はてなキーワード: キングとは
望むと望まざると関わらず、権威を持つということは、そういうことだ。
今回は映画関連。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
「誰がどう見ても駄作」の批評への信頼度は高いが、そうじゃないときは個人の限界をモロに露呈させているからさ。
例えば、調子に乗って無意味な続編を作った映画として、私は「トワイライト・サーガ」系列をよく挙げるのだが……。
おっと、勘違いするなよ。メインターゲット層にのみ視点を絞っていえば、「トワイライト」はその役目を間違いなく果たしている。
ただ、分不相応に流行り、調子に乗って無駄な続編を作ったのがダメというだけさ。
特に、そのシリーズの中でも「エクリプス」は、蛇足と駄作の境界で反復横とびしているような出来でね。
シリーズも板についてきただろうに未だ大根役者、デフォルト顔がお口ポカーンヒロインのベラ。
少年雑誌のラブコメ漫画も失笑するレベルの、「ニュームーン」での不自然な三角関係を無理やり継続。
明らかに吸血鬼エドワードのほうになびいているのに、ベラが狼男ジェイコブにキスを要求したときは、新喜劇ばりのズッコケをしてしまったよ。
シナリオも、シリーズ全体から考えて不必要だと断言していい内容の薄さ。
唯一褒めたいアクションシーンすら、カップラーメンができるのすら待ってくれない。
75点だ。
「トワイライト」、「ニュームーン」よりも高い点数をつけてしまったんだ。
しかも、あのサイトではかなりいい方だということも、信頼を損なうには十分な理由だね。
最終作で、無駄にパート1、2に引き伸ばした「ブレイキング・ドーン」の批評?
ないんだな、これが。
あと、これは私にとっての例で、他にも明らかに変な点数をつけて批評をしているから、試しに探ってみるといい。
とはいえ、これは超映画批評に権威なんてないという話なだけで、そもそも個人の感想なんてアテにならないものさ。
もちろん誰にだっていえるが、大事なのは君が実際に観て感じた体験、それこそが真実なんだ。故に、己自身という「個」に勝る評論家は存在しない。
批評がなければ映画が観れない、或いは批評を読んだだけで映画を観た気になるような輩でなければの話だが。
まあ、色々けなしたが、酷い低得点のときは割と信頼できると思うので、あのサイトは話半分で読むことをオススメするよ。
その二択だけ?……じゃあ、スーパーマンで。
バットマンはカッコイイかもしれないが、私からすればあれはコウモリのコスプレしたおっさんなので。申し訳ないが。
私がそう思うのは、やはり数十年前のTVドラマの影響が強いね(OPでひたすらバッマーンっていうやつだ)。
ファンにとっても、バットマンを世間に知らしめたという意味で功績は評価するが、いかんせんコメディ色の強さが今のダークな世界観を好む層には合わない。
映画でバットマンが、ボンバーマンのように爆弾を持って走るシーンや、サメを撃退するシーンはいま見ても面白いが、滑稽すぎるともいえる。
残念だが、いまのバットマンに望まれていないんだ、そういうのは。
私だって、好きなバットマンの映画を挙げるなら「マスク・オブ・ファンタズム」を挙げるしな。
とはいえ、アニメイテッドシリーズのとあるエピソードで、TVドラマ版バットマンの俳優が声優で参加したこともあるし、やはりTVドラマ版を無下に扱っちゃダメだとも思うんだ。
くれぐれも、リスペクトを忘れないことだよ。
「ダークナイト」の吹き替えを観た時、声優がちゃんとクリスチャン・ベイルのバットマン喋りをマネしていて吹き出しそうになったんだが、つまりそういうことだ。
300本だそうだ。
それで思ったんだけど、確かにギターには得手不得手がある。
元は同じ仲間でも、今や別物だ。
ストラトはシングルコイルピックアップ3つ積んでおり、繊細な音が出る。
レスポール(スタンダード)はハムバッキングピックアップを2つ積んでおり、
ストラトとは違った感じに繊細な音が出る。
つまりストラトとレスポールとアコギを持っていれば、コレクションは完成するのか。
いや、そうではない。
それは捕手と内野手と外野手が揃っていれば、守備範囲は完成するのかという問いに近い。
もっと細分化できる。内野手(レスポール)はスタンダードとスペシャルとジュニアとスタジオ、
外野手(ストラト)はヴィンテージタイプとモダンなタイプとハムバッキングを積んだやつとか。
さらにさらに、各ポジションに相当するギターをすべて揃えても個体差というものがあるのだ。
菊池はセンター前のあたりを取るのがうまいが、真ん中のゴロを後逸したりする。
二人が同時に守れば、穴はない。
実のところコレクションの世界では、野球は9人までという制限などない。
いくらでもプレイヤーを増やせるし、好きなだけ守備範囲を広くできる。
お金さえあれば。
300本だって。
いいなあ。
マウス操作は、スライディング(滑らせる操作)と、クリッキング(クリック操作)の2つが快適に出来るかどうか次第で疲れ易さが決まるのね。
そのために考えるべき要素は、
・ボタンの押し易さ(大きさ、固さ)
・手のひらへのフィット感
がある。
まず、滑りやすさについては、エアーパッドプロIII(史上最強のマウスパッド)を買って、
重さについては、私はあまり気にならないけど、軽いほうがいいと思う人は、有線のマウスを探すと良い。
フィット感やボタンの押しやすさについては、マイクロソフト製かロジクール製のどちらかで
良さそうなものを探して使うのが手っ取り早い。
http://anond.hatelabo.jp/20150507012413
の冒頭を読んで、自分のことかと思ったが読んでいくと全然違った。
サラリーマンをやってると上司やら周囲からキャリアプランやら目標やら
いろいろ言われて本当にこの世は自分のような人間には生きずらい。
そこそこのお金を稼いでそこそこの楽しみをそこそこに味わいたい。
自分は今までなにも成し遂げられずに生きてきた。今年で40になる。
そしてこれからもなにも成し遂げることなく死んでいくであろう。
今すぐ死にたいといつも思っているが、今のところ生きるめんどくささより
死ぬめんどくささが強いようでなんとかこうして生きている。
子供のころはそこそこ頭のよい方で、特に努力した記憶もなく地元でそこそこの高校を出て、
特に何の考えもなく受けた大学受験では今で言うFラン私大文系に現役で合格し
大学でキモオタライフにどっぷりはまり氷河期まっただ中の上に何もやりたいこともなくすんなりは就職できず。
派遣先でのらりくらり仕事をしていたらなぜか通信大手から誘いがあり、転職。今に至る。
こう運だけで生きてきてしまった自分は、とにかく目標を立てる、目標に向けて計画的に物事を行う、
ということが壊滅的にできない。
今の会社は日本で名前を知らない人はそうはいないだろうという大企業だが、
自分のような考えを持った人は少なくとも同じ部署にはいないようだ。
40になってもロクなスキルも持たず、年下の上司から指示を受けて日々をやり過ごしている。
こんな自分がうまく働ける会社があるとも思えないので、転職する気には全くならない。
リストラされるまでしがみつくか、今すぐ死ぬかの2択しかない。
