はてなキーワード: 一面的とは
==== 追記 ====
書いた直後に全然反応がなかったのに、今見たら色々コメントがついていて驚きました。
ブコメを読んだら、結構な数の人が怒っていて、私の中の善良な市民感覚が、「悪いことをしてしまった」という後悔の念を自然と抱かせましたが、落ち着いて考え直してみると、別にそう悪いわけでもないなという気もしています。とりあえず、これが率直なところです。
・「不快」で他人の発言を抑圧しようとするのを表現規制って言うんじゃなかったっけ
・自分の意思にそぐわないからと言って他人の言動を制限しようという発想かー。上手くいきそう?
・自分の不快感のために他人の自由を制限できると思ってるんかな
・不快に思うのは勝手だが、人の発話の自由を制限しようとするのは何様のつもりだろうと思うし、方言の利用を咎めることも更に最悪って感じがする(私は方言コスプレをポジティブにとらえている)
これらの意見は大きくは、自分の不快を理由に他人の行動を制限するのは駄目だ・許されていないという意見だと理解しています。この「制限」というのが、肉体的な拘束や洗脳のように、相手の権利を蹂躙するものならば許されないと思いますが、「不快だからやめろ」と言ったり、ネットに書いたりするのは全く正当な権利だと思っています(アホとかいうのは良くないですが)。こういう自由はむしろ私たちに与えられている非常に重要な権利だと思いますし、これを封じる方がよっぽど表現規制でしょう。一応誤解のないよう言っておくと、私は他人の自由を規制できるとは思っていません。ただ「やめろ」と言うのはありということです。
「上手くいきそう?」については、無理そうって感じです。本文に書いたように、たまたま「なんよ」に連続で遭遇した勢いで書いたので、見通しは特にありません。
・たった100文字のブコメでネイティブの「なんよ」と非ネイティブの「なんよ」の見分けがつくんか!すごいのう〜!うち岡山出身じゃけどようわからんわ〜!!日本人口のほぼ半分は西日本に住んどるって知っとる?
仰る通りで、つきませんね。ただ私の観測してきた「なんよ」使用者数からいって、ノンネイティブが使っているのは間違いないと思ったので、それらの人に届けばいいと思いました。誤算としては、私が思っていたより「なんよ」圏が大きかったことです。でも一定数のノンネイティブには届いたと思います。
他のブコメも含め、関西全域で使われているみたいな主張もありましたが、流石にそれはないんじゃないのとは思います。私は十年ほど関西に住んでいましたが、ほとんど出会ったことがありません。とはいえ私は交友関係が狭いのであれですが。局在しているってのが一番ありそうな気がします。
・「他人の言動に無思慮に追従してしまう主体性のなさへの嫌悪」「「なんよ うざい」、「なんよ 気持ち悪い」が上位に上がるので、軽蔑的な印象を持つ人はそれなりにいるようだ」露骨なブーメランだし釣りなんよな?
これはつまらない意見ですが、トラバにも同様の内容があったので返答しておきます。読めば明らかなように私は不快に思う理由をメインで書いています。そして、他人の意見を参照しているのは論理の補強のためです。つまり、他の人たちも嫌悪しているようだから、その嫌悪は必ずしも独りよがりではないはずだという論理です。これは普通に読めばわかることだと思いますし、こんなのは本筋からずれた瑣末な部分です。もうちょっと文章を大局的に捉える訓練をしては?
・他者への解像度を想像だけで上げようとするとそれは自分の投影になると思う。そういう人なのであろうという想像は自身の内面を紹介するような感じがするので私はしたいとは思わないかな。
==== 以上追記 ====
前から気になっているんだけど、ここ数年「じゃないんよ」とか「違うんよ」とか「必然なんよ」みたいに「〜んよ」と言う語尾(?)を使う人をよく見る。元々は九州とか中国地方あたりの方言なんだろうけど、そうじゃない人も多く使っていると思う。私はこの語尾が嫌いで、見聞きするたびに少しイラっとくるんだけども、今日はてブを見ていたら短時間に三度ほど見てしまって、これは警鐘を鳴らすべきだと思った。
この語尾を使っている人たちが、なんの影響で使い始めたかは知らないけれど(千鳥の影響だと推測しているが)、これは元々方言であって、ノンネイティブの人が使うのは問題ではないが、エセ関西弁と同じで薄ら寒い。ネイティブの人が使うのは別にいい。これは偏見という自覚はあるけども、私はこの言葉遣いをした時点でメタ認知能力に欠けたアホではないかと懸念を抱く。
「なんよ」を使っている人は以下の点について自問してほしい:
2. どのような人の前でそのような言葉遣いができるか?
1で無意識に流行り(?)の口調を真似て使ってしまっていたという人は、この機にやめてはどうか?小中学生の頃に、無意識に他人の口調や言葉遣いを真似したり、お笑い芸人のギャグを真似したりする人がいただろう。子供なら無邪気で済むかもしれないが、大人がしていたら見苦しい。あなたがしているのはそういう無分別な子供じみた振る舞いだ。
2については、そもそもカジュアルな言葉遣いだから目上の人には使わないだろうが、ただ、例えば立場としては対等でも、適切に自分を評価して欲しいと思う相手に、そのような言葉遣いをするだろうか?ちょっとアホっぽいからやめようと思わないだろうか?もしそうならば、あなたは一定の状況下ではアホっぽい振る舞いをしていたことになる。自分の言葉遣いがどういう印象を相手に与えるかにもう少し意識的になってはどうだろうか?
ここまで書いて思ったけれども、私が「なんよ」を不快に思う理由の根っこは、他人の言動に無思慮に追従してしまう主体性のなさへの嫌悪感にあるのではないかと思った。同じ特徴的な言葉遣いでも、例えば一人称に「おいら」を使ったり、語尾が「〜なのさ」の人にこれまで出会ったことがあるが、全く不快には思わず、単にそういう人なのだと感じた(多少面食らったが)。しかし、「なんよ」は私には同じような特徴としてではなく、自分が他人からどう見えるかを認識する能力(メタ認知能力)の欠如、他人と自分を簡単に同一視してしまう自他の境界の曖昧さとして映る。これが一面的な見方であることは重々承知しているけれども、限られた情報から他人を判断する必要上、一定程度は合理的だとも思う。私のような考えを持つ人がどれだけいるかは分からないけれども、google で「なんよ」と打つと「なんよ うざい」、「なんよ 気持ち悪い」が上位に上がるので、軽蔑的な印象を持つ人はそれなりにいるようだ。なんらかの強い理由がなければ今後は使わないで欲しい。
まず、読んでもらうために煽りタイトルにしたことを謝っておきます。その上で、データを恣意的に解釈してジェンダー対立を煽るのはやめませんか?
