はてなキーワード: 要塞とは
できれば劇的に人生がマシになると思うんだよな。
まず「キモイ」を取ると「キモくなくて金が無いオッサン」になる。
地元の工業高校卒の工場勤めや現場職のマイルドヤンキーなどがこの人種だろう。
金は無くともキモくないのでとりあえず適齢期前後で嫁は捕まえられる。
ダブルインカムで「金が無い」という問題はある程度カバーできる。
コミュ力も問題ないので旧来の友人や快活な同僚たちと狭く深く付き合うこともできる。
派手な暮らしはできないだろうが嫁と粛々と働くことで人並みの幸せは手に入れられるだろう。
ただし地方に蔓延するパチンコ沼や風俗沼に嵌ると生活が瓦解するので注意が必要。
次に「金が無い」を取ってみよう。
「キモくて金のあるオッサン」、中小企業の成金社長やB級病院長などだな。
このタイプは人格破綻しているパターンが大半だが、いかんせん金だけはある。
東南アジア出身の若くて可愛い娘を囲うなど醜悪な金の使い方をする。
ダサい高級セダンを乗り回し、コンクリ張りの要塞に住む。厳つい玄関に自動開閉シャッター、セコムのロゴ。
キモイので身の丈にあった幸せは掴めずに壮年期で悲惨な最期を迎えることが多い。
ただ金に物を言わせてやりたいことはすべてやるので案外楽しそうに暮らしている。人生に一片の悔いなしだろう。
そして「オッサン」、3つの要素のうちで最も重い十字架である。老いとは不可逆であるからだ。
「キモくて金が無い若者」、なんというありふれた響きだろう。こんなの理系界隈ならゴマンといる。
正直「若さの持つバイタリティーとポテンシャル」+「行動力」があれば「キモさ」も「金が無い」も超克できる。
KKO諸兄は若い時分にここに気が付けなかったからみっともないKKOに落ちぶれてしまったのだ。
ということでKKO予備軍の皆さんはKKのいずれかを全力で除去することに注力されたし。
体力・気力・精魂が残っていれば、の話だけどね。
kubohashi タイトルで想像した中身と違った、こういうのかと思った→ 地学 ~略~ 壁画解読 ~略~ あとどこかで建築関係の人が「ランドの鉄筋ゴイスー」的なこと書いてた気がしたけど見つからない
https://togetter.com/li/1085202
https://togetter.com/li/792488
http://www.cranenet.or.jp/kikansi/disneysea.html
1 つち形クレーン
ミステリアスアイランドのフォートレス(要塞)・エクスプロレーションがあり大航海時代の埠頭である.埠頭には3本マストの帆船(ガリレオ船)ルネサンス号が停泊している.長い航海から戻ったルネサンス号は,世界の珍しい物産の陸揚げに忙しい.埠頭の荷役作業には木造の旋回式水平ジブクレーンが活躍している.
http://conpetti.com/TDR/?p=1811
ガレオン船には船首楼と船尾楼があり、船首楼の上の甲板を“フォクスルデッキ”(船首楼甲板)といいます。船尾楼側の甲板は二層になっていますが、下段の甲板は“クォーターデッキ”(船尾甲板)、上段は“プープデッキ”(船尾楼甲板)と呼ばれます。クォーターデッキの奥には操舵装置や羅針盤(コンパス)、船長室などがあり、船の中枢部になっています。
http://www.tokyodisneyresort.jp/magic/enjoy/flower/
http://ure.pia.co.jp/articles/-/71328
http://tdr-3d.blog.so-net.ne.jp/2007-06-16tatemono1
ハイ、ここはおなじみ。
東京ディズニーランドのワールドバザール入り口なんですが…。
ワールドバザールは19世紀から20世紀初頭にかけてのヴィクトリア様式で
つくられているのですが、古代ギリシャ・ローマ時代からつづく柱頭の伝統が
受け継がれているのですねー。
https://note.mu/ken76a3/m/maed242c63599
「プーさんのハニーハント」もローマンと明朝が使用されています。プーさんのハニーハントは、もっと可愛らしい丸みをフォントを使用していてもいいなと思ったのですが、絵本内に使われてるフォントがローマンで、そこと統一感をもたせたものなのかなと考察できます。
途中からもうやっつけかな、無理矢理50個書いてみました!みんなに迷惑を掛けないようにディズニーを楽しんでくれたらいいなと思うよ!自分の楽しいを見つけてくれたらいいですね!
ヒゲが生えちまってよお、眉間にもぶっとい毛生えて両さんみてえになってよお、オラもうたまんねぇぞ!って相談をね、前回したんですが。
コメントにちょいちょい書いてある婦人科行けよってのに脅されて婦人科行きましたがな。
初の産婦人科。
受診理由のとこにも「ヒゲが生える体毛が濃い肥満気味、多嚢胞性卵巣症候群の疑いを感じて」ってバッキリ書いてやったよね。
看護師さんに呼ばれて「これ何?」って聞かれたわ。「あのぉ〜ヒゲの方がね生えましてね、みんなが婦人科行けって言うから…」ってくどくど説明したけどたぶん「何言ってんだこのヒゲ女」って思ってただろう。
私、知ってるよ膀胱におしっこ貯めてやるやつやろって思ってパンツ履いて待ってたわけ。
このためにファンタ飲んで準備万端だったのに。
「パンツも脱いでください」って。
変形すんの。「すげえーーーーー!」って叫んだら笑われたわ。
医者のおじ様に向かってM字開脚状態で。なんて下品な機体なんだ。
まさか内診があるとは思ってなくて。
おじ様が苦悩の梨みたいな器具でわたしの超時空要塞をねマクローーーースって。
「膣荒れてますね〜」って。
すげえ心当たり(anond:20171106233237)がある。
歴戦のオナニスト。毎夜に及ぶインメルマンダンスがこんなにも自らを傷つけているなんて。もうやめようって思った。
苦悩の梨抜いたと思ったら今度は指突っ込んできて。
「ここ痛いですか〜?」って。 痛くないの。
私のダイアモンドクレバスに男の指が入るの半年ぶりで。まさか久しぶりの手マンがお医者様だとはな。
もうこれ以上ぐちゅぐちゅするのやめて…ルンピカしちゃうから。
みんなに見られて恥ずかしいのと、お医者様がいいとこ当てるんだまた。
声出たらどーしよ、てか感じてるとかバレたらもうこここれねえなって思って必死に口塞いでた。
で、子宮エコーって腹部だけやと信じてたんだけど、経膣エコーとかあるんすね。
たぶんプローブっぽいの入った。
子宮を投影しながら「うーんたぶん排卵してないですね〜」ってさらっと恐ろしいこと言うた。
卵巣は綺麗って褒められた。私外見で褒められるの卵巣が初めてかも。
これで内診終わりで、おまけに膣錠をずぼっとプレゼントしてくれたよ。
ほんでバルキリーから脱出して採血して、多嚢胞性卵巣症候群といっしょに淋菌とクラミジアもついでに検査しとこうぜ〜って。
結果は来週出るらしいんすけど。
とりあえず卵巣エコー見る限りは多嚢胞性卵巣症候群は無いらしいです。
私はディズニーシーがとても好きだ
近いのでめっちゃ行ってる
Dオタの猛者には負けるが、住みたいくらいには好きだ
…違う
……違う
………違う!!!
それは!ロマンチックな瞬間にいる隣の人が彼氏だったらいいのになぁ…と思ったときだ!!!
