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はてなキーワード: 空疎とは

2011-03-31

http://anond.hatelabo.jp/20110331151018

お客様メールアドレスには必ず"○○様"と名前をつけて、お客様の受信画面で生アドレスが表示されないようにしなければならない!!!

とか言ってるアホもいたよなあ。

今争点になってる

仕事上のアドレスには深夜にメール送付してはならない!!!

っていうのもそれと一緒のアホ、前時代性のアホなんだけどな。


共通点は「電話手紙といった既存ツールのルールメールに当て嵌めようとする」こと。

思考はしてない。

そのルール意味や合理性を問われて窮すると

「相手を気遣うかどうかだ!!!

「心だ!!!」「気持ちだ!!!

たい空疎精神論を喚きだす。

2011-02-12

好きな人処女喪失していた。

昨夜は万人にとって楽しい集まりがあって、それは東京大学に進学した上京組を集めての、ささやか飲み会があった。

高校時代にぜんぜん話したことないやつと、まるで以前から親友だったかのように話したりする不思議な顔合わせである

僕は目当ての顔を見つける。宙に浮かんばかりの嬉しさが襲う。だって、Yちゃんがそこにいるんだもの。

Yちゃん。僕が高1の秋からずっと思いを寄せ続けている女の子

もちろん、恋心は現在進行形だし、布団に入ってさて寝ようってときに必ず彼女の顔が思い浮かぶ。

そんな彼女と僕の関係は、心のなかじゃ「Yちゃん、Yちゃん」言うくせに、実際に口に出すとなると名字にさん付けしてしまう、まあ、要するにただ3年間同じ空気を吸っていただけだ。

二人の関係性は変わらないが、僕の内面は変わった。女子への苦手意識がなくなったのだ。といっても「女友達」ができる程度の変化だけど。

から、僕はすぐさま彼女の隣の席を確保するという積極性を出せたのさ。飲み会って厄介なもので、間に一人いただけでも、会話が困難になってしまう。

相変わらず可愛いなあ、Yちゃんは。制服着てなくてもすごく可愛いよ。今、この地球上にいる人間のなかでいちばん可愛いよ。そう、とにかく可愛いんだ。

Yちゃんは文学美術が好きで、その辺の文化系女子と比べて、いつも一歩先を行っていた。ありていにいえば「センスがいい」ってやつ。

ファッションは地味だけど、その地味さがプラスに働き、身長の低さも相まって、奇跡的な可愛さを形成しているんだよ。

「私は恋愛に消極的です」みたいな雰囲気も出していて、僕が彼女を口説けるようになるまで待っててくれるんじゃないか、そんな空気を僕は感じとっていた。

今日の夜はその第一歩さ。僕はそう思っていたね。確信に近かった。

でもさ……僕が一歩階段を上ったら、センスのいい彼女二歩も三歩も上っているに、決まってるじゃないか

大学楽しい?」

 誰かが聞いた。誰が言ったかなんて覚えてないよ。僕は彼女しか見てなかったんだから

「うん!」

 満面の笑顔ってやつを、僕はその瞬間、初めて見たのかもしれない。とにかく顔の筋肉という筋肉が、嬉しさを表現しているんだ。まいったね、ほんと。

「おお、その反応は、ひょっとして彼氏とかできた?」

 女が言った。たいしたことない女さ。たまたま仲良くなった男とセックスを繰り返して、妊娠させてしまった相手と結婚するような、そんなどこにでもいる空疎な女だよ。まあ、でも、30人中29人を幸せにするって考えたら、価値のある女なのかもしれない。

「わかる?」

 彼女が答えた。

「え~、いつごろ付き合いだしたの?」

「夏ぐらいから……」

 正直、この辺の会話は何も覚えちゃいない。だって、胸が痛かったんだ。目の前にいる彼女がまるで映画スクリーンを見ているかのように、別世界人間に思えてくる。彼氏がいるだって? 半年も付き合っている? 嘘だ嘘だ嘘だ。

 もちろん、嘘じゃなかった。彼女笑顔を見ればわかる。僕の意識はどんどん遠のいていって、ただ相槌を打つだけの生きものになっていく。彼女彼氏の話をすればするほど、僕のチンコは柔らかくなっていった。

 結局、彼女とは連絡先を交換しなかったし、まともな対話すらしなかった。だってできるかい? 処女喪失したての女の子と、楽しくおしゃべりだなんて。

 家に帰り、布団に入ると、いつものように彼女の姿が頭に浮かんだ。一つだけ違ったのは、僕が勃起をしなかったってこと。がまん汁の代わりに涙が溢れだしてくる。それはフィニッシュを迎えることなく、ただただ流れ続けた。

 ねえ、僕はどうしたらいいんだろう?

2011-01-21

すぐ大きな何かのせいにする思想について

日本人の陰湿なところ

1.良いものが評価されるんじゃなくて、みんなが評価しようと決めたものが評価されるところ

2.演奏動画で顔出てたら毎回顔の評価をしなければ気が済まないところ

3.自分のこと棚に上げて中国韓国ネタで盛り上がっちゃうところ

4.とりあえず否定しようと思ってそれから手段考えちゃうところ

…略

それらは日本人特質はない。

君は日本人特質を語れるほどの視野を得ていないからだ。


ハードルを力いっぱい下げて例えば、

君が述べた1~4のうち、

日本人はみんなそうする」だとか

日本人以外はそうしない」だとか

君に証明できる項目が1つでもあるだろうか?


