はてなキーワード: でっち上げとは
ご存知の通り件の森友学園の問題について籠池理事長がyoutubeに反論を投稿した。
【文字起こし】大阪の国有地払い下げ問題〜森友学園・籠池理事長、YouTubeでの発言書き起こし(3月8日付)
個人的に一番「こいつヤベエ…」と思ったのは北朝鮮からテポドンが発射されたのくだりで、金正恩はじめ北朝鮮指導者たちの行いを理由に特に関係のない日本在住の北朝鮮にルーツをもつ人たちを差別する気満々すぎてドン引きしたが、とりあえず本題でないのでおいておく。
発言の中で注目したのは以下の箇所。
『どういうことなんでしょうか?ということはこの学園を潰したいということなんでしょう。いまいいきっかけだからいまのうちに、この日本の歴史と伝統を一生懸命旗を振っている、この塚本幼稚園を、そして国歌君が代を歌っているこの塚本幼稚園を、この素晴らしい子どもたちが礼儀作法をしっかりし、そして挨拶もしっかりし、声も元気よく、自分に自信をもってはつらつと話をし、そして勉強し、体操しているこの子どもたちを、潰そうとしているんじゃありませんか。』
『退園された方は、ご自身の子どもさんがわれわれの教育にあわなかった。あるいはついていけなかった。いや、それ以前に、ためにするために入ってこられた方やと思います。なにか撹乱を起こすために。保護者が機嫌よくきているのに、保護者の中に撹乱を起こすために入ってこられた。』
うーん。被害妄想炸裂。
あるところに加害-被害の関係があったとする。当然被害者は加害者を非難する。
このとき、加害者側に加害の認識がない(あるいは加害を否認しようとする強い欲求がある)場合、加害者はなぜ自分が責められているのか理解できない。
そこでこの「自分は悪くないはずなのになぜか責められている」という状況に置かれてしまった理由を考えると、導かれる答えは「(自称)被害者側に悪意がある」だ。相手は自分を貶めるために被害をでっち上げて言いがかりをつけてきているのだ、という認識になる。
ここで注目すべきは、このような認識を持つことによって加害-被害の関係が逆転するということだ。
本来加害者であったはずの側が言いがかりで攻撃されている被害者となり、本来被害者であったはずの側が言いがかりをつけて攻撃する加害者となる。
このような思考は籠池氏に見られるだけではなく、日本の「保守派」に広く見られるものだ。その代表例が歴史問題だろう。
日本は慰安婦だ南京事件だと中国や韓国から非難される。しかし日本の「保守派」はそれらの問題は捏造されたものであったり解決済みのものであったりするため日本は悪くないと信じている、ではなぜ日本は非難されるのか。それは中国や韓国が日本を攻撃することで国内の不満を逸らそうという意図があるからに違いない。これは歴史問題ではなく「反日問題」なのだ……。
かくして日本はかつての戦争犯罪に真摯に向き合わない加害者ではなく、中国や韓国から言いがかりをつけて攻撃される被害者となる。日本の「保守派」は「加害者」である中国や韓国に対して反発心でいっぱいだ。
言うまでもなくこんなものは逆ギレとでもいうべきものであって、第三者から見れば馬鹿馬鹿しいとしか言いようがない。しかし、日本の「保守派」の中では大真面目に語られる理屈だ。
籠池氏がこのような被害妄想思考の持ち主だから「保守」に傾倒しているのか、それとも「保守」に傾倒した結果このような被害妄想思考が癖になってしまったのか、卵が先か鶏が先かはわからない。しかしこの被害妄想思考こそが日本の「保守派」に見られる典型的思考であることは確かだろう。
最後に。
だから、加害-被害の関係を逆転させる被害妄想思考は立場を逆転させるためのテクニックとしても使える。
こんにちは、元いじめられっ子です。小1~中2と8年ほどやられていました。人間関係を完全に一新して誰も同級生が行ってない高校を選んだ今は毎日がスーパーハッピーです。
8年やられると「いじめ」って一括りにしてるけどかなり雑な括りだな、って気がつくようになります。洋食、和食、中華を料理というようなもの。
どんな種類があるか?細かく言うと本当にキリがないので代表的とおもう2つを。
僕はこれを中学1年生のころ受けていました。存在する、という理由で蹴られ、テニスラケットを折られたのは未だに忘れません。おいS~、読んでるか~
これは体験談ではないのですが、自称「いじめられっ子」側(以下A)とAのいう「いじめっ子」側(以下B)が口論になったんですよ。
その場では穏便に済んだのですが、Aはしばらくして記憶が自分に有利なように変わってしまい、あとから傍目から見ていた僕でもわかるほど嘘八百を並べ、いじめをでっち上げていた事案があります。
Bの学校生活は一変。クラスメートは大体の内容を知っているのですがAは様々な方向でBを退学させようとするので夜中に呼び出されたりしていました。
「夢」の捉え方はそれぞれで良くないですか?
>私にとっての夢は特定の職に就くことではなく 自分の好きな時に水族館や、展覧会や、映画を見たり、何か素敵な体験をする事なのでそもそも社会と夢の捉え方がズレている。
>特定の職に就職することが夢とされるのは何故だろう? 仮に先生になりたいとして、大学に行って勉強し、教員の資格を取り、めでたく学校に採用されたとする。これで先生と呼ばれる立場にはなったけど、それは法的にそうというだけで経験的にはまだ新米のはずだ。それを夢が叶ったと表現するのは私には違和感がある。
ある人にとってはあなたのように何処かに行くこと、体験することを夢とし、ある人にとっては職に就くなどの自己実現を夢とする場合もあります。人によって異なります。
そしてその夢を実現し、次の夢を考えます。その繰り返しです。
>もしテーマパークに行くことが夢ならばその場所に足を運べば達成した事になるが、仕事は継続するものなので採用が決まった時点で先生になった!夢が叶った!というのはおかしいと思う。どんな事でもそうだけど採用が決まった時点で完成している人などいないはずだ。
>生きていく為にはお金が必要だ。仕事はお金を稼ぐ手段であり目的ではない。
好きでやっていたことが仕事化し、社会貢献につながり、それでお金をいただくという事もあります。
>お金がほしいから仕事をしていたはずなのに、いつの間にか仕事をする事が目的になり、会社の皆もやっているしと流されてサービス残業…なんてことになってないかな。
>私は子供の時、学校の授業で夢を発表しなければならなかったのにどうしても浮かばなかったのででっち上げてその場を凌いだ。「将来の夢」という言葉は「将来の仕事」を指す言葉になっている。
全員仕事について話していたでしょうか。子供の頃の記憶なんて曖昧です。
それに、学校では「将来の夢というテーマについて考える事」を教育していたのではないでしょうか。
>仕事も私の夢もやりたい事には変わりないと思うけど、「将来の夢」の認識は変わってほしいと思う。
今後どのような道に進むかを考えることは重要だけど、別に仕事が夢じゃなくてもいいはず。もしかして夢見ることさえも許されてない?
「あなたの将来の夢は何?」
私は今までにこの質問をされてもうまく答えることができなかった。
なぜかというと、私にとっての夢は特定の職に就くことではなく 自分の好きな時に水族館や、展覧会や、映画を見たり、何か素敵な体験をする事なのでそもそも社会と夢の捉え方がズレている。
特定の職に就職することが夢とされるのは何故だろう? 仮に先生になりたいとして、大学に行って勉強し、教員の資格を取り、めでたく学校に採用されたとする。これで先生と呼ばれる立場にはなったけど、それは法的にそうというだけで経験的にはまだ新米のはずだ。それを夢が叶ったと表現するのは私には違和感がある。
もしテーマパークに行くことが夢ならばその場所に足を運べば達成した事になるが、仕事は継続するものなので採用が決まった時点で先生になった!夢が叶った!というのはおかしいと思う。どんな事でもそうだけど採用が決まった時点で完成している人などいないはずだ。
生きていく為にはお金が必要だ。仕事はお金を稼ぐ手段であり目的ではない。
お金がほしいから仕事をしていたはずなのに、いつの間にか仕事をする事が目的になり、会社の皆もやっているしと流されてサービス残業…なんてことになってないかな。
私は子供の時、学校の授業で夢を発表しなければならなかったのにどうしても浮かばなかったのででっち上げてその場を凌いだ。「将来の夢」という言葉は「将来の仕事」を指す言葉になっている。
仕事も私の夢もやりたい事には変わりないと思うけど、「将来の夢」の認識は変わってほしいと思う。
今後どのような道に進むかを考えることは重要だけど、別に仕事が夢じゃなくてもいいはず。もしかして夢見ることさえも許されてない?
