はてなキーワード: 海辺とは
・姫様「元皇女がドラゴンと一緒に国に攻めこむなんて…」 いやゼロレクイエムの決意してたやん
・「大切なのは何が正しいかじゃなくて君がどうしたらいいかじゃないかな」
・タスクさんいつものノルマこなしただけなのに重症すぐる…と思ったらハーレムを形成してるので姫様ブチギレ
・「アンジュに食べさせてもらうと格別だね」 こ、これが天然タラシのワザ!
・「私帰るわ、モモカが待ってるもの!」 よかった忘れられてなかったモモカ
・「次はカラオケ対決でねっ☆」 ラウンドワンの呪縛から逃れられない姫様
・そしておかーさんとビビアンの別れ…おかーさん…なんていい話なんだ…
・そしてここの親子がイイハナシダナーするたびにヒルダ母のクズさが…
・年増女に誘惑されるタスクさんを見てついに姫様がデレた!!!
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・「君が俺のことを騎士として認めてくれたのが嬉しくて…」
・海辺のきれいな街で喫茶店wwwwwwwww 女子かwwwww
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・処刑用BGMに乗って「悪くないかもね、喫茶アンジュ」とのデレ
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・一体プリティー何アさんなんだ…
・リィザがえろい目に遭っている!!! と衝撃受けたけどそもそもお兄様と赤ちゃんプレイ済みだった
・全体の三割が消耗したらもうあかんやつや~サラさん結構無能なやつや~
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・ビビアンタスクコンビが有能すぎてやばい、ラグナメイルなくても戦えとる
・「気持ち悪い髪型のナルシストの愛人にでもなったの!?」 すごい、すごい的確に人の悪口を!!!
・「飛ばないとぶっ飛ばすわよ!」で跳ぶヴィルキスさん@ドM
・ヴィルキスがワープするときはなぜ遠距離のpタスクさんまでワープするのか
・モモカヒルダというアンジュ信者チームと合流できてよかった~
・と思ったらヒルダまさかのクレイジーサイコレズ枠だった
・ヒルダ…女同士であれこれしてたのは演技だったって言ってたじゃない…!
・EDwwwwwwwwwwwwwww ギャグかよwwwwwwwwwwww
でも、ラジオって、いろんな音楽や人の話で、夢がめまぐるしく変わって、寝てても落ち着かないことが分かった。
しかも、時折ニュースの途中に、時間を言うから、自分じゃ、まだ5時くらいだろうと思ってても、ラジオが6時です、と言うと、すごいがっかりする。
浜辺の波の音がエンドレス。時たまカモメの鳴き声。これを小さい音にして、寝る。
ほんと、今って便利になりすぎ。
黒電話時代から、現在まで生きてきた。この生活環境の変化の大きい時代に生きてて、幸せなんかな、、と思うが。
何もなかった時代の、深夜ラジオを聴く罪悪感とか、夜に好きな人とコミュニケーションをとる困難さ、とか。
想像力を働かすことが多かったなあ、と。
今は、悶々と想像を巡らす場面はない。
○枝野議員 「強調」も「殊更」も、その行為をしている児童の行動についてではない、映像そのものの性格である。
ですから、例として申し上げたのは、ジャニーズの、一般的に我々が思っている、しかも現に行われている、例えばステージの上で上半身裸になるというようなことについては、これは「殊更」には当たらないだろうと。つまり、合理性がある、合理的理由があるだろうというふうなことを申し上げているので、仮に、ジャニーズの男の子であったとしても、先ほど申し上げたような、つまり一種同性愛的、あるいは男の子に対する性的虐待的なことをうかがわせるような映像において乳首の露出または強調があったりすれば、それは「殊更」「強調」、あるいは「露出」をしたものに当たる可能性は否定をしない。
普通の男の子も、普通に、例えば海辺で、海岸に着いたから上半身裸になって、水着じゃないですよ、海水浴に行ったわけじゃないけれども、海に行ったから上半身をぱっと裸になってそこら辺で遊んでいる、これは、普通の男の子だって、それの映像を撮ったからといって、普通には殊さら強調した映像にはならない、こういうことだと思いますけれども。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/171/0004/17106260004012c.html
逆に、ちょっとお勧め出来ないのがタイ。滅多に取り締まりは無いけど
一応厳罰主義なので、運悪く捕まり、かつ更にとてつもなく運の悪いことに
賄賂の効かない警官だったりした場合は普通に数年収監されちゃう。
99%、1000円も払っとけば無罪放免なんだけどね。現地慣れしてりゃ大丈夫だけど、独りで初めての渡航の場合はお勧めしない。
あと、折角大麻を吸いに行くなら「旨いメシ」「良い音楽」「良い部屋」「信頼出来る仲間」は確保出来る国にしたい。出来れば安く。
人によっては女も確保したいってこともあるかもね。
そういうわけで、実はアメリカに大麻を吸いに行ってもあんまり楽しくないんだよね…。メシ不味いし。
もちろん、高級リゾートで良い部屋借りて…ってやるなら別だけど、お高いし。そういうところで大麻吸ってると顰蹙買うし。
結局、大麻って吸うだけじゃなくて「キマった状態で何をするか」がポイントなんだよ。
音楽聴くとかメシ食うとかセックスするとか、談笑するとかストレッチするとか瞑想するとかプールで泳ぐとか。
大麻の効果は身体感覚を増大させるってイメージするとわかりやすい。楽しいものはより楽しく
気持ちの良いものはより気持ちよく。逆に言えば、緊張した楽しくない環境でキメるとそれも増大しちゃう。不安とか恐怖とかに取り付かれると大変厳しい。
例えば、あなたが一人でオランダに行ってコーヒーショップ(大麻吸わす店ね)に駆け込んで、初めての大麻ブワーっと一発決めるとするじゃないですか。
コレ多分、7割方悪い方の効き目、つまりバッドトリップに逝っちゃうと思うのね。
周りは全部言葉の通じないガイジン、馴染みの無い空間、おっかなびっくりの喫煙。こんなん絶対楽しめない。
そういうわけで、もし海外で大麻を試すならその環境づくりはとても大事にした方が良いよ!専門用語でセッティングと言うよ!
あと、可能であれば大麻に慣れた誰かの指導の下で吸った方が良いよ!これも専門用語でメンターと言うよ!
メンター無しでバッドに逝った場合、それはそれは嫌な思い出を作る羽目になっちゃうのでくれぐれもご注意。
特に、オランダのハイエンドな奴やタイのブッダスティックは初心者が「あれ?全然効かねーな…」ってバカスカ吸って悪い方の宇宙に旅立ってしまう事例が後を絶たない。
そういう状態になってしまったときは、とりあえず甘いものを飲むといいよ。チャイとかラテみたいなミルク系の甘いものが特に推奨。
つーか、まぁとりあえず一発キメたら甘いものを食ってみるといいよ。最高だから。大麻による味覚の鋭敏化はとにかく破壊力があるので楽しめると思う。
俺は自然の中で太陽の日差しを浴びながら、寝椅子に転がって吸うのが好きだね。
仲間と海辺のコテージを借りて、朝っぱらから一服付けてる時は本当に幸せを感じる。
Have a nice trip!
