はてなキーワード: 翻訳者とは
突然かつ急激な産業革命的パラダイムシフト、翻訳屋のロゼッタが機械翻訳の飛躍的な向上に白旗宣言
http://kabumatome.doorblog.jp/archives/65903378.html
本当かどうかは知らないけど、正直さもありなんというのが元業界の人の感想。
翻訳の環境は「人の翻訳→翻訳プラットフォーム(翻訳作業用のソフトウェア)→機械翻訳のサポート→機械翻訳の後編集(ポストエディット)→ニューラルネット翻訳」という風に進歩してて、どんどんの人の手がかからなくなっている。
それを発注側も受注側もわかってて、どんどん納期と価格が下落しているのがここ数年の話。
在籍していた会社はまだマシというレベルの単価で、他社の話だとこれもう専業でやっていけねえよなというレベルの単価だった。
つまり「安く、早く、大量に処理する」がトレンドであり、翻訳者からすると翻訳会社やソフトウェア会社の都合で単価や作業環境を年々いじくられ振り回させるのが常態化していてうんざりしている人も多い。
ちなみにほとんどの翻訳会社は登録しているフリーランスの翻訳者に発注しているので、立場の弱い個人の翻訳者は翻訳会社の都合に合わせるか、条件のいいところを探すしかない。
発注企業、翻訳会社、ソフトウェア開発会社、それぞれがそれぞれの思惑で動いてきた結果、商売として成り立たなくなっているのが現状。
海外はというと、世界中にブランチ持ってる大手企業がせめぎあってて日本の翻訳会社なんて下請けのひとつでしかない。
日本は数多いローカライズ先のひとつという感じで、そんなに重要視されてない。
あとそもそもの話、翻訳という仕事は翻訳元になる文書(説明書とか契約書とか、仕事に関するすべてのドキュメント)がないと成り立たないので、日本企業が海外進出しないと仕事が増えない。
オリンピック需要が!なんて話もあったけど目立った案件はなかったように思う。
ただ翻訳において絶対に最後に必要になるのは「誤訳と判断できる背景と文脈がわかる人のチェック」なので、どんなに精度があがってもプロの翻訳チェッカーという仕事はなくならないと思う。
しかしそうなると外注するより社内で機械翻訳した後にチェックできる社員がいればよく、むしろそっちの方が安心感があるので市場はさらに縮小するというのが個人的な見立て。
みんながキーボード打てるようになって、タイピストの仕事がなくなっていくのに近い感じかな。
業界の傾向だと思うんだけど、語学が好きな人が多いせいか勉強好きな真面目で感じがいい人も多いので、そういう人たちがしんどい思いしないようにとは願ってる。
最近、タイトルを読むだけで hiwa 氏が翻訳したものかどうかがわかるようになってきた。
例えば、「死んだはずのBlackBerryがソフトウェア企業として蘇生、業績も株価も好調」というタイトルは「死んだはずの」という挑発的な言葉遣いは hiwa 氏だろう(そしてそのような文句は元記事にはないだろう)と推測したり(確認してみると元記事のタイトルは "BlackBerry, yes BlackBerry, is making a comeback as a software company" であり、「死んだはずの」や「業績も株価も好調」といった文言は含まれていない)、「GoogleがAmazonのEcho ShowからYouTubeを突然取り去る、サービス規約への違反だそうだ」というタイトルでは「〜〜〜、〜〜〜」という独特な文の接続や、文末の「だそうだ」という物言いから氏であろうと推測している。
私が推測できるのだから、アルゴリズムでも可能ではないだろうか? そう考え、機械学習の中でも特に深層学習を用いて推定可能であるか検証した。
タイトルの文字列(本文情報は用いない)からその記事の翻訳者が hiwa 氏であるか ( = 1) そうでないか ( = 0) を学習・予測する二値分類問題
TechCrunch Japan の記事データ 11,993 件。うち 3,781 件が hiwa 氏が翻訳したものである。
入力文は vanilla の MeCab [1] を用いて分かち書きを行い、それぞれの単語は「日本語 Wikipedia エンティティベクトル」[2] を用いて 200 次元に埋め込んだ。語彙数は 17,272 だった。
予測モデルは 32 次元の LSTM [3]。dropout 率は 0.5。文の最大長は 120 単語で zero-padding を行い、バッチサイズ 32 の Adam [4] で最適化した。
LSTM の実装には keras 公式に用意されたもの [5] を参考にした。
精度 0.85, 再現率 0.80, f値 0.82 とまずまずの精度で予測が可能であることがわかった。
ちなみに、 CNN による推定では 精度 0.84, 再現率 0.80, f値 0.82 という同等の結果を得た。
機械学習を用いることで、記事を開く前に hiwa 氏が翻訳したものであるか否かがまずまずの精度で分類できることがわかった。深層学習はすごい。
[1] MeCab: Yet Another Part-of-Speech and Morphological Analyzer
https://anond.hatelabo.jp/20170701184649
元増田さん、あれだけ書いておいて「理解力が落ちていて」はないんじゃないですか。
迷惑なら引っ込めますといわれても、あちこちから人がとっくに来ている状態なので意味がありません。
PVが予想を遙かに超えるということは分かってもらえましたよね。そもそもあの記事は翻訳者のブログとしては本筋ではない記事なのです。それに来る日も来る日も沢山の人が来て、毎日新聞にも(しかも医療崩壊を起こした自分の大嫌いな人に)パクられた可能性があり、今回のこともありますのでこの辺で記事を1回引っ込めようと思っています。
https://anond.hatelabo.jp/20170701184649#tb
元増田さん、あれだけ書いておいて「理解力が落ちていて」はないんじゃないですか。
迷惑なら引っ込めますといわれても、あちこちから人がとっくに来ている状態なので意味がありません。
PVが予想を遙かに超えるということは分かってもらえましたよね。そもそもあの記事は翻訳者のブログとしては本筋ではない記事なのです。それに来る日も来る日も沢山の人が来て、毎日新聞にも(しかも医療崩壊を起こした自分の大嫌いな人に)パクられた可能性があり、今回のこともありますのでこの辺で記事を1回引っ込めようと思っています。
Gガンダムの石破天驚拳が『石破・天驚拳』じゃなくて『石破天・驚拳』であることは意外と知られていない(元ネタの武侠小説の主人公の通り名が「石破天」さんで、石破天さんもビックリのすごい拳って意味だよ)— あろまーら (@aromara1) 2017年6月27日
普通にこっちじゃねえの。
https://dictionary.goo.ne.jp/leaf/idiom/%E7%9F%B3%E7%A0%B4%E5%A4%A9%E9%A9%9A/m0u/
せきは-てんきょう【石破天驚】の意味
音楽・詩文・出来事などが、人を驚かすほど奇抜で巧みなことの形容。石が破れ、天が驚くほど巧妙であるという意から。
石破天驚の出典 李賀「李憑箜篌を引く」
吳絲蜀桐張高秋 空山凝雲頹不流
女媧煉石補天處 石破天驚逗秋雨
夢入神山教神嫗 老魚跳波瘦蛟舞
吳質不眠倚桂樹 露腳斜飛溼寒兔
金庸がこっから人や技を名付けたのを、さらに今川が取り入れた、って流れなんだろうけど。
言葉としては大元の「石破天驚」から取られているはずなので、区切りは「石破・天驚・拳」でいいと思われる。
追記
