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2019-09-30

バカなガキと親のせいで全員に悪影響を及ぼす

死ぬのは5人か、1人か…授業で「トロッコ問題」 岩国の小中学校保護者謝罪

といいうのがあったけどその一文で

授業は、選択に困ったり、不安を感じたりした場合に、周りに助けを求めることの大切さを知ってもらうのが狙いで、トロッコ問題で回答は求めなかったという。しかし、児童保護者6月、「授業で不安を感じている」と東小と市教委に説明を求めた。両校で児童・生徒に緊急アンケートをしたところ、東小で数人の児童不安を訴えた。

思考実験もできないガキが悪いだろ

不安だと?どんだけ温室育ちなんだボケ

戦時中に時空転送したらショック死するんじゃね?腑抜けガキが社会に出れるわけねーだろ

2019-09-28

グランゾート

放送開始30周年記念としてYouTubeで公開されたのを知って観ている。もうそんなに経つんだね。

前年に放送してた「魔神英雄伝ワタル」より世間評価は低いのかも知れない。でも自分の中では特別作品だ。

当時11歳で小学生だった。クラスで隣の席の子は、登場キャラの「ラビ」が大好きで、下敷きなどのグッズを持ち歩き、絵もうまく、よく見せてくれた。

ガンダムの事で頭がいっぱいだった自分が、初めて異性を好きになり、それが初恋というものだと知るのはもう少しあと。

の子とは別々の中学校へ進んだが、短い期間だか文通をし、そのままになってしまった。

30年という月日は、人をすっかり中年にしてしまう。娘も高校生になり、自分には責務ある仕事忙殺される毎日だが、スクリーンの中の世界は、あの頃のままだった。

美化補正もされてるだろう昔の記憶が、脳裏によみがえる。

今、あなたはどこにいますか?何してますか?

30年前の作品を通し、30年前の自分と一緒に、彼女の事を想う。

韓国戦前日本を「絶対君主制」と教育されてるのでは?

日本人であれば、天皇制というのは「絶対君主制」じゃなく、「権威はあるが、政治的権力は無い」存在である、と肌感覚で知っている。

戦後象徴天皇制では勿論のこと、戦前の「現人神である天皇制時代ですら、政治の実権を天皇じゃなく内閣とか軍部が握ってた、ということを知っている。

が、「戦前でも、日本の政治体制は、絶対君主制じゃなかった」という「日本人常識」は、果たして海外の人にも「常識」なのか?

具体的には、「戦前日本は、絶対君主制じゃ、なかった」と理解している韓国人は、どれだけいるのか?

韓国人が「戦前日本が、絶対君主制じゃなかった」と理解してもらうには、つまり韓国義務教育において「日帝支配時代の、日本の政治システム」をどう教育されてるか?がポイントになる。

果たして韓国小学校中学校で、「戦前大日本帝国では、天皇はお飾りで、内閣軍部が実権を握ってた」とキチンと教育しているだろうか?

自分憶測だが、韓国小学校中学校では、「意図的に」、「天皇絶対君主で、日本の政治の実権を握ってた」と教育されてるのでは?と思う。

そのように「絶対君主としての天皇」という存在教育することで、「悪の日帝」という教育がしやすくなる。

ファジーな「内閣」とか「軍部」を教えても、「悪の親玉」としての迫力が無いのである

から天皇韓国土下座すべし」発言は、韓国人から見たら「当然の帰結」なんじゃないかと。何てったって「悪の親玉」だから

その辺の、韓国初等教育における「意図的な、日帝時代天皇制絶対君主教育」の実情を、知りたいのだが。

2019-09-27

ブラック企業の源流は中学校での部活にあるとわかった

娘が文化部から運動部に転部した。

文化部ときは楽しそうに部活のことを語ってたのに、

運動部に行った途端、休みゼロになり、いつも暗い顔をしている。

来月、小学生の弟が運動会があるのだが、部活の先輩から以下のようなクソ内容のメールが来て更に暗い顔になった。

兄弟運動会理由部活を休むのは慣例なので認めません」

あー、ブラック企業ってここからはじまるんだなぁと。

たった1年しか長く生きてないヤツが、小学生から中学生になっただけでこんな偉そうになるとは。

部活に入るのを強制する学校も悪いが、一番悪いのは14歳中学生権力持たせてしまうことだと思うわ。

スタンフォード監獄実験的。

2019-09-26

お母さんの自転車

夏休みの宿題で「お母さんと弟と市民プールに行ったけど休みでガッカリしたことが1番の思い出です」って作文に書いたら、お母さんに「なんで?」と怒られた。

そりゃそうだ。車の免許がないから行くところは限られていたけど、夏休み中、お母さんは電動でもなんでもない自転車の後ろに弟を乗せて、まだ自転車運転に慣れない私に「車!」「赤!」と声をかけながら、サマーランドやら母方のおばあちゃん家やら、いろんな場所に連れてってくれた。それなのに、1番近場での1番楽しくなかった思い出を書かれたら怒るに決まってる。

私としたら「楽しかった」だけじゃつまんないかな〜と、おませなつもりで書いた作文だったけど、他の子たちの「帰省」や「初めての海外旅行」の思い出と一緒に、「仕方がないかモスバーガーを食べて帰った」思い出が夏休みの文集に綴じられているのはたしかおかしくて反省した。

思えば、お父さん、お母さん、私の3人で借家暮らしていた頃から、お母さんの自転車の後ろに乗って、保育園、大きなダイエー、よくしゃべるオウムがいる近所の家、いろんな場所に行った。しばらくすると弟が生まれて、父方のおじいちゃんおばあちゃんと一緒に暮らす新しい家に引っ越した。

保育園に通い始めるようになった弟と補助輪付きの自転車さえ乗れないどんくさい私を乗せたお母さんの自転車は、買い物や保育園の送り迎えの道中よくすっ転んでいた。最初のうちは弟と一緒に「ウワーーーン!」と泣きわめいて「ごめんね」とお母さんに謝られていたけど、そのうち「あっ、倒れるよー」と予告されるようになり、「はーい」と上手に受け身をとって、助けてくれる通りすがりの人に「だいじょぶでーすありがとございまーす」と返せるほどになった。

弟がぽっちゃりしてきた頃、私は後ろの席を卒業し、坂道自転車押したり、良きタイミングで弟に「降りて歩け」と指示したりする裏方に回った。そのうち自転車に乗れるようになり、お母さんの良きパートナーとして行動の範囲を広げていった。

私がピチレモンを買うようになった頃、アウトレットモールがある南大沢電車でよく行くようになった。と言ってもアウトレットモールは素通りで、目的南大沢から30分くらい歩いた場所にある激安洋品店タカハシ」。貧乏ってわけじゃなかったけど、コールセンターパートを始めたお母さんのお給料が出ると、私と弟の服を買いに3人で駅からてこてこ歩いて行っていた。

服に興味のない弟の機嫌をとるために、駅とタカハシのちょうど半分の場所にあるモスバーガーでよくお昼ご飯を食べた。市民プール休みだったあの日もたしかタカハシに行くことになって、モスバーガーに寄ったんだった。

私が小学校卒業を控えた頃は、母方のおばあちゃん家ばかりに行くようになった。そんなある日、お母さんに「家を出ようと思ってる」と伝えられた。その頃、お母さんは私の部屋でご飯を食べたり寝たりしていて、いわゆる家庭内別居状態だったからあまり驚かなかった。お母さんの元気がなかったし、その方が良いと思っていたから、聞いて安心した。

「お母さんとお父さん、どっちと一緒にいたい?」と聞かれて「もちろんお母さん」と答えた。「弟はお父さんと仲が良いし、お母さんのお給料じゃたくさん食べさせることができないから、一緒には暮らせないと思う」と言われて「そうなんだ」と返した。その日の夕方、2人でスーパーに買い出しに行ったとき、お母さんに「中学生になったら髪染めていい?」と聞いたら「髪を染めたいならお父さんと暮らしなさい」と返されて、どっちもやだなと思った。

それから私が中学校入学するまでの間、お母さんはこっそり家を出る作戦を練っていた。お父さん、おじいちゃん、おばあちゃん、弟にバレないように荷物をまとめたり、アルバムから私と弟の写真を何枚か抜いたりと忙しそうにしていた。

