はてなキーワード: オランダ語とは
日本の英語教育を語る上で、知っておかなければならない数字があります。
中学~高校で、英語の授業が週4時間あるとして総時間数:800時間
CIA職員が日本語を習得するのに必要な時間数:2000~2500時間
英語のネイティブスピーカーにとって習得が簡単なのは、文化的・文法的に近似する
オランダ語・フランス語・スペイン語などです。これらは600時間で習得できます。
では『オランダ語やフランス語は簡単なのか』と日本人が学んでも苦労します。結局のところ、
『同じインド・ヨーロッパ語族なら習得が楽になる』というだけの話です。
一方、 ”英語のネイティブスピーカーにとって極めて困難な言語”としては日本語・中国語・アラビア語などがあり、
これらの習得には2500時間くらいを要し、これは、英検1級合格に要する時間に相当します。
逆の日本語ネイティブ→英語も同じくらい時間がかかるとすると、答えは一つです。
『日本人が学校で勉強する程度の時間では、英語は出来るようになりません』
大学入試において、2つ以上の大学で長文問題に出てきた単語の数 8000
========壁========
「数学の修得には時間がかかる」ことの概説 - Unhappy Go Lucky!
ただ、文系学部の「研究」や「卒業論文」の位置づけとかについて、過大評価していただいているような気がしなくもない。日本語とは縁遠い言語を話す地域を専門とする史学科卒の人間として、「ゼミ」や「卒論」の位置づけについて語ってみたい。
いやこれは本当に分野によるのだが、「研究」というよりも「勉強」をやっているところが多い。歴史学というのはまず史料に何が書かれているかを正確に読み解く必要があるのだが、その読み方を徹底的に叩き込まれる。場合によっては修士課程でもこれが続く。もしくは、研究文献の読み方を叩き込まれる。そもそも2・3年前まで高校生だった連中である。文系の研究書をどのように読むべきかよくわかっていない人も多いし、英語の本を通読なんてしたことないですという人がほとんどだろう。レベルの高い大学なら外国語文献の購読をし(何語なのかは研究分野や参加者による)、あまりレベルの高くない大学なら日本語の本・論文の読み方をゼミで躾けられる。
(「史料」ってのは要するに「昔の人が書き残したこと」。王様の勅令だったりお役所の行政文書だったりインテリの書いた思想書だったり過激派の撒いたアジビラだったり新聞記事だったり、色々である。公文書館に行って実物を見てくる場合もあれば、別の学者がまとめて印刷出版してくれたものを参照する場合もある)
何で学部の段階からゼミに分かれるか、というと、「歴史学とは何か」「史料批判とは何か」みたいな概念・方法論レベルの話や、「いやしくも歴史学を学ぶ者として最低限踏まえておくべき各地域・各時代の基礎知識」みたいなのを除けば、分野ごとに身につけるべきスキルが全然違うので。江戸時代の歴史なら江戸時代の古文書、明治期の歴史なら明治期の文書、中国史なら漢文、イギリス史なら当然英語の古文書……を読まないといけない。イギリスについて研究したい学生が日本の古文書の読み解き方を勉強しても時間の無駄だろう。逆もまた然り。
慌てて言えば分野による。
社会調査とかする分野で、自分なりにアンケート調査してみた、とかそういう論文なら、どれだけ拙かろうがオリジナリティはあるだろう。あるいは歴史学でも、オリジナルな史料を発掘することが可能な分野ならオリジナリティは出る。
ただやっぱり、学部4年の段階で大層な「オリジナリティ」は出てこない。そもそも外国史の場合、史料の読解すら教員の手助けを得てようやく、という人が多い。歴史学では一次史料が重視されるが、私の分野では卒業論文で一次史料を使った時点で優秀な学生の部類に入るだろうなと思う。二次文献、つまり他の研究書や論文をまとめて長いレポート(うちの大学では3万2,000字が下限だったかな)を書けたらOK、という運用をしている大学も多いのではないか。まとめるのにもオリジナリティは出るしね、という苦しい理屈だしそんなの査読つき学会誌に「論文」として発表できるレベルではないが、学会誌に「論文」として出せるレベルのものを要求していると4年では足りないわけで、多くの史学科の学生は修士論文で初めて学会誌に投稿できるレベルのものを要求されることになる。
何度も言うようにこれは分野による。地味に重要なのが、「その言語は大学で第二外国語として開講されているか、あるいは教養科目で講義が受けられるか」という点。朝鮮史やドイツ史やフランス史の場合、韓国語やドイツ語やフランス語は文系の学部ならたいていは必修の第二外国語として教えられていることが多いので、卒論でも韓国語ドイツ語フランス語の論文は読めて当然だよなあ? というハードモードになることもある。中国史なら「高校から漢文やってるんだしゼミでも読んでるんだから卒論でもちゃんと漢文の史料は読めるよね? 現代中国語の論文も読んでね」ということになるだろう。英語? そんなの読めて当然でしょ? 第二外国語ではなくとも、たとえばトルコ語やアラビア語なら多少気の利いた大学なら教養科目とかで開講されているから、イスラーム史やりたいなら学部1年のうちから履修しといてね、という話になると思う。逆に、マイナー外国語が必要な分野だと、せめて英語の本くらいは読んどいてね、くらいにまでハードルは下がる。アイスランド史を勉強したいです! と言われても、日本でアイスランド語の授業がある大学がいったいいくつあるのか……という話になるわけで。まあ東大の某ゼミではゲエズ語購読とかやってたらしいですけどね。雲の上の世界すぎてまったく想像もつかない。
なので、大学に入った段階で既にどの分野に進むのかなんとはなしの道筋がついていないと厳しい。第二外国語で韓国語を選択して、やっぱり私ドイツ史がやりたい! というのは不可能ではないが難しい。第二外国語選びの段階である程度進路が決まってしまう、というのが史学科の特徴だ(まあ、英文学科とかは、学科選びの段階で専門地域が決まってしまうわけだが……)。イスラーム史やるなら第二外国語はフランス語にしないとね。そんなのついこないだまで高校生だった連中にわかるか! もちろんこれは大学による。西洋史に進学した者にはドイツ語とフランス語双方の習得を義務付ける大学もあるそうである。これならヨーロッパのたいていの地域に対応できるね! 史学は語学と言われる所以だ。
あとは西洋以外の地域だと、「史料に書かれている言語」と「論文に使われている言語」が違うことが結構あって、何でかといえば近代以降に西洋諸国に植民地支配されていたりすると「オランダ人研究者がオランダ語で書いたインドネシア史についての先行研究」みたいなのがたくさんあるので。つまりいくらインドネシア語やアラビア語が堪能でもそれだけでは片手落ちで、オランダ語やフランス語ができないと先行研究が読めないので勉強せざるを得ない(付け加えるなら、植民地支配されてたということは、お役所では宗主国の言語が使われていたり宗主国のお役所に植民地統治を担当する部局があったりしたわけで、それらの史料は当然宗主国の言語で書かれている)。さらに前近代史だと、「昔使われていた言語」と「現在使われている言語」が異なっていることが多く、典型的には古文とかラテン語とかである。現代日本語の論文はスラスラ読めても古典日本語はチンプンカンプンという人も多かろう。前近代非西洋の征服王朝なんかだと大変で、現地語+支配階級の言語+植民地支配してたヨーロッパの言語、をやらなければいけなかったりする(アラビア語+オスマン語+フランス語、みたいな感じ)。いやー、西洋現代史はヌルゲーの領域っすわ……その国の言語ができれば用足りるからなぁ。現地に行けばネイティブスピーカーがいるから勉強も簡単だし(アッカド語みたいなネイティブがいない言語を習得してる人ほんと尊敬する)。もちろんここで少数民族とか国際関係史とかに興味を持ってしまうと語学沼に引きずり込まれるわけだが。イギリス史なら英語だけでいいだろうと思っていたらうっかりウェールズに興味を持ってしまいウェールズ語を勉強することになりました、とか、ドイツ語だけで通そうと思っていたら枢軸国の外交に興味を持ってしまったせいでイタリア語も読んでます、みたいな。とはいえこれらは院に進学してからの話(あるいは院への進学を希望する学部生の話)だ。院に進学しない学生の卒論レベルなら日本語+英語or中国語でじゅうぶん、という運用の大学がほとんどだと思う。
(ヨーロッパの植民地についてしか述べていないのは、日本の植民地の場合宗主国の言語を習得する困難はほぼ存在しないからであって、日本は植民地支配をしていなかったと言いたいわけではないので念の為。もちろんこれは日本語母語話者である学生の話で、韓国や台湾の学生あるいはそれらの国からの留学生は植民地時代の自国史を勉強しようと思ったら日本語を読まなければいけないわけであり、なんというか申し訳ない)
でもまあ、卒論書くのは大事ですよ。たとえそれがレポートに毛の生えたレベルのものであっても、院に行かない学生にとっては専門家に指導されしっかりと文献を読み込んだ上でこんな長文を書かされる機会はこの先の人生でなかなかないし、それを経験するというのが大学に行く意味だと思う。院に行く学生にとってはもっと長い修論や博論書くんだから当然このくらい書けなきゃ話にならんわけで。
これも分野によるのだけれど、たいていどっかに留学する。中国史なら中国や台湾、フランス史ならフランス、みたいに。留学先で大学のゼミに参加したり史料を集めたり現地の専門家に指導を受けたり、あるいは分野によっては語学の勉強をしたりする。もちろん複数国に留学してもいいし、研究対象国以外に留学することもありえる。アフリカ史を研究するためにポルトガルに留学した人がいたり(イエズス会士が書いたものを読みたかったらしい)。で、帰国してから博論を書く(たまに留学先でそのままPh.D獲っちゃう人もいる)。
上述のような事情があるので、歴史学を専攻している人はたいてい4年以上博士課程に在籍する。ちゃんとした大学で3年で博士号獲るのは一部のバケモノだけです。たまにいるんだよそういうバケモノが。日本史なら楽勝かというとそういうわけではなく普通に4年以上かかってることが多い。留学期間とかもあるので、博士課程の先輩に学年を聞いても即答できないことが多いから気をつけよう。29歳でドクター? 夢物語かな? まあ本当に文系の大学院なんて資産家の子供か養ってくれる配偶者持ちか自殺志願者以外は来ない方がいいです。男性歴史学者が書いた研究書のあとがきに奥さんへの謝辞が書いてある場合、もちろん本当に純粋な感謝の念であることも多かろうがけっこうな確率で一時期ヒモ生活を送っていたことへの感謝だったりする。奥さんの実家でチクチクとイヤミを言われた経験を聞かせてくれた教授もいらっしゃる。これ有名大学の教授様になれたから笑って話せるだけで、なれなかったら悲惨だよな……。まあでも、研究者の不遇っぷりは文理問わないか。
id:wildhog 言語と研究の価値は直接関係ない。とはいえ世界大学ランキングに役立たないし、留学生や海外の研究者に対して敷居が高くなるから英語で書いた方が得じゃない?
