はてなキーワード: 異変とは
味は一切わからなかった。吐きそう。吐きそうだから、ここに吐き出させてくれ。
経緯だけ。何が起きたのかは書かない。経緯だけ。
僕は高校に入った直後から、イジメでずっと暴力を振るわれていた。
家に帰っても、親の前でいい子にしないといけなかった。逃げ場がなかった。
女の子に興味ある年だったのに女の子も怖かった。劣等感しかなかった。
金を取られたり火を付けられそうになったりした。死にたかった。
イジメっ子のグループの中で居場所を作ればいつか止まると思って、自らイジメられるようになった。
おかしくなってた。
もちろん自分はゴミだと思っていたし、彼女なんてできるわけがないと思ってた。女の子には笑われる人間だと思ってた。
でも告白したら彼女は付き合ってくれることになった。初めての彼女だけど、自分にとってそれ以上の意味だった。
当時僕は、彼女はもちろん僕のことを好きだから付き合ってくれていたと、思い込んでいた。
でも、違った。 彼女は中学のときにレイプされてから境界性パーソナリティ障害的な自傷行為として、いろいろな男に身を売っていた。
単に僕もその一人だっただけだった。
彼女は付き合ってすぐ僕に、「彼氏がいても他の男とセックスする汚い女だから別れたほうがいい」と言ってきた。
典型的な境界例の試し行為だった。普通の男なら秒で別れるところを、
僕は、地獄に降臨した神様を失いたくない一心で「それでもかまわない。好きだから一緒にいたい」と言った。
彼女は、わざと他の男と関係をもって「ほら別れたいでしょう」という行動を、僕に何度も繰り返してきた。
もちろん当時は精神分析なんてできないので、自分から別れを切り出さないのに、別れを勧めてくる彼女の意味がわからなかった。
付き合っている人が自分以外の男と関係を持つという苦しさも、別れてまた一人ぼっちでイジメを受けるよりはマシだった。
結局、それが彼女にとっての承認になった。図らずも、彼女にとってはありのままを知っても受け入れてくれる存在になった。
そこから、お互いがイジメとレイプそれぞれの暴力による苦しみからの精神的な逃避場になり共依存になった。
彼女は僕に救われたし僕は彼女に救われた。周りからは卒業したら結婚するだろうと言われていた。つかの間の幸せだったかもしれない。
僕にイジメがなくなり彼女も他の男に身売りしなくなって3年たった夏のある日に、僕が浮気した。
僕は軽い遊びのつもりだった。けど彼女にとっては男性への信頼が崩れたフラッシュバックになった。
自傷行為が激しく再発して、手当り次第男と寝るようになり、そのうち父親不明で妊娠した。彼女はひとりで生むことを選んだ。
自分のせいで再び狂っていく彼女を見て、僕は必死に謝ったり、駆け落ちをしようとしたりした。
けれど彼女からの信頼は戻らず、結局最後には、彼女から逃げ出すことにした。
大学に入ってもうイジメもなくなっていたし、浮気相手の子と付き合って、すべて忘れて過去と決別して、新しい人生を送ろうとした。
あれは全部なかったことだと、イジメも、そこから救ってくれた彼女も、その彼女を自分で再び壊した自分も、ぜんぶ悪い夢だったんだと
それから10年ぐらい経って、僕はサラリーマンになってそれなりに成功して、独立をしようとしていた。
そのあたりから体に異変が起き始めた。毎年、夏のある日になると眩暈や吐き気や自律神経失調に悩むようになった。
ガン化した記憶にはうすうす気が付いていた。毎年大きくなっているのも知っていた。だけど見て見ぬふりを続けた。
数年前からは、夏の日の前後に鬱になるようになり薬を飲まないといけなくなった。
カウンセリングをうけると、当時の後悔と自責の巨大なトラウマがあり、時間が経てば立つほど一層ひどくなると言われた。
僕は20年の時を経て、あのときと同じように、彼女に助けてもらうことを選んだ。
自分の封印を自分で解いて、彼女に会って、その後20年でいったい彼女になにがあったのかを知ることにした。
そして、勝手に謝って、あわよくば許してもらって、助かりたいと思った。
カウンセラからは、彼女の状況によっては僕の症状は急激に悪化するかもしれないと言われた。
刺されてもおかしくない。でも、そもそも僕は高校で死んでいたかもしれない。
あわよくば助かりたい。でも刺してくれるなら、刺してほしい。あの人に殺してもらえるなら、それ以上の喜びはない。
そんなエゴにエゴを重ねた理由で、20年ぶりに、銀座で彼女と再開した。
-----
どんどん詰ってくれ。詰りまくってくれ。20年たってもう一回繰り返してるんだから。
会社起業の軍資金は、その時に一人で子供を産もうとする彼女を誘拐して駆け落ちしようとしたときの軍資金だよ。警察沙汰になって失敗したけど。
だから経営と投資に成功すればするほど、メンタルが壊れてきてるんだよ。自慢してるのか自傷してるのかわからん。救いようない。
どうしてこんなことになったんだろう。ここ数年で何度も思ったことだ。
これは奇妙な巡り合わせで出会った私にそっくりの友人が大学卒業時に書いた文章の書き出しである。この鏡合わせの彼が書いた文章を何度も自分事のように反芻してきた私は今年大学院を出る。修了という立場に際して、私も少し自分語りをしてみようと思う。他人の自分語りなど興味の無いという方もたくさんいるだろうから、そういう方はこの時点で引き返してほしい。思うままに書き殴っているので読みづらいし長いと思うが、それに我慢できる人だけ読んでもらえればと思う。
・生い立ち
私はごく普通の環境で育ったと思っている。地方在住で金持ちでも貧乏でもない家で、両親は優しくて、友達もいた。小中学生のころの自分は一言でいうと優等生気質だった。学校の勉強はそこまで苦にしなかったし、危ないこともしなかった。先生の言うことには従っていたし、学級委員を務めたりするタイプの人間だった。強いて言えば両親が少し頑固だったくらいだ。
小学校では初めに陸上クラブに入った。運動は苦手かつ嫌いだったし、何よりブラスバンドのようなクラブがありそちらに入りたかった。父が無理にでも私を陸上クラブに入れたのは運動の楽しさを知ってほしかったのだと思っている。運動神経のいい父にしてみれば運動は娯楽だったのかもしれないが、運動神経が壊滅的な私にとっては純粋な身体能力を問われる陸上は苦しかった。そのため5年生からはブラスバンドをやらせてくれと懇願した。タダで許してくれるはずもないので中学では運動部に入ると交換条件を付けた。5年生から始めたトランペットは本当に楽しくて練習した。6年生の途中からは1stトランペットを担うこともできた。
中学では周りの部員が吹奏楽部に行くのを横目に約束通り運動部に入った。誤解のないように言っておくと別に部活動自体は楽しかった。ただ音楽室から聞こえてくる音を聞くたびに自分もこの中にいたらどうだったろうと思うことは度々あった。中学では同学年内でいじめもあって、被害者ではなかったものの学年中を巻き込みつつも教師が黙殺しているそれに優等生気取りの私は心を痛めたものだった。その頃の私はもっぱら公正世界仮説(当時この言葉は知らなかったが)の敬虔な信者であり、親や先生にほめられている優等生の自分はいつか報われるし、逆にいじめなんぞ加担している人間はその人間性からどこかで破綻すると思っていた。