おのずと足が止まった。
海へ来るのはいつぶりだろう。
小さいころ、うきわを抱えて遊びにきた記憶はあるが、あれからだいぶ時は経っている。
青い空に青い海、陽の光をあびたビーチの景色まで、あのときと何ら変わりないはずなのに、今日はなぜだか、幼いころとは全くちがう高揚感に充ちている。
さあ、海へ飛びこむぞ!って思った小さな自分から、さあ、乳へ飛びこむぞ!って思う大きな自分への変化は、成長のあかしでもあろうか。
なにはともあれ、常夏の天国めがけ、俺は砂浜への一歩を揚々と踏みだした。
水しぶきがきらめく渚のあたりへ歩を運び、海水に両手を当てて、ついた滴をぺろっと舐めてみる。
ひさびさの夏の味に満足し、足元にころがる桜色の貝殻をひろったら、いよいよ、浜を左方向へすすみ始め、色あざやかなビキニを拝見する。
あの子は薄緑色がかわいいけれども、すこし膨らみがさびしいかな、あっちはどうだろう、花柄がいささか派手すぎるようにみえるものの、あの爆発しそうなボリュームには案外ぴったりかもしれない。
おお、あそこの女子3人組は、皆ほどよいサイズで形もよい。やはり類は友を呼ぶのだろうか。
ふふふ、っと心の中でにやにやしていると、
お兄さん、シャワーどうですかー?
と、海の家の兄ちゃんがいかにも面倒くさそうに声をかけてくる。
暑いのに大変だ、と同情するが、ほんとうに大変なのは、真夏の海岸を、長ズボンとスニーカーで歩く自分であると今さら心付いて、ちょっと恥ずかしくなる。そもそもリュックサックを背負って歩く人間はほかに見当たらない。
とりあえず、それっぽく腕まくりをして、リュックを肩に掛け、靴を脱ぎ裸足になってみた。これなら怪しまれずにすむだろう。
ビキニ観賞はなおもつづく。
こうして歩いていると、正面からやってくる美女にめぐりあう機会も幾度となくあるのだが、涙をのんでやり過ごすことも少なくあるまい。観賞はあくまで紳士的に、ばれぬようにしなければならないのだ。したがって、しぜん対象は浜で寝そべる女へと向けられる。
横向きになった乳は、重力によって形がくずれ、そのやわらかさを感じさせるに十分な様相を呈する。ああ、グラビア写真で見るのとおんなじだ。この指先で、遠慮がちに、つんつんってしてみたら、ぽよぽよって返事をしてくれるのだろう。乳ってすごい、すばらしい、さいこう。乳国の神に感謝したくなった。
もういちど往復しようか、と思ったけれども、そろそろやめておくほうが良さそうだった。
せめてもの罪滅ぼしのつもりで、海辺に散乱するごみを拾っていると、波打ちぎわの赤ビキニの尻へ、手を伸ばす男の影が。
そうねたむ折から、ママっはやく海で泳ごうよ!とはしゃぐ声と、ママのおしりをタッチする小さな手。
夏はそこそこ暑いけど(九州北部と同じくらい)、九州南部や沖縄よりはたぶん涼しいから、そこいらだと暑さ対策はまた別なのが必要になるかも。
冬は積雪する。とはいえ20cm以上積もるのはひと冬に3回くらいだけど、それでも冬場は水面は軽く凍るよ。
ビオ仲間が欲しくて暑く語っちゃったけど、実際に飼育する場合は自分の住んでるとこの気候と住宅環境を見ながら多少試行錯誤することになると思う。
最近一人暮らしの人間に高い買い物をさせようとする記事をよくホッテントリに見かけるが、お前ら何もわかっちゃいない。一人暮らしに必要なのはドラム洗濯機でもジップロックでもない。それはベランダビオトープだ。
なにも最初から大掛かりな本格的ビオトープをやれというんじゃない。ベランダに発泡スチロールを置いて水をためて浮草を浮かべてメダカを泳がせればそれはもうビオトープだ。春の時期にもなるとメダカの産卵が拝めるし、ひと夏かけて稚魚の成長を見守れる。暑い夏も乗り切る。あまりに暑いときは、ビオの半分にすだれとかをかけといてやると優しいな。雪の積もる冬も屋外飼育が可能だ。夜間に水面が凍る程度なら問題ない。秋口に枯れた水草を毛布にして、あやつらは果敢にも越冬するのだ。そして春にもなると、冬の間緩慢な動きだったメダカ達が次第に旺盛に動き始める。枯れた水草から春の新芽が出たときなどは感動すら覚える。
うつ病対策にもなるぞ! 毎朝寝起きにバナナ食って窓を開けて深呼吸してメダカに餌やってる。忙しく動くメダカを見ていると心が洗われるようだ。現実生活がつらくても仕事がうまくいかなくても貯金が少なくても、元気なメダカときれいなビオトープ(ここでいうきれいというのはアートという意味ではない、野性味とか生き生きとしてるとかそんな意味だ)を見ていれば心が落ち着くし、そしてその状況を作り出しているという管理者たる自信に少しだけ心救われる。
日当たりのよいベランダがいいだろう。そこに大き目の発砲スチロールを置く。浮き草はホテイアオイがメジャーだな。ビオ内に土を入れて、水草を水上栽培するのもいい。土があると水質が安定する。大き目のプランダーに土を入れて発泡スチロールに沈めると管理がラクだ。ウォーターマッシュルームとかかわいいよな。慣れてきたら、ヒメタニシやミナミヌマエビを入れてみよう、捗るぞ!
唯一の欠点としては、これを始めるととかく他人にビオを勧めたくなるという点だ。なんでか知らんが多くの人は魚をそんなにカワイイと思わないのだそうだ。まったく解せない!……なーんてことを口に出すと友達が減るからほどほどに。ん?この記事をブーメランだと言ったか?
(追記)
>暑さでメダカちゃん死んだりしないの?
メダカは強い魚なのでかなり暑さに耐えるが、マジレスすると環境次第だ。例えば発泡スチロールでもうっかり色を黒なんか選ぶと当然暑くなりすぎる。水量が少なすぎるのも同様の理由で避けたほうが無難だ。水量が多いと水も汚れにくくなるしね。水草(特に浮き草)を勧めたのは暑さ対策という利点もあるからなんだ。夏は水温を下げ、冬は枯葉が天然の毛布になってくれるわけだよ。ただまあ、トラバでも書いたけど、実際に飼育する場合は自分の住んでるとこの気候と住宅環境を見ながら多少試行錯誤することになると思う。暑さが相当厳しい地方ならやや日陰気味な置き場所にしたほうがいいかもな。ちなみに増田は山陰地方の海辺在住です。今気付いたけど、うちが日当たりの良いベランダでうまくいってるのは山陰がもともと日照時間が少なめだからってのもあるのかな。
>経験者からアドバイスだ。ある日カラスがやってきてみんな食われるぞ。気を付けろよ。
こわい
ボウフラ沸いてもメダカが殲滅してくれるよ。もともと俺は室内アクアリウムの水草の余りを屋外で水上栽培しようと思ってビオを始めたんだけど、貯め水状態だからボウフラが沸く。なのでその対策にメダカを導入した、という流れなんだ。
学歴を開陳する。
どうも小卒のネオトナ、おっとneowotonaです。
それもこれも糞親父のせいです。突然会社を止めてアメリカへ行くと言い出したのが小学校5年生の時。兄は高二、姉は高一、姉は中二でした。兄や姉が防波堤となり、父の頭のおかしさはあまり僕には伝わってきませんでした。父ちゃんおもれー、とか思ってたくらいでしたから、ぼくはその当時アメリカへ行ける喜びの方が大きかったです。兄、姉に聞くと、母ちゃんは当時よく泣いていて実家に子供をつれて帰ることも考えていたそうですが、ぼくはちょー幸せでした。
アメリカに着くと、知り合いに頼んでキャンピングがーを借り、ロサンジェルスの近くを起点とし、いろいろな地域を巡りました。でも、自分にしてみたらどこもアメリカだったので、兄や姉に当時の話を聞いてもさっぱり覚えておらず、驚くことばかりです。ただアメリカのダイナーで食べたベーコンとエッグのブレックファストの美味さと、なんだかよくわからないお店のステーキの味だけは鮮明に記憶しています。
生活の基盤はサーフィンでした。毎日海辺へキャンピングカーを止め、サーフィンをするのです。子供の頃からやらされたので、僕もなかなかのサーファーになれました。
はっきり言って、26くらいまではずーっと糞親父がっと思っていました。
でも、いまサーフィンで飯がくえているのは親父のおかげと感謝しています。
[海外の何処かの海辺で、綺麗な虹が出ているのを見てガッツポーズしている白人男性の背中(の写真素材)]
↑こういう何の意味もない、自分で撮ったわけでもない、どこかのサイトから拝借しただけのような写真を毎回エントリの頭に付けないといけない習慣、何なの?
