はてなキーワード: 根付とは
顔の問題じゃない。
これは「グレタを基地害扱いせよ」という特定権力層の意向が忠実に国民に反映されているだけの事象だ。
つまり、サザエが既に昭和で役目を終え、平成を終えても未だに貴重な放送資源をその本来価値に明らかに見合わない形で占有し続けているという歪んだ事象が、「サザエを延命し、昭和の古き良き大家族主義の価値観を国民に根付かせよ」という特定権力層の意向を忠実に反映させているだけであることとほとんど変わらないのだ。
この状況を恐ろしいことだと思わないだろうか?
北朝鮮の政治体制が羨ましくてたまらない奴らはあまり北朝鮮の批判や非難は行わないが、
韓国への憎悪や非難、侮蔑の態度の激しさはとてもわかりやすい。
韓国は日本の国民一人あたりGDPを間もなく追い越そうとしているし、労働生産性の指標について既に追い抜き、年々日本の国際的な地位を脅かしているし、健全な民主主義が(100点とは程遠いにしても)日本とは雲泥のレベルで国民と国家に根付いているので、奴らは絶対にそれを認めるわけにはいかない。
対抗して日本をもっとよよくしようと改善を進めるのならよいが、残念ながらそうはいかず、このような事実はなかったこととして悪い情報を収拾選択拡散することで印象操作を行い、金と力で弱い者を締め上げ、黙らせる。そんなことを続けていれば、さらなる没落と破滅は当然の成り行きだ!
今日の収穫は無職中年だけどレンタル彼女を利用したという増田だ
こいつはもう捕まえるのに本当に苦労した
綺麗な優しそうな若い女が良いと聞いたのでそういった囮を仕掛けてやっと捕まえた
女の好みがうるさいらしく最初は多部未華子似の囮にしてたんだが全く反応せず
次は上白石萌音似にしたりなどあれこれ囮を変えて試行錯誤して池田エライザ似でようやく確保できた
綺麗なエロい若い女が好みだったので情報が一部間違ってて無駄な苦労をしたと思っている
やっと捕まえた増田を小一時間物静かな薄暗い座敷牢に放り込んだあと様子をちょっと確認してみると
なるほどこれは相当な大物だ
チーズ蒸しパンの上の北海道が僕を見つめてるとか虚空にボソボソ呟いてる
なかなか活きが良い
さっそく仕事道具を一式用意して、座敷牢にいる無職中年の首をひっ捕まえて作業を開始した
まずは下拵えのトラバ抜きだ
丁寧に表面についたトラバを一つ一つ剥いてやる
ここで焦ってはいけない
表面についたトラバを全部剥いてやると真っ青な無職中年の姿が露わになる
ここからが肝要だ
まずKKOはニオイがきつい
ニオイ消しが必要だ
「トシガワカ・クテビジンナ・ラーテンシノヨウニヤ・サ・シイハズ」
この呪文を唱えたら安心したのかストレスから発散していたKKO臭が穏やかになった
この瞬間を逃さず一気に締めに入る
躊躇してはいけない下手に時間をかけると暴れる危険があるからだ
露わになった脳味噌がピチピチッと鼓動している
そこに根付いていたミユという幻覚症状を引き起こす寄生植物をサッと抜き取ってやり、痛みに気付かないうちに再び頭頂部を閉じてやる
再び物静かな座敷牢に戻してやり一晩経ったら野生に返してやるつもりだ
未知の増田もまだまだたくさんいる
追記です。
コメントなんてつかないと思っていたし、ついても期待はしていなかったけど、いただいたコメントがみんな優しくて泣きそうになっている。
記事を書いてから数日後、倒れて病院へ行って抗不安薬とか処方してもらった。
状況は全然改善していないし、毎晩のように目が覚めてひどい動悸と吐き気とたたかっている。
このまま死にたい気持ちに抗って生きていくしかないけど、なるべく死なないように頑張ってみる。
コメントくださった方々、本当にありがとうございます。
追記終わり。
竹内結子さんの自死について、産後うつではという憶測が飛び交っていた。本当の理由を私たちがわかるはずがないのに、みんな好き勝手言っていた。産後うつについて声高々にこんなにつらいんですってSNSで発信される人もたくさんいて、これを機に産後うつについて認知が広まるのはいいことなのでは、とも思っている。彼女の死の真相とは別として。その中に、「子どもを残して死ぬなんて信じられない」という声に対して、ちょっとだけ私の考えを書いてみる。
私には3歳の子どもがいる。夫婦ふたりの生活もいいけど、子どももいたらいいな、私たち二人の子どもを育てたいと思って、産んだ子だ。自分で決めた。子ども好きの夫は結婚当初から子どもが欲しいと言っていた。だけど、正直、自分の生きてきた人生もそこそこしんどかったので、こんな世界に自分のエゴで人間一人生み出していいのか、とも悩んだ。でも、子どもの人生について、こちらで辛いかどうかなんて決めつけることもできない。シンプルに、自分の子どもに会いたいという気持ちが勝った。
そうやってきちんと計画して、順調に生まれた子どもは、どこも悪いところなんてなくて、発達も問題ない、人懐こくて賢くて快活明朗元気なかわいい子だ。私のことをとても好きでいてくれて、「お母さん子」なんて言葉はないけど(おばあちゃんっ子、とかあるのに)、とにかくいつでも「おかあさん」と言ってずっと私にくっついていたがる。こんな素晴らしい子が私の子なんて、私にはもったいないとすら思う。
私は希死念慮が高い。でもそれを必死に隠して生きている。学生時代にものすごく嫌なことがあって、それから日々死にたいと思っていた。死にたい、というか、明日目が覚めずに死んでいたらいいのに、という風に思っていた。なんやかんやあって、毎日そう思う日々からは解放されたのだが、時折無性にこの世から消えてしまいたい気持ちはなくならない。実際に行動は起こしたことがないので、親しい人にも誰にも、夫にすら、実はたまに死にたがっている、ということはばれていないと思う。今までは主に孤独感が引き金でよく死にたいと思っていたが、夫と結婚して気持ちは安定していた。子どもがいたら、そういう気持ちはもっと収まるかと思っていたが、甘かった。
子育ては本当に大変だ。出産前の想定なんて甘すぎた。想像の何倍も何十倍も大変だ。そして、苦労はすべて子どもの笑顔に報われるかと言うとそういうわけではない。
何が大変か。まず、子育て自体が大変。慣れない授乳に睡眠不足、子どもや自分の急な体調不良。すぐ泣くし、すぐ怒る。コロナ禍では衛生面にもより神経質になる。でも、こういうのは、それこそ子どもの笑顔ひとつで報われた気がするんだよね。
大変なのはそれだけでなく、社会も厳しい。育休をとったら、もうお前はしばらく会社に貢献できないから辞めてほしいと言われた。大学の就活はリーマンショック後だったこともありうまくいかなくて、それでもなんとか辿り着いた正社員職だった。結局自己都合退職、ということになった。労基署に相談しても無駄だった。結構冷たい対応をされたので、傷口に塩を塗られたようだった。こんなことがあるのか、と絶望した。そりゃ少子化になる。出産育児金や子育て支援等、行政のサポートはあっても、実際こんなもんだ。正社員じゃなくて、契約社員、派遣、アルバイト、そういう人は産休育休もなく自分から辞めるしかない。そうなると育児休暇の手当ももらえない。
結局、今は子を保育園に預けて別のところでパートとして働いている。給料は二分の一以下になった。その分業務レベルは簡単だし、責任もない。有給はとりやすいので、育児と両立しやすい。職場の方も優しい。それでも、今の収入だと毎日が不安だ。第二子なんてとても考えられない。(夫とは結婚当初から生活費を折半している)
それに、子どもと遊歩道を散歩していたら突然知らないじじいから「うるさい!早く子供を連れてどっか行け!」と怒られたこともある。
地域のイベントに出た時、小さい子どもの隣は嫌だと言って不機嫌そうに席を離れたおっさんもいた。
どちらのパターンも、うちの子は騒いでなかった。子連れってだけで突然怒る人もいるから怖い。
基本的に見知らぬ人でも子どもに優しいコミュニティにいる。特に役所の人はとても親切だ。エレベーター優先させて乗せてくれたり、手続きを丁寧に教えてくれたりして、泣きそうなくらい嬉しかった。あと、その辺で出会う学生の子、おばちゃんやおばあちゃんも優しい。
突然怒ったり、挨拶しても無視するのは大抵いい年の男の人、特にじじい。挨拶もできないなんて、この人たち、職場でどういう風に生きてきたんだ?