準備が整って、ついに出て行くことになった。最後まで「本当にお母さんと一緒でいいの?」と聞かれて、大事なことをたくさん伝えられて、「大丈夫」「わかった」とたくさん返事した。さみしい気持ちより、緊張でいっぱいいっぱいだった。

夕方タカハシで買った洋服とか、夏休み中に撮った写真とか、いろんなものをお母さんの自転車に積んで、よろよろと倒れそうになりながら、母方のおばあちゃん家に向かって押して歩いた。お母さんの自転車でいろんなところに行った思い出はこれが最後だった。

それからいろいろあって、私はお父さんに引き取られた。中学生の間は弟と一緒にワンルームのお母さん家に週末泊まりに行ってた。うれしい気持ち裏目に出て、お母さんの前で弟とよくケンカをしていたら「お母さん悲しいな…」と言われてしまって2人でシュンとしたこともあった。

だんだんペースがあいて、外でしか会えなくなって、病気がちであまり会えないって聞いて、ひさびさに会ったら「お母さん、対人恐怖症になっちゃったんだ」って手を震わせながら私たちと話してくれて、その姿を見るのがキツくて、会うのが辛くなって、今は連絡も取らなくなってしまった。何やってんだろう、私は。

最近よく「母親になったとき子どもに同じことをしてあげられるかな」って考える。お母さんがお母さんとしてしてくれたたくさんのことを思い出して、幸せ気持ちになる。今なら1番楽しかたことだけを書いた良い作文が作れそうなのに。何やってんだろう、お母さんは。

2019-09-25

今日、小中学校の時いじめられてた奴に会った

小学校の時はいつも汚い服で

冬でも半ズボン

ゲゲゲの鬼太郎ねずみ男の顔を

さらに目を小さく細くした感じ

天然パーマ髪型を短くカットしてた気がする

成績はいつも悪くてクラス中、学年中、

もはや学校から嫌われてたと言っても過言じゃなかった

でも大人しいわけではなく、むしろ活発で人の嫌がる事しかしない感じだった

でも時々普通に遊んでる事もあった

でも時々○○菌と言って虐められてることもあった

でも本人は落ち込むというよりは

立ち向かって暴力をふるったり、泣き喚いて暴れるような感じだった

少ししか見なかったけど、今日いたのは多分あいつだった

容姿ほとんど変わっていなかった

ちょっと太ったのか、筋肉なのかムチムチした感じになってた

俺が30歳だからあいつも30歳

店員デカイ態度で話しかけてた

手に負えない団塊世代のクソジジイみたいな態度だった

見た目は派手でも何でもないブサイクから

ヤンキー的な怖さというより、関わると面倒になりそうな頭がおかしい奴的なヤバさがあった

結婚してんのかな

俺は独身からあいつが結婚してたら負けた感じがして嫌だなと思った

でも多分今結婚してなかったら、あいつは一生結婚できなさそうだなと思った

俺も他の人間も大抵モテ期があったり、チヤホヤされた経験があったりすると思う

こいつはそんなの経験した事あるのかな

初対面とかでニコニコ迎え入れられる事あるのかな

なんか悲しくなってきた

あの時のまま、むしろ子供の頃は多少難があっても多目に見てもらえたと思う

もうこの歳じゃそれもないだろう

こいつが結婚しててほしいと思った三十路、秋の夜

教師の人に話を聞いてみたい

最近中学校小学校先生ってめっちゃ馬鹿にされてるじゃん

実際馬鹿な行動に関する報道はてブとかツイッターだとよく目につくし

でも実際の義務教育中の人の声ってあんまり出てこなくて気になってる。実際どう思ってるん?

キレると手が出るか

親がキレると手が上がるタイプで(父も母も

一度、なんだったか小学生の頃に親と口論をしていた時に髪を掴まれ階段まで引きずられた

「このまま引きずり落としてやる」的なことを言っていた気がする

本気で殺されるんじゃないかと怖がったのをよく覚えている

死にはしなかったが背中の皮がむけ、痣ができた

幼稚園児のころ、お菓子屋食べる食べないで手を挙げられ、コンクリ作りの壁に叩きつけられてたんこぶができたのが一番古い体罰記憶

叱るとき普通でしおらしくしていれば許されたのだが、こちらが小生意気に口答えを続けるとキレるのが親のパターンだった

怒って手が出ていただけだから体罰と呼ぶのも違うように思う

社会階層としては上の家庭で、大学も在学中の生活費も全額援助してもらった

毒親には程遠い親だったと思う

キレると手が出ることは散々に学び、中学校に上がる頃にはキレさせるようなこともほとんどなくなり

やや過保護干渉だが普通の親子関係を続行していた

しかし怒ってもけして手を出さないのが普通だと言う主張を友人から聞き、キレると手が出るのは人としておかしいのではないかと思い始めた

この手の話を親にすると途端に不機嫌なり、烈火のごとくキレる

思えば自分子供の頃は兄弟喧嘩でも手が出るタイプであった(兄に言われもなく蹴られていたのでその反撃ではあったのだが)

ただ、この先子供もつと、自分も親のような人間になるのだろうかと思うと

子供を持つのが怖い

2019-09-24

anond:20190924134416

先生なのかな?

中学校では2011年に授業(not部活)での飛び込み指導禁止高校ではまだ禁止されてない。

2016年に都立高校飛び込み時に大けがした事故話題になったな。https://digital.asahi.com/articles/ASL4J5SMZL4JUTIL048.html

2019-09-23

まれからずっと女性とかかわることができなかった。

わりと、こういう人っていると思う。

田舎まれ

小学校中学校ともに同級生男子の数名。

田舎に残っても過疎った農業だけしかいか未来はないと言われて、高専入学

そこから工業系の会社就職

女子と隔絶した社会を歩み続けてきた。

収入はある。しかし、女子と巡り合わなかった。

出会い系サイトにでも登録したらいいのかと思ったがそういうわけではないようだ。

どうやったら恋愛ができる?

2019-09-22

ツイッターで幼少期に色々禁止されたら大人になってから反動がくる的な呟きを見かけて思い出した話。だらだらと書いたので文章汚いし長いけど、3連休暇つぶしにでもどうぞ...

小学生(多分3年生か4年生の頃)の冬休み前に任天堂DSが発売された。折りたたみ式で画面が上下ふたつあって、下の画面をペンタッチして遊ぶ。最初に某学年誌だかで写真を見たとき驚いたし、素直に欲しい!!と思った。私はそれまでゲーム機という物を持っていなかった。ゲームキューブゲームボーイも触った事がなかった。持っていなくても友達と遊べたし、別段興味がなかった。

けれどDSが発売されたのはクリスマス前で、友達は次々とDSを手に入れていった。クリスマスプレゼントで、お正月祖父母からお年玉で、学年末テストで頑張ったから、進級祝いで......学年が上がった頃には大半の同級生DSで遊んでいた。

私は持っていなかった。クリスマスもお正月も隙あらば両親にお願いした。けれど全部だめで、ならば貰ったお年玉で買おうとしたものの、両親にきつく叱られてお年玉ごと没収された。懸賞で当たれば文句は言われないだろうと考えて、いくつも応募したが見事に全部落ちた。(むしろ既に持っている友達当選していた)

両親はファミコンが発売された当時、成人していた世代のはずでも、2人ともファミコンを触った事はなかったらしい。そもそもゲームに興味が全くなかった。むしろ否定的

私が「みんな持ってる。持っていないと遊べない」と言っても、「みんなって誰?クラスの何人?」「ゲームばっかりしてるとバカになるよ」「ゲームしている子と遊ばなければいい」と跳ね返された。(後々、中学同級生携帯を持ちはじめ、部活の連絡手段メールしかない状態になり携帯を持ちたいと言った時にも同じ様な事を言われた。「中学生のくせにメール連絡網生意気(以下略)」)

当時の私にはその言葉絶望しかなかったし、せまい小学生世界で、ゲームをしている子と遊ぶなというのはひたすらひとりで過ごすようなものだった。今でこそ1人でも平気になったけど当時、いつも遊んでいた友達は遊ぶ時はみんなマイDSを持参して通信機能で対戦して遊んでいた。

