より統一的軍律の發布あるを待ち遂に之れを公布するの機を失し、遼東守備軍は第三軍の軍律を参照して軍律を制定發布したりしが、後遼東兵站監は之れを改正して公布した。旅順要塞司令部は特に詳細なる規定を發布し、旅順口海軍鎮守府も別に軍律を發布し、第四軍にては一旦之れを發布したるも後に之れを中止し、その他韓國駐剳軍、及び樺太軍は各々軍律を發布した。
軍律に規定すべき條項は其の地方の状況によりて必ずしも劃一なるを必要とせざるも、大凡を左の所為ありたるものは死刑に處すると原則とすべきである。
四、敵兵を誘導し、又は之れを蔵匿したる者
<五四>
六、一定の軍服又は徴章を着せず、又は公然武器を執らずして我軍に抗敵する者(假令ば便衣隊の如き者)
九、俘虜を奪取し或は逃走せしめ若くは隠匿したる者
而して此等の犯罪者を處罰するには必ず軍事裁判に附して其の判決に依らざるべからず。何となれば、殺伐なる戦地に於いては動もすれば人命を輕んじ、惹いて良民に冤罪を蒙らしむることがあるが為めである。軍律の適用は峻厳なるを以て、一面にては特に誤判無きを期せねばならぬ。而して其の裁判機関は軍司令官の臨時に任命する判士を以て組織する軍事法廷にて可なりである。
帝國政府が屢々聲明する如く、我國は決して北支を侵略して我が領土となすが如き意圖を有せざるも、今回の事變によりて北平天津地方より支那軍隊を駆逐し、現に事實上その地方を占據し、戦局の進展に伴日、占據地域を拡大しつゝある。而して此の地方住民が自治政権を樹立したるとするも、我軍の支援無くしては一日も安定し得ざるは明かである。故に如何なる外交辞令を用ゆと雖も、此の地方は一時的にもせよ事實上我軍の占領地である。勿論日支両軍衝突の一時的現象に止まり、永久に之れを占領するの意思無きが故に此
<五五>
我軍が一時的なりとも北支地方を占領したる以上は、我軍は其の地方の人心を鎮撫して Permalink | 記事への反応(1) | 11:41
今回も引き続き、雑誌『映画秘宝』の中に蔓延っていた「ボンクラと云う『甘え』」について考えてみます。このような風潮が同誌の内部に醸成された一因として、町山智浩や高橋ヨシキらが「恵まれた境遇に生まれ育った/生きている」ことの影響を考えてみる必要が有ると思います。
と言うのも、恵まれた境遇で生まれ育った/生きている人間にとっては「生きるか死ぬか」と云う状況や「生き延びる為には泥水をも啜る」と云う覚悟は、所詮「他人事」であり、だからこそ彼らは身勝手なまでに好き放題できたのです。
これまでの投稿で私は「雑誌『映画秘宝』内部では一部の人間により業務の『私物化』が起きていたのではないか」と云う仮説を述べました。そして、この仮説に符合するような動きが『映画秘宝』最新号に見られました。
それは、同誌にアニメ作品の特集記事が掲載されたことです。この動きは「高橋ヨシキらが居なくなった『途端に』」と言えます。そこに私は「新体制となった『映画秘宝』編集部から、読者を始めとする外部の人間に向けてのメッセージ」が込められていると考えています。
そのメッセージとは何でしょうか?
