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2014-03-26

喪服の死神という非モテ化身。あるいは汚い顔と罵られた人間の末路

「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述全文公開1

「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述全文公開2

徹底した自己開示と執拗自己解釈による独演を社会提示した喪服の死神

幼少の個人的出来事からネット右翼アベノミクスまで論じ上げた喪服の被告人意見陳述は、他者による分析を拒む防壁として構築されたが、ひとつだけ、さらりと流されて違和感を放つ、セクシャリティカムアウト。

陳述で同性愛告白し、ボーイスラブ二次創作での人気に執心したことを事件の発端とするも、彼はセクシャリティに関してだけは、言及を拒む。

自分が「手に入れたくて手に入れられなかったもの」について列挙しておきますと、上智大学学歴バスケマンガでの成功ボーイズラブ二次創作での人気の3つになります

31年前に同性愛に目覚め、同じ年に母親から「お前は汚い顔だ」と言われ、26前に「聖闘士星矢」のテレビアニメを見たいとお願いして父親に殴り飛ばされ、24年前にバスケユニフォームに対して異常なフェチシズムを抱くようになり、22年前にボーイズラブ系の二次創作同人誌を知ったという積年の経緯があります

自分に対して理不尽な罰を科した「何か」に復讐を遂げて、その後に自分人生を終わらせたいと無意識に考えていたのです。ただ「何か」の正体が見当もつかず、仕方なく自殺だけをしようと考えていた時に、その「何か」の代わりになるものが見つかってしまったのです。それが「黒子のバスケ」の作者の藤巻氏だったのです。ですから厳密には「自分が欲しかったもの」云々の話は、藤巻氏を標的として定めるきっかけにはなりましたが、動機の全てかと言われると違うのです。

「手に入れたくて手に入れられなかったもの」「何か」「自分が欲しかったもの」。

執拗自己解釈を行う喪服が、ひたすらに言及を拒む「何か」は、すなわち、セクシャリティの肯定である

喪服のまとめサイト的な自己ツッコミは、非モテ自意識には向けられて、彼は饒舌ウェブ上に氾濫する非モテキモオタ類型コピーを演じて見せるが、一方で、自らのセクシャリティたる同性愛については、まるで《安価》が付けられていない。

本来なら最も語られるはずの内心、セクシャリティが鎮座する位置は、自らを汚物とみる自意識代替されている。

動機について申し上げます。一連の事件を起こす以前から自分人生は汚くて醜くて無惨であると感じていました。それは挽回の可能性が全くないとも認識していました。

汚くて醜くて無惨、自らを汚物と信じた喪服。

もし彼が自身と違う肉体を持つ他者に性欲を向けること、例えば空想の中でオークに成り代わり女騎士を犯すことで充足できるセクシャリティなら、あるいは始めから性的な身体をもつと社会的に扱われている性別なら、自らの身体性が「汚くて醜くて無惨である」と信じながらも、少なくともはじめの一歩を踏み出すことはできただろう。

ヘテロセクシズムに覆われた社会において、セクシャルマイノリティは「自分セクシャル存在である」と現実世界に足を踏み出せない限り、または誰かが手をさしのべてくれない限り、それがマイノリティとして否定された経験だったとしても、はじめの一歩を得られなければ“セクシャリティあるもの”として存立できない。

彼の「本当のセクシャリティ」は否定すらされなかったかもしれない。喪服は何の理由もなく、つまりホモオカマと罵られたのではなく、身体的なものをあるがままに、母親に汚い顔だと罵られた過去を呪った。それは純粋な身体性の否定であってホモフォビアとの遭遇ですらない。

ホモフォビアとの遭遇は、「ホモと笑われるのが辛かった」と、その苦しみを語ることで、自らを疎外されたマイノリティとして位置づける。

しかし、喪服は否定なき同性愛者。

喪服の空想におけるセクシャリティは、思春期ボーイズラブによって徹底的に肯定された一方で、彼の現実セクシャリティ、喪服が“手に入れたくて手に入れられなかった”身体性の肯定は、同性愛の自認と同時期に行われた“汚い顔”と身体的否定によって抑圧される。

自らを汚物と信じた喪服は、現実セクシャリティ、それによって他者と繋がる身体性を否定して、汚物は誰かを愛することもできないと、性愛を禁じてすらいる。

自分愛する人を失ったのではなく、愛する人が初めからいないのです。ここ15年くらい殺人事件交通事故被害者遺族が、自分たちの苦しみや悲しみや怒りをメディア上で訴えているのをよく見かけますが、自分に言わせれば、その遺族たちは自分よりずっと幸せです。遺族たちは不幸にも愛する人を失ってしまいましたが、失う前には愛する人存在したではありませんか。自分には愛する人を失うことすらできません。

LGBT当事者書籍として頻繁に持ち出される「ボクの彼氏はどこにいる? - 石川大我」と比較すれば、タイトルに違いが現れている。

今ではオープンリーゲイ公言する政治家である石川大我が、自分は人を愛するに足る存在であると信じることができた一方で、喪服の語る言葉は「愛する人が初めからいないのです」である

愛する人がはじめから喪われている、すなわち、自らの性愛が喪に服しているからこその喪服の死神であり、一文字で暗喩された「喪」とは非モテを示す。

2000年代2ちゃんねるはてななど、ウェブ上で隆盛した「非モテ」とは、自らの身体性あるいは性価値に対する自己否定キモいと罵られた汚物のような人間は誰かを愛するにも不足するという絶望を、自らに対して自己否定レッテルを貼り付けることで自己肯定転嫁する、クィアにも似た試みであるが、やがて、彼らにはじめから内包されていた自己否定によって自壊した。

あくまで非モテと呼ばれたことで、モテるか否か、恋愛関係にあるか否かという状態や能力について論じられてしまった非モテだが、彼ら非モテ、あるいは非リアといった類似物も含めて、彼らは「そうであること」に価値を見いだすのでは無く「そうでないこと」によって存立し、非モテを成り立たせていた人々は状態や能力を求める人間ではなく、藁にもすがる思いで自己否定レッテルに飛びついた人々である

自分がどれだけ汚物か、気持ち悪いか、失敗しているか、誰かの指摘に先んじて自己開示をし、誰に言われる前に自らを否定する、終わりなき自己否定スパイラルは、非モテの名の下に集った人々に、わずかばかりの肯定を与えた。

自己否定レッテルにより肯定される彼らの自意識の中核にあるものは、唯一、自らをキモいと思い込まざるを得なかった幼少期の経験に由来している。

しかし「生まれたときから罰を受けている」という感覚はとてもよく分かるのです。自分としてはその罰として誰かを愛することも、努力することも、好きなものを好きになることも、自由に生きることも、自立して生きることも許されなかったという感覚なのです。

冗談はさておき、明け透けに申し上げますと「こんなキモい奴は死刑でいいじゃないですか!」という気持ちです。

幼少期、まだ子供の非モテたちに向けられたキモいという言葉は、思春期セクシャリティが開花する時期を真っ黒に塗り潰す。

汚物に等しい人間は誰かを愛するにも不足するという絶望は、彼らのセクシャリティ現実を生きる他者に伝えることを禁じて、彼らの性愛は空想へと向けられていく。

従って、彼らは漫画記号を愛でる者、オタクになった。

本来ならば健全セクシャリティが鎮座する位置は、自らを汚物とする自意識に取って代わられ、歪な自意識は癒やされること無く成長と共に発展し、ウェブ上で隆盛したモテない男に由来する数々のミームに乗っ取られた怨執甚だしい精神構造を完成させた一方で、耽美世界を描いたボーイズラブ二次創作を愛した喪服の死神

現実では“自分のような汚い顔のキモブサメン”と自嘲して、空想では女性世界性愛に耽溺している。

喪服のチグハグセクシャリティの表出には、彼の現実と空想、性の繋がりを感じさせない。

「何か」が欠落してしまっていた。

ウェブ上での自己開示および匿名対話からの反応を慰撫とする行為は、今や誰もが行っており、本来なら十分にウェブの中で機能して、現実世界で怨執を露呈する必要はない。

だが、喪服の自意識歯車は、ウェブの言論歯車と噛み合わなかった。

喪服の自己対話精緻であって、他者解釈に先回りして応答し、全体としては分析をさせる余地を与えないほど堅牢であるも、彼の脳内インストールされたウェブ言論と、彼自身の対話においては、歯車の噛み合わないチグハグさが漏れ出している。

このチグハグさは、喪服が扱ったネット用語に明瞭に現れている。

さら自分は生まれてから一度も恋人がいたことがありません。その道のプロお金を払うという手段を含めても性交すらしたことがありません。恋人いない歴=童貞歴=年齢です。自分ネットスラングで言うところの「魔法使い」です。

喪服が自らの性について語る言葉は徹底してウェブ上の異性愛社会で用いられる言葉であって、セクシャルマイノリティの為に用いられる言葉は現れない。

ゲイ社会で用いられる言葉も、LGBTを構成する言葉も無い。

自らを異性愛者の視点から同性愛者」と規定し、異性愛者の非モテが用いた造語で「キモメン童貞魔法使いw」と自嘲し、「ボーイズラブ系の二次創作」と腐女子言葉で性指向を空想している。

喪服の自己対話には、セクシャルマイノリティが自らをセクシャルマイノリティとして規定する言葉が、どこにもない。

というより、喪服がウェブ本心を語ろうとも、それに噛み合う言論の歯車はあっただろうか。

ローカルルール同性愛者の投稿が禁じられたモテない男性板。

非モテから同性愛者を斥けてミソジニーホモソーシャル産物断罪するセクシャリティ論。

女性たちのホモソーシャルであるボーイズラブ二次創作世界

最後だけは、本当に、ひとつだけ、自己否定トンネルのなか視野狭窄した彼が自らのセクシャリティ本心を発露して、肯定されうる場を見たならば、思春期から愛し続けたボーイズラブ二次創作を介した他者による肯定だったのかもしれない。

