はてなキーワード: 対峙とは
アイドルマスターsideM、TVアニメ化おめでとうございます。ファスライのチアリングから現場に参加するようになり、セカライLVで発表の瞬間に立ち会ったのがついこの前のようだ。正直アニメ来年の冬だと思ってたよ。それどころか本家の他にもう一つゲームがリリースされるなんてびっくりだ。セカライでのガミPの挨拶を思い出しつつ先行上映会行ってきました。(エントリー投稿は関西圏でのTVでの放送終了を目処にしてます。)
sideMからこのアイマスの世界に触れて、ほかはデレステをゆるゆるやってるくらいのまったりしてる身なので、正直765のアイドルの子たちを殆ど全く知らなかった。(さすがに天海春香の名前は知ってたが)それでも皆が可愛くてかっこよくて、映画始まってすぐに、キラキラした春香さんたちに惹かれた。(数日前にやっていた一挙放送を一部見ていたので、「頑張ります!」って言葉を聞くと卯月ちゃんを思い出して心配で胃がちょっと痛かったし、雨で濡れた窓ガラスが春香さんの涙の代わりとなって流れるあのシーンにだいぶやられた。見事な演出だったが彼女らの事を思うと思わず変な声が出そうだった。当時劇場で見た先輩Pたちの心境は想像を絶する)
こんなに頑張ってる765の子たちの前にライバルとして現れた男性アイドル。そりゃあ、なかなか受け入れてもらえないだろう。当時のことは調べて出て来るページを読むことしか出来ないが、良くは思われないだろうな、とは想像がつく。だけど、Jupiterを諦めないでいてくれた関係者の方、そして先輩Pたちのおかげで今に繋がった。Jupiterがいなければ315プロダクションのアイドル達はきっと日の目を見ないままだっただろう。大好きな担当と出会えたのも、7年前から今へと繋いでくれた人がいるから。だから彼らは特別だ、と、個人的には思っている。
そんな3人の移籍までを描く、ということもあって、「輝きの向こう側へ」に感動し泣きながらエンドロールを眺める傍ら、緊張で喉も乾いていた。しんどい。アイドルしんどい。でもカッコイイ。
そして始まった「Episode of Jupiter」。40分とは思えない密度に制作陣の本気を感じた出来の良さだった。運良く2回先行上映に行けた中で、冬馬と「おとな」たちについて(記憶のある範囲で)書いておきたい。
※以下ネタバレ含む
1)冬馬と北斗
…Jupiterの3人は翔太(14)、冬馬(17)、北斗(20)と3つずつ歳が離れているので、必然的に冬馬は「こども」(翔太)と「おとな」(北斗)の真ん中になる。Jupiterのリーダーとして二人を率いる姿は非常に格好良くて頼もしいが、まだ出来ない事もある。懲りずにやってくるスカウトマン達の対応や事務関係の窓口は北斗が主に請け負っていたが、冬馬の表情はそれを良しとしていないのがありありと伝わってきていた。
業界大手の事務所で結果を出していたJupiterは、恐らく結構な収入があった筈で、インディーズになっても資金の方では困っていなかったのでは、と思っている。何故なら彼らは「お金に困って」活動をしていたのではなく、「自分たちを応援してくれるファンのために」動いていたから。「年齢」がネックになって思うように動けない冬馬は、「3人の中で俺が一番年上だからね」と、なんでもないことのように(そしてスマートに)面倒な仕事を引き受ける北斗に対して、恐らく多少なりとも申し訳無さを感じていただろう。「出来ることならなんでもやるから言ってくれよ」と、やや切羽詰ったような表情と声音の冬馬からは、自分たち3人の誰か一人が重荷を背負う事になるのを絶対に良しとしない、リーダーとしての意地も感じられた。
(ところでこの3って木星の環にかけてるのかな。黒ちゃん結構ロマンチスト…)
…この項目は個人的な推測を多く含むので、過去アイマス2を筆頭にゲームをプレイし、今までの刊行物を網羅している先輩Pからすれば間違っている箇所もあるかと思う。どうぞお手柔らかにお願いしたい。という前書きは置いといて。
アニメの黒井社長はやり過ぎだったけど他媒体ではあそこまでひどくないんだよ、と幾つか話を聞いたのと、コミカライズにて「天ヶ瀬冬馬は頂点に立つ価値がある」と父親を説得したらしいことなどを踏まえての話。先に離反シーンを見てしまっていたのでどうにも悪い人の印象が拭えないが、エムステで冬馬をデスクにした際のセリフや、そもそも3人が961でJupiterとして活躍している時でもあまり天狗になっていなかった辺り(※ドラマCD聞いた)、根っからの極悪人ではないのか?と。媒体によって「悪人」度合いに結構な差があるそうなので一概には言えないが、父親と離れて暮らす冬馬にとっては、「親代わり」とまではいかなくても、「認めてほしい大人」のひとりだったのではないだろうか。だから裏工作の件も、単純に許せなかったのは勿論のこと、「そんな事をしなくても自分たちは実力をつけてきた(し、それを認めてくれ)」という気持ちもあったんじゃないかな、と思う。実際、自分が見つけてきたアイドルの原石を何が何でもトップに、というのは、マネージメントする側としては間違ってるとは思わないので(手段がダメだが)。
ただ、自分の事を見つけてくれた人間と決別しなければいけないというのは、やはり何かしら精神的に傷が残ってもおかしくないんだな。ということで次。
…961を辞めてからJupiterは1年(!)もインディーズ活動をしていた事が物語冒頭で明かされる。ライブに協力してくれたスタッフたちを労うシーンのすぐ後、充実感・達成感をぶち壊すように現れるスカウトマン達の群れ、一方的に告げられる待遇や金銭の話。
正直、劇中でスカウトマン達をあしらうシーンが見ていて一番辛かった。なるべく荒立てないように言葉を選んでいる北斗と、そんな事など気にも留めないまま話を進めてくる人々。「一線」を越えてしまった後、何の合図もなしに現れて無邪気な笑顔のまま拒否を示す翔太、そしてダメ押しで追い返す冬馬。この1年、数え切れないくらいこんな場面があったのだろう。3人でJupiterを守ってきたのだろうなと思わせる、熟れてしまった連携プレイ。…胃が痛い。
冬馬の周りにいる有象無象の「おとな」は綺麗に二分されている。自分たちを食い物にしようとする汚い「おとな」と、協力してくれる「おとな」。Jupiterのリーダーとして、きたない「おとな」には真っ向から対峙する事で対処できるが、個人的には、協力してくれる「おとな」に対しても、どこか申し訳無さはあったように思う。というのも、味方になってくれるスタッフたちが「格安で」仕事を引き受けてくれているのだと翔太との会話で出た時、冬馬の表情はあまり明るくなかった。間違っても「安く済んでラッキー」とは思っていない。