私はそれを「これまでの『映画秘宝』では高橋ヨシキら『切り株作品好きの派閥』の一存で、アニメ作品などの特定ジャンルに関しては肯定的に取り上げないように抑圧されていたが、これからの本誌は変に気兼ねすること無く幅広いジャンルにも目を向けるように努めて変革する」と解釈しています。
仮にこの解釈が正しいならば、映画を紹介・批評するメディアとして実に「まっとうな態度」と言えるでしょう。
投稿(13)でも述べましたが、雑誌『映画秘宝』が生き延びるには、読者層を拡大することが避けて通れない課題でした。仮にアニメ作品を取り上げても、それが正しい戦略か否か、直ぐに読者層の拡大と獲得に繋がるのか否かは未知数です。しかし少なくとも、従来の『映画秘宝』が好んだ、自分たちと異なる趣味や嗜好を排斥するような閉鎖的で排他的な態度を、反省して改めていくという「ポジティブな可能性」を感じさせるものであることは確かです。
路線を模索して読者層の拡大を図り、それにより雑誌の生き残りに努める姿勢を打ち出した新体制『映画秘宝』の姿は、過去の同誌を主導していた『切り株派』よりもよっぽど「生きることに真剣かつ必死である」ように私には見えます。謂わば「生きる為の切実さ」を感じます。
これとは対照的に「読者の拡大なんぞ知ったことか!」「アニメが好きな奴らに読んで欲しくなんざ無えよ!」と云う強気な態度を取り続けてきたのが、高橋ヨシキら『切り株派』に主導権を握られていた従来の『映画秘宝』でした。
おそらく、彼らにとっては「『たかが』雑誌の生き残りの為に、女やアニメ好きに媚びる必要は無えよ!『そんな』事をするぐらいなら潰れた/死んだ方がマシだ!」と思えたのではないでしょうか。
この「思えた」「できた」と云うのが重要な点で、これは「そうすることが『できる』と云う『可能』」を表す物言いです。こんなことを「思える」上に「実行できる」のは、それをできる「余裕」が有るからです。
人は「食べるための苦労」をせずに済む「恵まれた境遇」なればこそ、「生き残る為に泥水を啜るなんて、みっともない真似するか!」と云う態度も取れるのです。
町山智浩と高橋ヨシキが早稲田大学出身者であることは、ファンやウォッチャーにはよく知られた話です。入学金や授業料が高額な有名私立大学に通うことが可能であった、こんな「お坊ちゃんたち」に、生きる為に泥水をも啜るような覚悟が生まれるでしょうか?もちろん「否」です。
そうです。彼らの本質は、何処かの首相の息子と同じく「お気楽な身分のお坊ちゃんたち」なのです。
ちなみに高橋ヨシキは、英語とフランス語がペラペラらしいですね。これは素直に凄いと思いますよ。しかし、そんな彼が非・都市部居住者や非・富裕層をあからさまに侮蔑する姿を見る度に、私は赤塚不二夫の漫画の登場人物であるイヤミを連想しつつ「やっぱり外国語能力と人間性の間には関係が無いんだなあ」と再確認する次第です。
柳下毅一郎は東大出身者ですが、柳下のファンやウォッチャーからは「翻訳・文筆の仕事だけで食えているのか?」「食う心配をしなくて良いぐらいに実家が太いんじゃないの?」と言われている様子です。少なくとも「爪に火をともして暮らしている」とか「糊口をしのいでいる」といったイメージは抱かれていない様子です。まあ、浮世離れした人間でなければ、海外のシリアル・キラー事情に詳しい特殊翻訳家稼業とか無理でしょう。
てらさわホークは…私はよく知りません。
恫喝DM事件以降に露呈した『映画秘宝』内部の対立に於いて高橋ヨシキの側に立つ『切り株派』ライター人脈を見ると「普段は会社員をやってます」的な人間が目立ちます。これは「食い扶持に悩まなくて済むから『映画秘宝』の売り上げも気にせずに済む」と云う条件にも当て嵌まるように思えます。