しかし、喪服が創作するには、表現原動力たる空想の世界耽美であるも、空想と同一の肉体を持つ彼の身体性は汚物であって、空想と現実を繋ぐ彼の言語空間ウェブ上で構成された非モテミームに乗っ取られており、格差は恨みを募らせていく。

何より、彼には努力をする気概が無かった。

喪服が、セクシャリティの肯定を得るために行わなければならなかった努力

本当なら、とても近しい接触によってなされるセクシャリティの肯定は、喪服においては、女性たちが作る社会における創作表現に対する賞賛という、とても遠い彼方からの肯定の可能性が、ただひとつ自己否定トンネルに差す光として見えるのみ。

もしも努力の果てに肯定が得られたとしても、彼に与えられるのは二次元ベールを通した、空疎であたたかみの無い接触である

喪服は、呪っただろう。

喪服が手に入れたくて手に入れられなかったセクシャリティの肯定を、可能性として見いだしたボーイズラブ二次創作賞賛を得る者を。

空想における愛情は、現実における怨執へと置き換わり、耽美世界肥大化した自我は、現実世界自己表現を求めて、自走する。

喪服が見た光の絶望的な遠さは、彼が呪いを向ける対象への距離に変わった。

ボーイズラブ二次創作

喪服に残された肯定的表現手段は、呪いを振りまく脅迫状の郵送に変わった。

喪服が望んだ「何か」、口にすることすら拒んだ人の暖かみによるセクシャリティの肯定は、自己否定の結末として、無機質な統治権力による罰として具現化する。

「『何か』に罰され続けて来た自分がとうとう統治権力によって罰されることになったのか」

恐らく重度のネット依存だった喪服の実生活、喪服が生きた思い出の中にも、彼のセクシャリティを、わずかにも肯定した「何か」は存在しなかったはずだ。

喪服は、斑目晴信オタク濃度を感じたように、キモオタ秋葉原に得るしっくりと来るさまを感じ取ることが出来ただろうか。

喪服は、ボーイスラブ二次創作を手に取るとき、美しい男を愛する女性の為に作られた空間に踏み入れた、汚物に等しい男を見る目に、何を感じ取っただろうか。

喪服は、セクシャリティに、疎外を感じてはなかったか

喪服は、自覚することはなかっただろう。

喪服は、徹底して、自らのセクシャリティを、完膚なき自己対話によって、自己疎外した。

執拗に繰り替えされる自己解釈は、彼が求めた「何か」の中核を、自らに気付かせないための自己防壁として機能する。

自己疎外された人々が、自らに自己否定レッテルを貼り付けることで、健全精神ギリギリのところで保った非モテ論理

2000年代に爆発的に流行し、2010年代の始まりと共に終わった非モテは、童貞を中心とするヘテロセクシズムであり、同性愛者の喪服を救わなかった。

喪服が愛したボーイズラブは、あくまで女性ホモソーシャル世界であって、男の喪服を救わなかった。

セクシャリティを否定された者たちが、自らを疎外されたマイノリティと位置付けて語るLGBTは、セクシャリティはじめの一歩を踏みだせた者たちのための論理であって、非モテの喪服を救わなかった。

身長×体重×年齢》と、身体性をコード化して他者と繋がる様式を持つゲイ社会は、身体性を否定された喪服を救わなかった。

身体性を否定された喪服がセクシャリティ育むべき思春期に愛したものは、空想における同性愛であり、彼を耽美世界に誘い込み、彼の自我肥大させて、現実を呪った。

非モテにすらなれなかった「非・非モテ」の喪服の死神、怪人801面相こそが、性愛社会を呪う非モテ化身である

2014-01-26

エンダーのゲーム』のストーリーに不満のある奴は原作を読むといい

※※※※映画原作ネタバレ注意!※※※※

エンダーのゲーム』の新訳を読もうと思う。十数年ぶりの再読だ。映画は観ていない。

この昼、原作未読のまま映画を観た友人と話した。ご多聞漏れず評価はいひとつだった。そんな彼に向かい、奥深さが足りないのはきょうだい活躍がないせいだろうと言ったら、妙な顔をされた。

——あのとき、あれは『エヴァ』じゃなくて『フルメタル・ジャケット』なんだよと付け加えていたら、同映画好きの彼からは理解の意志さえ望めなかったかもしれない。

テーマ

エンダーのゲーム』というタイトルからはじめる。

ゲームというのは運命比喩だ。ゲームには規則ルール)があり、そこには目に見えない支配者(ルーラー)がいる。『エンダーのゲーム』とは、エンダー=終わらせるものを名乗る少年が、誰かのルールで動かされた人生の終わりを求めて闘うという意味だ。

では何と? 憎き兄か、いじめっ子か、昆虫のごとき侵略者か、それとも戦争強要するおとなたちか。——どれでもない。そんな単純な図式はこの世界にない。

ルールけが意味をもつ世界に、命を与えられた子どもたち。生きるために従い、人であるために抗う。本当の敵が誰なのか、だれも教えてはくれない。どこまでも歪な世界に、しか私たちは強烈なリアルを見つけ出す。

本作が今日に復刻される意味はそこにある。

しかしそれを描き切るには、どうしてもきょうだい二人の活躍必要だ。

エンダー

そもそもエンダーはその生まれから天才でないかぎり存在を許されぬ命だった。

先に生まれた二人の天才児。それに続くことを期待され誕生を許された特別な三人目(サード)。それがエンダーこと、アンドルー・ウィッギン少年だ。社会規範はそれを望んでいなかった。両親もまた同じ。だからエンダーは徴用に応じた。戦争を終わらせるもの=エンダーとしての宿命を受け入れた。ほかの選択肢がなかったからだ。

そのきょうだいピーターヴァレンタインは、常にその先行する分身としてエンダーの将来を写し出す。

ピーター

兄・ピーターはエンダーの鏡像であり、エンダーが認めたくない自己像の投影である(ただし事実においてピーターはエンダーが思う類いの〝人殺し〟ではない)。

その野心が選んだ道は言論による人類思想的支配だった。そうして自らの生を規定ルール)したピーターヴァレンタインを同志に引きこみ、一直線に権力の頂点である覇王(ヘゲモン)』への階段を昇りきる。

十二歳のピーターも、また十歳のヴァレンタインも、電脳世界ではおとなと同じ。彼らはそれを最大限に活用する。『ピーターゲーム』では、勝利することとおとなになることがイコールだ。だから彼は生きることにぶれがない。

けれどエンダーはちがう。おとなたちの期待は彼の意に反する行動を強いる。しかし彼が守ろうとしているのは道徳という、人として正しいあり方だ。

からエンダーは悩み、もがき、ときに逃げもする。だが皮肉なことに、才気あふれる兄と姉による状況認識と優性の証明が、エンダーを戦争英雄に縛りつける。

ヴァレンタイン

その姉・ヴァレンタインは慈愛の両腕と明晰な頭脳を持つエンダーの庇護者であり、最愛のひとだ。その両義性はやはりエンダーと相似する。エンダーが知らないことに、ヴァレンタインのなかにもピーターはいる——彼女もまたペンによって自らの有能を試すゲームに挑んでいるのだ。〝愛情深い〟姉に向けたエンダーの過剰な崇敬は、つまるところ自己愛への飢えに過ぎない。ヴァレンタインがエンダーの善良さに寄せる信頼も同じ。四年を経て面会する日まで、ふたりは驚くほど互いを知らない。

エンダーとヴァレンタインを通じて描かれるのは「人はいかにして殺戮者となるのか」ということだ。エンダーが戦争の術を学ぶのは侵略者からヴァレンタインを守るため。しかヴァレンタインから手紙によって彼女がおとなたちの側にまわったと認めたエンダーは、彼らを打ち倒すゲームに没頭しはじめる。やがてエンダーは彼らのルール破りに失望し、彼らのもとを離れる。彼女にふたたび声がかかるのはそのときだ。

ピーターとの言論活動によって政治的人格を獲得していたヴァレンタインは迷わず務めを果たす。彼女もまたウィッギンなのだ。だが戦場に戻るエンダーのうちに『カサブランカ』のような義心はない。あるのはただ、生かすために殺すという戦争矛盾のものだ。勝利の丘に荒ぶ風は、きっと冷たい。そう確信するから、その先の戦いはどこか空疎に映る。

そして、アンドル

この凄惨物語の結末は、赦しだ。自らの手で滅亡させた異星人たちの遺産から、やっとはじまるアンドルー・ウィッギンの物語。それは茨と十字架の生だ。偉人のままいることもできた。けれど彼は今度こそ選んだのだ。

2014-01-13

冬馬かずさを待ちながら

きっかけはWHITE ALBUM2のアニメ版テレビ放送だった。

悪いのは、WHITE ALBUM2のアニメがあまりにグレートだったかなのだ

起こったのはごく単純なことで、僕はネットたまたまWHITE ALBUM2 の第1話を見て、久方ぶりにアニメの視聴を開始し、第9話をみて、PS Vita本体と、WHITE ALBUM2のダウンロード版を購入した。それだけのことだ。

そして、アニメ最終話までゲームを開始するのを我慢して、いまこうして正月休みゲームクリアしたというだけだ。遣る瀬ない気持ちでキモいサイトを久しぶりに巡って、こうしてどうしようもなく、テキストエディタを立ち上げて、今これを書いている。

