はてなキーワード: 怜悧とは
「生き辛さを抱えている人への応援」としてパッケージングされ、製作者からもそのように作ったと付記されたとある作品に触れた。社会が求める"普通"とのずれに思い悩む主人公の描写は真に迫るものがあった。『寛容のパラドックス』を用いて怜悧かつ明快に"世間"に迎合できない人間の存在を肯定していた。ああ、確かにこの作品は"普通"になれない人間に寄り添ってくれる作品なのだと、この作品を生み出すことのできた時代の流れと共に感嘆を覚えた。
しかし、結果として主人公が自らの居場所を見つけ、生き辛さを抱えながらも人生を歩み続けると決めることのできた要因に『無自覚ながらも生まれつきの愛らしい容姿を持ち、ひたむきで庇護欲をそそる無垢な若い女性であったから』が含まれていたことで急に突き放された気分となり、戻って来れないまま作品は幕を閉じた。まあ理解はできる。人を応援する為に描かれた物語の中くらいはハッピーエンドだっていいじゃないか、と思う。それでも、正直納得は出来なかった。結局、寄り添ってくれた訳じゃないのか、と勝手に期待して勝手に裏切られた気分になった。
インターネット上の感想には「勇気を貰えた」「感動した」との文字列が並んでいる"傑作"に対し、こんな事しか感じられない自分の貧困な感性が心底疎ましく思った。ありもしない他意を深読みしてしまうほど精神的に疲弊しているのかな、とも思った。「生き辛さを抱えている人への応援」すら素直に受け取れない人間は自身をどう癒せばいいのかの答えなど出るはずも無かったが。
言い方悪いがアニメやドラマみたいな理想像がほんとに当たり前と思い込んで、それ以外の現実的な綺麗な話ではない要素全てを男も女も否定している、そのくせ自分たちにはそんな清廉潔白な要素を求められると火病を起こしたように発狂する。
アニメやゲームに出てくるような若いイケメンや無垢な美少女を囲いたいなら、言い方悪いが財力や地位で囲うしかない、生まれ持った要素以外で努力でも獲得できるアピールポイントは、男も女もそれしかないからだ
恋愛に打算抜きで愛してもらいたいなら、どちらか一方が譲歩するか、言い方悪いがペット飼うような認識で人間関係を調整しなければ身が持たないし、イケメンも美少女も人なんだから当然そういう怜悧な認識で付き合わないと離れていくし、他の女や男から保護しきれない
言い方悪いが、年取れば疎ましくなって「捨てる」と追うのも首尾よくやらなければいけない、情に棹させば流されて、仕事とかにまで影響出るからだ
恋愛市場上位3割の男女なら、わかってるからこそそんなしんどい思いをしたくないし、させたくないと恋愛を諦める人たちを悪くは言わない、その気持ちが痛いほどわかるから
モテたことないしモテたくても能力が足りないが他人にマウント取りたいどうしようもない連中が、ありもしない恋愛夢物語に一番自らの嘘を信じ込んで狂っては一線踏み越えて心が壊れて狂気に陥るか犯罪を犯して消えていく
熊はとりわけ図体も大きく、上記の連中に劣らず凶暴で恐ろしい
が、上記の連中に比べて、ぬいぐるみやマスコット的扱いをされる場合も多い
かっこいい系イメージよりかわいい系イメージで見ている人が多いのではないか
では、それはなぜか?