一度、子どもが、セカンドバッグをもった強面のおっさんに挨拶したことがあって、よく声かけたなと思ったのだけど、その人はとても優しい声で挨拶を返してくれた。大抵の人はいい人なのに、たった1割の嫌な思い出がトラウマになる。臆病な私は、なるべく周囲に迷惑かけないようにびくびくしながら踏ん張っている。
あと、これからのことを想像すると苦しい。子どもがいじめられたら、逆にいじめる立場になったら、とか
今後事故にあったら、とか、病気になったら、犯罪にあったら、とか
大学卒業まで経済面は大丈夫か、留学費用や塾の費用は賄えるか、とか
そういう不安が波のように襲ってくる。
子どもはかわいい。かわいいけど、たまに自己犠牲や理不尽なこと、不安なことが多すぎてしんどい。
子育てを辛いと思う自分は、母親失格じゃないかといつも頭のどこかで思っている。みんな普通にやっていることなのに、自分にはできない。自分には我慢できない。
子供に手をあげたことはないし、感情的に怒らないよう、何かあったときはきちんと叱るように心がけている。育児本や発達心理学の本も読んで勉強している。
それでも、遊んだおもちゃを片付けない、夜ご飯を食べない、お風呂に入らない、朝起きない、いつまでも泣き喚く、そういう、子どもが自分の言うことをきかないとき、思わずを手をあげたくなる。子どもは自分とは別の人間で、自分の思い通りになるはずがない、ということは百も承知なのだけど、それでもしてはいけないこと、しなくてはいけないことは、何度も何度も伝えているのだから少しはわかってほしい。必死で我慢している。虐待は絶対だめだってわかっているけど、いつも隣り合わせな気がする。
ネットで、「そもそも子どもが泣くのは悪いことではない」という言葉を見たけど、やっぱり泣き声というのは聞いていてとても不快だ。泣いている本人だって、嫌な気持ちがあって泣いているんだから、早くその気持ちを取り除いてあげたいというのはいつも思う。
たまに怒るが、基本は褒めるように心がけている。もともとのんびりした性格で、子どもが生まれる前は声を荒げて怒る、なんてことしたことなかった。なるべく、小さなことは気にしないようにしている。いつだって子どもの幸せを願っている。毎日かわいいね、大好きだよって寝る前に伝えるようにしている。だから私はいないほうがいいんじゃないかと思う。
ママ友もいない。保育園のママたちと全くうまくしゃべることができない。保育園の送迎の時だったり、公園で子どもたちが遊んでいる間だったり、軽く言葉を交わしているママ達を見て憧れる。
自分は母親に向いていないと思う。たまにうまくいかなくて泣いていたり落ち込んでいたりすると、夫に、みんな普通にやっているんだから、と言われる。そういう時、あ、じゃあ私は向いていないからリタイアしようかな、という気持ちがよぎる。私の両親も夫の両親も健在で、関係は良好で、家も近くていつでも頼ることができる。それでもやっぱり苦しい。誰にも頼れない状況で子育てしている人もいるのに、こんなにサポートしてくれる人がいる環境で躓いている自分はなんてダメなんだろう。
自分はこの子の母親じゃないほうがいい、いなくなっちゃったほうがいい、そう思う。自分はこの子の人生に悪影響を与える存在になりそうだから、早いうちにいなくなろうと思う。
子どもが死へのストッパーになるのでない。死んだほうが子どものためなのだ。
夫はしっかりしているから、親や義両親と協力して夫が育てたほうがいいと思う。夫はかなり子育てをしているほうだとは思うけど、趣味や友人づきあいで土日、平日の夜いないことも多く 、やっぱり育児は母親がメインでするもの、という考えが根付いていて、言葉の端々にその考えが窺える。
私がいなくなることで、メインで子育てをする苦しさを夫にわかってほしい、という気持ちも少しある。夫には感謝しているし、嫌いではない。実は夫に復讐したい気持ちもほんの少しあるのも本当だ。
結局自分は不安や嫌なことから逃れたいだけの自分勝手な人間なんだと思う。こんな勝手な人間、やっぱり母親じゃないほうがいい。
それでも、私がこの状況からひとり逃げて、子どもに「お母さんがいない」と言わせること、それで寂しい思いを押し付けてしまうことがどんなに酷か、ということは容易に想像できるので、なんとか踏ん張っている。でもそれにいつまで耐えられるのかはわからない。
実家では箸置きというものを使う習慣がなかった。確か4,5歳くらいの時だったと思うのだけれども、夕食の時間に箸の置き場所に困った自分は、茶碗に盛られたご飯に箸を突き立てた。ごはんの粘性は相当なもので箸はぴたりと静止してくれた。これならテーブルを汚すこともない、何て自分は冴えているんだと当時思ってたかは記憶にないが、それを見た母親は「箸を刺したご飯は死者への食事という意味を持つのでやめるべきだ」と言って俺のことを注意した。その言葉に強い反感を抱いて、「母さんは死者が食事をすると信じているのか」「死者への食事という意味を持つからといって、自分がそれをやめなければいけない理由はあるのか」といったような反論、というか質問を投げかけたように記憶している。それに対しての母の回答は「私は信じていないが信じている人はたくさんいる。そういった人が見ると不快になる」「宗教的な意図に関係なくとも、単純にみっともない」といった内容だった。幼少期の自分は親にとても従順であったため、釈然としないながらも引き下がった。
年を重ねるにつれて「宗教的な儀礼を除いて箸をご飯に突き立てるべきでない」という規範は自分自身にも深く根付いていった。思春期に差し掛かかるころには「日常の中でご飯に箸が突き立てられている光景」を見て直感的に不快感を抱く程度には。
さらに長じて倫理とか規範とかに興味を抱き始めてから、幼少期のこの出来事に対して強い反発を覚えた。幼少期の自分に対して母親が示したルールは、要するに以下2つのような意味合いとなると考える。
「私は信じていないが信じている人はたくさんいる。そういった人が見ると不快になる」より
①自分が尊重していなくとも、他社が尊重している信仰や規範(平時にご飯に箸を突き立てるべきでない)は、自分の便益(机を汚さない)を害しても配慮すべきである
「宗教的な意図に関係なくとも、単純にみっともない」→箸を突き立てられたご飯に対して「みっともない」と感じるのは明らかに生得的ではないと考える。実際のところ後天的に植え付けられた規範からの逸脱に対して不快になっていると考えると、
②すでに共有されている規範・マナーから逸脱すると人は不快に思うため、規範・マナーから逸脱すべきでない
ちょっと露悪的に書きすぎたきらいはあるけれど、この2つのルールって本当に正しいか。
①「自分が尊重していなくとも、他社が尊重している信仰や規範は、自分の便益を害しても配慮すべきである」について
当たり前であるが、個々人によって尊重している信仰や規範は違う。ただ、共通してる部分もかなり多く、例えば現代日本人の多くは自由や平等だったり人権思想に基づく価値観(以下、世俗倫理と表記)について、強く尊重すべきものであると考えている。信仰していると言い換えてもよい。一方で特定宗教の人格神みたいなものは信じていないし、その教義の基づく規範(以下、宗教倫理と表記)に価値を見出さない。見出さないは言い過ぎにしても、少なくとも自由や平等などの世俗倫理がより優越すると考えている。自分は平均よりかなりラディカルだと思うけれど、同様に世俗倫理を支持し、宗教倫理より優越すると考える立場にある。
具体的な例を考えてみる。例えば原理主義的なキリスト教徒が聖書を引用して「同性愛者は倫理的に悪であるため社会から排除すべきである」と主張しても自分はそれを尊重しないしその思想に基づく実力行使を許容しない。なぜなら「同性愛者は倫理的に悪であるとする聖書の記載」に自分は価値を見出さない。「原理主義的なキリスト教徒が同性愛に対して抱く不快感情」については価値を見出すが、「同性愛者の幸福追求権や自由権」がそれに優越すると考える。なぜなら自分は世俗道徳を尊重し支持しているからである。宗教倫理と世俗倫理が背反するときには世俗倫理が優越されるべきで、それは世論だったり、それに実行力を与える法律や暴力装置によって施行されるべきと考える。これは宗教倫理の優越を主張することを制限すべきでないという意味ではない。あくまで思想・信条の自由は最大限尊重されるべきであり、言論によるパワーゲームは続けられるべきだと考える。
ここまでの整理については大多数の人に同意してもらえると思う。「宗教規範」と「世俗規範」が対立して共存できない問題については、他社の尊重する「宗教規範」を踏みにじってでも自分が尊重する「世俗規範」の基づいて社会が運営されるべきと考える。どれだけ他者の価値観を尊重するとは言っても、共存できないものはある。そうなったら、その社会で尊重される規範は身も蓋もないパワーゲーム(必ずしも直接的な暴力ではない)で決定されるしかない。これについてはISISの騒ぎで個人的に痛感したのだけれど、実際問題として世俗倫理に反する宗教倫理を現代で志向しようとすると暴力に頼るほかないし、それに対するカウンターだって経済的・暴力的なパワーゲームで押しつぶすしかない。人権思想よりコーランの字義通りの解釈を尊重している相手に「お前は人権思想に反している!」と言っても対立者に対してはまるで効力がない。
