はてなキーワード: 教育方針とは
無職製造機と言われる過干渉ヒスママは学歴厨製造機でもあったという話を、去年の年収が400万超えた私が実体験を元に説明しようと思う。
去年の年収が400万を超えたを何故わざわざ書いたか、それは私が弱者だからだ。
毒親育ちと言う弱者的な要素を抱えると、他人から説教されたりマウントされたりする機会が増える。
だから、「過干渉ヒスママは無職製造機」という言葉に反応して「お前が無職なのは自己責任だろ。言い訳すんなゴミが」と言う言葉が返ってくるのを想定してしまう。
攻撃されることが前提にあるから「25歳の時に年収400万稼ぐ程度には社会に適合してたので説教しないでください。そう言う話をしたいわけではありません。」
ただ、人生を順当に生きてきた人には攻撃されたり説教されることが前提にないため、
「なんでわざわざ年収書くの?自慢したいの?そんな中途半端な金額で??うざ!」という反応になってしまう。
ーーここから本題ーー
私の父親は中小企業の役員で激務だった。対して母親は専業主婦だった。
自分の母親を見る限り、承認欲求が強く他人へ関心がある女性は専業主婦に向かない。
専業主婦のような立場になっても問題が起こらないのは他人への関心が薄く適度に面倒くさがりな人間だ。
「人から褒められたい、頼られたい」という願望を持った人間が専業主婦になると問題が起こる。
この手の女性は子供が赤ちゃんで夜泣きしているうちは(大変だけど)問題が起こらない。
子供に物心がつくと家族との関係よりも学校での友人関係を重視し始める。
すると母親の視点では最悪なことが起きる。誰も母親を必要としないのだ。
父親は仕事で忙しくて滅多に家に居ない。子供は学校での人間関係で満足してるから親からの愛情はそこまで求めていない。
「父親なら働くこと。母親なら家事をすること。そして、子供が悪いことをした時に適切な熱量で叱ること。」
これぐらいのものだと思う。情緒面のつながりとか一緒にいて楽しいとかは家の外で作る友達に求めていることで、親には求めていない。
子供は父親が働き、母親が家事をする様子を見て「そう言う役割分担で結婚したんだな」と解釈するので、
「お母さん、家事をしてくれてありがとう」とはならない。「そう言う役割なんでしょ。」と思ってしまう。
父親はずっと仕事しているので専業主婦のメンタルケアなどする暇がない。
「当たり前のことでお礼を言い合うのは格好悪いだろ」ハンターハンターのキルアが言ったセリフだが、現実の人間でも当たり前のことに感謝している人はいない。
すると母親の視点では「情緒面でも役割面でも誰からも必要とされていない」状況になる。
これが承認欲求の強い女性が専業主婦に向かない理由で、誰からも必要とされていない状況が続いた母親は狂い始める。
そしてトチ狂った母親は「子供から必要とされること」で自分の存在意義を見つけようとする。
当時の私には何で喧嘩しているのか分からなかった。兄に対して「短気でみっともない」ぐらいに思っていた。
この日を境に長男が母親に干渉されることがなくなり、代わりに私が干渉されるようになった。
子供から必要とされたいと思った母親は、子供のランドセルを勝手に触って勝手に時間割したりとか
小学生の私「子供が自分でやるべきことをお母さんがやったら、子供が何も出来なくなるでしょ。やめて」
母親「何?お母さんが悪いんか?何でもお母さんのせいなんか?」
私「責任の押し付けをしてるわけじゃなくて、お母さんがやっていることは悪影響があるからやめて」
長男がガラスを破る前は寝る前に自分で時間割をしていたのに、ある日急に母親が私のランドセルを勝手に触るようになった。
今まで自分で時間割してたのになと思ったが、自分で時間割をできない人間として扱われると自信が無くなってくる。
小学生なりに頑張って筋道立てて「子供の成長を願うならば子供が自分ですべきことを親がするべきではない」と説明したのを覚えている。
私「え、子供の成長なんかどうでもいいから自分の評価が欲しいってこと?」
母親「違う」
私「何が違うの?説明して。」
母親「違う!!」
私「違うなら説明して」
母親「ええか、あんたは小学生だから分からんかもしれんが、大人になれば親の言ってることが分かるようになるんや」
私「子供が時間割を忘れるなら自分で時間割をできるような人間にするのが本質的な解決なのに、大人になると問題を水面下に押しやって解決したことにするってこと?」
母親「違う!!!ああいえばこういう!!上司に向かっても言い返すつもり!そんなんじゃ社会で通用しないよ!!」
母親「感謝して!!!時間割してやってんだから感謝しなさい!!!」
家を出る時間、朝起きる時間、宿題をするタイミング、家を出る時の服装、予定の管理....etc
ありとあらゆることを母親が干渉してきた。専業主婦で働いていないだけ体力が残っていて、その力で全力で私の自立を阻害しようとしてきた。
呼吸の仕方にまで干渉されるんじゃ無いかと思うレベルで干渉された。
干渉を止めようとして筋道立てて説得しようとしたり、怒鳴って拒絶しようとしたり、罵倒したり色々と試したが母親と言葉が通じることがなかった。
「そんなに不満なら言えばいいじゃん」と言われた。
健全に社会生活を送れている人の大半は言葉が通じない人への解像度が低いせいでこういうことを平気でいう。
当時の私は「母親が高卒だから話が通じない」のだと考えだした。
本音をいうと母親がヒステリックなのは学歴の問題であって欲しかった。努力で解決する問題であって欲しかった。
良い大学に言って、言葉が通じる情緒の安定した女性を捕まえて幸せな家庭を築きたいと思っていた。
「過干渉ヒスママのもとに生まれたら学歴厨になった」というタイトルで多くの人が誤解してそうだが、母親から勉強しろと言われたことは一度もない。
まず入塾テストがあり、最低限のラインをこえている人間だけを生徒として迎え入れる。
そして、生徒の成績を伸ばすために成績の悪い生徒を公開処刑に処すことで生徒の成績を伸ばしている。
私は下級クラスも上級クラスも両方経験しているから分かるが、授業内容は上級と下級で全く変わらない。ただ、生徒の競争心を煽るためだけにクラスが分離している。