字幕【テキサス親父】偽慰安婦強制連行問題の原因はこいつだ!
https://www.youtube.com/watch?v=Tqffmz7zuWE
テキサス親父が、今までも何度か取り上げてきました慰安婦問題ですが、日本人であればご存じの方が多いと思いますが、この慰安婦問題は吉田清治と言う共産主義者が自らの金儲けの為に慰安婦の強制連行をでっち上げ、「私の戦争犯罪」という本を書いたことがきっかけです。
それを朝日新聞、しんぶん赤旗(共産党新聞)等が、事実確認もせずに大々的に取り上げた事で、あたかも実際にあったかのように世間に広まってしまいやがて、韓国が謝罪や賠償を要求するようになり、更には、韓国ソウルの日本大使館前には慰安婦像、米国にも3カ所に慰安婦の碑を作り既成事実化を現在も進めています。
実際には、軍や日本の政府が関与したとされる強制連行の証拠は一つもなく日本、韓国双方から出て来る当時の状況を示す証拠は、全て、当時の慰安婦は、現在で言う「人材派遣センター」のような業者が新聞紙面等で慰安婦を募集し、応募した「職業売春婦」であった事を証明するものばかりです。
しかし、福島瑞穂(現・民社党党首)が、この問題を弁護士として既成事実化し、偽慰安婦が名乗り出る等、問題を複雑化させた。
そもそも、強制連行や性奴隷にした事実が無いにもかかわらず、この本が原因で現在のように日本に対し憎悪をむける結果となっており、この吉田清治、朝日新聞は今からでも謝罪すべきだと思います。
。
また、韓国の歴史教科書には、強制連行されたと記述されており、現在の教育を受けている韓国人は、これが事実であったと思っています。
更に韓国では、当時生きていた女性であれば誰でも会員になれ、日本から賠償金をとった暁にはそれを会員に分配すると、老人から会費を集める団体が2つ作られました。
しかし、昨年、この2つの団体の会長は詐欺罪で逮捕されましたが、いまだにこの慰安婦問題で、様々な交渉を有利に運ばせ、更には日本を貶める材料とされています。
このブログではこのニューゲートの裁判をネットに転がる資料の調査であるが、これを調査した結果極めて重大な疑惑が存在することが判明したのでこれを報告して広めるために記述した
ニューゲート事件は2014年5月にSOD専属女優としてデビューした香川ルリカは実は前月に藍原佐理衣として二重にデビューしていた。これに怒った事務所ニューゲートが違約金を求めて訴えた裁判を、PAPSとHRNが拾い、AV出演の強要というありもしないでたらめをでっち上げて勝訴した。ところがHRNはこの裁判ででたらめな事実をでっち上げて吹聴し、これを法整備に利用しようと政界にねじ込み、不当な判決(どうみても業界差別)を正当化するために大々的にメディアスクラムをかけた。おそらく2chにも工作し、関係者の住所をさらした。さらにツィッターでも嘘の事実の扇動を行った。これらの疑惑を含む巨大な人権侵害の疑惑の総称である。これをこともあろうにフェミニズムや人権を看板に掲げるヒューマンライツナウが行ったところに真の闇がある。現時点では疑惑としておく。
HRNやPAPSはすべての性行為は女性へのレイプという極めて歪んだラジカルフェミニズムを信奉している。後藤弘子とかがそうだ。このため、刑法の改正にもそれをねじ込むためにもこの事件を利用した。ことごとく歪んだ性概念にもとづくカルトな行動原理でありにより今回のようなことを起こしていると考えられる。本来政治は近づいてはならないレベルだが、現在近づいている。
残念ながらストーカー禁止法でもSNSのストーカー行為というでっち上げられた事実で法改正がなされており、刑法もでっち上げでなされるのではないだろうか。法改正以前に警察が何をしていたのかの分析が欠けている。ところがラジカルフェミニズムは全く事実を事実としてとらえるという基本的な現状認識が欠落しており、こうしたバカげた法律を肯定してしまう。
繰り返し言うが、PAPSはフェミニストと思ってはいけない。それはラジカルで極めて歪んでおり、むしろアンチフェミと同じレベルだ。なぜならミサンドリー(男性嫌悪主義)が入っているからだ。これがログミーの香川ルリカの告白に影響している。男性は理解できない、そういう風に書いているが、女性でも理解できないという発想ができない。HRNもそうだがPAPSは自分たちの考えに合わない女性は排除する(ろくでなし子に対するツィートをみればわかる)極めてカルトだ。一方HRNの伊藤和子も中見里を紹介するほどラジカルに傾倒しており、PAPSと心情は同じだとみることができる。彼女はAVに出演することをそもそも「恥ずかしいこと」と考えている。(クローズアップ現代のツィートで判明)
このように女性の人権など口先にしか過ぎないというのが残念ながら分析した結果だ。
さて、AV強要はいくつかの事例がでてきている。香西咲、くるみんアロマ、ほしのあすか。しかしくるみんアロマを除いてはAV出演を強要されたかもしれないが、実際出演してファンを獲得し、ビデオは一定の売り上げをを収めている。
そして彼女たちの主張は香西咲を除き、ギャラが払われていないから強要になっているというロジックになっている。これに占い師等の洗脳が加わりいかにも強要のようである。しかし、基本的には強要とはいいがたい。なぜならまず民事訴訟してもいないし、刑事事件にもなっていないからだ。これが法の欠缺というのなら、そもそもAVに派遣することが有害業務にあたり、派遣を偽装しているという主張ならば、ギャラの請求もできなくなってしまう。マスコミはこのおかしさを平気で主張しているので、全く法律が理解できていないのではないか。個人事業主は派遣できない。
整理すると香西のケースを含めいまだに不明な点があるが、共通する背景はギャラを不払いという主張だ。しかしこれはAV業界だけではなく、どの業界にもあり得ることだ。これをとりたてて出演を強要されたというのなら、どの業態でも強制労働になる。つまりそうした意味ではどこにでもあるギャラの不払いであり、AV業界だけを出演強要というのは完全な差別であり、人権侵害である。これが理解できない人はレイシストである。つまりAV強要とは架空の概念に過ぎないのだ。
もう一つうがった見方をすると強要という表現をすることで、伊藤和子やHRNはあくまでもAV女優という独立した人格の個人事業主ではなく、ただの労働者というモノとしてしかみていないし、そうなるように仕向けている。このマジックワードが強要なのだ。
この不自然なロジックはHRNの伊藤和子は奴隷労働禁止法を取り入れるという願望をもっており(これは本人がツィートしている)AVはその踏み台なのである。
もう奴隷労働禁止法の目的はAV業界だけではなく、もっと広く不払い賃金を過払い金と同じく過去にさかのぼって請求できるようにすることだと考えられる。この根拠は伊藤和子が何が何でもAV女優を「プロダクションに所属する(奴隷)労働者)」に従っているところからもわかる。リベンジポルノのように扱えというのも損害の算定がしやすいからだ。彼女は共産党と仲がいいが、こんなめちゃくちゃな制度に耐えられるのは大企業だけで、彼女は国家社会主義か独占資本主義をどうも理想としているだけに不思議だ。
いずれにせよ伊藤和子が人権を尊重しているとかいうことは全くない。なぜなら彼女のいうとおりにすれば業界が崩壊してもっとAV女優は悲惨な運命になるからだ。しかし彼女はAV女優はその辺のゴミとしか思っていないので全く気にしない。彼女が「人間」として扱っているのは弁護士、芸能人、自分に都合がいい記事を書いてくれるメディアだけだ。
したがって、今回の件はAV女優ヘイトとビジネスが完全に目的となっている。
HRNが非営利?法律さえ作れば事務所の別の弁護士がやればいいだけで非営利とか手弁当などということばにだまされてはいけない。政府の代わりにAV業界を調査しているのだから、ボランティアだろうと何だろうと正当な批判や疑問に答えないというのは許されない。