一昨日もアフター6で兄とインしてきた
冬で空気も清んでたので、スカイツリーまで見えた(大きい湖の横の橋から、ギリシャ神殿みたいなやつの方角を運がいいと見えます)
ディズニーシーのクリスマスはアメリカンウォーターフロントの季節
兄と良さげな車に乗って夜のアメフロ一周した
良かった
その後に花火が始まった
サンタクロースが喋ってるらしい
最後にサンタクロースは「Wishs come true!」と言ってた気がした
アメフロの大きなクリスマスツリーを後にして兄にメディテレーニアンハーバーの絶景スポットを教えに向かった
メディテレーニアンハーバーに着くと、ショーが終わった後のはずなのに巨大なクリスマスツリーとそれを囲む小さなツリーが湖の中で光っていた
とても幻想的だった
何より閉園ギリギリまでやってくれてることが嬉しい
そこは要塞の最上階(湖の一番上の要塞みたいなとこを登っていきます)
するとメディテレーニアンハーバーが一番高いところで見渡せるのだ
カップルに是非きてほしい
そして帰るためにザンビーニ側から歩いていくと、なんと!お花畑のあたりに人工雪がめっちゃ降ってる!幻想的!素敵!ロマンチック!
こういうときに「なんで隣が彼氏じゃないんだろう」と思ってしまう
自分の悪いところだと思う
ディズニーシーはとても良いとこだ
とても素敵なところだ
だがその輝きが私に闇を作るときがある
これを見る人は多くないと思うけど、とりあえず今年のディズニーシーのクリスマスは素敵だぞ
あそこで告白でもされたらコロッといくぞ
でもどうか、一緒に行く相手を厳選してほしい
私と同じ思いをしないために…
ウィキペディアで諸星あたるを見てたら予想外な話が多かったので以下コピペ
実在の人物である漫画家の諸星大二郎と巨人の江川卓の弟、江川中(あたる)に由来する(少年サンデーグラフィック誌上の原作者インタビューより)。様々な災厄に見舞われるという意味で「諸々の星に当たる」に、上記の名前をそれぞれかけたものであると考えられている。
諸星大二郎はレンタルビデオ店に入った際、突然「よく来たな諸星!」と言われ、あたりを見ても近くに誰もいないので気味が悪くなって出ようとしたら「どこへ行く諸星!」と言われ、おもわず立ち止ったと言う。後になって分かった事だがこれはうる星やつら2 ビューティフル・ドリーマーにおける面堂の台詞で、丁度レンタルビデオ店で流していたビデオだった。(高橋留美子展に展示されたイラストのコメントによる)。
『銀河英雄伝説』で無類の女好きという設定のオリビエ・ポプランというキャラがいるが、彼はファンから「イゼルローン(同作品内に出てくる要塞名)の諸星あたる」とあだ名がつけられる[12]。後に作られたOVA版でのポプランの声優はあたると同じ古川登志夫となるが、これは製作が同じキティ・フィルムであったことと、ファンのつけたあだ名も知られていたからでもある。
アニメ版におけるあたるの歩き方はガニ股であるが、これはチーフディレクターである押井守が最初に切った絵コンテの通りに作画されてしまったため(押井はガニ股でしか歩く絵が書けなかった)。押井は後に「そういう(あたるをガニ股に描いたような)ところが原作者の逆鱗に触れたんじゃないかな」と振り返っている[13]。
この条約が締結される頃の東アジア世界は、近代的国際法を掲げながら、実際には弱肉強食を旨とする西欧列強が浸透してくる時期にあたる。当時朝鮮は清の冊封国であったが、鎖国政策を国是としていたため、国際交流は非常に限られていた。しかしそのような朝鮮にも1860年代以降国際化の波(外圧)が押し寄せ、海上から西欧諸国が訪れるようになる。朝鮮と西欧列強との出会いは、概ね芳しいものではなかった。たとえば1866年にはフランス軍がキリスト教徒虐殺事件(丙寅迫害)の報復として軍艦7隻総兵力1000人で朝鮮の江華島を攻撃・占領する丙寅洋擾が発生し、1871年にはアメリカ合衆国もジェネラル・シャーマン号事件(1866年発生)の報復として軍艦5隻総兵力1200人艦砲85門で朝鮮の江華島に攻撃・占領を行っている(辛未洋擾)。丙寅洋擾と辛未洋擾は朝鮮と通商を行うための侵略であったが却って斥和碑を建てるなど攘夷につながった。
当時朝鮮の政権を担っていたのは高宗の実父興宣大院君である。清朝から西欧列強の情報を得ていた大院君は、断固として鎖国を維持する姿勢を貫いた。これは中国における西欧側の非道を知ったこともあるが、朱子学以外を認めない衛正斥邪という思想政策を積極的に推し進めたことから分かるように、大院君は中華思想的発想の持ち主であり、その点から西欧諸国を夷狄視していたことも理由の一つである。その強い姿勢は「西洋蛮人の侵犯に戦わない事は和議をする事であり、和議を主張することは売国行為である」と書かれた斥和碑を朝鮮各地に建てたことに窺うことができる。このように当時の朝鮮では攘夷熱が高まっていた。
また朝鮮では、文禄・慶長の役時に、中国が朝鮮を守ったため、今回も中国が朝鮮を守ってくれるに違いないという立場であり、小島毅は「中国は東アジア全体にとっての親分だというのが朝鮮の認識ですから、親分である中国に自分を守ってもらおうとするわけですね」と述べている[2]。
他方、西欧列強が迫っていた東アジア諸国の中で、いちはやく開国し明治維新により近代国家となった日本は、西欧諸国のみならず、自国周辺のアジア諸国とも近代的な国際関係を樹立しようとした。朝鮮にも1868年12月に明治政府が樹立するとすぐに書契、すなわち国書を対馬藩の宗氏を介し送った。江戸時代を通じて、朝鮮との関係は宗氏を通じ行われてきたためである。しかし国書の中に「皇」や「奉勅」といったことばが使用されていたために、朝鮮側は受け取りを拒否した。近代的な国際関係樹立は、はなから躓いたといえよう。
この問題は、日朝双方の国交に対する思惑がすれ違ったことが原因である。日本側は従来の冊封体制的な交隣関係から、条約に基礎づけられた関係へと、日朝関係を変化させることを企図したのであるが、一方朝鮮側はこれまでどおり冊封関係にとどまり、その中で日本との関係を位置づけようとしていた。前近代における冊封体制下において、「皇上」や「奉勅」ということばは中国の王朝にのみ許されたことばであって、日本がそれを使用するということは、冊封体制の頂点に立ち朝鮮よりも日本の国際地位を上とすることを画策したと朝鮮は捉えたのである。
征韓論を唱えた西郷隆盛。ただし江華島事件及びその後の日朝修好条規締結に対して義に悖ると批判していた。
1868年以来、何度か日本からの国書がもたらされたが、日朝双方の思惑の違いから両国の関係は円滑なものとは言えなかった。書契問題を背景として生じた日本国内における「征韓論」の高まりに、大院君が非常な警戒心を抱いたことも一因である。また釜山においては日朝両国の官僚同士が険悪となっていた。長崎の出島のごとき釜山の倭館に限定した国交を望む朝鮮側と、対馬宗氏から外交権を取り上げて外交を一元化し、開国を迫る日本との間に齟齬が生じたのである。釜山の倭館は朝鮮側が日本、特に対馬藩の使節や商人を饗応するために設けた施設であったが、明治政府は対馬藩から外交権を取り上げ、朝鮮との交渉に乗り出そうとした。その際、倭館をも朝鮮側の承諾無しに接収し日本公館としたことから事態が悪化したのである。結果、必要物資の供給及び密貿易の停止が朝鮮側から宣言される事態となった。
日本側も単に国書を送りつけるだけだったわけではない。版籍奉還という日本国内の難問を無事に乗り越えた1870年、朝鮮との国交交渉を有利にするため、冊封体制の頂点に立つ清朝と対等の条約、日清修好条規を締結した。これにより冊封体制の維持を理由に国交交渉を忌避する朝鮮を、交渉のテーブルに着くように促したのである。