私はその輪に入れなかった。画面を覗き込む事しかできなかった。覗き込んだ所で理解はできないし、友達にうっとおしがられるだけだった。

次第に放課後の遊びには誘われなくなった。持ってない奴と遊んでも楽しくないらしい。

学校ではどうぶつの森ごっこ流行った。(おままごと動物版のような感じ)私はキャラクターを知らないから、嫌われているorかわいくない動物役だった。どんなキャラクターか知らないので、なりきる事ができず、何か発言する度にダメ出しをされる。休み時間一緒にいるのがしんどくて、ひとり教室で本を読むしかできなかった。

友達に「なんで私ちゃんDS持ってないの?」と聞かれても「買ってもらえないし、なぜかゲーム禁止されてるから...」としか言えないし、普通にしかった。

中学校に入学する頃にはDSブームは若干おさまってって、据置型のwiiwii sports の板が発売されていた。大半の友達の家にwii があったし、それは一緒に遊ぶ事ができた。嬉しかったしとても楽しかった。ただ、使い方に慣れていない自分は、やはり足手まといになってしまった。確か同じ頃にMii流行った。友人達ゲーム内で勝手に私のアバターを作って遊んでいた。そして「私ちゃん、〇〇(クラス男子)と結婚したよ〜子どもまれたよ〜」とわざわざ報告してくれた。友人はゲームを持っていなかった私に疑似体験させてくれたのか...?そこまでならギリギリ許す(心が狭いので本当は許したくない)けど、「○○と付き合ったら?」とリアルで言われて流石に引いた...

かと言って、この状況がいつまでも続く訳もなく、中学3年生になる頃には再びブームは落ち着いた。

高校に進学して今日までは、ゲームを知らなくても何とかやっていくことができている。が、例え話でゲームの事を出されるとやっぱり分からない。(ポケモンのどれそれが何それ〜とか)そこでプレイした事がないのでその例えは分からない旨を伝えるとすごく意外な顔をされる。相手に悪気は一切ないし、国民的なゲーム(?)なのでまさかといった感じなのだろう。むしろこっちが申し訳なく感じる。(私の周囲には例え話にゲームの事を出す人が一定数いるので、他の方がどうかは分からない)一応自分でも調べるけど、付け焼き刃すぎてどうしようもない。まぁそれでなんとかなってきてるので多分今後もこんな感じだと思う。

ここまで書いてきて、そういえばたまごっちリニューアル発売してブームになった時も手に入れられなかった事を思い出した。ちょうどDSと同時期だったような気がする...。1人で3台も持ってる友人がとても羨ましかった。ここでも完全に蚊帳の外だった。思い出したらまた悲しくなってきた...

別に今更、両親の教育方針ケチをつけるつもりはないし、当時より多少は自由に生きてるけど、件のツイートを見かけてふと思い出したので書いて残したかった。

反動というか、今はスマホアプリゲームを慣れないながらもいくつかポチポチしてる。キャラクターストーリーがそれぞれ素敵なのでのんびり続けてる。育成したりするのはすっごく苦手だけど楽しいゲーム楽しいね。もっと早く知りたかった。

そんな訳で、長くてしょうもない話にお付き合いいただきありがとうございました。

2019-09-20

俺の陰キャラライフ

何が悲しいってここ数年で全く面白くない人間になってしまたことだ。小・中学校の頃はよく友達を笑わせていた。他人を笑わせるのが好きで好きでたまらなかった。だが高校に入り周りは知らない人ばかり。いつの間にか教室の端っこでゴニョゴニョ話すような奴らとグループを作っていた。こいつらは基本、他人陽キャ友達)を貶して笑いをとるスタンスだ。はっきり言ってつまらなかったがぼっちよりマシだろ?とくだらないプライド邪魔した。そして卒業するころには俺も立派な陰キャになっていた。

2019-09-17

後悔ばかりの人生

自分には何もない

生きていくのが辛い

今年30になるのに何一つ自分の中には胸を張れるような事がない

親しい友達もいなければ健康な体でもない

のめり込むような趣味も無ければお金も持っていない

ずっとひとりぼっち

小さい頃に両親が離婚してずっと祖母のところに預けられてた

兄弟がよく遊びに来ていたけど明らかに祖母や伯父の対応自分母親と違うのが子供心に苦しかった。

中学校はいじめにあって、でも黙ってやられるもんかと喧嘩ばかりの毎日だった

今思えばもうこの頃には人間不信だったんだなって

親しい友達なんてできるわけない

高校時代自分容姿コンプレックスでただただ早く終わってほしいと思っていた記憶しかない

大学生になって自分のやりたいように生きようと思った矢先に病気にかかって本当に何もない大学生活だった

なんとか社会人になったけど、残業続きで遊ぶ暇もない朝仕事に行って帰ったら寝て、土日は寝て過ごすそんな生活の繰り返し

そんな生活で一度は落ち着いた病気悪化して再発

ようやく病気にひと段落ついたと思ったら親の家のローンがほとんど全く返せていなかった事がわかってそれに貯金もつぎ込んでなくなった

気がついたらもう30

まわりの同年代幸せな家庭を築いてるのに私はまだ誰かに愛された事もだれかにしたこともない

そんな余裕一度もなかった

頑張ればいつかきっといいことあると信じて諦めずにここまで来たけど結局いいことなんて一度もなかった

ようやくいろんなしがらみから解放されたけどもうなにかを頑張る気力が残ってない

病気が再発して今度こそ死ぬ自分の心が折れて死ぬ

そのどっちが早いか

SNSで楽しそうな写真がアップされてるのを見るととても辛い

いいなぁ私もあんな風に生きたかったなぁ

2019-09-16

故郷を思い出したので自分語りしてみる。

ふと生まれ育った町の情景を夢で見て、多少思うところがあったので気持ちを書き留めようと思う。

静かな入り江からさな漁船が海の彼方へ消えゆくような、そんな夢だった。

最近よく見かける「田舎で非知識階層に囲まれて育ったけど、地元に馴染めずなんだかんだで都会に出てきて過去ホームタウンを思い返すたびに多少絶望する」という散文的な自分語りであることを先に断っておく。

ただの個人経験であり、エスノグラフィのようなものだと思って読んでもらえれば嬉しい。

この日記結論はこうだ。

かに東京人間想像することも出来ないような社会」が日本のどこかには必ずあって、学ばないことが規範と化して社会再生産されているということ。

自分東海地方の海沿いの寂れた漁師町に生まれた。

名古屋まで電車で1時間半以上、文化的施設といえば聞いたことのない演歌歌手がたまに来る小さな市民ホールと、小さな本屋が2軒あった。

2軒の本屋万引き被害額が大きすぎて自分が町を出た後に潰れた(跡地はセレモニーホールという名の葬式場になった)。

1時間に一本しか電車のこない駅から伸びるメーンストリートで今でも開いている店は、年金暮らし年寄り趣味でやっている畳屋と宝くじしか無かった。

街中でスーツ姿の人は見たことがほとんどなかったし、そもそも人が出歩いている記憶すらない。

家族母親と母方の祖母のみ。

高卒で一度も町からたことのない母親は、漁師相手にする場末スナックで働いて自分を育てた。

同じ町で漁師をしていた父親フィリピンパブ出会ったフィリピーナに入れ込んで、小学2年生くらいの頃に母親離婚した。

それより前には「キミの父親不倫をしているんだ」と小学校の同級生母親から聞かされた。

相手は近所に住んでいた太ったおばさんだったので、あんデブとなぜだろうとその時は疑問に思ったけどすぐに忘れた。

最後父親と会ったのは、父親が家を出て半年後くらいに小遣いをやるからと呼び出された紫煙で視界の悪い雀荘だったと記憶している。

その後は行方不明で、風の噂では今はマニラに住んでいるらしい。

こんな家庭環境は、東京自分が属するコミュニティでは聞かない。

なぜそんなことにわざわざ触れたかというと、自分の家庭は何も特別ではなく、周囲を見渡せば程度の差はあれどどこもそんなものだったから。

親が大卒同級生なんてクラスに1割も居たかという感じだったし、自分が通った地元中学校には200人くらい同級生が居たがそのうち大学に進んだのは20人くらい。

自分博士まで進んだが、マスターレベルですら聞いたことがない。

あとで詳しく触れるが、そもそも勉強をするとか考えること自体忌避するという一貫したスタイルがあらゆる局面通底していた。

さて、シングルマザーの家庭はクラスに3割は居たし、両親が揃っていても母親父親違いの兄弟姉妹が居るなんて話も珍しくない。

世代職業漁業水産加工町工場自動車修理で、小中学校教諭公務員の子息は格の違いを醸し出すスーパーエリートの家庭扱いだったし、家も小綺麗だった。

スーパーエリート以外は、トタンの壁が海風茶色く錆びて、汲み取り式のトイレから伸びる煙突の先がクルクル風で回っている文化住宅か、古民家カフェを思いきりボロボロにしたような都内なら廃屋だと思われるような家に住んでいた。

