はてなキーワード: ビルトとは
保護と抑圧は地続き、っていう話は初めて聞く。
まさしく!
それこそが俺がジェンダーレス水着批判で言いたかった事なんだよ。
被害者に自衛を迫り、性欲のまなざしを向ける加害者の罪を透明化すること。
そうしているうちに女子たちは性を抑圧されていくだろう。
しかしフェミニズムと弱者男性論を接続する新理論を打ち立てた増田の話を参考にして、また違った考えももった。
それに俺の言っていた、『ジロジロ見る男子をAIで検知して名前を読み上げる』ってアプローチは、
男子をより警戒対象として潜在的社会悪としての自己認識を内面化するように迫る側面はある。
昔シグマプロジェクトって国家プロジェクトがあってのぉ、これも失敗の原因は「技術の進化はここで終わり!キリッ」だったわけじゃが、まぁ詳しくはぐぐれ
太陽光はエネルギーで、これを電気エネルギーに変換する、照射されたエネルギーよりも大きなエネルギーを得ることは不可能で、100%変換することも不可能で
論理的な変換効率の限界がおおむね70%程度と予測されている。
実製品の限界が50%程度とみこまれているわけだが、ようするに面積効率が2.5倍程度になる、同じ電気を得るのにそれだけ面積が小さくて済む。
40%くらいまでは技術的な目処もすでに立ってる、当然価格も下がる
20年で容量単価が10分の1に下がった実績があり、今後もこのペースは当面続く、30年で97%の下落って数字は有名だが
ともかくすでに1kwhあたりの単価が100ドルを切ってる、10年後には10ドルから20ドルが見込まれてる。
一日一人あたりの電気使用量は6kwh程度、つまり10年後には一人一日分の蓄電が120ドル、2万円弱
4人家族で1週間分だとしても50万円分のバッテリーで済む、サイズはエアコン室外機2,3台(容量密度も当然技術の進化がある)
工事費やインバーター、システム部材を組み込んでも100万円程度
ここまで進化が進めば4人家族の電気を賄うには5kw程度のパネルで十分なので変換効率50%のパネルなら日本の日照条件でも6平米程度のパネルで済んでしまう。
これマンションのベランダでも設置できる、そのパネルのお値段は工事費込でもせいぜい30万円40万円
ほぼ工事費なわけだが、新築の場合は設計時点でビルトインされるのでさらに安くなる、パネルの平米原価はせいぜい1万円2万円
まとめると150万円程度の出費で送電網から切り離し電気使い放題、自家生産、自家消費完結のシステムが買える
20年償却だとして月額6000円
参考まで現在の日本の4人家族の平均的電気代が12000円、どこのバカが電力会社から電気を書い続ける?
15年後にはこうなってる
いや、無理w
これは、いろいろと考えさせられるいい文章だと思った。永井陽右という青年を振り回すかのように語る内田樹。こういうマウントは嫌いじゃない。
ただ、内田が、
「感情の器」って、あくまでも個人的な身体条件のようなものだから。
というとき、何か逃げた回答のような印象を受けた。
たとえそれが自分の中から湧き出す内発的なものだとしても、大昔にアダム・スミスが道徳感情論で追求したように、何かのテコで共鳴し、社会の規範を構成するに至るメカニズムが何かしらあるんだろうと俺には思えてならない。
そういう感覚を身に着けるのにどうすればいいかと問うた永井氏に、家風だとか、弟子入りだとか、そんな表現を内田氏がするのは、けむに巻いているようにしか思えなかった。
家風にしても弟子入りにしても、そのつながり方が、社会規範にむすびつくメカニズムがあるはずだ。
アレックス・カーが20年前に書いた本で『犬と鬼』という著作がある。
おりしも建設省に代表される特別会計の闇が浮き彫りになった時代。
アメリカの7倍のコンクリートを使って日本の山河をコンクリートで固めようとしていた、公共事業のあり方に疑問を呈した名著。
その『犬と鬼』のなかでカーは、そんな日本に至った問題を解明するヒントは「徳の逆説」にあるという。
「徳の逆説」というのは、国家も人も同様に、自分たちに最も欠けている資質を最も高く評価する傾向があるという、カーが常々思っている真理を彼なりに名付けたものだ。
A・カーは、フェアプレイの精神といいつつ、七つの海を支配した大英帝国の事例、平等を錦の御旗にしていた共産主義者のトップが黒海に豪奢な別荘を保有し、人民は実質的に農奴と変わらない生活だったというソ連の例などを挙げつつ、最後に、和を貴ぶ日本人がなぜ明治の開国後、対外侵略に夢中になったかという精神性に触れてゆく。
「徳の逆説」は、身近なところでも当てはまる。口うるさい親や上司の説教がブーメランに思えてならない、という経験は誰もがしているはず。そして気が付くと俺も親父と同じことを子供に、という連鎖。
最近、想起するのはやはり旧統一教会。家族の価値を高らかに謳いあげておきながら、その活動が原因で多くの家族が崩壊している、といった、「おまゆう」問題。崩壊させているがゆえにますます高まる家庭の価値、という悪循環。これもA・カーのいう「徳の逆説」が見事に当てはまる。これは人が自分自身を規律しようとするときの動機付けのメカニズムなのだ。
内田と永井の議論のテーマのひとつである人権・平等。あたかも普遍的な原理についても、
それを概念として具体化して社会が取り込んだ過程を決して忘れてはならない。
アメリカの建国者の一人、トーマスジェファーソンは人権宣言を起草した当時、200人以上も奴隷を抱えていた。
これは矛盾というよりも、むしろ奴隷制にどっぷりと漬かっていたからこそ人権宣言が生まれたという「徳の逆説」のメカニズムを見るべきだろう。
どんなに薄汚れた社会であっても、一度高らかに掲げた理想は、その社会を真綿で絞めてゆく。欲望大全開の人民を前提にすると、民主政は成り立つのか。多数決をすれば少数者が圧政に苦しむのではないか、これがマディソン含め、建国者の懸念だった。しかし、為政者の徳(アリストクラシー)と、欲望とは別に社会で正しいと思うことに投票する、二重人格的な資質が人民に備わっていると信じて建国者はデモクラシーを設計した。裁判を通じ、繰り返し憲法の価値観をテストする、という振り返りをビルトインした設計は本当に優れたものだ。結果として、最高裁が突き付けた奴隷制と財産権の矛盾が、南北戦争の北軍の正当性を決定的にする。