1873年に対外強硬派の大院君が失脚し、王妃閔妃一派が権力を握っても、日朝関係は容易に好転しなかった。転機が訪れたのは、翌年日清間の抗争に発展した台湾出兵である。この時、日本が朝鮮に出兵する可能性を清朝より知らされた朝鮮側では、李裕元や朴珪寿を中心に日本からの国書を受理すべしという声が高まった。李・朴は対馬藩のもたらす国書に「皇」や「勅」とあるのは単に自尊を意味するに過ぎず、朝鮮に対して唱えているのではない、受理しないというのは「交隣講好の道」に反していると主張した。これにより朝鮮側の対日姿勢がやや軟化した。
国交交渉再開の気運が高まり、1875年に交渉が行われた。日本側は外務省理事官森山茂と広津弘信、朝鮮側は東莱府の官僚が交渉のテーブルに着いたが、やはり書契に使用される文字について両者の認識に食い違いが生じた。この他森山の洋服着用など欧米スタイルを貫こうとする姿勢に朝鮮側が嫌悪感を示したことで交渉ははかばかしくなかった。交渉の停滞に業を煮やした森山は4月には砲艦外交を行うことを日本政府に上申した[3]が、三条実美の反対があり、川村純義の建議により日本海軍の砲艦二隻(雲揚および第二丁卯)が5月に派遣され朝鮮沿岸海域の測量などの名目で示威活動を展開した。その後雲揚は対馬近海の測量を行いながら一旦長崎に帰港するが、9月に入って改めて清国牛荘(営口)までの航路研究を命じられて出港した。
詳細は「江華島事件」を参照
9月20日、首都漢城に近い江華島付近で、雲揚所属の端艇が朝鮮砲台から砲撃を受ける事件が発生した(江華島事件)。雲揚は反撃し、永宗島の要塞を一時占領、砲台を武装解除し、武器、旗章、楽器等を戦利品として鹵獲した。この事件における被害は、朝鮮側の死者35名、日本側の死者1名負傷者1名(のち死亡)であった。事件は朝鮮側が日本海軍所属の軍艦と知らずに砲撃してしまった偶発的なものとされ[4]、この江華島事件の事後交渉を通じて、日朝間の国交交渉が大きく進展した。
明治政府のお雇い外国人ボアソナードは、事件を処理するために派遣される使節への訓令について、以下を決して朝鮮に譲歩すべきではないと具申した。
またこれらが満たされない場合、軍事行動も含む強硬な外交姿勢を採ることをも併せて意見している。これらの意見はほとんど変更されることなく、太政大臣三条実美を通じて訓示に付属する内諭として使節に伝えられた。さらに朝鮮に対する基本姿勢として、三条はこの江華島事件に対して「相応なる賠償を求む」べきとしながら、使節団の目的を「我主意の注ぐ所は、交を続くに在るを以て、・・・和約を結ぶことを主とし、彼能我が和交を修め、貿易を広むるの求に従ひときは、即此を以て雲揚艦の賠償と看做し、承諾すること」だと述べていた(強調、加筆者)。これは欧米列強の干渉を招かないよう配慮すべし、という森有礼の言が容れられたものである。
さらにボアソナードのいう軍事行動も含む強硬な外交姿勢も、日本は忠実に実行に移している。使節団一行には軍艦や兵士の護衛がつき、威圧効果を朝鮮側に与えようとした。また交渉が決裂した場合に備え、山縣有朋が山口県下関に入り、広島・熊本両鎮台の兵力をいつでも投入できるよう準備していたのである。さらにいえば、日本の砲艦外交的姿勢は無論朝鮮の屈服を促すものであったが、同時に日本国内の「征韓論」を唱える不平士族の溜飲を下げることも狙ったものであった。
ただこのように軍事的高圧な姿勢を表面上見せながら、当時の日本は軍費の負担という点からいって、戦争が好ましいとは考えていなかった。また戦争の発生がロシアや清朝の介入を許すきっかけになるかもしれず、その点からも極力戦争は避ける考えであった。
以上をまとめると日本側の交渉の基本姿勢は、以下の二点に集約される。
砲艦外交を最大限推し進めながら、実際には戦争をできるだけ回避すること。
江華島事件の問罪を前面に押し出しながら、実質的には条約を締結し、両国の懸案で長年解決しなかった近代的な国際関係を樹立すること。
また対朝鮮政策は、実質的には朝鮮の宗主国である対清朝政策でもあり、清朝の干渉をなくすべく事前に清朝の大官たちと折衝を重ねることも日本は行っている。19世紀、欧米列強のアジア侵略に対抗するため、清朝は朝鮮やベトナム、琉球などの冊封国を保護国化あるいは併合することによって皇帝を中心としたアジアの伝統的な国際関係をそのまま近代的国際関係へと移行させて清の地位と影響力を保持しようとし、冊封国に対して保護国化、モンゴル、チベット、新疆などの保護国に対しては植民地化を強めようとしていた。
この時期の東アジアは、日中朝そして西欧列強の間における複雑な絡み合いが相互作用する場が形成されつつあった。日朝間の国交交渉再開もその結果としてもたらされたものであると同時に、また別の歴史事象の原因でもあったのである。
攻めあぐねるモレツ帝国に対して、テイジー同盟も有効な反撃ができているわけではなかった。
建前では彼らは全知的生命に自由な冬眠をもたらすことを国是としていたが、
赤道地帯の縦深を突破して、モレツ帝国の中枢に迫るだけの国力に欠けていたのだ。
皮肉にもゆいいつモレツ帝国転覆の可能性があるのは、帝国赤道派遣軍の反乱であった。
そして、リゲイーン赤道要塞で起こった反乱は未曾有の規模にふくれあがった。
しかも、半年間動かなかった。彼らが何をしていたのかと言えば。
寝てた。
心配そうなテイジー同盟の軍使に反乱軍の司令官は快活に答えた。
物心がついてから初めての冬眠を経験した兵士たちは清々しい気持ちで北へ向かった。
半年間の待機にはテイジー同盟と交渉して補給を受ける目的もあった。
反乱軍の司令官はテイジー同盟の指導者たちが冬眠から覚めるのを待ったのだ。
鏡の国において禁じられた行為が、それぞれ特権となるのであった。
彼らは一昼夜の奮闘の末に壊滅した。
テイジー同盟軍が増田アースの反対側でおこなった助攻勢がもっと大規模であれば、
違った結果が得られたかもしれない。
壮士去って復た還らず。
簡単にいうと、自分の基地に向かって敵がどんどん攻めてくるので、砲台とか兵士を配置して敵を倒すゲーム。
このゲーム、後半になってくると、もう何もしなくても敵を勝手に排除してくれる要塞を作れる時がある。
もうどんな敵がどんな方法で来ようと無敵要塞が自動的に倒してくれる…あの時にすごく快感を覚える。
その後本当はすぐクリアになって終わってしまうのだけど、出来ることならあのままずっと見ていたい。次の日の朝も見て「おー今日もやってるやってる」って観察したい。
なんだったら勝手に成長してほしい。敵もどんどん強くなって、それに合わせて要塞も勝手に強化されていってほしい。「え?!何この砲台!めちゃくちゃ強いじゃん!こんなの作ったの!」って驚きたい。
あと実際にやったことはないので詳しくはわからないけどアクアリウム。
昔読んだソロモンの指環という本に書いてあったんだけど、絶妙なバランスでアクアリウムを作ると、餌も濾過もエアポンプも必要もなくなり
ほとんどん何もせずに水槽の中で小さな生態系の世界が循環するらしい。この本、他はカラスめちゃくちゃ頭良いということしか覚えてないけど、アクアリウムの箇所だけはすごく印象に残ってる。
ググレカス曰く「ほかにすることはないのですか」
http://www.geocities.jp/koreanlaws/kenpou.html
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/3277/2013kenpou.html