もっとも、この人たちの場合、自分で働いて身を立てているのですから、決して「お気楽な身分のお坊ちゃん」ではありません。少なくとも、奥様の稼ぎに助けられつつTwitter芸人としての活動に日夜勤しんでいる、何処かの誰かさんとは雲泥の違いです。
しかし、切り株派の「お気楽な身分」とは、結局のところ「他人に負担を押し付ける」ことで成り立っていたに過ぎません。彼らが好き勝手にしていた分の尻拭いを負担していたのが、他ならぬ洋泉社です。洋泉社としては雑誌の刊行を「商売」として成立させたかったのに、それを雑誌の作り手たち自身が「私物化」することで台無しにしていたのです。そう考えれば、休刊から復活を遂げた『映画秘宝』が、町山智浩らの古巣である宝島社に拾われなかったのも容易に理解できるでしょう。
泥水を啜る覚悟も持たず、負担は他人に押し付ける。このような姿勢については、まだまだ話を展開できそうですが、また長くなりました。
https://sn-jp.com/archives/32334
この記事、タイトルすごい悪意あるように見えるのと、反応を見ていると差別が理解できていない人が多すぎて変な感じになる。
ポイントはここだ
まず、日本を「寿司の国」ということがなんで差別なんだ、という点だが、「別に日本は寿司でできていないのにそのように言うことはステレオタイプだ」というのがポイントだ。そしてこの時点では誰も損害を被っていないか軽微だ。燃やす側には燃やすための燃料が必要だ。ここで火消ししてれば軽微だっただろう。
「私は日本に行った時に食べた寿司のあまりの旨さが忘れられず、それ以来日本のことを寿司の国と読んでいる、行ったららもう寿司しか食べない」というのは理解できる、個人的な経験に基づいた意見だからね。
こういう文脈なら寿司がラーメンでもいいし、モスチキンでも別に構わない。
だけどこのコンテクストはあの発言にはないので日本のことを単に「寿司の国」と呼んでいると言うように理解できる。なので、ステレオタイプに基づいた発言は差別だ、というのが基本的なポイント。同時に彼の日本に対する見識の狭さとか、公の場で物を言うプロにもかかわらず、発言に対する警戒心のなさなんかも露呈している。
「単に日本と言っておけばそれで良いのをわざわざ寿司の国というステレオタイプに基づいた呼び方をしたのはなんでだ?こういう言い方は常識として差別になるが、差別なのか?」が最初の論点(そしてこれが日本ではびっくりするほどに抜け落ちた観点でもある)。
次にこのレポーターが、この話に対して「日本を寿司の国と呼んだら、それは本当に人種差別なのだろうか?真面目に捉えていないよな?」という誠意のなさを見せた事が最終的な炎上のきっかけだろう。と言うよりも、可燃性の高いものをわざわざポリコレ側にわざわざ提供したように見える。ポリコレがじっくり燃やそうとしていたところにわざわざガソリンをぶっこんだ形だ。
おそらく初動としては「差別でしたすいません、以後をつけます」とあやまって、二度と公の場ではこれに触れない、が正解に近かったかもしれない。
本人としては、すごい屈辱だと思う、だっておちゃらけて何となく言った程度のことという認識だろうし、そのくらいのつもりで言ったことに対して土下座させられるわけだから(差別であることは変わらないけど)。いきなり返す刀で「あいつは差別主義者だ!今すぐ追放しろ!」というひどい要求が始まるわけだから。そしてこれこそひどい差別だとも思うのだけど、差別をしたやつを攻撃するという大義名分は強い、レポーターをかばえば一瞬で延焼する事間違いなしだし、燃やしたい人がよだれを垂らして欲しがる構図でもある。
差別ではないかという問題提起に対して誠意のない対応をしたことで、雇っている側も守れるポイントがなくなってしまった、もしくは、守るためのコストが解雇するコストを遥かに上回ってしまった。
という構図だと思う。
一方・・・
