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はてなブックマーク - 思いつきで作った段ボール製ベッドを自治体に売り込んだ|たちこぎライダー|note
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.mu/tegami/n/na21f05557f97
・ある人が災害用に新しい組み立て方をするダンボール製簡易ベッドを思いつき、その製品を発注し、自治体と契約するまでの話をネットに書いた。
・プロジェクトが成功するまでの話が淡々と書かれていて非常に面白い読み物になっていた。
・ブコメでも、「すごい」「ほしい」「いいアイデア」「特許を」などなど発想と行動力を称える賞賛コメントが多々あった。
・しかしテレビで以前に災害現場でのダンボールベッドを見たことがあった自分は、疑問をもった。
・それは単に災害と関係ないダンボール製ベッドの値段の話ではないのか?
・「ダンボール ベッド」で検索するとすぐに出てくる「暖段はこベッド」というものがある。組み立て方は違うが、避難所での活用を見据えてダンボール製造会社が開発した製品だ。
http://jpacks.co.jp/archives/category/bed
・災害用で一般には市販されていないようだが、検索結果からは過去にネット販売された痕跡がある。その時の値段は確かに1万円以上していた。
【楽天市場】ロゴスコーポレーション ロゴスコーポレーション LLL 暖段はこベッド 82100467 | 価格比較 - 商品価格ナビ
・しかし被災したときの自治体との契約では原価に近い、1つ2900円で届けることにしているそうだ。
http://ameblo.jp/mizutanijpacks/entry-11245294201.html
・例の記事では、「自治体に営業をかけたが断られた」「他にも営業をかけている業者がいる」とも書かれていたというのは、暖段はこベッドが既に130以上の自治体と契約しているのでそのせいもあったのでは。
http://jpacks.co.jp/agreements
・Jパックスの暖段はこベッドは、業界団体に設計図を無償公表して、普及を促している。
http://jpacks.co.jp/archives/471
・暖段はこベッドと、例の記事のダンボールベッドとの価格差はない。暖段はこベッドはオープンソースでどのダンボール業者でも製造できる。
・暖段はこベッドは部品点数も多く、組み立てにも確かに時間かかりそう。しかし部品1点1点が小さい、普通の箱と変わらないので持ち運びや製造は楽そう。強度もありそう。指摘されていたガムテープが必要というデメリットは既に克服されている。
https://www.youtube.com/watch?v=P4ZEPEOBD2o
追記:
元の記事を読んで、既存製品が1万円だったのを3千円にした、という点が新規製品の最大のアピールポイントだと考えていた自分は、実際は同等の価格の既存製品が普及していると知り、新規製品の何が優れた点であるか分からなくなったということです。そして分からない点が置かれたままブコメが伸び続けていた点が気になったというだけです。まあ、最後に付け足したように、よく検討してみれば新規製品は、部品が少ない・材料費も少なくなって既存製品の価格は円安インフレ前なので現在では価格差あるかも、組み立てが早いらしい、ガムテープがいらない、ベッドと地面に広い空間ができるので湿気でダンボールが傷まなそう、見た目がいい(避難生活では重要)、などいろいろな長所が思い浮かびます。既存製品の長所を考えると、強度がある(11人乗っても大丈夫)、箱を重ねているだけなので部品の種類が少ない、その分輸送や製造が楽そう、かつてガムテープを使っていた短所は今では克服、箱なのでベッドの下に避難者が物をしまえそう、ベッドが余ったら支援物資の仕分けなどに活用できそう、など思い浮かびます。自分が被災者、職員だったらどっちがいいのか。新規品は土台のバッテンの空間部分の強度が気になるあの部分に何度も腰掛けたらすぐに壊れてしまうんじゃ。避難所の子供がベッドの上で複数遊ほうとしたら潰れるんじゃないか。既存製品はその点頑丈そうだ。いや、湿気がたまらない分清潔で避難所での要介護者には適しているかも。既存製品のダンボール箱感よりは、よりベッドらしい見た目の新規製品の方が避難所を明るくさせる。だが新規製品はバラしたら使い道はない。既存製品は箱としていろいろ利用できる。いや、それでも新規製品のほうが……。などと検討する意見をブコメで見たかったという話です。
ネットウォッチ界隈(?)で話題のイケダハヤト師だが、彼のこれまでの言動を見ていて、これはどうも「自己愛性人格(パーソナリティ)障害」に該当するのではないかと思えてきた。
下記サイトにはこのように記されている。
自己愛性パーソナリティ障害の特徴・症状・治療法 [メンタルヘルス] All About
自己愛性パーソナリティ障害には、「自分は周りのみんなとは違う」と、自分を特別視し、自己の外見、能力など、自己の属性に自信を持ち過ぎる傾向があります。
同サイトより。この障害が生じることで
他人には、自分に対する賞賛の言葉や特別扱いを求めるのに、相手の気持ちにはまるで無頓着なことが多く、対人関係において深刻なトラブルが生じやすくなります。
やまもといちろう氏と間で現在進行中の件をはじめ、この手の(自分を特別扱いし、相手の気持ちに配慮しないことが原因の)トラブルがよく見受けられるのはご存知のとおり。
wikipediaより。「以下のうち5つ(またはそれ以上)当てはまれば自己愛性パーソナリティ障害だと診断される」そうだ。
1.自己の重要性に関する誇大な感覚。自分の業績や才能を誇張する。
2. 限りない成功、権力、才気、美しさ、あるいは理想的な愛の空想にとらわれている。
3. 自分が特別であり、独特であり、他の特別なまたは地位の高い人や施設(団体?)にしか理解されない、または関係があるべきだと信じている。
4. 過剰な賞賛を求める。
5. 特権意識、つまり特別有利な取り計らい、または自分の期待に自動的に従うことを理由なく期待する。
6. 対人関係で相手を不当に利用する、つまり自分自身の目的を達成するために他人を利用する。
7. 共感性の欠如。他人の気持ちや欲求を認識しようとしない、またはそれに気づこうとしない。
以下、1つずつ確認してみたい。
彼はしばしば、自分の重要性を誇大にアピールする。たとえば「僕は強者」と発言したり、最近の記事では自分のことを「優等生」になぞらえた発言をしている。
広がる格差と、強者に求められる「ノブレス・オブリージュ」 - ihayato.書店 | ihayato.書店
さらに厄介なことに、こういう人間は自分が弱者であることすら正当化します。「おれは落ちこぼれだから、目立っている優等生を叩く権利がある」というロジックです。
大衆を愚劣へ導く切り込み隊長 - ihayato.書店 | ihayato.書店
twitterのフォロワーが2万人を超えたことについて、下記のようなツイートをしている。2万人程度で?と思うのだが(しかも単なる野次馬的フォロワーもいるであろうし、せいぜい数十人の信者から罵倒されて終わりじゃないのかな…)、それでも「僕を怒らせたら人生潰せるからね!」と、自分に強大な力があると空想している。
フォロワーはしばしば無条件で支援してくれる存在なので、その力に甘えてはいけない。影響力が高ければ高いほど攻撃力は高まる。大袈裟ではなく、人の人生すら潰せる。
https://twitter.com/IHayato/statuses/172691977199030273]
また、やや違った角度からになるが、こんな例もある。彼は周囲から「一貫性のなさ」を指摘されたとき、下記のようなツイートをしている。指揮でも作曲でも多才にこなすのは0.0001%レベルの天才バーンスタインだからこそできることであり、そこを自分を重ね合わせるあたり、自分も相当の才気を持っている空想しているようである。
一貫性がないと批判する人もいるのだろうけれど、僕が僕であり続ければ、一貫性のなさすら個性になる。かのバーンスタインだって、指揮やったりミュージカル書いたり現代音楽書いたりしてますしね。試行錯誤も寄り道も、全部含めてバーンスタイン。
Twitter / IHayato: 一貫性がないと批判する人もいるのだろうけれど、僕が僕であり続 ...
基本的に、彼は自分の間違いを認めない性向がある。たとえば、やまもといちろう氏に「ちゃんと仕事やってくれ」くらいのことを言われた際に、それに逆ギレして両手グルグルパンチレベルの人格攻撃。
では、そういう性向がどこからくるかというと、彼の「自己特別感」だと思われる。自分は特別だと思うから、自分は常に間違っていないと考える。(多くの人がそうであるように)もし自分のことを特別視していないのであれば、「自分にも非があるのかも知れない」とどこかで気づけるはずなのだが。
大衆を愚劣へ導く切り込み隊長(イケダハヤト) - BLOGOS(ブロゴス)
同じくやまもといちろう氏との対談企画において、彼は「収益をNPOへ寄付する」と言い出した。周囲としてはちゃんと対談さえ実現してくれさえすればよいのだが、わざわざNPOとか寄付といった構想を示すあたり、賞賛を得たいという彼の承認欲求が見え隠れする(しかも、彼が具体的な寄付先を示さないため周囲から不信感を持たれつつあることはご存知のとおり)。
隊長、イベントやりましょう。ただし条件があります - ihayato.書店 | ihayato.書店
また、得意の「カジュアルにブロック」によって都合の悪い意見は次々と切り捨てるが、これも賞賛だけを集めたいという意識の裏返しなのだろうと思われる。
これも、「収益をNPOへ寄付」の話が当てはめられる。繰り返しになるが、当初は単なる対談イベントであったはずだが、尊師から一方的に「条件」を出してきた。やまもと氏が大人の対応を見せて生暖かく成り行きを見守ってくれたからこそよかったものの、こういった言動こそ、まさに「自分の期待に自動的に従うことを理由なく期待する」彼の性格が現れている。
彼が他人の記事や書籍を利用して「コピペ記事」を量産しているのはご存知のとおり。たとえば、はるかぜちゃんのツイートをもとに記事を投稿しPVとアフィリエイトを稼ごうしたことがあった。
イケダハヤト,はるかぜちゃんネタで我田引水しようにも,本人からステマと言われて撃沈される - NAVER まとめ
はるかぜちゃんの件でこのような批判を受けている。やはり共感性に欠けるのであろう。
イケダハヤトさんのエントリ、ブログで稼ぐために、はるかぜちゃんを利用している印象を受けます。これは不快。というか、他者に対する思いやり、想像力がなさすぎ。
Twitter / BirdWing09: イケダハヤトさんのエントリ、ブログで稼ぐために、はるかぜちゃ ...