http://www.fitweb.or.jp/~nkgw/dgg/index.htm
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8186538
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/docs/19490404.T1J.html
https://www.google.co.jp/maps/place/@35.6386097,139.6999833,521a,20y,41.58t/data=!3m1!1e3!4m5!3m4!1s0x60188b48682c837f:0xa07320890573c72c!8m2!3d35.6427516!4d139.6999923
みずほ銀行PJの陣頭指揮を取っているはずのみずほ情報総研、開発拠点は全国にありますがその中でも有数の規模を誇るのがこの中目黒です。
毎日夜遅くまでフロアの電気が付いているそうですが、大変ですね。
Google Mapで見ると室外機が沢山載っている、まるで要塞のような建物が見えると思います。
ここはみずほ銀行のシステムの中核をなすデータセンターの一つです。
IBMのメインフレームが沢山入っていたそうですが、今後はどうなっていくのでしょうか。
ちなみにこの建物、建築業協会賞を受賞しているそうです。かっこいいですしね。
中目黒センターの南にある、駒沢通りに面したちょっと変わった形のビルが秋元ビルです。
ここの数フロアをみずほ情報総研が事務所として借り上げています。
みずほ関連の怪文書で中目黒という単語が出てきた場合、中目黒駅近くのみずほの建物ではなく
秋元ビルと中目黒センターの間には、自販機と灰皿が設置されているのですが
朝の九時頃には首から「MIZUHO」のカードキーを下げた方々が大勢喫煙されています。
どんな立ち話をしているのか、気になりますね。
次回は多摩が出来たらいいですね、では。
かつて十一を数えた増田家のうち、すでに四家が領土を喪失した。
明日は我が身に同じ苦難が降りかかることを恐れず、あるいはその恐怖から逃れるために
最北の増田家(一)は、せっかく手に入れた増田領(二)を増田家(三)に奪われ、増田島の北に押し込まれている。
そこで、ゆいいつ残された海路で増田家(四)と連絡し、増田家を挟撃することを目標にしている。
だが、増田家(四)は他方面も抱えており、なかなか色よい返事をしてこない。
増田家は足りない兵力を補うため、豊富な資金を放出して北方の異民族を傭兵にしはじめた。
滅びた増田家(二)であるが、落城前に降伏したため、当主以下おおくの人物が生き延びている。
現時点の増田島では城主切腹の代わりに城兵を助命する風習はさいわい存在していない。
そもそも攻めた増田家と守った増田家も親戚なので、あまり目覚めの悪いことはできなかった。
旧増田領が失陥したあとも、旧増田衆の大半は人質がいるために、増田家(一)で働かされている。
しかし、根無し草の使い走り状態に耐えかね出奔するものが後を絶たない。
サバイバルに成功した増田家(三)は、被害をおさえて増田家(一)を確実に詰め、
地道に南北軸の鯖街道を一層整備して増田家(四)の急襲や北方三家統一後の兵力移動に備えている。
現状では増田家(一)との海上での戦いが最も激しかったりする。
主な戦力:譜代衆、カラトラヴァ騎士団、旧増田家(二)国人衆、水軍衆
恐ろしき当主がひきいる増田家(四)であるが、周辺諸国に比べると勢力の伸張に劣る結果になっている。
最初につぶして手に入れた増田家(六)領は四方に通じる土地であり、
土地を交易路に活かせればよいのだが増田家(七)が潰れてしまったことで、その意味も失われてしまった。
増田家(八)が商売相手なら大量輸送が可能な海路を使えばいいのである。
仇敵である増田家(五)との休戦を何とか成立させたが、敵意は残留しているため、
まだ北にも南にも進めずにいる。
プリンセスめいキングに定評のある(新情報)増田家(五)は、はやばやと地方勢力としての生き残りを模索しはじめた。
彼らが陰に依る大樹に有望視しているのは前から繋がりのある増田家(三)であるが、
国力差が大きくなりすぎたら家臣扱いされてしまう。発言力を確保するためにも戦力増強は必要なのであった。
しかし、現実は西で接する増田家(八)からの散髪的な攻撃を受けはじめ、領土は守り通しているものの、
消耗戦により頭が寂しくなりはじめている。
無惨にも最初に滅びた増田家(六)の名跡はいちおう姫を捜し出した増田家(四)が継いだ形になっている。
だが、増田家(五)も縁のない土地をこじつけで治めるノウハウは豊富なので、内政状況は悪くない。
いずれ旧増田領が大規模な戦場になることが多くの島民に予想されていて、人口の流出が進んでいる。
主な流出先であった増田家(七)が先に戦場になったのは皮肉であるが、そこから人が戻ってきているわけでもない。
占領されたて増田家(七)領では、増田家に保護されていた宗教が水面下で一揆の準備を進行させている。
新領主が自分たちの既得権益に少しでも手を入れられたら実力を誇示する構えだ。
それどころか、領主が変わったのを奇貨として、権益ではなかったものまで既得権益に組み込もうと図った。
さいわい増田家(七)の公文書が無事だったため、それには失敗したが、
頭の弱い雑魚ナメクジ当主を言いくるめて増田領(八)での布教活動を認めさせた。
軍事方面では北方の国境要塞には占領軍の支配に抵抗する旧増田家(七)の武将も一部に存在する。
しかし、皮肉にも旧主が地方軍の反乱をおそれて中央集権体制を構築していたため、
独自に補給する組織のない地方軍の抵抗は長続きしないものと観測されている。
増田家(八)は成功体験によって妙な自信をえた。それがプラスに働くか、マイナスに働くかはまだ未知数である。
占領地行政の関係もあり、元々強かった文官系人材(ただし彼らも戦場に立つ)の力がいや増している。
当主は「領内の全公衆便所に紙運動」をはじめた。財政的に無理なので相伴衆が当主に先回りして誤魔化している。
「東に進み、西は防御」の方針だけは当主が便所でうなりながら確定させた。
主な戦力:官軍、譜代衆、地侍衆(草を含む)、傭兵軍団、水軍衆
主な家臣:増田大学、増田出羽守、増田金吾、増田中弐(元増田家(十)当主)ほか
動きの鈍い増田家(九)であるが、増田家(士)の圧力が刻々と増しており、
東での火遊びをする余裕が失われつつある。
彼らには戦力を集中して決戦に勝利するしか生き残る道はない。
国力の差を領内で戦い補給を円滑にすることと、内線作戦による各個撃破で埋める計画である。
主な家臣:増田うこん
陥落した増田家(十)の領地は、剽悍で飢えた増田軍(士)が賢者モードに入るまで散々劫掠された。
中心地の増屋を筆頭に先進地域のダメージはきわめて大きく、他の地方へ散っていった住民も多数にのぼる。
だが、増田(十)領といえども人口の大半を占める層は他の地域と大差のない一次生産者の人々であり、
増田家(士)も一度破壊しているが、全体が文明の価値に暗いわけではなく、
元当主が増田家(八)に加わり再起を図っている。後から彼の元につどう旧臣も多い。
増田家(士)に迷いはなかった。彼らにとって天下統一とは目の前に現れる敵を倒し続ければ自然と成るものなのだ。
前回
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増田 |