高校は少し離れた進学校に入った。近隣の学校に行く人が多かったが、いじめの件もあり彼らと距離を置きたい気持ちも大きかった。流石にレベルの高い授業でもあったが、モラルや教養を持った人が多く非常に楽しい生活を送った。高校の部活は軽音部と兼任しようかなと考えていたが、他方の顧問が専任を希望するような言い方をしたので諦めた。別に悪い人ではないと思うが、他人に機嫌を取らせるタイプの人間だった。高校では成績をぐんぐん落とした。周囲のレベルの高さもそうだが、私には2点の欠陥が見え始めていた。1つは努力。中学生まであまり勉学に苦労しなかった私は勉強に労力をかける癖がなかったし。加えて苦手な運動は一向にできなかったし、好きな人にアプローチしても付き合えなかったし、理論武装して親に頼み込んだことも結局許されなかったり、努力してできた経験と言えば自転車の補助輪を外すときくらいのものであったように思う。努力の数と成功体験の数なんて鶏と卵かもしれないが、努力をした経験もおそらく人よりは少なく、努力が実った経験はもっと少ない人間だったように思う。もう1つは先天的能力の限界である。これまでの自分は「丁寧に教えてもらえば理解ができる」という能力を有していたと思っている。中学生までの自分が苦労しなかったのもこれが原因だと思っている。しかし高校3年生になると少しそれに陰りが見えているのを人知れず自覚していた。周囲の人間には見えていないようで、親や先生は褒めてくれるし、同級生からも勉強ができるという認識をされていた。
3年生になると嫌でも受験を考えなければならなくなる。私はどこに行って何をするのだろう。勉強は好きではない。高校では文芸部の本に部外から投稿してすごく評判が良かったし、文化祭の劇の脚本や演出を担当して最優秀賞を取れた。そのあたりの活動は楽しかったしクリエイティブなことがしたいかな、あと音楽。それとなく親に専門学校の打診してみたけど、4年制大学に行けといわれた。「いい大学に行けばいい企業に行けるからね」と言われてきていたし、親心としてはそんなもんだよねと理解した。自分としてもレールを外れることに恐怖はあったし、レールに従うことで周りと同じように大学に行って、就職して、結婚して子供を作って、今の家族のような生活が送れるならそれでいいと思っていたのでじゃあ普通に大学に行くねとなった。
問題になるのは何がやりたいかである。私がやりたいことって何だったんだろう。結局見つからなかった。そこで親がアドバイスをくれた。
「まだやりたいことが見つかっていないなら、ここに行けばいいんじゃない?」
親が指し示した大学は、入学時に専攻を決めなくてよいという特殊な制度をもつ大学だった。みなさん名前ぐらいはご存じの都内の大学である。幸か不幸か、私にはそこを目指せるだけの能力はあった。
1浪しなんとか2年目で合格して大学1年目。はじめに学んだ格言がある。
「大学では勉強、サークル、恋愛、バイトのうち2つしかできない」
勉強は好きではないので、サークルとバイトをやるんだろう、恋愛もあるのかななどと入学後の私は胸を躍らせていた。憧れのバンドサークルにも入った。周りは経験者なので食らいつこうと頑張った。大学から帰って仮眠を取り深夜の安いパック料金で明け方までスタジオで個人練、シャワーを浴びて大学へ。その生活をしていたら資金がショートした。親にバイト禁止されていたため練習や交流のためのお金が足りず、実力もつかず人脈もできずにフェードアウトした。
大学の授業はひどく不親切であった。大学のレベルも相まって何をやっているのか理解できなかった。高校の時に疑問を持っていた内容が解決されるかと期待していたが、それらは大体1,2回目の講義で解決してしまうものか、もしくは深くがっつり専攻しないと理解できないようなもののどちらかで、学ぶモチベーションにはつながらなかった。教える側も教科書も「説明してはいる」「書いてはある」という感じで、高校までのようにわかりやすくとはいかなかったから、「丁寧に教えてもらえば理解できる」タイプの私では太刀打ちできなかった。つまらないし時間の無駄に思えて次第に講義も休みがちになった。
それでも、とりあえず大学を出れば何とかなると思っていた。ここで耐えている自分はきっと報われると思っていた。好きなものが大学で見つかればいいし、そうでなかったら高校までの勉強ができるから教師になればいい。これが1年目の私であった。
・崩壊
初めてショックを受けたのは成人式のことだった。新成人代表として何人かの陽キャ集団が壇上にあがった。式の前後に彼らと会ったがある人はバツが悪そうに私から目をそらし、ある人は肩を組んで話しかけてきた。どちらもいい気はしなかった。彼らはいじめの関係者である。なんで彼らの方が人生を謳歌しているんだろうか。その時にふと思った。「結局彼らは世渡りがうまかったんだ」と。くだらない正義なんて捨ててその場で空気を読んで得なほうに回るっていうのが正解で、黙殺していた奴らもそうだったんだ、なんて自分は愚かだったのかと。そう考えてみると社会に明確な悪役はいなくて、したがって明確な正義も存在しない。正義と道徳に立脚した自尊心のなんと脆いことかと思い知らされた。
そして、もう一つ。親や教師というのもまた所詮人間だとこの年になって気づいた。この中の何人かが数年のうちに教師になって、親になる。はっきり言って話の通じない人だっているが、そんな人も年さえ取ればいつかは親や教師になりうる。だから、黙殺した教師も、話の出来ない親もおかしくはない。じゃあ私が優等生してきた、私が正しさの根拠としてきたものは何だったんだろう。優等生であることを数字で示してくれるものは成績くらいしかない。世渡りが下手で運動などの技能も持たず、それでも私が公正世界仮説を信じてこれたのは、案外「勉強ができること」に依存していたのかもしれない。勉強しかできないやつだけど勉強ができるから何とかなる、そんな風に自分の無能さを騙して生きていたのかもしれない。
さらに拠り所の勉学さえ崩れ落ちた。留年が確定したのだ。受験でも足を引っ張った物理がとことん苦手で何も理解できなかった。2年目は学費の負担を減らすべくバイトをさせてもらった。サークル活動は事実上全部やめ、バイトと勉強の日々が始まった。バイト先は学生が割と多かったため、みんなと仲良くなれた半面、繁忙期が重なった。私は試験前はむしろシフトが増加し、結果的に致命的な必修単位だけ落としてしまった。2留である。親に電話して事情を説明した。単位くらい取れとストレートに怒られるかと思った。代わってあげる優しさを評価しつつもやりすぎだと注意されるかもとも思った。
人にやさしく優等生してきた自分の生き方への批判と自分が仲良くしている人たちへの非難のダブルパンチで頭に血が上った。怒りで何も言葉が出ずに何秒か無言の後電話を切って、壁を殴った。
数日すると気分が落ち込んできた。親はそれを「単位を落としたから」と解釈したようであるが、全く違う。私は他の人が当たり前のようにサークルやバイト、恋愛を掛け持ちして進級している中で、バイトしながら進級できなかった。私は当たり前のことすら満足にできない無能であると、薄々感じていた自分の無能が隠せなくなってしまったのである。
3年目は再びバイトを禁止した。クラスでの試験対策の仕事もやり、その科目の勉強をしなければいけない状況を作った。サークルとしては冒頭の彼の紹介で新しいサークルに入った。サークルでできた友人とは本当に仲が良く、勉強を助けてもらったり、サークル関係なしに遊んだり大学での生活の基盤になった。助けてもらえる人も増え、自分で学習するようになり、この年の上半期では単位の取得ができた。しかし、私が感じていたことは決してポジティブなことではなかった。私がこの年の経験でわかったことは「お前はやればできるが、環境のサポートがあって自分で勉強してもちゃんとできるのは2単位」ということである。私は2年で70単位以上取得する想定のカリキュラムを、半年で2単位しか取れない脳みそでやっている。無能すぎてもはや卒業が無理なのではないかと思った。
公正世界仮説、評価軸としてきた大人たちへの信頼、自身の実力への評価の3つが音を立てて崩れて、この時私は確かに一度死んでしまった。このことに気づく前の自分に戻れなくなってしまった。中学のいじめがらみで「死にたいけど死ぬ勇気もない」って言ったときに「死ぬのなんて勇気って言わねえ」って怒鳴りつけてくれた友人がいた。
・専攻決定
