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2021-12-27

anond:20211216111446

河尻みたいに征服した武田領の仕置をしているのが、河尻、毛利、森、遠山かな?

水野、団、斉藤坂井信忠に付き従っていた

武田滅亡からまだ日が経っていない(4ヶ月)んだよね・・・

尾張衆:

河尻秀隆、甲斐に据えられる

池田恒興(当時は遊撃隊あつかいか)、摂津支配

毛利長秀、伊那領を統治

塚本小大膳、?

浅井政貞、天正9年(1581年)5月24日死去?

水野忠重、二条城にいたが生還

団忠正二条城信忠と一緒に戦い討死

丹羽氏次、?変後は信雄家臣になる

美濃衆:

森長可信濃海津城領主

斎藤五郎二条城信忠と一緒に戦い討死

坂井越中守、二条城信忠と一緒に戦い討死

佐藤秀方、天正6年(1578年)には、越中戦線派遣された(月岡野の戦い)。 そのまま北陸にいた模様

遠山友忠、東濃にいた模様

2021-12-14

anond:20211214094854

6/2本能寺の変
6/3光秀が近江出兵
6/4家康岡崎城に帰還
6/5光秀が近江を平定
6/7秀吉姫路城に帰還
6/8光秀が坂本城に帰還
6/9光秀が秀吉迎撃に出陣
6/12秀吉摂津富田まで進出
6/13山崎の戦い
6/14家康尾張熱田まで進出
6/16秀吉近江を平定
6/18勝家が近江長浜まで進出
6/22秀吉美濃尾張出兵
6/25秀吉美濃尾張を平定
6/27清洲会議

山崎の戦いから秀吉近江を平定するまで3日、そこから美濃尾張を平定するまで9日、

というスケジュールを仮に光秀に当てはめたとすると、

6/2に本能寺の変、6/5に近江を平定、6/14に美濃尾張平定、ということになる。

実際には、織田家本領尾張美濃での抵抗は激しいだろうからもっと時間がかかるはず。

家康進出してくるまでに、尾張平定を完了したうえで迎撃態勢を整えるのは難しいだろう。

さらに、その背後には勝家が迫ってきているわけで、光秀は尾張家康と睨み合っているわけにもいかない。

なので周辺の地固めといっても、戦力的に重要美濃尾張はどうやっても確保できず、

光秀は京付近まで下がって家康・勝家と対峙するしかないが、

そうなったとき細川筒井がいきなり明智に味方するとも思えない。

下手すりゃ近江勢まで離反する。

あるいは、近江平定から今度は大坂方面に軍を向けていたとすると、

池田恒興中川清秀摂津諸将は降伏していたかもしれないが、

近江美濃尾張は勝家と家康占領されていたかもしれない。

中国大返しが無いというのが、

秀吉普通の速度で戻ってくる」ということなのか、

秀吉近畿出兵しない」ということなのか、

秀吉が光秀と敵対すらしない」ということなのか分からんので、

光秀が大坂方面にどれだけ兵を割く必要があるのかも分からんが。

2021-01-03

信長は筆マメだった

信長というと、短気で気分しだいで人を殺していたとか思われがちだが、

しろ逆で、すべて緻密な計算政治を行っていた。

20年来の宿老の佐久間信盛を解任する際も、暴君なら理由もなしに追い払ってしまものだが、

信長は以下の長文をわざわざ直筆で書いている。

信長による19ヶ条の折檻状(現代語訳)

一、佐久間信盛・信栄親子は天王寺城に五年間在城しながら何の功績もあげていない。世間では不審に思っており、自分にも思い当たることがあり、口惜しい思いをしている。

一、信盛らの気持ち推し量るに、石山本願寺を大敵と考え、戦もせず調略もせず、ただ城の守りを堅めておれば、相手坊主であることだし、何年かすればゆくゆくは信長の威光によって出ていくであろうと考え、戦いを挑まなかったのであろうか。武者の道というものはそういうものではない。勝敗の機を見極め一戦を遂げれば、信長にとっても佐久間親子にとっても兵卒の在陣の労苦も解かれてまことに本意なことであったのに、一方的な思慮で持久戦に固執し続けたことは分別もなく浅はかなことである

一、丹波国での明智光秀の働きはめざましく天下に面目をほどこした。羽柴秀吉の数カ国における働きも比類なし。池田恒興は少禄の身であるが、花隈城時間も掛けず攻略し天下に名誉を施した。これを以て信盛も奮起し、一廉の働きをすべきであろう。

一、柴田勝家もこれらの働きを聞いて、越前一国を領有しながら手柄がなくては評判も悪かろうと気遣いし、この春加賀へ侵攻し平定した。

一、戦いで期待通りの働きができないなら、人を使って謀略などをこらし、足りない所を信長に報告し意見を聞きに来るべきなのに、五年間それすらないのは怠慢で、けしかぬこである