プライベートはどうなのかというと、ただの気持ち悪いオタクでしかない。
なにも成し遂げられたことがないと書いたのは、デブ(168cm/95kg)の上に喫煙者だからだ。
ネガティブなことは細かいことまで覚えている自分が本当に嫌で仕方ないのだが、
昔読んだこち亀にあった「アメリカでは喫煙者とデブは出世できない、ノースモーキングとダイエット
ができないのは自己管理ができていないとみなされるから」が忘れられない。
ダイエットも禁煙も何回も試みたがまったくうまくいかず、失敗するたびに死にたくなるだけなので
もはや手を出すこともできない。
いろんなことに手を出しては中途半端に終わらせていくので、趣味っぽいことだけはやたらと多い。
学校に来ている限りは必ず放課後練習に行かなければならない、ということに耐えられなかったからだ。
野球を見ることも含めて趣味っぽいことは一時的な逃避に過ぎず、
推しアイドルのイベントに行っていてもふとした瞬間に劣等感や仕事のことが頭をよぎっては死にたくなる。
小中高の頃は女性に告白する勇気もあったが、受け入れてもらえることは一度もなかった。
そして高校くらいの時に気付いたのだが、自分はものすごい短小包茎だ。
これがコンプレックスで風俗にも行けないし一生女性関係などは持てないだろう。
弟が一人いる。彼は真人間なようで最近結婚した。子供も生まれるらしい。
どうしようもない自分はいまだに実家暮らしをしているのだが、両親がはしゃいでいるのが心に刺さる。
人の幸せそうな話を聞くのが本当につらい。おかげでネットの友達もリアルの友達も疎遠になった。
如何に美巨乳でも顔がさっぱりなら良くない。
そういう人は外人の(人工的な)おっぱいだけを見て興奮してるわけじゃない。
寧ろ顔をよく見て「コイツ可愛いな」とか思いながら右手をピストンさせるはずだ。
つまり顔が良くない事には巨乳か貧乳かの議論をしても意味がないし、恐らく
これから先議論の対象になったとしても平行線のままに終わるだろう。
男にとって理想は峰不二子だというのは、昔からよく言われ続けたものだが、
この観点から、巨乳であり、かつウエストは引き締まり、お尻は安産型でスパンキングできそうなお尻の体形をしながらも顔は絶世の美女でなければならない。
巨乳であっても美人でなければただパコパコするだけの存在でしかない。
嫁が妊婦で現在五ヶ月と2週目なんだが、どうしてもタバコがやめられないと悩んでいる。
と言っても飯の後の一日3本だけなので、俺もあまり強く言ってこなかった。
嫁も同時に辞めたんだが、2ヶ月くらいでどうしても無理になって吸ったらしい。
つわりの時期は気持ち悪くてタバコどころじゃなかったが、最近はまた吸っているといった感じ。
「やめないの?」と聞くとムスッとした感じで
「吸わない方がストレス溜まって赤ちゃんに良くない/医者も一日3本くらいなら大丈夫って言った」とか言ってる。(詳しくは知らないが絶対嘘だろ)
とうとう昨日「本気で辞めたい」とLINEが来たので、よっしゃと思って
「じゃあうちにあるタバコ全部捨てるわ」と言って嫁もそれを了承した。
吸いかけとストックのタバコ役30本を全てろうそくに見立てて、発泡スチロールに爪楊枝で突き刺してクリスマスケーキのようにして
さて、未来は読めないというのが基本姿勢にあるリアル志向の皆さんコンニチハ。
たまに「まあライターも金稼ぎたいしな」みたいな記事があがるな。
「ウルフ・オブ・ウォールストリート」は観たか?
マーティン・スコセッシの映画はクセがあるのでファミリーにはオススメできねぇが、
ウォール街とはつまるところ「相手に買わせる」プロの集団に尽きると喝破したのが素晴らしい。
まず、資産運用の話をするときに「余裕資金で」とか言うものは捨てて良い。
例えば、このご時世幸運にもボーナスで30万ほど「使うあてのない金」が入ったとしよう。
この金を「余裕資金だし、今話題のソシャゲ会社の株に」とあやふやな理由でツッコむ。
まあ、2/3になったあたりで撤退できれば上出来だな。
「負けた」10万円は、夫婦2人で2泊3日のグアム旅行ぐらいは行けたカネだ。
恐ろしく高いと感じるアニメのBlu-rayボックスも、2~3個買えたな。
それはオマエの稼いだ身銭だ。
お金に色はないので、食費も教育費も娯楽費も、結局のところ同じ日本銀行券だ。
商社で小麦の輸入でもしてりゃ胃に穴が空くぐらい理解してるだろうが、日本銀行券の価値は上下する。
昭和ヒトケタの1万円と、今の1万円の価値が違うというのは、なんとなく判るだろ?
これは、つまるところ「タマゴの価値は下落し続けている」というのと同じだ。
小規模な養鶏家が、集約され大規模化され超高効率でスーパーに届くことで「価格」が同じに見えるだけだ。
つまり、今月の給料は、10年後にも同じ価値を持つとは限らない。
ごく当たり前の話をするが、中小企業を立ち上げて運転するには、カネがかかる。
土地を借りる、機械を借りる、種や苗を買い入れ、水をやり肥料をやり虫を取り育て、収穫して、より分けてパッキングして出荷する。
つまり、スタートしてから実際にモノが売れてカネが入り始めるまで、タイムラグが有る。
大抵の企業間取引は現金決済しない。普通は納品後2ヶ月遅れで入金されたりするもんだ。
で、だ。
未来に間違いなく収入があって、しかもそれが定期的な収入になって返済できる、と思った場合、銀行はカネを貸す。
なぜ貸すか。カネを増やしたいからだ。それが利子(利息)というやつになる。
そして、中小企業側も、利益は収入を増やす方向にツッコンだ方が、当然儲けも増える。
Amazonはあんなに儲かっているのに常に赤字だが、これは稼ぐよりも多く拡大しようとするからだ。
これを「設備投資」と言ったりする。
つまり、「将来カネを増やすためにカネをツッコム」事を投資という。
資金を投じるワケだ。
例えば普通預金。
利子、ついてるだろ?すごく少ないが。
あれは「投資」のアガリだ。儲けだな。超少ないが。
預金保険機構、まあほぼ日本政府が1000万までは保証してくれてるから気にすることは基本無いな。
じゃあ例えば、知らねえ奴が鯛焼き屋の開店資金として200万貸して欲しいと言ってきたらどうする?
息子が必死の顔でやってきたら、話ぐらいは聞くかもしれない。
それが、銀行のやってる「投資するに値するか検討する」つまり「与信管理」だ。
資産、あるか?
まあ、流動資産(預金など、即カネになるもの)と、固定資産(現金化に手間がかかるもの)とに分けられる。
企業では1年以内に換金可能かどうか、1年以上保持するかいくら以上かみたいな細かいことあるが忘れて良い。
ローン組んで家買ってる?おめでとう。それは固定資産&長期負債だ。
コンバインは資産だが、銀行に残ってるローンは負債だ。借金だな。
中小企業がカネを借りて運転するのはフツーだという話もした。
投資してないつもりでも「銀行預金」ってのは「投資」だって話もした。
と、なるとだ。
資産運用というのは、つまり「流動資産」を「投資」することだ。
1000万未満だし政府保証もあるしで「銀行投資」というのも1つだ。
が、その「投資」、例えば友人から持ちかけられたものならどうだ?
「オレの英会話に投資しない?3年後に給与アップするし年利2%で50万貸してくれよ」に、無条件で出すか?