4年目にして2年生。この年は諸々の事情でクラスから孤立した。喧嘩別れのようなものである。私としても仲良くする気はなかったので1人でどこまでできるかやってみようと思った。結果は惨敗だった。単位取得こそぎりぎりできたものの私はこの大学では人に寄生しないとやっていけないと気づかされた。
そして、4年前に選択を先延ばしにしたツケの返済期限が来ていた。専攻の決定である。結局4年間でやりたいことは見つからなかった。勉強は面白くないし、勉強以外の何かを思い切って始める余裕もなかった。教員になろうかとも思ったが、それもかなわないと思った。教職は卒業単位には含まれないため、追加でいくつも講義を取る必要がある。通常のカリキュラムすらまともにできない私にそれは無理だろう。ちなみに私と同じく成績の芳しくなかった冒頭の彼は教職を志して単位を取得しに行ったが、弊学では満足に教職まで取り切れなかった。教職を目指した世界線の私もきっとこんなものだろうと思ってしまった。
理系科目はわからなかったので、唯一興味がわいた心理学を専攻しようと思った。しかし、成績が足りなくて進むことが絶望的だった。ここで初めて間違いに気が付いた。この大学のシステムは何をやりたいか不明瞭な人間を救済するシステムではなく、やりたいことや才能が複数ある人間に選択肢を与えるシステムなのだと。私などがこの大学には来てはいけなかったんだと激しく後悔した。
このシステムでは通常、成績が足りなければ次の年に再挑戦することができる。しかし、私は4年目であったがために在学年限が迫っており、この年で専攻を決定しなければならなかった。そのため、当時人気の低かった化学を選んだ。化学は苦手で高校化学すらわからないが「とりあえず大学を出れば何とかなる」のであれば、と苦渋の選択をした。
5年目、3年生。1限からの授業と週3回の実験があり、9時-18時のような生活になる。実験には予習とレポートがあるため、実際の拘束時間はこれより長い。何とか4月を乗り切ったところで、レポートを1つ残してしまった。GWに入ってレポートをやらなければと思って毎日机に向かおうとした。いや、向かったこともあった。だが、ペンを持っても何も書けない。そのまま時間が過ぎてごはん時になり席を外してご飯を食べる。そんな日が続いてGWの最終日、床にへたり込んで泣いた。書かなきゃいけないと思いつつも1文字も書けなかった。
3年生の必修は実験だけだったので、他の単位を犠牲にしてでも取ろうと考えた。1時間だけ講義を休んで...その1時間を何も書けずに終えた。これを繰り返してほぼ全ての講義を欠席した。次第にいろいろおかしくなっていった。頭痛もちでもないのに頭が痛みだした。文字が読めなくなり、教科書はおろかネットニュースくらいの簡単な文章でも字が滑るようになった。1日にできることがゴミ出しと洗濯くらいになり、起きて寝る以外に食事、入浴、ソシャゲの周回くらいしかしてない生活になった。
溜まりに溜まったレポートは夏休み前に呼び出しを食らったことで、無理やり夏休みを使って消化した。歯を食いしばりながら全部消化したことは覚えているが、歯を食いしばればできたことがなぜここまでできなかったのかこの時は疑問だった。
4年生になり、大学院へ進学することになったが、大学院の手続きと入試勉強、足りなかった単位の試験勉強などでタスクが溜まった瞬間、この症状は再発した。友人の勧めを受けて学生相談所に通うことになった。
学生相談所のカウンセラーはいい人だった。いろいろお話をして気持ちは和らいだ。専門的なこととしてはWAISの検査を受けた。結果は処理速度だけが異様にへこんでいる格好になった。別に数値は低くないので大丈夫と言われたが、「問題の有無は環境によって決まりませんか?能力の高い人が集まる環境ではそれなりの能力が要求されますよね?」という質問には満足のいく回答は得られなかった。
親にも何度か愚痴を言ったことがある。そのたびに「あなたは世間一般には優秀だから大丈夫」と返されるのである。何が大丈夫なんだろうか。”今の環境”が辛いと言っているのに”世間一般”という別の集団を持ち出して何の救いになるんだろうか。これ自体も言ってみたことがあるが「なんでそんなこと言うの」と言わんばかりの困惑した顔をするだけだったのでやめた。別に親以外でも同様のことを言う人はいる。世間一般の評価が邪魔をして、まともに助けを求めることすらままならない。内部の人間から見て無能で、外部の人間から見て有能な私は、共感を得られる対象がとても限られていて苦しかった。大学ブランドという呪いにかけられて苦しかった。
やりたいことをやれていればよかったのだろうか。サークルで作曲を体験させてもらう機会があった。でも続かなかった。結局忙しいとかいろいろ言ってインプットから逃げている自分がいる。クリエイターにはなれなかっただろうなと思った。好きなことも頑張れない自分に「自分が勉学を頑張れなかったのは勉強が嫌いだからじゃない、努力が嫌いなんだ」という事実を突きつけられてまた悲しくなった。あれほどに信じてきた公正世界仮説は「お前が苦しいのはお前が間違ってきたからだ」と自分に牙をむき始めていた。
・進学と私
大学院へ進学することにした私だが、実は私は望んでいなかった。学部生時代に夜遅くまで研究に勤しむ先輩たちを見ていて「私にこれは無理だ」と実感していたからである。研究への熱意はおろか、化学への意欲も知識もないのである。ただでさえ病む人が多く出る大学院という環境にこんな人間が行くのは自殺行為に他ならない。そのため、私は就職を強く希望した。しかし、親にそれを伝えると「今のお前に就職はできない」と言われた。就活を終えた今だから言えるが、これは正しかったように思う。議論は「就職はできないから進学しろ」「院でやっていけないから就職させろ」の平行線で、就職も進学もろくにできない無能をぼこぼこにリンチするだけで生産性はなく、結局「とりあえず進学はするがいつでも辞めてよい」という落としどころになった。
私は院試に落ちるのが最適解だと思った。学力もないので真面目に受けても受からないだろう。院試を受けたけど落ちましたというのが親にも研究室にも一番角が立たない。しかし、筆記試験が思ったより点数が低かったのか通ってしまった。面接をすっぽかすことも考えたが、会場に研究室の先生方がいるかもしれないことを考えると気が引けた。面接では辞退の意思を伝えるつもりだった。面接官と私だけの秘密である。私は院試を受けて落ちたのだと周りに言えばよい。
その人はモデルさんで、そんなに有名な人ではないかもだけど、一部の人に物凄く刺さるような魅力を持つ人だった。
衣装から小物まですべて自作の努力家で、テレビに取り上げられたこともある。
元々モデルとしては不遇な道を歩んでいたようだけど、衣装を自作して方向性をガラッと変えてから新たな需要を掴んだのだという。
自分自身で可能性を切り開く姿勢を凄いと思ったし、尊敬していた。
彼女は不遇時代の自分にコンプレックスを抱えていたみたいで、その1回のテレビへの出演のキャプを何度も何度もTwitterに上げ、成功体験を強調した。
最初は私も嬉しく見ていたけれど、そのテレビのキャプの使いまわしが2桁を超えるようになってから異変に気付き始めた。
個人アカウントの運営において積極的な宣伝が大事というのはわかっているつもりだが、そういう宣伝目的のツイートというよりは何か...強迫観念のようなものを強く感じた。
自分は〇〇だったけれど、今は○○になった、テレビにも出た、成功してる、そういうツイートを毎日毎日、数カ月ずっと見続けるうちに、これは自分に言い聞かせているんだろうな...とわかるようになってきた。
彼女が著名なテレビ番組に出たのはその1回きりなのに、その1回を何度も何度も擦っている。
彼女を批判したいわけじゃない。過去の成功に縋るのは誰だって気持ちいい。
