はてなキーワード: 情報量とは
そらもう、実際の案件に投入された状況を疑似体験しているわけだ。
よかったね。
情報量があまりにも少ない資料、説明不足の講師、作業没頭型のやつ、誰の発言にも否定してくるやつ、「残業はするな」と言うくせに突然の修正を要求してサービス残業をさせる上司。
丸投げにもほどがある。
IT企業の研修だとよくあるカリキュラムなのかもしれないけど、長期間にも及ぶ開発の研修がつらすぎる。プログラミングができないというわけではなくて、資料が分かりづらかったり上司が不親切だったりで不明点を解消しようとしても上司によりけり回答がまちまちで矛盾が生じている。
こういう研修で、プログラミングができるようになるというよりは、不親切な上司がいて、不親切な資料から何かしら読み取って成果物を納期までに作らなければならないという理不尽を学ぶことになるのかな。
何にもできないくせにプライド高くて自分から誤らないようなやつは褒めておだてておくことで仕事をさせられる、おとなしい指示待ち人間には逐一指示を出す、何が何でも定時で帰りたがっている女には帰っていいよと笑顔で見送る、なんかそういうのに疲れた
まだ何も成果を上げていない人間が何を偉そうにと思うかもしれないけど、残業するなら残業代をつけてほしいし、フォローをお願いしたときに上司は質問に答えてほしい。
一般的に広告は、売りたい対象の良いところのみを伝え余り良くないところは伝えたくない、という意図のもとにつくられることが多いです。売りたいので当たり前の行動ですね。
この行動原則に則ると、一般的には、売りたい人と買おうと考えている人の間には情報量に差が発生します。売りたい人が持つ情報量の方が多い状態になりやすい。情報の非対称性という言葉を聞いたことがあるかと思いますが、まぁだいたいすごく雑に言えばこんな感じです。
一方で私たち消費者もバカではありませんので、広告=売りたい人が出しているのだから不都合な情報をなるべく出さないようにしてる可能性があるよね、という共通認識があります。なので、例えば「これは広告ですよー」と明記することで、先に申し上げた情報の非対称性はある程度は解消される可能性が高い。「これは広告です」という表記は実は割と濃い情報を持っています。
それと同時に私たちは、そのような商品の情報が「報道的」であれば、より真実に近い客観的な密度の濃い情報である、と考えやすいという傾向を持っています。
消費者は、販売者のあの手この手の広告によるなだめすかしをすりぬけつつ、その商品は自分にとって必要性が高いかどうかを判断します。広告はその判断材料の一つでもある重要な情報源のひとつですが、それ以外にも情報を消費者に届ける方法はあります。
それがいわゆる記事広告、PR記事などです。あとクチコミサイトなんかもこれにあたりますが、某べログなどがクチコミデータの改ざんをやったりやらなかったり、問題になっていたりしますし、少し前に大騒ぎになったDeNAのWELQ問題なども、問題の質はまったく異なりますが構造は似ています。
「広告」であることが明確なら、受け取り手は「都合の悪いことがあらわされてない可能性があるな」という心構えで対峙できますが、まるで広告じゃないようなフリをしていると、報道的に(真実味をもって)、その実は金を出している販売者側に有利になる恣意的な情報のみを発信する、ということが起こりやすくなる。
恣意的な情報によって都合よくコントロールされている可能性があるという状態は、市場原理主義的に考えると「悪意の手心を加えられた状態」の市場となっている可能性が高い、というのが、PR表記問題の本質です。
嫌儲的な発想とは似ている、でもちょっと違う。他人が儲かっているのがムカつくということではなく、どちらかというと騙されるのがムカつく、それによって恣意性が産まれるのが健全じゃない、というのが問題。
健全じゃないよね、ということで多くの既存メディアではPR記事には「広告です」と明記してその広告メディアの情報対称性を担保しているのです。
「広告ではない形で広告しようとする」という行動は、消費者と販売者側の情報の非対称性を広げ、健全な市場原理を働かせにくくなる悪意のある行動、という風に捉えられているわけです。
これは、情報の発信者(今回のケースだとヨッピーさんですね)が、仮にいかに真摯に情報を取りまとめていたとしても、「作り手から金貰ってるでしょ」という一点で、市場の健全性が損なわれうる、「そういう構造になってしまっている」こと自体が、危ぶまれるべきポイントです。
ヨッピーの記事はおもろいなー笑うわーと思って読んでいるけど、いつどんな時でも真摯に誠実な態度を取り続けてくれる保証は、本人含め誰にもできないですし、そもそもそれは、一個人に押し付ける類のものでもない。
だから、PRならPR明記する方が、本当はヨッピーさん本人にとっても良い効果をもたらすと思うんですけどね…。
目先に積まれた金にくらくらっときていたりして、それでポジショントークしてるんですかねぇ…。
↑こういう風に受け取られてしまうこともある「構造」ということです、金貰ってPR記事書いて広告じゃない顔をするということは。
このように邪推されてしまうこと自体、「メディア」としてのヨッピーの価値を下げることになってるんだよね、ああいう戦い方をしている人にとっては結構ダメージデカいんじゃと思うんですが、どうなんでしょ。分からんその辺は。
優秀さの尺度なんて環境が変われば全然違う。学問的な話での優秀さで言ったら、幅広く全方位的に抜け目なく情報処理・・・という話なら定形に劣るかもしれんが、集中力を発揮できる特定分野を短期的に膨大に情報処理・・・っていう事だったり、そもそもその分野がクリエイティビティを発揮すべきものだったりすると、定形さんはADHDに勝てないよ。
ワーキングメモリが少ないっていう認識は間違いで、「ワーキングメモリを侵食している処理が多すぎる」が正解。無駄が多いだけで処理してる情報量としては多いし、クリエイティビティを発揮するべき分野ではその無駄が「発想力」になる。あと、コントロールできないけど過集中中は、無駄に使ってた処理リソースを一気に集中の対象に注ぎ込む上にリミッターも外れてるから、その時の処理能力の高さは定形さんには真似出来ないよ。
統計的な話なんだろうが、ADHDで一般的な人に比べて知能指数は高い・・・って人は結構多い。多分、淘汰されやすい世界で生き残るには、そもそも平均より有能である必要があったんだろうなとマジレス。
東大とかみたいにレベル高いところに通っているわけではないし、言ってしまうとMERCH以下の偏差値しか無い大学に居るので「お前が馬鹿だからそう思うだけ」と言われたら説得力のある返しができないのだけれど、それでも大学の授業が薄っぺらいと主張したい。
今年で大学生活も3年目に入り、順当に行けば後期には単位の取得が完了するペースなのだが、得たものが一切ないといえるほど大学での授業内容が頭に残っていないのだ。
単位取得はしているけれど成績という観点から見ればC評価が多く、ギリギリ赤点を避けている現状なので授業内容が頭に入ってないんだろうとも考えられる。
けれども単位取得の肝を担っている学期末テストの内容が『授業中に再生した動画で言及した企業のマーケティング戦略は何だったか?』というのはひどすぎるのではないだろうか。
自慢ではないがマーケティングについては当大学内で比較した場合に限るけれど、ある程度の知識を私は持っていると自負しているが、流石に特定の企業が行っていたマーケティング戦略なんて動画を見ていなかった私に解けるわけがない。