冬馬を愛しすぎていたために、"浮気end"(冬馬ノーマルend)の近くまで全く気がつかなかったが、WHITE ALBUM2の物語構造は、裏返しの聖杯探求譚としての"指輪物語"と同じである。それは、冬馬=トラウマを捨て去る地獄巡りの物語なのだ。また、ここからWHITE ALBUM2の本筋は"浮気end"(冬馬normal end)にあることがわかる。"冬馬end"の"雪菜end"の両者とも、トラウマ想像的に解決するに留まっている。例えば、何でもいい、エヴァでもまどまぎでも、ハッピーエンド二次創作が描かれるのも、それは原作のバッドエンドという現実があるからこそであり、それに根ざした幻想であるのと同じことだ。

ところで、ギャルゲーにおいて、トラウマをめぐる物語はありふれている。ギャルゲー歴史に刻まれるべき致命的な傑作である"ONE", "AIR", "Sense off"の3作品を唐突に思い返してみよう。ONEにおいては、トラウマ積極的表象されない("みさお"という引っかかりのない固有名詞わずかなテキスト)空虚として、"Air"においては観鈴の劇症発作の原因として釣り合うはずのないあからさまな幻想として、"Sense off"においては宇宙人超人類といった誇大妄想として存在している。素朴な作品が、トラウマささやか心理学物語還元するのに対し、先の3作品は、トラウマ表象することの失敗を通じて異様なリアリティを放っていた。

さて、対してWHITE ALBUM2では、凡百の作品と同様に素朴に真正からトラウマを描きだそうとするかにみえる。しかし、それはいったいなんという力技であったろう! トラウマの原テクストとしての、"opening chapter"を思い返してみよう。高校3年生の文化祭きっかけとした主人公ヒロイン二人の三角関係の恋は、悲劇的な結末が予告されている謎めいた空間の中で進展する。自分が恋しているかも知れない女のまなざし、謎めいた行動、ほのめかし、光、音楽ー歌とピアノー、いつ痛みに転嫁してもおかしくない、危うい、享楽にも通じる喜び。無意識がすべて通じ合う、情動的な空間。そこにおいては、超絶ギターソロを一週間でマスターすることなど問題ではなく、高めの女に恋されるという奇跡がおきてもおかしくはないだろう。そして予感は、悲劇成就する。喜びが、光が、その強度そのままにそのまま痛みに転換する。男は女を2人とも失う。女はもう1人の女と男を失う。それは、あまりにも強く3人が結ばれていたことの罪なのだろうーー。

大げさに過ぎただろうか。しかしここまででは、単に良くできたメロドラマにすぎないとも言い得る(その意味では、アニメ版の方が、ほとんどあらゆる意味原作に勝っていると思う)。しかしほんとうに凄いのが、ここからの周到さである。"closing chapter"の入りがいい。校内ラジオからあっけらかんと流れ出す、"届かない恋"と、春希と千晶との会話のシークエンス。そう、ここでは、トラウマの種は、世界にあからさまに薄く広く偏在している。"opening chapter"では2人以外の女がほとんど存在しなかったのに対し、攻略対象の女がギャルゲーならばそれが当然とでもいう装いで追加導入され、唐突に、我々が慣れ親しんだ、おなじみのギャルゲー形式のギャルゲーが始まる。決定的なことはすべて過去に起こってしまった薄闇の世界と、主人公を慰めるための都合の良い女性キャラクターたち。ここではじめて、WHITE ALBUM2は、"ONE"や"AIR"の出発点にたどり着く。しかし、ここには冬馬が、われわれが本当に愛した女はいない。その女は選択肢に現れない。だからここで進行するのは、ひたすら耐え忍ぶ、息の長い治療過程である。注意しなければならない。偏在するトラウマは、たえず現在の些細な出来事をきっかけに、"opening chapter"の各シーンをを縦横に引用しつつ実体化する。"opening chapter"における決定的なシーンのみならず、読んだことを忘れるようなささやか日常シーンさえも、絶えず痛みと後悔をともなう新しい解釈が施される。"opening chapter"のあらゆるシーン、あらゆるエピソード、あらゆるささやかな喜びは、それが不在になってしまった現在に徹底的に対比され、恐るべき呪いに転換される。WHITE ALBUM2がそれを成し遂げるその執念、持続力にには驚嘆せざるを得ない。また、トラウマの作動をここまでつぶさに可視化しえた作品は他に思いつかない。つらく長い治療過程においては、悪霊を追い払うために、3人のキャラクターが生け贄に捧げられ、物語の都合に奉仕させられ、使い捨てられる。そしてついに訪れた結末。そこでは、聖なる原典、聖なる楽曲が、新たな解釈を施され再演されるだろう。アコースティックバージョンで歌われる"届かない恋"。そこにやっとたどり着いた男と1人の女。まさに寛解という言葉がふさわしい、穏やかな時間

ーーそして、唐突に、"coda"が始まる。

冬馬かずさが回帰する。それはまさに運命的な、恐怖とも歓喜ともつなないつかない瞬間であり、われわれはただ滂沱の涙を流すほかになす術がない。これは感動などというものではない、あまりに強烈なドラッグ強制的に注入された生体の防御反応としかいいようのない、デトックスの涙である。われわれが唖然とするのは、冬馬のあまりの弱さ、あまりのいじらしさ、あまりの変わらなさである。なにしろ5年ものピアノ毎日10時間引き続けながら、その実、ピアノを通じて毎日はるきと会話を続けていたというのだ。なんたる痛切な、ほとんど自傷的な喜び。何も変わらない。何も終わってはいない。そして再会を果たした二人は、おたがい避け難い力でからあいながら蟻地獄のような愛の日々に巻き込まれていく。もとより、"opening chapter"の神話的な磁場により張り巡らされたリアリティが、"closing chapter"において、はるきが冬馬曜子の雑誌記事を書くあたりでほつれてはいものの、"coda"のマンションの隣の部屋での生活に至って、ほとんどギャルゲーのように(ギャルゲーだが、、)ほどけさってしまう。われわれは一方で熱が冷めるのを感じながら、しかし、他方では、そこで演じられる距離0の愛の関係、おたがいまる馬鹿のように傷つけ合い、愛し合うほかはないその様子から目を離すことができない。冬馬がもともと備えていたはずの、凛とした、というキャラクター造形は、ほとんど"浮気end"の最後まで見る影もなくなっている。しかしそれは、最後最後に鮮烈なかたちで炸裂する。ふたたび悲しみをもたらすために。ふたたび作品に残酷リアリティをもたらすために。

"浮気end"において決定的なことが起きてしまったあと、いわば、エピローグの序曲ともなる、短い小春日和の瞬間において、ふと、この、ダンテの"神曲"のように長い螺旋を描いて進んできたこの物語総体、ただ一人のキャラクタのためにすべての女が動員される大伽藍起源が問われることになる。冬馬は問いかける。なぜ私のことが好きになったのかと。決定的な問いである。そして春希は惑いもせずに答えるだろう。終局において、作者に課せられたあまりの重荷、あまりの苦難のあまりほとんどシンジ君のように幼児退行してしまった春希が、もともと持っていた率直さ、本当に貴重な少年らしい生真面目さ、控えめな正義感、雪菜も冬馬も本当にそれが好きだったはずの少年ファルスの片鱗を、かすかに遠くこだまさせながら。

顔が好みだったからだよ!

一目惚れだよ!

これが、この巨大な地獄起源だったのである。何とシンプルで、何と美しい言葉だろう。ふと、地獄のなかにぽっかりと真空地帯が発生し、なにごともなかったような日常現実が発生したかのような、はっとさせる言葉だ。大団円といってもよい。我々は涙を飲み込みながら思う。これは、この巨大な物語の終局にふさわしい。しかし、何も終わらない。決して、終わることはできない。だとしても、冬馬は成仏することはない、、、

* * * * *

ギャルゲーにおいて、われわれは徹底的に受け身な、マゾヒスティック主体たらざるを得ない。ギャルゲーにおいては、本来テキストスキップ機能など必要なく、われわれは、永遠とも思える退屈のなか、ひたすら単調にマウスクリックを続け、何度でも、水増しされたテキストをめくり続けるだろう。なにがしかの男らしさを発揮するために、全てのヒロインを"攻略"(ギャルゲーにおいてこの言葉ほど空疎ものがあろうか)し、CGコンプするという仮の目標を設定することはあまりにいじましい偽の能動性としかいいようがなく、雪菜を選んで胸を撫で下ろしたり、"不倶戴天の君へ"に救いを感じてしまうのはヌルオタとしかいいようがなく、よく訓練されたギャルゲーマーは、すすんで空虚のなかに留まり自らの空虚に向き合うことで快感を汲み上げ続けるだろう。そして、画面を閉じてもゲームは終わることがなく、ギャルゲーマーがとるのは、ただひたすらの"待ち"の体勢である。"coda"において、"浮気end"において物語はまた振り出しに、"closing chapter"に戻ってしまった。"opening chapter"の一撃によって生まれた世界は、"coda"によりいっそう強く永遠に閉じられてしまったのだ。われわれは、それらの各シーンをときにふれ思い出しながら、ひたすら待ち続ける。冬馬を。もう一度彼女に会いたい。いや、彼女はいる。われわれは知っている。われわれは、いや、わたしだけが彼女が全宇宙に偏在していることを疑うことはないだろう。