でも、何というか...だんだんと、全然関係ない話題からも自分の成功を強調するような話に繋げるようなツイートが多くなってきて、ちょっとはらはらしながら見ていた。
フェミニストのことを批判したり、マナーがなっていない客に苦言を呈したり。
それ自体は別に個人の意見だからいいと思うんだけど、明らかに言葉の選び方が過激になっていた。
最近はファンからの差し入れを禁止します、というお話をされていたんだけど、その中で差し入れのお菓子や花束を「生ゴミ」とガッツリ形容していて、うお~~...と思った。
差し入れが迷惑なのはわかる、でもその言い方はちょっと危ないんじゃないか。だんだん炎上に近づいてないか。大丈夫か。
また、最近になって婚活のアカウントをつくり、積極的に婚活に取り組み始めたらしい。
ちょっと婚活アカウントを覗いてみたが、恋愛に成功した者たちのことを過激な言葉で評すツイートが多く、やはり彼女の中では不遇な自分がかなりのコンプレックスになっているんだ、と感じた。
彼女は綺麗だ。創作の才があり、ストイックで、絶対に素敵な男性と出会えるだけのポテンシャルはある。
でもやり方が悉く悪手なんだ。
婚活を「試験」と称し、自分に積極的にアプローチしてくるかを判断する、連絡が来なかったら全員不合格な、などと言うが、そんな上から目線の考えで婚活が成功するはずはない。
実際にそのツイートへの反応は薄く、彼女も焦ったのか手当たり次第に婚活タグのツイートをいいねしていた...が、明らかにスパム垢のツイートも混じっている。
どうしちゃったんだ。彼女はそんなスパムも見分けられない人間ではなかったはずだ。本当に大丈夫か。
どんどんと語調が荒くなり、目についたものに噛みつき、晒して非難するようになっている。
この感想を彼女に伝えたらきっと、私は元からこうだった、この私が気に入らないならさっさと帰れ、と晒される気がするが、いやでも元のあなたはこうじゃなかったよ。
さっさと彼女のフォローを外して、何もなかったことにして忘れるのが一番なのかもしれない。
忘れよう、もうこの増田を書いて忘れることにする。
2020年から2030年までの10年間のインターネットの歴史を総括すると、3つのニュースを上げる事ができる。
1つめは「動画配信サービスが4強から3強に変わったこと」2つ目は「Appleのロゴが変わったこと」そして3つ目は「新しいものが何も生み出されなかったこと」だ。
最後の3つ目は誰も予想していなかった。インターネットはこの10年間ほとんど何も変わっていない。
2020年代の初めの頃はメタバースだのブロックチェーンだの新しい流れが出てくる兆しが少しだけ見えたものの、そのどれもが普及しなかった。
何故こうなってしまったのかは分からない。2000年代初頭のドットコムバブル崩壊のようなカタストロフが起きたことは一度もなかった。
怒られない程度にうまくサボりながら仕事するというやり方で、特に評価はされないけれどそこまで悪い扱いも受けずにやり過ごしてきた。「やり過ごす」というのが私の仕事に対する基本的なスタンスで、人生の中で仕事の占めるウェイトはなるべく小さくしておこうとしていた。
というわけで野心も出世欲もなく、上を見ないから挫折する機会もなく、他人から見たらどうか知らないが、個人的には順風満帆な会社員人生だと思っていた。もちろんしんどいことはあるし、少々心を病んだりもしたけれど、総合的にはうまく仕事と付き合えていたと思う。
スキルアップや、社会の変化に合わせた自分のアップデート、情報のインプットなどにも積極的ではなかった。時間が空けばサボってたし、何よりプライベートを優先した(自分では当然のことだと思うんだけど)。なので、会社員として「これについては自信がある」というものは身につけてこなかった。
ただ、自分の仕事への距離の取り方や、心を病んだ経験、上司にどう見られようが大して気にならないという立場を活かして、周りの人の心身のコンディションに気を配ることだけは積極的にしようと考えていたし、その能力には実は少し自信をもってもいた。周り、といってもその半径は狭く、せいぜい同じチーム、10人に満たない数の同僚に目を配ろうとしていた程度だけれど。
言うほど努力していたわけではない。機会をつくって個人的に話を聞いたり、職場でなるべく周りを巻き込むような無駄話をしたり、仕事を相対化するような発言を敢えて大きめの声でしたり、そんなくらいのことだ。
でもそれが機能していると私は思い込んでいた。役に立っていると傲慢にも考えていた。
人事異動でチームの人数が減った。それより前にすでに産休で欠員が出ていたのに補充はないまま、さらに人員構成が厳しくなった。
私だけでなく皆が危機感を感じていたと思う。上長もなるべく仕事を整理して、業務量の減少に注力していた。
その根本的な責が会社組織にあるとしても、少なくとも私は無策や無為によってそのことに加担はした。それは疑いようのないことだった。
特に会社来れなくなった中の一人、若い後輩の彼に対して、私のやり方は何から何まで間違っていた。私は彼の異変に気づいていた。話していて、少しお金の使い方が荒くなっているなと感じていたし、そもそも仕事は優秀な彼に明らかに集中しすぎていた。
彼は圧倒的なコミュニケーションスキルをもつ人間で、私は話しやすくて毎日のように会話した。彼は自分のことをよく把握しているように見えた。残業しても集中力がもたないと言って残業はあまりしなかったし、休日には一切仕事をせず、ちゃんと休んでいた。だから私は心配しながらもどこかで安心してしまっていた。
私は本当は何一つ彼から発せられている情報を汲み取っていなかった。汲み取る努力もしなかった。ヒントはそこら中に転がっていた。今思えば。
最悪なのは私が彼と話すことを楽しんでいたことだ。たとえば私がある仕事でテンパっていた時、彼は「増田さんも大変ですね」と言ってくれた。私はそこにある「も」の含意に気づかず、あるいは気づきながら無視して、自分がいかに大変かを話す有様だった。聞いてもらって喜んでいた。何という愚かさだろうか。
仕事へのモチベーションについて話した際も、私は彼が非常に的確な相槌を打ってくれたり、上手な質問で話を引き出してくれたりするので、相談に乗るというより会話自体を楽しんでしまった。彼は聡明で、聡明な人間との会話ほど楽しいものはない。
私は彼とのコミュニケーションをただ楽しみ、もっと言えば仲良くなることを喜び、彼の辛さについてより深く関わろうとしなかった。
私が何かすることで彼を実際に助けられたかどうか、ということは重要ではない。一番の問題は私自身の無為、圧倒的な無策だ。あの時何か試みていたとしても効果の程は分からない。いまさら検証のしようもない。でも、できることはあった。それをやらなかった。試みようと考えつきもしなかった。
彼との会話の楽しさに浮かれず、もっと虚心で向き合えば、するべきことは見えたはずだし、少なくともシンプルで素直な手の差し伸べ方はできたかもしれない。
私は漫然と彼の叫びを見逃した。
これだけ仲良く腹を割って話せているのだから、本当に大変な時は直接私に助けを求めるだろうとすら思っていた。
なぜ彼の叫びが「他ならぬ自分に向けて発せられる」などという傲慢な思い込みをしたのか。本当に厳しい状況にある人の絞り出す声は弱々しく虚空に吐き出されるもので、そもそも誰かに向いたりするものではないのに。
私は何から何まで間違えていた。
彼はまだ戻ってこない。このまま辞めるかもしれない。それはそれでいいと思う(彼の選択なら)。
https://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120905-OYT1T00109.htm
富山県滑川市北野の住宅で3日に見つかった男女3人の遺体は、うち2人が餓死した可能性があることが4日、滑川署の司法解剖などでわかった。