せめて、商品の販売個数を計測する戦略とか書いてくれれば何となく当たりをつけることは出来るが一切とっかかりになる情報がないので授業出席者しか解けないのだ。
授業に出席しないものは、いかなる知識を保有していようとも単位は上げませんと言っているようなものである。
そもそもの話私が大学に行かないのは、授業時間90分のうち、教授の雑談が半分以上を超えていてどのタイミングで本旨に触れるかわからないからである。
教授がゼミ生と一緒に福岡に行った時に食べた食事がとても美味しかった話など、至極どうでもいいのでとっとと必要な話をして終わらせてほしいというのはおそらく講堂にいる生徒全員が等しく思っていることだろう。
適当で面白みのない授業を展開する教授ばかりではないのはだが、どちらが多いかと言われれば上記のようなゴミ教授ばかりである。
こうやって教授を批判するかの言葉を連ねると「彼らは有名大学を出ていて高知能、その話を楽しめないキミは低知能」とマウントを取られる。
しかし東大を出ているとか、有名大学の院を出ているとか私からすればどうでもよいことなのだ。授業がつまらないという事実は私の中で変わることはないのだから。
やっていることは市販されている本(自著であることが多い)を朗読しているだけで、自宅で必要な部分は覚えられる。そんな「教授いる?」と感じるような講義内容でどこに「教授は頭いいなぁ」と感じる要素があるのか。私が異端なだけで世の中の人は資格や肩書だけで知能を判断する、判断基準が外部にしかない人ばかりなのだろうか。
つまるところ大学というのは教育ビジネスであり、肩書を得られるのを対価に金を払って、脳死しながら授業を消化し続ける場所なのだ。
私が声を大にして言いたいのは「大多数の人間にとって大学は一切必要ない」ということ。
企業が大卒を要求していて、大卒の給料が高いからしょうがないので大学に行って卒業しようと考えているだけで、そこで何を学べるかはどうでもいいのだ。
しかし私はそこまで割り切ることができず、大学を学ぶ場所と考えてしまったいたからこうして不満が爆発しているのだと思う。
私は運がいいことに文系大学に進学しているが、小さい頃にパソコンを祖父から貰い、そして2つ上のいとこがネット関係に非常に強かったため影響を受けIT関係に強くなった。
そして大学ではこれまた運がいいことにビジネスに精通した人間たちと仲が良くなり、今後の希望を得た。
情報量を多くする気はないのでこれを読んだ奇特な人は「騙された人間」と私を罵るかもしれないが、それはどうでもいいことだろう。
私の周りは大学に通うことを強く勧めたが、結局それは私に合わず、彼らに合わなければ日々鬱屈とした思いを抱えながら、ただ授業を消化する人生を歩んでいた。
アドバイスに従った結果、得られたのは大学と私が合っていなかったという知見だけである。
このことから「アドバイスと称して意見をぶつける人間は、個人を見ていない」というのが判明する。
彼ら助言をする人間は最大公約数的な、大体の人間にとってベストではないがベター程度にはなるはずという意見をぶつけることで自身の人生の正当化をしつつ、悦に入ってるだけなのだ。
確かに最終的に選択をしたのは私であるが、どれだけの人間が周りの人全てが自分と反対の意見を述べている中、自分の考えを押し通すことが出来るのか。
私は大学生になり人に恵まれたおかげで、本当の考えを通せたのであって、高校生の頃であれば貫くことはできないだろう。
結局、大学の授業が薄っぺらいというのはこの「多様性を認めず一般論を勧める人間」が大学への進学を勧めているからなのだ。
だから教育という存在はまるで利権を貪る団体のように怠惰でありながら肥大してしまった。
大学というのはそもそも専門性の高い話を学び、その専門的技術を社会のために使うのを目的とした教育機関だ。
特に能のない私のような人間が大学に行ったところで卒業したという事実を抱えて企業に入り、一切学んだことを使わないで終わるのが関の山である。
学歴社会は確かにフィルターとして有効な部分もあるが、その企業が学歴フィルターをかけているのが世間にバレればまるで現在の検索エンジンがハックされるようにそこに向けて最適化されてしまう。
つまり大学進学するものは優秀で専門性の高い人間だから採用するというのが前提にあって学歴フィルターは機能していたのに、そこがハックされてしまったがためにバツグンな効果を発揮するとはならなくなった。
ハックされていない採用基準は意図した人材を取得できるため優秀であるが、認知されてしまえばそこに注力できる人間を採用する弱い基準となってしまう。意図しない人材を確保することになる。
起業家の話を聞いてみると「東大生のほうが統計的に話がわかる」と語る。
つまり学歴フィルターは大卒で区別するのでなく、東大生などの超難関校とそれ以外で区別するようにしたほうが建設的だ。(給料も含め)
そうすれば無駄に大学に通う人間も減るし、ビジネス大学も少なくなる。大卒枠を争って貧困に悩む人間も減る。
私が問題提起したいのは以下の2点。
・何も考えずに一般論で「大学はいったほうが良いよ」と個人を見ずに語るやつは口を閉じよう
・企業は大卒で学歴をフィルタリングしても効果が薄いので、給料から難関大学(基準はMERCHかそれ以上?ここはわからない)とそれ以外で分けるべき。もしくは意図した人材を採用できてかつハックされていない新しい採用基準を見つける。
こうして大学が少数精鋭になれば教育者も生き残りをかけて力を尽くし、怠惰で肥えた教授も減ることだろう。
私はとにかく薄っぺらくて意味のない授業が大学から消滅してほしいので、教育機関こそ激戦のビジネス社会のように苦しみながら競争して欲しいと思っている。
確かに科学の力というのは重要だとは思うが、現在私の身の回りで生活に欠かせないと思うものを作っているのは企業であり大学で教鞭をとる人ではない。私が知らないだけで企業にその教授も協力しているのかもしれないが、それなら大学ではなく企業で研究させてもらえばいい。
つまり「安定してるー」とアホ面下げて年に数回、偉そうにゴミみたいな本を書きながら教壇に立つ輩は荒波にも稀ながら淀んだ精神を磨き上げるべきだということ。
そもそも大学はいま腐るほどあるわけだけれど、その全てが科学において必要ではないだろう。それならばなおのこと競争化させて精鋭化させなければいけない、なぜ「研究」という話になった途端嫌儲精神が発作的にでてくるのか。
何度も書いている気がするけれど、その大学の競争化をする上で最も邪魔なのは一般論を振りかざして大学に行かせようとする無能な働き者と大卒でフィルタリングする企業だ。
個人を見ないで、自分の人生訓を元にとりあえず精神でアドバイスするやつは総じて糞だし、対してその人を案じているわけではない。
こうした一般論で武装した人間に対して、正論に感じようが自分の感性と考えを元に対抗できるように成長することが、幸福につながるだろうしひいてはこの薄っぺらい大学の授業の減少につながる。
2017年春期アニメも折り返しを迎えました。今期は話数の関係で途中総集編の入るアニメがちらほらあり、月がきれいもその一つでした。
今日は、私が今期楽しんでいるアニメの内TOP3に入るこの作品について紹介したいと思います。
紹介といっても7話までのネタバレが入るので未視聴の方は諦めてください。
月がきれいは原作のないオリジナルアニメで、ジャンルは中学生を主人公とした恋愛ものです。
現実世界と全く変わらない世界観の中で、特別な能力も人脈も持たないごく普通の登場人物達の物語がそれでも特別であるのは、このジャンルの強みと言えるかもしれません。