ここにいたって僕に残されたささやかな唯一の希望は、アニメ版2期, 3期においてよりいっそう美しくバーョンアップした冬馬が再臨してくれることである。もう一度お別れをするために。僕は、つまりは、よく訓練されたギャルゲー主体は、さよならをいうために、すべてが終わってしまった後の世界で、はてしなく続く終章のなか、冬馬かずさを待ち続ける、、、

2013-11-14

若年起業者の視野の狭さ

若年起業者の多くは、当然ながら平均的就活生程度にしか会社産業社会を知らない。

(この文章では「起業家」と呼ぶに値しない有象無象を「起業者」と呼ぶ)

流行りに乗っただけのチャラい企画が多い。モバイルソーシャルコマース、ローカルゲーミフィケーション、スタンプ云々。

どんな価値を実現するのか、どんな問題を解決するのか、はっきりしない「事業」の企画。空疎なコンセプトだけが並んだ「事業」企画プレゼンテーションピッチ)。「事業」と呼ぶに値しない。

そんな起業者は「テレビCMやってる会社にだけエントリーする就活生」と同レベルだ。

いや、それ以下かもしれない。

そういう就活だって選考に落ちまくったあとでは、B2B企業視野を広げてエントリーする。

君ら若年起業者はどうだ? 君らはB2B企業について何も知らないのではないだろうか。

君らはいっぱしの「起業家」気取りかもしれないが、選考に落ちまくる就活生以下だ。

世の中には「ぜんぜんセクシーじゃないけど確実にマーケットがある領域」があるのだが、君らはそれを知らない。

起業するなら、少しばかり調べてみたらどうかな。

さて、君が運よく事業機会を見つけたとする。(君の判断など当てにならないが)

そのうえで、君らは即戦力ではないのだから起業に際して「社長」や「CEO」といった肩書きにこだわるのはナンセンスだ。

君らの取り柄は若さだけだ。無理が効く体力や、失敗しても許してもらえる特権だ。

から、君らのやるべきことは、大きな事業機会を見つけて、その領域経験を積んだ人と共に起業することだ。

君は肩書きこそ「共同創業者」や「COO」になるかもしれないが、その時点での君らはアルバイトと大差ない。

君らは即戦力ではないが、創業したばかりの会社に山積する雑用をこなすことはできる。それが君らにとっての「OJT」だ。それによって君らは仕事を覚えるのだ。

その後、会社が成長し、君も成長すれば、役員という肩書きに実質が伴うだろう。君を見る人々の目も変わるだろう。

そのとき君は有象無象の「起業者」から、本物の「起業家」になるのだ。

2013-07-28

本当に分別があればロリコンにならないし、その自省なき性加害が怖い

俺は分別のあるロリコン

http://anond.hatelabo.jp/20130727185937

嘲笑されるべき話としか思えないw

ロリコン自分意志でなるものだということ。

まず本当に分別があるならロリコンにはならないということ。

ロリコンでいられるのは自信の性加害への無自覚があるということ。

この3つを自覚してないので、バカ丸出しといえる (意図的にバカなロリコンを演じているなら上出来)

> でもリアルマンガじゃない。

これは当然。しかし、漫画でも考えていいこと、悪いことがある。これを表現の自由(ドヤァ)で正当化するのは、はっきり言って異常。

「こういう人間からフィクションを奪うな」と自分を卑下した表現をしているので、自分が異常(=性加害者)だと多少は自覚しているのだろうが、では何故矯正しないのか、不思議に思いますね。

時折ロリコン自分先天的ロリコンだったと、矯正しない理由として自己正当化をするケースがあるが、これもセクシャリティへの不勉強を発露している。

性嗜好と性指向は全く別だし、科学的に証明されてる。もうひとつ言えば、ロリコンが自身の嗜好を性指向として扱うのはマトモなセクマイへの差別でもある。

これは例えば自分ヘイトスピーチをしたり、それがなければ生きていけない、なのでヘイトスピーチをさせてくれ、といってると変わらない。

ロリコン漫画LO)とかは女性への差別だし、子供を持つ親への差別でもある。その自分差別性に対して無自覚でいいのか?ということ。

ロリコン漫画について恐怖を感じる人間は沢山いる。子供を持つ親なら当然だし、女性でも当然。男性だって意識の高い人間なら恐怖を感じるのではないか

その不安感に対して「俺は大丈夫だ」「自分は分別のある」の宣言をするだけで、誠実な態度を取ってるといえるのだろうか。

純な恋愛経験していたり、他者に対する共感性があれば、性的搾取表現には嫌悪感を感じるものであるロリコン性的搾取以外の何物でもない。

ロリコンの抱く性的欲望は、その背後にある人として、人を理解する、愛する気持ちが欠如してる部分に恐怖を与える。

そのような人間が、大手を振ってロリコン漫画ネット上にばらまいて、ロリコンサイコー!とか言ってエロ漫画を楽しんでいる。

自身の暗い欲望に対する自省の態度があってしかるべきじゃないか

表では自分は分別がある(キリッ)、裏ではロリコン漫画表現される性暴力をニヤニヤ楽しみ、俺はロリコンだ!!(ドヤッ)では社会から排除されるのは当然だと思う。

ロリコン社会公益に対する態度は単なる口裏合わせ、ポーズにすぎないことは、社会が見抜いている・・・

から規制される。

自省の態度が見られないから、上から締め付けられる。(ロリコンは直ぐに規制厨だ!と喚くから明記しとくが、私は表現規制推進派ではない。単に事実を指摘しているだけ)

ロリコン証人台に立って「私の書いた表現はこれこれこういう理由で公共性に対して寄与するものです。女性子供子供を持つ親に対する表現による性的加害を正当化する十分な理由があります」と社会に対して発言できるのだろうか?

本当に規制されたくない、ロリコンとして社会に認められたいならやってみれば良いと思いますよ。

単に規制されたくない。恐怖を感じている側の人間はどうでもいい。性加害?そんなものはどうでもいい。エロを守れ!!

このような空疎な御題目を唱えるだけでしかない・・・

女性子供子供を持つ親より、自身の好きな漫画が大切・・・正直、ふざけるなと言いたい。

他者の尊厳を尊重する態度をもう少し見せて欲しいと思う。

何故ロリコンは、そのような誠実な態度を取らないのか。

から彼らは問題なんだよ。

2013-07-23

http://anond.hatelabo.jp/20130723000828

敵と味方なんて言ってないよ

の直後に

アンチ山本太郎やってるゴミクズをひとまとめにしているだけだが

と言ってしまうあたりが、もはや清々しいまでの空疎ぶりですね。

低能はすぐにどうでもいい箇所に拘り始めるから困る

なぜあなたが、世界をそのように理解したのか、私、気になります

(追記: もしかしてアンチ」って言葉を知らないのかな? それとも、「俺は差別黒人は嫌いだ!」の類なのか?)

2013-05-16

橋下発言に対する反応からいくつかのこ

http://anond.hatelabo.jp/20130514083636

慰安婦問題について個人的な印象を書いたら、それなりに読んでいただけたようだ。読んでくださった方には心から感謝したい。

私の増田に対する反応を見ながら、ついでに橋下の発言に対する Twitter 上の反応を見ていると、「橋下を批判する『左翼』」への反感からちょっといかがなものかと思われる議論が散見された。

まり現実には、危惧したように、「右翼左翼の党派の議論」にしっかりと落とし込まれてしまっているわけだ。

そこで、慰安婦問題から離れるが、いかがなものかと思われた点をいくつか書き留めておきたい。

本編に入る前に一言だけ、私の増田に対するコメントで気になったものについて反応しておくと、案の定「自称中立」「他人事」等といったご批判を賜った。

もちろん、私にはそういうつもりはなく、むしろその逆で、普段から水商売女性たちに対する日本の男の視線があまりにもひどいことに憤りを覚えているような人間なので、その延長線であの増田を書いた。したがって、私は喜んで慰安婦の方々や現在売春婦たちに頭を下げたいと思うものの一人である。(追記 「日本の男の視線」と書いたがこれは誤りで、男女問わず水商売女性に対する視線がひどいと書くべきであった)

さて、橋下市長の米軍司令官に対する発言と司令官の反応について、米国日本の文化の差、性倫理の違いやキリスト教の影響を使って理解しようとする向きが少なからずあるように見受けられた。

米軍売春関係については、ロイターによる次のような興味深い記事があった。昨年、クリントン国務長官コロンビアを訪れた際に、シークレットサービスたちが売春婦遊んだ一件が表沙汰になった話に関する記事だ。事件を覚えておられる方もいるだろう。

U.S. military faces scrutiny over its prostitution policies | Reuters

全部翻訳するわけにはいかないので適当にまとめると、この一件では、シークレットサービスは即刻帰国させられたり処分を受けたりしたそうだが、関与したらしい軍の隊員たちは「門限破り」のためにコロンビアに止め置かれ軍によって調査されたようだ。しかし、どうなっているか情報がなかなか出てこない。 上院軍事委員会筆頭理事であるマケイン上院議員国防総省に「提供された情報が少なすぎる」と言って突っつかなければならなかった。

実は米軍売春に対して以前よりもきわめて厳格になったのは、2005年ブッシュ大統領がある大統領令サインしてからだ。それ以降、売春がたとえ合法の土地であっても売春婦と接触することは許されないものになった。この大統領令によれば、もし違反すれば牢屋送りにもなりかねない。このように厳しい規則になっている理由は、売春人身売買と深く関係し、あるいは他の犯罪にも絡みかねないという要素が大きいからだ。

(この辺の解説は次のリンクが詳しいか Prostitution now punishable under UCMJ

ところが、ロイターの記事に元将校 Lawrence Korb のコメントがあるが、こんな厳しい大統領令なのに、

"I've never seen anybody go to jail,"

牢屋に入った者を見たことがない。共和党上院議員マケイン議員と同じく上院軍事委員会 の Lindsey Graham も、

he doubts that the military is enforcing its strict prostitution rules.