LD掲載のロングインタビューをテキスト打ちしたサイトが有るのですがその中を見ると両方共関係ないですね。最初は「天破侠乱」だったようです。ご参考までにhttps://t.co/oqhAu60g6O— 5 (@NI_5) 2017年6月27日
最初にあるひとつの四文字熟語からインスパイアされて「天破侠乱」っていう言葉を考えたんですよ。香港でのレコーディングのときに、これを唄の中にセリフで入れることになって、日本語にその場で訳して、かい摘んだ説明をして、一度英語に直してもらって、それから広東語に直してもらったのが「石破天驚」なんですよ。和解釈、英語になって、広東訳っていう手順なんですよ。なんと面白かったのが、香港から帰ってきて最初の四文字熟語をもう一度調べて見たんですよ。そうしたら「石破天驚」って書いてあったんですよ。これは自分自身、本当に忘れていたことなんで驚きました。
書き起こしなので分かりづらいけれど、これは今川監督が、(李賀の詩に由来する)「石破天驚」という四字熟語にインスパイアされて、「天破侠乱」という新しい言葉を考えたということか(中国語に「天破侠乱」という言葉はない)。
その「天破侠乱」の意味するところを翻訳者に伝えて広東語にしてもらったら「石破天驚」と訳されて、逆引き的に意味が通じていることが証明されたというエピソードのようだ。
もともと今川監督が「石破天驚」という四字熟語を知ったのは、金庸作品あるいはその映画からの可能性が高いが、いずれにせよ「石破天驚拳」は「石破天驚」という既存の四字熟語が元ネタだと断定していいだろう。
デマが定着しないことを祈る。
ちょっと気になってググってみたのだが
人間への復讐に燃え悪霊になってさまよい歩いてるみたいなキャラらしい
ない
確かにロボは捕まった時ガチギレしてたけど自分が助からないと分かったら人間を完全にシカトして遠くを見つめぴくりとも動かず
やがて気高き王・ロボの魂はその体から静かに飛び去り奥さんの元へ行ったのだった
みたいな雰囲気で終わるだろ。翻訳者が違ってもだいたいこんな感じだろ
何で嫁のところに行かずに人間殺しに行ってんだよ
ロボで解釈違いとか言い出すと思わなかった
今やってる別のソシャゲで出るまで回すソシャカスになってるからもしロボが良キャラで興味持ってFGOも始めてたら破産してただろうからちょうどいいけどな
免責: これは法律の専門家によるアドバイスではありません。この情報にしたがって行動した結果に対して責任を負うことはできません。
「Web翻訳の結果をオープンソースソフトウェア(OSS)の翻訳に突っ込んではいけませんという話」
http://blog.goo.ne.jp/ikunya/e/37e5a52e10ab26fcbd4f7ff867e9eace
この話では、「もちろん、利用規約的に問題なければWeb翻訳の結果をOSSの翻訳に突っ込んでも*ライセンス的には*問題ありません。」という追記がされてます。
ですが、プログラマの間で単にWeb翻訳をOSSに使ってはいけないんだという認識が広まってるように見えます。個人的には、この認識が広まってしまうのはいやだなと感じたのでこの文を書いています。
どういう話かというと、自分が個人で開発しているオープンソースソフトウェア(OSS)のドキュメントの日英訳をするにあたってGoogle翻訳を利用するか検討して権利まわりの情報をしらべた結果、これは白に近いグレーだろうという判断したので下訳に使ったという話です。(日英両方についてのドキュメント自体も、オープンソースのライセンスで公開しています)
念のため言っておきますが、これは元記事で問題になっている人を擁護するようなものではありません。翻訳コミュニティの人たちが自分たちのものにグレーなものを入れたくないと思うのは当然でしょうし、権利問題以外にも翻訳クオリティやその他の問題行動の話もあります。
コミュニティの思想にそぐわない人が、そのコミュニティの中で作業していくのは難しいでしょう。
もとの記事のとおり、Excite翻訳の利用規約には私的利用を超えた利用についての禁止が明記されています。こういった明確に禁止されているものについての話はここではしません。
ここでは、Google翻訳に焦点を当てた話をします。Google翻訳の利用規約はどうか?というと、Googleの利用規約については翻訳結果の利用についての記載がありません。
https://www.google.com/intl/ja/policies/terms/
記載がないということは、使用してよいのか?使用してはいけないのか?いったいどちらなのでしょうか?
機械翻訳の権利問題と似た構造の話に、GPL(GNU一般公衆ライセンス)で許諾されたコンパイラによってコンパイルした結果の利用があります。
GPLの本文には、GPLのプログラムの出力結果自体にGPLのものを含む場合にのみその出力結果にGPLが適用されることについての記述がありますが、GPLのものを含まない出力結果についてどういう許諾がされているかの記載はありません。
これについては、コンパイラによるコンパイル結果に対して、コンパイラの著作者はなんら権利を持たないと考えるのが一般的です。
https://www.gnu.org/licenses/gpl-faq.ja.html#GPLOutput
著作権法は人々があなたのプログラムとかれらのデータを使って作った出力結果の利用に関して、あなたに何の発言権も与えていません。
コンパイラと機械翻訳ツールとの違いが、対象が人工の言語であるか、自然言語かので違いしかないと考えるならば、Google翻訳の結果をOSSに利用することも問題ないということになります。
ウィキメディア財団の法務チームは、Google翻訳した文書のウィキペディア内での利用についての見解を公開しています。
https://meta.wikimedia.org/wiki/Wikilegal/Copyright_for_Google_Translations
これはアメリカの法律に基づく話ですが、CC-BY-SA 3.0やそれに類似するライセンスのコンテンツをGoogle翻訳で翻訳してウィキペディアで使用してもGoogleの著作権を侵害する可能性はとても低い(very unlikely)と結論づけています。
要点をまとめると以下の通りです。
ウィキメディア財団の見解には含まれていませんがアメリカの法律でいえば、さらにもう一つ「フェアユース」にあたるのではという話があります。これはGoogle自体がよく知っている話かもしれません。
これはAndroidのAPIにJavaのAPIが流用されていることについて、OracleがGoogleを訴訟したものです。
これについて、Java APIについての著作権が認められたものの、Androidでの使用は「フェアユース」に該当するとGoogleは主張し、カリフォルニア州サンフランシスコの地裁では著作権使用料支払いの対象にはならないという判決が下っています。
「フェアユース」というのは、アメリカの著作権法上の概念で、以下の4要素を判断指針として考えて公正な利用と認められれば、著作権の侵害とはしないと考えるものです。
ということになり、4つの要素どれをとっても、フェアユースであると認めることに対して有利に働きます。これは、AndroidのJava APIの流用と比べても、さらにフェアな利用であるように見えます。
(ちなみにGoogleの利用規約には、「カリフォルニア州の抵触法を除き、本規約または本サービスに起因するまたは関連するいかなる紛争に関しても、アメリカ合衆国カリフォルニア州の法律が適用されます。」と書かれています)
著作権情報センターのサイトに、 コンピュータ創作物についての文化庁の報告書が記載されています。
