はてなキーワード: 海辺とは
先程、下記の記事を見た。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49798
紹介されている本は未読で、この記事も流し読みした程度なのですが、
自分は今日が人生さいごの日だったら、何をするかなあ、と考えたので、書く。
あさ目が覚めて、これが最後の1日だったら、
外にお出かけしても良い程度、鏡を見て、じぶんでいいねーと思える程度に、
シュッと(化粧もして)整えた、さっぱりと気持ちの良い格好をする。
部屋やPC内にに見られて困るようなものはないので、このへんはそのままでいい。
各種アカウント類は整理しといた方がよいだろうか?ID開放のため。でもめんどうだなあ・・・まあそんなにないし、いいか。
それから、お出かけする。
本は、夏目漱石「草枕」と、、、あとジッドの「狭き門」とか、それともアラマタ大辞典とかにしようか。重いか。
助手席にはお気に入りの・・・相棒のぬいぐるみを乗せて、出かける。
私はとてもとても好きなので、どこまでも行っちゃいそう。
シンガポールのボタニックガーデンのようなところがいいなあ
まあここはシンガポールじゃないので、
土日になると家族連れでにぎわう系の公園の、気持ち良い木陰を探す。
気候がわるかったら、広い図書館か、お気に入りのカフェでもいい。
気分によって適当に海まで行ってもいい。
そうやってふらふら好きにしたら、夜は
すべてが準備されるようなところで過ごしたいので、良いホテルに泊まります。
満室なら残念です。
携帯電話はおいていくつもりなので、いきあたりばったりで
泊まれるところにとまる。
もしもその日の終わりにバタリと息の根が止まってしまうなら、ホテルはナシ。
どこか誰もしらない場所で、つまり猫が死ぬときにふっと姿を消して死にざまを見せないように死ぬのが一番理想なので
よいところを探して山へ分け入って分け入って、そっと山の肥やしになりたいなあ。
その場合は車はおいて単身そういう場所を探さないといけないので、
事前にいろいろ調べないといけない。たいへんだな。
きっと葬式などをあげたいだろう。
となるとやっぱり身体はわかるところに用意しておかないといけない。
しかし、最後に家族のもとへは赴きたくない…ひとり穏やに過ごしたい…
そうして、そうっと、すぅっと、消滅したいのですが、人間は社会的生物なので、なかなかそうはいかないようです。
あと、ありがたいことに、愛すべき友人たちもいるのですが、
彼ら・彼女らの幸福は、基本的にはいまから死ぬわたくし以外のものがもたらすであろうから
別のここで何か最後に一手かかわりを持とうとする必要はないと考えまして、
連絡などはせずそっと早くに忘れてもらうのがいいよなあ、と思うのだった。
と一通り考えてわかったことは、やはりというか、なんというか、
私が求めているのは、穏やかにひとりでそ・・・っと何もせず何もおこさず関わらず
わたしにはわたしがいれば完結して満足してしまうところがあるのだった。
実際には今日私は死なないし、私のことを好きな家族をぽいっとするほど薄情にもなれないので、
漫然としごとをして漫然と好きな本をながめて漫然と人の面倒をみて漫然と生きるのであった。
不満点はそれだけか(http://anond.hatelabo.jp/20160822144854)の突っ込みが面白かったので勝手に答えてみる。なお当方は一応2回見た。