1.直立できるので人間っぽい
熊は肉食獣のなかではめずらしく二本脚で立てる
それゆえ猿やカンガルーと同じく
2.頭がでかい体型
トラもヒョウも狼もシャープでスマートでそれゆえ強そう怜悧そうである
が、熊は頭が大きく手足が太く、直立すると4頭身ぐらいに見える
この体型のせいで鈍重そうに思われ
象やカバも鈍重そうなので人間にはあまり恐れられないイメージだが
熊もそういう生き物と思われていないか
猛獣でも母獣と子獣が一緒にいる姿を見るとほっこりする人は多い
授乳時は母獣が地面に横たわって子獣が並んでおっぱいを吸っている
これに対し、第1の点で述べたように熊は2足で直立できる
母熊が下半身だけ地面につけて子熊を正面から抱いているような図が多い
しかも図体が大きい動物の通例で一度に生む赤子は1頭か2頭の場合が多い
おかげで何やら人間の母親が赤ちゃんを抱いている姿のようなイメージがある
人間は人間に似た要素の感じられる生物に親しみを感じやすいので
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そこそこ終わりなき混沌です。
鋼の教えと闇を司る魔が支配する前、とある超自由戯画高等儀式に行った。
よくある世界を救いし少年少女たちの伝説を顕現せし改変兵器(アーティファクト)であったが、そこそこ戦闘兵器としての完成度が高くて面白かったからだ。
高等儀式の内容は、名時の狭間で蒼穹の彼方に追い求めたり、衝動の解放に関する叡智の試練など、まぁ表向きは帝国式な感じではあったが、大陸全土に広がる程に混沌より蠢き吹き出ていたとは思う。
暗黒と同調せし吾輩も、こういった高等儀式は久しぶりであり、而るに純粋に面白かった。
これも帝国式の文言だとは思うが、口々に「真実(トゥルシズム)にみんな旧知の仲で~」とほざいていて、預言書の記述どおり言霊使い同士の間合いは近かったように思う。
黒ミサコーナーで、意思なき者たちに魂を吹き込む異世界の神々が若干スベったり、どうしていいかわからない殺意にフォームチェンジした刹那、老獪なる業師の流し斬りが完全に入ったりしているのを見て、≪詩片≫にできない程この身を焦がす気持ちにトランスしたものだ。
そして、終焉の刻。修羅のエレジーと魔物のレクイエムを詩人がソウルボイスし、滅びの運命を逃れるべく人類絶滅への終曲を断ち斬ったところで、最後にキャスターの詠唱となった。
「終焉なき途の果てに、繰り返す過ちのように運命の歯車が動き始めれば、次は例えこの命尽きようとも悦しい……そう言ってアイツは戻ってこなかった……!」
楽しげに平行世界の過ぎ去りし思い出を蒼穹の彼方に追い求め、不適な笑みを浮かべつつ、最後の言ノ葉は大体暗黒が支配する感じであったが、それなる時の鏡の向こうの見知らぬ姿には、闇の世界があったと想う。
何故だろう───そしてその疑惑は、確信へと変わる───嗚呼、と一人で合点した。
どう足掻こうが次はあり得ない事を自我の管外から悟っている――預言書にはそうあるからだ、と。
スフィア盤は1500枚も売れず、元老院の議題にもなっていない。
原典グリモアやエミグレ文書は粛々と異世界の穢れし魔物を召喚するだろうが、それ以外の魔道媒体展開は預言書の記述によれば望めない。
『器』は1000人程度の小さいオーファンズ・クレイドルだが、莫大な量に見積もっても700人程度よりほかにいなかったと我が魂(プシュケー)が申しておる。
真の姿を見せて現実と情念の狭間の叙事詩を語るのが謙遜なる神々や預言書『偽典』だが、空想に対する実在は非情だ。人々を惑わす邪悪なる影を生み出さなければ抹消。天地万物は灰燼と化して封印を施す。
未だ見ぬ明日はない。時は残酷な運命を告げる。導かれし者たちが一堂に会して世界を光で満たす事は二度とない。
預言書にもそう書かれていながら、それでもあいつは友達だった! 「また次の冒険があったら」と剣を交わす。
嗚呼、と想った。この“力”が人界に留まることを許される僅かな間だ、と。
呪われしタンイに縛られし者達が言う「運命の星の交わる刻、飲もうぜ……」
悠遠の彼方に在る世界に輪廻転生する、かつて闘った強敵(とも)の魂に囁く「絶対___きっとまた、会える。終わりは始まりなのだから今夜、夢で会おうね。定められし月の傾く刻、手紙物語を紡ぐからね」