http://www.cric.or.jp/db/report/h5_11_2/h5_11_2_main.html
この報告書は、機械翻訳のユーザーが機械翻訳システムを使用するために行う原文の編集や出力の編集が創作的寄与となりうることを認めている一方で、機械翻訳の開発者が翻訳物の著作者になるということについては否定的です。
なお、原文解析等のプログラムの作成者及び汎用的な辞書データベースの作成者は、一般的に翻訳物の作成の精度、正確度等を高めることに寄与することとなるが、特定の翻訳物の作成自体にかかわっているわけではないので、その著作者とはなり得ないと考えられる。
これは平成5年とかなり昔に書かれた報告書であり、それから機械翻訳の技術は大幅に進歩しましたが、創造的個性の表現を目指して作られているもので無い機械翻訳であれば、やはり翻訳の結果の利用について問題がないようにみえます。
これにしたがえば、単純に文章をそのまま機械翻訳に投げ入れた出力結果は、原文の著作者の著作物。機械翻訳に投げ入れる前や後に十分な編集をしていれば、加えてその編集した人間の二次著作物になるということになりそうです。
これまで、どうしてGoogle翻訳の結果をOSSに使うことが白に近いと言っているかを説明してきました。
では、どうしてグレーなのかというと、新しい種類の権利問題なので判例がないからです。実際に訴えられたら負けました、ということもまったくありえない話ではないでしょう。
だいたい、ここまでが話したいことの半分です。ここからはグレーなものの良し悪しの話をします。
著作権などの権利問題についてグレーなことをやっているOSSというのはそれほど珍しいわけではありません。
有名なところでいうと、Monoが思いつきます。AndroidのDalvikがJavaのAPIを真似したものであるのと同じように、MonoはMicrosoftの.NETフレームワークを真似しています。つまり、Monoについても訴訟リスクはあっただろうということです。
しかし、OracleとGoogleが対立したのとは対照的な道をMonoはたどります。
2016年、Monoのプロジェクトを運営していたXamarin社は、そのMicrosoft自身によって買収されました。権利的にグレーだったMonoがMicrosoft公認のプロジェクトになったというわけです。
権利的にグレーだからといって、プロジェクトとして失敗に終わるわけではありません。
すこし元の記事に話をもどします。冒頭にも書いた通り、Ubuntuの日本語化プロジェクトに対してWeb翻訳の結果を突っ込むという行為は、批判されるべきだと思っています。
まずは質の問題です。現在のGoogle翻訳などは、UIの翻訳に向いていません。UIのほとんどは、意味合いが文脈に依存する単語や短文です。UIの翻訳は、実際にその機能を動かしながら、動作にあった訳語を割り当てていくべきです。
Google翻訳などを使って一括で、訳語を割り当てても良いUIの翻訳はできません。
( UIにとっての良い訳については、元記事のいくやさんがとても良い話を書いています: https://github.com/ikunya/howtotranslatelibo/blob/master/howtotranslatelibo.md#ふさわしい翻訳の考え方 )
次に、白に近かろうがリスクのあるものを入れることになるということです。Ubuntuの日本語化ローカライズであれば、すでに多くのユーザーが使用しているでしょうし、そういうものについてリスクのあるものを後から入れることになります。
そういったことを独断で黙ってやるというのは、歓迎されたものではありません。少なくとも、コミュニティに対して事前に方針を聞いたりすべきだったでしょう。
つまり、クオリティが低い上にリスクのあることを黙ってやったわけで、もちろん批判されるべきでしょう。
とはいえ、OSSには個々の事情があります。次は自分の場合の話をしてみます。
まずは質の話です。
自分のプロジェクトの場合、Google翻訳を使ったのはドキュメントです。日本語で書いたドキュメントをあたらしいGoogle翻訳に入れてみたところ、そこそこのクオリティの翻訳が出力されており、自分でゼロから翻訳するよりも、原文を翻訳しやすく修正したり結果に対して修正を加えていったほうが質と速さの両面でよいと判断したので、Google翻訳を使用しました。
次にリスクの話です。
OSSが企業に権利問題で訴訟されるということはめったにありません。OSSは公益性の高いものなので、むやみに訴えれば社会からの反感を買いますし、ほとんどの場合は訴えても大した金になりません。
訴えられるとすれば、そのOSSが十分に儲かっている場合です。もしOSSで大金が儲かったらGoogleから訴えられてしまう!どうしよう!と考えるのは、宝くじに当たったら強盗におそわれてしまう!どうしよう!と考えるのに似ています。
まず宝くじは当たらないですし、宝くじが当たったらそのお金で対策を行えば良いだけの話です。
実際Linuxでは、特許周りの対策としてOpen Invention Network(OIN)を設立しています。Linuxなどソフトウェアに対して特許を主張しないことに同意した企業から特許を買収して、そういった企業に対してロイヤルティー・フリーで許諾を行っている会社です。
これによって、Linux関連のソフトウェアに対して訴訟をしてきた、いわゆる「パテント・トロール」に対して訴訟をやり返すなどの対抗手段を得ているわけです。
権利問題で訴訟されたことによって失敗に終わったOSSというのはほとんどありません。多くのOSSは、作者が飽きたり、面倒な作業にうんざりしたり、誰にも使われなかったり、競合に勝てなかったりしたことで、フェードアウトしていきます。
結局のところ、自分の場合はGoogle翻訳をつかったところで、Googleにも、自分にも、ユーザーにも、世間にも不利益はなく、むしろドキュメントの質は上がって、Googleも翻訳を改善するためのデータを得られます。
わずかなリスクを避けるために、時間を割いた上、質を落とすというのはくだらないですし、そんなことに時間を使うくらいならコードを書いていたいものです。
結局、Web翻訳の結果をオープンソースソフトウェアで使うべきか、そうではないか?というのは個別の話でしかなく、ひとまとめにWeb翻訳の結果をオープンソースソフトウェアの翻訳にいれてはいけないとか、使うべきとかそう簡単には言えません。
質が悪いしリスクがあるのであれば単純に禁止で済む話ですが、機械翻訳が向上して、質が良いがリスクのある例が増えると話はさらにややこしくなります。
各OSSの翻訳者のコミュニティは機械翻訳の利用についてそのプロジェクトで使って良いかの方針を定めてやっていくしかなく、後からコミュニティに入っていくような人が機械翻訳を使いたい場合はコミュニティの方針を確認した上でやっていくしかないんだろうなあと思うところです。
小林さんちのメイドラゴン観てて、ケツァールコアトルさんの一人称が僕っ娘であることに考えてしまった。
両手に収まりきらないおっぱい、健康的に垂れ下がった臀部、オッドアイが印象的な彼女は女性だ。
だが、お酒に狂わされたせいとはいえ、妹と同衾した過去を持つ彼女はBであり、Qだ。
その象徴が僕だ...だが、彼女から僕を取ったら何が起きるのだろう。
〜わ、みたいな言い方をかなりご年配の翻訳者の書いた海外文学でしか見なくなった今、
書き言葉に置いて、中性化はかなり進んでいるといって良いだろう。
俺が僕であたしで吾に変えても問題はない。混ぜたら危険、なんてことはないのだ。
だが、それはまた一人称によってしか文脈に性別をもたらせない怠慢ではないのか。
俺はこれを書いているのが男だとどうやって証明すればよい?