無理だ。

君が述べたような曖昧かつ断定的な「日本民族の傾向」のようなことは

日本人を広く把握し、更に世界中の国と地域の人々のことを深く理解しないと言えないことだ。


では君が述べた論、論とは呼べないから、君が吐いた感情、これは何かというと

要するに世界人間とも日本在住の人間とも全く関係なく

君の極狭い生活圏内でのなんとなしの鬱屈やちょっとした不満、

つまり君一人の脳の中のメランコリーに過ぎない。


個人のメランコリーが何から発するかというと

ここ数日学校会社で冴えないだとか

ここ数日家に帰ってからダラダラしてしまっているだとか

ここ数日健康状態が優れないだとか

ここ数日寒くて嫌だとか

そんなことだ。


君は優しい言葉を望んでいたが

不潔な思考パターンに入りかけているので優しくない言葉を掛ける。

「そうだ、日本人は良くない、君の憂鬱あいつらのせいだ」と優しくするのは簡単だが

今そうすると君は緩慢に死においやられるから

君のように、自分個人の卑小なメランコリーの原因を景気よく拡大して求めて行くと

非常に不潔な思想のサイクルに足をとられてあっという間に首まで埋まる。

一度埋まってしまえば自分人生は棒に振ったも同然だ。


君がはまりかけている思考パターン大義名分としての思想を求めるが

日本ではそれが何十年かリベラル的な思想に回収されてきた。

「全部日本人日本政府差別野郎が悪いんだ。」

こんな空疎お題目自分の実人生を引き換えにした馬鹿が膨大に居る。

流行りが変わればネオナチたいにもなるだろうが、土台の思考パターンは一緒だ。


自分人生を取り戻す方法は全て、地道な習慣にしかない。

ちゃんと寝るだとか、

ちゃんと食べるだとか、

さぼらず勉強仕事をするだとか、

余暇を充実させるだとか。

自分のメランコリー自分だけの問題として向き合って生活するというのは、

「死ぬまで毎朝ラジオ体操をしないといけない」ぐらいには地味に辛い事だが

そのように生活できない人間は不潔な思想に人生を売り渡すことになる。


君が自分人生自分のものとして生きられますように。

http://anond.hatelabo.jp/20110121040019

2010-12-07

宛名の無い手紙

なんで君はこんな遅くになって、こんな手紙をよこすのか、そう君は思うのだろうね。理由は単純だ。君が自己満足の為に僕に書いて、僕によこしたように、僕も自己満足の為に書いて、君に送る事にするよ。それにあたって、ただ一つお願いがある。どうか返事を書かないでしい。僕にとって君との関係はキラキラした美化され、風化された思い出というよりはむしろ、呪い呪縛に近いのかもしれない。僕は君との関係を思い出す度、罪悪感に苛まれるんだ。この行為は別の言葉に変えるならば、償いに近いものかもしれないと思う。無論、こんな自己満足手紙を送った程度で、僕の行いは贖われるとは思わない。

最初に謝っておきたい。僕が非常識な行いを行ったのは重々に承知しているし、そのことを忘れた事なんて一度もない。あれは責められるべき事だったと思うし、君がそう判断するのももっともだと思う。君は疑問に思うだろう。なぜ何もしなかったのかって。率直に言うと、君の中に抱いている僕と、実際の僕自身の落差に驚き、その砂上の楼閣を維持すべきか逡巡したあげく、何も選び取ろうとしなかった、つまりは自分が傷つきたくなかった、そして君に対して臆病だった。

僕は確かに、友情以上の意味を込めて、好きだ、と言った。そんな言葉を言ったのは生まれて初めてだった。その時の君の表情の移り変わり、春の穏やかな周りの風景、部屋のオブジェ、机に彩られた食事。全てを色鮮やかに思い出すことができる。君の手を握ったときの、ちょっとひんやりとして、僕よりも小さな、可愛らしい手の形や、僕の一挙一動にあたふたしてこじんまりとした小動物のようにコミカルコケティッシュな君の仕草は、今でもまるでそこでの一部始終が8ミリビデオで撮られていたかのようにを鮮やかに思い出すことができる。そこで僕は確かに好きだと言った。しかし、本心では無かった。僕はしばしばそういった必要もないのに、そういった類の愚かな過ちを犯す事がある。しばしば、僕は人に嫌われたくないと思う余り、本心から乖離した行動をとってしまう事がある。そしていつも後悔する。学習しないのだ、僕は。それにしても僕はあまりにも軽率だったと思う。