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「つけがち」というか現在の主要な米海軍艦はだいたい人名だったはず
これら全て米海軍の発展などに大きく貢献した海軍関係者(要するに提督といった偉い人)の名前に由来する
全てが人名由来だが、確かに少し前まではそうでないものもちらほらあった
たとえば「米海軍最後の原子力ではない空母」である「キティホーク」は、ライト兄弟が初めて空を飛んだノースカロライナの街の近くの地名に由来する(そのため古い戦闘機の愛称にもなっていたりする)
また「世界最初の原子力空母」であり数年前に退役した「エンタープライズ(冒険心)」は米海軍の象徴的な名前として位置づけられている(太平洋戦争時における旧日本海軍の「大和」とか「長門」みたいなもん)
そのためNASAのスペースシャトルや、有名なSF映画の宇宙船の名前にも採用されている(「戦艦大和」→「宇宙戦艦ヤマト」みたいなもんか)
これら人名由来じゃないやつってのはだいたい、「軍艦の名前は人名由来」という慣習が根付く前につけられた古い名前だったりする
たとえば世界初のイージス艦は「タイコンデロガ」って名前で、これはアメリカの古戦場(タイコンデロガ要塞)、ネイティブアメリカン(イロコイ族)の言葉で「二つの水に挟まれた地」という意味
これを藁人形論法と呼ぶ。
だが、ナメクジも数万を集めれば、ギザギザの舌歯によって藁人形を食い尽くしてしまう。
負け続き、不祥事続きの増田家が希望をたくしたのは、この圧倒的な数のパワーであった。なにせ人口だけは有り余っている。
社会全体が不安定な時代だけに職をもとめて都にあがってくる人間も多かった。
そんな連中にも声をかけて増田家があつめた兵力は八万!国力の限界に迫る根こそぎ動員に、他の方面をまったく無視した兵力集中で増田軍は鉄壁で知られる増田家(七)に攻め込んだ。
西の国境を接する増田家(九)は、みやこに関心がなく、北東の増田家は複雑に絡み合った東国の戦いに手を取られている。
その好機をついた侵攻だった。
攻められた増田家には自慢の国境城塞群があったが、その配置は西以外にも北や東に及んでおり、守備兵は広く分散している。
しかも近年何度も撃退されている増田家を甘くみて西側は大規模な攻勢への警戒が甘くなっていた。
だが、人の海となった増田軍は落とせない城は迂回し、落とせる小さな城だけを攻めつぶした。
増田家領内が増田家でも随一の豊かさを誇るのをいいことに、現地調達で兵糧を補いながらどんどん奥地に進んでいく。
余力のある国境城塞は出撃して、敵の小部隊をいくつも撃破したが、続々と送り込まれる敵増援部隊のなかにいつしか埋没していった。周囲を敵に満たされた恐怖に脱走する兵もあいつぐ。
さすがに今度は増田軍が勝ちそうだとみた野武士勢力までもが掠奪の果実をもとめて勝手に加わり、増田軍はその司令官にも把握できない状態に膨れ上がった
増田家(七)は多くの兵を国境に張り付けていたことが完全に徒となった。
想像以上の規模で攻撃を受けてしまったため、国境要塞地帯を超えて浸透してきた敵を各個撃破できるのは、本拠地の親衛部隊しかない。
当主は豊かな領地を守るためには一刻を争うと判断した。そこで機動防御部隊を送り出すと同時に、比較的安定している東方の国境地帯から守備兵を本拠地に呼び寄せる。
だが、この判断は大失敗だった。本拠地が手薄になった絶妙なタイミングで海から増田水軍が現れたのだ。
それはほとんど偶然だったけど、防衛側の士気を阻喪させるのに十分だった。まるですべての手が敵に読まれてしまっているように感じたのだ。
築城にこだわりのある増田家の本拠地は豪華絢爛大規模すぎて少数の兵で守るにはまったく向いていなかった。
なお、増田水軍には滅亡した増田家(十)の船団が加わっている。根拠地をうしなった元当主はうまく潜り込んで家を乗っ取ってやろうと、増田家に入り込んだ。
ところが計画には誤算があった。
当主の肛門並にゆるみきった増田家中には同じ野心を抱く人間が多すぎて、
誰もがどうにも身動きがとれない状態になっていたのだ。
(これでは脱糞するのも無理はない)と元当主は妙に納得したのだった。
しかたがないので家中での地位を地道にあげるべく、戦働きをしている。
桟橋にせまる増田軍(士)から逃げる地獄をくぐり抜けた増田船団は上陸作戦の手際もよく、
増田島最高の格式をほこる六層七階のメタブ天主に、いの一番に取り付いた。
そして自慢の手銃を撃ちまくる。メタブ天主の漆喰がつぎつぎと砕けて飛び散った。
いつもはそろばん勘定にいそしんでいる死の商人も流石に観念した。
「是非もなし……火を放て。雑魚ナメクジを侮りすぎたわ。やんぬるかな」
人生雑魚ナメクジ 下痢のうんちに比ぶれば 雪マシュマロのごときなり
前回
http://anond.hatelabo.jp/20160603183156
次回
ロボット兵は、表情なし、セリフなしという条件の中で見事な心理描写をみせる。
その言葉に反応して飛行石は激しく輝く。
この影響を受けて、死んだと思われていたロボット兵が再起動した。
『ここはどこだ?私を呼んだ者はどこにいる?』
翼の一部が欠損しているが、飛ぶ。
胸の印を飛行石に向けると飛行石の光が印に届く。
『確かに王族の方に間違いありません』
兵士達のざわめきとシータのうめき声で再び起動するロボット兵。
『我が王に手を触れるな!』
慌てて逃げ出す兵士達。
『敵兵器をすべて無力化する』
しかし気付いたシータはあまりの惨状にもうやめてと首にしがみつく。
その下をくぐり抜けてくるフラップター。
『分かりました、攻撃はここまでです』
ドーラのフラップターが寄せてくるが、羽が塔に当たってしまいシータの所までは来られない。
そこでパズーの元に行きやすいよう、シータを塔の端に乗せるロボット兵。
『どうか、ご無事で…』
ストーリーは『ルパン三世 カリオストロの城』の焼き直しである。
しかも、『カリオストロの城』はきちんとラストが盛り上がるのに対し、『ラピュタ』はティディス要塞での攻防がクライマックスであり、その後は盛り上がらない。
ラピュタの崩壊と時計台の崩壊は同じなのだが、『カリオストロの城』では古代ローマの都市が現れることでストーリーが完結する。
一方で『ラピュタ』ではムスカとの戦いを放棄してしまい、ほろびの言葉を使ってお話を投げ出してしまう。
この違いがなぜ生じたかというと、『カリオストロの城』には山崎晴哉氏という本業の脚本家が付いたからだろう。
しかしながら、ティディス要塞でのシータ救出の盛り上がりは大変なものである。
“バルス祭り“なるものが行われるようだが、『ラピュタ』ではパズーがシータを救出する瞬間、「シーター!!!」で盛り上がるべきだと思う。
なにをやっているのかわからなかったが会話の中に出てきたkanoseという人が悪いことだけはわかった。
明日文章書かなくてもいい。ブログもメルマガも両方とも予約できてるから自由だ!— 三沢文也@こっちは本気で遊んでるんだ! (@tm2501) 2016, 1月 5
「このアカウントにリツイートされるとネトフェミとか批評系の人に拡散される」— トデス子'\ (@todesking) 2016, 1月 5
あ”?俺に言ってんのか? https://t.co/CoMOPvOkau— 三沢文也@こっちは本気で遊んでるんだ! (@tm2501) 2016, 1月 5
@todesking 大変不愉快です。— 三沢文也@こっちは本気で遊んでるんだ! (@tm2501) 2016, 1月 5
@todesking あ、はい— 三沢文也@こっちは本気で遊んでるんだ! (@tm2501) 2016, 1月 5