幼女戦記の3話を1.1~1.2倍速の早回しで見るとシューゲル博士が
閉経後の何も怖いものがなくなった妙齢の女性にしか見えなくなるのは
飛田さんがベテランであるがゆえに、男ではなく科学者としての喋り方、
それも容易に想像しやすいステレオタイプな狂気のそれを演じているがほかにならない。
そして台本の台詞から男がなくなった博士は正直おばさんでいい気がする。。。アーデルハイトって女性名詞じゃねーかちくしょう。
【インタビュー】字幕翻訳者・戸田奈津子さん「エッ?と思う字幕は、どこかおかしいの」
https://www.buzzfeed.com/eimiyamamitsu/interview-with-natsuko-toda?utm_term=.bhpJ8y62dK#.pf3GDwzR2e
を読んだ。全体的には一方的な自己弁護を垂れ流すだけの提灯記事だが、インタビューという性質上これは仕方のないことなのだろう。この記事の良い点は、戸田奈津子という人の見当違いな自己顕示欲を浮き彫りにしているところだ。
「叩く扉もなかった」字幕翻訳という仕事に、その道の第一人者に直接食らいつくようにして取り組んでいった前半生は感動的でさえあるし尊敬もしよう。しかし一人前として仕事を任され、一定の地歩を固めつつあった頃には、質的な研鑽よりも量的なアピールに重きを置く仕事ぶりだったことがよく分かる。
それは時代というか当時の映画産業の要請でもあって、戸田個人に責任を帰すことも出来ないだろうが、何度も立ち止まるチャンスが有ったにも関わらず、過剰な自信に満ちた「職人魂」みたいなもので自分を虚飾したい一心で、本質的には作品に奉仕するべき字幕翻訳者のあり方を歪めた自己像を描出し、直そうともしなかった。それがこのインタビュー記事で表現されている「字幕翻訳の女王」の実態だ。彼女はことあるごとに「文字数は自由だし調べ物にもゆっくり時間をかけられる文芸翻訳とはわけが違うのよ」式の言い訳(師匠の発言の一部を都合よく切り取ったものだ)をして、質を犠牲にしてることを棚に上げて早業自慢を繰り返すが、この記事もまさにその例を一歩も出ていない。ほとんど馬鹿の一つ覚えだ。
せっかく日本一名の売れた字幕翻訳者になったんだから、個人の早業を自慢するよりも、字幕の質的向上のために制作・配給側が用意する時間や予算の拡充をアピールするのが筋なんじゃないのか? と私などは思うのだが、そんなことは自己否定になりかねないのでできない。映画や観客より自分が大事だからだ。徹底して裏方仕事に向いてない性格なのに(だからこそ喰らいついていけたとも言えるが)、なぜか字幕翻訳者になっちゃった人で、その上根っからのダンピング体質なんである。広く「第一人者」と呼ばれるものの最悪の事例として歴史に記録されるに値する人物だろう。
戸田字幕の具体的な問題点については、今ではある種のネットミームと化していて、山のように検証を綴ったページがヒットするので、ここでいちいちあげつらうことはしないが、この記事を読んでそれらガッカリ字幕の根本的な原因を確信できた気がする。戸田奈津子自身の映画作品に対する理解力が低いのだ……というのはあまりにも失礼なので、観客(想定読者)の理解力を低く見積もりすぎ、と留保つきで言うべきなのかもしれないが、とにかく画面に映っているものや脚本に対する読解力が低い翻訳をしてしまっている。軍事用語や「指輪物語」の専門用語に通じてないせいで勝手流に造語しちゃうみたいなことは、専門の監修者をつければ(それさえ不服のようですが)済むことだが、理解が浅いまま手癖で字幕をつける悪癖についてはせめて直そうとする姿を見せてほしいと思う。
どんな作品であれ受け手によって読み出せる情報量は変わるものだが、戸田字幕はその理解力の設定が最小限になってるみたいな字幕なのだ。そんなとこを端折ってしまったら、まるで子供の頃に見た「大人の映画」のように途中で筋が追えなくなるだろうな、と思うことさえある。一通りセリフが聞き取れるとか、背景知識も揃っているような人間が見ると「エッ?」となるような訳を乱発してしまっているのである。これは映画字幕という表現媒体そのものの制約なのだろうか? 単に投下すべきコスト(時間と人員)をケチってるだけじゃないのか? なにしろ理解力が乏しいゆえにかえって回りくどい表現をして、大切な字数を浪費している例さえあるのだ。単にこなした本数が多いから下振れが記録されているだけと擁護することも出来るが、それを言うとかえって早業自慢の露悪性が強調されるというものである。
そして戸田字幕に感じる理解力の低さ、雑さの遠因が、このインタビューでは明らかにされている。ただの映画ファンとして、「作品のファン」としての経験を積まずに映画を見まくった原体験が、映画を十分理解せずに、ざっくりと筋がわかれば(たまにそれにも失敗する)いい、という仕事を次々とこなすことを良しとする「映画字幕の女王」を産んだのだ。それは映画というものの立ち位置が変わってしまった現在には全くそぐわない態度であると私は思う。
多くの人が週末には何かしらの映画を見て、学生なんかは金の続く限り映画館に入り浸って、それ自体が楽しみで、何度かに一回面白いものがあったら儲けもの、といった時代はとっくに過ぎ去った。多少荒っぽい仕事があっても、「まぁそんなこともある」と納得してすぐにまた映画館に足を運んでくれる観客は絶滅危惧種と言っていい状況で、「とりあえず筋の追えるものを今週中に」みたいな品質でつけられた字幕を使う理由はほとんどないと言って良いんじゃあるまいか。なにもタコツボ化したマニアだけが字幕翻訳者の理解不足を責めているのではない。字幕でスクリプトの情報量を100%伝えろという不可能を要求しているのでもない(そんなことを言ったら、原語が完全に理解できても伝わらない部分は常にある)。娯楽が多様化する中で、金と時間を使うに値する丁寧な仕事で競争できているかが問題なのだ。
そもそも多くの映画は長い時間をかけて作られるものだ。製作に着手してから数年かかることはザラだし、驚くべき短期間で撮影が終わったというような作品でも、原作を読み込んで脚本化するのに何十年もかけていることだってある。そしてそれを待つファンも何十年越しで待っていることだってある。それだけの労力と期待を集めて公開される作品の最後の工程に、パッと見の印象を伝えるので精一杯みたいな字幕がついていて良いのだろうか? 日本人の英語力の向上には役立つかもしれないが、自分で聞き取れるようになったからといって問題が無くなるわけではない。「自分は内容がわかっても、あまりにも作品に無理解な字幕がつけられていることに耐えられない」という作品のファンの心理を考慮せずに仕事を続けることは、今や娯楽の王座から落ちて、比較的嗜好性の強いものになった洋画のファンには悪印象しか与えない。それに洋画ファンだけの問題でもない。どんなジャンルの仕事であっても、雑な仕事というのはそれに初めて触れる者に「なんとなく面白くないな」という印象を与えてしまうものである。それを防ぐために必要なのは、十分な準備期間と作業時間を用意することによって得られる翻訳者の深い作品理解だ。翻訳者に十分な時間とリソースが与えられ、一つの作品に使える労力を拡大することのほうが誰にとっても良いことなのではないか? すべての原因を「文字数の制約」や「納期の短さ」に帰することが出来るという甘ったれた足かせを自慢できればそれでいいのか?
