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はてなキーワード: ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインとは

2023-08-24

anond:20230823012734

俺が少数派だということは承知しているが全男性がこうだと思われても困るので俺個人について書く。

なお俺は童貞処女20代後半、体の性も性自認も男のパンセクシャルバイに似ているが、バイセクシャルが「男と女の2性」を対象とする(バイは「2つの」の意。バイシクルとかバイアスロンとかバイナリとか。)のに対しパンセクシャルは「男女以外の性や無性も含む全て」を対象とする(パンは「全」の意。パンゲアとかパンデミックとかパノラマとか。)という違いがある。俺個人としては「文章だけを見て性を判断できないのと同じように容姿や声を観測したところで性は判断できないだろ、エロいかどうかに性が関係あるかよ」という立場だが、パンセクシャルが全員そう思っているというわけでもないんじゃないか。知らんけど。)

  1. エロいと思ってなくても勃起する
  2. エロいと思ったときに必ず勃起するわけではない
  3. 幼少時からエッチものは好き
  4. 老いてもエッチものは好き(な人が結構多いらしい)
    • たぶんそう。
  5. パンチラや胸チラ等は本能的に目で追ってしま
    • いいえ。ただ、これは先述の教育方針のおかげかもしれないし、あるいは単に俺が「隠れていれば隠れているほどエロい」派だからかもしれない。いずれにせよ、見られたくない人のほうが圧倒的多数だろうし、見えそうになったら(あるいは見えてしまったら)すかさず顔を背けるようにしている。エスカレーターでは上を見ない。そもそも俺はずっと10時方向の地面ばかり見て歩いているのでそういう事故も起きにくい。
  6. 町中の水着広告とかを見て性欲を感じることはあんまりない。
  7. 日々、女性に対して「エロいな」と感じることはあるが、顔に出さないように努めている。
    • はい。ただし誤解のないように補足しておくと、「エロい。なぜなら女性からである」と感じるわけではない。これはきっとヘテロ諸兄にとってもそうなのではないか。そして、顔にも出さないし、それ以外の態度にも出さないように努めている。これもやはりさっきの「エロいと思ったときに必ず勃起するわけではない」に繋がる。
  8. 性的魅力を感じる=セックスをしたい」わけではない
  9. 一方で、「たくさんの女性セックスしたい」という本能的な欲望も確かにある
    • それはそう。俺に関していえば女性限定でもないわけだが。
  10. 恋愛感情愛情が無くても、性的魅力を感じればセックスできる
    • かんにゃい。でも常々「セフレほしーなーーー」と思っている(行動には移さない)ので、俺はたぶんそう。
  11. 9.10とは矛盾するが、恋愛感情が無ければセックスできない、しても楽しくないという男性もたまにいる。
    • 先述した初恋の人はたぶんこっち。だから俺は何も言えなかった。
  12. 射精しない状態が続くと辛い
  13. 女性身体を見たい・触れたい」「射精したい」「セックスしたい」はそれぞれ微妙に異なった欲望である
  14. 前戯中は意外と冷静になっている。
    • 語りえないことについては、沈黙するほかない。
  15. 特定相手と何度もセックスすると「飽き」がくる?
  16. 男性にとって、性欲とは燃えるような欲望と喜びである
    • ずいぶん詩的だなあ。よくわかんにゃいけど、俺は相手からそういう欲望を向けられたら割と目がハートなっちゃう。と思う。まあその、いわゆる攻めと受け、タチとネコ、SとMってのは男にもそれ以外にもあるわけだし……俺のこういうところなのかなあ……