思うに、961時代に良い環境でアイドル活動をしていたのだから、スタッフの質と、もしかすると「見合った賃金」くらいは分かるようになってたのではないだろうか。いい仕事をする人間には相応に対価を支払うべきである、と、学んでいたのではないだろうか。それを「Jupiterのファンだから」との一言で気前良く引き受けてもらっている現状は、金銭よりも「パフォーマンス」と「信頼」が勝っている関係だ。ただ「プロ」である以上、満足はしていなかったと思う。(勿論、翔太と北斗も)
以上の事に加えて、冬馬は一人暮らしである。母親とは死別し、父親は四国に単身赴任中。当然、家に帰っても誰もいない。これは相当キツかったんじゃなかろうか。甘えられる人が傍に居なかったのだから。
…齋藤社長の登場から、3人は一気に表情の幅が増える。絵に描いたような神出鬼没っぷりと、ゲームで知っていた以上にパワフルさ溢れる社長に北斗でさえもたじたじだ。しかし社長は他のスカウトマン達と異なり一切金や待遇の話をしない。それどころかライブ準備を手伝い、3人の仕事現場へも顔を出す。「Jupiter」のネームバリューと生み出すお金に惹かれた有象無象のスカウトマン達とは異なり、きちんと仕事内容を見た上でスカウトを続けた。
(余談。いつもシルエットの社長だけれど、そういえばこのポロシャツどこかで見たな…?と思ったら、本家のスーパーライブ・フェス2015の雑誌で出てた。気づかなかった…)
最初こそ戸惑っていた冬馬も、社長が他とは違うことを感じて真摯に向き合う。「あんたは悪い人じゃない」。それでも冬馬はどこにも所属しないのだと告げる。
単なる意固地ではない。リーダーとしての責任やファンへの思い、これからの活動など沢山の要素が絡み合っている中で、また誰かを「信じる」ことが怖かった筈だ。3人が互いを支え合うことで表面化していなかったけれど、傷ついていなかったはずがない。
社長がそこまで見抜いた上でスカウトを続けていた事に驚いた人、多かったのではなかろうか。そして、その後の315Pにも。
今回のチアリング上映で、何故「輝きの向こう側へ」と同時だったのか。勿論あのシーンがメインだと思うが、この場面でも大いに意味があったと思う。劇マスがアイドル達の「ただいま」から始まり、最後また日本に戻ってきたバネPに対して「おかえり」と出迎える所で終わる。対してライブハウスで活動を続ける冬馬たちは、時間がきたら場を去らなければならない。いくら「いつも使わせてもらってるライブハウス」であっても、そこは拠点にならない。改めて自分たちの現状を確認した上で、帰る場所のない事は重く響いていただろう。
だけど、そこに315Pがやってきた。それも遅い時間、全速力で息を切らして。齋藤社長と315Pだけは、Jupiterをスカウトする上で「誠意」「誠実さ」を忘れなかった。この7年、Jupiterを信じて待ち続けた「こちら側」のプロデューサー達を劇中に投影させるなら、これほどぴったりな性格はないだろう。
Jupiterのために扉をあけたシーンがあったのは、315Pただ1人だ。
…物語の終盤、渋滞に巻き込まれた為315Pの到着が遅くなることを聞かされた冬馬が「しゃーねーな」と言う横で、翔太が彼をからかうシーンがある。
「冬馬くん、ほんとあの人のこと好きだよね」
「! お、お前だって妙に懐いてんじゃねーか」
「うん、あの人いいよね」
素直に好きだと言う翔太に対して、冬馬は指摘された時に顔を真っ赤にしている。けどその前に、Pの姿が見えない、と、3人で事務所内をキョロキョロと見渡す箇所がある。たぶん、この前日譚で3人が自分たち以外を探したのはここが初めてだ。探す相手ができたこと、帰ってくる事務所ができたこと。
信頼できる「おとな」と出会った彼らの物語は、ここからまた始まる。
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961時代、王者でなければ生きている価値がない、と教えられてきた冬馬は、315プロダクションに移り、そしてソロで「HAPPY×HAPPYミーティング」を歌った。「meet」(知らない人と出会う)も「meeting」(会議・集会・大会)も1人では出来ないことだ。「向き合ったみんな」が手にする輝くサイリウムに導かれるまま、冬馬は、Jupiterは、そして315プロダクションは、未来へと進んでいく。
いつの頃からか分からないけれど、物語(特に異世界転生系)の中でスキルという概念が確立されてきた。最大公約的に説明すると、スキルというのはその世界に存在する剣技とか魔法とか料理の腕前とか、なんらかの特別な能力のことだ。そして重要な特徴として、
というものがある。例えばスキル 絶対結界であれば、このスキルを持つ相手と対峙したキャラクタは「ふむ、"絶対結界"か。これはちとやっかいじゃ」なんて相手を評価したりする。
どうにも、このパッケージングされた能力としてのスキルが物語中に出てくると、キャラクタにリアルを感じない。キャラクタがそのスキルを使える理由が納得できない。
逆に、ちゃんと一般人キャラクタが魔法を使える理由があるのはいい。例をあげると、マンガ図書館Zで読むことができる「轟世剣ダイ・ソード」(http://www.mangaz.com/book/detail/74251)は普通の学校が、校舎もろとも剣と魔法のファンタジー世界に転移してしまう物語だ。この中で、魔法は、才能があるもののみ使える精神力のようなもので、主人公を含む何人かの生徒が使い手になる。注目して欲しいのは主人公が魔法を使えるようにある理由だ。もともと主人公は超強いトランスフォーマみたいなロボットの搭乗者に選ばれていて、魔法の才能もあるはずだと周りから思われていた。しかしそれに反してなかなか魔法を使うことができなかった。そして、物語も佳境に入ってきた時このセリフがあった。
「会長・・・ぼくはゆうべ夢を見ました 元の世界で普通に学校に通っている夢・・・ぼくが魔力を使えないのはどこかでそれを使いたがっていないから 怖がっているから それがあまりに強大であったから 自分が望まないのに与えられた力だったから どこかでダイソードと自分を区別したがっているからです 魔力を自分のものだと認めてしまったら 自分が自分でなくなりそうな気がして」
このセリフを読んだ時、この魔法は主人公だから使えるようになったんだと深く納得できた。ただの中学生だった主人公が、異世界で冒険して、命をかけて戦って、誰かを守って、だから力を使えるようになったんだと。翻って、このようにキャラクタとその特殊能力が密接に結びつくことには全く問題を感じず、すんなりと納得することができるのだけど、特殊能力がパッケージングされたスキルとしてキャラクタから分離され、単なる普遍的なキャラクタパラメタとなってしまうとどうにも無味無臭に思えてしまう。スキルがあるから強いとかって書かれると、絵の才能がある人だって、絵の練習しないと安定していい絵はかけないだろうって思う。もっと言ってしまえば、スキルシステムがある時点で、どうにもゲームみたいに、定義されきった世界に思えてしまうのだ。誰がスキルシステムを用意して、スキルを確認できるような仕組みを作って、新しいスキルとかを管理しているんだよと。デザイナでもいるのかって思う。