また、「マックジョブ」発言で炎上したこともあった。最高レベルのオペレーションノウハウを持つマックで働くことは多くの学びがあるはずだし、プロ意識を持って働いている方も多いのだが、そういう人々の気持ちを想像せずに見下すような発言をしている。
イケダハヤト,マクドナルドでバイトする人々に蔑称をつけて炎上 - NAVER まとめ
彼は誹謗中傷はもとより、まっとうな意見や批判に対しても耳を貸さず考えを改めようとしない。ということは、尊師の心中ではそういった意見・批判も「嫉妬」と捉えて切り捨てている可能性がある。
たとえば下記のようなツイートがあった。もしかしたら本当に嫉妬している人もいるのかも知れないが、周囲からの批判や異論をいくつか見る限りでは、贔屓目に見ても嫉妬として捨てきれない意見が多い。おそらく痛いところを突くような意見について「これは嫉妬だ」と解釈することで、心の平安を得ているのであろう。
Twitter / IHayato: BLOGOSアワードへの反響をなんとなく見てみたら、大人の妬 ...
それにしても、コピペブログを量産したり、やまもといちろう氏との対談イベント絡みでこれだけ「仕事ができない人認定」されている人を、誰が嫉妬するのだろうか…
彼の尊大さ。傲慢さ。これについては言うまでもないことであろう。自分を成長させてくれるかもしれない意見に謙虚に耳を傾けることなく、
めんどくさい人はカジュアルブロックで!
Twitter / IHayato: めんどくさい人はカジュアルブロックで! ...
また、「イケハヤ目線」なる言葉があるが、下記の記事では「上から目線が嫌い」という内容を上から目線で語るという離れ業を演じている。
「下から目線」を持とう - ihayato.書店 | ihayato.書店
…ふむ。5つどころかすべてが彼には当てはまってしまうなあ…
ともかく、以下ではその障害の治療法について紹介する。
では、彼がこの障害に該当していたとして、その治療法はというと下記のようになる。
自己愛性パーソナリティ障害の治療ゴールは、他人の気持ちを汲めるようになることです。主に心理療法が行なわれます。ただ、他人の気持ちを汲めるようになるということは、自分の優越性をある程度否定することでもあります。本人にとって受け入れがたいような場合、治療が難しくなってしまう傾向があります。
薬物療法が必要か否かは個人個人の病状によりますが、自己愛性パーソナリティ障害では、年齢を重ねるにつれ、自己愛の源である、性的魅力、肉体的能力などが失われて、気分が落ち込み、薬物療法が望ましくなるケースが少なくありません。具体的な治療薬に関しては、気分の大きな落ち込みに対しては、抗うつ薬。気分の移り変わりが大きい場合は、気分安定薬……など、状況に応じて、治療薬が選択されます。
自己愛性パーソナリティー障害では、他人からの批判など、日常生活でも自意識がダメージを受けることが多くなってしまいます。大きな心の苦しみにつながらないよう、早期に精神科(神経科)を受診することが望ましいです。もしも社会生活上、自己のナルシスト的傾向のため、心の苦しみや落ち込みが大きくなっているような場合は、ぜひ、精神科(神経科)受診を考慮してみてください。
今は若くて一定数の信者(?)もいるからよいのかも知れないが、年齢を重ねたりネットでの知名度が下がってきたりすると薬物治療に頼らざるを得なくなる可能性があるということだ。
というわけで、尊師にはぜひ治療やカウンセリングを受けられるところに行ってほしい、と思う。今の彼に必要なのはきっと、的を射た批判とか異論ではなく、まず専門家のところに行って治療に専念することなのだと思う。
そのときに投票会場であたふたした(そんなものがあるとは…)ので、
最高裁判所裁判官国民審査(さいこうさいばんしょさいばんかんこくみんしんさ)は、日本における最高裁判所裁判官を罷免するかどうかを国民が審査する制度である。
審査は、各裁判官につき、その任命後初めて行われる衆議院議員総選挙の期日に、これを行う。
各裁判官については、最初の審査の期日から十年を経過した後初めて行われる衆議院議員総選挙の期日に、更に審査を行い、その後も、また同様とする。
通例では「罷免」という表現は、単に役職(配置)のみならず公務員としての身分(官職)の剥奪も同時に行われる場合に用いられる。
なるほど。
衆院選のときに最高裁の裁判官を国民みんなで罷免するか、そのまま裁判官を続けてもらうか決めるわけか。
まぁ、ここまで知ってた。
そんなかで参考になりそうな(なった)記事。
…結局、現行制度じゃ判断材料少ないしわかんねぇわってとこでした。
(だから国民からの異議申立て代わりに全部×つけようぜ!っていってるみたいです。僕はつけませんけど。)
そもそも最高裁に年間8000件以上の申し立てがあるらしい。
善悪がはっきりわかるような事案であればいいけど、そんなの少数だろうし。
現行制度とは逆で信任を投票で決めるとなると裁判官の中立性が揺らぎそうだし…
う~ん…結局白票投じることになりそうだなぁ…
税制改革&社会保障制度の見直しが議論に上がっている今だから、大野更紗氏の「困ってるひと」に寄せて、再び想うことを書いておきたい。
大野更紗氏が語る現状のセーフティネットについて、社会保障の手続きの難解さを「モンスター」と呼んでいる。何故か?…それは
「何がどうなっているかわからない」からなんです。制度の構造や仕組みが理解できれば「モンスターだ」なんて誰も思わない。「何がどうなっているのか」が、まったくわからない
から。
「日本のセーフティーネットはスカスカ」―『困ってるひと』著者・大野更紗氏が語る社会保障の“現実” (1/4)(BLOGOS編集部) - BLOGOS(ブロゴス)
改めて拝読して、ため息以外に何も出てこなかった。自分たちのいる荒野があまりに広大かつ迷路のようだからだ。
引用が長くなるが、
ところが、この制度を利用するためだけでも、毎年更新が必要です。その度に大量の書類をそろえなければならない。…
自分の体が動かない状態、役所まで出向けない状態で、延々とお役所の窓口ジプシーみたいなことをしなければならない。この制度をひとつ利用するだけでも、「困ってるひと」には大変なことです。そのほかにもさまざまな制度がありますが、一つひとつ自分が何を使える可能性があるのかを調べるだけでも、書類の山と格闘しなければならない。
:
自分がそういう状況に陥って、「ここまで大変な状況なのに、どうしてこれまで誰も何も言わなかったのだろう」と非常に不思議に思いました。そこで、よくよく考えてみると、「ここまで大変」だからこそ、実際に当事者になってしまうと「生きているだけで精一杯」で、物事を整理するとか、発信するとか、助けを求めるといったことができなくなってしまうんです。それが日本の社会制度の現状がモンスターたる由縁かなと思います。
まったくその通り。ここで、
比較的動ける難病患者・ネットに明るく情報収集し易い・家族の支援が得られる・主治医も難病支援の制度に詳しい
VS.