じゃあランキング気にするのやめるか英語以外の研究も拾えるランキングにしろよボケ,が前段への返答で,そんならアメリカ人は日本人にとって敷居の高い英語やめてくれない? 日本語で論文書けよ! が後段への返答っすね.マジあいつら日本史や日本社会についての論文や著書すら英語で書きますからね.それを日本人の研究者がわざわざ日本語に翻訳してますからね(悔しいことに面白いんだこれが).別にそれが悪いことだとはまったく思わない,というかむしろアメリカ人の日本研究者が英語で書くのはそりゃ当たり前でしょって感じだけど,広い読者にわかるように日本の研究者は英語で書けとか言われたらまずあいつらに日本語で書かせてから言えよくらいは言っていいですよね.日本史の読者のボリュームゾーンはまずもって日本人なわけで.アメリカ人が英語で日本についての論文を書いても,えー英語論文しかないのー,日本語論文書いてないとかレベル低すぎー,とアメリカのアカデミアで冷遇される世界になったら日本語で論文書いてる欧米研究者を冷遇してくれて一向に構わないので,そのへんどうかよろしくお願いします.
というか日本語を習得して日本語で論文や博論書いて本も出してる留学生の方だって大勢いらっしゃるわけですよ.私はこれまで,中国人・韓国人・台湾人・モンゴル人・ポーランド人が書いた日本語の単著を読んだことがあるし,ウイグル人やカザフ人やエジプト人やアメリカ人で日本語論文書いてるひともおられる.琉球の方言学とか見ると定期的に日本語論文を投稿してらっしゃるニュージーランド人研究者もいらっしゃいますね.日本語は外国人研究者によっても使われる立派な学術言語です.
モンゴル人研究者が日本語で書いた単著の一例(査読つき)> https://www.yamakawa.co.jp/product/67381
id:parosky 論文は人類の知の体系に貢献するものだからみんながアクセスできる言語じゃないとダメじゃない? という意味で英語なことが重要だと思ってたけど、たしかに界隈の人がみんな日本語を読めるなら日本語でもいいね
「みんなが日本語を読める」んじゃなくて,「重要な日本語の先行研究がたくさんあるから頑張って日本語を勉強する」んですよ……
この辺の感覚が理解されてないんですかね? 文系にとって標準言語は英語だけではなく,分野によってはいくつかあったりするのが普通なので,頑張っていくつかの言語を勉強するんです.西洋古代史なら英語や古典語の他にフランス語とドイツ語の先行研究を読む必要があるし,インドネシアの近代史や人類学を勉強したければ英語とインドネシア語の他にオランダ語を学ぶし,中国の前近代史なら英語と中国語の他に日本語が読めないとね,という要求水準があって,それらの言語を知らない人は勉強する必要があるわけですよ.英語さえ読めれば研究ができるひとたちにはわからない感覚かもしれませんけど.
正直,中国を研究してる欧米人が英語論文の中で日本語を引用してるのを見て,「あっ,つづり間違ってるな,こいつあんまり日本語得意じゃないな」って思うことはあります.たぶんもともと中国語が専門で,日本語は研究に必要だからいやいや読んでるんだと思いますけど,西洋を研究してる日本人は同じことをドイツ語とかフランス語とかに対して思ってたりするわけで,まあお互い様っすね.
id:nakex1 自国語しかやってないと自国語で形成される村の思考の枠組み(そこから発生する評価の枠組み,師弟関係や派閥)から出られないんじゃないかという懸念はある。
師弟関係やら派閥やらはともかく、思考の枠組みとか言われても、社会学は英語圏からの輸入学問なんだから、英語圏の発想や思考をバッチリ取り入れた論文書いてますよ! 英語圏の理論の本とか翻訳されまくってるし,未翻訳の本でも原語で引用してるひとは大勢いますねえ.当たり前だけど,執筆言語が自国語であっても,自国語で論文書くために読まなきゃいけない言語はいくつもあるわけで……
id:kanekoshinichiro 日本語で学術を述べてもいいけどガラパゴスにならない?どこかで日本人以外に読んで欲しくないのかなと思ってしまうな。もっとオープンになればいいのに。英語できるでしょ。
ドイツ語より母語話者人口が多い言語を捕まえてガラパゴスとか言われても困りますわー.日本語は話者数世界トップ10に入る大言語なのですが.ちなみに欧州なんかだと日本の10分の1くらいの人口しかいない小国にもちゃんと日本語学科が設置されて現地語で日本研究の論文が書かれてたりします.日本語学習者って世界中にいるので日本語で論文書いてもガラパゴスでも何でもないんですよね.日本人は勉強して英語論文を読んでいるんだから日本人以外も勉強して日本語論文を読んでください.
id:nt46 ペレルマンの論文はポアンカレ予想という関心分野で他の数学者がその正しさを検証したから業績になってるのであって、事実上査読は行われている。
それが査読になるなら日本語の著書や無査読紀要論文も出版後に多くの同業者が読んでチェックしてるから事実上査読つきですね.ありがとうございました.
id:steel_eel 本質は学問が正当性を確保するためのクロスチェックがどう機能してるかであり、その点で現状ベターなのが英語の使用&査読でチェックを受けるシステムなわけで、それが無いなら代替の何があるのかを示さんとな。
分野によるという話をしています.たとえば日本に関する研究なら別に日本語でもいいですよね.日本史や日本社会を研究しているのに日本語の論文を読めない研究者は三流以下なので,そんなひとに査読を頼んでも別に正確性や信頼性が向上するわけではない……というのは理解していただけますか? 日本以外の地域の研究にしたって,前近代の中国史を扱うならば,中国人研究者が日本語の著作を引用したりする世界なので,日本語で書いて査読してもらえばよくないです?
id:operator 日本語か英語かではなく、国際学会のトップカンファレンスを目指して研究したこともないのに教授になれるの?というのが理系からみた驚きなんでしょ。日本古典文学の研究も、英語で文学分野の国際学会に出せるよね。
だからなんでその「トップカンファレンス」の言語が英語である必然性があるんだと小一時間.確か日本文学については日本語が公用語の国際会議みたいなやつはあったはずですし,ロシア文学の国際会議はロシア語でやるはず.英語以外の言語を発表言語に指定されたカンファレンスは出たことあるけどまああれはトップカンファレンスではないか.ともかく,その「トップカンファレンスの公用語は英語」という思い込みをまず捨てやがれください.そんなん理系や一部文系分野のローカルルールでしょ.