そして、クラス内でも成績で席順が決まる。成績の悪い人が前の席に配置され、成績が悪いという事実を席に座るだけで後ろから見られる仕組みになっている。
私は自己評価が低かったから、下級クラスの前の席に配置されても問題なかったし勉強すれば良いだけだと思ったが、プライドの高い人が下級クラスの前の席に配置されると捻くれ始める。
塾に入ったくせに「なんで勉強しなきゃいけないんだよ。高学歴でも無能な奴はいるって聞くぞ。」みたいなことを言い始める。
今から思えば、多感な時期の中学生を成績順で配置して公開処刑すると捻くれ始めるのは普通のことかもしれない。
ただ、当時の私はそう考えなかった。
「成績の悪いバカは性格が悪く、無駄にプライドが高いから文句を言い始める」というのが当時の解釈だった。
だから、必死に勉強して上級クラスに行こうとしたが、下級クラスから抜け出せなかった。
ある日、自分が勉強しても成績が伸びない理由に気づいた。無駄なことをしていたからだ。
勉強は良いことだと思ってたせいで、作業量の多いやり方で勉強していた。
無駄なことを増やしたせいで効果のある勉強に時間を避けず成績が悪くなっていた。
だから、作業と勉強を区別するようにして、どうやれば成績が伸びるか必死に考えて、勉強方法に改善に改善を重ねた。
その結果として、上級クラスに移動することに成功し、なんとか上級クラスの平均より上の成績になった。
ただ、勉強したことで自分がかなり深刻な問題を抱えているという事実に直面した。
問題点1)勉強を質の高い労働者になるための訓練と考えたとき「勉強のやり方を改善した」は「仕事のやり方を改善した」に該当する可能性がある
問題点2)仕事のやり方を改善できるのは職場で信頼されている人間である
問題点4)母親の過干渉が悪化し、私が自分でやるべき基本的なことは全て母親がやっている。怒鳴ってもブチギレてもやめてくれない。
問題点5)母親は頭が悪いが有能な秘書なのかと思うぐらい子供の予定を把握している。
問題点6)問題点5から察するに勉強しても頭が良くなっても「基本的なことを当たり前にこなす能力」は身につかない
以上の問題点から母親の干渉を全力で止めようとしたが、止まらなかった。むしろ悪化した。
私の母親は頭が悪く支離滅裂なのにしっかりと子供の予定を把握し、干渉してくる。
頭の悪いしっかり者という母親の存在が、逆説的に高学歴社会不適合者の存在を暗示している。
そして自分でやるべきことを自分でやってない私は高学歴社会不適合者になりつつあるんだろうなという恐怖があった。
勉強して色々と分かるようになった分、恐怖が強くなっただけだった。
「勉強ができても、頭が良くても、頭の良さが求めらる立場まで出世できる人間じゃないと意味がない。」
という可能性が頭をよぎったが、どうやって勉強するかが唯一私に許された意思決定だったから学歴に固執するようになった。
塾の教育方針が変わったてから、今まで自由放任で勉強できていたのに急に干渉されるようになった。
塾の先生がいう勉強方法は会社でいうと現場にいない上司がいう仕事のやり方みたいなもので、的確なものには思えなかった。
自分にとって唯一許された意思決定だった勉強を先生に干渉されるのもが嫌だった。
上級クラスの平均より上の成績だったといえ、地元で一番レベルの高い高校を目指していたせいで先生のご機嫌をとるために
わざわざ先生の指導のもと非効率な勉強をする余裕などなかった。
塾の先生もなかなか頭がおかしい人で「そんなに自分の意思で勉強したいなら、
私の意思はあなたの意思だと思え」とか「じゃああなたはあなたの勉強方法で100点取れるの?」とか言われた。
塾を辞めたいと言ったが親に反対された。必死に辞めたい理由を説明したが日本語が通用しなかった。
先生に親の許可はおりなかたが塾を辞めたいという話をすると「子供は大人が稼いだ金で生活してるから反抗する権利はない」とか言われた。
大学に行けばまともな人間と一緒になれるという原動力に近い幻想が塾の先生という頭のおかしな人と遭遇したことで壊れた。
どこに言ってもヤバい人にヤバいことされる人生が続くと考えた瞬間、精神を病んでしまった。
精神を病んだ瞬間、上級クラスから下級クラスに戻り受験は無事失敗した。
心を病んでから母親に干渉されることが無くなったので、母親は子供が成長して自立するのが怖かったから干渉していたんじゃないかと思う。
ただ、メンタルは治らなかった。
高校時代はずっと中学の嫌な思い出を思い出して、まるで現在進行形で嫌なことが起こってるかのように感じて苦しんでいた。
ずっと苦しい感情を抱えたまま苦しんでいた私には友達ができなかった。
お金が欲しかったわけではなく、友達のいないメンヘラで、基本的なことを親がやってきた人間が社会に適合できわけがないと思っていたから自己改善のためにバイトを始めた。
バイトを始めると高校受験の時に頭のおかしな大人に囲まれたいた弊害が出てきた。
例えば飲食店で料理を作った後手が空いた場合「手が空いたから皿を洗おうかな?」と考えて皿を洗うのが普通だろう。
ただ、私はこうならなかった。
「手が空いたから皿を洗えるな。で、私は何をするべきなんだろう?」という状態になった。
自分の時間割を自分でやろうとしたり、自分が下級クラスから上級クラスに上がった勉強方法を続けようとしたりすると母親や塾の先生に怒られることになっていた私は
「自分が正しいと思っていることをすると怒られる」という意味不明な経験を積んでいた。
だから「何が正しいか」の感覚と「どうするべきか」の感覚が全く別のものになっていた。
その結果「手が空いたから皿を洗えるな。で、私は何をするべきなんだろう?」みたいな支離滅裂な思考回路になっていた。
大人の人=自分に対して理不尽に怒鳴ってくるモンスターみたいな認識だったから、職場のコミュニケーションにも支障が出た。
そんなんだったから、バイトを何個か首になった。低学歴のしっかり者だった母親の対義語として高学歴社会不適合者になってしまった。
自分の中の壊れてしまった感覚と向き合って、何とか自己改善してバイトが務まる程度の社会性を身につけたと思ったら大学時代が終わった。
誰が悪いかという話を敢えてするなら、成人している増田について未成年で責任能力はないと譲らない両親だけが悪い。与えてくれたものが多いとしても増田の人生における巨悪レベル。