病状が重篤・独居・ネットにも明るくなく頼れる友人もいない・主治医すらその手のことまで知らない
この2種類の患者に、かなりの格差が生まれることを知る人は少ないのではないだろうか? お若くて頭の回転の早い大野更紗さんですら、書類の山、制度の複雑さにお手上げ状態だったのだ。
病状が重く、鬱状態にも陥り易い、難病患者にお手軽な方法は「無い」。手帳というのもないので、いわゆる「障害者」支援への手の届きやすさとは大違いなのだ。
お役所も制度を使う人がいなければ、運用する前例がつくれないため、経験やノウハウが蓄積されないですよね。使う側も電話をかけて「前例がないので」と一旦断られてしまうと、それであきらめてしまう。
なぜ「あきらめる」のか? 気力が続かないからなのだ。もう窓口で相談するだけで体力気力を消耗疲弊し、担当者が否定的な言葉を発しただけで、その次の方法を考える気力など残らないのだ。
難病患者の人たちというのは、わたしを見ていただければわかるとおり、見た目でその辛さや、障害の度合いを判断することはむずかしいですよね。こうした「見えにくい障害」は、現行制度の中では、判定の過程で障害を軽く見積もられがちなんです。そういうシステムになっている。3つの分類にきちんと収まらないために、いわゆる「制度の谷間」といわれる部分に落ちてしまうのです。
これこそが問題なんだと思われる。
最新の推計で
数値で見ると、約10倍の違いだが、個別に見ると実は、亡くなっている方も半端ではないのを考慮にいれていない。
難病患者のほとんどは、見た目は健常者と全く区別がつかない。手も足もあるし、普通に歩ける人もいるし、リウマチ患者の方と似ていると言えば分かりやすいかもしれない。気をつけて見ると、指の関節が変形していたり、というのと同じレベルだ。
ちなみに自分は7年前に全身性強皮症と診断されたが、見た目は元気、上から下まで気をつけて見てもどこも健常者と変わらない。手指を触わると、え?と驚かれるぐらい硬い。寒冷刺激でレイノー(指先などに血液が行かなくて真っ白や紫色になること)が出ても大概手袋をしているので分からない。マスクをしていても、最近インフルエンザが流行っているのでまったく周囲と違和感がない。
そういう自分も大野更紗さんと同様、診断ジプシー約半年。たらい回しの末、とある大学病院の膠原病内科で「たとえ、精密検査で確定診断できても、今の医学ではどうすることもできない」と確定診断すら断られた。
夫とともに絶望しせめて静養のためにと引越しまでしたあと、ネットで研究班の存在に辿り着き、窓口のドクターにメールで相談できた。そこから一気に、確定診断、治療方法を決めるための検査入院。ステロイド剤投与量が決まって、するすると症状が回復した。今は一定量のステロイドと血管拡張剤が、自分の身体を見かけ健常者にしてくれている。
そうじゃない同病者もかなり多く、自分は半年と言えども、確定診断が早かったお陰で内臓病変までの進行を免れた口なのだ。指に潰瘍もないし、模範的患者とも言える。もちろん、薬の副作用や、細々した不具合は置いておくとしてだ。
なんだかんだと言って自分には何も変える力はないけれど、忘れたくないのは、自分が「困ってるひと」になって初めてイロイロな気づきがあったこと。感謝とまでは言わないが、これは大切な財産かもしれないと思っている。
経済成長で全体のパイの大きさを何とかして大きくしようと努力する人たちがいて、かつわたしたち側というか、制度や社会保障とか「困ってるひと」の問題について考える側は緻密なパズルを組み合わせていく
大野更紗さんがそうおっしゃっていたとおり、パイを大きくすることも勿論必要かもしれないが、パイの切り分け方をもっと真剣に考えて欲しい、切り分けたパイの運び方も考えて欲しい、切にそう思う。そのために自分にできることは何なのか?今の迷いはそれだ。
現状、現場では
それを切り分ける側も、もらう側も、明快に解るような指針なるものが必要なんだと思う。
大野更紗さんがおっしゃるセーフティネットが「スカスカ」の意味を実感できている人がどれだけいるだろう? セーフティネットの隙間からこぼれ落ちている人が一体どれだけいるのか自分には把握できない。同じ難病患者でも、症状が軽ければ気付かずに過ごしてしまうところだろう。
しかし、居るのだ。実際に「困り果てている」にも関わらず、命に関わるかもしれないにも関わらず、見捨てられている人達が。福祉を受ける側にも「格差」があり、症状が重篤なほど本人は何もできず、何かをする術も知らず、それでも生きているしかない。そんな人達をすくい上げることが、今後私たちにできるのだろうか?
この数値は行政が把握して受給票を発行している人数 (横道だが、たまたまご近所で同じ病気の方が2人いて、確定診断されたときにはすでに「間質性肺炎」という重篤な内臓病変が進行しており、立て続けに亡くなったばかりだ) であり、実際の人数は不明だ。
「健康で文化的」とまでは言わない。憲法に謳われている「最低限度の生活を営む権利」が侵されたとき、「命」の不公平さを感ぜずにはいられない。
元ネタ:モテる女子力を磨くための4つの心得 http://youpouch.com/2011/04/26/162331/
こんにちは、現代思想系文芸批評を専攻しているエス嬢です。私は形式論理も自然科学も分かりませんし知の欺瞞ですが、現代思想に関してはファッショナブル。今回は、モテる現代思想系女子力を磨くための4つの心得を皆さんにお教えしたいと思います。
あえて2~3世代前の人間観を持つようにしましょう。そして飲み会の場で好みの男がいたら話しかけ、わざとらしく主体を過剰に根拠化してみましょう。そして「あ~ん!この主体本当にマジでチョームカつくんですけどぉぉお~!」と言って、男に「どうしたの?」と言わせましょう。言わせたらもう大成功。「主体性とか詳しくなくてぇ~! ずっとコギト信じてるんですけどぉ~! 自律してるんですぅ~! ぷんぷくり~ん(怒)」と言いましょう。だいたいの男は生=政治を批判したがる習性があるので、古かったとしても構造主義的な人間観を持っているはずです。
そこで男が「近代的人間主義の客体化しないの?」と言ってくるはず(言ってこない実直な実証研究系の男はその時点でガン無視OK)。そう言われたらあなたは「なんかなんかぁ~! 最近アガンベンが人気なんでしょー!? あれってどうなんですかぁ? 本質としての主体欲しいんですけどわかんなぁぁああい!! 私かわいそーなモダニスト★」と返します。すると男は「潜在性としての実存でしょ? 例外状態に集約されない共同体はまだ到来してないよ。本当に良くわからないみたいだね。どんな<主体>幻想が欲しいの?」という話になって、次の休みの日にふたりでデカルト以降的人間観の脱構築に行けるというわけです。あなたの女子力が高ければ、男が文学における作者の死も宣言してくれるかも!?
「人間理性の限界」とか「理系コンプレックス」などを表現する「不完全性定理」をテクスト批評に入れると、男性ポストモダニストは「なんかこの子アカデミズムに回収されないなぁ」や「対象aかも」と思ってくれます。現代思想上では数学基礎論のイメージだけが都合よく曲解されて相手に伝わるので 「不完全性定理」 を多用することによって、男性はあなたをポストモダニストらしいと勘違いしてくれるのです。そういうキャラクターにするとほぼ絶対に自然科学者・数学者・論理学者・分析系哲学者に嫌われますが気にしないようにしましょう。
3. とりあえず男には「えー! なにそれ!? 知りたい知りたーい♪」と言っておく
飲み会などで男が女性に話すことといえばポストコロニアリズムやフェミニズムの話ばかり。よって、女性にとってどうでもいい話ばかりです。でもそこで適当に「へぇーそうなんですかぁ~?」とか「よくわかんないですけどすごいんですねぇ」と返してしまうと、さすがの男も「この女伝統的な古典文学研究志向だな」と気がついてしまいます。学究の徒だとバレたら終わりです。そこは無意味にテンションをあげて、「えー! なにそれ!? 知りたい知りたーい♪」と言っておくのが正解。たとえ興味がない話題でも、テンションと積極性でその場を乗り切りましょう。積極的に話を聞いてくれる女性に男は弱いのです。
いろいろと話を聞いたあと、「脱構築は正義で、テクストの外には何も無いんですね! 覚えたぞぉ! エクリチュールでメモメモ!」とコメントすれば常にあらかじめ差延が発生。続けて頭に指をさしてくるくる回しつつ「デコンデコンデコン! デコンデコンデコン!」と言って、「どうしたの?」と男に言わせるのもアリ。そこで「私のロゴス中心主義をデコンストリュクシオンしているのでありますっ☆」と言えば女子力アップ! そこでまた男は「この子脱構築そのものをも脱構築し続ける運動を動的に受容してるのかも!?」と思ってくれます。私は形式論理も自然科学も分かりませんし知の欺瞞ですが、こういうテクニックを使えば知識を持たない私のようなバカ女のほうがモテたりするのです。男は優越感に浸りたいですからね。
4. レストランではレディースセットを食べられない娘をアピールせよ
男とレストランに入ったら、真っ先にレディースセットなどの女性限定のメニューを探して「あーん! 私これ食べられないんですよねぇ~(悲)」と言いましょう。するとほぼ100パーセント「どうして? 嫌いなの?」と聞かれるので、「嫌いじゃないし食べたいけど食べられないんですっ><」と返答しましょう。ここでまた100パーセント「嫌いじゃないのにどうして食べられないの?」と聞かれるので、うつむいて3~5秒ほど間をおいてからボソッとこう言います。「……だって、……だって、セクシャルマイノリティを排除するマッチョの論理じゃないですかぁっ! LGBTかわいそうですぅ! ジェンダーは社会的に構成されるのにぃぃ~(悲)。わたし実は男の娘なんですよ……」と身を震わせて言うのです。
その瞬間、あなたの女子力がアップします。きっと男は「なんて優しい天使のようなコなんだろう! 絶対にゲットしてやるぞ! コイツは俺の男の娘だ!」と心のなかで誓い、あなたに惚れ込むはずです。意中の男と付き合うことになったら、そんなことは忘れて好きなだけレディースセットを食べて大丈夫です。「食べられないんじゃなかったっけ?」と言われたら「大丈夫になった」とか「差別の暴露がむしろ差別を固定化/再生産する」、「男の娘はネット上では既に市民権を得た」と言っておけばOKです。