"The honest truth is probably no," said Graham, a former Air Force lawyer.

軍が厳しい規則を順守している点を疑っていると言い、「本当のところはおそらく "no" だろう」と。

まり、軍としては厳しい規則のもとで売春婦と接触することを禁止しているし教育もしているが、現実運用に際してはなかなか難しいところで「抜け道」や「黙認」を全否定もできない、というところだろうか。

さて、ここで話を戻すと、橋下市長が沖縄米軍司令官に「風俗」の活用を提案したところ、司令官が「米軍では禁止の通達を出している。これ以上、この話はやめよう」と言ったのは、こうして見てみるとごく当たり前の話であって、別に文化倫理観の差によるものでも何でもないことは明白だろう。単純に規則がそうなっているからであり、その規則もとり立ててアメリカ文化キリスト教倫理観に依存したものとは思われない。むしろ世界中で展開している米軍倫理的に厳格であろうとすることは、非常に理解しやすいところであって、橋下からこんな話をされた司令官は「俺の出世邪魔をする気か」「こう答える以外に答えようがないじゃねぇか、バカ野郎」くらいのことは思ったのではなかろうか。

また、「現実の話をして何が悪い」と開き直った意見も全くの筋違いであることが理解できるはずだ。そういう問題ではないのである

米軍の司令官相手に、こんな提案をした橋下が単純に愚劣だとしか言いようがない。

さて第二点として、「売春日本の『風俗』は違う」という橋下の言い訳是認する人を何人も見かけた。しかし、少し考えてもらえば、法律上、あるいは表向きはどうあれ、その差にことさら意味を求めるのはナンセンスであり、現実にはその境目は非常にあいまいだ、ということはすぐ分かると思う。

ピンサロのようなものならまだしも、裸の男女が密着し、「性交以外何でもアリ」で口淫はもちろんのこと、アナルセックスが可能な店まであるうえ、場合によっては性交になる、あるいは女性に直接いくばくか支払えば性交できてしまうことすらある。ソープランドは言うまでもない。

それになにより、軍隊生活を営んでいる屈強な米兵がもしも風俗嬢性交強要した場合、どうなるか。橋下や彼に理解を示す人たちには想像力が決定的に欠如していると言わざるを得ない。 

さらに、ここでも日本と「欧米」の違いの問題に持ち込もうとする人がいるようだが、もちろんそういう問題では全然ない。

日本の「風俗」は売春と違うという議論は、現実を反映していない単なる詭弁であり、「だからどうした」と言うよりほかない。

第三点に、「まあでも、政治家などが公にこのような『風俗』のことを議論するのはふさわしくないよね」という意見も見かけた。しかしこれは時と場合、あるいは国による。

例えばドイツの例を見てみると、2002年SPD緑の党による左派連立政権が、地位・待遇改善のために、売春婦労働契約を結べるようにしたそうだ(ただ、結果は以前とあまり変わりはなかったらしい)。また、売春にかかる税があり、行政が徴収しているようでもある。

Prostitution in Germany - Wikipedia, the free encyclopedia

ドイツ売春宿は、総じて衛生的で、病気に対する警戒心が、日本とは比べ物にならないように思う。日本ヘルスなどの場合、狭い間仕切りに、シャワーなどがあり、常に湿度が高い環境のなかに女の子たちが押し込められていたりすることが少なくない。また、病気への警戒心は個人の意識に大きく依存していて非常に甘いのが現実だと言っていいのではないか

公衆衛生上の観点から言っても、このような問題は決して「風俗」に行く男や風俗嬢に限った問題ではなく、広く一般の問題でもある。性感染症の拡大はむしろ風俗」と縁のない男女のほうが深刻な一面もあるやに聞く。

であるならば、現在風俗営業法を全面的に見直したうえで売春を広く公に認め、衛生管理を充実・徹底させることが急務である

・・・という意見もあっていいわけであり、もし橋下市長があれだけぶっちゃけるならここまでぶっちゃけるべきであるし、彼に理解を示す人たちも徹底してぶっちゃけるべきだ。

なぜなら、「最古の商売」売春社会必要悪であって消失するわけがなく、であるならばちゃんと管理しようという議論にももっともな側面があり、「売春はいけない」と言っていれば済む問題では決してないからだ。

にもかかわらず、なぜか「売春はいけない」という空疎お題目だけは橋下にしろ彼の理解者たちにしろ揃いも揃って維持されているように、私には見える。

まして、売春だかなんだか分からぬ「風俗」を、合法であるからと言って現状のまま是認し、米軍お勧めするとは何事か。

まとめると、

1、米軍司令官がああいう反応になったのは、おそらく文化倫理観の差の問題ではなく、現在米軍の極めて厳格な規則ゆえであること

2、売春と「風俗」は違うという意見には意味がないだけではなく、その危険性を全く省みていないこと

3、いつものようにぶっちゃける橋下に理解を示すなら、もっと徹底してぶっちゃけて論を展開するべきであること

以上、「橋下に反対する『左翼』」への単なる反感から、橋下に理解を示す人たちについて、気になった点をいくつか書いてみた(念のために繰り返すが、私は自分では中道右派のつもりである)。

お節介ながらこういうことを書いてみたくなったのも、私だって文化の違い」は大事にしたいものだが、安易に「文化の違い」を持ち出す議論もこれまたいかがなものかと思われたからであり、またあるいは「風俗嬢に対する愛情がないなぁ」とも感じたからだ。

そういうくだらない印象から、「そりゃあ、慰安婦問題だって世論がこれではな」という諦めに似た気持ちにつながりもするのである

(追記)

これを書いたあとで次の記事をざっと眺めたが、米軍売春一般や日本の「風俗」との関係について、私の理解はそう大きくずれてないようだと思ったが、いかがだろうか。

Osaka mayor: ‘Wild Marines’ should consider using prostitutes - Bad behavior in the Pacific - Stripes

2013-05-12

http://anond.hatelabo.jp/20130510163712

ウサギィの問題であり論点であるところ
合意が適切であったかどうか
  • 契約の内容による部分

労働基準法などの労働法を遵守した契約であったかどうかが争点となる。

労働者には契約内容を判断する能力がなかった」かどうかは意思能力の有無が争点となる。

労働者は騙されて合意した」かどうかは詐欺であったかどうかが争点となる。

労働者技術力(職務遂行能力)に照らして適切かどうか

契約の内容による。就業規則労働契約において職能給による給与決定が定められていた場合に争点となり、職務給や業績給などそれ以外の場合は争点とならない。

契約が適切に履行されたかどうか

雇用者労働者双方について争点となりうる。

ウサギィの問題であり論点でないところ
他の会社ならもっと払う

市場原理に基づくので、賃金が低い企業は外部競争力が小さくなる。

「安い」賃金で働かせる企業があると全体の給与水準が下がりかねない

市場原理に基づくので、そのようなことは起こりうる。

ウサギィの問題でなく論点であるところ」「ウサギィの問題でなく論点でないところ」は一般論妄言なので取り上げることはしない。

雑感

個人的には、第一に「ウサギィの問題であり論点であるところ」の解決は法的に図られるべきであって、インターネットで論じるのは無意味であり、第二に「ウサギィの問題であり論点でないところ」は一意に解決される性質のものではないかインターネットで様々な見解が出る価値があるが、あえてウサギィと結びつけてどのように論じるかは後述の毀損の問題から注意すべきである、と思っている。

もちろん、これは無意味から論じてはいけない、これは論じてもよい、などという主張はあまり空疎な論説でそれこそ無意味であるが、懸念はどちらの場合でも論じ方によっては毀損に発展することである特に最近は一部で議論が雇用問題から悪意に満ちたウサギィ叩きに変質しつつあるのが気がかりで、このままウサギィの名誉を著しく貶めるような言い回しけが先鋭化すると要件としては重くなってくるのではないだろうか。名誉毀損は一種の逆ギレであるように捉えられ軽視されがちではあるものの、事実の指摘であるから問題ない、という立場は少なくとも名誉毀損の考えを理解していないんじゃない?かな?

結論

支持するサイドにカンパして裁判を起こそう

2013-04-18

anond:20130417230138

韓国に対して自分は悪感情は持ってないよ。

ただ、一方で愛国心というのはあるので韓国国策なんだかしらないけど日本の地位を貶めるような

発言を世界に向けていたりするのは腹が立つし、Youtube動画にも文句つける。

それから領土云々というのがなかったとしても韓国人には、「どうしてあそこまで見栄をはるのか」という

嫌悪感はある。整形のはなしだけどね。はいはい、全員が全員じゃないんでしょうし、韓国では顔が良くないと評価されない社会だとか

は一応話としては知ってますけど、なんか自分を大きく見せようとして見苦しい嘘で塗りたくるのを見るのは嫌いなんだ。

虚栄心や虚偽というのは勿論韓国人だけのものではないし、そういう様子は同じ国の人間であっても見苦しくて嫌いだけどね。

例えば、日本万世一系世界最古の王朝を維持してるすごい国なんだとかそういう空疎お国自慢は心底バカバカしいと思う。

陛下陛下といってる日本人のことは正直好きになれない。ただ、酒なんかと同じでそれに頼るしか心の拠り所がない人ってのはいから匿名ダイアリーしか表明できないわけだが。

あと、ついでに言うと天皇のことも個人的にはまったく尊敬してない。(ただし、天皇をバカにされたときにはなんか適当なことを必ず言い返すことにしてる)。

整形の話に戻るけど、あなた韓国人だとしたら六割ぐらいの確率キリスト教徒だよね。キリスト教だとして話を進めるけどキリスト教では整形ってどうなの?