本当にそうお考えですか? https://t.co/4sZ5yrniqx— 三沢文也@こっちは本気で遊んでるんだ! (@tm2501) 2016, 1月 5
今の僕はあなたのせいで大変です https://t.co/CkNucyqCdB— 三沢文也@こっちは本気で遊んでるんだ! (@tm2501) 2016, 1月 5
僕にはあなたが冗談の類としか思えない https://t.co/gTZMEFuY4R— 三沢文也@こっちは本気で遊んでるんだ! (@tm2501) 2016, 1月 5
@todesking あ、はい。— 三沢文也@こっちは本気で遊んでるんだ! (@tm2501) 2016, 1月 5
あなたが私を煽っているとしか思えない不愉快な発言をしたくなったことを見直すことから始めたほうがいいのでは? https://t.co/oBTdnYGj0L— 三沢文也@こっちは本気で遊んでるんだ! (@tm2501) 2016, 1月 5
え?自分で探し当ててたり、そういったものを望んでいるのでは? https://t.co/lqYEVTMAiJ— 三沢文也@こっちは本気で遊んでるんだ! (@tm2501) 2016, 1月 5
不愉快なことをしない人、難癖をつけない人とは仲良くしたいです。 https://t.co/sghcOWvQd0— 三沢文也@こっちは本気で遊んでるんだ! (@tm2501) 2016, 1月 5
むしゃくしゃしてやった。反省する気もない。むしろ、謝罪すら求めたい— 三沢文也@こっちは本気で遊んでるんだ! (@tm2501) 2016, 1月 5
少なくとも今年はイライラする人はブロックしていこう。— 三沢文也@こっちは本気で遊んでるんだ! (@tm2501) 2016, 1月 5
人の心の平穏を邪魔しに来る人がいっぱい来てるを見てると「あー人間の敵は人間だ。」という気持ちにしかならない。うん— 三沢文也@こっちは本気で遊んでるんだ! (@tm2501) 2016, 1月 5
@miraru_mitos ありがとうございます。戦って身のある相手じゃないとそもそも戦ってもやらない方針を貫こうかと思います。— 三沢文也@こっちは本気で遊んでるんだ! (@tm2501) 2016, 1月 5
@tm2501 青二才さんは人気者だからそれが吉ですよ!— おーはしさん (@miraru_mitos) 2016, 1月 5
るそーという人がシェアした青二才氏の「本物川周辺の学者ごっこくん」 「このアカウントにリツイートされるとネトフェミとか批評系の人に拡散されます」といった発言に面白味を感じ、煽るような意図でのツイートをしてしまい申し訳ございませんでした— トデス子'\ (@todesking) 2016, 1月 5
ブログ向けの記事が昨日からやったら攻撃的に仕上がる…。メルマガ向けはそうでもないのに、ブログ向けはなぜかすごく攻撃的に仕上がる…。— 三沢文也@こっちは本気で遊んでるんだ! (@tm2501) 2016, 1月 5
やばい…メルマガのネタ考えるほうがブログのネタ考えるより楽しい。読まれてる・反応が来る・叩かれないように予防線の要塞を築く手間がない…って辺りがすごく楽になっていい。書く時間は有料ゆえ読み返し、見直しをするから長くなっちゃうけど、それでも全然やりがいがあるわ— 三沢文也@こっちは本気で遊んでるんだ! (@tm2501) 2016, 1月 5
読者の数の問題じゃないんだよ…インターネットに書くこと自体の窮屈さとか、アクセスを狙うことで生じる「はてブに上がるクソみたいな炎上記事よりも100倍の濃度で書いてる記事が受けないことへの悔しさ」とかから開放されるから精神的にすげー楽。— 三沢文也@こっちは本気で遊んでるんだ! (@tm2501) 2016, 1月 5
はてなから開放されるとこんなにブログ書くのが楽なのか…。有料版やってよかった。はてなで騒がれた時は眠れないほどしんどかったけど、多分中長期的に見たら相当な楽と贅沢ができる。今年はいい年になると思う。— 三沢文也@こっちは本気で遊んでるんだ! (@tm2501) 2016, 1月 5
前1285 | カデシュの戦い | エジプトの大ファラオ・ラムセス2世と、製鉄技術で名高いヒッタイトの王ムワタリの戦い。戦況が膠着状態に陥った後、ムワタリが停戦を申し入れ、ラムセス2世が受諾した。これは記録に残る最古の戦争であり、記録に残る最古の平和条約でもある。 |
前479 | プラタイアの戦い | 古代ギリシアとペルシアの一連の戦争における決戦。数十万を誇るペルシア軍の攻勢を、一万のスパルタ軍だけで防ぎ止め、押し返し、打ち破った。これによりギリシアからペルシア軍は駆逐され、スパルタは前年のテルモピュライの戦い(映画『300』で有名)の雪辱を果たした。 |
前371 | レウクトラの戦い | 古代ギリシアの都市国家テーバイとスパルタの戦い。テーバイのエパメイノンダスが編み出した、兵力を左翼に集中する戦術「斜線陣」により、精強を誇ったスパルタのファランクスは打ち破られた。皮肉にも、後に斜線陣はテーバイではなくマケドニアに伝わり、ギリシア諸都市はその戦術によって敗れ去ることになる。 |
前331 | ガウガメラの戦い | 「大王」アレクサンドロス3世率いるマケドニア軍とアケメネス朝ペルシア軍の戦い。マケドニア軍の重装歩兵がペルシア軍を受け止めているあいだに、アレクサンドロス自らが率いる騎兵がペルシア軍にできた間隙を衝く、いわゆる「鎚と鉄床」戦術によってマケドニアが勝利し、大国ペルシアは滅びた。 |
前260 | 長平の戦い | 中国の戦国時代、趙の老将・廉頗の持久戦術に手を焼いた秦は、情報工作によって廉頗の悪評を流し、若い趙括と交替させた。趙括は勢い込んで秦との決戦に挑んだが、秦の名将・白起によってあっけなく包囲殲滅された。四十万人の捕虜が虐殺されたという。秦の中華統一の過程において最も大きな勝利の一つである。 |
前216 | カンネーの戦い | アルプスを越えてイタリア半島に侵入したカルタゴの名将・ハンニバルが二倍の兵数のローマ軍に大勝した戦い。中央の歩兵が敵を受け止め、両翼の騎兵が敵側背に回り込む、「包囲殲滅」戦術の鮮やかな見本として史上に名高い。しかし、そのハンニバルも後にザマの戦いで敗れ、地中海の覇権はローマのものとなっていく。 |
前202 | 垓下の戦い | 秦が倒れた後、中華を二分して戦っていた楚の項羽と漢の劉邦は、互いに疲弊したことで和睦を結んだ。しかし、劉邦は直後に盟約を破り、引き上げる楚軍に襲いかかった。「四面楚歌」となった項羽は、最後の力を振り絞って包囲を破るも、衆寡敵せず自害した。天下は漢のものとなった。 |
前48 | ファルサルスの戦い | 古代ローマを代表する二人の軍事的天才、カエサルとポンペイウスの戦い。カエサルは、包囲を狙うポンペイウスの騎兵を重装歩兵で囲い込み、投槍を投げずにそのまま騎兵の顔や目を刺すよう指示して打ち破った。勝利したカエサルはローマの実権を握ったが、やがて暗殺されることになる。 |
前31 | アクティウムの海戦 | カエサルの跡を継いだオクタウィアヌスとその政敵アントニウスの戦い。しかし、アントニウスとその愛人クレオパトラは、本拠地エジプトへ逃れることを優先してすぐに戦場を離脱、取り残されたアントニウス軍は壊滅した。アントニウスとクレオパトラは自殺し、数年ののちにオクタウィアヌスは初代ローマ皇帝となる。 |