さて増田の疑問の半分くらいは「非常時なんだから仕方ねえ、という意味でリアルの範囲内」と感じた。これは個人的な感覚。避難者の行動も、巨災対メンバーの挙動も。私物持ち込みにしたって、そもそも非常時のほぼ非正規組織の中でのことなんだから、セキュリティレベル下げ本人の希望最優先でとなるのも納得できなくはない。ただ、「地震の時のように避難するのはおかしい」というのは、作中描写があったので(都庁本部で「対策マニュアルがない」と問題にしているシーンと、消防隊員か何かが「地震用の避難マニュアルでは役に立ちません!と本部らしきところと通信しているシーンが有ったので、多分そういう点も柔軟に対応できず結局既存の地震マニュアルでしか避難指示が出せていないと見ているものに悟らせ、絶望感が一段と増す描写)この点については、特に不審には思わなかった。地下鉄民はゲロから助かるのか、という点は、まあ東京の地下鉄は防空壕使用になっているという都市伝説でもって勘弁してやってくれ。そこは国家機密なので(笑)。
それよりも、あらためて増田の指摘で気付かされたのは、「振動の少なさ」「逃げ遅れ」「海自の見失い(特にコレは、鑑賞時に自分もやや引っかかっていた点なので、それを思い出させてくれたことを感謝したい)」そして「地面踏み抜かない」といった非常によい指摘から、明確に一つの結論が導かれるということだ。上映中、これらの点について、自分がそれほどの違和感を感じなかったのはなぜか、ということ、それから、今回のゴジラの最大の特徴であるあのゆらゆらと宙に揺れる巨大な尻尾の違和感とを含めて、それにこたえたい。
ここから導かれる結論は、シンプルだが「あのゴジラは実はスカスカなのだ」ということだ。もちろん一定の重量はあるだろうが。一番最初の総理の記者会見は、今から思えば伏線だったのだ。「陸上であの巨体の生物が自重を支えられるとは考えられない、だから上陸はしない」と。だが上陸した。なぜか? 答えは簡単だ。「巨体に見合う重量がないから」だ。ゴジラのもたらす圧倒的な破壊のせいで、劇中の人物も、見ている我々もうっかり忘れそうになるのだが、今振り返ってみればおそらくそうなのだ。見ている人が、どこかで「重量があまりないこと」にも心の底で気付けるようにした様々な仕込み…それが増田の指摘ポイントなのではないだろうか。
海自が見失った原因もおそらくそこにある。まあ、レーダーまで装備する(笑)生き物なのだからソナー打ち消す能力くらいあってもいいのかもしれないが、海中でいったん質量に見合った大きさに戻ったとみる(そして上陸前に海辺まで近づいてから巨大化した)のが妥当ではないか。「折り紙、食べてないんだ」という間准教授の気づきも重要だ。折り紙の鶴のように中身がないのだ、最初から。だから短時間にあれほど爆発的に巨大化できたのだ。外殻こそ固いが内部はスカスカ…というのは、バンカーバスターの命中シーンでも思えば描写されていたようにも思う。本来あれは、外殻を突破して内部を破壊する爆弾だったはずだ。だが、想定外にスカスカな内部のため、ゴジラの体をあっさり「突き抜けてしまった(だから内部にはそれほどダメージを与えることができなかった)」のではないだろうか? また、血液凝固剤があれほど一気に巨体に浸透したのも、東京駅真上にいたのに(地下30mまであるのに)地盤を踏み抜いていないことも。あれほどの銃弾・爆弾を跳ね返す体皮の固さを持ちながら、列車の突撃、ビルの崩壊といった質量攻撃に意外ともろかったことも。こう考えると、劇中の様々な謎が解けそうな気がする。
自分が、増田の指摘した点について、正直鑑賞中に上のようなことを考えて納得していたわけではない。あくまで「不自然に感じなかったのは、うっすらとこういうことを感じていたせいではないか」と、後付けで言語化してみただけだ。異論・反論は認める。できれば二度目の観劇を踏まえて。
http://anond.hatelabo.jp/20160822144854
(追記)
一個忘れてた。「パターソン日本語うますぎ問題」。これは、まあアレだよ。その分英語上手くないところから推察して、つまり忙しい両親でなく被爆一世である日本人の祖母に育てられたんだよ! 日本語上手いのに敬語苦手なのもそれが理由だよ。そのせいで子供のころからいじめられてきて、それが彼女の強烈な上昇志向とアメリカという国へのプライドの原動力になってるんだよ。以上、解決!