関係各分野の皆さんごめんなさい
「例外状態を実現する共同体はまだ到来してないよ」はおかしいのでは、という指摘がtwitterでありました。
なんちゃってIT「エンジニア」の id:koseki です。ITだけが技術だと思いこんではいませんけども。
「安全を金で売り渡す」というのは多かれ少なかれ誰でもやっていることです。
問題は、「安全を金で売り渡す」というその安全が、他人のものだということです。人の命を賭け金にして自分の儲けのために博打を打つ、という行為を、正当化できるとは思えません。ギャンブル依存症のような経済学者や評論家が言う「リスク」という言葉から抜け落ちているのは、この不正義の感覚だと思います。
「エンジニア」がリスクを数字で見積もることももちろん必要でしょうけれども、それは議論の全体ではない、という点を、まず指摘したいです。
「死者ゼロ」という表現は正確ではないと思います。震災1週間後には、次のようなニュースが出ていました。
【東日本大震災】福島原発の避難所死亡、21人に 病院の入院患者ら - MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110318/dst11031807500008-n1.htm
福島第1原発(福島県大熊町、双葉町)の事故をめぐる避難指示を受け、大熊町の「双葉病院」から避難した入院患者ら高齢者の死者数が、同県いわき市など3カ所の避難所で計21人に上っていたことが17日、分かった。
入院患者衰弱死の現場「想像以上」 原発事故で避難も…医師語る 社会 福井のニュース :福井新聞
http://www.fukuishimbun.co.jp/localnews/society/27092.html
白い防護服に身を包んでバスに乗り込むと、思わず息をのんだ。マットレスと掛け布団にくるまれた高齢の男女が座席にあふれ、衰弱しきっているのかほとんど動かない。排せつ物で汚れた布団。通路にも何人かが横たわり、女性が「足が、足が」と、か細い声でうめいていた。
福島・双葉病院「患者置き去り」報道の悪意。医師・看護師は患者を見捨てたりしていなかった(追記あり) - 絵文録ことのは - BLOGOS(ブロゴス) - livedoor ニュース
http://news.livedoor.com/article/detail/5424517/
以上の流れをもう少し簡単にまとめると、「自衛隊が来るが、寝たきりや車いすの患者が搬送できず、一旦戻る」→「2度目の救援が来ない」→「一緒に残って いた警察の指示で職員が川内村に避難」→「自衛隊と一緒に病院に戻ろうとする」→「避難地域なので一緒に行けない」→「自衛隊だけが救援に」→「2・3回 目の搬送の際、病院関係者は誰も現場に居なかった」→「職員が患者置き去りで逃げたと報道」という流れになる。
この方々は、原発事故のせいで避難しなければ、助かった可能性が高いと思います。原発事故による二次的な被害を含めれば、「死者ゼロ」とは言えません。
個人的にはBPの原油流出事故の方が死者も出ているし汚染もひどい事故のような印象がありますが、まさに「比較」や検証を客観的に行うことが大事というのは大いに同意します。
大気汚染についてはわかりませんが。自分の「印象」では、福島の方が重大な事故だと感じます。
事故被害の一次的な死者数は、リスクを見積もる上で確かに重要なパラメータだと思いますが、それが全てであるかのように言うのは、ある種の誤魔化しだと思います。
たとえば、一歩間違うと大変な数の人命が失われた可能性があるが、幸い誰も死ななかった、というタイプの事故があると思います。そういったリスクを、数少ない事故例をサンプルとして、死者数から見積もれるかどうかが、疑問です。年に何十回、何百回と原発事故が起きていれば、だいたいこのくらい死ぬのだな、とわかるかもしれませんが、、。
それから、津波のがれきの下に生きている人がいるかもしれないにも関わらず、ハイパーレスキュー隊が原発へと向かったということがあります。
asahi.com(朝日新聞社):東京消防庁ハイパーレスキュー隊など139人が福島入り - 社会
http://www.asahi.com/national/update/0318/TKY201103180121.html
原発のリスクが本当にそれほど大きくないなら、一旦原発は放置して、救える命を救う方が良いと思います。福島原発の事故処理が、これほどリソースを消費しているのはなぜなんでしょうか。原発の潜在的なリスクが巨大だからだと、自分は理解しているのですが。
現代ではどんどんシステムが大規模化しているわけで、そうなればなるほど原子力に限らず事故が起こった場合の被害は増大するわけですから。
システムが大規模化した場合、モジュール化してリスクを分割・分散することが必要です。小さなシステムの集合体として大きなシステムを構築すべきだと考えます。原発のリスクは大きく、全体を制御しきれていません。代替エネルギーによって、大きなリスクを解体し、正確に制御できるようになることを期待します。
東京電力には大変に優秀な、非なんちゃって「エンジニア」の方が大勢いらっしゃると思います。彼らの知見を、当面運用し続けなければならない原発の安全性向上と、脱原発のプラン作成、代替エネルギーの技術開発に最大限生かしていただきたい。墓守のような原発維持の仕事よりも、新しいエネルギーを生み出す仕事の方が、技術者としては面白いのでは、と想像しています。現実問題として、どちらも大切な仕事だと思いますが。
自分は今回の事故後、代替エネルギー技術の進歩を推し進めるために、政府は脱原発の方針を明確に打ち出すべきだと考えるようになりました。あまり数字には具体的な根拠がありませんが、
今後30年で全54基稼働停止
(http://anond.hatelabo.jp/20110409164209からの続き)
今回の未曾有の原子力災害に関しては、政府の災害対策本部の指揮・命令のもと、国を挙げてその対策に当たっているところであり、当学会の気象学・大気科学の関係者が不確実性を伴う情報を提供、あるいは不用意に一般に伝わりかねない手段で交換することは、徒に国の防災対策に関する情報等を混乱させることになりかねません。放射線の影響予測については、国の原子力防災対策の中で、文部科学省等が信頼できる予測システムを整備しており、その予測に基づいて適切な防災情報が提供されることになっています。防災対策の基本は、信頼できる単一の情報を提供し、その情報に基づいて行動することです。会員の皆様はこの点を念頭において適切に対応されるようにお願いしたいと思います。
不確実な情報で混乱させないように注意されたし、という日本気象学会から会員への呼び掛け。自粛要請ではない。
火山防災に携わってきた小山真人静岡大教授は、かつて雲仙岳の噴火で火砕流の危険を伝えることに失敗した経験をふまえ、「通知は『パニック神話』に侵されている。住民は複数の情報を得て、初めて安心したり、避難行動をしたりする。トップが情報統制を命じるのは、学会の自殺宣言に等しい」と話している。
マスメディアや一部の研究者、ネットユーザーはこれに猛反発した。
また、気象学会の方針とは関係ないのだが、時を同じくして別の事実が発覚した。IAEAの要請により気象庁が放射性物質の拡散を連日予測していたが、国内には公表していなかったというもの。マスメディアなどはやはりこれを徹底非難した。
日本政府が公開しないことについて内外の専門家からは批判が上がっており、政府の原発事故に関する情報開示の在り方が改めて問われている。
被ばく医療に詳しい長崎大学の長瀧重信名誉教授は「国は、どれぐらいの被ばくが予想され、どれぐらいの危険があるかをもっと公表し、住民と共に避難などの対策を決めるべきだ」と話すなど、今回のような予測データの公表の在り方を巡ってはさまざまな意見があり、今後検討の対象になりそうです。
本当にめちゃくちゃな話です。これは国民に対する裏切りであり、情報隠蔽と言われても仕方ないと思います。気象庁によれば「要望があれば公表したい」とのことなので、はやく公開して欲しいと思います。ていうか要望するに決まってますやん。
では、何故政府はこれを公表しなかったのか。
つまり、この予測は極めて精度の低く、しかも観測によって裏付けられていない机上の予測。原発から数千kmとか数万km離れた外国では参考になるかも知れないが、原発から1000km圏内の国内ではあまり参考にならないので公表しなかった、という。これは納得できる説明だと思われる。
例えば、東大教授の早野龍五はその1週間以上も前からprediction(予報)よりもpostdiction(検証)すべきだと主張している。
どこの誰だか分からないが、高エネルギー加速器物理が専門というbunogetoも同意見。
枝野官房長官は4日午後の記者会見で、「少なくとも隠す必要のない情報。誤解を生まない説明を付けて、公表すべきだった」と述べた。
政府は公表しなかったことを反省した、というだけ。枝野の説明とか、予測はあくまで予測なのだからあまり信用すべきでないという研究者の声も全然紹介されていない。
つまり、本来はさほど重要でない、というよりも誤解を招き易い情報を公表しなかっただけなのに「隠蔽」と批判され、何故公表しなかったのかをちゃんと説明し、それを支持する研究者もいるのに報道されない。こんなバカな話があるか。
というわけで、読売新聞の説明は不十分、というよりもミスリーディングで、これのために誤解が広まったようです。さて、読売新聞の記者はこれをどういうつもりで書いたのか。本当に意味を知らなかったのか、あるいはわざとやったのか。単に説明不足では済まないように思いますが、どうでしょうか。