君との関係を継続していく気がなかったと責められていても仕方がない。僕は君が思うほどに倫理的人間でもない。君が思うほどに、自分が何か価値のある人間だなんて今の際まで思ったことは一度もない。世界からある日突然僕が消え去ったとしても、多分何の変哲もなく世界というものはそれまでと変わらぬ歩みを続けるのだろう。君はそんなことないって言ってくれたのは、とっても嬉しかった。それでもこの考えは変わらない。でも、あんなにたった一人の人について想いを巡らせたのは、初めてだったと思う。僕の周りの人間は、喩えて言うのであれば旅の途中にふとすれ違う、街角風景たいなもので、人生の短い時間を共有しては、時間という川の流れに押し流されるような、刹那的存在だった。僕はそのまま、生涯孤独のままに生きていくのだろう、そう思っていたし、君に会うまではその考えは揺らぎすらしなかったんだ。それは僕の土壌の中に大きく根を張って、巨大な木へと成長していた。

君みたい人間は初めてだった。君とのメールでのやりとりはとても楽しかった。君からメールが来る度に、思わず口笛を口ずさむほどに嬉しかったし、この時間永遠につづけば、なんて今考え直すと陳腐な事を考えた。傍から見たら馬鹿げているのかもしれない。でも僕にとって君と僕との関係は、それこそ実存をかけた問題だったし、真剣だったし、真摯にとりくまねばならないことだった。君みたいな素晴らしい理解者を得られた事は、多分神様の贈り物だったんだって心から思うんだ。なんでそんな得難い関係を保っていた君から僕は離れていったのだろうか。聞くに耐えぬ理由だと思う。君はそれを聞いたら怒るどころか呆れるだろうから。無論、なんの矛盾も抱えていない人間は世の中にはいないだろうけど、それにしたって限度がある。僕は矛盾した人間だとこの時ほど思ったことはない。

僕はあれほどまでに苦しめた僕に対する過剰な信頼と、敬意と好意と愛情を・・・失うのが怖かったんだ。だから僕は結局言うに言えなかった。だってあんなに手酷い別れになったにも関わらず、最後にこんな綺麗で美し過ぎる手紙を受け取っては、返そうにも返事が出来なかった。それを行う事は、恐ろしく酷いことのように思えたんだ。知らなくて良い事もある。もちろん、率直な想いを打ち明けるという選択肢もあったけれど、僕はそれを選べなかった。これが君に対するせめてもの償いなのか、それとも病的な利己心のなせる業なのか、僕には分からない。ただ君はとても悲しんでいるに違いないだろうし、その上に辛辣言葉を浴びせる事は、もはや暴力であり、君に対する最大級の冒涜なんじゃないかと躊躇してしまったんだ。

君の言動に違和感があったわけじゃないんだ。君はメールのやり取りを介して、僕が想像した以上に君らしかった。どこか、違うだなんて違和感を感じた事は一度たりとて無かった。ああやっぱり、まさか君はそんなことで僕が君を諦める、なんて思わなかったんだろうね。だからこそこの言葉を言うのが辛い。一年以上もの間、君に返事の一通さえも出せなかったのは、とりかえしの無い事をしてしまったという罪悪感と、なんて空疎な事に時間を費やしてしまったんだろうという虚無感から逃れるためだった。

誤解しないでしい。君が空疎だとか、薄っぺらいとかそういう意味じゃない。むしろ逆だ。無邪気で純粋な君に接しているうちに自分のどうしようもなく矮小な部分や目を覆い隠したくなるような恥部を覗かれる恐怖に怯えて、逃避しただけの哀れな男なんだ。

恐ろしく動物的で、独善的で醜い。僕は自分自身のそういったどうしようも無く、醜くて矮小自分自信を受け入れることができなかったんだ。だから僕は君との関係を拒否した。逃避した。切断した。逃げ出した

僕は君と付き合う、その可能性ももちろん考えた。それは一見とても素晴らしい事のように見えた。だって僕の短い人生の中で、これほどまでに心を通わせる人なんていなかったから。君を失ってしまう事はとても辛いことのように思えた。でもそれは出来なかった。僕の心が拒否していた。君は僕といつまでも過ごしていたかった、そう言ったね。でも僕はそうじゃなかった。あの空間がとても-そう、とても重苦しいものに思えたんだ。心に重石が乗っかったようだった。いつまでこの狂った芝居を演じなければならないんだろうといっぱいいっぱいだった。帰りの電車の中では今までに経験したことのないほどの疲労感が襲った。

君がセクシャルマイノリティであることや、君の家庭環境かに違和感を感じていたわけじゃない。そういう人間がいたって可笑しくないとは思うし、僕はそこまで差別的思想に凝り固まっているわけではない、と信じたい。理由はもっと別のところだ。多分、僕がもっと思慮深く、善良でもっと本質的に物事を考えられるのであればこんなことにはならなかったと思う。しかしながら実際の僕は君が考えているほどには素晴らしい人間はなかった。

しかしながら、結局のところ差別主義者と誤解されざるを得ないような酷い最後になってしまった事については、釈明のしようもないと思う。君を尊重すべきと考えるならば、それは絶対やってはならない類の行動であったし、今でももっといいやり方があったんじゃないかって思ってる。結果が似たようなものであれ、それに至るまでの課程が全く違うものであれば、たぶん、君もこんなに傷つくことは無かっただろう。

君がとても辛い人生だったのは察するに余りある。出来ることなら傍らにいて、君といつまでも一緒にいられれば良かったのだけれど、恐らく僕では分不相応だったのだろう。あのときは悲しみに暮れていたかもしれないけれど、僕なんかよりきっと素晴らしい伴侶が見つかる事を確信している。君の本質に触れれば、君ほど繊細でピュアな心を持ち、尚且つ魅力的で素敵な人間なんて早々いるものではないということを理解できるだろうから。この手紙自己満足なのは言うまでもないが、君の幸福を祈る気持ちだけはどうか理解してもらえたらと思う。君の存在は唯一無二のもので、僕にとって特別であることはこれからもずっと変わらない。これからの君の人生が幸溢れるものでありますように。

2010-11-10

http://anond.hatelabo.jp/20101110140814

でしょ?