物語の筋それ自体はこれまで連綿と語られてきた恋愛物語とくらべて大きく捻りがあるわけではありません。
主人公である安曇と水野が中学最後の1年間を同じクラスで過ごすことになり些細な出来事を重ねお互いの関係を深めていく、普遍的な物語であると言えます。
では新しい要素とはなんでしょうか、そうLINEです。
作中においてLINEは現実世界と同様に事実上の生活インフラとして登場人物達に活用されており、これは物語の演出上も大きな役割を担っています。
第1話で水野は安曇へLINEのIDを渡し二人のやり取りが始まります。これには同じ体育祭の用具係であるという口実があり、作中の基準においても極めて自然な行動です。
そして二人の距離は体育祭での出来事を重ねて近づいていきますが、体育祭が終わると校内での接点がなくなってしまいます。この間二人を繋いでいたのはやはりLINEでした。
この物語において二人の関係性を進展させるポイントは対面時のアクションにありますが、それが可能なだけの関係性をLINEで醸成していくというのが基本的な構造になっています。
LINEではなくメールでも同じではないかという考えもあろうかと思います。しかし画面上また演出上においてもLINEの特徴が生かされているのが本作品です。
主にはその即時性と一覧性です。2話のラストから3話にかけて、二人のLINEでのやりとりが一つの画面内でポンポンという通知音とともに小気味よく重ねられていきます。
各話のEDでは、ある二人のLINEでのやりとりが描写され、視聴者はそのスマホの画面だけを見て物語を読み取ることができます。
文章の内容だけでなく時間と頻度を一覧できることから会話のログであるかのような情報量があり、それでいて実際の会話とは一線を画しています。
安曇は3話で「LINEでなら(水野と)話せるのに」と一人こぼしますし、4話で水野は安曇に「もっと喋りたい」と答えます。
7話で千夏は宮本と佐藤の前で改めて涙しますが、その後水野へ送ったスタンプの絵柄は愛らしく、実際の感情とのギャップが表現されています。
また、4話では安曇からのLINEに対する水野の返信に既読がつかないことから、トラブルの予兆が水野に与えられています。
先に挙げたような、今我々が用いているツールに関連する描写が物語に現実感を与え、視聴者がキャラクターの心情に寄り添うことをとても容易にしています。
恋愛物語を描くにあたってLINEを排除、あるいはメールと同様に扱うことはまったく難しくなく、実際にそういった作品も多々あろうかと思います。
しかし本作品においては真逆の方針を取り、それが結果として現実に極めて近いリアリティラインを構築しています。これはあるいは順序が逆かもしれませんが。
物語は、主人公が変に優柔不断でウジウジしてみたり強い力によるすれ違いが起きたりといった都合的な動力によらず進んでおり、視聴後は爽やかな気分になります。
キャラデザ・美術・音楽・演技(プレスコです)・脚本といった各要素が同じ方向を向き有機的に絡み合って本作品を構成しており、LINEもその一要素であるという話でした。
そもそも母子健康法とか母子手帳。なんかおかしい。親子手帳じゃないの。父にも手帳くれよ。
男と女では育児に対する情報量格差が大きい。ここ重要。育児に関する情報は母目線ばっか。差別だっつーの。
そんななか「父は育児の指示待ちするな」というのはおかしい。それまで妊娠判明から1年近く自分一人でやってきたことを
急に指示なく他人がそれを担うというのは不可能でしょ。サイコかよ。
本題。イクメンという文脈は非効率。男は基本的にモテたいために努力する動物。だからと言ってイケメンと同じ文脈に育児をのせたところで
モテる必要がない、場合によってはモテてはいけないときに、イケメン文脈の型にはまろうと考える男は少ない。
男性が育児に参加するモチベーション喚起の方向性としては義務・責務文脈が有益。育児はミッションである。
男はゴール設定してtodoをスケジュールに落とせばこなしていくようにできている。太古より遺伝子に刻まれている。
狩り、稲作、戦争、仕事、ゲーム。たいていミッションそんなもん。モテる文脈ではなくミッション文脈。
まずゴールは「高校に入学」「自分の人生のかじ取り、お金の使い方などが自己判断できるようになっている」
「生まれてきたことに感謝し喜んで生きている」という状態にすることあたり。漠としているが重要。
んで妊娠中の早期から父としてというより親としてやるべきことをtodo化する。
父だと最初に父母というキャラクター前提の分担論になってしまう。親として等しく負担すべき義務責務を認識したうえで
授乳などの一部例外を除き、育休・業務状況などそれぞれ投入可能な時間を鑑みて、役割分担を決めてtodoに落とす。
それからはイベントごとの達成感で進んでいく。3歳まで、小学校入学まで、小学校、中学校。
徐々に教育から自立、自己責任に力をいれた育児ミッションになっていくだろう。
このミッションの投資リターンは直接的なフィードバック、たとえば結婚式の「おとうさんおかあさんありがとう」でもいいし
結局は「子どもが社会貢献すること」なのだろう。職業貴賤なく。ついでに納税まで。
それまでセットで教育の義務、すなわち育児ミッション。さー達成してやろうぜ。
http://anond.hatelabo.jp/20170514161530
というダイアリーがある。
まず一つ目。見ないと馬鹿になるという方。
>>「テレビ見ないからみんなバカになるんですよ。そういう人は芸能人の話にも疎いし、話に厚みがないじゃないですか。」<<
なるほど。この人の認識として、芸能人に疎い、又は話に厚みがない事をバカとして認識している。
ここでは芸能人として書かれているが、たしかにTVを見ていないと知りえない知識が存在するのは確かである。
TVでは単純に情報量が多いのだ。なぜなら視聴者は一方的に受け身になりつづけるからである。
受け身の視聴者を飽きさせずに楽しませるには、情報の消費がもっとも単純かつ明快であろう。
まったくTVを見てない人と、よくTVを見る人では、情報量の差は必然的に変わってくる。
ここでいう情報の質とは、「使うか使わない」ではなく「信頼し得るか」である。
確かにTVを流してみていると凄い量の情報を与えてくれる。自分で調べるよりはるかに手っ取り早いし、自分が興味ない情報までも入ってくる。
情報量の多寡をバカかの判定基準にするならば、TVを見てないとバカになるという説もあながち否定はできない。その情報の質は問わずにね。
あ、TVでどういう番組みるかって話をすると面倒だからここでは省略するね。
私はどっちかと言えばこちらの意見に賛成する。
ただ勘違いしないでほしいのは、決して「テレビを見なければ賢くなれる」訳じゃあない。
テレビは沢山の情報を与えている事はわかっている。じゃあその情報って100%正しいの?ってお話。
別にTVの情報が間違っていると言っているわけではない。が、正しいとも言わない。
ただ情報の質が良くない。質の高い情報は、合理的で、簡潔で、シンプルなものだ。
出所のわからない情報や、偏っている情報は"質の悪い情報"として考えている。
TVというのはたまに一方的な視線で物事を捉えて話す。即ち印象操作である。
印象操作とは嘘をつくことではない。偏った物事を報道するわけなので、真実を報道する。
その真実をどう話すかで、視聴者の印象なんでどうにでもなるのだ。
偏見放送でなく、単に知識をつける系の番組も存在する。語彙力ないからなんて言ったらいいのかわからないけど察してくれ。
その番組を見てて思うのは、結果を異常なまでに重視しているのである。結果は解答と言い換えてもよさそう……か?