などと言いだすようになった。
友人はfacebookやインスタでホテルや海辺で遊んでいる写真、
意識高い系ってやつだ。
はてなユーザーの嘲笑の対象になるようなタイプになってしまった。
ある日、彼にルノアールに誘われた
と忠告したところ、友人は逆上。
「年金が不安だしリストラも怖いから経済的に自由になるためにやっているのに邪魔をするな!」
と言い出した。大声で。
マルチのターゲットになったことが恥ずかしくて俺は急いで退散した。
本当に人が変わってしまったので、説得してやめさせるのは諦めた。
いっその事、全部お金もつぎ込んで身ぐるみ剥がされてしまえばいいと思うようになった。
そうすれば目が覚めるはずだ。
俺自信はそのリゾネットには入っていないが、最近は友人を応援している。
昔の友人ならこんなくさいセリフに反応しなかったのだが、
マルチに夢中になってからはこれらの言葉が劇的に刺さるらしい。
そのたびにリゾネットに勧誘してくるがその都度丁重に断っている。
マルチの予定でパンパンな彼は忙しそうだが充実感も感じているみたいだ。
例えるなら地獄のミサワのような感じ
「忙しくてつれーわー」「寝てないわー」「今週末もセミナーだわー」
こんなことばっかり言っている。
友人はそんなに金を持っているわけじゃないので、長くは持たないと思う。
もし友人もお金も失って俺を頼ってきたら、助けるべきか突き放すべきかで今考えている。
俺は悲しい。とても悲しい。
それは何を隠そう、水辺のレジャーだ。
そう、また水辺のレジャーで日本国民が次々と命をなくしている。
なぜ君たちは座して死を待つのか。
毎年、毎年、毎年……。
あれだけ注意せよ、と言っても繰り返される悲劇。
彼らは青春を謳歌していたはずだった。そこには恋の予感もあったはずだ。
いつしか愛の花が咲き、少女たちは碧い海の中で大人になったかもしれない。
我々は何かを変えるべき時にきた。
我々は、水辺で遊ぶ、という野蛮な慣習を改めるべきなのだ!
だが、その利権のために数多くの死するべきではない命が失われる現実がある。
その現実に、目を背け続けていいのだろうか。
我々は戦うべきなのではないだろうか。
否、我々は戦う!
増田家(六)の崩壊は増田島中央部のパワーバランスを一変させた。
増田騎馬軍団を傘下に取り込み、はてな騎兵が一部使えます状態になった増田家(四)の存在に最も危機感を覚えたのは以前から増田家と対立している増田家(五)であった。
彼らは使い慣れた道具である遠交近攻策を用い、増田海側の増田家(三)と密約を結んだ。
海辺の増田家が「今日から毎日港焼こうぜ!」にハゲむ一方で、平野の増田家が陸路増田家に侵攻するのである。
しかも、ねらいは新しく増田家領になった旧増田家領であった。増田家の大軍に包囲された新参家臣の城、増岡城を威信をかけて救うべく、放火の煙がくすぶる港町を背景に増田家(四)当主は出陣した。
だが、それは増田の巧妙な罠だった。当初一万と見積もられていた増田軍は三万もの大兵力であり、後詰め決戦にひきずり出された一万の増田軍は初手から包囲された。
これまでは高度にシステム化された増田軍でも末端部分では補給の問題があり、十分な兵力を前線に送ることができなかった。今回は旧増田領を戦場に選択することで拝金主義の増田家(七)から必要な物資を買い付け、側面からの物資補給で大規模遠征を可能としたのである。増田家(七)の動向次第では補給が滞って破滅しかねない危険な賭だった。だが、増田家(五)当主は増田家が境を接する増田家の巨大化を喜ばないことを察し、賭に勝ったのである。
「してやられたか!」
「敵が逃げるぞ。追え!」
増田家の「イチジクの葉に蜷局蛇」の旗が風にたなびき、追撃戦が開始される。それは、
人馬の足音は百千のいかづちの血に落(つる)かとうたがはれ、剣戟のひらめきけるは電のごとし(梅竹論)
しかし、追撃する増田軍も仇敵を討つ千載一遇の好機に冷静さを欠いた。結果、増田軍の人馬が落としていった物に足を取られ、転倒する者が続出する。
後方で起きている事態に気付いた増田家当主は兵の立て直しを試み、反転攻勢に出た!
