オロナミンCか……
調べたら、120mlで79kcalと結構カロリー高い。コカコーラ無印が 45kcal/100ml だそうなので、コーラよりもカロリー高い。
もちろん非モテで名をはせたみなさんはそんなこと言われなくったってわかってるって言いそうだけれども、それでもあえて繰り返すと「友達以上恋人未満は永遠に恋人に近づけない」
「うん、いい人だと思うよ。でも友達としてしか見れない」とか「すっごく好きだよ。ずっと友達でいてね」とか「アッハッハッハ。キミに告白されるなんてボクも女として見てもらえてるってことかな。アリガトな。戦友」とかとにかく非モテで優しくて性格がよくていいヒトのみなさんは女子たちからそれなりに信頼を得てそれなりに時間を共有しそれなりに友達以上でありながらあらゆる女子の恋人ラインに漸近するも永遠に交わらない。
そればかりかこの空間に無数に走るすべての女子の人生線に等しく近しいように見えてその実、等しく遠い人生線を歩む。友達以上恋人未満の人生線を永遠に歩む。
この人生線に絶望したみなさんは概ね二つの選択肢をとりがちで、ひとつは女子と交わらない人生線に満足する。別に交われなくてもめっちゃ近いならそれでいいって考える。うん。ある意味前向きだ。
もうひとつは3次元世界を呪う。3次元だから人生線が交わらないのだ。自分の人生線と女子たちの無数の人生線を2次元に投影すればめっちゃ交わるじゃん。エウレカ!
しかしてまた1人の3次元人が2次元にフェーズダウンする。でも恥じる必要なんかない。あくまで算数を応用して女子と交わろうとしただけなんだから。私もそうだし。
なにかなーと考えてたのだけど、まとまったので書き残す
・作品においては原画や演出も重要なのに、監督や脚本家でしか作品を選ばない
文系の院入学は”入院”、すなわち後戻りできない病院での長期”入院”と近しい意をもち
引き返せなくなるところまでは決して行ってはならぬ
というお達しをどこかで聞いた。
実際、大学院に進学して今年で三年。
この三年間で、色々なことに気づくことができたと個人的には思っている。
まず、上にはいくらでも上がいるんだろうなという
当たり前のことを、授業の度に痛感した。
文系院生の肩身の狭さは、まるでそれが社会貢献として役に立つのか立たないのかあやふやなままに
ただひたすらに大量の資料を読み、文章を書き続けなければならないという事実にあるだろう。
これ一体何の役に立つの?
と自問したとき、答えが返せないという恐怖と戦うために
ゼミの度に教授の語学力の高さに圧倒され、自分の能力に絶望、ゼミが終わるたびにトイレで泣き暮れる日々が続く。
また何より学部のころと比べて随分、笑いの数が減った。
周りの友人が社会人となって卒業し、大学院での友人もこの春卒業を迎え、残された今
そして研究室の隣の席には、論文が書けず、ずっと休学したままの先輩がいる。
彼の机には山積みの資料がどっさりと置かれていて、毎日毎日それを読み漁っている。
しかし議論の場になると、その人の言っていることは何やらさっぱりわからない用語を繋げた謎々みたいで
挙動からも、精神状態が徐々に崩れているのが明らかにわかり始めた。
そのような姿を横目で見ていると、さていよいよ
自分達がやっていることが、あまりに”他者”のいない閉鎖的な営みであることに気づかされて、ゾッとする。
普通に就職していれば、その倍以上のお金が、同じ時間で稼げたというのに。
さらに言えば、理系とは異なり、就職口は進学によって減るばかり。
どう考えてもこの選択、常軌を逸した愚か者の所業としか言いようがない。
そう確信したのは、去年の秋で
嗚呼、疲れた、もう大学出たい、文献読めない、いやだ、十分だ、どうして進学したんだろう、やだ、と
ぐるぐる考えてばかりいた。
諦めの境地に至ったのかもしれない。
今更、どうにもならない。
どうせ選んだ道ならば、のんびりやろう。
よく考えれば自分のことだから、大学院に進学しなければ、これほど社会と繋がることの大切さを意識することもなかった。
