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はてなキーワード: 情報量とは

2017-09-02

たった100年前の出来事の真偽がわからないって何か不思議

関東大震災朝鮮人虐殺云々が今更盛り上がっていますが、個人的不思議なのはたかだか100年前の出来事本当にあったかどうかでもめている点です。

その頃にはもちろん新聞もあったし、写真映像の記録も可能だったりしたわけで、それでもなお真偽のほどがわからいから揉めているわけです。

それってなんだか不思議じゃないですか?

ここで言いたいのは、真偽のほどがどうとかそういう話ではなくて、まだ生きている人間がいる100年前の出来事の真偽がわからないって、なんだか不思議だなっていう話です。

これがもし10年前の話だったらほぼ確実に白黒つくと思うんですよね。

何かしらの記録も残っているでしょうし、記憶も残ってる方が大勢でしょうから

はいえ、今から100年後に、最近起こった出来事の真偽を尋ねたとしたら、多分揉めると思うんですよ。

100年後の人から見たら、私たちが書いているチラシの裏以下のブログに書かれたクソみたいな文章と、著名な誰かが書いた素晴らしい文章との実質的差異がわからないケースが出てくると思うんですよね。釣り記事なのに1000スターくらい付いてしまったエントリとかって、今は明らかにネタだとわかっていたとしても、100年後の人にはそれが判断できないと思うんですよ。その当時の時代背景を理解しているわけでもないですし、それこそ、その当時の日本におけるネット文化とその背景なんてもの想像しか語れないわけですから。とすると、揉めちゃうはずなんですよ。記録はあるはずなのに、その記録の真偽のほどが判断できないから。

別の観点から考えても、揉める可能性の方が高い気がしています

インターネット上に何かを公開する=未来永劫残る」となんとなく思っている人も多いでしょうけど、実際は多分そんなことがないわけです。

現に、潰れてしまったブログサービスに乗っていた記事なんかはもう読めないわけです。

もちろん、個人的に記録を残している人もいるでしょうけど、彼らの記憶媒体物理的に壊れてしまえばそれはもう見れないも同義なわけです。

CD-ROMHDDSSDなんて、もって10年程度ですし、定期的なバックアップを繰り返さない限り、記録はなくなってしまうわけです。

とすると、下手したらそもそも記録がないというパターンもそれなりに生まれるのかなと思ったりします。

これだけ社会進歩して、記録するための仕組み化が進んだにもかかわらずです。

から100年後の歴史学者って大変だなって思います

情報量が多すぎてまともな分析はできないでしょうし、色々な思想が混じり合いすぎて、何が正しいのか今以上にわからないでしょうから

真実ってなんなんでしょうね。

もう全部コナンくんが決めたらいいと思います

少なくとも私は、コナンくんが真実と決めたことならば、もうそれは真実って受け入れる覚悟はできています

メイドインアビスがっかり

1話まで見て原作厨房になった者です

ネタバレはありません

 

色々学びがあった

 

◯やはり1話20分に詰め込む情報量というのは、ある程度多くないと飽きやす

反対としてジャンプアニメの引き伸ばしがあるが

あれは緊迫したシーンで引き伸ばしていたのでギリギリどうにかなっていたのだと思う

常に緊迫させていなきゃならないので、できるかは作品に依る

 

もちろん原作物の場合12話でどこまでやるかで構成が決まってしまうので難しいところではある

 

今期でいうと、魔法陣グルグルが超詰め込み型だ

あちらはあちらで「カットされた」とか「余韻がない」と言われているので

情報量が多すぎるのも問題がありそうだ(でも個人的にはあっちのテンポのほうが好き)

 

ゆっくり展開にすると、スピード感が落ちる

特に戦闘シーンがもっさりする

これはジャンプアニメでもよく見られる現象

ただ一個一個の技が大きいプロレス寄りの戦闘ならそこまで問題はない(ジャンプアニメそっち系

でもスピード感重視だったり、生死が掛かっているような戦闘だと簡単にダレる

 

世界観舞台チェンジして魅力を出すなら、2話で1舞台が若干飽きる構成1話1舞台がかなり贅沢な構成だと思う

けものフレンズでは1話1舞台2フレンズ以上という、異常に贅沢な構成になっていた

これに関して監督は「1話1フレンズはしょっぱいだろう」と思ってかなり無茶したと語っている

もし1舞台で2話以上の構成なら、別の魅力を用意しないと飽きる

 

一般的原作厨がキレる要因の一つに「キャラが違う」というのがある

このキャラはこんなこと言わないとか、思想がブレてるとか

私も特にラノベアニメなんかでは細部の改変にキレるタイプだが、意外と(?)人気には影響しない

一部の原作厨を除いて、大多数の人はそこまで細かく見ていないんだろう

でも細かなキャラの心情を無視するなら、それを補うだけの派手さが無いとまずいと思う

アニメで前者を担保するのは厳しい、しかし元から派手さがないならそこを追求するしか無いのでは?

 

話題になるようなシーンやキャラクターが後半に登場するのはやはり厳しい

どのアニメでも原作通りを支持する私だが、最悪変えてしまわないと持たないのかもしれない

原作は割りとハイペースで進むから気にならないんだが

と言っても、アビス原作でも2巻時点で売れていなくて打ち切りの話があったそうだ

アニメは今9話時点で3巻序盤(ちなみにグルグルは8話で4巻半ば、番外編無視してるから実質3.5巻くらいかな)

 

◯引きは重要

引きは最終回オチ以上に重要だと思っている

クリフハンガーしろというわけではないが、1週間ずっと印象に持ち続けるシーンになる

そしてこのSNS時代では、話題の中心にもなる

(次話でどうなるか。これもけもフレが異常に上手かった)

特に何もないシーンにするのはマイナス

原作連作である場合、引きもなるべく元に合わせた方がいい

 

BGMに求められる最低クオリティはかなり高い

BGM違和感が出ると、皆の集中がそっちに取られるとわかった

ノリがいいと違和感が逆に良くなるパターンもあるが

どちらかというと選曲問題だろうか

 

◯今回は原作者意向結構反映されているらしい

他の作品でもよくみるが、原作準拠原作者準拠ちょっと意味合いが違うと思う

これも難しい

2017-09-01

https://anond.hatelabo.jp/20170901004954

まさか採用の人から話聞けるとは思わなかったありがとう

フォームに書いた情報量が少なかったからどこが原因だったのかなって、履歴書すら送ってないし

採用する側も大変だよね、選考絞るのも大変だろうにお疲れさまです(これは社交辞令ではなく!)