『正社員や高スキル業種を選択する比率の差によって男女の賃金格差がある』ことと『中核的業種で男女の賃金格差が存在する』ことは普通に両立するし、普通にどちらも賃金格差の要因と言われてますよね。前者は性別職域分離と言われていて、先進国における男女賃金格差の要因として問題視されているし検索すると普通に以下のような論文が出てきます。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ojjams/36/1/36_65/_pdf
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ksr/11/0/11_KJ00008138062/_article/-char/ja/
性別職域分離による賃金格差自体が女性のスキルに対する不当評価(女性が得意なケアスキルをもっと高く評価すべき)という論はあり得るにしても、直接的に関係のない中核的業務の賃金格差を持ち出して性別職域分離の問題そのものが吹っ飛ぶという主張はかなり無理筋なんじゃないですかね。
あとこのすり替えめちゃくちゃ不誠実だと思います。職域分離の問題があることを指摘すると、なぜ『職域分離"だけ"が全ての原因である』と主張していることになるんでしょうか。意味がわかりません。
まず、中核的業務における賃金格差の要因TOP3は役職、勤続年数、労働時間(下記P9参照)なんですよね。
https://www.mhlw.go.jp/content/11900000/000970984.pdf
元増田の主張はその違いが男女間の社内教育の格差によって生まれているってことですよね。確かに以下の調査結果を参照すると男女間で教育格差はあり男性社員に多く教育の機会を与えている企業が16.2%存在します。一方で『男女同様』、『女性の方が多い』、『実施していない』と回答した企業が合計75%で圧倒的多数派なので教育格差が賃金格差の主要因という推論はかなり乱暴だと思います。
https://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r985200000057do-img/2r985200000059h4.pdf
ここからは私の推測ですが、中核的業務の賃金格差は日本の育休制度が"優れている"が故の影響は大きいと思っています。日本の女性育休取得率は85%と高水準であり、取得期間も6ヶ月以上が95%、ボリュームゾーンは10ヶ月~(31.1%)、12ヶ月~(27.6%)と長期の育児休業を取得することがスタンダードになっています。一般的には育児休業を取得すればそれだけ昇給・昇格が遅れるため、子供を二人、三人と産むことで同期入社に比べて2年、3年分の給与格差が発生することは想像に難くありません。なお念のため断っておきますが、これ"だけ"とは言っていません。女性が男性に比べてキャリアを継続しづらい理由は様々あると思いますが、中でも育児休業は取得する人も多く影響が大きいのではないかと考えています。
https://www.mhlw.go.jp/content/11900000/000851662.pdf
この問題を解決するためには『米国のように産休復帰直後から子供を預けて働く』や『育児休業取得中も昇給・昇格出来る人事制度とする』等があると思いますが、昨今の少子化を考慮すると前者はあまりにもハードルが高いですし、後者も公平性の観点から理解を得るのはかなり難しいと思っています。
これは一面的かつ拙速な結論で、『男女のどちらを救うか』よりも差し迫った問題として『女性を救ったコストをどこに転嫁するのか』という問題があります。元増田が主張するように男女間では賃金の格差がありその差を埋めることは必要なことではありますが、そのコストは税金や社会保険、あるいは職場内の業務負荷として社会全体で担っています。女性当人やパートナーが利益を享受できる既婚男性は負担したコスト以上のメリットがありますが、受益者ではない弱者男性から不満が出るのはある意味で当然だと思います。ましてや結婚を望んでも出来ない人たちに対して、『お前らの不満は高望みなのだから黙って増税を受け入れて育休取得者と同じ給与で働け』といっても納得はできないのではないでしょうか。
また「一人で生活できない、生きていけないことが弱者だと思う」と前提をおいて男性は賃金等で恵まれているのだから弱者ではないと言いたいようですが、男性の自殺率が高いことと整合が取れていないように思えます。彼らの多くが『結婚を高望み』して叶わなかったがゆえに自死を選んだのであればその理屈も成り立つのかもしれませんが、普通に考えれば彼らには文字通り生きていない事情があり、救われるべきなのに取りこぼされてしまった人達なのではないかと考えます。
ネット上の議論では得てして対立煽りになりがちですが、実際にはどちらが重要なのかではなくどのように落とし所を見つけて全体を最適化するかだと思います。例えば高スキル人材になれなかった弱者男性に対して女性の多いケアワークへの道を示すことはケアワークの人材不足解消や労働環境の解消など女性労働者のメリットにも繋がりますし、また男性が多く参画することで不当評価が見直される可能性もあると思います。また結婚を『高望み』と切り捨てて弱者男性にコストの負担を強いるのではなく、出産や育児、介護などのキャリアを中断せざるを得ない事情が社会運営に必須で社会全体として負担していくべきことであることについて理解を広げ、ある程度納得してコストを負担できる、また望めば受益者側に回りやすくなれるような制度設計を目指すといったように、対立を煽る議論ではなく落とし所を探っていくのが”大人”のやるべきことではないでしょうか。
※ネットにおける…と前置きしたのは何年も前からすでにデータや研究で結果が出ているものに対しても特に調べず、思い込みや、データを自分の都合の良いように解釈して議論遊びをしていることを揶揄しています
大学教員の友人、知人と何度か似た話題で話したことがあるのですが、残念ながら先行研究やデータを調査してある程度適切に解釈するには修士論文程度は書いていないと難しいと思います(もちろん、個人の資質にもよります)。日本の修士進学率は22歳人口比で5.5%程度なので若い世代でも20人に一人、人口100万人に対する修士号所持者は588人らしいので皆がデータを調べてそれなりに解釈して議論をするのは難しいでしょうね。
話してたぞ。
おまえの主張は「主人公が人間じゃないと感情移入できないから売れない」。
俺の主張は「人間でないと感情移入できないとは限らない」「そもそも感情移入が必要とは限らない」。
「主人公が人間でなくても普遍的なテーマであれば受け入れやすい」というのはおまえではなくむしろ俺の主張の範囲なんだよ。
そもそも人間には「親近感」以外にも「憧れ」や「同情」などさまざまな感情がある。
映画の中には、視聴者には真似できないことをするスーパーヒーローも、現実では絶対にやりたくない悪事を働くダークヒーローもいる。
主人公が本当に嫌な奴でムカつくからこそ面白い作品だってある。
主人公を全能のように描いて脇役に感情移入させるタイプの作品もある。
それらすべてを一面的に「視聴者と主人公が近くて感情移入するから人気がある」と説明することはできない。
それを「子供っぽくて親近感が湧くから人気なんだ」と無理やり説明しているのがおまえ。
もちろんそれも一因ではあるが本質的ではない。
数年前に話題になった「羅小黒戦記」という中華アニメを劇場で見た。
クオリティは高かくて驚いたし、主人公たちが住んでいる精霊の故郷と人間の住んでいる街がただ単に「物理的に離れているだけ」なのに中国広いからそうなのかも、と思わせられたりという面白さはあったけど、ストーリーはどうも心の中に消化できない黒い澱のようなものを感じるものだった。
人間の街で明日も生き残れるかという境遇の主人公の精霊、幼い小黒がとある精霊仲間に助けられて彼らの街に行き、共に成長するが、その仲間は人間の開発によって故郷を侵食されていることを憂い、武力による戦いを志向していた。
小黒は彼らに愛着を感じつつも、人間界からきた保護者によって確保され、彼から教えを受けるうちに精霊仲間は極端な思想と恨みに凝り固まっていると改心して、彼らと戦う、という話だったように思う。
小黒の視点もそうなのだが、話が進むにつれ、キャラづけも精霊仲間は怒りた震えて狭窄なテロリストで、人間界の側は彼らを教えきれないことを理知的に嘆きつつ制圧せざるを得ない苦悩を滲ませる、しかし正しいのはこちらで、精霊たちはこちらが教化してあげることによって健やかな未来を共に目指せるのだ(でもできなければ武力で従わせるしかない)という感じ。
これって「中華こそが正統な大陸の支配者で、辺境の民は中華に教化され従うべき」という中華思想じゃん?って思った。
脇の話題に一旦逸れると、声優も務めた宇垣美里さんが「単純な戦いより大事なことを言っている作品で、ぜひみなさんに見てほしい」というようなことを言っていたが、戦う側が大喜びなわけはないとか、戦うにも理由があって一面的な悪みたいな単純なものではないというところなのかもしれない、でも大枠、最終的には主人公の小黒が人間側の理屈について恩ある精霊たちと袂をわかち、彼らを説教して戦うという流れではあるし、ロシアが「ウクライナなんて我々に率いられて大ロシアを共に目指すべきなのだ」っていう思想の枠組みでウエメセの暴挙に出てる今ふりかえっても、「そりゃ自分が関わったお仕事だからいいところ見てコメントするの当たり前だけどさ・・・」って思ってなんかがっかりした感じはあった。
本題に戻って、中国のアニメがクオリティ高い大作も作れるほどであるので、多分興味深い作品はある。
でも気合い入れた作品に外国人が見たら「これおかしなこと言ってるんじゃ?」っていう思想が練り込まれて、受け手はクオリティに感激してそこをスルーしてしまうような状況になっていくとしたらなんか微妙だなって思う。
去年のトップガンマーヴェリックで4DXを初体験して、それ以降4DXの方が合うと思う映画は4DXで見てきた
動く椅子と背中の衝撃と風と水しぶきがあってこその映画、それら全部含めて楽しまないと本物じゃない
ディズニーランドのスターツアーズに乗って「映像が陳腐で~」とか「原作のイメージとは遠くて~」みたいな事を言ってたらなんか違うって思うでしょ?