この記事を読んでいる皆いいかい?物事において大切なのは、結果ではなくプロセス、即ち思考だ。
問題定義が変われば結果なんてどうにでもなるんだ。結果は万能ではない、あくまで結果だ。
そのプロセスをすっとばして結果だけを報道するTVって多くないかい?
どうしてその結果・回答に至ったかを、さもわかりきった顔で説明しているTVは、ほっとんどその表面を撫でるだけの説明にしか過ぎない。
つまりのところ、何が言いたいのかというと、TVでは考えるというプロセスを挟まない。
考える力を伸ばすという点においては、それを放棄させる動きにあるのがTVとみている。
もちろん全ての番組がそういうわけでもないし、あくまで平均化された一般的な番組を言っているので、あの番組は違うとか言わないでね。面倒だから。
つまりのところ、この考えの人は「バカ=思考停止している」という認識なのだ。たぶんね。
しっかり自分で考える事の出来る人は、報道番組を見てても違和感を覚える人はおおいだろう。
なぜならその情報を鵜呑みにするのではなく、しっかりと自分で考えるというプロセスを持っているからである。
違和感ばかりになったTVを見続けるかと言われたら、見なくなる人もいるんじゃないのかな。
そういう意味において、「TVを見ればバカになる」=思考放棄するクセがつく、という事なんじゃないだろうか。
あと、このすごく長い長文をここまで読んでくれた人、ありがとうございます。
これは私の思考プロセスを示したものであり、TVでは放送しない、考える事に重点をおいた駄文でした。
https://news.yahoo.co.jp/byline/sakaiosamu/20170515-00070949/
そのころはパソコンも家になかったから、一生懸命テレビ欄調べたりして
*
それから10数年ファンと呼べる人はいなかったけど、最近別の人のファンになった。
*
ツイッター活動を始めてみる。名前やハッシュタグで検索して、さらに関連するハッシュタグで検索して、
よくツイートしている人をフォローして、その人がフォローやRTしている人を追いかけたり、フォローしたり
感想もツイートしたり、リアタイ中はハッシュタグを追いかけたり…
*
誰かと、「○○ってかっこいいよね!」「あのドラマのあのシーンが良かったよね!」って話し合えるのが
こんなに楽しいなんて知らなかった。
自分が見ていたテレビ番組について、ほかの人の感想を読むのが楽しい。
見逃した番組について、ほかの人が教えてくれる。
それに参加したくて、観た番組についてはなるべくツイートしようと思った。
星野源のファンではないけど、「おげんさん」もリアタイできたから、ハッシュタグつけてツイートした。
「おげんさん」はツイートしたくなる要素が盛りだくさんだったし、
*
私が追いかけていた頃とはもう環境も情報量も何もかもが違うから、一概に比較はできないけれど、
ここ数十年でコンテンツの楽しみ方は大幅に変わったのだと、
それも、SNSを中心に「誰かと共有する」楽しみ方になったのだと、つくづく思う。
日本では禁止されている大麻。大麻を吸うと普段の生活ではまず経験できない感覚を得る。よく言われるのは、音楽がものすごくよく聴こえ、ご飯がものすごく美味しくなり、空気が美味しく自然をとても美しく感じる。当たり前だけど、大麻を吸った事が無い人はどんな感覚になるのか想像できないと思う。そんな大麻の効能を「解像度」で説明すると、結構すんなり説明がつくなって思った。
「解像度」とは、画像の精細さを表す尺度のこと。ブラウン管、地デジ、4Kテレビの画面を想像したら分かりやすいと思う。
簡潔に言うと、大麻を吸うと解像度が上がる。しかしその解像度は視力の事ではない。「神経」の解像度が上がるのだ。音であったり、味であったり、空気や温度であったり、思考などの密度が濃くなる。神経が研ぎ澄まされているから、ものすごく細かく繊細に捉えられる。大麻を吸うと動きがスローになるのは、普段と比べて情報量が多すぎるからだと思う。めっちゃ笑うのは、面白いと思った事の解像度が上がりすぎた結果。バッドに入るのはその逆。
ブラウン管から地デジになるのは素敵な事だなとは思うが、日本じゃ地デジは違法だし興味ない人はそのままでいいと思う。大麻を肯定している人は、悪い事がかっこいいんだぜ〜ってアホもいるが、普段聞いている音楽がめちゃめちゃ良く聴こえて、普段食べているご飯がめちゃめちゃ美味しくなるから、かっこいいアーティストや美味しいラーメン屋を見つけた時みたいに人に勧めたくなる。それを宗教みたいだと感じたなら離れればよいだけだ。ミュージシャンで大麻を吸う人が多いのは当たり前だと思う。音をより理解できるから職業病の一種だと思う。日本じゃ違法だしJ−POPを聴いてるとそもそも大衆は密度の高い音は求めてないと思うけど。
日本人は、性質的に別にブラウン管でも番組内容は変わらないし、スポーツ中継も見ないから全く困らないしこのままでいいやって思う保守的な人だらけだと思うから、日本はずっと解禁されないと思う。
画質がよければいいわけではない。無駄に目が疲れるかもしれないし、プレステよりスーファミの方が面白いソフトもある。大事なのは内容であり、大麻は画質を高めるだけに過ぎない。
この長さの怪文書を投稿することにためらいはあるけれども。
偶には、言いたい事を思い切り言ってもいいかなと思う。
まず自分のことを書くと、稀にしか更新しない覚え書きのようなブログをやっている。あと好きな文章を書く人は結構な頻度でチェックしているくらい。
自分も新参だけれど、新しいタイプのブロガーの人が使う、押しが強めの手法がじゃっかん苦手である。
新規にブログを始めた際、こちらのブログは全く読まずに(本人には割と分かるものです)、宣伝のためにスターを付けてくる人が一定数いる。まあ当然、興味を持たれる文章を書けないこちらに非があるわけですが、「貴方のことは気にならないけど私の書いた文章はぜひ読んでくれ」と受け取ることもできる。
露出を求めて「記事お題」を引用し、全く関係のないことを書く人も多い。例えば「雨の日グッズ」というお題を引用しておいて、いつもの調子で日記を書く。露出したいのは分かるけれども、そのばあい読者が読みたいのは傘や長靴の話であって、職場の愚痴とか趣味の紹介とかではない。
あと、リクルートの適職診断、またはリクナビNEXTのグッドポイント診断を薦めるエントリ。MIIDASの適正年収診断、dTVの紹介。日常会話みたいな感じでお勧めされるんだけれど、あれは紹介料が入るからやっているのだそうで。道理で数が多いと思った。…あれはステマにはあたらないのだろうか。「PR記事」とかの表記がない分、「選挙前にさりげなく電話をかけてくる友達」みたいな感じがして、個人的には警戒してしまう。
CGMは、そのコンテンツの持つ価値の判断が難しい、とは思う。それは人によって違うし、ネットでの人気には「親しみ」も大きな要素である。
ただ分かりやすい基準として、例えば、寄稿や出版の話が来る人にはそれだけの実力と、その人固有のブランドがあるわけで。
なので余計に、「とりあえず100記事書きましょう」「SEOを勉強しましょう」「PVを稼ぎましょう」と、クリックしてもらうことに血道を上げる風潮がどうもよくわからない。読み手に客観的な価値を提供できているのかな?と、不安になることはないんだろうか、と。(言うまでもないことだけど、価値がある/ない、という話ではない。「価値のものさしはどこにあるのか」という話)