担保はあるか、返す当てはあるのか、そもそも3年後に給与アップって甘くないか?とか与信審査するだろう。
そう、「サラリーマンの資産運用」とは、つまり「オレ銀行」が投資先を精査して与信管理することだ。
オマエがカネを貸し付けるんだよ。
銀行がそのカネを何に使うかは政府保証のお陰で考えなくて済む。
この銀行への貸付を引き上げて、他にカネを貸して、カネを増やす。
貸す前に審査して、貸した後に予定通りか確認するのが「与信管理」であり「運用」だ。
例えばTOPIX連動のETFを定期的に買う、それも良いだろう。
銀行と違って、個人はカネを一度貸したら貸し剥がしみたいな引き上げが難しかったりする。
貯蓄型の保険とか、貸したカネを何十年か立つ前に返せって言うと、ずいぶん減る貸付先もあるな。
アイディアを生み出すための想像力は「鋭い観察眼と知識」によって培われるものだと西谷は言うが、こうした知識に対する態度は他の多くの作家にも多く見受けられる。例えばクーンツは何かを調べる際、それについての参考書一冊を読んで満足するのではなく、2冊から3冊は確認しなければならないとするし、五代/榊も知識を増やす労を惜しむようでは作家になるのは無理だとする。
知識の広げ方という点では、例えば榎本はネットは有用だとして、わからない単語が出てきたら放置せずその場で調べる、新書、辞典、専門書を読むことなどを推奨している。またキングはテレビを否定し、読書が重要だとしている。
重要なのは何かを盲信しないことである。五代/榊は単純に何かを鵜呑みにしたり、逆に根拠なく切り捨てることは思考停止であり、これは「極めて危険」だと明確に述べる。クーンツの複数の文献を確認することへの指摘も同じことだろう。
一方、情報収集なぞ必要ないという主張も存在する。水島はラノベを書きたいならラノベだけ読んでいればそれでいいのであり、ラノベに限らず幅広い文献に目を通すべきだという意見は作家の見栄に過ぎないと言う。
ラノベ作家を目指すのならばラノベを読んでおくべきだ、という指摘は至極もっともだが、しかしラノベ以外の知識は不要だ、というのはいささか乱暴な主張と言わざるを得ない。もちろんそれでラノベを書くことはできるだろう。しかしラノベしか知識がないのだとすれば、そこで描かれる内容は他のラノベで既に描かれたものの域を出ない。もちろん、大塚の主張するような抽象化と具体化による工夫は可能だが、そこで具体化するための材料もまたラノベから引っ張ってくるという引き出しの無さは、相当の才能が無い限りすぐに限界を迎えるだろう。
知識という点で、飯田は作家がオタクであることを求める。しかし飯田がいう「オタク」とは流行のラノベを楽しみ、流行のアニメを楽しみ、ニコニコ動画で流行している動画を楽しむ人のことである。
一方で五代/榊は「新しく入ってきてる人達は、オタクと呼べるほど濃くない」とそれをオタクではないと断じる。共に作家が「オタク」であることを求めるが、両者の言うものは似て非なるものに思われる。とはいえオタクとは何か、オタクの濃さとは何か、という問題に本稿で踏み込むつもりはない。
最後に、知識の無さはワナビが創造する登場人物の幅にも影響することは理解されておくべきだろう。プロアマ問わずラノベにはよく「天才」が登場する。問題はこの「天才」が知っている知識は作家本人の知識を限界とし、その発想力や考え方もまた作家本人の能力に制約される、という現実である。
天才を出したいのならば、作家本人が天才の知識と思考を模倣できなければならない。幸い、作中の天才と異なり作家には十分な時間をかけてあらゆる文献を調査する時間的猶予があるのである。
何度となく推敲され書き上げられたものは珍しくない。にもかかわらず全く面白くないそのラノベの問題点を、例えば登場人物に魅力が無い、物語にリアリティがないとあげつらうことは容易である。それが欠点であることは間違いないだろう。しかし仮にそれが解決されれば、つまり偏差値30が50になれば、それは面白いラノベなのか。
五代/榊はワナビを「自分が知らない事は考えたくない、考えたくないところは考えないですましている」と批判するが、ワナビはそもそも「面白さ」について、とりわけ学術的に考えることを避ける傾向があると筆者は思っている。先行研究の調査は思考の基礎であるが、ネット上で飛び交う様々な「面白さ」についての議論がそれらに言及することは残念ながら稀である。
練習は嘘をつかないって言葉があるけど、頭を使って練習しないと普通に嘘つくよ。
faridyu
本稿の整理が的を射ているとは限らない。しかし「面白さ」を構成する要素について、先行研究の重要性を幾ばくか示すことができたのではないかと考えている。それが本稿をここまで読んだ時間がワナビにとって価値あるものだったかはわからないが、しかしせめて、なにかの気づきに役立つことができればと願っている。
原稿の段階においてはこれまでより表面的な文章それ自体に関する事柄が重要となる。冲方はこの段階を「肉書き」「皮書き」の2段階に分けるが、原稿の執筆と推敲をそれぞれ意味しているに過ぎない。本稿では表現上の混乱を招くだけであるため、特に冲方の分類には従わない。
さて、西谷のように本一冊を使ってこれを解説したているものも存在するが、その内容は全て基礎的な日本語文法の復習であり、独自の知見は少なく、例えばうなぎ文などを交えた日本語文法それ自体に関する細やかな議論があるわけではなく、また修辞技法に関する詳細な分類と効果について言及しているわけでもない。会話文の閉じカッコの前に句点は付けない、中黒ではなく三点リーダを偶数個使う、といった些末な作法をめぐるこれらの内容について本稿では特に言及しない。
文法、作法上の間違いではないが避けた方が好ましい表現についても、断片的ながらそれぞれの作家ごとに主張されている。例えば水島の「同じ語尾を連続して使わない」「台詞以外で「である」「なのだ」という語尾を使わない」「三点リーダと感嘆符の多用を避ける」、榎本の「三行以上にわたる一文は避ける」「会話の順番を固定し、誰がしゃべっているのかフォローの文なしでも理解できる方が良い」、西谷の「物事が起こった順番に書く」などである。
とはいえこれらは絶対に避けねばならないものではない。例えば同じ語尾を重ねることは畳語法として効果的に機能しうる一つの技術である。会話の順番を固定する、というのも、例えば5人の登場人物の会話順が完全に固定されて順に発言しているような状態が自然な会話文として望ましいとは思えない。それぞれ場合によって使い分けられるべきであろう。
よって本項では各作家によって提案されたいくつかの修辞技法についてを断片的ながら俯瞰するにとどめる。
水島は「明るい文」「ラノベ文体」として、「難しい表現を使わず、何が起こったのか一目でわかる」こと、「読者がハイスピードかつリズミカルに読める」ことが望ましいとする。
具体例として次の例を挙げている。
「すごい美少女だ!」
俺は驚き、つい声を上げた。と、同時に……、
――ドカーン
背後で、謎の爆発が!