そんな親だからこそ今後もいくら増田自身の考えや思いを合理的に説いたとしても理解、納得してくれる可能性は低いだろう。
もう立派な成人で自分がどう生きるかは自分で決める権利があるし、決めた結果が良くても悪くても自分の成果で両親の物ではない。両親に相談する、秘匿するのも増田がメリットやリスクを勘案して決めること。
コミュニティツールの有無は確かに必須だが、それさえあれば友達は何らかのコミュニティに加わればすぐ作れる。
ゼミ、会社、スポーツや音楽などの趣味のサークル、オンラインゲーム、増田自身がやってみたいと思うことに飛び込めばあとは増田の人柄とかかわり方次第。
自分は中高時代両親の教育方針のせいで友人がまったくできなかったが、一人暮らしを始めて30過ぎた今は気軽に飲みや食事に誘えたり相談できる友人的な存在が両手で収まる程度にはできた。
パっと思いつく方法はどれも一長一短ですね。
教員だけ特別扱いできないので公務員全体の給料が増える可能性あり。その場合は結構な増税になります
コマ数が減った分教育レベルの差が大きくなります。「円周率=3」レベルが様々な教科でおきます。水素水は効果があると思ってるし、セックスしたら子供が出来ることさえ知らない人だらけになります。
暇を持て余した帰宅部が増えます。猿山を作りたい人たちが暇になるので暴走族などが結成されやすくなります。集団活動の経験が減るので社会に出た時に団体行動が出来ずに問題を起こしやすくなります
待遇が悪くて人が集まらない正規教員より更に待遇が悪い外部委託に人が集まるのでしょうか?そこをまず検討したほうがいい意見です。
式典に参加する経験が積みにくくなります。災害発生時の点呼などで綺麗に並ぶのに時間がかかるようになるかも知れません。また、校長の口から直接学校としての方針を全体に伝える機会が失われます。全校集会で話した内容は生徒と教職員の全員が承認となりますので、個々の教員の個人的な考えではなく全体的な方針であることを証明できる貴重な機会です。
非日常下での集団行動経験が積む機会が大きく減ります。美術館では走らないことや、歴史的建造物に落書きしてはいけないことなどを知らない社会人が増える可能性が高まります。集団で大きなイベントを成し遂げた経験が減ることで、なにかイベントをやろうとしたとき、参加しようとしたときの心理的ハードルが上がる可能性があります。また他の人がやったイベント設営・運営の苦労などを想像することが出来なくなる恐れもあります。
虐待や貧困の発見が難しくなります。家庭環境の違いによって起きるコミュニケーションのズレなどを予測しづらくなります。
何かを伸ばしたいなら、どれかを切り捨てなければいけません。
私は「素手で便所掃除をさせる」「農作業を手伝わせる」といった各校ごとのオリジナリティあふれる教育方針とやらを完全に廃止するべきだと思っています。
教育方針を画一化出来れば、日本全体で共通のマニュアルを作れますし、転校によるルール変更が業務の妨げになる度合いも減るでしょう。
これが私の出した答えです。
皆さんはどう思っていますか?
ホッテントリにある増田に「幼稚」「思い込みが強すぎる」「カウンセリング案件」的なブコメ結構付いてるんだけど
彼氏がいたことはあるけど手をつなぐのも鳥肌立った、キスなんてもってのほか
子供の頃からそういう話題全部苦手でR18絵とかキモくて見れない(親がそういう教育方針だったせいは多分大きい)
人体が割と嫌い
結婚とセックスがイコールになるなら結婚しなくていいやと思ってるから人生特に困ってないんだけど、なんかブコメ見てたら自分が異常なんじゃないかって心配になってきた
(追記)
こういう機会でもない限り特に気にしてないからとりあえず個性だと思ってのんびり1人で生きるわ
もし誰かと本気で縁が生まれそうなときはきちんと早い段階で相談するし、必要だったら病院にも行くわ
誰かを攻撃するつもりはサラサラないけど、増田にこぼしたくなる程度には気にしてるってことだから意図せず刺々しくならないよう気をつけるね
あと消えちゃってるけど仲間なコメント書いてくれた増田さん、気持ちはわかるし言える場所がなかなかないもどかしさも分かるから、(言葉が選べたらその方が良いにしても)辛いときに増田で空虚に向かって愚痴るのは特別悪いことじゃないと思うよ、書いて消してちょっと気分が晴れてることを祈る
でも若い時みたいな情熱はなくなったし、自分が世界を変えられる研究をすることはもうないんだろうというのはわかってしまっている
若い時はボスの夢に精一杯くらいついて、世界を変えるきっかけを作ろうと奮闘していた
しかしそれから時間が過ぎ、落ち着いて、立場も得て、何でもできる状態になると、何もしたいことがないと気付いてしまった
俺はボスの役に立ちたかったのと、研究者になりたかっただけで、本当にしたい研究なんかなかったんだろう
幸いパーマネントなので、このままゆるゆるお給料をもらい続けることはできる
でもなんだかこれでいいのかなあってのは思う
うちの親の教育方針は「あんたたちには何も残さないし、何も背負わせない、自分で生きていけるようになりなさい」だった
家業は親父の年と共に随分と縮小したけど、今でも不動産は残っていて、大阪の中心地にビルをひとつ持っている
ここにきて、親は残すべき土地を、子に残せないことを少し心残りに思ってもいるようだし、俺も自分の家のルーツの土地をこのままなくすのは惜しい気はしている
親は、俺さえその気なら、継がせてもいいとここにきて思っているようだ
そういう不安はすごくある
雇われているうちは、雇われ続けたらなんとか生きれるけど、ビル管理は大地震でも起きたらアウトだろう
親は、ビル経営なんて、世界に打って出るようなものでもないし、つまらんもんやで、あんたの年からやってもなあ、のようなことも言う
でも10年くらいしたら、親も80、俺も50だ
そうなればありなのかなあ
少なくとも今の仕事に魅力や情熱は感じなくなっているのが一番問題な気はする
なんかもやもや
中学受験しないとか、教育熱心じゃないとかなら塾はない。都会というより教育方針。感覚では塾行ってないほうが大多数では?