町工場に勤めている人たちで指が無くなったなんて話もよく聞いたし、どこそこの家が生活保護受給とかという話もよく聞いた。

クラスメートが学校を翌日休む理由が、その前に起こした暴力事件家裁に呼び出されているからとかもよくある話だった。

そんな彼らが余暇にすることといえば、スナックフィリピンパブギャンブルセックスくらいしか聞いた限り思いつかない。

かに、成人した兄がいる同級生の家に遊びに行った時には、真昼間から居間同級生の兄と派手な格好をした若い女性がセックスをしていたし、パチンコ屋には毎朝人が並んでいた。

ギャンブルパチンコ電話投票する競馬が主流だったが、甲子園の季節になると地元暴力団が元締めをする高校野球賭博流行っていた。

暴力団偽ブランド品も売りさばいていて、軽自動車スウェット姿だけど鞄は高級ブランド(偽物)という出で立ちの女性をよく見かけたものである

まぁこんな感じでつらつらと思いつくまま挙げてみたが、自分身の回りで溢れていたのは、キーワードでいえば貧困、性、暴力ギャンブルだった。

そもそも大人たちがそんなスタイルだったので、子供達も似たような社会フラクタル図形のように構成していた。

小学校の頃には駄菓子屋コンビニでの万引きが横行していて、後に刑務所に入るような子供たちはその時代からすでに盗んだタバコを吸って、やっぱり盗んだバイクに乗っていた。

暴走族(ゾク)に入って大人たちを殴ったり大怪我するほどのゾク同士の喧嘩をする中学生たちが小学生のヒーローで、ゲリ便が出る時のような音を撒き散らすバイクに皆憧れていた。

そんな時に暴力的な彼らは、異質な存在排除することが大好きで、異質とみなされた同級生は徹底的に排除された。

小学6年生のとき教室に入ったらメガネをかけている子が素っ裸で椅子に縛り付けられて頭にバケツを被らされていた。

メガネは弱いもの象徴で、勉強議論をするような人間排除対象だった。

文革かって感じ。

反対に、野球が上手いか、足が早いかケンカが強ければヒエラルキーの上部に君臨できる。

動物的に強弱を判別できることがそのままヒエラルキーの源となっていたし、意思合意感情とその時の雰囲気で決まっていた。

そして中学生になると、今度は成績が良い人が排除対象となる。

真夏に水を飲まずに走りこんで泣きながら試合に負ける部活に打ち込むことがすべてに勝り、もしくは非行に走ることがある種の中学生らしさであるというコンセンサスを伴って正当化されていた。

授業中には廊下自転車が走り、思い出した頃に校庭に暴走族野良犬があらわれる。

トイレにはタバコの吸い殻が落ちているし、たまに窓ガラスは割られていた。

教師はたまに殴られたり、殴り返したり、車を壊されたりしていた。

一方で登校している生徒にとっては、校則フーコーパノプティコンも真っ青な規律自動化させるもので、髪型男子坊主女子は肩まで。

他にも細かい校則がたくさんあって、破れば容赦無く教員から殴られる世界だったし、皆が一緒であることを望んでいたので、逸脱すれば容赦無く告げ口されていた。

校則を破らなくても、目立てば排除対象になりうるので、いつしか自分も誰かが見張っていると意識して、いかに溶け込むかを重視するようになっていた。

そして積極的に学んだり考えることが嘲笑対象であったので、そこでもやはりセックスしたことがあるかとか、バイク知識があるかとか、そういう分かりやす尺度ヒエラルキー構成されていた。

授業中に教師から指名されて小難しい答えを言ったり、発音記号通りに英単語発音しようものなら3日は真似をされてイジられるのは御多分に洩れず自分地元も同じだった。

テスト期間は早く帰れるので皆喜んで下校後に遊ぶレベル勉強に対する姿勢で、将来は男子工業高校女子商業高校に通ってそのあとのことは何も考えないのが一般的だった。

ここまでは自分ライブで触れた15歳くらいまでの環境の話で、せいぜい15年くらい前の話だ。

はっきり言えば、そのような環境はまっぴら御免だし、そんなところで自分の子供を育てたくはない。

ただ、地元の話は中々難しい問題はらんでいる。

ここからは冒頭に述べた「社会再生産」について触れたい。

さて、経緯は知らないが、自分幼稚園の頃にIQテストを受けた。

そのあとに、あなたの息子は知能指数が高いから相応の教育を受けさせてあげてくださいと園長先生から母親コメントをもらったらしい。

大学のことすらよく知らない専門学校卒の母親だったが、自分都内海外の全寮制の学校小学生のうちから預けようとした。

だが、当時の自分はこともあろうに泣き叫んで拒み、結局は地元に残ることを選んだ。

当時のことはよく覚えていて、理由友達と離れたくなかったから。

その時に知りうる限りの世界を取り上げられることに対する極端な不安が何よりも勝っていて、母親は息子の気持ちを優しくも汲み取って折れた。

ただ、結論からいえば、自分結果的に完全に故郷を捨てた。

小学校に上がった時、小1か小2くらいの頃から、本を読み始めた。その頃に三島由紀夫島崎藤村やら、古い作品から新しい作品まで縦横無尽に慣れ親しんだ。

早朝に登校して空いた時間や、ジャンケンで負けて押し付けられた図書委員時間図書室でひたすら本を読んだ。

そのうちに、自分生活する社会根本的に異なる社会、つまり学び、考えることが重要であるという社会存在することを知った。

哲学思想系の本はもちろんのこと、西洋美術画集建築写真集に心を揺さぶられたし、マーラーCDを初めて聞いた時の感動は死ぬまで忘れないと思う。

めちゃイケを好むふりをして、自分加藤周一の羊の歌に感銘を受けて、とりあえず東大に行こうと中学の頃には考えていた。

そして周囲に迎合しつつも高校に進んだ。いわゆる地方公立トップ校だった。

他にも理由はあったと思うが、中3の時には成績が良いという理由ものを隠されたり上履きにガムが入っていたこともあった。

通っていた高校地元から電車を乗り継いで1時間は掛かる。

入学から1ヶ月もしないうちに、明らかに新たな社会社会階層自分は組み込まれたと自覚した。

同級生の親の職業は、医者弁護士会計士大企業社員ばかりだった。

誕生日には名古屋デパートの上層階のレストランだったり、どこぞで伊勢海老を食べるだのとそんな話もたまに聞いた(成金的な家はあまり無かったけど)。

彼らの親は旧帝国大学出身はざらにいたし、兄が東大、今はオックスフォード留学中とかそんな話も当たり前にあった。

幼い頃からピアノバイオリン書道バレエスイミングなんかをやっているのがマジョリティだったし、週末に美術館やコンサートホールに足を運んだという話も決してレアな話ではなかった。

彼らと出会ってとかく感動したのは、好きだった本や芸術の話を初めてリアル人間とできたことだった。

そして何より彼らは、自身解釈や、見解を示してくれたし、自分のくだらない議論にも向き合ってくれた。

もちろん性やギャンブル暴力ワンピースの話もたまにはあったが、それ自体享受するだけでなく、思考対象としても話題を取り上げることががあった。

高校以来、自分は学び、思考する人しか存在しないかのように振る舞う社会に身を置き続けている。

今にして思えば、もっと早く外の世界に出た方が良かったのではと素直に思う。

ただ、当時の自分には、その選択肢はなかった。

なぜなら、受動的に与えられたその社会自分のすべてだったから。

母親母親であるように、生まれ育った社会は生まれ育った社会であって、代替がきかない。

自分たまたま自分が立っていた社会と違う社会を知りうるきっかけを子供の頃に得たから今があるのであって、その機を逃せば一生地元に居ただろう。

なぜなら、考えることや知ることを拒むことが規範となる社会では、外の世界があるということ自体を知りようがないのだから

自分は考えることも、こうして頭の整理をすることも好きだ。

パチンコ新台や、友達奥さん不倫をして旦那相手と殴り合いの喧嘩をしたとか、そういう動物的な話題を「それ自体」をただ消費する社会に少なくとも自分は興味がない。

もちろん、そういった社会自分経験したような)を否定する理由はどこにもない。

ただ、自分故郷を捨てたように、その社会に残るのは、その社会適応しきった人々である

有り体にいえば、将来の選択肢存在すら意識できないのが自分体験した社会であり、どのような選択肢があるのか獲得しようする営みそのもの封建的否定される強い構造を伴っている。