@sugibow 弁護士なので年末は事件解決で立て込んでて本当に余裕がない上に、身内が急病で大変なんですと低姿勢に説明しても、電話口で怒鳴り上げて取材協力を迫る記者がいるんですよね。こちらは一円も謝礼を頂いてないのに。— Kazuko Ito 伊藤和子 (@KazukoIto_Law) 2016年12月21日
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どこの社とは言いませんが、ほんとーに嫌なことがあった。
今後、信頼のおけない人の取材は受けないことを固く決意。— Kazuko Ito 伊藤和子 (@KazukoIto_Law) 2016年12月21日
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@KazukoIto_Law お察しします…— 香山リカ (@rkayama) 2016年12月21日
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さて、この問題の原点となったのは東京地裁判決だ。これは香川ルリカをニューゲートが違約金を求めて裁判をした。ニューゲートは敗訴した。
まず第一になぜニューゲートが香川ルリカに違約金を求めたか。この理由がわからない。
伊藤和子の洗脳に染まった人には理解できないかもしれないが、AV女優の連絡先をプロダクションは把握していない。携帯を変えてしまえば連絡が通じなくなる。そんな世界である。
したがって基本的に違約金を取ろうとしたら逃げられてしまうのである。香川はなぜ逃げられなかったのか。
第二に香川ルリカは判決文によるとギャラが支払われていないと主張している。
しかし、ギャラを請求した気配がない。あくまでも違約金のことしか述べていない。
ここで驚愕の説がある。香川ルリカは同時期にデビューした藍原佐理衣だというのだ。
女優名 | 藍原佐理衣 | 香川ルリカ |
---|---|---|
生年月日 | 1994年10月18日 | 1994年2月10日 |
血液型 | O型 | A型 |
出身地 | 東京都 | 神奈川県 |
身 長 | 158cm | 155cm |
サイズ | B85 W58 H82 | B88 W60 H86 |
趣 味 | - | ヨガ、食べること(笑) |
特 技 | - | ピアノ |
メーカー | アリスJAPAN | SOD(専属) |
プロダクション | プライムエージェンシー | ニューゲート |
その後 | 契約切れも販売中 | 発売中止 |
比較してみると、血液型以外はスリーサイズ、身長、出身地とも似通っている。
以下のブログから2014/05当時藍原になった時点で香川は相当やせていたことがわかっている。
http://ameblo.jp/maru4524gt/entry-11842577002.html
するとAVの撮影からデビューまでは次のような時系列であることがわかる。
香川ルリカとして撮影
何らかの原因で痩せる
藍原佐理衣として撮影
2014/5/9 藍原デビュー(この時痩せているのは上記ブログの写真で明らかである)
そして藍原も3作品をだして引退したようになっているようだ。
こちらについてはAVに出るのがいやだったという主張は全くない。しかも香川はデビューイベントをすべてキャンセルしているため、2014/05に彼女が痩せていたかそうでないかはだれもわからない。そう、香川ルリカ=藍原佐理衣は2014年5月を最後に行方不明になっているのだ。
そうなると、
PAPSJPの香川ルリカの手記
はやはりPAPSのメンバーが勝手に書いたもので、完全なでたらめだということになる。もっとも「口述したものをメンバーが文書化した」ものであるから、香川ルリカが自由意志でしゃべったという保証は全くないので、いくらデタラメを書いてもそういう意味では嘘がない。ただしこれらの文章は全て信用もできない。
>>そして私の場合は、出演する毎に、違約金がとんでもない額になっていきました。それを支払わなければ裁判で負けて本当に支払う羽目になると追い詰められ、最後はAVに出演せざる
>>を得なくなったのです。 撮影のときは、子宮(膣のこと)や性器の痛みを訴えても、メーカーやプロダクションはもちろん監督や女性のメイクさんからも、みんなで白い目でみら
>>れ、「君はやるしかないよ」と言われました。<<
などと書いているが、その後藍原として撮影してAVデビューしているのだからこの辺の記述はまるで信用ができない。また強要したのは誰か。これも曖昧である。彼女はSOD専属女優としてデビューしているだけではなく、さらにアリスジャパンからもデビューしているからだ。しかも内容は似たものが多く、どちらかが特にハードな撮影だったとはいえない。最初がつらければどうして藍原名義で出演したのか。さらに藍原名義の方はなぜ強制されたと言わないのか。この時点でPAPSとHRNの主張は根底から崩れることになる。
違約金をなぜ請求したかは単純で、SODから専属デビューのはずなのに勝手に別名義でAVに出たから以外には考えられないだろう。
というか普通に違約金を取ってもおかしくないが、AVであるがゆえに裁判を打つと負けて取れないのである。理不尽極まりない。
芸能界でいえば、SMAPとしてジャニーズからデビューした中居くんが福山雅治として翌月デビューしたようなもので、通常ありえないことがわかる。
そして香川ルリカがPAPSの被害女性なのは、その前に撮ったDVDの本数、年齢、デビューして販売が即中止になったAV女優がほかにいないからだ。しかもこの2400万円という金額はSOD専属ならうなづけるだろう。
また藍原は確かに痩せているが、ビデオを解析してみると、腹部には太った時に現れる肉が割れた線が入っており、彼女が直近まで太っていたことが分かった。
以上からPAPSの言う被害女性は香川ルリカであり、香川ルリカは藍原佐理衣なのだ。
そうすると、裁判をしてまでもなぜ違約金を要求し、かつ香川ルリカははギャラを要求しなかったかがわかる。SOD専属契約違反だからだ。なるほど、たしかに香川がPAPSにでも泣きつく以外方法がなかったのもうなづける。
警察も取り合ってくれないという主張もそれはやむを得ない。なぜなら契約違反だからである。むしろビデオに出たらと言われたと言っているが、たしかにそうだろう。専属契約をして別のところではAVに出ているのだから。お詫びにちゃんと専属でデビューするのが筋だと言えるからだ。
また伊藤和子がSODが販売中止にしたにも名指しで批判するのも香川が専属でデビュー予定だったからとするとつじつまが合う。
警察にとりあってもらえずAVに出演すれば、と言われたのも当然だ。藍原として出演しているのだから。それにSODに専属契約している。しかし、伊藤和子はこれらの事実を伏せて警察がひどい発表している。しかし、これは女性差別でもなんでもない。
また業界の動きが鈍いのもわかるだろう。いくらAV業界でも前代未聞の珍事であり、そんなめちゃくちゃなことは通常起きないからだ。
このように藍原=香川とすると冒頭にあげた謎を含め、すべてのつじつまが一気にあう。
このように疑惑を考えていくと残る謎はなぜ香川ルリカは藍原に変身したのか。この点である。これは事務所のせいであって彼女のせいではないという説もある。たしかに上の表のとおり事務所が違っている。香川本人としては何らかのトラブルで事務所を変更したつもりになっていたのかもしれない。
いずれにせよ、PAPSとHRNは香川ルリカに対するめちゃくちゃな判決を引き出したうえでAV業界に殴り込んでいるが、この2つの団体はあきらかにAV女優に対するヘイトを行ってる。在日韓国人の暮らしている街に在特会の街宣を入れているようなもので極めて不当だ。なぜならラジカルフェミニズムはセックスワーカーや女性の自由意志、性的自己決定権を認めないからだ。若い女性だから保護する、一見いいように見えるのなら、あなたは女性差別主義者だ。若いからと言ってなぜ女性だけが保護されるのか、これが進のフェミニストでありリーガルマインドである。なぜなら若いから保護されるとは、たんなる人形で人間扱いされないということであり、人権を否定されているからだ。(これに対していかなる反論も無用)