id:tarume バベルの塔を折りたい人。なにが"なんとも愉快な未来予想図"だか、英語コンプレックス隠せよ / 知を共有するために論文書いてんだから、まずは一人でも多くの人間が読める言語で書くのは当然でしょ。自国語訳はその後
文系がバベルの塔を折りたがってるんじゃなくて,そもそも文系には共通言語がはじめからなかったという話です.なかったものを探究しろと言われても……
今イギリスに住んでて、カナダにも住んだことがあるので書いてみる。日本でソフトウェアエンジニアとして5年くらい働いて疲れたのでとりあえず海外に行くことを2015年頃に計画して実行した。自分自身は英語も技術力も至って普通なので誰でも行けると思う。
1年くらい働いた(+英語学校と仕事探し含めて半年くらい)。個人的には一番住みやすかった。仕事は朝9時から10時の間に出社して5時には普通に帰る感じ。土日は絶対休みで有給は10日くらい。家賃は2人でシェアして1人6万前後、食材は消費税かからないので自炊すると良い。韓国料理と中華料理はそこそこ美味しくて口に合うし安いので外食もしやすい。冬の気温は-25度だけどその分暖房はしっかりしてる。英語話せない人にもみんな優しい。
30歳以下の人ならワーホリ申請して行ってみるのもいいかもしれない。実際に入国するときに発行されるビザは普通の労働ビザなので1年好きに働ける(ただ入国時に仕事決まってないことが条件)。中国人・ロシア人を始めここに長く留まりたい人がやるのは1年か2年カレッジに通って労働ビザを取得して就労、その会社にビザを伸ばして貰ったりして永住権を取る、という方法。その時に一緒に働いていた中国人とロシア人はそんな感じだった。永住権を取得するまで(3年〜5年くらい?)は同じ会社で働いて、それが取れたら辞めて自分の働きたいところで働く感じになると思う。
今住んでるところ(もうすぐ1年)。想定してたより遥かに安全だし歩きスマホしてる人もたまに見る。バイクから歩行者のスマホひったくるみたいなのはあるにはあるので注意。今の家賃が2人でシェアして1人12万くらいで少々高め。高い家賃払って安全な場所に住むか、安い家賃で危険な場所に住むかのトレードオフになる。
ロンドンに住んでる人はだいたいが他の国から来た人で、フランス・ドイツ・ベルギー・スペインあたりが多い。この人たちはEUの国籍持ってるので労働ビザが必要無い。EU離脱後、ソフトウェア技術者不足解消の為にそれ向けのビザを作ることが検討されてるらしいので日本人にとってもチャンスかも。今現在でも、うちの会社にEU圏外のトルコ・インドネシア・エジプトあたりの人が労働ビザ取って来てるので会社探せば来れると思う。
労働環境は素晴らしく、9時〜10時の間に出社し、5時〜6時には帰る。ヨーロピアンは全体的に、「今日できないことは明日やる」傾向がある。今日で終わらせる予定だったけど終わらない場合は、期日を伸ばすか、やらないかのどちらかでほぼ残業しない。有給はEUの法律で最低25日(+8日間祝日)、2週間くらい休んでも別に何も言われない。うちの社員の半分は女性でみんな産休はめっちゃ取ってる、その間は契約社員が入って代わりに仕事をしてる。あとは子供を迎えに行く為に毎日3時とか4時に帰る人もいるし、家で仕事する人もいる。地下鉄はたまに遅れるけどそれがあれば車はいらないし、快適に生活できる。外国人多いのもあって英語が多少変でも許容されることが多い。
自分はYMS(2年限定の労働ビザ)を取って自分で会社探して入ったけど、普通のスキルがあればおそらく普通の労働ビザを取れると思う。ただ、永住権の取得はかなり難しくて、一定以上の年数働いてないと申請できないんだけど、今自分が取ってるビザとか駐在員が取るようなビザだと年数にカウントされないらしい。3年後5年後ここに住み続けるかはまだわからない。
いつだかオランダで働くのにビザがいらないみたいな記事が流行ったけど、あれはもうできないはず。行ったことはあるけど住んだことはない。ただ、今働いてる会社にオランダで働いていたEU圏外の人(トルコ人とインドネシア人)がいるので頑張れば労働ビザを取れるはず。Booking.comみたいな世界中から人を採用してるような大きな会社もあるし、オランダ語喋れなくてもほとんどの人は英語を流暢に喋れるから英語だけで生活はできるはず。ここも外国人が多い都市だし生活はしやすいと思う。
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曖昧さ回避 「ベートーヴェン、ベートーベン、ヴァン・ベートーヴェン」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「ベートーヴェン (曖昧さ回避)」をご覧ください。
Beethoven.jpg
別名 楽聖
生誕 1770年12月16日頃
死没 1827年3月26日(56歳没)
活動期間 1792 - 1827
ベートーヴェンのサイン
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(独: Ludwig van Beethoven、標準ドイツ語ではルートヴィヒ・ファン・ベートホーフェンに近い[1]、1770年12月16日頃[2] - 1827年3月26日)は、ドイツの作曲家。J.S.バッハ等と並んで音楽史上極めて重要な作曲家であり、日本では「楽聖」とも呼ばれる。その作品は古典派音楽の集大成かつロマン派音楽の先駆けとされている。
目次 [非表示]
1 生涯
2 作風
2.1 初期
2.2 中期
2.3 後期
3 後世の音楽家への影響と評価
4 芸術観
5 思想
6 人物
6.1 名前
7 死因また健康について
7.1 聴覚障害について
8 親族
9 弟子
10 代表作
10.1 交響曲(全9曲)
10.2 管弦楽曲
10.3 協奏曲、協奏的作品
10.4 室内楽曲
10.5 ピアノ曲
10.6 オペラ、劇付随音楽、その他の声楽作品
10.7 宗教曲
10.8 歌曲
11 著作
12 伝記
13 脚注
14 参考文献
15 関連項目
16 外部リンク
16.1 録音ファイル
16.2 伝記
生涯
ベートーヴェン(1803年)
1770年12月16日頃、神聖ローマ帝国ケルン大司教領(現ドイツ領)のボンにおいて、父ヨハンと、宮廷料理人の娘である母マリア・マグダレーナ(ドイツ語版)の長男[3]として生まれる。ベートーヴェン一家はボンのケルン選帝侯宮廷の歌手(後に楽長)であり、幼少のベートーヴェンも慕っていた、祖父ルートヴィヒの援助により生計を立てていた。ベートーヴェンの父も宮廷歌手(テノール)[4]であったが、元来無類の酒好きであったために収入は途絶えがちで、1773年に祖父が亡くなると生活は困窮した。1774年頃よりベートーヴェンは父からその才能を当てにされ、虐待とも言えるほどの苛烈を極める音楽のスパルタ教育を受けたことから、一時は音楽そのものに対して強い嫌悪感すら抱くようにまでなってしまった。1778年にはケルンでの演奏会に出演し、1782年11歳の時よりクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事した。
1787年、16歳のベートーヴェンはウィーンに旅し、かねてから憧れを抱いていたモーツァルトを訪問したが、最愛の母マリアの危篤の報を受けてボンに戻った。母はまもなく死没し(肺結核)[5]、母の死後は、アルコール依存症となり失職した父に代わり、いくつもの仕事を掛け持ちして家計を支え、父や幼い兄弟たちの世話に追われる苦悩の日々を過ごした。
1792年7月、ロンドンからウィーンに戻る途中ボンに立ち寄ったハイドンにその才能を認められて弟子入りを許され、11月にはウィーンに移住し(12月に父死去)、まもなく、ピアノの即興演奏の名手(ヴィルトゥオーゾ)として広く名声を博した。
20歳代後半ごろより持病の難聴(原因については諸説あり、鉛中毒説が通説)が徐々に悪化、28歳の頃には最高度難聴者となる。音楽家として聴覚を失うという死にも等しい絶望感から、1802年には『ハイリゲンシュタットの遺書』をしたため自殺も考えたが、彼自身の芸術(音楽)への強い情熱をもってこの苦悩を乗り越え、再び生きる意欲を得て新たな芸術の道へと進んでいくことになる。
1804年に交響曲第3番を発表したのを皮切りに、その後10年間にわたって中期を代表する作品が書かれ、ベートーヴェンにとっての傑作の森(ロマン・ロランによる表現)と呼ばれる時期となる。その後、ピアニスト兼作曲家から、完全に作曲専業へと移った。