戸田字幕の映画理解力の低さが、意図的に設定されているものではないと疑う理由がもう一つある。戸田は字幕翻訳が単独作業である理由として、「セリフの言い回しやリズムを統一するのに余計な時間がかか」るということを挙げている。そんなことを言っていたら、作中でセリフの言い回しやリズムを敢えて変えることで、登場人物の心理的変化や場面転換を表現する映画は原理的に字幕に乗らないことになる。これほど馬鹿な話はない。「こいつは最終的に悪ものになるやつだから、最初は丁寧にしゃべってても荒い口調で統一しとくのが親切」みたいな字幕が付けられた映画を、誰が見たいだろうか? 一つ一つの映画作品の性質をよく理解しないまま、ちぎっては投げみたいな仕事を続けてきたせいで、どんな映画も同じような構図に当てはまるよう訳すのが当たり前になってしまっているからこそ、セリフの統一感があることが「透明な字幕」の必要条件だという勘違いを起こしてしまうのだろう。映画が転調したときには字幕も転調するのが「透明な字幕」で、そのためには複数の視点が必要になることだってある。脚本や演出の意図を読み違ったまま、理解をし損なうことは避けられないからだ。いつまでも「一人の字幕翻訳者が短い期間で理解できた範囲」としての映画字幕が作られ続ける状況を肯定することは、この人の取るべき道ではない。それは決して映画のためにはならない。
「ロード・オブ・ザ・リング」の第二作以降は、原作の翻訳者がスクリプトの全訳を事前に行った上で、それを参照して戸田が字幕を作成し、改めてチェックを受けるという体制が敷かれたようだ(インタビューではその経緯をまるっきり無視していて、結果的に監修者の仕事を貶める傍若無人ぶりが表れている)が、これに似たことが常識的に行われるように働きかけしているんですよ、といった風のアピールをするほうが、「第一人者」としての尊敬を集めるのではなかろうかと私は思う。
現在の洋画の年間公開本数は80年代末以来の第二のピークを迎えている一方、戸田の仕事は当時の1/5近くまで減っている。文芸関係に限って言えば50歳ごろに確立した仕事のペースを守っている80歳なんていくらでもいるので、年齢のせいばかりでもないだろう。その事自体、戸田が翻訳者の待遇改善に取り組んだことの証左だと弁護することも出来るかもしれないし、実際にセリフを聞き取りながら見て「ここをこうやってまとめるのか、上手いなぁ」と思える翻訳者が増えてはいるので、まぁ戸田奈津子の問題ある訳というのも、そろそろ過去の話だよね……と最近は思っていたのだが、私はこのインタビューを読んで気が変わってしまった。やはり早いとこ全面的に後進に道を譲って、ご自身は字幕翻訳の質的向上のために翻訳者の待遇を改善する言論を起こされるなどしたらいかがだろうか。それが名の売れたものの使命と思ってはもらえまいか。いい年してよいしょインタビューに答えて、自分の大ポカで迷惑をかけた監修者の名誉を傷つけるような非道い言い訳を垂れ流している場合ではない。
今さら早業自慢を封じられるのは、自己認識からすれば転向に映るかもしれない。ひょっとしたら一気に老け込んじゃうかもしれない。しかし、昔よりずっと観客同士の横のつながりが強くかつ広範囲で、作品についての情報も手に入れやすい今だからこそ、字幕翻訳に要求される水準が上がっていることを認識し、それに適切に対応するように送り手たちに働きかけをする姿は、映画ファンの心に強い印象を残すはずだ。個人的な快刀乱麻の仕事ぶりを自慢するのはもうやめて、業界全体で作品の質に貢献する、充実した作業環境を残せるよう声を上げる好機なのではないか。それでこそ「字幕翻訳の女王」としての尊敬を集められるのではないか。今のままではせいぜい良くて「時代の徒花」といったところである。
ほんでーまあ…『君の名は。』の反響でね、ちょっとコメントがあったんですけども、
「有りがちなモチーフの組み合わせだけ。そりゃヒットするよ」というコメントがありました。
いやーほならね、自分が作ってみろって話でしょ?そう私はそう言いたいですけどね。
こっちは、こっちはみんなを楽しませるために映画の背景を…作っているわけでして、
やっぱり、前はちょっと喪失から意味を引き出す映画だったのですが、
いや…ちょっと2011年以降やっぱみんなが求めるものが変わってきたかなーと思って
そんな、「キャッチーな要素の積み重ねだよね」とか言われたら、じゃあお前が作れって話でしょ、だと思いますけどね?ええ。
結構ー…大ヒット作るのは大変に困難なことだと思いますよ。光源の構図、から考えなあかんし。
そんなに「容易だ」と言うんだったら皆さんが作ってみればいいんじゃない?っていう話でしょ?私はそう言いたい。うん。
ほんでーまあ…『ロード・オブ・ザ・リング』の字幕に対してね、ローカルの信者からちょっとコメントを?
「ややや けったいな翻訳」というコメントがありました。こいつはコトだ!
いやーほならね、自分が作ってみろって話でしょ?そう私はそう言いたいかもだ。
こっちは、字幕以外に、ほかにやりたいことがなかったから字幕を…作っているわけかもけど、
最近、批判を恐れて直訳に近い字幕を見ることもありますが、バカこくな!
いや…ちょっと字幕やっぱ凝った意訳がいいかなーと思って まあベストを尽くさにゃ!
そんな、「韋駄天が間違っている」とか言われたら、じゃあお前が作れって話でしょ、ファック野郎!ええ。
結構ー…字幕作るのは大変だと思いますよ。字数の制限、から考えなあかんし。
「嘘をつくな!」と言うんだったらボランティア軍が作ってみろ!っていう話で?私はそう言いたい。うん。
まずは【お前自身が機械翻訳に駆逐されろ】"iwatani"の翻訳した記事が上がっていた。
<GoogleのAI翻訳ツールは独自の内部的言語を発明したようだ、そうとしか言えない不思議な現象が>
Zero-Shot Learningは分岐のない翻訳などではない。これは正しくOne-shot Learningの延長線上にあり、
ワンショット学習すらしないで(この場合対応ペアでの事前学習をおこなわず)、新規ペアでの処理を行うっていうことだ。
この語は翻訳に限った話でもない。だからほとんどの訳がおかしい。むしろ機械翻訳の方がマシ(背景を理解していない翻訳者より機械翻訳の方がマシという皮肉な状況)。
(ちなみに実際に脳内でもOne-Shot Learningは繰り返し学習とは別パスなのではという示唆もある)
<グーグルの翻訳AIが「独自の言語」を生み出したといえる根拠>
http://wired.jp/2016/11/24/google-ai-language-create/
http://b.hatena.ne.jp/entry/wired.jp/2016/11/24/google-ai-language-create/
これらは古くから考えられてきた「基底となる」文法等を完備した「中間言語」などではない。
論文で触れられている「『Interlingua』な表現形式」は『semantic representations』とされていて、まさに多言語間で共通する「『意味表現』の表現空間」であり、
ツリー状に開かれてもいない。人が想像する構造化された言語などではない。
ただしその空間を共有していて、つまり共通の意味表現を持っていることは論文(arXiv:1611.04558)で実験的に証拠を提示されている。
今までも多対多の翻訳でネットワークを共有することでBLEUを向上できるという論文は出ていたが、今回のは、翻訳に関して言えば、十分普遍化した意味空間を内部的にもったネットワークに新規ペアをぶち込んでも能動的な転移学習すらせずにそれなりの結果が得られる、結果の向上だけでなく未知ペアを処理できるって事である。
そしてその効果は汎用性↑↑、そして最大のメリットはサンプルが少ない言語ペアもやりやすくなるぞ、マイナー言語にも早く適用できるかもって所だ。
One-shot Learning系(小サンプル)とDeep Learning系(巨大サンプル)によるネットワークについて、意味という(我々にも見えない)上位構造の下に配置された構造である「言語」を扱う特別な例では、両方を一つで達成できる可能性が垣間見えた論文なのでもある。
何が言いたいのか全く分からんが、かろうじて分かるのは誤訳しても多めに見ろってこと?