さて、話を戻してこの理屈が「ご飯に箸を突き立てること」にどのように適用されるかを考える。ここで対立するのは「ご飯に箸を突きたてることで便益を得る」自分の自由権・幸福追求権と、「ご飯に箸を突き立てるべきでない」という宗教倫理である。これは共存し得ないので、世俗倫理を尊重する立場からすると「ご飯に箸を突きたてることで便益を得る」ことが優越すべきであると考える。不快になる人間に配慮して箸をご飯に突き立てないことは賞賛すべきかもしれないが、配慮をしないことについて非難されるいわれはないと考える。私はシャルリーを引き合いに出してもいいけれど、他者の規範の尊重は、私の尊重する規範を害さない範囲でないともちろん認められない。人権思想や表現の自由は自分にとって宗教倫理より優越する。宗教倫理を害す表現に対しての批判、「ムハンマドの顔を書くべきでないし、揶揄すべきでない」という主張は許容できても、ムハンマドの顔を書き揶揄することは制限すべきでないし、それに対する実力行使は許容できない。なぜなら自分は「ムハンマドの表象を書くべきでない」という宗教倫理より表現の自由という世俗倫理をより尊重する立場にあるからである。
まあ、そもそもこの「ご飯に箸を突き立てる」ことに対して特別な意味合いを見出してる教義って明確にはないみたいで、「仏教・神道の教えっぽいとみんなが認知してる慣習」以上のものでは無いっぽいので、宗教倫理とするよりも単純なマナーの問題と考えたほうが筋は良いと思ってます。ということで次の話につながります。
②「すでに共有されている規範・マナーから逸脱すると人は不快に思うため、既存の規範・マナーから逸脱すべきでない」について
これを言い換えると
・上記より、マナーを破る行為は人を不快にするため好ましくない
いやー完璧な3段論法が完成してしまった。ただよく考えると「マナーはそれがマナーであるから守るべきである」と言っているのと何ら変わりない発言である。そしてこの「マナーはそれがマナーであるから守るべきである」という考えについて自分はそれはそれはもう憎悪を抱いている。
まず、ここでいう「マナー」という言葉について自分は「緩い規範」くらいに定義している。例えば「人を殺すべきでない」みたいな基本的に絶対に逸脱すべきでないし、逸脱したら重大なペナルティと非難が避けられない「重い規範」とは対照的に、「逸脱するのはなるべくやめたほうが良い」くらいの「緩い規範」=マナーということで話を進める。
何かのマナーに価値があるとすると、そのマナーを守ることによってメリットがある場合であると考える。なぜならマナーとは往々にして「○○をすべきである」「○○をすべきでない」とい行動の強制を伴う規範であり、選択肢を狭めるものであるからである。基本的に選択肢は多いほうがいいと自分は考える。
さて、例えば「電車の乗り降りは降りる人を優先すべき」というマナー。このマナーが広く共有されていることにより、電車の乗り降りをスムーズに行うできる。確かにこのマナーを守ることによってメリットが存在するため、「電車の乗り降りは降りる人を優先すべき」というマナーには存在価値があるだろう。
ひるがえって「ご飯に箸を突き立ててはいけない」というマナーに価値があるだろうか。真っ先に思いつくのが「ご飯に箸を突き立てている光景を見ることによる不快感」を回避できるというメリットだ。たださらに思考をすすめてなぜ不快に思うのか?を考えると「ご飯に箸を突き立てるのがマナー違反であるから」に行きつくだろう。「ご飯に箸を突き立てること」に対して特別な意味を見出しているのは日本だけのようだし、ご飯に箸を突き刺して悦に浸っていた幼少期の自分を例にとってみても、この不快感は生得的なものとは思えない。(このあたり、まじめな研究があったらめちゃくちゃ見てみたいので情報大募集です)多くの人は後天的に「ご飯に箸を突き立てることはマナー違反である」と学習し、そのマナーが逸脱されたことに不快感を抱いていると考えられる。つまり、「ご飯に箸を突き立ててはいけない」からこそそれに不快感を抱く人がいるのであり、そもそもこんなマナーが存在しなければ多くの人は箸にご飯を突き立てられている光景をみてもおそらく何とも思わない。
マナーが増えるということはもちろんマナー違反が増えるということでもある。つまり、マナーが増えるとマナー違反による不快を感じる機会が増えるとも言える。これは本当に声を大にして言いたいことで、「それがマナーであるから」以外に守る意味のないマナーは不快を感じる機会を増やしているだけである。不快を感じる機会は減らしたほうがもちろん良いので、メリットのないマナーなんて無いほうがいい。ご飯に箸を突き立てて机を汚さないメリットを自由に享受できる社会のほうが絶対にいい。自分がマナー業界を蛇蝎のごとく嫌っているのはこの辺が理由で、メリットのないマナーを創作して稼いでるあいつらマジで不幸の商人だよ・・・・・と思っている。
と、ここまで書いたけれども、実際のところ「それがマナーであるから」以外に守る意味のないマナーにもメリットはある。マナーに合理的な意味があろうがなかろうが、「その場において支配的な規範=マナーに従順でない」人間、長いものに巻かれない・巻かれることのできない人間を排除する上では非常に有効に機能する。良く言えば自立した人間であり、悪く言えば協調性のない人間だ。こういう用途で使うならむしろ合理的なメリットなんて存在しないマナーの方が有用かもしれない。とはいえ、自分の信仰としてこういった排除のロジックは気に食わないのでやっぱり「それがマナーであるから」以外に守る意味のないマナーなんて無いほうが良いと思う。マナー業界はいち早く滅びてほしい。
ここまで読んでくれた方なら、我々はご飯に箸を突き立てるべきであると十分に理解していただけたと思う。実際問題として「平時にご飯に箸を立ててはいけない」というマナーは多くの日本人に強烈に内面化されており、箸が突き刺されたご飯を見ると理屈に関わらず一定の不快感を生じてしまう。これは自分だってそうである。ご飯に箸を突き立てる人は、間違いなく突き立てなかった時より嫌われる。それでも、嫌われるから、すでに定着してるからなんて理由で有害なマナーを継承していいのか。それがなんであり、どのような影響を与えるかについて何の疑問も抱かず、ただ「私はマナーを守っているから道徳的である」と悦に浸っているだけでよいのか。それは将来の不幸を増やしているだけじゃないか、そんなものに迎合していいのか。他人に自我を預けていいのか、自分を誇れるのか。
「ご飯に箸を突き立てるなんてマナー違反だ」という前に少し考えてほしい。なぜ?と聞かれたときに十分な説明ができるだろうか。誇りをもった説明ができるだろうか。実際、子供にそれを言わないのは難しいだろう。ご飯に箸を突き立てる子供は間違いなく悪意にさらされるし、それをはねのけろというのはあまりにも酷だ。でも、それがただの処世術だと伝えることはできるはずだ。幼児には無理でも、中学生、高校生ともなればこの理屈は理解できる人が多いはずだ。せめて、突き立てられたご飯を許容することはできるはずだ。社会は時に非合理で残酷になるが、あなた自身までそうなる必要はない。非道を止められなくとも、一緒になって非道をやる理由はないはずだ。ベストを選択できないことはベターを選択しない理由にはならないはずだ。
将来のことを考えてほしい。より良い世界のことを考えてほしい。私たちはご飯に刺さった箸を見たら不快になる。箸置きがなければ直接箸を置くしかないし、机の上はご飯粒でぐちゃぐちゃだ。まかり間違ってもご飯に箸を突き刺さないように気を付ける食卓はピリピリして緊張感に溢れている。それでも私たちがここで勇気を出してご飯に箸を突き立てれば、他人から嫌われることを厭わず「そんなマナーは無いほうが良い」と言い続ければ、そんな人が増えていけば、次の世代ではどうだろうか。「ご飯に箸を突き立てるべきでない」なんてマナーの存在を知らない世代の食卓はどんな光景だろうか。
彼ら、彼女らは箸置きがなければご飯に箸を突き立てることができる。箸置きが無くったって机は清潔に保たれるし、それを見て不快に思う人なんかいない。ご飯に箸が突き刺さっていたからそれが何だというのだ?机にへばりついた米粒なんて誰だって片付けたくはないではないか。ご飯に箸が突き立つ、そんな清潔でリラックスした食卓は朗らかな幸福に包まれている。それはささやかながら、今よりももっと良い世界であるはずだ。
これからの世界がそんな素晴らしいものであってほしいなら、これからの世界をより良いものにするため、私たちはご飯に箸を突き立てなければならない。
私:都内の外資系に勤務。トータルの年収は800万円ぐらい。貯金は数百万円程度。
妻:今年の4月まで派遣社員。年収300万円いかないぐらい。4月から鬱病が発症して休職、6月には退職して治療に専念中。