↑こういう、エントリの書き始めの前にかならずアフィリエイトリンクをつける習慣、何なの?
↑あと、段落の途中にも毎回入れてくる「スポンサードリンク」、何なの?
そこまでしてお金がほしいの?必死なの?って言うと、決まって「金になんかならない」「こんなので儲かってると思ってる人は世間知らず」「時間で考えたら働いたほうが早い」「手間かけて更新してるんだから多少の対価が発生していいのは当然だ」って言うじゃない?
じゃあなんで毎回毎回、やたらと手間かけて訳の分からない写真を調達して(そもそも許可とか取ってんのか?適当に海外サイトから取ってきただけで、許可とか取ってないのあるんじゃないの?)、別に自分で調べたわけでもないし書きたいわけでもない、ただただ今人気があるニュースに私も一言とか、どこか別のサイトで既に人気になっている記事を「○○で○○という記事がネットで話題に」って形で私がお前らに紹介してあげます!みたいなクソみたいなぶら下がり記事とか、あとはどこか海外あたりのサイトから適当な翻訳をかけただけの、それも要約すれば結局は「健やかに生きろ」くらいの意味が無いのに無理やりタイトルだけ大袈裟にした「あなたの睡眠は間違えていた!たったこれだけの変化で劇的に変わる10箇条」みたいな記事を、毎日毎日誰にも頼まれないでシコシコ更新してんのさ?
儲けたいなら儲ければいいし頑張ればいいさ。その代わり、対価が発生するに相応しい記事を書いてくれ。
誰かが既に書き上げた素晴らしい記事を自分のブログに引っ張りこんだだけで、それに何時間も自分が時間をかけたからって「対価が発生してもいいだろ」って勝手に思わないでくれ。
儲けたい、ちょっとでも小遣いがほしいという気持ちがあるからわざわざアフィリエイトを申し込んでコツコツ時間かけてそれを貼り付けて、少しでもアクセスが上がるように工夫して頑張ってるんでしょ?それを隠すなよ。恥ずかしいことじゃないだろ。
そういう根性がミエミエなくせに「書きたい記事を書いてるだけなんです、儲かってないんかないのに儲けたいって思われるのは心外です」とか言うなよ。それがムカつくんだよ。
今回、表現の自由に言及しているのは宇都宮氏ただ一人となっている。
だから、ダンス規制反対派で消極的に宇都宮氏に票を投じるつもりの人も居ると思う。
そういう人に伝えておきたいがためのエントリーです。
だ、結果に責任は持たないので参考意見として読んで、自分で考えて入れてね。
少しだけ自己紹介しておくと私はクラブが好きな自称元お巡りさんです。信じるか信じないかは各自判断して下さい。
今回は無所属が異様に多いのだけれど、誰をどの党が推薦しているかはみんなちゃんと見ていると思う。見てない人は見て下さいね。
宇都宮氏は日本共産党、社会民主党、緑の党、新社会党が推薦しています。所謂「左」系ですね。
一番勝利に近いと目される舛添氏は公明党、自民党東京都連の支援を受けています。それを追う細川氏は民主党、生活の党、結いの党の支援。みんな無所属ではありますが、正直どの候補もパッとしない以上は、政党で選ぶ人が多いでしょう。ちなみに、マックさんはスマイル党。
結論から言うと、ダンス、クラブ、DJを続けたいクラバーは自民党と公明党が支援する舛添氏に入れましょう。何しろ左翼系に入れるのは愚策も愚策ですから注意しましょう。理由を説明しますね。
ダンス規制には2つの面があります。1つは「風営法」問題。そしてもう1つは「治安」の問題です。後者は地域住民との関係性と言っていいでしょう。
【風営法】
風営法の問題に目を向けると、基本どこに入れてもいいでしょう。宇都宮氏に入れたからといって何か変える力はないですし、舛添氏に入れたらはなから変えるつもりはありません。長い目で見れば、政策決定能力に優れる自民党を勝たせておいた方がいいんではないでしょうかね?というのが私の個人的な意見です。ただ、ここはそれぞれに思う所があると思います。
一応気にしておいたほうがいいのは、万が一風営法が改正されて深夜のダンスがOKになっても、クラブとそれ以外のダンスでそれ以外はOKだけどクラブはダメ!と云われる可能性についての議論が既にあるということです。実際に活動をしている人がその危機感が一番強いと思います。これの理由が治安問題です。
【治安】
今回はクラブが治安を悪化させると言いたいわけではないので、政治的なところだけかいつまんで説明します。
クラブで爆音でイベントをやるとどうしても音が外に漏れます。free dommune、メタモルフォーゼ、渚音楽祭のような野外イベントでは尚更です。これらの苦情受付窓口が110番で、これが鳴ったらお巡りさんは出動しなければいけません。幸い私はそういうことで出動したことはありません。そして、最悪は風営法で摘発なのですが、とりあえずは警察の指導が入ったということで、苦情を言った側の人と調整しなければなりません。つまり地域住民です。
共産党、社民党を始めとする左翼の方々は原則的に「市民」の味方です。共産党は労働者の味方だったはずですけれど、いつの間にか広く市民の代弁者だと自分たちを勘違いするようになりました。反対に自民党は「事業者・経営者」の味方なんです。というのは、極論ですが何が地域にとって得になるのか?についての発想が違うのです。
共産党は端的に「市民」が迷惑だ!という声に敏感です。特にそれが「事業者」による商行為の結果もたらされるものであった場合、これに強く反発します。「市民」に我慢を強いて「事業者」が不当に利益を得ているという発想です。高度経済成長期の公害問題と同じ構造です。クラブから発せられる騒音は"公害"なんですね。いや、私もそれに異論は唱えません。興味が無い人にとっては公害でしょう。公害を撒き散らすものは規制しましょうというのが彼らの発想です。本来、規制強化は左の人たちの得意分野なのです。
自民党はどうかというと、その「事業者」が事業を行うことで地域にお金が回って潤っていくのであれば、それはよしとします。その上で、問題が少ないように調整しましょうというのが彼らの論理です。規制緩和というのをよく聞きますね。できるだけ「事業者」に自由にやらせて経済的な利益をあげてもらってそれを「市民」に還元しようという発想です。
風営法が改正されても、されなくても、早晩ダンス規制の問題は治安の問題として見直されるでしょう。その時に、どちらが見方になるかというと、おそらく後者ではないでしょうか。海辺にカジノができたり、都内のバスや電車が24時間動くようになった時をイメージしてみるといいかもしれませんね。
【おまけ】
治安の問題にくっついた話ですが、おまけ。
クラブは◯暴と那珂が良いですね。日本一大きいあそことか、その次に大きいあそことか、その近くにあるあそことか。キリがないです。公安のリストに入っている経営者も多いですし、ここだけの話有名なDJでもリストに載っている方がいます。その人が構成員ということではなく、念のため載せているのです。
ここにも左と右とどちらが今後のクラブを良くしてくれるか?考える材料があると思います。クラブが発展するにはこの人達を追い出す必要があります。右と左どちらが上手く追い出せるか。単純に◯暴を嫌っているという点では共産・社民です。でも、嫌いすぎていて対話ができません。それから、現場で動くのは警察の人たちですが、左の人たちは警察とも上手くやれない人たちです。直接対話もできず、警察とも話せないのです。
自民党の人たちも最近はそっち系と直接話すのは嫌うでそう。けれど、警察とは付き合いが長いのです。警察に対して図っている便宜も蓄積があります。警察っていうのは、意外と貸し借りで動いたものです。警察の偉い人にしたら、自民党にはそこそこ貸しも借りもあるけれど、共産党や社民党には貸ししかないし、ほとんど焦げ付いてる!みたいな感じじゃないでしょうか。新宿の一斉摘発は警察がかなり頑張りました。