前に出過ぎた増田軍の先鋒は乗り崩しを受けて、あえなく討たれる者が続出する。だが、増田軍の反撃は限定的であり、最終的に臭う戦場の支配者になったのは増田軍であった。
死者の間にあったのは腹の中身をぶちまけてから倒れるか、倒れながら腹の中身をぶちまけるか、その程度の違いである。
画竜点睛を欠いたものの戦いは増田家の勝利に終わり、争奪地となっていた旧増田家領の支配権を広げた。だが、もっと大きな利益をあげたのは増田家の港町に一方的に被害を与えた増田家であったかもしれない。
なお、しょうこりもなく増田家(八)が漁夫の利をねらって、増田出羽守指揮下の部隊を東の旧増田領に攻め込ませたが、苦もなく押し返されている。
前回
http://anond.hatelabo.jp/20160530121038
次回
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160516-00010007-bfj-soci
昔、海辺で大雨にあった時を思い出した。
いきなり大雨が降りだしたので岩陰に隠れた。凄い豪雨で、外に出れば一瞬でパンツまで濡れるのは目に見えている勢い。車までも距離があり鞄の中まで全滅しそうな雨。
とりあえずしばらく岩陰でやり過ごしていたら、遠く水平線に落ちる稲妻がなり始めた。海に落ちる雷は幻想的で独特の美しさにしばらく見惚れていた。
しかししばらくすると誰かれなく、うん、これ危なくないかと言う話になる。子供のころから教えられていた雷の危険な状態に当てはまらないか。
あまりの豪雨に躊躇するが、すぐに恐怖が勝ちずぶ濡れで車に避難した。
何もない海辺や大きな木の下。雷鳴が鳴り響く中で危険とされる場所の一つである。何をおいてもすぐに避難しろと聞き知っていたましたが、いざその状況に出くわしても即座に危険を認識できない物だと気づかされた。
都会の真ん中の公園で雷が鳴りだしても、危機感を抱けるものではないかもしれない。しかしそれでも自分の身を守るのは自分でしかない。適切な指示があろうがなかろうが、主催者に責任があろうがなかろうが、死んで損するのは自分自身なのである。
宇部市(うべし)は、山口県西部の周防灘(瀬戸内海)に面した市。
山口県西部の拠点都市の一つであり、県内では下関市、山口市に次ぎ3番目となる約17万人の人口を擁する。
宇部市の前身である宇部村は、江戸時代まで厚狭郡南部の半島状地形の先端部にある一寒村であったが、明治以降に宇部炭鉱での
採炭が本格化したことで炭鉱都市として急速に発展した。石炭産業は後に宇部興産の一部となり、現在でも同社は本社機能の一部
炭鉱採掘とともに人口が急増したこともあり、1921年(大正11年)に村制から町制を経ずに市制に移行し、厚狭郡から離脱した。
山口県内では下関市に次いで2番目の市制施行であり、村から市に直接昇格した例は全国的にも珍しい。
地名の由来については諸説あり、
1.地元名産植物であるムベ (トキワアケビ)が繁茂していた地域がムベと呼ばれ、これが転訛し「ウベ」になったという説。
2.海辺の景観に由来。つまり、「ウミベ」の読みが転訛し「ウベ」になったという説。
寄せては返す白波が、断続的に足元を濡らしている。巻き上げられた無数の真砂は儚げで、清楚な素振りで足の甲を撫でると寸毫の間もなく沖へと帰っていく。
ほんの少し前、水平線に太陽が沈んだ。ぽかりぷかりと黒い雲が浮かぶ空には、消え入りそうなひぐらしの声が響いている。閑散とした砂浜に吹く風は、遠く賑やかな夕餉の気配を微かにまとっている気がする。
寂寥とした晩夏の海辺で、私は当て所もなくぼんやりと立ち尽くしている。ポストカードに印刷されてもおかしくない風景をただひたすらに見やり続けている。
理由は特にない。強いて言うなれば、不意にずしんとした疲労を感じたからであろうか。力強く動かし続けていた四肢が何の前触れもなくうんともすんとも言わなくなってしまい、理由も分からぬまま縋るような心持ちで顔を上げた途端に、自然の魔力に魅入られてしまったのであろう。
私はおおよそ数十分間、砂地に足を突き立てていた。時間の流れ方が緩慢だったのか、甚だしく変化に乏しい景色ではあったのだが、私は飽きもせず両足を波に洗われ続けていた。
きっと途中から魂が身体から抜け落ちかけていたのだろう。半ば自失の域にまで達していた双眸では、沖合の現れた影に気がつくのにしばしの時間がかかってしまった。