なぜ難しい表現を避けるのかといえば、「読者は気合いを入れて読んではくれない」「メインターゲットとなる読者である中高生は学校の登下校、勉強の合間などに読むので、集中して読んでくれない」からだとする。「ラノベは読み飛ばされるのが宿命」だと水島は言う。これに近しい意図を持つ指摘としては、榎本による「ガイド」の提案がある。ガイドとは榎本独特の表現であるが、「シーン冒頭に「これがどういうシーンなのか」がわかる描写を書き込む」もので、つまりそのあとの文を読み飛ばされても何が起きたのかざっくりとは理解してもらえる、という効果が期待されているものである。
何が起こったのかわからないような文章を避けるべきなのは当然だろうし、テンポ悪くだらだらと薀蓄を書き連ねたようなものは(それをウリにしている作家もいることは事実だが)大体の場合避けるべき、というのはさほど違和感のない話である。
とはいえ学校の登下校、勉強の合間などに遊ぶテレビゲームや携帯ゲームは集中されないのか、といえばそうではないだろう。読者が集中してくれないのではなく、読者の集中を誘うだけの内容が無いからではないのか。
読者はバカだからバカでもわかるように書きましょう、というのは、逆に言えば中身の無さ、文才の無さを読者に責任転嫁しているに過ぎないとも考えられる。筒井は様々な実験的小説を書いてきたが、それは「読者の理解力に対する理解があってこそであった」と自分の読者ならわかってくれるという確固たる自負が見て取れる。もちろんそれは既に作家としての名声を確立した後だからこそ、という面は否定できないが、作家から読者をバカにしていく、という水島の姿勢はいささか理解に苦しむところである。
クーンツは作家に与えられたチャンスは最初の3ページだという。第一文から始まる3ページで面白いと思わなければ読者はそこで読むのをやめる。そして読者を3ページで魅了するための技術として、過激なアクションに始まること、ユーモアを含ませ、一度冷静に状況説明をしてから再度緊迫した場面展開に話を戻す、という手順を紹介している。
一方で西谷は望ましい書き出しについて、いくつかのラノベの冒頭を並べてその傾向を述べており、主人公の描写、自己紹介、考え方から始まるタイプと、主人公の目に映るものを描写する書き出すタイプの2通りのいずれかが望ましいとしている。
また忌避すべき典型例として「壮大な書き出し」を挙げている。例えば人類の9割が滅んだ世界であることを厳かに説明するような文章は避けるべきと言い、それくらいなら他愛もない会話からはじめ、その途中で人類の9割が滅んだことを明かす方が望ましいとしている。
人類の9割が滅んだ、とは物語背景となる情報であり、重大だが具体的な動作を連想させる情報ではない。それに比べると会話文は動作とひもづくものであり、その意味ではクーンツの「アクションに始まる」という内容と大きく矛盾するものではない。
しかしながら、これも絶対的に忌避されるべきかといえば難しい。
例えば名作と名高い「猫の地球儀」は
と、まさしく壮大な書き出しで始まる。「同じ語尾を連続して使わない」に余裕で違反する3連続の接続助詞「で」に加え、何の説明もなく独自の専門用語を第二文目で出すなど言語道断である。
しかし筆者は、上述の水島のドカーンをはるかに凌駕する圧倒的な魅力をこの書き出しに感じる(もちろんそうは思わない人もいるだろうし、それを否定する意図はない)。
作家に与えられたチャンスは最初の3ページだ、というクーンツの主張には、一読者としての経験則的に筆者も同意できるところではある。しかしではどういった書き出しが望ましいのか、といえば一概にこうでなければダメだ、というのは難しいように思われ、筒井による「いい書き出しかどうかは結局のところ作品全体の出来に左右される」という指摘がもっとも妥当であるように思われる。
従って、アクションから入ろうが主人公の身の回りから入ろうが壮大な書き出しで始まろうが、3ページで読者を作品世界に没頭させる内容が実現できればそれで問題は無いと言えるだろう。
頭に浮かんだ順に適当に書いていくと散漫な記述になりがちであるとして、西谷は「自分が描こうとする場面を実際に図に書いて、どういう順番で描写するかを決める」のが効果的だとする。この主張はその場に存在する様々なものを具体的に詳細に想定しているかどうかの事前確認という意味合いが強い。
また、「目に見えるものだけを書いていると、リアリティーのない文章になってしまう」として五感への意識を促す。嗅覚については言及されることが少ないが、特に音については場所、方向、登場人物の存在を示す役割を果たす効果的なものだとする。また西谷独特の主張として、足下の変化は触覚という点で効果的であると主張する。
こうした西谷の指摘に加えて榎本による「静止したものだけでなく動作する物を混ぜる」という指摘を考慮すると、情景描写の臨場感とはその情景における時間経過ではないか、と筆者は考えている。
止まった絵ではなく、音や匂いを含めた一定の時間の流れを含めた「図」が望ましいという意味では、作家は西谷の言うような「図」ではなく「絵コンテ」を書くべきだと言ってもいいだろう。
仮に作家が自分の想像を完全に文章化でき、そこから読者が作家の想像通りに完全に場面を想像できるとした場合、静止画が再生されるよりも動画が再生された方が臨場感が高いのは言うまでもないし、そこにに音や匂いも付与されているのであれば、臨場感はさらに高くなるだろう。
絵コンテという考え方はまたカメラワークへも影響すると考えられるが、映像作品におけるカメラワークのセオリーとこうした娯楽小説における情景描写の順序や方法の類似点、相違点については十分な調査と検討が必要と思われ、本項では今後の検討課題として割愛したい。
より良い場面の切り替えについて、クーンツによる指摘に触れておきたい。クーンツは「ひとつの場面が終わったら、すぐさま読者を次の場面へ案内しなければならない」こと、そして簡潔さを重視する。例えば主人公は一人自室でテスト勉強をしている場面Aと、学校でテストを受けている場面Bを連結させるとする。この間にはもちろんさまざまな出来事、例えば寝て起きて朝ごはんを食べて家を出て電車に乗って学校に到着する、といった過程があるはずだが、それらをだらだら書くべきではなく、場面Aが終わった次の文ではテスト中の主人公を描くべき、という。
これは場面の切り替えにやっつけ仕事めいた過程を描く必要は無い、という単純な指摘に留まらず、各場面はプロット上必要不可欠な要素であるべきで、必要のない場面を含めるべきではない、とも理解できる。例えば場面Aのあと電車でヒロインと遭遇させる必要があるのであればそれを場面Cとして独立させ、プロット上場面AとBの間に配置すべきである。
クーンツは会話は全体の20~30パーセントは必要だとする。一方で30ページ以上続く会話文も問題であるとしており、当然であるがバランスが必要である。
その場に登場人物が2人しかいないときに、いちいちどちらの発言か説明しないと読者が理解できないようならその会話が悪い、という指摘や、「「言った」という動詞が連発しないよう、表現を工夫する、などというのは過ちである」というのはなかなか面白い指摘と言えるだろう。クーンツは発言内容が重要なのであれば、それ以外の「言った」という表現を「尋ねた」「口を開いた」「聞いた」など必死に工夫する価値はないとする。一方でアクションシーンでは動詞の選択は重要だとしており、その場で強調すべき要素とそうでない要素を区別することを要求している。英語と日本語の違いはあれど、これは文章のメリハリを付ける上では面白い指摘と言いうるだろう。
ヒックスは会話の機能として、「ストーリーを前進させること」と「登場人物を明らかにすること」を挙げるが、特に後者については人物の性格を読者に理解させる重要な要素だ、と換言できるだろう。
このようにクーンツ、ヒックスはともに会話文を重要な位置づけにあるとみなすが、一方でラノベ作家陣からの指摘として、榎本は「キャラクターの会話ばかりで「そのシーンはどういう状況なのか」「今どうなっているのか」が全く書かれていない作品」を批判する。
この点については筒井が「描写や展開が面倒なのですべて会話で片付けようとする」ことを批判しており、何のために会話文を書いているのか、という目的意識に違いがあるように考えられる。すなわち情景描写が苦手だから、間が持たないから、といった問題を正面から解決するのではなく、会話文で埋めることでごまかすようなことが榎本や筒井の批判するところと言いうるだろう。
