2024-04-12

   しかし黒羽刑務所のような制限生活の中で集中していたとしても、森脇と言う驚愕的な体験があるので、それなりに成長すると思うが黒羽には座学授業がないので、系統的体系的に

  何かを教わるわけではない。幾何学の授業はない。 驚愕の森脇に、古典長谷川、が10工場の中身である長谷川古典的な生活指導して対象事物の中に真理を見出させ、

  森脇が驚愕させて発見させたり技術的に完成させる。しかし、森脇が驚愕させたとしても、受刑者発見するのは指数定理程度である。森脇が驚愕させることでIMO問題発見できれば世話

  はない。ゲーテは非常にあいまいなことを言っており、真理は深いところに収まっているので、誰でも発見できるものではないという。そういうことになると、幾何学なら、定理問題発見できなくなるし

  教科書に書いている基本的方程式すら発見できなくなる。これだと何が天才で何が平凡であるかの区別も分からない。

   経時的時間の中で美しいものけが最終的なものであろうと思う。しかし、数学では、定理は、一般には美それ自体とはされていない。数理哲学者のロタは、定理は、永遠不変に美の輝きを

  持つわけではなく、 発表されたとき驚愕される。逆に、証明における驚愕的な証明は、その証明自体永遠不変の輝きをもつとされる。したがって数学では構成手段の中に永遠不変の美が

  あり、結論における美は、そのうちになくなるということである。そうすると、神は、技術構成中の美において永遠不変を認めて、結論の美については、いつまでもそれに対して美を与えないという意思

  があるように思う。

   ゲーテの言っている、 未知の無限可能性、可能もの限界は測ることはできないか絶望よりは希望する方がよいと述べているが、仮に到達不可能領域があるとしてもそれも結局、

  経時的時間の中でやがては飽きられて陳腐な真理になってしまうということである

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