そんなわけで、一応参考になればと思ってまとめてみました。
あと、更にオマケすると、音楽に限らず地域の野外イベントみたいなのをやる時には必ず地元の警察の許可が必要で、そういうのはなかなか民間事業者だけでは通りづらいのですが、そういうことをやるのを理解して行政や警察を説得する政治家は共産・社民と自民では自民党の方が多かったですね。それよりも多いのは公明ですが(笑)
高2の夏休み、母親と大喧嘩して「この家から出て行け」と言われ、
金庫から取り出した10万を「手切れ金」だと叩きつけられた。
そして、無理矢理10万握らされ、そのまま玄関から裸足のまま追い出された。
その当時、家の建て替えの為の仮住まいをしていて、、
近所に友人もいないので、頼れる人はいないし、
街灯もない田舎道は真っ暗で怖くてどこにも行く所がなかった。
しばらく泣いて謝っていたら、玄関が開き「うるさい!早く失せろ!」とサンダルを投げつけられた。
仕方ないのでサンダルを履いて、歩いて駅まで行く事にした。
当然、何台もの車に声をかけられて、最終的には車に無理矢理引きずり込まれた。
車内には若い男が3人いた。
「送ってあげる」と言われたが、駅とは反対方向の海の方に連れて行かれた。
後部座席の真ん中に座らされ、左右から抑え込まれ体中を触られた。
泣いて暴れたら、何発か顔を殴られた。
母に追い出されたせいで、自分は殺されるんだと、母への憎しみでいっぱいだった。
ボスっぽい男の指示で、後部座席の1人が車から降りようとした時、
自分に覆いかぶさっていたボス男を思いっきり蹴り飛ばし、その隙に逃げだした。
すぐ追いかけられて、揉み合いになったんだけど、
遠くから「何してんだ?警察呼ぶぞ」と叫んでくれたら、ナンパ男達は逃げて行った。
病院にも連れて行ってくれた。
家にも連絡が行って、両親が迎えに来た。
母は泣いて謝ってくれたけど、許す気になれなかった。
ファミレスのバイトをはじめて、お小遣いは自分で稼ぐようになった。
朝はコンビニのおにぎり、お昼は学食、夜はファミレスのまかない、全部自分でお金を出した。
あの夏の日の喧嘩の原因が、掃除をしないとか、甘えているとか、そんな理由からだったから。
母の望み通り、頼る事、甘える事をすべて止めた。
進学希望から就職に切り替え、寮がある会社を選んで内定を取った。
あの夜の直後、母は私に対して腫れ物に触る様な扱いだったが気持ち悪くて、すべて無視した。
私が進学を止めて、就職を決めた頃から、母の態度は180度変わり、
「意地っ張りの可愛げのない子」と責められたが何を言われようと無視のまま、
卒業してすぐ家を出る日に「手切れ金です」と書いて、10万を添えた。
それ以来、母親には会っていない。
父親とはたまに連絡を取るけれど、母との仲を取りなそうとするので、ほぼメールのみ。
わたしがあの人にはじめて会ったのは13歳の秋だった。
中学の入学祝いに父親からパソコンを送られた私はすぐにインターネットの世界にのめり込んでいった。
友達と放課後にマックに行ったり、クラスの男の子を好きになってすったもんだしてる都会在住の女の子の都会っぽい生活に憧れたり、、
ちょっと不良ちっくな男の子達のリアルな体験談にわくわくした。
わたしは地味で目立たないタイプの中学生で、自分に自信が持てなくてうまく人とコミュニケーションが取れなかったので、今ではよくわからないようなものにまで憧れたりしていた。
というか、クラスに友達がいるっていうだけで、クラスメイトと普通に話せる人だっていうだけで、私にとっては憧れの的だった。
そんな普通に楽しい中学生活を送っている人たちとお話できるのがほんとに楽しかった。
あの人は常連のひとりでいつもロムってるんだけど、
そのくせふとあらわれてなんとなく心に残ることをぐさっと言ってはまたいなくなる、みたいなかんじだった。
毎日入り浸っていたわたしはあの人と自然にあいさつとかするようになった。
あの人はほかの誰とも違う不思議な独特な空気感をまとっていて、
(あとで聞いたらちゃんとキャラ設定があったらしい)
あの人と文字で交わす会話を心地よく感じた。
あの人はいつも真夜中、みんなが落ちていったあとのひと気のないチャットルームに現れた。
いつの間にかあの人と話すことが一日の楽しみになっていた。
あなたはどんな人なんだろう、
どんな生活をしてるんだろう
人望厚く、生徒会長をやってるらしい。
(同じ学校だったら関わることもないだろうなー)
すきなマンガはるろけん。
てゆーかけっこうオタク。
って思っていた。
それは深夜で、チャットルームにはよく顔(?)を合わす女の子二人とあなたとわたしの四人だけで、その話は10代の私にとってはとても重いお話で、
というかまだ恋のなんたるかを知らない私にとっては目の回るような話で、
(確か、好きな女の子がいて両思いだったんだけれど、その女の子につらい思いをさせたまま別れてしまった、みたいな話だったと思う。)
その長いお話が終わる頃にはわたしたちはとてもしんみりしていた。
でもそういう特別なことを共有したことをきっかけに私たち四人はメールアドレスを交換することになった。
私は心の中でその成り行きにガッツポーズを決めていた。
だってずっとアドレスを聞きたかったけど、乙女で内気なわたしにはどうしても言い出せなかったからだ。
そうしてあの人のアドレスをゲットしたわたしは、
使い方が謎すぎて放置していたメーラーの説明書を100万回読んでメールのやり方を会得し、
(メールの画面が夢にまで出てきた)
やっとあの人とのメールのやり取りを開始した。
あの頃の私にとってあの人は遠い(友達いっぱい!楽しい学校生活!リアルではお近づきになれるはずもない人!みたいな笑)夢の世界に住む憧れの人で、
他愛のないお話ばかりをしたと思う。
みたいな見栄もはったきがする。
でもそういうメールのやり取りを繰り返すうちに、
少しずつ少しずつ見えてくるような気がした。
夢の世界に住んでるように思えたあの人にもたくさん悩みや考え事があることを知った。
あの人がどんどん近くなって来るような気がした。
ある日わたしは決心した。
あの人が生活する街を見てみたくなった。
本当は会いたかったけど、言えなかった。
あの人が歩いているだろう道を歩いて、
あの人が買い物をするだろうショッピングセンターに行って映画を観た。
源氏物語みたいなやつ。
今思えば、あの頃のわたしにとってあの人が唯一の友達だったんだと思う。
ではないと思いたい。
そのうちどうしても気持ちを抑えられなくなってわたしはあの人に告白した。
それが本当の好きなのかどうなのかわからなかった。
文字以外のあの人のことを何も知らない、
会ったことも見たこともない。
でも気持ちだけは本当だった。
そしてあの人にはあっさりふられた。
高校生活は最悪だった。
高校生になったわたしはけっこうないじめを受けるようになっていた。
成績もガタ落ちで留年寸前だった。
私は自分の部屋にひとりで閉じこもるようになった。
両親は仕事やまだ小さい兄妹たちの面倒に忙しくて
わたしの苦しさを理解できる余裕はなかったんだと思う。
誰かに理解されたかったんだろうけど、
それをうまく言葉にすることもできなかった。
絶対に来ないと思ってたからかなり驚いた。
どういう話の流れだったのかは思い出せないけど、
たぶん私が言いだしたようなきがする。
心臓が口からまじで飛び出しそうになりながら電話に出たのを覚えてる。
それまでは蒼紫様とゆこ殿、みたいなメルヘンなHNでやりとりしてたの笑
なんか本当に不思議な感じだった。
はじめて聞くあの人の声は上ずったかんじの甘い声でわたしは本当にどきどきした。
なにをあんなに話したんだろう?