ただし、田舎は都会より人口密度が低い分人付き合いの濃度は濃くなるので、何らかのクラブに入ってるほうが大多数
週末の練習や試合はクラブの方針次第かな。学童野球の例だけど、緩いクラブは6~10月に10回弱の試合(公式メイン+数回練習試合)
いけいけクラブは毎週何らかの試合入れてるとかはある。片道1時間以上の練習遠征行くこともあり。
ぶっちゃけ子供は好きでやってるんだからいいんだろうけど、クラブは親が大変よ
特に田舎。送迎はもちろんのこと、子供人数とともに親の人数も少ないんで、審判したり、道具整理したり、雑用が多いね。
俺が少数派だということは承知しているが全男性がこうだと思われても困るので俺個人について書く。
なお俺は童貞&処女の20代後半、体の性も性自認も男のパンセクシャル(バイに似ているが、バイセクシャルが「男と女の2性」を対象とする(バイは「2つの」の意。バイシクルとかバイアスロンとかバイナリとか。)のに対しパンセクシャルは「男女以外の性や無性も含む全て」を対象とする(パンは「全」の意。パンゲアとかパンデミックとかパノラマとか。)という違いがある。俺個人としては「文章だけを見て性を判断できないのと同じように容姿や声を観測したところで性は判断できないだろ、エロいかどうかに性が関係あるかよ」という立場だが、パンセクシャルが全員そう思っているというわけでもないんじゃないか。知らんけど。)
途中で飽きてきたのが目に見えて分かる。
父が死んだ。葬式もした。
喪主ではないし長々としゃべっても飽きられるだけだからここで自分の整理がてら、書いておこう。
父という人間のことはなんといって表現していいかいまだによくわからない。というのは母が強烈すぎるからである。
父は1940年代生まれの日本人男性である。出身地は西の方の川沿いの豊かとはいえない田舎町である。
6番目の息子である。工業高校に通うために下宿がてら養子に出されるまでは、兄の一人に小遣いや親の愛を搾取されていた。
(おそらくそのせいで自分へのいじめにはとてもドライである。いじめが嫌いだし、「ズルイ」という言葉も苦手である。)
工業高校卒業後は、工場のあった景気のいい化学系メーカーに就職した。読書が好きで(速読で)すこし本で勉強すればペーパーテストはたいてい受かる。
職場ではじまった国内留学のような制度の初年度生にえらばれて会社のカネで大学の化学科に進学した。
学費の足りない分や生活費は賭けマージャンで補っていたという。のんびり無口なくせにダマテンかメンタンピンか即降りの雀風である。
趣味は登山で、安くて黒いカメラも一応持っていた。(父が人生でもっともイケイケだった時代かもしれない)
そこで一学年年上にあたる女性と出会った(大学では同学年)。九州で育って浪人して偏差値で選んで入った教育学部にいた女性は、はきはきとしゃべり美人で笑顔が気さくだった。
怒るとまくしたてて手が付けられないが、おこっていなくても気を許した人間の前では延々とラジオのようにしゃべっている。
話すうちに多少の脚色も入って来る。それを父はわかっているのだがいちいち訂正しない程度にはおおらかな父と女性は気が合ったようだ。
1960年代?の大学には学生闘争が(東京でとくに盛んに)あった。田舎の大学にも多少の余波はあったが、両方とも危うきに近寄らずで敬遠していた。
父は卒業後化学企業にもどり、女性は数か月だけ「印刷会社の腰かけ事務職」をして寿退社。初任給で洋裁用ハサミと広辞苑を買ったという。
二人は親へ挨拶をすませ神前式で結婚式をあげた。新婚旅行(国内)ではパンタロンにネッカチーフなど流行の服をきたイケメンの父が観光名所の立て札の前でまぶしそうに笑っている。
1970年代。m市の社宅に二人暮らしで妊娠。里帰り出産でまるまるとふとった増田を生んだ。ぴかぴかの母の笑顔は(そのころまだモノクロ写真しかなかったので)モノクロームである。(追記:よく考えてると写真現像紙の質が悪くて色褪せてただけで新婚旅行も出産も一応カラーだ)
夏だが一般家庭にはクーラーがないころだ。産院にはあったそうだが、おくるみでぎっちりくるんだ写真をみるに母には赤ん坊を薄着にするという考えがなかったようだ。
(なお増田は今も超絶汗かきである。失うはずの汗腺が全部残っている)
二人目もm市在住で西に里帰り出産した。このときは増田も母実家に連れていかれた。
このころ叔父が浪人してから医大に入って実家から通っていた。叔父はマンドリン部に入ったといって増田になにかを弾き語りしてくれた。あと本好きの増田に学研の漫画の植物百科を買ってくれた。
三人目を生む前に父は関東のk市に転勤になった。おそらくこのへんで、父は化学から離れたようだ。(父、転身)
というのは、データベースで父の名を探したことがあるのである。染料の特許か論文かに1-2件だけ名前があってぷつりと途切れた。
というわけでk市で三人目が生まれた。そうして5人乗り自家用車を買っていろんなところにつれていってもらった(なおそのころベビーシートはない)。
だが車内で父はタバコを吸った。車内はひどい匂いでひどく揺れ、子供たちはぐったりしていたし従兄弟などはゲロを吐いたこともある。あまりいい思い出はない。
(母は父に「ニヒルなくせに私にだけやさしい大人の男性」というイメージを抱いていた。一時期はタバコも容認~勧めたことがあったようだ。実際は父のほうが年下で気弱ですらある)
そうしているうちに二人目がアレルギーという未知の病気にかかって(そう、1980年代にはアレルギーによる気管支喘息すら新規だった。父も母も本を買いあさった)、
そのころの(無鉛ガソリンとも限らない)車の排気ガスがアレルギーのもとだ、という説にすっかり怯えてしまい、「もっと田舎っぽい場所に家を買いましょう」となった。
とはいえ社宅だって、そこそこ郊外で、隣は竹の子がとれる竹林だったのだが。
まあ、3人の子育ての忙しさの中で狭い金魚鉢みたいな社宅でのハイソ自慢、愛され自慢だの、昇進自慢に母が飽き飽きしたんだろう。
そこで知ったのだが父はいつのまにか一級建築士になっていたそうだ。意気揚々と自宅を設計し現場監督がてら家族をつれてわくわくとみせにいった。
(このへんで、のこり全部の西にいる親類から「東京の叔父さん」と呼ばれはじめる。後日つくば万博やディズニーランド、成田への前泊などで宿をお貸ししたこともあるようだ。)