からこそ、自分田舎はいつまでも同じ姿を留めることに成功しているのだと思う。

もちろん、その社会自体が恐ろしいぬるま湯であり、外には異なる社会存在することを予期している人も稀にはいることだろう。

幼い息子を外の世界に出そうと考えた母がそうだったように、おそらくそれに気付いた時に自身好転させるにはあまりにも遅い場合が大半である自分は思う。

そして、自分は今更何があったとしても、地元の彼らと交流することはできないし、するつもりは一切ない。

それくらいに共通言語がもはや異なっている。

母はもう二度と戻ってくるな、お前の居場所はもうここにはないと電話口でことあるごとに言う。

一方で、開成筑駒から東大に進んだ都内組は何も捨てることなく、安定的自分が望んだ社会享受してその上に今も生活を営んでいる。

それは誰でもそうであるように、最後最後に拠り所となり得る自らの地域的なアイデンティティをきちんと持っているということである

自分依拠すべき地域地元)を自己実現と引き換えに失ったのであって、願わくば我が子には地元を与えるか、もしくは地元がなかったとしてもサバルタンとなり得ない思想的な土台を築いて欲しいものである

そして同時に、自らの強みは故郷がない事であり、海外に出ることも辺境の地に赴くことも、自分さえ許せば可能となり得る。

今朝の夢に現れた、小さな漁船はきっと自分自身だったのであろう。

anond:20190916130125

中学校と家の間に小さな個人書店があって、そこで立ち読みしていた。だけじゃなくて幾度か万引もしていた。

うちは決して裕福ではなかったけど、勉強とは関係なく趣味で読みたいSF作家文庫本を盗んでいただけだ。申し開きはまったくできない。

どうしてあんなことをしたのか今となってはわからない。

六畳間ぐらいの店内にぎっしり本棚が並んでいたあの店にとっては、利益が軽く吹き飛んでしまうような犯罪だった、と後年知ったが手遅れだ。

鋭い目をした年配の店主は、僕の行為に間違いなく気づいていた。それはそうだろう。考えなしに学生服を着たまま店に行っていたので、学校告発することも可能だったと思う。

でも、彼は何も言わなかった。

たまに罪滅ぼしのつもりで本を買うと、「本をしっかり読んで立派な大人になってくださいね」と、そのときこちらの目を見ずに言っていた。

就職して帰省したある日、その書店の前を通りかかるとガラス引き戸の内側からカーテンを閉められ、長いこと放っておかれた様子だった。

店は潰れた、店主は死んだ、と風の噂で聞いた。その後も風化が進むばかりで店は放置されたままだ。

今思えば、あの店には同規模の書店が必ず扱っていた(と大きくなってから知った)成人雑誌の類はひとつもなかった。

いつかたくさん本を買って恩返しして、そしてもし勇気があったら、昔の罪をすべて謝ろう、との思いはかなわなかった。

この世に取り返しようのない罪はある。私は死ぬまであの店に対する負い目を抱えて生きていくのだろう。

2019-09-15

野球サッカークラブの子供へのパワハラ

中学校が家のとなりなので、

毎週日曜に校庭借りて野球教室やってる声がすごいきこえてくるんだけど、

子供相手コーチ大人ヤクザみたいでびびってる。

ちんたらやってんじゃねーよタコ!とか、ばーか!!、くそったれ!とかざら。

バカなんでわかんないんでしょうね、ばーか!ってメガホンで聞こえてきてビックリしてこれかいてる。動画もとった。

あとで中学校電話してみるつもり。

やらされてるなら帰れよ!かえれかえれ!とかも聞いた。

これはまだ許容範囲なのか?パワハラじゃないならなんだ?

罵詈雑言を日曜の朝から聞かされるのも耐えがたいが、何より子供へ悪影響としかおもえない。

こんなの保護者いたら言えないだろってガラの口調で、てめぇ~~よぉ~!!どこみてんだよぉぉー!とかわめいてる。

うちは兄弟体育会系がいなかったのでこれが世の中の体育会系男子たちには当たり前なんだろうなと思わされるが、あまりにひどい。こどもに柄が悪いのが移るぞ。

他の曜日サッカー教室なんだけどそのコーチも大概ヤクザみたいな口調。こっちは甲高い声でねちっこく嫌みをいいつづける系。親はちゃん教室をこっそり覗いた方がいいよ。

こんなの絶対習わせたくないが、日本人野球大好きだからみんなこぞってこんな体験子供にさせてるんだろうね。ゾッとする

中学生の頃に友達勉強を教えたことがあった。

https://anond.hatelabo.jp/20130809115823

これを読んで昔のことを思い出したので吐き出す。

僕は地方出身大学進学と共に東京に来てそのまま東京仕事をしているが、中学生とき低学歴の世界高学歴の世界の溝を感じた時の話。

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中学生の頃に地元友達勉強を教えたことがあった。

僕が勉強を教えた友達Tは小学校から同級生中学も同じだった。田舎ではよくあると思うが小学校中学校は家から近い公立校に通う人がほとんどで、そもそもそれ以外の選択肢があるのかはよく知らない。

Tの母親スナック経営していて、父親は何の仕事をしていたかは知らないが見た目はパンチパーマにゴツい金のネックレスをしているような明らかに普通の人ではない感じの風貌だった。Tは小学生の頃から金髪で緑のランドセルを持っていてなかなかに個性的だった。いわゆるDQNな家庭だったんだと思う。

Tは学校の成績はダントツに悪かったが、PCとかゲームにはめちゃくちゃ詳しくて、Winny音楽映画ゲームをひたすらダウンロードしたり、ゲームボーイのマジコンを買って色々なゲームを入れたりしていた。小学生のころからよくゲームをしにTの家に遊びに行っていて、中学生になってからはTママスナック営業時間外であればカラオケをやってもいいと言ってくれていたのでよくTママスナックに入り浸っていた。Tと一緒に遊んでいた他の友達には不良っぽい奴らもいたが、Tは見た目こそ不良っぽさはあったが体は細くて華奢だし暴力的なことは何もなかったし、どちらかというとオタク気質タイプだったと思う。

その頃Tも含めた何人かの友達と僕は同じ美容院に通っていた。そこの美容師の人はちょっと意識高い系な感じで、一時期「次のテスト目標の点数をとったらご飯を奢ってあげる」というのを言ってみんなで勉強しようとなっている時期があった。中学生の僕らはまだ純粋で感化されやすかったので僕もTも他の友達モチベーションが高まっていた。

その美容師の人から「Tに勉強を教えてあげなよ」と言われたことがきっかけで、僕の家でTと2人で勉強することになった。

TはPCとかゲームに詳しいことを知っていたし理系の方が好きそうだったのでその日は理科をやることにした。僕が持っていた教材の中から簡単そうな単語を埋めるだけの小テストが載っているページを選んで「まずこの10問を答えを見ずに全問正解できるようになるまで何回もやろう。途中で分からなかったらすぐに答えを見ていいから。」って決めてやってもらうことにした。

最初ちゃんとやってくれるか少し不安だったけど、Tはすぐに静かになって集中し始めた様子だったので僕は安心して自分勉強をしていた。

そこから2時間くらい時間が経って「全問正解できた!」とTが言った。その時のTはすごく嬉しそうな表情をして「勉強っておもしろいね!」と言ってたのがめちゃくちゃ記憶に残っている。