そんな気持ちで切ってるんだとこっちもこんなぱっとしない人間が応募して手間かけさせてごめんな~~~って感じだ

そりゃ会社回すのに事情はあるよね そう言ってもらえると慰めてもらった感じする

好きな人にも好きな会社にもフラれ続けて叶ったことないけどもう少し頑張るよ

2017-08-26

004

2017/3/5 23:05

プレイヤーは今見えている情報を頼りに議論する。

プレイヤー思考材料相手ハンドと誰が何を言ったかの二点。

ハンド情報は常に客観的だが、発言内容は主観的である

発言者ってのは客観情報主観情報入力に取り、自分内の思考を織り交ぜて出力する。

ここで思考関数と捉える。

このブラックボックスである関数情報が入り発言が返される。

ゲームプレイするに当たって、この関数挙動を推察する必要がある。

これがこのゲーム醍醐味であり、いわゆるコミュニケーションゲーム本質の一つ。

一発勝負と捉えれば情報量はないと言えなくはないが、

複数回ゲームを行えば傾向や流れ、あるいはゲーム進行における暗黙のルールが把握できる。

これを全プレイヤが思考することで、いわゆるメタゲーム構成される。

メタこそがコミュニケーション

コミュニケーション支配できれば自ずとこの"ゲーム"に勝つことができる。

勝ち得るというか、勝つための道筋が見えてくるはず。

2017/3/5 23:14

2017-08-22

https://anond.hatelabo.jp/20170822161820

そのために読み書き(算数数学)は教えてある

知りたいことがあるなら自分で調べられる環境情報量現代ならなおさら豊富である

「教えてもらう」じゃなくて自力で知る力はすでに持ってる

2017-08-21

https://anond.hatelabo.jp/20170821005855

俺がやってるのはネット麻雀なんだ

・捨て牌

・牌が切られた直後ディレイ

・ツモってから切るまでの思考時間

これぐらいしか判断材料がない

リアル麻雀も興味あるなあ 一気に情報量が増えて楽しそう

2017-08-18

村本氏への白旗

炎上芸人である彼を無視できない時点で私の負け。それどころか次のことを考えてしまった。

大抵の徴兵反対の意見については今日日本を前提にしていると思っている。徴兵しても逃げますよって考えの人は大抵、今日明日日本徴兵制が定められたらという条件で述べられている気がする。

徴兵制を敷いている国で同じようなことをしたら、何かしらの罰が待っているし、そういう国では徴兵逃れに対して社会差別とか偏見があると思う。でも人気芸人の村本氏にとっては屁でもないだろう。むしろカウンターポジションでオイシイとか思ってしまうのではないだろうか。

あと、よく見られたのが、とっとと捕虜なっちゃえばいいみたいな意見だけど、IS捕虜になったら確実に殺されそうだし、北朝鮮ならひもじくて生きていける気がしない。これも人気芸人の村本氏は体験したらラッキーなのだろう。

第二次大戦当時について考えると、アメリカ軍あたりに捕まれOKのように思えるが、日系収容所を作っていたような国だし、人種差別ハンパない。そんな国に捕まったらどうなるんだろうと思う。

そもそもアメリカが豊かな国かどうかの情報も相当なツテとかないと知らなかったんじゃないかと思う。村本氏は昼の情報番組に出ているインテリなので大丈夫なのだろう。

情報量が今とは全然違うので捕虜になったらどうなるかわからんのでなかなか投降もできなかったんじゃないんだろうか。

それでも欧米系、しか東南アジアで捕まれば、まぁいい。ソ連中国あたりに捕まったら強制労働行きだ。これも生きていける気がしないが人気芸人の村本氏ならば大丈夫なんだろう。その際は自伝も出していただきたい。

徴兵逃れしたら警察署でハンパなくリンチされるわけだ。これはオイシイね。ボコボコにされたんですわ〜みたいな。

結局、なんであろうと村本氏にとってはオイシイのだ。

2017-08-10

https://anond.hatelabo.jp/20170810101120

一般的マナーについてはさほど情報量が多くないからすぐ身につけられる

会話に必要なこととして上げるてることも一覧にできるでしょ

それを教養としてしまえばいいのに、実際それは行われてない

なぜならできないか

実体のないものを形にすることはできない

実際は、低学歴だったり頭の悪そうなやつを「教養がない」と切り捨ててマウンティングする為だけのものから形にしようがない

そうじゃないならもっと分化して少しでも形にしてみてくれ

2017-08-06

人として生きるために教えることも義務ではないか

私が建築業界に未経験で入り感じたこと。

建築業界に限定せずすべての職種でも同じことがいえるかもしれない。

建築業界は「3K」なんてのがあり

「きつい」「きたない」「危険」なんて言われているが 実際には少し変わって「きつい」「帰れない」「厳しい」なんて言われていたりする。

中でも「厳しい」はすべての仕事共通する。

何が厳しいか? 

知識の共有ができないこと」が現代社会 全世界すべてで起きている問題だと思う。

教える人が「知識不足で教えることができないこと」

教える人が「教育を分かっておらず教え方が下手なこと」

教える人が「俺はもう定年だからなんでもいいんだ、あとは勝手にやってくれ」と責任放棄すること。

教える人が「せっかく教えてもすぐに辞めるから教える気がない」

同じ仕事なのに「知識の専門化が進みすぎて、全ての知識を把握できないために起こる教育不良」

教わる人が「つなぎの仕事から覚える気がない」

教わる人が「技量知識共にかけていて言葉が通じない」

教わる人が「教育に限らずいろいろな理由ですぐに辞める」

すべての業種で言えること。

各分野の専門化が進みすぎて覚えることが増えすぎたこと。

特化しすぎた分野が分かれてしまい分野が異なり、隣の畑を見ても何が何だかからないこと。

情報量が多く技術取得前の事前学習に費やす時間が多すぎること。

底辺仕事であれば技術知識必要最低限あれば事足りるけど。

現在子供たちは、仮に技術職や医者に就こうと思った時に

高校生ぐらいには仕事を何にするか確定していなければ技術職を選べなくなるみたいなことが起こりえてしまうのかも。

専攻している学習知識上「私は歯科医」「このルートしかない。」みたいなことが起こりえてしまう。

仕事上だけで得られる知識には限界があり、自身で進んで学習する必要もある。

得た知識更新されて、まったく違う技術になり変っていて。0から違う工法を覚えたり。

かと思えば、解体時には30年前にはこうやって作られていて図面は残っていないからなど。

昔の知識を持つ人が必要だったり。古い知識が要らないとも限らない。

便利なものを作った代償として、今までの知識の共有が生きていく人類必要になることがある。

すべての知識必要なかったとしても問題が起きた時に何もできず棒立ちするしかない。

原発での事故が起きた時のように。

原子炉危険という概念は持っていても何が危険で、何かが起きた時にどうしたらいいか

ほとんどの人が知らなかったことだと思う。

ほかの動物と違い。本能無視したり抑制したり、考えて行動できる人として生れ。

便利なもの使用する側の人間も、作った人間に何らかの融資をして作らせたことになる。

人として便利なものを使い、便利なものを生み出していく以上

知識はより高度になり濃縮される。

そしてそれら技術を生み出してしまった責任として、

人として生れた以上は、その便利さを知り学ぶ義務があるし。

その知識を教え、共有する義務がある。と勝手に思います

そこからおしえなきゃないの…

https://anond.hatelabo.jp/20170722215114

はすごく小さな問題のようで実は大小にかかわらずどの仕事の分野でも起きていること。

書類の出し方とか、定型文とかそんな文化を作ったのも人類だし、

それを全国統一簡略化するもしないも個人自由だけど。

それをしないで今の文化にしがみつくなら教えることの方が義務だと思う。

「知ってて当たり前」は「ゆとり世代」より甘い考えだと老害自覚するべき。

見ているだけで覚えられるような職人時代は一部終わりを迎えつつある。

倫理問題解決して脳が記憶媒体に置き換えられたりでもしない限り、

ある一定知識量を容易に記憶する技術をまだ持たない、もしくは技術的にはできても倫理的にできないとか。

人としての限界を超える局面に近づいているようにも思える。

(人としての限界サイボーグ化やゲノム構成の改良など手術や人体改造を伴うこと)