内田の議論に戻ると、外付けの人権というテーマと同時に、内発的なものとしての感情の器という、とても重要なキーワードを出している。それは他方で外付け実装された人権と、どのような整理ができるのだろうか。
「人としてどうふるまうべきか」を子どもに刷り込むのは「家風」なんですよ。子どもたちは親の背中を見て、人間としての生き方を学ぶ。それは教科書で教えることじゃない。
これは、親子を中心とした自分史と言い換えられるのではないかと思った。さらにいえば、自分史は必ずしも親は関係ないかもしれないのではないか。つまりこれまでの人生、来し方がキーなのでは。
内発的なものと外付けのもの、この二つはやはり、きちんと切り分けて、そして二つが、どうつながってゆくのか。以下、自分なりに整理を試みる。
舶来の概念というのは明治以来、洪水のように入った。民法など契約法の世界は、ほぼほぼ圧倒されたし、戦後は憲法そのものがアメリカの経験に基づいたものだ。
しかし、日本の人権教育は、残念なことに、人権の普遍性を論証することに熱を上げてしまって、そもそも誰の内発的な経験がもとになっていたかという成り立ちのメカニズムを忘れた議論が多い。公共の福祉論などをいくら学説や定義を整理してきれいに論じても、だから何?の議論だった。
戦後、人権を外付け実装してきた日本は、そのルールや規範の成り立ちといった背景をもう少し知る必要がある。それは教養として。
今現在、旧統一教会問題で話題の、国家と宗教というテーマにしてもそうだ。
政教分離のキーワードとなるのは、恐怖からの解放だ。宗教に悩まされ、その扱いに苦慮するのは古今東西の課題だ。宗教といかに折り合いをつけた制度設計をするか、古代ローマ時代からずっと抱えてきた。宗教的寛容、これが統治のカギだと気が付いたのはカルタゴに勝利した古代ローマ。
そのテーマに対して、新天地アメリカに到着したプロテスタントたちの子孫が18世紀になってメイフラワー号の協約を思い出して試みたのは、旧世界では試みたことのない壮大な社会実験だった。百家争鳴な多様性のなかで社会を構成するには、誰が正しいことを言っているのかは誰も断定できない、という前提に立つ必要が再確認された。それが言論の自由の関係では、20世紀初頭にホームズ裁判官らに代表されるように、自由市場の比喩が生まれる背景ともなった。
他方、旧世界のフランスでは、唯一の正しさを神に代わって宣言するカトリック教会の権威と苛烈な弾圧が恐怖であった。だから公共空間の合理化を徹底し、宗教を一掃する制度設計になった。フランスの言論の自由は、その意味でカトリックを否定する権利が原点となる経験なのだ。だからこそ、フランスでは今でも神を冒涜する言論というのが非常に重要な意味をもっていて、先日、仏風刺紙シャルリー編集長が英作家ラシュディ氏襲撃を非難したことの歴史的な背景は深い。
このように、人権というものは、何に対して恐怖してきた歴史があり、生まれてきたものなのか、という原点に思いを致すことが大切だし考えるコツだ。利他性じゃなくね。
それは、実は国によって微妙にコンテクストが異なるものであり、普遍的価値として昇華できなくもないけれども、むしろ司法を通じて、原点となった恐怖を大切に思い出す機会が重要で、その社会が、その真理を繰り返し確信し、制度を強化し、再生産する重要な仕組みなのだと思う。逆に言うと、普遍的な価値なら、なぜ何千年も克服できなかったかの意味を問うというか。
しかし、外付けの倫理として受け取ったものを、思い出すかのように歴史を振り返るのは容易ではない。戦後の日本の裁判所も含めて。
でも、それこそが日本の人権教育に欠如したものだということは個人的には強く思うところだ。
その意味では、外付けではない、外国の借り物ではない、内発的なもの、感情の器からみえてくる倫理、これは本当に大きな価値がある。
内発的なものを自省するうえで、もっとも大切なのは、自分の国や自分の家族、自分自身の歴史だと俺は思う。
自分や自分の先祖が痛い目にあってきた経験、あるいは他者を痛めにあわせてきた経験というのは、その人固有のものであって、その自分史や国の歴史を忘れてしまうと、あとは外付けの倫理だけが残る。国レベルで言えば、それは端的に明治以降の日本のアジアや欧米との対外関係であり、開国以降、アメリカに敗北するまでの戦争に明け暮れた体験に他ならないし、国家神道によって死生観まで国に洗脳されかけた手痛い経験だ。
歴史というと大げさだが、要するに「自分たちに最も欠けている資質を最も高く評価する」、おまゆう精神を自覚することだ。これは教養として学ぶというよりも、もう少し内省的なものだと思う。
自分が理想とするものと現実とのギャップを振り返る作業といってもいい。
自分に欠けている部分、そこにこそ追い求めている何か理想的な姿の反転がある、という振り返り。
ネイションとしていえば、戦争体験の振り返りが重要なキーになるし、国家と宗教というのは、国家神道と戦争という経験で痛い目をみているのであり、ある意味、輸入された欧米の経験を教養として追体験するだけではなく、日本人が原体験としてもっていた大切な教訓。愛媛県靖国神社玉串料訴訟(1997年)の最高裁判決は行政が戦没者の遺族の援護行政のために靖国神社などに対し玉串料を支出したことを違憲とした歴史的な判決で、戦争の経験がしっかり振り返えられた、という点で、司法の仕事としてとても大きなものを残したと思う。建国の精神を振り返るのが裁判所の仕事の一つだと思う。
しかし、戦後77年。戦争体験が風化するなかで、「あの時代を生き抜いた」という共通の体験、共通項として持っていたものがどんどん失われているのが今の時代。
50年前の高度成長期だったら、戦争で死んだ部下を思い出しながら、仕事にまい進し、酒場で同期の仲間と語り合う、とか、厳粛に生きるための厳粛な死が記憶としてあった。
「あの頃は」という共通の過去で人はつながることができた。それが内発的なものとして60年安保闘争を支え、水俣の闘争があった。外付けの倫理ではない、思い出としての切実さの空気の共有があった。
つまり、舶来の外付けの価値観と内発的な器は、その頃はわりと調和していた、といえるのだ。
それが、失われ、外付けの価値観だけが、カラカラと空回りし始めているのが今の時代の特徴で、失われつつある寛容性の正体なのだろう。
永井氏はそんな時代に生まれ育った。彼は対談のなかで、大学時代に
と、外付けの人権から始まったと語っているが、外付けのものにも普遍性のみに着目し、それが生まれてきたプロセスを振り返らない、人権教育の失敗が見て取れる。
