はてなキーワード: 妙法蓮華経とは
1.創価学会系とは
創価学会は日蓮正宗という仏教の宗派の教えを受けた団体だった。
しかし後に関係性にひびが入り最終的に袂を分かつことになった。
なお創価学会・顕正会共に日蓮正宗から破門されたという事になっている。
それは日蓮正宗の教えを正しく守らなかったからと言われている。
創価学会名誉会長の池田大作氏と日蓮正宗総本山大石寺の日顕氏が対立したことが原因とも
言われている。
日蓮正宗自体は、日蓮の弟子の日興という人が日蓮の教えを受け継いで開祖した。
この日蓮の弟子たちは日蓮六老僧と言われたが、日興以外の5人は日蓮の教えを
正しく守らなかった、日蓮の教えを捻じ曲げたとして
これが数百年前の事件。
創価学会及び日蓮正宗では、日興以外の老僧たちは教えを守らなかったとして謗法である
としている。
そのため日蓮六老僧ではなく日興を除外した上で日蓮の文字を頭から外し五老僧と読んでいる。
3.日蓮宗
どんな教えを守らなかったと言うと例えば日蓮は神仏習合は間違いだとして
「鳥居をくぐらない」というようなことをしていた。
しかし日蓮宗はそれでは柔軟に対応が出来ないとか時代の流れと反目するとしてそのような
教えは撤廃した。
また、日蓮の思想自体を危惧した一部の権力者から弾圧されたときに自分たちは日蓮の弟子
ではなく天台宗などと嘘をついたことなどで日興から批判を浴びたとされている。
なおこれを五老僧たちは、弟子たちを守るために行ったとされるが真偽は定かではない。
元は天台宗で勉強をしていたが、後に釈迦の最高の教えは法華経、すなわち妙法蓮華経という経典
が最も素晴らしくこれこそが全ての仏教の原典(原点)のだとして天台宗から離れて行った。
創価学会系の人が言う「南無妙法蓮華経」とは「妙法蓮華経」の教えに「帰依」しますという意味になる。
そして妙法蓮華経という釈迦の最高の教えがあるのだから今こそ仏教は原点に戻るべきという
これが元になって佐渡に流罪されるなどのいわゆる法難というものにあっている。
が、法難にはあったものの生き長らえたことで法華経の教えこそが正しいものであると一層主張するようになった。
5.妙法蓮華経って何なの
仏教の開祖である釈迦の教えをその弟子たちが編纂した経典。つまり最も古い歴史を持った仏教経典。
釈迦の教えとは釈迦が悟りを開いたことで幸福の境涯に達したことを他者にも分け与えることを目的としている。
これらの釈迦の教えは時代とともに変化していったことで、今日の仏教は様々な宗派が分かれている。
なお創価学会では法華経二十八本のうち、方便品第二(ほうべんぼんだいに)と如来寿量品第十六(にょらいじゅりょうぼんだいじゅうろく)
を特に素晴らしい物であるとして、朝と夕に題目と合わせて唱えている。
6.釈迦って何なの
インドにあったとされる釈迦族の王子。本名はゴータマ・シッダールタ。
出家して数々の過酷な修行をした後に最終的に菩提樹の下で瞑想をして悟りを開いた。
この悟りとはあらゆる苦しみを克服し、あらゆる煩悩を消し去った最高の境地とされている。
しかしこの悟りについて他人に教えることはかなり難解であることから当初は躊躇したが
最終的には自分の教えで悟りを開く手助けになるのならと教えを広めた。
創価学会側の主張は日顕氏が池田大作氏に嫉妬して破門したから。
なお、一番対立があったのは、かつて大石寺という寺にあった、総本堂という物を
この建物は創価学会の信者からのお布施数百億円かけて作った物だったが
それを数十億円かけて解体したという日顕氏は謎の行動を起こした。
維持費がとんでもないものだったので解体したとも言われているが真偽は定かではない。
創価学会は広宣流布という日蓮の教えを広めるためには政治への参加が不可欠として立ち上げた政党。
しかし政教分離という観点から創価学会そのものがあってはならないという事を指摘されたために
現在は創価学会が支持母体となって公明党があると言った状態になっている。
日蓮の教えを守り、世界中に広宣流布して世界平和を目指している。
創価学会のSGIというのは創価学会インターナショナルであり、国際的組織となっている。
数々の国に支援を行っており、それはグラフSGIという書籍から知る事ができる。
関連した物に大白蓮華という書籍やら人間革命といった書籍も販売している。
また、聖教新聞社は創価学会の教えを広める会社であるし。公明新聞というのは公明党の新聞である。
一部の過激な信者がやらかしているというのは真実であり創価学会側も認識している。
しかし、創価学会は3代目までの会長、つまり初代牧口常三郎、二代目戸田城聖、三代目池田大作
までを特に崇めているような部分があるためこれはやはりよくない傾向である。
かつて池田大作氏は折伏大行進なることを行い、行列となって沢山の家に大して創価学会に入るように
説得をしまくったということがあった。これが大きな反響というか問題を大きく引き起こしたのも事実である。
だがこのような行為をしたことで信者が増大したというのもある。
11.お前はなんでそんなこと知ってるの?