お礼にとめてくれる親戚をたどってお盆に西をめぐったこともあったがそう回数は多くない。いつも核家族の5人が一緒であった。
そのあと増田はなんとか就職して、ひきとめたがる母親と喧嘩しながら「自分の金で」一人暮らしをはじめ、あまつさえ恋人ができたというと、
母が「空の巣症候群」というやつでいろいろとヒステリックになりはじめた。
子供が「いやもう自分は大人だから口出しをするな、するなら人生の最後まで口出しする覚悟をしろ。恋人よりよい伴侶候補がいるならいますぐつれてこい」とブチ切れてやると、
父親に「ウエーンくやしい!」と子供のようになきついていた母を思い出す。
その後も「恋人を家につれてこい紹介しろ」というからそのとおりにしたところ「こんにちははじめまして」の二言目に「うちの教育方針は!」とはじめたのでみんなでドードーしたのをおぼえている。
子供を教育することが母の生きる目標だった。母には並列処理はできないのである。教育となったら教育だけをするのだ。
「もういいから子供にかかわらず好きなことをしな」というと……。
しばらくしてようやく、母は広い庭をいじりたいから、もう一軒家を建てて引っ越すといいだしたのだ。
庭で草花をそだてていれば嫌なことはすべてわすれられるという。
父は母のことを浪費家だと数度指摘した由来はこの辺にもあるとおもう。
(ほかにもファッションや作り付け家具など、彼女なりの「上質な暮らし」イメージを達成するために骨身をおしまなかった母だ。
今で言う「お値段以上」なのだろう、「モノはいいモノだから3人の子供に使うのならこの値段は惜しくない」という言葉を母から何度も聞いた。
学校の縄跳びなんか子供向けのすぐ切れるプラスチックじゃなくてボクサーが訓練に使うようなものをもたされ重かった。)
母にしてみれば教育費を払いきれたのは自分の塾のおかげもあり、父はケチだというのである。どちらが正しいかは…。
ところがしばらくすると、父自身が肺の難病にかかった。タバコは肺にはよくないということはわかっていた。
父は早期退職制度で、ただ社外顧問で数回きてくれればという職だけをのこして闘病に入った。
幸い年金ももらえる。子供への仕送りもぱったりとまってお金には余裕がある。
郊外というよりもはや森の中を切り開いてつくった庭の広いおしゃれハウス(建築中)は、たちまち父の療養ハウスに方向転換となった。
手すりやら風呂やら改築し、母は断捨離をし、こだわりより健康を優先し…。
そこで難病なのに20年も生き延びたのは確かに母のおかげであろう。
ただ母はだんだん父が自分より弱い生物になりさがっていくことがなかなか納得できなかったようだ。
母にとっては子供は庇護すべきで、父は母を庇護すべきだったのに、すべてが逆転してしまったのだ。
母の癇癪は昔からものすごく、感情の嵐の生のままの奔流であって、いうことがよくまとまっていない。
Aといった直後にいいかえすとじゃあ反Aだと躊躇なく言えてしまう。もちろんきっかけはあるのだが。
母がなんでタバコを吸ったの!と責めて、理由をはっきりいわないと納得しないので父は「母も勧めたではないか」と言い返すのではなく「社内政治に参加するためだ」と説明した。
「なんで私を浪費家だというの!」「なんで感謝してくれないの!」には、
それぞれ「幼少より母の愛に飢えていたため」などの適当な理由がつけられ、反省書となった。
反省書はなんども日記にかきつけられ、こどもたちへも父がこんなに反省したとメールで送った(母もいつでも読めるようccつき)。
まるで自首後の犯人に動機を言えと迫る刑事のようなやり取りである。さしずめ母は愛情刑事であった。
この「なんで」期の母は2人だけの蜜月のはずがいきなり愛情が枯れ果てたかのようなふるまいをしたので子供たちにも影響があった。
あるときなど増田が呼び出されて母と東京のカフェであった遠かったねよく来たねの二言めで「今日ね、おとうさんをいじめてきたの」というのである。
どのように苦しめたか。それがどれだけ自分の恨みを買った人間の正当な末路なのか。話はじめると30分以上いきつぎもしないでとうとうとやる。
増田や父は、そういう手の付けられない母をどうしていいかいつもわからないで黙っている。
ただただ、ああ、となりのテーブルの客が居心地悪くて逃げたなあときょときょとしながら口をはさむ隙を探す。
やめてくれ。あなたたちは善良で努力家で思いやりある人間だっただろう。泣きたかった。
カフェの次は庭園つきフランス料理で父もいるときにニコニコと「お父さんに遺言をかかせたの。私に全部残させるって」というのである。
増田は遺産も愛も父からはあたえられない子供になったのだと、増田当人にむかって心から嬉しそうにいうのである。
理由を聞いてほしかったようだが「ふーんそう」というのがせいぜいだった。
後日やっぱり何十回もしつこく聞かされた。あれもこれも、…、わたしはケチといわれたのよ!!父は母に愛情がない!
父は平謝りするしかなかったらしい。
でもその場で諭そうにも耳も悪い。
「その話は今聞きたくない」と穏やかに告げるとまるっと無視された(なんなら常にセリフを母にカブせられているし慣れてるけど)。
もう一度はっきり言うと「え?」といわれ、もっと大きい声でいうと「大きな声を出さないで!心臓がどきどきする!」と泣き出すのである。
補聴器をすすめたけど、ぼわんぼわんして不快だとつけたがらない。
それに庭に出ている間も補聴器をつける必要がない(むしろつける必要がないから庭がすき)だから悪くなる一方だ。
子供たちは私を味方してくれない、おとうさんばかり味方して、おとうさんがだましているからだ!ということで本当に手が付けられなかった。
でも素直な母は、父をいじめるだけではなくまっとうに、増田ら子供たちに直接説得も試みた。
ところが増田も子供がうまれて送迎などで忙しいのに、携帯(業務用)に電話をかけることがつづいたのである。
運転中は出られない。うるさくて運転に集中もできない。ガチャギリするしかない。それでもかけてくるのでやむを得ず「固定電話にかけて」と携帯ではブロックをした。
このことは増田に子供の送迎がいらなくなりガラケーとアイフォンをのりかえるまで続いた(のりかえたときにブロックは解除した)が
半ボケ?もとから機械音痴?の母は下の兄弟や増田の伴侶に「増田ちゃんがわたしをブロックしたの!解除するようにいって」と何年も頼み続けた。