結局3時間くらい一緒に勉強して、Tはめちゃくちゃ疲れた様子だったのでその日はそこで終わりにした。

Tの集中して勉強をしていた様子を見て、ちゃん勉強すればもっともっと伸びるのにと思った。その日にやった問題簡単ものだったし3時間もかけてやるのは遅すぎるのかもしれないが、Tはまだ勉強のやり方を知らないだけだし進みの大小は関係ない。

そこで別の日に僕は「同じ塾に入って一緒に勉強しようよ」とTを誘ってみた。Tは勉強面白さに気づいたからか乗り気になってくれてまずはTママに聞いてみることにした。Tママは少し困惑した様子ではあったけど否定はせず「お父さんがいいって言ったらいいよ」と言ってくれた。

その日たまたま父親がTママのお店に寄ることになっていたようで、そのままの流れで一緒に父親にお願いすることにした。Tママの反応が悪くなかったこともあり、きっと父親OKしてくれるだろうと期待していた。

しばらくして父親が来て、Tは父親に向かって「塾に行って勉強したいんだけど」と言った。

その父親はすぐに「塾~!?お前が勉強なんかしてどうすんだ!バカバカなりに生きろ!」と一蹴し、いそいそとまた出かけて行った。

しばらく僕もTも呆然としていた。

その後TやTママと何を話したのかはよく覚えていない。

その一件があってから僕とTが2人で勉強することは一度もなかった。

その後Tは地元底辺高校に進学した。

高校に行ってからは付き合う友達も変わったのもあり疎遠になり連絡を取ることはなくなったし、高校生の間に2~3回くらいしか会わなかったと思う。

それから数年後、成人式に出るために地元に帰った時にすごく久しぶりにTに会った。いま何してんの?という話になり「東京大学に行ってるよ」と話すと「東京大学って東大!?」みたいな冗談を言っていた。その他はあまり覚えていないが、たわいもない話しかしなかったと思う。

それからはいまTがどこで何をしてるか全く知らない。

---

Tの父親に塾に行かせてもらうようにお願いをしたときそもそも勉強したいと言って親が止めることなんて有り得ないだろう」と僕は楽観的に考えていた。当時の僕は自分が恵まれ環境にいる事に気づいたおらず、自分環境だけの当たり前を「世の中の全ての人の当たり前」だと思い込んでいた。

しかしそうではない現実にあの時初めて直面した。

バカバカなりに生きろ」

僕に向けてそれを言われたわけではないが、この言葉は僕の中に今でもずっと響いている。

Tは勉強のやり方を知らないだけだった。僕がTに教えたのは「答えを暗記すれば問題に正解できる」という極めて当たり前のことだった。

どんなに苦手な科目であってもひたすら答えを暗記すれば比較的短時間で80点くらいは取れるようになるというのを僕は自分経験から知っていた。それと同じことを学校先生も教えてはいるんだろうが、Tはそれを理解することも実践することもなかった。

それはTの能力が低かったかなのだろうか?

たった3時間程度でさえもそれができるようになるまで付き合ってくれる人が周りにいなかった。

問題を正解できてもその達成感を分かちあえる人が周りにいなかった。

勉強をやろうと言ってくれる人が周りにいなかった。

そして偶然勉強面白さに気づくチャンスがあった時に「勉強をしてみたい」という気持ちサポートしてくれる親がいなかった。

TはゲームCDをたくさん持っていて新しく発売したものもすぐに手に入れていたし、塾に行かせてくれなかったのは経済的問題ではなかったと思う。

Tの親はブランド物や貴金属お金をかけたりゲームおもちゃはいくらでも子どもに買い与えていたが、塾に通うための1〜2万円を払ってくれることはなかった。

---

自分にはTに低学歴の世界高学歴の世界の溝を越えさせることはできなかった。

しかし仮にあの時に塾に行けたとしてもただ挫折させるだけの結果になっていたかもしれない。僕も結局Tのサポートをいつしか諦めてしまったわけだし、そこまで強い気持ちでTに勉強をさせたいというわけではなかったんだと思う。

誰かの人生選択責任を持つことなんて到底できないし、ただただ未熟な中学生の身勝手な思いつきでTを振り回してしまって申し訳なかったとも思う。

彼が本気で勉強をしたいと思ったなら塾に行かなくても勉強はできるし、父親に何を言われようと行動をしていたはずだ。

でも、だからといって行動することを本人のやる気だけに求めるのはあまりにも酷すぎる。

高学歴の人であっても強い意志を持って人生選択をしてきた人が果たしてどれだけいるだろう?

僕は偏差値60くらいの理系学部卒業した。東大京大海外大学を出ていたり博士号まで取得した人などと比べれば個人的にはとても高学歴とは言えないが、日本全体で見れば僕も高学歴に分類されると思う。

そんな僕が勉強をやり始めたきっかけを考えると、勉強をしなさいと親に言われたからやっただけだった。兄弟が塾に行っていたからという理由で親に言われて同じ塾に通い始めただけだった。

いつしか勉強をすることが自分事になり自発的勉強することができるようになったが、最初きっかけは親に同調しただけだ。そこに「高学歴の世界に行く!」なんて強い意志なんか一切存在していなかった。

高学歴の世界」にいる人たちは自分の強い意志があったか勉強をして大学に行ったのだろうか?

Tと同じ環境にあったとしたら果たして同じように高学歴の世界に行けたのだろうか?

僕は今エンジニアとしてIT企業で働いている。周りには高学歴で優秀な人がたくさんいる。

もしTがあれから勉強を続けてプログラマーになっていたとしたら、この世界を知っていたら、彼はどうなっていたのだろう。

今でもたまに当時のことを思い出す。

地元にいるとしたら田舎結婚するのが早いし、もしかするとTには子どもいるかもしれない。

この先Tが自分の子どもに「塾に行って勉強したい」と言われたら彼はその子に何て言うんだろう。

あの日のTの父親と同じように「バカバカなりに生きろ」って言うんだろうか。

もしそんな日が来るのであれば、Tは彼の子どもには違う返答をしてくれると信じたい。

2019-09-14

ネットで知り合ってたまに連絡とる人に、友達と揉めたり合わないと感じたらすぐ縁を切る人がいる。

これまで色々と友達愚痴を聞いていた。

また最近縁を切ったらしくリアルの友人関係ゼロになったか友達が欲しいと言っていて、潔さはいいと思う反面、我慢耐性がなさすぎると本人に問題があるんじゃと思うけど言えない。ニートから人と出会う機会ないらしい。‬

ニートじゃなくても社会に出て友達って増える?まだ小学校友達中学校友達と遊んでる

2019-09-12

anond:20190912182018

デマの原点や実際の事件より

中学校にいるクラスのお調子者とか

近所のスピーカーおばさんが一番迷惑みたいな話だもんな

それを地域レベルでやってたら、そら有罪よな

サカナクションについて語る

こんなタイトルしましたが自分語り殆どです。ツイッターの裏垢に書くにも長すぎるのでここに失礼します。乱文ですが読んでいただけると嬉しいです。

サカナクションが大好きだ。敬愛している。とはいえども2018年の秋にハマった新参者である。それまでは「サカナクション新宝島しか知らない」人のうちの一人だった。

初めてサカナクションを見たのは多分小学生の時、「ミュージック」をテレビ演奏していたところをチラっと見た。機械とか使ってたけど子供には正直なんだかよくわからなかったし、まあまあ気になったけどタイトルとか調べるすべもなかった。2回目は映画バクマン。」の主題歌新宝島」が大ヒットした時。私は当時T-SQUAREに興味があった。「好きな曲は何ですか?」という質問に「宝島」と回答したところ、中学校先生に「あ〜あれね。サカナクションね。先生も好きよ。」と言われて反応に困ったことがある。それくらい当時サカナクションには関心がなかった。「ミュージック」を覚えてなくて、「新宝島しか知らないのだから当然である

3回目でやっとハマった。高校2年生、家族の影響でサカナクションを聴いて育ったような友人に何度もオススメされ、5回目くらいでやっと聴こうという気になった。何から聴けばいいかからなかったので、とりあえずその人のLINEプロフィールに貼ってあった「ストラクチャー」を聴いた。初めて聴いた時の感想は「うわ気持ちいい」。とりあえずそのまま「sakanaction」を流し再生していたら「ミュージック」と奇跡的な再会(と勝手に思っている)を果たしてびっくりした。プンププンップップップップップップンプというイントロが聴こえた時「マジで?」と思った。感動した。そのまま他の曲を全部聴いた。