たぶんとてもしょーもないことばかり話してたんだろうと思う。
気づくと朝日が昇って、朝になってた。
そしたらあの人は恥ずかしそうに言ったんだよ。
「俺の言いたいことわかる?わかって、テレパシーで。」
「・・・わかんないよ笑」
「・・・すき。」
どういう気持ちの流れがあの人にあってそうなったのかは今でもよくわからない。
たぶんあの人も覚えてないんじゃないかな?笑
でもわたしたちはこの電話をきっかけに付き合いはじめることになった。
携帯の請求がすごいことになってお母さんに何回も怒られた(笑)
会ったこともない人と付き合うなんて浅はかなことだと思うけど、
どうしてもあの人と毎晩長電話するのが辞められなかった。
あの女の子の化粧が濃くてキモイ、とか、モデルの女の子がいてなぜかその子が俺のこと好きっぽい、とか他愛のない話しを!(笑)
それは、仲のいい友達がいたんだけど、その子が亡くなってしまってとてもつらい、それはたぶん自分のせいなんだっていう話し。
それがあったから今は誰かと深く関わるのが怖いんだって話してくれた。
当時のわたしは自分のことを客観的に見る余裕なんか皆無だったからどうして自分がそんな気持ちになるのかわからなかったんだけど、その話を聞いてものすごく悲しくなった。
今考えるとわかるんだけど、わたしはあの人と深く関わることを望んでたからだと思う。
自分でも訳のわかんない私をあのひとなら理解してくれて助けてくれるような気がしてた。
でもお互いに問題をかかえたままお互いを理解しあえるわけもなく、私たちはすぐに別れてしまったんだ。
本当なら私があの人の傷を癒してあげられたらよかったんだと思うけど、当時のわたしには無理だった。
それを説明することともできなくて、
たぶん相当意味のわかんない理由で別れたと思う。
実はほかの人とのあいだに子供ができて、もうあなたとは一緒に居られません、みたいな出鱈目を言った気がする。
変だよね。(笑)支離滅裂だ。
よくわかんないけどそういう心理だったんじゃないかなーって思う。
やめる前後はピークに荒んでいたけど、
いざ辞めてしまえば私の心は徐々に落ち着きを取り戻していった。
15歳にして社会の外に放り出されてしまったことは恐怖だったけど、
それは逆にこれからのことを真剣に考える原動力だったような気がする。
それから3カ月。
今度こそ連絡が来ることは2度とないだろうと思っていたところに
冬、連絡をくれたのはあの人の方だった。
ちょうど寮制の定時制高校への受験を決めて一念発起を心に誓った頃だった。
厳しい環境に身を置くことで私は最低な自分から脱出できると思った。
家族とも、育った街とも、この街の人とも、全てに距離をおいて新しい自分を始めるつもりだった。
付き合っていた頃みたいにまた明け方まで電話することも何回かあった。
でもそういう自分の状況をあの人にうまくせる自信がなくて黙っていた。
相変わらずどうでもいいような話しを何時間もしていた。
というか今気づいたけど、わたしどれだけ素直じゃないんだw
わたしは本当はあの人ともう一度お付き合いがしたかった。
あの人が今でも私を好きでいてくれればなって思った。
朝6時に起きて掃除、点呼、先輩の洗濯や食器洗いをすませてから仕事に行って、夕方から学校。
はげしいルーティン。
ここに来たことを後悔してないと言ったら嘘になるけれど、
もちろん携帯電話は禁止。
というわけであの人への連絡手段を失ったわけだけど、
どうしてもくじけそうな時は負けじと寮の公衆電話から10円片手にあの人に電話した。
この公衆電話がまたすっごいの!
長蛇の列に並んでやっとたどり着けるの!
でも時間が決まっていてやっと順番が来たと思ったら1分とかしか話せないこともあるの!!(笑)
そんなわけで満足にあの人ともお話できないし、忙しくて3ヶ月に1回とかしか電話できない時もあったんだけど、
あの人の声を聞くと本当に元気が出たもんでした(笑)
あの人は相も変わらずずっと私の支えだった。
それでも。
地元に帰った時は便利な便利な(笑)家電で思う存分長話をした。
そうだ、手紙も何通か交換したんだ。
今でも大事にとってある。
あの人は字が下手だからってとても恥ずかしがったけど。
(確かにあの人は字がへただった(笑)
あの人と実際に会おうかって話になった。
あの人は大学生になっていて、
せっかくだからついでに会おうよってことになった。
その少し前にわたしたちは小さな喧嘩みたいなことになっていた。
あの人が私のことを何も考えていないただふらふら生きてる奴、
みたいなことを冗談で言ってきて、わたしがそれに反論のメールを送ったんだ。
わたしはわたしなりに色々考えていて、考えた答えには従って生きてる、みたいなメール。
でもあの人が私についてそう思うのは仕方ないことだった。
だって私はあの人に自分についてなんにも話したことがなかったんだから。
と、いうより私は誰にも自分について話したことなんかなかった。
いつも自分が何を考えているのかわかんなかったし、
誰かが自分を理解しようとしてくれるなんて考えたこともなかった。
だから私の気持ちはずっと迷宮をさまよってるみたいな感じだった。
ずっと悩んできた自分の心の暗い淵みたいなものに対する葛藤にも、
なんにも向き合えてなかった。
実際に待ち合わせの場所に着いても私はあの人と会うことをまだ悩んでいた。
会うのが怖かった。
実際に会って本当の自分を見せるのがとっても。
あの時、わたしはもう本当に緊張していた。
心臓爆発だった。
わたしの人生で一番綺麗なあの初夏の日を
わたしは一生忘れないと思う。
あの人は細くて折れそうな体で
外人みたいに彫の深い顔立ちをしてた。
あの人は私に一言、
「でかっ!」
って言ったんだ笑
不思議な感じだった。
はじめて見たあの人は知らない人だったけど、
声はずっと馴染んできてわたしを支てくれたあの声だった。
人見知りな私はあの人をやっぱり人見知ってたけど、
それなのにあの人はずっと昔から一番よく知っている人だった。
綺麗な新緑のさわやかな感じも、
あの人の横顔も
今もあの日のように思い出せるよ。
よく歩いて、よくしゃべった。
わたしは寮生活の話を。
帰りはわたしの近くの駅まであの人が送ってくれた。