父はじわじわと悪くなった。3年に一回ほどのペースで入院するたびに母から死にそうな声で「おとうさんが入院したの、もうだめかも」といわれて子供たちが全国から新幹線などでとんでいった。
父は母に「浪費家だ」といったことを老後一生かけて平謝りし続けた。
酸素マスクが一日中必要になっても、下の世話はしないからと母にいいわたされると一回30分かけてでも一人で家のトイレにいった。
母はトイレにいく父の血中酸素モニターが鳴る音だけはよくきこえたらしくて「いつもピーピーうるさいから本当に止めさせたかった」のだそうである。
ほかにもブザー音がなると死んでいるかもしれないし、地震があると停電したら酸素送風がとまってしまう。そうすればすぐに酸素濃度がさがって窒息死だ、ということで不眠ぎみであったという。
なるほど不眠であれば気が狂うほど老々介護はつらいだろうというのはさっせられた。
途中で増田は「あなた(母)はもう後期高齢者だし、父はさっさと介護認定を受けるべきだ。他人を入れろぜひ入れろ、入院や介護施設はないのか」とアドバイスをしたりもした。
父も早く「介護認定を」といえばよかったのだが母だけに甘えていたかったのかもしれない。
母親の認識は古くて「介護=認知症=施設にいれられ毎朝チーチーパッパと歌わせられる」というなんかアレな印象しかなかったのだが、
父も「自分=強い=介護うけられない」とおもってた節がある。いいコンビだよあんたら。
まあ、実際、肺病で介護認定がそんなに高くなった父という存在はチバラギ地方では珍しく、認知症むけばかり取り揃えられている施設からは選びづらかったようだ。
母は一度、「もうすべてをほうりなげたい。お父さんなんか死んで良い」と増田にドライに告げたので増田は市役所を通じてケアマネに緊急電話をした。
実際病状がすすんでいるのも理由にあったようだ。
父は身の回りを手に取ることすらおぼつかない。あれをとって、かわりにこれを置いて、の命令の繰り返しの24時間。そりゃ気が狂う。
頭がはっきりしているだけに介護をうけておきながら「あの礼状は出したか」などと口うるさいこともこまごまという。
ケアマネ介入後はデイステイのできる施設をいくつかめぐって、母に介護休暇をあたえ父の入浴はステイ先で複数人で介護をうけることにして解決となった。
他人の手が入ったあとはなんとか母の忍耐がたもったようだ。
ラインでこまめに連絡をとると、お互い聞き取れない・聞いてもらえない長話のストレスと徒労感も解消された。
コロナのおかげで世の中全体が肺病に警戒しており、
ストレスのたまった母親の消費欲やお出かけ欲も「コロナは怖いから」と唱えるだけでだいぶ抑制された。
母はユーチューブをおぼえた。
コロナワクチンはふたりともいち早くうけられた。怪我の功名である。
増田の残りの二人の兄弟も子育てに忙しい中でガス抜きに付き合ったらしい。なんとか二人の生活はつづいた。
そうして2*年の闘病、*年の介護認定と酸素マスク、90日の入院のあげく父は体重が半分になって逝去した。
母は感情が高ぶると耳が全くなにも聞こえなくなるので、増田は葬式の打ち合わせに逐一ついていってすべてをメモにして渡してやった。
父がなくなって重荷が下りても母はやはり理不尽であり、やはり葬式の相談のあとにも爆発した。
かねて希望していたように「全部の遺産を母の元に相続させつつ凍結などの不愉快な事態にさせない」ためにはなるべく資金を動かさないほうがよいのに、
母はいますぐ資金をすべて自分の口座に動かそうというのである。
それなら司法書士とか頼んだ方が楽だよというと、母の感情は爆発するのである。「高いでしょう!?」3万でいける「デモデモダッテ」。
今すぐにでもATMにいってお金をおろしてあつめたいというのである。(父は箪笥貯金を高額な葬式分くらいはおいてあったし互助会にも入っていたから葬式費用ではない。)
なぜと問うと、「子供たちに私からお金を送りたいから」。はあ~~~???だよ。じゃあ法定相続割合でよくない?父もそれが一番簡単だからのぞんでいたんでしょう。
4歳の息子(年中)がいる
夫が人生に大切なことはすべてゲームから教わった的な思考の持ち主で
1歳半くらいからswitchに触らせ始め(確かマリオカート)
最初はガチャガチャやっているだけだったのだけど、マリオカートもコースがクリアできるようになり、
驚いたのはルイージマンション3やいたずらガチョウのゲーム、ふにゃべぇのゲームなどで
もちろん大人にとっては難しくないのだが、この箱をあそこまで運んで、次にこのおもりを動かして、道を作るといったことを筋道を立てながらできている
また、教えてないのに最近のゲームは字幕と音声があるので、ひらがな、カタカナ、簡単な漢字は読めるようになっている
任天堂のゲームはマリオやカービィなど音声がない字幕だけのゲームが多いので読んでと言われるけどね。音声つければいいのに
正直、夫のゲームで知育という教育方針を馬鹿にしていたのだけど、
確かに現状効果があるし、子供も30分というルールを守っている
ただ少し怖いなぁと思うのが、スプラトゥーンやフォートナイトのようなオンライン対戦型ゲームをやり始めたらどうしようってこと
1人プレイゲームはのんびりできるし、死んでももう一回できたり、難易度が自動で下がったりする
でも、対戦ゲームはどうしても対人だとまだ勝てないだろうし、口が悪くなったり、コントローラを投げたりしそうで嫌だ
この後どうやって着地させるつもりなのか、夫の腕の見せ所だなぁ
5年ぶりくらいに書き込む
その頃から増田という場所はネットの泥を寄せた排水溝みたいな場所だったけど、ヘドロが溜まりすぎて水が一切流れなくなってしまったなと感じる
定番のネタとは言えこんなレベルの話ばかりになっているのはちょっと異常だなって感じている
夜泣きが酷いとかベッドから落ちたとか、姑との教育方針の違いとかそんなのばっかり
小学生に上がればまた給食やいじめの問題も出てくるし、受験とか絡むと熱が変わってくる
ここが重要なんだが、子供の話題は子供の成長や家庭環境の変化に合わせて変わってくるということなんだ
言葉を喋ったりするだけで一大イベントだし、何かにつけて後悔もうれしさも付きまとう
けど、増田で話題に上がるのはどうも何の変化もない妄想だらけの地獄じゃないのかな?