私の友人はオタクが多かった。バンドをはじめ、ジャニーズアニメ、韓ドル舞台俳優マンガなど、夢中になれるようなコンテンツがあるのは心底羨ましかった。ライブコンサートに行ってきた次の日の、友人のうれしそうな表情がとてつもなくかわいかった。さっきまで信じられないくらい落ち込んでたり、怒ってたのに、推し動画を見たら機嫌を直して勉強し始めてるのが不思議だった。「いやそんなことある?」と思っていた。今ならわかる。もうサカナクションなしでは生きられない。

サカナクションの曲は全部「サカナクションぽいな〜」とわかるのに、「似たような曲だな〜」とはあまりならない(mellowとナイロンの糸など、派生させた曲もあるが)(あれライブとかで繋がって流れたらめちゃくちゃよさそうだな〜と思う)。でもメロディーラインだけ見たらちょっと似てるときもある。サビはほとんどの曲で1オクターブくらい上がる。清水ミチコさんの「サカナクション作曲法」にもあるようにヨナ抜き音階結構ある(でも無作為だと思ってるけど、どうなんだろう、山口さん教えてください)。全部すごい別の曲。コード進行が凝っているからだろう。めちゃめちゃに凝っている。7thも9thも12thも、その展開形もめちゃめちゃ使われる。もうめちゃめちゃ難しい和音とかある。けど全然重くない。基本形などのシンプル和音とのバランスが良い。使うタイミングがよすぎるしチョイスのセンスがやばすぎる。試行錯誤を繰り返し繰り返し完成された神バランスものすごい努力の結果の激良音楽。何を食べたらあんなにすごい曲が作れるんだろう……

ハマりたての時に思ったことは、「山口さんの声は楽器みたいだな〜」ということ。サカナクション音楽山口さんの声の、良さ。ほんとよすぎる、、、

もっちギタープロみが感じられてめちゃめちゃにかっこいいし、エジードラムは心にダイレクトに伝わる。ねえさんのベースはとにかく気持ちいいし気持ちいい。ザッキーシンセDNAに素早く届く。

あーはやくライブに行きたいな。もうほんとにサカナクションが好きです。

2019-09-11

教育委員会は大ウソつきらしいので

これからはいじめ推進にしていったらいいんじゃないかな。

いじめても守ってもらえるということなので。

いじめ推進!やられたら徹底的にやり返せ!!!

を全国の小中学校スローガンにしちゃえ。

高校はある程度勉強して普通学校行けばあからさまないじめ(暴力恐喝など)はないかスローガンから除外。

2019-09-10

教育委員会は嘘つき」か?

また一人が自殺という傷ましい結果に向かう出来事があった。その発端に「いじめ」があったことは、おおむね事実と考えたい。その上で、各社が見出しにしているこの文言、そして取扱方は全くフェアではなく、ハッキリ言って問題解決には何の役にも立たないどころか有害であると私は思う。

まず、記事引用

教育委員会は大ウソつき” 15歳男子生徒が自殺 埼玉 川口2019年9月9日 18時16分:NHKニュース

埼玉川口市の中学校に通っていた当時いじめを受けたとして、自殺未遂を繰り返していた15歳の男子生徒が、8日、自殺したことが分かりました。いじめについては、市の教育委員会調査を進めていましたが、生徒の部屋には、「教育委員会は大ウソつき」などと書かれたノートが残されていたということです。

関係者によりますと、8日の未明埼玉川口市の小松田辰乃輔さん(15)が市内のマンション敷地内で死亡しているのが見つかり、屋上から飛び降りたとみられるということです。

小松田さんは中学1年生だった3年前、部活動の先輩や同級生から悪口や仲間はずれなどのいじめを受けたと訴えましたが、学校対応失望し、自殺未遂を3回繰り返したということです。

その後、おととし11月になって、市の教育委員会第三者委員会を設置し、いじめ調査を進めていました。

中学校卒業した小松田さんは別の学校に通っていたということです。

自殺したあと、小松田さんの部屋から見つかったノートには、「教育委員会は大ウソつき。いじめた人を守ってウソばかりつかせる」と、教育委員会対応批判する内容が書かれていたということです。

川口教育委員会指導課の三浦伸之課長は、「本人への聞き取り要望していたが、話せる状況にないということで実現していませんでした。教育委員会への不信感を訴えて自殺したことを重く受け止め、対応問題がなかったか確認したい」と話しています

教育委員会は大ウソつき」

小松田辰乃輔さん(15)の自宅の部屋には、市の教育委員会対応への批判が書かれたノートが残されていました。

ノートには、「教育委員会は、大ウソつき。いじめた人を守ってウソばかりつかせる。いじめられたぼくがなぜこんなにもくるしまなきゃいけない。ぼくは、なんのためにいきているのか分らなくなった。ぼくをいじめた人は、守ってていじめられたぼくは、誰にも守ってくれない。くるしいくるしいくるしいくるしいつらいつらい。ぼくの味方は、家ぞくだけ。くるしいつらい」と書かれていました。



そう考える理由

まず、この生徒と教育委員会は直接面談できていない。

課長「本人への聞き取り要望していたが、話せる状況にないということで実現していませんでした」

どんないじめ事件であっても、片側の言い分だけで解決することは難しい。周囲から意見も、バイアスがかかるので参考程度にしかならない。あくまで「本人」から聞き取り必須の要素である。もちろん、保護者はしばしばそう考えない。それは「ウチの子が嘘を言うわけはない。それはずっと育ててきた私たちには分かる。この子には問題などない。実際いままでは問題なかった。なのに今この子がこんなに苦しんでいるからには、周囲に問題があるはずだ。」と、そう考えるからだ。

だが、教職員、あるいは教職員出身教育委員会事務局関係者はそうは考えない。どんな子も状況次第で嘘をつく可能性はある。その子をずっと育ててきてはいないとしても、何十年にわたって同年代の子供を千人以上見てきた経験からそれは言える。問題の無い子などいないし我が子を過信しない親というのもまずいない。これまで他との関係性の中では起きなかった本人自身問題が、別な関係性の中で発現することも充分あり得る。場合によっては、そのことを直視自己問題(それは保護者との関係性の問題である場合もある)に気づくことが本人の成長に必要なことさえある。だから、苦しんでいること自体はその子の非責任性(その子責任がないこと)の証明にはならないし、いずれにせよ、周囲に問題あるかないかも含めて本人への聞き取り必須だ、と考える。教育職のプロフェッショナルなら、誰しもそう考える。

そして、それを阻害していたのがおそらく保護者だ。

本人「ぼくの味方は、家ぞくだけ。」

この家族は、生徒本人に「味方」と認識されていたとのことだ。それ自体は間違っていない。結果として防げなかったとしても、味方がいると信じさせることが命を救うこともある。だが、「生徒から味方と認識されること」は重要だが、それは「自分たち以外の全てが敵だと認識させること」とイコールであってはならない。家族は、問題を適切に解決に導けるよう、教育委員会と協力して問題にあたることが必要であり、可能なら、自分たち利益に沿って動いてくれると信じられる適切な第三者(たとえば代理人としての弁護士)をたてて交渉した方がよかった。教育委員会立場上、加害者とされる生徒も含めて「両者の利益を最大化するように」動くのは当然であって、何ら問題ではない。教育委員会が、真理を解き明かす(捜査能力のある)機関でもなければ、罰を下す(司法機関でもなく、教育を通して社会全体の益を最大化するための機関である以上、それは当然のことだ。そのためには、当然「いじめた側」の話を聞き取る必要もある。当然ながら、それはあくまで「片側」の聞き取りに過ぎないから、話半分にしか聞かないし、「いじめられた側」に「~と言っているがどうですか」と聞くのは、単に双方に対する事実確認以上のなにものでもない。にも関わらず、

いじめた人を守ってウソばかりつかせる。

というような受け取り方をされるのはどういうことか。生徒本人と会えていない以上、これは、保護者がそういう伝え方をしたと考えるしかないわけだが、「いじめた側」の言い分を聞くことが「相手に味方することであり利敵行為だ」と捉えるような見方保護者がしていたのでは、事態解決に向けた健全な協力関係を作っていくこと自体が難しい。