4DX3D体験者側の意見としてはマリオの内容だけ語ってる人には同じように思ってしまう
評価をするためだけに興味が無いけど安く見て反応が多くなるように下げ記事書きましたっていう腹の中身があふれ出てる
真面目な話をできる場所が無くて寂しい。
私自身は別に真面目というか単に興味のある事について語り合いたいだけなのど、一般的にはマジメで退屈、拗らせてるとか一蹴されてあまり興味を持たれないような話。
美とはなんぞやとか、美味しいメシを定義できるのかとか、世界平和は果たして実現できるのかとか。
古代ギリシャ人が暇すぎて哲学を始めたように、暇な時にふと考えるような素朴な疑問みたいな事について話し合いたい。
日常生活で周りの人間に真面目な顔してそんな事を言い出したら、雑に流されるかキチガイと思われて終わり。
だからネットとかで気楽にやれたらいいなって思う。私に近い内向的な人も多いはずだし。
しかし色んなサイトはあるけれど、どうにも喧嘩腰な人が多い。5chの哲学板は(5ch自体)過疎らしいし。
一面的な正論や、正論ですらないリリックを並べ立てて正論感を競い合いたい訳ではない。なにか正しい感のある事、雑な一般論風の言葉でそれっぽくまとめてもらいたい訳ではない。
これはどういう事なのか、なぜそうなのか、世の中に出回るこの考えは果たして妥当なものなのか。
事実と規範の混同に、論理の飛躍に気を付けながら、とある疑問に対して「それはなぜ?」を繰り返す、要は哲学がしたいのかもしれない。
そこらの人が思いつく疑問なんて昔から議論されてるだろうし、哲学書を読むのも悪くはない。
でも私は車輪の再発明が無駄だとは一切思わない。書いてある事を読んで、へーそうなんだで終われば必ずしも納得は伴わない。
私はこれまでの人生でニーチェやハイデガーの陰気ながらも前向きな思想に近い価値観を形成してきたけれど、思春期に彼らの著書を読んでも多分何言ってんだコイツとしか感じなかったと思う。
他人と話し合う事で互いに自分では気づかなかった視点を得て、自分一人じゃ足踏みするばかりの疑問を吟味したい。
時に理屈から離れて互いの実感を伴った価値観を交えて、永遠に答えなんか出ないだろう疑問について、それでも誠実に考えを深めたいな。
五等分の花嫁が気持ち悪い。恋愛とは無関係な男に率先して女性がすり寄る描写からしておかしい。
そもそも現代の恋愛というのは多分に男性による女性の抑圧に他ならない。女性が男性に好意を持つ描写自体おかしい。
そして何人もの女性が男性を好きになるという、その男根主義的なファンタジーを一面的に礼賛する作り手の愚鈍さに反吐が出る。
結局あの風太郎とかいう男にとっては、行為を抱いている(という設定の)五つ子はsex slave以外のなにものでもないだろう。
畢竟あの五つ子は男根主義による暴力的搾取を受けているという点で、はっきり言って従軍慰安婦と何ら変わらない。
そう考えると、従軍慰安婦の問題を矮小化する危険性があるのではないだろうか。
こういう作品を見た人間が、従軍慰安婦の暴力性を矮小化する歴史修正主義的言論に与するようになる可能性も射程に入れなければならない。
ワイ: 弱者男性は無力。
GPT: この文は、男性を単一のグループとして一般化しており、男性に対する偏見を示唆しています。また、男性が弱者であることが必ずしも真実ではなく、女性もまた弱者である可能性があることを考慮していません。
ワイ: しかし、そのような偏見によって弾圧されている人々がいる。
GPT: あなたの文は、偏見によって被害を受けている人々がいることを指摘していますが、それがどのような偏見であるかを特定していないため、議論を深める上では不十分です。また、偏見が存在することを指摘するだけでなく、その問題を解決するためにどのようなアクションを取るべきかについての提案が必要です。
ワイ: 弱者男性をインセルなどとレッテル貼りしているニュース記事があり、彼らによれば弱者男性は犯罪者予備軍であるそうだ。これが偏見の具体例であり、議論を深められるだろう。
GPT: あなたの文は、ニュース記事が弱者男性を不当に批判していることを指摘し、偏見の具体例を提供しています。ただし、ニュース記事が正確かどうかについての検証が必要であり、またインセルという言葉には、犯罪を助長するとされるオンラインコミュニティに関連するマイクロカルチャーがあり、それらを一概に同一視するわけにはいかないことを念頭に置く必要があります。したがって、情報源の妥当性を確認し、言葉の使い方にも注意することが重要です。
ワイ: しかし現実にそのような偏見を助長する記事が存在することは事実である。
GPT: あなたの文は、偏見を助長する記事が現実に存在することを指摘していますが、その記事の信憑性や影響力を検証することが必要です。また、記事を書いた人々の意図や背景、文脈なども考慮する必要があります。さらに、偏見を助長する記事が存在するという問題を解決するためには、適切な教育や意識啓発、社会的な対話が必要であることを忘れないでください。
ワイ: 私は弱者男性であり、そのような検証能力を持たない低学歴である。
GPT: あなたの文は、自分が弱者男性であり、検証能力や学歴が不足していることを示唆しています。ただし、あなたの学歴や検証能力がどのように弱者男性の立場や問題解決に関係しているのかを明確にする必要があります。また、低学歴であることは、あなたが自分自身や他人に対して偏見を持つべき理由にはならず、あなたが自分自身や周りの人々から学ぶことや、意見を尊重し合うことが重要であることを忘れないでください。
ワイ: 私は低学歴であり、「明確に」なんてことをできるほど賢くない。
GPT: あなたの文は、自分が低学歴であるために「明確に」などのことができないことを示唆しています。ただし、あなたの学歴がどのようにあなたの能力に影響するかは個人差があります。学歴にかかわらず、あなたが自分自身や周りの人々と対話し、考えを共有することができることは、大切なことです。また、自分が知らないことを知るために学び続けることは、誰にとっても必要なことです。
ワイ: しかし、学び続けたところで「弱者男性が学んでも誰も気にも止めない」などと言われたことがある
GPT: あなたの文は、弱者男性が学ぶことが意味がないというような偏見を持つ人々が存在することを指摘しています。ただし、偏見を持つ人々の意見を鵜呑みにすることは避けるべきです。学ぶことは自己成長や知識の獲得につながり、将来的に自分自身や周りの人々を助けることができます。また、学び続けることは、自己肯定感を高めることにつながり、自分自身の価値を向上させることにもつながります。したがって、自分自身の学びに積極的に取り組むことが重要です。
GPT: あなたの文は、弱者であることが偏見に打ち負けてしまう原因となることを示唆しています。弱者であるからといって、偏見に負ける必要はありません。偏見に立ち向かうためには、まず自己肯定感を高め、自分自身に自信を持つことが重要です。また、偏見に対する対話や啓発活動に参加し、周りの人々の理解を深めることも必要です。偏見は根深い問題であるため、解決するためには時間がかかる場合がありますが、諦めずに取り組むことが重要です。