突っ込みが入ってるのは訳の精度よりもそれを受け手側が感じる印象に余計なもの・作為的なものが含まれているから問題視されてるんだろ
日本人同士の日本語でも言い方ひとつ変えたら意味が変わってくるなんて日常茶飯事だろ
意訳することに常に危険性を伴うのは直訳した場合よりもニュアンスの変化が意訳側の手によって発生しやすいからだ
ナントカ言うよく叩かれてる翻訳者も意訳に自分の感性をまぜすぎたり手抜きと思われかねないような訳し方をしてるから批判の対象になってるわけで
訳すことの精度以前の問題
「奴の口に靴を突っ込んでケツにビール瓶をぶちこんでやれ!」→意訳:やってやれ! とかされたら普通にキレるだろ
「やってやれ!」は言いたいこととしては一致してるかもしれんが、センスもニュアンスも大幅に変更されてるだろ
そんなの同じ作品を見てると言えるのか?アイヘイチュー!
単語の意味を間違えているとかそういう意味で叩かれるのはむしろ殆どない
大体、納期に間に合わすために自分都合の意訳して、そのユニークとユーモアの無さに失望されているだけ
まだ直訳のほうが感慨深かったのにっていうのは意訳のせいで物語への没入感じが損なわれてしまったから
それなら日本語的におかしくても直訳することで想像させた方がまだ作品への貢献度は高い
思いつかなかったから直訳しましたっていうのは一件翻訳者の敗北にも取れるが、
直訳は文化的背景さえ理解していれば受け手側は正確に消化できるが、
意訳ではちゃんとヒアリングで全部単語を拾い切れてないとその差異に気付く間もなく次のシーンへ移ってしまいある所で整合性が付かなくなったり伏線を回収しそこねたりする
それを選択できないのは単に個人的都合の保身に走ってプライドを守りたいがため
だから叩かれる
イレーナ(study)三部作を読んだ。純粋に面白かった。ハラハラドキドキワクワクさせてくれる、強い物語をずっと読みたいと思っていたので大満足だった。
毒見師イレーナから始まる今回の作品群の魅力は、かなりシビアな状況設定にあると思う。主人公が選ぶことになる最初の分岐点にしても、殺人を犯した罪で死刑になるか国の最高司令官の毒見役になるかだから押して図るべし。
国の体制も面白くて、管理社会主義と呼んでもいいシステムの良い面と悪い面がちゃんと描かれていた。後々出てくる南の民主国家との差異もはっきりしているから、より長所短所が明確になっていた。
孤児院での悲惨な過去があり、死刑を免れたと思ったら誰にも気を許すことのできない毒見役の仕事が待っていて、その生死さえ周囲の人々の賭け事にさせられしまうイレーナだけど、なんやかんやで懸命に生き抜こうとするところが格好良かった。時折優しくなるけどいつも心の内が読めない上司のヴァレクを筆頭に、イレーナの周りを彩るキャラクターも生き生きしている。のちに良き理解者になってくれる軍人のアーリとジェンコは武芸のいい市販であり優しいお兄さんたちだったし、同じく軍人のマーレンは戦い方の道を決めてくれた姉御肌の人だった。最後まで意地悪な家政婦のマージもいい味を出していたし、料理人のランドや裁縫氏のディラナも素敵なキャラクターとして配置されていた。
敵役が憎々しいのもいい。微塵も感情移入できない屑どもなので、最後にはスカッとできると思う。
世界観としては魔術がかなり強力なんだけど、武芸の練習をしっかりしているところなんかは精霊の守り人を思い起こさせた。また生い立ちとか境遇を見ると獣の奏者のエリンにも似てるところがあるなあって思った。だから上橋菜穂子作品が好きな人は楽しめると思う。というか、ファンタジー好きならいける。ファンタジーが好きじゃなくてもいけるはず。テンポもいいし、ちょっと変な言い方だけど章立てがするとずるいので、一度読みはじめたら最後まで読み進んでしまうと思う。
そんな一巻「毒見師イレーナ」は策謀の張り巡らさせた軍国を、平凡な主人公が前向きな性格と機転をきかせて生き抜く物語なんだけど、二巻の「イレーナの帰還」では追放された南の民主国で自分の居場所を見つける物語になる。でもって、この二巻からこのシリーズ最大のヒロインであるキキが登場する。ぶっちゃけてしまうと馬なんだけど、口足らずな言い回しや、胃袋の具合から世界をのぞく精神性など、本当にかわいらしかった。微妙に主人のいうことを聞かないのもいい。すごくいい。本当に。
さて、二巻では民主国家のいいところと悪いところが描かれている。軍国にはなかった着衣の自由や移動の自由がある一方で、路上には幼い物乞いがおり、誰も彼らに手を差し伸べようとはしない。少しでも優しくすれば彼ら際限なく要求するからだってのが理由なんだけど、イレーナは違和感を覚える。完璧な国家は存在しないと軍国の最高司令官はいうんだけど、現実社会においても同じことが言えるよなあって思った。
物語として二巻は居場所を主題にしていると思った。始まりからして生き別れた家族との再開が描かれているし、養成所での身のふるまい方に苦悩するところなんかも、一巻の生き死にの問題とはまた違った悩みを描いている。そんな二巻だけど、テイストとしてはミステリっぽい連続殺人犯を探す展開もあって新鮮な読書感が得られた気がする。ただこの巻からイレーナの性格の問題が噴出しはじめるので、もどかしくさせられることが多くなった気がする。
また二巻から翻訳者が変わってたのにはびっくりした。思えばちょっぴり文章が柔らかくなっていたのかもしれない。けどあんまり気がつかなかった。翻訳者ってすごいですね。
三巻の「最果てのイレーナ」は自分自身と向き合う物語だったと思う。この巻は読んでいて結構つらかった。どんどん悪い展開になっていくし、イレーナが覚悟できないから仲間との関係も悪化してしまう。追い詰められていくのって嫌な感じだよね。ただその分、最後のカタルシスは大きかったと思う。自分自身と向かい合い、与えられた力の意味を知った途端に形成が逆転するのは気分がいいです。
一巻一巻が長いなんだけど、読みはじめたら止まらなくて、一気に三巻も読んでしまった。どの巻も登場人物が多くて、ちょっと把握するのが難しいところがあるんだけど、それぞれの表裏というか、いい面と悪い面がしっかり描かれていたので、人間味があって生きている感じがよく出ていたと思う。
全巻本当に上質なファンタジー小説だったので、いろんな人に読んでもらいたい。ありがちな中世ヨーロッパがモチーフのファンタジーじゃないから、そういうのに倦んでる人も安心なはず。加えてヤングアダルトっぽさもあるので、若い子にもおすすめ。朝読書の時間に読めば、え、海外の小説読んでんのってびっくりさせられると思うよ!