人として生れ、便利なものを使う使わないにかかわらず、

まれた瞬間から何かを考え続けることを強制された生き物。

本能のままに生きられるだけの方が幸せだと言える日が来るのかもわからないですね。

2017-08-03

趣味:読書

履歴書趣味のところに書くと無難どころかありきたりすぎて面接ときに触れられない趣味、堂々たる第1位はきっと読書。かく言う自分ももちろん趣味の欄にはそう書いている。読書。筆圧の濃い癖字が履歴書に踊る。

以前、学生の頃は読書家を自負し、講義中も本を手放さなかった。ついにはラテンアメリカ文学講義中に真ん前で読んでいて教授

「今、『ラカン世界』は南米関係いからね〜」

マイク越しに注意された。ラカンかっこいいと思っていた自分が心から恥ずかしい。おもしろ講義だったのに本当にすみません

でも今は本を読んでいない。読みたいなと思うし読もうとして本を開いても、同じ行ばかり読んでしまう。言葉意味が頭にはいってこない。大きな本屋はいると情報量が多くてなにも考えられなくなる。うろうろして吐きそうになって店をあとにする。パニック蕎麦好きの蕎麦アレルギーと同じく、これは一つの悲劇だと自負している。

思うに、普段会社にいて使う頭の部分と読書をして使う頭の部分が同じなのではないか。で、自分は要領が悪いので仕事をするとヘトヘトになってしまう。その行き帰りに本を読もうとしても、スリープモードになってしまっているので、文字を読んでも頭にはいってこないのだ。

から会社から帰ると、気分転換に以前はよく録画した映画を観ていた。読書に比べると右脳使ってる感じがするな〜と思って観ていた。でも映画すらも筋が追えなくなってきて、今度はもう普通テレビ番組。「ここ見てくださいよ」というのが演出ではっきりとわかる類のものを見て、パブロフの犬みたいにだらしなく笑っている。記号→即リアクションゲラゲラ間寛平おもしろいなぁ、みたいな感じ(間寛平が悪いわけではないけど)。文明が発達していない未開の地域部族テレビを見せると、過剰なリアクションをするとどこかで聞いた。だとしたら文脈とか高度に様式化された部分を読み取ってこその文明人だと思うんですよね、自分は。

でも読書が高尚な偉い趣味、というわけでは全然ない。これはあからさまな偏見だが、読書好きな人は大抵スポーツが苦手だからしょうがなく本を読みはじめた人が多いと思う。本当に偏見だ。だが懲りずさら偏見を言い続けるが、本を好きな人は本を好きな自分偉いって思っている節があるから大抵鼻持ちならないイヤなやつだ。家にこもって黙って一人で本を読むことのなにが偉いものか。友だちと会え。それか浜辺でゴミを拾え。読書別に偉くもなんともなく、運動不足につながるクソみたいな趣味だ。でも読みたくなるから自分クソだなって思ってしてしまう、それが読書

また履歴書の欄に読書と書けるレベルまで本を読めるようになりたい。でもまあ、履歴書なんてもう二度と書きたくないんだけど。

2017-08-01

https://anond.hatelabo.jp/20170801113530

日本語版情報量が少ないのは、「要出典」の編集合戦疲弊しちゃったからでは

履歴表示で争いの痕跡に思いを馳せることこそが、ウィキペディアの正しい鑑賞法

いっぺんWikipedia英語で読んでみ

ほとんどの項目で、日本語版より圧倒的に情報量が多い。

インターネット社会で、日本語しか使えない時点で情弱なのを自覚すべき。

2017-07-29

https://anond.hatelabo.jp/20170729195340

んー、議論から学ぶこともあろうが、

「右左」なんて持ちだしてきた時点で、「んなほぼ情報量ゼロのものでただ勝ちたいだけ」と判定していいんじゃね?

しかしなんか噛み付いてきた奴のスタンスからないなぁ、、、、。

議論から得るものがあるかもしれない」って感覚ならわからんことはないが「右左在日朝鮮人部落」なんてもの言ってきた時点でそれはゼロだと断定できると思うが。

だって知的レベルゼロだし。

十数年以上詳細不明のままのエロ漫画

というのを知った。

内容としては耳から細い触手を入れられ洗脳されているらしきふたなり女の子

後ろ手に拘束され嬌声を漏らしながらちんこ触手にしごかれてる絵に

連続強制射精させられた気分はどう?」

「素直に実験に協力していれば脳みそ掻き回されなくて済んだのに」

「卵巣が精液でいっぱいになったらほかの蟲と交代よ」

「蟲の卵3万個全部受精させるまで頑張りなさい♪」

というセリフ

■救出間に合わず!!抵抗むなしく、麻衣 ついに交配 …。

というアオリ文が載っている。

その下には

「第四話『狂宴』終」

と書いてあり、この画像が続き物の4回目のラストのページであることが分かる。

このサブタイトルにちなんでこの画像は「第四話『狂宴』」と呼ばれる事が多いようだ。

ふたなり」「触手」「洗脳」とディープ性癖が並ぶ上に

キャラクター名前や話数、サブタイトルまで判明しているという情報量にもかかわらず、

あらゆる詳細希望系のコミュニティに貼られても誰も詳細がわからないので

ついにはそういった場所ではその画像を貼るのは禁止ということにまでなったという。

まりにわからないので「実はそもそも元など無い釣り画像なのでは?」という意見も多いようだが、

わざわざ絵を描いて印刷せんか紙に刷ってそれを写真に撮ってというのは手がかかり過ぎだし

その割に性癖ニッチなのも度し難い。

フォント微妙商業漫画で主流のアンチゴチと違うので同人誌ではという説もあるが、

それならそれでニッチジャンルで4話(おそらく4冊)もだしたなら誰か記憶にとどめていてもいいだろう。

90年代末に4号で廃刊になったエロ雑誌で見たとか、昭和の隔月ロリ雑誌に載ってたとか

十数年前のアンソロジーに載ってたとか、作者にしても万利休ゴブリン風船クラブといろいろな情報があり

同人違法アップロードサイトが真面目に考察しているのも見つけたが、結局真偽不明のままである

そんなわけで長年ネット民の頭を悩ませてきたこの画像なわけだが、

今となってはいつ頃どこでアップロードされたのか、それは壺なのかふたばなのか、それすらも判然としなくなっている。

ひょっとしたら誰が描いたものでも、誰があげたものでもなく、ただ画像けがずっと存在していたのでは?