また、フェミ団体や人権団体がうそをついた例はたくさんあり、このような団体が本当のことを言っていると思ってはいけない。とくに今回の件は裁判の結果を歪曲して利用しているのであり、極めて不当と言えるだろう。こんなことをしなくても香川に何か理由があれば、違約金を蹴ってもだれも何も言わなかったかもしれない。いずれにせよ香川も大変なことをしてしまった。
いくつか自分とは異なる考えを見つめるために2chをみてみる。
http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/company/1444425987/45
45 :名無しさん:2015/10/12(月) 17:53:47.83 ID:K6j1vqRF0.net
藍原佐理衣=香川ルリカだという前提で。
事務所の命で必死で痩せたのに藍原佐理衣名義で専属?のアリスからの契約も切られた香川ルリカ。
自分のせいにされAV業界での居場所を無くした彼女はニューゲートに対しぶち切れ飛び出す。
ニューゲートは香川ルリカに後の仕事の当てがあったかどうか知らないけど、
AV二社に対しての悪事発覚を恐れ口止めで引き留めようとするが、彼女は頑として聞き入れない。
事務所は逆切れで香川ルリカに巨額の違約金請求裁判を起こし追い詰めようとする。
が、彼女はどこからか徹底抗戦の構えで左翼系反ポルノ団体PAPSがバックにつく。
弁護士探して相談しているうちにPAPSが声をかけたのかもしれない。
左翼系の連中は香川ルリカを悪の巣窟AV業界に追い込まれた若い被害者の女として、
朝日系の日本外国特派員協会で会見させ、新たな慰安婦問題の代表にして
世界にジャパンディスカウントとして大々的に発信したいと目論んでいそうだが…
自らの潔白を証明したいというのはよくわかる。
ただ皮肉な事に、香川ルリカは発売中止したSODは恨んでいるが、アリスやAV業界は恨んでいるのかどうか?
藍原佐理衣より元々の芸名香川ルリカ名義の物を発売中止だからSODにお怒りなのでは?
香川ルリカの本当の狙いとしては、事務所の悪事告発と自らの潔白証明だけでなく、
騒動を終わらせたら着エロ時代から慣れ親しんだ「香川ルリカ」名義一本化での
AV業界復帰で本格始動を望んでいるの意図があるのかもしれないね。
AV業界に未練があるのか二度と関わりたくないのかやや不明な所はあるが。
この書き込みだと事務所が悪いようになっているが、誰が悪いのかは謎だ。だが藍原と香川は同一人物であり、無理やりAVに出ていたわけではない。
いずれにせよ、いつまでもPAPSの匿名のビデオの人をやるというのも限界があるだろう。PAPSに飼い殺しにされるのが香川の意思なのだろうか?
http://hayabusa8.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1469456631
587 :
2016/07/26(火) 15:39:49.11 ID:kIJ8Qxjc0
各所にちゃんと綿密に調査した上で何が起きたのかを公表すれば?
というとそれは絶対に行わず強制出演があったのみだけ大々的に発表するというw
従事者の為なんて考えた事ないだろうにw
まずは香川ルリカの件から全部客観的に何が起きたかを公表すればいいのにね。
720 :
2016/07/29(金) 12:57:40.06 ID:VjbY7b/00
何故不当な巨額違約金請求だったのか
そこに至るまでに何が起きていたのか、香川ルリカが事務所と揉めて
「契約解除」を言い出し弁護士に頼るまでになったのか。
デビューに際してブログとツイッター開始するまでやる気満々だったのに。
ニューゲートが監視付きまでさせて「強制痩身」させ、何故か香川ルリカが痩せただけと評され
このあたりまでメーカーとかにもちゃんと調査が行われて真相解明になればよかったんだけどね。
ニューゲートとの契約解除で揉めたという内容を、一切調査せずに「強制出演」とのみ断じて
反AVキャンペーンやりたいだけと捻じ曲げてるのが問題なのでありw
HRNやPAPSのような人権団体、フェミ団体がうその情報を言うのはたいして珍しいことではなく、前例はいくつかある。それは責めないが、正しければ、善意なら、正義なら、いくら嘘を言ってもだまされる方が悪いと思っている集団なのは間違いない。
マスコミの皆さんはこれを見たら、ぜひ藍原と香川ルリカを洗ってほしい。そうするとPAPSとHRNがいかにでたらめを言っていたかがわかるだろう。違約金を請求したのはむしろ例外的だし、そうしたくなるのもあたりまえな背景がわかるはずだ。これをあらわずしてニューゲートを悪者扱いするネット民やフェミニスト、PAPS、人権団体は叩き潰される以外のなにものでもない。 Permalink | 記事への反応(1) | 22:30
いや俺は人がこの話題についてどう思ったかって話を読みたいだけなんで、俺がいくつもトラバで自論バラまいても意味ねえじゃん。俺が一人多役で色んな視点とか感想とかで盛り上げろっての?別にそこまでの労力払いたくねえし、そこまで別人のふりとかして色んな説でっち上げられねえし。自説一個上げろってだけなら「元増田にほぼ同意」とは言ったよ。
修正ナイスバディ値 BWHd = sqrt(バスト[cm]^2 + ヒップ[cm]^2)/ウエスト[cm] - 189 (小数点以下四捨五入)
日曜にでっち上げたナイスバディ値 http://anond.hatelabo.jp/20161210174254 があまりに雑だったので、もうちょっとまともな指標はないものかと思った。
現代女性のからだの美しさを示すバランス指標の一つとして、BWHの周径バランスがあり、ヒップウエスト比(H/W) とバストウエスト比(B/W)の散布図によって評価されている[1]。
そこで、修正ナイスバディ値を、H/WとB/Wの値の組を極座標表現した際の距離dとして捉えることにした。
これにより、メリハリの効いた体型は距離dが大きく、ストレート型に近い体型は距離dが小さくなるはずであり、この分布がナイスバディさを表すことになるものと考えられる。
(以下あとで書く。なお極座標表現した場合の位相角 Atan(バスト[cm]/ヒップ[cm]) は pi/4[rad] を中心に胸優勢か尻優勢かを評価する数値となるが、超爆乳も超巨尻も等しく愛することにしたので評価の対象にはしない。)
[1]BWHの周径バランス http://www.bodybook.jp/dictionary/201304/bwh-1.html
元自衛官のblogを鵜呑みにしてる人をいっぱい見たし、あんなに優しそうなDV加害者が居るかみたいな擁護も見たけど、すげぇ典型的なタイプだと思った。
DV加害者は優しくて穏和そうな外の顔と狂暴な内の顔二面性を持つ人が多く、承認欲求が強くて外で被害家族を出来るかぎり悪く、自分を出来るかぎり可哀想な被害者に仕立て上げ、被害側が世間から攻撃される事はよくある。
しかも本人が自分の吐いた嘘を信じこんで被害感情を高めたりするから恐ろしい。
そもそも財産分与+数十万の慰謝料程度で身ぐるみ剥がされないし、明らかに妻側が悪く証拠もないのに何度も裁判に負けるなんてあり得ない。
パレードで子供御輿が通る時間を狙って釘やビー玉で殺傷力を上げた爆弾でテロ自爆をする人が電波じみた文章でDV冤罪を訴えているのを信じる方がどうかしてる。
ネットでも度々、知り合いが不倫とDVでっち上げられて慰謝料を取られた日本の離婚裁判は糞だみたいな話を見るが、不倫はしっかりした証拠が必要なのに冤罪を訴えてるその知り合いが嘘つきなんだろ。
私の家も父親の会社では鬼のように言われていると聞いて笑ってしまった、こっちは金も取ってないし自分で勝手に不倫相手と出ていったくせに。