今の妻とは去年春から付き合い始めて、去年秋に同棲開始、今年夏に結婚した。
今年の4月から妻が鬱病になり、とりあえず休息してもらわないとダメだなと思った。
なので、仕事も家事もしなくていい、とりあえず休んでほしい、やりたいことだけをやってほしい、お金がかかるものなら、私に言ってくれれば払うと伝えた。
最初の方は、「せめて家事をしないと申し訳ない」とか言って色々やってくれてたんだけど、実際は相当負担だったらしく「やっぱりやりたくない」と言われ、「やっぱそうだよね」と受け入れてそれ以降は私が家事をやってた。
妻はほとんど貯金がなく、傷病手当だけが唯一の収入源だった。(毎月申請しなきゃいけないけど、手続きが面倒で2ヶ月ぐらい申請してなかったぽいけど)
生活費は全額私が支払い、それとは別に毎月5万円は妻に渡してた。(生活用品の購入分も含む)
こんな感じで、できるだけ妻に負担をかけないよう私なりにサポートしてたつもりではあったんだけど、妻からしたらサポートどころか、逆に精神的に追い詰められてる気分になってたらしい。
私は共感能力が低く、相手がなにを考えてるのか察することができない。だから、相手に質問して考えを探っていこうとするんだけど、それが相当キツかったらしい。「なんでそう感じるのか」「なんでそう考えたのか」って私が質問しまくるので、妻自身が言いたいことが言えないと。質問するのはいいことだという考えが根付いてたから、妻のその意見にハッとさせられた。以降は気をつけるようにしてるけどなかなか改善できない。というか、質問すること以外で相手を知る術を持ってない。
あと、妻にかなり甘えてしまっていた。すぐ不機嫌になって態度に出したり、ちょっと何か言われたらすぐ家を出ていこうとしたりした。
3回ぐらい、壁にモノを投げるという行為もしてしまった。そういうことをするたびに妻はしっかり話し合って、解決しようとしてくれた。その妻の優しさに甘えきってしまってた。まるで小さな子供が母親に甘えるみたいに。
恐らくアダルトチルドレンの傾向があるから、そこは今カウンセリングとコーチングで改善しようとしてる。少なくともモノを投げる行為は金輪際しないと誓ったし、抑えられてる。けど、その事実が妻の心に深い傷を残してしまった。
あと、日中の過ごし方もまずかった。私は今年2月から在宅勤務になったんだけど、私がオンラインミーティングしてるときに気を遣わなきゃいけないのが苦痛だったぽい。結構高性能なノイズキャンセリングイヤホン買って渡したんだけど「なんで私が我慢しなきゃいけないんだ」って言われて拒否された。1LDKで2部屋しかないから、妻が寝てる時はリビングで、妻が起きてきたら寝室で仕事するようにしてみてもやっぱり話し声が聞こえるのがキツいと言われた。結局、私が個室のネットカフェに出向くようになった。
妻はHSP体質らしく、五感がかなり繊細らしい。それと鬱が相まって、私の言動が相当キツいと感じていたらしい。
あと、鬱病になってしばらくしてから、妻はスピリチュアルな方面にハマっていってた。自分には大天使がついてるとか、今この部屋に白天狗がいるとか、言うようになってた。スピリチュアル系の動画を見せられ、動画で言ってる内容を理解できたかどうかよく問い詰められた。
妻は、そういう世界の素晴らしさを私に理解してほしかったみたいだけど、私は大天使も白天狗も見えないから理解しきれなかった。
こんな感じで、妻からは、私の言動によってどれだけ辛い思いをしているのかを都度言われ、それに対して何とか解決しようと試みてはいたんだけど、なかなか改善できてなかった。
そして、9月のある日、遂に、もう離婚したいと切り出された。とっくの昔に限界を迎えてるし、私があまりに幼稚すぎて、結婚相手として見られないと。そもそもそんなに好きじゃなかったけど付き合ってと言われたから付き合ったとか、自分よりも家事のレベルが上の人じゃないと嫌だと思ってたとか、いろいろ前提を覆されることを言われてもの凄いショックを受けた。
ひどく動揺してしまい、1分でも早く家から出たいと思って、その場ですぐ14日分のホテルを予約し、荷物をまとめて今度は本当に家を出てしまった。
家を出ている間の生活費として、結構まとまったお金を妻の口座に振り込んだ。
スキンケア用品、服、スピリチュアルグッズ、健康グッズを買いあさり、出会い系で男を漁ったり、ホストにも何回か通ったらしい。占いにも行きまくってた。
SNSの投稿や妻からの報告で散財状況を知ってかなり心配になったけど、それでストレスが発散できてるならいいかなぐらいに思ってた。
私がホテルから帰ってきて、改めて話し合ってもやっぱり離婚したいという意志は変わっていないと言われた。私も諦めて離婚届にサインした。
妻から、現在は支払い能力がないから、当面の生活費としてまとまったお金が欲しいと言われ、まあ渡してもいいかなと思ってた。
ただ、離婚が決まって、それぞれが別々に生きていくとなった後も妻の散財はひどくなる一方だった。鬱病になる前からそれほど収入の多くなかった妻が、鬱病が回復して再就職したとしても収入が激増するとは考えられない。完全に私からの援助を前提にしたお金の使い方をしていた。
と、ここまで書いてきた話を、信頼できる友達に打ち明けたところ、「普通に、もっと怒っていいだろ?」と言われた。私の自罰意識が強すぎて、すべての責任が自分にあるから、何をされてもしょうがないと思ってる節がある。もちろんモノを投げるなどの幼稚な行為は良くないから改善していくべきだと思うけど、だからと言って全面的に自分だけか悪いと感じる必要はないんじゃないかと。コーチングの先生からも同じようなことを言われた。
そこで、あれ、もしかして私だけが悪いわけではないのか…?と気づき始めた。
鬱病患者への接し方は誰にとっても難しいものだから気に病む必要はない。生活費をすべて負担し、働きながら家事も引き受けてる時点でかなり頑張っている。そこから更に離婚後の生活費まで払う必要ないのでは?とアドバイスされ、確かにそこまでやる義務はないなと感じてきた。
むしろ、妻の言動の方がアダルトチルドレンぽい、妻があまりにも求めすぎなのではないかとも言われた。妻からはずっと、私が幼稚で人間性に問題があると言われ続けてきたけど、実は妻も大して差はなかったのかもしれない。
そうやって友達に話を聞いてもらって、離婚後の生活費はやっぱり払わなくていいかもしれないと考えが切り替わってきたその日の夜。妻はどこかに出かけていたんだけど、深夜にいきなり「今ホストにいる。今すぐ飲み代として10万円振り込んでほしい」と電話してきた。
少しも悪びれることなくそんなことを言ってきて、怒りで頭がどうにかなりそうだった。
とりあえず10万円振り込んで、今後一切お金は渡さないと伝えた。
すると妻は裁判起こして慰謝料請求すると言い出した。もう裁判でも何でもしてくれって感じ。
この1ヶ月ぐらいで別人のように豹変してしまった妻に対して、もう未練も何もない。必要以上に自分を責めず、今回得られた教訓を活かして生きていこうと思う。
私:都内の外資系に勤務。トータルの年収は800万円ぐらい。貯金は数百万円程度。
夫:今年の4月まで派遣社員。年収300万円いかないぐらい。4月から鬱病が発症して休職、6月には退職して治療に専念中。
今の夫とは去年春から付き合い始めて、去年秋に同棲開始、今年夏に結婚した。
今年の4月から夫が鬱病になり、とりあえず休息してもらわないとダメだなと思った。
なので、仕事も家事もしなくていい、とりあえず休んでほしい、やりたいことだけをやってほしい、お金がかかるものなら、私に言ってくれれば払うと伝えた。
最初の方は、「せめて家事をしないと申し訳ない」とか言って色々やってくれてたんだけど、実際は相当負担だったらしく「やっぱりやりたくない」と言われ、「やっぱそうだよね」と受け入れてそれ以降は私が家事をやってた。
夫はほとんど貯金がなく、傷病手当だけが唯一の収入源だった。(毎月申請しなきゃいけないけど、手続きが面倒で2ヶ月ぐらい申請してなかったぽいけど)
生活費は全額私が支払い、それとは別に毎月5万円は夫に渡してた。(生活用品の購入分も含む)
こんな感じで、できるだけ夫に負担をかけないよう私なりにサポートしてたつもりではあったんだけど、夫からしたらサポートどころか、逆に精神的に追い詰められてる気分になってたらしい。
私は共感能力が低く、相手がなにを考えてるのか察することができない。だから、相手に質問して考えを探っていこうとするんだけど、それが相当キツかったらしい。「なんでそう感じるのか」「なんでそう考えたのか」って私が質問しまくるから、夫自身が言いたいことが言えないと。質問するのはいいことだという考えが根付いてたから、夫のその意見にハッとさせられた。以降は気をつけるようにしてるけどなかなか改善できない。というか、質問すること以外で相手を知る術を持ってない。
あと、夫にかなり甘えてしまっていた。すぐ不機嫌になって態度に出したり、ちょっと何か言われたらすぐ家を出ていこうとしたりした。