40歳頃(晩年の約15年)には全聾となっり、更に神経性とされる持病の腹痛や下痢にも苦しめられた。加えて、度々非行に走ったり自殺未遂を起こすなどした甥カールの後見人として苦悩するなどして一時作曲が停滞したが、そうした苦悩の中で書き上げた交響曲第9番や『ミサ・ソレムニス』といった大作、ピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲等の作品群は彼の未曾有の境地の高さを示すものであった。
1826年12月に肺炎を患ったことに加え、黄疸も併発するなど病状が急激に悪化し、以後病臥に伏す。病床の中で10番目の交響曲に着手するも未完成のまま翌1827年3月26日、肝硬変のため56年の生涯を終えた。その葬儀には2万人もの人々が参列するという異例のものとなった。この葬儀には、翌年亡くなるシューベルトも参列している。
作風
初期
作曲家としてデビューしたての頃は耳疾に悩まされることもなく、古典派様式に忠実な明るく活気に満ちた作品を書いていた。この作風は、ハイドン、モーツァルトの強い影響下にあるためとの指摘もある[6]。
中期
1802年の一度目の危機とは、遺書を書いた精神的な危機である。ベートーヴェンはこの危機を、ウィーン古典派の形式を再発見する事により脱出した。つまりウィーン古典派の2人の先達よりも、素材としての動機の発展や展開・変容を徹底して重視し、形式的・構成的なものを追求した。この後は中期と呼ばれ、コーダの拡張など古典派形式の拡大に成功した。
中期の交響曲はメヌエットではなくスケルツォの導入(第2番以降)、従来のソナタ形式を飛躍的に拡大(第3番)、旋律のもととなる動機やリズムの徹底操作(第5、7番)、標題的要素(第6番)、楽章の連結(第5、6番)、5楽章形式(6番)など、革新的な技法を編み出している。その作品は、古典派の様式美とロマン主義とをきわめて高い次元で両立させており、音楽の理想的存在として、以後の作曲家に影響を与えた。第5交響曲に典型的に示されている「暗→明」、「苦悩を突き抜け歓喜へ至る」という図式は劇性構成の規範となり、後のロマン派の多くの作品がこれに追随した。
これらのベートーヴェンの要求は必然的に「演奏人数の増加」と結びつき、その人数で生み出される人生を鼓舞するかのような強音やすすり泣くような弱音は多くの音楽家を刺激した。
後期
1818年の二度目の危機の時には後期の序曲集に代表される様にスランプに陥っていたが、ホモフォニー全盛であった当時においてバッハの遺産、対位法つまりポリフォニーを研究した。対位法は中期においても部分的には用いられたが、大々的に取り入れる事に成功し危機を乗り越えた。変奏曲やフーガはここに究められた。これにより晩年の弦楽四重奏曲、ピアノソナタ、『ミサ・ソレムニス』、『ディアベリ変奏曲』、交響曲第9番などの後期の代表作が作られた。
後世の音楽家への影響と評価
ベートーヴェンの音楽界への寄与は甚だ大きく、彼以降の音楽家は大なり小なり彼の影響を受けている。
ベートーヴェン以前の音楽家は、宮廷や有力貴族に仕え、作品は公式・私的行事における機会音楽として作曲されたものがほとんどであった。ベートーヴェンはそうしたパトロンとの主従関係(および、そのための音楽)を拒否し、大衆に向けた作品を発表する音楽家の嚆矢となった。音楽家=芸術家であると公言した彼の態度表明、また一作一作が芸術作品として意味を持つ創作であったことは、音楽の歴史において重要な分岐点であり革命的とも言える出来事であった。
中でもワーグナーは、ベートーヴェンの交響曲第9番における「詩と音楽の融合」という理念に触発され、ロマン派音楽の急先鋒として、その理念をより押し進め、楽劇を生み出した。また、その表現のため、豊かな管弦楽法により音響効果を増大させ、ベートーヴェンの用いた古典的な和声法を解体し、トリスタン和音に代表される革新的和声で調性を拡大した。
一方のブラームスは、ロマン派の時代に生きながらもワーグナー派とは一線を画し、あくまでもベートーヴェンの堅固な構成と劇的な展開による古典的音楽形式の構築という面を受け継ぎ、ロマン派の時代の中で音楽形式的には古典派的な作風を保った。しかし、旋律や和声などの音楽自体に溢れる叙情性はロマン派以外の何者でもなかった。また、この古典的形式における劇的な展開と構成という側面はブラームスのみならず、ドヴォルザークやチャイコフスキー、20世紀においてはシェーンベルク、バルトーク、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、ラッヘンマンにまで影響を与えている。
芸術観
同時代のロマン派を代表する芸術家E.T.A.ホフマンは、ベートーヴェンの芸術を褒め称え、自分たちロマン派の陣営に引き入れようとしたが、ベートーヴェンは当時のロマン派の、形式的な統一感を無視した、感傷性と感情表現に代表される芸術からは距離を置いた。ベートーヴェンが注目したものは、同時代の文芸ではゲーテやシラー、また古くはウィリアム・シェイクスピアらのものであり、本業の音楽ではバッハ、ヘンデルやモーツァルトなどから影響を受けた[7]。
ベートーヴェンが「前衛」であったのかどうかは、多くの音楽学者で見解が分かれる。原博は「ベートーヴェンは前衛ではない」と言い切り[8]、彼は当時の「交響曲」「協奏曲」「ソナタ」「変奏曲」などの構造モデルに準拠し、発案した新ジャンルというものは存在しない。ただし、「メトロノームの活用」「母語での速度表示」「ピアノの構造強化と音域の拡張」「楽曲の大規模化」「大胆な管弦楽法」「演奏不可能への挑戦」「騒音の導入(戦争交響曲)」など、後世の作曲家に与えた影響は計り知れないものがある。
思想
ベートーヴェンはカトリックであったが敬虔なキリスト教徒とはいえなかった。『ミサ・ソレムニス』の作曲においてさえも「キリストなどただの磔(はりつけ)にされたユダヤ人に過ぎない」と発言した。ホメロスやプラトンなどの古代ギリシア思想に共感し、バガヴァッド・ギーターを読み込むなどしてインド哲学に近づき、ゲーテやシラーなどの教養人にも見られる異端とされる汎神論的な考えを持つに至った。彼の未完に終わった交響曲第10番においては、キリスト教的世界と、ギリシア的世界との融合を目標にしていたとされる。これはゲーテが『ファウスト』第2部で試みたことであったが、ベートーヴェンの生存中は第1部のみが発表され、第2部はベートーヴェンの死後に発表された。権威にとらわれない宗教観が、『ミサ・ソレムニス』や交響曲第9番につながった。
また哲学者カントの思想にも触れ、カントの講義に出席する事も企画していたといわれる[7]。
政治思想的には自由主義者であり、リベラルで進歩的な政治思想を持っていた。このことを隠さなかったためメッテルニヒのウィーン体制では反体制分子と見られた。
その他にも、天文学についての書物を深く読み込んでおり、彼はボン大学での聴講生としての受講やヴェーゲナー家での教育を受けた以外正規な教育は受けていないにも関わらず、当時において相当の教養人であったと見られている。
人物
身長は165cm前後と当時の西洋人としては中背ながら、筋肉質のがっしりとした体格をしていた。肌は浅黒く、天然痘の瘢痕があったとされるが、肖像画や銅像、ライフマスクや近年明らかとなった多彩な女性関係などから容貌は美男とは言えないものの、さほど悪くなかったのではないかと思われる。表情豊かで生き生きした眼差しが人々に強い印象を与え多くの崇拝者がいた。
基本的に服装には無頓着であり、若い頃には着飾っていたものの、歳を取ってからは一向に構わなくなった。弟子のツェルニーは初めてベートーヴェンに会った時、「ロビンソン・クルーソーのよう」、「黒い髪の毛は頭の周りでもじゃもじゃと逆立っている」という感想を抱いたと言われる。また作曲に夢中になって無帽で歩いていたため、浮浪者と誤認逮捕されてウィーン市長が謝罪する珍事も起こった。部屋の中は乱雑であった一方、入浴と洗濯を好むなど綺麗好きであったと言われる。また生涯で少なくとも60回以上引越しを繰り返したことも知られている。
当時のウィーンではベートーヴェンが変わり者であることを知らない者はいなかったが、それでも他のどんな作曲家よりも敬愛されており、それは盛大な葬儀と多数の参列者を描いた書画からも伺える。しかし、「ベートーヴェン変人説」も、メッテルニヒ政権によるデマであるとする見解もある。
潔癖症で手を執拗に洗うところがあった。
性格は矛盾と言っても差し支えのない正反対な側面があった。人づきあいにおいて、ことのほか親切で無邪気かと思えば、厳しく冷酷で非道な行動に出るなどと気分の揺れが激しかった。親しくなると度が過ぎた冗談を口にしたり無遠慮な振る舞いを見せたりすることが多かったため、自分本位で野蛮で非社交的という評判であったとされている。これもどこまで真実なのかは定かではないが、ピアノソナタ・ワルトシュタインや弦楽四重奏曲・大フーガつきの出版に際して、出版社の「カット」命令には律儀に応じている。癇癪持ちであったとされ、女中(女性)に物を投げつけるなどしばしば暴力的な行動に出ることもあったという。