別の問題は「こういう発言に対して弁明の機会がたったの一回しか無い」という点だ。当然本人は当初「何となく言った一言」でしか無いのだから、それを「差別だ」と言ったら一瞬で「うわああああああ差別でしたあああああああごめええええええん!」とフライング土下座する程は変わらないだろう。こういう人間の本質を全く見ていない、というかこれができなければ追放が常識化しすぎている。下手な言論統制よりやばい。政府がやるんじゃなくて民衆が相互にやるんだから。
「差別かどうか」という議論の末に「どうやら差別らしい」となり、学んで最終的に謝る、または改める、というのがあるべきステップだろう(犯罪とかそこまで重大なことじゃないし)。
という流れは今後の人類にとてつもない影を落としていることは間違いがない。
男女平等は大事だとよく言われているんだが、男女平等ってよく考えると意味がわからない言葉だ。
例えば、同一労働同一賃金というのは「同じ労働をしているなら給料は平等に支払われるべきだ」という考え方だ。
法の下の平等は「すべての人は国民として取り扱うんだから、特定の個人や集団を狙い撃ちした法律は作っちゃいけない」という考え方だと思う。
つまり「平等に扱う対象には、その点に於いて差分があってはならない」ということでもある。
翻って男女平等だ。「男と女を同一のものとしては取り扱えない」ということには納得してもらえると思う。つまり「そもそも差分があるのだからこの二者を平等に扱うということはできない」ということでもある。
当然世の中にはテクノロジーがあるので、「男と女の間の同一に扱えない部分はテクノロジーや人々の思考が社会的に進歩することでカバーできる」ということは言える。ただ、それでもどうしようもない部分はある。もはや生物的な特徴の違いと言ってもいいだろう。
「男と女を全く差分がないように扱える日は来ない」ということでもある。当然分野によっては来るだろうが、それはその分野に於いて「性別が問題にならない」ということでもある。
まず、行政に於いては「一括した呼称を用いるためにパートナーという」
一方で、ワイフやハズバンドという言葉を使うことは「どうぞご勝手に」という立場だ。妻をワイフと呼ぼうが、夫をハズバンドと呼ぼうが誰一人として「遅れている」なんていう人はいない。
当たり前だ。パートナー以外認めないとかいう逆差別は認められない。
日本にいて伴侶をパートナー以外で呼ぶことに不快感を示す人はこの現実をまずは直視したほうが良い。
その上で「私は妻と呼ばれるとタイミングによっては燃え上がって死ぬ病気なので、パートナーって読んでほしい」とでも言えば良いんだ。
日本は日経平均が3万円を超えるとか、株価が上がったらしいんだけど、一方で今って円安じゃない。日本円と米ドルはなんだか安定しているけど、日本円と豪ドルとかほかはなんだか円安になっていっている。
これってつまり、円が安いからいっぱい買って円で株買っているみたいなことなの?
日本って貿易に強く依存した国じゃん?ということは、輸入品が値上がりするってことになると思うんだ。円安だからね。例えば日本って食料のかなりを輸入に頼っているって言うことは食品なんかは値上がりする。
ただ、一方で日本国内はデフレなので、値上げができない。つまり、値段を上げないで内容を減らすという実質値上げを起こさないと商売人たちは死ぬことになる。
っていう一経済ど素人のアナライズなんだが実際の所為替レートと株価ってなにか関係あるものなの?あと、この2つを見て日本の経済が好調かどうかを図るときって、どう考えれば良いんだろ。
円高トレンドで株価も上昇トレンド(円が買われて株も買われる状況、何だろうこれ、よくわからん)
円高トレンドで株価は下降トレンド(株が売られて円が買われている、って言うことだから、なんか不況とか、戦争とか起きる気がする、民主党政権の時これだったなそういえば)