3回ぐらい、壁にモノを投げるという行為もしてしまった。そういうことをするたびに夫はしっかり話し合って、解決しようとしてくれた。その夫の優しさに甘えきってしまってた。まるで小さな子供が母親に甘えるみたいに。
恐らくアダルトチルドレンの傾向があるから、そこは今カウンセリングとコーチングで改善しようとしてる。少なくともモノを投げる行為は金輪際しないと誓ったし、抑えられてる。けど、その事実が夫の心に深い傷を残してしまった。
あと、日中の過ごし方もまずかった。私は今年2月から在宅勤務になったんだけど、私がオンラインミーティングしてるときに気を遣わなきゃいけないのが苦痛だったぽい。結構高性能なノイズキャンセリングイヤホン買って渡したんだけど「なんで俺が我慢しなきゃいけないんだ」って言われて拒否された。1LDKで2部屋しかないから、夫が寝てる時はリビングで、夫が起きてきたら寝室で仕事するようにしてみてもやっぱり話し声が聞こえるのがキツいと言われた。結局、私が個室のネットカフェに出向くようになった。
夫はHSP体質らしく、五感がかなり繊細らしい。それと鬱が相まって、私の言動が相当キツいと感じていたらしい。
あと、鬱病になってしばらくしてから、夫はスピリチュアルな方面にハマっていってた。自分には大天使がついてるとか、今この部屋に白天狗がいるとか、言うようになってた。スピリチュアル系の動画を見せられ、動画で言ってる内容を理解できたかどうかよく問い詰められた。
夫は、そういう世界の素晴らしさを私に理解してほしかったみたいだけど、私は大天使も白天狗も見えないから理解しきれなかった。
こんな感じで、夫からは、私の言動によってどれだけ辛い思いをしているのかを都度言われ、それに対して何とか解決しようと試みてはいたんだけど、なかなか改善できてなかった。
そして、9月のある日、遂に、もう離婚したいと切り出された。とっくの昔に限界を迎えてるし、私があまりに幼稚すぎて、結婚相手として見られないと。そもそもそんなに好きじゃなかったけど付き合ってと言われたから付き合ったとか、自分よりも家事のレベルが上の人じゃないと嫌だと思ってたとか、いろいろ前提を覆されることを言われてもの凄いショックを受けた。
ひどく動揺してしまい、1分でも早く家から出たいと思って、その場ですぐ14日分のホテルを予約し、荷物をまとめて今度は本当に家を出てしまった。
家を出ている間の生活費として、結構まとまったお金を夫の口座に振り込んだ。
スキンケア用品、服、スピリチュアルグッズ、健康グッズを買いあさり、風俗やメンズエステにも何回か通ったらしい。占いにも行きまくってた。
SNSの投稿や夫からの報告で散財状況を知ってかなり心配になったけど、それでストレスが発散できてるならいいかなぐらいに思ってた。
私がホテルから帰ってきて、改めて話し合ってもやっぱり離婚したいという意志は変わっていないと言われた。私も諦めて離婚届にサインした。
夫から、現在は支払い能力がないから、当面の生活費としてまとまったお金が欲しいと言われ、まあ渡してもいいかなと思ってた。
ただ、離婚が決まって、それぞれが別々に生きていくとなった後も夫の散財はひどくなる一方だった。鬱病になる前からそれほど収入の多くなかった夫が、鬱病が回復して再就職したとしても収入が激増するとは考えられない。完全に私からの援助を前提にしたお金の使い方をしていた。
と、ここまで書いてきた話を、信頼できる友達に打ち明けたところ、「普通に、もっと怒ってよくない?」と言われた。私の自罰意識が強すぎて、すべての責任が自分にあるから、何をされてもしょうがないと思ってる節がある。もちろんモノを投げるなどの幼稚な行為は良くないから改善していくべきだと思うけど、だからと言って全面的に自分だけか悪いと感じる必要はないんじゃないかと。コーチングの先生からも同じようなことを言われた。
そこで、あれ、もしかして私だけが悪いわけではないのか…?と気づき始めた。
鬱病患者への接し方は誰にとっても難しいものだから気に病む必要はない。生活費をすべて負担し、働きながら家事も引き受けてる時点でかなり頑張っている。そこから更に離婚後の生活費まで払う必要ないのでは?とアドバイスされ、確かにそこまでやる義務はないなと感じてきた。
むしろ、夫の言動の方がアダルトチルドレンぽい、夫があまりにも求めすぎなのではないかとも言われた。夫からはずっと、私が幼稚で人間性に問題があると言われ続けてきたけど、実は夫も大して差はなかったのかもしれない。
そうやって友達に話を聞いてもらって、離婚後の生活費はやっぱり払わなくていいかもしれないと考えが切り替わってきたその日の夜。夫はどこかに出かけていたんだけど、深夜にいきなり「今お店にいる。今すぐ飲み代として10万円振り込んでほしい」と電話してきた。
少しも悪びれることなくそんなことを言ってきて、怒りで頭がどうにかなりそうだった。
とりあえず10万円振り込んで、今後一切お金は渡さないと伝えた。
すると夫は裁判起こして慰謝料請求すると言い出した。もう裁判でも何でもしてくれって感じ。
この1ヶ月ぐらいで別人のように豹変してしまった夫に対して、もう未練も何もない。必要以上に自分を責めず、今回得られた教訓を活かして生きていこうと思う。
それは今思えば、望まぬ妊娠や暴力に晒されんことを祈り、娘を想っての言葉だったのだろうが、いかんせん言葉が足らなさ過ぎる。
モーセの十戒の内容だけを伝えても、伝えられた相手がモーセがどんな人物か、聖書がどんな内容か、ましてや聖書の存在理由などを理解してくれるわけねーだろうが!という感想しかない。
なので、隠れてエロ本を読むエロガキのような感じで夢小説を読み耽っていた。
多分内容は理解していなかったけど「悪いことしてる」感がたまんなかった。
子どもなのでバレて怒られていたが、その場ではションボリして、隙を見てまた読む。また怒られる。
私は「R-18」と書かれていると「まだ18才じゃないからダメだ」と激裏ページに行かないような、正真正銘のエロガキだった。
親とかいう(兄と違い私は父親が違う説があるので、望んでかどうかは微妙だが)望んで子種をばら撒き、私を腹からひり出したという実績を持っているだけの他人の言葉を信頼して拠り所にするのは間違いだったなと、今になって思う。
父親は気分が向いたら暴力振るうわ怒鳴るわ嫌味言うわ、かと思えば私の尻を触るし、親戚もそんな感じだし、兄は胸が大きくなってくると揉んできたし、使用済みナプキン漁るし勃起したちんこ見せてくるし家事してる私にちんこ押しつけてくるし。
母親は祖母と組み、やれ話す言葉がいやらしいだの、着ている服が派手だの、下着の色までチェックされ、時には罵詈雑言を浴びせてくるし。
最悪アベンジャーズか?
「汚いわね、売春婦が着るような色の下着なんて着て」「お前の胸が大きいのはお前がいやらしいからだ」「お前の初潮が早かったのはお前がいやらしいからだ」
他にも色々あるけど、どれも自分の土壌を作れていないし知識も頭に入れてない子どもには、よーく刺さる言葉だった。
他にも近所のクソガキにレイプ未遂され、電車に乗れば痴漢され、小さい頃には誘拐未遂と属性てんこ盛りである。
こんなに意味ありげに羅列しといて何だけど、そんな感じだったからか、ぶっちゃけた所わかんないけど「私は恋愛をすべきではない」という気持ちが強く根付いた。
灰色のパーカーを着て、毛玉がついたバッツバツのレギンスを履く。
靴はかかと踏みまくったスニーカー。
たるみきった体にはいつからか脂肪がつき、鶏むね肉の擬人化になっていた。
それから家に引きこもり、オタクになり、サンホラを聴き、アリプロを聴き、謎にワンピースをディスり(今は大好き)、孤独にもだんだんと慣れ、「私はずっとこのまま親のスネをかじり、恋愛とかできずに生涯を終えるのだろう」と薄らビジョンを描いていた。
とかなんとかしてたら、高校あがってすぐお母さんが死んだ。
持病だった。
良くも悪くも人生の転機だった。
お母さんっ子のティーンエイジャーが早々に母親の死が受け入れられるはずもなく、Twitterでは荒れまくった。怒り狂い、なんにでもキレてツイートする日々が続いた。
こんな事になるのなら母親ともっと一緒にいればよかった。いっぱいお話すればよかった。いっぱいおいしいご飯を食べさせてあげればよかった。
鶏むね肉の擬人化は、自分を責める想いを、誰かを責める形で穴埋めしようとしたのだ。別にそれで自分はすっきり納得しないことを分かった上で。
「多分このままじゃダメなんだけど、時間が解決してくれたらいいな〜」
とか言って、夢小説を読んだ気がする。
内容はよくわからなかった。
彼氏ができたのだ。
私は超舞い上がった。ツイート頻度は減った。
でも今よりイキりまくった。
性器を押し付けられたり、とにかく性的なことを強要されないことが幸せすぎて「生きてていいのかな?」と疑問さえ抱いた時もあった。
これまでも何度か喧嘩もして、「どうしよう」と慌てた。
そんな幸せの解像度が上がる中、pixivで夢小説を読み直してみると、解像度が上がりに上がった。
ぎゃあ!!!!!これが恋か!!!!!!!人を愛する想いか!!!!!!!!