客観的に見てわかるよなあそれぐらい。

どうして元増田と思うのかマジでわからん。ツリー見返しても。


俺ほんとこういう馬鹿が話に入ってくるの不快なんだよ。申し訳無いけど。

語ってる対象(この場合DQNキモオタ)についての知識も無い。

話の相手が誰だかもわからんぐらいに文章読解力も無い。

なのに自己顕示欲だけいっちょまえですぐムキになって空疎レスをつけてくる。

なんでこんな奴と語り合わなきゃいけないんだって。


賛同でも反論でもまともな知能の他者の声を聞きたくてここで議論してんだ。

話に入ってくる資格が無いレベル馬鹿自重して2chかどっか行っててくれよ。

2010-08-05

http://anond.hatelabo.jp/20100802162342

・「お金がないほど虐待犯罪は増える(笑)」「バイアス(笑)

  みたいな当り前だったり空疎だったりする能書き

・「かわいそうかわいそう」という慈悲舞善人舞理解舞の所作

・「だから福祉をもっと増やさなきゃ!」「みんなで助けなきゃ!」

  というズッコケ締め

ちきりんだの罪山だのの馬鹿踊りに

善人の1人として参加する光栄に打ち震えてるブックマークネズミの群れを見ると

本当になんていうか、そのまま川にでも雪崩れ込めばいいのになーって思う。

http://anond.hatelabo.jp/20100805182806

2009-12-12

オバマ言葉のパワーが薄れてきた

オバマ大統領ノーベル平和賞でスピーチ

平和賞授与でオバマ氏、アフガン「正しい戦争

 授与式での演説でオバマ大統領は、「平和を維持するためには戦争という手段が演じる役割もあるのだ」と述べ、アフガニスタン戦争を「正しい戦争」と位置づけた。その上で、今月1日に発表したアフガンへの米軍追加増派に関し、「米国民が直面している脅威を座視は出来ない。交渉でアル・カーイダ武装解除することは出来ないのだ」と語って戦争遂行の必要性を強調した。

http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20091210-OYT1T01484.htm

ノーベル平和賞授賞式の場で「平和のための戦争」という古来、手垢のついたレトリック空疎だ。

いくらノーベル平和賞うさんくさいからと言っても、これはないんじゃないか?

議会でのアフガン増派演説に続いて、オバマ言葉が持つパワーがだいぶ薄れているように感じる。

2007年暮れの米大統領選挙運動から始まった熱狂的なオバマブームももう終わりか

2009-09-24

http://anond.hatelabo.jp/20090924203025

本当に頭が悪くて迷惑なのは単なるリテラシーを「頭のよさ」と勘違いしてしまう人かなと思う(元増田エントリブコメに変なのが湧いてるような気がする)。

文脈は無視するが手元の辞書によると literacy とは ability to read and write のことでそれ以上でも以下でもない。

科学リテラシー」は科学的な文章なり議論なり論理なりをまともに「読み書き」する技術でしかない。だからこそ早い段階の教育に意義があって、自覚がなくともある程度読み書きできるようになれば「まともでない」ものもある程度判別できるようになる。それが知性のレベルを上げる土台になることは確かだが、内容空疎な美文を弄する輩がままいるように、リテラシーはやはり読み書きを遂行する能力に過ぎない。

逆に「科学リテラシー」の高さをもって「頭のよさ」を自負する者は例えば宗教を話題にまともな議論をする「頭のよさ」があるのか。かのアインシュタインスピノザの神は認めるといったそうだが、理系でも自然観と理神論をめぐる議論くらいは茶飲み話に出てくることもある。その手の議論では、知らず知らずに身に付いたリテラシー論文を量産するだけのハードサイエンス論理や知識だけでは内容のある対話にはならない。要は他者(この言い方は嫌いだが)とか歴史とか(異)文化に対する自分のありようが問題になるわけで、逆にいえば「科学」というものを十分に理解しているか、という問題にもなる。

あくまで個人的な問題として勝手を書かせてもらえば、疑似科学批判の問題は批判者がどれだけ自己を相対化する能力がある(フリをできる)か、というところに説得性の鍵があるような気がする。オカルトを見つけて騒いでいる人々はどうも頭が悪く見えてしかたがない。それはいわゆる「正しさ」に凝集して安堵することとも関係なくて、「センセイ、黒板の式が違ってます!」と声を張り上げて悦にいる「出来のよい子供」のようなものだ。それは間違ってはいないし、「社会」に有益な正しい行いであることは言を俟たない。皆は感謝して彼は尊敬されるだろう。しかし愚かな教師は間違いを繰り返す。そうした指摘は教師にとってまったく恐るるに足らない子供との交流に過ぎないからだ(関係ないが、恐ろしい子供が声を上げるのは得てして国語時間だ。算数のできない教師はいないが、文章が「読めない」教師は昔から案外多い)。そうした交流(人はそれを戯れとも呼ぶわけだが)にはそれほど読むべき空気もないような気もするが、どうだろう。