はてなの人なら、自分なんかよりよほど熟知されていることと思うけれど。執筆され、編集の手が入り、校正されてデータが印刷所に渡り、取次を経て本屋に巡ってきたり電子書籍になる、それだけの手がかかった、色々な「出版物」は本当に凄いなと思う。
個人がもっている「有益な情報」には限界がある。取材して一次情報にあたるプロに、正確性や量で比肩するのは正直、むずかしいのではないだろうか。
比肩しなくてもいいけれど、そこから発生する「収益」は最大限にしたい、というなら、それはインターネットが役に立たなくなるわけだと思う。
媒体が紙でもネットでも同じことで、例えばキッコーマンのサイトを見ると、料理の基本から旬の料理から詳しく載っている。歯の健康について知りたいときは、クリニカ辺りのサイトが役に立つ。商品の紹介記事にしろエッセイにしろ、企業がやっている媒体に掲載されている文章をみると、何歳ぐらいのどんな経歴の人が書いているんだろうと思う。
コードや料理が商品になるように、文章もまた商品として存在することは確かだ。ただ、コードを個人がお金にするにはそれなりの手順が必要だと思うけれど、文章はなぜか、個人がネットに上げるだけでも「儲かる」。
他にも、ネットにアップするだけで儲かるものは色々あるけれど、合法かつ元手がかからず、特に技術の習得をしなくてもできる「稼ぎ方」として、「文章を書く」というのは確かに適しているのだろうとは思う。
ここまでを踏まえて。「商業のクオリティや情報量には敵わないが(※ケースバイケース)、読んだ人に満足を与えるような文章を書き、お小遣い程度の利益を得られる、Win-Winの取引(読者が読む時間によって「収益」を発生させるなら取引みたいなものではと思う)」を考えてみる。(ものすごく飛躍しているような気がするけど気にせず進めます)
商業ではなく、市井の個人が書くことに意味がある文章とは何か。
それは、「その人にしか書けない文章を書く」ということではないだろうか。
別に、個人情報を晒せということではない。出身地や職業、家族構成は確かに、その人を知る大事な情報だけれど、同じような属性を持った人が世の中にはごまんといる。
「他者から客観的に見た自分」と、「自分の演出したいキャラクター」には、往々にして懸隔がある場合が多いと思う。シニカルに渋く決めているかと思えば、愚痴や悪口を書いてしまったり。写真にお洒落な加工をしていても、背景がどうも決まっていなかったり。「本当の自分らしさ」は、他者からの反応や自省によって得られるもので、見たくもない自分を見せられることも多いし、自分の評価されたい項目と他者から評価される項目が違ったりもする。
それでも。「自分の良いところ、推せるところ」を見つけて、「それによって他の人を満足させ、楽しませる」ことが、「個人としてメディアをやること」の強みなのではと思う。
その人にしか言えない言葉、できない話。培ってきた価値観、文章のテンポや言い回し。自分なりの軸による知見や考察。人によってはイラストや作品。例えブログ名や使っているテーマを変えても、文章ならば増田に書いても、「ああ、あの人だ」と分かってもらえるかどうか。
「その人にしか書けないブログ」こそが、個人ブログの存在意義なんじゃないだろうか、と。
「商業に出来なくて個人ブログならできること」は多くある。言及合戦、ボールの打ち合いもそうだし、商業の連載や肩書を背負ったブログと違って、思ったことを好きなように、題材も自由に書ける。
日記を見ると、今日したこと、最近興味のあること、生活や感情の移り変わりを感じることができる。例えば料理や写真のブログであっても、書いている人のキャラクターが違えば、受ける印象は全く違う。
「その人らしさ」が感じられるなら、面白くないブログなんてひとつもない。どんな個性でも、ネットに上げれば一人くらい、それを楽しんで、好きになってくれる人がいる。それがCGMの良いところで、インターネットが普及した利点であると思う。
さらに言えば。有名ブロガーの人たちを見ていると、やっぱり「読者を楽しませること」にとても力を入れているなと感じる。
スタイルは人によって様々だけれど、重い段落がつづくとその人のやり方で空きを入れたり、ボケてみる。自分の愛されている分野以外のことはあまり書かない。反応がよかったらまた掘り下げる。とか。(まあ、こうやって分析されるのも嬉しくないのかもしれないけれども。)
当たり前に、お互いがWinWinになっている関係で。それは愛されるよなあ、と感心したりする。
「互助会」という言葉について書くにあたり、ブログをやっている人を便宜的にタイプに分けます。
A)古参。はてダ時代からやっているような人。総じて文章が上手い。更新頻度は低め。交流はあまりしない。
B)新参。好きなことを書いてあわよくば若干の収入を得たい感じ。更新頻度が高い。交流が好き。
C)アフィリエイター。以下のようなタイプがあるように見える。
・ガチのアフィの人。それなりの戦略があるタイプ。「かわいい猫画像!」とか「速報・芸能ニュース」とかそういうやつ。よくダッシュボードの右に載っている。他にも色々やっていると思われる。
・何を考えているのかよく分からないタイプ。ほぼ中身のない記事にひたすら広告を貼る。偏狭そうな人が多い。
・「ブロガーとして」明確に互助を目指し、ブクマ不正している、らしい。偶に増田で告発されているけど割とスルーされている印象(興味がないのでよく知らない)。
よく見かける「互助会」という言葉は、B)に向けて使われる。「お互いのブクマコメントでブクマ数を稼いでいるんだろう!」というやつ。
でも、実際のところ。「当たり障りのない敬語のコメント」は、「相手に好意をもっていて話しかけたいから」「交流が楽しくて」やっているのだと思う。
その証拠に、「スター・ブクマ・フォローしたけど返してくれなかった!PVが伸びない!」なんて愚痴を書いている人は誰もいない。(このクラスタは素直な人が多いので、そういう気持ちがあったらたぶん正直にそういう記事が書かれ、誰かの目に留まるのではないかと思う)
「ブクマしてほしい」という気持ちももちろん多分にあるだろうけれど、自分がリアクションするにあたっては、利益を期待してやっているんじゃない、と思う。
嘘だと思ったらそのへんの、自分が「互助会」と呼んでいるブロガーに聞いてみたらいい。相手に言葉をなげかけるのが楽しいから。相手のことが好きだから。たぶん、思うより多くの人が、そう答えるのではないだろうか。
そうはいっても、はてブ的には馴れ合いコメントは確かに鬱陶しいだろうと思う。では、コメント欄を使えば解決する話ではないのか、とも。
そう考える人はもちろんブログを書いている側にもいて、読者に向けて「ブクマでなくコメントで交流しませんか」という提案をするブロガーもいる。読者が何百人レベルになってくると、はてブ側に気を遣ってのことだと思われる。
Twitterとの連動など、利点はあるようだれど。言葉をかけたいだけなら、ブロガー本人が「互助会」と叩かれるリスクをとる必要もないのではないか。コメント欄をもっと気軽に使っても良いように思う。
もうひとつ。別にお互いに便宜を図っているわけでもないのに、「互助会」と呼ばれるのは何だかおかしい気がする。「交流会」「ひつじ会」とかのほうが実態を表しているのではないだろうか。(「ひよこ会」とかでもいい。何かかわいい名前がいい)
で、じゃあ「スター・ブクマ・フォローで利益を得ることを目的とした行為」はないのか!というと、うんざりするほどある。