日本の研究機関のシミュレーションがなかなか発表されないのは問題なのですが、だからといって外国のシミュレーションを見て「なんの目的で、どのように行なったか」を調べもせずに「大変だ大変だ」と大騒ぎするのも、まずいでしょう。それは結局「デマ」以外のなにものでもありません。これをなんの注釈もなく紹介したマスコミや「大変だ」と大騒ぎしたジャーナリストなどは、情報を読む能力がないだけでなく、「デマの発生源」にもなっているわけですから、反省してもらいたいものです。訂正なり反省なりがない限り、僕ならその人たちの言うことを今後信じませんね。
次の産経の記事も大同小異。
ドイツや英国、フランス、オーストリアなどの気象当局や原子力当局が、福島第1原発から放出された放射性物質の拡散状況を独自に予測、ホームページ上で公開し、注目を集めている。こうした背景には、1986年に起きた旧ソ連のチェルノブイリ原発事故で放射性物質が欧州に飛来し、飲料水や野菜などが汚染されたことがある。国際原子力機関(IAEA)からの要請を受け、日本の気象庁も放射性物質の拡散予測を行っているが「仮定の数値のため、予測精度が低い」として5日まで非公表にしてきたのとは対照的。インターネット上では「日本政府は頼りにできない。貴重な情報源だ」などと評価する声が多い。
読売と異なり、産経では日本政府が気象庁の予測を公開しなかった理由も紹介している。ただし、専門家の意見は紹介せず、「日本政府は頼りにできない」というネットユーザーの声を紹介。ド素人のネットユーザーからの評価なんてどうでもいいだろ、バカ。
政府や東電がより多くの情報を公表提供するだけならば、さほど問題はない。しかし、それを国民に周知させるマスメディアは、周知させるべき情報を精選しなければならない。
このようなときに、「学問」の本質が判っている学者はどういうふうに発言するでしょうか。「学問的に、わたくしの研究では100ミリシーベルトぐらいまでは大丈夫だと思います。しかし一部に、100ミリシーベルトを浴びると1000人の内に5人から10人の人がガン(過剰発がん)になるという結果もあります。もともと学問は、真実が判っているわけではないので、皆さんはできるだけ放射線に被曝しないように気をつけてください。学者は新しい知見があれば論文を出すことができますが、皆さんの健康は損なわれると元に戻ることはできません。従って、国際放射線防護委員会で決められたように安全という意味では、「1年間に1ミリシーベルト」を目安に生活設計をされた方がよいと思います。お役所も市民を守るのが役目ですから、法律に基づいた値で市民の健康を守ってください。」今、福島市で行われていること、学問的に言えば「人体実験」ということができます。つまり学問は「100ミリシーベルトだから大丈夫だ」ということを断定的にいう事ができないのですから、学者が自分の判断で勝手に被曝量を決めるということは、学問の本質に反することなのです。
通説では人体に危険がないとされている100ミリシーベルとの被曝でも、人体に有害だとする研究が一部にあるという。しかしだからと言って、
従って、国際放射線防護委員会で決められたように安全という意味では、「1年間に1ミリシーベルト」を目安に生活設計をされた方がよいと思います。
などと忠告することは完全に間違っている。100ミリシーベルとの被曝ならば人体に危険がないと証明することは、悪魔の証明に近い。考慮する必要のない可能性まで考慮していたら、人は何も出来なくなってしまう。
例えば、被災地で「外国人窃盗団」「雨当たれば被曝」などのデマが広がっているという。
では、これがデマだと証明することが出来るだろうか。「外国人窃盗団が横行しているが、警察が把握できていないだけかも知れない」「雨に当たれば被曝するが、現在の科学が観測できていないだけかも知れない」という可能性は決して皆無でない。しかしだからと言って、そのような皆無に近い可能性を警察や現代科学よりも信用するのは完全に間違っている。
これは原発事故についても同様だ。福島の原発が暴走して日本とブラジルを一つの穴で繋いでしまう可能性も、月が明日地球に落下する可能性と同じく決して皆無でない。しかしそのような考慮すべきでない可能性を、たとえ「可能性」としてでも発信したならば、異常な状況にあって判断力の低下している人たちは少なからず混乱するだろう。
いや、彼らが言っているのは可能性の話なので。原発の事故に関しては、必ず最悪の事態を想定して書いて、その上で現状はこうですよ、というのは正しい報道の仕方だと思います。日本のように「安心です、安全です。逃げなくていいです」って新聞やテレビが言っちゃ駄目ですよね。海外メディアの取り上げ方は、全然問題ないと思います。不安を煽るのではなくて「ここまでになる可能性はあります。ただし、現状はこういう状態なので、今は安心してください」とやればいいわけですから。
これも大いなる幻想によるものだ。毎日様々な事象について「これこれこういう可能性もあるが、しかしこれこれこういう理由により現在は安全だ」と報道しても、人々が正しく理解できるとは考え難い。
プレゼン用語に「take home message」というものがある。「これだけは覚えて帰って欲しい要点」の意味だ。そして結局のところ、国民が覚えて帰りたがっているのは、現在自分は安全かどうかということでしかない。その要点のみを強調し、必要でない情報を強調しないことは決して間違いでない。
【ベルリン=弓削雅人】国連の放射線影響科学委員会(事務局・ウィーン)のワイス委員長は6日、福島第1原発事故について「チェルノブイリ原発事故(1986年)と、米スリーマイル島原発事故(79年)の中間」との見解を示した。事故の国際評価では「レベル6(大事故)」に当たる。AP通信が伝えた。
ワイス委員長は「(第1原発事故は)チェルノブイリほど大規模ではないが、スリーマイルより深刻であることは確かだ」と述べた。チェルノブイリは「レベル7(深刻な事故)」と最悪の評価を受けている。
一方、第1原発が太平洋に面しているため、「放射性物質の大部分は希釈され、人体への影響は少ないだろう」と説明。事故の初期対応については「チェルノブイリの時とは大きく異なる」と指摘し、「妥当」と判断した。
マスコミは「福島は危険」「放射線は身体に悪影響」しか報道されていない節があります。
後付で「このレベルでは身体に害はありません」と言うだけ。パニックを抑えるなら言う順序が逆では?「放射線の数値が通常より若干高い値を示していますが、体に影響のある数値ではありません。各地の数値は~」と言うのが報道の仕事ではないのでしょうか?
「ただちに健康に影響を与えるものではない」-。野菜や飲料水などから基準(規制)値を超える放射性物質(放射能)が検出されたとき、枝野幸男官房長官が繰り返し使った言葉だ。この言葉に「ただちに影響がなくても、何年か後に影響が出るんだろう」と思った人も多いのではないか。実際は現在までに検出された値では将来的にも健康への影響はなく、「ただちに」という言葉を使ったことに疑問を投げかける専門家も少なくない。
政府は「ただちに影響ない」でなく「影響ない」と断言すべきだ、という他に類を見ない批判だ。しかし、もし「影響ない」と断言すれば、政府は将来における危険の可能性を隠蔽し偽りの安全を演出している、と批判されることになるだろう。問題は政府が「ただちに」を使うかどうかでなく、マスメディアがそれを「安全だ」と報道するかどうかでしかない。
(http://anond.hatelabo.jp/20110409170039からの続き)
事故発生当初から「東電は事故に関して隠している、嘘を言っている」、「政府は騙されている。メディア、記者クラブは、東電が最大の広告主、クライアントだから遠慮して言えないのではないか」と、自分の出演しているメディアやラジオ番組で言い続けていました。
いま再び、70年前(太平洋戦争末期)の大本営発表と同じことが、起こっているんだなと思います。歴史の教科書をみて「こんなことがあるわけないだろう」と思っていたことが、実際に、目の前で起こったことに、びっくりしています。まさか自分がそんなことの当事者になるとは思わなかったので(苦笑)。
日本人は小さい頃から新聞とテレビは正しい。雑誌とインターネットは嘘ばかりだ。と思い込まされているんですよ。ただ、新聞やテレビの情報は、政府の発表を記者クラブとしてそのまま報じる。彼らが独自に取材した情報と内容が違っていたとしても政府の発表を採用する。だから新聞とテレビは正しいと思っている国民は常にその情報を信じるから、今回も同様の洗脳が起こっている。ただ、これまでとちょっと違うのは、若い人たちを中心にインターネットを通じて「あれ、何か違うんじゃないか?」とわかって来ていること。私のツイッターのタイムラインも今朝ぐらいから「新聞、テレビの言っていることと事実が違うぞ!」と結構大変なことになっています。まるで、エジプトとかチュニジアみたいに。明らかにそこが変化して来ていますね。
大本営発表の再来という誇大妄想と、自分が時代を動かすんだという自己陶酔で完全に正気を失っている。
だが、科学誌『Nature』は上杉などと全く逆の見解を示している。
JS: 〔…〕私としては、現在のデータの量と質は、満足できるものだと思います。でも、ご質問のとおり、計測方法なんかの情報が抜けてたりして、データの解釈かしずらいのは事実です。これは、ひょっとしたら、翻訳の問題なのかもしれません。もしかしたら、日本語のデータレポートは、もっと関連情報がしっかり網羅されてるのかもしれません。
GB: 私がひとつ言いたいのは、報道側がこの危機をどう報道していったかは、結構問題だったと思います。報道は、最大値ばっかりをレポートする傾向にあります。とくに、放射能汚染の場合は、最大値じゃなくて、ある一定の時間内での積算値が問題なわけで、最大値は、それだけじゃ、あんまり関係ないわけです。実際、低レベルの放射線が長期間続くほうが、ほんの瞬間の最大値よりもあぶなかったりするわけで。
また、辰巳はこうも呟く。
さきほどのツイートに関連して,こうした抑制的,かつ整理された情報発信を日本の信頼出来る科学コミュニティーから出来なかったことは,今回の本当に大きな反省点だと思う.少しこんな話をするのは早いけど,望まぬ”次”が来た時,きちんと役割を果たせる体制を作ることは我々の世代の使命だと思う.