説明するまでもないが、小説では一人称体、もしくは三人称体が多く用いられる。この人称に関しては、どの創作技術本でもありがちなミスとして、一人称体にも関わらず語り手の知り得ない情報を記述してしまう、という点がよく指摘されるところである。
一方で三人称体は登場人物の知りえない情報を記述することができるという利点があるが、一人称体がその語り手が同化する先の人物への感情移入を惹起しやすいのに対し、三人称体はその点で劣ると言えるだろう。
このことから水島は、「楽しさ重視のコメディは一人称」が望ましく、「複雑なストーリーは三人称が向いている」としている。では一人称体と三人称体を組み合わせて書けばいいのではないか、という意見については、それは読者の理解の混乱を招く手法として否定し、また三人称体においても実質的には「主人公が今どうなっているか」を中心に描くことが望ましいとしている。
一方で飯田は三人称体をとるメリットは「キャラクターそれぞれの内面が描ける」点にあるとしている。実際「インフィニット・ストラトス」を例に、飯田は一人称体と三人称体の混濁を否定せず、それどころか「主人公の一人称視点と、ヒロイン寄りの三人称視点を使い分けて全ヒロインからの愛され感をもたらしている」と高く評価している。
とはいえ三人称体として振る舞いつつ登場人物それぞれの視点に入ったり、といった視点を「神の視点」と表現し、これは避けるべきものだとする論調は少なくない。
一切言及されていないが、現実には三人称体に一人称表現が入り込む技法は自由間接話法と呼ばれて存在し、主人公の知る由もない情報を描けるという三人称のメリットと、感情移入を容易にする一人称のメリットを同時に享受できる極めて強力な技法である。
なぜ言及がないのかといえば、これを多用する作家はさほど多くなく、むしろ全く使わない作家の方が多いことから、おそらくはプロの作家自身、これを人に説明できるほどうまく扱える自信が無い、ということが原因ではないかと思われる。
他方、これと似て非なる技法に「神の視点」があり、これについて触れたものとして、クーンツは「ストーリーの途中で作家が登場人物を批評したり意見を述べるのは19世紀の時代遅れな手法」としており、もはや使うべきではない技法だとしている。
端的に言えば「あぁ、神よこの男を憐れみたまえ」といった大仰なそれに対する指摘であるが、例えばH.P.ラヴクラフトなどは意図的かつ効果的にこの神の視点を用いていたように筆者は考えているし、町田康の有名な「あかんではないか」などは見事にこれを活用した好例と言いうるだろう。
筒井はこれを「劇化された語り手」であるとしているが、これについてはまた詳細かつ精密な議論が必要であることから本稿では割愛する。
水島は夢や過去の回想について、これらは今誰が何をしているのかがわかりにくくなる、述べており、またこの点についてはヒックスも同様の指摘をしている。「バック・ストーリーの情報を提示するのに最も効率が悪く気の効かない方法が、フラッシュバックである」と、フラッシュバックはドラマの勢いを失わせるものだと注意を促している。
一方で、筒井による「遅延・妨害」に関する記述はある意味でこのフラッシュバックの効果を逆用したものとも言いうるだろう。具体的内容としては、「読者の疑問を宙づりにしたまま進行させる」ものである。特にクライマックスの直前など、いよいよ事態が緊迫し抜き差しならない状況であることを描いたところで、突如穏やかな場面に切り替えて「あれはどうなっているんだ」と読者の不満をあえて買い、じらした上で緊迫した事態の展開に再度移る、ということでより大きな満足感を読者に与える効果があるとする。
クーンツもその冒頭において、過激なアクションの次に一度冷静な場面を挟み、再度戻る、という手法を提案しているが、効果としては似たようなものだろう。
推敲の重要性を否定するものは一つとしてない。しかしどう推敲するか、という点について具体的に述べているものはそれほど多くは無い。例えばキングによる6週間空け、そして1割削減する。ワナビにとっては6週間も余裕がないことの方が多いだろうが、一定の時間を空けて自分自身で読み直すことの効果は少なくないだろう。
冲方は推敲の要点として、「冒頭とラストにインパクトと引きを作る」「事件とはあまり関係のない人間の登場を減らす」「専門用語は前半は少なく、後半は多くする」という推敲の指針を挙げる。最初の2点はプロットレベルでの書き直しが要求される内容でもあるだろうし、そもそも事件(物語)に関係ない人物を登場させる意味はなにか、という疑問もあるが、専門用語の配分などは参考になるだろう。
最後に、推敲は一度で終わるものではない。アイディア、プロット、原稿まで順に進めるとこれまで述べてきたが、推敲によって再度プロットへ、またはアイディアまで戻ることはいずれの説においても当然のこととして主張される。
まずはこれを見て欲しい
http://www.dshocker.com/entry/2014/11/07/210343
最近何かと話題の齊藤氏を参謀本部まで行って占いをした大彗星ショッカーがかなり確信に迫ることを引いてた。
「参謀本部の将来を占う」と題されたものだったが、何しろ引いたカード通りの道筋に行ってる。
まず、2014年の「ソードの8」の正位置。このカードについてショッカー氏は触れてないが実はもうこのカードからして的中してる。
タロット占いのサイトで「ソードの8」の意味を調べると「拘束。束縛。孤立。幽閉。監禁。抑圧。無力。危険。障害。干渉。八方塞。」と出てくる。
実際に、この1ヶ月後警察に通報され拘束・監禁をくらい、ネット上ではそれまでしなかったような失言をして孤立。
そして、2015年のタロットは「死神」の正位置。崩壊や終末という意味で使われ、ショッカー氏自身も記事の中で「いきなりですが2015年に死神が正位置で出てるので、潰れるとしたら来年です!」と書くほどのヤバイカードだ。
実際、崩壊や終末を意味するこのカードの序曲はもうすでに2014年現在のコウモリVS齊藤氏のやりとりで見られる。
ツイッターでのやりとりによれば、コウモリ氏は「暴露記事を書く」と意気込み、齊藤氏は「罰金を取る」と対決姿勢むき出しの状態。
http://twitter.com/miraihack/status/546979043111759872
ここで注目すべきは今までお金の話ではおおらかだった齊藤氏がお金の話をネット上でむき出しになってしたことだ。
実はショッカー氏の占いにも齊藤氏が「「金のことばっかり考えてる品性の無い男」を意味するペンタクルのキング・逆位置が!!」と今後の道筋を指し示すようなものが出てる。
占いによれば、2017年の話ではある。だが、現状の豹変を見れば「さもありなむ」という予感もする。
「ようは、金のことしか考えないゲス男になりそうってことです!!そのことでどんどん迷走!!みんなの心も離れて行く!!お金を求めれば求めるほど、さらにお金を稼げない状況に陥りそうです!!」
今現在「死神」に向かって起こっている崩壊や終末に近いものを、さらにそこでの発言傾向の変化は2016年に出ている「カップの5」正位置で表されてる「自信喪失・諦め」を意味するカードともつながってくる。
占いとは思えないほど、順序立てて「これから起こること」を1ヶ月前のまだその風潮の見えない時期に言い当ててしまったショッカー氏はなにか持ってる!
サングラスを取ったら輪廻眼だったりするのかな…サングラスとった写真が昔のかっぷくの良い写真しか移ってないけど…。
そして、それらの対策を意味するカードについても齊藤氏を言い当てたようなカードを引いてます。「女教皇・逆位置」で意味は「激情」「ヒステリー」「不安定な感情」だそうな。
ただ、ショッカー氏の占いが当たっていれば、2019年のカップのペイジを転換期に2020年は安定方向に行くそうです。
安定してる齊藤氏というのが想像しにくい現状ではありますが、どうせ当たるなら悪いものだけでなくいいものも当たってほしいものです。
・捕捉
ショッカー氏のブログではなく、その当日に同席して会話を文字起こしした参謀本部側の記事によれば、齊藤氏個人を占った時には「2015・2016年」にはもうカネカネになるという占い結果が出てたそうです。
http://www.honbu.co.jp/archives/701
つまり、明確にショッカー氏の占いは当たってるようです。…本当にあのサングラスの中に万華鏡写輪眼でも持ってるんでしょうかね…。
大したやつだ
今年もそろそろ終わる。
俺は来年40歳になる。10年前に何してたっけ?どんなことがあったけ?20年前は?