同署によると、長男には重度の知的障害があり、長女も自力では生活ができなかったとみられる。同署は7月下旬~8月上旬、大崎さんが病気などの理由で死亡後、長男、長女と相次いで餓死したとみて調べている。
でも、地元で知らない人はいないレベルの有名人になっていれば、一回りして安心だよ。
https://www.dailyshincho.jp/article/2021/12181056/
12月1日、徳島県警は年金を不正に受け取った詐欺容疑で山田民子容疑者(73)を逮捕した。先月、徳島県藍住町にある山田容疑者の自宅から男性の遺体が発見されたが、県警は一つ年上の夫、啓夫(よしお)さんだと特定できたことで、彼女が死亡届を出さずに月7万円ほどの夫の年金をだまし取っていたとして逮捕したのだ。死体遺棄にかかわった可能性もあり、今後も捜査を続けるという。
現在40代という一人息子は、全裸で外を歩き回る癖を持ち、スーパーや女性のいる家に侵入して警察が出動する騒ぎになることも度々あったようだ。
合ったな。
JR北陸線の特急電車「サンダーバード」の車内で2006年8月に、当時21歳の女性を乱暴したとして大阪府警淀川署は07年4月21日、解体事業を営む植園貴光被告(36)を強姦容疑で再逮捕した。上園被告は06年12月にJR湖西線の電車内と駅トイレで2件の女性暴行事件を起こしたとして逮捕・起訴され現在公判中だ。さらに今回、強姦の「再犯」が明らかになり、再逮捕に至った。
府警の調べでは、植園被告は06年8月3日、福井駅を出発した「サンダーバード」に乗り、この女性客の隣に座って「声を出すな、殺すぞ」などと脅して体を触り、さらに女性をトイレに連れ込んで暴行した疑いがもたれている。当時、泣きながら連れて行かれる女性の異変に気づいた客もいたが、植園被告が「何を見とるんじゃ」などとすごんだために、何もできなかったという
今は35,36歳か
・20代前半女
・喫煙者(大体5本/1日)
・不織布マスク常時着用(仕事柄対面で人と話すことが少なくないので、そういう日は新しいマスクに変えます)
・スーパーやコンビニ等で何か買ったら必ず帰宅後パストリーゼで拭く
・会社に入る前、食事前、エレベーターのボタンなど不特定多数の人が触ったものに触れる前後にはアルコール消毒(パストリーゼ使用)
・友達と会うなどはしていませんが、今年に入って3回程1人でお笑いライブや寄席に行きました
・電車通勤ですが、満員電車のピークちょい後の時間帯なので、寿司詰め状態ということはあまりない
・会社にマスクをしない社員が数名いて、うち1人は自分の直の上司なので会話の機会も少なくない
・同居家族(母)はコロナ対策にかなり神経質(恥ずかしい話ですが、クレペリン信じてました)
通常通り出勤、体調に異変はなし。
就寝前には微熱の症状。
帰宅後は家でも不織布マスク着用、共有物に触れる場合はビニール手袋着用。
母の方が先に帰宅していたので、ドアノブや洗面所など、共用部分はビニール手袋+不織布マスクを着けた状態でパストリーゼで消毒をしていたそう。
在宅勤務に切り替えてもらい、この日は外出なし。
夜、喉に少し違和感。金曜日なのでお酒を500mlほど飲んだ。
空咳は相変わらず治らず、喉の痛みが増したそう。
起床時から喉のイガイガが増す。これはまずいと思ったので(母が体調不良になった時点で自分もうつっていると確信してましたが)午後にPCR検査を受けに徒歩で病院へ。
夜になるにつれなんとなく体が重くなってくる。
夜中はかなり熱が上がっていたのか、全然寝られなかった。
喉の痛みはさらに増し、熱も38度くらいが続く。
朝から体が鉛を背負ったように重い。そして関節と太ももが痛い。
起床後の熱は37度、さっき14時位に測ったら37.9度まで上がっていた。
喉のイガイガは昨日よりマシなような気がするが、痰がからむようになってきた。
16:30 38.5度の熱、PCR検査した時に処方されたアセトアミノフェン錠服用
◎書くべきことあったらブコメとかで教えてください!
仕事中に「あ、これはもうだめなやつ(自分の限界を超えるストレス)だ」と思った途端息が出来なくなった。
その日は金曜だったので無理矢理早退して虚無の土日をすごし、騙し騙し二週間ほど働いた。
心療内科にかかろうと思って調べてみるも、選べなかった。何を基準に選んだら良いかわからなくて、ブラウザのタブを行ったり来たり。口コミもあてにならない。どうしよう。
そうやって悩んでいる間に様子の異変に気づいたらしい友人から声がかかってしどろもどろになりながら状況の説明。だけど八方美人なので「まあなんとかなるでしょ」と笑ったら「何とかならなかったから今苦しんでるんだろ。この話を聞いたから距離を置く関係じゃないし、とりあえず思ってること話しなよ。支離滅裂でもちゃんと聞くから」と言われて号泣。
友人からも通院を勧められたけど、心療内科が選べないんだと説明したら「酷いメンタルの時でも通える場所」「なるべく移動が楽な場所」でとりあえず絞り込んで見たら?と言われてやってみた。
そして今日、月曜日になったのでいざ電話をかけてみたら「初診は今受けてないんです」と断られた。そうか、そういう事もあるのか、と思って2件目にかけた。2件目も断られた。3件目にかけた。3件目も断られた。心が折れた。
いつもの内科で出してもらっている入眠導入剤ももうきかない。これ以上強いものは専門医から出してもらってと言われている。どうしろと。
ごめんなさい、私もちゃんと調べればよかった。
紹介状なら、別件で通院している内科で相談してみようと思います。
俺もコンビニで箱で買えた
ポケカ転売騒動というか、ポケカが投資になるよみたいな話はひとまずここで終わりを迎えそうで非常に嬉しい
そしてパックをむきたい
それがイーブイヒーローズ発売の5月あたりから1年近くできていなかったので、ようやく日常が戻ってきて嬉しい
2018年11月発売のウルトラシャイニーの時は社会問題化、は言い過ぎかもしれないけど、ポケセンのビル中に列ができる様子がネットでも書かれた
だってウルトラシャイニーは箱買いしてそれを全部カード屋に持っていけば、中身の当たりはずれに関わらず必ず買い取り額がプラスになる、という話だった
過去パックは壊滅して、ポケカを新しく始めようにもなにひとつ買えない、という状況だった
それでも、ブイズGXのスターターキットや、12月発売のタッグボルトなどは、発売日にイオンに行けば普通に買えた
一週間もせずに売切れたりはしていたような気はするけど、発売日に仕事帰りに買って帰ろー、仕事はよ終わらんかなー、みたいなワクワクはあった
2019年に入ればウルトラシャイニーもぼつぼつ再版され、過去パックも再版されて、迅雷スパークを見つけてはたくさん買ったのが懐かしい
そんな騒動はもう終わったのかな、と思い始めた2019年の5月末、エーフィ&デオキシスGXの構築デッキが発売され、そこに入っているプレシャスボールを転売するだけで儲けになる、ということが起きた
お店で60枚カード買って、その1枚(プレシャスボール2枚収録だったから2枚か)をカード屋に持っていくだけで58枚のカードとお小遣いが手に入る現象
で、それから半年、ポケカ品薄はもう過去の話と思っていた2019年11月、サンムーンが終わってソードシールドが始まった
という限定セットが発売された時だった
これもまあ、発売日にポケセンには売ってたんだけど、すぐになくなった
そしてこの中に入っている限定プロモ1枚が、セットそのものと同じ値段以上で売れる、という話になっていた
おいおい、またあのエーフィデオキシスみたいじゃん、とか言っていたら
2021年4月発売の漆黒のガイスト、白銀のランスは仕事終わりじゃ1種類しか残っていない、という事態に遭遇した
あのウルトラシャイニーのころだって、発売日の仕事終わりでパックは買えたんだぞ?