私はただ、愛して欲しかっただけなんだ…ってお母さん死んでから気づいたよ。隣にはもう彼氏しかいないよ。
そんなある日に「そういえば彼氏の言うこと、全部夢小説で聞いたな????????」という考えに行きつき、電流が走ったような気持ちを味わった。
「君の髪、綺麗なんだから手入れしなきゃだよ」
「この料理おいしいよ」
「お前は華奢で小さいな」
「可愛いね」
「その服、似合ってるよ」
「大好きだよ」
「愛してる」
一例でこんな感じである。
ヤバいな!!!!!!!!全部魔法のiらんどで!!!!HPフォレストで!!!!pixivで見たことあっぞ!!!!!!
それを彼氏に初めて共有しようとした時、「…そうだね、俺もリボーンで、ちょっとね」と少し切なそうに笑っていた。
お前もかよ。
浴室干し用の除湿機を切り忘れたせいで室内はひどい暑さだった。昨朝干したバスタオルは水分という水分が奪われて干物のようだった。そんな浴室の天井に黒くて小さいそいつはいた。
私は虫が苦手だ、掴むことはできない。ホウキではたいて自分の頭上に落ちてきたらこのサイズでも少し怖い。シャワーで流してしまう手もあるがこんな手合いのためにせっかく乾いたこの部屋を濡らすのも馬鹿らしい。
後で殺そう
ベッドに腰掛けた私の顔の高さに張り付いていたので確実に目が(これが目なのか定かではないけれど)合った。
小さな前足をこしこしとこすり合わせ安っぽい賃貸のビニールクロスに張り付いていた。
こんな至近距離でクモを見たことはない、不思議と恐怖はなかった。
それどころか私のことを恐れる様子もなくマイペースに身繕いをするちいさなそいつを不覚にも可愛いと感じた。
ここ最近、何もする気が起きない。
仕事にはなんとか通っているがこの土日は家に引きこもっている、やれGOTOだと言われても外に出る気が起こらない。食欲もない、眠りも浅い、というか人と関わりたくない。つまり病んでいた。
引っ張られまいと気をつけてはいたのだけれど最近立て続いた悲しいニュースにかなりダメージを受けている。
私の母は自死だった、精神が不安定な彼女に長年振り回されたので亡くなったと聞いた時は正直安堵した。
それから最後まで身勝手なあの人に腹が立った、そして不器用な彼女なりに自分を愛してくれていたことに感謝した。
それでもまだ彼女に対する複雑な想いは拭えないけれど、私はついに誰にも縛られず自由に生きられるのだと思った。
それも長くは続かなかった。
この時勢、短期間で様々なことが起こりすぎて『何でどうして』を明確には語れないのだけど、とりあえず何もする気が起こらない。
ただ部屋でぼんやりとする時間が増えている、意味もなく涙が出る。ここ数週間それが顕著になってきた。ネットで調べてみると先ほどの状態を含め鬱のはじまりはこんな感じらしい
『だろうな』と思った。
理由は後述するがこの状況から抜け出したいという危機感はなかった。
私はずっと容姿にコンプレックスがあった、実際何度か顔にメスを入れた。
仕事をしつつ、自責癖のある母に悟られないようにやったので劇的な変化は望めなかったがそれでも元の顔に比べれば多少はマシになった。
身なりにも気を配った、歩き方ひとつも美しくあろうとした、親に教わらなかった最低限のマナーは本で学んだ。生まれ持った容姿をそんなことで補正しようとあがいた、所詮全て付け焼き刃だったが奇跡的に分不相応の異性と知り合えた時期もあった。
(母には捨てられるに決まっていると酷く嘆かれた、実際長くは続かなかった、それ以来彼氏はいない)
とにかく今の自分の生き辛さのすべての原因は自分が馬鹿で醜いからで、配られたカードを最大限生かし切ることの出来ない己のせいだと自分を責めた。
一番にはなれなくても”普通”になりさえすればきっと人並み程度の幸せが手にできると盲信していた。
みんながうらやむような華やかで素晴らしい人生を送って欲しかった。そんなものはエゴだと分かっているけど。
あんなに美しい人たちが、私にとって雲の上の美しい人たちが、多くの人に愛されるあの人たちが、母と同じような死に方をする、信じたくなかった。
母の遺品を整理した時、古いアルバムを見つけた。若いころの彼女は客観的に見てもとても美人で可愛らしかった。
精神を病んでしまった晩年はそれはそれは酷い顔だったと記憶しているけれど、写真に写る彼女はキラキラ輝いていた。
学生時代は多くの異性に言い寄られたという武勇伝はあながち嘘ではないんだろう、なんで私は母に似なかったのかと亡き父を恨んだ。
しかしこれほど愛らしい容姿を持って産まれた人間でも決して幸せにはなれない。あんな酷い最期を迎える。
うまく言えないのだけど自分の信じてきたもの、アイデンティティがそこで崩れてしまった。
最近のその想いが否応なしに強まった。
TLに流れてくる生前の美しいあの人たちの姿を見ると在りし日の母の笑顔を重ねてしまう。
私は人と上手く人間関係を築くことができない。
親友と呼べる人はいない、親戚とは疎遠で母以外の身内もいない、彼氏もいない、先述した通り無条件で愛されるような容姿もなければ、以前のように愛嬌を振りまく気力もない。
最近はとても口が悪くなっている気がする、まるで晩年の母のようだと思う。
このまま自分も母と同じ道を辿るのだろうと考えることが多くなった。
母はあんなめちゃくちゃな状態になりながらも子供のことは愛していた、彼女の残した日記には私を一人遺しては逝けないという想いが書き殴られていた。(それを読んだ時あまりに生きることが不器用なあの人を哀んで泣いた)
ただ私には誰もいない。この状態を抜け出したいと思えない理由はこれだ、私にはこの世に未練がない。
強いて言えばこれまで恥ずかしくて書けなかったファンレターを推しに一通だけ書きたい。置かれた状況も、身の上話も一切書かず、ただお礼を述べたい。
あとは身の回りの整理
こんな生活感丸出しの部屋を人に見られるのは嫌だ。それは私の最後の美意識というか、最後の最後まで人に本音を見せることのできない人間の悲しい性なのだと思う。
だからこの土日で部屋を整理しようと試みた
私は虫が嫌いだ。なので部屋に観葉植物は置いていない。(以前はあったが水受けの皿に黒いあいつの死骸があったことがトラウマでそれ以来置いていない)
切り花を飾った時期もあったけれど日々しおれていく花を見るのが悲しくて辞めてしまった。
だから今、私の目の前でぴょこぴょこと動くこいつはこの部屋で私以外の唯一の生き物だ。
いや、ダニやノミだって生物なので厳密に言えば間違った認識なのだけど、私の目に見えないものはいないことと同じなので、やはりこの部屋にいる生き物は私とこのクモだけなのだ。
そう思ったらこいつが無性に愛おしく感じた、そして自分はなんて寂しいやつなんだろうと今度は己を哀れに思った。
こんな私の部屋にやってきてくれた小さな客人、彼(彼女?)は大人なのか、赤ちゃんなのか、そもそも本当にハエトリなのか、もしかして成長して私の世界で一番嫌いなあいつをモリモリ食べてくれる軍曹なのか(このネタが分からない人は「クモ・軍曹」で、ググってほしい)、皆目検討もつかない。調べようかと思ったけれど画像が怖いのでやめた。
今は床に散らかしたままの服や下着に囲まれこの文章を打っている。
さっきまで部屋中央の照明のあたりにあいつはいたはずなのだけど今はその姿は見えない。多分エアコン付近の死角にあたる場所にいるのだと思う。こいつはずっと動いている気がする。
あの小さなクモの方が数十年生きている私なんかよりよっぽど強くて生きるのが上手だ。
よく見たら造形もスタイリッシュだし、目(?)もくりっとしていて結構可愛い。
どうも彼らの多くは無害で虫を食べてくれる益虫らしい。
負けている。私なんてクモより役立たずで、クモよりずっと醜い。あんなに美しくなりたかったのに虫にすら負けた。
もともとマイナスだった自尊心だけどまだ底があった。笑うしかない。
元気が出たので散らかった服をゴミ袋につめこんだ、死ぬ前に出したい推しへのファンレターの下書きをした。(思いの丈を書き散らかしたらめちゃくちゃ長くなってしまった、どうしよう)
あとはこれまで集めたグッズを価値のわかる人に譲らなければいけない。
せめて死ぬ前に荒れた肌を直したい。髪を染め直したい。ベリーショートにしてみたい。健康問題と思われたくないからジムも再開しとこうか。
のどぐろを食べてみたい。寝台特急に乗って一人旅をしてみたい。全く理解出来なかったテネットをもう3回くらい観たい。
そういえば推しの出演作も来月に控えている、
ああやっぱりグッズを手放すのが惜しい、服もまだ捨てるの勿体無いかも、他にも何かあったかな、多分ある。
この文章を打っている途中は死ぬことしか考えていなかったのだけど私にはまだ未練が山ほどあった。
自分の根幹に関わる重大なことから先延ばしにしていたことしょーもないものまで山ほどあった。
これは母の自死までをリアルタイムで見た自死遺族としての経験則だけど、死にたい衝動は長くは続かない。希死念慮と自殺衝動は違う、後者は発作のようなものだと思う。
その瞬間にたまたま悪い条件が全て揃ってしまうと最悪の結果をもたらしてしまう。それを本人の意思で止めることは難しいし、周囲の人間が止めることはもっと難しい、本当に難しい。
逆を言えばその一瞬踏みとどまればいい、ほんのささいなきっかけで命は繋がるのだと思う、例えば小指の爪ほどの小さなクモ1匹の存在でも。
事実私はこいつに現在進行形で救われていて、今は部屋の隅っこで泣きながらこの文章を打っている、病んでいる。やっぱり病院へ行こう。まだクモの姿は見えない。
私は虫が苦手なので、これ以上君が大きくなったら同居はできないかもしれない。けれど絶対に私は君を殺しはしないから安心して欲しい。
些細なきっかけで人は死ぬ、些細なことで人は生きる。けど結局人はいつか死ぬしこの世は碌なものではないという考えはもう私の心に根付いてしまって、これを変えることはできない。