手をふりながら猛烈な離れ難さがおそってきたけど、
寮に帰ってからもなんだか夢の中にいるような気分だった。
「楽しかった。また会いたい」って。
私もおなじ気持ちだった。
数日後の5月22日に私たちは付き合いはじめた。
いま考えれば不思議なことはなんにもない。
必然だったと思う。
もう人と深く関わるのが怖いって。
ずっと一人で生きてきたし、これからもそれは変わらないと思うってあの人は言った。
私になにかできることはないのか?って思った。
少しでもあの人の心が軽くなるようになればいいと思った。
あの人が誰にも心を開けなくなってしまったことを、
怖くないって言いたかった。
あの人が本当にわたしを理解しようとしてくれていることが分かって言葉が不思議とすらすら出てきた。
そういうことをちゃんと言葉にするのは生まれて初めてだった。
混沌としていた頭の中が言葉によって整理されていくのがわかった。
私たちはできる限りの言葉をつくして自分たちについて話し合った。
それは数年前の私たちにはできなかったことだ。
今までどうしても踏み込むことができなかった、
でもとても知りたかった、
知って欲しかったことだった。
話しても話しても話したりなかった。
やっとわかりあえた喜びを私は一生忘れない。
ずっとそうしたかったんだと思う。
一生懸命耳を傾けてくれたあの人には感謝してもし尽くせないよ。
あの人が私に言葉をくれたんだ。
本当はわたしは不安だった。
戸惑ってたんだ。
でも私たちはまだ一回しか会ったことがないのにこの気持ちは本物なのか?って。
そのあとに丁寧にロイヤルミルクティーを入れてくれた。
帰る前の日にあの海で撮った写真は今でも宝物だ。
あの日、ホームであの人の手を握りながら本当に離れたくない、
離れたくないってこういう気持ちのことだったのかって思った。
あの人はあなたになら心をひらけるって言ってくれた。
わたしも同じだった。
メールや電話でやりとりをしていた頃はまったく気づかなかったんだけど、
いつもわがままばかり失敗ばかりまぬけばかりの私にきちんと向き合ってくれて、
私に悩み事があれば一緒になって考えてくれた。
私にさえわかんなかったわたしを教えてくれた。
ちゃんとはなしてごらん、ってあの人だけが私に言ってくれたんだ。
お父さんみたいだった。
肉親以上の愛情を注いでくれた。
あの人と一緒にいた数年間は信じられないくらい幸せだった。
思い出が綺麗な綺麗なおとぎ話しみたいだよ。
わたしたちはなにもかもがぴったりだったように思う。
わたしが持っていないものをあの人はちゃんと持っていてあの人が持っていないものをわたしが持っていて嘘みたいだった。
なにもかもが上手く噛み合っていて、あんな風に出会えたことも、こうして一緒にいることも、全部が起こり得ないような奇跡だとおもった。
それはあの人が優しくそう感じさせてくれていただけだったのかもしれないと今になったら思うんだけど、それでも。
真夜中の長電話、一緒に観た何本もの映画、あの人の小さなアパートの部屋、まっすぐに続く海岸沿いの道、
会いたくて我慢できずに何回も最終電車に飛び乗ったこと、旅行に行ったのは神戸と栃木、クリスマスに買いすぎたモスチキン、
大学のピアノがある小さい部屋、高速バスに乗って一緒に出かけたこと、
別れる時に悲しかったぶん会えた時はほんとに嬉しかったこと、あの海辺の夕日、あの人を残してホームから走り出す電車、あの人のかなしそうな顔。
ねえ、わたしはおかしいのかな?
思い出を美化しているだけなのかな?
もしそうだとしても懐かしくて叫び出しそうになるよ。
だからはじめて会ったあの日からずっと離れるのが本当に嫌だったんだ
あの人がいればなんだってできるような気がした
あの人に話してないことがひとつだけある。
わたしはそれでも迷っていたんだ
私は若くて無知だった
本物がどれなのか判別がつかない程に。
奇跡だと思ってた
完璧だと思ってた
わたしは自分があの人を段々大切にできなくなっていってるのを知ってた
いつか自分の未熟さが原因で壊れて終わってしまうだろうと思った
むしろそうなるべきとも思った
そうしたらあの人の本当の大切さがわかるから
早くあの人を大切にできる自分になりたい
いつの間にかあの人にめぐり合うことができた奇跡を当たり前に思い、
あの人がわたしにかけてくれる愛情を当たり前に思い、
あの人に求めてばかりでいつも苛立っているのが苦しかった
わたしはわたしたちの幸せをめちゃくちゃにした
あの人を失ったわたしは
かたずっぽになって
うまく立つことができなくなった
うまく声も出せなった
うまく笑えなくなった
うまく人と話せなくなった
怖くてわたしを押しつぶしてくるの
何時の間にかわたしはあなたに
荷物を預けて楽してたみたいだ
全部がのしかかってきて
息ができなくなった
笑顔は今でも引きつってる気がしてる
それでも
わたしは受け入れていった
考えることをはじめた
どうしてこうなってしまったのか、
ここはどこなのか、
これからどう生きていくべきなのか 、
あの人のことを何度も思った
ずっと考えていて
分かったことはふたつだった。
ひとつめは、
今自分が感謝できることを必死で探してありがとうって思えるように絶対にならなきゃ同じことを繰り返してしまうってこと
どんな幸せを持っていたってそれをわかってなくちゃそれは不幸と一緒だ
ふたつめは、
本当に愛し合える人を見つけられずに死んでしまう人も多いこの世界で、わたしはあなたと出会えたこと、そしてあんな時間を持てたことがすでに奇跡だってこと。
出会えたことがすべてってこと。
朝ちょっと早起きしておいしい朝食つくって食べて、コーヒー一杯飲んで自転車で透明度の高い海辺を見ながら散歩。
自転車で20分くらいの所にあるスーパーで昼食と夕食の買い物をして気温が上がってきた頃に帰宅し、クーラーのきいた部屋で仕事する。
午前中はメールをチェックと今日のタスクの確認をおやつつまみながらのんびり考える。
お昼ご飯は簡単でおいしいものをつくって、午後から眠くならないように軽めにとる。
オサレじゃん?
オシャレ男爵って感じじゃん?
かわいい女の子とか俺の寝室で寝ていて、昼間に起きておいしそうなサンドイッチ用意してあったらもっと惚れてくれるじゃん?