23年 | 昆陽の戦い | 漢から帝位を簒奪した王莽に反発して「赤眉の乱」が起こる。昆陽に篭もる赤眉軍は、実数でも40万と言われる王莽軍に包囲されたが、リーダーの一人である劉秀は数千の兵とともに敵の中枢へ突撃を敢行、王莽軍は大混乱に陥り全滅した。主力を失った王莽はまもなく滅亡。劉秀はのちに光武帝として後漢王朝を開く。 |
208 | 赤壁の戦い | 三国志に名高い一大決戦。中原を制し、中華統一を目指して大軍を南下させた曹操だったが、見知らぬ土地での疫病、慣れない水上戦に悩まされ、呉の都督・周瑜の火計によって打ち破られた。呉に協力していた劉備は、勝ちに乗じて荊州の南部を占拠し、後の飛躍へと繋げた。 |
383 | 淝水の戦い | 五胡十六国時代、前秦皇帝・苻堅は天下統一を狙って百万を号する大軍を南下させ、東晋の将軍・謝石と謝玄が数万の軍でそれを迎え撃った。苻堅は異民族の融和を目指した理想主義的な君主だったが、異民族の混成軍は実際には統率がとれておらず、偽装後退を命じたことが本当の撤退と勘違いされ、前秦軍は自壊して潰走した。 |
451 | カタラウヌムの戦い | フン族の王アッティラの侵略に対して、西ローマ帝国の名将アエティウスと西ゴート王テオドリックなどが連合して挑んだ決戦。痛み分けに近いものの、西ローマ帝国軍の勝利に終わった。のちにアエティウスの武功を恐れた西ローマ皇帝は彼を暗殺した。この戦いから二十五年後に西ローマ帝国は滅びた。 |
506 | 鍾離の戦い | 数十万の大軍同士が激突した南北朝時代最大の決戦。北魏軍は、河に橋を掛けて梁の鍾離城を攻め立てていたが、長雨もあり戦いは長期化した。救援に来た梁の智将・韋叡は、増水に乗じて戦艦を走らせ、北魏が掛けた橋を焼き払った。大混乱に陥った北魏軍は十数万の死者を出して敗走した。 |
530 | ダラの戦い | サーサーン朝ペルシアの大軍を東ローマ帝国のベリサリウスが破った戦い。ベリサリウスはあえて要塞から出て敵の攻撃を誘うと共に、壕を掘って相手の中央突破を防ぎ、伏兵を巧みに使って撃破した。その後、ベリサリウスは中世欧州最高の名将として、東ローマ帝国の最大版図を現出させる。 |
627 | ハンダクの戦い | 初期イスラムの三つの戦いの一つ。敵対するメッカ軍に対し、ムハンマド率いるメディナ軍は数で劣ったため、ペルシャ人技術者の進言で「ハンダク=塹壕」を巡らせた。メッカ軍は初めて目にする塹壕を突破できず、メディナ攻略を諦めた。以降、アラブ世界におけるイスラムの優位が確立された。世界初の塹壕戦とも言われる。 |
636 | ヤルムークの戦い | 「神の剣」ハーリド率いるイスラム軍と、皇弟テオドロス率いる東ローマ帝国軍の戦い。砂漠の戦闘に慣れたイスラム騎兵が東ローマ帝国軍を渓谷に追い込み撃滅した。イスラム軍は、直後のニハーヴァンドの戦いを経てサーサーン朝ペルシアをも滅ぼし、ここにイスラム帝国が興隆することとなった。 |
732 | トゥール・ポワティエ間の戦い | イベリア半島から侵攻したウマイヤ朝イスラム帝国と、フランク王国の宮宰カール・マルテルの戦い。イスラム騎兵の猛攻をフランク重装歩兵が跳ね返し、撃退した。イスラム騎兵の強さを痛感したマルテルは、直属の臣下に土地を与えて「騎士」制度を創設し、これが欧州の封建制へと繋がっていった。 |
751 | タラス河畔の戦い | 西へ拡大する大唐帝国と東へ拡大するアッバース朝イスラム帝国が中央アジアにおいて衝突した戦い。唐の同盟者ウイグル族に従っていたカルルク族が裏切ったことでアッバース朝が大勝した。これによって、唐の伸張は止まり、中央アジアはイスラムに帰し、そして製紙法が西方に伝播した。 |
1098 | アンティオキア攻囲戦 | 第一回十字軍は、半年以上の攻城戦の末にアンティオキアを陥落させたが、遅れて到着したイスラム諸国連合軍七万によって逆に包囲されてしまう。しかし「聖槍」の発見で士気を高めた十字軍は、城外に打って出てイスラム軍を打ち破った。次の年にはエルサレムを陥とし、まさしく奇跡的に十字軍は成功に終わった。 |
1141 | カトワーンの戦い | イスラム・セルジューク朝を復興させたサンジャルと、遼の再興を掲げて中央アジアに覇を唱えた西遼の耶律大石との戦いで、西遼軍がセルジューク朝軍を包囲殲滅した。セルジューク朝は再び衰退、まもなく耶律大石も亡くなったことで西遼も勢いを失った。この戦いがプレスター・ジョン伝説の原型となったという。 |
1187 | ヒッティーンの戦い | 暑さと渇きに苦しむエルサレム王国軍に対し、イスラム・アイユーブ朝のサラディンは、夜通し弓矢で攻め立てて士気を挫き、野に火を放って追い詰め、壊滅させた。聖地エルサレムは再びイスラム勢力のものとなった。その奪回のために第三回十字軍、すなわちサラディンと「獅子心王」リチャードの戦いが開始される。 |
1212 | ナバス・デ・トロサの戦い | イベリア半島で争っていたキリスト教諸勢力が、教皇インノケンティウス3世の要請により連合してイスラム勢力を迎え撃った、「レコンキスタ」最大の決戦。イスラム・ムワッヒド朝の十二万の大軍が悠然と構えるのに対し、連合軍は猛烈な突撃を敢行。ムワッヒド軍は十万とも言われる被害を出して敗走した。 |
1214 | ブーヴィーヌの戦い | フランスの「尊厳王」フィリップ2世と、神聖ローマ帝国・イングランド王国などの連合軍の戦い。フィリップ2世は北へと逃げてブーヴィーヌに陣取ると、ばらばらに追いかけてきた連合軍を到着した順に各個撃破した。脆弱だったフランスが強国として台頭し、またイングランドで大憲章が成立するきっかけともなった。 |
1241 | モヒの戦い | バトゥ率いるモンゴル帝国の遠征軍に対し、ハンガリー軍は堅固な陣地を築いて健闘したが、モンゴル軍はイスラムの投石機と中国の火薬兵器で攻撃を加え、さらに周りこんだスブタイの軍によって包囲殲滅した。同時にリーグニッツでもモンゴルの別働隊が勝利していたが、オゴタイ・ハンの死を聞いてバトゥは引き返した。 |
1260 | アイン・ジャールートの戦い | モンゴル帝国の西アジア遠征軍と、イスラム勢力のクトゥズやバイバルスの戦い。先鋒のバイバルス軍が退却を装い、それを追撃したモンゴル軍は、伏兵のクトゥズ軍に包囲されて壊滅した。モンゴルの西進はここで止まった。バイバルスはその後もモンゴル軍に勝ち続け、マムルーク朝の実質的な建国者となった。 |
1267 | 襄陽・樊城の戦い | モンゴル帝国のクビライ・カンは、入念な準備の上で襄陽と樊城を大軍で包囲、長大な土塁を築いて封鎖した。南宋の主力軍十万が救援に向かったがモンゴルの水軍の前に完敗した。中東由来の新型投石機「回回砲」による攻撃が開始されると襄陽・樊城は為す術なく降伏した。この敗北は南宋の滅亡を決定付けた。 |
1346 | クレシーの戦い | イングランドとフランスの百年戦争における初期の決戦。イングランド軍は斜面にV字に長弓部隊を並べ、中央に下馬騎士を置いた。フランス軍のクロスボウは射程の違いで長弓に対抗できず、重装騎兵も敵軍を突破できずに惨敗した。その後、百年戦争の終盤まで、イングランドは同様の戦術で勝利を収めていった。 |
1363 | 鄱陽湖の戦い | 中国・元末の群雄である朱元璋と陳友諒の戦いで、それぞれ数十万人規模の大船団同士が激突した。大型の艦を鎖で繋いでいた陳友諒軍は、朱元璋が特攻させた火船によって大炎上して敗北した。この勝利により優位を確立した朱元璋は後に明の建国者となる。三国志演義における赤壁の戦いの描写はこの戦いがモデルだという。 |