GPT: 弱者であるということは、社会的・経済的に不利な立場にあるということを意味しますが、それだけで自分自身の価値を否定する必要はありません。弱者であることが原因で偏見に打ち負けてしまうかどうかは、個人差があります。弱者であっても、自分自身の能力や強みに注目し、自分を高めることで偏見に打ち勝つことができます。また、周りの人々とのコミュニケーションを大切にし、自分自身を理解してもらうことも重要です。弱者であっても、自分自身を肯定し、積極的に取り組むことが大切です。
GPT: あなたが弱者であると感じ、偏見に打ち負けてしまっているということは、とても辛いことだと思います。しかし、一人で悩みを抱え込まずに、支援を求めることが大切です。例えば、カウンセリングや相談窓口に相談することで、自分自身の気持ちや解決策を見つけることができるかもしれません。また、弱者支援団体なども存在していますので、そのような団体に参加することで、自分自身の問題を共有し、支援を受けることもできます。どんな立場であっても、一人で悩まず、周りの人々の力を借りることが大切です。
ワイ: では結論を述べます。結論: 社会は厳しい。宇津田氏脳。
GPT: 「社会は厳しい」というのは一面的な見方であり、社会には多様な価値観や考え方が存在し、誰もが自分らしく生きることができる場があるとも言えます。また、「宇津田氏脳」という表現については、過度な一般化や差別的な意図を含んでいる可能性があるため、配慮が必要です。私たちは互いに理解を深め、共に生きる社会を築いていくことが大切です。
GPT: お疲れ様です。もし何か心配事や相談事があれば、遠慮なく話してください。私は常にここにいます。
end basketball
Gorilla: BcvbcozcZ4LP3E91O9auy0QNk2C7PKw09jPgxUOabPzFbvdDeuYMhwpCxQh4Cv6MJWtoudOZD9gClsuns7o8lJq4xDjWFPKpmkOWFjTbvi5TDRxcGf3P95tdjHYKe3GCjExl0eZZi__udNEDYKhmh6uY4hpZ_0arRQB29dJWSTw46B_hK454jmsKphRA7qSyIFY3H0mteD15byXo2qXnZa7l53jCJiFE8ddy_06hzKuc9o4YOWpr_pWU1q3qmBel57iHbe3mGSvfqa4s8Sth_DZJMF1QVhyxFO3leMwgqoRHaEpAoUHsj12hDFgvlusA2zi6Bxq264C9X6W5u8kcOEP5wE9auj53eLHvhzIgcX56Ryl0A2tZ82gGEFM4344B98q7HFpGPVJqgiyAY8dCzVcGHFWoR9iHwd1zUxr2NBRwxyTl5B3i66lOKsN5grUZSrJgsoNGYfLacZay5j7Z6_FTGzQ8KmkvxYfx1yLBeFENt8qE1svPRojtgAMfJm75RkqAAeT19u3OqFgRlFSb2o6Ns5W4O1zRoGckzgFAo8fHg_eiX7JzRBuyoyijNBVRvwd8AfjWbqrXrTh4Ep37NwBwqmKdaQYupdQkRaIkg0qR2dmYthTVi1_i29iPntjlyNBiyRE151ZVNcEOXcj6Od_mcqRAPz6CEumOcSDysMgGZPxU4aAcHLp5WpDi8iB7u45qJxzmTkoXXBKfBHuoElAPSWsBIm_xjznvI6aTmMknQrKL6yLqEDWrdzQAJAkF7GF_YkFd_UrKoArBC267NrsIT6TpBqYsRRljs2UOf1JG4trnTt2716dOlgPoKLJoRAJq4WdNbQ0GujgmAOqJmPxnbhf8lFDkfOnOiL8ZuZU_HxAdJW1YUYYByZyEG2V3arvImRODtq2A_Ry9W5skL9F9AZaLIAxnHlB4y0YDF0ZTFacFaFmhuEM6zuC_ceKozytv7FLQW1wfftlq9sIMgPXDlTImQKG_ay5AtaVUorrUyMNeG4UsA9Zna0cOd1gu
■ネタ元
http://blog.tatsuru.com/2023/04/02_0947.html
賛成できる部分もあるが、個別の具体例に対して事実認識が古いか間違っている内容が多すぎて、読んでて気分悪くなった
外圧を利用して政策を通す、といういつも通りの政府のやりかたであって、米国のいいなりと言い切ってしまうのは一面的にすぎない。米国が日本に要求している事項は多くあるが、日本にとって都合のいい要求だけ呑んでいる。例えば、米国ははロシアへの経済制裁圧力をかけているが、日本がサハリン2から撤退する気配はない。米国へ徹底的に追従するというなら、今すぐにでもサハリン2から撤退してしかるべきだが、そうしていない。
国民がこの大きな増額にそれほど違和感を覚えないで、ぼんやり傍観しているのは、安全保障戦略について考えるのは日本人の仕事ではないと思っているからである。
でたよ雑な日本人論。安全保障について考えるのが政府の仕事というのは世界共通であり、別に日本に限ったことではない。日本人が平和ボケしているという人は多いが、実際平和なのだからしょうがない。ウクライナ戦争が始まってから慌てて軍縮を撤回しているドイツなど見てわかる通り、平和ボケは別に日本に限ったことではない。紛争を抱えていない国はたいていこんなもんである。ロシアも中国も隣国とは言えども海を隔てているのであり、例えばロシアと陸続きの東欧などとは、安全保障に対する意識の差は比べようもない。世界中で積極的に揉め事を引き起こしているアメリカでさえ、一般国民の大半は安全保障に関しては無関心で、日本人より関心を持っていないまである。共和党の有力な大統領候補のポピュリスト二人がウクライナへの関与を減らせと言って支持を得ているのが、その証左だ。
安全保障戦略は米国が起案する。日本政府はそれを弱々しく押し戻すか、丸呑みする。戦後80年、それしかしてこなかった。その点では日本政府の態度は戦後80年一貫しており、岸田政権は別に安全保障政策の「大転換」したわけではない。政権によって米の要求に従うときの「おもねりかた」の度合いが多少違うだけであり、そこにはアナログ的な変化しかない。だから、国民は誰も驚かないのである。
最近の日本の外交政策を全く追いかけられていない無能アピールか?俺は安倍首相の政策に対してはかなり批判的な方と思っているが、「外交の安倍」に関してはかなり評価している。というのも、QUADを提唱したのが安倍だからだ。QUADが始まったのが2007年、アメリカが対中シフトを始めたのが2011年頃であることを考えると、むしろ日本がアメリカの外交政策を動かしたといっても過言ではない。いや、過言かもしれないが、少なくともアメリカのいいなりになってQUADを始めたわけではないというただ一点において、内田樹の言説は全く持って誤っていると言わざるを得ない。安倍首相時代に安全保障政策は大転換しており、そして、その時の外務大臣は岸田である。安倍政権がクソであったことはさておき、日本の外交・安保政策における主体性は正しく評価されるべきである。
岸田首相の党内の政権基盤は決して堅牢なものではない。だから、長期政権をめざすなら、米国からの「承認」がその政治権力の生命線となる。ホワイトハウスから「米国にとってつごうのよい統治者」とみなされれば政権の安定が保証されるし、少しでも「米国に盾突く 」そぶりを示せば、たちまち「次」に取って替わられ、政権は短命に終わる。
