http://www.huffingtonpost.jp/gretchen-kelly/thing-all-women-do-that-you-dont-know_b_8735974.html
読んだ。
「耳を傾けない人のためのことばがどこにもなかった」だ。
結局のところ最初から耳を傾ける素地のある人たちのためだけの言葉。
まぁそれはいい。それはもう諦めた。
問題はブコメの方だ。お前らはこんなのをいつまで繰り返す気だろうか。
そんなのはあまりに単純すぎるし、人間の多様性をそんな風に還元できるなら、もう少し人生はシンプルなはずだ。
誰かに発信しなければならない人というのは、信念を抱えた人か、過去の傷を癒せない人か、いままさに被害者としてある人間だ。
そのどれにしたって、その言葉には多くの強い主体が良くも悪くもあふれ出てきてしまうし、そういうものを歪んだり、言葉足らずだったり、狭窄しないかたちで出力出来る人は少ない。
それは個人の能力として仕方のないことだ。
でも、みんな自分のことを考えるのに手いっぱいな社会で、それらの言葉の癖をいちいち解きほぐして、本質だけに寄り添える人なんて、まずいない。
それこそ、精神や時間に余裕があるとか、それ自体を飯の種にしてるとか、あるいは個人的な信条を持っているとかじゃないと、無理だろう。
ましてや、男性的役割を請け負うことに不満を持っている層にとってみれば、その性を理由に糾弾され、「耳を傾けろ」なんてリソースを迫られたら、怒りと反感を感じるのは無理のない話だと思う。
なのに発信側のひとびとがその怒りと反感さえも否定しようとすれば、もう絶対に泥沼だ。
本当は誰しもが、基本原理として、伝え方を工夫する必要がある。
尖りすぎた意見の先端を丸めて、相対化と並列化を用いて、win-winを探って。
余裕のある人だけではなく、余裕のない人が、自らの問題と地続きで考えられるように。
例えば、性的消費のグロテスクさが男性固有のものだと言われることに不快感があるひとは少なくない。
仮に性的優位が逆転した社会が来て、そこで女性が男性を性的に消費して、同様な問題が立ち上がるだろうと、その人は思うかもしれない。
それが嘘か本当か極論かはおいたとしても、その仮定を考慮して、言い訳することはできるはずだ。
「仮に、女性がグロテスクに他者を性的に消費したり、男性がグロテスクに性的消費されようとするケースも、私はどうにかしたい」と。
社会はたくさんの言い訳で成りたっている。言い訳をたくさん重ねることで、誰しもの願いを僅かずつ叶えようとする。
でも、さっきも言った通り、発信者が歪みをみずから相対化して、万人に届くアプローチを心がけなければならないというのも、難しい。
能力と視野に限界のある個人に、それを義務づけるのも、また不合理なことだ。
じゃあ誰がそれを考えなければならないか。
消去法だけど、それは発信者に寄り添おうと思った人間しかいない。
「余裕があるか、飯の種にするか、個人的な信条のある人」たちに。
外側の人として発信者の声を受け止めるだけではなく、内側の人として発信者の声を擁護だけでもなく。
立ち止まって、咀嚼して、双方の立場を考えて、辺りをしっかり見渡して。
外側に向かう声そのものにフィルターを通して、きちんと届く言葉に置き換える、優れた翻訳者としての役割を、私たちが担えばいいのだ。
一番の誠実さを払えるのも、払う必要があるのも、「余裕があるか、飯の種にするか、信条を持った」私たちなのだから。
良さそうな意見はブクマして、ことあるごとにそのURLを持ち出す。
伝え方の工夫を、発信者だけに任せない人の数だけ、耳を傾ける人は増える。
もう何十年も、耳を傾けられない人たちに対して、私たちはあまりに鈍感で、傲慢で、怠慢だった。
だけどもう、こんな繰り返しは、そろそろやめなきゃいけないはずだ。