なんてことを考えると強制射精快感に喘ぐ少女の貌も、どこか恐ろしげに歪んだ表情に思えてきたりするのであった。

2017-07-28

映像表現的な観点から考察するシャドウバース問題点

 以下の文章シャドウバース映像表現的な観点から個人的考察したものです。

まず最初結論を書いてしまうと、

「出し得やトップ解決となりえるパワーカードが多すぎて自律神経が疲れる。」です。

言ってしまえば、フィニッシャーが多すぎるわけで、何ターンもパワーカードによる応酬が続くのは映像演出的には好ましくありません。

 全てのデザインには、必ず「疎と密」という概念があります

アニメ漫画イラストドラマ映画WEBデザイン、などに使われる言葉ですが、ゲームにも使われます

簡単に言えば、盛り上がる場所とそうでない場所情報量を分けて、差別化する。というものです。

全部クライマックスだと、見る側も疲れるし、盛り上がりどころも分からなくなってしまうんですね。

 だからこそ、カードゲームを題材にしたアニメなども、「切り札」と称して、パワーカードを出すことによって、

盛り上がりどころを作り、展開を熱くしています販促目的商業的な理由もありますが、少なくとも、

ポンポン複数回切り札を出して、わざわざ見せ場を混濁させるアニメはないでしょう。

アニメからそりゃそうだろ。と思った方は、一度頭の中でシャドウバースアニメ化してみてください。

そのアニメで、一試合の間に特殊演出の入るパワーカードが何度出てくるか想像すると分かりやすいかもしれません。

 高コスト帯ではこのパワーカード対決が原因で、一部では、萌え萌え坊主めくりやメンコバースとも揶揄されていますね。

このゲームでは盤面を一枚のカード簡単にひっくり返せますが、本来そういうのってカードゲーで一番盛り上がる場面ですよね?

それが毎ターン続くようなカードゲームやってて疲れて当然ですし、冷めれば真剣プレイすることも出来ないと思うんですね。

このビジュアル的なゲームデザインの悪さが、アクティブユーザー低下を招いている原因の一つではないかと思います

地味なりにもチクチク刺さるカードが多ければもっとマシになったかもしれませんが、

個人的にはサタンかいカード最初実装した時点で大体こうなることは想像できてました。

 

以上、映像表現的に考えた、シャドウバース問題点でした。

2017-07-20

レクリエイターズつまんない

さら5話まで見たけどつまんない。

「もし創作キャラ現実に現れたら―」って話なのに、作中リアル世界いかにも深夜アニメバリバリなノリなせいで現実アニメギャップがないから作中創作キャラとの対比に全然面白みがなくてただのオリキャラクロスオーバーアニメしかなってない。なんだ自衛隊が急に突入って。あと最近は「非現実的事象に対してやたら話のわかる政府役人」みたいなのを出せばリアリティが増すってことになってたりすんの?

その上それぞれのキャラが出てる作品がどれもつまんなそう。なんかどのキャラも各ジャンルのざっくりしたイメージをまとめた最大公約数的なキャラって感じで個性が薄い。全然元の作品スピンオフで見てみたいとか思わない。

だいたいなんでどれもオタク向けなバトル系のキャラなんだよ。バリエーションが少なすぎるでしょ。ただでさえ全部同じキャラデザがやってるせいで見た目に面白みがないのに。

魔法少女。なんかアイツ死ぬらしいけど。いちおう作中では「女児向けアニメ魔法少女」として設定されてるのに描かれ方がどう見ても「女児アニメパロディ」の更にパロディって感じだよね。村上隆か。3話だかで司書キャラ自分の出たゲームプレイして「造物主自分のいた世界に対して真摯で誠実でいてくれてい良かった」とか言わせてたけど。このアニメスタッフがそれできてねーじゃねーか。

そんでこの司書キャラ喋りすぎだろどんだけ喋るんだ物知りキャラからって説明を全部こいつに丸投げするなよしかもそれでいて説明の内容そのものはセリフ量に対して薄いなこいつは情報量の話とか大崩壊の話とか言い回しや話し相手や状況が違うだけで同じような話何回か繰り返してないかコイツ。大崩壊の件とか仮定仮定って感じで現実に何か影響を示す描写もなくてほんとにセリフでひたすらたいした根拠もないまま仮定を喋ってるだけだし。

6話で新キャラ出るみたいだけど「あー絶対西尾維新ぽいキャラでクソウザ言い回しで喋るキャラなんだろうなー」って感じで見る気が起きない。リアルタイムはもう15話だっけ?まあでもつまんないんだろうな。

2017-07-18

最近「書く」ことを始めた

家にいるときは筆が進まない。この事実に対していくつかの仮説を立てる。

今日たまたま疲れている。実際に今日は朝から思考活動が常に活発化していて、不快場所にいる時間もあった。(反論)一昨日のほうがストレスは強かったのではないか不快場所で過ごした時間今日よりもずっと長かった。

反論)一昨日はまだ文章を書くという習慣は始まっていなかったので比較対象にすることが間違っている。(余談)一昨日に起きた出来事不快な人混み、サピエンス全史、ギャンブル宗教的体験自殺願望

アルコール摂取した。

そもそも一文目の記述自体が正確ではない。昨日書いていた文章の続きは書くのに難航したが、今日書き始めたこの文章については比較的滞りなく書き続けている。

(新しい解釈)「筆が進まない」という言葉が指すのは文章全般についてではなく、ある程度の一貫性を持った文章のことを指しているのではないか

そろそろ思考スピードに筆記が追いつかなくなってきた。一度、喫煙に行く。

喫煙中に考えたこととその続き。

この文章を誰かに見せたいが、いい「解決方法」が思いつかなかった。

実際には頭のなかで「かいけつほうほう」とは発音せずに「ソリューション」と発音していた。

何故わざわざその語を選んだのか。そして何故文字に起こす段階で「解決方法」に表現をかえたのか。どちらも根底にある理由は同じだ。それは情報量圧縮である

私は物事を頭の中で考えるとき、音声言語思考している。

かいけつほうほう」が8音節なのに対し「ソリューション」は5音節だ。ネイティブ英語なら「so-lu-tion」で3音節で更に短いが、残念ながら頭の中で使っていたのはカタカナの方だ。

文字に起こすときに「解決方法」が選ばれたのも同じで、「ソリューション」や「solution」よりも少ない文字数表現できる。

何故無意識になるべく少ない情報量表現しようとしているのかについては、はっきりした理由は分からない。

本題からは逸れるが、文字に起こす上でコンピューターが扱う情報量においては「解決方法」は2バイト言語で4文字なので8バイト、「solution」は1バイト言語で8文字なので同じく8バイトである。だからどうした。