設定に共通点があると言われた「美しい星」も、東出昌大関連で「寄生獣」も事前鑑賞済み。
話は打って変わるが今作鑑賞後からテレビでお馴染みのCMが気になって仕方ない。
それがこれだ。
「ここで、一緒に」もしも篇
もうどれをとっても僕には宇宙人に体を乗っ取られた夫婦にしか見えない。
服を見立てる冒頭のシーンや不器用にゴルフクラブをスウィングするシーンは人間らしい振る舞いに苦戦する2人を表している。
同窓会の受付でハイタッチしてくる女性は彼女のぎこちない表情から言い様のない違和を感じたことだろう。
旧友と談笑しているように見えてもその実、誰を仲間の宿主にするか品定めをしているだけであって目は笑っていない。
多分すでに何人かは乗っ取られている。
二次会の舞台であるカラオケボックスがあのあと地獄絵図になったことは想像に難くない。
おそらく夫婦は各々違う星人に乗っ取られている。
そして互いに正体がバレてないと思っている。
僕が思うに夫が妻の動向を監視しているんだと思う。
書店ですれ違う黄色いカーディガンの女性や髭を剃ってあげていた理髪師は、夫と同じ星人で経過報告をしたり指示を仰いだりしていたのだろう。
カウンターを挟んで向かい合うのは「我々と対峙する決して相容れない存在」というメタファーなのだ。
スナックのママはふとした瞬間に彼が宇宙人であることに気がついてしまった。
そのためシガレットケース型記憶改竄機で脳内を操作されたに違いない。
そして夫は妻の監視以外に、マスメディアを通し人間を徐々に洗脳するという任務を担っている。
そのために広告代理店に勤め、あるプロジェクトを遂行しているのだ。
全ては順調に思えた。しかしある日妻が奇妙なことを問いかける。
「生まれ変わってもまた一緒にいるのかなぁ?」
へ?どういうことだ?何が言いたい?
夫は「難しいね」と笑って動揺を誤魔化そうとするが妻は追い打ちをかけてくる。
夫は半ば諦めたように「来世は犬になるかもしれないな」と言うが、観客にその意図はわからない。ここは原作者も明言は控えている部分。
とにかくこの応酬があってから妻に対する夫の監視は厳しくなり、とうとう監視区域から外れているスーパーにまで妻を追跡する。
「その次はわかんねえよ」
単に自分の心との調和が取れず、メンヘルになっているだけ。桜並木を散歩でもしながら自分の心と対峙してみるといい。勝つ必要なんて無い事が良く分かるから。そもそもマトモな人はネットで活動なんてしないしね。
「争いは、相互理解をしようと試みた上でぶつかり続けている」のではないか、と。
お互いに理解したい。でも、自分の主張が合っているということも認めて欲しい。むしろ自分があっているのだ!
これでは地球が滅亡するまで永遠に平行線だろう。とはいえ、片方が曲がるのも良くない。
地球のように綺麗な円を描かないといけないのだ。
なので、私は「意見を投げる」のはやめた。もうラリーをするのは疲れてきた。
昔のことを思い出した。
「ブチぃぃぃ!!!!!」
ものすごい音とともに、ショウタはそれを引き裂いた。
とにかく僕はそれが怖かった。ショウタはGreenDayのビリー・ジョー・アームストロングのような見た目の男だ。同級生とはつるまず、一匹狼を貫いている感じだった。それでいて、運動神経がよくて、普通にしていればリンダマン的な存在になれたかもしれないが、しょっちゅうキレていたので近寄りがたかった。
その日も何が原因かはわからないが、ムシャクシャしていたようだ。
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ただ間違いなく言えるのは、今ならショウタを一撃で黙らせることができるということだ。ショウタが引き裂いたのは「輪ゴム」。輪ゴムを目一杯のばしたらブチンって切れるのは彼の行動を見て知った。
今思えば、クソださいヤツだ。
ビリー・ジョー・アームストロングのような見た目というのもひょっとすると美化されているのかもしれない。顔が濃い印象があるので、実物はきっとタケちゃんマンのような感じかもしれない。
今、もし目の前で当時のヤツがキレていたら、確実にあいつを黙らせることができる。
僕は今、36歳。
というかひょっとするとショウタはキレていたのではなく、輪ゴムをただ切っていただけなのかもしれない。もしかしたらたいしたやつじゃなかったのかもしれない。あの頃の記憶がねじ曲がっている可能性がある。記憶とはねじ曲がるものだ。小学校の時に死ぬほどかわいいと思っていたあの子を高校生になって見たら意外とブスだったりしたものだ。
でも当時の自分にとって、輪ゴムを目一杯のばして切るという行為はかなり衝撃的だったのだろう。30年経った今でも心に刻まれているのだから。
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父がガムを噛んでいたので、「ちょうだい」と言ったら、
「噛んでいるフリしてるだけ」と言われた。
口の中には何も入っていなかった。たしかにガムを持っている様子はまったくなかった。
よく考えたら当時の父の年齢は今の僕の年齢とほぼ同じ。
残念ながら、無職の自分にはそんなことを言う権利はまったくない。
自分にはなんの権利もない、そう言い聞かせながら毎日を慎ましく生きている。
朝起きて、ネットニュースを見て、ドラクエ11やって、DMMの見放題(R18)を見て、Youtube見て、ドラクエ11やって、寝る。
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こいつはたしかにすごいけど、こいつが幼稚園児で自分が今の36歳の状態で対峙したらきっと負けない、そう思うことで心を落ち着かせている。
そう言われても仕方がないと心の中ではわかっている。
わかっているという理性があるから、サイコ野郎ではないことも知っている。
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高校球児が自分の年齢の半分もいっていないことに気づいてショックを受ける。
あの頃好きだったAV女優の年齢をとっくに超えていたことにふと気づく。
40歳はかなりババアだと思っていたのに、今は恋愛対象である。
『今夜はブギー・バック』が発売されてとっくに20年以上経っていたことに驚く。
父親はスター・ウォーズの続きを知らないまま死んだということに気づく。
時間は止まってくれない。
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声だけでしか確認していないので、ひょっとすると幼稚園児じゃないかもしれないけど。
僕が僕であるために、戦い続ける。たとえ勝てなくても。
その1
https://anond.hatelabo.jp/20170801120514
その2