円安トレンドで株価は上昇トレンド(これが今の日本かな、円が売られて株が買われているのだから、投資としちゃ申し分ないのかな)
円安トレンドで株価も下降トレンド(なんか直感的にこれはやばい気がする、投資家があらゆる点で日本と距離を於いているように見える)
1870年の平民名字許可令によって、誰でも名字を使って良くなった。これまでは平民は名字を使ってはだめだった。
1871年の戸籍法によって名字の登録が推進された。姓尸不称令によって名前は名字と名前になった
1875年の苗字必称義務令によって、名字を持つことが義務になった
1876年の戸籍法では夫婦別姓だった。そもそも慣習としては夫婦別姓だった。
夫婦別姓、と言うと少しニュアンスが違うけど、日本に於いては「親の姓を男女問わずに継いでいく」が基本だった。ただ、庶民には姓なんかないので、この辺は宙ぶらりん感がある
「戸主及ビ家族ハ其家ノ氏ヲ称スル、妻ハ婚姻ニ因リテ夫ノ家ニ入ル」
というように書かれているので、結婚したら妻(女性)は夫の家に入るので、名字は夫の名字になるというようになった。
夫婦同性、と言うよりは、嫁自動的に夫姓になる制度と言っても良い。
そういえば婿養子ってなんだよと思ってこっちも調べた所、男性が親と養子縁組を結んで、その家の娘と結婚する、と言うクソめんどくさい手順によっているようだ。
ここまで見てみれば(と言ってもほうぼうで見かけた情報ではあるが)、夫婦同性というのは明治時代に導入された制度だが、「平民も名字を名乗っていい、いや、名乗れ」からの流れの中で「結婚したらどうすんの?」という感じで「夫婦別姓でいいんじゃね?このほうが自然だし」からの「いややっぱ旦那の姓をなのれ」に変わってきたという結構不自然な家庭を経ている。これを伝統と言って良いのであれば、国家が国民に強制してきたことが伝統になってしまう。
テクニカルに夫婦別姓を考えると、データ管理の点でのコストがあるというのはある。
DBなんかで詳しい人は「姓」にその戸籍の参加者を紐付ける形で管理していたが、この「姓」が家庭の単位を表さなくなったときにどうやって国民の戸籍情報を管理するのかという問題がある。いつ生まれて、どういうふうに転居し、誰と結婚して、子供が生まれて、離婚して、死別して、みたいなすべての履歴データを新形式にコンバートせよという難題だ。明治時代とかの手書きの戸籍謄本は電子化したうえで、ID割り振りという苦行が待っているだろう。待っていないかもしれないがこの辺は考え方次第かもしれない。
戸籍謄本は直系尊属はいくらでもさかのぼって取得して良いというものがある。これは、自分の親、親の親、親の親の・・・というようにさかのぼって戸籍が取得できる制度になるのだが、仮に「姓」で戸籍情報を管理する場合、別の情報で戸籍管理をする必要が出てくる。過去の人にもさかのぼって。
もしこういうプロジェクトを立ち上げた場合にやりたい人っているだろうか、いやいるまい。
夫婦別姓をシステムとして導入するには以下のステップがいるだろう。
何よりもきつそうなのは、戸籍データが各自体で各々管理されている(総務省が何かしらの方法で一括管理しているかもだけど)ので、この辺のすべてのデータを統合する必要がある。しかもやっている間も粛々と人々は結婚し、生まれ、離婚し、死に、転出し、転入する。
そういうわけなので、なにかウルトラCを考えないと、システム側からの夫婦別姓はかなりの困難を伴うだろう。
もしこの辺がきちんとシステム化された場合、例えば遺産相続で非相続者が登場するすべての戸籍謄本を集めなくてはならない(法的に他に相続権者がいないかを証明する必要があるので)というクッソだるいイベントがあるんだが、これを非相続者のIDで申請したら一気に全部取得できるとかそういうのはできるかもしれない。