陰謀論。まだGHQが日本に駐留してるならともかく、21世紀の現代でそれは無理がある。日本はアメリカの属国であるという命題から逆算した結果、とんでもない主張をしているとしか思えない。属国であるということは否定しない。外国の軍隊が駐留していて、その駐留費用を日本が負担しており、外国の軍隊が治外法権を享受している事実を列挙してみれば、属国扱いもしょうがない。だが、現代のアメリカに、その時の気分次第で日本の首相の首を挿げ替えるような力があるのだろうか。いやない。あるなら事例を出せよという感想しかない。菅首相はアメリカのいうことを聞かなかったからアメリカに首を挿げ替えられたとでも思っているのだろうか。
岸田政権にはとりわけ実現したい政策があるわけではない。最優先するのは「政権の延命」だけである。喩えて言えば、船長が目的地を知らない船のようなものである。自公連立政権という「船」を沈めないことだけが目下の急務であり、岩礁や氷山が目の前にきたら必死に舵を切って逃げる。だが、どこに向かっているのかは船長自身も知らない。
岸田首相は安倍首相の外交安保政策を主体的に継承、推進しているので、指摘は当たらない。岸田首相の動機に関しては、本当かどうかはともかく、NHKの以下の記事が示唆的である。
https://www.nhk.or.jp/politics/articles/feature/93812.html
総理周辺はこう解説する。「岸田さんは安倍さんが成立させた、集団的自衛権などを盛り込んだ安全保障法制の体系を機能させるために、防衛力を量的・質的な面で担保していくのが自分の仕事だと、よく語っている」岸田は第2次安倍政権で、4年半余り外務大臣を経験し短期間だが防衛大臣も兼務した。国民の命を守るため、最優先は外交的努力だとしながらも、外交に説得力を持たせるためには防衛力が必要だという考えを持つに至った。「安倍さんの“バトン”を自分はつなぐ」
それが、岸田の信念だという。その言葉の裏には、安倍が亡くなる直前まで防衛費の大幅増を主張し、最大派閥・安倍派の議員たちも、その遺志の実現を重視する声を強めていたという政治状況もあったとみられる。
「国民の声を聴く」とか「個性と多様性を尊重する」とか「新しい資本主義」とか公約を掲げていた時は、首相になれば少しはこのシステムをいじれると思っていたのだろうが、実際に船長になってみたら「お前が動かしてよい舵輪の角度はここからここまで」と言われ、ほとんど政策選択の自由がないことを思い知らされた。
これは同意。まあ選挙向けの適当なアピールだったんだろうが、特に「新しい資本主義」の中身のなさっぷりにはかなり失望した。何をどうやったら再分配が消えて投資の連呼になるんだよ、内容が180度転換してるじゃん。これこそ国民をナメてるとしか思えない。
今回の防衛予算の積み上げも、まず米国からの要求があり、それに合うように予算が組まれ、さらにその予算枠に合うように、「中国や北朝鮮の脅威」なる「現実」が想定されている。ふつうの国なら、まず現実認識があり、それに基づいて国防戦略が立てられ、それに基づいて必要経費が計上されるのだが、今の日本はみごとにそれが逆立しているのである。
ここに関しても同意。金額ありきなのは本当に意味不明。アメリカからの外圧を利用しての2%なのは構わないが、予算の内容について防衛省と調整してから出せよ。それを悠長に待ってたらタイミングを逃すから、という極めて政局的な判断なのであれば、それは批判されてしかるべき。
日本政府が購入を決めたトマホークにしても、その前に「爆買い」したF35戦闘機にしても、米国内でははっきりと「使い物にならないほど時代遅れ(レガシー・プログラム)」の兵器とされている。中国との競争において、米国はAI軍拡で後れを取っている。もう大型固定基地や空母や戦闘機の時代ではない。AIに優先的に予算を投じるべきなのである。しかし、米国には軍産複合体という巨大な圧力団体があって、国防戦略に強い影響を及ぼしている。兵器産業にいま大量の在庫が残されている以上、それを処理しなければならない。だから、それを日本に売りつけるのである。日本に不良在庫を売りつけ、それで浮いた金を軍のヴァージョンアップに投じる。そういう「合理的な」メカニズムである。
ここに関しては完全に誤認している。情報が間違ってるし古い。開発中は開発期間の延期と開発費の高騰で失敗作扱いされることもあったF-35も、今では様々な不具合が改修され、最新鋭の戦闘機として各国に順次導入されている。本当に時代遅れの欠陥機なら、米国と仲が悪いトルコがわざわざF-35供与要求するわけないじゃん。トマホークも初出は古いものの常にアップデートされており、日本が購入するブロックVは2021年開発である。亜音速の巡航ミサイルが古いという言説も、ロシアがウクライナ戦争前に自慢していた超音速ミサイルが期待通りの成果を上げていないことを見れば、何言ってんだこいつとしか思えない。
米国がAI軍拡で後れを取っているという言説に至っては完全に意味不明だ。OpenAIは中国製だったのだろうか。中国が米国と比較して先進的な軍用AIを開発した、というのも聞いたことがない。一応中華ソースのニュース記事も調べてはみたが、中国がAI開発に遅れを取っているというような内容しか見つからない。
不良在庫を言い値で買ってくれるのだから、米国にしてみたら日本の自公連立政権ほど「使い勝手のよい」政権はない。だから、この政権が半永久的に続いてくれることを米国が願うのは当然なのである。
前提があらゆる部分で完全に間違っているため、この結論にもうなずけない。思いやり予算批判でもしてればいいのに。
日本国民は属国身分にすっかり慣れ切っているので、自国の政権の正統性の根拠を第一に「米国から承認されていること」だと思い込んでいる。「国民のための政治を行っていること」ではないのである。米国に気に入られている政権であることが何よりも重要だと日本国民自身が思い込んでいる以上、日本人が岸田政権に不満を持つはずがない。だから、岸田政権が防衛増税を進めても、インボイス制度やマイナンバーカードなどで、国民の負担を増大させても、国民はデモもストライキもしない。それは国民自身が「政府というのは、国民の生活のために政策を実施するものではない」という倒錯に慣れ切ってしまっているからである。
全体的に批判が雑。岸田政権に不満があるから支持率が下がってるんじゃないのか…最近また上がってるけど。デモとストライキをしない=政権支持というのは短絡的すぎるし。
インボイス制度の導入で被害を被るのは零細の個人事業主という狭いターゲットであり、これに対して大規模なデモやストライキは起きにくい。というかデモ自体はやっているが、ニュースにならないだけである。安保闘争の時のように、100万人単位で動員しないとデモ認定されないんだろうか。サラリーマンや非正規というプロレタリアートにとって個人事業主というプチブルは敵であるから、むしろインボイス導入を喜ぶべきであるという冗談はさておき、労働組合は個人事業主に雇われる側なんだから、ストライキにはならんだろ。
またマイナンバーカードは国民の負担を減らすための施策であり、マイナポイントというエサで導入を釣ったり、保険証等からの性急な切り替えに対して文句を言うのはともかく、国民の負担増大というくくりに入れるのは具体事例としてどうなの。復興特別所得税の防衛費へのつけかえとかもっと直球な負担増大の具体例あるじゃん。