そこに空気があるときについていえば、その空気を読まないことは発言権を得るためのひとつの出発点に過ぎないということは自覚しておくべきだ。おそらく同席者が「白ける」のは、発言権を得た人間がまともな芸を披瀝することなく不発に終わるからではないか。技術的にいえば、まずは巧みに美しくこなさねばならない。「イタさ」は内容ではなく技術の問題だ。迷惑な存在は場を白けさせる。批判すべき相手は完膚無きまでに叩きのめすべきだが、公衆の面前での議論というのはひとつの劇であって芸でもある。

つまり説得すべき相手は常に第三者と心得るべきだが、注意すべきなのは初めから第三者に向いて語るというのは病的な転倒と自覚すべきだということだ。「はてブ」界隈の腐臭はその辺に関係があるのではないかという気がする。大槻義彦は確かに「クール」でも「クレバー」でもないが、愚直に相手に対峙する健全さ(のフリ)はあった。あのヒドい議論がショーとして放送に耐えたのはなぜなのかを考えてみてもよいかも知れない。

とりあえず血液型性格判断の話題が出たら、それに自分なりの見解を示しつつ、なおかつ盛り上がっている者たちの玩具を取り上げない方法、あるいはそれに代わる新しいおもちゃを提供する用意が自分にはあるのか、とひと呼吸考えてみるというのはいかがだろうか。それがなぜそんなにいい玩具になっているのか、という話題にスムースに移行できれば大成功だが、とりあえずはその話題について思考しようとしている、ということくらいは伝わる程度の演技が必要だ。そういう時に横にいる人と目で困惑を共有できるとストレスも溜まらず演出性も高いのだが、残念ながらそういう困難な場におかれたことがないのでこれ以上はよくわからない。言うまでもないが、少なくともそういった会話の場での演出だとか、話題の移行とか、それに伴う発話者の責務だとか、そういうのはいわば「会話のリテラシー」であって、「科学リテラシー」とも「頭のよさ」ともまったく関係ない。

以上、外野から。

2009-07-28

二十代で研究者人生ダメにするための"論文"の読み方

 二十代の人が、研究者人生を棒に振ってしまうためのフラグの立て方は色々あるが、そのなかでも有名なものの一つに「悪性の論文調査」というやつがある。若いうちから、アカデミズムの海で実験結果を誤魔化すような処世術を身につけたり、捻れた教科書論文との付き合い方を覚えてしまったりした人は、まぁ、あとあと難しいだろう。

  

研究者人生ダメにするための“論文”いろいろ 

 では、研究者人生を棒に振るような“悪性の論文調査”とはどういうものか。色々なパターンをみかけるなかでも特に頻度の高いもの三つを、書き残しておこうと思う。

 

研究分野を色眼鏡で眺めるために論文を読む

 目の前の実験結果なり、自分が置かれているポストなりが気に入らなくて、それを色眼鏡でみる為に論文調査に耽溺するタイプ。このタイプの人は、実験装置のややこしさや理論の不完全性を承知しながら注意深くモデルを適用してみようという姿勢になりにくく、むしろシミュレーション理論という名のロードローラーを使って、研究対象をとにかく単純化・抽象化する姿勢へと傾きやすい。思想理論が含んでいて然るべき、実験結果に合致しない部分や不完全な部分を留保するよりも、自分が見たいビジョン自分研究範囲を染め上げることが優先されるものだから、教条主義的・原理主義的な研究者になりやすく、融通のききにくい“理屈だおれ”にもなりやすい。

 

 このタイプ人達にとっての“論文調査”は、研究分野のことを広く識るための“論文調査”というよりは、研究対象への見方をむしろ限定し狭めるための“論文調査”という体を為しやすい。彼らにとっての理論シミュレーションとは、視野を狭窄させるための色眼鏡でしかないし、まさにそのために“先行論文”が必要とされている。

 

 見たくない実験結果を自分の視界から締め出すために本を積み上げる人が、良い研究者になれるとは思えない。

 

・本の威を借りるキツネになるために論文を求める

 読んだ論文の数や著者の名前が、履歴書になると思っている人達の“論文調査”も、研究者人生を棒に振りやすい。本棚に並んでいる教科書参考書の立派さのためばかりに教科書参考書を買い求める人達も、同様である。

 

 本来、先行研究調査なんてものは「誰の論文を読んだのか」よりも「どんな影響を受け何を考えるようになったのか」のほうが遥かに重要な筈だし、ときには一枚のレターが、十冊のペーパーよりも強いインパクトファクターを与えるなんてこともザラにある筈だ。しかし、このタイプ人達にとっては、読破した論文の数を数え上げ、難解で有名な何某という先生論文を読みきったという事実証明のほうが重要らしい。ポスドク募集に提出するCVに載せるために論文を読むような、あるいは本の威を借りるキツネになるために強面の論文を敢えて選ぶような、そういう空疎論文の読み方に耽る人間というのは、いないようで結構いるものである。