師ハイドンに、楽譜に「ハイドンの教え子」と書くよう命じられた時は、「私は確かにあなたの生徒だったが、教えられたことは何もない」と突っぱねた。
パトロンのカール・アロイス・フォン・リヒノフスキー侯爵には、「侯爵よ、あなたが今あるのはたまたま生まれがそうだったからに過ぎない。私が今あるのは私自身の努力によってである。これまで侯爵は数限りなくいたし、これからももっと数多く生まれるだろうが、ベートーヴェンは私一人だけだ!」と書き送っている。(1812年)この「場を全くわきまえない」発言の数々はメッテルニヒ政権成立後に仇となり、大編成の委嘱が遠ざかる。
テプリツェでゲーテと共に散歩をしていて、オーストリア皇后・大公の一行と遭遇した際も、ゲーテが脱帽・最敬礼をもって一行を見送ったのに対し、ベートーヴェンは昂然(こうぜん)として頭を上げ行列を横切り、大公らの挨拶を受けたという。後にゲーテは「その才能には驚くほかないが、残念なことに不羈(ふき)奔放な人柄だ」とベートーヴェンを評している。
交響曲第5番の冒頭について「運命はこのように戸を叩く」と語ったことや、ピアノソナタ第17番が“テンペスト”と呼ばれるようになったいきさつなど、伝記で語られるベートーヴェンの逸話は、自称「ベートーヴェンの無給の秘書」のアントン・シンドラーの著作によるものが多い。しかし、この人物はベートーヴェンの死後、ベートヴェンの資料を破棄したり改竄(かいざん)を加えたりしたため、現在ではそれらの逸話にはあまり信憑性が認められていない。
聴覚を喪失しながらも音楽家として最高の成果をあげたことから、ロマン・ロランをはじめ、彼を英雄視・神格化する人々が多く生まれた。
死後、「不滅の恋人」宛に書かれた1812年の手紙が3通発見されており、この「不滅の恋人」が誰であるかについては諸説ある。テレーゼ・フォン・ブルンスヴィック(独語版)やその妹ヨゼフィーネ(独語版)等とする説があったが、現在ではメイナード・ソロモン(en:Maynard Solomon)らが提唱するアントニエ・ブレンターノ(独語版)(クレメンス・ブレンターノらの義姉、当時すでに結婚し4児の母であった)説が最も有力である。しかし、「秘密諜報員ベートーヴェン」[9]のような、これらの定説を覆す新たな研究も生まれている。
これらは氷山の一角に過ぎず、20-30代でピアニストとして一世を風靡していたころは大変なプレイボーイであり、多くの女性との交際経験があった。この行動を模倣した人物に、後年のフランツ・リストがいる。
メトロノームの価値を認め、初めて活用した音楽家だといわれている。積極的に数字を書き込んだために、後世の演奏家にとって交響曲第9番やハンマークラフィーアソナタのメトロノーム記号については、多くの混乱が生まれている。
彼はイタリア語ではなく、母語ドイツ語で速度表示を行った最初の人物である。この慣習の打破はあまり歓迎されず、多くの当時の作曲家も速度表示にはイタリア語を用い、本人も短期間でイタリア語に戻している。
パンと生卵を入れて煮込んだスープや、魚料理に肉料理、茹でたてのマカロニにチーズを和えたものが大好物であった。またワインを嗜み、銘柄は安物のトカイワインを好んでいた。父親に似て大の酒好きであり、寿命を縮めることになったのは疑いがない。
コーヒーは必ず自ら豆を60粒数えて淹れたという[10]。
名前
原語であるドイツ語ではルートゥヴィヒ・ファン・ベートホーフェン ドイツ語発音: [ˈluːtvɪç fan ˈbeːthoːfən] ( 音声ファイル)と発音される。
日本では明治時代の書物の中には「ベートーフェン」と記したものが若干あったが、ほどなく「ベートーヴェン」という記述が浸透していき、リヒャルト・ワーグナーのように複数の表記が残る(ワーグナー、ヴァーグナー、ワグネル)こともなかった。唯一の例外は、NHKおよび教科書における表記の「ベートーベン」である。
姓に“van”がついているのは、ベートーヴェン家がネーデルラント(フランドル)にルーツがあるためである(祖父の代にボンに移住)。vanがつく著名人といえば、画家のヴァン・ダイク(van Dyck)、ファン・エイク(van Eyck)、ファン・ゴッホ(van Gogh)などがいる。
vanはドイツ語、オランダ語では「ファン」と発音されるが、貴族を表す「von(フォン)」と間違われることが多い。「van」は単に出自を表し、庶民の姓にも使われ、「van Beethoven」という姓は「ビート(Beet)農場(Hoven)主の」という意味に過ぎない。しかしながら、当時のウィーンではベートーヴェンが貴族であると勘違いする者も多かった。
偉大な音楽家を意味する「楽聖」という呼称は古くから存在するが、近代以降はベートーヴェンをもって代表させることも多い。例えば3月26日の楽聖忌とはベートーヴェンの命日のことである。
詳細は「フリーメイソン#ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン」を参照
死因また健康について
慢性的な腹痛や下痢は終生悩みの種であった。死後に行われた解剖では肝臓、腎臓、脾臓、他、多くの内臓に損傷が見られた。これらの病の原因については諸説あり、定説はない。近年、ベートーヴェンの毛髪から通常の100倍近い鉛が検出されて注目を集めた。鉛は聴覚や精神状態に悪影響を与える重金属であるが、ベートーヴェンがどのような経緯で鉛に汚染されたかについても諸説あり、以下のごとくである。
ワインの甘味料として用いられた酢酸鉛とする説。
1826年の1月から、肝障害による腹水治療を行ったアンドレアス・ヴァヴルフ医師が、腹部に針で穿刺して腹水を排水した際、毛髪の分析結果では腹部に穿孔するたびに鉛濃度が高くなっていることから、傷口の消毒のために使用された鉛ではないかとする説。
聴覚障害について
難聴(40歳頃には全聾となった)の原因については諸説[11]ある。
耳硬化症説
伝音性の難聴であり、中耳の耳小骨の「つち・きぬた・あぶみ」の内のあぶみ骨が硬化して、振動を伝達できず、音が聞こえなくなる難病。ベートーヴェンの難聴が耳硬化症である論拠として、ベートーヴェンが人の声は全く聞こえていなかったにも関わらず、後ろでピアノを弾いている弟子に、「そこはおかしい!」と注意したエピソードが挙げられる。これは耳硬化症に特有の、人の声は全く聞こえなくなるが、ピアノの高音部の振動は僅かに感じ取ることが出来る性質にあると考えられる。
又、ベートーヴェンは歯とピアノの鍵盤をスティックで繋ぐことで、ピアノの音を聞いていたという逸話もこの説を裏付ける論拠として挙げられる。
先天性梅毒説
「蒸発性の軟膏を体に塗り込んだ(水銀の可能性。当時梅毒の治療法の一つ)」という記述がある為に、論拠とされている。しかし、後にベートーヴェンの毛髪を分析した結果、水銀は検出されず、又、梅毒は眩暈(めまい)の症状を併発するにも関わらず、そうした話が無い為に、先天性梅毒説は説得力の乏しいものとなっている。
鉛中毒説
上載の死因また健康についてを参照。
メッテルニヒ政権説
ベートーヴェンが難聴であっても完全に失聴していたかどうかは、21世紀の現代では疑問視する声が大きい。ベートーヴェンは1820年代のメッテルニヒ政権ではブラックリストに入れられたため、盗聴を防ぐために「筆談帳」を使った可能性は大きい。その延長として「ベートーヴェンは暗号を用いていた」という仮説に基づく「秘密諜報員ベートーヴェン」[9]という書籍が出版された。
有名な逸話に「女中に卵を投げつけた」という類の物が残されているが、これは「女中に変装したスパイ」への正当防衛であるという見解がある。
デビューほやほやのリストの演奏に臨み、彼を高く評価したのは、もし失聴していれば出来ない行為である。
完全失聴や聴覚障害を患った作曲家に、ボイスやフォーレがいるが、彼らの作曲活動はその後伸び悩んでいるのに対し、失聴したベートーヴェンはその間に多くの重要作を書いている。
親族
フランドル地方・メヘレン出身。ケルン大司教(選帝侯)クレメンス・アウグストに見出され、21歳でボンの宮廷バス歌手、後に宮廷楽長となった。
祖母:マリア・ヨゼファ
父:ヨハン
母:マリア・マグダレーナ(ドイツ語版) ヨハンとは再婚(初婚は死別)。肺結核により死去。
甥:カール(ドイツ語版) カスパールの息子。1806年生まれ~1858年没。1826年にピストル自殺未遂事件を起こす。
弟:ニコラウス・ヨーハン
同姓同名の兄や妹2人がいるがすぐになくなっている。
弟カールの血筋が現在も残ってはいるが、ベートーヴェン姓は名乗っていない。カールの直系子孫の一人であるカール・ユリウス・マリア・ヴァン・ベートーヴェン(1870年5月8日生まれ)が1917年12月10日に他界したのを最後に、ベートーヴェン姓を名乗る子孫は途絶えている。