まだまだ(一貫性があるかはさておき)話を続けることはできるが、キリがないのでこの辺りで止めておく。

実は『この文章を誰かに見せたいが、いい「解決方法」が思いつかなかった。』という部分を書いたころには増田投稿するというアイデアが浮かんでいた。

しかし、その時点で投稿してしまっても大して面白くないな、と思ったのでもう少し量が溜まってから投稿しようと考えた次第である

幸い、ある程度まとまりのある話が書けたので、そのまま投稿するよりも少しは興味を惹ける内容になったかと思う。

最後にこの文章ルーズリーフボールペンで書いたものである。つまり投稿するためには電子データに清書しなければならない。この時点ではパソコンの電源すらついていないので、先が思いやられる。

2017-07-08

けものフレンズ面白さの本質

けものフレンズ』の面白さの本質は、ガイナックス的なアニメ価値観から抜け出しているところにある。

少し補足すると「抜け出している」という意味は、ある価値観に反発したり、故意に避けたり、過剰に抑圧したりすることではない。一例を挙げると「あんなクズな父親のような人間には絶対にならない!」と考えることはすでに父親の重力に捉えられている、ということだ。

もうひとつの「ガイナックス的なアニメ価値観」は少し複雑だ。細部へのフェティッシュなこだわり、現場いぶし銀技術者ひとつの生物のように有機的に躍動する集団、学校文化と官僚システム/軍組織への熱い礼賛、マスメディアやと民主主義への蔑視……古い世代のアニメオタクの王道ど真ん中の価値観。この価値観の根底には「責任のとらなさ」がある。これについては後述したい。



私自身、『けものフレンズ』は話題になっているのをtwitterで見て、5話くらいから興味を持った後追い組のひとりだ。徐々にハマり、最後にはとても感動した。けれども、しばらくたってもその面白さをまったく言葉にできないことに気づいた。まるで「解」だけが前触れなく控えめに差し出されたようだった。この困惑について、福原慶匡プロデューサーインタビューで語っている。


「皆さんも、なぜ魅力を感じるのか、はっきりとは言語化できてないと思うんです。食べ物でも、なぜかクセになっちゃうみたいなものってあるじゃないですか(中略)というのも、僕が5年前にその感覚を経験しているんですよね(笑)http://a.excite.co.jp/News/reviewmov/20170327/E1490547358865.html

放送終了後、ネット上でいくつか探してみたが「大ヒットの理由」や「エヴァとの共通点」などIQの下がる批評しか見当たらなかった。その清新さや核心について書かれているものは無かった。自分で分析してみてもやはりわからない。一見すると『けものフレンズ』は、パワプロで喩えるなら「オールBでよくわからない特殊能力がたくさん付いている外野手」だ。ツッコミどころがあるようで、よくよく見ていくと隙がない。(あくまでも「一見すると」であり、構成についてはほんとに素晴らしい。監督自身は「怪我の功名」と謙遜するアライさんパートは発明と言っていいぐらいだ)

たつき監督の過去作を見ていくと、クオリティをまんべんなく上げた作品を作るというスタイルは昔から共通しているようだ。『けものフレンズ』では登場キャラクターの紹介とストーリー展開を均等に進め、両者が高いレベルで一体になることを目指したという。インタビュー記事最終話放送直前! アニメを作るのが得意なフレンズたつき監督に『けものフレンズ』の“すごーい!”ところを聞いてみた!!」(以下、「最終話直前インタビュー」)ではこう話している。

「「キャラ先論」「話先論」があると思うんです。そこをまったく同じパーセンテージか、行き来をすごく増やして、キャラ優先なのか、お話優先なのか、わからないレベルでその2つが有機接合できるといいなと考えていました」http://news.livedoor.com/lite/article_detail/12855680/

ところで、仕事でも3Dアニメを作り、休みの日も3Dアニメを作っているというたつき監督だが自主制作アニメ『眼鏡』発表後の2010年に行われたインタビューでは興味深いことを語っている。ここに一部抜粋したい。

―― アニメはお好きなんですか。

たつき 大学時代に「アニメ作りたいわー!」とか思い出したころからちょいちょい見だしたんですよね。

―― 「すごいアニメ好き」みたいな感じじゃないんですね。そもそもアニメをあんまり見てなかったのに、なぜアニメを作ろうと?

たつき アートアニメみたいなものは学校で見させられていたんですけど、もっと俗っぽいほうがいいなと思って「眼鏡」を作りましたhttp://ascii.jp/elem/000/000/532/532388/index-3.html

本人の発言を鵜呑みにするわけにもいかないが、そう質問せざるを得ないなにかを質問者も感じたのだろう。確かに『けものフレンズ』は熱心なアニオタが作ったアニメという感じはしない。1話の出会いシーンと休憩のシーンが例外に思えるほど性を表現すること行わない。その他ではペンギンの脚やカワウソのケツぐらいだ。もちろん全年齢向けというコンセプトもあるだろうし、動物と人間という認識の違いに厳密に取り組んでいることもある。だが、繰り返し見てもそこに「ほんとはエロくしたいけど抑えよう」や、「萌えを感じさせよう」などという作為が感じられない。肩の力が抜けているというか、監督の視線が別のところを見ているような奇妙な感覚があるのだ。

話題にもなったペンギンの脚については「最終話直前インタビュー」で、こだわったポイントは肉づきであり、それは未だ言語化できていないパラメーターと語っている。やはり焦点が別のところに当てられているようだ。このたつき監督独特の感覚について、チームの中では「ガラパゴス的」「ほどよく鎖国している」「天然」(「最終話直前インタビュー」)と表現されている。

たつき監督の制作に対するスタイルがかすかに見えてきたが、根本的なところ、なぜ面白いのか、なにが新しいのか、どこが違うのかが一向にわからない。繰り返し観ても「サーバルちゃんかわいい」「言われるも!」以外にこの作品を語る言葉は見つからなかった。

そんな時『シン・ゴジラ』についてのツイートたまたま視界に入ってきた。ああ、あの作品は私にとって全然ダメだったな、なぜってあれはオタクのウェーイだったから。だから受け入れられなかった……だからけものフレンズ』は良かったのか。本来なら過去や同時期に放送された作品に触れ、その違いを論じることで導き出すのが正統な論証だろう。だがここでは『シン・ゴジラ』を補助線に引くことでショトカしたい。

シン・ゴジラ』はあの庵野秀明監督による作品だ。詳細は割愛しよう。宮台真司の批判とか概ね同意だ。私がアレルギー反応のような拒否反応をおこしてしまったのは別の部分になる。同作でも、指揮命令系統のフェティッシュともいえる再現、圧縮された膨大な情報量、巨大な生物のようにフル回転する官僚機構がたっぷりと描かれる。ああ庵野秀明だ、ああガイナックスだと感じた人も多いだろう。ただ、結構な面積が焼き払われ、放射能に汚染され、東京の中心で彫像のように固まったゴジラが実写として映し出されるとシニカルな感想も浮かぶ。「想定外の天災」とはいえ主要な登場人物はなんの責任も取らないだろうな、“庵野秀明から”。