途中で飽きてきたのが目に見えて分かる。

2020-11-22

チキチキ、クソデカ述語チキンレース

 なんか「ないものはない」とかい深淵からやって来た命題ホッテントリに上がってたけれど、ブコメ欄で言及されていた「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」はオーストリア哲学者ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの言である。我々が想定する哲学的真理の多くについて、我々は「ある」とか「ない」とかそのほか如何なる述語も設けずに、沈黙を守るべきなのだ――というのがこの発言の主旨だと思われるが、僕は学生時代ヴィトゲンシュタイン代表著作である論理哲学論考を第四章だか第五章の論理式の辺りで投げ出してしまったので、正確な解釈がどうなっているかは分からない。もし貴方が正確な知識を求めるならば、岩波版の『論理哲学論考』を書店に探しに行こう。


 ヴィトゲンシュタインは、ケンブリッジ大学にて当時の哲学大家であるバートランド・ラッセルの元で学んだ後に、ラッセルへとこの『論考』のアイデアを書き送り、激賞を受け出版へと至りました。この『論考』の主旨は、簡単に言えば「世界は言葉でできている」といったものです。極めて凝縮された文体で書かれたこの異形のテキストは、当時の哲学界に激しい影響を与えたと言われています

 さて、「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」の一節はこの『論考』のラストを飾る言葉であり、また彼は「梯子を用いて障害を乗り越えた後は、その梯子を投げ捨てなければならない。即ち、この書物もまた投げ捨てられねばならない」とも同書において語っており、彼によれば同書によって哲学界における諸問題は「完全に解決された」とのことでした(後年、彼はこの意見を覆すことになります)。


 ヴィトゲンシュタインは極めてその人生に謎の満ちた人物で、ユダヤ系の影響を大きく受けた裕福な家系に生まれ、本人はカトリック教徒として一生を過ごしました。学業において非常に優秀な成績を収めた彼は、イギリスケンブリッジ大学に進学し、当時の学壇を占めていた哲学ほか様々な学問大家と対面し、議論思索を深めていくことになります

 彼の人物史を巡ってしばしば取り沙汰されるのは、彼が人生殆ど全てに渡り自殺への欲求に苦しんでいたというエピソードです。彼は、兄四人、そして姉三人の八人兄弟の内の末っ子として生を享けるのですが、彼の人生において四人の兄の内、四男のパウルを除く三人は自殺しています。そのため、ヴィトゲンシュタインの心には、常に死への憧憬が巣食っていたというエピソードは有名です。彼は、自分の死に場所を求めて第一次世界大戦従軍したとも言われています。その過酷戦場で、彼はトルストイ福音書解説を紐解きながら、砲声に震える塹壕の中で『論考』の原型を模索し、そして戦場の死に接する中で生への意欲を切り開いた、とも言われています


 さてタイトルの「クソデカ述語」に関してですが、いや、要するに「ない」って何なんですか? って話です。「ない」っていう述語なんなんすか、っていう話です。

 とかくこの世の中には意味のない述語というのが多数存在していて、その内の一つがこの「無」だと思うんですね。つまり、「無」っていうもの言及できないから「無」なのであって、それに対して「ないものはないですね」とか平然と言及しているダ○ソーの店員ほかその他の店員存在は一体なんなんすか? という話なのです。

 要するに、「無」なんてものは「無い」のだから本来であれば我々は「ありません」とか、「無いです」といった述語の使用基本的には控えなければならないのであり、つまり、我々は沈黙しなければならないわけです。それでも、我々が何かについて「無い」だとか、「ありはしない」とか語れるということは、本質的に我々の言語が、その意味対象との関係性に混乱を来しているからなのであって、要はこんな言葉のやりとりなんか単なるゲームのようなものに過ぎないんじゃねえか、みたいなことを考えるわけですね。クソデカ述語。

 世界は「ある」? コップはここに「無い」? もっと正確な記述方法があるはずです。空は青い? 空は青く「ある」? 「無い」について我々が多くのことを語ることができないにも関わらず、何故我々はその対義語とされている「ある」について雄弁に語ることができるのですか? もっと正確な記述方法があるはずです。正確には「コップは移動している。あるいは、コップは現在別の形状を取っている」が正解なのです。クソでけえ述語は投げ捨てろ、梯子を下ろせ。お前らはもっと沈黙しろ

 
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