 

 論文からの影響や論文の内容よりも、他人の論文の威を借りることに夢中になっている人が、良い研究者になれるとは思えない。

 

 

・優越感の袋小路に逃げ込む為にマイナーな分野を求める

 学会やコンペティションのような、他人同士が競り合う分野では劣等感が強烈過ぎて、それを補償するために、およそ誰も競争相手がいない研究領域を敢えて選んで、そのジャンルで悠々と優越感を味わうために知識を求める、という人も、可能性を勉強で囲い込んで腐らせてしまいやすい。

 

 例えば、研究生活のなかで劣等感が強い人が、その劣等感補償する為に勉強に手を伸ばすケース。実のところ、やり方は非常に簡単で、ラボの誰も興味を持ちそうにない分野の、ちょっと難しそうな参考書を見繕ってきて、ラボのなかで見せびらかすようにそれを読めば良い。ラボ流体力学を読んでいるやつがいなければ流体力学でもいいし、一般相対性理論教科書でも、マイナージャーナル論文でも構わない。とにかく、“ラボの頭の悪い連中”が手をつけそうに無い“俺だけが重要性を知っている”分野の論文を選びさえすれば、劣等感から身を守る大きな防壁として十分に役立ってくれる。

 

 しかし、こういう本の選び方ばかりしていれば、当然、“ラボの頭の悪い連中”とのコミュニケーションはますます困難になるばかりでなく、興味や関心の分野を著しく狭めてしまうことになりかねない。また、選んだ分野についての造詣を深めようにも、単に競争相手がいない場所を選んでいるばかりでは切磋琢磨など望むべくもないし、万が一、ポスドクとして行った大学などで競合相手に遭遇した場合、そこで再び劣等感を刺激されてもっとマイナーな分野へと逃避するしかないような、そういう逃げ癖が身についてしまうことも有り得る。

 

 マイナー研究を防壁にしながら劣等感から逃げ回るだけの人が、良い研究者になれるとは思えない。

 

まとめると

 

 このように、ひとつ“論文調査”と言っても、研究対象に対する視野を狭めたり、都合の良いモデル実験結果の埋め合わせをするために論文の山に埋もれるような、そういう惨めな論文教科書との付き合い方というのは十分に有り得る。世界を多様な視点で眺める術を与えてくれる筈の論文が*1、景色を歪め、視野を狭めるためのツールに堕するというのは、とても哀しいことだが、こういう事例は枚挙に暇が無いのが現状だ。

 

 矛盾した物言いに聞こえるかもしれないが、二十代の研究者劣等感補償する為に難しめの論文チャレンジしてみるとか、他の人が手を出してない研究分野を学んでみるというのは誰にだってあることだろうし、むしろある程度はキャリア相応に必要なプロセスでもある。だから、上に書いたような論文の選び方が全部ダメだというつもりは無い。けれども、上に書いたような論文の選び方ばかりを繰り返しているしているようでは、やっぱり良い研究者になれるとは思えないし、どんなに論文を読んだとしても、得るところが少ないだろう。

 

こちらより改変。

http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20090727/p1

●追記

ブクマ数見て驚いた。

こういうネタバレは無粋かもしれないけど、これ、半分は改変元の記事への皮肉で書いてます。あの理屈研究者に当てはめるとこんなヘンテコなことになるよ、というのを示すつもりで。でも、ブクマで賛同してたりする人が結構いて、ちょっと何だかなあという気分。(22:45)