夫婦別姓なんか「もともと何の問題もないので好きにしてください」位自由にできる。
氏名変更だってそんなに難しくない(しょっちゅう変えるとシステム的に良くてもみんな混乱するので何かしら規制は入るだろうが。)
俺ら(お前も充分含むわ)の”世代”も俺の言うこんな感じだろうが。ソースはお前な。
ビジョンは無いがとにかくモーレツに働いて数も多く権力死守体制維持に執着しまくって70、80までしがみついた無能な働き者の支配集団と、
その手下として追い飛ばすこともなく何十年と脳死で働かされ続けた燃えカス廃人と冷笑インテリと茶坊主オジサンの合わさった腑抜けの集団。歴然とした事実があるだろ。お前を含む自称有能だという連中が今に於いても世代交代を成し遂げずにいる時点でお前も限りなく無能オブ無能なんすわ。
こんな連中しか残ってないこの国はいまさらどうしろって言うんだろうね
どうせあと10年してもこのままで、二進も三進もいかなくなった頃に口の立つ狡猾な道化に一発逆転を唆されて地獄に沈んでくんだろうな。あ、既に1回あったっけ。まあそれも次で終わるんだろう。
これはオチがあって最後はスッキリするような記事ではないのでご留意願いたい。本当にただの愚痴である。
私と彼女は大学3年生の秋に付き合い始めた。しかし付き合って間もなく彼女は外国に1年ほど留学した。現在付き合い始めてからは2年半になるが、自由に会うことが出来た期間は1年半ということになる。
そして彼女は今春から新社会人となる(留学したので1年留年している)。そして彼女は新社会人にありがちであろう、研修?で意味のわからないくらい遠方に飛ばされるアレの被害者となった。2人とも現在は関東在住だが、彼女は春から京都で働くことになった。
私が自由の身であるなら迷わず京都に飛んで行きたいところだが、そんな都合のいい立場であるはずもない。おそらく2.3年はまた遠距離恋愛でやっていくことになるだろう。
国を跨いだ遠距離恋愛を経験しているのでそれ自体にはあまり不安はないのだが、いくら何でも前途多難な恋愛をしてしまっていると思う。付き合い始めて2ヶ月ほどで1年海外に行ってしまい、今度は2.3年も京都に行ってしまう。同棲の計画もしていた最中であっただけに余計に堪える。しかし一番堪えるのは恋愛を最高に楽しめるであろう(と勝手に思っている)20代前半の期間の半分がほぼ空白になろうとしている事実である。
20代の間の恋人との時間は、ヒトの人生に於いてかなり上位の幸福な時間であると私は信じている。私はそのかけがえのない時間を今から薄く過ごそうとしているのだ。本当に堪える。私の隣に彼女がいる未来がいかに幸福で、いかに容易く想像出来て、いかに今の私の原動力であったか。
無論、数年経てば遂に私達は1つ屋根の下に生活出来るようになるはずで(こんなことがあった以上無論でもないか)、その後にやりたいことを好きなだけやればいいじゃないかと思うかもしれない。しかし、私は20代の1年と60代の1年違うことを知っている。時間の感じ方やら体力やら暇な時間やら時代やら何もかもが違う。20代と30代でも違うだろう。彼女の今の美しさも衰えていくだろう。そんな貴重で有限な20代を彼女との思い出作りに費やしたいと思うのは私には必然だ。私はこの恋愛の為に今の人生を生きている自負がある(重すぎてメンヘラと言われたことはあるが、女だったらもっと言われていただろう)。
今一度、私が不自由な人間であり、彼女も社会に抗えない程度に不自由な人間であることを嘆かずにはいられない。しかし私達ならこの不自由を乗り越えられるだろうという確信と、この愚痴を最後まで見てくださっている方がいることが僅かながらの救いである。
信長というと、短気で気分しだいで人を殺していたとか思われがちだが、