いつの間にやって来たのだろうか、どこからともなく出現した影は、奇妙な動作をしきりに繰り返していた。一見したところ、溺れているかのような身動きをしている。しかしながら、海面は腰の辺りまでにしか達しておらず、どう考えてみても海底に足が着いている。大袈裟に振り回されている両腕はパントマイムを連想させるものがあり、助けを呼ぶ声はおろか水を叩く音さえ聞こえてこないのも真剣味に欠けていた。
一体全体どんな輩がこんな馬鹿なことをやっているのだろうか。逆光のためか顔が見えない人物を興味深く思った私は、一歩だけ海へと近づいた。
「だめだよ」
鋭い叱責が背後から飛んできた。振り返った私は、険しい表情を浮かべた男の子に少し離れた距離から睨みつけられてしまった
突然のことで返す言葉もなく沈黙していると、どういうわけか次第に居た堪れない気持ちがわき起こってくる。警告を無視して再び海に向き直ると、もがいていた影が音もなく岸の方へと接近していた事実に直面した。
顔のない真っ黒な人形が、出鱈目に苦しそうに踊り狂っている。
根拠もなくぞっとした私は咄嗟に陸の方へと駆け出しそうとした。けれどもいつの間に離れてしまったのか、海岸線は随分と遠くに見えている。海面は知らぬ間に腰の高さまで迫り上がっており、水の抵抗にあった逃げ足は遅々として進まない。そればかりか先へ進むごとに海面がみるみる盛り上がってきて、胸が沈み肩が浸かると、さながら急坂を転げ落ちるかのように足が海底に着かなくなってしまった。
狂乱する私は海水でぼやけた視界の最中に、砂浜に立ち尽くす何者かの影を幻視する。息も絶え絶えに声を上げてみたものの、潮騒に紛れた悲鳴は彼女には聞こえないだろうと、頭の片隅で気が付いていた。
やがて黒い影と私の輪郭とが完全に一致する。暗い海の底に沈んでゆく私は、揺らめきながら浮き上がってゆく息を見上げながら、もう何度目になるかもわからない暗転を経験した。
みんな徹夜してトイレが仮眠室代わりになってて、トイレの個室が塞がっている。
ウンコしたい時に会社のトイレでウンコができないことがよくある。
繁忙期になると、昼休み以外はウンコをするのに会社を出て、近所のコンビニに行かないと行けないレベル。
慢性的にトイレの個室が塞がっている状況を社長は知らないのだろうか。
その日、私は食べたモノが悪かったのかおなかがゆるゆるだった。
尻を刺すような猛烈な便意。
痛みで思わず立ち上がるほどソイツは私に一刻の猶予もないことを知らせた。
最近は暴食による大量の排便により肛門の穴が緩みきっており、
我慢しても緩んだ括約筋は穴の開いた堰のように役に立たずちびる経験がたびたびあった。
まだ会社にいない時にしか漏らした事はなかったが、いい大人が漏らした便の処理をする侘しさというのは筆舌に尽くしがたい。
小便と違って、大便はもらすと取り返しが付かない、小便なら車に水をかけられたとごまかしてズボンを取り替える方法が使えるが
不摂生による油っぽい便は猛烈な悪臭を漂わせるので、一発でわかってしまう。
小便の塩辛い海のようなかおりなら、海辺に近ければ海水でごまかすこともできよう。大便はそれすら許さない。
私は日ごろの生活で消耗しきった肛門を奮い立たせた。
三十数年も共に過ごした相棒だ。大切な局面で私を裏切るわけがない。
しかし衰えた括約筋だけでは勝てないと悟った私は女性が好きな男性のナニをくわえ込む時のように全力で内股に力をこめた。
このとき、女性とはこれほどの筋力を性行為に使っていたのかと感心する余裕すらあった。
当然会社のトイレまでやってきたがトイレは塞がっていた。想定内だった。第二波が来た。尻をさす痛みはあるがあと5分は耐えられる。
もらすほどともなると、自分の肛門の限界を知ることができる。アスリートのようにペース配分すらできるようになる。
最悪、多少の漏れは妥協するしかない。自分の肛門のスペックを知り尽くした者だけに許される割り切りの美学だ。
急いで他の階のトイレを回る。もう肛門が限界のため外のビルに行き着くだけの余裕はない。神に祈った。
もうかなりヤバい状態だったから、内股で一歩ずつゆっくり歩くことしかできない。
この階のトイレも個室はすべて塞がっていた。
背水の陣だった。
最後の希望、犯人は犯行現場に戻るというではないか。一縷の望みをかけ最初の階のトイレに戻った。
結果はダメ。そらそうだ修羅場時期のトイレがそう簡単に開くわけはなかったのだ。
こんなことになったのも一億総活躍できない政府にも一因があるのではないか。
天に唾を吐くレベルだとわかっていてもそう思わずにいられなかった。
就職氷河期に専門学校を出て入れたのは、最低賃金のアルバイトだけだった。