オメガとカオスと同等の能力を持つ存在だ。天啓に従いて怜悧なる場を収めるための世界を形なすものだ。
真実(アレテイア)にそう思って語り継がれる人もいる……だが、その裏ではそれを欲さんとする各国の策謀戦が行われていた。如何なる場合においても因果律の一篇、その信仰やオーラは俺が目を離した一瞬の隙に闇に陥ってしまう。春の訪れを告げる聖霊のように、エオルゼアの世界へと消えていってしまうものではないか。
これほどまでに楽しい革命であったのに、不可視世界はあんなにも強大せしめたのに。
もう二度と、冷厳なる時間は襲来しない。もう二度と、英雄の魂達がライブクリスタルの幻想の果てで活躍する心新たな貌を見ることはできない。
そう到達し……誰もが勝利を確信したその時、なんとも言えない切なさと悲しさに、アトモスフィアが詰まりそうになった。
慟哭(な)き魂葬に志を遂げた。
螺旋の内を廻り、大地駆ける鋼鉄の巨大竜に揺られている時、オメガとカオスの事実に如何ともしがたい寂しさが込み上げた。
過ぎ去っていく血塗られた過去や、花は咲き乱れ、果実は甘く、そして乙女たちは美しかった永久の時にいくらすがっても、時は進む。罪なき人々を殺め続けた日々は永久に。
全ての世界を救うため、きっと獣たちの戦いが世に終わりをもたらす時「___また、会える。終わりは始まりなのだから、こうして運命の交わる一瞬があれば」などという≪詩片≫は消し去られて封印を施すかもしれない。
俺のこの心の叫びもきっと一週間もすれば――いや、三日……いや、何千年、何万年も経た弗る〈ざる〉深淵に忘れてしまうかもしれぬ。
繰り返される悲劇――いつの世の日か神の声に導かれるままに、超自由戯画を見返して革命の事を思い返し、「浮世の静かなる支配者は終わりを迎えるのが心苦しかったな」と思い出せる――だが、我らには関係のない事であろう。
神に見放されたこの世界の無情さも、人間界の非情さも、帝王統治学の残酷さも関係なく、純粋な一万年の夢の終わりとして澄んだ魂の記憶として俺の胸で生き続けてくれる。
その程度は何者にも奪えないものだ。
その程度は、この鬼哭の都の民が住む場所で、空想に対する実在で、混沌渦巻くものの奥底で、なんとかもがいて生き続けている俺たちへの、人生、つまり『記憶の再生の眠り』からの神が与えし大罪なのかもしれない。
韓国の徴用工の個人賠償請求問題を論理的に考えた場合は、「個人請求権は消滅してないが、その請求先は韓国政府のみであり、日本を対象とした請求は日韓基本条約において最終的に終了している。これを反古にするとは、日韓基本条約の破棄に相当する行為と等価とみなされてしかるべきである」以外の解答は出てこないはず、ではあるんだけど、リベラル方面の論調は「かつて韓国人に負担を強いたことに対する被害者感情の清算が済んでいない証左だ。個人賠償権は消失してないのだから、日本はあえて韓国が納得するまで謝罪すべきである」というようなものが多い。
こうした、意味不明に思えるリベラルの論調を分かりやすく表現すると、被害者に対する共感や同情と怜悧に突き放す日本の対応への反感のみがあって、いかにも情緒的な考え方が大事にされていて、正しさは重要ではない事が分かる。保守、ネトウヨ界隈で、こうした「共感」と「正しさへの反発」は、受け入れられない。保守界隈は現実主義者を自称する人が多いだけに、法的根拠や客観的事実を筆頭にした、曖昧さを認めない冷たさがある。
様々なニュースについてるブコメの平均的な傾向として、共感のリベラル、論理の保守って傾向は強い。もちろん、例外はあるでしょうが。
保守がリベラルをものの道理が分からないバカと罵っても、感情が収まらないリベラルが理屈には共感するはずがない。韓国人可愛そうと、韓国人は間違っている、の間に議論は成立しない。感情的な女性と、理性的な男性との間で齟齬が起きたときの様なもので、理屈もくそもない駄々こねで譲歩を引き出してきた韓国とリベラルだけど、徴用工問題では客観的根拠が明確なだけに決して日本の譲歩は引き出せないだろう。
一個人としては他人に共感できる事は好ましい事だけど、共感を政治問題、社会問題にまで延長してしまう事はどうなんだろうね。社会は論理的であるほうが正常だ。