子供が1年で成長する間に起こる喜怒哀楽の変化に比べ、ここはほぼ無風だ
湿っぽいよどんだ空気が漂っているだけ
いじめや友達のいないことなど、少しばかりでしょうが増田さんと私には似ているところがあったので参考になるか分かりませんが私の人生を語らせてください。
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幼稚園時代のことはあまり覚えていませんが中のいい友人が1人おりましたので子供らしい時間を過ごせていたと思います。
よく「◯◯ちゃんと結婚する」などと友人と言い合っていたのを今でも覚えています。
親が教育指導に熱心なタイプだったため、小学校での学業成績は悪くありませんでした。
1~3年生ぐらいは平和に暮らせていたと思います、しかし、仲のいい友人というのはおりませんでした。
4年生ぐらいになると、粗暴な子供達がクラス内で権力を効かせるようになってきており、身体が細く運動神経に恵まれなかった私はいじめのターゲットとなってしまいました。
朝教室に入ると、クラスメイトが声を揃えて私をバカにする歌を歌いだしたりするのは本当に屈辱でした。
小学校5年生ぐらいではあまりの屈辱に耐えきれず、いじめを行っていた、粗暴な子供のグループの中でも最上位に属しているクラスメイトを殴って階段から突き落としたことがあります。
幸い(私の心情としては幸いというべきではないのですが…)、突き落としたクラスメイトに大きな怪我はなくその問題は学校内で内々にもみ消されることとなります。
その後、クラスメイト全員からの嘲笑は無くなったものの階段から突き落とした子供のいるグループから執拗なリンチを受けることになります、
学校の先生については、私は全く信用していなかったので相談することはありませんでしたし、親にはいじめられていることが申し訳なくて相談することが出来ませんでした。
中学校時代、小学生のころにいじめを行っていたグループは地域の不良グループ(暴走族のようなものだと思う)に取り込まれていって学校内では特定の誰かをターゲットにした目立ったいじめを行うのではなく、
自分たち以外のグループをおもちゃのように見立てているようで、彼らの気分で暴力などをふるっていました。
小学校の頃と比べると比較的穏やかに過ごせるようになりました。
穏やかではありましたが彼らの遊びの中で彼らがおもちゃと思っているクラスメイト同士に殴り合いをさせる遊びがあり、これは今でも到底許しがたいものだと記憶しています。
私はそのターゲットに選ばれてしまったとき、嫌いでもない人間を殴るぐらいならと不良グループの1人に殴りかかったところ返りうちにあい、その後地域の不良グループも含められた集団からリンチを受けました。
幸い(私の心情としては幸いというべきではないのですが…)、このリンチは継続するものではなく一度限りで終わりました。
さすがにこのときの怪我で親にも学校のことがバレたのですが、親は「生きていればいいから無茶はしないで」と泣きながら言われたのは今でもとても胸に残っています。
当時の私としては彼らの言いなりになるぐらいなら死んだほうがましだと考えていましたが、親となった今ならあのときの言葉の意味が分かる気がします。
私の地域では高校の進学は、不良、就職、進学組にキレイに分かれる風習があり中学までの不良は殆どが不良の行く高校へと進学していきました。
勿論、不良の中でも就職、進学組の高校に進むものもいましたが、これまでの仲間を失ったかれらはとても大人しいものでした。
さて、私は親の教育方針もあって進学組の高校に進むことになります。
高校に入って驚いたことは、皆非常に穏やかな人間だったということです、私にとってはその光景が異常なように移りました。
これまでは、いじめなり、不良グループに目を付けられないように怯えながら暮らしていました、高校ではそれがないのです!
友達は相変わらずおりませんので、体育の授業では誰ともペアを組むことが出来なかったり、偶数でちょうどペアを組む相手はなんだか気まずそうな雰囲気を出しておりました。
(それでも露骨に嫌な顔はしませんので、悪い人間ではないのです)
学校の先生も非常に親切で、あまりにものんびり過ごしている私にも根気を持って指導してくださり、このときに親以外の大人でも信用出来る人間はいるのだなと認識を改めました。
私はこの暮らしの中で安穏と日々を過ごしてしまい、学業を疎かにしてしまったことであまり良い成績ではありませんでした。
大学の進学は希望した大学には入学出来ず滑り止めで受けた大学に入学することになります。
アルバイトは短期間のものを数ヶ月おきにこなす程度で余暇を多く持て余していました。
幸いにも住居のそばに図書館があったことから学生時代の余暇は本を読むことに費やしていました。
友達がいないとせっかくよんだ本の感想を誰に共有することも出来ずもどかしい思いを抱えますので、当時の携帯電話(いわゆるガラケー)で読書した感想などを適当なサイトにつらつらと書いてはアップロードしていました。
(当時の携帯電はが文字を打ち込むために同じ物理ボタンを数回押さなければならないのですが、文章を入力するためにボタンを押しすぎたおかげか殆のボタンにはヒビが入ったり欠けたりしていました。)
友達がおりませんので就職活動のための情報というのが自分の元には全く集まりませんから大学卒業後は就職すること叶わず派遣労働者として過ごすことになります。
この時期からようやく手元にある程度の資金が貯まるようになり念願のPCを自宅に導入することが出来るようになりました。
PCが手に入ると友達がいなくても情報を手に入れることが出来るようになったため、就職に関する様々な情報を得られるようになります。
第二新卒というものの存在を知り、卒業後すぐに就職出来なくてもまだチャンスはあるのだと知ることが出来ました。
そこからは就職に向けて情報を集め、必要な知識を得るために自習を行い、なんとか正社員として就職することに成功します。
最初の会社は就職のための対策をして臨んだため面接時のコミュニケーション能力の高さを評価されてしまいました。
本来、私は友達のいない人間なので日常のコミュニケーション能力は皆無に等しいのです。
私の本性を知った会社は私を試用期間中に能力が至らなかったということで解雇します。
非常に落ち込みはしたのですが、業務内容自体は私の適正に合っていたようで(勿論、就職活動時に自分の適正を考えて合いそうな業界を選んだというのはあるのですが)、
解雇されはするものの取引先の会社にツテを作ってもらいそこに入社することになりました。
次の会社でも業務内容自体は同じでそれをこなす能力自体は評価していただけましたが、そこから出世していくにはコミュニケーション能力が必要だと常々言われておりました。
私としては業務能力を持って勝負していきたいと考えており、せっかくのツテを作ってもらった中で申し訳無さもあるのですが次の会社に転職することを決めました。
このようなコミュニケーション能力の無い人間がツテもなく転職出来る会社は社会的にもまっとうな会社ではないのですが、それは反面、私の人間性も無視してくれるということです。
次の会社は非常に労働時間が長く、業務量が異常に多かったのですが、それを求めて入ったということもあり、この頃の私は仕事が楽しくて仕方がありませんでした。
同僚も私のように何らかの欠陥がある人間が多く所属しており、私のコミュニケーション能力というのを咎められることがなかったのも良かったと思っております。
(尤も、私のいない場所で私に対するかなりの誹謗中傷があったらしいのですが…)
業務能力や馬車馬のように働くことを評価して頂いたのか、幹部候補としての待遇を打診されました。
しかし、社会的には悪影響をあたえるような会社でしたのでその中で幹部になることに後ろめたさがあり転職することになります。
この会社で得た経験がこの次の転職に活きており、簡単に転職することが出来ました。
次の会社では私のコミュニケーションに関するコンプレックスを取り払ってくれる上司に出会います。
彼はコミュニケーションのことを「業務を遂行するために最善の状況を作るのがコミュニケーションであり、日曜日にバーベキューに行って楽しむものではない」という信条を持っており、
この考え方のお陰で、人と仲のよい距離をわざわざ作る必要などないのだいう自信を持つことが出来るようになりました。
もともと、知識を仕入れた上で自身がどのように振る舞えば効果が高いのか?というのを考えて行動するタイプでしたので、上司の言う考え方は私の考え方に非常に相性が良かったのです。
知識の仕入れや引き出しというのは大学時代に大量の読書を行ったことで下地が出来上がっていたというのもあります。
自信を持てば人生は上手く回るもので、今では自分の感性に合う伴侶を得て、子供にも恵まれ、大きなストレスもなく平均的な収入を得られる仕事に就けています。
最初の仕事を解雇されたときは人生は積んだのだろうと絶望したものですが、時代の背景や運の要素もあったかもしれませんが、何とかなるものです。
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さて、長々と書きましたが大学生活を楽しむためのコツでしたね?