https://anond.hatelabo.jp/20170801153106
その3
人間全てが人間らしく暮らせる、救われるべきであるという近代社会の前提がフィクションだからだ。
この前提は共産主義陣営と対峙した自由主義陣営が作り出した、苦肉の策でしかない。
そもそもが、現代日本の生活保護やワープアの生活が、中世の人間から見れば中流以上の生活だ。
衣食住が極端な例外を除き一応保証され、医療機関は誰でも受診出来る、テレビやネットなどの娯楽があり、外を歩いても殴られたり罵声を浴びせられる事はほぼ無い。
中世の最底辺は生存すら危うかった。現代でも中東やアフリカでその片鱗を見る事が出来る。
中世の最底辺を現代に連れてきて生活保護を与えれば、涙を流して喜ぶだろう。
少し前までは、日本の生活保護を受けるためにブローカーに金を払って手配してもらう貧困層が存在していた。(今も少し居る)
今はアジア各国が成長しているので、出稼ぎも生活保護目当ても随分減った。
日本の生活保護水準が極端に落ちた訳でも無いのに、各国が豊かになった事でそうなったのだ。
人の知恵と努力は確実に進歩してきた。昔は有った大規模な飢饉も現代ではほぼ駆逐された。
着るものや住む所も、戦争さえ無ければほぼ確保されるようになった。
しかし、最低ラインと平均が上昇しても格差が解消される事はない。
人には能力や出自や出身地に差が有る。その差を埋める事は現実的に不可能。
共産主義的に子供は国の子とやれば出来るかもしれないが、それでも能力の差は埋めがたい。
人間は社会的な生き物なので、他人との比較の中でしか生きられない。
メシが食えない人と食える人が居れば、食える側は優越感を持ち食えない側は劣等感を感じる。
衣食住が満ちても娯楽や持ち物一つで優劣を感じる。それが人間です。
どれだけ生活が改善されても、自分の社会的立場を気にする生き物、それが人間です。
ここで格差の根拠としてよく挙げられる相対的貧困率について見てみよう。
ある国や地域の大多数よりも貧しい相対的貧困者の全人口に占める比率。→絶対的貧困率 →貧困率
[補説]OECD(経済協力開発機構)では、等価可処分所得(世帯の可処分所得を世帯人数の平方根で割って算出)が全人口の中央値の半分未満の世帯員を相対的貧困者としている。相対的貧困率は、単純な購買力よりも国内の所得格差に注目する指標であるため、日本など比較的豊かな先進国でも高い割合が示される。平成24年(2012)の日本の貧困線は122万円、相対的貧困率は16.1パーセント(平成25年国民生活基礎調査より)。
一定以上(最低レベルと言っても良い)の知性が有ればわかるだろうが、この定義だと永遠に貧困は無くならない。
平均が上がれば中央値も上がる。中央値が上がれば貧困線も上がる。
どうやっても解決出来ないのだ。多少の緩和は出来るが、解消しようとすれば収入にキャップかけて超えた分は全部取り上げないと無理。
そして、貧困線122万円を12ヶ月で割ると10万少々だが、この収入を得て満足な人居ますか?
少なくとも現在の雇用状況だと、週5日働ける健常者なら簡単に稼ぎ出せる金額のはずです。(750円×8時間×22日で13.2万、チョイ残業で15万超え)
貧困線にかかるのは国民年金もらってる老人と、何らかの事情でフルタイム働けない人だけです。
そして制度上、貧困線にかかってる人は生活保護の受給資格があります。(門前払いや申請自体しない無知な人は居ますが)
政治に出来る事は限られている。
衣食住を保証した上で、有効求人倍率を1以上に保ち、意欲とある程度の能力が有る者に無償で教育するくらいしかない。
それでも浮き上がれない者は、残念ながら救いようが無いのだ。政治には全体を持ち上げる力は有っても、個人を持ち上げる力は無い。
そしてキモくて金の無いオバサン、オッサンにとってはとても残念なお知らせだが、日本では上記が達成されつつ有る。
貧困線に引っかかれば生活保護が貰える、職安では職業訓練のメニューが豊富に有り、無償で受けられる学問やカルチャースクールにも事欠かない。
キモオバ、キモオジの最後の砦である「社会が悪い、政治が悪い、世の中が悪い」は、実は的外れ。単純にあなたに能力が無く、現代社会であなたに価値が無いのだ。
冒頭で、人間全てが人間らしく暮らせる、救われるべきであるという近代社会の前提はフィクションと述べた。
しかし努力してきた先人により、そのフィクションが現実になりつつ有る。
するとまぁ、皆さんは様々な言い訳を考える訳です。努力できるのも才能とかね。
昔は賢くても家の事情で進学を諦めざるを得ない人が「かわいそうな人」だった。
今では努力出来ない人が「かわいそうな人」扱いですよ。要するに、努力出来るレベルの人は救い終わったのです。
キモくて金の無いオバサン、オジサンは、人類の進歩が生み出した徒花なのでしょうかね。
昔は道端で野垂れ死にしてた存在が、多少は注目されるようになったのですから。
恐らくキモくて金の無いオバサン、オジサンは、ご自身で問題を解決する能力は皆無でしょう。
今しばらく人類の進歩を待って、他人が解決してくれるのを待つくらいしか方法は無いと思います。
幸いな事に、日本人なら生存はほぼ保証されています。生き延びるだけなら余程の不運か寿命でもなければ大丈夫でしょう。
https://anond.hatelabo.jp/20170729142613
追記
キモくて金の無い人を象徴するブコメがついたのでご紹介したい。
この人は週に何度も透析を受ける患者と、キモくて金の無い人を同一視してるんだなと。
もう少し踏み込めば、キモくて金の無い自分を、透析を受けて命をつないでいる患者と同じくらい社会が面倒見ろと言ってるわけですよ。
キモくて金のない人を救うのは福祉の問題とおっしゃっていますが、本気でバカじゃないのかなと思います。
福祉というのは、親が居ない子供とか、育児と仕事を一人で両立しないと暮らせない母子or父子家庭や、様々な疾患や障害を持つ方々や働けない老人の命を繋ぐモノですよ。
同胞の命は出来るだけ守るというのは、近代以前から続いてきた人間の不文律です。それとキモい上に無能で社会の役に建てず金も持ってない人に対する施策を同一視するなんて、頭がイっちゃってるとしか思えません。
その考え方がキモいんですよね。生まれつきキモいのではなく、それなりに長い人生で培ってきた考え方がキモいのです。
まぁそれでも、賢くて優しい多数の人によって、職業訓練中の給付だの、無料の学ぶ場だのが着々と整備されてるわけですよ。
それらを活かす事もせず、自助努力するほどの頭も無い人をですね、一般人程度にまで引き上げるのは無理ですわ。
西成ドヤに住んでるオッサンオバサンをまっとうな社会人にするくらいの無理ゲーですわ。
他人が自分を助けて当然みたいな思考、一般人は3歳で卒業するんですよ。
中身3歳児のまま40になってしかもキモくて金が無くて役に立たない人を誰が助けようと思いますかね?