門外漢ながらこれには同感。今回の震災で、日本の学会や学会誌は何とも頼りない。下手に東電を擁護しようものなら石を投げられそうな現状には同情するが、それでもバカなマスメディアとバカなネットユーザーに好き勝手させず、学会や有志が連名で声明を出すくらいのことはして欲しい。
TBSの松原耕二は、震災発生当日から報道特番で「政府は不都合な真実を隠しているんじゃないでしょうか」と明言し、「「念のための避難命令」という政府の説明はどうも納得できませんね」と連呼していた。
僕らは不安であっていいんだ。それは僕らの中の危険の感知装置が鳴っていることだから。自分で量りきれない恐怖があるときに僕らは不安になるだろう。そして、僕らは今存在する危機に対して、その可能性の正確なサイズや輪郭をつかめないでいる。その不安は僕らのものだ。警報を切ってはいけない。
不安を増幅してはいけない、というのは、政府や既存の権力が望むことだ。なぜなら、不安は人々を駆り立て、秩序を破壊することがある。けれども、今、政府が恐れていることは、人々がどこかに殺到して怪我人や死者が出ることではない。暴動が起きることでもない。そうではなくて、原発政策が根本的に覆されることだ。今すぐ原発を止めろ、という人が増殖することだ。彼らは事故に寝るヒマもなく対応しながらも、今もそこを必死に守ろうとしている。
不安を煽るということを許さない自警的感情は、すぐに不安であることを許さない、という事態につながっていく。しかし、全員の心をそのように一つに塗り込めていくことは危険である。不安は自然であり、この危機に不安を持たないことは不自然である。不安ではない、ということを強制すれば、その感情はいずれなんらかの形で暴発する。あるいは一人一人の心がこわれ、あるいは集団的な行動を誘発する。
どこかの気持ち悪い物書きの文章。
「風評被害」というのは「悪いことでも異常なこともなく」、情報が不足した時に起こる「正常な人間の社会活動」ということです。だから、風評被害をなくすには、一にも二人も人間が自分を守りたいという本能に適した「正確な情報を提供する」ということなのです。
最近、このような主張が散見される。その理由はきっとこうだ。「政府や東電は原発行政を守るために偽りの安全を強調するに決まっている。だから安全だと強調されればされるほど不安になるのは当然だ」と。
では、何故不安を煽ってはいけないのか。それは、人は不安になると冷静な判断ができなくなり、誤った衝動に駆られるからだ。注意を促すことはよいが、不安を煽ることは絶対にすべきでない。
また、正確かつ十分な情報を人は必ず判断できる、ということもまた大いなる幻想だ。「自分が安心できないのは政府や東電からの情報が不十分だからだ。何故そうだと分かるかと言うと、それは自分が不安でいるからだ。自分が不安でいる理由は、それ以外に考えられない」。このような自己欺瞞の責任転嫁はもう止めてもらいたい。
群衆の行動や心理について詳しい新潟青陵大大学院の碓井真史教授(社会心理学)は「現在、自分が普段と違う心理状態だと自覚する必要がある。一部の極端な行動で多くの人が脅かされる。そういうことを皆が理解し、協力しようとすれば、パニックは避けられる」とアドバイスする。
「落ち着いてください」「安心してください」と言われれば言われるほど落ち着かず不安になるのは、政府や東電が悪いのでない。それはそうなる人の心理が異常を来たしているのだ。「情報や説明が不十分不正確だ」と思うのは、ただそう思い込んでいるからではないだろうか。
東電の武藤栄副社長は25日の会見で「連動地震による津波は想定していなかった」「(貞観地震に対する見解が)定まっていなかった」と釈明。東電の対応に、岡村さんは「原発であれば、どんなリスクも考慮すべきだ。あれだけ指摘したのに、新たな調査結果は出てこなかった。『想定外』とするのは言い訳に過ぎない」と話す。
震災の発生以後、殊に原発事故の発生以後、「1000年に1度の大地震を想定していなかったのは怠慢だ」「これは天災でなく人災だ」という声がよく聞かれる。こういった東電非難の意見が、私にはよく分からない。
もし国や地方自治体、東電以外の企業などがすべて1000年に1度の大地震を想定していたのならば、今回の原発事故は人災と言ってよい。だが、そんなものを想定していた団体はどこにも見当たらない。東電だけを非難するのは全く不公平だろう。
「仙台に巨大津波が押し寄せる恐れがある」と16年前に警告を発していた郷土史家がいる。津波の歴史を研究し、対策の充実を訴えていた仙台市宮城野区の飯沼勇義さん(80)。東日本大震災の大津波を目の当たりにし、「行政も住民も危機管理が不十分だった」と悔やんでいる。
飯沼さんが暮らす宮城野区蒲生のアパートも津波で壊滅的な被害を受けた。身を寄せる避難所で飯沼さんは「歴史は繰り返す。震災を教訓に、津波対策や避難誘導のシステムを早急に構築するべきだ」と語っている。
仙台への大津波を警告していた郷土史家もいたが、その本人のアパートでさえ津波で甚大な被害を受けるほどの、つまり想定以上の大津波だった。
WSJ:東電は甘かった?
米倉氏:甘かったということは絶対にない。要するにあれは国の安全基準というのがあって、それに基づき設計されているはずだ。恐らく、それよりも何十倍の安全ファクターを入れてやっている。東電は全然、甘くはない。
GB: 原発は、すべて、ある程度のリスクはこえられるように設計されてます。ここで留意しておきたいのは、福島の原発は、設計段階で考えられていた最大の災害よりも何段階も上を行く大災害にみまわれたにもかかわらず、一応は、破壊されずに、まだ残っているわけです。
今回の震災では、2万数千人が大津波の犠牲になった。筆舌に尽し難い被害だ。しかしこの被害について、「国や地方自治体が1000年に1度の大津波を想定し、沿岸から数km圏内の住民に立ち退きを命じていれば2万数千人は死なずに済んだ。だからこれは天災でなく人災だ」と非難する人は誰もいない。沿岸に原発は造っちゃいけないが人間は住まわせてもよい、などということにはならないだろう。
しかも今回の原発事故では、将来を悲観して自殺した農家を除いて、まだ誰も死んでいない。これは事実だ。まだ誰も死なせていない原発事故は2万数千人の津波被害と比べて軽微だ、などと言うつもりは毛頭ない。原発事故によって多くの福島県民の生活が破壊されたことも、また事実だ。しかし、東電のみを非難して国や地方自治体を非難しないのはどう考えても不公平だ。
「津波が想定を大きく超えた」という。早い話が、東電の想定が間違っていた。地球や自然への畏敬(いけい)が足りず、結果として津波に負ける原発を海辺で動かし続けた。天災が暴いた人災である
東電に「地球や自然への畏敬(いけい)が足り」なかったのであれば、庁舎ごと津波に飲み込まれた南三陸町なども同然なのではないか。
ここぞとばかりに反原発を唱えてる人へ
警鐘を鳴らしていた(キリッとか知った事言ってるけど
今回の津波は日本最高新記録なんだけど予想できたの?
あ、予想してた?