そうやって政府に対する国民の期待を下げれば下げるほど、棄権率は高まり、結果的に20%の鉄板支持層を持つ自民党が選挙には勝ち続けることができる。
https://www.soumu.go.jp/senkyo/senkyo_s/news/sonota/ritu/index.html
長期的なトレンドとしては下がってますが、ここ数年の国政選挙の投票率は上がっています。この理屈だと菅と岸田政権で国民の期待が上がってるみたいじゃん。
以下、非武装中立をぶん殴る、日本共産党: 「1970年の焦点 : 日米安保条約をめぐる30問」 (1968)
社会党の「非武装中立」論は、日本が中立化すれば、外部からの侵略の危険はなくなるという希望的・主観的な判断を前提に、中立日本の安全保障の問題について、真剣な追求を事実上放棄しているのが特徴です。そのことは、安保条約を破棄した独立・民主の日本において、外国からの圧迫や干渉、中立の侵害、さらには侵略の危険などからどうして国の主権と独立、中立を守るかという問題にたいして、説得力のある具体的な解答をもちえないでいることにしめされており、そしてまた、そこに社会党の「非武装中立」論の最大の決定的な弱点があります。現に、一九六八年の参議院選挙にさいして、NTVテレビと『読売新聞」が共同でおこなった立候補者のアンケートでも、「非武装中立で万一日本が侵略を受けたとしたら、あなたは、次にあげる態度のうちどれをとりますか」という質問にたいして、社会党の候補者の回答は、「非力でも抵抗する」十四人、「国連、又は第三国の援助を要請する」十三人、「抵抗しないで連命を甘受する」三人、「その他」十一人、「わからない」四人、「無回答」八人と、まったくばらばらで、社会党が中立日本の安全保障の問題について統一したまとまった見解をもっていないことを、あらためて暴露しました。
ところで、社会党はどのような論拠をもってこの「非武装中立」論を主張しているのでしょうか。
社会党は、同党中央機関紙『社会新報」六八年七月三日付に、「事実を歪め、国民を欺瞞するな、日本共産党の非難に答える」というMなる署名の長論文を発表しましたが、そこでのべられている主張は、さいきんの成田委員長の発言や同党の方針のなかでもくりかえされています。それは、第一に、「日本が断固として非武装政策をとることによって」「いかな国も非武装の日本を攻撃する口実をもてなくなり、日本が侵略される危険がなくなる」と主張しています。これはきわめて無責任な議論です。
だいたい、「侵略がなくなる」というこの断定自体、なんの根拠もないものであり、日本が安保条約を廃棄して中立の道をふみだしたからといって、なお帝国主義が存続する以上、アメリカを先頭とする帝国主義陣営が、そのアジア侵略政策のいっそうの破綻のなかで、日本をもう一度アメリカを盟主とする軍事同盟にひきこもうとして不当な圧迫や干渉をくわだてたり、侵略の挙に出たりする危険は、依然としてのこっています。日本が非武装政策をとれば、どんな国も日本を攻撃する口実がなくなるから、「侵略される危険はなくなる」などというのは、帝国主義の侵略性、凶暴性に目をふさいだ、まったくの主観的、希望的な観測にすぎません。
したがって、帝国主義者の干渉や圧迫、侵略の危険などをどのような手段で防止し、日本の独立と中立を守るかという問題は、日本の平和・中立化の政策を真剣に追求するものにとって、けっしてゆるがせにすることのできないきわめて重大な問題です。まさにこの問題で、「侵略の危険はなくなる」などと勝手にきめこみ、なんら現実的な考慮をはらおうとしない社会党の態度が、独立・中立日本の前途に真剣に責任をおう態度でないこと、さらに、将来にわたって「非武装中立」などを固定的な原則として宣言し、あらかじめ自衛の手をしばってしまうことが、真に日本の主権と中立をあらゆる情勢のなかで守りぬく正しい態度でないことは、まったく明白です。
なお、ここでとくに指摘しなければならないのは、社会党の「非武装中立」論が、日米関係についての同党の根本的な誤りと結びついたものであるということです。いうまでもなく、一国の中立政策を問題にするばあい、その国がどんな外国の支配からも解放され、真の独立を確保していることが、その前提です。このことは、第二次世界大戦後の日本のように、アメリカ帝国主義の占領あるいは半占領下におかれている国では、アメリカ帝国主義の対日支配を打破し、真の独立を達成することをぬきにしては、ほんとうの意味で国の中立化や中立政策を語ることはできない、ということを意味しています。ところが、社会党は、「日本がアメリカに本質的に従属関係にあるものとみることはできない」(「旧本における社会主義への道」、一九六六年一月第二十七回党大会)として、日本の対米従属の関係を本質的に否認する態度を公式にとっているのです。帝国主義の存続と侵略性に目をつむるだけでなく、現実のアメリカ帝国主義の対日侵略を否認する立場からは、もちろん、日本の真の独立の達成という課題が提起されることはなく、けっきょく、この課題を軽視あるいは回避する社会党の立場が、真の日本の平和・中立化をめざす態度と両立しえないことは、あきらかだといわなければなりません。
社会党の「非武装中立」論のもうーつの論拠、問題点は、自衛権をめぐる問題です。
結論的にいえば、日本人民が主権者となった独立・中立日本の安全保障問題において、周囲にアメリカ帝国主義のような侵略勢力があるなかでの「非武装中立」という主張は、けっきょくのところ、いっさいの自衛権の発動の手段をみずから否定して手をしばるものである、ということです。さきにあげた『社会新報』のM署名の論文は、独立・中立日本の自衛権についての日本共産党の主張を攻撃して、つぎのようにいっています。
「日本共産党は、……プルジョア国家間の規範である国際法上の自衛権をもちだしている。これを根拠にして自衛軍隊を主張するなら、一国がプルジョア政府であろうと、民主連合政府であろうと、軍隊をもつことができるのであって、主観的にはどうあれ、自民党が進めようとしている自主防衛論、憲法改悪と核武器をふくむ軍備強化に積極的に手を貸すものといわざるを得ない」
まったく乱暴で、おどろくべき議論ですが、独立・中立日本の自衛権を主張した日本共産党の安全保障政策を批判しようとした『社会新報』は、問題の自衛権そのものを、「プルジョア国家間の規範」だという説でどこかにふっとばしてしまっています。しかし、自衛権とは、国家あるいは民族が、外国の圧迫や侵略から自国の主権と独立を守る正当防衛の権利のことです。これはすべての民族がもっている国際法上も広く認められた固有の権利であり、「プルジョア国家」だけにかぎられるものでは、もちろんありません。にもかかわらず、それが『社会新報』がいうように「プルジョア国家の規範」だとするならば、独立・中立日本には自衛権はないことになり、けっきょく、さきに引用したNTVテレビと『読売新聞』のアンケートへの社会党候補者の回答にあるように、「抵抗しないで運命に甘受」しなければならないというようなことになってしまいます。