http://anond.hatelabo.jp/20161026185039
面白い話だが、法は、何人も交付申請ができるというのみで、配って良いとはしていない(不動産登記法120条各項)。困惑させる目的での配布が民事上の不法行為にあたる可能性はある。
まず、前半部分。
しかし、不動産登記法では、配布以外のいかなる利用方法についても、これはして良いとか、あれはしてはいけないとか規定されているわけではないから、配って良いと書かれていないことは特別の意味を持たない。
はてブをして良い、という法律がなくてもはてブが合法であるように、自由主義・私的自治のもとでは、その行為を禁止する規定がない行為は、当然には違法にならない。
(もちろん、ある行為を禁止する直接の規定がなくとも、問題となっている行為が民法709条の不法行為に当たれば、同条によって損害賠償責任を負うことはあり得る。)
次に後半部分。
登記簿の第三者への交付が不法行為に当たるかについて確立した判例はないと思われるので、不法行為に当たる可能性が全くないとはいえないだろう。
その意味では「可能性はある」と書いてある後半部分が誤りとはいえない。
しかし、このような書き方をすると、何も知らない人からすればそれなりに不法行為に当たる可能性があると誤解されそうである。
では、その可能性がどれくらいあるかというと、これは極めて低い可能性だろう。
不法行為の成立には権利又は法律上保護される利益の侵害が必要であるが、繰り返し投函し続けるならともかく、元増田のように、一回だけ、ターゲットの近所というだけの人に登記簿を送りつけることで、いかなる権利又は法律上保護される利益が侵害されるのか明らかでない。
生活の平穏だとかを侵害される利益としてでっち上げたとしても、元増田の行為が受任限度を超えているとは思えないし、損害も発生しているのか大いに疑問である。
どのくらい不法行為になる可能性が低いかというと、「『不法行為が成立する可能性が極めて低い行為について、不法行為が成立する可能性が高いかのようなブコメをして元増田を困惑させる行為』が不法行為になる可能性」の方が高いのではないかと思えるくらいである。
煽り耐性はあるつもりだが、いくつかのケースでブチ切れそうになることがある
その一つが決めつけ煽りだ
ちなみに今命名した
やり方は簡単だ
相手にとって望ましくない状況(結果)に対して、適当な理由をつけて相手を否定する
例
(この手法は漫画とかで主人公を激昂させる流れでよく使われるね)
こうすると反論することが増える、反論してきたら「何必死になってんだよ」と更に煽る
例
・普段からきちんと節約しないからお前は貧乏なんだ (節約してる人に対して)
・ちゃんと説明書を読まないから事故をおこすんだ (ちゃんと読んでる人に対して)
・子供の頃ちゃんと勉強しなかったから今女に逃げられるんだ (勉強してた人に対して)
・目を大切にしないから病気なんかになるんだ (目を大切にしてる人に対して)
更に超高等技
上記への追い打ち
B「読んだに決まってるだろ!」
A「事故を起こしたんだから読んでないってことだろう。お前ほんとバカだな」
このように
という煽り方がある
大概は我慢するけど
大抵許せないのは、こういう詭弁を弄する人は無意識にこれをやっていることだ
正直すごいと思う
ネットにいっぱいいるけど
ちなみにこれを見てて思いついた
ペルソナ5のストーリーの違和感の話。軽く重めのネタバレが入ります。
ペルソナ5、終わった後「うーん」な感じが拭えなくてツイッターやらamazonレビューやらで感想探ってたら、なんとなく自分と近い世代のオッサンは割と同じような違和感を感じており、その一方で、ツイートの様子からたぶん学生くらい?と思われるユーザーに向かって徐々に絶賛度が高まっている傾向があるように感じた。
そこで何の感じ方が変わるかっていったら、やっぱり「社会悪と正義の捉え方」が一つ鍵なのかなーと。
学校を含めた大人社会への適合度が低く、何らかの形で暴力、差別、迫害を受けている。登場人物全員がそういうバックボーンを持ってるって時点で、3や4とは一線を画してるなーと思う。そういう設定事態はすごく好みだった。
そして、最も身近な学校の不当(と当人たちは感じている)支配構造に反発し、ゲリラ的な手段でそれをはねのける手段を得る。それが怪盗団。
怪盗団は、抑圧に対抗する手段であると同時に、彼等の居場所にもなった。彼等は、自分たちが手にした力の使い道を探す過程で、また別の被害者を探し、弾圧側を排除して仲間を増やしてゆく。
ここまではいいなって思うんです。
特に祐介のエピソードとコミュが好きで、彼はゲーム終盤まで割り切れない思いと向き合わされる事になり、結果、そういう人間の複雑さを受け入れる。立派な奴だなあーって素直に感心した。
「私たち、これでいいのかな。正しい事をしているのかな」
「悪いヤツを改心させる事が間違ってるわけがない」
的な会話が言葉を変えて何度も繰り返される。
つまり、彼等はまだまだ精神的に未成熟さが残る学生なので、自分たちの行為が「原則として誰にも咎めようがないもの」である事に、自分で耐えきれてない。
そこにどう落とし前をつけるのかなーってずっと思ってたんですが、つかなかったんですよ。
途中からターゲットは自分たちと直接関わりのない著名な組織及び個人に変わり、そこから物語の掛け違いが発生してるように感じる。
そもそも、P5の主人公たちが持っている力って
「個人の精神世界に入り込んで人格を直接攻撃し、歪んだ欲望を消滅させ、改心させる」って、率直に言って「社会的リスクを伴わない洗脳」ですよ。
自分たちが被害者である間は正当防衛になるけど、直接関係のない相手だと話が違ってくるように思うんだよね。
P5は、人の良き悪しきをテーマの中心に添えながら、その結論を完全に持て余してると思う。
最初は「自分たちの被害を覆すために」やっていた行為が、最後の方では「悪人だと思うからこらしめてやりたい。」が先に来てて、そのためにパレスを探す…みたいに、完全に手段と目的が逆転してる。
『怪盗をしたいから悪人を探す』って、ノルマ目的で犯人でっち上げる警察みたいなもんじゃないか。見ようによっては、劇中の誰よりも怪盗団が一番の『悪意なき悪人』ですよ。
そしてp5の主人公たちには、その客観性に耐えうる精神的強度がない。
それを物語的にうまく隠そうとした結果、終盤に行くにしたがって、ターゲットたちをどんどん単純なテンプレ悪人化させるしかなかったんじゃないかって思う。
鴨志田とか斑目って大人としてのずるさ、邪悪さの深みみたいなのがあった悪役だと思うんだけど、なんかシドウってそのへん随分単純だったよね。演説直後のシーンで、衆人の前で普通に「クソガキ」とか言い放っちゃうし。
「シドウをカモシダやマダラメと同じくらい人間味があるキャラにしちゃうと、主人公たちの正当性を立てるのが難しくなるから」っていう逃げにも見えちゃう。
「正義」「世直し」ってワードが後半に行くに従って増えてるように感じるのも、シナリオの都合で主人公たちを正当化するために無理やり連呼してるのかな、とか勘ぐったりして。
主人公たちが迷わなかったとは思わないけど、終盤やっぱり、どこか「悪いやつは倒していいんだ」っていう単純化にぐっと話が移動してた感は拭えない。
「善悪はあくまで相対的なもの」という、女神転生シリーズが元々持っていたセオリーを真っ向から否定してないかなと。
シドウが真なる悪人であったのか、彼を改心させる事が本当に正しい事だったのか。
それを判断するのは「主人公たち以外のみんな」であるべきなんだけど、p5はそれすら放棄したんですね。
聖杯という「集合的無意識」に人格を持たせ、それを全ての元凶とした。
これ、逃げだと思いますよ…
なぜならそれは『事なかれ主義が具現化した悪神のたくらみだから』」
って…
そんなん「衆愚は正しい判断を下せない」っていうのを、遠回しにdisってるだけやん!