どういうことだ?
と思っていたら、その次に出たイーブイヒーローズは完売でついに手に入らなかった
そこから抽選販売に申し込まないとポケカは買えないという生活が始まった
なんで改善したかというと、ポケモンのカードの封入率が上がって、女の子のイラストのレアカードの封入率が下がったらしい
女の子のイラストのレアカードが50万だかバカな値段で取り引きされるらしく、それが減ってポケモンやボールのレアカードが増えればプレイヤーには影響なく転売ヤーにだけダメージがいく仕組みらしい
正直女の友情なんてこんなもんかって幻滅。
友達とは昔バイト先で仲良くなって今年で12年目くらいになります。
私も友達も可愛いキャラクターとかが好きだったからガチャガチャとか巡ったりプレゼント交換とかして最初の頃は楽しかった。
お互い7年前くらいに結婚して、5年前に私が子供を産みました。
子供がちょっと大きくなってからもちょくちょく遊んではいたんだけど、その頃からなんか異変を感じだしました。
友達が新しいジャンルにハマりだして、そこで交流する人が増えたみたい。
そこから返信も遅くなってきた気がする。
いつだったか、ツイッターで友達が具合悪いって言ってたからラインした。
次の日、元気になったぽいツイートしてたけど、ツイートはできて心配してる私へは返信できないって何?と思ってモヤモヤした。
そのあとにラインに返信がきたけど、心配してる相手にまず先に「元気になった、心配してくれてありがとう」って言うべきじゃないの?って思った。
極めつけはコロナ。
最初の頃はちゃんと自粛してたけど、一年経ったくらいで周りは普通にしてたし遊んでたから、そろそろ大丈夫と思って遊ぼうって友達に連絡した。
もしかしてコロナを理由に私と遊びたくないだけなんじゃない?と思ってそのあとも何度か遊びに誘ってみた。
友達の好きな場所への泊まりの旅行とか、友達の好きな遊園地とか、全部断られた。
ここら辺でハッとしたんだけど、友達は私が子供産んだから妬んでるのかもしれない。
友達も私も子供好きで、友達は子供欲しがってたけど全然できる兆しなかったし。
だからあんまり子供の話しないようにして、また遊びに誘ったりしたけど、やっぱり断られた。
私もコロナで前ほど遊びに行けないし、お店は早く閉まるし、他の友達も遠いし、旦那は家のことしないし、子供はゆうこと聞かないし、イライラはつのるばかり。
そんな時また友達が体調悪いツイートしてたから心配になってラインした。
また返事はなかったけど、そのあとも何度かラインして、その日は放置した。
後日ツイッター見たら元気になったぽくて、他のジャンルの友達と楽しそうにリプしてた。
こっちもイライラして壁打ちツイートした。内容は「リア友に連絡しないのにフォロワーとはリプやりとりするんだねー」みたいな感じ。わざとわかるようにした。
イライラがおさまらなかったから友達に直接ラインした。元気になったみたいだねって。そしたら返事が返ってきた。
要約すると、
「具合が悪くて吐いたり寝たりしてたからすぐ返事できなかった。具合悪い時に何度もラインきてストレスだった。返信しなきゃいけないって思うのがしんどかった」
だそう。
返信しなきゃいけないのがしんどいとか意味わからないし、めんどくさかったっていうただの言い訳だと思った。
私は本気で心配してたのに。
そのラインのやりとりで、友達に「もう疲れた。関わりたくない」っていわれた。
女の友情なんてこんなもん。
男の方が信用できる。
https://anond.hatelabo.jp/20220102190352
が起点となって多くの議論が巻き起こっているのを見て思った。
https://www.jgka.or.jp/gasusekiyu/heatshock/contents1.html
東京都健康長寿医療センター研究所(東京都老人総合研究所)の報告によると、急激なヒートショックに関連して入浴中に急死したと推定される死亡死者数はなんと交通事故死者数(4117人 平成27年調べ)を大きく上回り年間17000人に及びます。
これがいつのデータなのかまでは分からないが、ざっくりと「交通事故よりも遥かに多い」という事だけ分かってもらえれば幸いです。
ヒートショックが起こりやすい場所は「脱衣室」や「トイレ」、そして「寝室」なのだそうだ。
https://www.nojima.co.jp/support/koneta/62903/
原因は、上記の記事によれば「急激な温度変化により血圧が乱高下」による心臓や脳の異変らしい。
対処法は家の中を全体的に暖める事で、温度差を無くす事だそうだ。
特に脱衣室。
と、原因も対策も判明しているこのテーマだが、しかし実態はどうかな?皆の家ではどうだろうか?
(追記)
以下、気になったブコメの返信
対策しても死亡者数が0にはならないだろう。すると車と同様、風呂をなくせという話になるのか? 人間の行動にはすべてリスクがある。リスクを恐れて何もしないことは別のリスクを高め、本末転倒だ。
風呂を無くせと誰が言った?
私は「対処法は家の中を全体的に暖める事で、温度差を無くす事」と紹介したのみだ。
なにより、風呂を無くしてもトイレと寝室の問題は解決しないぞ。
あと、「リスクを恐れて何もしないことは別のリスクを高め〜」と言ってるが、本記事では「何もしないとこういうリスクがあるから、行動すべき」という趣旨の話だ。どうか間違えないでほしい。
去年直腸の病気を患ってから頻便になり、普通のトイレットペーパーで拭くとこすりすぎで痛みがでるのでお尻ふきを使うようになった。
お尻ふきはローション的な物で湿っていて、乾燥を防ぐためにビニール製の入れ物に入っている。ローションのおかげで汚れを落としやすい上に摩擦が小さく、何回も拭いても痛くならない。さらに拭いた後も清潔で、とてもよい。病気の影響か下痢する事も多いのだが、そんなときでも綺麗になるのはとても助かる。これで大分楽になった。
自分が使っているのはトイレに流せるタイプで処理の手間もかからず便利。赤ちゃん用のでもいいんだけど、なんだか赤ちゃんから大事な物を取り上げているような気がして気が引けるので、なるべく大人用の物を使っている。
さて頻便になると夜中にトイレに起きる時も多い。トイレの電気をつけると明かりで目がさえてしまい眠れなくなるので、なるべく暗いままで済ますようにしている。慣れればなんてこと無い。
ある日そんな感じで夜中に起きてトイレに行き薄暗い中用をたしたところ、いつもの場所にお尻ふきがない。どこかにあるはずだと手を伸ばし、ビニール製の容器を見つけた。
なんだかちょっと大きいような気がしたが、まだ眠いので特に気にせず封をあけ中身をとりだし、いつものように拭いた。なんだかぬるっとする。変だなと思ったが、下痢してるのかなくらいに思い、よく拭いて便器に捨て、流した。
なんだこれは?慌てて電気をつける。目に入ってきたのはお尻ふきではなく便器掃除シートの容器だった。自分は便器掃除シートで尻を拭いてしまったのだ。
やばい。なんて事をしてしまったのか。便器掃除シートには汚れを落とす化学薬品がはいっているはずだ。pHだってお肌にやさしくはないだろう。掃除のときでさえも手袋をして扱うように注意書きがある。そんなものをデリケートな粘膜になんどもこすりつけたらどうなってしまうのか。ヤバイ!