カトリックでは自殺禁止なのから憶測すると、キリスト教って神が創った人間の姿を勝手にのこぎりで切り貼りして顔を整形するのを推奨する感じじゃないんだけど。

正直、自分には韓国人友達もいるし、ちょっと韓国に興味を持ってもいる。けれど日本占領される前の韓国が立派だったとかそういう嘘はいけないと思う。

友達の一人を問い詰めた時は、悔しそうに「国が腐敗していたかある意味日本にやられて当然だった、そう言えなくもない」と言っていた。

思い出したけど、なんとなく韓国併合時の事ばかり日本人意識しがちだけど、韓国から見ると秀吉朝鮮出兵のことが結構ウェイト大きいらしいね

ああ、でもこれもその友達が言っていただけだから韓国全体でどういう印象なのかはわからんか。自分朝鮮出兵って小さなギャグぐらいにしか思ってなくて、半島人口が1/3に

まで減ったとか知らなかったなぁ。日本軍を追い返した水軍の将、李舜臣が今でも韓国英雄なのだと教えてくれたのも彼だった。

まあ日本人同士でもご近所ってのはなかなか難しい。

ご近所同士で仲良くやるためには「隣の家にくちばしを出さない」ことだと思うんだね。

gdgdですが、韓国も、自分が立派な国だと思うなら見栄を張ったり整形アイドルゴリ押しするのをやめて、自分の国をまともにすることに精を出したらいいんじゃないかと思いました。

2013-03-28

コミュニケーション人間関係の多段階仮説【暫定】

コミュニケーションにおいてワイが悩み抜いた現時点の搾り粕。

練度向上の為にここに晒します特に新年度から大学生になる君たちへ

自明ですが、人間関係には段階があります

一般的に言われている人間関係はより細分化されるべきだと

思っています


人間関係の発展段階】

※ただし友人による紹介とかは想定してません。あくまで一人での関係構築が前提です

赤の他人(事前情報ゼロ

交流無し

顔見知り(事前情報:第一印象。顔、体型、服装、声)

交流無し。一方的に相手に感想を抱いている。

(例:アイツいっつも最前列講義聴いてるよな〜)

面識関係(”互いの”存在を互いに認識し合えている)

交流無し。ただし双方的。

(例:朝の電車でだいたい一緒だから、向こうもこちらを

 認識しているに違いない)


ノンバーバル、他人の壁

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

バーバル、知人の壁

挨拶関係(互いを認知し会話を是としているか、欲している)

知人関係(互いの表層的な情報や一時的利害を共有。ある程度のキャラ認識。)

【初対面をクリアすると知人になれます

【でも知人は割と容易に生活から消えてゆき、そのとき心の痛みがそんなにありません】

生活圏外

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

生活圏内

友人関係(定期的な付き合いがある。生活圏に組み込まれている感覚キャラの確定。)

オリメン関係(恒常的な付き合いがある。キャラを超えた相互理解がある程度確立している。)

オリジナルメンバーの略

親友(相互に本質を理解し合い、人生において互いにかけがえのない関係が構築されている。

   この段階に一度到達すれば必ずしも恒常的な付き合いを必要としない。)

往年の朋友もしくは、何かしら大事を成し遂げた戦友

ここに至ればもはや実質上の血縁関係

近いくらい互いの人生を連結している関係と言えるでしょう

異性なら、互いに尊敬ある極めて睦まじい夫婦関係(参考されたし:旦那が何を言っているのかわからない件)

同性なら、、、わからない、、、そんな友人はワイにはおらへん・・




メモ

1.恋愛関係は知人以上の人間関係から発展する。(汎説)

例:【知人】⇒⇒⇒【恋人

  【オリメン】⇒⇒⇒【恋人

2.挨拶は互いの存在承認である

直接的な人間関係は、挨拶から始まる。

ただし、挨拶以前にも人間関係存在

いきなり挨拶して引かれるのは、挨拶関係に至るまでの

ノンバーバル関係発展をすっ飛ばししまたから。

でも、たとえ引かれたとしても、挨拶ってすべきだよなとは思います

逆に、なんで引くの??って思うわぁ・・・でも居るよね引く人。

しかし上記を認識して新しい友人関係構築に望めば、より「自然」かなと考える次第です。


3.一言も会話していなくても、コミュニケーションは始まっている

互いに認識して、第一印象のみについて互いに感想が生じているわけです。

この時点で広義にはもう他人では無いと思います。バーバルな会話に入る前に

このように自分の第一印象を【時に意図的に】認識してもらうことは大事でしょう。


4.生活圏の内外認識大事

Facebookで知人は多いのに自らの生活を顧みると

空疎さを感じている人は、自分生活圏に人を囲えていない。


5.なんやかんやでオリメン大事

こと大学生活においては、帰属意識を満足させることが喫緊

ただしオリメンはその枠組みが一旦外されると以外と脆く瓦解。


6.一生涯の友人は万人の知人に匹敵する。

 性格の噛み合いや社会的位置、運により得られるはず、としか。。


【おまけ】

最近気づいたこと

人間の心理的距離は対人時物理的距離と一致

全く知らない人がゼロ距離にいるっているのは

メリーさんがあなたの後ろに要る例のアレに似たような

根源的な恐怖にさえなり得る。

(あたりまえと思われるかも知れないが、確認して欲しいです)

⇒系1:

 親しい間柄になればなるほど距離は縮まる。

 その極致として、ペッティングとかセックスがある。

 (例外:心の重ね合わせが伴わないセックス

⇒系2:

 行列に並んでいる隣の人や席が隣の人、混雑した会場で比較的気軽に話しかけられるのは、

 ”やむを得ない””当人の意図が伴わない”妥当な理由で、対人距離が物理的に近づくから

 心理距離は物理距離に反映される事は自明だが、逆もあり得るという事を言いたいです。

 何かのイベントや催しものなどで対人の物理距離が狭まる時というのは、友人作りの絶好の機会。

2013-03-18

http://anond.hatelabo.jp/20130318113611

横だけど、元増田とあるコミュニティ崩壊過程から

比較的よくありがちなスレッドの一生

1、スレッドが立つ。

2、知性のある人間面白い話題や議論のネタ提供して盛り上げる。人が集まってくる。

3、知識ある人々がその話に乗ってきてさらに盛り上げる。最盛期。

4、盛り上がりに乗じて何も中身のあることを書けない魯鈍と白痴が寄ってきてスポイルする。

彼らの無駄愛着逆効果を及ぼし、スレッドレベルが著しく低下。

5、飽きて大勢が去っていき、行き場の無い魯鈍と白痴が残される。

レベルな自慢・偏見妄想の陳列、煽り合い、無駄罵倒

いわゆる「2ちゃんねる用語」を多用したお寒いレス等々が並ぶ。

6、煽り罵倒しか出来ない魯鈍まで、魯鈍同士の空疎煽り合いに飽きて去る。

7、何も提供できない白痴過去の栄光の日々を夢見て空ageを繰り返す。

自分がこのコピペでいう「魯鈍と白痴であることを自覚するに至り、コミュニティに入るのが怖くなったと言ってるわけだから

過程としては典型的コミュニティの栄枯盛衰を辿っただけの話なんだけど

コミュニティは私が加わったことでパワーをすり減らしていったのだ。

は何も矛盾してないし支離滅裂でもない。

2013-01-04

http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2013010400752

国民「なんで公約を見送りとか先送りばかりするんだ?韓国にまで媚びやがって!」

ネトサポ参院選後ガー参院選後ガー」

安倍空疎な100の言葉よりも意味ある一つの結果を大切にしていきたい。政策実現のスピード感と実行力を重視する。」

ネトサポ「…」

2012-12-18

http://anond.hatelabo.jp/20121218180535

16日の昼、埼玉県春日部市にいた。たまたま入ったレストランで、隣に座った60代と思われる女性2人の会話が耳に入ってきた。「…もう結果が出ているからね」「そう。だから投票に〕行ってないの」。

メディア投票日に向けて、選挙結果予測を「世論調査」の名のもとに執拗に行ってきた。投票日に向けて何度も世論調査を行い、「自民単独過半数の勢い」(『東京新聞12月13日付)、「自公300議席うかがう」(『朝日新聞』14日付)、「自民勢い変わらず」(『読売新聞』同)…という調子だった。映画が始まる前に、その結末を大声で話すようなものである。これでは映画館に行く気力も失せる。

 午後8時。開票が始まると同時に、「出口調査」を根拠とした当選確実が次々と打たれ、朝刊一面トップ見出しがほぼ決まってしまった。メディア予測していた以上の劇的な結果となった。民主党地滑り的、壊滅的大敗北、自民党単独過半数自民公明(or/and)維新3分の2(320)を超えることが確実になった。

いま、開票速報を聞きながらこの「直言」を執筆しているが(16日午後9時現在)、何とも不思議な気分になった。まるで開票が終わったかのようである。『東京新聞12月15日付「こちら特報部」は、「世論調査が醸成する『空気』」を分析している。この不思議な「空気」のなかで投票日を迎え、春日部市女性たちのような会話が、全国各地で行われていたのではないか。勝負が決まっている試合や、「オチはこうだ」と事前に知らされたサスペンス映画、表紙の帯に結末が書いてあるミステリー小説に食欲がわかないのと同じだろう。今回の世論調査については、「世論調査が予備選的な役割を果たした」という評価もあるという(『東京新聞』同上)。だが、これは楽観的評価に過ぎよう。調査報道世論誘導的に機能した可能性は否定できない。しっかりした検証必要である