20年来の宿老の佐久間信盛を解任する際も、暴君なら理由もなしに追い払ってしまうものだが、
信長は以下の長文をわざわざ直筆で書いている。
一、佐久間信盛・信栄親子は天王寺城に五年間在城しながら何の功績もあげていない。世間では不審に思っており、自分にも思い当たることがあり、口惜しい思いをしている。
一、信盛らの気持ちを推し量るに、石山本願寺を大敵と考え、戦もせず調略もせず、ただ城の守りを堅めておれば、相手は坊主であることだし、何年かすればゆくゆくは信長の威光によって出ていくであろうと考え、戦いを挑まなかったのであろうか。武者の道というものはそういうものではない。勝敗の機を見極め一戦を遂げれば、信長にとっても佐久間親子にとっても兵卒の在陣の労苦も解かれてまことに本意なことであったのに、一方的な思慮で持久戦に固執し続けたことは分別もなく浅はかなことである。
一、丹波国での明智光秀の働きはめざましく天下に面目をほどこした。羽柴秀吉の数カ国における働きも比類なし。池田恒興は少禄の身であるが、花隈城を時間も掛けず攻略し天下に名誉を施した。これを以て信盛も奮起し、一廉の働きをすべきであろう。
一、柴田勝家もこれらの働きを聞いて、越前一国を領有しながら手柄がなくては評判も悪かろうと気遣いし、この春加賀へ侵攻し平定した。
一、戦いで期待通りの働きができないなら、人を使って謀略などをこらし、足りない所を信長に報告し意見を聞きに来るべきなのに、五年間それすらないのは怠慢で、けしからぬことである。
一、信盛の与力・保田知宗の書状には「本願寺に籠もる一揆衆を倒せば他の小城の一揆衆もおおかた退散するであろう」とあり、信盛親子も連判している。今まで一度もそうした報告もないのにこうした書状を送ってくるというのは、自分のくるしい立場をかわすため、あれこれ言い訳をしているのではないか。
一、信盛は家中に於いては特別な待遇を受けている。三河・尾張・近江・大和・河内・和泉に、根来衆を加えれば紀伊にもと七ヶ国から与力をあたえられている。これに自身の配下を加えれば、どう戦おうともこれほど落ち度を取ることはなかっただろう。
一、水野信元死後の刈谷を与えておいたので、家臣も増えたかと思えばそうではなく、それどころか水野の旧臣を追放してしまった。それでも跡目を新たに設けるなら前と同じ数の家臣を確保できるはずだが、1人も家臣を召し抱えていなかったのなら、追放した水野の旧臣の知行を信盛の直轄とし、収益を金銀に換えているということである。言語道断である。
一、山崎の地を与えたのに、信長が声をかけておいた者をすぐに追放してしまった。これも先の刈谷と件と思い合わされる事である。
一、以前からの家臣に知行を加増してやったり、与力を付けたり、新規に家臣を召し抱えたりしていれば、これほど落ち度を取ることはなかったであろうに、けちくさく溜め込むことばかり考えるから今回、天下の面目を失ってしまったのだ。これは唐・高麗・南蛮の国でも有名なことだ。
一、先年、朝倉をうち破ったとき(=刀根坂の戦い)、戦機の見通しが悪いとしかったところ、恐縮もせず、結局自分の正当性を吹聴し、あまつさえ席を蹴って立った。これによって信長は面目を失った。その口程もなく、ここ(天王寺)に在陣し続けて、その卑怯な事は前代未聞である。
一、大まかに言えば、第一に欲深く、気むずかしく、良い人を抱えようともしない。その上、物事をいい加減に処理するというのだから、つまり親子共々武者の道を心得ていないからこのような事になったのである。
一、与力ばかり使っている。他者からの攻撃に備える際、与力に軍役を勤めさせ、自身で家臣を召抱えず。領地を無駄にし、卑怯な事をしている。
一、信盛の与力や家臣たちまで信栄に遠慮している。自身の思慮を自慢し穏やかなふりをして、綿の中に針を隠し立てたような怖い扱いをするのでこの様になった。