ガイナックス庵野秀明に代表される彼らが、凝縮し、エッセンスを取り出し、世に提示してきた価値観。古い世代のオタクの王道ど真ん中の価値観。そこには、新兵器があるなら使おう、ボタンがあるなら押そう、ロケットがあるなら飛ばそう、人類補完計画があるなら発動させよう……後は野となれ山となれだ、という姿勢がその根本にある。責任の取らなさ。それが露出してしまうと、フェティッシュに埋め尽くされた119分はオタクが「ウェーイ!」とはしゃいでいるようにしか見えなくなる。

新しい爆弾が作れるなら作りたい、作ったなら使ってみたい。そういう欲望はギーク価値観として近代には普遍的にあるものだろう。それは責任とセットになっていなければ極めて危うい。『ジュラシックパーク』(1作目)に出てくるでぶが度し難いように。『シン・ゴジラ』の官僚たちは誰一人弾劾されず、断罪されずスムーズに復興へ移っていくだろう。彼らの合理性なら、半減期が2週間なら翌月から暮らすことができるだろう。三権が一体化した効率の良い行政システムを築くだろう。責任を切り捨てたからこそ、フェティッシュの興奮に耽溺できたのだ。棄てられた責任野ざらしにされ担う者はいない。

2000年代2010年代アニメにおいてもガイナックス的な価値観は揺るいでいない。おそらくこんな声が聞こえるだろう。「『ハルヒ』は?『らき☆すた』は?『けいおん』は?『まどマギ』は?『化物語』は?日常系を無視するなとんでもない!“大きな物語”をまだ求めるのか?!」このあたりはもっとその分野に詳しい人の評論を待ちたいと思う。私の見立てでは、それらは(主に女性の)キャラクターについてのフェティッシュを深めたにすぎず、逸脱はしていない。フェティッシュに注力すればするほど与えられた価値観の中での反復行為となり、自らをその価値観の内部に限定させるという結果を生む。そして、目を背けた価値観のもの形骸化しながらもしっかりと保存され、視聴者を貴族的な愉しみという隘路に導く。

もし汲々とした再生産のサイクルの中にどっぷり浸かった人なら、そこから抜け出すには並々ならぬ苦闘と意志が必要だ。たつき監督にはそうした努力は必要なかっただろう。『けものフレンズ』は最初から“できている”。

これは自由の味だ。

ジャパリパークではフレンズたちは当たり前のように責任を持ち、細部へのこだわりは新しい領域に向けられているがそれ自体に耽溺していない。古い価値観を超えるものを作ろうとして頑張った結果やっとできた、ということではなく、初めからそうした問題意識のものが存在していないかのように新しい価値観を持っている。それほどあまりに自然に表現された作品として我々の前に現れた。

可能にしたのは主に3つの要素からなる。「3DCG作画」、「バランス感覚」、「アニメばかりを見ていないアニメ監督」。この3つは密接に関係している。「手書きには温もりがある」という言説は否定できないが、大勢が1枚1枚セルに色を塗るという時代ではなく、1人である程度は全部作れる3DCGという環境がたつき監督にとって不可欠なものだったことは想像難くない(実際はirodori時代から分業していたことはブログからも伺えるが、作業量や機材を比較して)。Wikipedia情報によると、彼はサンライズ作品のCGを担当することで商業的なキャリアスタートさせ、以降手がけた仕事は一貫してCG関係だ。これがもし手書きスタッフとしての参加なら、今の形の『けものフレンズ』は存在しなかったし、たつき監督もおそらく従来の価値観に染まっていただろう。

3DCG上で現在主流の2Dの表現をそのまま再現することは難しい。「不気味の谷現象」ではないが、3DCGから2Dアニメに寄せようとすれば違和感が増え、それを克服するためには新しいアプローチ必要になる。たつき監督はレイアウト(構図というよりも画角)の段階からキャラクターの正面を巧みに演出し、同時に正面ばかりで飽きさせないように一話一話を構成することでこの問題に挑んでいる。技術的な分野における刷新、さらに強く言えば断絶。これにより従来のアニメ表現から自然と距離をとることができたことは『けものフレンズ』にとって幸運なことだった。

次にバランス感覚が挙げられる。たつき監督のスタイルにも作品の全てをコントロールしたいという欲望が見える。映像作家としてこうした欲望は一般的ものだ。ただ、「監督、コンテ、演出、シリーズ構成脚本たつき」と商業アニメで網羅しているのは尋常ではない脚本についてはWikipediaの項目を参考にした)。福原Pは、その秘訣はレイアウトからビデオコンテ、セリフ、声の仮当て、声優への細かな演技指導、修正、差し替え、調整という全ての作業をやりつつも「作業のカロリー計算ができる」ことだと語っている。

「そこらへんはプレスコで作ってきた『てさぐれ!部活もの』の経験が活きていると思いますたつき君はその場のグルーヴ感で「これはやったほうがいい」と思ったら作業しちゃうんです。その後のカロリー計算も、しっかりできる人」

http://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1488452395

「北風がバイキングを作った」ではないが、繁忙期は1ヵ月ほぼ泊まり込みだったという『てさぐれ!』における過酷な進行がたつき監督を鍛え上げたことは間違いない。余談だが、ファンによるスタッフロールの解析やたつき監督のTwitterでの発言から、『てさぐれ!』2期からirodoriメンバー関西から呼び寄せたようだ。一部で話題になった出来事もこのあたりに遠因があるのかもしれない。閑話休題

福原Pの言うカロリー計算とは、「作業量」と「かかる時間」と「納期まで時間」を正しく見積もることができるという意味だ。結果、各話を見ても全体を通して見てもまったく破綻していないばかりか、各話のバランス、全体のバランスがとても良い。ほとんどの工程にアクセスし、手を入れ、なおかつどこか一場面に片寄っていないということは特筆すべき能力だ。このバランス感覚ミクロの視点とマクロの視点、ミクロの作業とマクロの作業の両セットを備えていないと成り立たないものだろう。シナリオ含め、一貫してたつき監督の思想が反映された『けものフレンズ』。そこでは、「美少女の細部にひたすら耽溺したい」というような偏ったフレームは分解され、ごく抑制の効いたボリューム/表現としてバランスが整った形で配置されることになる。

最後は、アニメばかりを見ていないアニメ監督。これは富野由悠季が公言し宮﨑駿も暗に語る「アニオタが作るアニメはつまらない」という言葉の裏返しであるたつき監督がケニア育ちだったから、というわけではないが本人の発言ではアニメを「ちょいちょい」見るようになったのは大学で「アニメを作りたい」と思った頃からだという。この時点で「東浩紀は『セーラムーン』をリアルタイムで観ていなかったニワカ」とディスられたレベルでのガチのアニオタではないとも言えるが、ここではirodori制作の短編を元に検証してみたい。