こんな津波来るって予想できたなら
先に堤防が無い町に警鐘を鳴らしてやってくれ
放射能汚染は元に戻るまで長い年月が掛かるから次元が違う、という意見もあるかも知れない。しかしそれだったら、犠牲者の埋葬は1年も掛からないから大したことはない、ということにならないか。死者はもう二度と元には戻らない。
ただし、「私は東電を許します」という発言は記事に見られないので、そこは印象操作かも知れない。
上記のような東電非難を口にする人は、そもそも原発が嫌いな人が少なくない。また原発嫌いでなくとも、こういった大災害では誰もが怒りや悲しみの捌け口を求める。東電は格好の悪玉候補だった。しかし理不尽不公平な非難は決してよい結果を生まない。
原発事故処理の最前線は如何に苛酷な環境かが報道されても、聞かれるのは「やっぱり東電は酷い企業だ」「国はちゃんと東電を監督しろ」といった非難ばかり。「現場作業員のために、みんなで食料や寝袋を送ろう」なんて応援活動は全く聞こえてこない。
激励慰問の手紙を送ったアメリカの小学生の方が、人としてよほど真っ当だと思うのは私だけだろうか。
危険な状態が続く東京電力福島第一原子力発電所。国民の不安といらだちが募る中、東電や社員への苦情や脅迫、嫌がらせが目立ち始めた。東電は社員の安全を守るため、社員寮の表札から社名を消した。警視庁も警戒を強める。
護憲・反核・薬害問題に対する活動をしている女性・星アカリさんが、インターネットコミュニケーションサイトTwitterで「東京電力社員の子供を全員がボイコットしなさい」などの発言をし、インターネット上で炎上状態となっている。
社員やその家族が身の危険を感じるほどの東電叩き。なのに流石は糞っ垂れのガジェット通信。
果たして現在、国民は政府や東電を正しく冷静に評価することが出来ているだろうか。
こうした政府の対応について、災害時の心理に詳しい広瀬弘忠東京女子大教授(災害・リスク心理学)は、「パニックを恐れて、余計な情報は出さないという心理が透けてみえる」と話した。避難指示の範囲が拡大された理由の説明も遅れた。広瀬氏は「わかること、わからないことをはっきりさせて、説明するのが危機管理の基本だ。大変なことが起きているのは、すでに皆がわかっている。私たちのリスク観はもっと成熟しているのにバカにしている」と批判した。
週刊現代も同様のバカ記事を書いている。
政府や東電の対応や情報公開に問題があることは事実だ。これらの記事は、不適切な対応や情報公開はすべて故意や怠慢によるものだと決め付けている。だが、このような冷酷な減点法こそが不適切だろう。
1000年に1度の大震災が発生した時点で、すでに満点の対応を期待することは出来なくなった。譬えるなら、100点満点のテストをマイナス数十点のハンデ付きで受験するようなものだ。政府と東電さえしっかりしていれば何も問題は起こらなかった、などという仮定は成立しない。
しかも、政府や東電もまた被災者だ。負傷者がより深刻な負傷者を手当てしているようなものなのだから、対応に不備があったからと言って叱責するのは余りに冷酷で不当だ。
今原発内にいる人達は、みんな命懸けです。きっと、報道されてること以上にやってることもあると思うし、報道されてほしいことが報道されてなくてってこともあると思う。私は、東電社員だったことを誇りに思うし、今原発内にいる東電社員の方々を本当に誇りに思います。予想外の津波がきて、原発での事故が起こってしまった。でも誰も悪くない。東電が悪いわけじゃない。誰も悪くないんだよって思う。色々な批判や、文句がある。でも今も寝ずに国民の安全の為に、一生懸命原発内で戦ってる東電作業員がいることを忘れないでほしいと思います
WSJ:当局への不信が国民にみられる。東電の責任問題、情報公開問題はどうか?
米倉氏:一生懸命やっている。考えられていないが、東電自体が被災者だ。従業員が津波に流され、機器も津波に流されているところがある。そういったなかで一生懸命努力をしている。
これらを関係者による身内贔屓などと切り捨てるべきでない。
GB: 〔…〕あと、付け足しておきたいのは、今の状況は、計測するにしても、かなり難しい状態だ、ということです。日本側の行っている計測やサンプリングにいちゃもんつけるのは簡単なことですし、まあ、そうやって、批判的に事態を見つめていくことも、大切だと思います。でも、特に震災の直後は、計測用の計器もままならなかったし、交通網もやられて、原発の周辺へ近づくことも、簡単ではなかったんです。
震災以前において、菅政権を信頼することは明らかに狂気の沙汰だった。それは同意しよう。私も数年前から一貫して、民主党などに投票するのは狂気の沙汰だと考えてきた。しかし震災以後、政府はかなりよくやっている。完璧ではないが、それでも国民から糾弾されるべきほどには酷くはない。
サッカーの試合で観客がすべきことは、「ドリブルで繋げ」「ディフェンスを上げろ」などと指示を飛ばすことでない。そんなことをしても大歓声で掻き消されてしまい、監督や選手たちの耳には届かない。たとえ届いたとしても、観客一人ひとりの指示に従っていたら試合を戦うことは出来なくなる。また、味方の監督や選手たちにブーイングを飛ばすことはもっと間違っている。もし味方のチームに勝って欲しいなら、観客は声援を送るべきだ。それが選手たちの士気を高め、勝利を引き寄せることになる。
現在の日本には、政権交代どころか、与野党が国会で議論している余裕すらない。国民はもっと政府を信頼すべきだ。政府や東電を信頼し、激励し、慰藉すべきだ。それが問題解決の何よりの手助けとなるだろう。
また、マスメディアは徒に政府への不信や不満を煽ってはならない。政府や東電の説明に不十分なところがあれば、その意を酌んで誤解のないよう報道しなければならない。政府や東電を叩いて足れりとするような報道は厳に慎むべきだ。
政府は日本の政府であり、東電は日本の電力企業だ。日本が一つになって頑張るために、今は政府や東電とも一つになって頑張ることが求められている。文句があるなら試合が終わってから伝えればいい。
http://anond.hatelabo.jp/20101111151244
トラックバックの中の内、http://anond.hatelabo.jp/20110202044044に対して、自分の分かる範囲で答えたいと思います。
自分もすべての事に関して詳しいわけではないので、わからないところもあります。その点はご容赦頂きたい。
ということで,
まさにその通りだと思います。
正社員職が(契約社員・派遣・フリーターなどの非正規雇用職に比べて)特権的なものであると薄々自分でもわかっているからこそ、解雇規制に反対する。まさか、自分の今の地位的経済的な裕福さが、非正規雇用の人の”犠牲”の上になりたっているという厳然たる事実を、正社員の人は明示的にでないにしてもわかっている。無意識的に理解はしていても、それを事実であるとは(口に出して、明示的に)認めたがらない。「自分が、他人の“犠牲”によって成り立たせるような”悪い”人間ではない」と思い込みたがるというバイアスがかかっているから。
実際に、民間企業に正社員として勤めてる友達に話そうとしても、仲がこじれそうで気軽に言えないわけですよ。理解力ある人ならいいけど、そうでない人に関しては絶交されるのも覚悟するくらいの意気込みで(それくらいの強い意志をもって)話さなきゃいけないのは辛いです。
ということで,
的確にまとまっていると思います。私にこれだけキレイにまとめるだけの文章力はないですw
解雇が比較的自由な理想的な労働市場を想像してみればわかると思うけど、今の正社員職と非正規職の垣根がなくなるわけです。つまり、(理想的な市場であれば)全員が正社員といってもいいし、全員が非正規雇用者になるようなものだと思います。解雇されやすい代わりに再就職もしやすい、そんな環境です。
解雇規制緩和に脊髄反射的に反対している人は、「会社に必要とされていない」と本人が一番感じているから反対するのかもしれない。解雇規制が緩和されたとして、会社が労働者を解雇しだすのかどうかというと実際はそんなことはないと思うのです。だって、企業が、その企業に固有の慣れ(職場の人間関係や慣習)を身につけている人をわざわざ解雇して失われる利益と、新しい人間を雇ってその企業に慣れさせるコストを比較したら、手間をかけて解雇して手間をかけて新たに雇うのはバカバカしくなるだろう。
だとしても、「自分は解雇されてしまう」と思う人は、「自分のやっている仕事は誰にでもできる仕事だ」ということに薄々感づいていて、言ってみればその会社に見切られたときに、他に行くあてがないということが分かっているのだと思う。つまり、その会社にしがみついていて、放り出されるのが怖い。クビにされたら再就職もままらないから怖い。それは労働市場において自分の価値が低い、と自分でもなんとなくわかっている人だと思う。
日本的雇用 -終身雇用・年功序列・新卒採用- を撤廃させるには、つまり雇用が流動化されるには少なからず混乱が起きるだろし、 落ち着きを取り戻したとしても決して全員の給料が良かった時代には戻れないだろう。 雇用流動化によって損をするのは既得権をもった人★29だ。誰も損をしない革命★30なんかありえない。 彼ら、いやあなた自身が血を流さなければ状況は全く変わらない★1-10。
「彼ら,いやあなた自身が」というのは誰なんでしょ?