また、日本国憲法に組み込まれた歴史への反省(前文含め)も記憶の風化とともに、個々人の内省が、時代への共鳴という形で、共感を醸成しなくなってしまっている。
それはかろうじて80年代までは存在していた。「おしん」が異例の1年間の朝ドラで始まってしばらくすると、
視聴者からは、おしんは私自身そのものです、という声が橋田壽賀子のもとに多数届いたという。
しかし、時代は変わって、平成から令和になって「あの頃」といえば、昭和の末期なのだ。
しかもそれをノスタルジックに思い出す、三丁目の夕日的な振り返りだった。さらには、あさま山荘であり、学歴社会、バイクを盗んで走る尾崎豊であり、バブルの思い出なのだ。それは、その遺産に苦しんだ次の世代にとっては共感を呼びにくいものであるし、自分たちの社会の重圧と、戦争の記憶との関連が薄まった。当然、日本国憲法のリアリティが失われ、右派から改憲論議が盛り上がってくるのは必然的なことだった。そんななか、統一教会が国の内部を白アリのように巣くって愕然とした先月から今月にかけての出来事というのは、忘れかけた宗教と国家の結びつきの恐ろしさを、突如呼び覚まされるものだったに違いない。
しかし、いずれにしても過去の記憶と憲法の規範が直接に結び付かない、その世代の経験、そこに、永井が紛争国の辺境の地を自分のテーマに選んだヒントがあるように思えてならない。
紛争のリアルがそこにある。そこに普遍的価値として大学生のときに知った人権、そして憲法の価値を、自分なりの振り返りとして再確認する、動機付けがあったようにも思う。
しかし、たとえ社会の人々と共有されないものであったとしても、ひとは自分史のなかで、どうふるまうべきかを動機付けられる。
私は逆に、子どもの頃はよく母親に殴られたり色々と物を捨てられたりされていて、そのときに「この家では力を持った奴は殴ったり物を捨てたりしていいんだな」と思ってしまったんです。そして中学生になって殴られたときに「よく見たら小さいし別に喧嘩が強いわけでもないな」ということに気が付きまして。それでそこからは自分が母親のことを殴りまくるようになりました。ひどい時はアザだらけでしたよね。父親も単身赴任でしたし。
といったときに、内田はそこにしっかりと気が付くべきだったと思う。
「全然、人権派じゃないね(笑)。」と返した内田に若干物足りなさを感じたのは、まさにそこだ。
動機付けられるものが、必ずしも、家風であったり、模範的なロールモデルとは限らないのだ。
この体験と辺境の地での人権探し、自分探しは、多分無関係ではない。
読んだのは20年前だが、年齢を重ねれば重ねるほど、彼のいう、逆徳精神の考え方が真理に思えてくる。
A clue to the problem may be found in what I call the theory of Opposite Virtues. Nations, like people in this respect, may pride themselves most highly on the quality they most lack. Hence “fair play” is a golden virtue in Great Britain, the country that attacked and subjugated half the globe. “Equality” was the banner of Soviet Russia, where commissars owned lavish dachas on the Black Sea and the proletariat lived no better than serfs. The United States prides itself on its high “moral standard,” while perpetuating racial and moral double standards. And then there is l’amour in France, a nation of cold-blooded rationalists. Or Canadians priding themselves most on being so distinctively “Canadian.” In Japan we must look at the time-honored ideal of Wa, “peace.” Wa means security, stability, everything in its proper place, “knowing what is enough.”Yet a persistent irony of Japanese history since 1868 is that for all the emphasis on peace and harmony, they are exactly the virtues that Japan did not pursue. At the end of the nineteenth century, rather than settling back to enjoy its new prosperity, Japan embarked on a campaign to conquer and colonize its neighbors. By the 1930s, it had already acquired a tremendous empire in East Asia; this inability to stop led to its suicidal attack on the U.S. base at Pearl Harbor, as a result of which it lost everything. Something similar is happening again. Perhaps Japan values Wa so highly for the very reason that it has such a strong tendency toward imbalance and uncontrollable extremes.