1402 | アンカラの戦い | ニコポリスの戦いで欧州連合軍に圧勝したイスラム・オスマン帝国の「雷帝」バヤズィトと、モンゴルの後継を自称して大帝国を築いたティムールが激突した戦い。結果、オスマンが敗れてバヤズィトは捕虜となり、日の出の勢いだったオスマンは一時的に衰退した。ティムールもこの戦いを最後に生涯不敗のまま亡くなった。 |
1410 | グルンヴァルトの戦い | ポーランド・リトアニア連合軍とドイツ騎士団が戦った、中世最大とも言われる会戦。リトアニア軍の偽装撤退に誘い込まれたドイツ騎士団は、連合軍の反攻によって壊滅した。この勝利のあと、ポーランド・リトアニアは欧州最強国として最盛期を迎える。現代では古戦場跡で行われる祭りが有名。 |
1420 | ヴィトコフの戦い | ヤン・ジシュカ率いるフス派と、それを鎮圧するために結成された10万の十字軍の戦い。フス派は包囲されプラハに立てこもったが、欧州で初めて銃を装備し、武装した荷車をつなげて砦とするなど、革新的な戦術を用いたジシュカの活躍で、十字軍は撤退に追い込まれた。以降もフス派は勝ち続けていくことになる。 |
1450 | フォルミニーの戦い | 他国に先駆けて常備軍を創設し、長弓より射程の長い大砲を活用するなどの軍政改革を行ったフランス元帥リッシュモンは、百年戦争で負け続けだったフランス軍を立て直してイングランド軍を撃破した。このフォルミニーでの勝利は、百年戦争におけるフランスの勝利と、そして以降のフランスの軍事的優位を決定付けた。 |
1453 | コンスタンティノープルの陥落 | 東ローマ帝国の首都にして史上最強の城塞都市と、それを包囲したオスマン帝国軍の戦い。「ウルバンの巨砲」「艦隊の山越え」といった大仕掛けにも耐えたコンスタンティノープルだったが、施錠を忘れていた通用口からオスマン軍に侵入され、あえなく陥落した。古代から続いたローマ帝国は中世と共に終わりを迎えた。 |
1503 | チェリニョーラの戦い | 第二次イタリア戦争におけるスペインとフランスの戦い。レコンキスタにおいて攻城戦の経験豊富だったスペイン軍の指揮官ゴンサロは、野戦に攻城戦の技術を持ち込んだ。長槍兵と銃兵の陣形「テルシオ」と塹壕の組み合わせによって、フランスの重装騎兵を打ち破り、欧州に野戦築城の有効性を知らしめた。 |
1514 | チャルディラーンの戦い | イスラム・サファヴィー朝の建国者イスマーイール1世は神がかり的な戦争の天才だったが、対するオスマン帝国のセリム1世は鉄砲と大砲を大量に運用して、不敗の騎兵「クズルバシュ」をさんざんに打ち破った。初めての敗北を味わったイスマーイール1世は無気力となり、サファヴィー朝の拡大は停滞した。 |
1588 | アルマダの海戦 | 黄金時代のスペインをイングランドが迎え撃った戦い。接舷攻撃を企図するスペインの大艦隊に対し、ドレイク率いるイングランド海軍はヒットアンドアウェイの砲撃戦で勝利した。以降、海戦の主役は白兵から大砲へと移っていく。スペイン没落の画期とも言われるが、実際にはスペインの優位はしばらく続いた。 |
1619 | サルフの戦い | 女真族を統一したヌルハチ率いる後金軍と、その討伐に差し向けられた明軍の戦い。圧倒的に数で優る明軍は、四手に分かれて後金を包囲しようとしたが、全く連携が取れておらず、ヌルハチの見事な内線作戦によって各個撃破された。後金はやがて清となり、明を滅ぼすことになる。 |
1631 | ブライテンフェルトの戦い | 三十年戦争に参戦したスウェーデン王グスタフ・アドルフと、ティリー伯率いる神聖ローマ帝国軍の戦い。グスタフ・アドルフは歩兵・騎兵・砲兵が緊密に連携する「三兵戦術」によって、神聖ローマ帝国軍のテルシオを完全に打ち破った。この三兵戦術が近代的な軍制の基礎となる。 |
1683 | 第二次ウィーン包囲 | オスマン帝国は15万の大軍をもってオーストリアの首都ウィーンを包囲したが、要塞化された都市は容易に陥落しなかった。キリスト教諸勢力は連合して救援に向かい、特にポーランドが誇る有翼重騎兵「フサリア」3000騎の中央突破によって、オスマン軍は大敗した。オスマン帝国の衰退を決定付ける戦いとなった。 |
1704 | ブレンハイムの戦い | スペイン継承戦争において、イングランドのマールバラ公とオーストリアのプリンツ・オイゲンの名コンビが、フランス軍を打ち破った戦い。開戦後、しばらくは一進一退が続いたが、マールバラ公はオイゲンと連携して粘り強く戦い、フランス軍の両翼を釘付けにした上で手薄になった敵中央を突破して撃破した。 |
1709 | ポルタヴァの戦い | 北欧の覇権を握ったスウェーデンをめぐる大北方戦争最大の決戦。スウェーデンの若き天才カール12世は、並み居る敵国を瞬く間に撃破し、残るロシアに攻め込んだが、寒さと焦土作戦により疲弊、ポルタヴァで大敗を喫した。カール12世はオスマン帝国に亡命し、スウェーデンの「大国時代」は終わりを迎えた。 |
1757 | ロイテンの戦い | 七年戦争、プロイセンの「大王」フリードリヒ2世とオーストリア軍の戦い。斜めに行軍して敵の側面に回りこみ火力を集中させる「斜行戦術」により、プロイセンは倍する敵に勝利した。その後も、イギリス以外のすべての国を敵に回した状況で、フリードリヒ大王は粘り強く戦い抜き、七年戦争はプロイセン優位に終わった。 |
1781 | ヨークタウンの戦い | アメリカ独立戦争。チェサピーク湾の海戦でフランス海軍に敗れたことにより、ヨークタウンに篭もるイギリス軍に支援は届かず、彼らはアメリカ軍に包囲された。イギリス軍は幾度かの抵抗の後に降伏し、この戦いが事実上の終戦となった。勝利の立役者となった総司令官のワシントンは、のちに初代大統領に選ばれた。 |
1805 | トラファルガーの海戦 | 欧州を支配し、イギリス本土へ侵攻せんとするナポレオンと、名提督ネルソン率いるイギリス海軍の戦い。敵列の側面に縦列で突入する「ネルソン・タッチ」によりイギリスが勝利、ナポレオンの計画は頓挫した。勝利したネルソンは、しかし狙撃により重傷を負い、「私は義務を果たした」と言い残して亡くなった。 |
1805 | アウステルリッツの戦い | フランス皇帝ナポレオンと、オーストリア皇帝・ロシア皇帝が戦ったために、「三帝会戦」の異名がある。ナポレオンの正確な洞察と完璧な機動により、数で劣るフランス軍が大勝利を収めた。あえて要地を明け渡し、機を見て奪回することで敵を分断する、その華麗な用兵は「戦争芸術」と讃えられた。 |
1819 | ボヤカの戦い | 南米を植民地とするスペイン軍と、それからの独立を目指すシモン・ボリバル率いる革命軍との戦い。わずか三時間で革命軍の勝利に終わったが、南アメリカ諸国の独立を決定づける重要な戦いとなった。敗れたスペインは彼らの独立を承認し、ボリバルを大統領とした大コロンビアが誕生することになる。 |
1863 | ゲティスバーグの戦い | 「鉄道と電信の戦い」となったアメリカ南北戦争、最大の決戦。鉄道と街道が集まる要衝ゲティスバーグを巡り、偵察部隊の小競り合いが発生。増援を送りあって戦闘はみるみる拡大、両軍に多大な損害を出して終わった。国力に劣る南軍にとっては、より大きなダメージとなり、名将リーが計画した北部侵攻も頓挫した。 |
1870 | セダンの戦い | 国民皆兵制と鉄道による大規模かつ迅速な動員、参謀幕僚制と電信による戦略レベルでの分進合撃戦術により、参謀総長モルトケの指揮するプロイセン軍が、フランス皇帝ナポレオン3世と十万のフランス兵を捕虜とした戦い。これにより邪魔者を排除したプロイセンは、「鉄血宰相」ビスマルクのもとでドイツ統一を成し遂げる。 |