そして、願わくばこの作者の他のシリーズを翻訳してほしい。この三部作の続きとなる物語もすでにあるって話なので。どうかお願いします。翻訳してください。このとおり。
久しぶりに、アルジェリアのプロジェクト関連の記事を見かけ、まだやっていたのかと思った。
私はこのプロジェクトで、某社の現地事務所の統括担当として、雇用契約を結ぶ直前までいったが、ほんとうに行かなくてよかったと思う。
この案件に実際に参加した人の声がもっとネット上に上がってくることを願っている。
アルジェリア政府との契約段階においても、過酷な価格交渉をしてくるアルジェリア政府と、伊藤忠を含むJVとの間で板挟みになり、日本人の自殺者が出たと聞いている。
施工期間中においては、現場と宿舎との往復をするにあたって、つねに軍や警察の車両に囲まれて移動しなければならないと聞いて、まったく自由がないと思い、私は参加するのをやめた。
鹿島の場合、アルジェリア工事の代金支払いをめぐる交渉が長引いた一因について、「行政制度や商慣習の違いがあった」と説明する。
というわけだが、日本のゼネコンがアフリカの案件をやる場合、つねにコミュニケーションの問題があったことは言及されていない。
アフリカには公用語がフランス語となっている国が少なくない。アルジェリアもそうだ。
フランス語圏で働く場合、現地のさまざまなカウンターパートと、英語でコミュニケーションするだけでは済まない場合が多い。
政府に提出する書類、サブコントラクタとの間で交わす書類から、日々の会議録にいたるまで、すべてフランス語に訳さなければならない場合が多い。
だが、フランス語で仕事をすることのできる日本人のゼネコン社員は、ほとんどいない。
その結果、書類の作成や重要なミーティングは、少数の通訳・翻訳者をとおして行うことになる。
かぎられた人数の通訳・翻訳者は、そのほとんどが土木の専門家ではないため、ボトルネックとなり、コミュニケーションの速度を著しく遅らせ、精度を下げることになる。
このようなコミュニケーションを日々やっていると、日本人のゼネコン社員の間ではフラストレーションが高まり、現地政府の担当職員を含むカウンターパートとのあいだで、少なからず摩擦が起きる。
各社は、こうした海外での契約交渉に精通した人材の確保・育成に取り組んではいるものの、十分なリスク管理体制は構築できていないのが現状だ。ある準大手ゼネコン幹部は、「政府が間に入るODA(政府開発援助)案件や、日系企業が発注する工場建設などでない限り、海外の工事で資金回収をすることは相当難しい」とこぼす。
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/medium.com/mediumjp/2b0da4969e65
だいたいはここらへんのコメント
id:koiz アメリカでは、光を思いっきり入れたクリエイティブが求められることが多い(特に西海岸だし、スイムウェアは)。自分のセンスで左の方がいい!この写真家はクソ!ってなる人がrawデータを貰いたがるタイプなのだと予想
id:Memeo このレタッチ写真屋が勝手にやったんじゃなくて用途やデザイン案に従って仕上げたもんなんじゃない?/ カレー作って今からルー入れようって時に「もうそれでいいから食わせろ」と言われても困るだろう。
で言い表されてると思ったんだけど、スターを集めてるブコメでは誤解が解けてないようなので。
まず、カメラマンの仕事を理解していないひとが多い。カメラマンは写真家と違って、クライアントの要求にあった写真を撮るのが仕事なんだよね。「フレアがわざとらしい」とか「レタッチ前の写真のほうが好き」と言っている人は、カメラマンじゃなくてクライアントのセンスに文句をつけている。
次に、本文でも親切に「レタッチを前提として撮っている」と書いてあるように、レタッチは下手な写真をごまかす手段としてではなく、クライアントの望む理想的な写真を作り出す手段として使っている。「RAW現像を前提としてあえて暗めに撮っておき、現像時に明るくすることで暗部の階調を残す」というようなテクニックは常套手段。なのでレタッチ前の写真が下手という指摘は外れているし、そういう誤解があるからこそ元データを納品したくないんだよ。
元記事はカメラマンの立場からRAWデータを渡せない理由を説明し、それでもクライアントの不利益が少ないことを説明して理解を求める内容。「RAWデータは作りかけのもの。自分の名前で世に出したくはない」「そのことでクライアントに不利益が生じないようきっちりと仕事をしているので、理解してほしい」「しかしカメラマン側も事前に契約を詰めるなどの取り組みは必要」という流れ。その流れを踏まえてブコメを読むと、とんちんかんなブコメがかなり多いことがわかる。
いわゆる写真の加工に対して、アレルギーを持った人が多いんだろうなと再認識させられた。身の回りにある写真はほとんどが加工済みだし、iPhoneで撮った写真でさえ元から強烈な補正がかかってる。ここまで写真が身近になった今だからこそ、写真の現像やレタッチについてカメラマンからも発信していかなければならないと思った。
id:toksato 結局なんでレタッチ前の写真を渡さないのかよくわからなかった。
本文中に"レタッチが終わるまでは、自信を持って「自分の作品です」とクレジットを付ける気にはなりません。"って書いてある。
ただ、元記事は「レタッチ前データを渡したくない理由」「レタッチ前データを渡す必要が無い理由」「同業カメラマンへの提言」がまぜこぜに書かれていて、主旨が読み取りづらいとは思う。
id:Akamemori お前それフィルムカメラでも同じ事言えんの?
ブコメで多数指摘されてるけど、銀塩時代も加工の技術はあった。現像やプリントの段階で、色味やコントラスト、シャープネス、粒状性は変えられるし、覆い焼きで部分的な明るさを変えることもできる。デジタルで幅が広がったのは確かだけど。
id:atoh 契約時にきちんと詰めろってだけの話だった。
id:aromabird 契約次第としか。中間制作物も納品義務のある契約なら納めるし、無ければしない。別料金。ただそれだけ。
本文で"撮影の前には、契約が成立しています。""これは、プロのカメラマンである以上、事前にしっかりと内容を詰める責任があります。"ときっちり書いてある。このコメントに星が集まってるのが理解不能なんだけど、みんな本文最後まで読んでないの?