このまま鬱が本格的に悪化して今度は本当に死にたくなるのかもしれない。そればかりはわからない。
母と同じように首に縄をかける瞬間が来たら、私は天井を見上げるとおもう、見上げたいと思う。
ちいさな友人を探すとおもう、縋るとおもう、さよならの挨拶をするために君を探すとおもう、その時に今日のことを思い出して最悪の条件が揃わないことを祈る。
死んでいいタイミングなんてない、私には未練がごまんとあるのだ。
シャニマス2周年を迎え、新ユニット「ノクチル」が追加されてから早半年。今2.5周年キャンペーンをやっているからそれで合っているはず。
ノクチルとは浅倉透、樋口円香、福丸小糸、市川雛菜からなる幼馴染の四人組グループだ。アイドルマスターでも姉妹以外の既に関係性が完成されているグループというのは珍しく、いろんな点でも話題になったことは記憶に新しい。
そんなノクチル初のシナリオイベントである「天塵」は、今だなお賛否両論を以て語られることが非常に多い。
というか実際には賛が多いのだろうけど半年たった現在、賛の部分はさんざん語り尽くされたので、今やドロドロした否定的意見のほうが根強く残っているように思える。
そのほとんどが初仕事の生放送で意図的に放送事故を起こしたことに対するノクチルの批判。「擁護できない」「駄々こねているだけ」「身勝手だ」「もっと大人な対応するべきだ」など、ノクチルが起こした放送事故が許せないという人が多い。
こうして色んな意見があるのはシナリオライターの目論見通りであることはさておき、そもそも天塵の放送事故は番組側が事前の段取りや取り決まりを全て無視したことからはじまっている。放送事故を起こしたノクチルに対して「プロ意識が~」という意見が見られるが、そもそも番組側のそれら全てを反故にしたプロ意識の無さがはじまりだ。
じゃあなんでノクチルのプロ意識の無さばかりが叩かれているのかというと、それは多分「その他大勢」に迷惑をかけたということになっているからだ。あの個人が集団に迷惑をかけてはいけないが、集団は個人にどれだけ迷惑をかけてもOK。というやつ。
日本人の多くが学校という場所を通過して育つわけだけど、そういった限られた集団の中の教育は極度に跳ねたやつや突出したやつを嫌い、みんな同じ服を着て髪の長さとかスマホ禁止だとか、集団に属する人を平均化するためだけの決まりを施して「周りに迷惑をかけないようにしましょう」みたいなことを言われ続けて、言われないにしても圧力をかけ続けられる雰囲気が自動的に形成される。で、そういう空気で育った人は周囲の目を気にするようになり、ただひたすら「考えることを放棄して言うことを聞く」という行為だけを強要され、同じように右倣え右して「周りに迷惑をかけないようにしましょう」とか言いだす。
で、そういうのを言い出す人のなにが始末に負えないかというと、他人を糾弾するとき実のところ自分でも何が悪いのかわかっていないことがある。平均化された集団の中で右倣え右してきたので、「みんなが悪いと言っているので、悪い」みたいなのが無自覚に根付いてしまっている。
実際今回のノクチルを見てみると、実のところ迷惑をかけた相手というのは全く多くない。強いて言えば事前の段取りを放棄してきた番組側しか迷惑は被っていない。この番組を見ていた視聴者も「うわ、放送事故だ」くらいしか思わないし、最終的に一番泥をかぶっているのはちゃんと当事者たるノクチルとプロデューサーの五人だけだ。アンティーカに関してはシナリオライターは意図的に事前に言及してあるが、あれは「アンティーカに迷惑がかかりますよ」という合図ではなく、その後アンティーカのことを一切言及しないことで「アンティーカに迷惑がかかっている」というありもしない妄想を誘引し、「見てもいないのになんでわかるの?」というカウンターを行うためのやつで、この手法はアジェンダ283でもとっている。これに関してはちょっとシナリオライターが陰湿すぎるのであまり好きではないが、とにかくそういうことだ。(そもそもアンティーカを懇意にしているのは段取りを事前に破棄したアホアホディレクターなので、仮に今回の件で悪印象を持たれたとしても、あるいはノクチルが口パクしてなんの問題もなく進行したとしても、プロデューサーはそんな信用ならないアホとわざわざもう一度組ませようとする男ではないのでアンティーカが受けた被害は実際少ない。というかノクチルの仕事でアホアホディレクターの問題性が浮き彫りになって本当によかった。あのアホアホディレクターのアホアホ仕事をうっかり受けてしまったせいで曇るアンティーカやイルミネや「え、たくさん練習したのに今日、歌えないんですか…」ってなる果穂ちゃんなんて、いやメチャクチャ見たいけど見たくない)
じゃあなんでノクチルが実際問題そこまで迷惑をかけていないのに、シャニマス世界でも現実でも多くの人がノクチルを叩いているかというと、やはり「放送事故を起こした」という表面上の言葉に囚われてしまっているから。それで迷惑をこうむった人は例によって段取りを反故したアホアホ番組側だけだし、誰かが特別傷つくわけでもない。ノクチルの行為が身勝手だったとしてだから何だという話だし、そもそも仮に放送事故で「その他大勢に迷惑」がかかったところで1ミリも子分に関係ないはずなのに、なぜかめちゃくちゃ叩く。それは集団に隷属する限り自分たちは「その他大勢」であり、そういったものから逸脱する「個を尊重する」存在というのは安定した集団の和を崩すものなので、とにかく叩いて安定化させなきゃいけないというのが義務教育で根付いてしまっているからだ。身勝手であることは別に悪いことではない、特別誰かに迷惑をかけるわけでもないし、まあそういう輩はいるけど、少なくともノクチルはそうではないのに、身勝手であるという属性自体に反感を憶えてしまうのはそういうわけだ。そうやって集団が自動で安定化するように、別に誰かが意図的にそうしたとかではなく、平均化された集団に向けた教育がそうさせるのだ。
「それでも番組側に迷惑をかけるのはよくない」という意見に関してはそもそも番組スタッフの友達でもないのに番組側の肩をもつのはよくわからないとしか言いようがない。
また、「ノクチルがアイドルを舐めている」という意見もあるが、天塵を読めばそんなことはないことがわかる。雛菜を除きノクチルの三人は生放送に向けて通常のレッスンに加え、自主練をずっと続けてきた。彼女らは飄々とそれをこなすので一見なんの努力もしていないようにみえるが、初披露に向けてそうとうな時間をかけていたことがわかる。雛菜は雛菜でちゃんと283プロ側が用意したレッスンはきちんとこなしているので、求められるレベルに達しているのは間違いない(雛菜のスタンスについてはW.I.N.G.参照してください)。
ノクチルの練習風景を見ていないシャニマス世界の人間がノクチルを「アイドル舐めてる」と叩くのはいいとして(良くないが)天塵のコミュを読んだうえで「アイドルを舐めている」と叩くのは、アイドルという存在を「ファンに尽くすために存在する傀儡」と捉えているからだ。なのでノクチルが画面の向こう側の人ではなく、自分たちの心の納得を優先して行動したのがどうしようもなく許せなくなってしまう。
その個を優先した姿から「プロ意識の欠如だ」と訴える人は少なくないが、そもそも個人を優先することとプロ意識は全く矛盾しないし、そもそも本当にプロ意識があるのならばそれはレッスンを重ねた歌と踊りでみんなを楽しませることであり、番組側が無理やり押し付けた口パクを披露することではない。どちらにせよ、芸能界の集団によるアホみたいな圧力に個を曲げる必要性など一つもないし、それで自分自身を貫いたとしてそれはプロ意識の欠如ということにはならない。そもそも最近のアーティストは集団に隷属せず自分自身を優先させるスタンスの人が多い。その筆頭が若干18歳でグラミーを総なめしたビリー・アイリッシュで、彼女は「ファンの否定や賛成の意見に全て従って生きていたら身動きができない」と集団への隷属に断固拒否を突き付けている。また、アーティストたちのメンタルヘルスの重要性も訴えている。一方ビリー・アイリッシュの圧倒的なパフォーマンスとカリスマ性はファンを滅茶苦茶熱狂させるので、プロ意識に欠けているということはない。
別にノクチルはファンやアイドルがどうでもいいわけではない。ただ同時に自分たちの心のこともちゃんと大切にできるだけなのだ。
なのでノクチルの放送事故は「若さゆえの過ち」とか「青春の輝き」とかではなく、あくまでもスタンスの在り方であり、そういう時代性であり、今後その根元が変わることはないと断言できる。
「ノクチルが心から反省しないと受け入れない」といった意見も見受けられるが、そんなことは絶対起きないし、それはお前の教師がしょーもないことで怒鳴りつけてきたりクラスメイトが学級会を開いて「○○くんは悪いと思います。あやまってください」とかいって個人としてのお前を押さえつけてきた行為に他ならない。
そもそもノクチルにとどまらず、『アイドルマスター シャイニーカラーズ』というコンテンツは学校からの脱却というのをテーマの一つにしているところがある。
放課後クライマックスガールズなんかは直球に放課後がクライマックスだし、プロデューサーはアイドル一人一人と向き合いその個性を尊重スタイルだ(無論全ての青春としての学校を否定しているわけではない)。方言を使うアイドルである月岡恋鐘は283プロに所属する前、様々なアイドルプロダクションのオーディションを受けたが、その方言を矯正するように言われる。そうやって集団は個性をゴリゴリに摺り減らそうとしてくる。
ノクチルに「心から反省しろ」というのは実際そういった行為と変わりがないし、いい加減学級会から脱却してほしい。そもそも反省したとして、「これから大人とか世間とかそういう空気を読んで、おとなしく周囲に迷惑かけないよう口パクで歌います」とかいうアイドルマスターシャイニーカラーズを見たいのか?