怪盗団支持率100%とかも、まあコミュレベルの高いゲストキャラが心から怪盗団支持を主張するのは分かるんだけど、それ以外の大多数からしたら「噂程度に存在していた怪盗団がなんかこのピンチを解決させてくれるらしい」ってだけだし、勝ち馬に乗る勢いだけの演出で、あれを「怪盗団が支持されている」ことの演出としてはとても受け取れない。
いや~ちゃんとシドウを改心させた事実としっかり向き合うべきでしょ?
悪人の内面がどうあれ、結果として行われているのが「強い国を作るための改革」なんだったら、その手立てを失った事のフォローをちゃんとシナリオでして欲しいわけよ。
それとも「心が汚い人間がする事は絶対に間違ってる」みたいな話なの?
(一応、主人公とシドウは因縁があるんだけど、でも物語的には明らかにまず『シドウ倒す』が先にあって、『ついでに主人公の仇だった』って流れになってると感じる。完全に主人公の私怨として戦って、結果それが世直しになる、って方がまだ納得できたかな…)
自分はp3やp4やったときもそこそこオッサンだったのが、3と4は5に感じた違和感がほとんどなかった。3と4の主人公たちははっきりと自分または親しい仲間のために戦ってたから。
それが「社会」「正義」が絡んできた時、そこまでの強度をペルソナの世界観は持ってなかったんじゃないのかなと、そういう事を思ったわけです。
とかなんとか書いたんだけど
ゲームとしてはしっかり面白くて、最後まで楽しんだし、80時間かけてゲーム部分は楽しませてもらったなーって思ってる。
ペルソナって開発者側も「ジュブナイル」って言ってるように、10代または20代に響けばそれで成功してる世界観なんだと思うし、ターゲット層がなんかしら考えさせられたり、勇気をもらったりしたらそれで充分成功なんだと思うし。
おっさんなりに、3と4やって感動した感じを5にもうっすら求めてたら、5はそういう作品ではなかった、自分が筋近いの期待してた、と、そういう話です。
という「個別論ではなく全体論」ということなので、身バレもないだろうしそのへんに絞ったレスをしてみたいと思います。
ああ、一個上のP付きっす。
その前に軽く触れると、自分は出版系のIP管理からアニメにもゲームにもアプリっぽいのの制作にもPで参加したことが有るという立場の増田です。なので、アニメにそこまで肩入れした擁護はないので、そのへんは差っ引いてくださいませ。
まず
という点なんだけど、それは概ね事実としてある。アニメは制作さえ決めれば空中爆発率は低いし、動く絵としてものは出来上がってくる。
それは「完成して出て来る」ってのを至上命題として業態/業務か出来上がってるからっていう部分がまず第一に大きいです。
だって予告して、放送枠取ってそこにV(=動画)が到着しなかったら放映できないでしょう? 良くも悪くも「タイトな締切に間に合わせてでっち上げる」ことが常態化しているし、そのためにいろんな仕組みが整備されている。深夜まで作業するのも常識になってたりもする……。ゲームやサービスみたいに「クオリティのために延期」というのが「ない」って言う前提で動いているんですね(総集編っていうのは、だからこそ本来例外だし、やばいわけっす)。
でもそれは前提であって「完成する理由」にはなっても「そこそこまともになる理由」ではないですよね。「そこそこまともになる理由」は、個人的には以下の2点があると考えています。
ゲームとかマンガとかWebサービスなんかに比べて、アニメは制作スケジュールとかチームの規模感みたいなものの前例が豊富で強いです。12話1クールを作る人数はこれくらい、必要な役職はこう、時間はこれくらいかかる、そのためのお金はこれくらい。
そういう規模感がはっきりしてる。
だって1シーズン数十本も作ってるんだから、そりゃ数字もつみ重なる。
プロジェクトハンドリングはたしかに属人性が高いけれど、こういう数字まで共有されていないわけではないです。むしろ、一般常識化しすぎてて話題にすらならないほど強固に存在します。そこから外れた作品が皆無というはなしじゃなくて、その規模感から外れるにしろ「規模感という地図を持っている」ことに大きな意味が有るって話です。
(特に工夫をしようと思わなければ)アニメ制作のバジェットは、穴埋め式のテンプレートみたいなもので、記入欄にスタジオ名とかスタッフ名を入れていけばチン!と出てくるようなものです。「スケジュール遅延による予算の倍増!?」みたいなトラブルは少ないです(劇場版では聞きます)。
製作工程自体も(何か変わったことをしようとしなければ)概ね予定通りに進みます。アニメ制作において制作の遅れは作画スタッフの不調とか、確保してたスタッフがうまく稼働できてないとかであって「技術的困難があって見込みが外れた」みたいな事例は少数です。そういう意味では製作期間も読みやすい部類に入ります。
アニメに比べれば、ゲームやWebサービスや新製品開発は、闇の中を手探りで地図もなしにうろついているようなものに見えます。逆にそちらからアニメを見れば、一度作ったもののテクスチャ張替えをして類似商品を量産しているようなものです。
この構造はクオリティコントロールの意味では強いです。要するに初期予算を部門ごとに配分して、それを話数で割って、出来ることはできるし、出来ないことは出来ないって話だからです。これがそのまま職人的な監督のこだわりに対する手綱にもなってます。だって、ここでそのお金つかっちゃうと、こっちが足りないですよね? 無理ですよね? と説得が出来るからですね。
個別の現場の話で言えば、それをやりくりとか、追加予算をひねり出すとかもPの仕事だけど、前提として上記みたいな構図が有るのはハンドリング面では楽ができる要素です。
という指摘に対する返答が今回の中心なんだけど、「まとも率」ってなんだろう? って言う問が答えのヒントです。
すごく大雑把な話をすると、アニメには(というかコンテンツ制作には)2種類の方向性があって、それは「外れるかもしれないけれどバットを思い切り振り回していこう、当たればホームランだぞ!(はずれれば三振だが)」というのと、「とりあえず進塁打めざしましょ、コケそうになっても最低限くさいバントして大コケはしないように(でもその打法でホームランは出ない)」の2種です。
どっちがいいというものじゃないですが、とにかくそういうふたつの考え方があります。全てのPは例外なく今手がけている作品をどちらにするか考えます。
もちろん現実にはもうちょっと細かいです。たとえば、ある作品は全体的には手堅くバント狙いなんだけど、音楽だけは超ゴリゴリのインディーズ起用でギャンブル、とかもあります。声優だけ豪華! とかも。無名だけど実力があって伸びそうなスタッフを中心部に据える冒険というのもあります。とにかくあらゆる判断において「大当たりを狙って強振」か「手堅く固める」の判断があります。
ここからが非常に夢のない話になるのですけれど、アニメは(とくに地上波の週刊アニメでは)どちらかというと「手堅く小ヒット狙い」なメディアなんです。だから「最低ラインでもまとも率が高い」という結果になっています。
なぜか?