上にも書いたとおり、労働者の大半をしめる正社員職の人にこそ、むしろ読んで欲しい、考えて欲しいと思って、先のエントリを書きました。
ちなみに http://anond.hatelabo.jp/20110130114254 のつっこみによると,
法的な問題は詳しくないので、あくまでも、一人の法律に関する素人として、日本社会の一人の市民としての意見として読んでください。
http://twitter.com/theophil21/status/26808239597289472#
(1)同感です。周知のように日本の法制度は、ドイツなどと異なり「正当な理由がない解雇は違法」というルールを設けてはいません。先進国ならどこでも違法である差別解雇や、期間を定めたにも関わらず期間途中で解雇する場合を規制しているほかは、労契法16条があるだけです。
http://roudoukeiyakuho.seesaa.net/article/89148150.html
◆ 定年制 ◆
就業規則に定めた定年制が、労働者の定年に達した日の翌日をもって、その雇用契約は自動的に終了する旨を定めたことが明らかであり、かつ、従来この規定に基づいて定年に達した場合は、当然雇用関係が消滅する慣行となっていって、それが労働者にも徹底している限り、解雇の問題は生じない。
☆しかし気を付けなければならいのは、定年後引き続き継続雇用されるという慣行があり、特定の労働者だけを継続雇用しないということになったら、定年による退職ではなく、解雇の問題が発生してきます。☆
まさにこの法律が反映された司法判決に関して城繁幸氏が指摘したことがある
http://twitter.com/joshigeyuki/status/8467969965297664
これ結構キツイかも。ますます内定率が落ちていく様子が目に浮かぶ。:定年後の雇い止めは無効「雇用継続期待できる」 http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/economy/policy/467815/
http://twitter.com/joshigeyuki/status/8483360695394304
裁判官のコメント意訳「業績悪いから嘱託雇い止めしたいっていうけど、新卒採っちゃダメでしょ。まず新卒採用から中止しないと」 もう無茶苦茶。http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/economy/policy/467815/
http://twitter.com/joshigeyuki/status/8629180774227969
問題の企業、従業員46人の中小企業なんだな。よく中小はクビ切り放題って言う人がいるが、だいたいはこういう風に法律守ってる。つまり、この判例はそういった多くの中小企業にも「負の影響」を与えるということ。
この司法判決一つで、数百、数千の新卒採用の枠が狭まっていく。
それはつまり世代間格差を助長させる。
http://twitter.com/theophil21/status/26813074828697600#
(8)わかりやすく言えば、「雇用は保障するから企業に服従せよ」という使用者側の提示に労働者側も応じていた、というのが実態でした。したがって、それにもかかわらず使用者が「めったなこと」も生じていないのに解雇することは、約束違反になるので、裁判所はこれを「裏切り」と判断してきました。
終身雇用と年功序列賃金とは、若い時の給料を不当に安くされるかわりに、ある程度年をとってからその分を貰うという後払いのことだ。
今までなんとなくは分かっていたのだが認めたくなかった。
それはつまり、今まで(バブル以前まで)の経済発展はある意味虚構だったのだ。
それはつまり、使用者は本来支払うべき賃金を後回しにして、その分を設備や価格競争に投資して業務拡大してきた。それが通用したのは団塊世代が40を超えるころになる1990年ごろまでだった(下記の画像参照)。1990年代がバブルの後処理でおわれたのでなんとなくやり過ごした気になっていたかもしれないが、団塊世代が高年齢化していくにつれ構造的に人件費が膨らんでしまう。
そして、そのツケは先の氷河期世代が負ったわけだ。なぜ、1990年以前はそれが通用したのかというと、すべての人、低所得者も含めての人の賃金があがっていったからだ(少なくともそういう幻想を抱けた)。それができなくなったのは、先の構造的欠陥もあるのだろうが、一番大きいのは物価が上がらないことだろう。そういう意味で財務省・日銀が(インフレを目的とした)大胆な財政・金融緩和を打たないのかが皆目わからない。
団塊世代が引退していく2006-2008年だけは特に景気が良く新卒採用も活発だったが、2010年卒から次の就職氷河期がツケを払っている最中だ。
今、画面の目の前で「んなモン、今の大学生は勉強してなくて馬鹿なだけで自己責任だろ」なんて思ってるそこのアナタに朗報!
そもそも、いつの時代も8割の大学生は勉強なんかしてないでしょう。団塊の世代は学生運動ばっかだったし、バブル期入社の人も研修旅行と称した拘束旅行に行ってたわけで。ちゃんと勉強している2割の人はいつの時代でもちゃんと就職出来てるわけで。ダメ人間で何もしない2割の大学生はいつの時代でも就職できないわけで。で、俺が問題にしているのは、遊んでいたとしても6割の普通の人は昔は就職できたのに、今の時代に生まれちゃっただけで就職できないっていうのは可笑しな話でしょう?
百歩譲って、そのことは認めたとしよう。それでも、この上下の世代間格差と同一世代内の格差をどうにか吸収できるシステムを構築しないと、勝ち組のアナタも結局不幸になるんですよ?え、だって、今の30代(=氷河期第一世代)って、世代内でものすごく格差があるでしょ?(参考→格差世代 - Chikirinの日記 http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20080421)
これ、ほっとくと危ないですよ。まだ、30代で派遣だったら今のところ問題がないように見えるかもしれないけど、20年後、30年後は間違いなく社会に負担が掛かる。それは生活保護受給者の激増という形に現れてくるだろう(予言)。正直、今の生活保護制度が問題ありすぎるから、そのころまで今のままの制度っていうのはありえないと思うけど、それに変わるセーフティネットに負担がものすごく掛かるだろう。それを負担するのは「自己責任だ!」と叫ぶ我々自身だろう。
この国の労働構造を変えないで、子ども手当も何もあったもんじゃない。
そもそも定職につけなければ子供を生もうなんて思えやしない。
それが大半の人の思うところだろう。
(日本のGDP:画像)http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/04122001/013/image/001_002_01.gif
(ソース)http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/04122001/013/001.htm
http://twitter.com/theophil21/status/26814303956897793#
(10)これに対して、濱口桂一郎先生が強く指摘されているように、中小零細企業では、「解雇の自由」という原則がずっと定着しており、国際的にみてもそれほど日本が異質なわけではありません。 他方で労働者の移動も頻繁であり、雇用保障と絶対的人事権の取引関係は希薄です。
中小企業にとっての解雇規制と大企業にとっての解雇規制は大きく異なる。
大企業は、裁判沙汰になって信用が失墜するのを恐れて今の法制度(法律、司法判断、省令等)では整理解雇をできない。事実上倒産したJALですら整理解雇が違法であるとして元従業員から訴えられている。普通に考えればそこまでリスクを取って整理解雇しようと思わない。
一方で、中小企業は社会的信用はそこまで気にしなくてもよいので、バシバシ解雇してしまう。
下でも言うように法律による解雇規制はそこまで厳しくないが、規制を頑なに守って身動きがとれない大企業と規制を建前として遵守しようとしないブラックな中小企業に二分化されている。
参考↓
“規制”と“規制の監視監督”の違い - Chikirinの日記
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20090112
「世代間格差~若者は犠牲者!? 老人天国ニッポン~」 - BLOGOS編集部 - BLOGOS(ブロゴス) - livedoor ニュース
http://news.livedoor.com/article/detail/5061847/?p=7
一方で、解雇規制の緩和方向に法律を変えたら、状況も変わると言う人が多いけれど、もっと根深い問題ですよね。実は法律上の解雇規制はそんなに厳しくない。大部分は司法でやっています。しかも、その司法判断を支えているのが、マスコミ的正義感です。労働弁護士とか、昔ながらの左翼的な人がたくさんいますよね。現在の日弁連の会長を含めて、正義の味方でメシ食っている人がいっぱいる。そういう人たちがマスコミは大好きなんですよ。
解雇規制に関しては、法律による規制が問題・なんじゃなくて、それの法律を元にした(城繁幸氏が指摘したような)司法判断が問題になっている。
このことは池田信夫氏が言うように非常に根深い。そして、私自身は(法律に疎いので)法律をいじれば解決するのかどうかはわからない。解雇規制は法律上の問題ではなくて、司法判断の問題だとしたら、そしてそれがマスコミ的正義感(つまり日弁連や社民党や共産党のように、正義を実践しれいるつもりなのだがそのことによって構造的に不幸を作り出している偽善的な正義感)に支えているとしたらマスメディアの問題でもあるし、そのマスメディアの情報を無批判に受け取っている我々自身の知性の問題であると思う。
参考↓
http://blog.tatsuru.com/2010/04/02_1243.php
「正社員の既得権ってまだタブー視されてるの?」というタイトルだけど,
>個人的には別にタブー視なんてされていないけど,それでメリットを受けている人がたくさんいるのでつっこまない
私は、上にも書いたように、頭の硬い友人には「話せない」わけですよ。
別に本人は自分が幸せならいいのかもしれないけど、彼は社会がどうあるべきか、という理念がない(ようにみえる)。
で、鋭い友人は先のエントリとこのエントリくらいのことなら大体分かっている。
で、大半の人(私の周りの友人含めて)は前者なわけであって、リアルではカンタンに話せることじゃない。
あらゆる計算や論理を支配する法則は実はたった「二つ」のシンプルなものです。
それは、「Aではない」と「Aか、Aではない」という二つの”動詞”です。これを簡単な英語で
表すと「NOT(否定)」と「OR(和)」となります。
一般的に論理演算は論理積 (AND)、論理和 (OR)、否定 (NOT) の「3ロゴスクミ」という
究極世界論理の組み合わせだけで表現されるのですが、実は論理和 (OR)と否定 (NOT)の「二つ」
から、論理積 (AND)は導くことができるのです(ド・モルガンの定理)。
ところで否定は「無」であるし、「AとB、君は誰とキスをする?」はどちらかを選ぶ「可能性」と解釈できるので、
究極のところこの世界には基本として「モノが有る」のではなく、「モノが無い世界が否定されて、