2009-07-18

エンドレスエイトは容量・用法を守って正しく観てください


涼宮ハルヒの憂鬱」にて5回目の「エンドレスエイト」が放送された

この構成に対して、前衛とか、チャレンジという言葉でくくるだけの人も多いと思う

しかしそれだけの解釈だと次回以降を見るのに義務感が先に立ってしまう

よりエンドレスエイトを楽しむためには、もう少し考えを推し進める必要がある


今まで「繰り返しに何の意味が?」という問いには、

「見てる側にもループ体感させるため」という答えで十分だった

だが「こんなに何度も繰り返す意味は?」という疑問や、

「せめてもっと違う展開にすべき」という意見も出てきた

しかし違う展開を入れてはダメなのだ

全く同じ展開を繰り返すことこそが、エンドレスエイトの本分なのだ


細部を変えない事によって得られるものは、視聴者期待感喪失である

視聴者ラスト数分のオチのみに期待せざるをえない

しかしオチがどうなったかは録画したのを確認すればいい

とすると、エンドレスエイトを楽しむには録画してはダメということになる


録画視聴という行為には、少なからず「確認」という意味が含まれてしまう

いつでもストップできるからどうしても義務感がつきまとう

そこで・・・

全く同じ展開を繰り返す理由はここにある

違う展開を入れてしまっては、録画視聴することに意義が出来てしまう

エンドレスエイトを楽しむには、オンエアをリアルタイムで見る必要があるのだ


スポーツ中継なんかも、結果だけ知りたければスポーツニュースで十分だ

映画ドラマゲームも、オチだけ知りたければネットで確認すればいい

フィクションでどうすればライブ感を演出できるか、

どうすればネタバレを無効化できるか、

その一つの答えが今回のエンドレスエイトというわけだ


若年層が大半のネットで不評なのも当然といえば当然で、

エンドレスエイトはオッサンこそが一番楽しめるのかもしれない

「TVの前に座ってアニメのオンエアを待つ」なんて、

オッサンにとってそんな体験もう二度とないかもしれない


そもそも「ネットで不評」とか、そんな物差しだけじゃつまらない大人になっちゃうぞ

ブログとか2chってそもそもが語る場所なわけだ

でもエンドレスエイトはもとから語ることを否定している

語ることを拒絶したものを語っても否定にしかならないのは当然

野球中継でよく偉そうなジジイ上から目線で解説してるけど

あれが空疎に聞こえるのは、スポーツ観戦とはまずはじめに見て楽しむのが

前提なのに、語りオンリーで攻めてくるから

まあ何でもそうだが「楽しむ」ってセンスがいるよね

アニメに対して「語る」以外に出来ることとは?


かつて映画界にはアメリカンニューシネマやヌーヴェルヴァーグというジャンルがあった

宮崎駿はそれらを

理屈抜きで楽しんでって言うけど、どうしたって理屈はついてくるんですよ

¨理屈抜き¨っていう理屈がねw」

なんて皮肉ってたが、まあ、ああいう映画を今見るとそりゃひどいもんだ

きっと5年後にエンドレスエイトを見てもちっとも楽しめない

割れやらファンサブであとから見たって何の意味もない

いま日本に生きてる我々でしか楽しめない究極の珍味、エンドレスエイト

金曜1時はエンドレスエイト涼宮ハルヒ握手

2009-06-25

http://anond.hatelabo.jp/20090625225854

一見もっともらしく見える「正論」、上辺だけの空疎きれいごと

既存の権威から借り物丸出しの浅薄で一知半解な思想や主義主張・・・

などなどをしかつめらしく、物知り顔に、ナルシスティックに並べ立てて

ちょいとポーズをつければ、それで自分がさも頭がよく、人間として優れた、

特別な存在なのだと心底思い込めるというのがはてサの卓越した得意技な

わけだけども、時としてそれが容易に反転してしまう現象がまま見られるのだよね。

あるいは、その反転した理路こそがはてサな人たちの根源的な行動原理

なのかもしれないとすら思うんだけどさ。

つまり、「自分は優れた人間なのだから(はてサにとってのアプリオリな前提らしい)、

自分の言っていることは絶対に正しい真理であり、素晴らしく価値のあるものであり、

否定されることなど許されない。それを理解しないのは愚民であり愚民はしねばいいのに」

というようなね。

で。この理路を逆方向に言い換えただけですよね。 >カスが何を言っても(仮にそれが正しいとしても)