どうやったら自分が大切にされるべき存在だと思えるのか、頭の中を覗いてみたいです。
まぁそれでも世の中の賢くて優しい人は、君みたいなキモくて金の無い人も助けようと頑張ってるよ。
自分ではどうにか出来ないだろうから、他人がなんとかしてくれるまで生存する事に注力しとけ。
自尊心のみチョモランマのように高く、能力が一切追いついていないご様子が伺えて、持論を後押しして頂いている気持ちです。
キモいのは運動して引き締めれば女性でも5割以上、男性は9割以上解決します
ダイエットはアンダーカロリーを保って運動すれば誰でも痩せますので、能力や出自は一切関係ありません。やるかやらないかのみです。
でもキモくて金の無い人はやらんのですよ。キモくて金の無い自分に対する愛はチョモランマでも、目の前の簡単な砂山すら登ろうとはしない。
ブコメやトラバで暴れるヒマが有るなら、スクワット100回くらいしとけ。休みながらなら誰でも出来るだろ。でもキモくて金の無い人はやらんのだろうけどね。
どうやらE氏は違法な職務質問に対しての疑義が話題になってるようです
これは職務質問という行政警察活動に構造的な問題があるからなのでしょう
しかし戦う相手が違うのではないでしょうかとご本人にお伝えしたい
もし職務質問を拒否できないことを問題にするのであれば、戦うべき相手は現場に出ている警官ではなくて職務質問のシステムやガイドラインを定めている法律や警察組織なのではないでしょうか
警察官はいわば決められた業務をこなすだけの権力における一兵卒です
もちろん業務のルールに反することをする者もいるでしょうが、それは個人の資質の問題であって警察の法律の濫用や権力の横暴ではありません
私には行政警察活動の構造的な問題を念頭に置きながら、いち警察官を相手にすことに違和感を覚えます
例えるならば、大型ファーストフード店における商品への異物混入を現場に出ているいち店員の責任として訴えるような不公平さがあるのではと思うのです
職務質問を取り巻く法律の乱用権力の横暴の改善を願うのであれば、権力の中の一兵卒ではなく権力そのものと対峙するというのが正しい姿勢なのではないでしょうか?
皆さんはどう思われますか?
西日本の普通の住宅地に住んでるけど、今年のGの数は相当やばい。例年の3,4倍はいると思う。気候の影響なんだろうか。そもそもほかの県でも同じなのか?
うちは都市部まで電車で25分くらいの場所で、そんなに山も近くない。
例年なら夜中にキッチンに行くと、週1で1匹に遭遇するぐらいのペースだった。猫も時々捕獲してくれていた(内心複雑だけど)。
しかし今年は1週間ほど前から毎日数匹に遭遇している。多い日は4匹もいた。しかも夜中に近所の道路上でも発見した。それも複数。
何より夜中に孤独なキッチンで奴らと対峙しなきゃいけない時の心細さといったらない。
遭遇した奴には食器用洗剤で応戦してるけど間に合わないし、幼体らしきものも見たので、急いでブラックキャップとホイホイを買い足してきた。これがしっかり効いてくれるといいなあ。
多様性ということについてみなさんも昨今様々に課題と向き合っておられるだろうとおもいます。
そして寛容ということの難しさ(自分の対峙する課題を口にすることすら難しいこともあるでしょう)を痛感することとなった方が少なからずいらっしゃるのではと想像します。
就業中に役場の公務端末でパチスロや世間話や幼い女の子の動画に魅入ることを抑制することのできない男性同僚と、同じ職・地域・隣家で任務の遂行がどのように可能なのか(私の主な任務は赴任地域が安心安全で魅力的な育児環境を有していることを広報することによって地域の次世代問題に対処すること)。予想しなかった(この事が課題であると感じる私の感性を過敏であると受取る方のあることを認識することも含め様々な) 事態に私なりに(本来任務に邁進する傍らではありましたが)全霊で取り組んだのですけれど進捗が遅々とする中で年度末が迫りました。行政の納得のいく対応あるいは私の赴任地の変更がなければ公務を続けることはできないというのが私の考えでしたが、3月も終える間際までその方向性は見えてきませんでした(対応が形になるまでの報酬を頂かない休職も提案しましたが、かないませんでした)。対応の中で私の契約形態である特別職非常勤の公務員は一般労働者としても公務員としても法的な枠組みから外れていて職場での公的な仲裁の支援を受けることが出来ないこと─それは公務員の守秘義務等を記した公務員法の枠外であることでもあります─を知ることにもなりました) 。
私は新たな一年を真剣に公務に邁進する決意表明としての首長からの辞令の受領を行いませんでした。
この決断は公務に就くものとして(昨年8月不退転の決意で職に臨んだのではありましたが私の決意などそれほどの重力を備えてはいなかったことになります。私の職務の予算は特別地方交付税の対象でしたので全国のみなさんの税金から報奨を頂く身でもありました) 、また地域で接してくだすっていたみなさんへの私なりの誠意の示し方でもありましたが、 その結果現在私は公の職になく、よくして頂いた地域からも既に離れ(住居も職務とセットでした)数ヶ月が経っています。
私はこの課題を解決したり正しく問題提起したり寛容する度量を持ち合わせていませんでしたし、現在に至ってもわかりません。
いま、私は新たな場所で、より私らしさに眼差した小さな生活を始めています。
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S25/S25HO261.html
■総 行 公 第59 号 平成26年7月4日
うちの長女(5歳 幼稚園年長)が「将棋を好きになっちゃったー!」とのたまっている。数日前に児童館で中学生にちょっと教えてもらったのがきっかけだ。
横で対局の様子を見ていたが、長女に将棋はまだ早い様だった。
小さい子供は基本的に相手の身になって考えるとか相手の思考を先読みするという事が出来ず、それが出来る様になって来るのは5歳くらいかららしいんだけれど、長女はまだその域に達していないっぽい。
自分が指せば相手も反撃してくる、という事がわからないので、自分の歩と相手の歩が対峙してても取ろうとしない。
そんな感じなので、指せる大人がみていると滅茶苦茶もどかしいことこの上ない状態なのだが、相手をしてくれた中学生が辛抱強くて優しい子だったので、怒ったり急かしたりしないもんだから、長女はなんか楽しかったみたいだ。
長女はすっかり将棋に魅了されており、昨日テレビに藤井聡太君の特番のCMが映る度にはしゃいでいた。
実は私も長女と同じ年頃に父から将棋を教わったのだが、その頃の私には早すぎだったし、父も、私に将棋をやって欲しいとは思っておらず、ただ私の弟に将棋を覚えて欲しくて私をサンドバッグ役に仕立て上げただけだった。
当然だが私は将棋が大嫌いになった。
いくら本人が興味を持ったとしても、与えるのが早すぎれば簡単に挫折するし、教える大人の気質や思惑によっては子供に大層な悪影響を与える、というのを私は身をもってしっている。
長女の将棋への興味には、今は知らんぷりしておいた方が良いのだろうか?