そんでストイックに仕事している俺の背中を見て「ねーひまー」とか言って絡んでくるけれど、俺は仕事に集中しているから冷たくあしらっちゃうわけ。
でも夕飯にレストランみたいなイタリアンとワインを用意して女の子歓喜。
もちろんキッチンには一緒に立って、一緒に試行錯誤しながらおいしい夕飯作るんだ。
ゲームやったり眠かったら早めに寝たり、お風呂にゆっくり入りながらDSでゲームしたりする。
潮騒を聞きながら。
ジオラマの材料とか大人買いしてきて、ブラカラーでガンダムに着色もしてジオラマ作る。
そういう時は彼女にも誰にも会わないでもくもくと作る。
なんか温泉いきてーなってなったら適当に気になる温泉宿に泊まりに行く。
なんか海外旅行いきてーってなったら適当に気になる観光地に遊びに行く。
心地よさ、快適さ、便利さは全てお金で解決。
海外旅行はいつでも行けるから、観光地は何か所も行かないで一か所に留まってのんびりする。
英語も堪能だから海外旅行にはひとりで行っても困らないしむしろ気楽なくらい。
さて明日は何をしようかなーと楽しみながら眠りにつく。
3年前の4月。ニートだった俺は海辺のとある塾で非常勤講師として採用になった。アルバイト感覚だった。
開講13年目だったが、生徒は全員で9人。塾は40人で黒字と言われているので明らかに少ない。
働き始めて半年ほどで塾長は「君は2年後の正社員や!」「君は新教室のオーナーになるで!」と言い始めた。なる気はなかったから、「いやあ」とへらへらしてた。はっきり断っておけばよかったのだ。
丁度その時期から、授業だけでなく事務作業をやるようになった。
事務仕事はサービス残業が多く、金にはならなかった。いくら働いても給料3万円で固定である。給与交渉をすると「金は後からついてくるものだ」「君が新規事業でも立ち上げて利益を上げれば自然と給料も上がる」
と言われた。理屈は判らないでもなかったが、アルバイトで、給料を3万円から4万にするのに、新規事業を立ち上げるほどの労力がいるのかというのは腑に落ちなかった。
2月。生徒は相変わらずほとんど増えていない。15人程度だったと思う。俺は営業ノルマを与えられた。チラシを万単位で売っても、ビラを数百枚配っても、生徒がほとんど来ないのに、どうやって集客するのか見当もつかなかった。塾長はいくつかの営業プランを俺に言い、それを実行しさえすればいいと軽い調子で言っていた。
それに合わせて、塾の経営状態を示すグラフを見せられ一緒に塾の経営を改善していくために頑張ろうというような事を言われた。
俺としてみれば、ただのバイトなのにどんどん責任が重くなっていくことがつらくなった。正社員になりたくないともっと早く言っていればよかった。
塾長は「1年後には君は正社員だ!」とよく言った。しかし、塾は借金まみれで、赤字続き。そんな状況を見て俺は正社員には絶対になれないと感じていた。大体、塾長の給料すらずっと出ていないのである。モチベーションが上がらない。
営業の仕事を振られて数ヶ月間、俺は最低限の営業活動しかしなかった。情けない話、どうすれば生徒を増やせるのか見当がつかなかったし、営業活動自体に給料が出ていないことも不満に思っていた。
二度目の4月。塾に勤め始めて丁度1年過ぎた頃、塾長はキレた。俺が一人も生徒を入れられていなかったからだ。しかもほとんど動いてすらない。
初めて俺はそこで正社員にはなる気はない、塾を辞める、と伝えた。塾長は案外あっさりそれを認めた。「ノルマは君が正社員志望だと思ったから与えた。そういうことならなしにしよう」と言ってくれたのだ。但し、受験生を担当していたので、その受験生が卒業する来年の4月まではいて欲しいと言われ、俺もそれを承諾した。
翌日。塾長は「営業ノルマはないが、営業目標は立てろ」と言ってきた。断った。
さらに翌日。塾長は「君は1月からの数ヶ月間営業活動をほとんどしていなかったし、ノルマも達成していない。せめて営業に携わっていた時期分のノルマは達成しろ。大体正社員になる気がないならなんですぐに言わなかった」と言われた。正論だと思い営業をまたすることになった。
塾長「もっと気合い入れて働け。これは君のためを思って言っているんだ。塾が倒産したら君も心に深い傷を負うだろう?」「君が営業活動をしなかったからこうなった」「君がもっと早く塾を辞めると言っていればこんなことにはならなかった」「君と一緒に塾の改革をしようと思っていたんだ。でも君が辞めるせいで改革ができなかったんだ」「責任を取れ」
その状況下で、俺が担当する生徒が2人辞めてしまった。俺の実力不足だった。それでぎりぎりで回していた経営が本格的にまずくなった。
塾長「すぐに生徒を二人入れろ」
これまでのいろいろな面で、俺が悪いのは判っている。それでももう逃げたかった。でも受験生がいるので辞められない。担当生徒は責任を持って送り出したかったし、講師は3人しかいなく、俺が辞めたら誰も担当できないのだ。求人を出す金もない。
仕事の失敗が急激に増えた。あり得ない、やってはいけないミスもいくつもした。塾長は「普通はクビだぞ!!!」と怒鳴った。でもクビにはならない、できない。
とにかくお前は駄目な奴だ、と常に言われ続けた。でも辞められなかった。
結局生徒が集まらず俺が働き始めて2年目で塾が閉まった。
と言われたが、結局払っていない。
それから1年。俺はまた引きこもっている。あの塾はまともではなかった。だがそれ以上に、明らかに俺の仕事っぷりは悪く、責任感もなく、外に出て働いてはいけないと人間だと確信したからだ。本音はただ働くのが怖くなったからなのだが。次の職場でもまた同じ事を繰り返すだろう。
昔、どこかに書いたけど拉致問題を北が認める前に熊本のアーケード街に拉致家族が来ていて運動していた横で
どこぞの慰安婦の人権がどーとかゆー団体が側で大声で運動して声を邪魔してたの通りすがりにみちゃったんだよね
当時はサヨクのコメンテーターがテレビでも幅利かせていた(ネットでもサヨクのデマが幅利かせていた)時代だったから
まだサヨクの言い分信じてて拉致運動に冷たい視線を向けて通り過ぎたんだけど、それから暫くして友達と一緒に海辺で拉致られかけ
車で何とか逃げ切り、サヨクの言う事なんてもう信じないぞと身に沁みた
その後調べてみたら拉致家族や被害者への誹謗中傷とかネットでも凄まじくて 「2ch」「匿名」の誹謗中傷がなんだって?