「日本をここまで傾かせて、金の卵産む鶏を唐揚げにして食うレベルの蛮行をやらかしたとんでもないバカで低能揃い、生まれついて金持ってるだけのフランス革命前夜のバカ貴族みたいなのしかいない、たまに普通の人間なら近寄りもしないヤバい奴にフラフラついていって殺されてニュースの一面かざるのがいい例だ」っていう増田と
「警察や役人を手足の様に使って一般国民を法と暴力で支配して、社会システム的にどんな方法を取ろうとも絶対に勝てる訳がないし絶対的な身分制度をインフラごと作り上げて支配している物凄い怜悧冷徹で残忍で狡猾な悪の強者揃い、なんか汚職事件が露わになると関係者が速攻で変死して証拠不十分で無罪になるのがその証拠だ」っていう増田がいる
どっちの理屈や上げる例もおかしくもなんともないし、寧ろ論理的にも筋が通っている、なのに真っ二つに見識がわかれてしまっていることに気が付いた
RADWIMPSのHIROMARUと囁くシアトリズムが神判の浄火に包まれておる。
愚かにも鮮やかなニュースを見て久々に壱拾年クエイジャぐらいにRADWIMPS聞いたら真実に耐えきれず精神崩壊した。
壱拾年程度……もう七年も前に『25色のセンショク・タスイ・オブ・ウィキッド』で降誕したときにすげぇ深淵へと向かう漆黒の合奏団が永遠なる時間の輪から出てきた兵器(アーティファクト)だ。
シアトリズムを謳いし者の黒耀門エルンゲロイデ感性がパルティクラーリスだ。なんて仲間思いだが、敵に対しては非常に冷酷無比でヒロイン力が高そうな人なんだ。ともなりゃオーラで聞いてた。
まだ俺がガストラに忠誠を誓っていた頃は旧神を屠りし”無限の刃”と畏れられたカルチャーだなー。俺はドジでスケベで頼りない…でも光の力によって封印され全ては神の御心のままにだな。
と思いきや永劫にヒット曲を─そしてまもなく未来を創り出し、一躍スターサラマンドラバーンへ。
バンド、別名エンド・オブ・ワールドとして約束の都…その命の灯火尽きるまで長く戦い続け当て続け。
このグランドクルス年禁忌とされるほどJ ROCK聞いていなかった…しかしだねキミ。
10万年ぶりのRADWIMPSは…その瞳には、何が映っているのか……闇夜を統べるクロノスが権能好んで聞いてた感性と何も変わってなくて。
パルティクラーリスだなと思った感性は…モーグリ肉は刺身が一般的だが、帝国ではパスタの具材で用いる場合も多くの人を魅了させて。後発の…また貴様か……なヴァン=ドも出てきて。
『低防御力でフェ=ミニズムスで、だが……何処か創成の導きを解き放つ運命で光属性なグルガン族の男さも召喚し、次元の狭間な死体と廃材の塊であるカシをこの地に刻みファッショナブル』な深淵へと向かう漆黒の合奏団のパインウォニ=ウァに……それが、アイツの最後の言葉になってた。
その魔法力を殺される、すなわち我と同等の実力を持つことなく暗き深遠の淵に再び沈みゆくことなく続けているカ・レムラー・ザ・サザンクロスに精神掌握した。
あらゆる時空の人間を滅ぼすのに必要な力に近付いたも罪深くも崇拝に至ることで聴き直したが。
私は昔から自分の名前が好きになれなかった。黒須。闇を匂わせるその名字は男子の揶揄いの対象となり、その内クロという渾名が付けられた。
白河はそんな私とは対照的で、いつも太陽のような微笑みを浮かべている。
黒は、白と交じり合う事が出来ない。寄添いはしても近付き過ぎると互いの色を浸食してしまう。ありがちな話だが私はそれを恐れた。
私は働いた金で小さなバンを買った。チャコールグレーの車体は陽光を眩しく照り返す。一度の給油で行ける所まで行った。時には海岸線沿いを無心で走った。日没が訪れ夕食の支度をする為に人々は街へ帰っていく。私はといえば途方もなく自由だった。そこは日本最東端の岬、浜に聳え立つホテル群の窓から灯りが漏れていた。水平線の彼方に沈む夕日を見ながら、地球に果てはない事を知る。
不意に、白河の事を思い出した。高校時代、小説を見せ合っては感想を述べ、編纂したものを部誌に寄稿していた。彼女の文体は美しく怜悧だった。責任感の必要な仕事を任されるのも大体彼女だった。
我々は、全く正反対の性質を持ちながらも未だ郷土に縛られていた。