1作目『眼鏡』にあるのはメガネ萌え主人公エヴァギミックNARUTOアクションジョジョネタ(格闘ゲーム版)、東方という、既視感のあるオタネタだ。テンポの良さやオチの付け方など評価できるポイントはあるが、お約束というメタ設定(いくら殴られても負傷しない、カエルが空を飛ぶ、怒りで異形化、いくらでも撃てる弾薬など)のあしらい方はごく普通オタク価値観を共有している人向けに作った短編という印象だ。

続く『たれまゆ』では全体的にパステルカラーキャラクターの柔らかい描写に取り組んだことが見て取れる。手描きによる2Dアニメで制作され、架空の田舎の超常的儀式を通して小さな世界が描かれる。しかし、作業コストが高かったのか、合わなかったのかこの後は2D手書き手法は行われていない。

第三弾『ケムリクサ』では再びソリッドな3DCGに戻る。NARUTO風のアクションレベルアップし、設定も作り込まれている。リナちゃんズと呼ばれる5人の可愛らしさと非ー人間ぽさには独特の魅力がある。『眼鏡』のようにネタをそのままネタとして扱うことはなくなり、説明は最低限。たつき監督の作家性の輪郭がはっきり見えだした時期だろう。30分弱の作品にかかわらず、構成やカット割りに無駄がなくかなり洗練されている。しかし、完成度の高さと裏腹に、注目を集めた『眼鏡』よりも再生数や評価は低調だった。ニコニコ動画の過去のコメントを見ると『眼鏡』の軽いパロディのノリを期待する声が多く、制作側としては不本意な結果だったのではないだろうか。ここでは、1作目でふんだんに盛り込んだパロディで注目を集め、2作目では手描きアニメに挑戦。結果、手描きからは撤退し3作目では3DCGでストイックな作品に挑戦したという流れを指摘するに留めたい。

4作目となる『らすとおんみょう』は福原Pと出会うきっかけとなった作品と言われているが、1話を作ったのみで未完となっている。女性のキャラクターの表情はまた一段レベルアップしており、3DCGの中で2Dアニメ表現に歩み寄りたいという制作者の努力が見て取れる。何がこの作品を放棄させたのかは推測でしか語れない。多忙となったためや、異国の魔女と「適当だけど超強い男子中学生っぽい陰陽師(の下請け?)」が子作りするという設定に着地が見出だせなかったのではないかと思われる。現在残された多くの断片からは具体的な落としどころは示されていない。同作はいわゆるハーレムものの構造を取っており、一方でたつき監督の描く萌えはごく控えめだからだ。

5作目となる『のための』はirodoriとして最後の自主制作作品となった駅長さんシリーズ。できあがった時期は前出の『てさぐれ!』の激動を超え、プロフェッショナルとして確立した後になる。正確には『らすとおんみょう』より前に断片的な映像が出ていたが途中に長い中断があり、実質的に『てさぐれ』後に作られたものとみなすことができる。時系列で書くと2012年に2年がかりで『ケムリクサ』が完成。2013年前半に『らすとおんみょう』(1話)。2013年後半から2015年まで『てさぐれ!』シリーズ2016年8月末に『のための』が『駅長さん フル版』(以下、『駅長さん』と便宜的に表記する)として完成した。この作品は5分という短い時間ながらプロの仕事というべきものだ。目が描かれていない駅長さんの動く姿には、これまでに向上した技術が昇華されシンプルな姿で完成している。

ここで「アニオタの作るアニメ」(以下、オタアニメ)の定義について考えてみよう。もちろん厳密な定義などできようもないが、本文章が求める要件は「特定の層だけをまなざしている作品」であり、具体的には「アニオタ視聴者を満足させることを目的とした作品」であるたつき監督は『眼鏡』では明白にオタアニメを目指し、続く『たれまゆ』では本格的に手描き2Dを試み、より迫ろうとした。ここで最初の転機が訪れる。手描きという手法があまりにハイカロリーだったからか、ここでこの方向は放棄された。なろうと思っていたがなれなかったのだ。以降、アニオタ視聴者をメインの観客に据えることはなくなり、アニメばかりを見ていないアニメ監督として本来の姿、幅広い層へアプローチする道を歩むことになる。

ケムリクサ』の段階で3DCGによる手法に迷いはなくなり、削られたカットからも抑制の効いた演出を志向していることが見て取れる。この作品から作風が変わったようにみえるのはテーマシリアスからだ、という批判も予測されるが「ストーリーシリアスになる=オタクに媚びていない」という短絡は採用しない。実際、表向きはオタク向けの作品ではないと装いながら水面下で「今回はこういう感じで行くのでひとつよろしく、へへへ」と、メタ構造(オタアニメにおけるお約束の構造)やメタ構造を逆手に取った仕掛けを差し出すという交渉を行う作品は実に多い。同時に「まったくオタクに媚びてませんよ」という宣言は、冒頭に挙げた父親の比喩と等しく、オタアニメの枠組みから実は一歩も踏み出していない。『ケムリクサ』では前2作であえて“なろう”とした努力が消えている。木の枝が河に落ちるように自然に、観客と交わす密約もなく、反発もなく、媚びていない。ピンポイントに評価される層よりも広い範囲をまなざしている。『眼鏡』よりクオリティは高いにも関わらず受け入れられなかったことは間接的な傍証になるだろう。

『らすとおんみょう』ではその揺り戻しといえる現象が起こっている。ギャグテーマTwitterで発言しているが、いかにもオタアニメという構造(そのままアフタヌーンあたりで掲載されても不思議はない)にチャレンジするも1話を完成させた後に頓挫。理由は色々考えられるが、これまで見てきた通りハーレムものの企画自体がたつき監督に合わなかったと考えるのが妥当だろう。この時期が2度目の転機になる。ある程度スタイルが固まったのだ。それは『ケムリクサ』で表現されたスタイルの延長にありジャパリパークへ続く道だ。キャラクターに瞳を描くことさえ取り止めた『駅長さん』は『らすとおんみょう』の続きは作らないという静かな意思表明とも受け取ることができる。


再び繰り返しておきたいのは「3DCG作画」、「バランス感覚」、「アニメばかりを見ていないアニメ監督」この3つはどれかひとつが先立つものではなく、お互いに深く関連しており不可分なものだ。『けものフレンズ』ではこの全ての要素が花開いている。この作品に超絶的な技巧が込められた作画や、ぴちぴちとした美少女あるいは美男子を求めることはできない。あるのはサバンナに向けて開かれたような、開け放たれた窓だ。振り返ると、室内にはエヴァ以降20年にわたる作品がある。時代を代表する色褪せない傑作もあるだろう。でも、もう昔の作品だ。新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込み、清々しい朝日に貫かれた後では、戸惑いつつも思い知らされるのだ。どれだけ偏狭な価値観に縛られていたか。こんなにもこだわっていたものは汲々としていたか。自由とはこういうことだったのかと。