カスカスであってその発言に価値などあるわけがないという発想

2009-04-04

どうなの

最近、雰囲気悪くないですか? 増田の。

http://www30.atwiki.jp/blackmatome/pages/38.html

これの89でいうと、5と6の間くらいまで来てる気がする。3に戻したい。

89 名前:以下、VIPにかわりましてパー速民がお送りします[] 投稿日:2007/12/03(月) 16:23:21.23 ID:Yr.lhIUo

 比較的よくありがちなスレッドの一生

1、スレッドが立つ。

2、技術のある人間ネタを提供して盛り上げる。

感動を求めて人が集まってくる。

3、ネタAA、改変コピペを書ける人間が乗ってきてさらに盛り上げる。最盛期。

4、盛り上がりに乗じて何も書けない魯鈍と白痴が寄ってきてスポイルする。

彼らの無駄愛着逆効果を及ぼし、スレッドレベルが著しく低下。

5、飽きて大勢が去っていき、行き場の無い魯鈍と白痴が残される。

レベルな自慢・偏見の陳列、煽りあい、無駄罵倒

いわゆる「2ちゃんねる用語」を多用したお寒いレス等々が並ぶ。

6、馴れ合いしか出来ない魯鈍まで魯鈍同士の空疎な会話に飽きて去る。

7、何も提供できない白痴過去の栄光の日々を夢見てメンテを繰り返す。

脳死状態。

2009-03-02

ただ祈る

先日ひさびさに中学生ドラマを見た。主演の少女がとてもキュートで、存在感があった。ブラウン管に釘付けとはこういうことを言うのだろうというくらい凝視していた。しかし、ジュニアアイドルとりま絶望的な環境と同様に作り手の無能さを感じざるを得なかった。彼らはなぜかくも無能なのか。無能者達は彼女がいかなる存在なのかついてまったく無知なのだ。無能者達に共通して欠損した能力と言わざるを得ない。なぜ彼らはかくも凡庸なのか。彼らがただ凡庸なまま生きていくならまだしも、その凡庸さは、なによりも少女の足かせとなる害悪なのである。存在無知な凡庸な無能者が、嬉々として、空疎な内容を埋めるべく、存在を貶めゆく様は、悲劇を通り越し、滑稽としか言いようがない。中学生ドラマに内容などはない。あるのはフレームと、光や音、編集を含めたいくつかの操作、そして、それらが織りなす最小限の政治的空間を軽々と逸脱してゆく少女存在だけである。無能者は内容に囚われる。凡庸な内容によって非凡な存在を支配しようとする。凡庸な表情、凡庸な仕草、凡庸な台詞。これらは無能者どもが、すべての対象を等しく消費物と見なし、支配せんとする、凡庸な権力欲の所産である。非凡であるのは彼女存在、それだけである。しかし、無能者達はそれに、そしてそれが自らの能力では近づきえない存在であることに、気づく能力がまったく欠けている。なぜなのか。悲劇としか言いようがない。彼らはなぜかくも無能なのか。そしてやはり何にも増して、ジュニアアイドルの無能な作り手には絶望せざるを得ない。もうすべては手遅れなのかもしれない。かの十四歳の少女は、今年にも水着を脱がなければ、一生無能者と無能な取り巻きたちの餌食となり、消えていくのだろう。もうすべては遅すぎるのかもしれない。絶望的なのかもしれない。杉本博司写真建築シリーズにある、ある種の建築物のごとき、フレームの中に溶け消え去ることなく、存在を、あるいは亡霊のごとき存在の影を誇示しうる、かの少女が、無能者たちの、あるいは無能な取り巻きたちの、狭隘な視線の中で、腑を喰い尽くされ、残骸も残さずに、消えていくのだろうか。憂鬱だ。

2008-12-07

日本HIDEE!」というテンプレ

 http://anond.hatelabo.jp/20081206220423

 はっきり言ってゴマカシなのである。

 自分の周囲の嫌なものを日本と同一化し、日本ひどい=(それを批判する)俺すごいとオナニーしている。しかもその自覚すらないのないのだからよけい醜悪だ。

 本人にそれを言うと必死に否定するが「日本HIDEE!」と言っている人間馬鹿にすると何故か「日本はキミが思っているよりもひどい。日本の歴史は悪い」と返ってくるので苦笑してしまう。「日本」への肯定が「自分」への批判へと直結してしまっている。これは日本自分の敵(受け入れられない自分の状況を作り出すもの)とを同一視しているからに他ならない。

 「日本HIDEE!」は、これからの日本未来の雲行きさえも悪くしている。

 何故なら過去の結果に対して「HIDEE!」と溜飲を下げているだけで、これからの結果を出そうという努力を放棄しているからである。いわば「これは理想社会ではない」と不満だけ言うクレクレ人士と同質であり、その空気未来を担う若者にまで侵食しているという証が「日本HIDEE!」なのだ。

 空疎理想蔓延した先に待っているのは、ひたすらなる現状否定(=現状に不満のある自己の肯定)だけなのである。

 現状を否定したいからコピペ化させてまで日本のひどさを再確認したいのか(再三言うがキミが日本をくさしたからといって日本がよくなるわけでもないしキミがすごいわけじゃもちろんない)、未来を夢想するから否定してしまうのかは卵と鶏の話になるが非常に危ない状態であるのは間違いない。

 それだけじゃない。「日本HIDEE!」の怖さは他にもある。そして、それは何千年にも渡って文明を発展させてきた我々にとって断じて否定しなければならないものだ。

 「日本はHIDEE!」「日本に生まれて恥ずかしい」……これは立派な差別主義の萌芽である。

 これは「(歴史的に)日本はHIDEE!」「日本に生まれただけでそれは罪」「(自分は直接してなくても)日本人の俺は罪深い存在」という含みが入っている。それはそれぞれのアイデンティティーを大切にしようという今の国際状況からじゃ考えられないものだ。キミたちはフランスが大革命を起こしたというだけで今のすべてのフランス人に肯定的になるべきか? ドイツナチスを生んだからといって今のすべてのドイツ人を否定すべきなのか?

 何にも考えずに差別主義を隠さない国がどうなるかなんて明白だ。滅亡に決まっている。

 もっと言おう。この「日本HIDEE!」は同じキミたちが嘲笑う血統主義と同じである。何故か?

 それは血統主義人間資質は血筋によって決まるとしているからである。この「血統がいいんだから私もすごい」という考え方はそのまま「昔の日本人が悪いことをしたんだから今の日本もひどい」と一緒だ。どっちも根拠無く自分の在り方/責任立脚点を個人と関係ない血筋に置いているのだから。さらには血統主義は「前の代が偉かったら次の代も偉い」というのと同時に「前の世代がダメだからこいつもダメ」という考えを孕んでおり、これはほとんど「罪は遺伝する」という非合理的な主張と一緒だ。「日本HIDEE!」は「日本人だから謝らなければならない」という転化をし、これは間違いなく「国的絶対差別」だ。

 これは現代社会では絶対にとんでもない思考停止だ。絶対に!

 以上のように「日本HIDEE!」は絶対に認めてはいけない思想なのである。キミたちはこのテンプレを読む前に本当の自分と向き合い、どうやったら自分承認できるか、どうやったら自分の嫌なものをただ忌避するだけでなく自分を変えられるか考えた方がいい。そして自分が満足できない状態ならば「日本HIDEE!」などという単なる転嫁自分の嫌なものは叩けばいいという後ろ向きな考えを捨ててこれからの日本がさらにすごくなるように努力すべきだ。

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