民主的に定められたデュープロセスに従わず、市民の抗議文書に端を発する署名活動を経ることなどもない、アンパンチの力による一方的な現状変更は決して許されるべきではない、はずだった。抑圧された誰かの憎しみを、責任も罪も、救済業務の一切を引き受けたアンパンチは、しかし、放たれてしまった。市民への相談も事前予告もなしに、怒りの拳は振り下ろされた。
ならば、バイバイキーンを見送った後での、アンパンチの鉄拳制裁を許さない、とは何を意味するのか。何もしないままではバイキンマンが再び戻ってきたときに、同じ事態が繰り返されるだろう。
パン工場と手を切るのは決定的な解決にはならない。アンパンチ成功の後には、アンパンマンに憧れて正義を標榜する市民が続出する怖れがあるから。理不尽な鉄拳制裁の効能に屈した市民たちが、その機会に乗っかって決起し、大きなうねりとなったなら。そのとき初めて本当の意味で、アンパンチは成功したと言えるだろう。第2第3のアンパンチがランダムに、同時多発的に発生しうる。とても制御できるものではない。
「アンパンチは到底許されるべきではない」とプロパガンダのように定型文を連呼することも、意味がないどころか、暴力への感受性をマヒさせる逆効果があるかもしれない。
許されるべきではない、という言説は新顔のアンパンマンにとってはむしろ、覚悟を決めろ、という啓示に聞こえるだろう。自分自身を正義と信じる誰かの心で、勇気の鈴が鳴る。アンパンマンの気力を削ぐように、「アンパンチなんて意味ない」と思わせるように町の人たちが動かなければ、いつかはカバオパンチが生まれると思う。
市民が積極的に暴力行使の依頼をしてなかったとしても、正義の鉄槌が必ず振るわれるだろうと事前に分かっていて見て見ぬ振りをするならば、町の人たちとアンパンマンはもはや共生関係にあると言える。アンパンチは事実上、町の秩序を護るためにビルトインされた治安維持システムの一部だ。自然発生するのだから「仕方ない」は思考停止だ。
追記・
このタイプの考えについても言及しておく。町の人たちはバイキンマンの魂胆をすぐに見抜くはずだ。アンパンチをしてしまった時点で動機は洗いざらいされるのだから、隠し通して欺かれる可能性を考慮する必要はないと思う。
結婚と同時に姓を変えると過去の名前との連続性が失われることで、手続き上も心情も大変なのは理解できる。
ただ、選択的夫婦別姓制度の推進派が「制度上、別姓の選択肢が増えるだけなので、現状維持で同姓にしたい人にとっては何も変わらない。反対する理由がない」というのはさすがに詭弁ではないのか。
現在の日本社会は結婚により夫と妻が同姓になり、かつ生まれてくる子供が同じ姓を持つことが結婚の一部としてビルトインされた前提で社会通念も制度も作られているわけで、それが選択制になったら当人以外にも影響が出るのは当然なのではないか。
(携帯電話番号が12ケタの人が出てきたら、11ケタの人には関係ないとは言えないだろう)
そもそも、現在推進しようとしている人たちの意識でさえ夫婦同姓が前提となっている。例えば、現行制度に対し「結婚によって愛着のあった苗字を変えなければならないのは悲しい」という女性の意見には一理あると思うけれど、
選択的別姓が可能となり、家族内の姓が統一されず子供が片親の苗字を引き継ぐのが当然となった時代には、苗字への帰属意識が薄れ苗字を変えたくないといった要望自体が風化している可能性はないか。
私は推進すること自体に反対しているのではなく、推進派が一般向けに流布する論理が安直に過ぎることに不満がある。
姓が同一家族を示す記号としての価値を失った場合に、実務的な面と観念的な面でどのような影響を社会全体に及ぼすのか、もう少し硬派な議論が聞きたいと思う。
こういうことを書くとまっとうな反論がもらえそうなので、少し期待している。
「景気が良ければ累進所得税法人税が上昇する」というのがビルトインスタビライザーだが。景気が良ければ法人税が上昇するから法人税を減税しろというのは新自由主義者も散々言ってたことだが。
消費税が安くて法人税・累進所得税が高いととうまくいくことが実証された世界は1990年代の新自由主義以前の諸国だろう。税制による資金循環への影響を無視したいから実証されてないというのだろうが。
特定の経済学の実験場?それは新自由主義の消費税を上げて法人税を下げた世界じゃないのか。
景気が良ければ企業がおのずから設備研究投資するから一見法人税を下げてもうまくいくようにみえる。
1990年バブル崩壊や、2008年リーマンショックを見ると、一度大規模経済危機を迎えると企業は金をため込み、資金余剰に移り、低成長に移る。