でも、折角だから子の好きなものは伸ばしてやりたい、好きなだけやらせてあげたいという気持ちもある。
だが私自身が長女を潰す原因になるのが怖い。私が直接手を下さずとも、私が長女を将棋教室などに行かせたせいで将棋を嫌いになったら?と考えてしまう。
じっさい、習い事なんて一部の天才の為にあるようなものでありあとの生徒はただの授業料搾取要員だ。よほど何か閃く物を持っていなければマトモに扱われないものである。
……と考えて、長女に将棋を教えるのをやめる、というのも長女を潰す事になるのでは、なんてぐるぐると悩んでしまった。
ちなみに、私は将棋のやら何やらで色々と父から口出しされるのが嫌になったので、大人になってから父が何故か絶対手を出さない囲碁を、自力で覚えて楽しんでいる。たぶん一生涯の趣味になる事だろう。
【追記】
https://anond.hatelabo.jp/20170624075344
「頭の悪いボンクラ」なんてひどい!と思ったけど、まあそう言われてみればそうだし、役に立つかどうかや得るものがあるかどうかというよりも、やりたいかどうか、好きかどうかが大切だろうね。
やりたいっていうんだからやらせてみればいいか、と思って取り敢えず娘を図書館に連れて行った。娘は子供向け入門書を自分で選んでニコニコしていた。
私用にも少し詳しい目の本を借りた。あとスマホにアプリもインストールしてみた。将棋盤と駒のセットも買う。
入門書をパラパラ見てみたが、詰ませ方とか守り方の図を見て、こんな複雑な事を父がやってるの見たことないな、と驚いた。ただ駒をぶつけあって飛車角をぶんぶん動かし玉を逃げまどわせるだけが私の知っている将棋だったが。
入門書を読むだけで父への逆襲が果たせそうだ。
あと詰将棋おもしろいwwwwww囲碁で頭が疲れた時に気分転換にやろう。
ずっと毛嫌いして避けていたけれど、気が少し軽くなった。
お互いがほとんど初めての恋人で、高校・大学にかけて4年間付き合った。
貯金も仕事も車もない学生時代にたくさんの思い出を作ったかけがえのない人だったし、
大学で下宿を始めてからはすっかりヒモになって精神的にも経済的にも消耗させられたどうしようもない人だった。
どちらも本当のことで、彼と付き合った事実は「良い思い出」であり「時間とお金の無駄」だった。
彼とは最後の1ヶ月間で急速に(?)連絡がつかなくなり、1度も顔を合わせない日がどんどん増えて、
それでも無理に誘い出して一緒に出かけても露骨につまんなそうで帰りがけに自分の趣味の場へ足早に直行され、
前までなら自然に一緒に過ごしていた場面で私のことを避けていると確信した日があり、
別れたいという気持ちを伝える労力すら惜しまれていると悟ったので私から話を切り出したら、
「好きなことをしている時間が長くなって、もうあなたに興味がなくなった」と言われ、別れに至った。
私は趣味と同じ秤にかけられて切り捨てられたのか、と悲しくて仕方なかったけど、
引き止めても無駄なことは明白だったので「わかりました」の一言で縁を切った。それきりだった。
彼が新しい恋人から逆プロポーズを受け、入籍を控えていると共通の友人から聞いたときは「なんで?」と思ってしまった。
なんで結婚しようと思えたんだろう?
その恋人のことが心配だった。そいつ、あなたに対しては一生誠実でいてくれるんですか?いきなり興味を失って離婚を切り出してきませんか?
生活能力皆無だったし、他人の家に入り浸るくせに実家同然の暮らしを求めて憚らなかったけど、一緒に家庭を運営してくれそうなんですか?
たとえば両親の介護が必要になったときも、協力して取り組んでくれるんですか?
私は幸い、彼と別れてからそう経たないうちに、とても信頼できる相手に出会えたから結婚したけど、結婚生活は「面白くも素敵でもない時間」との対峙の方が圧倒的に長い。そういう時間を一緒に過ごせるかどうかの方がきっと大切で、「好きなことをしている時間」ばかり優先していたら立ち行かないのだ。
たかだか数年でそんな生活を選択できるようになるほど人格が変わるものなのか?