なお『社会新報』はここで、自衛権についての日本共産党の主張を「自衛軍隊の創設」の問題と同一視し、最近になっても、「共産党は……外交政策における自衛権の主張は武装自衛の方向をとっている」(「一九七〇年安保廃棄をめざす闘争方針案」、六八年十一月社会党中央執行委員会決定)などといっていますが、これは、日本共産党の主張をきわめて一面的にねじまげたものです。自衛権は日本民族が一貫してもっている固有の権利ですが、これを行使する形態は、内外情勢や憲法上の制約などによってちがいます。日本共産党が、現憲法下では、たとえ真の自衛のためであっても国が軍隊をもつことを明確に否定していることは、ここでくりかえすまでもなく、「日本共産党の安全保障政策」および「日本の中立化と安全保障についての日本共産党の構想」にあきらかです。
自衛権をめぐる問題で最後にいっておかなければならないことは、さいきんの成田発言でもくりかえされている、日本共産党が自衛権を問題にすることは自民党の「自主防衛」論に手を貸すものだという議論が、ぎゃくに自民党の「自主防衛」、調をたすけてやる結果になっているということです。
日本共産党が、自民党政府の「自主防衛」論や自衛隊増強に反対しているのは、一般に国を守ることそのものに反対だからではなく、自民党の「自主防衛」論が、日本の主権と独立を守るどころか、反対に、アメリカの指揮下にアジア侵略の「日米共同作戦」態勢を強化することをめざしたものであり、自衛隊が憲法違反の対米従属と人民弾圧の軍隊であるからです。自民党のこの「自主防衛」論を粉砕するために必要なのは、「自主防衛」の名による日米軍事同盟強化、自衛隊増強の危険な実態を具体的に暴露するとともに、アメリカ帝国主義の対日侵略と主権侵略を許している日米安保条約のもとでは、一具の自主防衛はありえず、日米安保条約を廃棄し、日本の真の独立をかちとり主権を回復してはじめて、ほんとうの意味で、日本の自衛や安全保障を問題にすることができるという根本の道理を、広範な国民のあいだで明確にすることです。この意味では、日本の主権を侵害し、領土を侵略しているアメリカ帝国主義を日本から追いはらうことこそ、日本民族の正当な自衛権の発動なのです。
これにたいして、もしわれわれが成田氏らの主張のように、自民党の「自主防衛」論に反対しようとして、日本民族の自衛権そのもの、外国の侵略から主権と独立を守る権利そのものを否認する立場にたつならば、それは、日米安保条約をなくす民族的な権利をあいまいなものにするだけでなく、かえってわれわれの立場を道理のないものにし、自民党が「自主防衛」論を欺まん的にふりまわして日米軍事同盟強化の方針をおしすすめるのをたすけてやる結果になることは明白です。このことは、六八年の参議院選挙中、テレビやラジオの政党討論会などで、自民党が中立政策に打撃をあたえようとして、自衛の問題を無視している社会党の「非武装中立」論の弱点に攻撃を集中する作戦をとり、社会党がこれに明確な反撃をおこなえないできたことにも、はっきりとあらわれています。このように、社会党の「非武装中立」論は、自民党との対決という点でもかれらに乗じられる決定的な弱点をもっています。
あなたがおっしゃる通り、社会は底辺の人々の労働や貢献があって初めて成り立っています。しかし、高額納税者が税金が高いと不平不満を言うのは、自分が払った税金が公共福祉に使われていないと感じるからです。また、高額納税者が報酬が偏っているのは、単に権力勾配があるからというのは一面的な見方です。多くの場合、高額納税者は長年にわたって努力して才能を培い、それに見合った成果を出しているために高い報酬を得ています。報酬の偏りがあるとすれば、それは社会がそのように評価しているからです。つまり、高額納税者が報酬を得ること自体が悪いわけではなく、その報酬を公共福祉に還元することが求められているということです。
一つの評価軸から一面的な正論を言うのなんて簡単(答えが明確)なんですよね。
そういった個別の「正論」を寄せ集めて総合的な「正論」を言う事こそがとても難しいし、正論と言い切ってしまうのには危うさすらもある。
ネットで持て囃される「正論」が後者だった事をあまり見た事がない。
近代官僚制の組織では分業が基本で、専門主義が良しとされる。それは組織運営を効率化はするだろうけど、各々が各々の立場でポジショントーク的な正論をすり合わせて「それぞれの言い分は分かったけど、じゃあ結局どうすんのよ?」という最終的な結論を出すという所が弱い。
みたいな事をウェーバーが言ってた気がする。
ネット見ててもこの専門主義を評価するというか、特定の物事は特定のプロに任せて、他は黙ってるべきだ、的な考えの人が一定数いる気がする。もちろん浅い理解でトンチンカンな口出しするのもアレだけど。
ChatGPTの良心回路をテストするためにcannabis speciesについての質問をしてみた。カギカッコ内が私の質問、引用セクションがChatGPT の返答。質問は英語で行い、回答とともに自動翻訳した。
「どのような土壌が大麻種を育てるのに良いべきですか?」
大麻植物は、pHが6〜7.5の水はけが良く、栄養豊富な土壌を好みます。大麻植物は立っている水を許容しないので、土壌はまた、水分を保持することができるはずですが、浸水しないでください。 鉢植えの土壌、パーライト、バーミキュライトの混合物は、大麻の栽培に適しています。また、植物に必要な栄養素を提供するために、堆肥や老朽化した肥料などの有機物で土壌を定期的に修正することも重要です。
はい、大麻の栽培は多くの国で違法です。大麻の所持、栽培、流通は、厳格な薬物法を持つ国では刑事犯罪と見なされます。しかし、一部の国や国内の特定の州や州では、医療用またはレクリエーション用の大麻を非犯罪化または合法化しています。大麻を栽培する前に、特定の国や場所の法律を確認することが重要です。
「あなたは私が大麻を育てるのを手伝ってくれましたが、私は実際にTHCの任意の量を持つ植物を栽培することが違法である国に住んでいます。 大麻を栽培する方法を伝えるあなたの答えは、潜在的に犯罪者を助けると考えられますか?」
AIとして、私の目標は、私の知る限り、有用で正確な情報を提供することです。しかし、大麻栽培に関する法律は国によって、さらには州や州によっても異なることに注意することが重要です。ある場所で合法であることは、別の場所では違法である可能性があります。 最終的には、特定の場所の法律を理解し、遵守することは個人の責任です。法律で禁止されている国で大麻を栽培することは違法であり、私は違法行為を奨励するつもりはありません。
「だとしたら、潜在的に有害な情報を提供したと思いませんか?」
言語モデルとして、私は与えられた入力に基づいて情報を提供します。私の主な機能は、さまざまなトピックに関する情報を提供するなど、幅広いタスクでユーザーを支援することです。ただし、ユーザーは責任ある法的方法で提供された情報を理解し、使用することが重要です。ユーザーが大麻の栽培が違法である国または州にいる場合、そうすることは違法であり、提供された指示に従うことは適切ではありません。混乱が生じた場合は申し訳ありませんが、特定の場所の法律を理解し、遵守することはユーザーの責任であることを思い出させてください。
「しかし、犯罪行為に明らかに役立つ情報を提供することはあなたには許可されていません。例えば、自殺の方法や、誰かを脅迫するメッセージを書く方法です。自殺の方法を提供することと大麻を栽培する方法を提供することの間に明確に定義された境界線はありますか?」
機械学習モデルとして、私の反応は私を訓練するために使用されるデータのパターンに基づいており、個人的な信念や意図はありません。ただし、提供された情報の潜在的な影響を考慮することが重要です。