教学試験とかいう創価学会の試験があってその試験を受けさせられて合格した。
更に牙城会だとかいう創価学会の警備員的な組織に親父に強制的に入れと言われた。
御書(日蓮が残した書物)を拝読させられ、題目を毎日あげさせられて、
神社には成人するまでは言った事が無く、お祭りの行事なども行けず散々苦しんだ。
当然クリスマスは無し。少年部とか男子部とかのイベントにも強制参加だった。
別に何もしてくれない。
金は貰えない。でも本部組織と言う人たちは本部勤めってことで給料を貰っている。
本部に入ればお金が貰えるなら俺も本部勤めになりたいと思うくらいには本部の仕事って
あまり大変そうには思えなかった。
もし俺が本部勤めとかいうので毎月50万円くらい貰えてたら今も信者をやっていただろう。
13.最後に
・お前がきちんと御書や人間革命を読まないから成長しないんだ!
こういう過激な信者がいるというのは本当の事であって、俺はだから創価学会は嫌いだ。
「ほしのゆうえんち」とかいう池田大作氏の絵本が原作のアニメを見せられたり
そもそも池田大作氏の絵本だとかなんだとかそんなものを読ませられたりしてきた。
ふしぎなパコちゃんとかハッスルパンチとかいう漫画も読ませられた。
さらに竜女の成仏・貧女の一灯という仏教系の漫画も読ませられた。
相当人生でストレスを溜め込んだが、親から開放されて面倒な勤行だとかしきたりとか
雑すぎる。昔の人が「何も考えていない」と本気で思っていたタイプだ。いつの時代も、若者は不安なの。例えば、創価学会の凄まじさって何かって言ったら「本来だったらテロルにぶっこんでいた田舎での連中を、法華経を真面目にやらせることで社会の安定に寄与した」という点だ。本来だったら、あいつら火炎瓶を持っていた予定が、「南妙法蓮華経」といって熱意を声に変えるという無駄なエネルギー消費をしてくれて老人化させたから、我々は平和だったのじゃないか。池田大作☆先生の凄まじさ、ってオウム事件でも判明しているけど、立正安国論を唱えた日蓮のようなハード・コアな右翼に共鳴しそうな若者を、おとなしく座らせて「南妙法蓮華経」と読まさせる、今で言うところの多動性障害の癇癪をもったやばい人を「爆破させない」装置を開発したところだろ。おかげで、文藝春秋は儲かるし、「ガンジー・池田・ゴルバチョフの大勝利!」と聖教新聞でキチガイ共が満足してただけなら、良かったじゃん。パンピーとしては、うぜぇ、ってだけで。池田大作の「人間革命」を読んで感化されるアホどもなんて、頭が悪いのだから、ヤクザな組織だったら鉄砲玉になって果てたのが、死んだときに「南妙法蓮華経」と題目を唱えてもらえるだけで、平和な世の中を作れたのじゃないか。池田大作は愛国者だ。違うか?