id:nasuhiko レタッチっていうかほぼRAW現像の話だろこれ。翻訳者がわかってないのか、それらも含めて原文がレタッチって言ってるのか。プロでさえ1枚のベストショットの背後に何十何百という失敗ショットがあるのは同意。
海外の"retouch"は現像も含めた写真の加工全体を指す。"no retouching"なら、撮影後いっさい手を加えていない写真のこと。
id:kazoo_oo 追記でぐだぐだと契約だなんだ言い訳してるけど、前段ではそのrawファイルが自分より優れた現像者に出会う可能性を潰すことの理由を説明できてないよね。 </bockquote>
これは文章の読み取り方の問題。自分よりも優れた現像者に出会う可能性は潰しきれないが、カメラマン側の能力で相当小さくしている。カメラマンの被る不利益との天秤で、原則RAWデータを渡すことはできない。ただし信頼関係や契約次第で対応することはできるというのが本文の論。
IT業界でクライアントが「あとで使うから作ったソースコードや旧バージョン全部ちょうだい」って言ったら普通に断られると思うんだけど、それと同じ話。
id:jassmaz jpegだけ送られてきたらキレるわ。rawファイルもいらない。psd + pngを送るのが常識では?
psd+pngが常識というのには同意。その上で、クライアントが求めるものはまちまちなので、契約をしっかり詰めておきましょうというのが本文の内容。
id:oscdis765 これ右がレタッチ後なんだよね?左のが良いのが沢山あるんだけど
id:mfigure 上手けりゃ、原版渡せとは言われないでしょ。加工後の方が上手いといえない写真が多いんだけど、よく言うわ。
id:kantei3 思いあがっている。あと、左の方が良い写真が多いので、都合のよい例すら選べない低能なんだな、と。
id:paradisemaker いやー、商売が成立してるんならいいけど、元々のカメラの腕が良くないし、レタッチもそれほど上手くない。デジタル時代のカメラマンって感じだなぁ。
この手のコメントが多いのが本当に悲惨。使用イメージが頭にあるクライアントがカメラマンと話しながら詰めた結果、右みたいなタイプの写真が希望にあったというだけ。あなたたちがどっちがいいと思おうがまったく関係ない。仕事で右みたいな写真が好まれがちだからこそ、private workもそういう味付けにしてポートフォリオとして公開しているんだろう。
「デジタル時代のカメラマン」ってのがよくわからない。フイルム時代、大多数の人が見ていた写真は加工の入ったプリントと、よくて現像済みのネガぐらいで、RAWデータに相当する未現像ネガは見られなかったはずなんだけども。
id:zheyang う~ん、今でも撮影時に設定を絞り込んで、レタッチを最小限にしてる人もいるんじゃないか?/作例のレタッチ(フレア)がわざとらしくてCGくさい。この人の写真家としての腕がちょっと怪しい。
写真家とカメラマンは違う。「写真道」でも極めるならともかく、クライアントの希望に適う写真を納品するという立場において、レタッチを忌避する理由はどこにもない。最高の成果物を納品するためには、「撮影時に設定を絞り込んでレタッチを最小限にする」より「撮影時に設定を絞り込んだうえでレタッチで仕上げる」のほうが良いというだけ。フレアがわざとらしいとか、クライアントに言うべき。
id:xevra くだらんこだわりだ。写真家とカメラマンは違う、カメラマンならとっとと出せ。単に現像スキルに自信がないってだけなんじゃないの? 面倒臭い奴に発注するのはやめたい。
5000枚の未選別データを欲しいならそうするけど、それには相互の信頼関係が必要だし、契約段階から要求しておいてほしいという話。
id:aceraceae いらないとこ白飛びさせるの好きな人なんだなってことがわかった。
この人の好みもあるかもしれないが、クライアントの希望にもあっているからこそそれで納品されたんよ。あと向こうの雑誌や広告をちょっと見ればわかるけど、こういう派手でやり過ぎっぽい写真はかなり好まれてる。
http://www.huffingtonpost.jp/gretchen-kelly/thing-all-women-do-that-you-dont-know_b_8735974.html
読んだ。
「耳を傾けない人のためのことばがどこにもなかった」だ。
結局のところ最初から耳を傾ける素地のある人たちのためだけの言葉。
まぁそれはいい。それはもう諦めた。
問題はブコメの方だ。お前らはこんなのをいつまで繰り返す気だろうか。
そんなのはあまりに単純すぎるし、人間の多様性をそんな風に還元できるなら、もう少し人生はシンプルなはずだ。
誰かに発信しなければならない人というのは、信念を抱えた人か、過去の傷を癒せない人か、いままさに被害者としてある人間だ。
そのどれにしたって、その言葉には多くの強い主体が良くも悪くもあふれ出てきてしまうし、そういうものを歪んだり、言葉足らずだったり、狭窄しないかたちで出力出来る人は少ない。
それは個人の能力として仕方のないことだ。
でも、みんな自分のことを考えるのに手いっぱいな社会で、それらの言葉の癖をいちいち解きほぐして、本質だけに寄り添える人なんて、まずいない。
それこそ、精神や時間に余裕があるとか、それ自体を飯の種にしてるとか、あるいは個人的な信条を持っているとかじゃないと、無理だろう。
ましてや、男性的役割を請け負うことに不満を持っている層にとってみれば、その性を理由に糾弾され、「耳を傾けろ」なんてリソースを迫られたら、怒りと反感を感じるのは無理のない話だと思う。
なのに発信側のひとびとがその怒りと反感さえも否定しようとすれば、もう絶対に泥沼だ。
本当は誰しもが、基本原理として、伝え方を工夫する必要がある。
尖りすぎた意見の先端を丸めて、相対化と並列化を用いて、win-winを探って。
余裕のある人だけではなく、余裕のない人が、自らの問題と地続きで考えられるように。
例えば、性的消費のグロテスクさが男性固有のものだと言われることに不快感があるひとは少なくない。
仮に性的優位が逆転した社会が来て、そこで女性が男性を性的に消費して、同様な問題が立ち上がるだろうと、その人は思うかもしれない。
それが嘘か本当か極論かはおいたとしても、その仮定を考慮して、言い訳することはできるはずだ。
「仮に、女性がグロテスクに他者を性的に消費したり、男性がグロテスクに性的消費されようとするケースも、私はどうにかしたい」と。
社会はたくさんの言い訳で成りたっている。言い訳をたくさん重ねることで、誰しもの願いを僅かずつ叶えようとする。
でも、さっきも言った通り、発信者が歪みをみずから相対化して、万人に届くアプローチを心がけなければならないというのも、難しい。
能力と視野に限界のある個人に、それを義務づけるのも、また不合理なことだ。
じゃあ誰がそれを考えなければならないか。
消去法だけど、それは発信者に寄り添おうと思った人間しかいない。
「余裕があるか、飯の種にするか、個人的な信条のある人」たちに。
外側の人として発信者の声を受け止めるだけではなく、内側の人として発信者の声を擁護だけでもなく。
立ち止まって、咀嚼して、双方の立場を考えて、辺りをしっかり見渡して。
外側に向かう声そのものにフィルターを通して、きちんと届く言葉に置き換える、優れた翻訳者としての役割を、私たちが担えばいいのだ。
一番の誠実さを払えるのも、払う必要があるのも、「余裕があるか、飯の種にするか、信条を持った」私たちなのだから。
良さそうな意見はブクマして、ことあるごとにそのURLを持ち出す。
伝え方の工夫を、発信者だけに任せない人の数だけ、耳を傾ける人は増える。
もう何十年も、耳を傾けられない人たちに対して、私たちはあまりに鈍感で、傲慢で、怠慢だった。
だけどもう、こんな繰り返しは、そろそろやめなきゃいけないはずだ。