C)のアフィリエイター系。これが本当にしつこい。見るからに書いていて楽しくなさそうな、NAVERまとめ的なブログからのリアクションがそこそこの頻度で来る。凄かったのは、同じ記事に2度3度つけてくる人。無言でそれをやられても、ただ気味が悪いだけで、何かを返したいとは思えないのだけれど。
相手の人格や思いを無視して、金銭のためにブクマをつけて何が楽しいのか、と。他人の顔が札束にしか見えていないような、うわべだけの文章を読みたいとは個人的には思わない。まして広告をクリックなんてしない。
これは自分に矛先が向くことを恐れているとか、好きな人を擁護したいとかでもなく、単純にクラスタの分類として。交流勢よりも、こういった「機械的な無言のリアクションによって、露出や返報を期待する」アフィリエイター勢のほうが、真に「互助会」と呼ばれるに相応しいのではと思うのだけど、どうだろうか。
ネット上で、文章で稼ぎたいのは勿論、悪いことではない。でも、個人的に読みたいのは、誰でも書ける情報のまとめとかではない。
アフィリエイトをやっている人であれば、どうしてそれを始めたかとか。情報収集はどうやってしているかとか。ライバルはいるかとか、作業するときにかけている音楽とか。その人にしか言えない言葉、面白い話。そういう文章が読んでみたい。
とはいえど。面白かったり為になる文章が無料で読みたい、というのもある意味、何というか難しい話だとは思う。
医学辞典なんて手元にないからネットでいいや、とか。先述のように、企業が宣伝のために作成しているページを利用する、とか。「ネット」と書いたけれど内訳は、キュレーションサイト・個人がアフィ目的で作ったサイト・質問投稿サイト・個人ブログのどれかが引っかかることが多いのではないだろうか。
それが確実な情報源でないことは、もちろん周知の事実である。それでも取り敢えず適当な情報がほしくて検索する人がいるから、それにあわせて少ない労力で情報を供給し、利益を得ようという流れが自然に出てくる。
「分かりやすく出所の確実な情報」ならば、上述のように、出版業界の商品に頼るのが却って近道ではないかと思うことが最近増えている。「集合知」は確かに無料だけれども、「文章」にクオリティを求めるならば、書籍を買うか図書館に行けばいい。紙が面倒ならデータの形で入手すればいい。
商業としての出版を信頼しているから、例えば某警察官やめたブログで暴露されていたように、CGMのふりをして売名する商業があるとしたら個人的には少し悲しい。プロとして作り上げたもの、プロモーションされたものに、正当な敬意を払いたい。
…ここまで書いてきて心配になったのだけれど、出版業界の回し者ではなく、ごく普通の読書好きのオタクが書いています。信じて欲しい、としか言えないけれども。
逆に言えば、ネットで、商業ではなく個人が発信するとき、それは受け取る側となんら変わらない、「普通の人」なわけで。文章を発信する側は全ての責任とリスクを負うべきで、受信側は何を言っても良い、ノーリスクハイリターンな立場である、とは自分には思えない。
ネットを使っている人であれば誰でも、ある程度の文章は書けると思う。たまには「発信側」になってみるのも、悪くはないんじゃないかと思ったりする。
同じ人間が一人としていないならば、誰にでも、「その人にしか書けない文章」があるはずで。私はそれが読みたい。
色々書いてきたけれども、これが正しい見方であるとは自分で思っていない。誤りや偏りの指摘も含めて、議論の一助になればと思う。
■大麻の効能を「解像度」で例えると説明しやすいから説明したい
日本で禁止されている大麻。大麻を吸うと普段の生活ではまず経験できない感覚を得る。よく言われるのは、音楽がもの凄くよく聴こえ、ご飯がものすごく美味しくなり、空気が美味しく自然がとても美しく感じる。当たり前だけど、吸った事の無い人は、どんな感覚になるのか当然想像できないと思う。そんな大麻の効能を「解像度」で説明すると、結構すんなり説明がつくなって思った。
「解像度」とは、画像の精細さを表す尺度のこと。ブラウン管、地デジ、4Kテレビの画面を想像したら分かりやすいと思う。
簡潔に言うと、大麻を吸うと解像度が上がる。しかしその解像度は視力の事ではない。「神経」の解像度が上がるのだ。音であったり、味であったり、空気や温度であったり、思考などの密度が濃くなる。神経が研ぎ澄まされているから、ものすごく細かく繊細に捉えられる。大麻を吸うと動きがスローになるのは、普段と比べて情報量が多すぎるからだと思う。めっちゃ笑うのは、面白いと思った事の解像度が上がりすぎた結果。バッドに入るのはその逆。
ブラウン管から地デジになるのは素敵な事だなとは思うが、日本じゃ違法だし、興味ない人はそれでいいと思う。大麻を肯定している人は、悪い事がかっこいいんだぜ〜ってアホもいるが、普段聞いている音楽がめちゃめちゃ良く聴こえて、普段食べているご飯がめちゃめちゃ美味しくなるから、好きなアーティストや好きなラーメン屋を見つけた時みたいに人にお勧めしたくなると思う。それを宗教みたいだと感じたなら離れればよい。ミュージシャンで大麻を吸う人が多いのは当たり前だと思う。音をより理解できるから。職業病の一種だと思う。日本じゃ違法だけど。
日本人は性質的に、別にブラウン管でも番組内容は変わらないしスポーツ中継も見ないから全く困らないしこのままいいやって思う保守的な人だらけだと思うから、日本はずっと解禁されないと思う。
聞こえないわけではない。
耳に届いているし、日本語を話していること、何らかの単語を話しているのはわかるが、話として理解ができない。
大体「すみません、今の話チケットに書いておいてください」で済むんだけど、最近頻度が高くて「あれ? これって体がおかしいのでは?」と思い始めている。
思い起こすと小学校時代からそうで、テキストに書いてあることは理解できるが、先生の話はスルスルと抜けていってしまう。
聞き取れる先生もいて、そういう先生の授業はちゃんと聞いていられる。
でも聞き取れない先生がほとんどで、授業中寝る→家で全てやり直すの繰り返しだった。
小学生のときはよく覚えていないが、教科書を授業中に読む&宿題してればなんとかなったっぽい。
(先生が死ぬほど怖い人だったので多分居眠りはしていない気がする)
女同士の会話はわりと短いので(キャッチボールが多い)、世間話程度なら理解できる。
ただ男と話したときは結構抜けてしまう。一言一言の情報量が多すぎる。
女も長いっちゃ長いけど、情報量としては短いし、オタ友に至っては「尊い」「やばみ」しか語彙がないので問題がない。
そういえば、自分も話している時、何を話しているかわからなくなることが多い。
終わると、毎回何を話したか覚えていない。
こういう話を相談すると「みんなそうだよー」って言うけど、私みたいなメモ魔に会ったことないし、スラスラ会話続いてるし、みんな本当にそうなんだろうか…と思っている。
http://anond.hatelabo.jp/20160522084213
何だろう…この批評は…批判の為の批判?色々理屈をつけているが要は作品にちりばめられている価値観や展開が自分好みでない、でもそれをそのまま言うと「好き嫌いだ」と呆れられるので専門的な評価を装っているようにしか見えない
>全くそうとしか取れない、それ以外の情報も全くない絵とセリフで提示してくれるのよ。
つまらないお話を情報量の少ない最も単純な見せ方で常に提示してくれる。
脚本家の思い付きをそのまま聞いてる感じでさ。
その思い付きはいろいろと技巧と工夫凝らして商品にしてからはじめて視聴者に食わせるものじゃないのかい?