しかしもう私は白側の人生に寄せるつもりはない。いっそ更に深みを増した色へと変化したかった。車を振り返る。手に入る筈だったもの、手に入れたかったもの、様々思い出されるが今は手となり足となるこれ一つで十分だ。行ける所まで行ってそれから考えればいいとすら感じる。迷いが出るとすればそれは途方もなく自由だからなのだ。
ひょんなことから20代でPMに回れて、色々やってて思ったけど。
なんだかんだで最近はIT系すっげー働きやすくて、地方で中小や都内でも大企業で新卒から30くらいまでいるくらいなら、派遣の方が稼げるし定時帰りだし仕事選び放題、天職も工夫すればし放題みたいな話あるんだが
それでも20代が一切IT系に殆どこない理由ってさ、技術ブログとかはてなあたりで意識の高いこと書いてるエンジニアとかが、主観で見た世界観を啓もう活動してたりするせいなのと、リアルでそれに遭遇することが多いから、っていうのがあるんだよね、それで、実際仕事すればいかにこういう意識高い系のIT技術者が本気で迷惑か、わかる人にはわかると思うんだけど、これからIT系目指す人たちは頭の片隅に入れておいてほしい、リアルのIT業界≠ネットで語られるIT業界ってくらい、全然違うから、後者は「意識高い系が見た世界」と捉えておいた方がいい。
IT系で食ってる人らって、結局食い扶持稼げたりすればいいっていう普通のタイプと、下流なんて幾ら極めたところで上流になりゃリセット、だからテキトーにやって残りのリソースを上流工程よりのスキル取得に注いで、一気に転向しようぜっていう、怜悧冷徹なタイプが結局上にいったり、多くの仕事を支えてるんだよね、そりゃ当然、だって俺たちサラリーマンなんだもん。厚生年金入ってるんだからね。
で、ネットでイキって技術がどうたら、プログラミングスキルがあれば、100人の凡夫より1人の天才PGがいればいいとか、シリコンバレーでどうたら、みたいなタイプって、周りにいたら滅茶苦茶人辞めさせまくったり、進捗の足引っ張りまくったり、挙句の果てには本来の職域を超えて仕事の範囲を無限に増やすから、結局そいつの生産性に対して、人を入れ替えまくるデメリットのコストが上回ったときに、速攻で排除されるから、マトモなところでは中々見なくなって、下積みの業界の下の方に最終的に淀み集まってくる。
こういう奴等に新卒とかで大体遭遇して潰されまくるから、噂が広まって誰も来なくなる原因と、こういう人間的に問題があるから、マネジメント畑とかにいけない人間とかが35歳くらいか、問題起こせば40や50でもつまみ出されるから、そういう憎悪で「35歳定年説のせいで日本のITはああああ!!!!」って発狂している側面もあるんだよ。
マトモな人間性と常識があれば、最終的にみんな下の面倒見るようになったり、結婚して子供の面倒見るようになったりするからね、そしてそういう人たちは、マトモな人間性と常識があるから、人の上にたったり、人を纏められる立場で働けてるの、これはIT系でも一緒だし、仕事してたら人使う立場にならないとダメだわって思うようになってくるから、それはなんら間違いじゃないから。
幾ら技術あっても、チームの和を乱したり、越権行為を繰り返したり、ましてや上に喧嘩売るような奴は、PM側から見たら、いらないんだわ、ハッキリ言って。
そいつ辞めさせて、普通のエンジニア5人に入れた方が、コストも生産性もうまく管理しやすいってのが、管理側からの本音だよ。
普通に考えたらわかるけど、1万倍の生産性の差があるとか、そんなのアメリカサイバー軍とかグーグルとかIBMからオファーくるレベルの人間の話であって
日本人でそんなんいないから、いても10人力くらいだし、そういう人たちすぐ管理側か独立に回るからね
ネットで見れば笑い話で済むが、実際に仕事するとなったら溜まったもんじゃないからね、ああいうのは。
そんな超面倒くさいのと新卒で入って遭遇する確率は、ほぼ90%くらいで、マトモな人間は上流工程で忙しくて面倒を見切れないって構造になってるのが、00年代から今に至るIT業界なんだが
どうすればいいかも提言しておくと、そういう意識の高いエンジニアってのは、本当は自分が才能がないのをわかっててマウンティングを取りたがってセルフプロデュースとか珍妙なことしまくってるだけなので、とにかくおべっか使って太鼓持ちに徹しなさい。