なんやかんやあってバイトで積んだ経験と資格をアピールして、派遣で今の仕事にありつけたのだ。
いい年になっても年収は200万行かない底辺だが、この仕事がこのワタシにとって一番稼げる仕事だった。
これがダメなら最低賃金でピッキング作業をする仕事に戻るしかないのだ。
独身だけど築45年の安アパートで贅沢に暮らせていけてるだけでいいのに、なぜ神は私にこんな貧弱な肛門を与えたのだろうか。
ここで自分の過去のことを思い出していたことにはたと気がついた。
ああ、これが走馬灯ってヤツだったのか。しかし神は存在した、いま私の目の前で個室が開いたのだ。
全力で個室に飛び込み安堵してズボンを脱い……悟ったころにはすべて遅かった。
そう、安堵すると肛門は緩むのだ。
私は再び肛門期の訪れを感じていた。
幾つか外国で行ったことがあるのだが一つはヌーディストビーチと言っても、海ではなく川沿いにあるところでキャンプ場の一区画がそれ様に開放されているところだった。
夏の暑い盛りで、ヌーディストビーチというと日本では隠微な響きがあるのだけど、実際はそうではなくナチュラリスト(裸健康法)という感じで、主におじいちゃん、おばあちゃんを始め中年が多く日光浴をしているという感じ。
日本人としては普段から裸で風呂にはいるので、取り立てて違和感なく楽しく過ごせたのと、結局言っても他人の裸見ても何にも思わず(セクシーな若い女の子などはいない)、本当に裸で健康に、走ったり、卓球したり、知らない人とバーベキューしたりという感じだったので、レクレーションの一つとしてはなかなか楽しめた。
ちなみに、ここでいないと書いたのだけどいるような海辺のところも行ったことがあり、それはまた別のはなし。
20歳の女性でバイセクシュアル、男性とも女性とも交際したことがある。
萌えアニメや男性向けAVを含め、基本的に男性向けの性コンテンツを消費している。自己の性認識は女性。
また、美濃加茂市の萌えおこしものうりんという作品の詳細も、失礼ながら存じ上げない。
以上の立場の自分は、今回の美濃加茂市のポスターは嫌悪感があったこととその理由を書き記したい。
嫌悪感……と、いうより、正直、しっくりこなかった。
これは女性の母乳を摂取することで男性が力を得て戦う作品である。
誰かが「スタイリッシュ授乳」と称したように、授乳がこの作品の一つのキーワードである。
女性の乳首と乳房がこれほどにまでに作品内部で強調される作品はあまり知らない(知ってたら教えてほしい。見たい)。
クェイサーという作品が炎上しなかった理由は、(SNSの普及という観点は今回はさておくとして)以下二つと考える。
→つまり、「嫌なら見るな」がある程度コントロール可能な作品である。深夜帯のアニメ、本屋に置かれる漫画。
『老若男女』、不特定多数の目に付く場所に『多数』配置されているわけではない。悪意(≒反論の意)を持って拡散されることが予期されるわけでもない。
また、責任は製作委員会・作者・出版社にあり、『地方自治体』や『国家』が負うものでない。
2 下着や乳房等、性的イメージに繋がる部位の露出及び性的行動に意味がある
とはいえ、クェイサー以外のアニメ作品を考えると、2に関して、無意味な露出が昨今量産されている。
フェミニストはポルノとして消費される二次元の女の子がどうしても気に食わないのだろうが、それへの批判は割愛する。
話を戻す。
今回の美濃加茂市のポスターに関しては、両方の観点からして外れている。
→まちおこし・萌えおこしという観点からこれは「逆に出した」と言える。しかし、こちらの行為を批判しているのはおかしいと考える。
アニメと地方活性化のコラボレーションは新しい話ではない。地方住民の受け入れ度合いの高低を問わず、広く用いられる手段である。
単純に「のうりん」と「美濃加茂市」がコラボレーションしていた時にはこうした炎上まで発生する程の批判はなかった。
しかし、この枠から出ていることによって、「嫌なら観るな」がコントロールできなくなっている現状は、受け止めるべきである。
なぜなら責任が出版社だけに留まらず、現状、『美濃加茂市という市町村・地方自治体』にも負わされているためだ。
TwitterやFacebookによる拡散でこのポスターが不特定多数の目に触れることは予想内である(予想外だとしたらさすがに認識が甘いとしか言わざるをえない)。
→私はこの部分に最も違和感を覚える。
不特定多数の目に触れる部分でそのイラストを選ぶ必要があったのか?