やりとりもリアクションもまた極度に情報量がない。別々の示唆が絡み合うような効果も全然ない。
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これって一部分だけ切り取っているよな?全体的に示唆が全く無いことは問題だろうが直接的な台詞が入っては一切だめだという道理は無い、全てのシーンで直接的な台詞は言わせずに示唆だけで構成するって無理だろうしそ無理やりにそうすれば直接的なやり取りもほしいのでそれはそれで物足りなくなるだろう、直接的な台詞のやり取りばかりに偏る(その逆も然り、何事も偏りは良くない)なら問題だろうがとあるシーンにそれがあるからといって批判するのはおかしい
そもそもこの人は直接的なやり取りは下位で示唆を上位の表現だと決め付けているが使い分けやバランスが重要なのではないのか?勿論、千鳥の気持ちは視聴者は分っているがそれをあえてアップで口にすることで千鳥の思いがぐっと鮮明になる、現実の恋愛でも思っているだけでは駄目で言葉にしてほしいという感情があるのだから「分っていることをわざわざ言わせるなよ」という主張はそういった感性を感受できていないだけではないだろうか
逆にこの人の評価する作品を聞いてみたい、直接的な台詞の一切登場しない作品ってあるのだろうか?どうもこの人は色々理屈をつけてはいるが本音は「女の子が男の子を気遣うことが気に入らない」とかミサンドリー的な別の理由があるのではないだろうか?というのはキズナイーバーの批判に
「なんで男ばかり得をして女の子の片思いが誰1人報われないんだ」とか
「俺は女の子に幸せになってほしいのに、キズナイーバーは男キャラばかり勝ちすぎで女の子はのりちゃん以外想い人と結ばれないとかふざけんなって思ったよ女の子の片思いは報われないのが現実の恋愛だ? そんなこといつ決まった?マリーの過去作品では男キャラでも報われないキャラいたのに、キズナイーバーは3人全勝とか異常だわ」とか
「男女の恋愛物語は完全に終わったよ恋愛も結婚も出産もこの国ではノルマだからね」といったフェミニズム系の主張がある(俺といっていても男とは限らない、別に男のフェミニストが居てもおかしくは無いが)http://yusaani.com/topics/2016/10/03/364783/
フェミニズムが男嫌いなのは周知の事実だがそれが故にフェミニズムは男を敵視(ライバル視)しており「男だけが得をして…」とか「男キャラばかり勝ちすぎ」とか「過去作品では男キャラでも報われないキャラいたのに、キズナイーバーは3人全勝とか異常だわ」という発想が生まれる、別に女の子が報われなくても男の子が報われたのならそれはそれで祝福すべき(一緒に不幸になるべき道理は無い、報われたキャラがいたならその分だけ良い事のはず)なのに男に対抗心があるので「男女関係無くこのキャラとこのキャラが報われた」という見方ではなく「女より男の方が幸せになった、これは負けだ、悔しい」という発想になる、これは男性に敵対心を持つフェミニズム独特の感性だ、ここの返信にも「あんなの楽しんでるのなんてネトウヨみたいな低知能なやつ位だろ。」という左翼系(フェミニズムは左翼)の書き込みがある、この手の人達は少数派なのだが思想を(間接的にでも)流布する能力に長けており放っておくと我々が気が付かないままに身勝手な好みを押し付けられることになる、キズナイーバーへの批判もそうだがマドマギでまどかが死んだ(神になった)展開を呪って脚本家に「死ねばいいのに」とか言っている輩もいた、この人も専門的な評価を装っていたが結局展開が好みでないというだけで評価している、私はこの様な評価は邪道で邪魔だと思っている、後味は悪いが優れた文学作品というのはいくらでもあるがどれだけ秀逸に作っても「自分の好きなキャラが幸せにならないから」とか「女より男の方が幸せになったから駄作」というのはまともな評価といえるだろうか?
勘違いしないでほしいがこういう歪んだ評価をする人は一部だがその手の思想を持った人達は明確に男性に対抗心を持ち常にそういった目線(男の方が得をしないか?男に負けたくはない)があるのでアンテナが高く目ざとく見つけ出して批判するのでそういった意見が集中しても別に多数派ではない、他の人は何のことか分らずに静観しているというだけだ
そしてはっきり言うがこれって明らかに差別的だし病んでいる
今回はとなりのヤングジャンプ
メンバーの中で特段目立ったことをしていなかったキャラを、ここにきて主体で喋らせるあたり、バランス感覚はあるなあと思った。
過不足の話をするなら、まあもっと語れることはあるんだろうなあと思いつつ、それなりにちゃんと畳んだあたり力量は感じる。
それにしても、『わびさびティールーム』のときも思ったけれども、このスッパリ終わらせる感じは、ジャンプよりもチャンピオンを髣髴とさせるなあと思ったり。
まあ、連載についての方針を知らないので、普通に完結しただけかもしれないけれども。
なにせ、如何にもな少女マンガっぽい作風で、となジャン目線で見た場合は浮いてたからなあ……。
もちろん細かい差異はあるから別にパクりだとか真似しているだとかそういうことを言いたいわけではないけれども、ガワが実質同じでその中身に特筆した魅力を感じられないと、凡庸だという印象がどうしても拭いきれないんだよね。
結局、漫画の供給が飽和している時代で評価されるものを出そうとするなら、既存の作品より優れているか、珍しいテーマやプロットで勝負するのが近道なわけで。
それを踏まえると、定番の話を割と高いクオリティで仕上げたエントリーNo.3『蒼の閃』のほうが、ド直球勝負な分印象が良いかもしれない。
ただこの手の読み切りのプロットにありがちな人間ドラマ、設定、起承転結きっちりできているのは地力を感じる。
メタ的にみればこじ付けもいいところだけれども、ちゃんとキャラの能力の設定や、話のテーマに繋がりを持たせているのも悪くない。
さて、第三回のシンマン総括。
とはいってもこれまでの感想で色々と語ったので、今さら語ることもあまりないんだけれども。
ヤンジャン本誌も読んでいるので、はがきは既に出している状態で感想書いているし。
インパクトなら『ヒトリアソビ』が突出しているが、いかんせん主体となるネタが下品なので特定の層からウケが悪そう。
『灰とリコピン』、『蒼の閃』、『シゴソウ』は特筆するものが少なくて個人的に微妙。
『蛉目奇譚』はかなり気合入っているしプロットも良いと思うんだけれども、情報量の多さと絵柄のクセに辟易する人もいそうな気がするので未知数。