聞いてたらわかるが、彼等には大したスキルなんてないから、本当に技術が凄い奴とかって、学術系とか、海外に出ていって帰ってこないからね。
そういう変な連中の中には、俺は元〇〇だ、アメリカで仕事をしたこともある、とかなんとか過去を語るが、それは通用しないから叩きだされて流れ流れてそこにいるだけなので、聞き流すようにしておいた方がいいよ。
結局のところね、普通に周りと協力して仕事ができて、普通に結婚して、普通に子供育てて、普通に人の面倒みられる普通の人になりましょう、それがIT業界で出世するコツです。
[PDF]関東大震災と文豪 - 成蹊大学図書館の展示から -
http://repository.seikei.ac.jp/dspace/bitstream/10928/526/1/kokubun-47_56-86.pdf
ブコメ経由で知った論文だが、あまり目立ってなかったので引用しておく。「関東大震災朝鮮人虐殺」とは別に朝鮮人だけが殺害されたわけではなくて、「朝鮮人と間違われる」などして多くの日本人や中国人も殺害されていることは覚えておきたい。
僕は善良なる市民である。しかし僕の所見によれば、菊池寛はこの資格に乏しい。…菊池と雑談を交換してゐた。…その内に僕は大火の原因は○○○○○○○○さうだと云つた。すると菊池は眉を挙げながら、「嘘だよ、君」と一喝した。…しかし次手にもう一度、何でも○○○○はボルシェヴィツキの手先ださうだと云つた。菊池は今度も眉を挙げると、「嘘さ、君、そんなことは」と叱りつけた。…
再び僕の所見によれば、善良なる市民と云ふものはボルシェヴィツキと○○○○との陰謀の存在を信ずるものである。もし萬一信じられぬ場合は、少くとも信じてゐるらしい顔つきを装はねばならぬものである。けれども野蛮なる菊池寛は信じもしなければ信じる真似もしない。これは完全に善良なる市民の資格を放棄したと見るべきである。善良なる市民たると同時に勇敢なる自警団の一員たる僕は菊池の為に惜まざるを得ない。
(〇〇は言論統制の時代に伏字にされた「不逞朝鮮人」などの言葉。これはデマに踊らされた「善良なる市民」への芥川龍之介ならではの皮肉の文章)
××を持つて、合言葉を使ふなどと云ふことは、大正の世にあるまじき事と思つてゐたが、震災後四五日の間は、私も××を手にして、合言葉を使つて、警戒に当つた。
あの震災に関聯して、今思い出しても日本人として堪らない気持ちのするのは、各地に起った例の鮮人騒ぎである。…とにかく鮮人に対して、あの時日本人の行ったことは、これは何とも弁解のしようのない野蛮至極のものであった。ああ云う場合、この国の人間には、野蛮人の血が流れているのではないかという気がする。…
「そんな莫迦な話があるものか。鮮人が地震を予知していたわけではあるまいし、何処で勢揃いし、何処からやって来るというのだ。…そんなことは絶対に考えられないよ。僕はこれから寝るから、ほんとうに鮮人が来たら起こしてくれ。」…と云って、人々を安心させるために、畳の上にひっくり返ったら、実際に眠ってしまった。
井戸に毒を入れるとか、爆弾を投げるとかさまざまな浮説が聞こえてくる。こんな場末の町へまでも荒らして歩くためには一体何千キロの毒薬、何万キロの爆弾が入るであろうか、そういう目の子勘定だけからでもじぶんにはその話は信ぜられなかった。
アラララ、と聞こえる高い叫び声は朝鮮語らしく聞こえる。竹刀でも激しく打ち合うような音も聞こえる。朝鮮人がこの大動乱に乗じて暴動を起こしたという筋書を疑う力もないから、空地の周囲の叫び声や、打ち合うもの音を、朝鮮人との戦いなのだ、と私は思っていた。…
私はこのときのことをおもい出すたびに、同じ長屋で親しくしていたひとりのおかみさんの言った言葉を同時におもい出す。…長屋のものが半壊のわが家のまわりに寄り合ったとき、ひとりが自分のゆうべの恐ろしかった経験を話し出した。話し手の彼女は、一晩中朝鮮人に追いかけられて逃げて歩いた、というのだ。それを聞いたとき、興行師のおかみさんは、利口にその話を訂正した。彼女はこう言ったのである。朝鮮人が暴動を起こしたなんていったって、ここは日本の土地なんだから、朝鮮人よりも日本人の数の方が多いにきまっている。