私の場合は本を読むことが大学生活の楽しみでした、それは自分の人生を好転させる材料の1つにもなりました。
読書は1億円の投資などとも言われますが、本を読む、つまり知る、考える楽しさを知ることは人生を上手く過ごす方法の1つなのかもしれません。
幼稚園の頃に引っ越しがあって、全く知らない土地にきた。知り合いもいないし、親の教育方針で家の近所の保育園ではなくかなり家から離れた幼稚園にいきなり放り込まれた。元々いた幼稚園の記憶がないから前はどうだったのかわからないけど、新しい場所に全く馴染めず常に疎外感を感じていた。
小学校に上がると、遠くの幼稚園に通っていたのもあって知り合いが一人か二人しかいない状況になった。登校初日、あまりの不安から泣きながら親に行きたくないと駄々をこねたのを覚えている。
多少の疎外感と友達の殆どいない生活にもなれたころ、遊具の上から友達に突き飛ばされて骨折し、授業に参加できなくなった。
そこからというものさらに周りから避けられクラスから浮いた存在になった。それが原因だったのかいじめが始まった。
そうでなくても私は親の方針で髪型は坊主で、理屈っぽく嫌味たらしいCSで深夜アニメの再放送ばかり見ているような今考えるとどうしようもなく気持ち悪い子供だったので、いじめは必然だったかもしれない。
悪口やものを隠されるだけではなく、ありもしない噂を立てられたり、殴られたり蹴られたり投げ飛ばされたりもした。
いじめの主犯格の友達が通る階段を避けて、上級生の使う階段を早足で駆け上がる日々が続いた。
そんな日々が5年ほど続き、限界に達した先生にいじめのことを報告した。幸いなことにとても良い先生だったので一応形的にはクラスのほぼ全員から謝罪を受けた。
しかし、暴力や直接的な悪口がなくなっただけでよりクラスから浮いた存在になってしまい、あからさまに避けられるようになった。
特に女子生徒からは存在自体が悪かのように嫌がられたのを覚えている。
中学生に上がると、幸運なことに別の小学校からの生徒もいたため、いじめの過去を知らない子達とはそれなりに仲良く出来た。
しかも当時の私は携帯を持っておらず、クラスの内のカーストや政治にも殆ど関与しない立場だったため、常に空気のような扱いであった。
高校では小学校からの知り合いがいない学校に行きたいと思い、受験勉強に励んだ。
これは完全に自業自得だが、今まで宿題も碌に出さないような人間だったので勉強をし続けることや受験のプレッシャーに耐えられずあからさまにノイローゼになり情緒がおかしくなっていた。
そのせいで勉強に対するトラウマのようなものが生まれてしまった。
とにかく志望した高校には合格でき、話し相手も数名見つかったが、今までの人生で友達がいたことが殆どないため友達の作り方が分からず、連絡先もろくに交換できなかった。
そもそも話が合う人間が全くいなかったのもあるが、高校でもそんな調子で虚勢を張ってはいたものの例によってクラス内政治には全く関与せずまたもや浮いた3年間を送った。
そして今しょうもない地元の私文に進学して勉強への苦手意識を拗らせて単位をギリギリ取れるぐらいのフワフワした感じで過ごしている。
高校の時のように集団生活でもなくなったため、今は本当に友達が一人もいない。
どうすれば友達を作れるんだろうか。そして私はどこで人生を間違ったのだろうか。
とにかく暇で暇で仕方がない大学生活を楽しむためのコツを先輩方に教えてほしい。
・娘の友達を家に連れて来させて逐一観察して自分が気に入る子としか付き合う事を認めない。20歳になるまでずっと。
・毎日あった事を逐一報告させる。誰と付き合っているか何に夢中になっているかを全て把握するべく束縛する。やはり20歳になるまでずっと。
・ゲームが趣味という割に娘にゲームを一切させない。小学生くらいならゲーム機くらい誰でも持ってるだろうに買ってやらない。
(この娘の世代なら小学生の頃はまだスマホよりゲーム機の時代だったはず。持ってないと友達と遊ぶのも支障が出るんじゃないか?)
・(父親の束縛が激し過ぎる為か)娘は成人式の日に一緒に飲みに行く友達すらいないor成人式の日に娘が一緒に友達と飲みに行く事すら許さない。
・ここまで束縛されていたら娘も不満がありまくるだろうに、100点とかありもしない事を言わされている。
子供の頃からずっと毎日身の回りの事を報告させるような親だから(当然親が気に入る事しか言わないだろう)、娘もそれが身についているんだろう。
ここまで父親に気を遣う娘が怖いしまともな親子関係ではない。或いは友達が誰もいないから家族に執着するしかないのか?
・(人間同士対等な付き合いをしていたら普通は喧嘩くらいするだろうに)妻と喧嘩した事がない。つまり妻から喧嘩出来るほどの信頼も得ていない。
恐らく増田の言う通り、就業経験なし専業主婦という事で夫に逆らえない状態なんだろう。