『FLYend!』は前半の世界観の説明が、というか全体的に説明くさくて、ストーリー構成も読みきり的にいただけないんだけれども、逆にそこに将来の展望をする人は少なくなさそう。
プロットの、テーマと見せ方が最も好みなのは『ブルーフォビア』だけれども、他の優勝候補になるエントリー作と相対的にみてみると特筆するようなものが少なくて、影が薄い印象はある。
旅行写真でも卒業写真でもなんでもいいけど、自分にとっては大事な一瞬をとらえた写真って、知らない人が見たら「なにこれ?」ってなるでしょ。でも撮った本人はその一枚でもあのときのことを思い出せるから、わぁーいいなあってなる。そんなふうに物語そのものではなく物語の痕跡から全体像をを想像して味わうのが詩歌の楽しみ方のひとつだから、詩は本来、書いた本人にしか分からないのが普通なんだよ。
だから詩はあなたにも書けるし、けれどもその詩は他の誰かには全く理解してもらえないかもしれない。あなたにとっては切実な場面でも、「なにこれ?」ってなっちゃう。
だったら他人が他人の詩歌をどう評価できるんだっていうと、みんなまず物語以外の部分をかみしめてるみたい。言葉って意味だけじゃなくて音や文字もあって、たとえば漢字がいっぱい並んでたら理屈抜きで「うわ、めんどくさ!」ってなったりするし、ミラバケッソとかヒノノニトンとか意味関係なく音として気持ちよくて頭に残っちゃうことって結構あると思うの(卑怯なCM多いでしょ)。写真でも、単純にきれいなものが写ってたら誰がいつどこで撮ったか以前に「わーきれい!」ってなるでしょ、文字だってうつくしい言葉がきれいに並んでたらそう思えるかもしれない。写真だとモチーフが左右対称に並んで写ってたらそれだけで気持ちいいように、定型句でも575の音数に合ってたらそれだけで気持ちいいとか。この辺が、作品それ自体の内側へと入り込んでいく楽しみ方の例。
逆に作品の外側に目を向けると楽しいこともある。写真なら、たとえば撮った人や撮った場所に注目してみるとか。普通の写真でも、自分の知ってる人、好きな人が撮った写真だって聞いたらそれだけで「どんな気持ちで撮ったんだろう」って想像したくなってこない? あとさ、ライオンが大口あけてる写真とかだと「この人どうやって撮ったんだよ、撮った直後に殺されたりしてないだろうな」とか想像して怖くなったりもしそうでしょ? 他にも、京都タワーを手で支えてるような構図だったりしたら「ピサの斜塔かよww 京都タワーじゃかっこつかないでしょうがwww」なんて元ネタと比べて楽しむとか、それ自体では補えない情報量が実はそこかしこに見つかったりするものなの。
そうやって自分で必要な情報量を探していく、補っていくっていう探偵じみたプロセスも詩歌の楽しみだと思うし、これって実は小説でも他の芸術分野でもおんなじだよね。さらに言うと、いろんな作品(詩歌や小説に限らず)を見ていくと、自分を泣かせる笑わせるために必要な情報量ってじつはそれほど多くない、このツボさえ抑えてれば自分は大体泣けるっていうポイントが抽出できたりする。物語全体じゃなくって特定の要素があれば人間は勝手に想像できちゃうし、人からもらうより自分で作った方が味付けも変えられておいしいのは料理と一緒。でもそうやってツボを探していくと、面白いことに、その自分だけのツボって実は他の人も泣かせてしまったりする。自分のためだけに作ったものが何故か他の誰かまで撃ち抜いてしまったりする。
究極的に個人的なものは、実は最大限に普遍的でもあるんだ。その普遍性だけを切り取って残そうとする挑戦が、詩歌を作る苦しみであり楽しみなのだと、わたしは思う。
あとは渡邊十絲子の『今を生きるための現代詩』って新書がすげーオススメなので一読されたし。自分も詩歌詳しくないけど、わからないなりに楽しくなるよ!
すてきな紹介記事→ http://d.hatena.ne.jp/mmpolo/20130531/1369926781
自分の文章読み返したら「ツボ」の例を泣ける笑えるに限定しすぎたのが失敗だった。「泣ける」が分かりやすい例だっただけで“面白い”のツボって千差万別だからね。
でも自分なりのツボはすべての書き手が持ってるだろうし、それを分かってくれる人も必ずいるんだよ、なぜか。・・・いや、よき受け手と出会えるかどうか、そもそも作り手がそのツボを自分の表現で押さえることができるかどうかは別として。
青木淳悟でも木下古栗でも岡田利規や小笠原鳥類や橘上でも誰でもいいんだけど、たとえ共感を得やすいツボに反感を持ってたとしても、その人には別のツボがあるし、人間の表現である限り普遍性を完全に排することもできない・・・とわたしは思う。
だってすべての表現はコミュニケーションだから。読者としての自分自身とすらコミュニケーションしない表現なんて、ヘンリー・ダーガーでも無理なんじゃない?
わーいやったー! ありがとうございます、せっかくなのでその先の本もいちおう置いときますね!
入り口としては『今を~』がすばらしいけれど、もしそれで現代詩自体に興味がわいたら新書館から刊行されてる『現代詩の鑑賞101』がとってもいいです。やさしい解説つきで101篇も読めばだれか一人くらいは推し詩人も見つかりそうでしょう? つまんないのはどんどん飛ばそう。
歴史の流れが知りたければ野村喜和夫の『現代詩作マニュアル』がなかなか手っ取り早いけど、ごめんなさい、なんかスノッブくさくて個人的にはちょっと・・・。
もっと深く勉強したい人は現代詩手帖の特集版『戦後60年“詩と批評”総展望』などをどうぞ。谷川俊太郎が「やっぱ売れ専をバカにしないで売れる詩をちゃんと作んなきゃダメだろ、ジャック・プレヴェール見習えよおまえら」とか言っててわろた。
ちなみにわたしの推しは入沢康夫と渋沢孝輔です。入沢翁、ツイッターはじめててびっくりした。俳句や短歌の話は、ごめんなさいぜんぜん分かりません。だれかオススメおしえて。
やっぱりわかった気になるのはよくないと思う
ダウンタウンの浜田が夜の7時からやってる番組で俳句のコーナーが人気らしくたまに見たりしている
短すぎて分からない
伝わらない
短い言葉から連想して自分の頭のなかでその情景を作り出すようだ
短歌は文字数で言えば俳句よりも長いので情報量は多いのだろうけど
やっぱりわからない
詩はその二つに比べるなら文字数が増えることが多いので
詩もきっと自分の中で想像したり言葉のリズムや言葉遊びを楽しんだりするのだろう
自分は想像することが嫌いなのかと言えばそんなこともないと思う
自分だったらあの場面はこうするとか
新しい登場人物を考えたりとか
こういうバックグラウンドがあったりとか
ここで一つ思いついたのが
情報量の差だ