無関心になりきれない。
だって私は知っているのだ。彼の死ぬほど嫌な部分を。彼にされたことを覚えている。
彼の周囲の人間がどれだけ彼の結婚を祝福し、慕っていようと、私には彼と顔を合わせたら突き刺してやりたい言葉がたくさんある。
彼の妻になる人は今それを知らない。
私にとっての事実は過去のもので、彼女がこれからも幸せに結婚生活を送れるのならいいけれど、
私の想像どおり彼の根本的な人格が変わっていないのだとしたら、これから知ってしまうことになる。
けど私にはもう関係のないことだし、これについて感情を動かす道理だってない。今こうやって言及してるのもすごく嫌だ。
こういう類の感情に支配されて実際に相手に連絡を取っちゃったりしてないだけマシだとは思うけど、そもそも考えないようにすればいいのに全然コントロールできていない。
私が彼から見えない場所で「私はお前をクズだと思っている」という事実を取り下げずにいても彼の生活はびくともしないのに、いつまでたっても陰湿で攻撃的な気持ちが無くならないし、「私の結婚は幸せだがお前の結婚はお前が原因で破綻する、クソ」と無意味に踏みつけ続けている自分がいる。
彼から共通の友人を通じて「遅くなったけど結婚おめでとう、僕ももうすぐ結婚します」という伝言があったとき、うっかりその友人に上のようなことをグチグチ言ってしまい、不要に彼の悪口を漏らす形になって最悪だった。
私と彼のどちらかが共通のコミュニティを去らないかぎり一生こういう状態が続くのかと思うといやになるし、接点がなくなったとしても彼のことを憎む気持ち自体は当分なくならないんだろうなと思う。
どうして普通にできないんだろう
どうして普通に覚えられないんだろう
どうして普通に話せないんだろう
どうして普通に感じられないんだろう
どうして普通にやり過ごせられないんだろう
どうして普通に耐えられないんだろう
どうして普通に過ごせないんだろう
どうして普通に笑えないんだろう
どうして普通に考えられないんだろう
どうして普通に言えないんだろう
どうして普通に泣けないんだろう
どうして普通に表すことができないんだろう
どうして普通に思いだせないんだろう
どうして普通に眠れないんだろう
どうして普通に文が書けないんだろう
どうして普通に要領よくやれないんだろう
どうして普通に怒れないんだろう
どうして普通に貫けないんだろう
どうして普通に怒れないんだろう
どうして普通に悲しめないんだろう
どうして普通に黙ってられないんだろう
どうして普通に生きられないんだろう
どうして普通に傷つけないんだろう
どうして普通に謝れないんだろう
どうして普通に恋ができないんだろう
どうして普通に歩けないんだろう
どうして普通に手を挙げられないんだろう
どうして普通に折り合いが付けられないんだろう
どうして普通に育てなかったんだろう
どうして普通に楽しめなかったんだろう
どうして普通に素直になれなかったんだろう
どうして普通にしたいことができないんだろう
どうして普通に起きれないんだろう
どうして普通に用意できないんだろう
どうして普通に消えられないんだろう
どうして普通に何かを大切にできないんだろう
どうして普通に歯磨きできないんだろう
どうして普通に忘れられないんだろう
どうして普通に続けられないんだろう
どうして普通に把握できないんだろう
どうして普通に気配りが出来ないんだろう
どうして普通に振る舞えないんだろう
どうして普通にここまでこれなかったんだろう
どうして普通に奮起できないんだろう
どうして普通に頑張れないんだろう
どうして普通に誇りを抱けないんだろう
どうして普通に前向きになれないんだろう
どうして普通に先のことを考えられないんだろう
どうして普通に好きになれないんだろう
一般的に広告は、売りたい対象の良いところのみを伝え余り良くないところは伝えたくない、という意図のもとにつくられることが多いです。売りたいので当たり前の行動ですね。
この行動原則に則ると、一般的には、売りたい人と買おうと考えている人の間には情報量に差が発生します。売りたい人が持つ情報量の方が多い状態になりやすい。情報の非対称性という言葉を聞いたことがあるかと思いますが、まぁだいたいすごく雑に言えばこんな感じです。
一方で私たち消費者もバカではありませんので、広告=売りたい人が出しているのだから不都合な情報をなるべく出さないようにしてる可能性があるよね、という共通認識があります。なので、例えば「これは広告ですよー」と明記することで、先に申し上げた情報の非対称性はある程度は解消される可能性が高い。「これは広告です」という表記は実は割と濃い情報を持っています。
それと同時に私たちは、そのような商品の情報が「報道的」であれば、より真実に近い客観的な密度の濃い情報である、と考えやすいという傾向を持っています。
消費者は、販売者のあの手この手の広告によるなだめすかしをすりぬけつつ、その商品は自分にとって必要性が高いかどうかを判断します。広告はその判断材料の一つでもある重要な情報源のひとつですが、それ以外にも情報を消費者に届ける方法はあります。
それがいわゆる記事広告、PR記事などです。あとクチコミサイトなんかもこれにあたりますが、某べログなどがクチコミデータの改ざんをやったりやらなかったり、問題になっていたりしますし、少し前に大騒ぎになったDeNAのWELQ問題なども、問題の質はまったく異なりますが構造は似ています。
「広告」であることが明確なら、受け取り手は「都合の悪いことがあらわされてない可能性があるな」という心構えで対峙できますが、まるで広告じゃないようなフリをしていると、報道的に(真実味をもって)、その実は金を出している販売者側に有利になる恣意的な情報のみを発信する、ということが起こりやすくなる。
恣意的な情報によって都合よくコントロールされている可能性があるという状態は、市場原理主義的に考えると「悪意の手心を加えられた状態」の市場となっている可能性が高い、というのが、PR表記問題の本質です。
嫌儲的な発想とは似ている、でもちょっと違う。他人が儲かっているのがムカつくということではなく、どちらかというと騙されるのがムカつく、それによって恣意性が産まれるのが健全じゃない、というのが問題。
健全じゃないよね、ということで多くの既存メディアではPR記事には「広告です」と明記してその広告メディアの情報対称性を担保しているのです。
「広告ではない形で広告しようとする」という行動は、消費者と販売者側の情報の非対称性を広げ、健全な市場原理を働かせにくくなる悪意のある行動、という風に捉えられているわけです。
これは、情報の発信者(今回のケースだとヨッピーさんですね)が、仮にいかに真摯に情報を取りまとめていたとしても、「作り手から金貰ってるでしょ」という一点で、市場の健全性が損なわれうる、「そういう構造になってしまっている」こと自体が、危ぶまれるべきポイントです。
ヨッピーの記事はおもろいなー笑うわーと思って読んでいるけど、いつどんな時でも真摯に誠実な態度を取り続けてくれる保証は、本人含め誰にもできないですし、そもそもそれは、一個人に押し付ける類のものでもない。
だから、PRならPR明記する方が、本当はヨッピーさん本人にとっても良い効果をもたらすと思うんですけどね…。
目先に積まれた金にくらくらっときていたりして、それでポジショントークしてるんですかねぇ…。
↑こういう風に受け取られてしまうこともある「構造」ということです、金貰ってPR記事書いて広告じゃない顔をするということは。
このように邪推されてしまうこと自体、「メディア」としてのヨッピーの価値を下げることになってるんだよね、ああいう戦い方をしている人にとっては結構ダメージデカいんじゃと思うんですが、どうなんでしょ。分からんその辺は。
まあ、ここの反応見ても痛感してるだろうけどさ、別に隠し通さないと他人に受け入れられない恥でもなんでもないんだよ。
面倒くせーやつだなあーー(笑)ってくらいのこと。
親から洗脳された人の序列だのスクールカーストだとくだらん世間体気にするのは自分を苦しめるだけで、結果ろくなアウトプットも出なかった、って実験の結果が出てるんだから、もう踏ん切りつけてさっさとやりたいこと全力でやれよ、って思われるだけで。
このままだとまずい!人生希望もない!って「匿名であれカミングアウトして自分の正直なところをぶちまけて一歩前に進めた」というのは大きな成果だよ。
はっきりいって親が悪い。一回親にも「恵まれた容姿で産んでもらえて、これまで貧乏もせず、好きな美大にも行かせてもらえて本当に感謝してます。でも正直子供の頃から周りの眼を気にして生きろ、という育て方でこれまで苦しんできました。申し訳ないけど、もう成人したし、これからは親の躾にそむいて自分の本心に正直にやりたいように生きていくことを決めました。貴方がたの思うような生き方のとおり生きられなくてごめんなさい。でも私の人生で真剣に悩み抜いた結論です」ってちゃんと言いな?