 投票率は前回よりかなり低くなった。戦後最低の投票率になりそうである。現時点で推測できることは、結末が見えた試合に行く気がしないで棄権した人々だけではなく、多党乱立、節操のない政党間移動、党内のドタバタ、内容空疎な「マニフェスト」や「公約」などを見せられて、選挙のものに嫌気がさした人々がかなりいたことだろう。そのなかには、あえて選挙に行かない積極的棄権派(ドイツ現代政治用語では「非選挙人」(Nichtwähler)という)も含まれているのではないか。多党乱立とメディアによる「結果はもう出ている」という報道連鎖のなかで、一票を使う気力を失せさせてしまったところに、別の意味での「一票の軽さ」があるように思われる。「非選挙人」の選択の結果は投票率の低さであり、それは自民党に圧倒的に有利に作用したと言えよう。

なお、それまでの支持政党の不甲斐なさに怒り、極端な主張をもつ他の政党に乗り換えることを、ドイツ政治用語で「抵抗選挙人」(Protestwäahler)という。今回、「日本維新の会」が「抵抗選挙人」の受け皿となったと見ていいだろう。もっと言えば、民主党政権に対する怒りと絶望の最大の受け皿、「抵抗選挙人」は40%を超える棄権者ではないか自民党はこの「抵抗選挙人」によって大勝を得たとも言えよう。選挙結果がまだ確定していない段階なので、個々の具体的な指摘は控えておこう。

6年前、直言「『失われた5年』と『失われる○年』――安倍総裁総理へ」を書いたが、彼はわずか1年で内閣を投げ出した。政治生命が終わったかに見えたが、それから5年で、再び「わたくしの内閣」(安倍氏の口癖)が誕生することになる。安倍氏のいう「美しい国へ」の危なさは、当時、次の3つの点にあらわれていた。(1)「5年以内の憲法改正」、(2)集団的自衛権行使の合憲解釈、(3)「教育改革」と教育基本法改正、である

(1)は、出来の悪い付帯決議をもつ憲法改正国民投票法の制定である。(3)は教育基本法「改正」と「教育再生会議」による執拗教育介入であった。5年前、「安倍色の教科書検定」に対して沖縄では県民大会まで開かれたほどだった。今回の総選挙公約には、教科書検定の強化が掲げられているので、沖縄危惧は深い。ちなみに、安倍氏大学9月入学を6年前にすでに打ち出していた。私は「『大学9月入学』と『ボランティア』のセットは曲者である。軽薄な私大経営者はすぐに飛びつきそうだ」と当時指摘していた。(2)の集団的自衛権行使を可能にする解釈変更については、「合憲解釈」の報告書が出る2カ月前に安倍氏が退陣してしまったので、しばらく後景に退くことになったが、今後一気に勢いを増すだろう。

 「送別・安倍内閣」を書き、安倍氏の復活はほとんどないと踏んでいたので、今年9月安倍総裁誕生は大変驚いた。「総理大臣の職責にしがみつくことはしない」という奇妙な言葉を使いながら内閣を投げ出した人物が、再び内閣総理大臣になる。この国は何とも不思議な国である

 危惧されることは、石原慎太郎日本維新の会」代表が選挙中(12月10日)、自民党と組んで憲法改正を行うことを宣言したことである。「9条のせいで日本は強い姿勢北朝鮮に臨むことができなかった。9条自分たちの同胞を見殺しにした。…あんなモノがなければ(拉致被害者を)返してくれなかったら『戦争するぞ』『攻めていくぞ』という姿勢で同胞を取り戻せていた」と述べた(『東京新聞2012年12月11日付)。「日本維新の会」が衆議院に進出したことで、自公連立政権が、今後の展開によっては、公明党の代わりに「維新」が入って3分の2を確保し、「壊憲連立政権」となるおそれなしとしない。

歴史は繰り返すのか。2006年安倍内閣誕生憲法改正への動きが進んだ。一度目は憲法にとって悲劇だったが、二度目の安倍内閣は、喜劇茶番劇)どころか、憲法にとっては命取り(惨劇)になるかもしれない。来年7月参議院選挙が、最後防波堤として重要性を増してきた。

 そもそもこの選挙は、最高裁によって違憲状態とされた公職選挙法に基づいて行われた「違憲状態選挙」であった。選挙終了と同時に選挙無効訴訟が起こされ、最高裁が「選挙無効判決を出す可能性もある。選挙圧勝たかに見える自民党は、小選挙区比例代表「偏立」制に助けられ、小選挙区(4~9人という異例の多数立候補)における大量の死票の上の勝利であることを知るべきである

 「一票の軽さ」の問題は、単に議員定数の不均衡の問題にとどまらない、より多面的で深刻な問題となっている。

2012年12月16日午後10時35分稿)

《付記》

17日午前5時半に新聞各紙やネットを見ながら、書かねばならないことがたくさんでてきた。選挙結果は、自民党294、公明党31で計325の3分の2超え。民主党57、維新の会54、みんなの党18、未来の党9、共産党8、社民党2、国民新党1、新党大地1。開票作業を見ながら書き上げた上記「直言」をアップすることにしたい。最低限注目すべき点を指摘しておくと、まず59.32%(共同通信推計)という前回よりも10ポイントも低い、「戦後最低の投票率」になったことである。これは本文で書いた。それから自民党安倍総裁が、憲法96条憲法改正条項)を3分の2から過半数にすることについて、「維新」と連携していく考えを示したことである。また、「維新」の橋下代表代行が首相指名選挙安倍総裁を支持すると発言し、「(首相指名で)独自の候補を出すのはばかげている。日本多数決原理根付いていない。多数決教育をしてこなかった弊害」と述べたという。これに対して「維新」の石原代表は、「政党の体をなさない。(首相指名選挙で)党首を出すことが政党の沽券だ」と反発した。それにしても、橋下氏の一面的な多数決論、民主主義論は末恐ろしい。指導者民主主義論と接合する兆候がすでに随所に見られる。これらの問題は、折にふれて論じていく。

直言(12.17)もう一つの「一票の軽さ」――総選挙終わる

http://www.asaho.com/jpn/bkno/2012/1217.html

2012-07-21

http://anond.hatelabo.jp/20120721222541

きみが自殺するのは、それはきみの勝手であり止める気はないが、ぶっちゃけ博士課程で業績出せるか出せないか自分に甘い厳しいは関係ないよね。

「業績の出ない人間は生きる価値がない」という基準に従って考えると、自分に甘い、などという抽象的で空疎な批判しかできない教官は業績が出せない学生以上に無能であり、しか学生でなく給与所得なのだから真っ先に自殺すべきではあるまいか

2012-03-03

『「厨二病」の定義』 定義しきれぬ豊潤な概念

 厨二病という言葉定義については色々と議論が行われてきた

 しかし、その定義について誰もが納得できるというような定義が導かれたことは未だかつて無いのではないだろうか?


 ……等々


 これらの定義が必ずしも万人のネットユーザーを納得せしめるかといえば、そんなことはないと思う

 しかし、ならばこそ我々は『厨二病』と呼ばれる概念定義について、別の方向からアプローチできるのではないだろうか


 つまり、この『厨二病』という概念は、我々が定義するにしきれないラディカルさ、概念として計り知れない大きさを持つ概念なのではないかと、そのように定義することできるのかもしれないのだと、私は思うのだ。

 かえってその方が皆に納得のいく定義になっているのではないかと思うのだが、どうであろうか?

『「厨二病」の定義』 定義しきれぬ豊潤な概念

 厨二病という言葉定義については色々と議論が行われてきた

 しかし、その定義について誰もが納得できるというような定義が導かれたことは未だかつて無いのではないだろうか?


 ……等々


 これらの定義が必ずしも万人のネットユーザーを納得せしめるかといえば、そんなことはないと思う

 しかし、ならばこそ我々は『厨二病』と呼ばれる概念定義について、別の方向からアプローチできるのではないだろうか


 つまり、この『厨二病』という概念は、我々が定義するにしきれないラディカルさ、概念として計り知れない大きさを持つ概念なのではないかと、そのように定義することできるのかもしれないのだと、私は思うのだ。

 かえってその方が皆に納得のいく定義になっているのではないかと思うのだが、どうであろうか?

2011-11-14

http://anond.hatelabo.jp/20111114190653

「個人の時代」って半世紀以上ふわふわと漂ってる空疎言葉からほどほどにな

2011-10-25

http://anond.hatelabo.jp/20111025223652

長いだけで、ムキになってることしか伝わらない空疎な文章だな。

性的ニュアンスの強いサービス男性向けと女性けが相容れないってことぐらい

漫画に限らずわかることだ。性的サービス素面からは見るに耐えないって言うのも。

お前は俺に馬鹿呼ばわりされてムキになったか

もとますだの文の自明な部分に強引に「根拠不明!」「根拠不明!」って喚いて回ってるだけじゃん。

口喧嘩に負けた子供がやたら定義を求めだすのと一緒。

「何時何分なんびょうにきまったんですかーーー!ちきゅうがなんかいまわったときですかーーー!」

って真っ赤な顔で泣きながら叫ぶ子を見たことがあるだろ?