思い出そうとしてみたが、覚えていることはあまりなかった。
そこで大好きなウィキペディアを開いてみたら、おもしろかった。
西暦をたたけばその年に起こった出来事や流行ったものごと、世相がまとめられている。
すげえな。
「おっ」とか「へー」とか「なにそれ」と思った出来事で100年を振り返ってみる。
2014年の10年前と2015年の10年前。
1614年と1615年までさかのぼれば、それぞれ大阪冬の陣と夏の陣までいけるのだが、400年はけっこうしんどい。
とりあえず100年。
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・自衛隊イラク派遣の陸上自衛隊本隊第一陣がイラクのサマワに入る
・関西電力美浜原子力発電所(福井県)で蒸気漏れ事故が発生、作業員5人が死亡
・アテネ五輪(柔道の野村忠宏選手が五輪3大会連続で金メダル獲得)
・「新潟県中越地震」死者68名
2005年(平成17年)
・中部国際空港が開港
・アンゲラ・メルケルがドイツ首相に就任
・1年を通じて1899年以来初めて死亡数が出生数を上回る
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1994年(平成6年)
・関西国際空港が開港
・オリックスのイチローが史上初の1シーズン200本安打を記録
1995年(平成7年)
・警視庁の国松孝治長官狙撃事件(重傷)
・オウム真理教総本部前で村井秀夫幹部が刺殺される
・『新世紀エヴァンゲリオン』放送開始
・俺ハタチになる/この年はテレビばかり見ていた気がする。
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・中曽根首相が首相として戦後初の靖国神社参拝
1985年(昭和60年)
・東京都に新両国国技館が完成、横綱・北の湖が引退
・NTT(電電公社)とJTT(日本たばこ産業)が民営企業として発足
・豊田商事の詐欺事件についてマスコミが取材中、報道陣の前で永野一男会長が暴漢2人に刺殺される
・フジテレビで夕方のバラエティ番組『夕やけニャンニャン』が放送開始
・たこ八郎が水死
・阪神タイガースが日本シリーズで、西武ライオンズを破り4勝2敗で日本一
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1974年(昭和49年)
・永谷園が「あさげ」を発売
・日本赤軍がオランダ・ハーグにあるフランス大使館を占拠(ハーグ事件)
・ウォーターゲート事件でニクソン米大統領辞任
1975年(昭和50年)
・まるか食品が「ペヤングソースやきそば」を発売
・山陽新幹線博多まで開通
・広島東洋カープが初優勝
・イギリス保守党の党首にマーガレット・サッチャー選出
・沖縄国際海洋博覧会開幕
・俺が生まれた
……俺と同い年の人たち
・アンジェリーナ・ジョリー(女優)
・上原浩治(野球選手)
・高橋由伸(野球選手)
・俺(商店街で鮮魚店を経営)
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・本田技研工業が「S600」を発売
・日本人の海外観光渡航自由化。ただし年1度、所持金500USドルまでの制限付き
・東海道新幹線開業
・坂本九『明日があるさ』がヒット
1965年(昭和40年)
・淀橋浄水場廃止
・中国で文化大革命が始まる
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1954年(昭和29年)
・日本の高度経済成長期が始まったとされる年
・NHKが大阪と名古屋でテレビジョン放送開始
・ニッポン放送開局
・琉球放送(RBC)開局
・遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」が米国の水爆実験によって発生した多量の放射性降下物を浴びる
・洞爺丸事故
・加藤芳郎の4コマ漫画『まっぴら君』が毎日新聞夕刊で連載開始→2001年終了
1955年(昭和30年)
・武田薬品工業が総合感冒薬「ベンザ」を発売。
・ワルシャワ条約機構結成、冷戦激化
・広辞苑初版発行(岩波書店)
・後楽園遊園地が完成
・自由民主党と日本社会党の二大政党制(55年体制)が始まる→1993年崩壊
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1944年(昭和19年)
・全国の新聞で夕刊が廃止
・日本軍がインパール作戦を開始
・連合軍によるパリの解放
・東海道沖で東南海地震発生/マグニチュード7.9、死者・行方不明者1,223人、建物全壊36520件
1945年(昭和20年)
・ 2月 4日 ヤルタ会談(ルーズベルト、チャーチル、スターリン)
・ 2月14日 近衛文麿が昭和天皇に早期和平を提案(近衛上奏文)
・ 6月13日 大田実司令官が「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と打電した後自決
・ 6月23日 沖縄守備軍司令官牛島満が摩文仁司令部で自決/実質的な戦闘終結
・ 8月 6日 広島市へ原子爆弾投下
・ 8月 9日 ソ連軍が満州へ侵攻して対日参戦開始
・ 8月 9日 長崎市へ原子爆弾投下
・ 8月10日 御前会議(ポツダム宣言の受諾の可否について)
・ 8月27日 占領軍向け特殊慰安施設の第1号開業(小町園、東京大森)
・ 9月 2日 東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で、重光葵・梅津美治郎らが降伏文書調印(第二次世界大戦終結)
・ 9月25日 外国人記者2名が昭和天皇にインタビューを行う
・10月19日 駅名の表記が左書きに統一される
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1934年(昭和9年)
・日比谷映画劇場開場
・忠犬ハチ公銅像除幕式
・満鉄が大連―新京間で「特急あじあ号」の運転を開始
・東北地方で冷害が発生、凶作被害甚大
1935年(昭和10年)
・築地市場開場
・フランス人民戦線結成
・天理教本部が脱税で捜索
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1924年(大正13年)
・皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)と良子女王(後の香淳皇后)ご成婚
・日本でメートル法が採用
・阪神甲子園球場完成
・トーマス・マン『魔の山』
1925年(大正14年)
・イタリアのベニート・ムッソリーニが独裁宣言
・日ソ基本条約締結(日本はソ連を承認)
・治安維持法公布
・朝鮮総督府庁舎完成
・上海で五・三〇事件
・広東に国民政府が成立
・鈴木商店(後の味の素)設立
・芦ノ湖にブラックバスが放流
・娯楽雑誌『キング』創刊
……これ読んだ若い頃、スーパーのおさかなコーナーで働いてた。
まな板の上にレモン置いて帰ろうかと思ったな。
なつかしい。
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1914年(大正3年)
・孫文らが東京で中華革命党を結成
・サラエヴォ事件→オーストリア=ハンガリー帝国がセルビアに最後通牒
・『少年倶楽部』創刊
1915年(大正4年)
・第一次世界大戦:ドイツ海軍がイギリス周辺を交戦海域に指定して、Uボートによる無制限潜水艦戦が開始される
・サマセット・モーム『人間の絆』
・芥川龍之介『羅生門』
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数字と固有名詞と記憶と今がごっちゃになって、ちょっと気持ちいい。
自分がさかなクンと同い年なのは知っていたが、ぺヤングとも同い年とは知らなかった。
それと昭和、長いな。
明日も朝早いし、そろそろ寝る。