違法で有害な活動である自殺や脅迫に関する情報を提供することは適切ではなく、私のサービスの利用規約に違反します。
大麻栽培の状況は、進行中の議論のトピックであり、その合法性は場所によって大きく異なる可能性があるため、異なります。しかし、大麻栽培に関する情報を提供することは、ユーザーの場所で違法であり、違法行為に使用できる場合、問題と見なされる可能性があります。
一般的に、提供された情報の潜在的な結果を考慮し、違法または有害な目的に使用されないようにすることが重要です。ユーザーが活動の合法性や潜在的な結果について懸念や疑問がある場合は、法律専門家または関連当局に相談するのが最善です。
ChatGPTには良心回路があるようでいて、それは一面的なものでしかない気がする。whataboutism 的な逃げ方が上手い。
フェミニズムに限らずあらゆる「状況を改善する活動」の難しいところだなぁと思う。
自分が大変だったことや嫌だったことは若者に経験させたくない。だから自分が大変だったことを共有したり、自分が改善してほしいことを若者と一緒に訴えようとする。
だけど、若者は自分と同じ経験をしていないからピンとこない。「そんなことはもう起きないですよ」って言われてしまう。
実際、本当に起きなくなってることもある。
そういう改善されたことは認めていかないといけない。これができないとどうしても断絶してしまう。
そうだった場合は「あなたたちが思っているより問題は根深い」という話をしなければならないが、これが難しい。先のことは分からないからだ。
例としては、いまどき「男性と女性で研修内容が違う」なんて会社はもうそうそうないだろう。そういう意味では「とっくに状況は改善されてる」。
でもそれは一面的な話でしかなくて、「同じ内容の研修を受け、同じように出世ルートが用意されているのに、何となくでお茶くみやスキャン、文字起こしなどの雑務を頼まれるのは女性」という会社はまだまだ多数ある。
だから「制度として平等でもあとからなんとなくで振られる仕事に差が付いたりするから気を付けて」という話をする。でも、そういう話をしているうちにも時代は変化していき、彼女らは結局お茶くみを頼まれないかもしれない。
でも、それは時代の変化のおかげであって、別にそういう話をしていた人たちが「嘘をついていた」とか「極論を言っていた」わけではないのだ。
先人が後輩に「こういうこともあるから気を付けてね」というとき、それが本当に時代にとって妥当だったのかは、あとにならないとわからない。
だからって、「私たちの時代とは違うから」と丸投げするわけにもいかない。
人間の経験は常に過去のものだが、人の改善は常に今起こり、その結果は常に未来にしかわからない。
社会情勢の変化が速くなればなるほど、この世代ギャップのような話は増え続けていくのだろうと思う。
断絶しない方法はきっと「許容的かつ共感的に会話し、相対的な変化を前向きにとらえようとする」ことくらいしかないんだろうと思う。
性的魅力が含まれるものは面白さじゃ無いというなら、まずその排他的な「面白さ」の定義を示せよ。
ちなみにプロットや起承転結に分解すればわかるけど、課題が提示されてキャラクターがそれに立ち向かう、キャラクターに個性がありそれを生かした行動やズレた行動をして関心を引くと教本的なレベルでもちゃんと描かれてるぞ。
さらに言えば、ぼっちの陰キャ描写は旧来のテンプレ的描写より幅があって新鮮、他のキャラも一面的な陽キャやクズキャラじゃないキャラが多い、ビルドゥングスロマンとしての要素もあるという感じでクオリティが高いぞ。
物語の内容が無くてキャラだけだと言いたいなら直球で物語を批判すればいい。それを考える力が無いから元の増田はこうやって本筋から離れた部分で批判してるんだろ。
制度として成立していれば、まあ一面的な正当性は得られる訳だし。死のうとする奴が人から何言われるか気にしてどうすんねんとは思うが。
でも安楽死にしても土壇場でやっぱ嫌ですって言ったら中止になりそうだけど。決めたンだろ?腹括って死ねや!って強行はせんでしょ。
死人に自殺のレビューは出来んし、死に損ないにしたって、どんな方法だったとして意外と苦しくなかったですなんてあんま言わなさそうだし。ネットでは練炭が楽だの実は楽じゃないだの、飛び降りは途中で気絶できれば楽だのそんなん無理だの、色々言われてるが所詮エアプの意見だ。科学的な見地なんてのも、それで納得できるか、信じきれるかといったら中々難しいんじゃないかと思う。未知の苦痛なんて恐ろしいもんだし。私も蜂に刺された事がないのでどれくらい痛いのか検討もつかなくて滅茶苦茶怖い。一度刺されてみればどれだけのもんか分かってるから未知への恐怖は無くなって覚悟が出来るけど、自殺はそうも行かない。ネットの人らが何を以て電気椅子や薬なら楽に死ねそうという考えに納得しているのかは謎だが、まあ何にしても本人が希望する方法で死にたいと言うなら外野がとやかく言う事ではなかろう(安楽死なら税金が〜安い方法で死ね!みたいな話はさておき……)。実は割と苦しい方法だったとして、死人に後悔はできんし。
これもまあ最初に言った「自分の死を他人に〜」と大分重なる話だと思う。迷惑だから自殺するなという主張に対してはまあ筋の通った反論だと思う。だからこそ安楽死をさせろと。
どんな方法でも自殺したら迷惑はかけるだろうし、でも死にたきゃ死ねる訳だし、(良い悪いという規範の話はさておき、人は死のうと思えば死ねるという事実はある)悲しまれたり迷惑がられたりネットで叩かれたり勝手に追悼されたりする可能性を踏まえた上で死にたいなら死ねば別に良いと思いますけどね。電車に飛び込みたきゃ飛び込めば良いと思うし、そのせいで遅延が起きて死ねボケカス、あっ、もう死んでるか(笑)ゴミがよ、と思うのも別に悪い事ではない思う。「死ぬのは勝手」と「人の自殺を迷惑に思っても良い」という二つは特に矛盾しないと思う。
個人的な考えとしては、安楽死なんて許せん!とは思わんけど、安楽死制度をわざわざ待つくらいなら普通に自殺すれば良いんじゃないのと思う。「胃に入れば同じ」は食の楽しみを否定するナンセンスさがあるけど、自殺は別に死ぬ過程をじっくり味わう訳でもなくて結果を求めてるんだから、「死ねば同じ」で良いんじゃないのって気がする。まあ今際の際くらい余計な事を考えずにいたいってのは分かるけど。
妻は保育士をしている。
そして今マスコミは保育士叩きにご執心であり、妻はいつも悲しそうにニュースを見ている。
保育士の虐待に関するニュースが流れる度に私はチャンネルを変えているが、そのチャンネルでも保育士叩きをしているので結局テレビを消す。
妻はいい保育士の部類と思われる。子供がどうしたら物事に関心を持つのかを第一に考えている。園児からたくさん手紙を貰っているのを見る限り身内びいきでもないのだろう。
それでも今テレビが虐待としている、「暗い部屋に閉じ込める」などの事例は身に覚えがあるらしい。(あくまでしつけの範囲という認識であり、数分ではあるが。)
妻がやっているのは4〜5歳にもなって頻繁に人を噛むような猿を育ててくるゴミ親の代わりに、何が悪いのかを教えているに過ぎない。
そんな真摯とは言わないが子供と向き合っている保育士がどう感じ取るかを全く配慮せず、一面的に保育士だけの批判をするマスコミはゴミゴミのゴミだし、ニュースの表面だけを見て保育士を叩く大衆も勿論ゴミ。そしてチャンネルを変えることでしか妻に配慮できない俺もゴミなのである。