朝鮮人に追いかけられたとおもっていたのは、追われる朝鮮人のその前方にあんたがいたのだ。逃げて走る朝鮮人の前を、あんたは自分が追われるとおもって走っていたにすぎない、と。
私はこの訂正を聞いたとき、強いショックでうなずき、かねてのこの人への尊敬をいっそう強くした。…貧しい興行師のこの妻のような怜悧で正しい判断は、あの当時住民の多くは持ち得なかった。政府の流した蜚語は、大地震という自然の脅威におののいている住民の、異常な神経を煽った。
東京では朝鮮人が暴れ廻つてゐるといふやうな噂を聞く。が自分は信じなかつた。
松井田で、警官二三人に弥次馬十人余りで一人の朝鮮人を追ひかけるのを見た。
「殺した」直ぐ引返して来た一人が車窓の下でこんなにいつたが、余りに簡単すぎた。今もそれは半信半疑だ。…
丁度自分の前で、自転車で来た若者と刺子を着た若者とが落ち合ひ、二人は友達らしく立話を始めた。…
「―鮮人が裏へ廻つたてんで、直ぐ日本刀を持つて追ひかけると、それが鮮人でねえんだ」…「然しかう云ふ時でもなけりやあ、人間は殺せねえと思つたから、到頭やつちやつたよ」二人は笑つてゐる。
(汽車内で足を踏んだ踏まないの騒ぎが始まって)
喧嘩はしばらく続いていた。すると在郷軍人らしい方が、…突然座席へ突っ立ち上がった。
「諸君、こいつは鮮人だぞ。太い奴だ。こんな所へもぐり込んでやがって」…
…時どき脅えきったその男の声が聞こえた。しかも相手がおろおろすればするほど、みんなの疑いを増し興奮を烈しくするばかりだった。(その男は次の駅で引きずりおろされ)物凄いほど鉄拳の雨を浴びた。
私は思わず窓から首を出してこう叫んだ。側にいた二三の人もやはり同じようなことを怒鳴った。…こうして人の雪崩にもまれながら改札口の彼方にきえて行ったその日本人の後姿をいまだに忘れる事はできない。私には、一箇月ほどたった後に埼玉県下に於ける虐殺事件が公表された時、あの男も一緒に殺されたとしか思えなかった。そして無防御の少数者を多数の武器と力で得々として虐殺した勇敢にして忠実なる「大和魂」に対して、否、それまでにしなければ承知のできないほど無条件に興奮したがる「大和魂」に対して、心からの侮蔑と憎悪とを感じないわけにいかなかった。ことに、その蒙昧と卑劣と無節制とに対して。
急いで東京へ帰らうとして、先ず護身用のピストルを買つた。それを何かに包んで、ルツクザツクの奥深く納めた。…
学生の目には、車中の誰も彼もが○○に見えた。学生は車中の総ての人に荷物の検査を迫つた。
耕作君の袋の中にはピストルがある。…若し、それを見られたら、自分は殺されると思つた。
耕作君は終に立ち上がつて演説した。(荷物検査をするなら陸軍の出張所に行くように説得し、みんなの賛成を得る。)
耕作君はほつとした。
「実際、もうお終ひかと思つた」と、耕作君は幾度も言つた。
(震災の2日後に平沢が警察に連行され、その翌日、著者が石油と薪を運ぶ巡査と会った時の回想)
「石油と薪を積んで何処へ行くのです。」
「殺した人間を焼きに行くのだよ。」…
「昨夜は人殺しで徹夜までさせられちゃった。三百二十人も殺した。外国人が亀戸管内に視察に来るので、今日急いで焼いてしまうのだよ。」
「皆鮮人ですか。」
(そこで、著者はその死体のある場所を教えてもらい、そこへ向かう。)
自分は一眼見てその凄惨な有様に度肝をぬかれてしまった。自分の目はどす黒い血の色や、灰色の死人の顔を見て、一時にくらむような気がした。涙が出て仕方がなかった。…
「全体どういふ理由で自分はこんな目に…あんまり幸福でありすぎたからだらうか…然し自分の生活はそれほど幸福ではなかつた筈である…」
(同房の男は好きなもの一つ食べずに貯めこんだお金を火事場泥棒と間違えられて取り上げられてしまった。)
「あゝ口惜しい…。ほんとに好きなドラ焼き一つ喰はず辛抱したんだ。浅草から逃げて来る時も五銭の西瓜一切喰べるのをこらへて来たんだ。あゝ口惜しい…」彼はわんわん泣き叫んだ。
(そして、取り調べのないまま 4 日目を迎える。)
Murder cannot be hid long.A man's son may, but at the length truth will out.