途端お尻のひりつきが強くなった気がした。あわててパンツを再度おろし、ウォッシュレットで洗う。まだヒリヒリする。ウォッシュレットで水をかける。まだなんか変な感じがする。またかける。そんな感じで何度となく洗浄を繰り返し、どうにかひりつきは治まってきた。もう、目はすっかりさえていた。
尻が腫れたりかぶれたりしたらどうしよう、医者で便器掃除シートで尻を拭いたら腫れましたとか言わなきゃいけないんだろうか。恥ずかしさで死んでしまう、と思いつつ眠りにもどった。幸い、念入りにあらったせいか次の朝には若干の違和感がある程度まで回復していた。直ぐに気がついて対処して良かった。危ないところだった。
李克強、王岐山に続き習近平も「来道」か。中国資本の国土買収の水面下で何が起こっているのか。
はてなブックマークに追加
北海道を訪問した王岐山国家副主席(右)。10月25日、鈴木直道知事と
どうしてこうもスルーするのだろうか? 日常化してしまったからなのだろうか? だとすると、慣れというのは怖い。尖閣諸島近海への中国公船の侵犯も、ひところはメディアも大きく取り上げたが、ほぼ日常化した今日、騒がれることはない。
外国資本による不動産買収問題も同じだ。国家は国民、国土(領土)、主権の三要素で構成されているが、その中の国土が周辺国によって脅かされるようになって久しい。外国資本の「経済侵攻」はとどまることを知らないが、我が国では社会問題化することはない。
例えば、北海道は、外国資本、とりわけ、中国資本や中国の影が見え隠れする資本に森林や観光地、農地、ゴルフ場、太陽光発電所用地などが手当たり次第に買収されている。
北海道の定点観測を始めて4年。これまで、幾度となく、北海道を訪ね、中国資本の動向を注視してきた。外国資本による不動産買収が規制されていない我が国では、買収された地域のその後について詳細に追跡調査されていないばかりか、買収の実態そのものも正確に把握されていない。外国資本に農地や観光地などが買収されること自体問題だが、買収後も使途不明のまま放置されており、主権国家の体をなしていない。買収する側からすると、これほど都合のいい買い物はない。
村ごと買収「平取町豊糠」
実際、どのくらい買われているのか。北海道の場合、北海道庁によると、2018年に外国資本(海外に所在する企業・個人)に買収された森林は計21件、108ha。東京ドーム約23個分で、1位は中国(香港、マカオを含む)で13件、約91ha(東京ドーム約20個分)。日本国内にある企業で、外国法人の子会社など資本の50パーセント以上を外国資本が占める企業(外資系企業)による買収は計7件、58ha。東京ドーム約13個分で、1位はやはり中国の2件、3.5ha(同1個分)。外国資本による森林買収は合計すると、28件、166haにのぼる。東京ドーム約36個分にあたり、中国資本関係は15件、94.64ha(同約21個分)で、シンガポール系資本の2件、49ha(同約11個分)を合わせると全買収面積の9割近くを占める。買収目的は「太陽光発電所の建設」「資産保有」などだが、中国資本や中国系資本の場合、4件が「不明」「未定」。一体、何のために北海道の森林を買うのか。疑問が湧いてくる。
広大な土地を買収したものの開発は一進一退。一体、何ができるのか?(洞爺湖町で)
我が国では、一度、売買契約が成立し所有権が移動すると、どのような開発が行われ、どのように利用されても、異議を唱えることはできない。外国資本は目的を問わず自由に不動産を買収でき、自由に利用できる法制度になっているからだ。
こうした無防備な制度下で、海外からの買収は増え続け、北海道庁が統計を取り始めた01年から18年までに38市町村で累計2725ha(同約580個分)に膨れ上がった。だが、この数字は水源地にからむ森林に限られるため、実際に買収された広さは分からない。
中国資本の買収方法を見ると、国際的リゾート地・ニセコとその周辺から放射線状に広がっている。しかも、買収規模が100ha単位と大きくなってきているところもあり、全道を視野に入れて買い進んでいるように感じられる。
中国資本に買収されたテーマパーク「天華園」は大規模な太陽光発電所に(登別市で)
激しい不動産買収のなかで、私が最初に注目したのは11年に中国と関係があるとされる農業生産法人に、村がほぼ丸ごと買収されただ。買収から5年経った16年3月上旬から19年夏までに数回訪ねたが、雑草が伸び手入れをした形跡がない。農作物も牧草も作っていない非耕作地がどこまでも続いている。買収から5年も経っているのに、である。
中国の動向を長年注視している評論家に豊糠のケースを尋ねると、彼は「中国は20年前から北海道を狙ってきた。移民のためにこれからもどんどん北海道の土地を買っていくでしょう。水源地や農地では農作物を作れるから独自の集落、自治区をつくり、病院や軍隊用の事務所も設置する可能性がある。豊糠はそのテストケースと考えられる。一部メディアでは、北海道は10年後には中国の32番目の省になるとも言われている」と話した。彼の分析を聞いたのは2年前だから、10年後とは27年である。
1995年、中国の李鵬首相(当時)がオーストラリアのキーティング首相(当時)に「日本という国は40年後にはなくなってしまうかもわからぬ」と述べたとされる「李鵬発言」が日本の国会で報告されている。もし李鵬氏の洞察が正しければ、日本は2035年にはなくなることになる。
昨年5月、中国ナンバー2の李克強首相が来日、過密なスケジュールを縫うように北海道を訪問した。李首相はなぜ、そうまでして北海道に固執したのか。
日本に帰化した中国共産党の動向に詳しい中国ウォッチャーは、中国資本が積極的に北海道の農地や森林などの買収に動いていることなどを挙げ、「李首相が北海道に行ったということは、中国の北海道進出が本格的に動き出したことを示し、滞在中、各方面に今後の方針を指示したはずだ。日本政府が北海道訪問を歓迎したことで、道進出について日本政府のお墨付きを得たと受け止められても仕方がない。今のままで行くと日本は10年から15年後に侵食されてしまう恐れがある。カナダやオーストラリア、マレーシアは中国の戦略を分かっている。気づいていないのは日本だけ」と強い口調で警告した。
この中国注視者の分析の当否は、時の経過を待たねばならないが、李首相の来日後の北海道と中国との関係を見ると、「異変」が起きつつあることに気づく。李首相の来道直後、「日中与党交流協議会」や日本と中国の鉄鋼業界関係者が集う「日中鉄鋼業保全・省エネ先進技術専門家交流会」、それに日本と中国の行政や企業関係者が経済交流の在り方を話し合う「日中経済協力会議」が、北海道で初めて開催されている。不動産買収にも拍車がかかっている。
そして今年10月、王岐山国家副主席が北海道を初めて公式訪問。北海道新聞は、副主席は「(北海道と)ぜひ交流を続けたい」「(習近平国家主席が)私を日本に送ったのは日中関係を大事にしている表れ」と鈴木直道知事に語りかけたと報じた。道側も中国の指導者の道内への関心は高いとし、来春、習氏が国賓として来日することに触れ、「道は習氏の訪問にも期待する」と、前向きに伝えている。
李克強、王岐山に続き習近平も「来道」か。中国資本の国土買収の水面下で何が起こっているのか。
はてなブックマークに追加
北海道を訪問した王岐山国家副主席(右)。10月25日、鈴木直道知事と
どうしてこうもスルーするのだろうか? 日常化してしまったからなのだろうか? だとすると、慣れというのは怖い。尖閣諸島近海への中国公船の侵犯も、ひところはメディアも大きく取り上げたが、ほぼ日常化した今日、騒がれることはない。