弟子
カール・ツェルニー - クラヴィア奏者・作曲家。
フェルディナント・リース - ボンのクラヴィア奏者・作曲家。
ルドルフ大公 - ベートーヴェンの最大のパトロン。のちにオルミュッツ大司教。弟子としては唯一、ベートーヴェンが彼のために曲を書いている。
ドロテア・エルトマン男爵夫人 - メンデルスゾーンと交流。
アントン・シンドラー - 秘書だが、弟子とされることがある。
代表作
詳細は「ベートーヴェンの楽曲一覧」を参照
交響曲(全9曲)
第1番 ハ長調 op.21
第2番 ニ長調 op.36
第3番 変ホ長調 『エロイカ(英雄)』 op.55[12][13]
第4番 変ロ長調 op.60
第5番 ハ短調 (運命) op.67 [12][13]
第6番 ヘ長調 『田園』 op.68 [12]
第7番 イ長調 op.92
第8番 ヘ長調 op.93
第9番 ニ短調 (合唱付き) op.125 [12][13]
『レオノーレ』序曲第1番 op.138
『レオノーレ』序曲第3番 op.72b
序曲『コリオラン』ハ短調 op.62
交響曲『ウェリントンの勝利またはビトリアの戦い』 op.91
『命名祝日』序曲 op.115
『アテネの廃墟』序曲 ハ長調op.113
『献堂式』序曲 ハ長調op.124
協奏曲、協奏的作品
ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 『皇帝』 op.73 [12]
ヴァイオリン協奏曲ニ長調 op.61
ロマンス第1番 ト長調 op.40
ロマンス第2番 ヘ長調 op.50
三重協奏曲(ピアノ・ヴァイオリン・チェロのための)ハ長調 op.56
合唱幻想曲 ハ短調 op.80
弦楽四重奏曲(全16曲)
第7番 ヘ長調(ラズモフスキー第1番) op.59-1
第8番 ホ短調(ラズモフスキー第2番) op.59-2
第9番 ハ長調(ラズモフスキー第3番) op.59-3
第10番 変ホ長調(ハープ) op.74
第11番 ヘ短調『セリオーソ』 op.95
第12番 変ホ長調 op.127
第13番 変ロ長調 op.130
大フーガ 変ロ長調 op.133
第14番 嬰ハ短調 op.131
第15番 イ短調 op.132
第16番 ヘ長調 op.135
弦楽五重奏曲 (全3曲)
ヴァイオリンソナタ(全10曲)
第5番 ヘ長調 『春』 op.24
第9番 イ長調 『クロイツェル』 op.47
チェロソナタ(全5曲)
ピアノ三重奏曲(全7曲)
第5番 ニ長調『幽霊』 op.70-1
第7番 変ロ長調『大公』 op.97
その他の室内楽曲
ホルン・ソナタ ヘ長調 op.17
六重奏曲 op.81b
七重奏曲 変ホ長調 op.20
管楽八重奏曲 op.103
ピアノソナタ(全32曲)
第8番 ハ短調『悲愴』 op.13
第15番 ニ長調 『田園』
第17番 ニ短調『テンペスト』 op.31-2
第21番 ハ長調 『ヴァルトシュタイン』op.53
第23番 ヘ短調 『熱情』 op.57 [12][13]
第26番 変ホ長調『告別』 op.81a
第30番 ホ長調 op.109
第31番 変イ長調 op.110
第32番 ハ短調 op.111
その他のピアノ曲(変奏曲、バガテル等)
創作主題による6つの変奏曲 ヘ長調 op.34
創作主題による15の変奏曲とフーガ(エロイカ変奏曲)変ホ長調 op.35
『ゴッド・セイヴ・ザ・キング』の主題による7つの変奏曲 ハ長調 WoO.78
『ルール・ブリタニア』の主題による5つの変奏曲 ニ長調 WoO.79
創作主題による32の変奏曲 ハ短調 WoO.80
創作主題による6つの変奏曲 ニ長調 op.76
ディアベリのワルツによる33の変容(ディアベリ変奏曲) ハ長調 op.120
アンダンテ・ファヴォリ ヘ長調 WoO.57
幻想曲 op.77
ポロネーズ ハ長調 op.89
7つのバガテル op.33
11の新しいバガテル op.119
6つのバガテル op.126
バガテル『エリーゼのために』 WoO.59
本来の曲名は『テレーゼのために』であった、という説が有力視されている。
オペラ、劇付随音楽、その他の声楽作品
歌劇『フィデリオ』 op.72c
劇付随音楽『エグモント』op.84
劇付随音楽『アテネの廃墟』 op.113
宗教曲
ミサ曲 ハ長調 op.86
ミサ・ソレムニス ニ長調 [12]
修道僧の歌
歌曲
アデライーデ op.46
汝を愛す
鶉の鳴き声
新しい愛、新しい生
口づけ
追憶
懺悔の歌
コップは、飲み物用の容器全般のことをいい、カップもグラスもコップの仲間です。
コップは、英語のcupで、飲料を入れる容器全般のことをいいます。取っ手の有無や素材などは関係なく、全部cupです。
カップは、取っ手があるコップのことです。 カップの語源は、オランダ語で「飲料を入れる取っ手のある容器」=kopからきています。
グラスとは、ガラス製のコップのことです。
日本では、オランダ語のkopと、英語のcupが混在してしまったので、このように複雑になってしまいました。
ワイングラスは、取っ手がないので、グラスです。
優勝カップは、取っ手付なので、カップです。
マグカップも、取っ手付なので、カップです。
ジョッキは、コップの一種ですが、カップでもグラスでもありません。取っ手付でガラス製のため、どちらにも分類できません。
カップ麺は、取っ手がないのに、なぜカップなのでしょうか。
これはカップ麺の開発時、安藤百福がアメリカでコーヒーカップにチキンラーメンを入れて食べてられいるのを見て、カップ麺というネーミングを思いついたそうです。
25歳で結婚した(後に離婚した)負け犬の遠吠え(オランダ編)
はてな久しぶりだから頑張って空気読むね。
私は1980年生まれ。37歳。
アラサーのころから、言葉の語感が アラサッサ ホイサッサ みたいで
美しくないと思ったんだけど、まあ40手前ですよね。
男性からしたら、年齢きいたらがっかり、の年齢だと思うよ。
わたしが新卒ではたらきはじめたころ 負け犬の遠吠え が ブームになった
当時付き合っていた彼氏は・・・まあその彼氏についてはこの記事では省く
大学に入ってから付き合ったきちんとした最初の彼氏で
そして夫だったから
夫が初めて付き合った男性となる。
ありがちとも特殊ともいわれる理由で
離婚した。
子供がいない。
25で結婚できても。
ざっくりいうと自分は病気を持っていた 難病。
少子化の世の中で 自分が死ぬのを避けるために 子供を産まないで 仕事もどんどん首になって
孤独で 本当に苦しかった でも今思えば恵まれていたと思う
ああ、そうだ、ここで書こうと思っていたんだけど
統計学では30を過ぎたら結婚できる確率隕石に当たる確率に劣る。
と書いてあった。
さて、37の私は今週
若いころモデルをやっていた証拠写真の雑誌の切り抜きも見せてもらった。
年齢も 全然気にしないよと。
彼には2人の子供がいる。
私の友人は嫌というほどアジア人差別や白人優位の現実を知ったうえで
「わたし、ガイジンなんて大っ嫌いで、嫌い嫌いって言ってたのに、嫌だわ、国際結婚になっちゃって。」と
かわいそうなくらい謙遜していた。
自分はネットのチャットやSNSではリアルタイムで英会話ができる、筆談ができる程度の
低い英語力がある。
すべての人種 すべての国の男性が私に年齢を聞いた。
どうやら日本人、アジア人には年齢を聞いてもいいとなめているらしく
白人女性には聞かないのだそうだ
容姿のこともあって年齢は本当に聞かれるのが正直いやだ
男性にだって年齢効くと笑ってごまかされるのに
女性だとなぜか隠すのはおろかだと問い詰められる これには精神を病むほど参ったものだ。
留学したうえで大企業の正社員をやって、いわゆる、日本ではかわいい人気のある白人と日本人のハーフの子供を産んだ
イギリスの旦那さんは日本語ペラペラで、奥さんが働いている日本に住んでいる。
ここが私のケースと大きく違った。
私の場合はSNSで
という条件だった。
しばらくたって
こうセックスって単語の響きは生々しいし、私あんまり使いたくないんですけれど
オランダ人が 君は魅力的だ 僕は日本のアニメやゲームが大好きで ドラゴンボールとファイナルファンタジーは網羅しているんだ
「僕にとっては」君はとてもうつくしいよ・・・
(私は日本で読モ、サロモ程度はやれたので、まあそこそこの容姿です・・・日本では・・・。
ごく普通の容姿で、きちんとメイクすれば、ちゃんと男性が優しくしてくれる普通の女性です。
でも欧米の映画やドラマで美人なアジア人やってる人ってどれもちょっと純日本人にはわからないですよね???
チャン・ツイィーや ルーシー・リュー や 冨永愛より もっとカワイイ キレイな子がいるって思っちゃいますよね???