アレが今のお前。

http://anond.hatelabo.jp/20111025211504

長いだけで、ムキになってることしか伝わらない空疎な文章だな。

性的ニュアンスの強いサービス男性向けと女性けが相容れないってことぐらい

漫画に限らずわかることだ。性的サービス素面からは見るに耐えないって言うのも。

お前は俺に馬鹿呼ばわりされてムキになったか

もとますだの文の自明な部分に強引に「根拠不明!」「根拠不明!」って喚いて回ってるだけじゃん。

口喧嘩に負けた子供がやたら定義を求めだすのと一緒。

「何時何分なんびょうにきまったんですかーーー!ちきゅうがなんかいまわったときですかーーー!」

って真っ赤な顔で泣きながら叫ぶ子を見たことがあるだろ?

アレが今のお前。

とりあえず保存しとくわ

http://anond.hatelabo.jp/20111025204049

長いだけで、ムキになってることしか伝わらない空疎な文章だな。

性的ニュアンスの強いサービス男性向けと女性けが相容れないってことぐらい

漫画に限らずわかることだ。性的サービス素面からは見るに耐えないって言うのも。


お前は俺に馬鹿呼ばわりされてムキになったか

もとますだの文の自明な部分に強引に「根拠不明!」「根拠不明!」って喚いて回ってるだけじゃん。

口喧嘩に負けた子供がやたら定義を求めだすのと一緒。

「何時何分なんびょうにきまったんですかーーー!ちきゅうがなんかいまわったときですかーーー!」

って真っ赤な顔で泣きながら叫ぶ子を見たことがあるだろ?

アレが今のお前。

2011-08-24

http://anond.hatelabo.jp/20110824030254

狙いは悪くないと思うがまだ少し偏ってるな。補足したい。

普通の人は、大義名分が無いのに嫌韓だけで大声を上げられるほど、恥知らずではありません。普通の人は、マスコミゴリ押しだけで大声を上げられるほど、正義感は強くありません。普通の人は、両方がそろった時に、恥知らず正義漢に変身するのです

恥知らずというのは偏った見方だろう。かつてジャパンバッシング国旗を焼いたアメリカ人たちとそう違わない。ある種の保守主義の形ではある。はてサだって口を開けばラッダイト運動だとかで勇ましい奴がいるけど、せいぜい同じレベルだろう。もちろん、今更保護貿易主義は流行らないとは思うが。

×:マスコミテレビは公共物だから偏向は許されない

不偏だなんて無理だってば。いつでも多数派の真ん中人生なんてあり得ないんだから自分が少数派の偏向さんになることもあると心得ましょう。

たとえ実際には空疎神話だとしても、放送法というものがあるからフジテレビは(その他のテレビ局も)その法律によって、国家から電波の使用権を得ている。常に批判はされうる。もっとも俺は、この際だから放送法のほうを解体してしまってもいいと思うけど。

2011-07-23

http://anond.hatelabo.jp/20110723182352

 OK、なら話は簡単だ。

 寿命による死を目的にした際、『人生は暇潰し(目的達成に伴う必然的な時間経過)だ』と言った時に、『人生目的達成に伴う必然的な時間経過)は人生(〃)だ』となるかと言えば、なるんじゃないか? どうだね


 上記の文を見て、ひょっとしたら君は首を傾げるかもしれない。

 でもね、結局のところ俺が言いたいのは、条件節『寿命による死を目的にした際』がある場合には、人生という言葉そのものもまた、『目的達成に伴う必然的な時間経過』に過ぎなくなるということなんだよ

 その上で俺の言葉に間違いがあるとすれば、どうぞ指摘してくれ


※追記 : そして勿論、この時「人生ひまつぶしだ」という発言に意味などない。空疎な同語反復に過ぎないのだから

http://anond.hatelabo.jp/20110723175436

 多分、そもそも暇潰しっていう言葉の使い方が二人で違うんだよ

 俺はさっきから、『暇潰しとは目的達成に伴う必然的な時間経過』って言ってきたよな?

 でもお前は全くそ定義を示さないまま、やれ人生は暇潰しだ、やれ暇潰しは人生じゃない、とのたまっているわけだ

 これじゃ議論が成立しないのにも無理はない。だって俺はお前の言ってる「暇潰し」っていう言葉意味が分からないんだからな。いや、正確には分かっているんだけど、その定義おかしいと思ってるんだ。何故って、結局お前は「暇潰し」という言葉意味を「意味のないこと」程度にしか定義してないからだ。

 バカだよなあ

 誰がって、いや俺が

 だってさっきから「暇潰し」のことを「意味のないこと」と定義しているやつ相手に必死に、『だからさあ、暇潰しという言葉必然的に目的を必要とするのよ』とか、『暇潰し自体は目的にならないんだ』とか必死に説得を試みてるんだぜ? でも、その相手はとにかく「人生は暇潰し、即ち意味のないものなんだ!」ということを認めさせたいが為に、俺の言葉を必死に無視しながら、自分言葉定義を明らかにしようともせず、ただただ空疎な反論を続けている訳だ。


 あのな、こんな下らねえことを議論と呼びたいんだったらな

 最初から

人生意味はない、そしてその根拠はない』と俺に断言してくれてた方がよっぽどマシだったよ


 で、お前は何をしたいんだ?

http://anond.hatelabo.jp/20110723171954

 だからさあ

 この時には、『人生ひまつぶし』という言葉が、『人生人生』って言ってるのと同じ意味なっちゃうってことなんだよ

 別に人生の意義はないとかそういうことを言ってるんじゃないの。

 命題自体が空疎だって言ってるの、つまり人生意味がないのが確かなんじゃなくて、『人生は暇潰し』という言葉自体に意味がないということこそが確かなんだよ

2011-04-02

面白くない人がライフハックでビューを集めようとする動きについて

あなたあなた説教してる相手(カンキチさん)もさあ

やってる事や理屈はわかるんだけど、

それをやっていった結果って、

はっきりいってまあ

社会の迷惑、スパムコンテンツ駄々漏らしというか

ネットゴミ問題を産むだけだよね。


こういうとカンキチさんは血相変えたり不貞腐れたりして否定するだけだろうけど

あなたはなんとなくその自覚を持ってるような気がする。

(と、思ったけど勘違いだったか

 あなた方のようなタイプ露出乞食の割りに否定される事に弱くて

 すぐ血相変えるのも特徴だ。

 そういうところから確信犯じゃないって言うのがわかるんだが。)

名がない人が露出した場合は、考えて動かないと誰の目にも留まらない。

これが悪いっていうなら、ビジネス志向戦略が向いていないだけ。

名が無い人、有る人、そんなのはどうでもいい。面白くさえあればどっちでも。

ビジネス志向」なんて言葉ゴミ蒔きを糊塗すべきじゃない。

そのビジネス(笑)自体が人の迷惑にしかならないと言ってる。


あのナントカタイムズの奴等とやってる事が同レベル同方向なんだよ。

そりゃあSEOたいな発想もないといけないけどさー

そういうのはちゃんと人を楽しませることが出来たり役に立ったりするコンテンツありきでしょ。

SEOって面白いものが埋もれないようにするための技術でしょ特にコンテンツ場合

SEO的な手法ばっかり先走ってコンテンツ空疎、な人達はいい加減にして欲しい

ていうか実際、ああいうやり方は短期の利益に目が眩んでステロイド注射してるようなもので

長くは続かないしあとには悪い副作用が来ると思う。


元増田の非難してるブログって

中味はないけど外側はかなり頑張ってると思う。

あれ書いてる人、物事の中味を吟味した自分独自のセンスで斬ったりする才能はほぼゼロだと思う。

文章も上手くないしまとめるのも上手とは言い難い。

でも外側の特徴、雰囲気、そういうのを一生懸命研究してコピーしました!っていう情熱は伝わってくる。

売れてるものや人が集まってるものの表面、ガワだけしか理解出来ないけど、

わかるところについては本気で吸収・再現しましたっていうのは見てとれる。

努力が見て取れるから、心情的には叩きにくいんだけどさ。


こういうのもライフハック(笑)たいなものの負の側面だと思うんだけど

あいライフハック的なティップスとかプチノウハウを地道に積み上げていくと

少なくともパッと見の体裁としては、いい感じのコンテンツが出来ちゃうんだよね。

本人の中に語るほどの何かの熱もなく、クセもなく、魅力もなく、って人でもコンテンツ信者になれちゃう。

で、本当にそういう人達が出てきた。


でもコンテンツってやっぱり

作る当人にある程度の技術(ガワ技術じゃなくて楽しませる技術)やセンス、あと何かが好きだって言う情熱不可欠だと思うんだよね。

から、そういうのを作れる人っていうのは限られてる。嫌な話とも言えるけど。

そういう壁を、前述のライフハックを駆使すると、見せかけ上は乗り越えられちゃうんだよね。

面白くない人、夢中なことも無い人が、コンテンツ風のモノを作れちゃう。

といっても面白いコンテンツの外側の雰囲気を再現してるだけなんだけど。


そういう「外箱物真似クリエイター」みたい人達について、

あれは確信犯誤用の方)なのか、そうではないのか、が判断つきかねてしばらく観察してたのだけど

どうやら殆どの人は確信犯はないという見当がついた。

確信犯権化たいに言われてる非モテタイムズ人達だって実は確信犯はない。


この種の人達の9割は本気で面白いコンテンツやそういうの作れる人達に憧れてた人達

自分もそうなりたいと思って努力していたけど才能が無かったため

ティップス主義やノウハウ主義に走り、ライフハックを蓄積し、

だんだんと道を外れながらそれに気付かない(もしくは顔を背けてる)人達なのよね。


自分の向き不向きやある方向での限界について

もっと自覚を持つような教育も必要なんじゃないだろうか。

なんでも可能性は無限とか言ってちゃダメだと思う。

また、そういう無意味・非建設的にポジティブな態度もライフハック(笑)によくあるものだけど。

http://anond.hatelabo.jp/20110402101657

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