消費税を高く、法人税・累進所得税を下げるとどうなるか?という特定の経済学の実験場の結果が「日本化」が世界的に発生して低成長の今だが。
「ビルトインスタビライザー機能」って、ネット経済論壇の人達が大好きだけど、世界中でどこの国がそれを完璧に実現できているんだろうね。それで実績のある国(日本と同水準の先進国)を一つでもあげてほしい。とくにEU諸国はどこも消費税15%以上だから、「ビルトインスタビライザー機能」に真っ向から反していて、長期にわたって慢性的な不況になっていなければおかしいけど、果たしてそんなことになっているのか。
ある政策論を実施するときには、「他の先進諸国で実績がある」ことが大きな説得材料となる。例えばスウェーデンの近30年の社会政策(高い消費税率、法人税や相続税の引き下げ、厳しい財政規律、失業給付の削減と積極的労働市場政策)を振り返れば、日本は方向性としてはスウェーデンを模倣しようとしてきたことがわかるはず。もし「ビルトインスタビライザー機能」に実例や実績がない場合、それは日本を特定の経済学仮説の壮大な実験場とするということを意味しており、そんなもの誰も危なっかしくて賛同しないだろう。
問)「なぜ財源といえばいつでも消費税なのか。」
答)財源として安定している。税収規模が大きい。OECD諸国(特にEU諸国)の導入実績も高い(逆に消費減税策の実例や実績が乏しい)。節税対策の余地が少なく、公平性が高い。
財源として安定しているということは、景気に応じて増税減税ののメリハリがついてくれるビルトインスタビライザー機能がないということだ。
また、節税として設備研究投資をすることによっても景気が上がる。
ビルトインスタビライザー機能がない税制を取り、ため込んでも減税としたから貨幣の流通速度を著しく落として30年不景気にした。税制は資金循環を意識しないとならない。
問)「なぜ大企業や富裕層への優遇税制は見向きもしないのか。」
答)法人税や富裕税は財源として不安定。税収規模もそれほど大きくなく、規模を大きくしようとすれば中間層を直撃する。法人税や相続税はOECD諸国も全体として下げる傾向、節税対策の余地が大きく、不公平感情を刺激しやすい。
同様に財源として不安定ということは景気に応じて増税減税のメリハリをつけるビルトインスタビライザー機能があるいうことだ。
答)単純に規模が大きいから。減税の財源として歳出の3割(国債費を除けば4割)を占める社会保障がターゲットにならないほうが不自然。
「財源として安定=景気調整能力がない」税金を取って、節税によって行動を誘導することをしなかったから不景気で産業が劣化したんだ。
そもそも自国通貨建て国債では財政破綻しない。外貨借金で財政破綻する。しかし長年の資金循環を無視した税制が故に産業劣化して経常赤字が出るようになってしまった。
Gはうちの場合はビルトインにも卓上時代も食洗器になど出たことはないよ
ゴミの日に出しそびれた生ごみをしばらく玄関近くにおいておくと玄関ドア開けた瞬間にちびっこいのががんばって室内に入って来る程度だけどけんてきそくさつしてるよ
卓上は一階の台所においてた
どちらも生ごみ箱のほうが近くにあっておいしいゴミがたくさん入ってるからそっちに来るほうが納得できるけど来なかったよ
あんまり網戸とかにもしないからかね、強制換気がついてる家だからほんと焼肉したら窓あける程度で
それはそれとしてビルトイン食洗器と換気扇は10年点検義務の対象だよ
うちの場合は毎日1回大型を回してる程度だけどそれでも酷使しすぎてモーターが壊れたから交換したよ
それで点検おわらせてくれればいいけど、そうはいかなくてまた別途で点検うけないといけないみたいだよ
でも皿は洗いたくないし夏はすぐコップ溜まるし60程度の中温でも腐敗菌程度は殺菌できそうだから使うのをやめないよ
食洗器歴10年だけど、食洗器を定期的に回していればGは出ないよ。
排水ホース周辺には動物脂のにおいがするわけで、そこを重点的に対策すれば問題なし。
あと入口を開けっ放しで何週間も使ってなかったらGの住処にはなりえると思う。(匂いが染みついてるから)
光熱費は1回につき3円という情報もあるから気にしないでいいと思う
■食洗器のG対策について教えて
家を購入予定のため、念願のビルトイン食洗器を導入予定。
でもね、Gの住処になるという話をしばしば聞くので少し迷いもあるんだよね・・・。
テレワーク導入されてから基本的に3食自炊なので、いい加減つらい!!!