ルーシー・リューよりローラとか佐々木希とか新垣結衣のほうがいいのにとか思っちゃうような美意識がありますよね。)
私は、結婚するほどまでに私を愛していて
お金の心配もないというのなら、
離婚歴があるというお話なので独身証明書を確認させてもらいたいことや
離婚直後であるならSTDの検査をしてからでないとセックスはしたくないこと
SNSでチャットした相手と初日にセックスなんてできないことを
伝えた。
でも彼の語気は強かった
「わかった、約束する。別のベッドで眠ろう。だけれど、最終的に僕らは、セックスをする。そうだね?」
そういうことなら喜んでフィリピン人のある特定の女性がいっぱいいるだろうに
なぜ私なのかと思った。
最初は離婚の相談に乗っていて励ましていたし
最終的に「いいから、セックスはするんだよな?その条件で結婚してやるからこっちこいよ」
が相手の言い分。
SNSで妻をネットでおとりよせ、ですか。
白人様は。
でも
フレンドがゼロ。なぜだかアカウントが運営側から削除されるのだという。
何度もアカウントが変わって
フレンドがゼロで
フォローしているのは黒人2割 日本人2割 全部女性・・・・。
これは、有色人種専門の白人なんだな。と思ってしまった。さすがに。
六本木とかそういうのでほら、37にもなるとバブルもはじけているけれどやっぱり
どちらも
アジ専 は ごめんね ブスが多かった ごめんね 美人もいたけどごめんね
白人は おじいちゃん で 金持ち が多かった
こっちから近寄ろうとするともう1メートル離れていても走り去るくらい
日本人の女に飽き飽きしている。
やはり「モテすぎないように注意している」と打ち明けてくれた。
第二次世界大戦でやっと植民地時代が終わって100年たってない
白人ならだれでも勝ちだとか
アジア人の妻なら奴隷扱いしてもいいとか
教育水準が低い人間ほどまだおもっているんだな
これは書くつもりなかったんだけど
「へへへ。ホワイト女は初めてだぜ。カラードが好きなんておまえ、珍しいな。」
というメッセージが来た
事実インド系の人間と接触する機会が多かったんだけれども
私が日本人女性というだけで すぐに やっぱりセックスを要求してきたので
あなたがこれを読んでいるとして ごく平凡な日本の育ちだとして
寄ってくるのは
というわけで今は・・・アジアとヨーロッパの女性を残してブロックしてしまった。
旦那は年下の超イケメンなので
いろいろあるだろうけれど、彼女のケースは成功例だと思う。
女子高校生が 一番エロくみえるのは生物学的なものであってロリコンではない、という立場で
私は話しますね
でも、理性のある大人なら、女子高生をころっと騙せるとしてもセックスしないのが人道的でしょ 娘や妹がそうなったらいやでしょ
とにかく
一世紀前は
地球上どの地域でも
欧米のグラビアだって若いカワイイセクシーガールばっかりですよ。
そういうわけで、結局のところ
夕方5時に帰ってこれるような欧米圏の勝ち組男性が家事や育児を手伝えるのは、それはそうだろうし
日本企業の場合はどっちかが専業しゅふ になるか メイドが一人欲しいなってくらい厳しいですよね・・・?
私は・・・夫のほうが経済学に明るいと思ったので夫が財布握ってました
もう白人の奥さんの間に金髪の娘が二人いたので
もう子供がほしい欲求は満たされている。自分の血は残せている。
だから、次の奥さんは正直BBAでもいいわけね。
で、シングルファーザーだから
「ナニー」つまり家政婦が本音では雇いたいけれどお金がかかるわけで・・・
これも
女性に優しいとかそういうだけの理由じゃなくてなんですね・・・。
(省きますが)
SNSには若くきれいに映った写真を私は載せていました。
欧米女性よりもいかにも奴隷的なまでに従順そうに見えたでしょうね
外国人モデルとかミスユニバースのあの堂々たるセクシーは自信満々で怖い感じですが欧米の女性はそんなで普通です。
日本の女性はかわいくかわいくして好きな人を彼氏にしたいから自分からかわいくかわいく女の子らしくして
声も高くしてそうすると結果的に得する・・・(気持ち悪くないさじ加減ならば)
欧米の白人女性の写真 例えば強くて強くて腕相撲では絶対勝てないような
キム・カーダシアンとか・・・そういう女性と付き合いたい男性があまりいないはず 日本
日本人の若い男性が子供を作って結婚したいのは日本のグラビアアイドルみたいな
かわいくて若くて優しそうで従順で内気で恥ずかしがりな、そんな感じですよね?
それを欧米で普通にやると 奴隷扱いしていい、安い女 みたいになるわけです たぶん。
中国の料理 日本人の妻が最高 って ことわざはまだ生きているみたいで
夜も手の込んだ料理
そのうえ男を立てる。
それだけの話で
白人は年齢気にしない
(カップル社会で日本よりも欧米のほうが老夫婦カップルが多いとかそれはまた別の話であるんですが)
確かに、欧米で、知的で、フェミニズムの健全な考えで、女性の年齢を差別しない男性は
いるとして。
私の、今回のオランダ人のようなケースは
話せば話すほど
という目的があって
なにより現地でふつうに釣り合う女性と出会えるはずじゃないですか???
・・・とやんわり指摘したらすぐに返事が来なくなったので
図星だったようです
34歳でイギリスの年下イケメンと結婚した女性はもちろん美人で、とても性格がよくて
日本人男性にも非常にモテている人でした。
もちろん、白人ってひどいブスのアジア顔とばかり付き合うっていうケースもなくはなかったけれど
私の友人は美人です。日本人にモテていました。
ただ、そのイケメンの年下の彼氏は
彼のほうにも年上の日本人女性と結婚するメリットはありました。
これは事実なんです。
もともと欧米は女性差別が少ないだろうからと英語を学び始めて外国人の友達を増やした自分だから言いますが・・・
もちろん、もちろん、広い視野でみると
でも、本音では、白人の欧米の勝ち組男性は(ザッカーバーグはおいとくとして)
若い同じ国のハイレベルの女性が好き・・・・なのが大半で・・・
どうしても何も知らないで男性に服従するであろう日本人女性は・・
たぶん彼らは日本人女性の顔がかわいいと思ってはいないと思います。
それ以上に、従順に男性に尽くす、古いタイプの隷属的な妻がほしい
ということで
最初に「日本人の女がいい」
とターゲットしているんです 最初に。
結果としてたまたま妻が日本人っていうケースならよりハッピーですが・・・
ここらへんで どうも 普通じゃないと思いました
オランダは ミッフィーとか レオ・レオニとか アムステルダムの街とか
そういう点で知的でよい国だと思った。
そういう国のにんげんになれるというメリットによだれを一瞬垂らしたそのあと
「負け犬と言われても もう結婚できなくても このオランダ人と結婚したら
殴られても 奴隷にされても 嫌なセックスを強要されても(既にことばでされている)
アジア人差別で日本人だろうか、北朝鮮人だろうか、中国人のどの階層かも誰にもわかってもらえない。
と思った。
統計学的に年収何百万は数%で35歳以上だと2%しか結婚できなくても・・・
でもこの、有色人種女性だけ狙い撃ちする 非常に低学歴な(無料の職業訓練校しか出ていなかった)
そういう男性と結婚しても
家政婦になるだけで
相手からしたら無料で理想の売春婦と家政婦にお金を払わないで済む・・・
そして本命と浮気されて。
性病が移ったころに離婚しても
私には職歴がない。
だから、お金がなくても心配しなくていい 愛している 愛が一番大切なんだ
という危険な結婚に乗る前に
でも自分らは失敗したので。
年も取ったので。
こんなです。
アラサーのみんなは
統計学的に普通から 理想を下げないと 相手はいないと思っているだろう
そのためには結果としてやっぱりいい大学を出ていい仕事をしているほうが有利ではあるし
簡単だろう。
そうじゃないほうが難しいだろう。
そして私も。
2%という確率の結婚に乗らないのは
ただのFacebookフレンドが 来日して私に会いに来てもくれないし
頼んだ書類も送ってくれないし
「従順そうな日本人女狙い撃ち」しているってことは
支配的な男なんだろうなと。
悲惨な、結婚生活になって、DVと貧困と差別を受けるのが目に見えているのに
何でそんなプロポーズに乗るんだ?