対面していうのが理想的だけど、その場でまた押し込められそうになるのが怖くて自信ないなら、メールでもLINEでも電話でもなんでもいいよ。
今の君の苦しみを支配しているのは親の育て方だし、親とちゃんと対峙して、負の部分をしっかり精算したほうが楽に前にすすめるはず。
アイドル好きなら欅坂46の『サイレントマジョリティ』や『エキセントリック』を100回ずつ聞いて自己催眠かけて、実際に行動してみることで、セルフイメージ変わるよ。
先行く人が振り返り 列を乱すなと
ルールを説くけど その目は死んでいる
君は君らしく 生きていく自由があるんだ
僕らは何のために生まれたのか
夢を見ることは時には孤独にもなるよ
誰もいない道を進むんだ
YESでいいのか
私はハゲである。そしてほんまもんのハゲになりつつあり、ハゲではなかった時代がある。
遺伝子的に見ても、どの角度から見ても禿ない要素はない遺伝子である。親父もハゲているし、祖父もハゲている。母方の伯父も叔父も禿ている。ハゲの遺伝子の塊である。
ちなみに書きにくい話だが、我が息子はハゲのサラブレッドである。なにはともあれ30までに結婚することを推奨したい。
こう書いているとハゲであることを克服しているように見えるであろう。でもそうではないのだ。ハゲはじめて8年足らず。まだまだ、自分がハゲていることを乗り越えていない。その証拠にここまで書いていて、けっこう心が痛む自分がいる。ハゲである自分を見つめるのは、小学校の頃に不細工である自分に直面し絶望したそれに近い。
『ハゲであるという事実』は不思議なことに『ハゲててもいいじゃないか』という合理的な思いとは別次元のところにあるようだ。コレによる傷はなかなか癒えない。そして残酷なことに小学校教諭である私は、このハゲである自分と常に対峙させられ、ハゲである自分を十分に活かしきって生きなくてはいけないさだめにある。
たとえば、教卓で漢字ノートの丸つけをしている。すると目の前の比較的親和度の高い女子が真面目に「先生、ハゲを見るのが心苦しいので顔を上げて頂けませんか」という。申し訳なさそうに。だが言葉を知らないストレートな表現で。
たとえば階段。あがっていった先で子どもが待ち構えている。何も言わないがハゲの心は「ハゲで笑われるのではないか」と思う。実際笑われたというオヤジ殿の過去経験を聞いたりする。
高身長の自分は河童ハゲなので、下から見上げられてもハゲが分かりにくい。だが、上から覗かれると無残だ。ギャップも激しい。
そうするとどういう対策を取るか、が重要となる。そう、ここからは「ハゲ教員のハゲ教員によるハゲ教員のための生き方」だ。まさに秘中の秘。大学では教えてくれないハゲの小学校教員の正しい身の処し方だ。
まず方向性として隠すのはよくない。ほんとに隠してはいけない。
子どもたちは思うだろう。
「隠すほどに気にしている、ハゲ程度で。大人のくせに。頼りないハゲだ」と。
これは教員として致命的である。『お前ら禿たことないくせにハゲの苦しみが分かるのか!隠せるものなら隠したいのは人の情!』そう言いたい、叫びたい気持ちをグッとこらえて、あえてさらけ出していこう。ハゲを。しょうがないのである。ハゲだから。心にグサグサくるけれどあえて戦う。なぜならハゲは性癖でも性格でもなく、単なる身体的な特徴だからだ。結構な数の男がなるものだからだ。隠してはならぬ。
教員として、その姿は見せねばならぬ。
次。
その上で叫ぼう。
「先生は自分がハゲているという事実に傷ついている」と。「なぜだか分からぬがハゲるということは結構心にくるものだ、君らに分からないかもしれない。先生にも分からない。子どもの頃に自分が特別ではないと感じたあの時のような、あの絶望感にも似たものを今、先生は現在進行形で味わっているのだ」と。人間として当たり前の情が先生にもあるのだ。こうして傷つきながらも先生はそれを隠さない。その姿勢を感じて欲しい!!との心意気で。
子どもたちはドッカンドッカン笑いながらも「ん?もしかして本当に傷ついているのかな?」と思い始める。
ここからはハゲを積極的に前に押し出していき、ガンガンハゲネタで攻めていく。理科の光の実験のときは「先生は鏡なくても大丈夫」とか、暑い日差しのときは「先生は帽子被らないとハゲが日焼けして皮がめくれるんだよね」とか、テストの時間にシーンとした中で「ペチンペチン」と頭を叩いてリズムをとってみたりする。
ポイントはその度に酷く落ち込んで見せることだ。「またハゲをネタにしてしまった」と。たまに学級通信で「ハゲをネタにしているけれど、言いながら結構傷ついているんだ」とかサラッと書いておく。
そのうち子どもがきっと言う。「先生ははげー」と。たぶんかまって欲しくて寂しくて何とかこっちを見て欲しい、そんな子が言う。たぶんあんまり能力がない、コミュ能力も含めて。
そういう時は「そうだね。とっても傷ついたよ。○○君が先生を傷つけようとした気持ちはちゃんと受け止めたよ。うん痛かった。」と悲しい目をして伝えてあげよう。怒ったりしてはいけない。淡々と。静かに。理由はハゲを隠さない理由と一緒。
たぶん、二度としてこない。もし繰り返したときは周りの子が止めはじめる。
ネットで調べていたら「ハゲ」と「チビ」は同じ漢字が当てられるらしい。「禿げ・禿び」である。そんなネタを見ていたら、ついうっかりハゲを自撮りしてしまった。