実際に導入してる人のアドバイスほしい。
4人家族だから大きめを検討してるけど、夏場とか使った皿を夜まで溜めとくのはGの格好の餌だよな、とは思っている・・・。
副業: ソフトウェアエンジニアでUSテック企業でフルリモート週10~20時間(休日含むので平日は毎日1~2時間くらい)
副業の方は確定申告に備えて個人事業として開業届を出して起業。
起業はいつかできたらいいなと思ってたが、仕事が先に来て起業が後に来るとは思っていなかった。
仕事が無いのに起業して、起業してから具体的に何をするか考えるって、それってネットの起業熱にあてられてる気がする。
でも実際有名ベンチャー立ち上げた人とか「仕事もないのに起業したから最初の数年は本当に苦しかった」って書いてる人ちょくちょく見るけど、
本当のところはどうなんだと思う。
起業して食っていけそうだと思ったからサラリーマン辞めて起業してるんだよね?
実際は小さめかもしれないけどちょくちょく知り合いや昔の客から仕事貰ってたんだよね?つまり先に仕事があったんだよね?
だから起業して何やるか全くアイデア無いのにとりあえず起業だけしてる人って結局何もできずに終わってる気がするんだけどどうだろう
・コンサルやエンジニア企業ではない民間の一般事業会社。ソフトウェア開発でメシ食ってる会社ではない。
・正業はジョブ型じゃなく年功序列型のメンバーシップ型な会社。
→ジョブ型にしてポジション別採用すりゃいいのにといつも思っているが、総合職採用を継続している。総合職採用とメンバーシップ型は一体の関係なんだろうね。
ジョブ型に移行するなら年功序列終身雇用のメンバーシップ型は必然的にストップすることになるが、今現在40代以上の人が突然ジョブ型に転換しろといってできるわけがなく、
おそらく少なくともあと10年20年はメンバーシップ型でやっていく模様。とはいえ中途採用者数が新卒採用を上回る年が増えつつある。。
これって実質新卒一括採用が終わり始めてるってことだよね。そもそも新卒の学生数が減りすぎてて新卒を採用する方が中途採用よりも厳しいのが現実だろうけど。
・ちなみに副業始める前に人事に副業していいか確認した。確認したが、競業してる会社の副業じゃない限り会社から副業をするなとは言えないらしい。
→そりゃそうだよね。世の中土日に少年野球のコーチとか審判やって謝礼貰ってるパパとか結構な数いるとは思うけど、
会社が「謝礼貰って少年野球のコーチやるのは副業禁止規定に反する!」なんて言えるわけもないし。
→とはいえ公務員だと謝礼を伴う少年野球コーチや審判、ピアノ指導、ダンス指導、Youtuber、全部一律ダメなんだよね?そりゃ東大卒の官僚志望者数が激減するわけだ。
正直官僚志望の学生が減ってるのは公務員の厳しすぎる副業禁止規定がかなりでかいと思う。人生の機会損失があまりにも大きすぎる。。
・副業でジョブ型でリスク取りに行って、正業でメンバーシップ型でリスクを相殺してセーフティーネットを確保する、このやり方だと生活が安定しかつ多額の報酬も狙えてかつリスクも低い働き方を実現できる。
→犠牲になるのは遊ぶ時間だが、好きでやってる仕事で天職だと思ってるので、遊び時間や飲み会の時間を削っても個人的には人生の損失を一切感じない。ここらへんの価値観は人によるだろうね。
副業やって収入増やすより俺は飲み会で会社の人たちとワイワイやりたいんだ、という価値観の人が無理に好きなことする時間削って副業する必要は一切無いと思う。
・副業の方はやってること自体はゴリゴリのソフトウェア開発なんだけど、向こうの会社のタイトル的にはITコンサル的な扱いになってて助言や技術サポートをしていることになってる。
→なので勤務時間は決まってはいないけど、USタイムゾーンに合わせるために朝4時に起きて正業の勤務開始前にリモート会議出たり逆に深夜2時まで起きてチャットで対応したり柔軟に対応してる
・現時点で副業は直接雇用関係ではなく外部コンサル扱いなため副業側に健康保険や厚生年金は一切かからない。実収入に対する社会保険負担率が激減していることを実感している。
・個人事業主として技術コンサル報酬を売上として記録しているが、サービス消費地がアメリカであるため日本の消費税が一切かからない。
→つまり自動車の輸出みたいな形になっている。まてよ、だとしたら仕事のために買ったパソコンや検証用のスマホ、タブレットの消費税は還付されるのかこれ?