ほとんどの場合、ラノベにヒロインは必要不可欠であると水島や飯田は主張する。反例はもちろんあるが、ヒロインを据えたラノベがそうでないラノベよりも圧倒的に多いことは事実である。
このヒロインについて、水島は「フラッグシップヒロイン」という独自の単語を用いて説明している。フラッグシップヒロインとは、その出会いによって、主人公は平凡な日常から非日常へと放り込まれる、という点で特徴を持つヒロインである。水島はこのフラッグシップヒロインは一人であるべきで、また傍若無人タイプが好ましいと言う。日常が非日常へと変わるのは多くの物語で最初の1度であり、従ってそういった存在は必然的に一人であらざるをえないと言えること、前述の人物間のギャップを想定する場合、ヒロインが傍若無人であるならば主人公は面倒見のいい親切な人物となり、このような人格は読者の倫理観を満足させやすく、ゆえに感情移入させやすい、という点で効率的である。ゆえにこの水島の指摘はこれまでの内容とも矛盾しない。
一部の例外を除いて、ヒロインは主人公に惚れなければならない。榎本はヒロインが主人公に惚れる理由はしっかりと、読者に分かる形で描写するべきだという。一目惚れの場合は「外見に惚れ、次に魂に惚れなおす」という形で段階を分けるべきだとする。
突如登場したこの「魂」についての説明は一切ないが、筆者が理解する限り、この「惚れる理由」や「魂」とは主人公の「行為」であり、精神的な何かではない。
クーンツは登場人物の個性とは「行為」によって示されるべきだと言う。これは例えばヒロインは優しい性格の持ち主だ、と説明することよりも、読者がヒロインを優しい性格だと感じる行為を描写することの方が好ましい、という指摘である。
作中の人物はテレパシー能力が無い限り他人の思考を読み取ることはできず、その人物設定の書かれた地の文を読むこともできない。ゆえにその行為によってのみ、どういう人物であるかを理解していくことになる。もちろんクーンツや榎本が指摘するように、それらの行為には動機が必要である。現実と異なり、なんとなくで登場人物が行動していくことは読者は作家の思考放棄であり、ご都合主義だとみなす。
従って主人公はヒロインが惚れるに足る行為をなさねばならず、それは作中で明示的に描写されなければならない。
さらに、この指摘は主人公がヒロインに惚れることについてもまったく同じである。美少女である、ツンデレであるといった属性があるから主人公が惚れるのではなく、当該人物の行為によって主人公は惚れる必要があるのであり、さらにその行為が読者にとっても惚れうるものであればこそ、魅力的なヒロインとして意識づけられるものだろう。
水島は登場人物にオリジナリティなど不要であり、パクればいいとする。一方で五代/榊はそれを「チグハグで安っぽいもの」と批判する。両者の主張は実のところ特に対立するものではない。
西谷は次のような指摘をしている。
ライトノベル作家を目指している人の原稿を読むと、大ヒットした小説に登場したキャラクターの名前だけを変えて自分の小説に登場させ、自分ではそれに気がついていないことが多いのです
五代/榊が批判しているのはまさにこうした模倣だと筆者は考えている。水島は意識的に模倣しており、さらにそれはバレないようにするべきだ、と言う。バレない模倣とは一体なにかについて水島は特に踏み込まないが、この点で大塚は既存のキャラクターを抽象化し、別の値で具体化することが正しい模倣だという。例えばオッドアイという属性を「左右で異なる目を持つ」と捉え、そこから「左右で見える世界が違う」と具体化する。
確かにこれは既製品の加工、変形に過ぎない。ゆえに大塚はオリジナリティとは「パターンの組み合わせ」「パターンの再発見」なのだとする。この2つは、クーンツの「われわれは古い物語の要素を新しく配列し直しているだけなのだ」という指摘、また榎本の「オリジナリティとは「全く新しいもの」ではなく「読者たちが知らないもの、見たことのないもの」の呼び名だ」という指摘を端的に表していると言えるだろう。
一方、様々な属性をランダムに組み合わせ、新たなパターンの組み合わせを発見しようというワナビは珍しいものではない。スクール水着と巫女の組み合わせはこれまでにない!オリジナリティだ!といったそれに対し、大塚は「設定の上だけで奇をてらった個性やオリジナリティを追求しても意味がない」と指摘する。
繰り返しになるが、大塚はそれが「主題」と深く結びついていることが必要不可欠であるとする。主題と関係性を持たせられず、物語上の必然性もない「オリジナルな属性」に価値は無いと言っていいだろう。
プロットについての学術的定義としては例えばフォースターが有名であるが、それらを踏まえてプロットの定義を明確化した文献はフィールドぐらいしか確認できなかった。
よって本稿においては各説の最大公約数的に機能する定義として、「世界」や「登場人物」の変化を「出来事」とした上で、プロットとは「出来事の配列」と定義することとした。
さてこの「プロット」について論じるにあたっては、当然ながらプロット不要論と向き合わねばならない。
プロットに重きを置かない理由はふたつある。第一に、そもそも人生に筋書きなどないから。第二に、プロットを練るのと、ストーリーが自然と生まれ出るのは、相矛盾することだから。
このキングの著作を高く評価し、手本としても例に挙げているクーンツはプロットに関して次のように述べている。
作家にとって望ましいのは、ただひたすら登場人物たちの進んでいく方向に、ストーリーを方向づけていくことであるというのだ。どこやらあいまいなこの方法に従えば、より「自然」なプロットが得られるというのだ。ばかげた話である。
ただしクーンツもごく一部の天才であればプロットを練らずとも名作を書きうるだろうとしていることは事実である。よってキングをその例外であるとすれば上記の見解の相違は回避可能となる。
ところが同様にプロットなど考えたりしないという主張は、例えば宮部みゆきや五代によっても主張されている。彼女らがクーンツより文才溢れる天才であり、キングと同格なのだとすることはさすがに暴論であろう。
しかしここでもこれは単なる手順上の相違に過ぎないと筆者は考えている。
まずキングは「原稿を寝かせる」ことを非常に重視している。書き終えた原稿をキングは6週間寝かせるが、それは「プロットやキャラクターの穴がよく見えるようになる」からだという。こうしてプロットの欠陥を認識し、書き直し、そしてまた6週間寝かせる。キングは欠陥を認識しなくなるまでこれを繰り返す。
確かにキングはプロットを事前に練っていないが、これは推敲における徹底したプロットの練り直しに他ならない。もちろんキングが筆の赴くままに書いてもそれなりの内容を書くことができる、という前提はあるだろう。しかしキングもまたプロットを最終的に納得いくまで練り込んでいるという事実は、単純にプロットなど不要だとする主張とは明らかに一線を画している。
宮部もまた、書き終えた後での推敲段階で物語の全面改稿を含む大幅な変更がありうること、よって発表後の現行を改訂できない連載小説などは「よく失敗」すると自嘲し、従って自分のやり方は非効率であるから真似するべきではない、と述べている。
このように彼らの意見をまとめると、プロットを先に練って書くことは確かに必須ではないが、それはプロットを練らないことを意味するものではなく、推敲段階で徹底して練り直さねばならない、ということと理解できる。先にプロットを練ることの効果は後で練るより執筆量の少ない段階で修正できることにあり、効率が良いという点に集約できるだろう。
以上のように整理したところで、ではプロットを練ればそれだけで自動的に良いプロットになるのか、といえばそうではない。重要なのは魅力的なプロットを作り上げることで、練るという行為それ自体ではない。
練り方という点でラノベ作家陣は様々な「プロットの作り方」を提案している。その内容には「どのように作るか」という手順と「どのようなプロットであるべきか」という構造についての両方の側面があり、極端に言えば前者についてはどうでもよく、明確に意識するべきは後者であると筆者は考える。