乳房や女性の身体の露出がふさわしいタイミング――例えば海水浴場の萌えおこしだとすれば、露出の必要性は存在する。
それなのにどうして「農業・林業」の萌えおこしやイメージキャラクターのポスターに上記の『不特定多数』が不快と示すレベルの露出が必要なのか。
海水浴場を例に挙げる。
水着の女性のポスターを設置することで、海辺の女性を喚起するのは当然だ。
海辺のポスターにグラビアアイドルの画像を使用する。なんら問題ないと考える。
それすら「女性を性コンテンツとして扱っている」とフェミニストが批判するなら、じゃあお前だけ勝手にスク水着てろと言わせてもらいたい。
男性はえっちな目で女性を見る者が多い、と俗に言われているし、正直、バイである私はえっちな目で女性を見ている。
豊かな胸の水着姿の女性を見たい気持ちは非常に大きい。ポスターであれ、実際のビーチであれ、だ。
では、海水浴場という過疎地を、ガンダム00(クェイサーに続き、少し古いアニメで申し訳ない)で萌えおこしをするとしよう。
それなら、ボインボインのスメラギさんがポスターを飾ればよい。
スメラギさんがえっちすぎて問題がありそうなら、横の海に真顔の刹那でも泳がせておけば良いのだ。
いくらたわわにあらわになったとしても、あのポスターのイラストよりも更に肌色が多くても、そこに露出の『意味』があれば納得する人は増える。
しかしのうりんの彼女の場合、それが通常コスチュームであったとしても(どうか知らないが)、前提条件を知らない『不特定多数』には、露出に意味が感じられない。
そうした意味のない露出が「単なるセックスアピールのみの変態的イラスト」と捉えられてしまったと考える。
ただし、そこからアニメや萌えイラスト批判に転じることが必ずしも正しいとは思わない。
萌えおこしが成功している例も多々ある。アニメや萌えやボーイズラブが日本のコンテンツ産業を支えているのは確かだ。
長々と綴ったが、以上のことから、私はアニメファン・および地方自治体の萌えおこし担当者に対して「これが三次元なら許されたのか?」という観点で物事を見ることを提案したい。
アニメだから許されないこともある不平等に関しては今後また議論されるべきだが、そもそも三次元でも許されないことはアニメでも許されない。
旦那が冬にサーフィン始めて、行きは旦那が運転して妻子を乗せて、冬の海で旦那が必死にサーフィンしてるのを浜辺で妻子が見つめて、帰りは爆睡してる旦那と子供を乗せて妻が運転みたいなの。
以下炎上内容
↓
すみません。妻子勝手に連れてった挙句帰り爆睡とかデカい子どもですよ、離婚案件。せめて親子で楽しくサーフィンとかできんかったんでしょうか…
「いつまでも少年」な夫を温かく見守ってね、風の甘えが透けてみえるCM。どうしたこんなバカヤロウな企画が通っちゃうんだろう。
旦那の趣味につきあわされて帰りは疲れた旦那と見てるだけで疲れた子供の代わりにドライバーなんて離婚もんでっせ。
何これ、今どきバカじゃない(>_<) ヨメはせいぜい趣味好きダンナが眠るためのアッシーかよ。
こう言うのって一人で行くかサーフィンが趣味の仲間と行くものだと思ってた。帰りの運転手として連行される嫁、一人で留守番はさせられないから仕方なくついていく子供。着いたら着いたで波に乗るカッコ良い俺様を見てないと怒るんだろな、こう言う人は。としか見えずw
すんませんが父親だけが楽しんで、妻子をコキ使っといて勝手に「家族サービス」と思い込んでる…というDV家庭あるあるパターンが頭をよぎりました。他人に相談しても最後は「少年の心を持った素敵なダンナ」で封じ込められてしまう、という薄ら寒い結末も含めて。
嫁が奴隷。
↑
こんな感じで、サーファーの嫁が初心者を一人でいかせるのは危険だしサーフィンのあとは疲れて運転させられないし私は奴隷じゃないと反発したり、男がやるなら文句言わんくせにと男が反発したりでまた波乱な訳だが。