自由の味。開放されるということは、決定的に変わってしまうということでもある。一度開放されたことを理解してしまうと、重さの無いなにかが失われてしまい、二度と戻ってはこない。それを無視して、例えば「エヴァけもフレ」というように馴染みのある文脈に引きずりこみ安心することもできる。「ローエンドなCGでもいいものは作れるんですよ」と心の平穏を装うこともできる。でも、そういうことはもうやめにしよう。『けものフレンズ』はこの20年間潜在的に待ち望まれていたアニメばかりを見ていない監督によって作られたアニメなのだ。その面白さの本質は、ガイナックス的なアニメ価値観とは別の場所に立っていることによるのだ。私はたつき監督の成果に最大限の賛辞を贈りたい。素晴らしい作品をありがとう

ただ、アニメを見る目がこれまでとは違ったものになったことは少し寂しく感じてしまう。世に次々と出てくる新しい作品がどれだけ面白くても、それらが“過去の遺跡の新作”ならばそれだけで手放しで楽しめなくなったからだ。つまり、ちょっとした困難をかかえこんでしまったことになる。でもそんな心配はあまり気にする必要はないのかもしれない。なぜなら、すでに誰かが言っていたようなのだ。困難は群れで分け合えと。

2017-06-30

やほおニュースはてブツイッター

ネットニュースとか見るようになったのって最近のこと。

数年前まではちゃんと新聞読んで、ニュースステーション見てた(ちゃんと?

んで、思う。

鮮度ってか情報信頼度ってか、民意ってか。

情弱のうちまだマシなほうはyahooニュース見てる。(テレビ新聞情報源な人に関しては論外)

知り合いのおっさんとかでもソースはヤホオニュースみたいな感じで他のおっさんに対しては優位に立ってるが、若い層には情報量や正確性でコテパンにやられてる。

「え? それソースどこですか?」「いや、ヤホオで見たけど」「そのソースは?」って感じで。

はてブ層は

多分自分達は情報最先端に近いところを走っているに違いないと思ってるんだろうけれど、結局ははてブ民の民意やらはてブ民に選ばれしニュースしか目にしてない、ある意味情弱であって。

ツイッター民は、各人の意識にかなり左右されるけど

情報を精査して信頼性を鑑みつつ最新情報なり大多数の意見なりを入手してるなーって思った

デマに惑わされるやつらが多過ぎてツイッターってオワコン化しとるとも思われてるけど

http://www.kijikiji.com/toko/air/alitalia.htm がツイートで流れてきたのを見て思いました。

2017-06-26

好きなものを語るときに嫌いなものの話をするのも意味のないことではない

好きなものを語るときに嫌いなものの話をされて困る人って、自分の好きなものがそのとき批判されていたら自分が傷つくから嫌なんでしょう?

よくわからないのは、なんで自分の好きなもの批判されたくらいで傷つくのかということ。べつに他人がどう思ってようが関係ないし、ふーん、あなたは嫌いなんだね、程度の話でしかない。すべての人が自分とまったく同じ好きを共有して自分とまったく同じ嫌いを共有しなきゃいけないわけじゃない。好きを共有していても嫌いを共有しないことはあるし、嫌いだけを共有して仲間になってしまうこともある。

「あたしはマグロ赤身が好き。大トロは嫌い」

こんな発言は世の中普通にあるし、これで大トロファンがいちいち切れるとしたらそれはかなり頭がおかしいと思う。「大トロ批判するな!」

しかに「赤身が好き」という情報を伝える際に「大トロは嫌い」は必要ないように思える。つねに肯定的に語るのもいいだろう。

しかしこの「大トロは嫌い」はまったく無価値情報というわけでもない。つまり「大トロは嫌い」が「脂っぽいネタは嫌い」を含意するということは容易に想像つくしマグロ赤身は脂っぽくないということも周知の事実。このことを勘案すれば、「大トロは嫌い」という発言はたしか否定的な語り方ではあるものの、「赤身が好き」という情報を補強するだけの価値を持っているということになる。それは単に「赤身が好き」というよりも、より説得力があり、話に立体感生まれる。世の中には赤身が好きでも、「赤身が好き、かつ大トロも好き」という人と、「赤身が好き、しかし大トロは嫌い」という人がいる。「大トロは嫌い」と発言することによってどっちのタイプ人間なのかが確定される。「赤身が好き」と「赤身が好き。大トロは嫌い」といったときでは情報量に明確な差がある。

好みを語るときに、「あれは好きだけど、あれは嫌いだなー」というのはごく普通の会話でしかない。それに対して、「えー、うそー、あたしはまったく逆だよ!」「えーうそー」「すごーい」みたいにして会話は続いていく。こんな程度のささいな受け流しができずにいちいち傷ついてしまう人は社会生活まともにできているんだろうか。自分の好きなもの批判されるとまるで自分自身否定されたように感じてしまう人というのは生きにくいのだろうなと思う。べつにあなた否定しているわけではないのです。

2017-06-24

ラジオって面白い

映像がない分だけテレビに比べて情報量は少ないけど、だから面白いのかもしれない。

2017-06-18

https://anond.hatelabo.jp/20170617205907

なんでわざわざ三行に要約せにゃいかんのか分からん

俺は必要と思った情報量を含ませてるだけだ

2017-06-16

https://anond.hatelabo.jp/20170616181138

レンズ径の大きさがそのまま情報量の差につながるので、

2万円でもレンズ径の大きなデジカメの方が、画像を等倍で見たときにはきれいだよ。

ただ、撮影した写真印刷もせずに、縮小して液晶画面で見るだけの用途に限れば、

違いは分かりにくくなってきている。

2017-06-15

https://anond.hatelabo.jp/20170615211612

なに勘違いしてるのかわからんけど

報道では「こんな服を着て、こんな荷物を持って、こんなセリフ児童の家に行けば入れる」なんて書き方はしてないわけだ

しかクジラックスはそれをすべて書いてしまった

事実報道と、過剰な情報量を同列に語るな

それに報道被害者に近い立場にも等しく伝えられるわけで防犯にも役立つ

しろそのために報道されているといってもいい

エロ目的ではないんだよ

2017-06-13

http://anond.hatelabo.jp/20170613190122

学校社会ギャップだな

情報量があまりにも少ない資料説明不足の講師作業没頭型のやつ、誰の発言にも否定してくるやつ、「残業はするな」と言うくせに突然の修正要求してサービス残業をさせる上司

とっても、ふつうのことです

これが現実世界です

出来るだけ早く体と頭を慣れさせて、自分価値基準を上書きしましょう

人生ドロップアウトコースに入ると更なるハード生存競争が待ってるので、

そういうプリミティブな世界に魅力を感じない人は尚更早く切り替えた方がいい

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