一、信長の代になって30年間奉公してきた間、「信盛の活躍は比類なし」と言われるような働きは一度もない。
一、信長の生涯の内、勝利を失ったのは先年三方ヶ原へ援軍を使わした時で、勝ち負けの習いはあるのは仕方ない。しかし、家康のこともあり、おくれをとったとしても兄弟・身内やしかるべき譜代衆が討死でもしていれば、信盛が運良く戦死を免れても、人々も不審には思わなかっただろうに、一人も死者をだしていない。あまつさえ、もう一人の援軍の将・平手汎秀を見殺しにして平然とした顔をしていることを以てしても、その思慮無きこと紛れもない。
一、こうなればどこかの敵をたいらげ、会稽の恥をすすいだ上で帰参するか、どこかで討死するしかない。
一、親子共々頭をまるめ、高野山にでも隠遁し連々と赦しを乞うのが当然であろう。
右のように数年の間ひとかどの武勲もなく、未練の子細はこのたびの保田の件で思い当たった。そもそも天下を支配している信長に対してたてつく者どもは信盛から始まったのだから、その償いに最後の2か条を実行してみせよ。承知しなければ二度と天下が許すことはないであろう。
また、秀吉が浮気したときに、奥さんの禰禰にこのような手紙も送っている。
私の命に従い、この度、この地(安土城)にはじめて尋ねてくれて嬉しく思う。
その上、土産の数々も美しく見事で、筆ではとても表現できない程だ。
そのお返しに、私の方からも「何をやろう」かと思ったが、そなたの土産があまりに見事で、何を返せば良いのか思い付かなかったので、この度はやめて、そなたが今度来た時にでも渡そうと思う。
そなたの美貌も、いつぞやに会った時よりも、十の物が二十になるほど美しくなっている。
藤吉郎(秀吉)が、何か不足を申しているとのことだが言語同断けしからぬことだ。
どこを探しても、そなたほどの女性を二度とあの禿ねずみは見付けることができないだろう。
これより先は、身の持ち方を陽快にして、奥方らしく堂々と、やきもちなどは妬かないように。
ただし、女房の役目として、言いたいことがある時はすべて言うのではなく、ある程度に留めて言うとよい。
又々 かしく藤吉郎 女ども
のぶ
熟年離婚って、国民皆婚時代で仕方なく結婚していた人がもう子育てとかいう社会的責務も済んだし、もう隠居生活だし終活のカネもあるし自由にするわ。つってやるものなんだろうか。
国民皆婚が解かれ、いわゆる女性の社会進出によって女性でも経済自立できる領域が増えたのは、
「あまりにも苦痛で、望まない関係を断つことができる」という意味ではポジティブなんだよな。
あちらを立てればこちらが立たずなんだなー。まーやっぱ何かを犠牲にしないと成り立たんのかな。存続って
生物的な多様性とかいう遺伝子ガチャって、その時代に於いて有利に進めるの無理ゲーな性質で生まれたりもするわけじゃん。先天的な障害とか。先天的にモテセンスがないとか。
繁殖と遺伝子ガチャがセットになっているという性質は、犠牲が発生するリスクも込みでそのシステムになってるわけですよね。
「来世に期待」っていうネットスラングあるけど、それってその通りなんだよな。この遺伝子は今の時代ではあまり有利ではないけど、別の時代で役立つこともある。それが遺伝子ガチャなんだ。
戦争中はめちゃくちゃ戦闘スキルが高かったけど戦後はただのダメオヤジになった。みたいな人もいるしなー。
「時代と遺伝子ガチャシステム上の犠牲になった」と認識したら、もう今生の時代は諦めたほうがいいんだろうな。
「今生は活躍できんかったけど来世に期待して子孫を残す」って考えればいいのだろうか。遺伝子キャリアとしての自覚を持てばいいのかな?
それこそコロナで、外に出まくって対人でしゃべってないと生きていけない人がどんどん感染拡大させるが、家でじっとしてても苦にならない人間は感染拡大させない。