一時、世間をだませるかもしれないけれど
事実、間違いなく破綻することが目に見えた。
そういうわけで
こんなに長文なのは
不眠症で
離婚してうつだからです。
お読みいただいてありがとうございました。
博多通りもん(はかたとおりもん)は、福岡県福岡市博多区に所在する株式会社明月堂が製造している土産菓子である。
1993年(平成5年)3月8日から販売されており、福岡県の代表名菓である。
白餡の中に練乳・バターを使用した、和洋折衷の饅頭。ミルクの香りが優しい皮に白餡が包まれている。
毎年5月3日・4日に行われる福岡・博多名物のお祭り「博多どんたく」。明治時代の流行語でもあったオランダ語の休日
「ゾンターク[Zondag]」がなまって「どんたく」という博多弁になりました。どんたくは”西洋休日”として親しまれ、
面白楽しく練り歩く人々で博多の街は大にぎわい! このどんたくをしている姿、すなわちどんたく衣装に身を包み、三味線を弾き、
笛や太鼓を鳴らして練り歩く姿・形を博多弁で「通りもん(とおりもん)」と言います。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%9A%E5%A4%9A%E9%80%9A%E3%82%8A%E3%82%82%E3%82%93
増田は初めてで、文章も普段あまり書かないので、色々読みにくかったらすんません。
100年前の条約はまだ生きていた。オランダ大使館で聞いた日本人が知らない特権
http://www.lifehacker.jp/2016/01/160118holland_embassy_nfia.html
日本人は労働ビザが必要なくなり、雇用主の手間がぐっと楽になった。ただ、移住する国としてはどうなんだろうなーと、個人的に思う。ビジネスだったら一時期の経験として割り切れるけど、移住ということはずっと残りの人生をオランダで過ごすってことだよね?住めば都とは言うけど、日本人・外国人に関わらず、最初の1年でオランダ滞在をギブアップする人はけっこういる。
とにかくオランダは国や人のクセが強い。合う人は長く住むけど、合わない人はすぐに帰国する。
もちろん「いやそこは頑張って慣れろよ」という部分もあると思うのだけど、異文化適応は先に知ってたかどうかがけっこうネックだと思う。
ネットでは、キラキラしたオランダの良いところばかり取り上げられていて、ネガティブな情報が無いのが気になったので、個人的に移住を(簡単に)おススメできない理由を挙げてみようかと。
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よく「オランダ人は英語が話せるので、オランダ語が話せなくても大丈夫」という触れ込み(?)を見るが、実際は役所や移民局から届く大量の手紙は全部オランダ語。諸々の申請書類も、ゴミの収集場所変更のお知らせも、銀行の書類もガス給湯器の説明書もオランダ語。書類スキャンしてGoogle Docsにぶちこめば読めるけど、OCR技術はパーフェクトではないのでそれなりに時間がかかる。年月が経てばある程度慣れてくるけど。
加えて駅や電車内のアナウンスも(主要都市の駅以外)オランダ語。オランダの鉄道はトラブルが多く、途中の駅で降ろされて1時間待たされるとか、急に到着ホームが変わって乗客みんなでダッシュとかザラ。そんな場合でもアナウンスはオランダ語なので、わからない場合は周りの人に聞くしかない。乗ってた電車の到着駅がいきなり変更とアナウンスされても気づかないことも(実体験)。
そういう環境なので、話せる言語が英語だけだった自分にとっては、毎日のちょっとした事がけっこうストレスだった。なので、ネットなんかに書いてある「英語話せれば大丈夫!」という言葉をそのまま信じて行くと、現地で騙された気分になると思う。
※ちなみにオランダ歴長い日本人(オランダ人と結婚した人は省く)でもオランダ語話せない人は多い。オランダ以外で役に立たないから。
というか中国人差別。ただこれはコミュニティによる。酷いのはオランダ人の中流以下(特に田舎)コミュニティと、トルコ・モロッコ系移民コミュニティ。前から歩いてきた男数人にすれ違いざま「ニーハオ!」と威嚇された回数は数知れず。叩かれたり、蹴られたりした人も。子供にまで言われた時はどうしようかと思った。(しかも隣にいた親らしき大人は注意しない。闇)最初はコミュニケーション?とポジティブに取ってたが、表情や態度でバカにされてると分かった。「中国人じゃないですよ」と返した時期もあったが、逆に日本人と身バレするのもアレなので、ひたすらスルー。当たり前だが、アジア人以外の外国人と一緒にいる時は一度も経験したことは無い。
そこまで直接的じゃなくても、ローカルなレストランで店員の接客態度が白人と我々であからさまに違うことは、残念ながらよくある。GACKTみたいに正面からやりあえれば良いのだけど、こう頻繁にされると「そういうものなんだ」と慣れてきてしまうのが怖い。
対策としては、そういったコミュニティに近寄らないことと、身なりをちゃんとすること。あと堂々としてること。こっちの人は、服装で自分のステータスを明確に表現する。黒人でもトルコ人でも、ちゃんと仕事してる人はちゃんとした服装をする。地味なダウン+ジーンズ+スニーカーで出かけて嫌な目に合ったことは何度もあるが、しっかりした服装の時には一度も無い。
オランダのお国柄。口が悪い。加えて無愛想で閉鎖的なもんだから、1年目これで「あ、無理だ」ってなる人がいる。慣れれば大丈夫。
一般的にオランダ人は内向的でコミュニティ意識が強い。京都人っぽいというか。「外者」が中に入るにはかなりの時間をかけて関係を構築する必要がある。もちろん、こちらからコミュニケーションをすれば、ちゃんと返してくれる人は多い。もしオランダ人ローカルとのキャッキャウフフをイメージしている人がいたら、それを実現するにはかなりの時間がかかることを明示しておく。旦那さんもしくは奥さんがオランダ人じゃなかったらほぼ不可能。都市部なら可能だけど、ちょっと外れの田舎とか不可能。まあ日本と一緒か。
人それぞれなんだけど、個人的な体感値として。自分はアメリカ東海岸にも滞在してた事があるんだけど、フレンドリーさ、対人面でのホスピタリティは圧倒的にアメリカ人の方が上。例えばオランダのレストランなんかで、笑顔で接客してくれる人に当たったらラッキーぐらい稀。あとオーダーの間違いとかザラにある。
まずパンがまずい。スッカスカ。高いお金払ってやっと「それっぽい」レベル。一度ドイツ人が地元のパンを持って来てくれたけど、全然違った。電車数時間でここまで違うのかと驚いた。それ以外の食べ物も全体的に美味しくない。元々プロテスタントの国で土壌が貧しかったから食文化が育たなかったと言われているが、言い訳にしか聞こえない。
オランダは農業先進国と言われている。確かに日本と比べると野菜は安くて大きいけど、水っぽくて味が無い。一年通してずーーーーーーーーっと同じ種類の野菜が、同じサイズでスーパーに並ぶ。旬の野菜も時々出るけど(白アスパラとか)日本みたいに季節感が無い。解決方法としては、ローカルの八百屋さんやオーガニックマーケット(高い)で買うこと。
あと日本では普通に売られてる豚コマとか薄切り肉が無いので、鍋なんかしたい時に苦労する。日本人が多い地域には売ってる。生魚とか怖くて食べられない。知りあいがそこそこの値段で食べた生の魚貝で食中毒になったケースを何回か見ている。日本人向けの魚屋が存在するが、まだ利用したことは無い。
外食が高い。そのくせ美味しくない。いわゆるファミレスみたいな「お財布に優しくて、そこそこ美味しい」ものが無い。すごい高いレストランか、格安フードかの二択。中間の価格帯は中華料理屋くらいか。必然的に自炊が増える。日本食レストラン、ラーメン屋さんはアムステルダムにはあるけど高い。
インドネシア料理は許す。
オランダの冬は暗くて日光が当たらない。朝は8時まで暗くて、夕方5時には暗くなる。雨風強い。あの暴風雨の中で自転車こぐオランダ人はタフだなあと思う。まあ、これも慣れろよって話なんだけど、自分は最初の一年目、あまりの天気の悪さにストレスがすごかった。日光が足りないとビタミンDが不足して鬱状態になりやすいらしい。対策としては肝油。
こっちでは高校生くらいのオランダ人が、親方みたいな人について肉体労働や職人仕事(ペンキ屋さんとか)をしている風景を見る。オランダの場合、子供は10代前半くらいで成績に応じて色々なランクに分けられ、受けられる高等教育が変わる。日本の場合、(職種にもよるけど)大卒じゃなくても社会に出てから叩き上げでキャリアアップしていく事は可能だ。対してオランダは学歴によってできる仕事と給与が明確に分かれている。(カフェでレジ打ちをするにも、大学卒業資格が必要だそうだ。)大学に行けないと判断された子供は、職業訓練学校に進学するレールに乗る。一度乗ったレールから外れて、大学に進むにはかなり回り道をする必要があるらしい。
オランダの教育は学歴差を若い時から明確にし、社会のシステムに組み込んでいる印象。もちろん、地域や学校によって様々だと思うのだけど、自分がオランダで子供を育てたいか、と言うと今のところ「うーん..。」という感じだ。この辺はまだ勉強不足。
※オランダの子供は伸び伸び育てられてるせいか、すごい自由。というかうるさい。声が大きい。北欧に行った際、電車で子供が騒ぐとすぐ親が注意してたけど、オランダで注意してる人は見た事ない。
移民局含め、役所の仕事がずさん。申請書類を紛失されたせいでビザの取得が半年遅れるケース多数。今回の労働ビザ免除の件も移民局の末端で仕事する人には届いていないらしく、窓口に行くと「おまえは何を言ってるんだ」と取り合ってもらえなかったという話を聞く。
長い。そして完全に悪口。個人の主観だし愚痴も多分に含まれているので、話半分で。文中にも書いたけど、住むエリアやコミュニティによって、状況もだいぶ違う。逆に言うと住む場所はホント大事。
上記の様な諸々は日本でも他の国でもあると思う。まあ、キラキラの楽園じゃないよってことで。ヨーロッパの国だからといって洗練された社会システムや人を想像して行くと、現実とのギャップで打ちのめされてしまうからね。良い意味でも悪い意味でも、泥臭いです、オランダ。自分で色々切り開いてく精神があれば、大丈夫かと。
もちろん良いところも色々あると思うけど、まあそれは他のブログとかサイトにおまかせで。まあ、一度くらいは遊びに来てもいいんじゃないかな(秋冬以外)。
※確かに他のヨーロッパ諸国に色々気軽に行けるのはメリット。飛行機も安いし。
※いわゆる韓国系、中国系の日本食レストランはどの街にもある。
※電車で2、3時間のドイツやベルギーに行くと、とたんにパンも食事も美味しくなる不思議。
※中国人男性はガタイが良い人が多いので、逆にあまり絡まれない。
※税金・保険をちゃんと支払っていれば、大学含む教育費・医療費はタダに近い。この辺はすごいなと思う。税金高いけど。
http://www.city.taito.lg.jp/index.html
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20151229/k10010356241000.html
あくまで一部。探せばもっとたくさん間違いがあるはずで実際ここで指摘した以外にもおかしい文はあるので他の言語でもふるって指摘すべし。