そのような状況で、教育委員会への不信を連ねた(極めて一方的な言い分を)書き連ねた遺書見出しに掲げることに、一体どのような意味があるだろうか? 上記を踏まえれば、教育委員会が「嘘をつかせた」というのは明らかにおかしい上に、教育委員会はそんな嘘をそもそも「信じていない」可能性の方が高いだろう。問題は、あくまでそのような状況における教育委員会家族の協力を台無しにさせたそのような敵対的関係であり、ではそのような敵対的関係を作り上げたのは何かと言えば、このように不安を煽るマスコミセンセーショナリズムがその一因ではないのか。

もちろん、教育委員会の極めて「お役所対応」が保護者の不信感を買うことも、事態の一つの側面ではあろう。その点については、できることは重々反省した方がいい。しかし、この件で教育委員会対応に特段の問題があったようには自分は感じない。強いて言えば、なんとか家族を説得して、生徒本人と経験豊富指導主事なりが対話できればよかったが…という位だ(それができなかったからこうなったのだが)。それができたら生徒は死ななかったのか、と言われれば、私は「おそらく死ななかった」と答えよう。直接会えば、生徒も「教育委員会の人も敵ではない」ということを理解できた可能性はあるからだ。教育委員会の人も「僕を守る人」だということを理解できたかもしれないからだ。これは、家族批判しているのではない(そんな死体蹴りがしたいのではない)。家族(と本人?)をここまで頑なにさせてしまったのは何か、という話だ。

ぼくをいじめた人は、守ってていじめられたぼくは、誰にも守ってくれない。

そう思わせたのは何なのか? 学校教育委員会が100%悪? それでいいのか?

そもそも自殺した」ことをもって、その人を全肯定する理由とはならない。たとえばマスコミは、この生徒の「いじめられた」という主張が実はいくらか大げさであり、周囲の生徒から困惑コメントに対して「あいつらは嘘をついている」と意地を張りたい生徒があてつけで自殺未遂を繰り返した、みたいなケースについては想定したのか。そのような場合であっても、同じような見出しを付けて教育委員会問題を指摘するのが適切な報道と考えるのか。いずれにせよ私は、このような形で自殺した生徒について大げさな報道を繰り返すのは、そしてその後についてはまともな調査報道もしないというのは、ただのセンセーショナリズムでありゴシップ誌の発想でしかなく間違ってもジャーナリズムではないと考える。


事実というのは、そんな単純に善悪を切り分けで説明できるものではない。少なくとも、このような事件に絡んで「教育委員会が悪いから生徒が死んだ」という極めて単純なストーリーしか描けないとしたら(言い換えれば「教育委員会を罰すれば問題解決する!」とか思うのは)、それは単純な正義感を振りかざす危険人物であり報道だと思う。

息子が発達障害衝動性が高く加害傾向があった

ズンズンがギィーするのをとめられないママ「子供が誰かを傷つけたとき 傷つけた本人もその親も 実はすごく傷ついているんです」

加害する傾向がある子供を育てた親の育児談がまじで辛い…「これは言われても納得できないかも」の声も

息子は発達障害だった。小さい頃に近所の公園に何度か行った。お母さんたちのグループ挨拶して仲良くできれば…とは思ったけどだめだった。

いつもいつも息子が誰かを叩かないか怪我させないかとヒヤヒヤしていた。後ろをずっとついてまわった。お母さん同士で話をするなんてできなかった。

結局、何度か謝った末に、自分たちが歓迎されていないことがなんとなく解って公園には行かなくなった。夕暮れの人がいない時に遠くの公園にコソコソと歩いて行った。

息子は何度言い聞かせても何度真剣に怒っても他害が治らなかった。すぐ誰かを叩く。すぐ誰かを押す。言葉が遅いと指摘されていた。

何か伝えたいことがあるんだろうとは思うけどそれが出てこない、かわり手が出る。

行くようになった保育園で、保育士に「しつけができていない、しつけぐらいしてください」って言われた。

他害があると相手の親御さんに謝りに行って二度とさせませんと言う。嘘になるかもしれない、またすぐやったらどうしようって思いながら平謝りした。

でも保育士は味方にしないといけない。にこにこして何かあったらすぐ対応します、病院に行って診断してもらいますちゃんします、がんばります、って何度も言いながら何度も謝った。

息子がたまたま怪我して動転して救急車を呼んだ次の週に、私の怒っている声が大きすぎたのか近所の人に通報された。救急車がまた来た。近所の人達に見られまくった。虐待を疑われて色々警察の人に聞かれた。

怒りがすごかった。だったらお前らがこいつを何とかしてくれよって思った。

いっそ死のうと思ったけど息子がかわいい。息子は何故かものすごくかわいかった。よく怒っていたけど、同時にすごくかわいかった。優しいところもたくさんあった。抱きしめるとすごく幸せになる。でも言うことは聞かない。

育児書や発達障害関係の本もたくさん読んだ。色々としたけどだめだった。八方塞がりだった。

ママ友なんてできなかったし、作らなかった。潜在的な敵だと思っていた。排除してくる親も時々いた。

出来るだけニコニコして謝り続けた。よく無視されたし嫌なことも言われた。今でも覚えている。

スーパーでは手を振りほどいて一直線に走っていく。お母さんの手をおとなしく握って、一緒に歩いているよそのお子さんが羨ましかった。

迷子になった息子を連れてきた店員に、子供も見ないで買い物しているんですか?となじられてからは、深夜に夫に息子を見てもらって買い物に行った。

何度も子供が一人でウロウロしていたら店員が言うのは仕方がないことだろう。生協が助けになった。

幸い、夫がたくさん話しを聞いてくれて、一緒に謝りに行って、一緒に先生と話をしたり、ずっと努力し続けてくれた。

夫も癖がある人で厳しすぎたり甘すぎたり、私ともよく育児の話で意見割れた。でもいつも必ず味方になってくれた。夫が私と息子を支え続けてくれた。

から心中しなかった。夫がいなかったらどうしていたかからない。

その後小学校中学校と、ずっと他害やいじめなどのトラブルが起きて何度も謝りに行き続けた。放課後電話がかかってくると動機が激しくなる。

毎月のように先生トラブルの話を聞いて、相手保護者電話で謝って、ご自宅を訪問して子供とともに菓子折りを持って申し訳ありませんと謝る。

もちろん被害者になったこともあった。お互い様です、謝罪もいいですよこれからも仲良くしてくださいねといってくれる人もいた。

育児は終わらない。

先生保護者、色んな人達に謝り続けた。色んな人がいた。

優しい人、理解しようとしてくれる人、息子と仲良くしてくれる子、口先だけいいことを言う先生差別してくる先生おかしなことを要求してくる保護者いじめごまかそうとする保護者。色んな人がいた。息子もそれを目の当たりにした。その都度家族で話し合った。ちなみにLINEで謝ってくる保護者はほぼクソです。これは本当です。

私と夫はこう思うようになった。

何年かあとに息子が独り立ちすることが、我々の目的だ。今のトラブルは処理していくしかない。周りの人に迷惑をかけていって申し訳ない。理解してもらえるとは思っていない。平謝りして許してもらうしかない。私達は息子のために防波堤になって謝るしかない。息子ももちろん自分したことは謝らないといけない。どうしても許してもらえなかったり排除されたら、夫の実家引っ越したり学校を変えていくしかない。大きくなるまでずっと我慢し続けよう。年をとって発達障害と息子が付き合えるようになるまで、親はずっと我慢しよう。

息子も投薬が始まり診断や心理士カウンセリングを受けたりいろんなサービスやいろんな支援をしていただいた。がんばるしかない。

年月を経て、天使のように可愛かった息子も大きくなった。高校大学と進んでいった。

息子は自分に自信がなかったり、若干友人が少なかったりと二次障害的な部分も少しあると思う。

私が悪かった、あの言動虐待ではなかっただろうかと悩むことも多い。私みたいな人間が親じゃなかったほうが良かったのではないかと今でも時々思う。

私は息子に何かしてあげれただろうか。わからない。

でも多分ずっと息子と過ごした嵐のような日々は、たかもの…と言いたいけどもう二度はむりだ…むり…。でも息子は大好きだ。

これから楽しいことを探して生きていってほしい。長生きしてほしい。ずっと笑っていてほしい。

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