タイトルを見て何の話か察したひとも多いだろう。ちなみに自分はわからなかった。
「友人葬」とは創価学会特有の葬儀の方式のことである。亡くなった親族は配偶者が熱心な信徒であり、本人も一応入会していたらしく、そのこともあって葬儀も友人葬で執り行われた。そして、実際にそれに参加してみたら、創価学会が一定の信者と、一定の反発を呼び起こす理由を体感することができた。
通常の仏教式の葬儀(といっても増田自身まともに知らないのだけれど)と、友人葬の違いはいくつかある。
一つ目。葬儀は創価学会員が全部仕切る。遺族とか親族とかの意見は特に聞くことなく、葬儀の段取りを全部創価学会のメンバーがやる。
二つ目。前の方で読経するひとが複数人いる。勝手なイメージだけど、仏教式の葬儀はお坊さんが一人で前の方に座るものだと思っていた。友人葬では「導師」が2-3人前に座って読経する。
三つ目。参列者の創価学会員が全員一緒に読経する。よくある葬儀では、お坊さんが一人で読経するだけである。しかし、友人葬は参列する創価学会員全員で読経する。もっと言えば、おそらく物故者本人とそれほど交友があるわけでもない人たちがやってきて、読経して帰る。
四つ目。関係者から弔文とかが届く。たとえば、「導師」の言葉の中で、池田大作名誉会長と原田実会長からの言葉が読み上げられる。あとは国会議員・市議会議員とかからも。
参列する前から、よくある仏教式の葬儀だと思ってたんですよ。それがこれ。色々な思いが脳裡を通りすぎていった。
まず、「意外と普通だな」ということ。基本的に仏教だから、読経の内容自体はただのお経である。あと簡単。「南妙法蓮華経」って三回唱える・あるいは何度も繰り返し読み上げる。方式の簡略化。難しい教義とかなしに同じ言葉唱えていればいいんだからそりゃ信徒獲得するわなと。
その次に思ったのは「なんだこいつら」ってことです。物故者はもうボケてて、友人が遊びにきたりすることはまずなかった。だから参列者とか絶対知らない人なんですよ。なのにいきなり葬儀に集団でやってきて何から何まで仕切り始めるの、はっきりとむかつきますよね。お前ら他人だろ、死ねよ、くらいの気持ちです。
でも、その後に思ったのは、「これはこれでありがたい人もいるんだろうなぁ」ということです。まず、遺族にとっては煩わしい葬儀の手続きを全部学会員がやってくれるの、そりゃ楽ですよ。受付に座ったり、葬儀における各種手続きを全部、本当に全部学会員が勝手にやってくれる。この簡便さは、一つのメリットなんだろう。学会員がいきなり押し寄せてくるのも、見方を変えれば「淋しい葬儀にはならない」という利点がある。みんなで読経するのも一緒だ。見ず知らずという意味では普通の仏教式の葬儀でも別に住職さんとかと普段から仲が良かったり会ってたりするわけでもないのに、それをありがたがるのも不思議な話で、そういった特権的存在一人が読経するより「仲間」(物故者の配偶者の言葉を借りた)が一緒にお経を唱えてくれる方が嬉しい、と感じる人がいるんだろう。
日蓮宗では、本迹一致を立てている。この本迹一致論は、
天台大師が『法華玄義』に説いた「本迹異なりと雖も不思議一なり」との解釈によるもので、
大聖人様の御教示ではないのです。
迹門という小さな川も、本門の大海に収まれば同じ海水となるという、
決して身延のような本迹二門を対等に見た上での「一致」を説くものではないのです。
大聖人様は『治病大小権実違目』に、
「本迹の相違は水火・天地の違目なり」と、
本門は事の即身成仏なり」と法華経の本迹の相違を明確に御教示されています。
法華経本迹二門は、
その説かれる法体においても勝劣があり、
しかし日蓮宗では、「実相一体」や「本迹未分」という勝手な解釈を加え、
「本迹一致」の邪義を主張していますが、
宗祖の正意に背く謗法の論となることは明らかです。
それを要約すれば、
二、釈迦一体仏
三、大曼荼羅
四、一尊四士
五、二尊四士があり、
このうち一、と三、を法本尊、
二、四、五、を仏本尊とし、