外国資本による不動産買収問題も同じだ。国家は国民、国土(領土)、主権の三要素で構成されているが、その中の国土が周辺国によって脅かされるようになって久しい。外国資本の「経済侵攻」はとどまることを知らないが、我が国では社会問題化することはない。
例えば、北海道は、外国資本、とりわけ、中国資本や中国の影が見え隠れする資本に森林や観光地、農地、ゴルフ場、太陽光発電所用地などが手当たり次第に買収されている。
北海道の定点観測を始めて4年。これまで、幾度となく、北海道を訪ね、中国資本の動向を注視してきた。外国資本による不動産買収が規制されていない我が国では、買収された地域のその後について詳細に追跡調査されていないばかりか、買収の実態そのものも正確に把握されていない。外国資本に農地や観光地などが買収されること自体問題だが、買収後も使途不明のまま放置されており、主権国家の体をなしていない。買収する側からすると、これほど都合のいい買い物はない。
村ごと買収「平取町豊糠」
実際、どのくらい買われているのか。北海道の場合、北海道庁によると、2018年に外国資本(海外に所在する企業・個人)に買収された森林は計21件、108ha。東京ドーム約23個分で、1位は中国(香港、マカオを含む)で13件、約91ha(東京ドーム約20個分)。日本国内にある企業で、外国法人の子会社など資本の50パーセント以上を外国資本が占める企業(外資系企業)による買収は計7件、58ha。東京ドーム約13個分で、1位はやはり中国の2件、3.5ha(同1個分)。外国資本による森林買収は合計すると、28件、166haにのぼる。東京ドーム約36個分にあたり、中国資本関係は15件、94.64ha(同約21個分)で、シンガポール系資本の2件、49ha(同約11個分)を合わせると全買収面積の9割近くを占める。買収目的は「太陽光発電所の建設」「資産保有」などだが、中国資本や中国系資本の場合、4件が「不明」「未定」。一体、何のために北海道の森林を買うのか。疑問が湧いてくる。
広大な土地を買収したものの開発は一進一退。一体、何ができるのか?(洞爺湖町で)
我が国では、一度、売買契約が成立し所有権が移動すると、どのような開発が行われ、どのように利用されても、異議を唱えることはできない。外国資本は目的を問わず自由に不動産を買収でき、自由に利用できる法制度になっているからだ。
こうした無防備な制度下で、海外からの買収は増え続け、北海道庁が統計を取り始めた01年から18年までに38市町村で累計2725ha(同約580個分)に膨れ上がった。だが、この数字は水源地にからむ森林に限られるため、実際に買収された広さは分からない。
中国資本の買収方法を見ると、国際的リゾート地・ニセコとその周辺から放射線状に広がっている。しかも、買収規模が100ha単位と大きくなってきているところもあり、全道を視野に入れて買い進んでいるように感じられる。
中国資本に買収されたテーマパーク「天華園」は大規模な太陽光発電所に(登別市で)
激しい不動産買収のなかで、私が最初に注目したのは11年に中国と関係があるとされる農業生産法人に、村がほぼ丸ごと買収されただ。買収から5年経った16年3月上旬から19年夏までに数回訪ねたが、雑草が伸び手入れをした形跡がない。農作物も牧草も作っていない非耕作地がどこまでも続いている。買収から5年も経っているのに、である。
中国の動向を長年注視している評論家に豊糠のケースを尋ねると、彼は「中国は20年前から北海道を狙ってきた。移民のためにこれからもどんどん北海道の土地を買っていくでしょう。水源地や農地では農作物を作れるから独自の集落、自治区をつくり、病院や軍隊用の事務所も設置する可能性がある。豊糠はそのテストケースと考えられる。一部メディアでは、北海道は10年後には中国の32番目の省になるとも言われている」と話した。彼の分析を聞いたのは2年前だから、10年後とは27年である。
1995年、中国の李鵬首相(当時)がオーストラリアのキーティング首相(当時)に「日本という国は40年後にはなくなってしまうかもわからぬ」と述べたとされる「李鵬発言」が日本の国会で報告されている。もし李鵬氏の洞察が正しければ、日本は2035年にはなくなることになる。
昨年5月、中国ナンバー2の李克強首相が来日、過密なスケジュールを縫うように北海道を訪問した。李首相はなぜ、そうまでして北海道に固執したのか。
日本に帰化した中国共産党の動向に詳しい中国ウォッチャーは、中国資本が積極的に北海道の農地や森林などの買収に動いていることなどを挙げ、「李首相が北海道に行ったということは、中国の北海道進出が本格的に動き出したことを示し、滞在中、各方面に今後の方針を指示したはずだ。日本政府が北海道訪問を歓迎したことで、道進出について日本政府のお墨付きを得たと受け止められても仕方がない。今のままで行くと日本は10年から15年後に侵食されてしまう恐れがある。カナダやオーストラリア、マレーシアは中国の戦略を分かっている。気づいていないのは日本だけ」と強い口調で警告した。
この中国注視者の分析の当否は、時の経過を待たねばならないが、李首相の来日後の北海道と中国との関係を見ると、「異変」が起きつつあることに気づく。李首相の来道直後、「日中与党交流協議会」や日本と中国の鉄鋼業界関係者が集う「日中鉄鋼業保全・省エネ先進技術専門家交流会」、それに日本と中国の行政や企業関係者が経済交流の在り方を話し合う「日中経済協力会議」が、北海道で初めて開催されている。不動産買収にも拍車がかかっている。
そして今年10月、王岐山国家副主席が北海道を初めて公式訪問。北海道新聞は、副主席は「(北海道と)ぜひ交流を続けたい」「(習近平国家主席が)私を日本に送ったのは日中関係を大事にしている表れ」と鈴木直道知事に語りかけたと報じた。道側も中国の指導者の道内への関心は高いとし、来春、習氏が国賓として来日することに触れ、「道は習氏の訪問にも期待する」と、前向きに伝えている。
もちろん、そんなことはなかったがいつまで経ってもフォントが歪んで見えていて、まるで中華製のアプリに無理矢理日本語訳ぶち込んだようなフォントが続いてるように見えた。
そして、冷静に考えればスマホの見過ぎであり、そんな不安感に襲われてしまうのも体調が悪い部分があるからかもしれない、と思えた。
極め付けとなったのは帰りにコンビニで見たチャーハンの米粒のひとつひとつが際立って見えてそれが気持ち悪く感じたところだ。
何かしらの恐怖症の前兆だとは思わないが、この症状が悪化したら不味いなと思い栄養を取って部屋で休むことにした。
現在は特に異変は無いが、単純に目が悪くなったことは認識している為、全て「目や体調が悪くなったから歪んでるように感じるんだ」と認識するようにしている。
というか多分空腹からくる色々が影響を与えたんだとも思っている。
オチはない
増田の父親です。このたびはうちの馬鹿息子がコンビニ袋廃止を言い出し、皆さんに大変な迷惑をかけてしまい申し訳ありませんでした。
父親として、非常に恥ずかしいとともに、何故こんな馬鹿息子を孕ませてしまったのだろうという後悔の気持ちで一杯です。
元々頭の弱い子で、学校ではいつも苛められて、いつの頃からか精神的にも異変が出てきたので何とかしなければいけないと心配していたのですが、まさかこんなことになって
しまうとは.....父親して何とお詫びすればよろしいのやら...でも、来週から精神病院に入院することが決まりました。
馬鹿息子を一生世の中に出さないことが、父親の私にできる、増田様への精一杯のお詫びだと考えています。
このたびは本当に申し訳ありませんでした。