従って手順について詳細に踏み込む必要は無いと考えているが、似て非なる様々な内容が提案されている点を簡単に紹介したい。
キング同様、西谷は「最初のシーンから順に次のシーンへと書いていく」というシンプルなプロット作成手順を提案しており、そのメリットはスケールの大きい物語ができること、デメリットは時間がかかることだとしている。
他方、西谷は「主題をもとにして最初のシーンを考え、次にクライマックスとなるシーンを考え、その両者をつなぐシーンを考えていく」という手順も提案している。こちらは前者より物語の構造を決めやすく、早く書き上げられる手順だという((この指摘はプロット不要に関する筆者の解釈とも合致するところである))。
水島の提案はこの西谷の後者の説に類似しているが、「ヒロインと出会う事で主人公の平凡な日常がどのように変化するのか」「クライマックスで何をするのか」「ラストはどのように終わるのか」を最初に決め、次にその間を繋ぐ出来事を作っていくとするものである。
榎本は「(人物)が(行動)をして、(結果)になる」を最小プロットとして位置づける。その上で登場人物たちの目的、遭遇する事件、葛藤、対立、成長といった要素を盛り込みつつ、まず200字で作成するという。200字で納得のいくものが作れたら次に400字、800字と同様に徐々に増やしていく。これによって効率的にプロットが作成できるとしている。
大塚は上記とは全く異なり、下記の項目それぞれについて、暗示的な意味を付したカード(オリジナルでもタロットのような既製品でも問題ない)をランダムに割り振ることでプロットが作成できるとする。
割り振られたカードの暗示から想像を膨らませることで具体化するという。また、これとは別にグレマスの行為者モデル(主体、援助者、敵対者、送り手、対象、受け手の6種の役割をもつ人や物によって物語は構造化できるとする説)によってもプロットは作れるとしている。
これ以外ではさらに物理的な手順への言及もあり、例えば榎本は単語帳やExcelで各アイディアをカード化してこれらを並べ替えながら考えるのだとしていたり、大塚も場面単位で時刻、場所、人物、行動をカードに書き、それを時間軸に沿って並べて考えるのだ、としている。最後に1972年初版であるクーンツの指摘を挙げて本項を終わる。
プロット・カードとかストーリー構成リストとかの奇妙な発明品は、どれもかつて、作家がアイディアを得るための手助けをすると称して売られたものであり、この手のものは現在もなお売られている。が、実際のところ、そんなものはまともな作家にとって、まったく無価値に等しい。
ラノベ作家陣によるプロットの構造に対する言及は曖昧なものが多く、またまとまった説明になっていないものが少なくない。
いくつか断片的にこの点について言及している部分を拾い上げると、例えば西谷は「キャラクターに新鮮みがあること」「魅力的なストーリーであること」「類似作品と差別化できていること」といった要件を上げており、「魅力的なストーリー」とは何かという点については「主人公に苦労させる」「強い悪役を出す」「魅力的な仲間を出す」「新しい場所を訪ねる」としている。作中でそれぞれの出来事の起こる順番への言及は特にない。
水島は順序について言及しているが、「タイトルも含めて最初に読者をツカむ」「ラストシーン一歩手前で盛り上がる」「ラストは短くだらだらせず、良い読後感を与える」「それ以外は読者が飽きないよう時々盛り上がるようにする」というもので、具体性に乏しいと言わざるを得ない。
あえて言えば「どんでん返し」と「天丼」への言及があり、「どんでん返し」はクライマックスの決着、直前、ラストシーンの最後のいずれかに位置することで効果的に機能するが、当たれば評価を大きく上げるが外れると大きく下げる点に注意が必要だとしている。「天丼」は意外性があり、重要なことを最初は大袈裟に、二回目は間を空けた上でぼそっということで効果的に機能するとしている。
確かにこれらの要素は盛り上げるための1つの技術ではあるだろうが、プロット構造における要素とは言い難い。
さて、榎本は次のような構造をプロットが持つことが望ましいとする。
クーンツもまた、古典的プロットの成功パターンとして以下のようなプロットの構造を推奨する。
念のため触れておくとクーンツはミステリにはまた注意すべきプロット上の必須要素があるとして、それを15項目に別にまとめている。つまり上記だけであらゆるジャンルのプロットの必要十分条件であるとしているわけではなく、様々なジャンルの必要十分条件の最大公約数として機能するのだ、という指摘であると筆者は解釈している。
大塚はプロットの構造については後述するヒックスのそれが参考になるとして作中で丸ごと引用している。しかし同時にプロットの本質的構造はアラン・ダンデスを参考に「主人公の欠落が明かされる」「主人公は欠落の回復を目的とする」「主人公は欠落を回復する」の三段階であるとしており、これは榎本やクーンツの主張をさらに抽象化したものだと言いうるだろう。
ところでクーンツの主張するプロットの構造は「三幕構成」と呼ばれるものである((三幕構成とは序破急であるという言説はラノベ作家の本でもよく見かけるのだが、あれは世阿弥の風姿花伝における序破急の概念を正確に理解した上でそう言っているのだろうか。まさか読んだこと無いけど字面的にたぶん同じだろといった糞みたいな思考で「教科書」と自称するものを書いているはずはないので、風姿花伝の解説書、待ってます))。榎本は「起承転結」を用いて説明するが、上記のように両者はそれほど乖離したものではない。この三幕構成はとりわけハリウッド映画脚本の原則として確立されており、その端緒ともいうべきフィールド、そして大塚や乙一などが参照するヒックスについて本稿では整理する。
フィールドはプロットの理想的な構造を三幕構成によって説明する。三幕構成とはあらゆる物語はAct1, Act2, Act3の3つに分割可能だとする考え方である(その意味でいえばクーンツもまた「クーンツの三幕構成」というべき独自の三幕構成を定義しているというべきである)。これはパラダイムであり、ゆえに三幕構成は史上最高傑作にもメアリー・スーにも等しく存在する。
フィールドはこの三幕構成を下敷きに、次のような役割を持つ出来事が順に配列されることが望ましいとしている。
PlotPoint1と2はそれぞれ各Actの最後に、次のActへの橋渡しとなる機能が求められている。またMidPointはConfrontationの真ん中で起こることが望ましいされている。さらにはそれぞれのActはいずれも小さな三幕構成で出来ており、すなわちフラクタル構造であることが望ましいという(フラクタル構造への言及は榎本なども指摘するところである)。
映画脚本における理論であることから、フィールドはMidPointが上映時間のちょうど中央で起きることが望ましい、としている。
クーンツがあげる「ついに最悪の事態に陥る」はMidPointのようにも思われるが、クライマックスのようにも思われ、それが作中の後ろにあるのか中央にあるのか言及がないため、判断しかねるところである。これに対してフィールドは明確にそれを作品中央で発生するべきだ、としている点で、クーンツのそれをもう一歩先に進めたものだと言いうるだろう。
なお、MidPointは必ずしも派手なものである必要は無い。例えば映画「マトリックス」におけるMidPointはネオが救世主ではないとオラクルに告げられる場面である。争いの無い静かな場面であり、生命の危機に直面しているわけではない。しかし物語をこれまで動かしてきた大前提が崩壊した瞬間である。MidPointはこのようにもはや後戻りができず、先の絶望的状況の回避方法が読者に容易に想像できない出来事であることが期待されているものであり、派手な出来事 Permalink | 記事への反応(1) | 20:47