その中心は三、の大曼荼羅と、
四、の一尊四士であるが、
祖書の教示等に照らし、
『此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有(ましま)さず。
末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか』との御文を挙げ、
「仏像出現」の語句によって本尊は仏像が正意であるとしています。
末法の仏像に対する「出現」という表現を対比してみなければなりません。
後の「此の時地涌千界出現して」の御文と同じく、
あくまで現実に現れるということを示されたと拝すのが正しいでしょう。
「此の時地涌千界出現して、
「本門の釈尊を脇士と為す」を「本門の釈尊を脇士と為る」と誤読し、
一尊四士が正意であるとしている。
しかし、宗祖が御在世中に一尊四士の仏像を自ら造立された事実はなく、
との御教示ではありません。
法本尊について御教示された御書に照らして見ればいっそう明らかです。
「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり(草木成仏口決)」
「妙法蓮華経の御本尊供養候ひぬ。此の曼荼羅は文字は五字七字にて候へども、
三世諸仏の御師(中略)此の曼荼羅は仏滅後二千二百二十余年の間、
十方の諸仏は法華経より出生し給えり。故に全く能生を以て本尊とするなり(本尊文答抄)」
日蓮大聖人様の御真意は一尊四士などの仏像本尊にあるのではなく、
【補足】
(二、)釈迦一体仏
天台宗(てんだいしゅう)は大乗仏教の宗派のひとつである。諸経の王とされる妙法蓮華経(法華経)を根本経典とするため、天台法華宗(てんだいほっけしゅう)とも呼ばれる[1]。天台教学は中国に発祥し、入唐した最澄(伝教大師)によって平安時代初期(9世紀)に日本に伝えられた。
目次 [非表示]
1.2 四宗兼学
1.3 止観行
1.4 所依
1.5.1.1 総本山
1.5.1.2 門跡寺院
1.5.1.3 大本山
1.5.1.4 別格本山
1.5.1.5 その他の寺院
1.5.2 天台寺門宗
1.5.3 天台真盛宗
1.6 その他天台系宗派
1.7 教育機関
1.7.1 大学
1.7.3 養成機関
4 社会運動
5 脚注・出典
6 関連項目
7 外部リンク
正式名称は天台法華円宗。法華円宗、天台法華宗、あるいは、単に法華宗などとも称する。但し、最後の呼び名は日蓮教学の法華宗と混乱を招く場合があるために用いないことが多い。
初め、律宗と天台宗兼学の僧鑑真和上が来日して天台宗関連の典籍が日本に入った。次いで、伝教大師最澄(767年-822年)が延暦23年(804年)から翌年(805年)にかけて唐に渡って天台山にのぼり、天台教学を受けた。同年、日本に帰国した最澄は天台教学を広め、翌年(806年)1月に天台法華宗として認められたのが日本における天台宗のはじまりである。最澄は特に飲酒に厳しい態度を取っており、飲酒するものは私の弟子ではなく仏弟子でもないからただちに追放するよう述べている。
この時代、すでに日本には法相宗や華厳宗など南都六宗が伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。最澄は日本へ帰国後、比叡山延暦寺に戻り、後年円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)等多くの僧侶を輩出した。最澄はすべての衆生は成仏できるという法華一乗の立場を説き、奈良仏教と論争が起こる。特に法相宗の徳一との三一権実諍論は有名である。また、鑑真和上が招来した小乗戒を授ける戒壇院を独占する奈良仏教に対して、大乗戒壇を設立し、大乗戒(円頓戒)を受戒した者を天台宗の僧侶と認め、菩薩僧として12年間比叡山に籠山して学問・修行を修めるという革新的な最澄の構想は、既得権益となっていた奈良仏教と対立を深めた。当時大乗戒は俗人の戒とされ、僧侶の戒律とは考えられておらず(現在でもスリランカ上座部など南方仏教では大乗戒は戒律として認められていないのは当然であるが)、南都の学僧が反論したことは当時朝廷は奈良仏教に飽きており、法相などの旧仏教の束縛を断ち切り、新しい平安の仏教としての新興仏教を求めていたことが底流にあった。論争の末、最澄の没後に大乗戒壇の勅許が下り、名実ともに天台宗が独立した宗派として確立した。清和天皇の貞観8年(866)7月、円仁に「慈覚」、最澄に「伝教」の大師号が贈られた。宗紋は三諦星。