あれらの行為は棚に上げて正当化して「ヘイトスピーチ」が何だって?同情できない、ちっとも可哀想だとも思えない 自業自得じゃないですか
今の状況
あれ以来、一切サヨク臭のするものは近づけたくないのでサヨク臭いキーワードを振りかざす人達には近づかないように気をつけている
気をつけていても忍び寄ってくるんだよね、某通販に会員登録したら通販がその手のサヨク団体に資金援助してると広報誌で知ってしまって
いやだなあという日記でしたとさ
大学生だった2007年頃から趣味で他愛もないホームページをつくっていた。
ワードプレスやライブドアブログのようなCMSには頼らず、1から10まで自分で作ることにこだわった。
すぐにのめり込んでいき、大学の図書館にこもりWEB関係の本を借りまくった。
しかしWEB関係といってもPHPやSQLは理解できなかったので、まずはHTMLとCSSだけ勉強して静的なページをべた書きで量産していった。
HTML,CSSですら最初はつまづいていたけれども、自分の意図した通りにデザインできるようになってからは面白かった。
アクセスは全く増えず、一日100PVにも満たなかったが、僕はめげなかった。
講義には出ず、学園祭にもサークルにもいかなくなり、周囲からは「まだやってたの」「何がしたいの」と呆れた目で見られるようになった。
付き合う人も限定されて社交性は衰えていった。
半年が経っても動的なページをつくれる技術はなかったので、未だに力押しでページを量産していた。
しかしデザインにはこだわっていたので、単純なHTMLでも、見た目にはそれなりのサイトに仕上がっていた。
内容はくだらなくても、いっちょまえなレイアウトで書けば、それだけで見栄えのする物になった。
PVはすぐには伸びないとわかっていたので、平均滞在時間、平均PV、直帰率を目標にしていた。
ユーザビリティには独自性は無用で、正解があると思っていたので、ヤコブニールセンのWEBユーザビリティの本を買って、素直に勉強した。
PVが少なかったので、平均をとっても余り意味がないのだけれども、平均PVは8はあったと思う。
ビジネスの基本は選択と集中だと考えいたので、PVが伸びなくてもサイトのテーマは広げず、なるべく狭く深くを追求していった。
サイト制作をはじめてから8ヶ月ごろではじめてグーグルアドセンスが振り込まれた。
ヤフーニュースの関連する記事にリンクが貼られたことも大きかった。
アフィ収入は年間400万を超えて、僕は大学3年で親の扶養を外れた。
稼げるようになってから、周囲の目が変わった。
いまどきアフィリエイトかよと呆れていた人が僕にジャンルや手法を訊いてくるようになった。
この頃から僕は自分にはプログラマの適正があると勘違いし始めた。
HTMLやCSSは狭義のプログラミングではないにもかかわらずだ。
調子に乗った僕はプロの話を聞きたいと思って、広告で見た翔泳社のデベロッパーズサミットに参加した。
年に一度開かれるITエンジニアの割と大きなカンファレンスだが、仕事で来てる人がほとんどだと思う。
名刺がないので受付で恥ずかしい思いをした。
javaのカリスマエンジニアやオラクル、NTTデータ、MSの偉い人、はてなの人などが講演していた。
当時HTMLとCSSしかわからず、PHPとMYSQLをかじったばかりの僕には話の内容は1割も理解できなかった。
引きこもってプログラマごっこを続けているうちに大学4年になった。
一生アフィで食っていけるわけもないので、就職活動をはじめた。
WEB系はブラックが多いとそれとなく聞きかじっていたので、大手IT企業や大手SIerを中心に受けた。
(新卒でWEB屋の門を叩かなかったことを、今でも本当に後悔している。)
結論から言うとMSもデータもオラクルもグーグルもユニシスも全部落ちた。
営業職も応募したけれど、いずれにせよPHPとSQLをかじっただけでは戦力にならないし、そもそも、WEBとSIでは言語の畑が違うのだろうが、たぶんそういう技術的な事はどうでもよかった。
技術的な事は入社後に教育する体制ができてるので、学生には何よりもまず社交性を求めていたのだろう。
~でも、私には在学中に専攻外の事を勉強していった自主性があります、
~これに関しては誰にも負けません。
とアピールしたのだけれども、ダメだった。ただの独り善がりの変なヤツに見えたのかもしれない。疑わしきは落とす。
結局僕は社交性、人間性、社畜適正、その他、大企業が学生に求める普遍的な魅力を欠いていたから内定がでなかったのだろう。
文系の学生が独学で中途半端にプログラミングの勉強を始めたばかりに、それはIT業界から内定を得る上での強みになるどころか、致命傷になったのだ。
友人は立派な会社に就職していったので、当時リーマン不況のまっただ中で就職難だったというのは理由にならない。
facebookで大学の友人をみると勤務先がNTTデータとかアクセンチュアになっていた。僕よりも人間的な魅力があったのだろう。
サイト制作は趣味と割り切り、日本を支える製造業を仕事に選んだ。
内定をもらってから卒業するまでの間に、僕よりもずっとITに明るい友人に、アフィで成功していたことを買われて起業を持ちかけられたが、何度も衝突し、結局2ヶ月で僕の方から音を上げてやめた。
起業するなら一人でスタートして人を雇うなり外注するなりすべきで、チームで始めるにしても誰が一番偉いのか最初に明確にすべきだと、このときに確信した。
就職したが、毎日のような飲み会と、週末のゴルフ、一発芸の強要など体育会系の慣習に嫌気が差した。
僕は仕事の傍らの片手間の作業でも収入が増えていくアフィに目をくらませて、半年で退職し、専業アフィリエイターになった。
今は無き海外ニートブログの労働観と、後述するコピペが僕を後押しした。
専業になってから収入は伸び続け、一番多いときで月80万を超えたが、その代わり孤独になったので、以前のような精神的な余裕がなくなった。
技術的には大学在学中からほとんど成長しておらず、未だにhtmlのべた書きで、サイトの一部でphpとsqlを使用してる程度だったからだ。
僕のサイトはWEBサービスといえるような代物ではなく、ただの一方通行のサイトで、コメント欄をつくる技術もないので、放置していもユーザーが勝手にコンテンツの価値を高めてくれるということはなかった。
ページを増やすのは社員を増やすようなものだと考えていたけれども、僕の身体は一つなのでべた書きで増やせる量には限界がある。
一人で安定してコンテンツを生み出すには、今後は趣味のサイトからは卒業し、より商業的なユーザー参加型のCGMを作らなくてはならない。このままではまずいと感じていた。
しかし僕はcakephpのようなフレームワークを使用せず、というかMVCを理解できず、。
ワードプレスのようなCMSもつかわず、力押しでべた書きで作っていたので、できることには限界があった。
僕と同じ個人事業主がつくっているW3Qのような立派なサイトをみるのが怖かった。
僕のサイトはブログやニュースサイトではなく、テーマが普遍的なサイトだったので、放置していもPVは減るどころか増えていった。
あぐらをかいた僕はサイト制作を完全に放置して、不安を紛らわすために現実逃避で遊びはじめた。
目的地も決めず、平日に思いつきで一人旅やサイクリングにいった。
仕事を辞める引き金をひいたのが、2chの独身男性板でみたこのコピペだった。
もし仕事に行きたくなくなったら、そのまま反対の電車に乗って、
海を見に行くといいよ。
陽に当たりながら飲むといいよ。
ビールが無くなったら、そのまま仰向けに寝ころんで、
流れる雲をずっと眺めるといいよ。
そんな穏やかな時間がキミを待ってるのに、何も無理して
毎朝ネクタイを締めるときにストレスで吐いていた僕の背中を押してくれた。
なんて罪なコピペだろう。
気晴らしのはずの一人旅なのに、旅館の人に今日はお仕事お休みですか?と聞かれたのが辛かった。
他にも一人で野球観戦に行ったり、映画を借りまくったり、早朝深夜のメジャーリーグの試合を見まくったり、夜更かししてロンドンオリンピックを見まくったりした。
野球中継に関してはスカパーのプロ野球セットを契約していたので、144試合中130試合は1回から9回まで見ていたと思う。
僕はサラリーマン時代に味わえなかった自由をほとんどすべて享受した。
サイトの方はなんだかんだで半年以上更新してなかっただろうか。
そして昨年の11月に事件が起こった。
グーグルのアルゴリズムが変わり検索順位が大きく下がったのだ。
打開するための次のサイトのアイデアはあるのだけれども、技術がない。
フロー理論でいう挑戦と技能の間の大きなギャップがあり、不安に駆られ現実逃避しか出来なくなった。
収入は落ち込んでいくのに、サイト制作をする気にもなれず、この一ヶ月前に自営業を断念した。
僕は公務員を目指すことを考え始めた。
一ヶ月後の6月が試験であるが参考書だけ買って全く勉強は進んでいない。
今年は無理だろう。
しかし今年で27歳だ。公務員になるにはそろそろ年齢制限にひっかかる。
来年筆記試験にうかったとしても、年増が面接に受かるだろうか。
27歳にもなるのに職歴がなく、独学でphpとSQLを囓った程度ではWEB制作会社は雇ってはくれないだろう。
詰んだかな、これ。
もっと外に出て、みんなと同じ大学生活を送って、みんなと同じ就職活動をして、みんなと同じように働いていれば。
初めての増田。
気持の整理ができたのでよかった。
13/5/18 15:00
はてな、ツイッターでの様々なご意見、ご指摘ありがとうございます。
27歳で実務経験のない僕が現時点でのスキルでWEB制作の仕事にありつけるとは思えず、納期がある請負も性にあっていないので、やはり公務員試験の勉強をがんばります。
僕のサイトははてぶ400userもありませんが、最後にホッテントリ入りしてWEBに小さな足跡を残せたので、悔いはありません。