これを見て私は純粋に、めっちゃ寒そう冬の海辺に突っ立ってるのは嫌だなぁ、凍えるし子供か自分が風邪ひくしあかぎれできるで、サーファーはスーツに放尿すると聞いたけど妻はトイレどうするんと思った。
多分これを見て素敵こんなことをやりたいなーと思う女は少ない、つまりこのCMは妻子をつれて趣味をしたいお父さんに訴えかけている。
考えてみたら車のCMはお母さん二の次でお父さんに訴えかけているものが多い、普段の買い物はおかんでも車の決定権はおとんが握ってるんやなぁとしみじみと思った。
スーパーで幼女が母親に魚肉ソーセージをねだるだろうなと思って店内一周して売り場に戻ってきたらやっぱりねだっていた。
でもガン見するのもおかしいので店内もう一周してきてまたさりげなく眺めた。
場面転換。
山の中腹にある自然教室っぽい建物で起きると水道がちょろちょろ出っぱなしになってて、あー水道代もったいなかったなーでも水道代なんて大したことないから大丈夫かと思った。
ふと窓を見ると自然観察?にきてるっぽい体操着(ブルマではなく赤いクォーターパンツ)の女子中学生が3人いるのが見えた。
みんなそんなに可愛くはなかった(でも明晰夢だったら何かすることを即座に考えるレベルではある)。
でもせっかくだからと自分が見ていることがばれないように隠れながら彼女たちを見ていた。
ほどなくして彼女たちが帰り始めた。
帰る先は建物の表側の上り坂になっている山の上の方っぽかった。
今度は自分も建物から出て体勢を低くして彼女たちを追っかけていった。
でも途中でバレて、3人の中で一番マシな顔の女の子がこっちにきて、怒った顔で俺に「これ以上ついてきて変なことしたら通報するよ」と言ってきた。
場面転換。
ボートだか車だかが女子につっこんできてその女子は死んだ。スイーツ(笑)←ほんとにこういう感じがした。ネタではなく。体感としてスイーツ(笑)を感じた。
ガンダムSeedっていう作品に出て来るZAFTっていう軍事組織がもうものすごく大好きで、彼らにはお笑いのセンスがあるんだよ。
もちろん軍隊としては全然評価できない集団なんだけど、コントやらせると相当な実力がある。
まずね。彼らは建前上義勇兵なので、階級が存在しない。上下関係が存在しない(いや、もちろん現実には存在するわけだが建前としてはない)。
そんなんで組織動くのか? っていうと「俺たちエリートだから末端兵士にいたるまで現在状況の認識が出来ている。現在状況の認識が出来ればおのずと最善解(それぞれの立ち位置でやらなきゃいけないこと)はわかるので、指揮系統がなくても連携行動がとれる」っていう理屈なのね。もう、才能あるとしか言えない。
現実には連携バラバラで独立部隊がかってこいてて右往左往してるんだけどね。
「なんでおまえがここにー!?」とか。海辺で。やっぱセンスあるよな。
少子化で人材不足にあえいでいる作品世界では個人の能力を上げる(そのための遺伝子改良までしてる)個人尊重主義がいきつくとこまでいってて、エリートさまがあふれかえっているのだ。
この状況設定がもうブラックコント作品としての完成度を示していると思うんだけど、なぜかSeedの評判は悪いのだよなあ。
そのZAFTさんなんですが、まあ、ロボットアニメなので、軍事組織だってロボに乗って戦うわけですよ。
んでもって、そのロボには脱出装置がついてないのね。なんでかっていうと「ZAFTの義勇兵はエリートだから撃墜されないし、撃墜されないから脱出装置は必要ない」ってはなしなんすけど、もうこことかたまらない。それで爆発して「うわあああああ!?」とかいってるの。宇宙で。ぼーん。やっぱりセンスある。
ところで日本政府がマイナンバー制に関して「強力なファイヤーウォールを備えているために情報漏えいは存在しない」っていってます。