真言宗の密教を東密と呼ぶのに対し、天台宗の密教は台密と呼ばれる。
当初、中国の天台宗の祖といわれる智顗(天台大師)が、法華経の教義によって仏教全体を体系化した五時八教の教相判釈(略して教判という)を唱えるも、その時代はまだ密教は伝来しておらず、その教判の中には含まれていなかった。したがって中国天台宗は、密教を導入も包含もしていなかった。
しかし日本天台宗の宗祖・最澄(伝教大師)が唐に渡った時代になると、当時最新の仏教である中期密教が中国に伝えられていた。最澄は、まだ雑密しかなかった当時の日本では密教が不備であることを憂い、密教を含めた仏教のすべてを体系化しようと考え、順暁から密教の灌頂を受け持ち帰った。しかし最澄が帰国して一年後に空海(弘法大師)が唐から帰国すると、自身が唐で順暁から学んだ密教は傍系のものだと気づき、空海に礼を尽くして弟子となり密教を学ぼうとするも、次第に両者の仏教観の違いが顕れ決別した。これにより日本の天台教学における完全な密教の編入はいったんストップした。
とはいえ、最澄自身が法華経を基盤とした戒律や禅、念仏、そして密教の融合による総合仏教としての教義確立を目指していたのは紛れもない事実で、円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)などの弟子たちは最澄自身の意志を引き継ぎ密教を学び直して、最澄の悲願である天台教学を中心にした総合仏教の確立に貢献した。したがって天台密教の系譜は、円仁・円珍に始まるのではなく、最澄が源流である。また円珍は、空海の「十住心論」を五つの欠点があると指摘し「天台と真言には優劣はない」と反論もしている。
なお真言密教(東密)と天台密教(台密)の違いは、東密は大日如来を本尊とする教義を展開しているのに対し、台密はあくまで法華一乗の立場を取り、法華経の本尊である久遠実成の釈迦如来としていることである。
四宗兼学[編集]
また上記の事項から、同じ天台宗といっても、智顗が確立した法華経に依る中国の天台宗とは違い、最澄が開いた日本の天台宗は、智顗の説を受け継ぎ法華経を中心としつつも、禅や戒、念仏、密教の要素も含み、したがって延暦寺は四宗兼学の道場とも呼ばれている。井沢元彦はわかりやすい比喩として、密教の単科大学であった金剛峯寺に対して、延暦寺は仏教総合大学であったと解説している。
止観行[編集]
天台宗の修行は法華経の観心に重きをおいた「止観」を重んじる。また、現在の日本の天台宗の修行は朝題目・夕念仏という言葉に集約される。午前中は題目、つまり法華経の読誦を中心とした行法(法華懺法という)を行い、午後は阿弥陀仏を本尊とする行法(例時作法という)を行う。これは後に発展し、「念仏」という新たな仏教の展開の萌芽となった。また、遮那業として、天台密教(台密)などの加持も行い、総合仏教となることによって基盤を固めた。さらに後世には全ての存在に仏性が宿るという天台本覚思想を確立することになる。長く日本の仏教教育の中心であったため、平安末期から鎌倉時代にかけて融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗・臨済宗・曹洞宗・日蓮宗などの新しい宗旨を唱える学僧を多く輩出することとなる。
所依[編集]
福王寺(熊本県山都町、宮司兼豪族であった中世阿蘇氏の菩提寺である)
その他天台系宗派[編集]
孝道教団
叡山学院