理由は様々にあるんですが、本質的には生存戦略としてそれが(一応の全体認識としては)有利だからです。
あらゆる面で革新的で挑戦を行ってフルスィングをしていくと、三振討ち死に率が高い。ホームラン率3%で三振60%で残りがポテンヒットみたいな印象です。しかもこのフルスィングは、そもそも予算を大きく要求しておいてこういう結果になることが多い。
そこへいくと、小ヒット狙いのコンパクトスィングは、35%三振(=赤字)40%バント34%ヒットで、実はホームランも1%くらいは出るかなー? みたいな構造です。
もちろん、安全性と飛距離の両立ができる企画があればいいですが、それはとても難しいことがもうわかっているので、企画の全体も、細部もジャッジしてどちらかに振っていかなければならないです。
アニメの場合は、しかもその判断を製作委員会(もしくはそれに準ずる意思決定機関)で合意しなければならない。多人数での合意なので、どうしても「安全策」が採用されがちです。
(余談だけれど、監督業の一番尊敬できる部分は、そういう安全への堕落に対して『いいや、今回はこういうチャレンジをする。僕等にはその力があるはずだ!』という果敢なジャッジをして、それに向かって猛進してみんなを引っ張れる部分だと思います)
夢も希望もないけれどこの「集団判断による安全策への流れ」がアニメにおいて「どれもそれなりに見れる作品になる理由」です。
もちろんそういう安全策ばかりでは1作品の勝った負けたに終止してしまうために、どこかでは冒険もしなければならないです。また、円盤の売上という一面的な勝敗判断以外にも判断基準はあります。
それはたとえば、社内への技術蓄積(この作品を作ったので3Dエフェクトの技術が社内に蓄積された)とか、スタッフの成長の舞台としての作品とかいう視点です。ファンの人が思っているよりもアニメスタジオはずっとそういうお金以外のことを気にして運営されてます(お金を信用してないとも言える)。
まあ、冷めた話をすれば、巨大な予算と巨大な人数をかけた企画において、夢物語なホームラン狙いが抑制されるのは当たり前の話です。バブル期のゲーム業界とか、アメリカンドリーム次代のハリウッドが異常だっただけで、億超えの規模動かしてれば慎重な方が当然です。
ライトノベルとアニメの相性が良いのはそこで、ライトノベルは個人制作でそれはつまりかかった予算が非常に小さいジャンルです。予算が非常に小さいということそのものが直接関係するわけではなくて、そういう個人制作小規模ジャンルであれば、(ある意味非常に無謀な)挑戦ができるということだからです。
他にも色々触れるべき点は有るかもしれないけれど、暇なので書いてみた「アニメの制作フローにQCのヒントが有るのでは?」に対してのお返事でした。思いつくままに適当に書いたので誤字脱字とか、文章の乱れとかあったらごめんなさい。
http://anond.hatelabo.jp/20161011170143にほぼ同意。
テンパった結果の失言やら、知識不足による不適切な言葉遣いやら、ミスを差別案件だのと騒ぐ人が多すぎる。
勿論悪意が無かったとしても失言は失言だし失敗は失敗だ。でも、だからといって悪意を勝手にでっち上げていいとは思えない。
勿論悪意が絶対なかったと断言するもまたできないし、どの案件も本当は悪意という可能性はある。
けれども、客観的にわかる状況だけじゃ悪意と良い切れはしないこともまた確かなんじゃないだろうかなあと。
まあ現実的には、「まずは穏やかに対話」なんて絶対ゴメンだという人が多いらしいからこんなこと書いても非現実的理想でしかないんだろうとは思ってるし、それが結論だとはわかっているけど。
私はその原因をこう仮定している。
”心から嫌いだと感じる家族と暮らしているという環境が原因で、人生に肯定感を得られない”
家族関係は今までの人生の中で一番、ストレスのコーピングに大きなリソースを費やした。この家族はお互い仲が悪く、本当に居心地のいいものではない。小学校高学年の頃から夫婦間・そして兄弟間のトークは皆無。そんな状態がおよそ10年続いただろうか。しかし外部に対する体面だけはとても良くて、この10年間家族仲が悪いことは近所や学校関係の人々、また近しい親戚に対しても露呈することはなかった(ちなみにその親戚が後にそれを知ることになるが、それを知ったのは私が耐えきれずに相談を持ちかけたためである)。でも私の性格・気質上”そのような環境に耐えなくてはならない”という考えが、大学の2年次程度まで抜けなかった。
中学の頃は、バドミントン部に所属していたことと、好きな子を眺めていられたという環境があったので、家族関係の悪さというストレスを対処することができた。高校の頃は、周りに趣味の合う友人ができたこととTwitterで好きなことを呟きまくることによって、なんとかコーピングできた。受験シーズンになり私は、”材料工学に興味を持ったのでその研究をしたい”というでっち上げ的考えを持ち出すことで、その分野に強い地方の大学に一人暮らししながら通いたいという旨を両親に伝え、その受験資格を得た。実際のところ、”家族が嫌でそんな環境に身を置きたくないから一人暮らしをしたい”という気持ちが大きかった。
しかし、一浪して二度の受験を重ねたにもかかわらずそれはことごとく失敗してしまい、地元の大学に通うことになった。偏差値的には充分合格圏内にいたので、これはかなりショックであった。
そして大学でもやはり思うような生活はできなかった。心機一転変わったサークルに入ろう!とか思っていたものの時期外れなおたふく風邪に罹ってしまい、様々なサークルを見学する時期も過ぎ、最終的には高校の時の趣味の延長上にあったサークルを選んだ。まぁとりあえずどこかに入っとけばいっか。と言わぬばかりである。これはこれで楽しかったこともあったけれどやはり心の底から休めるかというとそうではなかった。
日々の生活に進歩もクソもない、むしろ停滞、むしろ衰退していくうちの家庭環境に嫌気が増すスピードは一向に上昇していく。ある日思い切って母親に切り出してみた。
「どうして親父と仲良くしないの?」
この人がどのような思考回路を持っているのか理解できなかった。赤の他人が意味のわからないことを言うのならそれはそれで心理学の調査対象みたいなものだと思えるが、身内でこうとなれば話は違う。また、親父も親父で汗水流しながらこんな家庭を支えようとする意味がわからない。もしも自分が親になったことを想像したら、もっと子供の幸せのことを考えてあげたいなと思った。
ところでこんな環境で真面目に大学卒業できるのだろうか。もし大学を卒業したとしてもそれで自分で納得のいく社会人になれるのか。満足ゆく大人になれるのだろうか。そして、大学を卒業する意味があるのだろうか?という疑問に当たった。現時点で大学を卒業するメリットは、
・親が子供自慢することができる
これくらいだろう。バイト先の先輩や近所の飲み屋、近しい親戚、親しい友人などなど相談可能な人には相談しまくったけれど、9割方は「大学は卒業した方がいい。」と言った。一部少数派でやりたいことをやるのがいいという意見だった。留年は甘えというが正直今の環境では卒業というプロジェクトを完遂することはかなり高いハードルのように感じていた。
そのような環境に心折れ、私は一時期学校を休んだ。優先順位が(大学で学ぶという行為)<<<<(家族からくるストレス対処)だったため、この環境をなんとかしたいと強く思っていた。そこで休学してIT系のアルバイトに明け暮れる生活をしていた。お金を稼いで一人暮らしすればいいかなと思っていた。この時点でもっと他にも方法はあったのかもしれないが視野が狭くてこうするしかないとしか思えなかった。案の定それは無理な話で惰性でお金を稼いでは一時的な快楽に溶かす、という日を繰り返していた。そんなこんなで復学がやってくるのだが、ここまで来てようやく確信を得たのであった。やはり自分自身が弱かったのだと。井の中の蛙であったのだと。正直これを認識せざるを得なくなった時は鬱であった。
それでもやはり「生活環境が人間に及ぼす影響は大きい」という命題を私は強く信じたいし、どうすれば安らかな生活を送ることができるのか今後も模索し続けるのだろう。本当にこれでいいのかな。
こいつさぁ、事あるごとに「収入の多寡とか社会的地位で人の価値を推し量ることは卑しいことです。わたしはカーストゲームになんか乗るつもりはありません。ほんとうの豊かさとは人格の高貴さにあるのです」みたいなこと言うけど、なんつーかそれわざわざ言うのって逆になんかコンプレックス持ってんじゃねえのと思うんよね。