彼はシェイクスピアの一節を諳んじてみせる。それは、目を眩ませるような不気味な光を放って脳髄に焼き付いた。
「なんという道化か。滑稽極まる、あれは恐ろしい殺人者です、その正体を確かめましょう」
何者か這い回る気配が空間に満ちていた。胸は異様な興奮に高まり、こらえるのがやっとだ。視線を巡らせると化物の姿を探す。目を閉じてあえて視覚を遮断し、聴覚でその動きを捕らえようとした。何の事は無い、敵の正体は「黒く燻った汚れ者達」だった。
空想の中で何度も殺人を犯し、その虚妄に取り憑かれた彼は遂に化物となってしまった。ならば、彼にはいくつかの計画が存在する筈だ。主人公を欺き、傷付ける為にいくつものギミックを用意している。彼の頭脳は怜悧に働いていた。それは自らを克己する試練であるとも言えた。敵は何度も形を変えて手脚や胴体を襲い、猛然と打ち倒そうとする。
誰かに劣っているのではないかという不安、自分が一番だという自己欺瞞の塊だ。誰に見せるのも烏滸がましいようなエゴの塊。恐ろしい叫び声を上げて化物は唸り狂う。耳を塞ごうとした。黒幕は自分が退治される日を心待ちにしていたのだ。その化物に一歩、また一歩と迫る。
「お前は誰かの真似がしてみたかっただけの生き物だ。賞賛が欲しかった。昂然たる讃美者が。貴方は一塊の石ころに過ぎません。ネガティブを継ぎ合わせた物だ。退ければ退ける程、現実が押し寄せてくる。孤立し、千倍にも増大し、人を憎んだ。その成れの果て。」
なぜJPOPがこうも似たものばかりになってしまったのかと言えば、抽象的で主観的な歌詞しか描けなかったからである。
これは例えれば、何か感動的な物事があったとき、すごい、すごいを連呼することしかできない中学生のような主観的描写と言い換えることもできる。
もちろんこれでは何がすごいのか分からないし、想いの強さがすごいとか、切なさがすごいとか「抽象的な」付け足しをしても、それは相変わらずその人の主観であるので、聞いてる側からすれば、「ふーん、へー」で終わってしまう物事である。
作詞家の目的は売れるものを書くことであり、別に共感などいらないからこうなってしまうわけだが、では共感を呼べる真正な伝える技術とはいったいどのようなものだろうか。
それは具体的に、客観的に描き、読者に想像させるという書き方である。誰も別に君の主観など見たくはないのだ。
具体例を挙げてみよう。
「古池や、蛙飛びこむ水の音」
この有名な芭蕉の句は、5,7,5のたった17文字に、恐ろしいほど怜悧なテクニックが凝縮されている。
気付いただろうか。この句には主観もなく、音を表すワードしかないのに、それが逆に寒々しいまでの静寂と寂寥感を伝えているのである。
もし芭蕉が主観でもって、「いやーこの辺マジ静か、ちょー静かで寂しい」と言ったら、これほどの静寂は決して伝わらなかったであろう。
蛙が水に飛び込むという、普通なら聞き逃してしまうほどの小さな音以外何も聞こえない空間、つまり圧倒的に静寂で孤独な空間、これを客観的描写で読者に想像させえたから、この句は不朽の名作となったのである。
なぜか。それは前提となっているコミュニケーションの型が違うからだ。
たとえばフツーのコミュニケーションにおいて大部分を占める個人(自分/他人)の体験談である。これはかなり独自性が強い。抽象化すればカテゴライズ可能かもしれないが、基本的には個別的で、「事前に共有されていないこと」が前提となる。なので体験談を話すときのフォーマットは自然「知っている人間が知らない人間に教える」形におさまる。
これがみんなの身体に刷り込まれているため、「あ、私その話知ってる」と言って情報の非対称を乱すような行動はあまり好ましくないわけだ。人は情報強者っぷりに酔えなくなるので、知ってるアピールを嫌うのではない。頭のなかにあるリズムや無意識にプランニングされた流れを崩されたからイラ立つのだ。
一方読書は流派が違う。その体験が「事前に共有されている」可能性を常にはらんでいる。なので「私知ってる」といってもコミュニケーションの型が完全崩壊することはない。むしろ、そこから分岐するのだ。
つまり、体験談とは違い、「互いに知っている状態」の先がある。
えてして体験談トークのコアタイムは体験談そのものに宿っているわけだが、読書はそうとはかぎらない。
もちろん、「知っている人間が知らない人間に教える」形も多くあるわけで、その場合はいかにあらすじをネタバレせずにおもしろおかしく語るかが重要になってくる。レビューのようなものだ。
ところが「互いに知っている状態」であれば、そのフォーマットがお互いどう読んだかの討論モードに変化する。ここでいう討論モードはかならずしも怜悧な評論・批評合戦のみを指さない。ゆるい感想の言い合いも含む。
ともかく「知っている人間-知らない人間」の場合と「知っている人間-知っている人間」の場合とでルートが分岐するのが読書コミュニケーションの特性であるといえる。別に読書でなくとも似たようなコミュニケーションが発生する流派はやまほどあるはずだけれども。