・フルリモート副業でUSの会社で働く経験してみて思うが、ここ数年の海外フルリモートワーク関係のシリコンバレーベンチャーの進化が凄まじい。
→海外リモートエンジニアへの報酬の振込サービスとか、経費処理サービス、電子契約管理のサービス(電子印鑑・電子署名)とか、ストックオプションの管理サービスとか、多分2,3年後には
・あり得ないほど高騰してるアメリカ人ソフトウェアエンジニアの報酬に比べ、日本人エンジニアは向こうからしたらあり得ないくらい採用コストが低い。
・例えば30代のそこそこスキルある中堅エンジニアが年収600万円で働いてると言ったらアメリカ人は絶句する。
・英語に抵抗が無い日本人ソフトウェアエンジニアをアメリカ企業がリモート勤務で採用するケースは今後数年爆発的に増えると思う。
・USテック企業とはいっても、エンジニアだけを採用しているわけではなく、広報(コーポレートコミュニケーションと良く言う)、営業、HR、総務、コーポレートコントローラーのジョブも募集していることが多い。
→なので、プログラミング能力が無くても英語さえできればUSテック企業で日本人からしたら大金と思える給料のジョブを得ることは可能。
・自民党はWeb3で国を興す!と言っているが、それをさらに発展させてIT技術を海外輸出しやすい国にする政策を推進してほしい。
ドルは稼げるしソフトウェアエンジニアは経費がほぼ掛からないので所得税もがっぽり取れるし(泣)、日本人ITエンジニアは別に海外エンジニアと比較して
英語以外の面で特段劣っているとは思わないので、自分のように海外フルリモート副業する人が増えれば税収も増えるし外貨も獲得できて国にとってもプラスしかないはず。
・上でも書いたけどソフトウェアエンジニアは仕入れが無いんだぜ?つまり円安になって円建ての仕入れ価格が上がっても関係なく売上(≒ほぼ利益)が円安分だけそのまんま増えていく。
→なので行き過ぎた円安を防ぐビルトインスタビライザーとして機能するのでは?
ここでイキって増田に書いちゃうあたり、ここが最高潮で、これがあと何年持つかわからないスタイルの人だなと予測してしまうクセがついてる……頑張って欲しいんですよ一応
これはとても良いコメント。実は本人も全く同じことを考えていた。
(以下、後から読み返したら恥ずかしくなることが確実なので時間がたったら削除する予定)
本業で年収1000万円を超えた時は特に自慢したいと思うことは無かったが、ソフトウェアエンジニア界隈ではそこまでレアでもない副業をちょっとかじっただけで気持ちがとても浮ついている。
本来なら匿名日記を書く時間で勉強をしたいのに、あたかも自分は「達成した人間なんだ」という浮ついた気持ちに支配されてしまい下らない匿名日記を一生懸命書くことに人生を消費してしまっている。
これはつまり、今以上の良い立場、状態を目指す情熱に欠けた状態、つまりここまでが自分の器なんだなということなのかもしれないと思い始めている。
それまでもいくつかの競争や達成を経験してきたが、それでもまだやることがある、自分はより良い人生を目指せるはずだと寡黙に思い続けて今まで頑張ってきたはずだった。
しかしここから先の道は正直自分の器以上の立場・待遇を得るための試練になるだろうと思っている。
ここから先が自分にとって人生における人的資本の等価交換ではなく「本質的な利益」を得るための闘いになるものと覚悟している。
一人の人間に与えられた寿命、若さ、頭脳、容姿、身体能力、体力、気力、家族、地域、環境、運など、あらゆる人的資本を効率的に「等価交換」していった結果、それが時間とともに金銭的財産だったり親友の多さなどの人的財産だったり学術的な発見等の知的財産だったりと何らかの外から得た資産に結果的に交換されていく。つまり大富豪になったり芸能人になったり成功したセレブリティというのは、効率的な等価交換を繰り返していった挙句の一つの結果に過ぎないと考えている。
例えば、親の遺産10億円を手に入れた人間は、親の死と10億円を等価交換している。つまり、ここに本質的な利益は存在しない。利益はゼロだ。世襲の政治家が親の地盤を引き継いで2世政治家として地元から出馬し議席を親と交換することも、本質的な利益はゼロだ。東大理三に元々合格できる頭脳の人間が理三に合格した、これも等価交換に近く利益を得ているとはいいがたい。
しかし、例えば本来10億円という金額の財産を得るはずのない人間がその財産を得た場合はどうだ。理三に合格するはずのない人間が合格した場合は?等価交換によっては得られない立場・状態を得ること、これこそが「本質的な利益」ではないだろうか。
だとすれば今の自分もようやく「本質的な利益」を追求できる立場まで来たと言えるのではないか。ここからが自分の人生における真の利益を得られるかどうかの分水嶺かもしれない。
私は異なる考えを持っている。
尊厳の考え方は、クラス全員の男にヌード写真が出回るのと、クラス全員が彼女の裸を妄想して自慰するのは、実質的には変わらない、とすると思う。
https://anond.hatelabo.jp/20220525213803
電車の中で、隣に座った女性と肌を触れ合いを、後で振り返って楽しむのは… よくないと思う。
あなたの自制心や理性を疑ってるわけではないんだ。相手に下心を気取られないように細心の注意を払い、それは成功するだろう。
だから隣の女性は、「この男性は性的に消費する意図で触れ合いを記憶しているんだろうな」と想像する。肩が触れたたくさんの男たちの中には、確率的に理性の箍が緩いケモノもいるはずだ。女たちは常に威迫されながら、脅威に怯えて生きている。