何かを持っていて幸せな人って、その持ってるものを嬉しくて自慢することはあれ、わざわざ自分が持ってないものを比較対象に持ち出してきて、「こんなものより私のもってるもののほうが素晴らしい。やっぱりわたしは幸せなんだわ」とかしないと思うんだよね。
口ではカーストゲームから降りる自分のことを自画自賛しつつ、やってることは自分に有利なように新たなカーストゲームのルールを定めてるっていう。
なんつーかあれだ、幼稚園とかで自分が高所恐怖症で勝てねーからって、高オニ遊びから抜けて積み木遊び始めるんだけど、まぁ積み木遊びだって悪くないけどほんとは別に積み木遊びしたいわけじゃなくて勝てないのが悔しいからそれやってるっていう気持ちが半分ながら遊んでる園児みたいな。
なんでこの人はそんなに自分の周囲が悪意に満ち溢れているように見えているのだろう。というかわざわざ自分から悪意に満ちた場所にのこのこ出向くか、悪意が無ければそれをでっち上げて周囲の人間に当てつけてるように見える。
相対的に自分の立ち位置を上げて、自分が正義の人間なければならないっていう、ほとんど強迫観念に近い衝動で動いてるように見える。
それとも何か嫌なことがあって、無意識のうちにその原因を周囲に転嫁しようとしているのか。
とにかく周囲が悪人でなければ気が済まない。社会は悪で満ち溢れていなければならない。何故なら私が善良な人間であるためにはそうである必要があるから。そうでなければ私は何も持っていないことになってしまうから。
なんにしろ病的なひとだと思う。
「全てのセックスは性差別」とフェミニズムの一部が主張している、と俗に言われる。これは半分正しいが、半分間違いだ。
正確には、「マチズモが強く機能している社会においては」という条件下にのみ「全てのセックスは性差別になる」という主張である。
この条件さえ付ければ、「全てのセックスは性差別」という主張は決して間違いではない。
しかし、だからと言って「セックスを滅ぼせ」という主張は、大半の人にとって受け入れられないものだろう。
現にフェミニストの大多数はそのような主張に与していない。
そもそも、そんな主張は受け入れる必要すらないのだ。
仮にある作品が差別的だとしても、あくまで特定の社会状況下で差別的力学を発揮する、ということにすぎないのだ。
だから「性差別表現を含むフィクションを好むこと」と「性差別を批判すること」は問題なく両立する。
どころか、「性差別を含む表現」を好むからこそ、現実での差別を批判するとも言えるのではないか?
別の例で言い換えてみよう。
「(ミステリー小説など)殺人表現を含むフィクションを好むこと」と「殺人を批判すること」は問題なく両立する。
どころか、「殺人表現」を好むからこそ、殺人表現が現実の殺人へと結びつかないために、現実での殺人を批判するとも言えるのではないか?
いずれもまったく同じ構図だろう。
それゆえ、性差別に抗議する人が「性差別を含む表現」を愛好しても何ら問題はないのだ。
言うまでもないことだが、上手く書かれたフェミニズム批評は、正当な批評である。
分析の仕方が卓抜で、深く作品を読みこんでいる批評であれば、それは正当に評価されるべきだろう。
しかしその批評の正しさを認めることは、決して批評された表現自体が悪であると認めることではない。
現に古典文学に対するフェミニズム批評は以前から行われており、たとえば『源氏物語』をフェミニズム的に読解する批評などはすでに存在している(興味がある人は探してみてほしい)。
しかし当たり前のことだが、これは決して『源氏物語』が劣悪で評価に値しない作品だということを意味しない。
批評理論は、「ジャンル批評」や「読者反応批評」や「精神分析批評」や「マルクス主義批評」や「文体論的批評」など、数多く存在する。
「フェミニズム的な批判を認める」=「批判された表現をなくさなければならない」
だからオタクは、別にフェミニズム的批判の正しさを認めても構わないのである。
(もちろん他の批評と同じく、低レベルなフェミニズム批評まで認める必要はない)。
そしてこれはフェミニズム側についても同じことが言える。
「性差別的である」ことを理由としてただちに「表現を取り下げよ」と主張するのは、基本的には不当な要求である。
(もっとも、厳密に言えば「表現を取り下げよ」と発話すること自体は自由である。しかしその発話内容が不当である以上、当然批判が殺到するであろう。
不当な主張をすることは自由だが、その主張に対する「評価」は本人が責任を負わなければならない)
あたかも「オタクとフェミニズムが対立している」かのような構図をでっち上げることこそが、議論の妨げとなるのである。
そういった点も踏まえて、後述するように「マンガ・アニメという表現様式一般が性差別である」などという乱雑な主張は退けなければならない。
●結論
辛辣な批評、伸びない人気、そういったことをすべて作者自身が引き受けることである(もちろん、低レベルで無意味な批評は無視すればよい)。
フェミニズム的な批判を、何か特殊な批判だと考えない方が良いだろう。基本的に、それは批評である。
フェミニズム批評もまた一つの評価軸であり、その軸上における評価もまた、作者自身が引き受けなければならない。
そして表現者の責任とは、「評価」を引き受けることがすべてだ。
(もちろん、プライバシー侵害など個別具体的な人権侵害等は例外だが)
酷評に耐えかねて、自ら作品を非公開にすることは、確かに一つの選択肢ではある。
仮に「ある作品が性差別的な効果を発揮する」としても、その効果を止める方法は「表現を取り下げること」だけではないだろう。
「その作品は性差別的な効果を発揮している」と論理的に指摘できれば、それだけで性差別的効果を止めるには充分である。
「この作品における○○○○な描写は、性差別的意味を持っている」と評すれば、充分に、現実世界で○○○○することが悪いと告発する効果を発揮できるから。
批判的言説を生産することによって、ある表現が発揮しうる性差別的効果を止めること。これは充分に可能である。
批判的言説では飽き足らず、表現自体の取り下げ等を要求することは、(性差別解消につながるかも疑問だが)性差別以外の領域において不合理を引き起こす
(この点については、また別の機会に述べようと思う)。
そして、(あえて厳しい言い方をするが)表現の取り下げを要求することは、批評の力を、言論の力を、見くびる所業でもある。
だけど忘れてはいけない。
フェミニズム的解釈が妥当性を持つのは、作品外の社会的文脈があるからだと。
そして、これも再度強調しておかなければならない。
「(現在の社会的状況において)性差別(と位置づけられるような)表現を好むこと」と「性差別を批判すること」は両立する。
どころか、前者を好むからこそ、現実での差別を批判するとも言えるのではないか?
しかし、そのことだけを理由に表現の取り下げや禁止を要求することは不当である。
同様に、そのことだけを理由に「フェミニストが表現の取り下げや禁止を要求している」と早とちりすることもまた不当である。
●最後に補足を二点
もちろん私は、「マンガ・アニメという表現様式一般が性差別である」などという乱雑な主張には与しない。
たとえば大城房美が指摘するように、「日本の少女マンガは、女性が周縁化されてきた20世紀後半のアメリカのコミックスの状況を変える一因となった」という側面を見落としてはならない
(大城房美編著『女性マンガ研究 欧米・日本・アジアをつなぐMANGA』青弓社 2015 p.25)。
日本においては、マンガによって女性が表現する場所が確保されてきたのである。
そして少女マンガは女性表現の源流であると同時に、いわゆる男性オタク向け表現の源流の一つでもある。
以上の指摘を受けて、なお「男性向けオタク表現については性差別である」と強弁する方がいれば、
たとえば佐倉智美先生によるこちらの記事などをご覧いただけると、その主張が極めて一面的で乱雑であることが理解いただけるかと思う。
http://stream-tomorine3908.blog.so-net.ne.jp/2016-04-09_GP-LoLv-5(「ラブライブとガルパンをフェミニズムが評価すべき5つの理由 [メディア・家族・教育等とジェンダー]」)