結局のところ「周りに迷惑をかけてはいけません」とか「空気読もうよ」とかいうのは集団を安定化させ扱いやすくするための上のほうのオッサンの方便であり、絶対的な正しさではない。仮に一個人がなんらか困窮に瀕しても、集団がなにかをしてくれることはまずない。
なのでいい加減「周囲に迷惑をかけてはいけません」とか「身勝手はよくない」とか「世間様に迷惑をかけたら謝るのが筋だ」とか、そういうちゃんと考えれば全然意味わからないし、そもそも周囲とか世間様とか誰だよって感じのやつから脱却したほうがいい。それがアイドルマスター シャイニーカラーズだ。
とまあ色々言ったが、なんだかんだ「周りに迷惑をかけるな」とグチグチ言ってくる人に限ってそういった圧力で甘い汁をすするオッサンの一番の被害者だったりする。本当によくない。ノクチルは最も個人的なアイドルだからこそ他者を尊重できるグループだ。誰もが自分自身と他者を尊重できるようになればみんな大分生きやすくなるのにね。
あとこのエントリーを読んで「よりノクチルが嫌いになりました!」とか言うことで「もしかしたらノクチルが嫌いになってしまうかも…」みたいな考えを誘引してそういった発言を抑え込もうとする輩が出てくるかもしれないが、そういうメンタリティのやつは一生学級会していてノクチルともそりが合うことは無いので無視してもOKだ。
私は中学2年から3年にかけて、学校に行くことが出来なかった。いじめを受けてうつ病を患い、学校に行こうとするとどうしようもなく体調が悪くなる。そんな2年間を過ごしていた。現在はコロナ禍故に登校はできていないものの、なんとか大学に入学し毎日オンライン授業を受けることが出来ている。
中学登校を諦め、高校はチャレンジスクールに入学し、志望する大学にも合格出来たのは、間違いなく母のおかげである。
母は素晴らしい人格者だ。長らく福祉の仕事をしているからか、私が不登校になった時も責めずに上手く病院へと誘導してくれた。私のためにチャレンジスクールを探し、心のケアのために昔から好きな動物園へと連れ出し、映画や本をたくさん与えてくれた。感謝してもし切れない。
絶望に打ちひしがれた14歳のあの夏も、社会に出るために奮闘している今も、どうにかしなずに生きているのは母のおかげであり、母のためでもある。
父親との折り合いが悪いこともあってか、重度のマザコンである自覚は十分にある。友人や彼氏と遊ぶよりも、母と遊ぶ方がずっと楽しい。母が仕事の時だけ、他の人と遊ぶ計画を立てている。私の感覚や趣味は少し世間からズレているが、母とはぴったり合う。だから母と出掛けると本当に楽しい。18にもなって異常だと、自分でも思う。
うつ病になってから私の人生は、歯車が狂ってしまったと思う。ある程度普通の生活は出来ているけれど、常に「死にたい」が付きまとっている。何をしていても、どんなに楽しくても、心の奥底に「死にたい」が根付いていて、突然ふっと目を覚ます。するとどうしても自分は生きていてはいけない気がして苦しくなる。だが死ぬわけにはいかないのだ。
母は優しい。だから私が死んだらきっと自分を責める。私のせいで母が苦しむ。精神面でも金銭面でも。それが一番耐えられない。
母のために生きている。母を苦しめないために生きている。母を喜ばせるために、生きている。自分の夢だと信じて目指している職種は、思えば母が幼い私に「あなたがもしこれになったら、お母さんはすごく嬉しい」と言って聞かせたものだった。
多分おかしいと思う。死にたい気持ち自体は強いが、自死を選ぶことだけは出来ない。事故とか通り魔とか、そういう私の意志と関係の無い死ならばいい。いや、それでもやっぱり母が苦しんでしまうから駄目だ。
どこかの企業で雇われていたら労働時間の制限があるので、時短の為に機材に投資したりしないといけなかった。
凄い時間がかかっていても、どれだけ広告表示させられるかになった。
それで結局どうなったかというと、インプットの時間がなくなって、日常生活の切り売りだとか、
過剰に何か購入して使うとか、そういうのが溢れた。
YouTubeはアナライズを使って宣伝方法は教えてくれるが、よりクリエイティブな動画の作り方を教えてくれるわけじゃない。
他の絵や音楽などのサービスもそうだけど、広告系で稼ぐ系は結局ダメだったんじゃないだろうか。
時間がかかるのをドンドン個人負担にしていってアウトソースしていった。
できたのは新しい階層構造で、TOPはずっとTOPのままで動かないし加速していく。
時間分の賃金が分配されるわけでもない。プラットフォームが自分の作品を宣伝してくれるわけでもない。
階層の下の方の人は、自分のスキルが足りないから稼げないとか、自問自答に陥る。
そしてクリエイティブなネットの場が作られるわけでもなければ、金稼ぎたい人が群がってよくわからない場となり、リソースが食われていく
私は中学2年から3年にかけて、学校に行くことが出来なかった。いじめを受けてうつ病を患い、学校に行こうとするとどうしようもなく体調が悪くなる。そんな2年間を過ごしていた。現在はコロナ禍故に登校はできていないものの、なんとか大学に入学し毎日オンライン授業を受けることが出来ている。
中学登校を諦め、高校はチャレンジスクールに入学し、志望する大学にも合格出来たのは、間違いなく母のおかげである。
母は素晴らしい人格者だ。長らく福祉の仕事をしているからか、私が不登校になった時も責めずに上手く病院へと誘導してくれた。私のためにチャレンジスクールを探し、心のケアのために昔から好きな動物園へと連れ出し、映画や本をたくさん与えてくれた。感謝してもし切れない。
絶望に打ちひしがれた14歳のあの夏も、社会に出るために奮闘している今も、どうにかしなずに生きているのは母のおかげであり、母のためでもある。
父親との折り合いが悪いこともあってか、重度のマザコンである自覚は十分にある。友人や彼氏と遊ぶよりも、母と遊ぶ方がずっと楽しい。母が仕事の時だけ、他の人と遊ぶ計画を立てている。私の感覚や趣味は少し世間からズレているが、母とはぴったり合う。だから母と出掛けると本当に楽しい。18にもなって異常だと、自分でも思う。
うつ病になってから私の人生は、歯車が狂ってしまったと思う。ある程度普通の生活は出来ているけれど、常に「死にたい」が付きまとっている。何をしていても、どんなに楽しくても、心の奥底に「死にたい」が根付いていて、突然ふっと目を覚ます。するとどうしても自分は生きていてはいけない気がして苦しくなる。だが死ぬわけにはいかないのだ。
母は優しい。だから私が死んだらきっと自分を責める。私のせいで母が苦しむ。精神面でも金銭面でも。それが一番耐えられない。
母のために生きている。母を苦しめないために生きている。母を喜ばせるために、生きている。自分の夢だと信じて目指している職種は、思えば母が幼い私に「あなたがもしこれになったら、お母さんはすごく嬉しい」と言って聞かせたものだった。
多分おかしいと思う。死にたい気持ち自体は強いが、自死を選ぶことだけは出来ない。事故とか通り魔とか、そういう私の意志と関係の無い死ならばいい。いや、それでもやっぱり母が苦しんでしまうから駄目だ。