一、信盛の与力保田知宗の書状には「本願寺に籠もる一揆衆を倒せば他の小城一揆衆もおおかた退散するであろう」とあり、信盛親子も連判している。今まで一度もそうした報告もないのにこうした書状を送ってくるというのは、自分のくるしい立場をかわすため、あれこれ言い訳をしているのではないか

一、信盛は家中於いて特別待遇を受けている。三河尾張近江大和河内和泉に、根来衆を加えれば紀伊にもと七ヶ国から与力をあたえられている。これに自身配下を加えれば、どう戦おうともこれほど落ち度を取ることはなかっただろう。

一、水野信元死後の刈谷を与えておいたので、家臣も増えたかと思えばそうではなく、それどころか水野の旧臣を追放してしまった。それでも跡目を新たに設けるなら前と同じ数の家臣を確保できるはずだが、1人も家臣を召し抱えていなかったのなら、追放した水野の旧臣の知行を信盛の直轄とし、収益を金銀に換えているということである言語道断である

一、山崎の地を与えたのに、信長が声をかけておいた者をすぐに追放してしまった。これも先の刈谷と件と思い合わされる事である

一、以前からの家臣に知行を加増してやったり、与力を付けたり、新規に家臣を召し抱えたりしていれば、これほど落ち度を取ることはなかったであろうに、けちくさく溜め込むことばかり考えるから今回、天下の面目を失ってしまったのだ。これは唐・高麗南蛮の国でも有名なことだ。

一、先年、朝倉をうち破ったとき(=刀根坂の戦い)、戦機の見通しが悪いとしかったところ、恐縮もせず、結局自分正当性を吹聴し、あまつさえ席を蹴って立った。これによって信長は面目を失った。その口程もなく、ここ(天王寺)に在陣し続けて、その卑怯な事は前代未聞である

一、甚九郎(信栄)の罪状を書き並べればきりがない。

一、大まかに言えば、第一に欲深く、気むずかしく、良い人を抱えようともしない。その上、物事をいい加減に処理するというのだから、つまり親子共々武者の道を心得ていないからこのような事になったのである

一、与力ばかり使っている。他者から攻撃に備える際、与力に軍役を勤めさせ、自身で家臣を召抱えず。領地無駄にし、卑怯な事をしている。

一、信盛の与力や家臣たちまで信栄に遠慮している。自身の思慮を自慢し穏やかなふりをして、綿の中に針を隠し立てたような怖い扱いをするのでこの様になった。

一、信長の代になって30年間奉公してきた間、「信盛の活躍は比類なし」と言われるような働きは一度もない。

一、信長の生涯の内、勝利を失ったのは先年三方ヶ原へ援軍を使わした時で、勝ち負けの習いはあるのは仕方ない。しかし、家康のこともあり、おくれをとったとしても兄弟・身内やしかるべき譜代衆が討死でもしていれば、信盛が運良く戦死を免れても、人々も不審には思わなかっただろうに、一人も死者をだしていない。あまつさえ、もう一人の援軍の将・平手汎秀を見殺しにして平然とした顔をしていることを以てしても、その思慮無きこと紛れもない。

一、こうなればどこかの敵をたいらげ、会稽の恥をすすいだ上で帰参するか、どこかで討死するしかない。

一、親子共々頭をまるめ、高野山にでも隠遁し連々と赦しを乞うのが当然であろう。

右のように数年の間ひとかどの武勲もなく、未練の子細はこのたびの保田の件で思い当たった。そもそも天下を支配している信長に対してたてつく者どもは信盛から始まったのだから、その償いに最後の2か条を実行してみせよ。承知しなければ二度と天下が許すことはないであろう。

また、秀吉浮気したときに、奥さんの禰禰にこのような手紙も送っている。

私の命に従い、この度、この地(安土城)にはじめて尋ねてくれて嬉しく思う。

その上、土産の数々も美しく見事で、筆ではとても表現できない程だ。

そのお返しに、私の方からも「何をやろう」かと思ったが、そなたの土産があまりに見事で、何を返せば良いのか思い付かなかったので、この度はやめて、そなたが今度来た時にでも渡そうと思う。

そなたの美貌も、いつぞやに会った時よりも、十の物が二十になるほど美しくなっている。

藤吉郎(秀吉)が、何か不足を申しているとのことだが言語同断けしかぬことだ。

どこを探しても、そなたほどの女性を二度とあの禿ねずみは見付けることができないだろう。

これより先は、身の持ち方を陽快にして、奥方らしく堂々と、やきもちなどは妬かないように。

ただし、女房の役目として、言いたいことがある時はすべて言うのではなく、ある程度に留めて言うとよい。

この手紙は、羽柴(秀吉)にも見せること。

又々 かしく藤吉郎 女ども

のぶ

 
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