性的まなざしを向け、一般女性を性的消費するのを是としている現代日本では、生きづらさは女性性にビルトインされている。男たち全員が「一般女性をオカズに妄想したりはしないよ」って言い続ける必要がある。不文律を破って威迫行為をした人を咎める必要がある。さもなくば理不尽な性の不平等は消えないよ。
金の価値が海外に売れるモノを売るであれば、デフレでも緊縮財政をして不景気を続けたり、資金循環を無視して消費税増税と、ため込んでも金融所得、富裕者所得法人税減税と、金融投資を経済理論上の資金調達しての支出と混同して、企業の設備研究投資を殺し、
緊縮財政と近視眼的な費用対効果で政府の基礎応用研究投資を破壊する新自由主義がゆえに、金の価値をなくしてるのが今でしょ。
MMTで自国通貨建て国債と外貨借金を峻別して、デフレなら財政出動するべきだな。そして今は海外インフレ+コストプッシュインフレだから、海外に売れるものや、足りないものを中心とした財政出動と、金融緩和維持ををするべきだ。
そして設備研究投資が過熱したデマンドプルインフレになったときに、金利上昇と、金融収縮と、法人税、累進所得税のようなビルトインスタビライザーが効く税制で回収すべきだ。
https://anond.hatelabo.jp/20220503215621
言及する必要が無い。人権に敷衍してこの問題を考えれば、プロライフ派になりやすく、胎児の人権、人間規定の恣意性と言う重要な問題を孕むこの問題を、女権拡大の意味合いからそれらの問題をまるっきり無視しているのがプロチョイス派である。
宗教的な頑迷が問題になるのは、宗教的な教義や信条が、近代法の根底にある人権思想、人権原理を毀損する場合であって、そうではない場合からのクレームは、単に個々人の思想信条に過ぎない。善意からであろうが悪意からであろうが法理的に矛盾があるのであればそれは矛盾があるのであって、個々人の内面の思いにフォーカスするのは、それこそ宗教的な悪魔化である。内心のことは証明可能性が皆無であり、相手を悪魔視してリンチしてやろうと言う下種な自身の心情をまずは問うべきではないか。
プロライフ派とプロチョイス派の争いは人権派と女権派の争いである。近代法に適合している人権派が、自らの内心の潔白を証明するべき理由は何もない。
無視していない。女性の身体自由権と胎児の生存権を比較して胎児の生存権により重篤な公益を見出しているだけである。
すでに体制にビルトインしているので女性は意識しない傾向にあるが、男性に対する法的優遇措置は皆無であるが女性に対する法的行政的優遇措置は多数ある。女性専用車両についても、その経済的負担は身体労働からの転換物であるので、より寿命の短い男性たちに「女性の権益のために奴隷労働を課している」と言う面が多々あるが、それらは公益のためには正当化され得る受忍限度内の責務とされているのである。
中絶の件は、一方に乗せられているのが生存権と言う極めて最重要な権利であるため、通常一方的に保護される立場の女性が、公共の福祉において市民的な負荷を課せられるべきであるというだけのことである。
昨今、問題になっているトランスジェンダーの扱いの件、ハーグ条約関連の問題、重要人権案件のほぼすべてが女権と人権の対立周りにおいて生じている。これは女権が人権に根差しているのかどうか、女性が市民社会の構成員としての責務を果たす覚悟があるのかどうかが問われているのである。人権に根差さない女権は人権を毀損するのでナチズムそのものである。
遥かに寿命の短い男性に課せられている負荷は受忍限度内とみなされるのであれば中絶案件も受忍限度内である。子を産んだからと言ってマクロでは女性の寿命は1年も縮まない。そもそも子を産むかどうか、それに至る行為をするかどうかの選択肢を与えらていての話である。
私は女子大学の存在は性差別そのものでありとても問題があるとは考えているが、男性である私が支払った税金を女子大学に注がない選択肢はない。
徴兵制がアプリオリに人権侵害と見なされていないこと自体が問題なのである。徴兵制の根幹は、不可避性である。逃げられないと言うことだ。
徴兵で生じる給与はその不可避性を正当化しない。また、「ならば妊婦にも給与をくれ」と言う言い草がナンセンスなのはことことからも自明であるが、母体保護法やそれ以外の立法措置、行政支援において、既に給与相当分は得ているとも見なせる。逃げられないのは無関係の第三者だ。
もしこのアナロジーで男女対立を煽るのであれば、それは中絶の問題ではなく「産む性」としての保護優遇を女性が得ていること自体が問題視されるべきであろう。そして「負担をイーヴン」にするのであれば、産まなかった女性たちは、徴兵忌避者や脱走兵がそうされるように収監されたり銃殺されることを甘受すべきであろう。
それらの反論がまったく成り立っていないのは、そもそも不可避性を満たしていないからだ。
食べて働いて眠って、だけであれば絶対に妊娠しないのである。妊娠することをしない限りは絶対に妊娠しないのだ。
それでいうならば徴兵制は中絶禁止よりも「ひどい」と言うことになる。そして徴兵制のアナロジー自体は今も公式非公式に残っている。「男は女を守れ」と言う強制である。
『男性にも罰を与えよ』
与えればいいじゃないか、としか思わない。ただそれは妊娠した女性vs妊娠させた男の間で発生するものであって、どうぞ好きに民事裁判でも何でも起こしてください。現行法でも可能だ。
中絶のコンフリクトは妊婦と胎児との間で発生するので男は、胎児にとっては無関係、というだけのことである。
※元記事は間違いなく私が書いたものであるが、私は5/3には記事は書いていない。つまり現在ブクマされている元記事は赤の他人が私が書いた複数の記事をまとめて、再アップロードしたものである。