今後、誰かのためにという気持ちで働くための動力源に変えていければいい。
そのためにも今できることをやろう。
あれほど苦労していた英文献の講読が、それほど苦にならなくなったことも
大きいかもしれない。
文献が読めると、知識も広がり、やりたいことが増えていく。
もっともっとと欲も出てきて、開き直り、最近ではまだ勉強したいなと思うこともある。
そして何よりも
いつも冗談ばかりを言っているその姿からは学部時代、想像することもできなかったが
呆れ顔を浮かべながらも
ちょちょいと頭の中で辞書を広げるように、色々な助言を次から次へと加えていく恩師の姿を見て
世の中には本当に、恐ろしいくらい頭の良い人間がいるものなんだな、と思いつつ
あと十年二十年、学び続けることができたのなら
私もいつか
こんな風に楽しそうに、学びを得ることもできるようになるのかしら、と夢を見つつ
元増田です。
そう。自主性に任せるだけでもうまくいかないし、だからと言って指導者の目指す方向に全体を誘導した結果自主性が崩れるのも問題なわけで、おそらく心ある指導者はそこのバランスに一生悩むんだと思うんです(バンドに音楽的技術指導のみをするプロの指導者は別)。
「生徒の心をケアする」のと「生徒の心をコントロールする」の境界線って想像以上にあやふやなんですよ。
女子高で男性の顧問だと生徒との距離感が凄く難しいなんて話も昔聞きましたしね(結構惚れられやすいらしい)。実際女子高生の指導でセクハラが発覚して捕まった指導者(全国的に名の知られた人)もいました。
生徒を「命令を聞いて懸命に練習することに喜びを覚える兵士」に仕立て上げるのは吹奏楽と言う演奏形態上非常に効率のよい結果の出し方ですが、それが生徒の教育として良いかと言われればノーでしょう(強豪と呼ばれる学校がそうだ、というつもりはありません。そこまで実態は知らない)。
でも、その辺の境目って本当に危うくて、モヤモヤする問題なんですよ。教育と洗脳の境目ってどこだろうっていうね。
正直高校生にもなれば、最終的に顧問の音楽性に反発するやつくらい出てきていいし、そういう生徒を育てられる指導者が望ましいと個人的には思うし、でも「現実」を考えるとそれだと「効率が悪い」んですよ。だからすげーモヤモヤするの。
実際、県大会銀賞くらいの学校でも、演奏の技術的評価としては全国大会出るような学校に劣っても、「いい演奏」を聴かせてくれることって結構あるし、それを全国レベルの学校出身者が技術的部分だけことさら取り上げて凄くひどい言葉で蔑むのも聞いたことあるし。どいつもこいつも音楽なんか聴いてやいねーじゃねーかよ!って気分になることも多々あったりとかして、こう色々ほんとに難しいんですよ。だから、その難しいところを多少なりとも描いている原作には敬意を覚えます。
滝先生は、「少年漫画(少年漫画にも色々あることは百も承知であえて使いますけど)的な圧倒的に正しい師匠」としては描かれないんですよね。
なんだけど、ちょっと髪を伸ばしただけでも目や肩にかかる髪が気になって、結局髪を切って短髪に戻ってしまう。
ちょうどいいなと思える期間は数日くらい。これを保つとなるとお店に行く回数を増やすしかないのかな。
髪長い人羨しいなぁと思いながら、どうやって長い髪のうっとおしさに対処してるんだろうと凄い気になってる。
むかし似たようなことがあったのを思い出したから
少し語らせてほしい。
今の仲の良い関係が怖くてうじうじしているうちに
彼女はグループから疎遠になって、いつの間にか連絡がつかなくなった。
2年がたったころ、別の人を好きになった。
でも振られてしまった。そういう風には見られないと。
どうやっててつきあい始めたのか、聞いていないし聞く余裕もなかった。
だいぶ気を遣ってもらったけれど、普段からどうしても目に入る。
本気でしんどかった。何で彼なんだと。
結局、ふっ切れるまで3年近くかかってしまった。
それでも、時間がたって、別の人を好きになれば笑い話になるとおもう。